正田佐与の 愛するこの世界

神戸の1位マネジャー育成の研修講師・正田佐与が、「承認と職場」、「よのなかカフェ」などの日常を通じて日本人と仕事の幸福な関係を語ります。現役リーダーたちが「このブログを読んでいればマネジメントがわかる」と絶賛。 現在、心ならずも「アドラー心理学批判」と「『「学力」の経済学』批判」でアクセス急増中。コメントは承認制です

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『承認と包摂へ―労働と生活の保障』(大沢真理編、岩波書店ジェンダー社会科学の可能性第2巻、2011年8月、以下「本書」)を読みました。

「骨折りや苦心が適度に分担され、同僚や他者に認められ、順当に報われること、また労働の場を確保するか、生活の糧を確保すること、これらが本巻の副題にかかげる「労働と生活の保障」の課題であり、それを「承認と包摂」という概念で把握している。」
と、「はじめに」(大沢真理)にあります。この一文の前半は、すべてのはたらく人、その中には女性労働者もその他のマイノリティの人も、また無償のケア労働を担う専業主婦の人も、すべての人がうなずくところ、共通の願いでしょう。
 
 先日の読者「NYさん」との対話の中でもお約束しました、障害者、高齢者、幼児ほか弱者への眼差しを強化していきたいと。
 それはコミュニケーションとしての「承認」ではなく、「承認」を法制度等に反映させる取り組みということになるかもしれません。
 それは本来わたしの手には余る、別の種類の力の必要なことですが。
 で「承認」とインクルージョン、法制度を扱っている本書はそのやりとり以前から積ん読してあったものですが、後学のためにも丁寧に読み込みたいと思います。ちゃんと、こういう学問的アプローチが日本でなされてたんですね。

(全然余談なのですが暮れにこのブログで批判的に取り上げた『ビジネススクールでは学べない世界最先端の経営学』について、先日日経新聞で識者の方が書評していらっしゃいましたが、一目で「あ、これちゃんと読んでないな」という表面的なものでした。Amazonの1つ星レビューのほうがよっぽど当てになります。)
(またまた余談で、わたしの本も以前新聞の書評で取り上げていただいたことがあるけど、あの時の書評子さんはどこまでちゃんと読んでたのかな…謎…)
 
 ちょうど、本書で触れている「ペイ・エクイティ(同一労働同一賃金)」は、今朝のNHKニュースの特集で取り上げていました。本書出版後5年を経過、旬な話題になってきていると言えそうです。

 本書は8人の著者による8本の論文、全8章からなります。どの章にも記録しておきたい知見や提言があり、今回は読書日記を前後編2部として、前編で第I部1〜4章、後編で第II部5〜8章をとりあげます。
 まずは全体の章構成をご紹介してから、第I部の読書日記に入りたいと思います。

序論 経験知から学の射程の広がり(大沢真理)
I ジェンダー分析の学的インパクト:社会的排除/包摂を見据える
第1章 経済学・社会政策の再構築―生活保障システム論」(大沢真理)
第2章 労働法の再検討―女性中心アプローチ(浅倉むつ子)
第3章 「価値の承認」・「資源の配分」の実証研究―ペイ・エクイティ研究の意義(森ます美)
第4章 承認と連帯へ―ジェンダー社会科学と福祉国家(武川正吾)
II 課題と可能性:再編成と共生
第5章 貧困と社会的排除―ジェンダーの視点からみた実態(阿部彩)
第6章 雇用の非正規化と労働市場規制(遠藤公嗣)
第7章 社会的経済が示す未来―イタリアの協同組合の事例から(田中夏子)
第8章 レジーム転換の福祉政治―包摂と承認の政治学(宮本太郎)
 
 それでは、前置きが長くなりましたが前編・第I部のご紹介をはじめます:

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第1章 経済学・社会政策の再構築―生活保障システム論(大沢真理)

 本書ではリーマン・ショックと東日本大震災直後の時代を背景に、
「社会・経済の再構築=復興は日本にとってまさに焦眉の急の課題であり、社会科学の再構築も欠かせない。そうした再構築において、ジェンダーの視点が基軸となる」(p.22)
といいます。
 そして、
「従来、工業化がる程度進んだ諸国での生活保障は『福祉国家』ないし『福祉レジーム』という枠組みで比較分析されてきた。それにたいして本章では、生活保障システムと言うアプローチを打ち出す」(同)
としています。
 なぜなら、
「20世紀第3四半期に整備された福祉国家は、実際には、『男性稼ぎ主』にたいする所得移転を中心としていた。その際の想定は、世帯のおもな稼ぎ手である男性が安定的に雇用され、稀なはずの失業の場合や老齢退職後に現金給付をおこなえば、家族の生活も保障される、というものだった(大沢2007)。逆にいえば、壮年男性が稼得力を一時的(失業、傷病)または恒久的(老齢退職)に喪失することが、主要な社会的ニーズと想定された。」(同)
 しかしその構図は1990年代には崩れた、といいます。新しい社会的ニーズが顕在化し、福祉国家の機能不全が覆いがたくなった。
「それに伴い、後述するようにヨーロッパでは『社会的排除/包摂』という課題が浮上した」(p.23)

 「潜在能力」「ニーズ」という用語が出てきます。経済学者アマルティア・センの提唱した用語。のちに言うように新古典派経済学の「効用」アプローチへの批判を含む概念となります。

「私(大沢)は、人として生活が成り立ち社会に参加できるという「潜在能力」を考え、その潜在能力の欠損を「ニーズ(必要)」と定義している。「ニーズ」は「需要(ディマンド)」と区別されなければならない」(同)
 ニーズは本来、個別的で多様なもの。そして、
「これまで、その社会で優勢な立場をもつ人、たとえば中以上の教育や稼得力をもつ健常な壮年の男性で、優勢なエスニック・グループや宗派に属する人が、「並」とされがちだった。ジェンダー・バイアスをはじめさまざまなバイアスがあるため、「並」でない人の追加的な財・サービスや機会へのニーズは、ニーズというより「甘え」や「贅沢」とみなされてしまう。」(p.24)

「見逃してはならないのは、潜在能力アプローチが、主流経済学の「効用」アプローチにたいする根底的な批判を含むことである。「効用」は、現在なお主流である新古典派経済学の最も基本的な概念の1つである。効用は「幸福」や「福祉」といいかえられることもあるが、主観的満足と理解してよい。新古典派経済学では、個人(実際には家計)は、あらゆる財・サービスについて明確な一貫した効用(感じる満足度)の順位づけをもっていることが前提され、本人が認知しないニーズなど存在しないことになる。また、異なる個人のあいだで効用を比較することはできず、他人の効用が本人の効用に影響することもないという。
 これにたいしてセンは、不利な状況にある人は自分の手が届きそうなものしか欲さず、第三者から見てきわめて不十分な分配にも「満足」を表明する場合が少なくないと指摘する。…とくに「階級、ジェンダー、カースト、コミュニティーに基づく持続的な差別がある場合」に、効用アプローチは「誤った方向に導く」と批判した」(p.25)

 次に、「福祉国家」「福祉レジーム」の定義とその限界のお話になります。
 エスピン⁼アンデルセンの福祉国家三類型。
「自由主義的」(アングロサクソン)、「保守主義的」(大陸西欧)、「社会民主主義的」(スカンジナヴィア)
 「アンデルセンによれば、社会民主主義体制の理想は、女性の経済的自立を含めて、個人が家族に依存せずに独立できる諸能力を最大化することにあり、その意味で「自由主義と社会主義の独特の融合」である。」(p.26)類型分けの指標となったのは、「脱商品化(decommodification)」。社会保険制度のカバレッジや給付水準をおもな要素とする。(p.26)

 これにたいしてフェミニストから、福祉国家類型論はジェンダー中立的な用語で記述や分析をおこないながら、分析概念や分析単位が男性を起点にすることが少なくないという批判が起こった。
 これをうけてアンデルセン自身が、ジェンダー視点も取り入れて自説を「福祉レジーム」の三類型へと進化させる。
 ジェンダー視点はそこで、「脱家族主義化(de-familialization)」という新たな概念として導入されている。脱家族主義化は、メンバーの福祉やケアにかんする家族の責任が、福祉国家からの給付ないしは市場からの供給によって緩和される度合い、あるいは社会政策(または市場)が女性にたいして自律性を与える度合いを示す。(pp.26-27)

 アンデルセンの類型論の限界。
1)「社会的経済(social economy)ないし「サードセクター」が位置づけられていないという批判がある。
2)現金給付中心の福祉国家の機能不全が露わになった。たとえば「ポスト工業化」に伴って顕在化してきた「新しい社会的リスク(new social risks)」に対処しがたい。
 新しい社会的リスクの例:仕事と家族生活が調和しないリスク、ひとり親になるリスク、近親者が高齢や障害により要介護になるリスク、低いスキルしかもたないか、身につけたスキルが時代遅れになるリスク、そして「非典型的」なキャリア・パターンのためにshs会保障から部分的にせよ排除されるリスク(ボノリによる)(pp.27-28)

 福祉国家論も福祉レジーム論も、国家福祉の比重が急速に高まり、際立っていた20世紀第3四半期の先進国の分析には有効だった。しかし、それ以外の時代や社会を分析したり説明するうえでの有効性は限られている。日本は諸類型の“ハイブリッド型”や“例外”として片付けられがちだったが、それは福祉国家論ないし福祉レジーム論の限界の現れともいえよう。(pp.28-29)
⇒そこで生活保障システム論

 生活保障システム論で設定する3類型(1980年前後の実態を念頭に)
「男性稼ぎ主」型、「両立支援(ワーク・ライフ・バランス)型」、「市場志向」型
・「男性稼ぎ主」型:男性の稼得力喪失というリスクに対応して社会保険が備えられ、妻子は世帯主に付随して保障される。大陸ヨーロッパ諸国と日本など。
・「両立支援」型:北欧諸国。ジェンダー平等。雇用平等のための規制、児童手当、乳幼児期からの保育サービス、高齢者介護サービスや育児休業などの家族支援制度。税・社会保険料を負担する単位は世帯でなく個人。税の家族配慮は控えめ、遺族給付は廃止。社会サービスは政府部門から提供される割合が高く、非営利セクターが活発なのは、市民の自己啓発や権利擁護の分野。
・「市場志向」型:アングロサクソン諸国。家族の形成を支援する公共政策は薄く、労働市場の規制は最小限。賃金は成果にみあうものとされ、生活保障を意図しないが、企業にとって価値があるとみなされる労働者には、相当に厚い企業福祉が提供される場合がある。非営利セクターが経済に占める比重は中位のレベル。なお米国はそのなかでも全国民をカバーする公的医療保険制度が存在しないという特異性をもつ。(pp.29-30)

「1人の稼得者と主婦という家族は、制度というより歴史上の例外だったように見える。それはつかの間の、20世紀半ばの幕間劇だったのだ(エスピン=アンデルセン)(p.31)

 生活保障システム論は、労働や経済にかんするジェンダー分析をふまえつつ、「福祉」を公的な所得移転や財・サービスの給付に限定せず、以下のようにあらゆる財・サービスの生産・分配やそれに伴う購買力の流れを視野に収めようとする。
4つの生産関係:
1. 賃金労働による商品の生産
2. 賃金労働による非商品の生産
3. 非賃金労働による商品の生産
4. 非賃金労働による非商品の生産(pp.31-33)

 ここで、生活保障システムの機能ないし機能不全について、「社会的排除/包摂」論を取り入れてそれをシステムの「成果(outcome)」を表す概念とする。
社会的排除:低所得や所得格差はもちろん、雇用機会の不足、言語や情報(教育)の格差、健康の不平等、市民権の壁などのために、社会のいろいろな場面に参加できないこと。1997年のアムステルダム条約では、社会的排除にたいする闘いが欧州連合(EU)の主要目標の1つに位置づけられた。
対理宇西欧諸国では社会的排除がとくに構造的な失業として現れたが、途上国では労働市場の内部にいても排除されている場合を軽視できない。…それはパートタイム労働者をはじめ一時的雇用、劣悪な条件の就労、社会保障へのアクセスから部分的あるいは全面的に排除された者などである。(p.33-34)

日本では
相対的貧困率:「相対的貧困」とは、世帯所得を世帯員数で調整した「等価」所得の中央値にたいして、その50%未満の低所得をさす。相対的貧困の世帯に属する人口が全人口に占める比率が相対的貧困率であり、中位所得から下方での所得分配(格差)を表す。(p.34)

 日本の貧困率がOECD諸国のワーストクラスにあるという状況にかんして、世帯主が労働年齢(18-64歳)である世帯に属する人口(以下、労働年齢人口)に焦点をあわせると、日本の特徴はつぎの通りである。
1. 貧困層に属する世帯のうち、就業者が2人以上いる世帯の比率が約4割と高い。他国では、労働年齢における貧困層といえば、ほとんど就業者のいない世帯かひとり親世帯であるが、日本では共稼ぎでも貧困から脱しにくいのだ。
2. 日本では貧困率の総体的な高さが、税と社会保障制度という政府による「再分配」に起因する。
2. について。日本の可処分所得レベルの貧困率は12.47%で、OECD諸国のなかで6番目に高い。市場所得レベルの貧困率は13.58%で韓国についで低いものの、可処分所得レベルでごくわずかしか低下しないため、OECDのワーストクラス入りしてしまう。(市場所得から可処分所得への貧困率の変化幅を市場所得レベルの貧困率で割った値を、再分配による貧困削減率と呼ぼう)
日本の特徴は、成人の全員が就業している世帯にとって貧困削減率がマイナスになっている。OECD諸国でこのような国は他に存在しない。日本の社会保障システムがOECD諸国きっての「男性稼ぎ主」型であるため。(pp.35-36)

日本の公的負担=歳入は、この間に低所得者にたいする冷たさを増した。1990年のGDP比歳入規模29.5%をピークに2003年まで低下し、2010年で27.6%となった(1990年代末以降に企業と高所得者・資産家にたいする減税がおこなわれ所得税の累進性は顕著に低下した)。この間に社会保障負担は一貫して上昇して2010年度にはGDP比12.4%となった(逆進性があり負担上昇は低所得者により重くのしかかる)上記のような労働年齢人口に対する貧困削減率がOECD諸国中もっとも低く、成人の全員が就業する世帯にとって貧困削減率がマイナスになる事態は、1990年代初年以来の税制改革および社会保障「構造改革」をつうじてつくり出された(pp.36-37)

米国政府が借金による過剰消費を煽ったのは、社会的セーフティネットが粗放なために、格差の拡大と雇用不安にたいする有権者の不満が昂じやすく、それをてっとり早く解消する必要があったからだ。…1990年代初め以来、景気の拡張が雇用増加を伴いにくくなっており(jobless recovery)、有権者と政治家の雇用情勢への反応はいっそう鋭くなったという。
しかも、米国の過剰消費の筆頭項目は医療費である。…米国の国民医療費は対GDP比で15%を超え、OECD諸国のなかで断然トップである。そうした米国の生活保障システムが、世界経済危機の原因ともなったのである。(pp.38-39)
 
日本:2010年の経済財政報告は、先進10か国について、最近の景気の底から3年間における所得の成長にたいする寄与を、営業余剰と雇用者報酬(ともに名目値)に分けて見ている。日本でのみ雇用者報酬の寄与はマイナスのままで、それを示す図の副題は「所得面での企業から家計への波及が遅れたのは我が国特有」となっている。(ただし、日本ほどではないにせよ、同様のパターンはドイツでも見られる)
 格差の拡大と社会保障の不備ないしその将来不安が、中国や日本での過少消費と過剰貯蓄を招いたとすれば、ここでも生活保障システムのあり方が、世界的危機の一因となったといえるだろう。その生活保障システムの類型と機能では、ジェンダーが基軸となっているのである。(p.39)


第2章 労働法の再検討(浅倉むつ子)

 ここでは、「(現状の)労働法の男性中心主義」と、すべてのマイノリティの引き上げにつながる「女性中心アプローチ」について語られます。

 しかし、労働法が包摂したのは男性労働者であり、女性労働者ではなかった。なぜなら、そもそも労働契約法理や集団的労働法の基礎理論の形成にあたり、労働法が対象とした「労働」とh、あくまでも市場労働としての「ペイド・ワーク(有償労働)」であり、その中心に位置したのは常に男性だったからである。(p.44)

 日本においても、1990年代には、.哀蹇璽丱覯修鉾爾Π豺駭働市場の維持の困難性、国内外の競争の激化、人口構造の変化(高齢化、少子化)、は働力の女性化(フェミナイゼーション)、ハ使の意識変化など、急速な社会変化がみられた。かつての標準的な労働者は減少し、多様なタイプの労働者が増大した。(pp.44-45)

 1995年に日本経営者団体連盟(日経連)が出した「新時代の「日本的経営」」は、非正規労働者の大胆な拡大を方向づけ、その後短期間で、日本の労働者全体の「正規」から「非正規」への転換が、大規模に生じたのである。(同)

 2010年時点で、労働者全体の35%に迫ろうとしている非正規労働者の中心にいるのは、女性労働者である。ただし、女性は正規労働者の中心ではない。実は、資本主義の時代を通じてずっと重要な労働力であり続けていたにもかかわらず、2つの理由によって、女性は常に「二流の労働者」であった。1つは、家族圏で担う「ケア労働(アンペイド・ワーク)」のために、もう1つは、妊娠・出産する身体をもつ存在であるために。
 ケア労働は対価を伴わないアンペイド・ワークとして、労働法の対象外であり、そのケア労働を担う者が女性であるため、女性は常に、労働法においては周縁的で補助的な労働者と位置づけられてきた。女性はまた、常に「労働する身体」と「産む身体」の矛盾の中で生きており、一時的に「労働する身体」として敬意やメンバーシップを獲得し、<承認>されたとしても(たとえば「男性並みの有能さ」を認められた総合職女性)、いったん妊娠・出産というプロセスに至れば、まぎれもない「女の身体」による困難さを経験する。労働法は、このような「女性」を、二流の労働者として「保護の対象」とすることはあっても、労働法の中心的担い手として登場させることはないのである。(同)

―大事な視点ですね。繰り返しこの認識に立ち戻らないといけないので、少し長く引用してしまいました。

―そこで本章の筆者は「女性中心アプローチ」を提唱します。

 女性中心アプローチは、従来の労働法理論にさまざまな修正を迫る。女性労働者は、労働市場において、低賃金で社会的評価の低い労働に従事してきた。女性の労働には、正当な経済的評価が与えられず、十分な物質的対価が付与されてこなかった。(p.46)

―このくだりは、ご想像される読者の方もいらっしゃるかと思いますが、わたし自身が引き受けてきた痛みでもあります。今の研修業について10数年、自分よりはるかに力量の低い男性が高額のコンサルティング料、講師料をとって仕事をするのを、何度目をつぶってみないふりをしてきたことだろう。かれらは何の成果も挙げなくても、企業研修・コンサルティングを実施した件数だけは「実績」としてわたしよりはるかに多い。それは、同じ男性の購買担当者が、男性同士思いやり合って優先的に生活の援助を行っているとしかみえなかった。また女性購買担当者も同様に差別的だった。彼女らは魅力的な異性である男性コンサルタント、男性講師のほうを選んだ。

 最低賃金制度の遵守、同一価値労働同一賃金原則の実現は、誰よりもまず、女性労働者にとって不可欠な要求である。女性は、男性が自分では引き受けたくない無償のケア労働を主として負担しているため、アンペイド・ワークとペイド・ワークをあわせれば、男性よりも長時間、労働に従事してきたことになる。労働時間短縮と休暇取得による私生活の確保は、女性労働者にとって何よりも優先すべき要求である。女性労働者は、妊娠・出産する身体をもつため、男性モデルとは異なり、格別な「生命・健康」の保障を必要とする。にもかかわらず、妊娠・出産・育児・介護により、女性労働者はしばしば就労できなくなったり、労働能力が低下したりすることが多く、これらに関連した不利益取扱いを経験してきた。(同)

 「労働する身体」モデルが「男性の身体」という強靭な体力・能力を前提とするものであるとすれば、そのモデル自体の強制に異議を唱え、障がいのある人、病気の人などを含む「多様な身体」をもつ労働者モデルが提示されるべきであろう。そして、性暴力や偏見をなくし、職場における人権侵害を根絶すること、すべての労働者の人格の尊厳を確保することは、職場の内部に「多様な身体」を受容し、<承認>することであって、これは女性中心アプローチにとっての基本的な要求である。(同)

留意点
(1) 女性中心アプローチは女性だけを特別扱いすることではない。「男女」のあらゆる労働者により広範に適用する。さまざまな雇用差別を禁止する法理、ワーク・ライフ・バランスの保障、妊娠・出産・ケア労働を理由とする不利益取扱いの禁止、同一価値労働同一賃金原則などは、女性のみならず、障がいのある人や非正規労働者にも汎用性の高い理論を提供してきた。セクシュアル・ハラスメントの概念を生み出した研究も、他の多彩なハラスメント概念の定着に貢献してきた。女性中心アプローチは、労働法がこれまで「他者」として排除してきたさまざまな人々の問題に焦点をあてる、それらの人々の<承認>の理論ともいえる。
(2) ここで変更を迫られる「男性労働者モデル」は、決して男性労働者の実像ではない。現実の男性労働者は、…身体的・心理的に脆弱性を有し、かつ、家庭でも職場でも、女性によるケアを支えにかろうじて職務をこなしている人々だといっては言い過ぎだろうか。…女性中心アプローチは、実は「男性規範」にとらわれ苦闘している現実の男性労働者の<承認>の理論でもある。

 今世紀になってからの少子化対策の中心には少子化対策基本法(2003)があり、「生活」への介入に抑制的な労働諸立法を尻目に、「子どもを生み、育てる者が真に誇りと喜びを感じることのできる社会を実現し、少子化の進展に歯止めをかける」と、生活の内容にまで踏み込む前文をもつ。(p.48)

 WLBの内容については、2007年末に策定・公表された「WLB憲章」と「同行動指針」が、その大枠を示している。そこには、すべての労働者を対象とする包括的な「仕事と生活の調和政策」(広義のWLB)と、家族内のケア労働に責任をもつ男女労働者を対象とする「仕事と家庭の両立支援政策」(狭義のWLB)が含まれている。このようにWLB政策の全容が示されている現段階でなすべきことは、WLBを、少子化対策に従属するジェンダー不平等を伴う政策としてではなく、憲法、労働基準法(以下、労基法)などに規範的根拠をおく、ジェンダー平等の基本的要請にかなう政策として位置づけるために、積極的な提案をすることであろう。(p.49)

―このくだりの後半はちょっとわかりにくいですが、少子化対策は、「産む性」である女性に期待するところが大きい。ところが女性に産むことを強要することは女性の経済的損失につながりかねない。損失につながらない十分な保障をともなったうえで「産む選択」をうながすものでなければならない、という言い換えでいいんでしょうか。

―「承認と包摂」のなかにWLBが出てきました。うちの県(兵庫)には、全国でも唯一のWLB推進外郭団体があるんですが、2007年末の「WLB憲章」と「同行動指針」を受けて2009年、設立されたという流れと考えられます。
 それ自体は讃えるべきことですしわたし自身もそこで外部相談員をやらせていただいていますが、「承認概念」とWLBどういう関係性なのか、ということで、今ひとつ同意できないところがあります。
 「承認」は憲法でも保障されている基本的人権のもとになった概念なのです。近代以降の倫理、人格対人格の相互承認、それを法制度化したものが「基本的人権」なのであり、その一環として具体化するのがWLBなのです。わたしたちの社会の成り立ちとしてどちらがおおもとなのか、順序を忘れないでくださいね。なんて、ケンカ売りたいわけじゃないんですけどね。「承認なきWLB」は、「承認なき傾聴」と同様に本末転倒なんです。


 では「女性中心アプローチ」の観点から、WLB政策が備えるべき基本的要請:
第1の基本的要請は、「ワークの規制」と「ライフの自由」である。法は「ワーク」のあり方の枠組みを示し、その権利義務関係等を明確にする役割を担うが、他方、「ライフ」のあり方は、個々人の自由の領域でなければならない。
第2の基本的要請は、生命・健康の確保。それと矛盾する政策は排除されるべきであろう。
第3の基本的要請は、社会的価値が付与された活動の尊重が優先するということ。育児・介護など家族内のケア活動は、社会を支える再生産活動そのものであり、不可欠な社会的価値が付与されている。広義のWLBにおける「ライフ」には、すべての労働者を対象とする、自己啓発や社会貢献活動のための休暇の確保なども含まれるが、休暇日数の確保に上限がある場合や、業務上の必要性から配転すべき労働者の一定数を確保しなければならない場合などにおいては、優先的に配慮されるべき「ライフ」として、まず「家庭内のケア活動」がくることは当然といえよう。

―ここでいう第3の要請、これも以前WLB関係の人の発言に異を唱えた部分でした。妊娠出産子育て介護の要請と、例えば独身者の自己啓発の要請を同列に扱ってよいか、という問題。後者も大事は大事だが、前者の「ケア活動」すなわち社会の維持、種の保存に決定的に関わる活動とは重みが異なるのは当然だろうと思います。その当然が当然とされないのはわたしにはむしろ驚きでした。


―そして妊娠・出産と不利益処遇の問題。

 母性保護に関するILO条約は、「いかなる場合にも、使用者は…給付の費用について個人として責任を負わない」と規定する(4条8項)。しかしその意味は、出産休暇中の金銭・医療給付は、「強制的社会保険または公の基金」によるべきだからである(4条4項)。…すなわち、出産休暇の使用者負担の免除は、休暇の権利性を弱めるものではなく、むしろ、妊娠・出産が、女性労働者にいかなるマイナス効果ももたらしてはならない、というメッセージに他ならない。(p.52)

 ソフトロー・アプローチ(努力義務規定)の問題点。和田肇は、…ソフトローの多用は、法律の樹反論としても、法政策の実現手段としても、疑問であると述べる。両角道代は、ハードロー化を予定した「過渡的努力義務規定」の役割を、スウェーデンでは、労働組合・使用者団体の上部組織が締結する基本協定等が果たしていると紹介しつつ、男女雇用差別の禁止には、協約による逸脱を許さない純粋な強行規定である、と述べる(p.53)

 近年ではむしろ、<承認>の実現を重視する立場から、平等を促進する、より積極的な方策が主張されている。たとえばサンドラ・フレッドマンは、平等の潜在的な「4つの目標(すべての人々の尊厳と価値の尊重、コミュニティ内部への受容・承認、外部グループの人々への不利益のサイクルの分断、社会への完全参加)を達成するための、国家の「積極的義務(positive duty)」の存在を強調している。(同)

―おー。まさに現代、「承認」の立法化という視点で立法を論じる人びとがいるんですね。

間接差別と複合差別。

 【間接差別】ところが、均等法7条は、間接差別を一応禁止するものの、その範囲を厚生労働省令で定めるもののみに限定している。具体的には、(臀検採用時の身長、体重または体力要件、▲魁璽絞霧柩儡浜制度における総合職の募集・採用時の転勤要件、昇進時の転勤経験要件、という3つである(均等則2条)。省令による限定には批判も強く、2006年均等法改正時の附帯決議では、厚生労働省令で規定する以外にも司法判断で間接差別が違法とされる可能性があること、厚生労働省令の見直しを機動的に行うことが確認された。(p.54)
 【複合差別】ある人に対して、重複する2つ以上の差別事由がある場合には、その差別的効果や被害は甚だしくなる。たとえば、人種とジェンダーが交差する差別について、ある論者は、黒人女性と白人女性が経験する差別が類似しているというのは誤った仮説だ、と述べる。人種とジェンダーが一緒になると、2つの差別が加算・総計されたものよりも、さらに悪化した条件がもたらされ、相乗作用が生まれる、という。このような認識に基づき、最近のEU指令やイギリスの立法は、「複合差別(multiple discrimination)」や「結合差別(combined discrimination)」を禁止する条文を設けるに至った。
重要なのは、かかる複合(結合)差別禁止概念を設けることによって、差別の立証が容易になるということである。(pp.54-55)

―たぶん、わたしが受けている差別は「(大学人でない)民間人」と「女性」それに「主婦」「母親」が複合したものなんだろうなー。


―さて、やっと「同一労働同一賃金」が出てきました。

 労働法の学説には、同一価値労働同一賃金原則は、職務給を採用している欧州的な賃金形態を前提として構築されたものであり、日本では適用不可能であるとか、あるいは、かなり日本的にアレンジしたものでないかぎり適用できない、とする否定的な見方がある。たしかに日本と欧米の賃金支払形態は異なる。欧州では、企業横断的に締結される労働協約によって職務給を定めるシステムがとられているが、大半の日本企業が採用している賃金制度の多くは「職能給」である。ILO条約勧告適用専門家委員会も強調するように、同原則を適用するうえで「職務評価システム」は欠くことのできない手段である(p.55)

―では日本では実現不可能なのか。筆者らは2010年に「同一価値労働同一賃金原則の実施システム」を提案した。以下はその概要。

 まず、同一価値労働同一賃金原則を、男女間/正規・非正規間に適用される立法において明文化する必要がある。男女間の賃金差別を禁止する条文である労基法4条には、「同一価値労働同一賃金」を定める明文規定はない。…まずは労基法に、明文で男女同一労働・同一価値労働同一賃金原則を盛り込む必要がある。
(中略)
また、正規・非正規労働者間でこの原則を具体化するために、労働契約法、パートタイム労働法を改正し、「使用者は、合理的な理由がある場合を除いて、同一価値労働同一賃金原則を遵守しなければならない」旨を条文化することも必要である(p.56)

より重要なことは、日本にかかる原則を根づかせ、かつ、裁判所や行政機関が同原則にのっとって判断する「具体的なシステム」を構築し、提案することである。
1.「得点要素法」による職務評価システム実施マニュアルの策定。職能給制度しか経験していない企業には、職務の価値評価の可能性を示すメッセージとなる。厚生労働省は、2010年4月に「職務分析・職務評価実施マニュアル」を公表し、パートタイム労働者と通常労働者の職務を比較する提案をした。ただしこれは、比較すべき職務の範囲がきわめて狭い「単純比較法」である。これに対して、私たちの提案は、「知識・技能、負担、責任、労働環境」の4大ファクターを採用する「得点要素法」であり、労使が参加する7つの段階を踏むことを求めている。
2.「賃金差別」に事後的に対処するため、司法の領域において「独立専門家」制度を設けること。
3.賃金の平等をより積極的に推進する政策としての「平等賃金レビュー」の実施という提案。イギリスの政策に倣い、企業が労働組合と一体となって、個別訴訟を待つことなく、事前に積極的に組織内の賃金格差の有無をチェックして、自らの手で可能なかぎり不合理な賃金格差の解消をはかるというものである。(p.57)

―最後に本章は、ハラスメント概念の定着を「女性中心アプローチ」の労働法における貢献として締めくくっています。

 このことは、労働の場では非能率的と評価されやすい病者、弱者、妊娠・出産する女性、障がいのある人や高齢者などを尊重する結果をもたらしている。「労働する身体」をもつ健康な男性のみのホモ・ソーシャルな場であった労働の領域が、「労働する身体」に足りない存在である多様な労働者の存在を可能にするように、変容を迫られているのだ。(p.58)


―次の章では、より具体的に「同一労働同一賃金」を取り上げます

第3章「価値の承認」・「資源の配分」の実証研究
―ペイ・エクイティ研究の意義(森ます美)

 今日に至るも、日本の男女間賃金格差問題はなんら解消されていない。2009年の女性の賃金は男性の69.8%に留まっており(厚労省「賃金構造基本統計調査」、一般労働者の所定内給与額)、OECDの国際比較データで見ても、2007年の日本ののフルタイムでの男女間の賃金格差(男性=100として女性は68)は、韓国(同62)に次いで2番目に大きく、これに続くカナダ(同79)、イギリス(同79)、アメリカ(同80)などアングロサクソン諸国に比べても際立っている。
 女性雇用者の55.1%がワーキング・プア(働く貧困層)である。労働市場のジェンダー・バイアスが、女性の貧困と生活困難を男性以上に深刻化させていることは明らかである。(p.63)

「政権交代」後の2010年、第三次男女共同参画基本計画に「同一価値の労働についての男女労働者に対する同一報酬に関する条約(ILO第100号条約)の実効性確保のため、職務評価手法等の研究開発を進める」ことが明確に位置づけられた。また、同年4月、厚労省が「パートタイム労働法に沿った職務評価手法」である「職務分析・職務評価実施マニュアル」を公表した。(同)

 ペイ・エクイティ(pay equity)は、ILO第100号条約(「同一価値の労働についての男女労働者に対する同一報酬に関する条約」、1951年採択)が規定する同一価値労働同一賃金原則(equal pay for work of equal value)を指す。…この原則では、男女の従事する職務の価値が「同一価値」でない場合でも、職務の価値に比例した賃金の支払いを求める「比例価値労働比例賃金(proportionate pay for work of proportionate value)」がその論理にかなった拡張概念として認められている。(p.65)

 ペイ・エクイティの実施プロセスは、大きくは次の4つの段階から成っている。―性職(女性の職務)とその比較対象となる男性職(男性の職務)の選定と職務分析、⊃μ撹床船轡好謄爐虜定、職務評価の実施(職務/労働の価値の決定)、て碓豌礎/比例価値に応じた女性職(女性)の賃金の是正、である。このプロセスで最も重要な局面は、ジェンダーに中立な職務評価システムの設定と労働の価値に基づく賃金の配分である。(同)

 ジェンダーに中立な職務評価システムの策定とは、ブルーカラーや管理職など男性職に有利な評価基準に立つ伝統的な職務評価制度のジェンダー・バイアスを廃し、従来見落とされ、過小評価されてきた女性職の特性を公正に評価できるシステムを再構築することである。例えば、女性が従事する看護・介護・保育など対人サービス職種に要求される「感情的負担」や「患者や利用者に対する責任」、人事部または顧客サービス課の事務職に求められる従業員や顧客に関する「個人情報の管理に対する責任」などのサブファクターの採用とポイントの適切な配分である。(p.67)

1970-80年代の(欧米諸国の)ペイ・エクイティ運動の固有の意義は、ジェンダーに中立な職務評価システムによって女性職(女性)の労働の価値の公正な承認と、労働の価値に基づく資源(賃金原資)の公平な配分を実現することにあった。男女間の配分の不平等、経済的不公正への異議申し立てである。(同)

日本での調査事例(商社):
1997年、ペイ・エクイティ研究会が行った「商社の職務に関するアンケート調査」による職務評価の結果。回答者は大手総合商社を含む15の商社の営業職に従事する男性42人と女性77人(男性は全員が総合職、女性は74人が一般職、3人が総合職)。
 指摘される点:
1. 女性の担当職務の価値(95-110点前後に集中)は、男性(105-125点前後に分布)よりも相対的に低く、商社営業職における性別職務分離が推察される。女性従業員にその「価値」に比例した賃金が支払われているかを平均として見ると、職務の価値の男女比100:88に対して賃金額の比は100:70と低く、女性に対して公平な賃金原資の配分が行われていない。
2. 実際に同一価値の労働に従事する男女が混在する職務評価点106-116点の範囲に注目すると、総じて女性の賃金は男性よりもかなり低く、男女間賃金格差が大きい。女性に比べると、男性従業員は同一価値労働に対して過大な承認を受け、高額な配分を受けていることがわかる。
3. 同一価値労働に対する賃金格差は男性間でも非常に大きいことが明らかである。例えば、職務評価点120点前後の同等価値労働に対する賃金格差は最大で50万円(最低賃金額25万円、最高賃金額75万円)にも及んでいる。同様の傾向は他の職務評価点でも指摘できるが、賃金額が40万円以下の営業職男性のほとんどは勤続年数が10年未満の若年層である。
 以上から明らかなように、日本の賃金は、ペイ・エクイティの原則から見ると、性と年齢による差別賃金である。女性と若年男性の職務/労働には、その価値に相応しい賃金原資が配分されておらず、公正な配分から排除されている。換言すれば、その「価値」に見合った承認を受けていないのである。(pp.67-69)

 「男性稼ぎ主」規範にたつ日本の年功賃金制度が性と年齢による差別賃金をもたらす。日本の雇用を特徴づけてきたのは、<終身雇用と年功賃金>制度であり、それを支えてきたのは男女の<性別役割分業(規範)>である。(p.69)

 日本の「男性稼ぎ主」型賃金制度が持続されてきた社会・経済的要因:
1. 男性正規労働者間(女性不在)での「公平観」。
2. 「企業」と「賃金」への依存度が極めて高い日本型生活保障。家計収入構造の比較では、実収入に占める男性世帯主勤め先収入の割合は80.9%(2009年)で突出して高い。日本の低い社会保障・社会福祉を「企業福祉」が代替してきた。
3. 日本の社会では、賃金決定が「企業内在的」に行われている。(組織ベースorganization-based 賃金制度)。日本の企業における賃金原資の労働者間配分の企業内在的な決定という原則は、「男性稼ぎ主」規範と結合して、若年者と女性への低い配分と、成人男性への高い配分を可能としてきた。パイが一定に枠づけられたなかでは、ジェンダーによる差別的配分としての女性の低賃金が男性の高賃金を保証し、両者は競合関係に立っているのである。(pp.72-73)

 正規・パート間賃金格差の根本的な問題は、雇用形態の差異を根拠に、パートと正規労働者の賃金決定基準がまったく異なっていることにある。そこでは職種・職務の同一性・同等価値性は少しも顧みられていない。日本の企業別・正規労働者中心の労働組合組織が、パートタイム労働者への同一価値労働同一賃金原則の適用に力を発揮していないことも、正規・パート間の賃金格差の解消を遅々としたものにしている。(p.73)

―そしてふたつの職種での「ペイ・エクイティの実証」が紹介されます:

【ホームヘルパー】
(結論部分)介護職であるホームヘルパーや施設介護職員には、仕事の価値に比べて過少に、他方、診療放射線技師に対しては、仕事の価値を超えて過分に賃金配分がなされていることになる。年収換算の自給では、ホームヘルパーと診療放射線技師の賃金が仕事の価値から乖離する度合いはさらに拡大し、同等価値労働に対する賃金評価はおよそ2.3倍である。
 仕事の価値から乖離したこの賃金格差は、ホームヘルパーや施設介護職員が公正な配分から排除されていることを示している。4職種の職務評価によって、介護労働者に対する賃金差別が可視化されたのである。ペイ・エクイティの原則に基づいてこれを是正すると、ホームヘルパーの「公平な賃金」は、表1に示したように、月収ベースでは現在よりも369円上昇して1605円に、年収ベースでは742円アップして1985円となる。(p.76)

【スーパーマーケット・パートタイム労働者】
(結論部分)正規従業員、役付パート、一般パートの職務の価値の比「100.0:92.5:77.6」に対して賃金額の比は「100.0:70.2:54.8」である。年収換算の時給で見ると、賞与が支給される正規従業員の賃金は2153円に上昇し、賞与が支給されないパート賃金との格差は「100.0:63.9:47.6」へと拡大する。少数の正規従業員の賃金水準に比較すると、外部労働市場で採用された多数のパートタイム労働者への賃金配分は、仕事の価値の高さにもかかわらず極度に少なく、大きな差別を受けていることがわかる。スーパーマーケットにおいて役付パ―トや一般パートの労働は相応の承認を受けていないのである。こうした公正な配分からの排除がパートタイム労働者の自立を困難にしている。
 ペイ・エクイティの原則によれば、年収ベースでは、役付パートで1991円、一般パートで1671円が仕事の価値に相応する合理的な水準であり、現在の賃金額よりもそれぞれ600円以上引き上げる必要がある。(pp.77-78)



「男性稼ぎ主」賃金(規範)は、グローバル化が進展する現代社会においては、三重の意味で時代不適合に陥っている。
1. 企業にとって。国際的な低価格競争に打ち勝つためには、コスト高の「男性稼ぎ主」賃金とフレキシビリティを欠く長期雇用は、企業にとって時代不適合となった。
2. 雇用者世帯における「男性稼ぎ主」賃金(規範)の時代不適合。1990年代末以降、企業による男性正規労働者の賃金の抑制と絶対額そのものの現象は、家計に深刻な影響を及ぼした。実収入に占める配偶者の勤め先収入の割合は低い分位ほど高くなっており、労働者世帯において「男性稼ぎ主」賃金による家族扶養」が急速に崩れ、夫婦共働きによる家計の維持へと移行している。
3. グローバルなジェンダー平等の地平から見た「男性稼ぎ主」賃金(規範)の時代不適合。欧米諸国に比較して突出して大きい日本のフルタイムでの男女間賃金格差、「家計補助」として市場評価されてきた主婦パートの低賃金、さらにこれを基準とした男女非正規労働者全般の低賃金という不公正の連鎖は、「男性稼ぎ主」賃金(規範)に起因している。(pp.78-79)

 ペイ・エクイティへの抵抗。非正規労働者の賃金上昇を怖れる企業経営者、企業によるその悪用と男性正規労働者の賃金低下を恐れる労働組合、真剣に家族の生活を心配する男性労働者などからの抵抗。(p.80)

 広島電鉄(従業員数1300人)の取り組み。同社と組合は2009年3月に、契約社員150人を全員正社員化し、「正社員2」と呼ばれる150人の社員も含めて賃金制度を「正社員」と一本化することで合意した。この改定で、「契約社員」「正社員2」の賃金が上昇する一方で、300人弱のベテラン「正社員」の賃金が月額5-6万円下がる。会社は、これら正社員の賃金の急減を避け、10年かけてゆるやかに減額し、かつ定年を5年延長したという。
 正社員は、「いつか契約社員と正社員の人数が逆転するのではないか。そうなった時、わしら正社員が契約社員の方に労働条件をあわせなければいけないのではないか」という事態を避けるために労組の説得を受け入れた。また会社は、今回の賃金制度の一本化に際して、総額人件費(パイ)を3億円増やすことを受け入れた。社長(現会長)は、「非正規の社員を犠牲にして企業が成り立つのは好ましいことではない。同じ職種なら公平な賃金の下で勤務をするようにした」と述べる。(同)

 賃金の公平観を経営者・労働者間で共有するにはどうしたらよいか。「分かち合い」の思想が労働者間で共有されることが重要だ。(p.81)

 ペイ・エクイティにより公平な賃金を労働の価値に相応しい適正な水準で確保するためには、1990年代後半以降大幅に削減されてきた総額人件費/雇用者報酬を回復し、賃金原資(パイ)の拡大を図ることが必要である。(同)

 労働市場において賃金の平等を達成するためには、正規・非正規労働市場を横断するペイ・エクイティを法や政策によって社会的に進めることが必要である。それは正規労働者と非正規労働者、男性労働者と女性労働者を同一労働市場に包摂することによって均等待遇の実現を図るものである。(p.82)

 労働規制の緩和を進め、賃金決定を市場の労働力の需要と供給の均衡にゆだねる主流経済学の賃金政策が格差と貧困を増大させてきたことは、1990年代後半以降すでに確認済みである。平等賃金規制が強いEU諸国において、賃金のジェンダー格差が小さいこと、他方、日本でも改正パートタイム労働法によって、全く不十分ながら同一(価値)労働同一賃金規制を部分的に導入せざるを得なくなったことはその証である。(同)

 とはいえ、ペイ・エクイティ政策は、その先進国であるアメリカ合衆国において、1990年代以降、「経済の再構築」を追求する新自由主義の政治経済勢力から労働市場への干渉として激しく攻撃され、後退を余儀なくされてきた。賃金に対する政府の規制は労働市場の硬直化を招き、規制緩和と雇用のフレキシブル化による現代の経営戦略と直接に矛盾すると批判されたのである。(同)

 日本ではまずはペイ・エクイティの実施システムを確立することが喫緊の課題である。
1. ILO第100号条約に基づくペイ・エクイティ理念を社会に浸透させること
2. ペイ・エクイティの実施を担保する日本の法制度の整備
3. ペイ・エクイティの基礎をなす職務評価システムと職務評価の実施プロセスの構築と社会的確立。(pp.82-83)

第3章のまとめ: 「賃金」と「社会保障」のバランスのとれた生活保障へ。
 西欧諸国と比較して日本の社会保障支出が著しく少なく、しかも社会保障は年金と医療保険に特化した、所得保障中心の構造を持つことはよく知られている。夫婦共稼ぎ世帯の主流化は、これまで妻が無償で担っていた家事・育児・介護等を代替する福祉サービスへの需要を高め、生活を維持するための公共的な対人サービスの提供が不可欠となる。(p.83)

 家族扶養にかかわる家計費とケアサービスが、ユニバーサルな家族手当や福祉サービスとして十全に提供されるならば、ペイ・エクイティによる公平な賃金の最低水準は、論理的には労働者自身の再生産費に近づくことができる。この段階になれば、生活を維持するための「賃金」と「社会保障」のバランスは、現在とは大きく変化しているはずである。(同)


第4章 承認と連帯へ

―ここでは、「ネオリベラリズム」とそれに対抗するものとしての「ジェンダー社会科学」の関係に紙幅を割きます。
 だいぶ疲れてきたので、途中の内容は後日改めて加筆させていただくことにして、章末のまとめ部分の文章だけを抜き書きいたしましょう。

 このように考えてくると、福祉国家の制度がその実現をめざしているのは<承認>と
<連帯>だということができる。もっとも社会給付(再分配)は<連帯>の証しであるが、<承認>のために社会給付が必要となることもありうる。また社会規制は<承認>の前提だが、<連帯>のために社会規制が必要となることもありうる。用語法はともかく、このような<承認>が福祉国家をめぐる規範的議論の中心に据えられるようになったということも、ジェンダー社会科学の影響の1つの表れである。
 20世紀の第4四半期以降、ネオリベラリズムが隆盛を極めた。それは生産レジーム、システム統合、交換の正義を重視するものだった。ジェンダー社会科学は、このトリニティを相対化するうえで重要な役割を果たしてきたと思われる。(pp.106-107)

―思い切りアバウトに考えると、東西冷戦の終結以降、資本主義が我が世の春を誇ったわけですが、資本主義の暴走の形態としてのネオリベラリズムを止める、社会主義に代わる対抗勢力としてジェンダー社会科学が台頭した、そんな感じで理解しておいたらいいのでしょうか。

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後編では貧困と社会的排除、雇用の非正規化などの章を引き続き取り上げます。
あたまがつかれる…でも押さえておかないとね。


正田佐与



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・・・……【エウダイモニア通信】……・・・

発行日 2016.2.2                 
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 おはようございます。正田佐与です。

 今号より、メールニュースのタイトルを「エウダイモニア通信」とさせていただきました。
 「エウダイモニア」はギリシア語で「幸福」の意味。アリストテレスは、「善きもの」には3種類あるとし、それは「有用さ」「快楽」、そして最後にもっとも価値の高いものとして「最高善」があるとしました。これこそが「幸福」(エウダイモニア)であり、人間を人間たらしめるもの、至上の価値である、といいます(以上ウィキペディア情報)。
 また、エウダイモニアには「栄える」という意味もあるのです。私たちが探している望ましいもの(幸福)は、欲求のたんに一時的な、あるいは表面的な充足ではなく、幸せがみなぎった状態で、生理的作用全般に影響を与え、免疫系も改善し、長く健康な人生や包括的な繁栄の増進につながりうるのだ、という解釈もあります(『経済は競争では繁栄しない』)。
 読者の皆様とともに、経済的繁栄を含めたわたしたちの「幸せ」について、考えてまいりたいと思います。引き続きどうぞよろしくお願いいたします。
 
※このメールは、正田が過去にお名刺を交換させていただいた方、イベントやセミナーにご来場いただいた方にお送りしています。
ご不要の方は、お手数ですがメール末尾にありますURLより解除ください。

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 ┃本日の話題 ☆☆☆☆☆
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【1】 サプライズと「承認」への期待と。神戸ベンチャー研究会 15周年記念例会にて

【2】 ある「販売中止」と女性元研究者の手記と
〜出版不況の中のサバイバルと矜持〜
 
【3】「自由・平等・博愛」“近代の理念”のむずかしさと解釈
   〜一橋大学・藤野寛教授の「ホネット承認論」最終講義とは〜

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【1】サプライズと「承認」への期待と。神戸ベンチャー研究会 15周年記念例会にて
 
 神戸ベンチャー研究会(代表世話人・松本茂樹関西国際大学経営学科長)の設立15周年記念例会が去る1月30日、JR神戸駅前の神戸市産業振興センターで開催されました。
 15年間、1月も欠かさず例会開催、それは本当に驚くべき労力です。その中に学生ベンチャー、シニアの起業、女性起業家、社会起業家、と多くのジャンルがあり特集がありました。また前号でもお伝えしましたように、今はトップアイドルやダンスユニットが採用している、ウェアラブルコンピュータによる電飾のコスチュームという、世界的なホームランが飛び出しました。
 15周年記念例会では、ある「サプライズ」も発表されました。ある起業家からの寄付により、神戸ベンチャー研究会が投資事業に乗り出されることとなったのです。
 同研究会が神戸・兵庫地域においてベンチャー育成の益々強力な推進力になっていただくことを期待したいと思います。
 
 さて、並みいる功労者の方々に交じり、わたくし正田も例会で「承認」について、また「ベンチャー経営と承認」について、お話をさせていただきました。
 15分という短いお時間でお伝えできるものかと冷や冷やものでしたが、嬉しいことに、多くの方がその後お声を掛けてくださいました。
「承認が重要なのはその通りですね」
「私もたまに上司に承認されるとじわーっと嬉しくなり、この人についていこう!と思います」
 改めて、「この手法」をご提示できることの幸せを思いました。
 年頭以来、当メールニュースならびにブログでさまざまな「詭弁本」を批判していますが、誇張抜きででたらめな言説の横行するこの時代に「正しいこと」を掲げ続けるというのは、決しておしゃれな生き方ではありません。それでも心ある方々には確実に求められているのだ、と確信したことでした。
 神戸ベンチャー研究会様、ご出席の皆様、改めてありがとうございました。

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【3】 ある「販売中止」と女性元研究者の手記と
〜出版不況の中のサバイバルと矜持〜

 さて、そのときのプレゼンでも触れましたが、年頭よりメールニュースでも批判させていただいた『ほめると子どもはダメになる』(新潮新書)がどうやら、販売中止になっているようです。Amazon、楽天ブックスといった大手のWEB書店では新刊書の取り扱いはなく、Amazonでは古本のみ。ヨドバシ.comなど一部の通販ではまだ在庫があるようです。新潮社のホームページには何も説明はありません。

 一方では先週、別の大手出版社から一昨年大騒動になったある女性元研究者の手記が出版され、こちらは売り切れ続出のようです。(ちなみにわたくしは購入予定はありません)

 背景には出版不況があります。出版業界全体の売上は、96年には対取り次ぎで2兆6563億円を記録したのをピークに、2013年には1兆6823億円、約6割にまで下がっています。
 そのため「話題づくり」が何よりも優先され、中身の本の「質」はなおざりにされる傾向にあります。

 しかし、それは例えばCoco壱番屋の廃棄処分用のトンカツを安値で販売するのと同じ、消費者への背信行為に容易になり得るのです。女性元研究者の手記などですとまだ罪のないほうですが、『ほめると子どもはダメになる』というような、日本中の子供さんが親御さんから「肯定」のメッセージを受け取れなくなる事態を招きかねないようなタイトルをつけて本を売るなどは、それに等しい行為といえるでしょう。

 このたびの「販売中止(?)」には、まだ辛うじて残っていた出版社の矜持あるいは良心の表れだったかもしれません。

 わたくしのブログでの『ほめると子どもはダメになる』についての批判記事はこちらをご参照ください
  ↓↓↓
●余裕で反論できます。レッツトライ『ほめると子どもはダメになる』
 >>http://c-c-a.blog.jp/archives/51932702.html 

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【3】「自由・平等・博愛」“近代の理念”のむずかしさと解釈
   〜一橋大学・藤野寛教授の「ホネット承認論」最終講義とは〜

 昨年秋より、一橋大学言語社会研究科の藤野寛教授(現代ドイツ思想)より、同大学での藤野教授の講義原稿をご寄稿いただいています。
 ハーバーマスとならぶフランクフルト学派の論客にして現代の「承認論」の大家、アクセル・ホネットは今も毎年のように新しい著作を発表していますが、邦訳が追いついていません。東西冷戦も終わり新たにジェンダー、マイノリティ、多文化主義の問題が台頭する「現代」と正面から向き合う思想である「承認論」。その最新の論考を神戸に居ながらにして学べるのは、大変得難く有難いことでした。
 先月で、「ホネット承認論」最後の二講が終わりました。この2回のテーマは「ホネットの社会主義論」。
 現代の格差を招いている「ネオリベラリズム」との対比の中で、フランス革命以来の「自由・平等・博愛」の理念を吟味します。
 

●「自由」と「社会的」:アクセル・ホネットのみた社会主義とは―一橋大学・藤野教授講義原稿(7)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51934087.html

●「社会的」≒「博愛」、コミュニケーションにおける障害の撤廃:アクセル・ホネットのみた社会主義とは―一橋大学・藤野教授講義原稿(8)(最終)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51934092.html 

 改めて、藤野先生、ありがとうございました!

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 ┃今日の一筆箋  
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 発行者 正田佐与承認マネジメント事務所代表 正田 佐与

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 一橋大学大学院言語社会研究科の藤野寛教授よりいただいた、「ホネット承認論」最終講義の講義原稿(1月25日分)です。


 前回に引き続きホネットの新しい著作『社会主義の理念』をひもときながら、ホネットが社会主義をどうみているかを解説していただきます。

 ここでは「社会的自由」とはどういうものか、が問われます。
 また、ハーバーマスも論じた「コミュニケーション」というものの意義も…。(わたし的には非常に自らの生き方を勇気づけられたフレーズでした)


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「承認論」講義(13)                                             25.1.2016

ホネット『社会主義の理念』を読む (2)

Axel Honneth: Die Idee des Sozialismus. Versuch einer Akutualisierung, Frankfurt am Main 2015, S.11-166.

【1】 本書でホネットは、社会主義を、フランス革命 ― ロシア革命ではなく ― このかたの歴史過程の中に位置づける。「自由・平等・博愛」というフランス革命が掲げた理念が議論の出発点に置かれるのだ。これは、理念である。(事実ではない。)これから実現されるべき理念であって、「絵に画いた餅」と言えなくもないが、しかし、1789年に人々によって受け入れられ、人々を動かした、という点で、経験内容をなす。経験的事実の中に食い込んだ、と言ってもよいだろう。(ここで、人々とは誰のことか、という問いは残る。フランス革命を今日まで認めていない人々だっているだろう。しかし、フランスという国(共和国)は、この革命の上に建てられているのであり、これを建国の理念としているのだ。)そして、これは、フランスに限られた話ではなく、この理念の実現をめざすことが、ヨーロッパ近代全体の傾向となっている、と言って誤りでないのではないか。規範は、人々によって受け入れられたとき、事実となる。「規範的事実」とでも呼ぼうか。

 何が言いたいのか。社会主義は、フランス革命の理念の実現のプロジェクトと受け止めるなら、単なる空想ではなく、言うなれば、事実によって下支えされている、ということだ。


【2】 この「自由・平等・博愛」という三つの理念は、横並びにして一気に口にされるのを常とする。つまり、この三つは、どの一つをとっても、ないがしろにされてはならない、ということだが、しかし、そこに問題がないわけではない。この三つは、必ずしも、互いに友好関係にあるわけではない、という問題だ。ほおっておいても、三者が手に手を取り合って仲良く実現されてゆく、というような関係にはない。互いに矛盾し、対立関係にはいる、ということだって少しも珍しくない。

 現実には、どう進展したか。結局、このうちの自由だけが追求の対象になってきたのではないか。その際、自由とは、自由競争の自由であって、個人が競争に参加する自由だった。(社会主義者からは、そういう自由は、従来、「ブルジョア個人主義」とか呼ばれ、否定的扱いを受けてきたのだろう。)そして、平等という点が考慮されずに自由競争が繰り広がられると、必然的に、自由は、一部の人間だけの自由となる。つまり、競争で負けた大部分の人々の不自由が帰結する。もちろん、そこで「不自由」と言われる場合の「自由」とは、「競争に参加する自由」という ― 狭い意味での ― 自由ではもはやないかもしれない。もう少し中身の詰まった「積極的な自由」だ。例えば、自己実現の自由、とか。

 もし、ヘーゲルが、「人間の歴史とは自由の実現のプロセスだ」と発言した際に、単に、自由競争に参加する自由を考えていたのであれば、そこでは、フランス革命の理念のうち、平等・博愛は閑却していたことになり、ヘーゲルは、革命の理念に対する裏切り者である、という話になるだろう。しかし、実際には、ヘーゲルの自由理念はもっとふくらみのあるものだったのだろう。つまりは、あとの二つの理念とも両立するような、それらをも含意するような自由だったのだろう。一言でいえば、「社会的自由」。そういう自由の実現をめざすという仕方で、ヘーゲルに続く、「左派」と呼ばれる人たちも、社会主義というものを思想・信条としていったのに違いない。

「社会的自由」とは、どういうものか。「人々とのつながりの中でこそ実現される自由」というものだろう。人々とのつながりとは「拘束」であり、だから自由の制限である、と考えるのではなく、つまり、自由か拘束(つながり)か、と二者択一で考えるのではなく、つながりの中でこそ個人としての自由も実現する、と考えるのだ。


【3】 「社会的」とはどういうことか、という問いに対する回答案は、本書に示されている。三つの理念のうちでもとりわけ「博愛」と密接に関係する言葉として解釈するという仕方で。つまり、互いに助け合い、補い合う、というような姿勢だ。「社会的」とは、ただ単に、複数の人々によって構成されている、という(事実確認的な)意味では、もちろんない。その複数の人々が互いに競争しあっている、というだけでなく、他者を自らの目標達成のための手段として利用しようと虎視眈々と狙っているという、(カントが目の敵としたような)関係でもない。本書もおしまいに近づくと、自由・平等・連帯と三つ並べる言い方が連発されるのだが、そのように人々が連帯関係にあるような社会の実現こそがめざされている。その意味でこそ、「sozialな社会」とか、「社会をより sozial にする」というような一見奇妙な表現も、十分成り立ちうることになる。

(「社会を社会的にする」というのは、いかにも奇妙な言葉遣いだ。なにしろ、社会は事実として社会なのだから、それをことさら社会的にする必要などあろうはずがないではないか。しかし、世の中はこの種の言葉遣いで溢れかえっている。子供は子供らしく、女は女らしく、日本人は日本人らしく、家族は家族らしく、国家は国家らしく(あるべし)、という具合だ。りんごはりんごらしく、という話になっても、少しもおかしくない。映画は映画的であるべきだ、という話もあった。ことほど左様に、名詞が一つあれば、その名詞らしくあるべし、名詞「的」であるべし、という要請が立てられる。これは、本質主義的な考え方である、と言うことができる。つまり、何かあるものがあると、その本質が想定され、本質からの逸脱との区別がなされ、本質があるべき姿として要請され、本質からの逸脱は叱りつけられるのだ。その際、本質なるものが、常に、「作り出される」ものであることは、ほとんど自明だろう。この区別は、恣意的だ、ということだ。つまり、本質とは、本質と「される」ものなのだ。本質主義とは構成主義だ、と言ってもよい。「社会/社会的」の例からも見てとれるように、この本質主義的思考なるものは、われわれが言葉を使って考えコミュニケーションする限り、避けられないものなのではないか。人間の思考は、本質主義的となることを免れることはできないのだ、と言ってもよい。それを避けたければ、言葉を使うことをやめて、数字だけで考えコミュニケーションするしかあるまい。実際、2について「2らしくあれ(2的であれ)」という規範的要請を立てることは、ナンセンスだろう。)

 ネオリベラリズムが批判される際に光があてられるのは、通例、一面的な自由の追求は不平等を、格差を生み出す、という論点だろう。しかし、ホネットは、自由追求の一面的暴走が ― 平等よりもむしろ ― 博愛(連帯)を不可能にしている、という点をこそ撃つ。ホネットは、人々が平等に生きられる社会、というよりは、連帯の関係の中で自由を実現していくような社会をこそ希求している。彼のリベラリズム批判は、そういう、博愛主義・社会主義からなされるリベラリズム批判であるわけだ。


【4】 本書は、大きくいって、三部構成になっている。まず、もともとの社会主義の理念がいかなるものであったのか、それが、フランス革命の理念にいかに深く結びつくものであったのか、が明らかにされ、次に、その理念実現の試みが、しかし、19世紀の社会状況によっていかに歪められていったのか、が跡づけられ(従って、これは、歴史の再構成の作業となる)、そして第三に、ではどうやって、再度やり直せるのか、の提案がなされる。
ここまで1−4に書いてきたことは、主に、第一の論点だったわけだが、その上で、第二の論点、つまり批判的な議論が展開されずにはすまない。そして、その批判は、当然、主要にはマルクス主義を標的として展開されることになる。


【5】 マルクス主義が犯した過ちは、三点に要約される。第一に、経済還元主義であり、第二に、単一的な革命主体(プロレタリア階級)の想定であり、第三に、歴史の客観的進歩という科学主義(あるいは、形而上学)的信仰である。もちろん、この三者は、互いに関連し合っている。生産力の発展と労働者階級の階級意識の高まりが歴史の進歩の原動力となる、それを担保する、という風に。そして、とりわけ、このうちの第一の生産力主義が、マルクス主義に「科学」の装いを与え、これは科学だ、との僭称を引き起こす。『空想より科学へ』というエンゲルスの宣言は、大惨事だった、と言わねばならない。本当は、「空想でもなく、科学でもなく」とこそ宣せられねばならなかったのではないか。(そして、現在の経済学は、科学としての経済学というこの信仰を、エンゲルスと共有しているのではないか。)


【6】 その上で、マルクス主義が犯した過ちを一点に集約するならば、解放へのポテンシャルを、経済の領域にのみ見出そうとする経済還元主義に陥っていた点にある、と言うべきなのだろう。それに対して、ホネットがぶつける代案は、「個々の社会領域の機能分化」という考えに基くものだ。近代においては社会の諸領域が ― もちろん、互いに関連し合いながらではあるのだが ― 政治/家族/経済というそれぞれの領域へと独立し、独自の発展を遂げる。(宗教が困るのは、この機能分化の傾向に真っ向から対立する点だ。)そして、そのいずれの内にあっても、解放のポテンシャルは ― 民主主義であれ、女性解放であれ、フェアな業績評価であれ ― 現実化の方向を取っている、と見なされるのである。(マルクス主義は、とにかく、経済の、生産の、労働の領域に世の中を根本的に変えるための可能性を限定せずには気がすまなかった ― 「下部構造」というのが、その際のおまじない言葉だった ― ために、それ以外の領域での変化・変革・発展・進歩には怖ろしく鈍感だったのだ。あるいは、あえて、目をつむっていたのか。)


【7】 ここで、政治・家族・経済(民主主義・女性解放・フェアな業績評価)と並べられることと、ホネットの承認論の間に対応関係があることは、一目瞭然だろう。それは当然であって、ホネットは「社会的なもの」をコミュニケーション関係として、ただし、それを ― 単に、合意形成の骨折り、としてではなく ― 「承認をめぐる闘争」として、考えているのだから、「ホネットの社会主義」が、これら三つの領域におけるコミュニケーション関係における障害の撤去をめざし、その点での前進が「進歩」と考えられるのは、論理的必然なのだ。


【8】 今まで社会主義者であった人たちは、この本の中に自らの社会主義などほとんど再発見できないだろう、とホネットは皮肉っぽく語っている(163)。自分を社会主義者だと思ったことなどこれまで一度もない私には、この本はとても面白かった。この本を読んで、私は、社会主義の「シンパ(Sympathisant)」になった。



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 いかがでしょうか。

 わたしはこれまでも「自由」という言葉のつかいかたにナーバスで、めったにこのブログでも使っていません。昨年2月頃から「ヘーゲル・ホネット承認論」のはじまりにおいてヘーゲルによる「自由」という言葉が独特の使われ方をしていることにも大分くるしんだほうです。

 「自由」は主に「博愛」との間の葛藤を生むのだ。
 また、

 「社会的自由」とは、どういうものか。「人々とのつながりの中でこそ実現される自由」というものだろう。人々とのつながりとは「拘束」であり、だから自由の制限である、と考えるのではなく、つまり、自由か拘束(つながり)か、と二者択一で考えるのではなく、つながりの中でこそ個人としての自由も実現する、と考えるのだ。


 こうした言葉は、わたしには素直に心に響きます。


 ところで、ドイツ語では「博愛」と「連帯」は同じ単語なのでしょうか…個人的には、あまり同じもののようなイメージが持てないのは「連帯」が旧ポーランドの自主管理労働組合の名前と結びついているせいか!?(別に悪いイメージではないのですが;;)そういうイメージの紐づけがない世代の方は、割合「連帯」って抵抗なく使われるかもしれないですね。


【7】の、
「ホネットの社会主義」が、これら三つの領域(政治・家族・経済=民主主義・女性解放・業績評価)におけるコミュニケーション関係における障害の撤去をめざし、その点での前進が「進歩」と考えられる


 このフレーズもいいですね。だからわたしは「コミュニケーションの研修講師」をやっているのだな、と確認できました(*^-^*)



 藤野先生、ありがとうございました!


 一橋大学での講義としては終了、しかし「ホネット承認論」自体はまだまだ続きます。。
 藤野教授は今年新たに「ホネット承認論」についての論考集を刊行されると伺っていますので、そちらを楽しみにいたしましょう。


正田佐与続きを読む


 一橋大学大学院言語社会研究科の藤野寛教授より、「ホネット承認論」の最終講義まで2回分の講義原稿(1月18・25日分)をいただきました。

 「承認論」においてヘーゲルの正統的な継承者とみられる現代ドイツの思想家、ホネットが「社会主義」をどう捉えているか。マルクスがヘーゲルから継承したものは何か、を含め、大きな思想史の流れの中で注目したいところです。

 わたしの理解能力を超えているかもしれませんが、こうして最新の論考をこのブログに掲載させていただけるのは、とても光栄なことです。

 いよいよ、あと2回となりました、藤野教授のご厚意に感謝し、掲載させていただきます。



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「承認論」講義(12)                                            18.1.2016
ホネット『社会主義の理念』を読む
Axel Honneth: Die Idee des Sozialismus. Versuch einer Akutualisierung, Frankfurt am Main 2015,S.11-119.

【1】 この年末年始、私は、ホネットの『社会主義の理念』と、ウエルベックの『服従』(と『地図と領土』)を読んで過ごした。結果として、フランスのことを考えながら過ごすことになった。かたや、1789年のフランスが掲げた理念を考察の起点に据えており、他方は、もちろん、2022年のフランスが舞台になっている。一方が、フランス近代の始まりに関わるとすれば、後者はその「崩壊」に関わる。そして、どちらも面白かった。

 自由・平等・博愛という理念についても、再考する余地はいっぱいあるわけだ。まず、博愛という概念の意味をもう少し、限定し、確定する必要があるだろう。ドイツ語では bruderlich と訳されるようだが、これでは、わかったようで少しもわからない。連帯の同義なのか。

 最大の問題は、この三つを並べたのはよいが、三者が容易には両立(三立?)しないだろう、という点だ。特に、自由が自由競争のそれとしてのみ捉えられるなら、それは結果として巨大な格差=不平等を生み出さずにはすまないだろう。(世界でもっとも自由な国USA(?)は、世界でもっとも巨大な格差のある国だろう。)そして、実際、昨今のネオリベラリズム批判は、もっぱら、自由が格差を生み出すという論点を突いて行われているのではないか。

 この批判は、しかし、偏っていることがホネットを読むとわかる。つまり、彼は、むしろ「博愛」にこそ注目し、ネオリベラリズムは博愛を ― 平等ではなく ― 不可能にしている、という点をこそ、批判するのだ。社会性とは博愛である、として、それは、助け合い、協力(協同)の精神とでも呼ぶべきものなのだろうが、ホネットは、平等な社会、というよりは、博愛を実現する社会をこそ、実現しようとするのだ。

 人間の社会生活について考える場合、「競争」をきちんと主題化することは不可欠だ。ホネットの承認論は、業績評価の重要性を正面から認めることで、競争をはなから罪悪視し断罪した「社会主義」のロマン主義的誤りを修正しているしかし、「競争」が、社会生活の構成成分であることは認めつつ、それが「一つの」構成成分でしかないことを、強く主張するのだ。「愛」というのも社会性だし、人権尊重のいうのだって社会性、フェアな業績評価もまた社会性の一つである、そのように、「競争」の意味を相対的に位置づけるのだ。

「われわれは資本主義社会に生きている、だから、そこでは、最大の社会問題とは、労働者の貧困だ」 ― これは、とてもシンプルな主張だ。しかし、その後、環境問題や、資源問題も出てきた。加えて、社会=資本主義社会、という等式は成り立たない。従って、社会的な問題といっても、労働者の貧困という問題に還元しつくされはしないのだ。

 ネオリベラリズム、ということを強く意識した仕事を、ホネットもやっている、ということなのだろう。そのためのコンセプトが、「社会的自由」という概念だ。これをぶつけることで、ネオリベラリズムの自由概念が、いかに狭められた自由概念 ― 自由競争の意味での個人主義的自由概念 ― でしかないかを明らかにしようとしているわけだ。その際、アイザイア・バーリンの提出した論点は素通りされてはなるまい。「消極的自由」だけでは、狭すぎる。かといって、しかし、「積極的自由」は、やばい。「消極的自由」と「積極的自由」は、どちらを選ぶか、という風に論じることのできる二項対立ではないのだ。

「自由」というのは、個人主義的な価値であって、「博愛」というのは、社会(主義)的な価値だ。社会主義は、その意味で、はなから自由の制限、という志向を含んでいる。そう考えると、ホネットの仕事は、一貫している。前著で「自由」という理念を吟味検討し、その上で、今回、社会主義の再検討に取り掛かったのだろう。前著を読んでいないので、推測にとどまるのではあるが。


【2】 この本では、「社会的」ということがテーマになっており、その際、連帯とか友愛という姿勢が問題になっている。しかし、そこでは一面識もない人でも、境遇がもっとも悲惨な人のことを心にかけるというような姿勢が問題になっているのだから、それは「承認」の問題とは言いがたい。相互承認ということと、社会的思いやり(Anteilnahme)とは同じではない。つまり、「社会的」という問題の全体が承認論でカヴァーされるわけではないということだ。自分の面識のある人にしか関わらない連帯というのは、本当のことろで「社会的」とは形容されえないということか。

「社会的」とは、どういうことか。これを、博愛ということとただちに等置することは、すでに、意味の一元化を招来してしまうだろう。エゴイズムということだって、人間の社会性の一面をなす、とは言えるはずだから。つまり、ショーペンハウアーの「ヤマアラシの比喩」が表現する両面性の全体が、「社会性」ということの内実をなす、と理解すべきではないか。(もちろん、つながろうとする面だけを、社会性と考えるなら、それも「あり」ではあろうが。)

 さて、社会主義思想の全体的傾向として、人間のエゴイズムを私的所有の問題と結びつけ、その制限というか、克服というか、そのことで「社会性」の実現が果たされる、というような傾向があったのだろう。しかし、人間の「社会性」というのは、貧困に直面しての助け合い(相互扶助)というようなことに限られる問題ではないはずなのだ。例えば、他者の他性、というような問題。これは、食べるものにもこと欠いて困っている人に直面すれば助けの手を差し伸べずにはいられない、というような問題とは次元を異にするが、しかし、それはそれで「社会性」の問題である、と考えねばならないのではないか。

 ちなみに、そう思って考えてみると、カントの『人倫の形而上学の基礎づけ』における四つの義務の例、そこに、他者の他性の承認、というような問題意識が少しでも含まれているか。

1. 自己に対する完全義務:自殺すべからず
2. 自己に対する不完全義務:自己の能力を伸ばすべし
3. 他者に対する完全義務:守るつもりのない約束をすべからず(嘘をつくべからず)
4. 他者に対する不完全義務:困っている人を見たら助けるべし

 この中で、「自己に対する義務」が他者の他性の尊重というようなこととそもそも何の関係もないことは、言うまでもない。「他者に対する義務」の中には、もちろん、「他者」は出てくるが、しかし、それは、同じ人間同士の倫理である、と言わざるをえない。社会主義が問題になるとすれば、それは、4の例だけか。

 そう思って考えるとき、カントの尊重は、人として尊重することであるわけだから、他者の他性の尊重、ということとは別問題なのではないか、という気すらしてくる。(レヴィナスが他者について語るとき、カントの尊重の倫理に対しては、どういうスタンスを取っていたのか。そこには、そもそも他者は不在だ、とか言って、切り捨てているのか。しかし、絶対の他者、とか言ってしまうと、まるで、宇宙人のような存在になってしまわないか。それでも人間である、と言えなくなってしまわないか。絶対の他者でありつつ同じ人間、という風に考えるのでなければならないはずだ。)

 とにかく、人が人と共に生きてゆく、ということを可能にするためには、私有財産さえ否定されれば一件落着、というような単純な話ではおよそないのだ。政治的=民主的な合意形成、という問題も出てくるし、さらに、社会的な問題(承認の問題)だって、出てくるのだ。


【3】 なるほど、ホネットは、ホルクハイマー/アドルノを、その社会理論が経済主義に陥り、その名前に反して「社会的なもの」を軽視・排除している、と批判したわけだが、その批判は、実は、近代の社会主義の全体にあてはまるのだ。それというのも、近代の社会主義は、その総体において、資本主義批判の理論として練り上げられた、という出生の事情があるからだ。そして、経済理論であろうとしたからこそ、社会主義は「空想より科学へ」などと自称することもできたのである。社会理論を経済理論に還元しようとする傾向は根強い。「承認か、再分配か」という問題提起における「再分配派」も、この例に漏れない。


【4】 デューイの歴史理論において注目されるのは、生産力でもなく、労働者の階級意識(とそれに発する闘争)でもない。コミュニケーションを妨げる障害の撤去だ。その意味でも、ホネットの歴史理論は、コミュニケーション理論である、ということができる。ただし、その際に、コミュニケーションということの意味を、まさに「承認をめぐる闘争」と捉えるのである。単に、合意形成の骨折り、というように、ではなく。


******************************************


 いかがでしょうか。

 以下は、正田流我田引水的解説です。


【1】ホネットの承認論は、業績評価の重要性を正面から認めることで、競争をはなから罪悪視し断罪した「社会主義」のロマン主義的誤りを修正している。しかし、「競争」が、社会生活の構成成分であることは認めつつ、それが「一つの」構成成分でしかないことを、強く主張するのだ。「愛」というのも社会性だし、人権尊重のいうのだって社会性、フェアな業績評価もまた社会性の一つである、そのように、「競争」の意味を相対的に位置づけるのだ。


 このフレーズ好きですね。年頭からこのブログで批判している某「学力本」は、結局アメリカのネオリベラリズム(リバタリアン?)思想を計量経済学の手法を「つぎはぎに」使って肯定し教育に持ち込むことを政策化しようとする本だと考えてよいわけですが、それは相対的なものだ、とホネットは言うようです。

 簡単に言うと、社会主義的悪平等だと優秀な生産性の高い人はやる気を失ってしまう。だから優秀な人に「あなたは優秀だね」「生産性が高いね」と言い、賃金でも相応に報いる、というのは「その人の承認欲求を正当に満たす」という点で正しい。
 ただし、そのロジック一本槍でどこまでもそれを推し進めるのは間違いだ。ほかの軸、「愛」「人権尊重」も等分にみなければならない。
 



【2】 「人として尊重」VS「他者の他性の尊重」という言葉が出てきます。

 このブログを読み慣れている方であれば、後者の言葉を「個体差・個別性の尊重」と読み替えていただけるかもしれないですね。

 実は、ここはわたしは藤野教授に同意し、某経済学の大家に異を唱えるところになるかもしれないのですけれども、(お前どっちやねん)カントが最終解だとは、わたしには思えないのです。どうも、わたし的には、カントは人間というものを一律のものとみなしていたように思えるのです。個体差を捨象した人間というものを前提としてルールを設定していた気がするのです。

 ―それは通用する人としない人がいますよ。

 と、某心理学セミナーで「吠えた」ときのような言葉が出てきてしまいます。


 これはホネットの承認の3定義でいうと、(2)人権尊重と(3)業績評価 のあいだの葛藤、というところになるかもしれないですけれども。最近読んだ漫画『ヘルプマン』でやはり、介護の現場での「高齢者を一律に運転から排除してよいか」というエピソードが出て来たので個人的に琴線に触れました、はい。

 「承認社会」とは、(2)人権尊重を前提としつついかに(3)業績評価=個体差の尊重 に寄り添い軸を動かせるか、その微妙なバランスをつねに模索し続けて思考停止を許されない、というものかもしれないです。


 
 藤野先生、このたびもありがとうございました!

 ホネットがみた社会主義、『社会主義の理念』についての論考は次回(次の記事)に続き、そこでホネット承認論講義シリーズは終了となります。



正田佐与
 

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発行日 2016.1.25                  
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 おはようございます。正田佐与です。
 記録的な寒波が襲来し各地で大雪となりました。読者のみなさま、お変わりありませんか。
 神戸は、昨日も今日も快晴です。
 
※このメールは、正田が過去にお名刺を交換させていただいた方、イベントやセミナーにご来場いただいた方にお送りしています。
ご不要の方は、お手数ですがメール末尾にありますURLより解除ください。

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 ┃本日の話題 ☆☆☆☆☆
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【1】 アドラー心理学セミナーでの大爆発。 読者からご反響をいただきました
 
【2】あの“五郎丸ポーズ”はいかにして生まれたか。
   〜考案者のセミナーに行ってきました〜

【3】若者の「育て直し」そして社会の「建て直し」
   〜オキシトシンと行動承認のチカラ、手遅れにならないために〜
 
【4】今週末、正田が神戸ベンチャー研究会にて登壇させていただきます!

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【1】 アドラー心理学セミナーでの大爆発。 読者からご反響をいただきました
 
 前号のメルマガ(1月19日発行)で、わたくし正田が「アドラー心理学セミナー」で大爆発してしまったお話をご紹介させていただきました。
 詳細はコチラ
◆「子どもさんは大いにほめてください。そして叱ってください」―正田、アドラー心理学セミナーで吠えるの記
>> http://c-c-a.blog.jp/archives/51933511.html 

 「知命」を2歳も過ぎていくつになっても大人げない振る舞いであります。
 「アンガーマネジメント」そして「叱らないほめない」全盛の時代。「金持ち喧嘩せず」で何事にもゆったり動じない、受け流すことが勧められます。「傾聴研修」では「批判しない」が求められます。こんな「怒った」お話が読者の方に受け入れられるのでしょうか…と危惧していましたら、意外にも心優しい読者の方から反響をいただきました。
 管理職研修が専門のわたくしが触れあってきたのは、職場にもご家庭にもそして地域社会にも高い当事者意識をもち、コミットする姿勢の人たちです。その方々が、「正田の大爆発」に温かい眼を注いでくださいました。

 ご本人様のご了解をいただいて、コメントをブログに掲載させていただきました。
 メールニュース読者の皆様、もしお心に響くところがございましたら、ご覧ください:

●「誰もが活躍できる社会」とは「承認社会」―NYさんからのメッセージ
>> http://c-c-a.blog.jp/archives/51933591.html
●「勇気を持って指摘されたからこそ、いずれ考えを改める」―永井博之さんからのメール
>> http://c-c-a.blog.jp/archives/51933656.html 

 新しくこのメールニュースをご覧になっている皆様も、もし何かお感じになるところがございましたら、ぜひinfo@c-c-a.jp へご意見ご感想をお寄せくださいませ。

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【2】あの“五郎丸ポーズ”はいかにして生まれたか。
   〜考案者のセミナーに行ってきました〜

 昨年、ラグビーW杯で強豪南アフリカ共和国代表から勝利をもぎとり、日本中を熱狂させた日本代表。
 そのメンタルコーチ・荒木香織氏(兵庫県立大学准教授。女性です^^)の講演会に去る20日、行ってまいりました。
 あの“五郎丸ポーズ”の由来をはじめ、大変エキサイティングな講演内容。
 ブログに掲載させていただいたところ、多くの方に好感していただきました。
 読むと元気になる「あの勝利」のお話。よろしければご覧ください―

●躍進を支えたリーダーシップの変遷 ケアから主体性へーラグビー日本代表メンタルコーチ・荒木香織氏講演
>> http://c-c-a.blog.jp/archives/51933717.html

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【3】若者の「育て直し」そして社会の「建て直し」
   〜オキシトシンと行動承認のチカラ。手遅れにならないために〜

「今の若い人には実行力がない」
 企業人からはよく、嘆きのお声がきかれます。
 また、
「反応が薄い。何を考えているか分からない」
これも、近年非常によくきかれる上司の方のお声です。
 これらが今どきの“悪書”が主張するような「ほめる教育」の弊害なのか?といいますと、それは完全な原因帰属の間違い。
 ほんとうは、「今の若い人」が育った時代の複合的な環境要因があるのです。
 ともあれ、こういう若者たちに対してどんな処方箋が出せるのか?
 最新の科学的知見は、どうもこういうところに落ち着くようなのです・・・
 賢明な読者の皆様、この「答え」をどうか皆様のお知恵で活用なさってください:

●若者の「育て直し」にはやっぱり「行動承認」と「オキシトシン」
>> http://c-c-a.blog.jp/archives/51933732.html 

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【4】今週末、正田が神戸ベンチャー研究会にて登壇させていただきます!

 
 神戸ベンチャー研究会。神戸・兵庫地域でのベンチャー育成を担って今年、設立15周年になられます。
 わたくし正田の畏友にして受講生・松本茂樹先生(関西国際大学経営学科長)が、銀行支店長時代に設立されました。以来月1回の例会を神戸で欠かさず続けてこられました。
 そこでは、今でこそ普通の技術になってきた「ウエラブルコンピュータ」がまだ「はしり」の時代、神戸ルミナリエに連動した「イルミネこうべ」というプロジェクトに結実させ、やがて紅白でアイドル歌手の電飾としてブレイクする―など、現代のおとぎ話のような成功物語があります。
 わたくしも過去には「神戸ベンチャー研究会」の世話人をつとめさせていただいたり、駆け出しの頃からお世話になった、「古巣」のようなところ。
 来る1月30日(土)13:00〜17:00、神戸市産業振興センターにて、その神戸ベンチャー研究会15周年記念例会が行われます。正田はそちらで「行動承認」についてお話させていただくことになりました!
 わずか15分のプレゼン時間なのでかなりの駆け足となりますが、「行動承認」について少しでも触れてみたい、という方はどうかご来場ください。会場で書籍販売もある予定です。
 詳細とお申し込みはこちらから
>> http://kobeventure.jp/  (なお正田登壇は15時ごろとのことです)


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 ┃今日の一筆箋  
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今号より、メールニュースのデザインを一新させていただきました!
これまで、「体裁にこだわらず、お客様に真心から自分の言葉でお伝えしていくことを大事にしよう」と、ほとんど「デザイン不在」の形で手作り風のものを発行させていただいてきましたが、心優しい友人が見かねてデザインをしてくれました。出来栄え、いかがでしょうか。

そして、このメールニュースにタイトルをつけたいと思います。「○○通信」や「××メールニュース」など…。読者の皆様、ぜひお知恵をお貸しください!
あなたが「このメールニュースはこんなイメージ」と思われるようなタイトルがありましたら、info@c-c-a.jp まで(このメールへのご返信で結構です)お寄せください。


┌─<<現役マネージャー必読!>>──────────────────>
│  近著『行動承認―組織の能力を最大化する「認める力」』
│  http://www.amazon.co.jp/gp/product/4434198572 └──────────────────────────────────>


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このメールは転送歓迎です。

 昨年末、佐賀県の研修業、宮崎照行さんより、
「教育困難校の高校でビジネスマナーを教え、『行動承認』によってヤンキーの生徒さん方の行動を変容させた」

というお便りをいただきご紹介しました。

 新たな実践経験談 ”教育困難校”と「行動承認」―佐賀県・宮崎照行さんのメールより

 それへのお返事の中で、正田は

「この手法はこの社会を建て直す力のあるものだと、私は信じてるんです」

ということをお書きしました。

 また、

「承認企業は若者の最後のセーフティーネット」

ということを、このブログで今年の年頭に書かせていただきました。

厳しさの復権、異論叩き、最後のセーフティーネットー力の限りお伝えし続ける「承認2016」


 それらは例によって(裏づける事例はいくつかあるにせよ)漠然と直感で言ったものですが、それを裏づけてくれるような知見が、やっぱりありました。

 「愛着障害」により「少年犯罪」に走る少年・若者をどう更生させるか。そこに、「行動承認」プラス「オキシトシン」が大きな役割を果たすようだ、というものです。いわば「最悪の状態」になった子を救える最後の手法であるようなのです。

 http://www.nhk.or.jp/gendai/kiroku/detail_3613.html

 1年ほど前のNHK「クローズアップ現代」の放送内容。
 フェイスブックのお友達のシェアに感謝しつつ、お友達でない皆様のために、改めてこのブログに記録しておこうと思います。

 
 この番組では、子供のころに親に愛されず、暴力を振るわれたりネグレクトされていたために脳に大きな障害を負った少年少女を取り上げます。

 脳科学研究によるとそうした子供たちでは、脳の前頭皮質の体積が普通の子供より小さくなっており、また線条体の反応が小さくなっている、とのことです。

「これがうまく働かないと、良い行いをして褒めても響かない。
悪い行いをしたときにフリーズといいますか、行動を変えることを止めてしまう、そういうことがあり得る。
ささいな情報で逆ギレしてパニックをよく起こしてしまう。」

と、福井大学子どもの心の発達センターの友田明美教授。


 ほめても響かない。それは、行動変容を起こさせる有効な道筋が閉ざされてしまっている、ということを意味します。そういう子供さんに何ができるというのか。

 
 ここで、「オキシトシン」という解がひとつ出てきます。
 このブログでも度々登場する、信頼ホルモン、共感ホルモン、愛情ホルモンなどと言われるオキシトシン。
 これを薬剤として投与することが3年ほど前から行われています。

 オキシトシンは線条体に強く働くので、脳機能回復に良い効果が見込まれるのではないか、といいます。

 
 もうひとつのアプローチは、人間関係の中での愛着形成。施設の職員や心理士、そして学校の教師などとチームを組んで、誰かが必ず少女に関心を抱いている環境を作り、幼いときに育まれてこなかった愛着の形成を促そうとするのです。

 問題を抱えた子が周りの子供との間に愛着が形成されたとみられる行動を取った場合。
 たとえば同じ施設の4歳の子がおしっこをしたので、着替えさせて、横に寝かせてやった。するとその行動を「是認」してやる。必ずしもほめる言い方でなくても構いません。でも、あなたは良いことをしたんだよ、それでいいんだよ、という意味のことを言ってあげる。すると、本人も「これでいいんだ」と思い、その行動が強化される。

 要は、「行動承認」なのです。「愛着のある行動」というターゲットの行動をきちんと絞り込めば、そこに「行動承認」を使ってやることで、愛着障害で脳機能の低下した子供さんのこともじわじわと良い方向に導いていける。

 非常に辛抱づよいプロセスと思います。また、そのとき使う「是認」の言葉は、「すごーい」みたいな、あからさまな、けたたましいほめ言葉では全然響かないだろうなとおもいます。放送では、「その子はあなたに頭が上がらないね」と、第三者メッセージと結果承認が混合したようなものを使っていたようです。

 
 おわかりでしょうか。

 今どきの、親御さんがスマホに夢中で子供さんを碌にみていないような時代では、子供さん全員がかるい愛着障害になってしまうのではないかと私は本気で心配しています。無反応/反応が薄い、だったり、行動の抑制がきかなかったり修正されるとキレてしまったり。(「反応が薄い」については実際、今上司の側から非常によく聞かれる話です。)そしてその子たちの育て直しに本腰を入れて取り組めるのは、少人数制を採用している大学か、あるいは企業に入社して良い上司の管理下に入ったとき、だけなのではないかと。幸運にしてそうでなかった子は、「生きる力のない若者」として見殺しにされるのではないかと。

 だがそこで、「行動承認」をきちんと理解している教員や上司であれば、その子を改善させられる可能性はあるのです。
 もちろん、もっと早い段階で、どの指導者もそういう介入ができるようであってほしいとせつに願います。

 だから「少人数学級制」。って言いたいなあ。


 
 また、これまで「13年1位マネジャー輩出」―リヨンセレブ牧様での事例を「13年目」のそれとみなさせていただいております―は、こういうメカニズムの積み重ねだったと思います。
 もちろん、ハイパフォーマーをもっと伸ばした事例も多いのですが、「下」のほうの人たちを底上げした効果も大きかった。それは、それまでの人生で親ごさんを含めて指導者に恵まれなかった人たちにとって、本当に「セーフティーネット」的な役割を果たしたでしょう。

 
 だから、この詭弁と混乱の時代に「行動承認」に出会って来た人たちへ。
 どうか、その出会いを誇りにしてください。そして、やめないでください。



正田佐与

 

 ラグビー日本代表メンタルコーチ・荒木香織氏(兵庫県立大学環境人間学部健康・スポーツ心理学研究室准教授)。
 といっても「ぴん」とくる方はまだ少数かもしれません。恥ずかしながらわたしも講演を聴くまでは存じませんでした。

 あの「五郎丸ポーズ」を考案した人、というと、「へ〜」となられるでしょうか。
(ちなみに「五郎丸ポーズ」は荒木氏によると、マスコミの勝手な造語で、本来は「プレ・パフォーマンス・ルーティーン」というそうです。五郎丸選手だけでなく、他の選手も色々独自のものを作って活用しているそうです。本記事の末尾に「五郎丸ポーズ」の解説のお話も入れさせていただきました)

 で荒木香織氏は下のお名前が女性みたいですが本当は男性だった…というのがよくあるオチですが実際は子育て中の細身のれっきとした女性です。
 昨年日本中を沸かせた南ア戦のあと、惜しくも敗れたスコットランド戦には荒木氏はお子さんを連れてきた都合で帰国してしまっており随行できなかったことが残念、というようなエピソードも語られました。

 昨日行われた兵庫県経営者協会主催の荒木氏の講演会のお話を、ご紹介させていただきましょう。
 れっきとした最新スポーツコーチングの、ある”負け癖チーム”を「勝利」に導くまでのお話です。


 お話は2012年、エディー・ジョーンズ氏が日本代表ヘッドコーチに就任するところから始まります。

 それまでエディー氏はW杯代表チームのヘッドコーチとして13勝1敗。日本代表チームは1勝21敗。
 「勝ち」を知らないチームにどうやって勝利を経験させるか、がポイントになりました。

 「選手のパフォーマンスは、個人の特徴と環境の掛け合わせで決まる」と、荒木氏は言います。

 (=体格、集中力など)×環境(コーチ、チームメイトの言動)=行動(パフォーマンス)

―言わずもがなですがこのあたりビジネスでも一緒ですね。いい素材の社員を採っても環境が悪ければ伸びません。ダメかと思われる社員も環境が良ければ伸びる可能性があります。だから環境づくりは大事。そして環境の多くは管理職で決まります。

 このあともポイントかと思いますが、今はW杯優勝の常連であるあのニュージーランド代表の「オールブラックス」も一時期低迷期があった。そこから躍進した時に改革したのが、「リーダーシップグループ」をつくることだったそうです。
 すなわち、
・コーチングスタッフのリーダーシップ
・選手自身のリーダーシップ

―ポイントかなー、というのは、わたしは基本、管理職教育で企業様に関わるわけですが、管理職教育がある程度すすんだ段階で本当はサブリーダークラスに対しても教育を施すのが理想だからです。ほんとうは職場の「環境」ということを考えると、サブリーダーぐらいまでが「環境」の大きな要素といえるでしょう。昨今の研修費の削減や年単位で新しい業者、新しい考え方を取り入れてしまう研修採用の仕方を考えると、なかなか管理職〜サブリーダークラスまで一貫した教育というのはできません。はい、ぼやきです


 ここで「変革型リーダーシップ」という概念が出てきます。

 「リーダーの役割は、フォロワーが組織のため私利・私欲を超越することにより持ち合わせた能力を最大限に引き出すことができるよう、情緒的な訴求を通じフォロワーを鼓舞させること」

と、荒木氏は言います。

 これをもう少しかみくだいた「4つの要素」というのがあります。

1.理想的な影響力
 ロールモデルとなる行動をもって、信用、信頼ができ誠実であることをチームメイトに表明する。
 有言実行、道徳、規律、倫理的、基準が高い
2.鼓舞するモチベーション
 リーダーの行動がチームの自信や楽観性につながる。
 チームに対し到達点を明確に表明する。
 チームが高い基準に達するよう励ます
 情熱、モチベーション
3.思考力への刺激
 リーダーがチームに対して「あたりまえ」に疑問を持つよう促すことにより、自分自身について省みる。
 また意志決定に貢献するように仕向ける。
4.個々への配慮
 個々のチームメイトへの関心を示し、ニーズと能力を理解する
 共感や同情を表明し、個人の達成や発展のためのメンターとして振る舞う


 また、リーダーに不可欠な感情知性というのがあり、それは
  自分理解力
  自己制御力
  モチベーション 
  共感力
  社会的スキル
 だそうです。

 「リーダーシップはスキルとして習得できる。五郎丸選手などは当初、弟キャラで、到底リーダーという器ではなかった」と荒木氏。

 そこで、JAPANのリーダーシップは2012-2015の間にどう変遷していったか?というお話。
 この「経年変化」の部分がわたしには大変興味深かったです。

 「勝ちの文化をつくる」 2012&2013

 ここでの柱は、
 ・国歌斉唱(君が代を他国代表の国歌のようにきちんと歌う。意味をレクチャーする)
 ・前向きな言葉をかける、ほめる(それまでネガティブな言葉が多かったため)
 このほか、
 ・Buddy System 
  (2人組で練習前のミーティングからキーポイントを確認する、練習後のフィードバックをクラウドで行う)
 そのフィードバックの中でも、「私たちは反省しすぎだね」ということに気がつき、
 「今日うまくいったことは何か」
 「明日取り組むことは何か」
 に焦点を当てることにしました。
 達成できないことは、いつまでも達成しようと思わないで変える。できるものに変える。

 そうしている中、2013年にはウェールズに勝つという快挙となりました。

 次の段階。
 「憧れの存在になる。歴史を変える」 2014

 このころ、徐々にかつてなかったような勝利を積み重ねますがマスコミにはまったく取り上げられなかった。選手は「チヤホヤされたい」ということを言いました。しかし「チヤホヤ」は一過性のモチベーション。考えた末、
「憧れられるような存在になろう。満員のスタンドの中でプレーし、影響力のある存在になろう」という目標になりました。

 そして昨2015年。
 「主体性」 2015
 主体性とは、エディーさんのためじゃない、自分たちのために、ということ。
 具体的には、
 ・強度100%でやる。10本ダッシュなら最初のは少し手を抜いて最後の1本を全力でやる、というのではダメ。最初から全力でやる。
 ・選手間のサポート
 ・決められた範囲内での改善点をあげていく

―わたしの言葉で勝手にいいかえると、「ケアの段階」「自己顕示欲、誇りの段階」「主体性の段階」と、4年間にステップが存在したようにみえます。
 そうなんだよなー。「主体性」かっこいいけれど、そこへ行きつくまでにステップがある。かっこいいからと「主体性」に最初から飛びついてしまいたがる研修プログラム、多いですね。本当は、小さい頃からしみついた非主体性を卒業するには、これぐらいのステップを踏まないとダメですね、と正田はおもいます。
 だから、企業人でも入り口は「承認」そこは、絶対に避けて通れないとおもいます。

―しかしJAPANに関しては、「主体性」の年にエディーさん解任、なんだか皮肉だなあ、という感想もいだきます…。

 
 もうひとつおもしろかったのは、2015W杯において、南ア戦勝利をはじめ歴史的な勝利をいくつも挙げたのですが、そこに対する心の準備は全然していなかった、というお話です。

「『勝ったらどうしよう』というメンタルトレーニングは全くしていなかった。よく、まちのメンタルトレーニングで『勝ったら何をしよう』とイメージトレーニングする、と言われますが、ああいうのは全く効果ありません」
と荒木氏。


 講演の冒頭には、
「自己啓発本あまたありますが、科学的でないものがほとんどです。ちゃんと科学的根拠のあることをやってください」
とクギをさす場面もあり、
これも、当方は大学人ではありませんが、我が意を得たりでした。

 昨今の風潮でいうと、ある論者を信頼できるかどうかは、私見ですがこれは大学人か、そうでないかの区別とはあまり関係ないように思います。
 かつ、「エビデンスを使ってものを言う」というのも、最近はあやしい。恣意的に都合のいいエビデンスを使っている場合もあれば、統計そのものにウソが含まれていたり統計特有の限界があったりもするからです。

 最後は、エビデンスを使いながらもそれで「成功体験」をもっている人を信頼するしかないのでしょうか…。
 正田も大学人ではないけれどそこでギリギリセーフ、ということにしていただけますでしょうか。甘い?


 
おまけ:
 多くの方がご興味があるであろう「五郎丸ポーズ」の成り立ちについて。
 冒頭にも書いたように「五郎丸ポーズ」はマスコミの造語で、本当は「プレ・パフォーマンス・ルーティーン」といいます。
 荒木氏によると、五郎丸選手の課題はキックの成功率を上げることだった。
 五郎丸選手の性格は、メディア上ではまじめそうですが、本当はものすごくおしゃべりで、お茶目。ただまじめなのは本当で、サボり癖もない。
 ストレスがすごく高く、ストレスマネジメントが必要。完全主義的傾向がある。

 あの「プレ・パフォーマンス・ルーティーン」は、3年間かかって作ってきたもので、意図していることは:
1.外的・内的に妨げとなるものを取り除く。
 内的:入らなかったらどうしようという迷い
 外的:視覚・聴覚
2.キックへの身体の準備
3.ストレス軽減
4.修正(重心の移動)


 素晴らしいご講演内容を、荒木先生ありがとうございました!
 またこのブログへの掲載を快くお許しくださったこともありがとうございました。


受講生様方はご存じのように、正田は以前、関学アメフトの常勝監督にして心理学者・行動理論家の武田建氏の門弟でもありましたので、この手の単純明快なスポーツコーチングの世界は大好きであります。有効な手法はちゃんと結果が出ます。

 最後に正田の心の声:
 あたしも4年ぐらいのスパンで1つのチーム(企業様)に関わりたいなあ〜

正田佐与




 


 

 「情熱の営業マネジャー」OA機器販売業主席の永井博之さんから、メールをいただきました。
 こちらも、先日のアドラー心理学セミナーでの出来事を受けてのものです。

 ご了解をいただいてご紹介させていただきます。

正田さん

ご無沙汰しています。永井です。

会場にいた人達はその場では間違った事を覚えたとしても、子育てや仕事をしっかりしていればいずれ必ず褒める事、叱る事の重要性がわかると思います。
(中には手遅れになる場合もあるかもしれませんが)

それは正田先生がその場で勇気を持って指摘されたからこそ記憶に強く残り案外早くに考えを改めることになるのではないでしょうか。

正田先生が意見したその会場にいた人達は本当に幸運でしたね。

先生の勇気ある行動、心から尊敬致します。

先生の最近の記事からは弱い立場にいる人間への愛を強く感じます。
また仕事だけでなく生きる事に必要な智慧も教えてもらっています。

メールでの応援くらいしか出来ませんがこれからも引き続きどうかよろしくお願いします。


(注:2通のメールをドッキングして編集済)


 過去の永井さんの登場記事は…、ご紹介していると際限なく長くなりそうです。
 永井さんは京都営業部長時代の2010年夏に神戸のオープンセミナーで「承認コーチング」を学ばれ、その年の売上を1.2倍に伸ばされました(もちろん、永井さん自身の実力でもあったのですが)
 2011年4月、事例セミナーに登壇。
 その後は遠方に異動になりましたが、折にふれ新しい職場のご様子や正田に対するコメントなどをメールでいただいています。

 「承認マネジャー」は仕事も家庭もしっかりした人たち。仕事では、責任を負っていますから、誰よりも「叱ること」の必要性をわかっています。また子供たちが社会人として就職した後の振る舞いなども上司の立場から想像がつき、それをもとに現在の子育てを考えることができます。
 その人たちから支持されているのが、「行動承認」です。

 この人たちからの支持の言葉が、何よりもわたしには励みになります。


 ・・・ところで、「アドラー心理学」の信者の方々って、職場では出世できないほうの人なんじゃないかと思いますがいかがでしょう。そんな功利的なことを言っちゃいけないのですが。「叱らない、ほめない」では上司は一日も務まらないはずですよね・・・それでもやってる人、いてるのかな。


2016.1.25追記

 実は、ここからは永井さんのメールと直接関係ないのですが、アドラー心理学セミナーの中には、1位マネジャー育成研修講師としては気になる点が他にもありました。

「職場の人間関係にはコミットしなくていい」
と勧めている点です。
 わたしは詳しくないのですが、岸見一郎氏によればアドラー自身がそう勧めているそうです。

 曰く、職場の人間関係というものは仕事の間だけのかりそめの関係である。仕事が終わったら即スイッチオフにしてよい。プライベートまで引きずる必要はない。

 部分的には、それも正しいと思えます。
 しかし、全面的に正しくはありません。わたしなら研修中に講師としてこういうことは言えません。

 理由はマネジャー側、部下側両方にあります。

 たとえばマネジャーの立場であれば、部下の私生活まで気に掛けるのが仕事の1つだからです。当方から積極的にお勧めするわけではありませんが、「承認マネジャー」であれば、ある部下の顔色が悪かった、受け答えに元気がなかった、ということが仕事が終わってからでも気にかかるのが自然だからです。ミンツバーグ的にいえば「マネジャーの仕事には終わりがない」のです。

 かつ、部下の側であれば、良いリーダーシップの下では全人格的に「仕事に巻き込まれる」という場面があっていいからです。とりわけ仕事が大詰めのとき、従来の自分のキャパを超えるようなサイズの仕事が襲ってきたとき、にはそうです。そういう場面を経験して人は仕事人として成長するのです。ワークライフバランス的には、「時間になったらオフにしよう」というのは間違いではありませんが、それを金科玉条としていついかなる時も全面的なコミットをしないでいると、その人の成長はありません。
 良いリーダーに出会っても心動かされないというのは、不幸なことですね。



正田佐与


<シリーズ・アドラー心理学批判>

●「勇気づけ」についての副作用情報。。(2014年12月)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51903598.html

●褒めない・叱らないは正しくない!「逆張りロジック」に正しく反論する知性を磨こう―『嫌われる勇気』著者講演会 (2015年12月)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51927076.html

●「自己認識には事実のフィードバックが大事」「思考的盲目が心配」―宮崎照行さんのメッセージ(同)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51927143.html

●「子どもさんは大いにほめてください。そして叱ってください」―正田、アドラー心理学セミナーで吠えるの記 (2016年1月)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51933511.html

●「誰もが活躍できる社会」とは「承認社会」―NYさんからのメッセージ (同)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51933591.html

●「勇気を持って指摘されたからこそ、いずれ考えを改める」―永井博之さんからのメール (同)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51933656.html

●『行動承認』Kindle化に向けて(4)メディアの考える怠惰なお客様と「行為者」の乖離、王道とパチモンの「大衆的人気」(2016年5月)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51940842.html

●NHKおはよう日本 アドラー心理学特集を批判する(同)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51940920.html

●NHKおはよう日本 アドラー心理学特集を批判する(2)友人たちの反応 (同)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51940923.html

●『行動承認』Kindle化に向けて(5)行為者の脳発達と細胞レベルの変化の可能性――林田直樹先生との対話より(同)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51940962.html

●アドラー心理学批判 「承認欲求否定」「ほめない叱らない」はどこから来るか―「共同体感覚」との関連において―アドラー『個人心理学講義』をよむ
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51941070.html

●アドラー心理学批判・友人からのお便り「幼稚さ、ナルシシズム亢進、成熟拒否」
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51941137.html

●アドラー心理学批判 「トラウマ否定」「承認欲求否定」起源はみつけたが誤読と捏造だった―『人生の意味の心理学』をよむ
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51941143.html

●アドラー心理学批判 アドラーの罪:発達障害者向けのお説教と批判封じ
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51941204.html

●アドラー心理学批判 まとめ:「承認欲求を否定せよ」「トラウマは存在しない」有害フレーズの捏造と岸見氏の罪
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51941255.html

 読者で、昨年も2回ほどこのブログに登場された「NYさん」から、先日のアドラー心理学セミナーでの出来事を受けてメッセージをいただきました。
 NYさんからのご了解をいただいて、掲載させていただきます。


正田先生


 アドラー講演会、お疲れ様でした。あのように意見をお述べになるのは、大変な勇気と覚悟でいらしたと思いますが、会場にいらした方の中にも、正田先生の指摘から気づきを得て、覚醒された方がいらしたと確信しました。

 知人が発達障害時の放課後支援サービスを立ち上げることになり、昨日もその知人と施設運営の話をしました。
 発達障がい者のための施設に使いたいというと、そもそも不動産物件を借りることすらかなりハードルが高く、みつからないとこぼしていました。法律で支援制度ができても、結局はこのような現実を変革しなければ、実態の改善は進まないということだと改めて思い知りました。

 そして、こういう社会を変えていくことにつながる正田先生の発信は、やはりとても重要と思いました。

 また、その発信からまなび、承認を現実社会の中で実践していくことは、私たち一人一人の使命であるとも思います。本当の意味で「誰もが活躍できる社会」と言うのは、結局「承認社会」とでもいえばいいか、多様性と寛容が当然の社会なのでしょう。

 でも現実をみると、誰もが活躍できる社会を作ると口ではいいながら、国家が目指している社会は、真逆に向かっているのではないかという不安がよぎります。その不安を払拭するためにも、日々の自分の行動と実践のなかに、承認をしっかり意識して取り組みたいと思いました。



 
 とても嬉しいメッセージでした。
 読者の方はどう思われているかわかりませんが、わたしは決して本来すごく好戦的な性格ではないと思います。
 それでも、2つ前の記事の末尾のほうに書きましたように、叱られないほめられない子供さんたちのことを思うと、たまらなくて発言してしまったのです。
 そういうことをすると、かつ会場の反応も冷えびえとしていましたから、時間がたつにつれ気持ちが落ち込みました。
 そんなときにいただいたNYさんからのメッセージ。
 ただ、その中にはまた、新たな”課題”が含まれていました。

 以下は、わたしからNYさんへのお返事です:


NYさま
 ご返信ありがとうございます。
 お察しのとおり、今日はいささか落ち込んでいます。
(お天気のせいもあるでしょうが。。今日の神戸は昨日までの快晴から一転、雨です。そちらはいかがですか)
 NYさんのメッセージ、とても力づけられました。

 発達障害の施設を借りることについてお話のような軋轢があることは、お恥ずかしいことに存じませんでした。わたしたちの子供世代の1割が該当するのだ、ということがわかっていたら、差別することでもなんでもないのにね。自分の子でなくても親戚の子や友達の子、どこかに該当するでしょうに。

 おっしゃるように、今国家、それにアカデミズム、マスコミ、すべてが「リバタリアンと貧困社会」をつくるために走っているような、うすら寒いものを感じます。
 決して大きなことはできませんが、「承認」を言い続けることでせめて局所的にでも本物の良い場所を作っていけたらと思います。




 NYさんからはこのあとのメッセージで、

「不動産が借りにくいのところは、これは、発達障害に限らず、総ての障がい児者、また高齢者施設でも同様の問題はあるようです。また、数年前には、世田谷区のほうでは一般保育園の移転をめぐる住民トラブルが報道されていました。
http://www.nhk.or.jp/ohayou/marugoto/2014/10/1009.html
このような報道もあったことから、ぜひ、正田先生には、今回の話を、発達障害に限らず障がい者、高齢者、子供などを含む包括的な視点で問題をとりあげていただければ、多様性と寛容、そして承認について、読者の皆様の思考が深まり変革のきっかけができるのではないか、と思う次第です。」

という”宿題”もいただきました。

 そう、わたしの視野が狭かったと言わなければならない。
 発達障害だけでなく、すべての障がい者、高齢者、子供さん、が排除の対象になっているのです。

 そのことは、「今に始まったことではない。昔からあったことだ」という反論がくるかもしれません。

 でも、優勝劣敗でなくより進化した社会になっていきたいではありませんか。
 差別を生むような、わたしたちの中に抜きがたくある不安感、それを乗り越える知恵が求められていると思います。


 わたしにはそんな力はない。ほんとうは、研修で関わらせていただく先を少し進化形の職場になっていただくぐらいしか、これまでも出来てこなかった。

 自分の非力さを恥じつつも、少しでも発信できることはしていきたいと思います。
 実は「承認」は「インクルージョン(包摂)」をさらに進化させた思想とよぶこともでき、「承認」の普及は弱者や異質との自然な共生のできる社会にもつながってゆきます。

 これまでもそうでしたが、これまで以上にそれを念頭に置きながら、発信をしていきたいと思います。

 NYさん、小さなことしかできませんが、許してくださいね。



正田佐与


<シリーズ・アドラー心理学批判>

●「勇気づけ」についての副作用情報。。(2014年12月)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51903598.html

●褒めない・叱らないは正しくない!「逆張りロジック」に正しく反論する知性を磨こう―『嫌われる勇気』著者講演会 (2015年12月)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51927076.html

●「自己認識には事実のフィードバックが大事」「思考的盲目が心配」―宮崎照行さんのメッセージ(同)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51927143.html

●「子どもさんは大いにほめてください。そして叱ってください」―正田、アドラー心理学セミナーで吠えるの記 (2016年1月)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51933511.html

●「誰もが活躍できる社会」とは「承認社会」―NYさんからのメッセージ (同)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51933591.html

●「勇気を持って指摘されたからこそ、いずれ考えを改める」―永井博之さんからのメール (同)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51933656.html

●『行動承認』Kindle化に向けて(4)メディアの考える怠惰なお客様と「行為者」の乖離、王道とパチモンの「大衆的人気」(2016年5月)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51940842.html

●NHKおはよう日本 アドラー心理学特集を批判する(同)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51940920.html

●NHKおはよう日本 アドラー心理学特集を批判する(2)友人たちの反応 (同)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51940923.html

●『行動承認』Kindle化に向けて(5)行為者の脳発達と細胞レベルの変化の可能性――林田直樹先生との対話より(同)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51940962.html

●アドラー心理学批判 「承認欲求否定」「ほめない叱らない」はどこから来るか―「共同体感覚」との関連において―アドラー『個人心理学講義』をよむ
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51941070.html

●アドラー心理学批判・友人からのお便り「幼稚さ、ナルシシズム亢進、成熟拒否」
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51941137.html

●アドラー心理学批判 「トラウマ否定」「承認欲求否定」起源はみつけたが誤読と捏造だった―『人生の意味の心理学』をよむ
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51941143.html

●アドラー心理学批判 アドラーの罪:発達障害者向けのお説教と批判封じ
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51941204.html

●アドラー心理学批判 まとめ:「承認欲求を否定せよ」「トラウマは存在しない」有害フレーズの捏造と岸見氏の罪
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51941255.html

お世話になっている皆様

 おはようございます。正田佐与です。
 急な寒波の襲来となりました。今日はきっと皆様もしっかり防寒対策をされて出勤されたことと思います。
 
※このメールは、正田が過去にお名刺を交換させていただいた方・イベントやセミナーにご来場いただいた方にお送りしています。ご不要の方は、メール末尾にありますURLより解除ください。
(解除方法が変わりました!詳細はメール末尾をご覧ください)


 本日の話題は:

■「子供さんは大いにほめてください。そして叱ってください」
 ―「ほめる、叱る」をめぐる詭弁と混乱の時代に思う―

■あなたは知っていますか?ベストセラー『「学力」の経済学』が提起する“恐ろしい未来”

■現代の若者にとっての「最後のセーフティーネット」とは。
 ―ベーカリーチェーン・リヨンセレブ牧様を再訪しました―

■読書日記『資本主義から市民主義へ』
 ―学者さんの職業倫理に思う―
 
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■「子供さんは大いにほめてください。そして叱ってください」
 ―「ほめる、叱る」をめぐる詭弁と混乱の時代に思う―


 読者の皆様、ご自身のお子様にご家庭でどんなふうに接していらっしゃいますか。
 前回のメルマガでも、『ほめると子どもはダメになる』という本の“詭弁”について、取り上げさせていただきました。
 前回のメルマガ記事をご参照されるならこちら
◆「数字と論理に強い」あなたに贈ります。頭の体操3題
 http://c-c-a.blog.jp/archives/51932957.html 

 そして一方、「叱ってはいけない、ほめてはいけない」を教義とする「アドラー心理学」という、“思想”がこのところ大流行です。
 わたくし正田は一昨日和歌山まで、アドラー心理学のセミナーを聴きに行ってまいりました。
 そこで、たまりかねてあるイレギュラーな行動をとってしまいました。
 以前からわたくしを知っていてくださる方なら、きっとその延長線上でお許しいただけるでしょう。
 このメルマガを読まれている方々にも、わたしからありったけの愛と誠意をこめて、お伝えします。
「子供さんは大いにほめてください。そして叱ってください」
 当日起こったことの全体像はこちらです

◆「子どもさんは大いにほめてください。そして叱ってください」―正田、アドラー心理学セミナーで吠えるの記
 http://c-c-a.blog.jp/archives/51933511.html 

 このメルマガでは昨年以来、「承認欲求」をバッシングするおかしな言説を批判してきました。「ほめる」批判、「承認欲求」批判、いずれも誤りです。そして、教育やご家庭、ひいてはマネジメントの世界までを一気に不幸にしてしまいます。とりわけ、こうした話題の被害者になるのは、子供さん、若手部下、女性の働き手など、「社会的弱者」の人たちです。
 そういうことを売るための「ネタ」「つかみ」に使う出版界の悪しき風潮を真剣に憂えます。どんな業界でも、社会に害毒をまきちらすことは許されることではありません。出版界は真摯に自粛を考えていただきますように。
 「承認欲求バッシングを批判する」シリーズ記事はこちらです
http://c-c-a.blog.jp/archives/cat_50056406.html 

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■あなたは知っていますか?ベストセラー『「学力」の経済学』が提起する“恐ろしい未来”

 さて、昨年のベストセラー『「学力」の経済学』(中室牧子、ディスカヴァー・トゥエンティワン)。
 読めば読むほど、何故この本がこれほど多くの読者に支持されたのかわからなくなってきます。著者の「慶応大学准教授」「コロンビア大学博士号」という肩書にダマされた人が多かったのではないでしょうか。内容をよく読んでいなかったのではないでしょうか。
 前回のメルマガでもこの本に対するシリーズの批判記事をご紹介しましたが、その後さらに、この本の第4章・5章の教育界・文科省に向けた「提言部分」とみられる部分を読解し、これに基づいた「批判記事」をブログに掲載しました。現在、Googleで「学力の経済学 批判」と入力すると、これらの記事がトップページに来るようになっています。(Googleは一応記事を「審査」しており、内容の信憑性、情報量の豊富さなどに照らして検索順を決めているそうです)
 もしお時間が許す方は、どうかご覧ください。そしてあなたの身近にいる、『「学力」の経済学』に影響されている人に教えてあげてください:

◆本当は恐ろしい、『「学力」の経済学』がもたらす未来(1)ー”中室提言”をよく読むと―シリーズ『「学力」の経済学』批判
 http://c-c-a.blog.jp/archives/51933016.html 

◆本当は恐ろしい、『「学力」の経済学』のもたらす未来(2)―正田回答編:先生方は「経済人」ではない!―シリーズ『「学力」の経済学』批判
 http://c-c-a.blog.jp/archives/51933034.html 
 ↑
 お時間がない方は2番目の記事だけ読んでいただいても大丈夫です

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■現代の若者にとっての「最後のセーフティーネット」とは。
 ―ベーカリーチェーン・リヨンセレブ牧様を再訪しました―

「現場から学ぶ」
 大事なことですね。
 きっと、読者の皆様も現場訪問は欠かさずおやりになっていることと思います。
 わたくし正田も、久しぶりにお客様の「現場」をお訪ねさせていただきました。そして受講生の店長さん方から学ばせていただきました。
 フェイスブックのお友達の皆様(現役社会人が多いです)からも沢山の賞賛と「シェア」をいただいた記事をご紹介します。「今どきの若い人」との関係に頭を悩ませている、多くの管理職の皆様にはきっと共感していただけることと思います。

◆若い人と格闘する仕事の現場―牧・リヨンセレブ再訪記
 http://c-c-a.blog.jp/archives/51933228.html 

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■読書日記『資本主義から市民主義へ』
 ―学者さんの職業倫理に思う―

 これも、フェイスブックのお友達から大変「好感」していただきました。
 経済学者・岩井克人氏(東京大学名誉教授、国際基督教大学客員教授)の対談本『資本主義から市民主義へ』(ちくま学芸文庫、2014年4月)。
 昨年、『経済学の宇宙』がエコノミストが選ぶビジネス書1位に選ばれた同氏。こちらの本は経済学の巨人たちが登場する、岩井氏の自叙伝でもあり生きた経済学史でもあり、というスケールの大きな本でしたが、経済学のわかっていないわたくしには到底レビューなどできません。代わりに、辛うじてわたしにわかる表題の本を取り上げさせていただきました。
 もしお時間があれば、ご覧ください:

◆大きな知性に触れる楽しみ、「経済学」と「倫理」の関係を考える―『資本主義から市民主義へ』をよむ
 http://c-c-a.blog.jp/archives/51933360.html 

 なお、この記事の末尾部分でも触れましたが、このところ相次ぐ「学者の肩書をもった人がエビデンスを使いながら一般人を惑わすような間違ったことを言う」という現象に思いをいたします。
 岩井氏の著作からは、同氏の学者としての職業倫理が素直に心に沁みるように伝わってきます。有難いことにアカデミズムの中には他にも、そうしたものを感じさせる知己の方がいらっしゃいます。
 わたしの友人の1人は最近、
「学者やオピニオンリーダーについて『この人の言っていることはおかしいのではないか』と気づくようになった。正田さんの周りにいる学者さんは、正しいのだと思える」
と、言ってくれました。

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★次号から、本メルマガはデザインを一新させていただく予定です。どうぞお楽しみに!

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100年後に誇れる教育事業をしよう。
正田 佐与(正田佐与承認マネジメント事務所)
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ブログ「正田佐与の 愛するこの世界」
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近著『行動承認―組織の能力を最大化する「認める力」』
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 阪神淡路大震災から21年目の1月17日、正田は和歌山に参りました。

 アドラー心理学の一昨年のベストセラー『嫌われる勇気』の著者、岸見一郎氏の講演会に参加するためです。

 アドラー心理学については、昨12月初めにシリーズで批判記事を掲載しました。

褒めない・叱らないは正しくない!「逆張りロジック」に正しく反論する知性を磨こう―『嫌われる勇気』著者講演会

「自己認識には事実のフィードバックが大事」「思考的盲目が心配」―宮崎照行さんのメッセージ

増殖中!インフルエンザより怖い「妄想症・ナルシ症」リスク対策は

 でフェイスブックで一度書いた話題ですが、結論からいうと、この講演会で質疑の時間に正田は「爆発」してしまい・・・。
 会場からマイクを握って「吠えて」しまいました。

 何を言ったかというと、

「会場の皆さんこんなこと信じちゃダメですよ!子どもさんは大いにほめてください、そして叱ってください。子どもはほめられたり叱られたりして規範を覚えていくんです。子どもと大人は対等ではない。子どもは無力で、そして依存しているんです」

「承認欲求を今否定されましたが、承認欲求は食欲と同様、人間の基本的欲求です。あまりにも承認欲求を満たされなかったらわれわれは鬱になってしまうんです。承認欲求を否定して、この会場にいる人の周りにうつが出たら岸見先生は責任を取れるんですか!」

「岸見先生の息子さんの話がなんども出てきますが、親の養育より遺伝形質が子どもさんに決定的影響を及ぼす、これは遺伝学者の共通見解です。岸見先生の息子さんは、IQの高い、言語能力の高い人だったのだと思います。おっしゃっていることはあくまで息子さんという個体に対して上手くいったということに過ぎない。個体差の問題なのです」

 ここで、会場から「質問は1つでしょう」と遮られて終わり。
 私としては人道的理由であえてルール破りをしたけれど致し方ない。
  本当はもう1つ、

「発達障害についてまったく『ない』ものであるかのように語っているがおかしいのではないか」

というのも言いたかったが果たせませんでした。

 講演の最初から、岸見氏が一言言うたびに

「それは、エピソードに登場する人物が発達障害なのではないか?」
「岸見氏のいうそのやり方でうまくいくのは、定型発達のIQの高い子だけではないか?」

といった疑問がわたしの頭の中をぐるぐる回っていたのでした。
 
 岸見氏と先日このブログで取り上げた『ほめると子どもはダメになる』の榎本博明氏は同じ1956年生まれですが、どうもこのへんの世代の心理学の人は「発達障害」がわかっていない。あるいは、知っていても意図的に隠している。

 「発達障害」という概念を避けながら人間関係の悩みについて説明すると、「理解不能な人」は永遠に「理解不能な不条理な人」だし、「こうすればうまくいくよ」という言い様が、すべて世界は定型発達の人だけでできている、という前提に立ったものだったりする。
 結果、一般人はいつまでも迷宮の中をさまよい、心理学者は永遠に優位に立ち続ける。

 本当は、「発達障害」の視点で問題をとらえてみるというのは、決してレッテル貼りではなく、有効な問題解決の方策であり、実は「悩みがストップ」する道筋かもしれないのです。
 でも、そのほうが親切なやり方だとは、かれら心理学者は考えない。底意地悪く、実際の問題解決に役立たないやり方を勧めるばかりです。

 
 さて、しかし冒頭のようなことを言ったわたしに会場からの目は冷たく。

 わたしの次に発言した年配の男性は、岸見氏に

「他人をけなすという人がいますが、どういうものですかな?」

と質問し、あたかも直前のわたしがした行為は「けなす」ということだった、と言わんばかりでした。実際、この人が「けなす」という言葉を発音したとき、会場の多くの人が私のほうを責める目つきで振り返りました。

―これは宗教の集会だ―

 ある程度は覚悟していましたが、ここまで「空気を読む」人々の集団だとは思いませんでした。

 もともと心理学の世界の辞書に「批判する」という言葉はないのです。「肯定しない」は、イコール「否定する」ということであり、「悪」なのです。
 哲学倫理の世界にはちゃんと「批判する」という行為は建設的な行為としてあり、また哲学のほうが心理学よりはるかに古い学問なのですが。

 
 また、わたしが思うに、そもそも「叱らない、ほめない」が好きな人たちというのは、ストレングスファインダーでいう「〇〇〇」、もしくは「受動型ASD」の人が多いのではないかと思います。波風を立てることがとにかく嫌い。葛藤が嫌い。岸見氏自身もその気があります。ひたすら穏やか。(ついでにいうと「子育ての成功例」として度々言及される岸見氏の息子さんも穏やかで知能も高い子どもさんだったのではないかと思います)

 彼(女)らは、たとえば「悪いものは悪い」とガンという、ということがそもそも苦手なのです。極端に不安感が高く、人に強いことを言うことができない。本人さんがアサーション的な問題を抱えています。また自分以外の他人が大声でだれかを叱っているのをきくのも嫌い。身が縮みます。

 「アドラー心理学が好き」という人は、その波風立たない穏やかな空気が好きなんです。

 だから、彼(女)らにとっては、強い口調でアゲンストな質問をするわたしのような女は、波風を立てるというそれだけで「悪人」なのです。


 この講演会では、れいによって「ほめてはいけない」の話が出て、たとえば岸見氏によれば、お母さんが3歳の女の子に
「よく静かにしていたね、えらかったね」
というのもいけないんだそうです。理由は、相手が大人だったらそんなことは言わないはずだからだそうです。そして「静かにしていてくれてありがとう」と言わなければならないのだそうです。

 質疑の時間では英語塾の先生が、子供たちに「来てくれてありがとう」「片付けてくれてありがとう」と言うが、「できてなかったことをできるようになった時、Good Jobと決まり文句があるが、ほかには言い方はないのか」という質問も出ました。
 Good Jobもダメな世界なんです。異常なの、おわかりになりますか?


 その後フェイスブックのお友達とのやりとりの中でわかってきたのですが、わたしも元々、「道場破り」をやりたくて講演会に行きたかったわけではない。本来は、話だけきいて大人しく帰ろうと思っていたのですが、

 会場で生身の人々をみていると、たまらなかったのです。本気で「泣けた」のです。
 
 ほめられも叱られもせずに貴重な子供時代を送る子供さんがいるということに。それが、ここにいる一見良心的そうな人々の子供さんだということに。

 また、「承認欲求」をまるで悪いもののようにくさされて、自分の承認欲求を他人に気取られるのをびくびく怖れながら生きていく人ができてしまう、ということに。


 でもその気持ちは会場の人々には恐らく伝わらなかったので、少し気落ちして帰って、そしてフェイスブックのお友達の皆様に慰めていただいたのでした。

 ある学校の校長先生は、

「子どもは褒めて、叱らないと育ちません。(^^)」

と書かれました。

またあるお友達は、

「私自身も職場によっては評価をされない職場がありました。その時の自分を振り返ると、人間はこうも脆いものなんだと思うほど、自信を喪失してしまったことを思い出します。ですので、承認は重要だと思っています」

と書かれました。

 そういう「当たり前」の感覚が今、すごく通りにくくなっています。

 そして本来幸せになれるはずの人たちが幸せになれないのです。
 この焦燥感、どうしたらいいのでしょう…。



正田佐与


<シリーズ・アドラー心理学批判>

●「勇気づけ」についての副作用情報。。(2014年12月)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51903598.html

●褒めない・叱らないは正しくない!「逆張りロジック」に正しく反論する知性を磨こう―『嫌われる勇気』著者講演会 (2015年12月)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51927076.html

●「自己認識には事実のフィードバックが大事」「思考的盲目が心配」―宮崎照行さんのメッセージ(同)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51927143.html

●「子どもさんは大いにほめてください。そして叱ってください」―正田、アドラー心理学セミナーで吠えるの記 (2016年1月)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51933511.html

●「誰もが活躍できる社会」とは「承認社会」―NYさんからのメッセージ (同)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51933591.html

●「勇気を持って指摘されたからこそ、いずれ考えを改める」―永井博之さんからのメール (同)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51933656.html

●『行動承認』Kindle化に向けて(4)メディアの考える怠惰なお客様と「行為者」の乖離、王道とパチモンの「大衆的人気」(2016年5月)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51940842.html

●NHKおはよう日本 アドラー心理学特集を批判する(同)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51940920.html

●NHKおはよう日本 アドラー心理学特集を批判する(2)友人たちの反応 (同)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51940923.html

●『行動承認』Kindle化に向けて(5)行為者の脳発達と細胞レベルの変化の可能性――林田直樹先生との対話より(同)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51940962.html

●アドラー心理学批判 「承認欲求否定」「ほめない叱らない」はどこから来るか―「共同体感覚」との関連において―アドラー『個人心理学講義』をよむ
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51941070.html 

●アドラー心理学批判 「トラウマ否定」「承認欲求否定」起源はみつけたが誤読と捏造だった―『人生の意味の心理学』をよむ
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51941143.html

●アドラー心理学批判 アドラーの罪:発達障害者向けのお説教と批判封じ
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51941204.html

●アドラー心理学批判 まとめ:「承認欲求を否定せよ」「トラウマは存在しない」有害フレーズの捏造と岸見氏の罪
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51941255.html

資本主義から市民主義へ


今年初めて「良書」の読書日記でございます。『資本主義から市民主義へ』(岩井克人、聞き手三浦雅士、ちくま学芸文庫、2014年4月。原題『資本主義から市民主義へ 貨幣論・資本主義論・法人論・信任論・市民社会論・人間論』新書館、2006年8月)

 昨年来、アカデミズムの悪口ばかり言っているわたしですが、(とはいえそんな中でもご厚誼をいただける大学の先生というのは2−3いらっしゃるのですが) 「この人の知性は一回りも二回りも大きい」と感じさせる方がいらっしゃいます。

 岩井克人氏(東大名誉教授、国際基督教大学客員教授)の『会社はこれからどうなるのか』『会社はだれのものか』は、2006年のわたしの超・短命だったビジネススクール時代、周囲がいまだ「株主主権論」にかぶれていた中、バイブルというか「お守り」のようなものでした。

 ただしわたし自身は「経済頭」ではないため岩井氏の研究全体を理解するすべもなく。今も「単なるファン」です。昨年の同氏の『経済学の宇宙』も読むには読んだが、到底評価などできる器ではございません。ので、読書日記もレビューも上げることができずじまいでした。

 昨年もう1冊手にとった本書『資本主義から市民主義へ』は、岩井氏の「倫理」についての考え方がわかる好著です。2006年時点で既にここに至っていたかと感銘を受けます。

 もちろん「倫理畑」の方々からは異論もございましょうが、わたしの「趣味」とお許しをいただいて、本書の感銘を受けたところをご紹介したいと思います。

 今回は、ワード16ページの長さになりました。要約ではなく引用です(わたしが意味がわかっていないところが多いため)。太字部分はわたしが勝手に主観的にだいじだと思ったところを太字化してあります。

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岩井:法人の成立については、ぼくは、間主観性、というよりも社会的承認が不可欠であることを強調しています。現在のアメリカの主流派経済学の連中や、それに影響を受けた法学者たちは、法人とはたんなる契約にすぎないと言っています。でも、たとえばいまAさんとぼくが法人をつくりたいと思って、二人のあいだでどんなに詳細な契約書を書いたとしても、ほかの人間が、Aさんとぼくがつくった団体をAさんやぼくとは独立の主体であると認めてくれなければ、法人としての機能を果たすことはできません。ほかの人間と契約を結べないし、独自にモノを所有することもできない。つまり、法人という制度にかんしては、他人による承認、もっと一般的には社会的な承認が絶対に必要なのですね。もちろん、「人の噂も七十五日」ではないけれど、社会的な承認などというのは移ろいやすいので、それを国家が法律化して、制度として安定させたものが、法人です。(p.124)

岩井:じつは、会社論の次のテーマとして、国家論のほかに倫理論を考えていますが、その出発点として、信任に関する理論を展開したいと思っています。(p.128)

じつは「資本主義社会は倫理性を絶対に必要とする」というのが、ぼくの主張です。しかも、まさにそれが契約関係によって成立する社会であることによって倫理性が要請されるということなのです。(p.129)

岩井:じつは、ぼくは最近、いま述べたことを一歩進めて、もっとも根源的な人間の関係は信任関係であって、契約関係とはその派生的な形態であると見なすようになっています。そして、そこから出発して、市民社会というものを考え直してみたいと思っているのです。そのなかで、倫理性という問題について考え始めているのです。(p.131)

 だいぶ脱線しました。…先ほどから宿題であった倫理の問題に戻ります。端的に言ってしまうと、倫理とは、人間が死ぬ存在であることと本質的にかかわっていると思っています。なぜなら、人間が永遠に生きられるとすると、現在何か悪いことをやっても、将来かならず相手に対して償いをすることが可能になるからです。それは、すべてを、法律的な権利義務の関係、いや、もっと正確には、経済的な貸し借り関係に還元してしまうことになるのです。そこでは、ほんとうの意味での倫理性は必要でなくなってしまう。だが、人間は有限な存在です。だから、自分のおこなった行為に対して、どのようにしても償いや返済ができない可能性がある。そこではじめて、本来的な意味での主体的な責任という問題が生まれてくるのです。それが究極の意味での倫理の問題だと思うのです。(pp.131-132)

―(???)この論理構築はよくわからない…わからないなりにおもしろかったので抽出させていただきました。

(三浦)デ・ファクト・スタンダードの問題がある場合、倫理はどういうかたちで成立するのか。倫理はなんらかの定点を必要とするのに、地面がぐにゃぐにゃの状態と言っていいわけです。カントの倫理を皮肉ったのはシラーでしたよね。自己一身の責任においてというのでは、結局、あらゆる善行は趣味の問題になってしまうではないか、と。倫理はどうしても大文字にならざるをえない。
岩井 大文字かどうかはわかりませんが、人間には、たとえだれも見ていなくても、神さえ見ていなくても、主体として一方的に責任を引き受けなければならない場面なり瞬間がある。(pp.135-136)

岩井 ちょっと前ですが、猫も杓子も「他者」「他者」といっていた時期がありました。「他者」との出会いを求めて、ノコノコと外国に行ったりしてね。でも、先ほど、人間とは、言語を語り、法にしたがい、貨幣を使って、はじめて人間となる存在であると言ったわけですが、その人間にとっていちばん本質的なことは、そのような意味で人間をまさに人間とさせる言語・法・貨幣、とくに言語が、人間にとってはまったくの外部の存在であるということなのです。
(三浦)われわれがもっとも内部だと思っているものが、じつはもっとも外部だということ。
岩井 まさにそうです。そのことを認識することがすべての倫理の出発点だと思うのです。まさにこれは自己疎外論の正反対です。外部の他者との出会いなど、些末な問題だとは言いませんが、二次的な問題です。人間にとっての最大の他者とは、まさに人間にとって最大の内部である言語であるのです。人間はまさに言語で思考し、言語を介して他人とコミュニケートするわけで、言語とは人間の思考そのもの、人間のコミュニケーションそのものなのですが、その言語が人間にとって、もっとも外部の存在であるということなのです。事実、個々の人間はかならず死にますが、言語は個人の死にかかわりなく生きつづけていくわけです。
(三浦)まったくそうです。個別性自体のなかに彼岸があるということです。岩井さんの考え方でいくと、自己は最初から共同性のなかでしか成立しない。
岩井 共同性と言ってもそれは、言語という外部を媒介とした共同性という意味です。だから連帯していて仲良しというわけじゃない。
(三浦)もちろんそうじゃない。でも、言語で考えるというときには、自分ひとりで考えていたとしても、それは共同性において考えているわけですよ。
岩井 共同性といわれると、抵抗を感じるんです。
(三浦)なんといえばいいんでしょう。
岩井 ぼくは超越性だと思っているんです。
(このあと三浦の反論。「ほんとうに19世紀的なヒューマニズムでしかない」)
岩井 ぼくもわからない。ただ、最終的にはカントのいう意味での倫理になるのではないかとは考えています。(pp.137-139)


岩井 たしかに労働価値もない。主体もない。そこで、ぼく自身は、ある意味で非常に常識的なところに戻っていく。カント的な啓蒙思想です。ぼく自身はこれまでずっと資本主義について思考してきました。その資本主義とは、まさに差異性から利潤を生み出すというもっとも形式的なシステムであり、それゆえにもっとも普遍的なシステムです。だから、必然的にグローバル化してしまった。そして、それを超えるシステムはありえません。では、そのような普遍性をもった資本主義に対抗しうる何かがあるとしたら、それも同じように形式的な原理でなければならない。具体的には、カント的な定言命題による倫理性であり、それを基礎にしたグローバルな市民社会といったものになるのでしょうか。カントの定言命題とは、それが普遍的な法則となるような格率にしたがって行為せよというものですから、完全に普遍化しうる純粋に形式的な命題です。これ以外にはないんじゃないかと思います。たとえばローカルな共同性を強調するコミュニタリアン的な論理だけでは、まったく勝ち目はありません。
(略)
(三浦)岩井さんは、カント主義はヒューマニズムだと思っていないんですか。
岩井 思っていません。だってカントの定言命題の対象は、人間でなくてもいいんですから、理性をもっている存在すべてに当てはまる方法なんです。理性をもっている存在ならば、お互いをたんに手段としてではなく、必然的に目的として扱うはずだ、と考える。(pp.139-141)

岩井 いま理性と言いましたけれど、その理性の意味に二つあることが重要です。ひとつは、なんらかの公理から出発し、一歩一歩論理を積み重ねて真理に達するための理性。これが通常の意味での理性です。もうひとつは、ゲーデル問題に関連しますが、この世の中には、あらかじめ与えられた公理とは独立に、自己循環論法によってそれ自体で完結している真理がある。それは、まさにとびとびに存在する真理です。こういう真理は、まさに歴史的に発見されなければなりませんが、そういう真理を見たとたんに、それを真理として認知できる理性です。(pp..141-142)

岩井 人間はそれに行き当たると、それが真理だとわかる。ハイエクは、ヒュームの偉いところは、この第二の理性について思考したことであるというのです。いずれにせよ、こういう真理は進化論的にしか行き当たらないわけであって、そこに、歴史の本質的な意味での不可逆性があるのじゃないでしょうか。

―このあたりわたしの「趣味」で太字部分が増えてしまいましたが、わたしは勝手に、「承認」というものは、歴史を不可逆的に変える真理の発見の1つなのではないか、と思っているわけです。
自分のコメントも勝手に太字にしてしまいました^^


岩井 ちょっと話がずれますが、同じようなことが倫理についても言えます。カントの道徳論に、すべての人間をたんに手段としてだけでなく同時に目的として扱えという定言命題がありますね。これもよく見ると自己循環論法になっています。理性的存在がお互いに理性的存在であることを承認しあうわけですから。そして、そのような相互承認を実定化すると基本的人権になるわけです。その意味で、基本的人権とは普遍的な概念ではあるけれども、同時に歴史的に発見されたものでもあるというわけです。これは非常に啓蒙主義的な考え方に近い。
 少なくとも倫理にかんして残るものは、案外、常識的なものでしょう。(pp.143-144)

岩井 言語や法や貨幣はデ・ファクト・スタンダードですが、それをぼくは空虚とは言わない。それは、現実に個々の人間のあいだを流通していく社会的実体です。実体的な根拠がないことと、空虚であるということとは、まったく別です。そして同じことは、カント的な意味での倫理についても言える。それも自己循環論法によって成立するひとつの命題です。そして、空虚ではない。実際に、基本的人権というようなかたちで社会的な実体性をもつことができる。
 いずれにせよ、言語・法・貨幣、さらにそれとは別のカテゴリーですけれど、定言命題としての倫理―これらが、まさに自己循環論法の産物であるということ、つまり実体的な根拠をもっていないということに、究極的には人間の人間としての自由の拠り所があるし、人間にとっての救いがあると思っています。自己循環論法であるからこそ、遺伝子情報の制約からも、人間理性の限界からも自由になれるのです。その意味で、言語・法・貨幣、そして倫理、とりわけそれらすべての基礎にある言語のなかに、もっとも根源的な真理が隠されているわけです。無根拠だから空虚なのではありません。無根拠だから真理を見出していく無限の潜在力にあふれているのです。(pp.144-145)

岩井 ええ、信任関係を生み出す。一方が他方を一方的に信頼することによってしか成立しない関係を生み出す。この関係が成立するためには、信頼を受けた側は、自己利益を押さえて行動しなければならない。つまり、倫理性を絶対に要請してしまう。こうして資本主義のまさに中核に信任関係、倫理が登場するわけです。(p.165)

(三浦)岩井さんは『会社はだれのものか』の最後で、ケインズとフロイトの関係にちょっとふれていますが、たとえば、ご存知のように、ラカンがヘーゲルとフロイトを結びつけるとき、ひとつのポイントにしたのがアウフヘーベンという言葉ですよね。『エクリ』のなかに、哲学者のイポリットにフロイトの「否定」という論文について評釈させるところがありますが、そこでポイントになるのがアウフヘーベンという言葉で、要するにフロイトのいう否定し抑圧するということの実質はアウフヘーベンと同じだということですね。(p.174)

(三浦)ヘーゲルがアウフヘーベンという言葉を用いたのは概念の働きを説明するところにおいてですが、ヘーゲルにおける概念、概念化作用というのは、じつはそのまま否定と抑圧のことなんだと言ってもいいほどだと思います。定義が否定によって成り立つように、概念も否定によって成り立つということは古くから言われてきたことですが、ヘーゲルはそこに抑圧の要素をも見た。つまり持続の要素、否定しても無くならないものがあるということを見た。つまり二重性です。ヘーゲルはそれを表現するためにアウフヘーベンという言葉をもってきたわけです。
 ヘーゲルの概念の概念についての研究が必要だと言ったのはガダマーですが、ヘーゲルの概念の概念には、それまでは知性とか悟性とかいうレベルで論じられていた概念というものを生命現象一般にまで強引に拡げてしまったところがあって、たとえば動物の概念化作用というのは食べるということそのもの、生殖ということそのものだというわけですね。
(pp.175-176)

岩井 ぼくはカントの『実践理性批判』や『道徳の形而上学』は、それが純粋に抽象的、形式的な原理として倫理を提示しているところがおもしろいと思っています。なぜならば、資本主義というのも、基本的に形式にすぎません。価値形態論とは、商品と貨幣のあいだのほんとうに形式的な関係です。純粋形式ですよ。ぼくはこれから資本主義論を超えたものとしての市民社会論をやろうと思っているんですが、資本主義とは純粋に形式的なシステムだから、ここまでグローバル化したわけです。その資本主義を超える人間と人間の関係として市民社会が可能になるためには、それは少なくとも資本主義と同じ程度には形式的でなければならない。そこで、やっぱりカント的な理論がその核心になるはずだということです。その基礎として、現在、法人論から出発して、信任論について考えているわけです。(pp.205-206)

岩井 うん。だけど、カントが言う、仮言命題にもとづく倫理は、真の意味での倫理ではない、定言命題として定式化される倫理のみが倫理であるという考え方とおもしろいほど適切に関連してくるんですよ。なぜならば、定言命題とは自己循環論法なんですよ。カントの倫理論がおもしろく、そして深いのは、それが自己循環論法になっているということなんです。
 仮言命題的な倫理というのは、個人の幸福であれ、社会の利益であれ、なんらかの効用や目的を達成するための手段として定式化されている。約束を破ると人からの信用を失って、結局は損をするから約束を破ってはいけないというたぐいの理論です。これに対して、定言命題というのは、外部からのなんの根拠づけも必要としない。それ自体を目的とする行動規範です。つまり、それが同時にすべての人間にとっての行動規範となることをあなたが望む行動規範にもとづいて行動せよ、というわけです。約束を破ることは、それ自体でいけない。他の人が約束を破らないとき自分だけ約束を破るのは個人にとっては得であるかもしれない。だが、すべての人が約束を破ることを行動規範にすれば、約束という制度そのものが不可能になるから、約束は破ってはいけないというわけです。これはほとんど数学のように形式的な命題です。
 言ってみれば、仮言命題は社会主義的で、定言命題は徹底的に反社会主義的です。個人の行動を社会全体の利益の名において制約する仮言命題的な倫理の極致が、社会主義だからです。カントは、外から与えられたなんらかの目的から導かれる倫理というものを全否定する。それ自体が目的である行動規範こそ倫理であるというのは、倫理がまさに自己循環論法であるということです。カントを語る多くの学者はこのことの重要性を理解していないと思うのです。倫理というのは自己循環だということを……(pp.206-207)

岩井 そうなんですけど、重要なことは、カントの理論は権利論として理解できるということです。たんなるシニシズムではなくてね。
 政治哲学や倫理学で、昔から効用主義と権利主義のあいだで論争がありますよね。たとえば、基本的人権や私有財産権のような人間がもつさまざまな権利に関して、その権利を絶対多数の絶対幸福を実現するための手段としてみるのか、それともそれ自体が守られるべき目的とみるのかという論争です。カントはもちろん、権利論者です。ただ、同時に、カントは通常の意味での自然法論者でもありません。
 たとえば、基本的人権とは、すべての人間は他人の手段としてのみ扱われてはならないという倫理規範を法律化したものです。その出発点は、理性的な存在同士がお互いを理性的な存在として認めあうことです。理性的な存在とは自分で自分の目的を設定できる存在であり、お互いが理性的な存在であることを認めあうことは、お互いがお互いを目的それ自体として認めることになるわけです。そのような相互承認がないかぎり、基本的人権などは存在しない。事実、基本的人権なんて昔は存在しなかった。たとえばギリシア時代には、基本的人権なんて、お互いにお互いを英雄として認めあう英雄しかもっていなかった。でもそれが、権利への闘争の長い道のりを経て近代になって確立し、現代においては、少なくとも先進国の人間はあたかも基本的人権が自分の体の一部でもあるかのように振る舞っています。
 そもそも基本的人権というのは物理的にあるわけではない。相互承認を法的に権利化、いや実体化したにすぎない。けれど、たとえばアメリカ人なんか、自分の基本的人権を鎧のように着て世界中を闊歩している。(pp.208-209)

岩井 どこにも実体はない。言語だって、言葉に意味があると言っても、後期ヴィトゲンシュタインの先ほどの言葉を敷衍すると、それは意味があるものとして使われているから意味があるにすぎないわけですね。完全に自己循環論法です。法も、人々がそれに対して法としてしたがうから、法が法として効果をもつ。これも自己循環論法です。カントの倫理にしても、いま説明したように、構造はだいぶ複雑になるけれど、そうなんです。人間社会には、物理的な実体とは違う社会的な実体があるわけです。しかもその社会的実体を媒介にして、はじめて人間は人間となる。その社会的実体は、自己循環論法の産物ですから、物理的には何モノでもないのに、人間にとってはものすごい実体性をもつ存在となっているわけです。(pp.209-210)

岩井 そうですね。貨幣論では、貨幣は自己循環論法の産物であり、実体的根拠はないと言っているわけですし、資本主義論だって、価値体系の異なる二つのシステムを媒介すると、無から有が生まれてくるように、利潤が生まれてくると言っているわけですしね。こういう貨幣の論理、資本主義の論理が、現在、グローバル通貨、グローバル資本主義というかたちで、世界を覆いつくしてしまったわけです。
 このような動きに対して、みんないろいろ抵抗しようとしています。ただ、その抵抗の方法が、コミュニタリアニズムであったり、地域通貨であったりしているかぎり、絶対に勝てない。なぜならば、貨幣も資本主義も、純粋に形式的な論理によって動いているからです。だから、グローバル化しうるのです。それに対して、なんらかの意味で実体的な根拠を示して対抗しようとしても、それはローカルな効果しかもてない。それに対して唯一勝てるのは―べつに勝たなくてもいいんだけれど―、やはり、純粋に形式的な論理、いや倫理なのですね。その点で、カントの倫理論が意味をもってくる。なぜならば、それはまったくの自己循環論法として定式化されているからです。それが、貨幣と資本主義のグローバル性・普遍性に対抗しうるだけのグローバル性・普遍性をもった、唯一の対抗原理でありうると思っているのです。(p.215)

岩井 ふつう、自己循環論法というと、自己矛盾だとかアンチノミーだとか言って話を終わりにしちゃうんだけど、じつはそれこそが真実であると。それこそが貨幣である、それこそが言語である、それこそが権利である、とういことなのです。
(三浦)ヘーゲルに言わせれば、それこそが精神だってことになるでしょうね。
岩井 結局、人間の社会とは、その人間が作り出した数学という純粋論理の世界ですら、進化論的な意味での発展をしているということですね。ゲーデルの定理は、構築された真理ではないから、たまたま発見されるよりほかないのです。もちろん一度発見されると、だれもがその正しさを認めざるをえないのですが、発見されるまでは真理としても存在していなかったわけです。それがたまたま発見されると、それ以前の状態には戻れなくなるわけですよ。一種の歴史的な不可逆性がここにある。つまり、ゲーデルの定理が発見されると、それによって世の中の複雑性が増してくる。エントロピー増大の法則が打ち破られてしまうのです。たしかに、これがヘーゲルの言う精神かもしれませんね。(pp.219-220)

岩井 さっきの、カントの定言命題は真理か思想か、という問題については、こう言ったらいいでしょうかね。いまはまだ思想なんですが、いつかは真理となる思想である。そして、カントの倫理がたんなる思想ではなく、真理となった社会―これが、市民社会であるということです。
 たとえば、市民社会の最低限の条件は基本的人権の確保ですが、基本的人権とは、カントの定言命題の法律的な表現にほかなりません。現代でも、まだ国によって違いがある。基本的人権が守られていない国や社会は、まだたくさんある。しかし、ある歴史段階になって、その国が市民的に成熟してくると、基本的人権が法律的に守られるようになり、そうすると、その国のなかでは、人間が基本的人権をもつということが疑いのない真理になるんだと思う。先ほど言ったように、どの人間も基本的人権をあたかも体の一部であるかのように所有することになるわけです。
 カント的な意味での定言命題的な倫理は、だからいまは思想にすぎないけれど、形式的には自己循環論法になっていますから、そこにうまく法律、場合によっては人々の常識がはまりこんで動き出すと、これは真理になる。そう思いますね。(pp.223-224)

岩井 ぼくはいま市民社会論に足を突っ込み始めているのですが、そのためにはまず最初に資本主義の枠組みのなか、私的所有権の世界のなかでどれだけ言えるのかを確定する必要があると思って、それで、会社の二重構造論から、株主主権論を批判し、経営者について信任論を展開し、ポスト産業資本主義における利潤の源泉がヒトであるという議論を提示してみたわけです。このような議論は、すべて資本主義の枠組みのなかでここまでは言えるということをやっているわけです。
 たとえば、ポスト産業資本主義におけるヒトの役割の重要性を強調している場合でも、それは、心優しく従業員のためを思うヒューマニスティックな経営者がいいんだというような議論を展開しているわけではありません。あくまでも、ヒトを重視しなければ、会社はポスト産業資本主義のなかの競争で負けてしまうと言っているだけです。
 ただ、一歩、社会的責任論に足を踏み入れると、単純な私的所有権の枠組みをちょっとはずれてきます。ぼくの市民社会論は市民社会の定義がまだはっきりしていないんだけど、現在のところとりあえず、市民社会とは資本主義にも還元できなければ国家にも還元できない人間と人間の関係である、と定義しています。資本主義的な意味での自己利益を追求する以上の、何か別の目的をもって行動し、国家の一員として当然果たさなければならない責任以上の責任を感じて行動する人間の社会だということです。それが社会的責任だと思います。(pp.225-226)


岩井 そうかなあ、やはりぼくは社会主義者ではないですよ。あのとき、ぼくは社会主義者ではないが、市民社会主義者であると返事すればよかったと、いまになって思います(笑)。要するに、そのなかではお互いがお互いに対して、資本主義的な自己利益、自己責任という意味での責任にも、国家における法的な義務としての責任にも還元できない責任を考え始める市民社会ですね。
 市民社会というのは一貫して「国家および資本主義を超える何か」という存在でしたし、これからもそうでありつづけるはずです。たとえば、市民社会で障害者の権利についての主張が始まる。だが、それが人々の政治的なコンセンサスにまで高まると、法律化されて国家の側に吸収されちゃうし、あるいは社会的な責任を果たすべく、NPOとかで活動してうまくいくと、そのうちに採算がとれ始めて資本主義に吸収されたりします。市民社会とは、その意味で、確定した領域をもっているわけではなく、つねに自己の領域をつくりつづけていかなければならないものです。
 いずれにせよ、逆説的だけど、国家にしても資本主義にしても、人間がお互いに責任感をもって行動しているような市民社会的な領域の存在を許すだけの余裕がなければ駄目なんです。そして、この領域が増えてくると、たんなる資本主義の単純な私有財産の枠組みにも、国家が定めた法律の枠組みにも入りきらないプラスアルファが、市民だけでなく、会社にも要求されるようになってくる。ここでちょっと私的所有権じゃないところに入っていくんですね。(pp.226-227)

(三浦)そんなことはないでしょう。岩井さんのお話を伺って、カントの歴史的意義がわかったという人もたくさん出てくると思います。とくに思想が真理へと進化するという考え方は画期的ではないでしょうか。
岩井 いろいろな権利が体の一部のように人間に備わってしまうということですね。また、基本的人権とは違ったさまざまな権利もありうる。でも、それらの確立は難しいかもしれませんね。でも、いままで人間としての扱いを十分に受けてこなかった人間がいろいろな権利をもつということは、やはりカントの自己循環論法の領域ですね。お互いの尊厳性を認めあうということが権利というかたちで定着してくるわけです。
(三浦)だけど、繰り返しになって申し訳ないですが、岩井さんの考えが刺激的なのは、つねにすべてが無意味になる地点を含んでいるからです。基本的人権は幻想なんだということも含んでいる。その幻想を受け容れて考えていくことが君たちの自由なんだと言っているように思えますね。
岩井 ただ、ぼくは幻想という言葉は使いたくないんです。幻想じゃないんです、これは。実体なんです。真理なんです。根拠がないということと、幻想であるというのは違うと思うんですよ。だから吉本さんの共同幻想という言葉も、あれは誤解を招きます。やっぱり国家は実体です。権利も実体です。社会的実体。ただその社会的実体は社会との相関関係のうちにしかないということです。そういう意味では、物理的な実体ほどの確実さはありませんけれども、しかしあくまでも実体です。幻想という言葉は、ぼくは批判としてしか使いません。
(三浦)じゃあ、建設的虚構と言えばいいかもしれない。
岩井 そうそう、まさしく建設的虚構です。ほんとうに、良い言葉です。
(三浦)その場合、建設的にウェイトを置くか、虚構にウェイトを置くかで違ってくる。
岩井 小説はフィクションだというけど、そのたんなるフィクションがある意味で現実よりもはるかにリアリティをもつものとして、みんな寝食を忘れて読んでしまうことがあるわけです。そういう作家も読者もいるわけだから、ぼくは建設的という言葉に重きを置きます。(pp.230-231)

岩井 では、このような遺伝決定論の科学的な勝利の結果、人文科学・社会科学は、エドワード・ウィルソンが言うように、すべて生命科学の応用分野に成り下がってしまうのか、というと、じつは、逆転ホームランがある。まさに、すべてを遺伝子に還元しようという動きがあることによって、逆に何が遺伝子に還元できないかが浮き彫りにされることになる。それこそ、言語・法・貨幣の存在なのです。人間が生きている世界のなかには遺伝子に還元できない社会的実体がある。人間の遺伝子をいくら調べても、そのなかに貨幣は明らかに入っていない。法はどうか。もちろん、人間には社会的規範を守るという遺伝子があるということは、最近いろいろな実験によって明らかにされています。したがって、アダム・スミス的な利己的な人間像というのは遺伝的に正しくない。人間には規範を守る遺伝子があるのだ、というわけです。こういう発見は、ぼくは大いに歓迎します。でも、それによって、ことの本質を見失うことになる危険がある。なぜならば、遺伝的な規範意識と法とははっきりと区別すべきだと思うからです。(pp.241-242)


岩井 だが、フリードリッヒ・ハイエクが指摘するには、人間の本能にとっては私的所有権ほど嫌なものはないというのです。
(中略)
 狩猟社会では財産は共有、だれが獲物をとってきてもみんなで分ける。そうじゃないと共同体的な社会組織はうまくいかない。その強い連帯意識がいちばん嫌うのはもちろん個人間の能力の差であり、さらには私有財産です。ところがあるとき、どこかの部族が私有財産制を採用し始めた。ユダヤ人かもしれないし、フェニキア人かもしれない。
(三浦)ユダヤとフェニキアは同祖だという説があります。陸の商人と海の商人。
岩井 人間の本能にはまったく反してしまうんだけど、私有財産制という慣習、さらには法制度に行き当たってしまった。突然変異なのか、だれかが理性的に考え出したのかはわからない。そして、人間の連帯意識的な本能に逆らうこの私有財産制を採用した部族なり民族は、その結果、資本主義を発見してしまい、経済的に飛躍的に発展してしまう。それを見て、対抗上、他の部族や民族も、嫌々ながら、私的所有権制度を採用せざるをえなくなった。その最終的な結果が、現在のグローバル資本主義であるというわけです。だから人間は、規範意識は遺伝的にはもっていても、私的所有権制度という法を遺伝的にもっているわけではない。法律は、遺伝に逆らって成立したんです。(pp.242-244)


岩井 こうして言語・法・貨幣を媒介として、人間は初めて抽象的な意味での「人間」として社会を形成することができる。もちろんこれらがなくても共同体はつくれるけれど、それはお互いをよく知りうる範囲に限定されてしまう。人間は、まさに言語・法・貨幣を媒介として、お互いを抽象的な「人間」として認めあうことになり、動物と違う次元の社会性をもつ存在となる。言語・法・貨幣を媒介とすることで社会を形成する生物、それこそが人間の本性なのです。(p.255)
(三浦)(ドーキンスのミームに言及)
岩井 たしかに、僕の理論はそれに近いと思うけれど、自己循環論法としての言語・法・貨幣を媒介した関係として、もっと正確に人間の社会性を規定している。かれらは「文化」とかいう言い方で、曖昧ですね。(p.256)


岩井 言語、法、貨幣では言語がまず根源的 近代に私有財産についての法が確立 ほとんど貨幣の成立と対応関係をもっている(p.257)


岩井 そうです。だから言語・法・貨幣の成立は、同時に「人間」の成立でもある。人間は社会的生物だけれども、言語・法・貨幣を媒介として初めて「人間」として社会をかたちづくることができる。生活をともにしたことのない相手ともコミュニケーションでき、腕力のかなわない相手とも契約が結べ、自分の欲しいモノをもっていない相手とも交換できる。人間社会というのは、個々の人間の集まりじゃなくて、抽象的な意味での人間同士の関係なのです。(p.259)

岩井 ええ。典型的なのは命名です。岩井克人だって三浦雅士だって自分で名乗っているわけじゃなくて、そういう名前が与えられていたわけです。名前は与えられるわけで、それがまさに個人なのです。
―その仕組み自体が法人の仕組みですよ。
岩井 自然人と言われているものも基本的には法人なんです。子どもは違うかもしれませんが。
―いや、すべての人間が物理的かつ社会的、つまり法人ですよ。言語・法・貨幣という社会的実体を認めなければ人間は生きていけないということは、つまり法人としての側面をもたなければ生きていけないということでしょう。
岩井 ええ。その話と市民社会の話をつなげたいと考えているのですけれどね。


岩井 『貨幣論』のなかで、貨幣論の構造と、木村敏の精神病理論とを対応させたのですが、人間の精神病理のあり方は経済の病理のあり方とそっくりなのです。社会的承認の欠如からうまれる病理とは、精神病理でいえば、たとえば鬱病の問題です。経済では、モノが貨幣によって買われないことによって惹き起こされる恐慌です。だけど、分裂病、最近では統合失調症と言わなければならなくなったみたいですが、統合失調症の場合は、これはハイパーインフレーションと同型です。たとえば、宇宙から指令を受けている、というような妄想が出てきたりするわけです。社会による承認が問題となるのではなくて、言葉が体現している社会そのものの自明性が解体してしまう。それが、自分自身が他人に支配されてしまうという妄想として表現されるわけです。言語・法・貨幣がまさに人間性の中心に存在しているのだけれど、その中心性にじつは実体的な根拠がないということを、人格的な次元で具体的に現象してしまう。それが統合失調症で、たぶん脳のケミカルな問題がそうさせるのだと思います。(p.278)


岩井 最近の、第三の社会領域として市民社会をとらえる議論にかんしては、それが市民社会を、自己完結性をもった社会、場合によっては、国家をも資本主義をも超越した社会としてとらえているとしたら、少し違うのではないかと思います。市民社会とは、基本的には、国家か資本主義のどちらかを補完する社会としてとらえるべきだと思っているのです。カントやヘーゲル的な考え方の基本は、人間は尊厳をもった存在として扱われなければならないということです。理性を持った人間は、まさに自分で自分の目的を設定できる存在であることによって、手段としてのみ扱われてはならないということ。モノとしてだけでなく、尊厳ある存在として扱われなければならないということです。お互いの尊厳がお互いに承認され、国家がそれをきちんと保証するということになって、その尊厳の承認が法的な権利というかたちをとる。法律ができれば、たとえば、尊厳をもって扱われなかった場合は、権利が侵害されたとして裁判所に訴えることができるようになる。つまり、このような国家による法的権利が確立していない状態において、人間がお互いに尊厳をもった存在として遇し遇されるということをつねに問題にしつづける場が、まさにぼくの言う市民社会なのですね。それがきちんと確定すると法治国家になる。資本主義についてはうまい言葉が思いつかないんですが。
(三浦)企業かもしれないですね。それこそ法人というか。国家において法にあたるのが資本主義において貨幣であるとすれば、その仕組みそのものでしょうね。(pp.287-288)


岩井 ぼくの研究テーマはもともと貨幣を基盤とした資本主義がいかに本質的矛盾を抱えているかということです。たとえば不均衡動学では、もし市場経済において価格が伸縮的であれば、累積的な不均衡が起きてしまう。市場経済の安定性を確保するためには、利潤原理によって動かされないなんらかの非市場的制度による歯止めが必要になるということを示しています。しかも、いま考えている会社論では、資本主義活動の中心にある株式会社というものが、まさに法人であるということによって、そのコントロールには経営者を必要とし、その経営者には信任というかたちで倫理的行動が要請されているということが主張されているわけです。つまり、ほんらい自己利益の追求が公共の利益を実現するはずの資本主義のど真んなかに、じつは倫理性とでもよぶべきものがなければならないということです。(p.291)

岩井 言語・法・貨幣に対応する市民社会・国家・資本主義という三角形モデルのなかで、国家と資本主義は安定しているように見えるけれども、じつはそれらの基盤をなしている法と貨幣は、ともに自己循環論法によって成立しているわけだから、実体的な根拠を欠いており、つねに自己崩壊してしまう可能性をもっている。言い換えれば、本来的な不安定性をかかえているということをおさえておかなければならない。不安定だからこそ、国家にも資本主義にも完全には還元されない第三の人間活動の領域としての市民社会を必要としている。市民社会的な部分が消えてしまうと、国家も資本主義もそれ自身が本質的に抱えている不安定性、矛盾によって自己崩壊してしまうことになる。その意味で、市民社会とは、国家にも資本主義にも還元されえないことによって、まさに国家と資本主義を補完するということになるのだと思います。市民社会的な部分があることによって、これは具体的に何を指すのかは難しいのだけれども、国家も資本主義もその矛盾をカバーしてもらわなければならないという論理ですね。(pp.291-292)

岩井 だから、法というのはまさしく自己循環論法なので、直接民主政となると悲劇です。専制政治も悪いけれど、すべてを国民投票の押しボタンで決めるというのはもっと悪いシステムです。
(三浦)結局は集団ヒステリーになる。
岩井 そう。だから最後に憲法があるということは、押しボタン制にしない、国民投票にかけないということです。(p.292)


岩井 株主主権論が少しでも意味をもつとしたら、まさにこのような株式市場の公共性を前提として、内向きの経営をしがちな経営者に対して、株式市場の声に耳を傾けろと叱咤激励するわけです。ところが、株主主権論をもっとも声高に主張していた人間(堀江さんと村上さん)が、株式市場の公共性を裏切ってしまうインサイダー取引をしていたというのは、弁護の余地はない。
(略)
…ぼくの会社論は、株主主権論を理論的に批判しているわけです。法人化されていない八百屋さんのような古典的な個人企業と、法人化された株式会社を混同した理論的な誤謬であると、批判してきたわけです。だから、堀江さんと村上さんにはちゃんとしてもらわなければ困るわけですよ。相手が、法律違反で負けてしまっては、理論的な戦いが成立しなくなってしまう。(pp.294-295)


岩井 (孫正義さんは金儲けから会社を育てるほうによく転換したという話の流れで)日本人はお金がそんなに好きじゃない。好きだとしても、それよりは社会的認知のほうが気になるムラ的な人たちなんだと思う。そこでみんな引っ掛かっちゃう。(p.296)


(三浦)それと同時に、やはり先ほどの大義名分もあるんじゃないですか。日本人はとくにそうかもしれませんが、世界的にもやはり冒険と金儲けだけではない。どんな会社でも、感謝、勤勉、奉仕とか掲げている。逆に言うと、それがなければ、社員が働かない。俺たちは金儲けのためだけに邁進しているというのでは働かない。岩井さんのおっしゃる市民社会的な理念というのを表向きであれ掲げなければやっていけないというところがある。極論すれば、すべての企業がノン・プロフィット・オーガニゼーションみたいなところがあるわけです。(略)
岩井 そうそう。だが、それがぼくの言う市民社会かどうかは疑問ですが。
(三浦)でも、たいていの会社は、社会のためにこの会社は設立されたとか言っているでしょう。
岩井 ええ。定款にもかならず書いてある。
(三浦)定款に「万難を排して金儲けに邁進する」と書いてある企業はない(笑)。なんらかのかたちで社会に貢献する、となっている。
岩井 シニカルに見ればそれは方便なんでしょうけど、同時に方便だけじゃないと思いますね。
(三浦)方便じゃないと思います。労働者も法人の面をもっていますから。家に帰れば夫であり、お父さんであり、会社の外には学生時代の友人もいる。敬意を払われたいという欲望はつねにあるわけだから、大義名分がなければやっていけない。
(p.297-298)


岩井 ただ、ぼくがいまやっている研究は、もう少しテクニカルな研究です。最近、経済学の影響で、人間と人間とのあいだの法的な関係も、すべて契約関係か疑似契約関係に還元しようという動きが、法学のなかでも強くなってきています。契約関係とは、基本的には、自己利益追求が基本原理です。自分の利益にならなければ、だれも契約を結ぶことを強制されません。契約自由の原則とも言われます。だが、じつは、そのような契約関係に還元することのできない人間関係がたくさんあるということを、ぼくは言おうとしているのです。
 最初の研究は、法人としての会社とその経営者との関係を分析することから出発したのですが、その後、財団法人とその理事との関係、国民と国家官僚との関係、患者と医者との関係、支配株主と少数株主との関係、子どもや認知症老人とその後見人との関係、皿には、未来世代と現在世代との関係、などなど、まさに一大領域を成していることに気がつくことになりました。これらの関係には、たとえば医者は患者の病状にかんしては、患者自身よりもよく知りうる立場にあるというふうに、絶対的な非対称性があります。そこで、この関係を契約関係として結ぼうとすると、いくらインフォームド・コンセントと言っても、医者の一方的な自己契約になってしまう可能性がつねにあります。自己契約は、契約にはなりえないというのが、法律上の大原則です。事実、最悪の場合は、契約の名のもとに、2004年の慈恵医大青戸病院事件のように、医者が患者を人体実験に使ってしまうこともありうるのです。そうすると、この患者と医者との関係を望ましいものに維持していくためには、自己利益追求を前提とする契約関係と異なり、医者の側に、患者のために治療すべしという倫理的な義務を一方的に課すことが必要になってくる。それが、信任関係といわれるもので、それにかんする法律を信任法といいます。このようにして、法の世界のなかにも、市民社会的な原理が絶対的に必要とされるという議論を展開しようとしています。(
pp.299-300)

(三浦)イスラム原理主義はアメリカのキリスト教原理主義の模倣だという説がありますね。
岩井 ええ。何度も同じことを繰り返しますが、国家も資本主義も、つねに危機を内にかかえています。法も、貨幣も、自己循環論法であるがゆえに、それ自身に自己崩壊のモードを内包している。それらは市民社会につながることでまがりなりにも維持されているのです。これまでは貨幣の側から倫理性の必要を示してきたわけですが、いまは法の側から倫理性の必要を示そうとしています。それが終わったら、今度は逆に、市民社会の側から考察をまとめてみたいと思っているわけです。(p.301)


岩井 まさにそうです。人間は根拠がないことを恐がります。自己循環論法から逃げ出そうとして、なんらかの実体をもとめてしまう。貨幣の背後に金をもとめ、労働をもとめ、極端な場合は糞尿愛をもとめる。あるいは、貨幣のような媒介を排除して、透明で直接的な人間関係なるものをもとめる社会主義や共同体主義になってしまい、まさに人間の自由をもっとも抑圧する体制を生み出してしまうわけです。国の場合であれば、宗教や民族性をもとめてしまうわけですね。(p.302)


岩井 カントの倫理論の中心には、いま三浦さんが述べられた「定言命題」があります。サンデルも解説していますが、カント以外の倫理論や正義論は、基本的には、最大多数の最大幸福のために何々をせよとか、共同体の善を促進するために何々をせよとかいった「仮言命題」として提示されています。
 だが、そのような倫理はあくまでも何らかの目的の手段でしかなく、その目的の設定には必然的に人間や社会に関する経験論的な判断を必要とします。これに対して、定言命題は法や倫理を幸福や善といった外的な目的から切り離す。そのひとつの定式は「あなたの行動の原理が同時にすべての人間にとっての普遍的な法として成立するように行動せよ」というものです。まさに経験的な世界から独立した、純粋に形式的な命令となっている。  (略)
 まさにいま、無縁性などよりもはるかに根源的な無根拠性の問題に直面している。それだからこそ、共同体的存在としての人間をとりまくさまざまな条件とは独立した、まさに純粋に形式性としての倫理の可能性について考える意味があると思います。そして、それは同時に、物理的な条件にも生物的な条件にも還元できない人間の本質とは何かを考えることでもあるわけですね。(pp.310-311)

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 引用は以上です。
 いかがでしたか。

 
 2006年の時点で既に、生物学者と議論して「遺伝子決定論」で確定だと言っているくだり、着眼の速さに脱帽です。また、引用部分にはなかったかもしれませんが、「承認が極端に欠乏すれば精神疾患になる」ということをあっさり言っています。これも不肖正田が『承認をめぐる病』という本に触れて言ったことと一緒ですね。
 「日本人はお金がそんなに好きじゃない」
 この言葉も至極あっさりと出てきます。某「学力本」のうさん臭さに気がついたわれわれは、耳を傾けたいですね。

 そして、「信任関係」のくだり。
 医者と患者との間には、情報の「絶対的な非対称性がある」、だからこそ「医者の側に、患者のために治療すべしという倫理的な義務を一方的に課すことが必要になってくる」。
 このところ「学者が目立ちたい一心で正しくないことを言ってしまう」という現象が引きも切らなかったわけですが、ここにも、本来は「信任関係」が存在すべきところなのではないでしょうか。「学者と一般人」の関係性のなかには「情報の絶対的な非対称性」があります。であれば、本来学者は間違ったことを言ってはならないのです、わたしの解釈によれば。自分の肩書を、間違ったことを言って本を売るための手段として使う学者が多すぎます。

 いみじくも、昨12月このブログで批判的にとりあげた 『ビジネススクールでは学べない世界最先端の経営学』(日経BP社)の著者、入山章栄氏は、「役に立つかどうかよりも、『おもしろいか、おもしろくないか』が僕の最大の価値基準ですね。」ということを述べていますが、
http://diamond.jp/articles/-/82877?page=2
これは考えてみると恐るべきことで、入山氏の著作で「ダイバーシティー経営」に関してわたしが引っかかった箇所、
「ほとんど男性でできている日本企業に女性を雇う必要はない」
この、当事者にとっては極めてセンシティブな内容の発言も、入山氏は「おもしろいから」もっというと「面白半分で」言っている可能性があるのですね。

 つまり、このへんの「ザコ学者」と「大学者」の言うことの価値には天と地ほどの開きがあり、われわれ一般人は、ごく少数の「大学者」の言うことには耳を傾ける必要があるが、大多数の「ザコ学者」―たとえ東大出でも、海外で博士号をとってきたのでも―は、「正しくない」あるいは「言葉の軽い」人であり、無視してよい、と理解してよいと思います。

 
 というふうにすぐ我田引水的に解釈を施してしまいますが、新年のお口直しに、大きな知性に触れるために、お勧めの1冊です。



正田佐与

シリーズ・『「学力」の経済学』批判

エビデンスに惑わされず、論理の飛躍をじっくり味わいたい、「ほめてはいけない」論―シリーズ『学力の経済学』批判

優れた先生方との交流の思い出と、正田流・教育現場いかにすれば良くなるのかの試論

中室牧子氏(教育経済学者)は、恐らくASDだと思うこれだけの理由。 シリーズ『学力の経済学』批判  

「少人数学級は学力を上げない」はウソ!―シリーズ『「学力」の経済学』批判

「学力を上げる」先生方はどこを見ているか―シリーズ『「学力」の経済学』批判

本当は恐ろしい、『「学力」の経済学』がもたらす未来(1)―”中室提言”をよく見ると―シリーズ『「学力」の経済学』批判

本当は恐ろしい、『「学力」の経済学』がもたらす未来(2)―正田回答編・先生方は「経済人」ではない!―シリーズ『「学力」の経済学』批判



 ろくたび『「学力」の経済学』(中室牧子、ディスカヴァー・トゥエンティワン)。

 お待たせしました、”中室提言”に対する「正田の回答編」です。

 1つ前の記事では、「中室本」の第4章・第5章を丁寧にみたうえで、”中室提言”のまとめとして、

1.少人数学級に「しない」。40人学級を維持(一部貧困地域では35人学級でもよい)
2.子供に未来のおカネの話をしておカネのご褒美を出すと学力が上がる。ほめない
3.質の高い先生とは学力を上げる先生である
4.先生の質を高めるには、「おカネ返して方式」の「負の成果主義」と「教員免許制度の撤廃」
 

と、いうことでした。

 これに対してわたくし正田の回答は、いくつかの項目がありますので、最初にまとめておきましょう。


【1】再掲・正田試論:
(1) 少人数学級―目的は、「普通の先生」でも「スーパー先生」に近いことができるようになること
(2) 承認+個人面談その他きめ細かい指導
(3) 先生方の経験交流

【補足】少人数学級の財源問題を考える

【2】最も経済効果が高いのはどんな教育か?
一人勝ちは経済効果が低い!
おカネで子供を釣る<精神的報酬を与える+人間関係を良くする+人格教育をする+自己効力感を与える
【補足】”中室提言”3.の質の高い先生とは本当に2.おカネで釣る、ほめないをやっている先生なのか?

【3】先生方は「経済人」ではない!
「おカネ返して」の成果主義で釣る<先生方に精神的報酬を与える

【4】アメリカ方式直輸入でダメになった日本企業の轍を踏んではならない
導入にはブリッジング試験が必要

【5】ランダム化試験そのものに潜む限界:本当に有効な手法はむしろ測れない
「つぎはぎ提言」は正しくない!多剤併用試験が必要



 それでははじめたいと思います―

【1】再掲・正田試論:
(1) 少人数学級―目的は、「普通の先生」でも「スーパー先生」に近いことができるようになること
(2) 承認+個人面談その他きめ細かい指導
(3) 先生方の経験交流

 詳細は、今月3日の記事(優れた先生方との交流の思い出と、正田流・教育現場いかにすれば良くなるのかの試論 )に書かせていただきました。
1つ前の記事を見て「じゃああんたは教育あるべき姿はどういうものだというんだ?」というリアクションをされる方もいらっしゃいましたが、ここの記事で言いつくされています。

 個々に向き合うきめの細かい指導とセットにした「少人数学級」は、大きな効果を上げます。企業では、「承認+個人面談」は、学齢期の子供たちと共通の問題をもち指導しにくい今の若い人たちにも非常に有効だということがわかっています。もちろん極端に人数の大きな部署というのはその場合あり得ません。
 そして、今も10人に1人ぐらいはいる「スーパー先生」から他の先生が学べるよう、経験交流の時間を頻繁にとります。ここでも「承認」をベースにした対話が大きな効果を上げます。マネジメント層の方々は、ぜひそこで経験交流のためのファシリテーターの役割を果たしてください。
 「少人数学級」以外のことは、大きな予算措置を必要としません。

【補足】少人数学級の財源問題を考える
 でも「少人数学級」財源をどうするかって?
 35人学級を40人学級にすると86億円が浮くとのことでしたが、これは単純に、学級定員を5人減らすごとに86億円支出が増えるということだと思っていいんでしょうか。2015年度文教及び科学振興費全体は5兆3,600億円余で全体の5.6%でした(医療福祉費は31兆円)。もし30人学級にしたら86億円、25人学級にしたら172億円増えるんですね。それぐらい何とかなりませんか。国民1人当たり172円の増ですよね。

 わたしが思うのは、産業界によびかけて、法人税に上乗せした目的税にできないのか、ということです。未来の産業人を作るための重要な投資です、15年後には確実にリターンがあります、と言って。逆に今これをしなければひょろひょろのもやしっこしか入ってきませんよ、求人難倒産かメンタルヘルス倒産になりますよと言って。先生方は夜中までプリントつけして家庭生活も削ってるんです、普通の生活ができるように、企業で分担し合って先生を余分に雇うつもりになりませんか、と言って。公的教育が充実すれば、社員さんがたも子弟を私学まで行かさなくても地域の公立学校でいい教育を受けさせられますよ、と言って。だめでしょうか。 

 そういう、「今40人だから5人減らして35人にしてよ」「それには予算が―」みたいな、ちまちました議論ではなくて、「まずあるべき姿から」の議論をしてもいいと思うんです。企業の側は、むしろエビデンスなどなくても、部署編成をフラット化の30人40人ではまずいと思ったらすぐ昔同様の10人7人の規模に戻しているわけです。そういう判断が学校には随時出来なくて、身動きとれないというところが気の毒なんです。

 そのためにやっぱりエビデンスが全然無いのもまずいので、どこかモデル校で始めてほしいなあ、とせつに思います。「少人数学級が単独でどうか」ではなくて、「少人数学級+承認、きめ細かい指導」のセットで、2剤併用の形で。

 ただし、「ランダム化比較試験」にこだわる必要もないのではないか、とも思います。そのことは【5】で。



【2】最も経済効果が高いのはどんな教育か?
一人勝ちは経済効果が低い!
おカネで子供を釣る<精神的報酬を与える+人間関係を良くする+人格教育をする+自己効力感を与える
【補足】”中室提言”3.の学力を上げる質の高い先生とは本当に2.お金で釣ってほめないをやっている先生なのか?

 「おカネで釣る」。「中室本」には、ことのほか頻繁に出てきます。第2章で「お金でご褒美を上げても『よい』」。第4章で「将来のお金の話をすると、学力が上がる」。

 このくだりをみて、ひょっとしたらこのブログ読者の方は、いや〜な気持ちになった方もいらしたのではないでしょうか。わたしなどは、3人の子供をお金で釣ったことはほぼゼロ回に近いです。それでも子供たちは自分のお弁当をつくり、おせち料理をつくり、その年頃の子の中ではダントツで家事をする子たちでした。「子どもをお金で釣ることは、よくわからないけれどしてはいけないことだ」というタブー意識がわたしの中にはありました。読者の中にもそういう方はいらっしゃいますでしょうか。それは意味のないむだなタブー意識で、打破したほうがいいものなのでしょうか。
 いや、その勘は正しいと思います。

 『経済は競争では繁栄しない―信頼ホルモン「オキシトシン」が解き明かす愛と信頼の神経経済学』(ポール・ザック、ダイヤモンド社、2013年8月)では、「お金の話をすると人は道徳性が低下する」という話が出てきます。
(詳しい読書日記はこちら わが国ではハグはちょっと―じゃあ、どうする?神経化学物質オキシトシンの知見『経済は「競争」では繁栄しない』
「プライミング」(暗示)の実験で、お金を一瞬見せられお金について考えるよう仕向けられたグループは、他人を助けたり、他人に助けを求めたりする度合いが低く、一人で物事をこなす可能性が高まった。また、面接のために椅子を並べるように頼まれたとき、お金について考えるようにプライミングされたグループは、他人とのあいだに物理的に大きな距離を置いた。


 つまり、子供たちをお金のために頑張るよう仕向けると、人と助け合うより自分一人が勝って儲かればよいという「1人勝ち大好き」の人になってしまう可能性があるのです。このやり方で学力が上がったしても、そこで作った「学力」は、「人を蹴落とせ」という競争心を土台とした学力である可能性があるのです。
 人の個体差について考えるのがすきなわたしが考えるに、子供たちの中には、確かに生得的に「お金」がすきな子がいます。お金の価値観をもっている、という子。そういう子には、確かに「お金」をイメージさせて訴えるのが、勉強させるにも有効かもしれません。
 しかし、それはその子たちの個別指導で使えばよろしい。お金がとくに好きではない子まで、お金をインセンティブに使う必要はありません。従来通り、学ぶことそのものの楽しさを先生の言葉で伝えていただければいいと思います。
 「中室本」では、「学力を上げる先生が質の高い先生だ」と言います。子供たちの学力を上げた先生が、20年後も子供たちの収入を高めていたと。
 しかし、個人として「収入の高い」人を作ることが経済効果と言えるかどうか。
 わたしたちは、早期教育が作ったのか何が作ったのか、個人として優秀だがきわめて競争心の高い人物をビジネスの中でみることがあります。自分の周りのちょっと優秀な人を目障りだからと平気で潰してしまい、その人の半径10mぐらいにはペンペン草も生えない。そういう人は、自分自身は稼いでいても、周囲の人の年収を下げているはずです。したがってその人を育てたことの経済効果は、その人が潰した周囲の人まで込みでみた場合、非常に低くなるはずです。
 そうした「長期毒性」は、「中室本」の「お金で釣って勉強させる」方式について、まだ全然明らかになっていません。
 
 一方で、「正田試論」の記事の中に出て来た「スーパー先生」は、そのような優秀だが競争心が極端に高い人物を作っていたのではありませんでした。人格教育をし、1人ひとりの良いところを見出させ、優秀な子にはその優秀さをいかんなく発揮させながら、同時に周囲の子に思いやりを持つように仕向けていました。
 こういう子は、将来収入の高い人になった場合でも周囲の人の収入をも高めることができるのです。そういう人を作ってこその経済効果ではないでしょうか。
 競争ということも生まれつきの価値観で好き嫌いがあり、わが国では競争があまり好きではない人が多いようです。それに比べアメリカ人は比較的競争を好むところがあります。
 わが国で従来、優秀な人を作ってきたやり方をだいじにした方がよいのではないでしょうか。


【補足】”中室提言”3.の学力を上げる質の高い先生とは本当に2.お金で釣ってほめないをやっている先生なのか?

 「中室本」では、「学力を上げる先生が質の高い先生」という知見と、「学力を上げるためにはお金の話をしたほうがよい」という知見が無造作に並べられているので、じゃあ学力を上げ、20年後まで本人の収入を高めていた先生がやっていたことはそれだったのか、と錯覚してしまいそうです。しかし、この両者がつながっている保障はありません。
 「学力を上げる先生が質の高い先生」という知見を導き出した「チェティ研究」は、(1)1人の子供の学力の向上(2)その子の20年後の収入を追跡調査したもので、学力を上げた先生が具体的にどんなやり方で学力を上げていたかまではみていません。"中室提言”2.と3.は、まったく別々に出て来た知見です。むしろ、「チェティ研究」に出て来た優秀な先生は、わが国の「スーパー先生」と同様に、良い人間関係、高い道徳性に立脚した学力向上をやっていた可能性が大だと思います。
 「スーパー先生」たちが何をやっていたか。「結果変数」ではなくほとんどの瞬間、「媒介変数」のところを見て、つまり数字で測れない定性的な子供たちの様子を見、またそれらを「小目標」」として念頭に置いて仕事をしていた可能性があります。というお話を、こちら(「学力を上げる先生」はどこを見ていたか)に書かせていただきました。
 わが国でもし「チェティ研究」的なものをやるのであれば、今国内で高い学力向上をもたらしている「スーパー先生」方の生徒さんたちの「その後の収入」プラス「対人的行動様式」を追うといいかもしれませんね。そのうえで、先生方のやっていることを「解剖」するなら、それは意味のある研究になるだろうと思います。


【3】先生方は「経済人」ではない!
「おカネ返して」の成果主義で釣る<先生方に精神的報酬を与える

 1つ前の記事では、先生方の質を向上させるために、成果主義が試みられたがあまり成功しなかった。ところが、成果主義でも「減点法の成果主義」は効果があるという研究がある。というお話でした。
 「ふつうの成果主義」がなぜ上手くいかないか、その理由は経済学者の間でわかっていない、ということでした。
 えーっ、なんでわからないの!?とわたしなどは思います。読者の皆様、そう思いませんか?
 先生になる人というのは、基本的に「人がすき」なんです。そうでない人は、もともとあまり適性がなかった人だと思います。そして「人がすき」な人というのは、お金がすきという価値観をあまり持っていないことが多いです。絶対に両立しないとは言いません。でも多くは、「仕事はお金のためにやっているのではない。生徒やお客様に喜んでもらえるためにやっているのだ」と思っています。そういう人が多く分布している業界だと思ってください。
 経済学者にとっては「想定外」かもしれませんが、「経済人(ホモ・エコノミクス)」ではない人びとがいるのです。お金で釣られても心が動かない人びとがいるのです。
 それなのに「動け!」とばかり、「減点法の成果主義」まで実験してしまうというのは、知らないからとはいえなんと残酷なことでしょうね。「経済学者=バカ」という式がわたしの頭で渦巻きます。
「40人学級を維持した上で、先生方には残酷な負の成果主義を」
"中室提言"が言っているのは、とどのつまり、そういうことなのです。それで学力向上したからといって全然威張れません。わたしには、神をも懼れぬ行為をしているとしか思えません。そのやり方で単年度ぐらい学力向上の効果が上がったとしても、遅かれ早かれ先生の鬱休職や離職が続出するであろうことは火をみるより明らかです。中室先生ちゃんと責任を取っていただけますか。それを決定した役人も責任取れますか。

 逆に、学校の先生のような感情労働の人たちは「承認人」という概念が当てはまります。経営学で「承認論」を提起した太田肇氏の造語ですね。
 先生方に奮起してもらいたかったら、「承認」してあげればよいのです。多くは、「教室の王様」で、逆にだれも自分の仕事を監督してもらえない立場で実は「承認」に飢えています。マネジメントの人たちが細かく授業をみて、先生のちょっとした教材づくり、ちょっとした子供たちとの関わり、ちょっとした判断、を賞賛してあげたらどうでしょう。あるいはその自治体の首長や地元出身の有名人が―たとえばうちの神戸市だったら藤原紀香とか―が、しょっちゅう学校を視察して先生方にねぎらいの言葉をかけたらどうでしょう。
 そういうことをまだランダム化比較試験でやってみたことがないんですよね?たぶん、経済学者さんが興味を持たなそうなところですよね。
 でも経済学者さんが考えるほど、多くの人は「経済人」じゃないんですよ。そろそろ、そういうことを受け入れなくちゃ。

 
【4】アメリカ方式直輸入でダメになった日本企業の轍を踏んではならない
導入にはブリッジング試験が必要

 上記の「成果主義導入」と関連しましたが、実はひところ「アメリカ式」を繰り返し輸入して、どんどんダメになった分野があります。経営学です。
 『企業の錯誤・教育の迷走 人材育成の「失われた10年」』(青島矢一編、東信堂、2008年)という本では、バブル崩壊後に自信を失い、アメリカのビジネススクールで生まれた手法をどんどん輸入した日本企業の迷走ぶりを描いています。
(詳しい読書日記はこちら何を失ったのか、何を回復しなければならないのか―『企業の錯誤・教育の迷走』

 ここでは、「成果主義導入」で日本企業の営業組織・研究組織がそれぞれどうなったか、が出てきます。
 
 
営業職では・・・、
 転勤時の得意先の引き継ぎをしなくなった。引き継いでも、特に親しい顧客には「後任に引き継ぎ後半年たったら自社製品の購入をやめてください」と依頼する。
 随行営業をしなくなった。
 若手営業員の定着が悪化した。それまで離職率が低かったA社でも、2002年に入社した営業部員の3分の1が2005年までに辞めた。
 ・・・と、競争の「負の側面」が大きく出てしまいました。

 研究開発職では…
 創造性のある研究員を業績給でつくることはできなかった。創造性のある研究員が求めているのは金銭的報酬ではなく、インフォーマルなフィードバック。(もろに「承認」ですね)しかし業績給導入の結果、インフォーマルなフィードバックは減少した。
 組織としての創造性を発揮するには、部門間協力が必要だが、業績給で評価基準が明文化されると、協力にかかわる関係構築の作業が捨象されてしまい、部門間協力がわるくなる。(⇒実はこれも「承認」の応用で解消することがわかっている)



 さあ、では学校の先生の世界に「(減点法の)成果主義」を導入したら何が起こるでしょう?
 生徒の成績の改ざんなどは容易に起こりそうですね。また、ノウハウを教えない、承認しあわない、協力し合わない。

 もともと日本人はアメリカ人に比べて不安感が高く、競争心の低い人が多いので、わが国で成果主義を入れたら負の影響がもろに出やすいのです。喜んで競争して頑張る人などほんの少数、大半は他人の足を引っ張るという後ろ向きの頑張り方をします。

 さて、医薬品の世界には「ブリッジング(橋渡し)試験」というものがあります。
 アメリカで一通り開発して臨床試験までクリアした医薬品も、日本人では体質の違いで効果が弱かったり、副作用が強く出たりする可能性があります。日本人での安全を確認するため、数年にわたってもう一度日本で臨床試験をします。

 経営学の分野でも教育学の分野でも、「ブリッジング」は必要です。体質が違うものを試しもせずに入れるべきではありません。ただでさえ日本人とアメリカ人は、「不安遺伝子」の出現率において両極端。その他いくつかの「性格」に相関することが分かっている代表的な遺伝子型の分布もほぼ正反対、それぐらい、民族の「気質」が根本的に違うのです。
 いくらハーバードでいい結果が出たという知見でも、わが国で即政策として取り入れるようなことはないように願います。



【5】ランダム化試験そのものに潜む限界:本当に有効な手法はむしろ測れない
「つぎはぎ提言」は正しくない!多剤併用試験が必要


 ランダム化比較試験にこだわると、現実問題として、4つ前の記事(「少人数学級で学力は上がらない」はウソ!」にみた赤林研究のように、倫理的問題を避けるあまりきちんとした差が得られない結果に終わるという問題がついて回ります。

 医療でも臨床試験で治療群と対照群に分けるときにかならず倫理的問題が多少はあるわけですが、こと子供の教育は、対象が子供さんなので、自己決定に基づき参加する臨床試験より倫理的問題がより大きくなります。

 すると、全然思い切ったことがやれない。結果的に、現場が考える、実際に成功体験もあるような、本当に効果的な手法というのは、ランダム化比較試験では検証できないことになります。これはもう自己撞着のようなものです。

 だから、現場の感覚からいうと「なんで、そこ!?」というような、どうでもいいような仮説ばかり立てて実験してるじゃないですか。


 なので、いくら米教育省が「エビデンスはランダム化比較試験のことを言う」と明言したからと言っても、米国は米国、追随しないでいいと思います。たぶん多くの先進諸国で20人学級を導入したとき、いちいちランダム化比較試験で決めてはいないだろうと思います。「現場感覚」で決めたと思います。



 そして「つぎはぎ提言」の問題―、
 例えば、
(1)上記の「3.質の高い先生は学力を上げる先生」という知見と「2.学力を上げるためにはお金で釣る、ほめない」という知見をくっつけて提言するのは正しいか?
(2)また「3.質の高い先生は学力を上げる先生」という知見と「4.先生の質を高めるためには減点法の成果主義と教員免許制撤廃」をくっつけて提言するのは正しいか?
 (1)に関しては、チェティ研究に登場する質の高い先生たちが、現場でどんなことをやっていたかをみないといけません。2.お金で釣る、ほめない ではなかった可能性が大です。
 「お金で釣る」でみることができた学力向上はあくまで1学年の短期的な結果です。そのために何年にもわたって努力できるかどうか、は未知数です。一般には、お金によるモチベーション向上効果は短時間しか持続しません。
 また(2)提言3.と提言4.をくっつけることは正しいか?
 それはチェティ研究に出て来た質の高い先生が、「減点法の成果主義」でつくられたわけではない、ということです。「減点法の成果主義」というのは先にも述べたように、ものすごく非人道的な方法なのですが、それをやって先生方が1−2年は頑張れたとしても、数年内に息切れして鬱になっていくかもしれません。だれが責任をとるんですか。学級定員にもからむ問題ですが、先生方が鬱で休職する、離職するという問題も「コスト」としてきちっと扱わないといけません。現実にあることなのですから。

 こういう、現実にはつながっていない「つぎはぎ提言」、入山章栄氏の「複数次元のダイバーシティーを同時に導入しよう」という提言もそうなのですが、それが正しいかどうかは、その「つぎはぎ提言」を「多剤併用試験」として、新たに検証する必要があります。上手くいかない可能性が大ではないかと思います。

「質の高い先生」+「お金で釣る」でしたら、そのやり方で20年後まで収入が高かったか、また周囲の人間を潰すような行為をして複数人の総和でみると低収入になっていないか、そこまでみないといけません。
 わたしなどは、「お金で釣る」方式で育った子供さんが、将来犯罪者になる確率は普通より高いのではないか?ということを、本気で心配するほうです。

 そんなリスクのある教育を、実験できますか?

 経済学者という人種は、教育や実験の倫理的側面にあまり興味をもたないようです。わたしは多分それで、この本を読んだときイヤーな気分になりましたし第4章第5章を読んでも内容がなかなか頭に入らなかったのです。

 そんな極端なことをしなくても、今現場の先生方がおやりになっている優れた実践を「症例報告」として、エビデンスとして扱ったらいかがでしょうか。ランダム化比較試験は必ずしも必要ありません。



 以上がわたしからの「回答」です。

 この記事へのご意見、ご感想を歓迎いたします。是非、FBコメント、メッセージ、ブログコメントなどの形でお寄せください。

 
 きのう、美容院に行ってカットしてもらった25歳の美容師見習いさんは、入店5年目でした。シャンプーと掃除担当からいよいよお客さんのカットをできるように、今テスト準備を頑張っています。

「やめたいと思ったことはないですか?」
「ありますよー。シャンプーで肘の上までかぶれちゃったんです。こんな手でお客さんに触って申し訳ない…と落ち込んでいたら、お客さんが優しくて。
『頑張ってるね』
『手大丈夫?良くなった?』
『気にしないでいいのよ』
そんなふうに言ってもらうと、手治っちゃったんですよ」
「え、そういうので治っちゃうんですか」
「はい。あたしアホなんで、お客さんにほめてもらうと嬉しいんです」

ほめてもらえればうれしい、辞めないでいられる、皮膚も治っちゃう。なんと、いいご性格ですね。
そういうのが「頑張れる人」なんです。また、「周囲の人もハッピーにできる人」なんです。




正田佐与

シリーズ・『「学力」の経済学』批判

エビデンスに惑わされず、論理の飛躍をじっくり味わいたい、「ほめてはいけない」論―シリーズ『学力の経済学』批判

優れた先生方との交流の思い出と、正田流・教育現場いかにすれば良くなるのかの試論

中室牧子氏(教育経済学者)は、恐らくASDだと思うこれだけの理由。 シリーズ『学力の経済学』批判  

「少人数学級は学力を上げない」はウソ!―シリーズ『「学力」の経済学』批判

「学力を上げる」先生方はどこを見ているか―シリーズ『「学力」の経済学』批判

本当は恐ろしい、『「学力」の経済学』がもたらす未来(1)―”中室提言”をよく見ると―シリーズ『「学力」の経済学』批判

本当は恐ろしい、『「学力」の経済学』がもたらす未来(2)―正田回答編・先生方は「経済人」ではない!―シリーズ『「学力」の経済学』批判

 2016年1月14日現在、Googleで「学力の経済学 批判」で検索すると、本記事がトップページの上から2番目に出るようになっています。有難いことです。

※2017年1月5日追記:本日現在、「批判」をつけずに「学力の経済学」でGoogle検索しても、本記事がトップページに出てくるようになりました!全国の自治体や教委のドメインから多数のアクセスをいただいております。有難うございます!

 一昨年のベストセラー『「学力」の経済学』に疑問をもたれた良心的な読者の方々へ。当ブログでは、企業人向けの女性研修講師53歳が、子ども3人を公立学校で育て、、主宰するイベント「よのなかカフェ」で学級崩壊ほか教育問題をテーマに討論し、現役の優れた先生方にインタビューした経験を基に、『「学力」の経済学』のはらむ諸問題を真摯に考察しています。もしもあなたの心の琴線に触れるところがありましたら幸いです。


シリーズ・『「学力」の経済学』批判

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「少人数学級は学力を上げない」はウソ!―シリーズ『「学力」の経済学』批判

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本当は恐ろしい、『「学力」の経済学』がもたらす未来(1)―”中室提言”をよく見ると―シリーズ『「学力」の経済学』批判

本当は恐ろしい、『「学力」の経済学』がもたらす未来(2)―正田回答編・先生方は「経済人」ではない!―シリーズ『「学力」の経済学』批判



 ごたび『「学力」の経済学』(中室牧子、ディスカヴァー・トゥエンティワン)。

「またあ?」とこのブログを愛してくださる、心ある読者の皆様の呆れ顔がみえるようですー
 
 ほんとうは、わたしももっと楽しい美しいことを読んだり語ったりしたい。 
 でも目の前に「悲劇」が口を開けて待っているとわかる時には、やはり自分の出来ることでベストを尽くしたいのです。
 その「わかる」のも、ほかでもないわたしのポジションだからわかるのかもしれない。


 今日のお話は、『「学力」の経済学』(以下、「中室本」と略)という本が後半部分で述べているわが国の教育政策への提言、これがどれほど恐ろしいものか、というお話をしたいと思います。

 2-3日前までのわたしと同様、この本を感覚的に「不愉快だ」と感じ、それゆえに「黙殺してよい」「まさかこんなことが実現するわけがない」と思っていた、良心的なわたしの友人の皆様。ぜひ、この恐ろしさを共有してください。そしてまた、これは論理的によく見ると破綻している、しかし役人が騙されていそうだ、ということも。
 
 大まかに言うとそこには、「教師も子供もカネで釣れ」という”思想”が流れています。しかしそれを実現した場合、どんなことが起きるのか?だれが責任をとるのか?

(2017年2月13日追記:
"カネで釣る"は何故ダメなのか?実はお金の存在を意識しただけで、人は利己的になり助け合わない、孤立主義的になるという知見があります。
こちらの記事の後半で詳しくご紹介しています

●『信頼はなぜ裏切られるのか』をよむ◆次爾カネのせいでウソをつく、ネットのせいでウソをつく、信頼を損なう4つの仕草
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51952837.html

「第4章 ”少人数学級”には効果があるのか?―科学的根拠(エビデンス)なき日本の教育政策」「第5章 ”いい先生”とはどんな先生なのか?―日本の教育に欠けている教員の「質」という概念」での本書のロジックをまた、丁寧に追ってみたいと思います。


(なおお急ぎの方は、手っとり早く本記事への「回答編」を読みたい、と思われるかもしれません。
「回答編」はこちらです
本当は恐ろしい、『「学力」の経済学』のもたらす未来(2)―正田回答編・先生方は「経済人」ではない!  )



 「少人数学級は費用対効果が低い」と「中室本」は言います。学級規模を35人から40人にすると削減できる費用は86億円なのだそうです。
 ここで紹介する知見は3つ、

1.米国の「スタープロジェクト」
−少人数学級(1学級当たり13-17人)と通常学級(同22-25人)を比較したところ、少人数学級の子供のほうが学力が高く、とりわけ学齢の低い子供、マイノリティである黒人、貧困家庭の子供に対する効果が高かった
2.ヘックマン教授らの少人数学級と子供の生涯収入の推計(結果は負の相関、学級定員を5人減らすと55〜77万円の減収)、
3.慶応大の赤林教授らの横浜市データを使った推計(学力の変化ほとんどなし)

 上記のうち、3.に関しては、学力変化がなかったのは自然実験であるため、(1)教材や教え方の工夫がなく(2)むしろ学力変化が生じないよう配慮した可能性がある(3)学力低下につながるような要因が作用し、少人数学級のメリットを相殺した可能性がある―でありデータとして依拠するに値しないことを、3つ前の記事「少人数学級は学力を上げない」はウソ!―シリーズ『「学力」の経済学』批判 」で述べさせていただきました。実は1.と2.にも似たような問題があるのではないだろうか?とわたしは思っています。

 「中室本」では、しかし、「少人数学級は学力を上昇させる因果効果はあるものの、他の政策と比較すると費用対効果は低い政策であることもまた明らかになっている」と言います。

 そして、より費用対効果(「コスパ」ですね)の高いやり方として、「教育の収益率」に関する情報を子供たちに知らせることを挙げています。つまり、「学歴が高いほうが年収が高い(=教育を受けることの経済的な価値)」ということを教えてあげると、他の「ロールモデルを見せる」などの介入よりも学力向上効果が高かった、というものです。要は、「教育を受けたほうが『儲かる』よ」と子供たちに教えてあげることです。
―さあ「カネで釣る」が出てきました―

 このあと「学力テストには学校教育の効果を測る意味はない」「都道府県別の結果も公立だけなのでバイアスが入っている。私学に多く通う東京都・神奈川県の場合残った公立校の成績をみると低く出る」などの議論は正論として、

 「少人数学級は貧困世帯の子供には効果が特に大きかったことが明らかになっています。」として、「少人数学級を全国の公立小学校の1年生「全員」を対象にするのでなく、就学援助を受けている子供が多い学校のみで導入すれば、大きな効果がみられたかもしれません」と”提言”します。

 次に、「いい先生」とはどんな先生なのか。教員の質を計測する方法として、「担当した子供の成績の変化」をみるという方法があり、この学力の変化を「付加価値」というそうです。

 ここで出てくるのがハーバード大学のチェティ教授らの研究。「全米の大都市圏の学校に通う100万人もの小・中学生のデータと納税者記録の過去20年分のデータを用いて、付加価値が教員の質の因果効果をとらえるのに、極めてバイアスの少ない方法であることを明らかにしました」。さらに、質の高い教員は、10代で望まない妊娠をする確率を下げ、大学進学率を高め、将来の収入も高めているということです。

 では、教員の質をどうやって高めるか。

 「成果主義」はどうか。あまり効果があがらなかったようです。「成果主義が教員の質の改善につながらない理由は、実のところよくわかっていません」と「中室本」はいいますが、ここは「つっこみどころ」が大いにありそうです。
 ところが、同じ成果主義でも「減点法の成果主義」は効果があるという研究が紹介されています。ボーナスを「失う」という設定。最初に一定のボーナスを受け取るが、学年末に目標の付加価値を達成できなかった場合はそのボーナスを返還する。このグループは成績が上がったそうです。人間がいったん得たものを失うのは嫌だと思う気持ちを逆に利用して、教員の質を高めることに成功したと「中室本」では賞賛します。ハーバード大学のフライヤー教授の研究。

 読者の皆様、どう思われますか?「ええい、ボーナスを出すと言っても働かないのか!じゃあボーナスを取り上げてやる!」と、いかにも機械論が行くところまで行ったような、サディスティックな実験。
 先に「つっこみどころ」と言いましたが、そもそもこういう実験をする人は、学校の先生がなぜボーナスを約束してもパフォーマンスが上がらないのか、その理由を特定できていないのです。だからこんな、まさしく「人体実験」のようなことができる。
 いくら財政負担が少ないやり方だからといって、こんなやり方をされたのでは教師はひとたまりもないでしょう。すいません、このくだりを入力しながらわたし自身はちょっと涙が出てきています。

 たぶん、中室牧子氏の中にはこういう実験をみても「残酷だ。かわいそうだ」などという感情は動かないのです。なぜならこの人は元々経済畑の人で、「経済人」というモデルに慣れてしまっているので、そのモデルが正しいと証明するためにはどんな手段をとることもいとわないからです。
 
 このあと、「教員研修は教員の質に影響しなかった」という研究を紹介。(しかし、どういう内容の研修をどういうデザインでやったか、は言及なし。統計学者らが実験デザインにこだわるのと同様に、研修もデザインがダメであればどんないい内容でもダメ、という場合があるのですが)

 そして「中室本」が教員の質を高めるために「決定打」のように太字で推すのが、
 教員になるための参入障壁をなるべく低くする、つまり教員免許制度をなくしてしまう
 というやり方です。
 経済学者の間では教員免許の有無による教員の質の差はかなり小さいというのがコンセンサスなのだそうです。
 ―なぜここで「経済学者の間では」が出てくるんでしょうね…教育学者は出てこないんでしょうね…既得権益者だからでしょうかね…

 まとめると、「中室本」の「政策提言」とは、

1.少人数学級に「しない」
2.子供に未来のおカネの話をすると学力が上がる
3.質の高い先生とは学力を上げる先生である
4.先生の質を高めるには、「負の成果主義」と「教員免許制度の撤廃」
 

 どうでしょう。
 対子供部分はこれに、第2章で出て来た「ほめ育てはしてはいけない」「お金のご褒美はあげてよい」も組み合わせると、
「子どもはおカネで釣って勉強させる。ほめるなどの精神的報酬は与えなくてよい」
という結論にもなります。また、
「クラスの人間関係を良くするなどの取組は学力向上に寄与しないので、しなくてもよい。おカネおカネで走らせればいい」
という結論にもなりそうです。

 はい、これらの提言や結論が「OK」だと思う方。



 わたしの予想では、このブログを続けて読んでくださっている方々は、こんなのはそもそも頭から信じないでしょうし、「まさか、こんなことを真に受ける人がいるわけないでしょ」と思われると思います。
 ところが、どうもそうではないのです。
 わたしたちが自然と共有している「常識」を全然共有しないまま、この本を読み、そして「数字で証明済みなことだけがやるに値することだ」と信じてしまう層の人がいるのです。主にアカデミズム、そして役人の中に。

(大きな声では言えませんが、かれらの中にASDはすごい高率で分布しています。基本的に対人不安が高くて、現場に足を運んで人と話すなんてしたくない、そこに「数字だけで判断すればいいですよ」という「中室本」の”主張”は、すごく魅力的です)

 そしてたちの悪いことに、「中室本」は「老婆」「お母さん/母親」などの言葉で、実体験を貶めてしまいます。また「米国の教育省は、落ちこぼれ防止法の中で、エビデンスとはランダム化比較試験に基づくものであると明言しています。」なんてことを太字で書き、「エピソードのシリーズ(医療で言う症例報告)」にも全然価値がないように言ってしまいます。
 
 そのルールは米国だけにしておいてください。どうせ教育省に同窓生でも送り込んだんでしょう、と思います。



 さて、「数字を持ってる女」中室牧子女史の言う通りの未来が出現してしまうのでしょうか。子供たちを精神的報酬を与えないままおカネで釣り、40人学級を変えないまま先生方を「カネ返して方式」のムチでしばき「学力がすべて」と学校をギスギスした空気にする。

 読者の皆様、それをお望みになりますか?

 「そんなの、イヤだ」と思われるなら、この”主張”にきちんと反論しなくちゃいけません。
 「数字に反論するなんてムリ」なんて思わないで。

 
 次回の記事は、「数字に弱い女」正田の「回答編」です。さあうまくいきますかどうか…。応援してくださいね!






シリーズ・『「学力」の経済学』批判

エビデンスに惑わされず、論理の飛躍をじっくり味わいたい、「ほめてはいけない」論―シリーズ『学力の経済学』批判

優れた先生方との交流の思い出と、正田流・教育現場いかにすれば良くなるのかの試論

中室牧子氏(教育経済学者)は、恐らくASDだと思うこれだけの理由。 シリーズ『学力の経済学』批判  

「少人数学級は学力を上げない」はウソ!―シリーズ『「学力」の経済学』批判

「学力を上げる」先生方はどこを見ているか―シリーズ『「学力」の経済学』批判

本当は恐ろしい、『「学力」の経済学』がもたらす未来(1)―”中室提言”をよく見ると―シリーズ『「学力」の経済学』批判

本当は恐ろしい、『「学力」の経済学』がもたらす未来(2)―正田回答編・先生方は「経済人」ではない!―シリーズ『「学力」の経済学』批判

お世話になっている皆様

 遅くなりましたが、あけましておめでとうございます。正田佐与です。
 暖かかった3が日、皆様はいかがお過ごしになりましたか。
 本年もどうぞよろしくお願いいたします。
 
※このメールは、正田が過去にお名刺を交換させていただいた方・イベントやセミナーにご来場いただいた方にお送りしています。ご不要の方は、メール末尾にありますURLより解除ください。
(解除方法が変わりました!詳細はメール末尾をご覧ください)


 本日の話題は:

■“百家争鳴時代”に正しくあるために―
 年頭のごあいさつをお送りします

■頭の体操(1)「少人数学級は学力が上がらない」は本当か?

■頭の体操(2)「ほめると子どもはダメになる」は本当か?

■頭の体操(3)「ダイバーシティー経営は儲からない」は本当か?

■障害のある人をどうマネジメントするか。「月刊人事マネジメント」連載記事を更新しました
 
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■“百家争鳴時代”に正しくあるために―
 年頭のごあいさつをお送りします

 今年も、わたくし正田は「承認研修」を通じて、企業・組織の皆様に精一杯お役立ちをさせていただきます。
 年頭の決意を述べたブログ記事をこちらに掲載しました:

◆厳しさの復権、異論叩き、最後のセーフティーネットー力の限りお伝えし続ける「承認2016」
 http://c-c-a.blog.jp/archives/51932641.html
 ここでは、
1.「承認研修」のもつもう1つの意義―「適切な厳しさ」の復権
2.高業績を生み続けるもう1つの要素―異論を叩き続ける正田の「先生仕事」
3.教員定数削減に関する思いと、「承認企業の職場が若者の最後のセーフティーネット」
というお話をしています。読者の皆様、もし、お時間とご興味があれば、ご覧ください。

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■頭の体操(1)「少人数学級は学力が上がらない」は本当か?

 昨年6月に出版され、教育界・経済界で大きな話題になった本があります。
『「学力」の経済学』(中室牧子、ディスカヴァー・トゥエンティワン)。
 この本は、「教育政策にエビデンスを反映させよう」という主張をし、これまでになかった、「数字で語る教育」という視点を提示して話題を集めました。現在Amazon「経済・経済事情」カテゴリで1位、人文・思想・教育学の「教育」と「一般」のカテゴリでもそれぞれ1位と、大変よく売れている本です。
 この中に「少人数学級では学力は上がらない」という“知見”があります。
 40人学級を20人学級にしても、学力の目だった向上はみられなかった、という研究に基づいています。これをもとに、この本の著者の中室牧子氏(慶応大学准教授。“美人研究者”です)は、
「少人数学級は財政的に大きな負担となる施策。学力向上効果がみられないのであれば、導入する必要はない」と“主張”します。
 これは、「今のスマホ、発達障害等でかつてなく指導しにくい子どもたちを指導しようと思えば、学級定員を減らしてもらうしかない」と考える、現場の多くの公立学校の先生方にとっては、“打撃”になるかもしれない知見です。
 現場の感覚的には、「20人ぐらいの少人数学級にすれば今よりはるかに子供たち一人一人をきちっとみられ、生活指導も学力のサポートもしやすいだろう」というのが“自然”なところです。
 産業界の経営者、管理者の方が多い、このメルマガの読者の皆様は、どう思われますか?

 1分だけ考えていただいたうえで、わたくし正田からの“たねあかし”をご覧いただきたいと思います。
◆「少人数学級は学力を上げない」はウソ!―シリーズ『「学力」の経済学』はこんなにトンデモ
 http://c-c-a.blog.jp/archives/51932847.html

 このほか、『「学力」の経済学』という本は、アメリカのコロンビア大学で博士号をとったという著者の本である割には、非常に雑な、間違った記述が満載です。明らかにまったく現場を知らない、がゆえに間違っている著者によるこの本が「政策提言」をするなどはおこがましい、とすらわたくしは思います。
 是非、読者の皆様もご一緒に考えてみてください。
 わたしたちの大切な子供たちや孫たち、どんな教育を受けるのが望ましいのでしょうか。また、未来の御社の大切な戦力となる子供たちは。

『「学力」の経済学』はこんなにトンデモ のシリーズ記事はこちらです
◆エビデンスに惑わされず、論理の飛躍をじっくり味わいたい、「ほめてはいけない」論―シリーズ『学力の経済学』はこんなにトンデモ
 http://c-c-a.blog.jp/archives/51932574.html
◆中室牧子氏(教育経済学者)は、恐らくASDだと思うこれだけの理由。
 http://c-c-a.blog.jp/archives/51932830.html

◆「少人数学級は学力を上げない」はウソ!―シリーズ『「学力」の経済学』はこんなにトンデモ
 http://c-c-a.blog.jp/archives/51932847.html
◆「学力を上げる」先生方はどこを見ているか―シリーズ『「学力」の経済学』はこんなにトンデモ
 http://c-c-a.blog.jp/archives/51932903.html
 なお、わたくし正田の考える、公立学校教育のあるべき姿はこちらです:

◆優れた先生方との交流の思い出と、正田流・教育現場いかにすれば良くなるのかの試論
 http://c-c-a.blog.jp/archives/51932764.html 
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■頭の体操(2)「ほめると子どもはダメになる」は本当か?

 もう1冊、昨年暮れに「ほめてはいけない」という論旨の本が出版されました。
『ほめると子どもはダメになる』(榎本博明、新潮新書)。
 手ごろな本なので、もう、お手にとられた読者の方もいらっしゃるでしょうか。

 これについてわたくし正田はハンドルネーム「ヒトリシズカ」名で早速Amazonレビューを投稿しました。このレビューは1月8日現在、15人中13人の方に「参考になった」と支持され、この本のレビュー欄のトップに載せていただいています。

****
「印税稼ぎの本」by ヒトリシズカ
 「大学教授を辞めた著者は印税稼ぎの本を書く」というセオリーは本当のようだ。2015年、著者10冊目の著書。やはり論理の粗さ雑さは否めない。

著者のロジックをよくよくみると、某教育評論家の著書からの影響なのだろうが、「ほめる教育」と「叱らない教育」を混同していることに気づく。

また、著者が今の若者の問題として挙げる「傷つきやすい、頑張れない、意志が弱い」これらは本当に「ほめる教育」の産物なのだろうか?最近の若者の世界を激変させたものとしては他にも「スマホ」そして「発達障害の急増」がある。本書にはそれらについての考察がまったくないが、「傷つきやすい、頑張れない、意志が弱い」いずれもスマホによる人間関係の濃密さや不安定さ、実体験の不足と大いに関連づけられる。また学習能力がなく同じ失敗を繰り返すなどは、発達障害であるADHDの傾向を想像させる(ADHDを含めた発達障害は急増しており、著者が名城大学を2011年に退職した後の最近の各種調査によれば、子供世代の1割弱を占めるとみられている)

こうした、今の若者を見るための不可欠の視点を欠いたまま問題と「ほめる教育」を結びつける本書の議論は極めて短絡的である。

厳しさの復権というところには賛同するが、それを成り立たせるための信頼関係の醸成には何を行うべきか?「悲しげな目」というのはいささか「古き良きニッポンの母」へのノスタルジーが強すぎるのではないだろうか?

著者は、子供さんたちが親御さんからほめ言葉すなわち肯定のメッセージを受け取れなくなるということがどれほど恐ろしいことか見えていない。その想像力不足や無責任さには暗澹とせざるを得ない。

 例えば今急増している家庭や施設での児童虐待問題をどう解決するか。親や養育者にスキルトレーニングし、スキル向上によってストレスを減らし子供さんをよい方向に導かせることが解になるが、その虐待防止プログラムの中にも「ほめる」を含めた行動理論は含まれている。社会問題解決の有効な道筋を個人的な印税稼ぎのために閉ざしてしまうこうした著者や出版社の姿勢は厳しく指弾されるべきである。
****
 いかがでしょうか。
 メルマガ読者の皆様、本を売りたい一心のでたらめな議論に耳をお貸しになりませんように。
 大切な子供さんや部下の方の教育は、正しいやり方をしっかりエビデンスを確認しながら選んでください。

 このレビューよりさらに詳しい「反論記事」はこちらです。ここでは、現在「承認研修」を受けたあと実践者である読者の方を想定して、「この本由来の変な横槍」が入ったときに困られないように、「反論法」をご指南しています:

◆余裕で反論できます。レッツトライ『ほめると子どもはダメになる』
 http://c-c-a.blog.jp/archives/51932702.html 

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■頭の体操(3)「ダイバーシティー経営は儲からない」は本当か?

 2号前のメルマガで、『ビジネススクールでは学べない世界最先端の経営学』という本の、「ダイバーシティー経営は損」という知見についての批判をご紹介しました。
 実は、この知見はそもそも「マッチポンプ」だった、ということが、この本の後ろのほうのめだたない記述まで読むとわかりました。
 このことをまたAmazonレビューに書きました。このレビューも、現在この本のレビュー欄トップに掲載されています。
****
「統計はウソをつく。心して読まれたい」by ヒトリシズカ
世界の経営学の注目トピックをわかりやすくガイダンスしてくれる本書。しかし部分部分に引っ掛かりがあり減点となった。
ダイバーシティーはタスク型ダイバーシティーとデモグラフィー型ダイバーシティーの2つがあり、前者は業績を向上させるが後者は差がないか低下させるという。これに基づき、「女性を雇う必要はない」とまで著者はいう。
いや、ここには「統計のウソ」が潜んでいる。
なぜなら「デモグラフィー型ダイバーシティー」の効果を検証するには、「デモグラフィーの多様性の一切ない企業」を一方の比較対象にする必要があり、それは多くの場合、「大学生同士で起業したてのスタートアップ期のベンチャー」という、非常に特殊な企業になるからだ。
著者は後の方で「同質性が功を奏するのは会社のステージによる(つまりスタートアップか円熟期か)」ということを言っており、つまり冒頭の知見は後者の知見と必ずセットで考えなければならないのだ。冒頭の知見は、こう言いかえたほうが妥当だ。「ベンチャーを起業したいなら、同質の人間と組んだほうが多少数字がいいという知見が出ているよ」。
こうした、意図的かどうかわからないが本書には「統計のウソ」が含まれていると考えてよい。統計学は、担当者や研究者が主張するよりは低く評価されるべきである。
****
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■障害のある人をどうマネジメントするか。「月刊人事マネジメント」連載記事を更新しました

 昨年から今年、7回にわたり「月刊人事マネジメント」(ビジネスパブリッシング社)に連載させていただいた、「上司必携・『行動承認マネジメント読本』」。
 第6回の記事を、編集部様のご厚意で公開させていただきました。
 今回は、「障害のある人のマネジメント」がテーマ。発達障害の人の急増に合わせて、発達障害をもった人のマネジメント法も後半で触れさせていただいています。

◆第六章 部下の凸凹を包んで戦力化する―月刊人事マネジメント12月号
 http://c-c-a.blog.jp/archives/51932814.html  この記事はフェイスブックで沢山の方から支持していただき、「シェア」もしていただきました。
 発達障害のお子さんをもつ当事者ご家族の方からも、わたくしのブログの発達障害関連の記事は高く評価していただいています。

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★「数字を読めない」をSYというのだそうです。しかし、昨今の状況は、「数字の裏を読む」能力が求められるようです。現役経営者、管理者である読者の皆様とともに、頭の体操、がんばりましょう。



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正田 佐与(正田佐与承認マネジメント事務所)
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シリーズ・『「学力」の経済学』批判

エビデンスに惑わされず、論理の飛躍をじっくり味わいたい、「ほめてはいけない」論―シリーズ『学力の経済学』批判

優れた先生方との交流の思い出と、正田流・教育現場いかにすれば良くなるのかの試論

中室牧子氏(教育経済学者)は、恐らくASDだと思うこれだけの理由。 シリーズ『学力の経済学』批判  

「少人数学級は学力を上げない」はウソ!―シリーズ『「学力」の経済学』批判

「学力を上げる」先生方はどこを見ているか―シリーズ『「学力」の経済学』批判

本当は恐ろしい、『「学力」の経済学』がもたらす未来(1)―”中室提言”をよく見ると―シリーズ『「学力」の経済学』批判

本当は恐ろしい、『「学力」の経済学』がもたらす未来(2)―正田回答編・先生方は「経済人」ではない!―シリーズ『「学力」の経済学』批判



 よたび『「学力」の経済学』(中室牧子、ディスカヴァー・トゥエンティワン)。


「質の高い先生とは学力を高める先生だ」。

 このことに別に異存はありません。というのは、やはり4つ前の記事「優れた先生方との交流の思い出と、正田流・教育現場いかにすれば良くなるのかの試論 」で、登場していた「スーパー先生」たちは、例外なく学力を高めていたからです。

 問題は、冒頭のフレーズが、「では学校の先生は塾や予備校の先生のように、生活指導を一切せず教科の指導だけをやっていればいいのか?」という誤解を招きやすいことです。「中室本」には、そうした誤解を防ぐような記述は一切ありません。単に「そうした先生は10代の望まぬ妊娠を予防する」と書いてあるだけです。

 ほんとうは、「学力を上げる」は、「結果」にすぎなかった可能性があるのです。結果変数に至る途中経過、媒介変数のところをみないと、「学力を上げる先生」のやっていることの全体像はわからない可能性があるのです。ここでも「群盲象を撫でる」ですね。

 わたしのマネジャー教育も「10数年1位マネジャー輩出」と、やたら「業績向上」の結果が出てきてしまい鼻につくので、同じことかもしれません。ですが、「承認マネジャー」たちは、「業績を上げる」ことをそんなに強く目標として意識していないのです。というと語弊がありますが、彼(女)らは日々、「みんながいい顔で働いているか」ということに耳目をそばだて続けるのです。

 
 「教育」に関して具体的に言いますと、
 やはり上記の記事に出てきますが、「スーパー先生」たちは

1.ほめる叱るを上手く駆使して規範意識を高め、
2.ほめあいの活動などを通じて子供たちの人間関係を良くし、
3.仕事を任せてほめて自己効力感を高め、
4.小テストを課して実力を測り自己効力感を高める
5.音楽、ディベート、などの実習の中でも細かく評価し達成感を与える

ということをしていました。

 そこで学年初めなどに意識して行われていたのは、「規範維持」と「良好な人間関係」です。
 上記の記事にも出てきましたが、ある先生は学級びらきの日に
「先生はいじめは大嫌いです。皆さんがいじめをしたら、先生は体を張ってでも止めますよ」
と言われました。
 いじめをされないという安心感、次いでもう一段階上の良好な人間関係。
 「ある学校で道徳教育に取り組んだところ学力が上がった」という報道がありましたが、道徳教育も要は、人間関係を良くしいじめをなくすという意味で一緒なのです。
 「学力」に至る媒介変数としては、「規範意識の向上」「人間関係の向上」があります。

 そして、もう1つの媒介変数である「自己効力感」の取組み。「小テスト」「仕事を任せてほめる」「実習の中でも細かく評価」。ほかにも「やり抜く力」というのもあり得ますが、自己効力感の副産物と考えてもいいでしょう。

(なお、「学力が上がったことが将来の納税額の指標になる」これも、少し「カッコつき」で読みたいかな、と思います。
「学力が上がった→自己効力感が上がった→仕事でも頑張る人になった→納税額が上がった」という流れである可能性があるからです。つまり、「学力」はさらに次の「自己効力感」の媒介変数となった、という可能性。)
 

 閑話休題、あくまでわたしの感想ですが、優れた先生方は、これらの初期の「媒介変数」つまり途中経過に現れる変化のほうを、「小目標」として日々、意識しておられた気がします。上記の「承認マネジャー」たちと同様に、ですね。

 だから、「納税者をつくるのは学力かその他か」の論争には、あまり意味はないと思います。媒介変数のところを上げられる先生が、学力も上げる力量がある。媒介変数のところから学力までは、ほんのちょっとしたテクニックの問題であるような気がします。
 そして、いかに真面目な熱心な、「媒介変数の人間関係とか規範のところを良くしよう!」という意気込みに燃えた先生でも、その意欲だけでは効果が上がらないことがあります。まあそれはおおむね「承認」の問題でしょうね…。「肯定する構え」のない人だと、いくら意欲があっても空回りするはずです。

 
 「中室本」では、

1.質の高い先生とは学力を上げる先生だ
2.少人数学級制は学力を上げない

(注:2.は1つ前の記事でみたようにそのように結論づけることはできない)

というエビデンスを並べ、そこから

「学級サイズはそのままで、先生の質を高めよう」

という提言をします。

 これが、先月にも似たようなものを見ました。「入山経営学エビデンスドヤ顔本」こと『ビジネススクールでは学べない世界最先端の経営学』でみた、「ダイバーシティー」の議論における「複数のデモグラフィーを同時に多様化するダイバーシティーをしよう」という提言、この提言が「つぎはぎ」であまり意味がないのと同じです。

 この提言は以前にみたように、

「現在ダイバーシティー経営を取り入れ業績が上がっている会社がそのような状態(すなわち、3つ以上のデモグラフィーが同時に存在している状態)だから」

ということを根拠に出ています。しかし、それらの企業も初期には一歩ずつダイバーシティーの幅を広げたであろうことを考えれば、現在その企業が上手くいっていることを、これからダイバーシティーを取り入れることの根拠にはできないのです。結局身の丈に合ったやり方で一歩一歩進め、研修なども併用しながら多様な人材に慣れていくしかないのです。

 
 「中室提言」も同じです。エビデンスからこういうことが言えるからこうしよう、というのは、やはり空中分解必至、の議論です。
 1.質の高い先生とは学力を上げる先生だ のところにはそんなに問題ありませんが、
 2.の「少人数学級制」の結論が間違っているため、提言も成り立たないのです。

 すなわち、2.の学級定員のところを変えようとしない「中室提言」というのは、今40人学級で高いパフォーマンスを上げている「スーパー先生」のレベルにすべての教師がなる、ということを意味します。このことが「無理」なのは、「スーパー先生」の中に女性が極端に少ないことからもうかがわれます。

 一部に少数の「スーパー先生」がいらっしゃるにせよ、「みんながオリンピック選手になれ」と言っているようなもので、物理的に無理。そんなことはちょっと考えて常識でわからないといけません。

 「少人数学級制で学力が上がらない」というのは、1つ前の記事でみたように、「教え方や教材を工夫しないから学力が上がらない」。
 普通の先生方が発達障害の子供、スマホに気をとられている子供、LINEいじめで苦しんでいる子供、モンスターペアレント…に押し潰され疲れはてている時には、「教え方や教材を工夫しよう」と思うためにも、学級定数を減らして仕事のサイズ全体を適正化する必要があります。


 統計から言える提言、というのは、「カッコつき」で考えたほうがいいのです。わるいけど「なんちゃって提言」なのです。もともと「現場を知らない」から、中室氏らは2.の知見についての考察で「ン?おかしいな」と考えることをしなかった。そういう、「現場を知らない」がゆえの、思考の誤りがプロセスのあちこちに入りこんでいるようなものを、「個人的体験より価値がある」なんて喧伝されては、たまったものではありません。現場で格闘している先生方などのほうが、むしろ「思考の誤り」を生まない知恵をもっているものです。

1つ前の記事で見たように、統計の知見というのは、「一度に一個」のことしかわかりません。1つだけ変数を動かし、他の条件は変えないという形で行いますから。そこから生まれた知見を2-3組み合わせてできる提言というのは「つぎはぎ」になり、現場の人が知っている現実に有効そうな解の組み合わせとは違うものになってしまう可能性が多分にあるのです。



 わたし自身は、本当は元々北欧の教育がすきで、「デンマークの教育」に一時期熱中していた流れで「コーチング」に入った人間なので、「アメリカ」に依拠するのもそんなにすきではないのです。
 今はどうなのかわかりませんが、デンマークでは小学校段階は「道徳教育」「人格教育」に大きなウェートを置きます。良い人格を作り、意欲高く、他人への基本的信頼感高く育った子は、中学ぐらいからハードな勉強に耐えうるようになる。そして専門性を高め、進学していく。
わが国の「スーパー先生」たちは、結果的には40人学級の逆境の下で、デンマークに近い教育をしていたかもしれません。
 中室氏ら教育経済学者はアメリカ育ちなようなのですが、なぜ人格の共通点の少ない「アメリカ」をお手本にしないといけないんでしょうね。

 
 もうひとつ厳しいことを言いますが、上記の入山氏、中室氏とも、どうもアメリカのアカデミズムのわるいところを学んで帰ってきた人達なのではないか、と思います。
 「エビデンスであえて常識の逆張りのようなことを言ってドヤ顔」という、悪い行動パターン。
 
 「常識と違う」というのは、「現場の実感と食い違う」ということでもあります。普通の人なら、そこで
「ン?おかしいな。これは実験デザインに不備があったのかな」
あるいは、
「”統計特有の限界”を意味するのではないかな」
と考えるでしょう。
 ところが、入山氏中室氏は違います。
「どや!これが統計の凄いとこや!あんたらの『個人的体験』なんか価値のないものなんや」
ということを言う、「ネタ」に使ってしまうのです。
「統計そのものがダメなんじゃないか」という考え方は、絶対にしない。ASDの人のパターンよろしく、むきになって正当化します。
(「中室説」にはどうも、「同世代の研究者同士のごますり」も入っていそうです。ほかの研究者の導き出した結論を批判できない)

 中室氏によると、アメリカの教育政策も彼ら教育経済学者の言葉で動いているらしいのですが、恐らく、アメリカ教育経済学というのは、そういうヤクザの脅しのようなスタイルを「売り」にしてきたのではないでしょうか。中室氏などはそれの申し子なのではないでしょうか。


 中室氏自身の経歴をもうちょっと詳しく知りたい気がするのですが、あまりいい資料がありません。日本銀行に勤めていたとか世界銀行に勤めていたとかいう断片的な言葉がご本人からぽろぽろ出ます。もともと教育に興味のある人ではなかったのではないか。なぜ、それがあるとき「教育経済学」という分野に転向したのか。

 ひょっとしたら、とイヤな予感です。アメリカ帰りのスピーカー業の人によくあるんですが、何かの成功哲学にかぶれていて、「自分が世界を変える」とか「VIPになりたい」とかいう”宗教”に突き動かされていて、
「教育という分野では数字がわかると希少価値があるので、政策に関われるよ」
とききつけて、新しい分野である教育経済学を専攻したのではないか。たったそれだけのために何年もコロンビア大学で修業というのも立派といえば立派ですが、要は今のこの人のポジションは、強力な「自分マーケティング」の産物で、教育とか子供さんがたに愛情も何もないのではないか。

 で、「ASD説」のところでも書きましたが、わるいですけれどこの人の知性では本来大学の准教授とか政策提言をする立場になることはできないです。全体的な視野を欠いていますから。せいぜいシンクタンクの統計担当者ぐらいが適当です。人に迷惑を掛けないところでひっそり仕事していればよろしい。


正田佐与


シリーズ・『「学力」の経済学』批判

エビデンスに惑わされず、論理の飛躍をじっくり味わいたい、「ほめてはいけない」論―シリーズ『学力の経済学』批判

優れた先生方との交流の思い出と、正田流・教育現場いかにすれば良くなるのかの試論

中室牧子氏(教育経済学者)は、恐らくASDだと思うこれだけの理由。 ―シリーズ『「学力」の経済学』批判 

「少人数学級は学力を上げない」はウソ!―シリーズ『「学力」の経済学』批判

「学力を上げる」先生方はどこを見ているか―シリーズ『「学力」の経済学』批判

本当は恐ろしい、『「学力」の経済学』がもたらす未来(1)―”中室提言”をよく見ると―シリーズ『「学力」の経済学』批判

本当は恐ろしい、『「学力」の経済学』がもたらす未来(2)―正田回答編・先生方は「経済人」ではない!―シリーズ『「学力」の経済学』批判

シリーズ・『「学力」の経済学』批判

エビデンスに惑わされず、論理の飛躍をじっくり味わいたい、「ほめてはいけない」論―シリーズ『学力の経済学』批判

優れた先生方との交流の思い出と、正田流・教育現場いかにすれば良くなるのかの試論

中室牧子氏(教育経済学者)は、恐らくASDだと思うこれだけの理由。 シリーズ『学力の経済学』批判  

「少人数学級は学力を上げない」はウソ!―シリーズ『「学力」の経済学』批判

「学力を上げる」先生方はどこを見ているか―シリーズ『「学力」の経済学』批判

本当は恐ろしい、『「学力」の経済学』がもたらす未来(1)―”中室提言”をよく見ると―シリーズ『「学力」の経済学』批判

本当は恐ろしい、『「学力」の経済学』がもたらす未来(2)―正田回答編・先生方は「経済人」ではない!―シリーズ『「学力」の経済学』批判




 みたび、『「学力」の経済学』(中室牧子、ディスカヴァー・トゥエンティワン)。

 ググってみるとわたしと似た「主張」をしている方がいらっしゃいました。

 http://garnet.cocolog-nifty.com/miya/2015/08/post-6a94.html

 
 こちらの方のほうが多くのポイントを載せていらっしゃいますし、エビデンスも豊富です。
 まあ、「中室本」っていくらでも反証を挙げられるんですね。
 これからもどんどんこういうのが出てきてほしい。

 さて、この記事の中から1つポイントを絞ってこちらでご紹介したいのは、「少人数学級制」についての話題です。

 4. 少人数制でも学力は上がらない ×
 これはAkabayashi&Nakamura(2014)という文献が根拠です.原著は6ドル払わないと読めませんが,著者による解説が
http://synodos.jp/education/12530
 で読めます.本書でも述べられていますが,研究方法の基本は,40人クラスと,転勤等による人数増で偶然20人2クラスに分かれた場合で,差を統計的に比較するというものです.教育現場の対応としては,偶然2クラスに分かれてしまっても,急に教材や授業内容を大幅に変えて少人数制用にしているとは考えられません.40人クラスのときと20人のときで,同じ教材を使って同じような授業をしたら,学力の向上がそんなに変わらない,というのは当然です.たまたま20人になったクラスと,40人になったクラスで学力差がついてしまっては,保護者から批判の的になってしまいますから,むしろ,人数差の影響がでにくくなるように努力するかもしれません.
 少人数制の方が教育効果が高いと評価されているのは,40人では使えないが,20人ならできるよりよい授業方法や教材が使えるからです.これは,PISA調査の結果を使った国際比較でも確認されています.こんなことで,少人数制はお金の無駄というような教育政策を決められたのでは教育現場はたまりません.(太字正田)


 これ、まったくその通りと思います。読者の皆様、いかがですか。

 この「赤林研究」は「自然実験」といわれるものです。実験用に作ったのではなく、自然にランダム化比較試験に近い状況ができたのを利用してデータを調査したものです。「赤林研究」が扱った「少人数学級」のシチュエーションとはどういうものだったかというと、
 例えば、ある学校の3年生が1組2組3組まであり、各40人ずついた。そこへ、夏休みに転校生が1人入ったので、3組が41人になり、3組だけを2学期から21人と20人の2クラスに分けることになった。
 こういう場合の「旧3組」である3組と4組の成績がそれまでより上がったか?というものです。

 読者の皆様、これ、上がると思いますか?
 まず、「担任交代」があります。新たにできた「20人クラス」である3組と4組のうち3組は以前の担任がスライドするかもしれないけれど、4組は「担任交代」となります。学年の途中で担任が替わるというのは、それだけで子供たちにとっては落ち着かない要因になります。1学期の状態に逆戻りです。

 加うるに、わたしが校長の立場だったら、急遽余分にできたクラスである4組の担任には、非正規の産休補助の先生か、学校内で「無任所」だった、鬱休職明けの先生、あるいは指導力がないことがわかっている先生、などを充てるでしょうね。その学校の「エース」のような優秀な先生を充てることはないと思います。

 ですので、教え方の工夫をしない、特別な教材を使わないのに加えて、むしろ成績が「下がる」方向に働く要因があり、それがせっかくの20人学級のメリットを相殺してしまった可能性があるのです。


 要するに、「中室本」の「赤林研究」のエビデンスからいえることは、

「少人数学級にしても教え方や教材の工夫がなければ学力は上がらない」

ということだけです。

「少人数学級にしても学力は上がらない」
と言ってしまうとそれは言い過ぎになり、「×」になります。拡大解釈です。
 是非、高校の時の国語の先生のところに行って小論文として採点してもらってください、中室先生。

 なんで、「政策提言」と大見得をきった人の本をこんなに全部「裏読み」しないといけないんでしょうか。
 この人を生んだアメリカのアカデミズムがそもそも間違ってるんじゃないでしょうか。
 オボカタさんもハーバード行ってましたしね。
 最近、アメリカで本を書く女性学者さんって妙に「美形」が多いですよね。スタンフォードの意志力の先生とかね。あれ、気になってたんです。

 美形だと博士号をとったり教授になりやすい、甘々の世界なんじゃないでしょうか。


 わが国でも、大竹文雄氏、竹中平蔵氏といった錚々たる学者たちがこの女性学者さんに肩入れしてらっしゃるようですが、あなたらこんな単純なミスを読み取れないで、「下半身」でもの考えてる人、決定ですね。惑わされましたね。

 それは余談ですが、

 正田は3つ前の記事(優れた先生方との交流の思い出と、正田流・教育現場をいかにして良くするかの試論)で、「少人数学級にしたうえで承認や個別面談など個に向き合うアプローチをし、先生の相互学習も推進する」という提言をしていますが、
 少人数学級にするのは、「次の一手」をするためなんです。これって、実社会ではふつうのことです。

 統計というのは、1つの変数だけを変え、ほかは一切変えないという原則がありますから、逆に統計で測れることには元々限界があるんです。統計の専門家であればあるほど、そういう限界もある、ということを誠意をもって社会に示さないといけません。


 わたしたちの社会の未来をこんないい加減な本に決められてはいけません。


 科学と目の前の現象との乖離について、1月1日の記事に書いた中国の故事、「群盲象を撫でる」についての文章を再掲します:

 そのさまを例えるなら、言葉は悪いかもしれないけれども「群盲象を撫でる」。巨大な象という生き物の部分、部分を撫でて「こうだ」と言ってしまう、たとえば鼻に触って「長い管だ」とか尻尾に触って「ひものようなものだ」とか足に触って「木の幹のようなものだ」とか言う。もちろんそのどれも、象という生き物について正解ではない。単にその作業を、学者たちが10cmぐらいの短い物差しを当てて「何cmですね」とやっているのと同じなのではないか。学者たちはそれでも、新しい論文を書けて論文数としてカウントされて、ちょっとでも新しい要素があれば、「知的に新しい」「新奇性がある」と評価されて査読を通り、学問の狭い世界ではおぼえめでたい、「認められる」ことになる。そしてわれわれ一般人にもドヤ顔で解説する。色々と学問の世界の知見を見ているとつい、そんな感想を抱きます。






正田佐与
 

シリーズ・『「学力」の経済学』批判

エビデンスに惑わされず、論理の飛躍をじっくり味わいたい、「ほめてはいけない」論―シリーズ『学力の経済学』批判

優れた先生方との交流の思い出と、正田流・教育現場いかにすれば良くなるのかの試論

中室牧子氏(教育経済学者)は、恐らくASDだと思うこれだけの理由。 ―シリーズ『「学力」の経済学』批判  

「少人数学級は学力を上げない」はウソ!―シリーズ『「学力」の経済学』批判

「学力を上げる」先生方はどこを見ているか―シリーズ『「学力」の経済学』批判

本当は恐ろしい、『「学力」の経済学』がもたらす未来(1)―”中室提言”をよく見ると―シリーズ『「学力」の経済学』批判

本当は恐ろしい、『「学力」の経済学』がもたらす未来(2)―正田回答編・先生方は「経済人」ではない!―シリーズ『「学力」の経済学』批判

シリーズ・『「学力」の経済学』批判

エビデンスに惑わされず、論理の飛躍をじっくり味わいたい、「ほめてはいけない」論―シリーズ『学力の経済学』批判

優れた先生方との交流の思い出と、正田流・教育現場いかにすれば良くなるのかの試論

中室牧子氏(教育経済学者)は、恐らくASDだと思うこれだけの理由。 シリーズ『学力の経済学』批判  

「少人数学級は学力を上げない」はウソ!―シリーズ『「学力」の経済学』批判

「学力を上げる」先生方はどこを見ているか―シリーズ『「学力」の経済学』批判

本当は恐ろしい、『「学力」の経済学』がもたらす未来(1)―”中室提言”をよく見ると―シリーズ『「学力」の経済学』批判

本当は恐ろしい、『「学力」の経済学』がもたらす未来(2)―正田回答編・先生方は「経済人」ではない!―シリーズ『「学力」の経済学』批判



 物議をかもしそうなタイトルをあえてつけてしまいましたが、このブログの長い読者の方からみるとむしろ「自然」な結論ではないかと思います。

 わたしもきのうの記事(月刊人事マネジメント連載 部下の凸凹を包んで戦力化する)を入力していて気がつきました。別に悪意でもなんでもありません、「ASD」「発達障害」という言葉も別に差別語ではないですし。

 昨日の記事の中から、「ASD(自閉症スペクトラム障害)」について書いたところを抜き出しますね。

 またASDは、全人口の1〜2%(最新の報告では4%)を占めるとされ、「こだわりが強い、固定観念が強い」「他人の気持ちに想像力が働かない」「変化、変更が苦手」「ごく狭い範囲の仕事にしか関心がない」などがあります。


 中室氏を昨年一気にスターダムに上らせた著書、『「学力」の経済学』(ディスカヴァー・トゥエンティワン)の中の記述の1つ1つ、またロジックの1つ1つに、「これだけIQが高くてかつ定型発達の人だったらまずやらない」と思われるような、間違いや雑な(荒っぽい)記述があります。


1.1月1日の記事に取り上げたように、「ほめ育てはしてはいけない」と本の冒頭で言いきっているが、中身をみると論理が破綻している。結論ありきで、データは単に並べてみただけ。こういうのは「エビデンス詐欺」とでも言うレベルで、学者として信頼するに値しません。

2.「老婆の個人的体験」という言葉を統計学の西内正啓氏の引用ではあるが、何の疑いもなく言ってしまっている。「脳科学おばあちゃん」の久保田カヨ子氏のことだと思いますが。「老婆」って普通言わないでしょう、中室氏は40歳でかなり美形の方であるのは認めますが。

3.本当は、エビデンスの中にも「エピソード(のシリーズ)」は含まれるので、現場の個別の情報をないがしろにしていいわけではないのです。(Wikiの「根拠のある医療」の項参照)中室氏はそうしたことは一切言わないし、「老婆」「お母さん/母親」などという言葉で貶めるので、エピソードを語ることは恥ずかしいことだ、という思い込みを読者に作らせていなかったろうか。
(注:「一切言わない」は言い過ぎでした。この本の「補論」のところに、Wikiにもあるようなエビデンスの階層表を載せ、その中に「症例報告」というのも入っています。ただ、多分この人自身、「症例報告」の意味が分かってなかったのではないでしょうか)

このほかにも、

4.親を読者対象にした第2章は全体に記述が雑。1.にみるような、エビデンスと結論のフレーズのつながりが悪い例がほかにもみられ、「親をばかにしているのだろうか、この人は」と思う。逆に他の専門家、政策担当者を読者として想定した章はみたところ慎重かつ丁寧な筆運び。専門家筋からこの本が評価が高いのも頷ける。そうした、人としては不愉快な二面性も、権威にすがることが大好きな一部のASDの人の特徴を想起させる。


5.Amazonレビューのコメント欄に中室氏自身とみられる「カスタマー」名のコメントが頻繁に出てくるのだが、3.と同様、「目の前の子供さんなど現場の個別情報」を軽視し、「統計が出した結論通りに対処するのが正しい」とむきになって言い張っていた。上記のWikiのページにも、「エビデンスがいくらあっても目の前の個々の患者をみなければならない」ということは明記されているのだが。こういう人は学問をする資格も政策提言をする資格もないのではないだろうか。

・・・

 いかがでしょうか。
 このブログの長い読者の方はご存知と思いますが、わたしはもともと女性のことは応援したい方です。せっかく頭角を表した女性学者さんを貶めたいなどは、本来つゆほども思わない人間です。

 しかし、この中室氏の言動はいただけない。
 「ほめる否定」ひとつをとっても、それが現場と子供さん方をどれだけ不幸にするか、想像力が働いていない。

 で、わずかこれらの証拠だけをとっても、この人がASDである可能性は高いだろうと思います。コダワリが強く、固定観念が強いので、「エビデンス=統計データ、≠エピソード」というような記述をしてしまう。また自分が「ほめる」を嫌いなので、それを正当化するためにめちゃくちゃな論理構成をしてしまう。他人の気持ちが想像できない(ただデマゴーグ的な才能は割とあるようだ)。現場情報を軽視するのは、興味の範囲が狭いから。

 統計というのは、その専門の方に失礼な言い方をしてしまいますが、「数字遊び」のようなところがあります。数字が好きな方だったら、飽きずに何時間でも何日でもその世界に浸っていられる。で、ASDの傾向のある人に数学的才能のある人も多いですから、そこにのめり込むことも自然です。
 ただし、統計は価値のあるものですが、あくまで手段でしかないのです。目的ではないのです。目的は、目の前の状況に最適解を出していくことです。


 ASDだということがわるいわけではありません。ASDを含む発達障害の人が普通に就労機会が与えられるように、ということをわたしも願って、このブログで一貫して記事を書いてきました。
 しかしそれとは別に、思考能力の一部に重大な欠損をもったASDの人が、沢山の人の幸せに関わるようなポストにつくことは正しいか?という問題はあります。
 企業なら、マネジャーに昇格させることは正しいか?また中室氏のように、「政策提言」それも教育という、沢山の子供さんの幸せに関わる政策提言をする立場になることは正しいか?

―他社さんの宣伝をするようで恐縮ですが、「インバスケット研修」をすると、上記のような「思考の一部情報への固着傾向、i.e.くっつきやすくはがれにくい傾向」のある人はある程度スクリーニングできます。ただしインバスケット傾向も、「決断過多」のリーダーをつくってしまう危険性はあります。また人によっては、インバスケット研修について膨大な予習をして、高得点をとることができるようです。

彼女がもし社会に対して誠実でありたいなら、診断を受け結果を公表し、

「私はこういう障害を持っていてそのために大事なことをよく見落とすことがある。現実の子供や子育てには興味は全くない」

と、きちっと公表したほうがいいと思います。子育て経験がないことを、「エビデンスのほうが大事だから子育てする必要はない」って正当化しちゃいけません。ASDの知能の高い方は、よくむきになって自己正当化をやりますね。

また、「承認」の講師として実感を込めていいますが、ASDの人は一般に「承認/ほめる」を苦手とします。気の毒なことですが感覚過敏なので、通常よりはるかに大量の「不快感情」を持って生きているからです。
中室氏は、「私自身人をほめることが苦手です。ですからこの件について語れる資格はありません」と、正直に認めたほうがよいのです。そういう謙虚な姿勢があれば、障害を持った学者として認知されても、信頼されて仕事していくことができるでしょう。


 彼女の出世作である本をぱっと読んだだけでも(多くの人は気づかなかったようだが)上記のような見落とし、間違いがあったわけです。
 専門家・政策担当者向けの章については、わたしは正直、ささっとしか読んでいないのですが、ここにも親向けのパートのように、恣意的なエビデンスの選択、並べ方、無理のある結論の出し方、が隠れている危険性はあります。書き方みこそ比較的丁寧でしたが。だからわたしはあんまりまじめには読めませんでした。鵜呑みにするととんでもないことが起こるな、という感じでした。
 そういうのは是非、ほかの教育経済学者さんが出てきてじっくり検証していただきたいと思います。この人以外の教育経済学者さんのご意見が是非ききたいです。

 ひょっとしたら、中室氏は「教育経済学界のオボカタ嬢」のような存在なのではないですかねえ…。


正田佐与

 
シリーズ・『「学力」の経済学』批判

エビデンスに惑わされず、論理の飛躍をじっくり味わいたい、「ほめてはいけない」論―シリーズ『学力の経済学』批判

優れた先生方との交流の思い出と、正田流・教育現場いかにすれば良くなるのかの試論

中室牧子氏(教育経済学者)は、恐らくASDだと思うこれだけの理由。 ―シリーズ『「学力」の経済学』批判 

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「学力を上げる」先生方はどこを見ているか―シリーズ『「学力」の経済学』批判

本当は恐ろしい、『「学力」の経済学』がもたらす未来(1)―”中室提言”をよく見ると―シリーズ『「学力」の経済学』批判

本当は恐ろしい、『「学力」の経済学』がもたらす未来(2)―先生方は「経済人」ではない!―シリーズ『「学力」の経済学』批判

 「発達障害」。
 2つ前の記事(『ほめると子どもはダメになる』の批判記事)にも出てきましたが、今でも「知る人ぞ知る」の話題です。
 本当は、とてもポピュラーな障害ですのでだれもが知っておいたほうがよいことなのです。残念ながら少し古い世代の心理学者さんなんかは、タブー視していて案外知らない。

 このブログでは2013年ごろから「発達障害」についての記事が増え、14年暮れ〜15年春には、「発達障害をもつ大人の会」代表の広野ゆいさんと2回にわたる対談を掲載させていただきました。


「月刊人事マネジメント」誌に連載させていただいている、「上司必携・承認マネジメント読本」の6回目の記事を編集部様のご厚意により「公開OK」でいただきましたので、転載させていただきます。

 今回は、「発達障害を含む障害をもった働き手の戦力化」について、「承認」を絡めてお伝えします。

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 以下、本文の転載です(正田肩書を修正しました):

****

上司必携・『行動承認マネジメント読本』
〜人手不足チームのやる気と力の引き出し方〜

正田佐与承認マネジメント事務所
代表 正田佐与


第六章 部下の凸凹を包んで戦力化する

「インクルージョンの波」が来年度、職場に押し寄せてきます。4月1日から、障害者に対する〆絞姪取り扱いの禁止、合理的配慮の不提供の禁止―を柱とする障害者差別解消法と改正障害者雇用促進法が施行されます。すでに、すべての職場で障害を持った人々の法定雇用率2.0%は施行されており、ここに平成30年度には、精神障害者も対象に加わります。
 障害を持った人の受け入れについて、とりわけ中小企業などでは「負担が大きい」という声もあるようです。しかし、実際に受け入れた職場では、「人の多様性への理解が進んだ」「社員が従来より優しい気持ちになれた」という効用も大きいようです。わが国では従来遅れていた分野でしたが、法改正を機に前向きに受け止めていtだきたいものです。
 今回は、安倍政権の「1億総活躍社会」の一角を占めることになるであろう、「障害者の活用」について、また障害とまではいかない社員の能力の凸凹を包含(インクルージョン)して職場運営をしていくうえで、上司の方ができる関わりについて、解説したいと思います。

障害を持った人にどう働いてもらうといいですか?

 これについては、厚労省の改正障害者雇用促進法に関するサイトから、「合理的配慮」の事例をダウンロードして参考にすることができます。
 また詳しくは、現在数多くある特例子会社の事例が参考になるでしょう。筆者も過去に(株)リクルートオフィスサポート、東京海上ビジネスサポート(株)などの特例子会社を訪問させていただきました。そこでは、グループ会社全体で発生する事務仕事を細かく分けてタスク化し、障害のある人々に個々の特性を活かして割り振る、というやり方で戦力化していました。興味のある読者の方は、一度そうした特例子会社を見学してみることをお勧めします。障害を持った人に対するマネジメント法、採用法いずれも参考になることでしょう。

各職場レベルでは何ができますか?

 障害を持った人についても、実は健常な人に対すると同様「承認」の関わりが功を奏します。
 本連載第1章で、「行動承認」は業績向上の効果が極めて大きい「儲かる技術」だ、ということを確認させていただきました。一方で、「承認」は大きくいえば「ケアの倫理」にも「共生の倫理」にも相通じ、一律でない、多様な特性を持った人を理解し、共に働くための倫理という性格も持っています。
 またとりわけ、相手の行動を事実その通り認める「行動承認」は、障害を持った人々への支援技法である「行動療法」を起源としたものですから、そのまま障害を持った人にも使っていただけるのです。
 相手の良い行動を伸ばすこと。さらにそれを通じて相手の特性を理解するということ。本人にできていること、できていないことを、上司の方が虚心に見、正確に把握するということができます。
 とはいえ、障害を持った人の特性は本当に様々で、「対応できるのだろうか?」と不安にお感じになる方もいらっしゃるでしょう。慰めになるかどうか分かりませんが、障害者対応の「プロ」であっても、最終的には出会ったその人に合う対応法をその場に即して編み出していくしかないのです。

発達障害の人が増えているようですが?

 近年、発達障害の概念が普及したことに伴い、過去には想像できなかったほど、人口の中で大きな割合を占めることが分かってきました。今回の後半はこの人々にとって紙幅を取ってご説明します。
 発達障害は、最新の精神疾患に関する区分である米DSM-5では、大きく、注意欠陥・多動性障害(ADHD)と、自閉症スペクトラム障害(ASD)の2つに分けられます。
 ADHDは、全人口の5〜6%を占めるといわれ、大人の従業員では、「ミスが多い」「忘れ物が多い」「寝坊・遅刻が多い」「時間管理が下手、時間内に仕事を終わらない、予定忘れを起こす」などの”症状”となります。
 またASDは、全人口の1〜2%(最新の報告では4%)を占めるとされ、「こだわりが強い、固定観念が強い」「他人の気持ちに想像力が働かない」「変化、変更が苦手」「ごく狭い範囲の仕事にしか関心がない」などがあります。
 ADHD、ASDの両方の傾向を併せ持った人も多くいます。診断を受けていない人も含め、筆者の実感値としては就業人口の約1割は、発達障害かそれに近い、職場で特別な配慮を要する人がいます。
 上記の特性を持つ部下がいた場合、もし発達障害についての知識がないと、上司は戸惑い、また深刻に悩むことになるでしょう。こちらが適切に指示を出したつもりでも、こうした特性を有するために指示を取り違えたり、忘れたり、間違ったやり方で仕事をしてしまうことが往々にして起こります。
 実は、発達障害を持った人は職場でメンタルヘルス疾患になるリスクも高いですし、叱責しているうちに上司の方がパワハラに該当する言動をとってしまうということも大いに起こりえます。無用なトラブル回避のためにも、発達障害についての知識はこれから不可欠になっていくでしょう。
 発達障害は、軽度の症状の場合は職場での環境調整によって無理なく仕事をしてもらうことができます。環境調整とは、例えば、
●ミスが出やすい状況を見極め、予防する。周囲からの声かけやミスの影響が少ない職務への転換など。
●視覚優位の人が多いため、文書や図示などの方法で指示を出す。ある企業では「メールによる指示出し」を徹底し、ミスを減らした
●こだわりが強く変化に弱いASDの人に対しては、変更内容や変更の理由背景などの説明を徹底する
などです。
 こうした配慮をしても限界がある場合には、次の段階で本人にこの特性のために問題が起きていることを伝え(告知)、医療機関で診断を受けるよう勧めることが必要になります。ADHDの場合は治療薬があり、それによりある程度ミスを減らすことは可能です。
 ただし、この「告知」は非常に難題で、ここで上司による「起きている問題についての正確なフィードバック」が不可欠だ、と専門家は指摘します。
 上司の方にはここでまた、「行動承認」の効用が活きてきます。日頃から部下の行動を観察し、声かけし、良い行動を記憶し評価に活かすこと。これを励行していることで、部下のミスの内容回数、問題行動の種類頻度、といった情報も過度に感情的にならずに記憶・記録しておけることでしょう。
 告知はハードな壁ですが、実際には障害を受容したほうが、満足度の高い職業生活、そしてプライベートの生活を送れるようです。
 ある上司の方によれば、発達障害とみられた女性の部下に「行動承認」で関わり、プロジェクトを達成に導いた結果、部下は自信をつけて、自ら診断を受けて障害者手帳を取得し、そして結婚もして幸せに暮らしているというのです。
 仕事で達成感を味わうことが、いかに1人の人にとっての自信と幸福感の源になるか、また、とりわけ能力の凸凹を持った部下にとっては理解ある上司の適切な関わりがどれだけ助けになるか、考えさせられた事例でした。 (了)

****

 いかがでしたか。
 実は、この記事を書くために正田は障害者さんについての知識を少しでも増やそうと、「同行援護(ガイドヘルパー視覚)」、「行動援護(障害者の外出をお手伝いするガイドヘルパー)」の資格を取りに行ったりしました。しかし、この記事にそれを盛り込めたかというと…、

 ダイバーシティもメンタルヘルスもインクルージョンも。「承認」は欲張りな技術です。

 次回は「伝え方」のお話。ブログ読者の皆様は「あれだな」って、もうお分かりですね。


「上司必携・行動承認マネジメント読本」シリーズ全体の構成は:

第一章 行動承認は”儲かる技術”である(2015年7月号)
 http://c-c-a.blog.jp/archives/51919833.html
 第二章  「承認」の学習ステップ(8月号掲載)
 http://c-c-a.blog.jp/archives/51921667.html
第三章 女性活用と登用は「上司の眼差し」次第(9月号掲載)
 http://c-c-a.blog.jp/archives/51923763.html
第四章 LINE世代に対するマネジメントとは(10月号掲載)
 http://c-c-a.blog.jp/archives/51925545.html
第五章 「踏み込みすぎない」メンタルヘルス対策(11月号掲載)
 http://c-c-a.blog.jp/archives/51927183.html
第六章 部下の凸凹を戦力化に転じる(12月号掲載・本記事)
 http://c-c-a.blog.jp/archives/51932814.html
第七章 伝えたいことが「伝わる」伝え方(2016年1月号掲載)

 正田佐与

 引き続き体調不良ぎみです。

 このところの読書から思い切って離れて、わたしが3人の子育てを通して「学校の先生」をみてきた体験と、よのなかカフェで「教育」をテーマにしたり関連で何人かの優れた先生方にインタビューした経験にもとづいて、(はい、「老婆の個人的体験」です笑)思うところ考えるところを書いてみたいと思います。


 変に数字をみていると大事な直感のはたらきが悪くなってしまいそうです。免疫は既に害してしまいました(笑)


****

 わたしは子供たちから担任の先生の話を聴くのがすきでした。先生の力量によって、子供たちのモチベーションも学力も見事に左右されました。優れた先生に持っていただいたときの子供は、言うことがしっかりし、自律的になり、学業にも身が入ります。勉強のおもしろさに目を開かされるようです。
 また人間関係の悩みが激減しているようだ、というのも感じました。子供の話からその手の愚痴がなくなりました。
 
 後年、子供たちを持っていただいた優れた先生方にインタビューさせていただきました。2012年5月、「学級崩壊」を扱ったよのなかカフェ「子どもたちが危ない!」開催準備のためです(肩書は当時)


◆「公平」は絶対的に大事なもの。しかしむずかしいもの―神戸市青少年補導センター・井上顕先生

http://c-c-a.blog.jp/archives/51802377.html

◆子どもには仕事を任せる。一線を超えたら叱る。人を傷つけたら叱る―吉森道保先生(渦が森小学校教頭)

http://c-c-a.blog.jp/archives/51803263.html


 それぞれ、大変おもしろいお話をしてくださっています。両先生とも、「ほめる」を上手く使い、「ほめる叱る」のメリハリをはっきりつける方でした。井上先生はそれに加えて小テストをこまめにされ、これも「行動理論的」に、子供たちが自分の実力を計測できるようにしていました。吉森先生はまた、「仕事を任せる」という、これも「承認」の一形態を効果的に使われ、任せた仕事をやりとげるとしっかりほめてあげる、を繰り返すことで問題のあったお子さんもどんどん能動的自律的、責任感のあるお子さんになっていきました。

 こういう、数字には表れなくても結果を出す優れた先生のされることは大体共通項があり、「ほめる」「承認」は欠かせないものです。

 その後は、フェイスブックのひょんなご縁から千葉県船橋市の小学校の先生、城ケ崎滋雄先生の実践を見学させていただきその後インタビューもさせていただきました。大変楽しい経験でした。

◆褒めること聞くこと、記録、スピード、歌声・・・城ヶ崎先生クラス訪問記 (2013年2月)

http://c-c-a.blog.jp/archives/51846161.html

(城ケ崎先生―正田の対談はこちらから。全13回シリーズの、ちょっとオタクな会話です)
◆城ヶ崎×正田対談(1)メンバーの個性をどうつかむか

http://c-c-a.blog.jp/archives/51853434.html 

 
 こうして、あくまで「エピソード」として積み上げたものではありますが、優秀な先生の行動様式にはかならず共通項があります(エピソードのシリーズも「エビデンス」の1つです。"中室エビデンスおばあちゃん本"を読むと、うっかり「統計のデータでないとエビデンスと言わないのか?と錯覚してしまいそうですが…)。
 …そういう、ちょっと現場のことをかじった程度のわたしが知っていることを、「ほめ育てはしてはいけない」「教育経済学」の某女性学者さんはなぜご存知ないのでしょうね…このままではとんでもない悲劇が起こりますね、もし彼女の言う通りに現場が動いてしまったら…

 
 ただし。
 あくまでわたしの「感触」のようなものですが、井上先生や吉森先生や城ケ崎先生のような「スーパー先生」は、出てもせいぜい10人に1人ぐらいです。
 残念ながら一般企業にも、「マネジャーになる人、そうでない人」というのがいらっしゃると思います。それと同じぐらいの確率だといえばいいのか…。
 個体としての「強さ」が違うんです。やっぱり頑健な方、となりますね。城ケ崎先生は陸上の先生で、武術家で、毎日プールで泳いでいらっしゃいました。かつ、強い軸をもち、正義感、責任感、人に向かっていく強さ、それに教えるスキル、コミュニケーションスキル、など総合して優れた方。男性が多いのは、恐らく家事育児を負担していると時間的体力的に難しい仕事だからでしょうか、残念なことに。

 で、そのラインまで届かない人はどうなるか。今の35人とか40人学級のもとでは、下手にまじめだと壊れて脱落していくか、生き残ろうと思えば、やや「半身」で仕事をするか、に分かれることになると思います。スーパー先生とそれ以外の先生の差がどんどん開いていきます。

 その状況をどうしたらいいのか。
 ここからはあくまで試論です。

 わたしは、多めにみてもざくっと「10人に1人」ぐらいしか出現しない一部の「スーパー先生」にみんながなることを期待するのではなく、もう少し普通の体力、資質の先生でも(だって一般企業のサラリーマンだってそうなんですから)勤まるような仕事にしていく必要があると思います。
 そこでまた「学級定員は」という話になりますが、このところの記事で繰り返し出るように、「スマホ(LINE)の登場」「発達障害の急増」という要素が、子供〜若者の世界を激変させています。かつてなく彼らと心を通じ合わせることがむずかしくなっています。
 それに対して、「承認/ほめる」「個人面談」「思い切った少人数ゼミ/部署」といったやり方が、大学〜社会人の世界では功を奏しているわけで、それらの組み合わせで初めてこの難しい時代のフィルターを飛び越えて若い人のこころと接続できるのです。そんなことは、もちろんエビデンスも必要ですが、エビデンスが間に合わなくても早急に考慮すべきでしょう。

 そのうえで、「スーパー先生」から周囲の先生が学べるようにする。こまめに経験交流をする。学習する組織にする。ここでマネジメントの人の役割は大事です。
 過去によのなかカフェで出たように
◆マニュアル思考×同僚に教え同僚から学ぶ気風―よのなかカフェ「子どもたちが危ない!」開催しました (2012年5月)
http://c-c-a.blog.jp/archives/51804206.html  
 先生方の世界の「学び合わない」気風は深刻なのです。このとき出席されたスーパー先生の1人、「学級崩壊お助けマン」の間森誉司先生は、「若い先生がぼくから学ぼうとしない」とぼやいていました。上の城ケ崎先生も、「若い先生はぼくの授業を見ても、ほんの表面しか見てないんですよね」と嘆いていました。

 「先生の質の向上」を語るにあたって、「教職大学院」が話題になりますが、わたしは大学院の2年間が優れた先生をつくるとは思えません。仕事の実務の中でつねに現実から学び、内省し、また外にも目を向けて情報を集め…、その繰り返しが優れた働き手をつくります。それはどの仕事でもそうだろうと思います。
上記の、井上先生吉森先生城ヶ崎先生間森先生とも、大学院で学んだわけではありません。吉森先生は、「先生はいじめは許しません。体を張ってでも止めますよ」と言われるほど、いじめについて毅然とした態度をとった方でしたが、それは「最初からそうだったわけではなく仕事上の経験、人生経験を通じてそういうスタイルになった」ということをおっしゃいました。そうした「経験知」を質量ともによりよく蓄積していくためには、対話を通じて言語化し、内省し、また同僚と経験交流することが大きな役割を果たすのです。

 だから、「経験交流」をファシリテートする役割を、マネジメントは果たしていただきたい。以前「マネジャーズ・カフェ」といってミンツバーグの「リフレクション・ラウンドテーブル」に「承認」を組み合わせたようなものをやったことがあります。週1回45分程度、マネジャー同士が対話を通じて経験交流をするもの。先生同士でも有効だろうと思います。またもちろん授業の相互見学もどんどんしていただきたい。
 そして「現実を直視し、内省する」そういう人材をつくるためにマネジメントがどうアプローチするのが正しいのか?
 「学ばない気風」を改めるため、自我のバリアを外して周囲を信頼し、周囲から素直に学ぶ人材をつくるためにマネジメントはどうアプローチするべきか?
 このブログを続けてみられている方は、もうおわかりですね。

 まとめると、
1.学級定員を妥当なところまで減らす
(目的は、「普通の先生」でも努力すれば「スーパー先生」に近いことができるような環境を作る)
2.承認、個別面談など個々のお子さんに向き合うアプローチをする
3.教員同士の経験交流を促す対話、見学などをする

 ”中室説”では、2.とか3.を全然やらなかったので、せっかく1.をやっても「宝の持ち腐れ」だった可能性があるんですね。
 (この内容を支持するブログ記事を3つ後の記事でご紹介しています)



 このほかに『「学力」の経済学』にもちらっと出ていたような、「有資格者でない先生も任用する」というのも組み合わせてもいいと思いますが。

 
 あんまりまとまっていませんが、気分がふさぐので少しでも「前向き」なことを書きたかったものですから。


追記:

 上記の話とどう組み合わせていいかわからなかったのであとで追加することになってしまいましたが、ドイツのように、中学生ごろから「職業訓練校」の選択肢をつくる、ということも考慮されたらよいのではと思います。
 「労働」は人に誇りを与えます。学業に身が入らないお子さんも、中学高校大学まで我慢してお勉強の学校に通うより、仕事の実習プログラムを多く含む学校に早くから行ったほうが、そこで自分の誇りの源泉を見つけられるかもしれません。
 また「個人的経験」ですが、わたしの3人の子のうち2人は高校で普通科に行きませんでした。それぞれ、「美術科」「国際経済科」に行きました。(あとの方は残念ながら普通科に統合されて、今はありません)
 美術科に行った子は、「あたし、プロの芸術家になるほど才能はないのはわかってるの。でも今は、思い切り美術をしたいの。大学は普通の大学に行くかもしれない」と入学時に言い、実際にそうなりました。ある年齢のとき専門性のあることに打ち込みたい、そういう選択の仕方もあるのか、と思いました。
 国際経済科は、これも地域で特殊な立ち位置の学科でしたが、簿記やタイピング、英検など細かい実技の検定を受検させ、自信をつけさせます。3年までに全商と日商両方で簿記一級をとる子もいました。企業見学にも行きます。社会人の面白い取り組みの人、経営者さんなどを呼んで話をしてもらいます。熱心な先生方のもとで、入学時には成績「中」ぐらいだった子供たちが卒業時には有名大学に受かっていきます。「仕事の現場」をつねにイメージさせながら教育を施すことが、子供たちのモチベーションを刺激します。
 子供たちは、案外「仕事」がすきなのではないかと思います。昔の日本人が丁稚奉公で、小学生年齢から奉公に上がり仕事の中で勉強をさせてもらったというのも、わるくなかったのではないかと思います。
 
 
正田佐与

 読者の皆様、3が日をいかがお過ごしですか。

 暖かかったですねえ。

 わたしはそんな中、色々無理がたたって(苦笑)少し風邪気味です。


 このブログの目的を確認しておきますと、これはマネジャー向けに「承認研修」を行う研修講師・正田の、現在過去未来の受講生様方へ日々、愛をこめて送り続けるメッセージです。

 ここでは、

1.「承認研修」のもつもう1つの意義―「適切な厳しさ」の復権
2.高業績を生み続けるもう1つの要素―異論を叩き続ける正田の「先生仕事」
3.教員定数削減に関する思いと、「承認企業の職場が若者の最後のセーフティーネット」

という、お話をしたいと思います。

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1.「承認研修」のもつもう1つの意義―「適切な厳しさ」の復権


 読者の皆様はご存知のように、「行動承認」を中心とする独自の「承認研修」は2003年以来10数年にわたり、「業績1位マネジャー」を生み続けてきました。

 マネジメントの中で1つの手法が成果を生むというのは、
〇マネジャーたちにとって学びやすい・習得しやすい、
〇人間性の根源に触れるものであること、
それに
〇問題が起きない
〇続けやすい
ということなどが相まっての結果であります。これらのうちのどれを欠いても、わたしの受講生様方がなしとげてきたような数年、長い人では10年以上もにわたる成果につながってこないだろうと思います。

 4つ前の記事に書きましたように、マネジャーたちは「承認」の大原則以外にも、マネジメントの中でいくらでも補助線を引きます。「傾聴」や「質問」もそうですが、「叱る」や「ビジョンを語る」もそうです。「社内政治」などもその1つかもしれません。―なにが「幹」でなにが「枝」なのか見極める眼をもちたいですね―

 実はわたしは「叱る研修」をもう7年ぐらいやってないのですが、「承認研修」を採用されたお客様で「叱る研修」までを必要とされることは少ないです。ほとんどの受講生様は、最初の「承認研修」だけで、「承認」と「叱責」、あるいは「承認」と「説諭」などを上手く組み合わせて問題解決することを会得してしまわれるんです。「承認研修」だけで、「優しさと厳しさのバランスのいいマネジメント」を習得していただけることになります。宣伝抜きで、すごくコスパのいい研修です。

 もともと、正田流「承認研修」の理論的根拠の1つ、「行動理論」の「オペラント条件付け」は、「行動したことをほめる」ということで、実はほめることに条件をつけているんです。何もしないでいたらほめないよ、という含意もあるので、「なんでもかんでもほめる」のとは違って、結構厳しいものなんです。

 ―もちろんそことは別に、「あなたはいてくれるだけでかけがえのない存在だよ」という「存在承認」もあって、そことは今ひとつ整合性を説明しきれないんですが、受講生様の中では上手く共存しているようです。ホネットの3定義もそうですよね―

 行動を尊び、行動を奨励する。それは、スマホ時代でともすれば実体験が少なくなる現代においては、いくら強調してもしすぎないほどです。
 そして、やっていただければわかりますが、「行動すること」は子供たちの「自律」をつくっていきます。理性の前頭葉を発達させ、セルフコントロール力を育んでいきます。
 親御さんが「行動承認」をしてくれるお子さん、してくれないお子さんでは、とりわけ今の時代では全然行動の経験値も、精神的成熟度も違ってくるはずです。
 ありがたいことに、「承認研修」受講後のマネジャーたちは、子供さんのいる人はほぼ例外なく子供さんにも「行動承認」を使ってくれています。


 そしてまた、「承認研修」はマネジャーたちに「叱る力」をも与えます。

 「承認研修」の中では(受講されたかたはご経験済みと思いますが)、「承認プログラム」の最後に「過失の重大性に応じた対応」というタイトルのプリントを1枚「ぺらっ」とお渡しします。そこではごく短い時間で、部下の軽微な過失から重大・悪質な過失までに応じて、無視・指摘・質問・叱責・怒る などの対応法を紹介します。

 よく「叱るのはOKで怒るのはダメ」などと言われますが、
「怒るのも否定はしませんよ、本当に確信犯か、慢心かで、会社の理念にもとるようなことを部下がしたときには怒ってもかまいません。ただ怒るのは伝家の宝刀みたいなもので、1年に1回ぐらいにしておいてくださいね」
と講師のわたしは言います。

 そうですね、わたしがいまだに後継者を作れていない理由はいろいろあるんですけど、ひとつにはこの、

「承認って厳しさも包含したものだよ」
「先生は承認って言ってるけどベースはすっごく厳しい人だよ。ダメなことやったら怖いよ」

というのを、言外に空気で見せられるか、というのもあると思います。
 ともすれば、「承認研修の講師になりたい」って言ってこられる方は、ベースからポジティブで優しくて、自分のポジティブさや優しさを商品として売りたい、優しい楽しいだけの研修をしたい、かつ自己顕示欲も満たしたい、という方が多かったですね、一昨年ぐらいまでの傾向は。昨年からちょっと変わってきたかんじですね。

 で、実際に研修中に受講生さんを叱るのもやぶさかではないです。最後に叱ったのは昨年の初めだったかな、腕組みして半身の姿勢のまま実習に参加していた部長級の人を叱りました。
「あなたも部下の方に色々なことを指示したり要求したりされると思います。今このとき真剣に学ぶべきことを学ばなかったら、あなたは部下に何かを要求できる資格はないですよ」
 一期一会の研修講師、叱ると全体の予後はかなり悪くなりますから、本当は叱りたくないです。でも必要な場合は腹をくくって叱ります。

 まあ受講生様方や長い読者の方々なら先刻ご承知のことをつらつら書いてしまいました。


 で、繰り返しますが「承認研修」は優しいだけの研修ではありません。むしろ「承認」の実践を通じて「適切な厳しさの復権」ひいては「規範維持」までをも狙った研修です。

 こういうのはすぐにわかっていただけることではなくて、お客様がブレずに一定期間やり続けてくだされば、そうした全体の意味あいがわかってこられ、メリットを享受していただけると思いますね。
 最近も、「承認研修」数か月後に「LINE禁止令」を出したお客様の話をご紹介しましたね。

 なんども言いますように、人の脳の「自己意識をつくる部位」が同時に「外部の規範を取り込む部位」でもあるので、「承認」で相手の自己意識に働きかけながら規範を叩きこむ、というのは極めて有効なやり方です


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2.高業績を生み続けるもう1つの要素―異論を叩き続ける正田の「先生仕事」


 このブログでは最近「批判記事」が急増していまして、まあ批判しなければならない、「承認欲求」と「ほめる」をターゲットにした「邪悪かつダメダメな言説」というのも急増しているのも事実です。

 1つ前の記事もそうでしたが本記事の次の記事も批判記事になる予定です。

 で、「承認ファン」(などという人がいらっしゃるのかどうかわかりませんが)の方の中には、当然、

「せっかく人を肯定する、明るく楽しく優しい『承認』というものに魅かれたのに、正田さんは厳しすぎ、トゲトゲしすぎる。楽しくない、イヤだ」

という方もいらっしゃると思います。入り口の空気とあまりに違いすぎますよね。

 しかし。と、わたしは思います。

 「承認」というものが人の世を幸せにするためには、実践者のかたが単なる気まぐれでなく、未来永劫使い続けてくださらなければなりません。
 いや、効果を得るにはそんなに長くかからないですよ。実践を始めて1週間から数週間で、初期の成果は得られます。でも、「やめたら落ちる」。つねに意識的に努力し続けて初めて維持できるんです。そして部下や子供、弱者の側からしたら、上司や親が気まぐれで一時的に「承認」をやり、そのあとやめてしまう、というのは、不幸のどん底に叩き落されることです。やり始めたら、やり続けてほしい。業績がグワーッと上がった後やめたらストンと落ちた人のお話、けっして脅したくないんですがやっぱりそういうものです。


 そして今どきの目立ちたい一心の「おバカ論者」たちが、「ほめ育てはいけない」「承認されたいと思ってはいけない」などのコピーを使いたがることといったら。それらの言説はキャッチーなので、正しくなくても売れてしまうんです。「もう古いよそれ、オオカミ少年少女ちゃん」と言いたいんだけれど。ほんと、この手のことを言う人は例外なく人格がわるいと思っていいです。

 それをこのところ短いサイクルで繰り返していますので、せっかく「承認研修」の機会を持たせていただいても、以前より定着がわるいと感じることが多くなってきました。
 次の世代をたくましく育て、先細りぎみの日本人をよい方向に進化させる、ほとんど唯一の道筋だというのに。

 「おバカ論者」たちはまた往々にしてすっごい高学歴です。次の記事に登場する「先生」も、東大卒です。でも言っていることの辻褄が全然合っていません。
 
 で、正田は、感情的な悪口ではなく、書き手のロジックをきっちり追ったうえで叩き続けます。ダメなものはダメ、鬼デスクと化して。最近はだれもそういうことを精査しなくなったみたいですが、正田は言います。

 申し訳ありませんが、次世代の健全育成をダメにしてしまう言説を弄んで自分の夜遊びとかブランドバッグ用のお小遣いを稼ごうなんていう「おバカ論者」さんがたは、このブログで面目丸つぶれになっていただきます。たくさんの子供さんや若者たちの将来のほうがその人たちよりずっと大事です。


 「叩き記事」は一時的に読者のかたの気分を害するかもしれませんが、何よりも実践者の方々の誇りのことを思います。実践者の方々がだれか知り合いに、「慶応准教授のだれそれさん(この人は慶応の恥ではないのだろうか)がこう言ってたよ」と言われたら、「あ、でもその議論はこういう風に間違ってるってうちの先生が言ってたよ」と、涼しい顔で言い返せるために、ネタをご提供し続けます。涼しい顔で言い返さなくても、流されず引き続き誇りをもってやり続けていただくために。


「ブログ読んでいますよ」
 こう言ってくださる受講生の方が、ほぼ実践を継続し成果を生み続けていらっしゃいます。
 それは、こういう今どきの論壇の荒涼たる風景がその方々にもみえていて、その上で正田ひいては承認を支持してくださるのだと思います。読んでない人は、恐らく例外なく「おバカ論者」とその取り巻きのほうにのまれていきます。

 情報の多い、そして無価値なガセ情報のほうが目立つところで飛び交う時代、この隠れ家的なブログを読み続ける根性のある人々だけが、成果を手にし続けられます。

 あ、あと正田の「汚れ仕事」をさげすむような人は、後継者に指名しないですからねー(笑)手伝えとまでは言いませんけれども。

 
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3.教員定数削減と、「承認企業の職場が若者の最後のセーフティーネット」

 
 2016年度の公立小中学校の教職員定数について、政府・自民党は15年度よりも3470人超減らす方針とのこと。
 この教員定数削減については、1つ前の記事でも述べましたが、「エビデンス」を盾に女性学者さんが何を言おうと、そもそも今どきの諸般の事情で指導しにくい子どもたちをみるのに、40人学級とか35人学級は無茶苦茶なのです。あんたがみろよと言いたい。いいんじゃないですか、40人35人学級でOKだと思ってるひとは、自分が介護受ける側になったとき利用者40人に介護職員1人の施設に入れば。きっと、「エビデンス」は「それでOKだ、問題無い」と言ってくれるでしょ。

 わたしの持論で、日本の45人学級とか40人学級とかは、団塊の世代が50人学級だった時代の名残にすぎなくて、子供がイヤというほど生まれてきた時代に少々の落ちこぼれが出てもいい、また発達障害が顕在化しなかった時代に子供というものはみんな一律の健常者だという前提で生まれたものだと思います。今、その前提がまったく崩れている以上、子供が減ったから先生をそれに応じて減らすというのは大きな間違いで、ゼロベースでクラスの人数を見直したほうがいいです。そして「40人を35人に減らしても成績が向上しないじゃん」というエビデンスがあったとしても、じゃあ30人ならどうなの?20人ならどうなの?20人ぐらいが本当は妥当なんじゃないの?先生の数が増えたら学校のマネジメント体制を見直し、先生7人ぐらいにマネジメント1人、の体制にしてマネジメントの育成機能を強化すればいいんじゃないの?と思っています。

 まあ広井教授流に言うと、日本の子供が人生前半の福祉を受けられないことは目を覆わんばかりです。(先日のメールのやりとりでは、「ギリシャ、イタリアに似た、非常にまずい状態です」と言われていました。)でもおカネの配分の問題はそう簡単には解決しそうにないので、

 ひとつ福音は、
 そういう”不幸”な育ち方をしている若者たちが、「承認企業」に入るとイキイキと働くことです。行動をとり、責任を引き受け、開発をやり、元気な働き手となっていきます。
 
 たぶん昨年を通じてのわたしの感慨として、

「労働は、それ自体に人を『承認』するはたらきがあるのだ」。

 もちろん、労働そのものに付随して周囲や上位者やお客様に、その本人を「承認」する視線や態度、言葉がけがある状況のもとでです。労働の中のそれは、人生前半に十分な福祉を受けられず、親の早期教育熱に押し潰され、かつスマホの不安定な人間関係にすがり続けてきたひ弱な若者たちにとっても、かつてない質の高い力強い「承認」となり得ます。若者たちはそこで「育て直し」をされるのです。「生まれ変わり」といってもいいぐらいかもしれません。
 
 このメカニズムはまだよくわかっていませんが、今までのところそれは再現されてきました。これは某女性学者さんがバカにする「老婆の個人的体験」(この人、「老婆」っていう言葉を使っちゃうんですよね〜。びっくりしますね。あたしも52歳老婆ですけどね(笑))よりは、はるかに広範囲に長期間にわたって認められてきたことです。

 こんな高貴なすばらしいことを、なぜ大学の先生方は研究しようとしないんでしょうね。
 民間のわたしらのほうが、彼らよりはるかに歴史的で高貴なことをやっています。同志たちよ、そして受講生様方、それは信じていいですよ。

 だから、

「承認企業は若者たちの最後のセーフティーネットだ」。

おわかりいただけますでしょうか。


 ちょうど最近フェイスブックのお友達のご縁で、施設出身者や受刑者の就労紹介業のかたとお友達になったりして、この関係も、今後どう発展するか興味をもっています。ビジネスとしては期待できないでしょうけれど、お役に立ちたいですねえ。


2016年1月3日
正田佐与 

 
 
 

 


 

※この記事はその後、シリーズ化しました。『「学力」の経済学』のはらむ問題点、欺瞞、もたらす恐ろしい未来を多角的に丁寧に、だれにでもわかるようにご説明し、「正しい処方箋」を提示しています。
シリーズ・『「学力」の経済学』批判

エビデンスに惑わされず、論理の飛躍をじっくり味わいたい、「ほめてはいけない」論―シリーズ『学力の経済学』批判

優れた先生方との交流の思い出と、正田流・教育現場いかにすれば良くなるのかの試論

中室牧子氏(教育経済学者)は、恐らくASDだと思うこれだけの理由。 シリーズ『学力の経済学』批判  

「少人数学級は学力を上げない」はウソ!―シリーズ『「学力」の経済学』批判

「学力を上げる」先生方はどこを見ているか―シリーズ『「学力」の経済学』批判

本当は恐ろしい、『「学力」の経済学』がもたらす未来(1)―”中室提言”をよく見ると―シリーズ『「学力」の経済学』批判

本当は恐ろしい、『「学力」の経済学』がもたらす未来(2)―先生方は「経済人」ではない!―シリーズ『「学力」の経済学』批判


『学力の経済学』(中室牧子、ディスカヴァー・トゥエンティワン、2015年6月)。

 昨年の出版当時から違和感を禁じえなかった本でしたが当時はわたしがパワー不足で記事化するに至りませんでした。新年早々「批判記事」になってしまいましたがお許しください。


 またもや「ほめてはいけない」論。しかし、よくみるとこの人自身の論理が完全に破たんしています。近年こういう雑で不正確な議論が多いのだが、慶大准教授とかコロンビア大学大学院とかご立派な肩書をつけているにもかかわらず、「高校の小論文からやり直してきてください」というレベル。女性の悪口はあまり言いたくないのだが、「くれぐれもこの人の肩書にダマされないように」と声を大にして言いたい。その論理の部分はこの記事の後半でじっくりご紹介しますので、この人が正しいかわたしが正しいか、お時間のある方は見比べてくださいね。

 ごめん、あたしヒューリスティックとかの認知科学のエビデンス満載の本を読み慣れてるんで、いかにエビデンス満載でも論理がおかしいものはすぐ気がつくんですよ。

 「教育にエビデンスを」。
 この主張自体は、企業研修に統計調査を併用することをお願いしているわたしも賛成です。ただ、暮れの広井良典教授との対話にあったように、また経営学でもみたように、エビデンスをとったらとったで、EQの低い人々は極めて部分的な知見についてエビデンスをとって振りかざす傾向があります。下手にそれをきいて現場の意志決定に反映させるととんでもなく間違ってしまうことがあるので要注意です。
 
 そのさまを例えるなら、言葉は悪いかもしれないけれども「群盲象を撫でる」。巨大な象という生き物の部分、部分を撫でて「こうだ」と言ってしまう、たとえば鼻に触って「長い管だ」とか尻尾に触って「ひものようなものだ」とか足に触って「木の幹のようなものだ」とか言う。もちろんそのどれも、象という生き物について正解ではない。単にその作業を、学者たちが10cmぐらいの短い物差しを当てて「何cmですね」とやっているのと同じなのではないか。学者たちはそれでも、新しい論文を書けて論文数としてカウントされて、ちょっとでも新しい要素があれば、「知的に新しい」「新奇性がある」と評価されて査読を通り、学問の狭い世界ではおぼえめでたい、「認められる」ことになる。そしてわれわれ一般人にもドヤ顔で解説する。色々と学問の世界の知見を見ているとつい、そんな感想を抱きます。

 「舌鋒鋭い人」のことをわたしも言えなくなってきましたが。

 で、中室氏は慶応大学准教授、教育経済学者。このところ「教育にエビデンスを」という話題になると必ず引き合いに出されます。コロンビア大学で博士号を取り、沢山のエビデンスを引用しながら語る方ですが、でもこの方の“主張”にもわたしは「ン?」となってしまうのは、例えば教員定数削減が是か非かという議論のときに、「教員定数を増やす(=少人数学級制にする)ことの目的は学力を上げることですよね」と、なんの疑いもなく言ってしまうところです。

 えっと、そうじゃないでしょ。とわたしなどは思います。学力も上げたいが、それ以外のところのメリットを大いにみないといけないでしょ。まず、「学力」については遅咲きの子がいるので、小学校ぐらいの段階では先生の働きかけによって伸びる子伸びない子がいること。

 そして大きいのはメンタル面です。いじめによって失われるコストがどれほど大きいか。いじめ被害によって受けたダメージはトラウマになり、その人の生涯にわたってメンタルヘルス、対人信頼感に影響を与え続ける、という研究があります。今、LINEの登場で容易にいじめ・いじめられ関係が生まれるんですが、そちらには中室氏は恐らく全然関心がないようです。だから、「研究によってこういうことが証明されています」といくら学者さんが言っても、単にあなたがほかのことに関心がなかっただけでしょ、という見方もできるのです。意欲の喪失、人に対する信頼感の喪失。こういうことを「コスト」と認識できないのだろうか。小さい時の学力がどうより、そちらのほうが、大人になって「よい企業戦士」になれるか、「納税者」になれるか、ということに関わってきます。

 大体、わたしが企業研修をさせていただくときお客様にお願いする1クラスの人数というのはここでは言えないような超・少人数です。40人とか35人なんてあり得ません。そのへんだと、5人ぐらい減らしても一緒。経験的に閾値があって、「この人数設定にしないといい学習効果を生まない」ということが、年の功でわかってきましたので確信をもってお願いしています。そこは厳密にエビデンスをとっているのではないが、「技術屋の勘」ですね。また、1人のマネジャーが部下をちゃんと育成指導も含めてみれるのは7人ぐらいが限界、このあたりは心あるマネジメントの人とは共通認識です。

 それからすると、今の40人とか35人学級でやっている先生方はお気の毒としか言えません。壊れていくのも当たり前です。 


 まあ、『学力の経済学』に戻ります。この本には
「子どもはほめ育てしては『いけない』」という項があります。わたしはここに非常に引っかかりをもちました。引用している知見には特に問題はありません。問題は中室氏の「書き方」のほうなのです。

 ここでは、

「子どもはほめて育てるべきなのか」
 これも、私が友人からよく受ける相談です。

という書き出しで始まります。中室氏はここからほめ育てを推奨している育児書を読んでみると、
「ほめて育てると自尊心が高まる」
という意味のことが書いてあり、ここから、
ほめる⇒自尊心が高まる⇒学習意欲が高まる
は成立するか?という中室氏の問いになります。ところが、過去の研究から導かれた知見は:
 自尊心が高まれば、子どもたちを社会的なリスクから遠ざけることができるという有力な科学的根拠はほとんど示されなかった。
 学力が高いという「原因」が、自尊心が高いという「結果」をもたらしているのだと結論づけたのです。
 このあたりは太字表示され、世の常識を破ったことに、中室氏のドヤ顔が伺われます。
 
 えー。ぽりぽり。
 ここまでの記述、受講生及び『行動承認』読者の皆様はいかがですか。
 よそさんのことは知りませんが、少なくともあたしの「承認研修」では、
ほめる⇒自尊心が高まる⇒学習意欲が高まる
という論理構築はしておりません。しているのは、
良い行動を(行動理論的に直後に)ほめる/承認する⇒その行動を繰り返す、自律的になる⇒仕事ができる人になる
という論理構築です。で、やっていただくと大体この通りになります。

 というわけで「中室説」に浮足立ちませんように。やっている論理構築が違いますから、中室氏の指摘はうちには当てはまりません。もともと正田は「ナルシシズム」に対して警戒感が強いのでー、「自尊心が高まる」は中室氏の言うように、仕事ができる人になったから結果としてそうなったと思います。行動したか、しなかったか、その行動が正しかったか。そういう現実に揉まれる中で身の丈にあった自尊心を持てばよいのです。
 
 次に、中室氏が紹介したのは、「あなたはやればできるのよ」という「ほめ言葉」を伝えて自尊心を高めた学生がテストの成績が良くなったかどうか、という研究。結果としては良くなりませんでした。

 これも、まず「やればできる」というのを「ほめ言葉」と言えるのか、というのがあります。何の根拠もないですやん。単なる期待というか妄想というか、ですやん。近頃は「YDK(やればできる子)」という言葉まであるそうですが、これって上げているようで落としてますよね。「行動承認」的にはもちろん、あり得ません。

 それを言われて、学生の側が自尊心が本当に高まったのかどうか、もクエスチョンです。
まあ、高まったかどうかは「うち」的にはどうでもよろしいのですが。
 
 このあとは本書では、「能力をほめる」のと「努力をほめる」のとどちらがいいか?という研究を紹介します。はい、これは以前別の本の読書日記で出てきましたね。言い古されてますが、あとの方です。ここでも「行動承認」をやってくだされば、問題はありません。

 …で。
 最初の、中室氏が友人から受けるという質問。
「子どもはほめて育てるべきなのか」
 これへの応答として、中室氏は本書で言っているのは
(1) 自尊心を高めても成績は良くならない
(2) 能力をほめるのは×、努力をほめるのは〇
です。この答え方、どう思いますか?

 「努力をほめるのは〇だよ」
 常識的で親切なあなただったら、お友達にそう答えるんじゃないですか?

 わたしなら、
「ほめるというと中にはダメなほめ方があるのでお勧めできないが、わたしどもで『行動承認』と呼んでいるやり方なら問題が起きず、いい結果になります。むしろこちらはやらないと損なぐらいです。是非おやりになってください」
と答えるでしょうね。
 子供でも親でもそこは一緒なんです。「〇×をしてはダメ」という「禁止」のメッセージばかり与えられると、何をしていいかわからなくなり萎縮して何もしなくなってしまうんです。
「〇〇をやってください」
と、「肯定語」ではっきりしたメッセージを伝えてあげることが大事。

 学問的に正しくあろうと、ああでもないこうでもないと言いたくなる気持ちはわかりますが、いやしくも教育にたずさわる立場の人なら、相手が子供であれ親であれ、混乱させないようなメッセージを伝えてあげてください。中室先生、あなたの生徒さん、成績大丈夫ですか。あたしは正直言って、中室先生に指導教官になっていただきたくありません。

 正田が「行動承認」という限定的な言葉を使っているのは、忙しい受講生様方に無用の混乱を招かないように、という配慮で言っています。わたしの生徒さんがどんどん「1位」になる理由、おわかりいただけますかしら。

 どうも、先日の「アドラー心理学」の件以来思っているんですけど、多少本を読むようなお利口さんの方々というのは、「…してはいけない」というメッセージに弱いのではないかという印象があります。上から、「ガッ」と言われると嬉しくなってしまう、「ああ、偉い人に言ってもらえた」と思って。「M」ですね。お利口さん層を嬉しがらせるフレーズなのではないかと思います、「…してはいけない」というのは。(ストレングスファインダーでいうと何の持ち主かなー、というのは大体想像つくんですが)

 そういうおバカな人はほっておいて、わたしの研修を受ける本当にこころが賢い人は、素直に「〇〇してください」というメッセージを受け取っていただけることと思います。仕事上の指示って大体そういうものでしょ?

 そして上記のように「ほめる」に関して「是々非々」の知見が出ているにもかかわらず、中室氏は「ほめ育てはしてはいけない」と逆張りっぽく、本書の冒頭で言い切ってしまっています。ミスリーディングですね。そこの部分だけ読んで早とちりして「そうなんだ、いけないんだ」と思っちゃう人が、先生にも親御さんにも出てくる可能性があるのでイヤーな気分になります。親に褒めてもらえない子供さんが増える。そういう自分の言ったことの結果について想像力が働いていないのではないか、この人は。先日の経営学のエビデンス坊や、入山章栄氏と一緒ですね。

 少し丁寧に中室氏の論法をたどってきましたが、ここは誰の目にも明らかに論理の飛躍があります。わたしの想像では、ここは中室氏自身のバイアスが入っています。おそらくこの女性学者さんは、「ほめて育てる」ことをご自身が苦手とされてるんです。学者さんにそういう人格の人は実は多いですね。それをなんとか正当化したいので、自分の都合のいい知見を並べ飛躍のあるロジックを展開してしまっています。

 本当は、上に「是々非々」と書きましたけれど、行動理論的に正しい褒め方をして成果が上がったエビデンスなんて、心理学の方には山のようにあるはずですよ。わたしの恩師の一人、武田建氏なんかはアメフトの行動理論で全国7連覇しちゃってますからね。こういう常識的なエビデンスのほうをもっと見た方がいいです。彼女の選び出したエビデンスがそもそも偏っていると思います。本当は、(行動理論的な)「ほめる」と「ほめない」は、1970年代ぐらいからとっくに決着のついている問題なんです。中室氏の個人的な負け惜しみに耳を貸しちゃいけません。

 要は、この人は「エビデンスだけは使っているが、考察部分と結論は×」なんです。ぜひ、高校の小論文をみる教諭になったつもりでこの人の文章を読んでみてください。たぶんほかにも色々な部分で「眉唾」だろうと思います。エリートコースを歩んできて世の中をなめてるんじゃないでしょうか。



 中室氏は本書のあとのほうでは、教員の「質」の問題を言っていますが、そこで「研修」は無効、ということも言っています。それでまた、「研修屋」としては、「ちょっと待ってよ」と思います。

 というのは、教委などで企画する「教員研修」って、やっぱり50人とか100人単位の「マス」の研修が多いんです。大教室での「マス」の講義が、どれほど学び手に「自分なんか、いてもいなくても同じだ」という「承認欠如」の気分を味わわせるか、というのは2つ前の記事(「わざの教育、自我の確立と自我からの解放―『スピリチュアリティと教育』をよむ」)に出てきました。大学生でそうなのですから大人でももっとそうだと思います。

 そういう、研修事務局に「研修とはこういうもの、だって過去もこうだったんだから」という思い込みがある限り、「研修は無効」という結果になり続けるでしょう。ごめん、わたしからみるとそんなのは周回遅れですね。わたしは正しい効果発現メカニズムを早くから特定した人なので、それをどうやってより強力に効果発現させるか、というところにも早くから心砕いた人なんです。過去に自治体研修などでも「50人100人のマスで、かつ1日研修でコーチングの承認傾聴質問叱責の4つをやってください」というご依頼をいただいてお断りしちゃいました。

 というわけで中室氏も先日の入山章栄氏と同じく、「エビデンスをふりかざしてドヤ顔」の人です。今からはこういう人が増えるのでそれに向けたニックネーム考えないといけないですね。(可愛く「エビちゃん」かな)わたし的には「部分的には正しく、部分的には間違い」の人です。「ほかのことはともかくこの主張に関しては現場の実感に照らして間違ってる」と思ったらシカトしていいと思います。ただ政策に関わる人たちは、エビデンスを無視するわけにもいかないんでしょうけどね。

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 新年早々、批判記事におつきあいくださり、読者の皆様ありがとうございます。そしてごめんなさい、お目汚しで。
 たぶんこの次も批判記事になるでしょう、というのは年末にまた、「逆張り」を狙ったらしいおバカな本が出たからです。

 今年も延々とこんなことばかりして暮らすのかなあ〜。それぐらいよくいえば百家争鳴ソフィズム全開の時代なんです。「批判屋」っていうのが商売として成り立たないかなー。。

 たぶんやればやるほど、
「行動承認最強」
を確認することになるんですけどね。


正田佐与

シリーズ・『「学力」の経済学』批判

エビデンスに惑わされず、論理の飛躍をじっくり味わいたい、「ほめてはいけない」論―シリーズ『学力の経済学』批判

優れた先生方との交流の思い出と、正田流・教育現場いかにすれば良くなるのかの試論

中室牧子氏(教育経済学者)は、恐らくASDだと思うこれだけの理由。 シリーズ『学力の経済学』批判  

「少人数学級は学力を上げない」はウソ!―シリーズ『「学力」の経済学』批判

「学力を上げる」先生方はどこを見ているか―シリーズ『「学力」の経済学』批判

本当は恐ろしい、『「学力」の経済学』がもたらす未来(1)―”中室提言”をよく見ると―シリーズ『「学力」の経済学』批判

本当は恐ろしい、『「学力」の経済学』がもたらす未来(2)―先生方は「経済人」ではない!―シリーズ『「学力」の経済学』批判

『講座スピリチュアル学第5巻 スピリチュアリティと教育』(鎌田東二企画・編、ビイング・ネット・プレス、2015年12月)を読みました。
 西平直、上田紀行、中野民夫ら豪華執筆陣。「『スピリチュアル学』とは、こころとからだとたましいの全体を丸ごと捉え、それを生き方や生きがいなどの生の価値に絡めて考察しようとする学問的探究をいう」と「はじめに」(鎌田東二)にあります。

 正田はこの本の第二部「教育と贈与的他者性とわざ」の伝統芸能の中のわざの伝承の項に興味をもって読み始めたのですが、ほかのパートにもわたしの仕事的に重要そうな記述がたくさんありました。―あまり期待しないで読みはじめた本に多くの発見があるというのは、この歳になって心楽しいことであります―

 また、従来「スピリチュアル大嫌い」の方針で来ていますが、この本で扱う範囲の「スピリチュアリティ」は許容範囲だ、ということにいたしましょう。

 当初のお目当てだったパートを最初に、続いて他のパートからも順に抜き書きをさせていただきます。(引用部分太字)

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◆わざの臨床教育学に向けて―「できる」と「できない」をつなぐ身体(奥井遼)

淡路島を本拠とする人形浄瑠璃の一座、淡路人形座を舞台に、わざの伝承における教え手と学び手の身体の変容を考察しています。3人の人形遣いが一体の人形を動かす、新人は「足遣い」から始め20年以上かけて「頭遣い」になっていく世界。

伝統芸能におけるわざの稽古の現場は、「阿吽の呼吸」や「名人芸」など、とかく神秘的な色合いとともに語られることが多い。しかしながら本稿が光を当てるのは、むしろ華々しく表象化された言説の中でかき消されてしまうような、現場において生じている名もない試行錯誤のやり取りである。彼らの経験は、(略)型の習得に挑んで失敗したり、人形の振りを忘れてしまったり、身ぶり手ぶりを駆使してかろうじて会話し合うような、ままならなさに満ちている。こうした等身大のやり取りに着目することで、習慣的な動作を脱してわざを身につけ、一人の人形遣いになっていくという困難で奇跡的な出来事が見えてくる。(p.205)

 ベテランの人形遣いたちはすでにわざを身につけ、舞台に立っています。身につけたわざを自明のうちに駆使し、わざを同じ程度身につけている人形遣い同士の会話は極めて円滑です。
 だが稽古の時間は違う。とくに、新人がはじめての動きを習得するときや、ベテランが未知の振りに挑戦するようなときがそうである。それまでにやったことのない振りに出くわし、当人の身体がついていかないという事態が起こるからである。このとき稽古の場に居合わせた人たちは、「できる」身体に立つか「できない」身体に立つか、乗り越え不可能な差異に直面することになる。(p.207)

―「できる」人と「できない」人の差異。これは当然、研修講師としての正田と初めて受講する受講生様との間にも横たわっています。また受講後の人とそうでない人との間にも。不思議なもので、「承認研修」は恐ろしく単純なものなのにその前後で大きな段差をつくりだします。そのことは過去に本を書く時にも事例セミナーをやる時にも、つねに課題となってきたところです。とにかく「できる」人たちに見える世界がそうでない人のそれとは違いすぎ、話せば話すほどリアリティがなくなってくるのです。それは余談です。


 すでにその振りが身についている人は、身についていない身体には戻れないし、振りが身についていない人は逆に同様である。ここに教え手と学び手とが誕生し、両者が協力しあって「できる」身体を導く共同作業に挑んでいくわけである。ここで彼らの身体は、身ぶり手ぶりを尽くして、もがく。…この、もがいたり手さぐりしたりするような動きこそ、「概念化される以前の生」の躍動のひとつである。(同)

―もがいたり手さぐりしたり。実は、「承認研修」はこのプロセスをある程度自動化してしまっていますが、つまり「こういう論理展開でこれぐらいの体験をしてもらって、講師の話し方はこんな感じで」というさじ加減をレシピのように決めてしまっていますが、際限なく「これで本当にいいんだろうか」と迷いがわきます。
 今後あるかどうかわかりませんが、「承認」講師志望の方が徒弟制で真摯に学びたい、と言ってこられたとき、こうした「もがいたり手さぐりしたり」の場面があるかどうかはわかりません。上記のレシピを何も考えずにコピーしようとする人も出てくるかもしれないが、ちゃんと考えてほしいものだが…。

―たとえば、‘遣い(教え手)は足遣い(学び手)に自分の動作をゆっくり行って合わせてもらおうとしたときに、不意に自分の動作を忘れてしまう。(「分からへんようになってもうた」。)そして(自分の動作でなく)人形自身の動作をやってみることで、自分の動作を取り戻そうとする。
△△襪い蓮言葉での指示に限界があることがわかると、頭遣いは人形の足をつかみ、動作を分節しながらやってみせる(直接的な介入)。
あるいは、足遣い(学び手)の誤った動作を先輩(教え手)がやってみせたうえで、「こうでなく、こう」と正しい動作を教える。足遣いは、それでも自分のどこが失敗した動作なのかわからない。「こうですか」と自分でもやってみせ、それはやはり違うことを指摘されてはじめて教示されていたことの意味がわかる。(いわば「できる」教え手たちと「できない」学び手とのやり取りは、足遣いCによる積極的な探求によって、足遣いCの「できない」を共同的に析出することによって成立した。pp.223-224)

 手本とは、教え手たちの連携のみによって呈示されるものではなく、それを受け取る学び手からの働きかけを得ることによって、すなわち、送り手と受け手が共同的に探り合う中で、はじめて手本として成立されるといえよう。(p.219)

 総じて教え手たちは、正しい振りについて熟知していたとしても、それだけで学び手を導けるわけではない。反対に、学び手にとっても、いかなる仕方で自分の身体を動かせばよいのかを、動かす前から知る術はない。稽古とは、あらかじめ行く先の見えている道をひた走るような活動ではなく、互いの身体を少しずつ変容させ合うような、教えることも学ぶこともそこから「引き出される」ような、「どちらが創始者だというわけでもない共同作業」であって、道を切り開きながら進むような歩みなのである。(p.224)


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 ここで正田の感慨。
 こうした「徒弟制」が、これまで「承認研修講師」の世界では成立しませんでした。学び手の側にそこまでの学ぶモチベーションの持ち主がいませんでした。
 過去に「承認の講師になりたい」と言ってきた人も、「わたしは講師になる人には厳しいですよ。スパナで殴りますよ」「徒弟制ですよ」と言われると、次に会った時からは「いえ、講師にはなりたくありません」とトーンダウンするのでした。彼(女)らは、講師育成の世界も「承認で優しく」教えてもらえる、と思っていたようでした。
 その人たちにとって、「講師になる」というのはクリエイティブな楽しいだけの作業であり、過去に自分が受講して楽しかった研修の中から切り貼りコラージュしてつくるもので、主眼は
「女子力高いチャーミングな私」
「みんなから注目を浴びる中で大事な人生訓のような『決めゼリフ』を言う私」
をやることでした。「私」が大事なのでした。
 そうじゃないでしょ。マネジャーという人生経験もあり責任もあり、また人一倍、傷つけられ経験も裏切られ経験もある人たちに対して自分の言葉を「しみこませる」というのはどれほど大変なことかわかってるの。薄っぺらな研修講師の言葉なんてすぐ見透かされるよ。ロジカルにつながってない話も見抜かれるよ。(心の声)
 ―まあお客様でも、特に直接の購買担当者の人たちは往々にしてそのへんのことわからないで、底の浅い商品ばかりお買い物するのですけどねー。
 そういうレベルの品質の話をできる人にこれまでお会いしたことがなかった。これからは、できるのかもしれない。少数の人と。
 NPOから財団、そして個人事務所へ。「仲間」の数をどんどん減らしてきたのは、精製したい、ということでもあります。随分読書日記と離れたところへきてしまいました。

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 それ以外の本書『スピリチュアリティと教育』で心に残った箇所を抜き書きします。

 学び始めると、これが、奥が深い。「教育」というのは「底なし」だと思わされた。どこまでいっても窮まりというものがない世界。「納得」もない。常に「反省」と「創意工夫」と「練磨」と「試行錯誤」しかない。一種の「修行」のようなものであるとも思った。それは、「真剣勝負」であるには違いない。(「はじめに」鎌田東二、p.4)

「スピリチュアル学」とは、こころとからだとたましいの全体を丸ごと捉え、それを生き方や生きがいなどの生の価値に絡めて考察しようとする学問的探究をいう。また大変重要なことであるが、この世界における人間存在の位置と意味についても真剣に問いかける姿勢も保持している。そのような意図や方向性を持ちつつ、心については心理学、体に関しては生理学や神経科学(脳科学)、魂については宗教学や神学といったような、従来の細分化された専門分野に限定されてきた学術研究の枠を取っ払って、こころとからだとたましいと呼ばれてきた領域や現象をホリスティック(全体的)に捉えようとしたのが本シリーズである。(同、p.7)


―次のパートは、いきなりわたしの仕事的に大事なことが出てきました。

 「自我」は大切なのか、それとも「自我」は危険なのか。自我を形成してゆくべきなのか、それとも自我から離れてゆくべきなのか。(略)
 後年、この二つのメッセージが、実は異なる「読み手」に向けられていたことを知った一方は「自我を確立する以前」の人たちに向けて語られたもの、他方は「自我を確立した後の悩みを抱えた」人たちに向けて語られたもの。(「教育とスピリチュアリティ―その関係をいかに語るか」西平直、p.19)

 ここで話を簡単にするために、教育を「自我形成ベクトル」と重ねる。むろん教育の定義としてはこれではまったく不十分なのだが、それでも一般的な意味において、子どもの「自我形成」を援助するベクトルを教育と理解することは許されてもよいだろう。「自我形成・主体形成」の支援としての教育。
 他方、それとは逆方向の「自我から離れてゆく」ベクトルをスピリチュアリティと理解する。むろんこの場合もたくさんの議論が必要なのだが、スピリチュアリティの一側面として「自我から離れる」という要素が含まれていると理解する。(略)
 ところで、この対比に、ライフサイクル(人生)の区分を重ねてみれば、人生前半においては「教育=自我形成」が大切であり、人生後半においては「スピリチュアリティ=自我からの解放」が大切であるという、分かりやすい図が出来上がる。(同、p.23)

教育とスピリチュアリティ


 さて、こうした図式的な理解において、スピリチュアリティとは、いわば、自我や主体の確立がもたらす「弊害」を警告し、その問題を解決しようとする方向性である。自我や主体は大切なのだが、しかし同時に自我は自己中心的になる。自我に縛られる時、人は、自分を中心に他人を利用し、自然を利用し、のみならず、それを当然と考えるようになる。
 そこでスピリチュアリティは「離れてゆく」ことを勧める。自分(自我・主体)を中心にすることから離れる(手放す・中心を明け渡す・letting go)。そして「関係性」を中心とする。自分一人の利益ではなく、自分を含んだ関係性の利益を中心にする。(同、p.25)

―このあたり、長い読者のかたはおわかりになりますね。「例の漢字2文字」の教育が担う領域というものが。それは上の図でいえば右側、「自我から離れてゆく」スピリチュアリティの教育に該当することをします。人生後半に行われることが望ましい教育です。
 たとえば「若手に承認研修を」というご要望に対しては(よくあるんですが)基本、お断りをしています。それはやるとすれば、組織開発で言えば最終段階です。その年代はまだ「主体確立」の教育をやる段階なのです。中年以上の人にこそ必要です。
 逆に、せっかくの機会なのであえてこういうことも書いておきますが、中年以上の人に教育をする場合、実はわが国では特に、若い頃までの「主体確立」ができてないまま中年になっている人も多いので、「承認教育」をやっても混乱が起こる場合があります。なかなか困った課題です。
 わたしが取りあえずそこでやってきたことは、まずは「承認教育」をする際に「もらう側ではなく与える側になりましょう」と念を押すこと。「承認欠乏症」でその歳まできた人が多いわけですから、ともすれば「オレだってもらう側になりたい(欲しい)」が強く出てしまいます。そこをあえて我慢して「与える」側になっていただく。ちょっと気の毒な要求ですが、第一段階ではそうします。
 思い切って「与え手」になると、意外にそれである程度充足が得られます。若手中堅がよい反応をしてくれたことで「自己効力感」が高まります。
 その段階になっていただいてから、徐々に「強み」「価値観」といった、「主体再確立」に向けたプログラムにも馴染んでいただきます。同時並行といいたいですが時間的にはそちらが「後」になりますね。
(なぜ「主体再確立」が「後」になるかというと、簡単に言うとリーダーが「ワガママ」になってもらったら困るからです。自我がぶわーっと拡張した状態の上司を部下は止められないからです。こんな簡単なこともわからずに無造作に「主体確立」系の研修を最初からリーダー研修としてすすめてしまう業者さんが多すぎます。そっちのほうが高揚感があって楽しいんです)
 ともあれ、「承認される前に承認せよ」と、リーダーに対して最初にする要求がかなり「過大」なので、「承認研修」では、「最適条件」というのをかなりうるさく事務局様にお願いします。ほんとは、毎回「決死の覚悟」でお伝えしているので、もっと評価していただきたいなあ、と思うところです。あとになると「簡単なことじゃん」みたいに見えると思いますけれど。
 ああまた読書日記から離れたところへきてしまった。

―このあとの文章では「スピリチュアリティが教育を『包み込む』」という表現も出てきます。それは、わたしがやっているような「関係構築研修」の中に「主体確立研修」を包含するような作業も言うのか、よくわかりません。

―大教室での講義がもたらす心理的作用。

 従来の大教室の講義は、その内容が最初から決まっている。そして教員はその講義内容を以前であれば黒板に板書しながら、現在の理工系の講義の多くではあらかじめ用意されたパワーポイントスライドを映写しながら説明する。大学の講義といえばこういった風景が思い返されるだろう。
 この講義で伝達されている講義内容はその科目ごとの学ぶべき内容なのだが、それがどの科目であるにせよ、ひとつの大きなメタメッセージを学生たちに伝えている。それは「自分がここにいてもいなくても、世界はまったく変化せず、同じように進んでいく」というメタメッセージだ。
 私がここにいる以前に講義の内容は決定されていて、それが粛々と進行していく。自分がこの教室にいても、家で寝ていても、同じように講義は進行していくだろう。自分自身は世界のあり方に何の変化ももたらさない。そういった世界との切断感をこうした講義は知らぬうちに潜在意識に埋め込んでいく。「あなたなんかいてもいなくても同じだ」、こういったメッセージほど魂を傷つけるものはない。(略)しかし私はここにいてもいなくても世界が同じように進行していくのならば、なぜ私はここにいなければならないのかという、存在に対する不安と無力感、疎外感は、私の青年時代よりも現代のほうがむしろ昂進しているとも言え、その中でのこの講義形態はかなり暴力的なものであるとも言える。
 もっともそこで自身の無力感と世界との切断感に気づかせ、そこからの再起を促すというのであれば、非常に教育的な講義形態だとも言えるが、しかし多くの学生はそこまで至らず、単に「自分がいてもいなくても世界は変わらない」という世界からの切断と自身の無力感にとどまってしまうのではないか。さらにそれは後述する「物事には決まった正解があり、それを学ぶのが学問であり、その正解を求めるのが評価される道である」という、極めて非創造的な学問観に容易につながっていく。(「大学全体の教養劇場化を目指して」上田紀行、pp.45-46)


―いかがでしょ。「大教室方式」がつくりだす「いてもいなくても同じ」感。筆者はすごい雄弁に叙述しますがその通りと思います。これも「例の漢字2文字のやつ」とつなげて考えると良さそうですね。
 いらっしゃるんですよね、50人とか100人とかの大人数集めて盛大なかんじの研修をやるのがいいことだ、と思っている方が。しかし「承認研修」はそれは馴染みません。「承認されてない」感覚満載のなかで「承認」を学ぶという、ねじれ現象になります。結果、大多数の人の「学び逃し」を作り、貴重な機会を逸してしまうもとになります。こういうのはもう技術の世界のセオリーなどと一緒で、厳密に決まっているものです。

―上田氏によるリベラルアーツ教育の「4つのC」。
1.コミュニケーション:伝える力。
2.クリエーション:哲学書(それ以外の書も?)を読んで「自分はどのように成長していくのか」「自分を深めていくのか」「未来をどういうふうに切り開いていくのか」「どのように世の中をよりよきものにしていくのか」を考える創造性をもつこと。
3.コミットメント:「関わる力」。評論家のようにただ言っているだけではダメ。
4.ケア:学生自身が、自分の周囲にいる人がよりよく生きていくことをサポートする能力。(同、pp.52-54)


―気づきの教育について。
 ここは過去にマインドフルネスについて書いた記事とかなり重なりますが、大事なことなので引用しておきましょう。

 ホリスティック教育のなかでは、スピリチュアリティにかかわる取り組みとして観想的実践に大きな比重が置かれている。しかし、それは観想教育でしばしば強調されるような、身心の健康増進のためのスキル学習というものに留まらず、むしろ人間のホリスティックなあり方を実現するための主要な実践として位置づけられる。
 日常生活において人間の行動は、そのほとんどが習慣的なものであり、とくに注意や気づきを要することなく自動的に生じる。そのさい意識はいわば半覚醒状態にあり、ほとんどたえず思考活動に同一化しており、ときおり感情や目立った身体感覚が生じたときには、それらに同一化しやすい。そのような状態では、思考や感情や感覚への無自覚的同一化と、それらに対するパターン化された反応としての断片的行動が継起している。これに対し、観想的な気づきの実践は、非難や評価をまじえず、自分のなかに生じる感覚、感情、思考に注意を向け、それらを細かく観察していく訓練である。このような自己観察は、自己を構成するものを明晰に識別して詳しく知ることに役立つ。そして気づきのなかでは、感覚、感情、思考の個別現象から脱同一化することができ、それらに無自覚に支配されることが少なくなる。観想的実践で重要なのは、気づきの意識を十分に確立し、気づきへのセンタリングが起こるということである。
 クリシュナムルティやオルダス・ハクスレーは、このような意味での気づきの教育を提唱していた。クリシュナムルティは、人間の精神が社会や伝統や宗教によって条件づけられることによって、恐怖、葛藤、苦しみ、悲しみ、暴力などが生じることを分析し、既知のものによる条件づけから抜けだす道として「無選択の気づき」や「全的な注意」を強調した。気づきを高めることによって、人間は自分の条件づけを知りそこから脱同一化し、自由で創造的で、真に英知のある存在になることができる。気づきのなかで精神の思考活動が静まると、現にそこにあるものの直接経験が生まれる。言語的思考による分節化が静まるため、境界意識は消え去り、周囲の世界に直接ふれてひとつになることができる。クリシュナムルティが「教育とは、鳥の鳴き声を聞き、大空を見、えもいわれぬ樹木の美しさや丘の姿を眺め、それらとともに感じ、本当にじかに、それらにふれることでもある」と述べたとき意味していたのは、そのような高められた気づきのことである。(「ホリスティック教育とスピリチュアリティ」中川吉晴、pp.113-114)


―最近は「グーグルの社内教育」としてマインドフルネス研修が隆盛のようですね。これはけっして批判ではないのですが、わたし自身は過去何回か「瞑想」にチャレンジして挫折しました。研修の中ではできますが日常ではなかなか…。(ADHD気味なのだとおもいます)そういうドロップアウト群がかなり出ると思う、ひょっとしたら過半数ぐらい。「承認研修」だと、丁寧にやればそんなにドロップアウトが出ない。かつ、日常動作であるだけに、上記のような「気づき」の効用が得られる。まだだれもそうした効果を検証してくれないんですけどね。

―ベルクソンによる「閉じた道徳」と「開いた道徳」。
(ベルクソン『道徳と宗教の二つの源泉』1932年による。「愛と自由の道徳教育」矢野智治、pp.155-157)

 うーん、感動的な文章だけど引用するのをやめよう。「閉じた道徳」よりも「開いた道徳」というもののほうが、素晴らしい模範的人物への熱中により、喜びに満ちていて超個体的な自由への欲望、絶対的な正義への欲望、…などありとあらゆる良いものを希求すると述べています。カリスマ志向というのはないんですね。あたしも家元だけど平凡な人間ですし。
 ここだけ引用しよう。「愛」について言っているところです。

 …このとき「開いた道徳」を特徴づける情動とは「愛」である。この愛は私たちが通常使用している男女の性愛の愛とも、また家族の愛や、祖国への愛とも異なる。このような愛は結局のところ、他の人々とのあいだに境界線を生みだしてしまう閉じた愛であるのに対して、「開いた道徳」を特徴づける愛は、反対にその境界線自体を溶かしてしまうものである。だからこそ先の引用に見られたように、「愛の人」の行いに私たちは引き込まれ共鳴し感動することになる。(同、p.158)


 「愛」の概念。「ホネットの承認3定義」(1)愛(2)人権尊重(3)業績評価―に関して、この定義自体はすごく良いものですが、ここでいう「愛」とすこしちがう「愛」もあるよなあ、と思ったりします。それは「承認」がカバーする範囲ではない、と言われそうですが、ホネットが、「愛」を異性愛と家族愛というところにかなり限定して使っているのにたいして、マネジャー教育をしているともうすこし範囲の広い「愛」がたしかにある気がするのです。
 実際に「承認教育」を受けて使い手になった人たちは、PTAの役員になったり地域や業界団体の仕事を引き受けたり、自分の家族や会社部署の枠組みを超えて責任を引き受けるようになるというのもよく見ます。

―ブーバーの実践。「対話」の奥にあるものは。

 まず、生徒と結ぶべき関係を一言で言えば、「対話的関係」に他ならない。ブーバーにおいて対話的関係とは、独特の深い意味で、呼びかけや問いかけに、応答することであった。子どもが呼びかけるとき、たえず十分に心を集中して耳を傾け、そのときの自分に応えうるかぎり精一杯に応答すること。それが大人の応答的な責任であり、そういった応答の交換が、「対話」の本質である。
 呼びかけに応答する対話が大切なのは、その言葉で伝えられる内容もさることながら、それが他者の存在を肯定し、かけがえのない存在として、ありのままの存在として、存在することを承認するからである。人は自分を、自分自身によってのみでは、自分が存在することの意味を確かめ証すことができない。なんらかの自己を越えるものからの「確証(承認)」によってのみ、自己を肯定することができる。(「教育的日常の中のスピリチュアリティ」吉田敦彦、p.192)


―「対話」というものも「傾聴」というものも根底は「例の漢字2文字」ですね。対話ブームというのも数年来ありましたし、昨年から今年初め、妙に「傾聴研修」がトレンドでした。メンタルヘルスチェック義務化にともなって「メンヘル対策の決定打!」とされたのかもしれません。本来こういうことは「あれか、これか」と選ぶことでもないんですが、そこでは「承認なき傾聴」というものが往々にして行われ、それは「仏作って魂入れず」のきわめて不完全で気持ち悪いものだったのです。わたしなどの感性からすれば。

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 ふー、なんとか今回はワード9ページで終わりました。
 やっぱりあたしの仕事の本筋ですからね、ええ。といっても「承認研修」の構成は別に変らないと思いますが、「なんで、こういうことをこういう形でやってるのか」をつねに新しい言葉で説明することは必要ですね。自分でもすぐ忘れちゃいますからね。


正田佐与

 また、お客様のところにリサーチをかけてしまいました。

 今年は統計調査へのご協力例がなかったので、研修効果測定はお客様へのインタビューのみになります。
 LINEの登場により、恐らく組織の上司部下関係は激変しています。そこに「承認研修」はどれほど役立っているのか、気がかりなところではありますが、

 結論からいうと、問題は起きていませんでした。というか治っていたようでした。

 あるお客様のところでは、若手に「LINE禁止令」を出しました。以前からLINEで組織や上層部に対する悪い噂や悪感情が広まる、という現象がありましたが、それに関してはリーダーから「禁止令」を出したそうです。グループを作ることまでは禁じられませんが、会社や部署について中途半端な情報を書き込むことはやめなさい、中には部外秘のこともあるので、ときっちり、全体に対しても本人に対しても言い、それ以来目立った問題は起きていないそう。

「手前味噌ですが、それはやはり『承認』導入後だからでしょうね」

とわたしは言いました。「承認」抜きで一足飛びに「LINE禁止令」を出したら反発を食うだけでしょう。「承認」で上層部に対する大きな不満がなくなり、かつ「やめなさい」という上司の言葉が素直にきける状態になった、ということでしょう。

 こういうのは、例えば小中高生へのスマホ対策で「自分たちで話し合いをさせルールを決めさせる」というノウハウもあるわけですが、それを杓子定規に当てはめるわけにもいかないのが会社というところだと思います。会社は会社で、自力で試行錯誤しながらやり方を模索しないといけません。学生よりははるかに求められる規律の質が高い世界です。

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 というわけで、「承認研修」はLINE時代であっても上層部と若手〜中堅層の分断を防止する、と聴き取りの結果もそういう結論です。

「先生、何をいまさら気にしてらっしゃるんですか。『承認』は間違いないと私たちは思っていますよ。堂々とされたらいいじゃないですか」

「いえ、自分が慢心していないかと怖いんです。『これでいい』と思っていいのかずっと不安です。本当は皆様のところで起きた化学変化をすべて動画か何かに残しておきたいぐらいなんです。それを常に疑っていないと、本番の研修で短い時間の中で『皆さん、これさえやっていただければ大丈夫です』と確信をもって言えない、と思っていまして」



 ほんとうはここで「実は若手に新たにこういう問題が起きていまして」という話にでもなれば、「じゃあ今度は若手向けに追加でこういう研修を」という次のお仕事の話になったのかもしれないですけど。

 商売下手の正田は新たなビジネスチャンスを創出できませんでした。残念残念。うそです。

 結論としては、「承認研修」のほうを「史上最強の研修」として、それでも最適条件というのはありますから、失敗のないように大事にやっていただければいい、そういうお話です。

 それを打ち合わせ段階でしっかりお伝えすることが業者の誠実さだと思いますね。


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 正田は、「承認」以外の原則をあまり立てません。一応、「承認中心コーチング」といって、「傾聴」や「質問」などのトレーニングメニューも持っているんですが。

 お客様の現役マネジャーたちは、実務の中で臨機応変に「承認」以外の補助線をいくらでも引いていると思います。本来は、仕事の本筋の何をどうするべき、という原則があり、もう1つの原則として「承認」を導入し、そしてその場面そのお客様その部下についての無数の補助線があります。

大原則と無数の補助線と。拙著『行動承認』が「承認研修」の再現のパートと大量の事例で出来ているのは、各事例の中にマネジャーたちが承認の実践にプラスアルファどういう補助線を引いたかが入っているからです。

 あまりいくつも原則を立てると、たとえば先日の「カウンセラーはクライエントに依存させない」という原則にもいくらでも「除外規定」を設けないといけないように、話がややこしくなってきます。除外規定のあまり多い原則は立てないほうがよろしい。

 ところが、「承認」はほとんど除外規定がないといってよい原則です。これも実際にやってみていただけるとわかります。

 たぶん、そういう構造のシンプルさも、受講生さん方の高業績につながっていると思うんですよね。

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 今年は、NPOをたたみ財団を設立しその財団もたたんで個人事務所、という展開になりました。展開というより衰退の歴史のような気もしますが―、

 商品力としては、どう転んでも「承認研修最強」。お役立ちを志向するなら、これをやり続けるしかない。しかし世間様は飽きっぽくお客様も(真理にもかかわらず、そしてメリット多大にもかかわらず)飽きっぽく。正田自身もモチベーションを保つことはなかなか難しい。

 
 そんななか今年も聡明なお客様方にめぐまれました。正田に依頼してくださるお客様というのは、「内省力」のすぐれた方々なのだろうと思います。問題が起きている、それはマネジメントの問題である、そしてこういうトレーニングが必要だと思えるというのは。
 それがないところには、正田はそもそも営業に行くことはできません。

 そして、秋以降は複数のご同業の研修講師の方から、「行動承認は本当だと思う」というご連絡をいただきました。
 残念ながら、全国展開でセミナーをやって、という晴れがましい家元ではないので申し訳なく。

 地味ですが、この世界のほかの何よりも、この社会を建て直す力のあるもの。そういうものと出会ったときに、地味を承知で盛り立てる覚悟のある方でしたら、大歓迎です。


 わたしの生きているあいだに大きな潮流になることがあり得るのかまったく見当もつきませんが、たぶん来年もまだやり続けます。


正田佐与

お世話になっている皆様


 おはようございます。
 正田佐与です。
 
※このメールは、正田が過去にお名刺を交換させていただいた方・イベントやセミナーにご来場いただいた方にお送りしています。ご不要の方は、メール末尾にありますURLより解除ください。
(解除方法が変わりました!詳細はメール末尾をご覧ください)


 本日の話題は:

■こんな哲学の言葉が読みたかった。
―寛容と承認、共感、尊重…カントからホネットへ
 
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■こんな哲学の言葉が読みたかった。
―寛容と承認、共感、尊重…カントからホネットへ

  一橋大学大学院言語社会研究科の藤野寛教授(現代ドイツ思想)より、この秋から「ホネット承認論」に関する同大学での講義原稿をいただいています。
 第5・6回は、「寛容」がテーマ。
 これはIS(イスラム国)の台頭とテロ、そして西側諸国の反イスラムをはじめとする排外主義の高まりという2015年のいま、わたしたちが思い返したい概念ではないでしょうか。
 フェイスブックのお友達から、
「みんなでじっくり読みたい記事ですね。」
賞賛をいただいた、「寛容」を問う文章。わたくし正田も心したいテーマです。ポストモダンかドイツ思想か、そんな枠を超えて、今読みたい哲学の言葉をお届けします。

◆「寛容」と「辛抱強い合意形成の努力」―一橋大学・藤野教授講義原稿(5)
 http://c-c-a.blog.jp/archives/51931557.html

◆「寛容」とその限界、差異のナルシシズムー一橋大学・藤野教授講義原稿(6)
 http://c-c-a.blog.jp/archives/51931813.html 
 
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★読者の皆様にとって今年はどんな1年だったでしょうか。
 わたくし正田は個人事務所に戻って再出発、そんな中いつの間にか「ブログ開設10周年」を迎えておりました。そしていくつかの嬉しいご縁をいただきました。
 1年間のご愛読誠にありがとうございました。どうか良いお年をお迎えくださいませ。



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 一橋大学大学院言語社会研究科の藤野寛教授より、「ホネット承認論」の昨12月21日分の講義原稿をいただきました。
 
 引き続き「寛容」がテーマ。「みんなでじっくり読みたくなる記事」(フェイスブックのお友達)と賞賛をいただいた1つ前の記事に続き、今、もういちど捉え直したい「寛容」、読者の皆様にとって考えるヒントになっていただければ嬉しく思います。


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承認論講義(11)「差異について」

Axel Honneth: Das Andere der Gerechtigkeit, in: ders., Das Andere der Gerechtigkeit, Frankfurt am Main 2000, S.133-170 (アクセル・ホネット『正義の他者』、法政大学出版局、2005年、145-185頁)

【1】 これまで、あまり深く考えもせずに、ホネットの承認論では、愛と(人権)尊重と業績評価に分類されている、などと解説してきたわけだが、一人の人間に他者として向き合う場合には、この三つを使い分ける、というような話ではすまないはずなのだ。つまり、同一性は等しく尊重し、差異はそれぞれに対して細やかに承認する、ということが求められるのだとして、しかし、両者は両立しないのではないか、という問いが立ってしまう。差別しない人、というのは、差異には鈍感な人なのではないか ― 例えば、そういうことだ。

 出発点には、テイラーの発言がある。尊重しようとすると、承認できなくなる、承認すると、尊重できなくなる、そういう、排中律的関係が成り立ってしまうのではないか。ケアは正義を補うのか、それとも、ケアは正義にとっての「他者」なのではないか。(例えば品川哲彦の本は『正義と境を接するもの』と題されている。)


 尊重・承認・寛容と分類するのはよいとして、テイラーも言うように、尊重が等しく共有されている性質に対する反応であるのに対して ― だから、普遍主義的な行為であると言えるのに対して ― 承認や反応は、異なるものに対する反応であって、方向性が逆である。その上で、承認・寛容という姿勢には、繊細な注意深さというものが前提されるのだ。ただし、異なるものに細やかに、注意深く反応する、というだけでは、その異なるものを肯定的に評価する、ことには直結しない。注意深く観察した上で、否と言い、退ける、ということは十分にありうる。村上春樹の「僕」は、相手の話に辛抱強く耳を傾ける姿勢を備えているが、それに対してどう応じるか、肯定するのか、否定するのかは概して曖昧であり、その曖昧さ、優柔不断さが、結果として肯定と同じことになり、それが「優しさ」と受け止められる、という風であるようにも読めるように感じられる。


 「正義の他者」論文は、何を問うているのか。人を人として等しく尊重するという姿勢と、異なる人をその異なりに応じて異なった仕方で認め遇する姿勢とは、対立するものなのか(従って、両立しないものなのか)、そうではなく、前者に「繊細さ」という能力がつけ加わるならば、後者が前者を補完するという仕方で、後者を包含するような仕方で前者を拡張することが可能になって、両者はめでたく両立するのか、ということが問われているのだ。

 大雑把に言えば、リオタール、ホワイトは、カント、ハーバーマスの普遍主義的倫理によって包含されうる提案をしていると評価されるのに対して、デリダ、レヴィナスは、方向を逆にする倫理を呈示していると解釈される。その場合、ホネットの承認理論は、尊重と愛(ケア)を横並びにするのだから、もはや、カント・ハーバーマスですべてが片づくとは考えていないことにはなるわけだが、しかし、この理論の全体の中で、カント・ハーバーマスとデリダ・レヴィナスはどう両立するのか。後者による前者の微修正という話ではすまないはずなのだが。


【2】 ポストモダニズムは、理性批判として始まった。それは、当初、理論理性に向けられる批判だった。その際、理性とは、統一化・普遍化を志向する能力であると考えられるので、それに対して、美的・感性的(asthetisch)な能力が ― なにしろ、この能力は、カントも言うように、多様性(Mannigfaltigkeit, diversity)に反応することを得意とする能力であるものだから ― ぶつけられる、という議論が繰り広げられもしたのだ。芸術に依拠する科学批判である。そこでは「asthetische Sensibilitat(美的・感性的繊細さ)」ということが、キーワードともなった。

 ところが、ある時点から、批判の矛先が、理性は理性でも、道徳的理性(実践理性)に向けられるように、風向きが変わってきたのだという。その結果、この批判は、政治とも接点を持たずにはすまなくなり、政治的帰結を伴う議論ともなるにいたったのだ。「異質(heterogen)なもの、他なるもの(das Andere)」「異なるもの(Differenz)」「非同一的(nichtidentisch)なもの」 ― 呼び方がどうであれ、そこで考えられているものが、経験の対象というような抽象的・一般的なものであるよりは、具体的に、人として考えられるようになったのだ、と言ってもよい。それに対応して、求められるものも「moralische Sensibilitat(道徳的繊細さ)」に変わる。

 しかし、この「異質(heterogen)なもの、他なるもの(das Andere)」「異なるもの(Differenz)」「非同一的(nichtidentisch)なもの」を、そのように、人に関わるもの/人に関わらないもの、と区別することは、それほど容易ではあるまい。異文化、ということを考えるだけでも、その点は明らかだ。異文化とは、道徳や宗教や言語として立ち現れるだろうが、人を通して現れるものでもあろうからだ。そう考えると、アドルノの理性批判も、まずは、前者(美的次元)に発するように思われるものなのだが、もちろん、後者(倫理的次元)への目配りも含まずにはすまなかったはずなのだ。


 形而上学批判、というわけだが、形而上学の何が、どこが具合悪いのか。形而上学は、避けがたく、排除・抑圧の思考にならずにはすまないからだ。ニーチェによる二世界説批判は、もっとも分かりやすい例だ。「あの世」の価値が持ち上げられることを通して、「この世」「いま、ここ」の価値はおとしめ(貶め・落としめ)られずにはすまない。プラトンのイデア論、また然り。「りんごそのもの」の完璧さが称揚されることで、現実に存在するりんごは不良品視されずにはすまなくなる。人間性の称揚についても、同じことが言えるだろう。すると、一人一人が異なる点、特殊性、差異は軽視されずにはすまなくなる。ところが、その差異こそが、「私が私である所以」である、ということがありうるのだ。

 アドルノの「同一性思考」批判は、そのような「普遍主義」批判だった。同じである点を持ち上げ、同じでない点は軽視するような思考への批判。その意味で、アドルノの思考も、形而上学批判の系列に連らなるものである。
しかし、問題は、ここから始まる。その批判は、より包含性の高い、いかなるものも排除も抑圧もしないような普遍主義を追求し続けるのか、それとも、普遍主義と訣別することを求めるのか。「理性的・論理的思考」は、「美的・感性的繊細さ」によって補完されるべきなのか、それとも、両者は、対立関係にあって両立は不可能なのか。アドルノは、(抑圧なき)コミュニケーションについて語ることもあるので、その限りでは、前者の立場を採っていたようにも読めるのだが。

 この問題は、単に認識の問題、経験の問題、芸術経験の問題にはとどまらない。具体的な人としての他者にどう向き合うか、どう関わるか、という倫理的・道徳的な問題とも、関わってくるのだ。美的・感性的細やかさの要請は、倫理的細やかさの要請ともなりうるのだ。


【3】 カントが、『道徳の形而上学の基礎』の中で、定言命法として「人を目的として尊重する」よう要請した時、彼は、ヒューマニズムの基礎づけを試みていたのであって、つまり、そこでは、人を人として処遇すること、もののようには扱わないことこそが眼目であったのだ。そこに、自分とは異なる価値観の持ち主にどう向かい合うか、という問題意識があったとは思えない。

 「異なる価値観」という場合、しかし、その「異なり」とはどのような「異なり」なのか、という問題が直ちに出てこずにはすまない。「ただ違う」だけなのか。それとも、「相手は間違っている」と言わざるをえない、そのような「異なり」なのか。例えば、男と女は違う。しかし、だからといって、男か女が間違っているわけではない。(日本語が、「違う」「間違う」という言葉を持っているのは、なんだか素晴らしい。)肌の色が、黒い・赤い・黄色い・白いことは違いだ。しかし、どの肌の色も間違っているわけではない。(でも、そう感じない感受性があったからこそ、あえてblack is beautiful と言われねばならなかったのだろう。)

 では、地球は丸い、と考えて生きる人と、地球は平たい、と考えて生きる人の違いはどうか。両者は違う考えに基いて生きているわけだが、のみならず、後者は間違った考えに基いて生きていることになる。では、神が存在すると考えて生きる人と、神など存在しないと考えて生きる人ではどうか。両者は違う考えに基いて生きており、のみならず ― 私に言わせれば ― 前者は間違った考えに基いて生きている。

 人間は、各自が、自由に、自らの人生観・価値観を抱き、それを表現する権利を有する存在として、互いに尊重しあうべきである。これが、尊重ということの意味だ。そこでは、ただし、その人生観・価値観の内容は問題にされていない。価値観の内容に立ち入ることなく、その手前で、各自が尊重されるべきだ、というのである。


 さて、そこで、相手の考えやものの見方を面白い、と思えるとする。そこでは、(互いに)相手を認め合うということ、つまりは(相互)承認が起こっていることになる。例えば、安藤広重が好きな人とモンドリアンが好きな人がいて、互いに相手の趣味を面白いと感じ、認め合う、ということは、大いにありうる。ジャズとクラシック、能とオペラ、納豆とエスカルゴ、いずれの場合も同様だ。

 しかし、地球が丸い/平たい、神が存在する/しない、ではどうか。互いに相手を面白いと認め合うことは難しいのではないか。なにしろ、一方は他方を間違っていると考えているのだから。加えて、そこに「啓蒙の歴史」とか「解放の歴史」といった歴史的観点、進歩という見方が入ってくると、両者が互いを面白いと感じることはますます難しくなる。一方にとっては、他方の考えを受け入れることは、「退歩(退行)」を意味することになるからだ。歴史の逆戻り、である。

 では、「男と女は理性・感性の両能力に関して対等である」という考えと、「男は理性に優れ、女は感性に優れている」という考えでは、どうか。両者は、互いに相手を間違っていると考えるだろうから、両立・共存は不可能なのではないか。


 その時、「寛容」という可能性が浮上する。相手は間違っている、と思うのではあるけれども、それを寛い心で受け入れる、大目に見る、という姿勢だ。例えば、地球は丸い/平たい、の違いであれば、外国旅行に出でもしない限り、それは、知識の問題にとどまり、実践的な違いにはつながらないだろうから、寛い心で受け入れ合うことも可能だろう。神が存在する/しない、だって、信仰が、心の内の問題にとどまっている限り、せいぜい祈りという形でしか表現されないのである限り、依然、寛容に対応することが可能だろう。

 しかし、上記の「男と女」の能力に関する見解の違いの場合はどうか。これは、実践的帰結を伴わずにはすまない「違い」だ。すると、もはや「寛容」という(なぁなぁの)姿勢で対処することは不可能だろう。そこでは、何とかして「合意形成」しようとする努力が発動せずにはすまなくなるだろう。


 「差異」というのは、現代社会について考える上でのキーワードの一つである。かつては、「弁証法」という考え方が有力で(50年ほど前のことだ)、そのころは、「差異」とは言われず、「矛盾」と言われた。(毛沢東の『矛盾論』は必読文献だった。)二つのものが対立関係にあるにもかかわらず場を共有している(かに見える)とき、それが「矛盾」であり、矛盾は解消への運動を発動せずにはすまない、というのだ。しかも、その運動は、より高いあり方への運動でありえ、それは「総合」と呼ばれ、そこでは矛盾・対立はより高いレベルでの総合・統一である、と見なされたのだ。(「止揚」とか「揚棄」とかいう奇妙な言葉がひねり出された。)昨今では、「弁証法」は、さっぱり流行らなくなり、「矛盾」という言葉も、論理学はともかく、社会理論の場からは、ほぼ姿を消したといってよい。替わって、キーワードの地位を占めているのが、「差異」である。「矛盾・対立を総合・統一にもたらす」ことではなく、「多様な差異が共存すること」こそが、目標として設定されている。

 しかし、そうすることで、対立は、人畜無害化されている、と言わざるをえないのではないか。差異の中には、面白いと認め合うことはもちろんのこと、間違っているとは思いつつも寛い心で大目に見ることも不可能、というような「差異」が、なんといっても存在するのだ。例えば、イスラム原理主義者にとっては、西洋文明とは、そういう「異なるもの」だろう。西洋文明の側でも、テロを許容するイスラム原理主義は、もはや寛容の対象ではありえまい。寛容の限界を超えてしまっているだろう。かくして、「多様な差異の共存」の理念は、たちまちかき消され、今や「われわれは戦争状態にある」と宣言されるのだ。

 ここでは、「差異に関するロマン主義的な夢想」が罰せられているのだ、と言えるだろう。思い出されるのは、「小さな差異のナルシシズム」という、フロイトの指摘だ。われわれは「小さな差異」によってこそ、ナルシシズムを刺激され、(小さく)異なるものに対して、ライヴァル心や敵愾心をくすぐられる、というのだ。われわれ日本人から見れば、カトリックとプロテスタントの違いなんて、この上なく「小さな差異」にしか見えないではないか。にもかかわらず、この小さな差異は、長く続く「大きな戦争」の引き金になったのだ。キリスト教とユダヤ教の違い、また然り。それどころか、キリスト教とイスラム教だって、私には、兄弟関係のようなものに感じられる。それほどにも「小さな差異」に対してすら、「寛容」の理念は無力さを露呈することがしばしばなのだ。

 もちろん、日本と中国の差異や日本と韓国の差異だって、「小さな差異」の例外ではないはずだ。


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 いかがでしょうか。

 「寛容」が世界的に要請されていることは、現在のISとわが国を含む西側諸国の対立、そしてイスラム教徒全般への排斥、わが国にもあるヘイト・スピーチ等、多次元にわたって認められるところです。

 一昨日20日のTVの日曜討論では、アメリカで否応なく進行する多様化の現実と、同時に進行する不寛容の風潮に複数の識者が言及されていました。
 このブログで先週とりあげた「ダイバーシティー経営は損」という知見も、その「アメリカの不寛容」の文脈で考えたほうがよいような気が、わたしはします。
 
 しかし今回の藤野教授の結論は「寛容の無力」を言っているようにもみえますね…。
 わたしは不謹慎ながら、「愛」と「戦闘状態」の対比を描いたイーストウッド監督の映画「アメリカン・スナイパー」を連想してしまいました。

 藤野先生、このたびもありがとうございました!


 読者の皆様、大切な方と素敵なクリスマスをお過ごしくださいますように。


正田佐与

 藤野寛教授(一橋大学大学院言語社会研究科)の「ホネット承認論」についての5本目の講義原稿をいただきました。
 今回は「寛容」がテーマ。わたくしにも”耳が痛い”ことになりそうですが…。藤野教授の結論はどんなことになったでしょうか。

※この記事は公開後、フェイスブックのあるお友達から「みんなでじっくり読みたいような内容ですね」という賛辞をいただきました。


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承認と寛容 ― あるいは、倫理学の中の「寛容」概念の位置


【1】  広く「道徳」について考える

【1】 倫理学というのは、「よい」という性質をめぐる議論である。「よい」という形容詞は、ただし、ずいぶん多様なものを形容する。「よい行い」や「よい人」だけでなく、「よい人生」「よい成績」「よい天気」「よい気分」「よい男」「よい女」といった具合だ。(最後の二例では「よい」と言わずに「イイ」と言う。)
この中で、「よい行い」をめぐる議論に限って、道徳論と呼ぶ、という語用がありうる。(というか、倫理と道徳という言葉を、私はそのように使い分けることにしている。)ある行為が「よい行為」である場合、その行為は「することの望ましい行為」である、と言えるだろう。そして、「することの望ましい行為」は、これをもうひと押しすれば、「すべき行為」である。「すべき行為」とは、「義務」の言い換えであり、従って、道徳論とは義務をめぐる議論である、と言うことができる。(「義務」に似た言葉に「当為」というのもある。)
「よい行為」をする人は「よい人」である、と言って異論はあるまい。このタイプの「よさ」(道徳的な「よさ」)には、日本語では、概して、「善」という漢字があてられる。「善行」「善人」「善意」という具合だ。(「善戦」もあるのだけれども。)

 では、同じ調子で、「よい天気」や「よい気分」「よい人生」を「善い天気」「善い気分」「善い人生」と書いても違和感がないだろうか。「善い人生」は微妙だが、前二者については、「否」と言いたい。どうして、そういうことになるのか。善さ=よさ、ではないからだ。
「よい人生」とは、どんな人生か。道徳的に正しい人の人生だろうか。必ずしも、そうは言えまい。むしろ、自分の願いがすべてかなったような人生が、「よい人生」と見なされるのではないか。そう考えると、「よい人生」というのは「幸せな人生」に近い。(フロイト(1856-1939)は、幸福を、「願望充足(あるいは欲望成就)」と説明した。)

 つまり、道徳的に善い行いをする人の人生と、よい人生とは、ぴったり重なるものではない、という可能性があるのではないか。それどころか、両者は対立することさえあるのではないか。

 道徳(すべきこと)と幸福(願いがかなうこと)の関係については、古来、多くの哲学者が大いに頭を悩まし、様々な提案をしてきた。カント(1720-1802)は道徳重視派の代表格で、ニーチェ(1844-1900)は幸福の側に肩入れした、と大雑把には言えるだろう。
 
【2】 どうして、こんな辛気臭い話をするのか。

 「道徳的であること」が、「よい人生」や「幸せな人生」に直結するものではない、という事情があるからだ。大体、道徳的な人、というのは、感じの悪い人であることが多くないか。他人に「〇〇すべし」とか「〇〇すべからず」というようなことを言いまくる人が、感じがよいはずがない。それだけではない。自分自身に対して「〇〇すべし」「〇〇すべからず」と目を光らせている人も、つまり「自分に厳しい人」も、なんだか窮屈で、面白みに欠ける、というケースが少なくないのではないか。ニーチェなら、「道徳は生に対して抑圧的だ」と言うところだろう。
道徳は「すべし/すべからず」をめぐる議論だ、と上に確認したが、そういうわけで、そもそも道徳的であるべきなのか、なぜ道徳的であるべきなのか、と問う余地がある。(道徳的でなどない方が、人生、のびやかになり、楽しくもなるのではないか、ということだ。)

 人生における悩みというのは、概して、「したい (will)」と「すべき (should)」と「できる (can)」という三つの助動詞の関係(欲求と義務と能力の関係、と言ってもよい)をめぐるものだ、と言えるのではないか、と常々私は考えている。「したいことは、できるのであれば、してよろしい」、という風であれば、人生、ややこしくなくて具合がよろしいのだが、そうは問屋が卸ろさない。大体、自分が何をしたいのか、何ができるのか、何をすべきなのかなんて、どれもよくわからない、としたものではないか。そして、仮にわかったとしても、この三つが互いに良好な関係にあるとは限らない。しばしば対立する。その時、「すべし」(道徳)の言い分だけを通す、という風に事が運ばないのは、当然ではないだろうか。

 道徳とは、「すべし」(義務)に関する議論、あるいは主張であるとすると、そんなもの、そもそもない方がよい ― 窮屈だし、面倒くさいし ― という考え方がありうるということだ。大いにありうる、とすら言ってよいだろう。
そういうわけで、倫理学などをやっていると、道徳に対しては、かえって警戒的にならずにすまなくなる。すぐ説教したがる倫理学者というのは贋物だ、と常々私は思っている。すぐ説教したがる政治家も、政治的ではあっても、道徳について悩んだことなどほぼない人たちだ、と思ってまず間違いない。(道徳教育の必要性を説く政治家に対して抱かれる疑念や反発というのは、この点にも関わるもので、真っ当な反応であると言ってよい。)

【3】 そうは言っても、やはり、道徳は必要だ、人は道徳的であるべきだ、と私は考える。(ニーチェや永井均に賛同することはできない。)人間の「欲求(したい)」を無造作に認めることはできない、人間の「欲求(したい)」の底知れなさには私などの想像を絶するものでありうる ― 病みうるし、狂いうる ― と想像されるからだ。エゴイズム(利己主義)というのは、そういう症状の一例 ― しかも、人畜無害な一例 ― であるに過ぎない。人間の「欲求(したい)」には、やはり、縛りをかけることが必要になると ― 感じの悪い提案であることは重々承知の上で ― 思う。義務という縛り、道徳という縛りである。

 そこから、どういう縛り、どういう義務が必要なのか、という問いが出てくる。道徳の内容への問い、である。代表的道徳哲学者であるカントは、義務を、「自己に対する完全義務」「自己に対する不完全義務」「他者に対する完全義務」「他者に対する不完全義務」に四分類し、それぞれ「自殺すべからず」「自己の能力を伸ばすべし(例えば「やる気なんか起きなくても、勉強すべし」、だ)」「守る気のない約束をすべからず」「困っている人を見たら助けるべし」という具体的例に沿って議論している。

 すると、これらの具体的義務については、なぜそれらが義務なのか、なぜそうすべし(あるいは、すべからず)と言えるのか、という正当化、あるいは根拠づけの問いが立たずにはすまない。私は例えば、「自殺すべからず」も「自己の能力を伸ばすべし」も、結構な提案だとは思うが、義務だとは思わないので、その理由づけをめぐっては、カントに同意できないから彼と議論しなければならないことになる。

【4】 「自殺すべからず」だの、「嘘をつくべからず」だの、「能力を伸ばすべし」だの、「困っている人を見たら助けるべし」だのといった個々具体的な道徳内容の正当化とは別に、そもそも「なぜ道徳的であるべきなのか」という問い、道徳性そのものの正当化への問いが立つ。【3】で、私は、人間の「欲求(したい)」の底知れなさ、ということを理由として挙げたわけだが、より頻繁にお目にかかる議論は、道徳なしでは、つまり、みんながエゴイストとして振る舞ったのでは、社会生活、共同生活が成り立つまい、という論法がある。ホッブズに「自然状態(文化状態の反対で、道徳などない状態だ)とは、万人の万人に対する闘争状態だ」というよく知られた指摘があるが、そうなったのでは、人はかた時も気の休まることのない人生に陥らずにはすまなくなるだろう。そこで、契約が結ばれ、闘争が回避されるのだが、道徳も、そういう契約の一種だ、というのである。これは、エゴイズムを前提する道徳であり、すべてのエゴイストが「お互いさまの論理」とでもいうべきものに従って、互いに妥協し合って形成するものである。

 これと似ているものに、道徳的に行為した方が、結局(めぐりめぐって)自分の得になるのだから、という風に道徳を正当化する議論がある。こう考える人は、本心では自分さえよければよいのだが、道徳的に行為する方が結局、自分にとっての得も最大になる、と計算していることになる。

 計算(打算)に基いて道徳を守る、というのは、十分ありうる選択肢だろう。世にこのタイプの人は無数にいる。ただ、こういう人を「善い人」と呼ぶか、となると、然りと答えるのは躊躇されるのではないか。「善い人」からは、計算高さにとどまらない、もう少し多めの道徳性をわれわれは期待するのではないか。では、それは、どんな道徳性か。

【5】 カントは「他者に対する不完全義務」の具体例として、「困っている人を見たら助けるべし」を挙げていた。「不完全」というのは、仮にその義務を守らなくても、ただちに罰せられることはない、ぐらいの意味で理解してよい形容だ。確かに、困っている人を見て素通りしたからといって、罰せられることはない。それでも助ける人であって初めて、「善い人」と呼ばれるに値するように思われる。

 この義務を具体的に説明する上でよく持ち出される議論に、「溺れている子供を見たら誰もが助けずにはいられまい」というのがある。人間が道徳的であることの証拠として挙げられる話だ。ただし、この議論は問題含みだ。「助けずにはいられない」のであれば、わざわざ「助けるべし」と言う必要などないだろうから。それでは、「義務」とは呼べないのではないか。困っている人を見たら助けたくなるというのは、「自然の欲求」になってしまう。
ここには、人間が道徳的であるべきだとして、その道徳性はどういう能力・資質に基くものなのか、という問いがからんでいる。なにしろ、「〜すべし」と言われたって、できないこと ― 例えば、物乞いする人を見たら必ず10万円与えるべし、とか ― はできないのであり、道徳なんて、そもそも「無理な注文」なのではないか、という突っ込みが可能になるだろう。

 溺れる子供の例を挙げる場合、通常、「共感能力」が想定されている。共に苦しみ、共に喜ぶという資質が人間にはある、と考えるのである。だから、苦しんでいる人(溺れている人)を目撃したら、自分も苦しくなり、見ないふりをすることはできなくなり、助けずにはいられなくなる、というのだ。同様に、自分の喜びは、人と分かち合いたくなる。そういう、プラス/マイナスの共感がもとになって、エゴイズムは克服されると考える。この「共感道徳」の代表論者としては、アダム・スミス(1723-1790)やショーペンハウアー(1788-1860)の名が挙がるのを通例とする。

 もっとも、「共感」というこの資質(あるいは能力)は、それはそれで問題含みである。(「共感」というのは、「同情」とも訳されうる言葉だ。)これは相手を選ぶ資質(能力)なのではないか。濃淡に差があり、ここから先にいる人にはもう抱かれなくなる、という地平線みたいなものがあるのではないか。友人が苦しんでいれば一緒に苦しくなるが、地球の裏側で人が苦しんでいても、何も感じないとか。(かつてサルトル(1905-1980)は、「アフリカで餓えに苦しむ人に文学は何ができるか」と問うたが、文学に限った話ではない。)それどころか、お隣りさんが苦しんでいると、嬉しくなったりしないか。(「他人の不幸は蜜の味」と言うではないか。)これは依怙贔屓の避け難い資質(能力)なのだ。

【6】 道徳の「べし/べからず」は、いつでもどこでも誰にも当てはまるものであるべきだ、そうであって初めて、道徳の名に値するのではないか。例えばカントは「道徳法則」という言い方をするのだが、法則はいつでもどこでも誰にも当てはまるものだから ― 「例外のないルールはない」と言いもするのではあるけれども ― 道徳はいつでもどこでも誰にも当てはまるものだ(普遍性とか普遍妥当性と呼ばれる)、と見なしていたことがわかる。そう考えると、「共感」は、道徳の土台となる資質(能力)としては失格だ、ということになる。

 では、カントは、道徳の土台となる資質(能力)として、何を考えたのか。「尊重の感情」である。人を目的それ自体として尊重する、という思い。人を物のようには ― 例えば、手段として ― 処遇しない、ということだ。人が人である限りにおいて(分け隔てなく)尊重する、というのであり、すべての人に差別することなく接する態度、と言うこともできる。これは、人でないもの(例えば人間以外の動物)には当てはまらないので、その意味では差別的だ。ヒューマニズムというのは、人間を特別扱いする ― 強く言えば ― 差別思想であるわけだが、人間内部では特別扱い(依怙贔屓)を許さないのだ。

 トゥーゲントハット(1930‐ )の解説に従って、カントのこの「尊重の道徳」を具体的に説明してみよう。死の床にいる人が願いを口にする。それを聞いた人は、願いをかなえると約束する。そして約束を守る。なぜか。死につつある人の苦しみを共有するから、ではない。自分も嘘をつかれたくないから、でもない(死の床にある人から嘘をつき返される心配はない)。そうではなく、その人を人として尊重する思いからだ、とカントは考える。その「尊重の思い」が、嘘をつくことを許さないのだ、と。

 そして、この「尊重」の思いは、「共感」とは違って、誰もが誰に対してもいつでもどこでも抱くものだ ― その意味で、過大な要求ではない ― とカントは考える。確かに、尊重の念というのは淡白だ。人を人として尊重することなら、相手にそれほど深く関わらなくてもできそうだ。逆に言うと、すべての人と差別なく深く関わることなど不可能だろう。(「神の愛」というのは、結構淡白なのではないか。)

【7】 カントのこの普遍主義的で人間主義的な「尊重の道徳」は、久しく大きな影響力をもってきた。それは、裏から見れば、さまざまな批判にさらされてきた、ということでもある。その批判の一つに、承認論がある。他者との関わりとして、尊重だけでは足りない、承認という姿勢もまた必要なのではないか、というのである。その際、「承認」という言葉は、通常よりも広く理解する必要がある。日本語で「承認」と聞くと、会議で議長が「この堤案をご承認ください」と言うような用例が思い浮かぶところだろうが、承認論で「承認」の語のもとに考えられているのは、むしろ、「先輩に認められる」とか「先生に褒められる」とか「親に愛される」とか、そういった事態である。

 相手に肯定的な資質を認め、そういう肯定的な資質の持ち主として向かい合う、という姿勢、それが承認するという姿勢である。

 「尊重」も、相手を、人であるというその限りで、肯定的な存在として認める姿勢だった。しかし、承認は、人であれば誰もが備える「人という資質」を認めるのではない。ある人が、そしてその人こそが備える資質を ― 「個性」と言ってもいい ― 認めるのだ。だから、承認は、すでに特別扱いである。「わが子を愛する」というケースを考えるとよい。「愛する」行為とは、究極の依怙贔屓であるが、だからといって「差別だ」と咎められるいわれはない。それどころか、私は他の女性も平等に愛します、などと言えば、浮気あるいは不倫として、ひと騒動になる。

 他者に向き合う態度として、「尊重」だけではなお一面的だ、ということだろう。「承認」という向き合い方も共に要請される。私は、教師として、すべての学生に分け隔てなく接するという「尊重」の姿勢を求められ、一人の学生(だけ)を愛するということはあってはならない ― ただし、学生の努力や能力は、それぞれに個別的に評価しなければならないのであって、全員に「優」をつける、とかいうのは職務放棄なのだ ― が、私の家族に対しては、愛するという特別扱いの姿勢が許されるし、それどころか、求められると思う。

 そして、こう考えるとき、「愛」という言葉を道徳の議論に持ち込むことには、慎重であらねばならないことが見えてくる。「愛」とは特別扱いする、排他性を本質とする感情だ。「私だけを愛して」と求めるのだから。その点に無自覚な「愛国心」論議は ― 「人類はみな兄弟」という言葉と同じぐらい ― 抽象的であり、無神経だ。「愛は盲目」という名言をこそ、むしろ、思い起こすべきだろう。(かつて、ドイツ大統領、テオドール・ホイスは、「あなたはドイツを愛していますか」という問いに、「私は妻を愛しています」という答えで応じた。)

【2】  「寛容」について考える
【1】 さて、「寛容」である。これは、尊重や承認とは、根本的に異なる姿勢・態度である。どういうことか。
「尊重」も「承認」も、相手を、あるいは相手が備える何らかの資質・能力を「肯定的に受け止める」態度なのだった。これに対して、「寛容」は、そうではない。ヴォルテールに帰せられる有名な言葉を思い出そう。「私はあなたの意見には反対だ、だがあなたがそれを主張する権利は命をかけて守る」と言われたのだった。相手の立場は間違っていると考えるのだが、でも、相手がそういう立場を採ることを否定はしない、ということ。「大目に見ること」、「寛い心で許すこと」、それが「寛容」だ。

 例えば、私は無宗教の人間で、神や仏の存在を信じない。そう信じている人は間違っている、と考える。信仰心を立派だとも偉いとも思わない。でも、人がそれを持つことは「大目に見る」。(実際、私の妻はクリスチャンである(らしい)。篤い信仰心ではないから、ということもあるが、それをやめさせようとする気は私にはない。)
その際、寛容という姿勢が成り立つためには、相手もまた、その姿勢を採ってくれなければなるまい。私が神を信じないことを、相手側でも、大目に見てくれなければならない。自らは神を信じている人にとっては、神など存在しないと考えている私は間違っていることになる。でも、だからといって私を改宗させようとは、ましてや、火あぶりの刑に処したりはしないでもらいたいものだ。

 こう考えると、「寛容」という徳の危うさが浮かび上がってくるのではないか。結局、そこでは対立を引き起こしている問題そのものへの一定の無関心(関心の希薄さ)というものを前提するように思われる。切実で熱烈な関心事については、なかなか寛容にはなりにくい。相手を洗脳せずにはおれなくなる。(家族の幸せには無関心ではいられないから、家族に対して ― その誤りに対して ― 寛容であることは、なかなか難しい。それに対して、どうでもよい人の誤りには、いくらでも寛容になることができる。)

 そもそも、寛容というのは、どこか上から目線の姿勢であり、偉そうなのだ。あなたは誤りの中に迷い込んでいるのだけれど、私は寛い心で大目に見てあげますよ、と言われて、感謝する人がいるだろうか。むしろ、屈辱感を抱くのではないか。

 私は、「寛」という名前を掲げて生きているのだが、「寛容」という徳の旗振り役にはなれそうにない。それは、過渡期の、暫定的な、必要悪のような徳だ、と考えざるをえない。宗教が力を持たない世界になればよいと ― マルクスやニーチェと共に ― 考えている。違いは間違いであるのだが、寛い心で大目に見なければならない、という風ではなく、違いは違いであり、それが面白いと認める、という風な世界になってほしい。しかし、そうなれば、もう寛容ではない。なにしろ、違いを面白いと感じ、つまりは肯定的に評価しているのだから。

【2】 ただし、今のこの時代、この世界で、「寛容」に注目することは、炯眼だと思う。かつて、宗教と宗教がぶつかり合う時には、繰り返し、この(美)徳(=道徳性)が呼び出されたのだった。ヨーロッパでは、ヴォルテールによって、あるいはエラスムスによって。そして、日本では、渡辺一夫によって。その背景には、常に、宗教対立があった。例えば、カトリックとプロテスタントの対立。あるいは、国家神道。

 その際、「対立」とは言っても、個人と個人の対立ではない。集団と集団の対立である。だからこそ、寛容になることは容易でないのであり、それに対して、誤っている個人に対して寛容であることは、さほど難しくはない。(「違いのせいで孤立している風変わりな個人を寛容に取り扱うことは易しい」とマイケル・ウォルツァー(1935- )も言っている。)

 見落としてはならないのは、そこで対立しあう集団の力は、通例、拮抗関係にはない、ということだ。一方が優勢で他方が劣勢、あるいは、一方が多数で他方が少数、言い換えれば、マジョリティとマイノリティの関係だ。つまり、寛容とは、優勢の側や多数の側に期待される徳性なのだ。結局のところ、寛容は、マジョリティの側の「上から目線」ということに帰してしまう。それでは、マイノリティの側に、卑屈さが前提されることになり、受け入れられない、ということになるのは避けられまい。少なくとも、感謝の思いと共に受け入れられる、という風にはならないだろう。

 寛容は、相互性を属性とする道徳理念ではないということであり、その点で尊重と ― 承認とも ― 決定的に異なる。

【3】 寛容について語らずにはすまされない土壌は、ヨーロッパでは、この200年、着実に崩れてきたと思われてきた。世俗化、と呼ばれる趨勢だ。ところが、昨今、「寛容」について語らずにはすまされない状況が生まれてきている。それは、イスラム文化との共存、ということが社会的課題となる、という新たな状況が出来してきているからだ。宗教的人間に対しては、私もまた、寛容であることしかできない。私は相手の立場(信仰)を誤りだと思うけれども、だから、その考えを放棄することこそ正しい、と思うのではあるが、だからといって、その考えを奉じる人など殺してしまえ、とは考えない。許容するのであり、それが、寛容だ。

 その際、客観的に考えればどちらが正しいか、と問い、判断を下すことは、不可能だ。なぜなら、私は、客観的視点(神の視点)には立てないのだから。神の存在を信じない、とは、自分もまた神の視点、客観的視点、絶対に正しい視点には立てない、と諦念することだ。つまりは、相対主義をさしあたり受け入れる、ということだ。主観的視点からして、私は、宗教はなくなるべきだ、と思うのだが、その立場の主観性は自覚した上でのことであり、そのことも、寛容であるべき理由となる。寛容は、普遍主義を前提せず、多元主義・相対主義を受け入れるところに要請される徳性だ、と言ってよいだろう。

 その問題は、だからと言って、無制限に寛容であるべし、とか、寛容であればあるほどよい、という話にはならない、という論点と関係する。寛容という徳には、限界がある。寛容が、一種の妥協の産物という特質を有する道徳性であることの一つの現れである。それが、例えば「正義」という徳とは異なるところだ。(自由や平等にも、限界はあると思うが、正義や幸福にはそれはないだろう。自由であればあるほど、平等であればあるほどよい、とは言えまいが、正義であればあるほど、幸福であればあるほどよい、とは言えるだろう。)

 寛容でありうるのは、あるべきなのは、ここまで、という限界(境界)がある。例えば、テロに対しては、寛容であるべきではないと思うが、信仰に対しては、そうだろう。こうして、寛容論は、常に、線引き問題を抱え込む。イスラム原理主義のテロリズムには寛容であるべきではないが、イスラム教(そのもの)には寛容であってよい、例えば、そういう線引きだ。「狂信」という言葉があるのは、線引きのためなのだ。それに対して寛容であることはできないし、あるべきでもない。

【3】 自分でも意外な、暫定的結論
【1】 さて、こんな風に考えてきて、自分でも意外な結論にたどり着いた。私は、昨今の日本における道徳教育必修化に関する議論を重要な課題だと考え、同時にその一方で、寛容論を現代世界にあって必要な論点だと思う者だ。しかし、両者は、結びつかないのではないか。というのも、上述したように、寛容が道徳性として要請されるのは、複数の宗教が対峙するような状況、そして、普遍主義を掲げることができないような状況においてであると考えられるからだ。しかし、目下の日本の状況はそうではない。世俗化された社会と捉えるのが適切な目下の日本で、必要な道徳性とは、相手の立場は誤っていると思うけれども寛い心で受け入れるという姿勢、つまりは寛容ではなく、あくまでも、正しい立場めざす辛抱強い合意形成の努力だ、と考える。そこで必要な他者に対する姿勢とは、合意形成をめざすプロセスを共にしうるパートナーとして他者を尊重する、という姿勢だと思う。容易にヴォルテールまで引き下がらないこと、あくまでも、カント、ハーバーマスの路線を堅持すること、と言ってもよい。

【2】 より具体的に考えてみよう。道徳教育の名のもとにもっぱら愛国心教育を考えている人々の念頭にある「他者」とは、中国や韓国の人々であり、そこから日本にやって来た、そしてやって来る人々だろう。その人々と日本人の関係の中に、宗教の問題は存在しない。それでも、むりやり、絶対的価値同士の衝突の問題に仕立て上げたい、というのであれば、話は別だが、そんなのは妄想だ。

 それとは別に、イスラム文化圏から日本を訪れ、日本に住む人々が、これから増えていくだろうという問題はある。「問題」などというと、まるで「困ったこと」ででもあるかのように響きかねないが、私は、日本に魅かれ、日本を訪れ、日本に住みたいと思う外国人が増えることを嬉しく思う者であり ― その気持ちが、私の愛国心だ ― その際、どの国の人であるか、は問題ではない。そこでは、それぞれの人の信仰に対して ― イスラム教であれ、キリスト教であれ、ヒンズー教であれ、仏教であれ ― その教えは誤っていると思うけれども、しかし寛い心で受け入れるという姿勢、つまり「寛容」でありたいとは思う。

 そう考えると、愛国心と歓待と寛容とは、結構、両立・共存可能であるように思えてくるのだけれども、どうだろうか。

《付記》  私が寛容について考えるようになったのは、マイケル・ウォルツァーを読んで以来だ。この1935年生まれのユダヤ系アメリカ人政治(哲)学者は、地球上のマイノリティの歴史について驚くべく該博の人で、とりわけ、ユダヤ民族の歴史に詳しいのだが、そこでは、オーストリア帝国の存在感が大きい。帝国には寛容という徳がゆき渡っていた、というウォルツァーの指摘は、私にとって強烈な「メウロコ」の経験だった。例えば、オーストリア帝国の東の端に、チェルノヴィッツという街があったのだが(今は、ウクライナに属する)、そこには、ユダヤ人、ルーマニア人、ウクライナ人、ドイツ人、、、、、と様々な民族が共生し、寛容な文化が花開いていた。
そういうことも含め、寛容、多文化主義、道徳について、私は、以下のような文章の中であれこれ考えてきた。この文章は、それを再構成してひねり出されたものである。

・書評:マイケル・ウォルツァー『寛容について』(みすず書房、2003年)、高崎経済大学論集第47巻第3号、2004年
・『高校生と大学一年生のための倫理学講義』、ナカニシヤ出版、2011年
・「「チェルノヴィッツ」考 - 歴史と文化」、『思想』2013年3月号、岩波書店

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 藤野教授の上掲書『高校生と大学一年生のための倫理学講義』は、わたしも今年秋、藤野教授の文章に親しんですぐ、読ませていただきました。そして問題のわかりやすい整理の仕方に感銘を受けたものです。

「共感」は、道徳の普遍的土台とはなりにくい。「尊重」はそれに比べると(それでも多少困難ではあるけれども)共通ルールにしやすい。

 おおむねそういう論旨です。ご興味のある方はぜひ、『高校生と大学一年生のための―』をお読みになってみてください。

 今回は、「寛容」という徳をテーマにして、
・「寛容」は無関心ということも含む徳であること、
・マジョリティからマイノリティへの、やや「上から目線」の徳であること、
・複数宗教が対峙し、普遍主義を掲げることができないときは「寛容」が要請される、
・日本国内のような状況では、必要な道徳性とは寛容ではなく、あくまでも、正しい立場めざす辛抱強い合意形成の努力だ、と考える
ということを述べています。

 藤野教授から12月14日、この原稿を添付していただいたメールによれば、

 
 正田さん、
 アクセル・ホネットが
 資本主義に対してどういうスタンスをとっているのか、
 ということが知りたくて
 いくつかの論考を読んでいるのですが、
 最近出た『社会主義の理念』という本
 面白いのですが、まだ読んでいる最中で、
 授業で取り上げられるのは正月明けになりそう、
 ということで、
 今日の講義は、「承認と寛容」をテーマにすることにしました。
 少し前に書いた文章を引っ張り出してきました。
 それを添付させていただきます。
 【1】の7と【2】を主要に解説することになります。


とのことでした。

 ということは、前回ちらっと出た「資本主義は利益至上主義だけではなく承認の原則によっても成り立っている」これは年明け以降にその続きが読めそうだ、ということですね。


 藤野先生、このたびもありがとうございました!


正田佐与

 

お世話になっている皆様


 おはようございます。
 正田佐与です。
 
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 本日の話題は:

■頭の体操「ダイバーシティー経営は損か得か?」

■藤野寛教授のホネット承認論講義録:
 「資本主義は利益最大化だけではなく、承認の原則によっても成り立っている」
 
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■頭の体操「ダイバーシティー経営は損か得か?」

「ダイバーシティー経営は損か得か?」
 こういうお題を出されたら、現役ビジネスパーソンの皆様はどうお答えになるでしょうか。
 まず、「ダイバーシティー経営とは何か」のところから押さえないといけないですね。
 実は一般に「ダイバーシティー経営」と言われてぱっと想像する、「男性だけでなく、女性や外国人など色々な人が混じっている会社」。これは経営学では、「デモグラフィー型の人材多様性」とよぶのだそうです。
 そして他方、「能力・経験」が様々な人が集まっている場合を、「タスク型の人材多様性」とよぶそうです。
 経営学で「儲かる」ことにつながるのは、後者の「タスク型人材多様性」。そして単純に女性や外国人が混じっているだけの「デモグラフィー型の人材多様性」は、「儲かる」ことにつながらないどころか、業績を下げることもある。
 最近出版された『ビジネススクールでは学べない世界最先端の経営学』(入山章栄著、日経BP社、2015年11月)では、こういう内容のことを言っております。
 前半部分、「タスク型の人材多様性は儲かる」これには、納得ですね。TVや映画の世界でも「必殺仕事人」とか「オーシャンズ11」、様々な特殊技術、バックグラウンドを持った仕事人たちがチームを作っていい仕事をする。イメージしやすいです。問題は後半の「デモグラフィー型の人材多様性は損だ」という知見です。
 これを見て、「おやおや、では来年度は女性の採用を手控えたほうがいいのだろうか」「今男性ばかりの部署に女性を配属してみようと思ったが、やめたほうがいいのだろうか」このように思われる経営者さんがいらっしゃるかもしれません。
 でも、ちょっと待って。
 この知見、「デモグラフィー型の人材多様性は儲からない」これは、実はいくつも反論があり得るのです。そのまますんなり受け取れないのです。くれぐれも、御社の大切な経営判断にそのまま取り入れたりはされませんよう。
 「世界最先端の経営学に楯突くなんて!」と思われるかもしれません。でも、「これだけ反論の余地があり得るんだ」ということを示した記事を掲載しました。もしよろしければご覧ください:

◆『ビジネススクールでは学べない―』経営学は”残念な学問”か?考察編(1)「ダイバーシティー経営は損か?」
 http://c-c-a.blog.jp/archives/51931381.html

(ちなみに本記事も、長文にもかかわらずフェイスブックでは非常にご好評をいただきました)

 実は、「世界最先端の経営学の知見を紹介する」と謳っているこの本は、ほかにも個々の項目で実感と合致しない点があります。
 「承認マネジメント」あるいは「承認リーダーシップ」を10数年、教えてその現場での機能の仕方をみてきた立場からは、それらの関わる項目はすごく“不自然”に映ります。それらについて実務家にとってもう少しわかりやすいように書いたのがこちらです:

◆『ビジネススクールでは学べない―』世界の経営学は周回遅れ?考察編(2)リーダーシップ、内発/外発、レトリック
 http://c-c-a.blog.jp/archives/51931424.html


 また今回の一連の記事の「序章」のようになった、ある「対話」がありました。『ポスト資本主義』『介護男子スタディーズ』の著者(介護男子スタディーズは編著)、千葉大学法経学部の広井良典教授(科学哲学)とのメールのやりとりです。広井教授のご了解をいただき、こちらにご紹介しております:

◆科学の限界性、認識の限界性―アカデミズムも盲信してはいけない?千葉大学・広井良典教授との対話
 http://c-c-a.blog.jp/archives/51931204.html

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■藤野寛教授のホネット承認論講義録:
 「資本主義は利益最大化だけではなく、承認の原則によっても成り立っている」

 一橋大学大学院言語社会研究科の藤野寛教授(現代ドイツ思想)より、「ホネット承認論」に関する同大学での講義原稿をいただきました。
 アクセル・ホネット(66)は、同じフランクフルト学派のユルゲン・ハーバーマス(86)とともに、現代を代表する思想家の1人で、ヘーゲル承認論の正統的な後継者でもあります。藤野教授は今年度後半、「ホネット承認論」を講義しておられ、その毎回の講義原稿をいただいております。
 今回はちょうど、冒頭の記事のテーマとも関連しそうな内容。また正田が年来ぶつくさ言っていた「自己実現」の問題にも答えてくださっています:

◆「資本主義は利益最大化だけでなく、承認の原則によっても成り立っている」(ホネット)―一橋大学・藤野教授講義原稿(4)
 http://c-c-a.blog.jp/archives/51931120.html 

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★前号のメルマガが「アドラー心理学批判」だったのに続き、今回は「世界最先端の経営学批判」でした。
 読者の方はびっくりされたかもしれませんが、わたし自身、「こんなに“詭弁”が次から次へと押し寄せてくる時代を生きているんだ」と驚きながら、そういう時代であることを前提に自分のところの責任を果たさなければ、と思います。

★昨日、映画「杉原千畝」を観てきました。リトアニア領事代理として2139人のユダヤ人に日本通過ビザを発給した実在の外交官の話です。辺鄙なところに赴任しながら、優れた諜報能力を駆使して世界情勢の全体像を知り、自分のところでやるべきことを、人道上の要請も絡めながら決断したその姿から学べるものもありそうです。


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※この読書日記はシリーズ化しました。

1.悩ましくも学び多き俯瞰図の第二弾―『ビジネススクールでは学べない世界最先端の経営学』読書日記編
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51931354.html

2.『ビジネススクールでは学べない―』経営学は”残念な学問”か?考察編(1)「ダイバーシティー経営は損か?」
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51931381.html

3.『ビジネススクールでは学べない―』世界の経営学は周回遅れ?考察編(2)リーダーシップ、内発/外発、レトリック
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51931424.html

4.痛みに満ちた進歩の歴史と「こころの退化」と―世界の経営学にNOを言う 考察編(3)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51931465.html



『ビジネススクールでは学べない世界最先端の経営学』について、考察編の蛇足のような記事です。


※ここまでの流れをお知りになりたい方はこちらをご参照ください

悩ましくも学び多き俯瞰図の第二弾―『ビジネススクールでは学べない世界最先端の経営学』読書日記編

http://c-c-a.blog.jp/archives/51931354.html

『ビジネススクールでは学べないー』経営学は"残念な学問"か?考察編(1)「ダイバーシティー経営は損か?」

http://c-c-a.blog.jp/archives/51931381.html

『ビジネススクールでは学べない―』世界の経営学は周回遅れ?考察編(2)リーダーシップ、内発/外発、レトリック

http://c-c-a.blog.jp/archives/51931424.html



 「ダイバーシティー経営」の知見について、なぜあれほど生理的嫌悪感をもったのだろう。

 今日の記事では、全然論理的・客観的でなく、むしろバイアス満載の、感情的・主観的な自分になって語りたいと思います。

 自分個人の体験として。
 わたしはバリバリの均等法世代、同法施行2年目に入社した女子です。入社したとあるマスコミの会社は業界の中でも女性活用が遅く、女性総合職の記者2期目、そして配属された部署では初めての女性記者となりました。
 そして平凡な話だと思いますが、上司は女性の受け入れについてなんら研修など受けておらず、違和感マンマンの表情でわたしを受け入れました。口を開けば「女の子は叱ると泣くんじゃないか」と言われ、一方では「叱られて初めて本物だぞ」と言われ(じゃあ女の子は永遠に本物にならないのかよ)、腫れ物に触るような扱い。
 過去にこのブログにも書いたように、そんな中でも精一杯優等生の1年生社員をやっていたのですが、中にはわたしが周囲のおぼえめでたいのをやっかんで悪質な嫌がらせをしてくる先輩社員あり。また当初は上司がそうした先輩の嫌がらせに盾になってくれていたのですが、前門の虎後門の狼というやつで、今度はその上司が「対価型セクハラ」というやつをやり、わたしはそれを断ったのでいきなり不興を買い、仕事を干されました。哀れ可愛がられっこだった1年生女性社員は、以後毎日ひたすら出社しては何もやることがなく、新聞を読むようになりました。約4か月その状態が続き体重は7kg落ちました。そして問題の上司が他部署への転属を打診しに来たので、組合に駆け込み、組合もさすがに「それは不当人事だ」と会社に掛け合ってくれ、私は希望通り地方に出してもらえることになりました。
 その地方勤務の準備のため警視庁、環境庁(当時)に各2か月詰めたのでした。かなり異例のことでした。
 地方に行ってからはこれも受け入れ先が渋々受け入れたようで、当初「無任所」、決まった担当先がなく仕事が何もないに等しかったのですが、その地方では手つかずだった医療分野を自分で開拓して特ダネを書くようになりました。そしてある時期は社内報に毎回名指しでおほめの言葉が載り、表彰もされるように。東京から地方巡回してきた社長や編集局長には「次の香港特派員はお前だからな」と言われ。
 東京勤務時代に本社に女性の宿泊施設がなく、それでも宿直勤務を希望したので、宿直に入っても男性と違って寝に行くところがなく、勤務が終わってから資料室でつっぶして寝ていたこと、地方勤務もまたその地方では「初物」になり違和感に囲まれながらの仕事でした。そしてそこにも悪意の先輩というのがいました。最近膳場貴子氏がNEWS23の降板を希望したと偽情報をリークされていましたが、わたしも結婚ネタをリークされ退職に追い込まれたようなものでした。
 わたしの10代くらいあとの女性でしょうか、その会社で初めて海外特派員に出たとききました。先輩女性たちの死屍累々のあと、死体の山を踏み越えて、初めて1人の女性特派員が誕生するのです。

 そういう、男性だけだった会社や職場に初めて1人の女性が入ることがどれほど大変なことか。軋轢の多いことか。志を貫こうと思えば、人としてどれほどの苦痛を味わい続けることか。経営学者たちにはわからないでしょう。
 こんにち、それなりの規模の会社にはどこでも女性がそこそこの人数いるのは、その蔭に多数の痛みに満ちた女性たちの人生があるのです。女性が存在できるようになったのは、闘争のすえに勝ち取られた「進歩」なのです。

 で、後輩や自分の娘のような世代の人たちにはなるべくもっとスムーズに働き、経済的不利益も味わわないで済んでほしいと思っているのだけれど、昨今のミソジニー(女性嫌い)の風潮はそんな思いをあざ笑うかのようです。
 だから、わたしは女性たちに不利益をもたらす言説にはNOを言います。

****

 もう1つ、また「生理的嫌悪感」にまつわる話を。
 たとえば「白人、男性、同年代だけで固めた職場なら、ツーツ―で仕事がはかどって楽だなあ」こういうメンタリティに対して、わたしは不快感なのです。それは堕落したこころの状態だ、という気がするのです。
 読者の方は、いかがでしょうか。
 
 またひとつの実体験です。「女の園は苦手だ」と言いましたが、地元の商工会議所の人に頼まれて、「女性経営者の会」に2年ほど入っていた時期がありました。40歳前後のこと。
 その「女性経営者の会」は、主力は60歳代の女性社長たち。お父さんが亡くなったから、ご主人が亡くなったから、と受身なきっかけで経営者になった人が大半で、自力で起業した人は少数でした。そして、ホテルのレストランで毎月ランチをご一緒するのですが、まあ円卓に一緒に座っていても共通の話題がない。60代女性の共通の趣味で、踊り(日本舞踊)に行ったとかシャンソンに行ったとか歌舞伎に行ったとか、同年代同士ベチャクチャと話しておられる。こちらからは口を挟むとっかかりがない。
 そこで如才なくあれこれ話しかけられればいいのでしょうが、わたしと同様、「入っていけない…」と感じる若手女性経営者は少なくなかったようで、2年間のあいだにわたしと同年代の人が入っては辞めていきました。2年もったのは辛抱強かったほうでした。
 そのうち、その会の「外」で、やはりその会から脱落したという50歳前後の女性経営者と出会い、「もっと若い者同士の女性経営者の会をしましょうよ」と声をかけられましたが、行ってみるとそこもまた、今度は50代の人の集いの場でありまして。
 
 どうも、「女同士だから気安く話しやすい」場として設けられたところでは、メンバーは気安さを求め、女性同士というだけではなく、同年代同士というさらなる気安さを求めてしまうのです。こういうのは煩悩のようなもので、せっかく気安いのだからもっともっと気安く、と追い求めてしまうのです。
 たぶんそれはサークルのようなところだけでなく、カイシャでも同様で、女同士だからサクサク話が通じるかといえば、その中で年代ごとの壁をつくり、あるいは既婚者・未婚者の壁をつくり、いたちごっことなるでしょう。同質性を際限なく求めるでしょう。
 そういう、「べたっ」と同質な世界というのは、わたしは堕落だ、と感じてしまうのです。こころのどこかが麻痺しているように感じてしまうのです。
 たぶん仮にそういう中にいて居心地がよいと感じるとしたら、その場にはいない異質の人に対してはものすごく不寛容になりそうです。ヘイトスピーチなどもしてしまいそうです。男だったら、配偶者にDVなどもしてしまうかもしれません。また、女でも自分の子供が仕事の同僚のようにサクサク動いてくれないことに腹を立てるかもしれません。
 異質の人が周りにいるというのは、いいことなのです。こころの訓練になっているのです。同質の人だけと一緒に過ごしたいなどというのは、「退化」なのです。
 経営学が「こころの退化」を勧めるのなら、やはりNOを言いたい。


正田佐与

※この読書日記はシリーズ化しました

1.悩ましくも学び多き俯瞰図の第二弾―『ビジネススクールでは学べない世界最先端の経営学』読書日記編
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51931354.html

2.『ビジネススクールでは学べない―』経営学は”残念な学問”か?考察編(1)「ダイバーシティー経営は損か?」
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51931381.html

3.『ビジネススクールでは学べない―』世界の経営学は周回遅れ?考察編(2)リーダーシップ、内発/外発、レトリック
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51931424.html

4.痛みに満ちた進歩の歴史と「こころの退化」と―世界の経営学にNOを言う 考察編(3)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51931465.html






『ビジネススクールでは学べない世界最先端の経営学』(入山章栄著、日経BP社、2015年11月、以下、「本書」と略)
 読書日記考察編(1)に続き、考察編の第二弾です。

 考察編(1)の「ダイバーシティー経営」の話題に比べると、”実害”はそれほどないかもしれない、したがって緊急性・重要性とも低いかもしれない部分。
 でも「神戸の承認屋」としては、「世界の経営学ってまだそんな(遅れた)ことやってるの!?」と言いたくなるところです。また、もう少し現実的なところを知っておいたほうが実務家には役立つのではないか、と思われるところです。

 こういうのも、あとで改めてまとめて考察すると時間のムダなので、今やっておきましょう。
 ほんとは、「承認教育はこんなに優れている」と主張することになりますから、わたしの性格的にあんまり気が乗らないんですけれど。

 ポイントは3点、
(1)内発/外発:もっとシンプルな捉え方ができるでしょう
(2)リーダーの「伝え方(レトリック)」:「ビジョン」「イメージ型の言葉」の陰に潜むものの大事な役割
(3)リーダーシップの概念:これも分け方が変
 
です。

****

(1)内発/外発:もっとシンプルな捉え方ができるでしょう


 「モチベーション」に関わるところです。
 おさらいで、2つ前の読書日記の記事でのこの項目に関する要約部分を再掲いたしましょう:

●モチベーションの「外発的な動機(Extrinsic motivation)」と「内発的な動機(Intrinsic motivation)」。内発的な動機を強く持つ人のほうが、創造的な成果を出しやすい。またどのようなリーダーが部下の内発的な動機を高めやすいかというと、「トランスフォーメーショナル型」のリーダーである可能性がある。
 「内発的な動機」を高めた日本組織の成功事例としては、JR東日本の子会社で、新幹線車内の清掃をするテッセイ。(『新幹線 お掃除の天使たち』参照)。(pp.224-226)

 めんどうでも言葉の定義を確認しながらすすめたいんですが、ここでいう「外発的な動機」とは、「給料・昇進・周囲からの評価など、当人の外から与えられるモチベーション」と本書は言います。また「内発的な動機」とは、「当人の心の中からわきあがってくるモチベーションです。仕事へのやりがい、楽しさなどを感じることがその典型」とのことです。
 そして、近年の研究成果では、特に後者の「内発的な動機」の重要性が主張されている、といいます。

 さて。以前からこのブログでは、この「内発、外発」の分け方には意味がない、ということを言っています。「区切り方が変」といいますか。
 本書の記述やその他のこれまでの研究で言っていることを要約すると、「外発」はすなわち、カイシャから与えられるモチベーション。「おカネによる報酬」も「昇進」も「上司からの褒め言葉」もそこに入ります。「内発」はそうではなくカイシャの外から与えられる、あるいは外向けの動機―すなわちお客様からの感謝の言葉とか仕事そのものの意義、例えば社会に与えるインパクト、社会的貢献度など―を指すようです。

 でもそれは、「承認屋」からみると、全部「承認欲求」でくくれてしまうものなんです。単に「承認」を与えてくれるひとが誰か、の違いだけです。 
 本書で例として出している「テッセイ」を例にとりましょう。

 そもそも掃除現場はいわゆる3K職場のようなところがあり、テッセイのスタッフの士気も、以前はとても低いものでした。それを、親会社であるJR東日本からやってきた矢部輝夫氏が、大胆に変革したのです。例えば矢部氏は掃除の仕事を「おもてなし」と再定義し、乗客から彼らの仕事がくっきりと見えるようにしました。そのために、制服もカラフルで素敵なものへと変え、乗客から注目を集めるようにしました。
 さらに矢部氏は現場に大胆に権限を与え、現場の総意工夫(ママ)でお客さんに対応するようにしました。すると次第に新幹線の乗客がスタッフに対し、「ありがとう」というようになり、それがテッセイのスタッフの仕事に対するプライドへとつながり、スタッフの士気が高まっていったのです。(pp.225-226)

 
 ここでは、
「乗客から彼らの仕事がくっきりと見えるようにした」
「制服もカラフルで素敵なものへと変え、乗客から注目を集めるようにした」
 これらは、言葉は悪いですが「自己顕示欲(承認欲求の一形態)から仕事に誇りを持たせる」ということをしています。また、
「現場に大胆に権限を与え、現場の総意工夫(ママ)でお客さんに対応するようにした」
 これも「任せる」という、「承認」の一形態をやっています。「任せる」とは、「あなたの判断力を信頼していますよ」という、信頼やリスペクトの表現です。
「乗客がスタッフに対し、『ありがとう』というようになった」
 これは、乗客が「承認」をしてくれた、ということですね。

 そして、本書には載ってないんですが、『新幹線お掃除の天使たち「世界一の現場力」はどう生まれたか?』(遠藤功著、あさ出版)によれば、矢部氏はテッセイに赴任後、マネジメント内部で「現場へのリスペクト」の精神を徹底した、とあります。
 カラフルで素敵な制服を与えるのも、「彼女らは誇りを持つべき人々だ」「だから、彼女らに誇りを与えよう」という、マネジメントから彼女らへのリスペクトの表現だ、とみることができます。
 ひょっとしたら、それ以前はホワイトカラーのマネジメントの人たち(たぶん男性)は、現場の彼女らを「お掃除のおばちゃん」と一段階低くみていたかもしれません。言動にも処遇にもそれが出ていたかもしれません。そしてそんなマネジメントへの反発心で、あるいは見下されることからくる自己評価の低さで、だらだら仕事をする人がいたかもしれません。そして案外、一連の改革プロセスの中でここが一番難しく、かつほかのすべての施策の土台になったところかもしれないのです。

 そういうふうに、テッセイの事例はわたしなどからみると、「マネジメントからの承認、そしてお客様から承認を得られるための仕組みづくり」を組み合わせた例、と考えることができるのです。
 現場の人にとっては、マネジメントからの承認「も」お客様からの承認「も」両方大事です。テッセイの場合は多分とりわけ、お掃除という一般には世間からの評価の低い仕事だからこそ、また人目に触れる仕事だからこそ、「世間/お客様からリスペクトされる」ことを重視しないといけなかったのでしょう。
 一方、看護や介護など専門性の高い仕事では、一般に思われているような、お客様(患者)からの「ありがとう」よりも専門性を熟知している上司・先輩からの(専門性を評価した)承認のほうが嬉しい、という調査結果もあり、どちらが有効かは一概には言えないのです。職種による、ということです。
 あるいは、テッセイの現場の内部でも、「上司・先輩からの個々の仕事に基づく承認」は行われているかもしれません。それがなかったり、攻撃的他罰的な人が混じってギスギスしていたりすると、いかにお客様からの承認があっても上手くいかないかもしれないのです。
 …カイシャの「外」からの評価が嬉しい、というのは、約30年前のわたしが会社員時代にはそうだった。というのは、上司のことがイヤでイヤでたまらなかったから。それは余談です。訓練不足の上司のもとでは、カイシャの「外」からの評価が嬉しい、それだけを励みに仕事している、という人が多くなるかもしれないですね。

 いずれにせよ、「内発的な動機づけ」「トランスフォーメーショナル型リーダーシップ」という概念を使うより、働く人々の「承認欲求」とそれを満たす行動である「承認」という、はるかにシンプルな概念を使った方が、一般のマネジャーにとっては学習のしやすさが全然異なります。「承認」のほうがはるかに学習しやすいです。

 この「テッセイ」の件は「内発的な動機が現場を強くする」事例として高く評価され、ハーバードMBAのケーススタディーとしても取り上げられているそうですが、わたしはハーバードのケーススタディーがいかに自分の理論に合わないものを捨象して出来ているかを知っている人なので、「またやってるな」という感じです。「内発って思いたい」んですよね、大学の先生は。シンプルに、脳のどの部分が活性化するかみればいいんじゃないですか。だめですか。
 
 
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(2)リーダーの「伝え方(レトリック)」:「ビジョン」「イメージ型の言葉」の陰に潜むものの大事な役割


 本書では、手っ取り早くいうと「優れたリーダーはイメージ型の言葉を使う」と言っています。ただし補足で、「イメージ型の言葉を使うから優れたリーダーになるわけではない、因果関係というより相関関係を示している」ということも言っていたのは、評価できます。

 さて、では、一般のマネジャーがこれを学んで、「伝わる話をするためにイメージ型の言葉を使おう」と思うことは、正しいでしょうか?読者の皆さんはどう思いますか。
 たぶん、いきなりそれをやったら空回りするでしょうね。
 それは何が足りないのか。

 まず、本書で例に挙げたような、アメリカの歴代大統領、こうした「雲の上の人」については、わたしたちはその人との個人的関係がまったくありません。日頃の関係性を「抜き」にして純粋にレトリックだけで左右されると考えられます。ところが、一般の部下と日々接しているマネジャーはそうではないですよね。そこでは、日頃の関係性が、言葉の伝わりやすさに大きく影響します。
 このブログの読者の方はマネジャー以上の立場の方が多いかと思いますが、だからちょっと記憶が遠いものになっているかもしれませんが、皆さんが若くて末端の働き手だったころ、自分の嫌いな上司の言うことを理解できましたか?3分の1とか4分の1ぐらい、「ひゅーひゅー」だったということはないですか?
 とりわけ、その「嫌いな上司」が「組織の理想」のようなことを語った場合、綺麗ごとにきこえてしまって実感がわかなかった、ということはないですか?
 では何が「好き、嫌い」に影響するかというと、とりわけ「上司部下関係」の場合は、「承認」がほとんどすべてを決めてしまうと言っていいと思います。
 このブログでは何度目かの繰り返しになりますが、人は、脳の「内側前頭前皮質」という部位から、他者の自分に対する評価を取り込み、自己評価を作っていきます。そして「内側前頭前皮質」は同時に、外部の規範を取り込み自分の規範意識を形づくる、という役割を担っています。
 だから、「承認してくれる上司の言うことは自分の規範として取り入れやすい」。

 もう1つの説明としては、普通のはたらく人というのはポジティブ心理学でいう「ポジティビティ(ポジティブ感情)」が低いのです。ポジティブ感情の有無は、人が中長期的視野でものを考えられるか、あるいは目先のことしか見えないか、に影響を与えます。ポジティブ感情のある人は少し長い視野でものを考えられ、未来へ目を向けることができるのです。このポジティブ感情の土台がないところに、「ビジョン」を語りかけたり「未来の姿をイメージさせる言葉」をレトリックとして使ったりしても、ぴんと来ないであろうと予測できます。そこまで気持ちがあがってこないのです。

 では、どうしたらいいでしょうか。1つの例を挙げましょう。
 拙著『行動承認』に出てくる事例です。中国工場の総経理である脇谷泰之さんという人が、中国人スタッフに向けて語りかけます。工場が不良を出し、連日深夜までやり直しの仕事に追われていたさなかのこと。

「あなたがたには、十分いいものを作る能力がある。
どこにも負けない技術がある。
ただ、小さな問題が続き、自信がなくなっているだけだ。
僕は、あなたたちの能力を信じている。
だから、自信をもってお客様にいいものを届けよう。
そうすれば、必ず今の苦しみを乗り越え、みんなで笑える日がすぐに来るから」

 いかがでしょうか。
 この「ミニ・スピーチ」の最後の一行が「ビジョン」であり「イメージ型の言葉」になっています。しかし、冒頭の4行は「承認」になっています。いわばビジョンに行き着くための「助走部分」に「承認」を使っているのです。
 ここで、「承認」はマネジャーに対する「求心力」―信頼感とも、愛着心とも言いかえられます―を高める働きと、「ポジティブ感情」を高める働きの両方をしています。いわば、従業員たちとマネジャーの間の心のつながりを太くし、そして従業員の心を浮き上がらせ、少し遠くを見られる状態に持って行ってあげる、そういう役割を果たしているのです。
 こういう「下地づくり」を手順として行うと、「必ず今の苦しみを乗り越え、みんなで笑える日がすぐに来るから」という、ビジョンの言葉がリアルな言葉として響くようになるのです。

 こうして「技術解説」をすると、操作的にきこえてしまいますし単なるレトリックのようにもみえてしまいそうですが、脇谷さんはこの事例の少し前に「承認」の概念に出会い、個人個人へのスタッフへの「承認」を行うようになっていました。
 承認を理論レベルでなく、実践レベルで行うということは、その人自身にとっては、「他者の視点を取得する」体験にもつながります。とにかく相手は「承認」を欲しているのだということ、適切に与えれば嬉しいものなのだということ。その体験を繰り返すことが、他人視点の取得につながり、そしていざという時に、部下が欲するものに応える行動として、「ビジョンの言葉を発する」能力を形成することにもつながるかもしれません。
 「ビジョンを発したリーダーが成功した」「イメージ型の言葉を発したリーダーが成功した」
 それは、実は「ビジョン」や「イメージ」に付帯していたものが大きかったのかもしれないのです。

 脇谷さんは2011年の初めに「承認」の概念に出会って実践者となり、総経理を務める上海工場はその年から2年連続で「業績倍々ゲーム」の快進撃になります。「2年間、お客様のもとに不良を1件も出さなかった」という快挙、そして2014年にはお客様の「優良協力工場」として表彰されます。

 まとめると、「ビジョンの前に承認」これを、日常行動としてもその場のスピーチの構造としても、意識しておいたほうがよいでしょう。わたしからの実務家へのアドバイスは、そうです。

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(3)リーダーシップの概念:これも分け方が変

 本書では、「トランザクティブ・リーダーシップ」と「トランスフォーメーショナル・リーダーシップ」という2つの概念を紹介し、これらが経営学でコンセンサスとなっているものだ、といいます。
 「トランザクティブ・リーダーシップ」とは、
1)報酬を与え(ほめ)、
2)部下の失敗に事前介入、
3)部下の失敗に事後介入 
ということだそうです。なんか現実の人格ではない、要素だけを抜き出した感じの概念ですが。これだけしかやってない人っているのかしら。
 そして「トランスフォーメーショナル・リーダーシップ」とは、これもおさらいですが、
(1)組織のミッションを明確に掲げ、部下の組織に対するロイヤルティーを高める
(2)事業の将来性や魅力を前向きに表現し、部下のモチベーションを高める
(3)常に新しい視点を持ち込み、部下のやる気を刺激する
(4)部下一人ひとりと個別に向き合いその成長を重視する
ということだそうです。

 で、優れたリーダーはトランスフォーメーショナル・リーダーシップの4項目プラス、トランザクティブ・リーダーシップの1)を持っているのだそうです。
 これもうーん、なんでそういう分け方になるかなあ。とわたしは思います。
 「内発、外発」のときもそうでしたが、いちどある分け方を決めると、経営学者はみんなそれに沿って追試して、ほかの分け方の可能性をみなくなるのではないかしらん。また、なんでこんな舌をかみそうな用語をがまんして使わなくちゃいけないのかしら。

そして今回の記事の3項目に共通して言えるのは、カイシャやリーダー/マネジャーに対する愛着心(attachment)という要素には全然フォーカスしてないですね。わたしは承認研修の統計の質問紙に「職場アタッチメント」という言葉を入れましたけどね。この項目は研修後に如実に上がりました。
 
 
 ・・・でもわたしもちょっと疲れてきたので、また特に実害のありそうなところでもないので、ここは「違和感の表明」だけにとどめたいと思います。

 「批判記事」書かなきゃなあ、と思うと歳のせいで肩や腰が痛むんです。今回の記事はそんなに「批判」でもないですけどね。お友達の助言に従い、少し休もう…。


正田佐与

※この読書日記はシリーズ化しました

1.悩ましくも学び多き俯瞰図の第二弾―『ビジネススクールでは学べない世界最先端の経営学』読書日記編
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51931354.html

2.『ビジネススクールでは学べない―』経営学は”残念な学問”か?考察編(1)「ダイバーシティー経営は損か?」
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51931381.html

3.『ビジネススクールでは学べない―』世界の経営学は周回遅れ?考察編(2)リーダーシップ、内発/外発、レトリック
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51931424.html

4.痛みに満ちた進歩の歴史と「こころの退化」と―世界の経営学にNOを言う 考察編(3)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51931465.html




『ビジネススクールでは学べない世界最先端の経営学』(入山章栄、日経BP社、2015年11月。以下、「本書」と略)
 昨日、読書日記「悩ましくも学び多き俯瞰図の第二弾」をUPしましたところフェイスブックのお友達からさっそくコメント頂きまして、「次回のブログ(考察編)楽しみにしています。」と。このお友達は分析に頼る経営学では全体像がみえない、実際の経営はできない、ということを危惧されていました。

 昨今の「本」というものの読まれ方―例えば去年のベストセラーの某「トンデモ心理学本」を、「なんか心理学の本でも読まなきゃなあ」と、ふだん心理学の勉強なんかしていない人が手にとって盲信してしまったように、この本も、ふだん碌に経営学の勉強なんかしてない人が「この1冊で」と思って手にとり、そして盲信してしまう可能性があるのです。それが経営者である可能性もあるのです。
 そういう時代なのだ、ということを考慮すると、やはり反論すべきポイントは即、反論を公開する必要があるでしょう。あとで悔いのないように。

 今回の記事でのポイントは「ダイバーシティー経営」。
 1つ前の記事のおさらいになりますが、本書では、「ダイバーシティーには2種類あり、その峻別が必要」といいます。その2つとは「タスク型の人材多様性」と「デモグラフィー型の人材多様性」です。
 「タスク型の人材多様性」とは、実際の業務に必要な「能力・経験」の多様性。一方「デモグラフィー型の人材多様性」とは、性別、国籍、年齢など、その人の「目に見える属性」についての多様性です。
 そして「デモグラフィー型の人材多様性」は・組織パフォーマンスには影響を及ぼさない・むしろ組織にマイナスの効果をもたらす という結果。
 この知見を、著者・入山氏は、「事実法則」として紹介します。
 
 数十の研究を再集計してメタ・アナリシスをした結果ということなので、「なるほどそうか」と思ってしまいそうです。わたしも一瞬思いましたが、「いや、しかし」と踏みとどまりました。その結果は本当に信頼できるのか。またその結果をもとにさまざまな意思決定をした場合、どうなるか。
 わたし自身が「女性」という、この知見に対してそもそもバイアスをもった人間であることを前提としつつ、(そのバイアスから言えば、この知見は「不愉快なもの、嫌悪の感情を呼び起こすもの」でした)考えられる反論を挙げてみたいと思います。

●実験デザインが不明確
(1)「デモグラフィー型の人材多様性」の内容にも性別・国籍・年齢などがあるがそれらの要素のうちの個々のインパクトがまだわからない。例えば「年齢」もデモグラフィーのうちであれば、40代のベテラン揃いの会社に20代の未熟練の人が入社したら、パフォーマンスが一時的に下がる可能性はある。ただし40代ばかりであると持続可能性はない。
(2)「デモグラフィー型の人材多様性」の効果を検証するための比較対象としたのはどんな企業か。「デモグラフィー型の人材多様性」の一切ない企業というのを考えると、例えば「白人、男性、同年齢層のみ」といった極めて均質性の高い企業である。
 わたしはアメリカ滞在経験がないのでよく分からないのだが、そのような均質性の高い企業とはどんなものか想像すると、
・ベンチャーのスタートアップ。大学の同級生同士で起業した、など。
 ⇒きわめてモチベーションが高く、コミュニケーションも「ツーツー」であろうと考えられる。
・富裕層向けの高度なサービス。SPとかエリート法律事務所とか。
・いずれにせよ規模があまり大きくなく、属性以外にも能力を非常に高いレベルで揃えた、「少数精鋭」の企業である可能性がある。こうした企業がすべてではなくても比較対象グループの中に一定割合で混じっていれば、比較対象グループの業績を押し上げる可能性がある。
(3)いずれにしても、特に「男性だけ」の企業というのは、長時間労働をさせることが比較的たやすいかもしれない。そして1人当たり売上高(生産性ではなく)は多くなるかもしれない。もちろんその人たちの人生がどうなるか、ご家庭がどうなるか、子育てがどうなるか、配偶者の人生はどうなるか、などは関係なく。
(4)あるいは、それまで白人男性ばかり均質だった企業に女性や有色人種が初めて入社した場合に業績がどう変動するかを見たのだろうか。その場合は「不慣れなので」、当初数年は軋轢が強く出る可能性がある。それは当然でしょう。

●よのなかカフェでは以前、「優秀な女子とそうでない男子、どちらを昇進させますか?」というお題を出したことがある(「男のプライド」)。昇進でなくて採用でもいい、現実に大いにあり得る問い。それには、この「ダイバーシティー経営は損か得か」の研究はまったく答えていない。しかしなまじ「ダイバーシティー経営は損だ」という結論部分を盲信した経営者が、優秀な女性を不採用としたり今いる少数者を解雇したり、ということが起こり得るかもしれないのだ。

●一般には、男女に関わらず優秀な人を採用・登用するわかりやすい実力主義のほうが、組織のパフォーマンスは高いとされる。優秀でも女性だから昇進させない、あるいは採用しないという組織はいびつなのだ。男性もそこでは能力を発揮できなくなるものなのだ。それにはこの研究は答えられていない。

●この知見からわが国で既に現実に起きた負の影響。あるお調子者の大学の先生が、本知見を引用して、自分の関与した研修の参加者の男女比が大きくバランスを欠いていることへの言い訳に使っていた。そうやって教育訓練を受ける機会を与えないことが日本の高学歴女性の離職につながっていることに気づかないのだろうか。
またBCGのコンサルの先生、これも多分お調子者なのだろうが、「男だけの会社、女だけの会社を作ればいい」と発言した。これも結局は女性の職域を狭めるだろう。女性だけの会社というのはよほど大企業の子会社で安定した取引関係をもつのでなければ取引面で脆弱な存在である。なぜなら大企業側の購買担当者は多くの場合男性で、内集団びいきをするのだから。あるいは、ホネットがいみじくも言ったように、女性が向いているとされる職種は低く評価され報酬を低く抑えられる傾向にある。女性が経済的不利益を蒙らないためには、なるべく男女を混ぜたほうがいいのである。

●ここでわたし自身のバイアスを言うと、お兄ちゃん子で共学出身なので、「女の園」は苦手である。そんなわたしにとって女ばかりの会社しか受け皿がない、他に選択肢がない、というのは息苦しい社会だなあ。歌舞伎とかタカラヅカとか、日本にはモノセックスで富裕層向けの高度なサービスを提供し評価の高いものもあるが…。タカラヅカなんか倍率も高いが、好きずきだと思う。

●時代背景の違いを考慮し補正する必要があるかもしれない。2つのメタアナリシスが対象とした研究はジョシらが1992年〜2009年、ホーウィッツらが1985年〜2006年。屁理屈を言いたいわけではなく、近年の現実の人手不足を考えると、「猫の手も借りたい」状況がある。男性だけで優秀な人材を採れるか、というと、もう無理でしょう。アメリカではベビーブーマーの子供世代、ジェネレーションYが概ね1975年から89年生まれ。わが国でも、今40歳の団塊ジュニアが四大新卒で入社したのが18年前の1997年。つまり、研究対象にした期間というのは「人手余り」の時代だったのだ。その気になれば「白人男性のみ」で優秀な会社を作れた時代だったということだ。


●結論部分の著者の考察。
「このように、世界の経営学で分かってきているのは、組織に重要なのはあくまで「タスク型の人材多様性」であって、「デモグラフィー型の人材多様性」ではない、ということです。
 この結果を踏まえて敢えて乱暴な言い方をすれば、「男性社員ばかりの日本企業にとって望ましいダイバーシティーは、多様な職歴・教育歴の『男性』を増やすことである」ということになります。逆にこのような組織が、盲目的に「女性だから」という理由だけで女性や外国人を登用することはリスクが大きい、ということになります。」
 うーんうーん。そう言っちゃうか。ちょっとこの考察部分の記述は入山先生、ドヤ顔ですね。
 2012年10月、NHK「クローズアップ日本」に登場したIMFのラガルド専務理事は、「私は男女の能力が同じだったら女性を昇進させます」と言っていたが…。
(この番組の詳細はこちら「女性は日本を救う?」(クローズアップ現代)にみる前途多難
 現実には、能力が高くても日本企業で差別される屈辱を味わい離職する女性はいっぱいいる。そういうたくさんの女性の人生がこれからも繰り返されるということだろうか。そこに対する配慮は一切ないですね。

●業績の差分の問題。組織パフォーマンスに負の影響などというとき、その負の影響はどのぐらいのパーセンテージなのだろう。本知見についてその数字は出ていないが、ほかの知見(婿養子企業)では、例えば「婿養子企業は血のつながった同族企業よりROAが0.56%ポイント高い」「サラリーマン経営者企業よりROAが0.90%ポイント高い」といった数字が出てくる。
 なーんだ「高い」「低い」ってその程度なのか。「微差」ですね。
 秘書さんや、「承認研修」をやったときの3か月のポイント上昇はどれぐらいだったっけ。あのパワハラ工場長の200人の工場で猛暑の中とった統計ね。7点満点で0.2とかだったっけ。(秘書なんかいないくせに。ちょっと見栄はってしまいました)
 つまり、経営学で言う少々「高い」とか「低い」とかいう数字は、案外、いい研修を1本ちゃんとやれば吹き飛んでしまうようなものかもしれないのです。「承認研修」は内集団びいきやコミュニケーションギャップの問題もきれいに解決できる。入山先生が「婿養子はこのトレードオフをきれいに解決する」と自慢しているのよりはるかに大きくパフォーマンスを上げる。婿養子なんか社長の娘が愛のない政略結婚を我慢すりゃいいだけの話だから大した害はないですが。

●「ダイバーシティー経営は損か得か」こういうテーマを設定すること自体の意義を少し考えていただきたいと思う。なぜなら、そこでは「女性」だけではなく「インクルージョン」の問題も入ってくるからだ。「障害者を雇用することは損か得か?」ということでもあるからだ。「そんなのは損か得かじゃない、義務の問題だ」と、今の法整備はそういう流れでしょう。女性の雇用も、(能力差の問題はそれほどないと思うし中にはオリンピック選手並みに能力の高い人もいるが)同じことだと思う。あとは、負のインパクトを少しでも減らすためにどういう努力をするのがよいか、関心をそこに向けるのが正しい。それこそが学問の意義でしょう。なぜ、経営学者はそちらをこそ重要テーマだと思わないのか。差別を助長するような結論を導き出してそこにあぐらをかくことがそんなに楽しいか。

(入山氏は「多次元のデモグラフィーを同時に導入するタイプの多様性を」と提言するが、それは多様性を導入して久しく、成熟した段階の企業がパフォーマンスが高いことをみてそう言っているので、現実味が薄い。そうした企業も恐らくは一歩一歩多様性の幅を広げてきたのであり、要は異質と共存することに訓練して慣れていくしかないのである)


●いろんなことを言ってますが、ちょっとここは太字で言いたい。
「入山先生、あなたの紹介した知見のために女性の貧困ひいては子供の貧困が加速するかもしれませんが、この社会が先細りするかもしれませんが、それはいいんですか?」
 先日広井先生とメールをやりとりした中の前半のお話ですね。女性の貧困が子供の貧困となり、最終的に社会にツケが回ってくる。アメリカでも「貧困の女性化」というのが起こっていて、人口に占める貧困層の割合が女性のほうが高いそうですね。
 こういうのはもう経営学の領分ではない、社会の持続可能性とか種の保存とかの話になります。「経営学って要は人類を滅ぼす学問なんじゃないの?」とちゃぶ台ひっくり返す話になるかもしれません。経営者にとっても、貧困の連鎖が起き購買層が痩せ細ることは長期的にみていいことではないはずです。子供の貧困のために優秀な働き手が確保できなくなる、ということにもなるでしょう。でも経営学者は、そんなのは自分たちの守備範囲でないから知らん、というかもしれない。
 要は、「ダイバーシティー経営は損だ」という経営学の言説は、「ブラック企業は儲かる」と言っているのと、問題の性質は同じなのです。短期的にその企業だけが儲かれば、従業員の人生がどうなろうと社会がどうなろうと関係ない。
 大体、業績のことだけ考えたら、従業員は妊娠なんか一切しないほうがいいんだから。わかります?
「経営学的に正しいかもしれないが社会にとって有害」 
 こうなると、やはり経営学よりも哲学、社会思想のほうを学問として優位に置きたくなってくるのです。経営学はリスペクトすべき学問ではないかもしれない。
 いや、本当はこんなこと言いたくなかったのにね。多くを学べた本なのに。


正田佐与

『ビジネススクールでは学べない世界最先端の経営学』(入山章栄著、日経BP社、2015年11月)を読みました。
 悩ましい…。
 
※この読書日記はシリーズ化しました

1.悩ましくも学び多き俯瞰図の第二弾―『ビジネススクールでは学べない世界最先端の経営学』読書日記編 (本記事)

2.『ビジネススクールでは学べない―』経営学は”残念な学問”か?考察編(1)「ダイバーシティー経営は損か?」
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51931381.html

3.『ビジネススクールでは学べない―』世界の経営学は周回遅れ?考察編(2)リーダーシップ、内発/外発、レトリック
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51931424.html

4.痛みに満ちた進歩の歴史と「こころの退化」と―世界の経営学にNOを言う 考察編(3)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51931465.html


 2つ前の記事(「科学の限界性、認識の限界性―アカデミズムも盲信してはいけない?千葉大学・広井良典教授との対話」)でわたしが言っていた「経営学の本」というのがこれであります。広井先生は一般論として話をされただけで個別の本については言及されておりません。間違えないように。
 この著者の前著『世界の経営学者はいま何を考えているのか―知られざるビジネスの知のフロンティア』(英治出版、2012年11月)は、当ブログでも2012年12月22日
「あると有難い経営学の俯瞰図―『世界の経営学者はいま何を考えているのか』」でご紹介しました。そこでは、“批判色”を入れず、純粋に学びとしてとりあげました。
 本書はその続編のようなものですが、経営戦略中心だった前著とちがい、今回は「ダイバーシティー経営」「リーダーシップ」など、わたしの守備範囲の話題も入ってきたときに、「???」と首を傾げる内容があったわけです。そのあたりを「違和感」として2つ前の記事では言っております。
 ただし本書にはそれ以外にやはり素直に学びとして受け取りたい点も多々ありましたので、2部仕立てとして、第一部読書日記編、第二部考察編、という構成にしたいと思います。違和感とか批判の部分は第二部で。
 それでは、読書日記編。いつもの伝で抜き書きをしたいと思います。

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●現在の経営学では、「経営学者(=ビジネススクールの教員)が授業で教えていることと、彼らがいま最前線の研究で得ている知見の間に、きわめて大きなギャップが存在する(p.14)

●入山氏(著者)流・現代の経営学を把握するポイント。
(1)国際標準化。米国以外の学者の比率が大きくなっている。
(2)科学化。データ分析を重視。
(pp.15-19)

●あとで問題になるかもしれないので第一章で出た本書の問題意識。本の「理念」に当たるかもしれないところです。
「国際標準化が進む経営学で、世界中の学者達が科学的な手法を使いながら日々切磋琢磨して発展させている「ビジネスの最先端の知」「真理法則に近いかもしれないビジネスの法則」が、果たしてみなさんに全く示唆をもたらさないものなのでしょうか。
 私は、そうは思いません。もちろん全てではありませんが、その中には、みなさんがビジネスを考える上でのヒントになったり、ご自身の思考を整理できる助けになったりするものもたくさんあるはずです。本書を通じて、いわゆるMBA本を呼んでも(ママ)、ビジネス誌を読んでも、そしてビジネススクールの授業を通じても知り得ない、世界最先端の経営学の知見に触れていただきたいのです。」(
p.23)

●経営学者の多くは、「経営学は『役に立つ』ことを目的にした学問である」と考えていない。学者にとって経営学を探求する推進力となっているのは、「経営の真理を知りたい」「組織行動の本質を知りたい」という彼らの「知的好奇心」である。(p.26)

●「優れた研究」として評価されるには2つの軸がある。(1)厳密性(Rigorous)(2)知的に新しい(Novel) この2つと「実務に役に立つ(Practically useful)」を同時に追求することはトリレンマである。(pp.27-28)

●どうすればこのトリレンマを解消できるか。著者は、「RigorousとPractically usefulの線を充実させることだと考える。(pp.29-30)

●もう1つ著者の言い訳?
「経営学は、それぞれの企業の戦略・方針に「それは正解です」「それは間違っています」と安直に答えを出せる学問ではありません。企業は一社ごとに、直面する事業環境も社内事情も異なるからです。(略)
 では経営学は何を提供できるかというと、それは(1)理論研究から導かれた「真理に近いかもしれない経営法則」と、(2)実証分析などを通じて、その法則が一般に多くの企業・組織・人に当てはまりやすい法則かどうかの検証結果、の2つだけです。」(pp.34-35)

●バーニーの「3つの競争の型」。1986年、AMRで発表した論文。
(1)IO(Industrial Organization,産業組織)型
 業界構造が比較的安定した状態で、その構造要因が企業の収益性に大きく影響する業界。寡占業界。この業界で有益な戦略は、ポーターのSCP戦略。
(2)チェンバレン型
 IO型よりも参入障壁が低く、複数の企業がある程度差別化しながら、それなりに激しく競争する型。「差別化する力」を磨いていくことが重視すべき戦略になる。したがってこの業界では、技術・人材などの経営資源に注目するRBVに基づく戦略が有用。著者によれば日本で国際競争力のある企業を生み出してきた業界の多くはチェンバレン型だった。
(3)シュンペーター型
 競争環境の不確実性が高い業界。例えば「技術進歩のスピードが極端に速い」「新しい市場で顧客ニーズがとても変化しやすい」。ネットビジネスなどIT(情報技術)業界は典型的なシュンペーター型。(pp.45-48)

●国内でチェンバレン型競争をしてきた日本企業がグローバル進出したとき、中国・インド・東南アジアなど新興国市場は競争がIO型に近いので、ポーター的なSCP戦略を選ばないといけない。しかし日本企業は割り切ったポジショニングが得意ではないので、競争の型と戦略がマッチしていない。(pp.50-51)

●パナソニックは2012年津賀一宏社長の就任以来、シュンペーター型競争への深入りを避け、チェンバレン型に軸足を戻していると解釈できる。対照的にソニーは、シュンペーター型に近いスマホやゲームを主要事業に位置づけ、一方で国内ではチェンバレン型、海外ではIO型のテレビなどの家電事業があり、さらに恐らくチェンバレン型に近い保険などの金融事業も手がけている。異なる競争の型を持つ業種を内包しており、経営のチャレンジといえる。(p.54)

●ビジネスモデルとは、事業機会を活かすことを通じて、価値を創造するためにデザインされた諸処の取引群についての内容・構造・ガバナンスの総体である(アミット=ゾット 2001年論文)(p.57)

●価値を創造するビジネスモデルデザインの4条件(同上)
(1)効率性(Efficiency)
(2)補完性(Complementarity)
(3)囲い込み(Lock-in)
(4)新奇性(Novelty)
(pp.58-60)

●リアル・オプション理論。リアル・オプションを端的に言うと、「不確実性が非常に高い事業環境下では、何らかの手段で投資の『柔軟性』を高めれば、事業環境の下ぶれリスクを抑えつつ、上ぶれのチャンスを逃さない」という発想。
例えば新興国市場に進出するに当たりその市場が成長可能性が高いかどうか不確実であるとき、小出しに投資してリスクを低く抑える。リアル・オプション型の柔軟性ある投資をしなければ、もし高い成長をしたときそのチャンスをみすみす逃してしまう。不確実性が高いほどリアル・オプション型の投資をしたほうが潜在的なリターン(オプション価値)が増える。(pp.68-70)

●「両利きの経営」。知の深化と探索。詳細は前著の読書日記参照。

●「両利きのリーダーシップ」。(タッシュマンら、2011年)
(1)自社の定義する「ビジネスの範囲」を狭めず、多様な可能性を探求できる広い企業アイデンティティーを持つこと
(2)「知の探索」部門と「知の深化」部門の予算対立のバランスは経営者自身がとること
(3)そして「知の探索」部門と「知の深化」部門の間で異なるルール・評価基準をとることをいとわないこと
(p.84)

●イノベーションに対して企業が後手に回る背景。製品やサービスのドミナント・デザインが確立するにつれ、企業の組織構造やルールもそれに順応していく。それだけでなく企業内でのふだんのインフォーマルな情報交換の緊密さなども、ドミナント・デザインに影響される。(p.87)

●そこで「アーキテクチュラルな知」すなわち組み合わせをつくり出す知が促される組織作りが求められる。
 医薬品産業における「アーキテクチュラルな知を高める組織特性」(レベッカ・ヘンダーソン=イアン・コックバーンの論文、1996年)
(1) 研究者が会社の枠を超えた広範な「研究コミュニティー」で知識交換することが評価される組織であること
(2) 社内でも分野の垣根を幅広く越えて情報を交換すること
(pp.90-91)

●「アーキテクチュラルな知」を高めるためにもう1つのポイントは「デザイン力」すなわち、「最適な『組み合わせ』を見出し、まとめあげる力」。製品・サービスデザインにとどまらず、「組織のデザイン」までを意味する。著者によれば、「製品デザイン力を高めるための組織デザイン」についての研究は、世界の先端の経営学でも研究蓄積が十分ではなく、まだ体系だった理論はない。(pp.91-92)

●ビジネススクール教育ではむしろ、デザインスクールと連携するなど、デザイン分野との共同が進んでいる(pp.92-93)

●弱いつながりを多く持つ人は、創造性を高められる。前著に同じ(p.99)

●アイデアは実現(Implement)されて初めてイノベーションになる。クリエイティビティ―の高い人(発案者)が、さらにそのアイデアを「実現化」するために何が必要か。発案者に必要な2つの条件(マーカス・バエアー論文、2010年)
(1)発案者の実現へのモチベーション 
(2)発案者の社内での人脈
(pp.101-102)

―この項目には頷きました。以前から、旧NPOで総会とか理事会をして、色々アイデアを出す人はいるんだけどわたしは「却下」してきた、だって発案者自身が汗をかくつもりがなく、自分のアイデアを全部正田さんにやらせようとしているから。心理学やコミュニケーションの研修でブレストの研修を受けた人なんかは、「アイデアはそれ自身がすばらしい!」って刷り込まれているから困る。自分に行動するつもりのない人のアイデアはどんなによさげでも受け付けません。そういうときは「アイデアは責任を伴わない、行動は責任を伴う」という畑村洋太郎氏の言葉を引いて却下していました。まあ行動承認の応用形ともいえます

●イノベーションについての日本企業に向けての3つの示唆。
1.「創造性」と「イノベーション」は別ものであることを理解した上で、自社の問題が「創造性の欠如」なのか「創造性⇒実現の橋渡しの欠如」なのかを把握すること。どちらが欠如しているかで打ち手は全く逆になる。
2.もし自社の問題が「クリエイティブな人が足りないことにある」と判断したら、社員が「弱いつながり」を社内外にのばせるサポートをしてやること。
3.「チャラ男と根回し上手な目利き上司のコンビ」。弱いつながりを持った創造性の高い人を「アイデアの実現化」まで橋渡しするには、社内で強いつながりを持った人と「ペアリング」をする。強いつながりを持った根回し上手人は、弱いつながりをもった「チャラ男」の創造性を理解できること。
(pp.104-106)

●知の探索を促す組織の学習量とメンバーシップの関係(ジェームズ・マーチ1991年論文、コンピュータ・シミュレーションによる分析)。
発見1.メンバーが組織の考えを学ぶスピードが遅いほうが、最終的な組織全体の学習量は増加する。
発見2.組織の考えを学ぶのが速いメンバーと、遅いメンバーが混在しているほうが、最終的な組織全体の学習量は増加する。
発見3.組織のメンバーは一定の比率で入れ替えがあったほうが、組織の最終的な学習量は増加する。
発見4.発見3で得られた効果は、特に組織を取り巻く環境の不確実性が高い時に強くなる。
(pp.107-110)

●トランザクティブ・メモリー(前著に既出)の知見。トランザクティブ・メモリーとは組織内で誰が何を知っているかを知っていること。トランザクティブ・メモリーを高めているチームは、直接対話によるコミュニケーションの頻度が多い。逆にメール・電話によるコミュニケーションが多いことは、むしろ事後的なトランザクティブ・メモリーの発達を妨げる可能性もある。カイル・ルイス2004年の論文。(pp.115-116)

●同様に「アイコンタクト」や顔の表情を通じてのコミュニケーションがトランザクティブ・メモリーを高める効果。アンドレア・ホリングスヘッド1998年の論文。(pp.117-118)

●トランザクティブ・メモリーを高める仕掛けとしては、平場のオフィス、タバコ部屋、社内カフェテリア、コーヒー飲み場、独身寮(pp.118-121、143-145)。

●ブレストはアイデア出しとしては効率が悪い。しかし(1)組織全体の記憶力を高める(2)参加メンバーが組織の「価値基準・行動規範」を共有しやすい。
(pp.122-129)
―それは「ブレスト」でなく「対話」と言ったほうがいいかもですね…

●成功体験と失敗体験、どちらが組織の学習に役立つか。マドセン=デサイ論文(2010年)
発見1:一般に成功体験そのものは、「その後の成功」確率を上げる
発見2:とはいえ、大事なのは成功体験よりも失敗体験。組織は失敗からも学習してその後のパフォーマンスを高められる。成功体験と失敗体験、どちらのパフォーマンス向上効果が大きいかというと、失敗体験のほうである。成功すると「サーチ行動」をしなくなる。(pp.135-139)

●ここから示唆されるのは、「成功体験と失敗体験には、望ましい順序がある」ということ。長い目で成功確率を上げられるのは、「最初は失敗経験を積み重ねて、それから成功体験を重ねていくパターン」。「若いうちは失敗経験を積め」は真実。(pp.140-142)

●グローバル企業とはそもそも何か。
 海外で成功する企業の強みのことを経営学では「企業固有の優位性(Firm Specific Advantage, FSA)」と呼ぶ。
 世界中からまんべんなく売り上げを得ている企業を真にグローバル企業とすると、どのくらいあるか。アラン・ラグマンの2004年の論文(データは2001年のもの)によると、世界市場を「北米地域」「欧州地域」「アジア太平洋地域」の三極に分け、(各多国籍企業の本社が置かれている)ホーム地域からの売上が5割以下で、他の2地域からの売上がそれぞれ2割以上なら、「真のグローバル企業」と呼べる、と定義づけた。
 この分析の結果、
発見1.ホーム地域への強い依存。分析からは365社のうち320社が、売上の半分以上をホーム地域から上げていることが分かった。ホーム地域外からの売上が半分を超える企業はわずか45社。
発見2.真のグローバル企業は9社だけ。上記の45社のうち、ホーム外の2地域の両方からそれぞれ2割以上の売上シェアを実現できている企業は9社のみ(IBM,インテル、フィリップス、ノキア、コカ・コーラ、フレクストロニクス、モエ・ヘネシー・ルイ・ヴィトン、そしてソニーとキヤノン。トヨタやホンダは欧州では売り上げが伸びていない。(pp.149-152)

●ラグマンはその後2008年に日本企業に特化した論文を発表(データは2003年)。ここではフォーチュン誌ランキング世界主要500社のうち日本企業は64社、うち「真のグローバル企業」はソニー、キヤノンに加えマツダ。また著者入山氏が2014年データで計算したところ、フォーチュン500社の中の日本企業は54社で、「真のグローバル企業」はキヤノンとマツダだけだった。(pp.154-155)

●大部分の多国籍企業は売り上げの半分以上を本社のある地域から上げている。ラグマンたちはこれを企業の「地域特有の強み(Regional Specific Advantage, RSA)」と呼ぶ。日本企業はやはりアジアで強みを発揮しやすいが、「自社のアジアで通用する強み(RSA)がそのまま世界中で通用するFSAとはならない」という認識を持つことが肝要。(p.156)

●世界はグローバル化していない。完全なグローバル化状態(一国化)か鎖国状態か。パンガジュ・ゲマワットの2003年の論文では、現在はこの両極端の間のスペクトラム上の鎖国側に極めて近い状態にあることを示した。貿易、資本流出入、海外直接投資などのデータの傍証により、ゲマワットは「世界はグローバル化しておらず、あくまでセミ・グローバル化(中途半端なグローバル化)の状態にある」ことを明らかにした。(pp.159-162)

●世界は狭くなっていない。経済学者は貿易データの統計分析をし、やはり二国間の距離が遠いほど、国同士の貿易量にはマイナスの影響を及ぼすことを示した(グラビティー・モデルという)。これを時系列的な変化でみても、輸送コストが低下しているにもかかわらず国同士の距離のマイナス効果は年々強くなっている。
 キース・ヘッドらの2008年の論文では、103の実証研究から得られた1467の推計値を集計してメタ・アナリシス分析をしたところ、1970年代のデータを使った研究では「距離の違いによる貿易量の変化の弾性値」は平均0.9だった。この弾性値は、90年代以降は0.95に上昇している。(pp.162-164)

●インターネット取引も距離の影響を受けやすい。ブラム=ゴールドファーブの2006年の論文では、インターネット上で取引されたデジタル製品・サービスの量と各国との距離の関係を統計分析したところ、その弾性値は1.1となり、上記のヘッドの研究の弾性値よりむしろ大きな値となった。(pp.164-165)

●世界はフラットではなくスパイキー(ギザギザ)。「世界中の経済活動、特に知的活動や起業活動などは、特定の都市など狭い地域への集中が進んでいる。すなわち世界はむしろスパイキー化しつつある」(リチャード・フロリダ)。(p.166)

●VC投資にはローカル化する傾向がある。ベンチャー・キャピタリストは、距離が近いスタートアップに投資しがち。近接性を好む傾向により、シリコンバレー、ボストン、シアトルなどの特定の地域にVC投資が集中する「スパイキー化」が起こる。(p.167)

●VC投資のような、情報集約型で人と人の交流を必要とするビジネスの国際化は、国と国の間で起きるのではなく、ある国の特定の地域と別の国(の特定の地域)で集中して起きるのではないか。いわばスパイキーなグローバル化。シリコンバレーと新竹(台湾)、台湾とカリフォルニア州、イスラエルとニュージャージー州など。(pp.168-169)

●ゲマワットの「AAA(トリプルエー)」というフレームワーク。(1)集積(Agglomeration)、(2)適応(Adaptation)、(3)裁定(Arbitrage)
 「中途半端なグローバル化」だからAAAは重要。日本メーカーは少なくともどれか1つのAを放棄してメリハリをつけることを検討すべき。(pp.171-174)

●ダイバーシティー経営は有益か否か。ダイバーシティーには「タスク型の人材多様性(Task Diversity,能力・経験の多様性)」と「デモグラフィー型の人材多様性(Demographic Diversity、属性の多様性)」がある。
 この2つの多様性の効果をメタアナリシスで検証した結果、ジョシらが2009年に発表した論文、ホーウィッツらが2007年に発表した論文では2つの事実法則が導かれた。
法則1:ジョシたちの分析、ホーウィッツたちの分析のどちらとも、「タスク型の人材多様性は、組織パフォーマンスにプラスの効果をもたらす」という結果となった。
法則2:「デモグラフィー型の人材多様性」については、ホーウィッツたちの分析では「組織パフォーマンスには影響を及ぼさない」という結果となった。さらにジョシたちの研究では、「むしろ組織にマイナスの効果をもたらす」という結果になった。(pp.177-180)

―本書でも一番論議を呼びそうな箇所ですね。これは、考察を書いていると長くなるので、本記事とは別建てで「考察編」の記事で取り上げようと思います。要は、ツッコミないしは批判をしようとしてるんですけれども。

●「デモグラフィー型の人材多様性」が組織に何の影響も及ぼさないか、場合によってはマイナスの影響を及ぼすこともあるということを説明する代表的な理論は、社会心理学の社会分類理論(Social Categorization Theory)。異なるデモグラフィーの人がいると「男性対女性」「日本人対外国人」のような「組織内グループ」ができ軋轢が生まれ、組織全体のコミュニケーションが滞りパフォーマンスの停滞を生む。(p.181)

●どうすれば、女性・外国人を登用しながら「デモグラフィー型の人材多様性」のマイナス効果を減らすことができるか。
(1)「デモグラフィー型の人材多様性」のマイナス効果は時間の経過とともに薄れていく可能性がある。一方で「このような軋轢は時が経過しても消えない」という研究結果もある。
(2)「フォルトライン(=組織の断層)理論」。デモグラフィーが男性・女性だけでなく年齢・国籍等多次元にわたって多様であれば、組織内の軋轢はむしろ減り、組織パフォーマンスは高まることが実証されている。
(pp.183-185)

●著者曰く、フォルトライン理論は日本企業のダイバーシティー経営に重要な示唆を与える。女性や外国人の登用など「デモグラフィー型の人材多様性」を進めるならば、中途半端にやるのではなく、徹底的に複数次元でダイバーシティーを進めるべきだ、ということ。
(p.185)

●働く女性の働きにくさを説明する「ホモフィリー」の概念。人は、同じような属性を持った人とつながりやすい。さらにそのつながった相手から影響を受けやすい。不健康な人はますます不健康になりやすい。(pp.188-189)

●企業では、日本企業は男性社員が大半なので、「男性のホモフィリー人脈」が厚くなる。ホモフィリーは女性に2種類のハンディキャップを与える。
(1)女性は「男性のホモフィリー人脈」に入りにくいため、そこで流れる情報・知識にアクセスしにくくなる。
(2)女性同士のホモフィリー人脈が薄い。
(pp.190-191)

●男とも女とも上手に付き合える女性が、男性中心の職場では成功しやすい。しかし「ホモフィリーの二重のハンディキャップ」により、この実現がたいへん難しい。ハンディーキャップの解消のためには、企業が多次元で組織のダイバーシティーを高めることと、研修などで女性だけが孤立しないような意識づけを徹底すること。(p.193)

●リーダーシップでは2種類のリーダーシップがコンセンサスとなりつつある
1.「トランザクティブ・リーダーシップ」(アメとムチ)
(1)「コンティンジェント・リワード(状況に応じた報酬)」
(2)(3)「マネジメント・バイ・イクセプション(部下が犯す失敗にどう対処するか)」
  能動型:部下が問題を起こす前に「そのままだと失敗するぞ」と介入する
  受動型:部下が実際に失敗してから問題に対処する
2.トランスフォーメーショナル型(啓蒙)
 1980〜90年代にバーナード・バスが分析。
(1)組織のミッションを明確に掲げ、部下の組織に対するロイヤルティーを高める
(2)事業の将来性や魅力を前向きに表現し、部下のモチベーションを高める
(3)常に新しい視点を持ち込み、部下のやる気を刺激する
(4)部下一人ひとりと個別に向き合いその成長を重視する
 入山氏曰く、「カリスマ型リーダー」「変革リーダー」はこれに近いかもしれない。
(pp.203-205)
―承認リーダーシップというのは上記の2種類の間を行ったり来たりしている感じだ。この区分って何なんだろう、こういう区分にする意味が分からない…

●複数のメタアナリシス研究によれば、全般的な傾向として「相対的に『トランザクティブ型』よりも『トランスフォーメーショナル型の4資質』を持ったリーダーのほうが、高い組織成果につながりやすい。また、トランザクショナル型の資質の中では、コンティンジェント・リワードが高い組織成果につながる。他方、一般に組織成果につながりにくいのは「マネジメント・バイ・イクセプションの受動型(事後介入する型)」。(pp.205-206)

●パニッシュ・プラナムらの2001年の研究によれば、トランスフォーメーショナル型のリーダーシップは、「不確実性の高い事業環境」下にある企業においてはその業績を高めるが、事業環境が安定している(不確実性が低い)ときには、むしろ企業業績を押し下げる。(p.207)

●女性のほうがトランスフォーメーショナル型のリーダーの資質を身に付けやすいという研究。アリス・イーガリーが2003年に発表したメタアナリシス研究によれば、「トランスフォーメーショナル型の4資質」と「トランザクショナル型のコンティンジェント・リワード資質」で、女性が男性を上回った。
 この説明としては、リーダーになった女性は「力強いリーダー像」と「優しく協調的な女性像」という2つの正反対の期待にさらされる(ロール・インコングリティーRole Incongruity、期待されている役割の不一致)。彼女たちはこの2つのイメージのギャップを克服するための手段として、男性よりもトランスフォーメーショナル型のリーダーシップをとろうとする。(pp.208-211)

●リーダーの優れたビジョンがあると、企業の成長率は高くなる。優れたビジョンの基準として、「ビジョンの中身(Vision Content)」と「ビジョンの特性(Vision Attribute)」がある。
 優れたビジョンの6つの特性。(1)簡潔であること(2)明快であること(3)ある程度抽象的であること(4)チャレンジングなこと(5)未来志向であること(6)ぶれないこと。(pp.215-216)

●バウム論文(1998年)では、優れたビジョンに加えて、CEOと従業員のコミュニケーションが高まるほど企業の成長性が高まるという結果も得られた。(p.217)
―この知見は(入山氏はあまり重視しているようではないが)大事だと思う。ふだん全然コミュニケーションをとらない、雲の上とか象牙の塔の中にいるトップがビジョンだけを語っても「ぴん」と来ないだろう。

●レトリックの問題。イメージ型の言葉とコンセプト型の言葉では、イメージ型の言葉を使う比率が高い大統領ほど「カリスマ性が高く」、そして「後世の歴史家から『偉大な大統領』と評価されている」。したがってイメージ型の言葉は相手にビジョンを浸透させやすい可能性がある。(pp.218-220)

●「カリスマ」「偉大なリーダー」と評価される人は、自身のビジョンを伝えるためにイメージ型の言葉やメタファーを使い「相手の五感に訴える」言葉を使う。しかし因果関係を示しているわけではなく、相関関係を示していると捉えたほうが無難。(pp.221-222)

―リーダーの「伝える力」について、新たな神話ができそうですが、ここも「要考察」なんですよねー。「承認リーダーシップ」ではちょっと違うことを言います。

●モチベーションの「外発的な動機(Extrinsic motivation)」と「内発的な動機(Intrinsic motivation)」。内発的な動機を強く持つ人のほうが、創造的な成果を出しやすい。またどのようなリーダーが部下の内発的な動機を高めやすいかというと、「トランスフォーメーショナル型」のリーダーである可能性がある。
 「内発的な動機」を高めた日本組織の成功事例としては、JR東日本の子会社で、新幹線車内の清掃をするテッセイ。(『新幹線 お掃除の天使たち』参照)。(pp.224-226)

―ここも「要考察」かな〜。もともと「外発」「内発」という分け方の有効性をわたしはあまり認めていない。いつも言うように上司から褒められるのもお客様から褒められるのも同じ「承認欲求」であり、脳の同じ部位が反応する。なんでそれを無理に分けてるんだろう。テッセイの事例も、わたしがみると要は「承認欲求」を満たしているのだ。あたし結局こんなことばかり言い続けて死ぬのかな〜。

●同族企業の業績は、非同族企業よりも優れている。理論的にプラスとマイナスがある。
説明(1)創業家が大口株主であることのメリット。彼らが「もの言う株主」となって経営者の暴走を抑えることができる。
説明(2)創業家出身の経営者は「企業と一族を一体として見なす」ので企業の長期的な繁栄を目指す、結果としてブレのないビジョン・戦略をとりやすい。
説明(3)同族企業のマイナス面は、資質に劣る経営者が創業家から選ばれてしまうリスク。(pp.230-233)

●同族企業のプラスマイナスのトレードオフを解消するのは「婿養子」。婿養子が経営者をしている日本の同族企業は、(1)血のつながった創業家一族出身者が経営をする企業よりもROAが0.56%ポイント高くなり、(2)創業家でも婿養子でもない外部者が経営をする企業よりも、ROAが0.90ポイント、成長率が0.50ポイント高くなった。(pp.233-235)

●CSR(Corporate Social Responsibility:企業の社会的責任)は業績を高めるか。セルバエスたちの2013年の論文では、広告費を多く使うタイプのB to C系の企業でCSRは業績にプラスになることを確認した。逆に広告費をあまり使わないB to B企業では、「CSR指数が高いほど、業績はむしろマイナス」という結果になった。(pp.241-244)

●CSRの情報開示効果。CSR報告書を作ることにより企業の透明性が増し、投資家の信頼を増し、資金調達をしやすくなる。(p.244)

●CSRの保険効果。CSR指数の高い企業のほうが、ネガティブ事件による株価の落ち込みが「軽度で済む」。(pp.245-246)

●成功する起業家精神とは。
 「アントレプレナーシップ・オリエンテーション(EO)」。コーヴィンとスリーヴァンの1989年論文。小規模企業が成功するために経営幹部に必要な「姿勢(Posture)」とは革新性(Innovative)、積極性(Proactive)、リスク志向性(Risk-taking)の3つ。事業環境が不安定なときには、経営幹部がこの3つの条件を満たしている企業ほど業績が良くなる。「EOの高い経営者の率いる企業は、業績が良くなる」という傾向は、研究者の間ではコンセンサスとなりつつある。(pp.275-276)

●経営者のパッションについての研究。バウムとロックの研究(2004年)では、経営者のパッションは、ベンチャーの成長率に直接は影響を与えない。しかし他方、強いパッションのある経営者ほど、従業員とのコミュニケーションを重視する傾向が強く、そしてコミュニケーションが盛んな企業ほど、その成長率は高まる(パッションの間接的な効果)。
 起業家のパッションが資金調達に有利に働く可能性を示した研究もある。
(pp.277-278)

●クリステンセンの「イノベーティブ・アントレプレナー」に関する研究。22人の著名な起業家にインタビューした結果、彼らに共通する思考パターンを以下にまとめられると主張した。
(1)クエスチョニング(Questioning):現状に常に疑問を投げかける態度。
(2)オブザーヴィング(Observing):興味を持ったことを徹底的にしつこく観察する思考パターン。
(3)エクスペリメンティング(Experienting):それらの疑問・観察から、「仮説を立てて実験する」思考パターン。
(4)アイデア・ネットワーキング(Idea Networking):「他者の知恵」を活用する思考パターン。「自分がどう考えるか」ではなく、「まずこの問いを誰と話すべきか」。
 著者入山氏は、この「イノベーティブ・アントレプレナー」の知見は、本書のイノベーションや組織学習の知見と一致すると主張する。(pp.279-283)


22-26章は、略。

 以上が大まかな本書の内容です。何とかワード15pに収まりました。
 で、最初にも言いましたように学ぶ点も多くあったのですが、「要考察」の点もわたし的には3点ほどあります。経営学のスタンダードなテキストとして扱われるであろう本だけに、影響力からみて、その欠点も看過できにくいのです。とりわけ、「ダイバーシティー経営」に関しては大きいかなー。
 考察点はまた次以降の記事で…。


正田佐与



 急に「美」という軸を考えてみたくなりました。

 
私人



 わたしの読書歴の中でも珍しいんですが、最近不思議なご縁で手に取りました。
 『私人』(ヨシフ・ブロツキイ著、沼野充義訳、群像社、1996年11月)。詩人ブロツキイの1987年ノーベル文学賞受賞講演。本文わずか35pの小さな小さな本です。

 
 ・・・なぜなら、美学こそは倫理の母だからです。「良い」とか「悪い」といった概念は、何よりもまず審美的な概念であって、「善」や「悪」の範疇に先行しています。…まだ何もわからない赤ん坊が、泣きながら見知らぬ人を押し退けたり、あるいは逆に見知らぬ人のほうに手を伸ばしたりするとき、この赤ん坊はそうすることによって、審美的な選択を本能的にしているのです。この選択は道徳的なものではありません。

 
 ・・・なにしろ人間は、自分が何者なのか、そして自分に何が本当に必要なのか、完全には分からないうちにもう、たいてい本能的に、自分の気に入らないもの、自分を満足させないものを知っているのですから。繰り返しますが、人類学的な意味において人間は倫理的存在である前に、まず審美的存在です。



「良い」「悪い」の概念は何よりもまず審美的な概念である。
人間は倫理的存在である前に、まず審美的存在である。

 詩人の言葉ですが、読者の皆様にとっては、いかがでしょうか。

 わたしはこれらのフレーズに出会って急に気がついたのです。自分が無意識に「美しい」という単語を使っているなと。本当に自分でも気がつかないうちに、いろいろな場面で。

 明らかにそれはわたしのその場での「選好」を決めているのです。何かやだれかを「よい」と思って称揚すること。逆に、「わるい」と思って批判しよう、と思ったりすること。


 
 
 それが人類に普遍の現象なのかどうかは、わかりません。

 少なくとも自分はそういう「フレーム」を持つ人間のようだ、ということを念頭に置いておくことにしましょう。



※なお、このところ記事タイトルなどに「正しい」という言葉が入っていますがこれは結構自分でも意識していて、忸怩たる思いで使っています。
 心理学では「正しい」「正しくない」は相対的なもの。哲学でも一部の人はそういう言い方をします。
 ところが、「正しい」「正しくない」の軸を否定してはいけない領域は、仕事をしていれば確かにあるのです。そこに心理学のそうした議論を持ち込むとどんなに”めんどくさい”ことか。
 その2本の軸が両方あり得るなかで「正しい」を主張することは「つかれる」こと。でもやらなくてはならないこと。
 「正しい」を書く時は内心疲れをおぼえながら書いていますね。



 この本はそのほかにも印象的な警句に満ちていて、読んでいてそこでしばらく頭がストップしました。いくつか例を挙げると、

「…言葉というものは、ほんの少し不正確な使い方をしただけでも、人生に偽りの選択を持ち込むことになりかねないのですから。」
 
「小説や詩は独り言ではなく、作者と読者の会話であり、それは―繰り返しますが―他のすべての人たちを締め出す極めて私的な会話、言うなれば『相互厭人的』な会話なのです。」

「ロシア語を母語とする人間にとって、政治的な悪について話すのは、食物を消化するのと同じくらい自然なことではありますが、やはりこの辺で話題を変えたいと思います。自明のことに関する会話の落とし穴は、それがあまりに簡単で、それを通じてあまりに簡単に『自分は正しいのだ』という感覚を得られるため、意識が堕落してしまうということです。」




正田佐与

 『ポスト資本主義』の著者、千葉大学法経学部の広井良典教授(科学哲学)と、最近メールのやりとりをしました。同教授はアカデミズムの中では数少ない、わたしの信頼する学者さんの1人です。

 今回の対話の焦点は、おおむね、
「データの裏づけのある知見でも疑え」
ということだと思っていいようです。
 このところこのブログで展開している某トンデモ心理学への批判とはまた別の、ちょっと高度な次元のお話。
 アカデミズムの知性もまた、信頼に値しないのではないか?というようなお話です。
 広井教授のご了解をいただき、内容をご紹介させていただきます。
 
 どう扱ったものか迷いましたが、今回は正田を青字、広井先生を黒字で表示させていただきます。


正田:
「広井 良典先生
大変お世話になっております。
正田です。
その後、お変わりありませんか。
学生さん方を連れてのフィールドワーク、フェイスブックで拝見しました。

さて、私は最近はドイツ思想づいていますが
そこでも面白い学びをさせていただいています。

改めて広井先生に、「ケアと承認」についてのお考えを伺ってみたいと思いました。
また、最近の興味としては
「科学哲学」というもの、あるいは「実証主義」というものの
今日的意義というようなこともお伺いしてみたいと思いました。
(略)
正田」

広井教授:
「正田様
メールありがとうございます。

「科学哲学」というもの、あるいは「実証主義」というものの
今日的意義というようなこともお伺いしてみたいと思いました。

 これは大変重要なテーマで、私も最近いろいろなことを考えていました。
 科学哲学(あるいは広く哲学系の認識論)というのは、クーンのパラダイム論などもそうであるように、一般的に素朴な実証主義には批判的で、「裸の事実というものは存在せず、それは見る側の(主観的な)枠組みによって規定される」ととらえるのが一般的です。
 他方、最近は概してアングロサクソン的な実証主義の影響力が強く、以上のような見方は(残念ながら)やや後退しているように感じます。
 一方、私はあまり詳しくないのですが、最近の精神医療の領域で主流になっているいわゆる認知行動療法は、人間が物を見る際の「フレーム」というのを重視しているそうなので(これは80年代前後からの認知科学の台頭の影響の流れですね)、ある意味では上記のような「パラダイム論」とも親和的でありうる面があると思いますが、しかし実際にはわりと単純に世界を因果論的かつ操作主義的に(アメリカ的に)とらえている印象ももっています。
 話がさらに広がり余談となりますが、今の日本社会を見ていると、高度成長期にできた「フレーム」にとらわれて物事を見ている人が多いことが様々な問題の背景にあるように思われ、日本社会全体に認知行動療法が必要ではないかと思ったりしました笑。       広井」


正田:
「広井先生、ご返信ありがとうございます。


>話がさらに広がり余談となりますが、今の日本社会を見ていると、高度成長期にできた「フレーム」にとらわれて物事を見ている人が多いことが様々な問題の背景にあるように思われ、日本社会全体に認知行動療法が必要ではないかと>思ったりしました笑。

⇒とても頷けるところです。先生はどんなところでそれをお感じでしたか。
高度成長期にできた「フレーム」…たとえば私などは「長時間労働」「男は外、女は内(専業主婦)」などのフレームが女性の社会進出を阻んだり給与体系や正規・非正規の区別の形で残って女性の貧困、ひいては子供の貧困のような形でツケが最終的に社会に回ってくる、というようなことを想起します。



>これは大変重要なテーマで、私も最近いろいろなことを考えていました。
 科学哲学(あるいは広く哲学系の認識論)というのは、クーンのパラダイム論などもそうであるように、一般的に素朴な実証主義には批判的で、「裸の事実というものは存在せず、それは見る側の(主観的な)枠組みによって規定される」ととらえるのが一般的です。
 他方、最近は概してアングロサクソン的な実証主義の影響力が強く、以上のような見方は(残念ながら)やや後退しているように感じます。


⇒これもとても興味深いです。
 最近、私はある経験をしました。話題に沿っているようでもありひょっとしたら外れているかもしれませんが…。
経営学の本を読んでいますと、各種統計、メタ分析で裏づけられていることとして紹介されている知見が、何か実感と合致しないのです。
 もちろん当方の思い込みが誤っている場合もあるのですが、ひょっとしたら、研究の手法というのはどうしても研究者が仮説を立て、それを検証する形で行われるので、研究者がどんな仮説を立てるかによって制約を受けます。そして研究者がどんな仮説を立てるかは、既存のフレームワーク―その研究者が生きている社会の文化を含む―に影響されます。
 そういう、出発点の「研究者の仮説」に限界があれば、いかに正しい統計手法を駆使していても結論が現実と異なってしまう可能性もあるかもしれないと思います。それが実証主義と見る側の枠組みの間の問題ということと重なるのかな?と思いました。
 こういう理解の仕方というのは正しいのでしょうか。」


広井教授:
「正田様
 メールありがとうございます。書かれていることはまさにその通りで、大変共感いたします。


研究の手法というのはどうしても研究者が仮説を立て、それを検証する形で行われるので、研究者がどんな仮説を立てるかによって制約を受けます。そして研究者がどんな仮説を立てるかは、既存のフレームワーク―その研究者が生きている社会の文化を含む―に影響されます。
 そういう、出発点の「研究者の仮説」に限界があれば、いかに正しい統計手法を駆使していても結論が現実と異なってしまう可能性もあるかもしれないと思います。それが実証主義と見る側の枠組みの間の問題ということと重なるのかな?と思いました。


 以上の点もそのとおりで、こうした点に自覚的でない研究者がやや増えていると感じられ、気になるところです。背景の一つとして、ある種の「科学主義」(科学信仰)と呼べるような、定量化されたデータを過度に重視するような傾向があると思います。
 このあたりは現代社会の隅々に浸透している面もあり、そうした問題に意識的であることがとても重要と思っています。  広井」



正田:
「広井先生
ご返信ありがとうございます。

広井先生の投げかけに当方で勝手に事例を持ち出して語ってしまったようになったのですが、話題としてずれていませんでしたら幸いです。

それは、例えば「仮説を立てる段階でのバイアス」という言い方もできますか?あるいは「研究者の主観」という言い方もできますか?


>こうした点に自覚的でない研究者がやや増えていると感じられ、気になるところです。

そうですか。少し興味があるのですが、そうした研究者は例えばどのような言動となりますか?
私は決して血液型信者ではないのですけれども、
「血液型性格分析は科学ではない。血液型を取り上げた研究が存在しないから」
ときくと、もしだれか研究者が本気で興味を持って血液型と性格の相関について大規模統計をとったら有意差が出る可能性も、まだ排除できてないのではないか?と思ったりします。


背景の一つとして、ある種の「科学主義」(科学信仰)と呼べるような、定量化されたデータを過度に重視するような傾向があると思います。


そうですか。
学術的に実証されたデータに出発点から意味がない、ということになったら大いなる無駄のようにも思いますが、その物の見方のフレームといったことについて科学哲学の立場からの教育というのはあまり研究者になされていない、ということでしょうか。
わたしたち一般人は、そうすると所謂「学術的に検証されたもの」についてどういう態度をとったらいいのでしょうか。


実は、これともう1つ、はるかに低次元の問題で、学術的云々以前に
「いっさい根拠のないオピニオンに過ぎないものを信じる」
という態度も蔓延していて、これも近年流行を繰り返しているようにみえ、無視していると思わぬ勢力になっていて、どうしたらいいのでしょう…というのもあります。」


広井教授:
「正田様
 メールありがとうございます。

学術的に実証されたデータに出発点から意味がない、ということになったら大いなる無駄のようにも思いますが、その物の見方のフレームといったことについて科学哲学の立場からの教育というのはあまり研究者になされていない、ということでしょうか。
わたしたち一般人は、そうすると所謂「学術的に検証されたもの」についてどういう態度をとったらいいのでしょうか。

 このあたりは非常に根本的な問題と思います。基本的には、「無知の知」という言葉がギリシャ以来あるように、完全な認識というものはなく、科学の限界性や、自己の認識の不完全性について常に自覚的であることが基本で、優れた研究者ほどそうした態度をもっていると思います(わかっていないことのほうがはるかに多いという認識)。
メタ認知能力ということが言われていると思いますが、科学や学術の領域に限らず、優れたスポーツ選手なども(自己の技術の限界や課題について)常に自覚的ですね。       広井」



 いかがでしょうか。
 今年は、年初のころ「反知性主義」についての議論があって、わたしはあんまりそこに興味がなくフォローできずにいましたが、おおむね「大学アカデミズムをバカにする風潮はけしからん」みたいなことを言っていたんではないかと思います(違っていたらごめんなさいね)。

 しかし、大学の先生が出してきたデータの裏づけのある知見もまた、疑わないといけない。なぜならそれは「仮説の制約」を受けているから。
 今回の広井教授は、おおむねそういうお話でした。

 正田も以前から、研修業界では常識として使われている知見を「その実験デザインではそういう結論は言えない」などと言ってスルーしていることがありますが。学者さんの言うことも取りあえず疑うことは必要なようです。

またここ数年の流れでいうと、「ビッグデータ時代」もあって「統計学絶対視」というのが流行りではあったんですが、統計学もまた仮説のしもべに過ぎない、仮説がダメだと統計が正しくてもダメ、ということですよね。
 
 あっ、ちなみに正田は以前「医薬翻訳者」というのもやっていましたから、ものごとを論証したり統計学的に裏づけしたりする作業を軽視しているわけではないんですよ。


 じゃあ何を信じたらいいのか。科学がダメだと思う時に最終的な答えは哲学だと言っていいのか、哲学だったら信じていいと言えるのか、これもまた悩ましいところですけどね。
 わたしが個々の学者さんを信頼する時は、たぶん広井教授の言われる「メタ認知能力」というのを、これも漠然としていますが信頼するのだという気がしますね。


 で、この対話の中で話題にした「経営学の本」。

 このブログの読者の方で勘のいい方だと、「ああ、あれだな」と気づかれるかもしれないと思います。

 次の記事以降で、ある悩ましい「経営学本」を俎上に上げたいと思います…。



正田佐与

 藤野寛教授(一橋大学大学院言語社会研究科)の「ホネット承認論」についての講義原稿をいただきました。
 有難く、掲載させていただきます。このブログとしては「第四弾」です。

 今回は、「自己実現」ということについて、藤野教授からの「答え」が書いてあります。

****


「ホネット承認論」講義(10)                              7.12.2015

Axel Honneth: Organisierte Selbsverwirklichung. Paradoxien der Individualisierung, in: Das Wir im Ich, Frankfurt am Main 2010, S. 202 – 221.(アクセル ホネット「組織化された自己実現−個人主義化の逆説」、『私の中の私たち』所収)
Axel Honneth: Arbeit und Anerkennung, in: Das Wir im Ich, S. 78 – 102.(アクセル ホネット「労働と承認」、『私の中の私たち』所収)

  嵜誉犬箸蓮個人が自己を実現する、一回限りのチャンスである」 ― この考えを否定することは難しいだろう。それほどには、われわれは個人主義を自明の前提として受け入れて生きている。
問題は、しかし、ここから始まる。「自己を実現する」って、どういうことか。ここには、植物の成長のイメージがはたらいているのではないか。つまり、一人ひとりの人間の中には、種子のようなものがセットされており、それが発芽し、成長し、開花する、というようなイメージだ。ポテンシャル(潜在する能力)が各人に備わっていて、それが顕在化されることを待ち受けている、という風にも描き出せるか。悪くないイメージだと思う。
しかし、問題がないわけではない。みんなが、個人として自己を実現したとしよう。その時、社会は成り立つだろうか。みんながサッカー選手として自己を実現してしまう? みんなが芸術家として自己を実現してしまう? (そういう想像が許されるほどには、サッカー選手や芸術家は、憧れの職業なのではないか。)もちろん、これでは社会は立ち行かない。誰が食事を作るのか? 誰がレフェリーを務めるのか? 誰がマネッジメントするのか? つまり、自己実現モデルは、社会生活と両立しないのだ。自己実現とは言い難い職種につかねばならない人が現れずにはすまない。それどころか、圧倒的多数の人は、そのような職業について、人生を送ってゆくことになるだろう。
それでも、仕事があるだけましだ、というのが現実ではないか。失業という事態は、経済生活を破壊するだけでなく、自尊心を破壊する。失業手当が支給されればよい、という話ではすむまい。

そもそも、「自己実現」を、「ポテンシャル(潜在能力)の実現」と考えることが不適切なのではないか。例えば、私は、自分のやりたいことをやってお金がもらえる、という、恵まれた人生を送っている、と感じるが、それは「自己のポテンシャルの現実化」という風に描き出せることではおよそない。哲学するための何らかの能力が私にあるとは、これっぽっちも感じない。(哲学科に進んだのは、迷走の末、右往左往の中でのことでしかなかった。そもそも、哲学したかったのかどうかすら、怪しい。むしろ、消去法による選択だった。)
「自己実現」と言うのであれば、むしろ、「自己の欲望、欲求の実現」という風に考えるべきなのではないか。そう考えると、能力の実現と考える場合とは、根本的な変更を余儀なくされることになろう。能力であれば、あらかじめセットされていた(種子のような)ものとして考えることも不可能ではない。しかし、願望・欲求は、あらかじめ個人の内にセットされていたものではありえない。それは、社会的に ― 外部との関係の中で、外部から ― 受け入れられ、育て(上げ)られるもの以外ではありえまい。そう考えると、これは「自己実現」とはもはや呼ばれえないものだ。

◆]働を、自らの潜在能力の実現(現実化、具体化)として捉えること ― 自己実現としての労働、という考え方 ― は、個人主義的だ。ところが、労働は、今や、大きなシステムの中での活動でしかありえない。分業システムだ。そして、そのことで ― 歯車の一つになることで ― 全体の幸福に貢献する活動であること以外ではありえない。(ホネットに言われるまでもなく、労働の問題は、幸福について考える上で、一つのキーポイントをなす。喜びややり甲斐を感じてできることが仕事になることこそ、「幸福」の内実をなすのだ。だから、学者や芸術家は、幸せな人生を送っている(ように見える)ので、人々に人気の職種にもなりうるのだ。もちろん、「喜びややり甲斐」というのは曖昧な言葉であって、お金や承認だって、「やり甲斐」を生み出しうる。ただ「好きなことができているか否か」だけが、すべてを決するわけではない。)
(前衛)芸術家の創造だって、全く何の役にも立っていないと主張することは難しかろう。どういう仕方でか、それは「お役に立っている」のであり、お金が支払われるのであって、それは、彼(女)の活動の社会的価値(意味)が認められた、ということなのだ。つまり、労働は、社会という大きな単位への貢献なのであり、だからこそ、社会の側から正当に承認されねばならないのだ。
つまり、自己実現と承認という二つの理念の間には、一定の緊張関係が存在している、ということだ。役に立つ、というのは、どうしても、社会の側から測られることであるわけだが、自己実現は、個人の能力や欲求に基いて考えられざるをえないからだ。けれども、その際、個人の欲求とは、それはそれで社会的に媒介されているものなので、ただ自分の内側を凝視していたら見つかる、というものではない。
「社会への貢献」と言うのはよいが、その「社会」自体が、そもそも一枚岩ではない。3Kと言われたりもする仕事(例えば、トイレの掃除)が社会的貢献であるのと同様に、ほとんど誰も聞きたがらない現代音楽の作曲という社会的貢献がある。両者の間に価値の上下はない、と言うべきだろう。それをしたいと思う人が多くはない、という点も共通している。一方が、そのための職業教育を必要とせず、他方が幼児期からの大々的なそれを必要とする、という違いはあるわけだが。

資本主義という経済システムが成立するためには、規範的な前提がある、とホネットは言う。それは

  労働とは社会全体の幸福のための寄与・貢献である
 労働は、そのようなものとして公正に評価されねばならない

と分節される。労働者は、この前提に同意し、これを受け入れるからこそまじめに働こうとするのであり、仕事を提供する側も、また、この観点を共有していることになる。
(社会的な共属の意識が社会の構成員によって共有されていないような社会は内部崩壊する。税金を納める気持ちになるか否かもこの点に関わってくる。こんな社会、くそったれで、そのために頑張る気持ちになんて全くならない、というのでは、社会は成り立たない。外国に行ば必ず、自国に対して批判の視点を手に入れる、ということでも必ずしもない。上野千鶴子も言うように、外国に行って屈辱の経験を重ねたものだからナショナリストになって帰ってくる、という(自国では甘い汁を吸うことに慣れている)日本人男性は、ゴマンといるのだ。)
現実には、この前提を踏みにじる人はいる。しかし、それは規範からの逸脱なのであり、「金儲けのためなら何でもやる、何をしてもよい」ということだけが、資本主義の原理・原則であるわけではない。もし、「金儲けのためなら何でもやる、何をしてもよい」ということだけが、資本主義の原理・原則であるのだとすれば、この社会は犯罪者たちによって支配されていることになりかねず、まじめに働く労働者は、その哀れな犠牲者だ、という話になろう。
(能力・機能性(Effizienz)ということが唯一の評価基準であるのなら、例えば女性が労働市場においてハンディキャップを背負わされているという現実は、資本主義自体の原理・原則に反することになる。聞いた話だが、就活に際して、筆記試験の点数だけで順位づけをしたら、上位にはずらっと女性が並んでしまうのだという。だから、この結果に、点数以外の観点も加味されて調整がはかられ、男性有利の結果が生み出されることになる。(そもそも、今日、会社の人事部門のスタッフに、どれほどの女性が食い込んでいるのか。)
しかし、われわれの社会は、曲がりなりにも民主主義社会なのであってみれば、そのような少数者が支配する社会は成り立つはずがあるまい。そのような「少数派支配」説 ― 悪辣な資本家という少数派による、まじめで無垢な労働者という多数派の支配、という考え ― を奉じている人は、選挙の度ごとに、失望させられ、途方に暮れることになるだろう。
「利益最大化の原則」だけで資本主義は成り立っているわけではなく、承認の原則 ― 道徳的な原則だ ― によっても成り立っている、だから、後者は、資本主義に固有の、それに内在する原理・原則でもあるのであって、だからこそ、もし現実の資本主義がその原理・原則に反しているのであれば、内在的批判が可能になる、とホネットは考える。
これは、別の言い方をすれば、よい資本主義、正しい資本主義 ― 原理・原則を充たす資本主義 ― というものがありうる、とする考え方であり、資本主義をはなから悪者に仕立て上げる考えではない、ということだ。(ホネットは、システムと生活世界を対比するハーバーマスの考えを斥けるわけだ。ハーバーマスの区別には、経済と道徳の対比が対応するわけだが、ホネットは、経済そのものの中に道徳的要請が埋め込まれており、それなしには立ち行かない、と主張するのだから。実際、経済(学)をはなから蔑視するような倫理学(者)というのは、概して安易であり、傲慢だ。)
この問題は、内在的批判の可能性、という問題と関わる。あるシステムについて、それ自身が掲げる道徳的要請を充たすことができるか、という基準にもとづいて吟味することが可能であり、必要でもあると考えるのだ。そこでは、批判は、その要請が充たされていないこと ― 事実だ ― の指摘、という形をとることになる。こういう批判ではなく、外在的批判、超越的批判では、その社会の中で生きている人々の支持・賛同を得ることができない、という問題が出てくるわけだ。(ただし、アドルノは、必ずしも、内在批判一辺倒ではない。ミュンヒハウゼンのジレンマを言うのだから。)


****

 いかがでしょうか。
 また、いくつかポイントがあるようにおもいます。

〇「自己実現」ということについて。
 前から正田はこのことでぶちぶち言っていましたが、それへの藤野教授の答えが書いてあって嬉しゅうございました。

「みんなが、個人として自己を実現したとしよう。その時、社会は成り立つだろうか。」
「自己実現モデルは、社会生活と両立しないのだ。自己実現とは言い難い職種につかねばならない人が現れずにはすまない。それどころか、圧倒的多数の人は、そのような職業について、人生を送ってゆくことになるだろう。」

 そうなんですよね。個人の自己実現の総和が幸せな社会になるわけじゃないんですよね。
 メジャーリーガーやオリンピック選手や研究者になれる人はごく一部です。もっと普通のめだたない仕事に就く人が圧倒的多数を占めます。で「承認教育」もその人たちのための仕事をしたい。

 藤野教授も書いておられますが、「マネジャー」なんかも思い切り「自己実現」から遠い仕事です。他人のことばかり関心を向け、自分で自分の仕事をデザインできることは少なく、プレイングマネジャーでもしょっちゅう自分の仕事を中断し、「いまいましい問題解決」に忙殺されています。

 わたしの最初の著書『認めるミドルが会社を変える』の中で、このことに触れて
「マネジャーは(承認教育を経て)自己実現より尊い成長をする」
という意味のことを書いたところ、コーチング業界の人から「ショックだ」という感想をいただきました。「最上志向」のある人だったので、自分の能力を最高に開花させることが人としての最高の幸せだ、と心から思ってはったみたいなんですね、その人は。

 ―ただ、「3K仕事」に職業教育が必要ないわけではないと思いますが―


〇ホネットは「よい資本主義」というのは「承認」がある資本主義だ、と言っているわけですね。(そういう理解でいいんでしょうか?)

「「利益最大化の原則」だけで資本主義は成り立っているわけではなく、承認の原則 ― 道徳的な原則だ ― によっても成り立っている」

 
 わたしなどは、このホネットのフレーズにすごく大きく頷いてしまいました。であれば、利益最大化だけを目指し人間性を踏みにじって成り立っているブラック企業などは糾弾されてしかるべきですね(既にそういう流れにはなっている)

 で、「承認の原則」が「道徳的な原則」とイコールのように文中でなっていますが、実はこれもわたしの実践の中での実感に近いので、いいのではないかと思いました。
 「承認教育」を施すと、それはほぼそのまま「道徳的/倫理的に振る舞うとは、どういうことか」について教育をしたのと同じことになってしまう。
 むずかしい倫理学をアリストテレスのころから体系的に学ばなくても、いいんです。
「何がこの場でこの相手にとって『承認』なのか」
「だれにとっての『承認』をこの場合、優先すべきか」
とっさに、こうしたことを考えるだけで、結論としては道徳的/倫理的な決断と行動ができます。過去、「業績一位」を作ってきたマネジャーたちは、普通にやってきたことのはずです。
 たぶん、マネジャーたちの日常行動だけでなく、経営者さんが「再配分」を考えるうえでも、役に立つ考え方でしょう。


 経済学の中に倫理を。ということに取り組まれている方も一部にいはるようですが、さてどうなるやら…。


 藤野先生、このたびもありがとうございました!


正田佐与



お世話になっている皆様


 おはようございます。
 正田です。
「自然は我々の必要としているすべての答えを持っている」
 今年のノーベル医学・生理学賞受賞者、大村智さんの受賞記念講演での言葉です。田んぼの土を採取し、分析し…、他の研究者がやらないようなどろくさい研究を続けてきた大村さんならではの、含蓄のある言葉ですね。
 
※このメールは、正田が過去にお名刺を交換させていただいた方・イベントやセミナーにご来場いただいた方にお送りしています。ご不要の方は、メール末尾にありますURLより解除ください。
(解除方法が変わりました!詳細はメール末尾をご覧ください)


 本日の話題は:

■史上初、205いいね!14のシェアをいただきました
 ―「褒めない・叱らない」「反抗期はない」
 “妄想宗教”から子供たちを守ろう!アドラー心理学批判

■読書日記:再掲「承認欲求バッシングはこんなに変!」

■メンタルヘルス対策―マネジャーはカウンセラーであるべきか?
 ―「月刊人事マネジメント」連載記事を更新しました
 
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■史上最高、205いいね!14のシェアをいただきました
 ―「褒めない・叱らない」「反抗期はない」
“妄想宗教”から子供たちを守ろう!アドラー心理学批判

 先週12月3日はわたくし正田の52歳の誕生日でした。
 「知命」から2歳も歳をとっていまだにこんなことをやっていてお恥ずかしいのですが…、
 その前日に書いたブログ記事が、誕生日の間にフェイスブックで14名の方に「シェア」していただきました。その中には現役の学校の先生も4名いらっしゃいました。そして記事に「いいね!」を押してくださった方は205名となりました。もちろんわたしのブログ記事としては過去最高。長文記事の多いブログの中でもかなり長文のほうの記事ですから、大手メディアではない個人のブログとしてもかなり異例の数字でしょう。
 それは、今流行りの「アドラー心理学」の講演に関する批判記事でした。
 もしご興味のある方は、こちらをご覧ください:

◆褒めない・叱らないは正しくない!「逆張りロジック」に正しく反論する知性を磨こう―『嫌われる勇気』著者講演会
 http://c-c-a.blog.jp/archives/51927076.html

 メルマガ読者の皆様も、もしこの内容をご覧になり、賛同していただける方は、フェイスブックのユーザーの方なら「いいね!」ボタン、そうでない方は「拍手」ボタンを押して、賛同の意を表してくださいね。

 本記事に賛同していただいた、佐賀県の研修業・宮崎照行さんからは、こんなご意見をいただきました:

◆「自己認識には事実のフィードバックが大事」「思考的盲目が心配」―宮崎照行さんのメッセージ
 http://c-c-a.blog.jp/archives/51927143.html

 わたしも、宮崎さんにまったく同意見です。
 そして、本メルマガの読者の方の中には出版界や新聞などマスコミ関係の方もいらっしゃいますが、売れるからといってこうした「有害」な手法をチヤホヤもてはやすことには、猛省を促したいと思います。言論の自由とはいえ、お客様(読者)の心身の健康を害するようなものを売ることが職業人として正しいわけではありません。

 なお最初の記事「褒めない・叱らないは…」が、あまりにも長文なので、内容をギュッとコンパクトに縮めた「短縮バージョン」の記事がこちらです。お忙しい方や、ちょっと「笑い」が欲しい方にどうぞ:

◆増殖中!インフルエンザより怖い「妄想症・ナルシ症」リスク対策は
 http://c-c-a.blog.jp/archives/51927207.html 

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■読書日記:再掲「承認欲求バッシングはこんなに変!」

 上の記事との関連で、「承認欲求バッシング」というものがいかに「変」か、ということを考察しました。
 アドラー心理学の昨年60万部のベストセラー『嫌われる勇気』では、「承認欲求」というものを否定し、罪悪視するようなフレーズが出てきますが、なぜ、わたしたち人間のきわめて基本的な欲求である承認欲求をそこまで敵視するのか。
 わが国特有の現象のようなのですが、この奇妙な系譜をつくったとみられる代表的な文献がいくつかあります。犯罪心理学者・土井隆義氏、社会学者・古市憲寿氏などは、それぞれの「出世作」の中で、「承認欲求叩き」を行っています。いわば、これらの人々が「のしあがる」「認められる」ために便利だったのです。
 それらの文献を取り上げた読書日記が、こちらです:

◆奇妙で不快な論理構築:承認欲求バッシングはこんなに変!―『友だち地獄』『希望難民ご一行様』
 http://c-c-a.blog.jp/archives/51927340.html 

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■メンタルヘルス対策―マネジャーはカウンセラーであるべきか?
 ―「月刊人事マネジメント」連載記事を更新しました

 今年、全7回の連載をさせていただいている「月刊人事マネジメント」の「上司必携・『行動承認マネジメント読本』」。
 第5回は、「メンタルヘルス」に関する記事です。ストレスチェック義務化が始まり、本格的にメンタルヘルス対策をとるにはどうしたらいいか?
 こころの病気に「ならない」ことがまず肝心です。セルフケア、ラインケアとある中で、「未病段階」のラインケアとして有効な方法があります:

◆第五章「踏み込みすぎない」メンタルヘルス対策―月刊人事マネジメント11月号
 http://c-c-a.blog.jp/archives/51927183.html 

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★今号のメルマガは、いつになく(?)厳しい批判記事を掲載しましたので、びっくりされた方も多いかと思います。
 でもフランクフルト学派の例をひくまでもなく、「承認」は「批判」とリンクしていなければなりません。心理学と哲学の大きな違いはそこですね。

★そんなで先週来殺伐としたわたしのブログでしたが、ある友人で読者の方からのメールをご紹介した記事が、これも多くの方のご支持をいただきました。現役の働く人にとっては、実感のこもった記事だったのではないかと思います:

◆「一番過酷な日々」の中にひっそりと、「行動承認」―友人からのメールより
 http://c-c-a.blog.jp/archives/51927128.html 
★師走、読者の皆様も体調を崩されませんように。

※このメールは、正田が過去にお名刺を交換させていただいた方・当協会のイベントやセミナーにご来場いただいた方にお送りしています。

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近著『行動承認―組織の能力を最大化する「認める力」』
http://www.amazon.co.jp/gp/product/4434198572 


*…*…*…*…*…*…*…*…*…*…*…*…*…*

 本日は、新しいネタではなくて以前の記事の焼き直しで恐縮です。

 「承認欲求バッシングを批判する」というカテゴリをこのブログに立てているんですが、このカテゴリの「はしり」となった記事が、

幸せな行動承認セミナー第一弾、情けないJ-POPとの決別ー加東市商工会様(2015年9月13日)  http://c-c-a.blog.jp/archives/51922286.html

 です。

 多分、年来の心労が祟って今年初め健康を害したわたしが、その後いいことが色々あってエネルギー回復して、じゃあその心労の原因の1つを作っていたとみられる「承認欲求バッシング」の風潮と正面対決しよう、という節目になったのがこのときであった、と思います。いいことも色々でしたが直接のきっかけは加東市商工会様セミナー1回目の成功だったわけであります。

 ところがこの記事を今みると、タイトルから中身が想像できないようになっていて、「承認欲求バッシング批判」の色がはっきり出ていなくて、題材にした本のタイトルも出ていない、というものなので、この際この記事の後半だけを独立した記事にして改題してUPさせていただこうと思った次第です。長い前置きですみませんでした。

 それでは、「承認欲求バッシング批判」記念すべき第一回であります…:


****



 さて、幸せな気持ちになったので、少しイヤなことにも目を向けようと思います。

 今回の読書は『友だち地獄―「空気を読む」世代のサバイバル』(土井隆義、ちくま新書、2008年3月)と『希望難民ご一行様―ピースボートと「承認の共同体」幻想』(古市憲寿+本田由紀、光文社新書、2010年8月)。

 いわば「負の承認欲求本」の「はしり」のような文献群であります。けっしてこのあたりの論者の方々を敵視したいわけではないんですが、きっと良心的な方々なのだと思いますが、このあたりの書物がつくるイメージが、「承認」という本来すごくいいものをわるいもののように見せてしまっているということは指摘しなければならない。

 わたしは大人の世界に「承認教育」をして、サクサク問題解決をしようというほうの人なんです。そう、本当にサクサク解決できるんですもん。


 このあたりの「若者論」の文献に、「承認」「承認欲求」は、どういう形で現れるでしょうか。なんだか、大学生さんの卒論みたいな論の立て方ですが。


 たとえば前者、『友だち地獄』では―。

「他者のまなざしを自己の内にもたない人間が自らを物語ろうとする場合には、自分の外部にその聞き手をもたざるをえない。しかし、自己の物語が赤裸々なものであればあるほど、自分と利害関係のある人びとにその役割を求めるのは危険が大きすぎる。そこで彼らは、具体的な利害関係のないバーチャル空間の他者にその役割を求め、ネット上に日記を公開する」(p.69)

 ―ここでは「承認欲求」という言葉こそ使っていませんが、ブログを書く人は承認欲求を満たしたいから公開で書くのだ、という意味のことを言っています。そうですかすみませんねえ。


「献血によって彼女(南条)が得たいのは、自分という存在の確認とともに、他者からの絶対的な承認である」(p.82)

 ―まあね、ボランティアをする人も寄付をする人もみんなそうだと思いますよ。善をなすにも必ず承認欲求は根底にありますよ。


「(南条の自殺願望の記述を受けて)ここには、なんと切ない自己承認への欲求があることだろう。死亡後に発見される自分の刺激的な身体が、さらには自殺という衝撃的な事件によって自分の欠けたダンスのステージの光景が、かえって自分という存在の強力なアピールになることを敏感に感じとっている」(p.83)

 ―いやですね〜、自殺によるドタキャン願望。傍迷惑このうえない自己顕示欲。まじめ義理人情タイプの正田はそれは絶対ないな。でも時々、例えば職務怠慢な新聞記者があまりにも「承認」のことを書かないものだから、「あなたたち私が死んだら書いてくれるんですか?」なんて言うことは本当にあります。ギャグですから、あのひとたちは。まあ「思想」なんて高級なことはわからない、ミニコミ紙ですからどこも。
 ともあれ、その人はビョーキなんだと思いますよ。


「一般的な他者の視線が自分のなかに取り込まれないとき、自らの身体感覚のみに依拠した自分は、まさに世界の中心点となる。しかしそれは、社会という確固たる根拠をもたない空虚な中心点である。それゆえに、自己の安定のためには具体的な他者からの絶えざる承認が必要となる。その承認欲求の強さは、南条の日記に書きつらねられた内容ばかりでなく、ネット上でそれを公開するという形態にも表れている」(pp.83-84)

 ―ここは、「人は自律的なのが正しい」という暗黙の前提があるんだと思いますね、この著者の中に。でも実際は違います。人はいくつになっても、「他者からの絶えざる承認」を必要とします。それは出社して「おはよう」と言ってもらうのでも、SNSでだれかとつながるのも。
 本書は、現代の若者の病理を解剖する時に、どうしても表現力豊かなエクストリームな人すなわち南条の例を挙げざるを得ないんでしょうかね。どうやってもブログを書くことをわるものにしたいみたいですね。迷惑だなあ。
 最近も自分がブログを書いていることに関してナルシシストだとか言われて、「私は碌に発表場所もないから受講生様のために自分が思考した軌跡を書き残しているんです、なんか悪いですか?」ってある人に言ったんでしたっけ。なんでこんな説明しなきゃいけないのよ、疲れるなあ。相手はベストセラー作家さんでしたけどね。あいつら一味だな。回し者だな。


「彼女(南条)は、甘美なものとして仕事を捉える。そこに、自己承認への活路を見出しているからである。彼女にとって仕事とは、確固たる承認を得るために非常に有効な手段だった」(p.85)

 ―あの〜、「仕事が承認を得る手段」だ、というのは、いたって「まとも」ですよ。ビョーキの人だからそうなんじゃないですよ。そういう認識は全然ないみたいですね。なんか読むのイヤになってきたこの本。あなた自身は、仕事は承認を得るための手段じゃないんですか?この人本当はいい人じゃないんじゃないのかな。


 ―さて、「昔の若者はそれほど承認を必要としなかった」という言説も登場します。

「…かつての若者たちが人間関係の強い絆にからめとられているように見えながら、その一方で孤独にも強く、むしろ孤高にふるまうことすら可能だったのは、自分の判断に客観的な色彩を与えてくれる社会的な根拠を自己の内面に取り込んでいたからである。その根拠が、つねに一定方向を示しつづける羅針盤の役割を果たして、彼らの自律性を支えてくれていたからである。だから、たとえ周囲の人びとから自分だけが浮いてしまおうとも、『我が道を突き進んでいく』と宣言することができた。いわば一般的・抽象的な他者による承認を感じとることができていたので、具体的な他者からの承認を現在ほどには強く必要としなかったのである」(p.122)

 ―昔の若者は自律的だった説。異議あり。昔がどのへんの時代なのかわかりませんが、たとえば安保闘争とか学生運動、紅衛兵、など若者がモブ化したことは何度もあり、それは自立していない若者が集団行動すると安心したからで、要は承認欲求です。紅衛兵なんかは、毛主席から承認されたかったんです。だから団塊はその過去を恥じて右翼反動になってるんです。中には本当に自分の信念と一致していた人もいたでしょうけど、大多数は自分なんてありませんでした。もちろん普通の働く風景でも、高度経済成長の長時間労働のサラリーマンは当然、会社や周囲から承認されたくてそうしていたわけであります、もっとさかのぼれば軍国主義にしても。正田は会社員時代も一匹オオカミで上司とか周囲の(「弱くあれ」という)期待には従わないほうの女の子でしたが、それは大学で強い恩師の影響を受け承認も受けたからで、良い親御さんや師に承認された経験のあるひとは周囲に流されず強く振る舞えるかもしれません。自分1人でそれができるわけではない(できるのは恐らく病的に空気を読まない人)、それは昔も今も同じと思います。漱石とか鴎外とか、文豪と言われるクラスの文献を残している人は例外でしょうけどね。あと太宰治は自己愛性人格障害だった説もどこかにありましたね。あー、どんどんきらいになってきたこの人。言ってること変。学者のくせに間違ったこと言ったら、アウトでしょ。かなり妄想的な頭脳の人、学者というよりアーチストなんじゃないだろうか。


 ―いじめ自殺も「承認欲求」の産物説。別に否定はしませんが…。

「2006年の後半に引き続いたいじめ自殺の背後にも、この「私を見つめて」という強い承認欲求が潜んでいるように思われる。自殺を企てたいじめの被害者たちは、…「優しい関係」に孕まれた対立点の表面化が巧みに回避されることで、いじめの傍観者たちが自己肯定感の基盤を補強していくのと引き換えに、自らの肯定感をとことん剥奪されてしまった存在である。「私を肯定的に見つめてほしい」という想いは、ふつうの若者たち以上に強かったに違いない。」(pp.135-136)

 ―そうだろうと思いますよ。ホネットも言ってるでしょ、いやヘーゲルだったかな、人間同士の葛藤とは、要はどれも「承認の剥奪」の問題なんです。戦争も犯罪もいじめも。だから、奪われた側は必死でなんらかの形で奪い返そうとする、承認を。それは自然なことです、といっても自殺などしてほしくないが、彼らには奪い返す権利は当然あるんです。それはそこまで追い詰められた被害者が悪いんですか?自殺した被害者をナルシスティックだといえますか?承認を奪った加害者が悪いんじゃないですか?あるいは放置した大人たちが悪いんじゃないですか?
例えばこの文章を、「食欲と栄養」に置き換えてみるとこういう文です。
「餓死した人の表情からは強い食欲が窺われる」。
 それ、言っていい言葉でしょうか、常識的に。人として。


 「ケータイは…、つながりたい、承認されたいという欲求を、とりあえずはいつでも満たしてくれる装置として活用されている」(p.172)

 ―きたきた。本書は2008年の出版なので、まだスマホ登場前で「ケータイ」を話題にしています。ここでいう「承認」は、当協会的には「やすっぽい承認」なのやけどなあ。本書では「優しい関係」という言い換えバージョンも度々出てくる。「さみしい」に対しての「さみしくない」、「ないよりまし」というレベルの不安定なもの。だから、仕事の場での「行動承認」に出会うと、それはいまだかつてない大人同士の骨太な強固な信頼できるものなので、今どきの若い子もコロっと変節(いい方へ)してしまう。


 『友だち地獄』、「おわりに」で著者は、「本書で述べてきた若者のメンタリティの半分は、自分にも当てはまることを率直に認めておかなければならない」(p.231)と述べたところには、ちょっとだけ救いがありました。

 しかし全体としては、若者の現状の暗黒面を取り上げ嘆いてみせ(慨嘆調)、そして「承認」「承認欲求」をスケープゴートにしている本なのでした。まるで、人間ではない架空の概念だから悪玉にしてよいのだとばかりに。
 いや向かうべきはそっちじゃないでしょう。大人社会をどうつくりかえるか、でしょう。

 問われるべきは大人社会なのだ、という視点がこの本には見事に抜け落ちている。「若者の病的な承認欲求」のおぞましさだけが読後感として残る。

 あれですよね、問題発見とか慨嘆調がお上手な著者の方っていらっしゃるんですよね。それだけで本が何冊も書けちゃう。ネガティブ日本人は嘆き節には「そうだそうだー」って反応するんです。イヤだわ男のくせに慨嘆調ヨロメキ調。定年後の読者層の方なんかには受けますね。

 でも社会問題は何も解決しない。有効な問題解決をしているこちらが足引っ張られる。

 このブログでは、最近も「承認と栄養の関係」を取り上げているが、

 長すぎてしまった前振り 承認欲求と食欲と栄養と過剰摂取の関係について
 http://c-c-a.blog.jp/archives/51920236.html
承認欲求は誰にも普通にあるもので、正常な範囲のものは与えられて然るべきもの。


 ごめんね、教育技術の進化によって、また地道な社会変革によって(それはお気楽な大学の先生ではない正田の長年の心身をすり減らす「営業活動」で成り立ってきたのだが。正田はもう歳でかなり疲れてきているので、大学の先生とかの知識人にはとりわけ厳しいです)、大人のほうに「承認教育」を施し、「承認の与え手」の大人の数を増やすことができるようになると、ここにみるような「承認観」はむしろ退場していただかざるを得なくなる。

 美しいものなんです、大人の「与える承認」は。この教育に関与できることも美しいんです。汚いものみたいに言ってご商売してきた無責任なひとは、関与しなくて結構です。


 
 
 もう1冊の『希望難民ご一行様』(光文社新書、2010年)は、気鋭の若手社会学者・古市憲寿氏のデビュー作らしい。綾野剛みたいな今どきのイケメンの人ですね。


 ピースボートに同乗し、その限界を見、返す刀で「承認の共同体」を切っている感じの本。「承認」はもちろん本書の本筋の話ではないが、承認屋なので一応、どう扱われたかフォローしておきたいです。


「そう、「承認の共同体」は再分配の問題(経済的格差)を覆い隠すし、しかもなかなか政治運動へも発展しないのである」(p.264)


―政治運動には、このところ「反原発」や「反安保」に発展しているようにみえますけどね…。
 再分配の問題と承認を切り離して論じているところが曲者で、ヘーゲルの構想した承認は、ちゃんと再分配にまでつながっていた。ヘーゲルは承認を当初公共の愛として構想し、次に法や社会制度として構想したのだ。承認を、非力な若者同士で歌うJ-POPみたいなものに矮小化しちゃったのは著者の勝手な解釈である。

 
「要するに、ピースボートは特に「セカイ型」と「文化祭型」の人に対して、ムラのようなコミュニティを作った。それは一部の人が期待したような世の中に反抗するような集団ではないし、社会運動につながるようなものでもない。なぜなら、「共同性」による相互承認が社会的承認をめぐる闘争を「冷却」させる機能を持ってしまうからだ。
 
 つまり、「承認の共同体」は、労働市場から体制側から見れば「良い駒に過ぎない。このことを、「若者にコミュニティや居場所が必要だ」と素朴に言っている人たちは、どのくらい自覚しているのだろうか」(p.265)
 
―だからねー、さっきも言いましたけどね。ぽりぽり。
 たぶん、現代の非正規労働化、ブラック企業化というのは、「社会全体で、いわば大人世代が若者に与える承認のパイが縮小した」という現象なのだ。生身の若者たちにとって取り分が少なすぎるから、自分らの世代の中でなけなしの承認を回さざるを得ない。それが、ここに現れるような負け犬の遠吠えのようなゴールデンボンバーの歌のような「情けない承認イメージ」になってしまう。
 それは承認の責任ではないっつーの。イケメンさんだけどおばさんは厳しいよ。

 著者にしてみれば、「決して承認そのものの悪口を言っているわけではない」と言い訳をしたいところなのだろうが、どうみてもそうみえる。社会学周辺に、とにかく問題行動の契機としての「承認欲求」に注目する、という流れがあり、本書に解説を書いている本田由紀氏などもその一派の人たちであり、若くて売り出し中の著者はそこにおもねっているように感じられる。

 どうも見てると、土井隆義氏が「承認悪玉説」「昔の人はもっと自律的だった説」の先鞭をつけ、それに便乗して、本来の承認の意味をよく調べもせずに悪者扱いして使う人が学者さんでも増えた、という系譜のようにみえます。土井隆義氏元凶説。土井氏って本当は内発と自律論者なんじゃないの。いや本当はどうなんでしょうね。あまりこの問題に深入りしたい気もしないんですが、もしお詳しい方がいらしたら、ご教示ください。




正田佐与

 えと、謹厳なわたしとしては珍しく、ほとんどこのブログ始まって以来初めて、自筆イラストを披露してしまいます。

 インフルエンザ、ノロウィルス等感染症の季節ですが、人のこころにも怖い感染症というのがあります。ここ2年ほどわが国の職場や学校に増殖して、いま韓国にもいっている怖い病気が、これです。

アドラーかぶれ毛筆



 たまーに、研修でもWボードに絵を描いて説明することがあるんですが、謹厳で笑いの場面の少ないわたしの研修の中でそこだけは妙に笑いが出ます。

 それはどんな絵だったかというと、「ファーストペンギン」というのを説明しようとして足からボチャンと水に落ちるペンギンの絵を描いたりとか、脳幹の働きを説明していてヘビが攻撃するところと逃げるところを描いたりとか、です。

 
 このところお客様との対話の中でも「バカな自己啓発本にかぶれて勘違いする若手中堅」という話題が出ます。それは結局、上司がちゃんとした尊敬できる大人になって、そのうえで部下の勘違いを修正するという道筋しかない、という話になります。なので上司教育大事です。

 (ただ、色々きいてみると上司世代も結構アドラー心理学本にかぶれた人がいるみたいなんですナー。「褒めない、叱らない」という教義は、ふだん部下に興味もなくて碌にみていないタイプの上司にとっては、自分を甘やかせる魅力的なフレーズなんです。なのでこのイラストは中年男っぽく書きました)
 

 
 思うに人々の現実との接触の絶対量が少なくなるIT時代というのは、妄想とナルシシズムに対してどうマーケティングするかが勝負、という感じになって、出版業界なんかももろ「妄想ビジネス」「ナルシシズムビジネス」みたいになっています。学者さんとか評論家コメンテーターの人たちも、「妄想系」「リアル系」の色分けをしようと思えばできるんじゃないかと思います(大多数は前者なのかもしれない)

 でも妄想やナルシシズムで職場は運営できません。マンションの杭はちゃんと打たななりません、橋の部品はちゃんと溶接せななりません。じゃあどうするかというと、残っているまともな人が知恵を絞って感染症に対して賢い対策をとることでしょう。


 というわけで、妄想感染症リスク対策に社内ポスター、いかがでしょうか。


正田


追記:
今だから言うんですけどね、去年『行動承認』を出したときの担当編集者がこの病気だったみたいなんです。苦痛でしたねえ、こんな人に原稿見てもらうのは。宗教関係の本を異教徒がそれを隠して編集するようなものです。「承認」というものにも著者のわたしに対してもリスペクトがまったくなく、勝手に原稿の字句を変えてどんどん下品にするので(それは契約違反)何度も直し返しました。ついでに「あなたの直した原稿とわたしの書いた原稿どっちがいいか公開して皆さんに見ていただこうじゃないの!御社の恥になるんじゃないの?」って言ってやりました。いいんですよ、今からでも公開しても。
 

 今月1日、改正労働安全衛生法によるストレスチェック義務化が始まりました。

 従業員のメンタルヘルス対策、このブログ読者諸兄姉の職場ではどうされているでしょう。

  「月刊人事マネジメント」誌に連載させていただいている、「上司必携・承認マネジメント読本」の5回目の記事を編集部様のご厚意により「公開OK」でいただきましたので、転載させていただきます。

 今回は、「承認マネジメント」による「メンタルヘルス問題を起こさない職場づくり」について、お伝えします。
 

11月号完成稿


11月号完成稿2


 
 以下、本文の転載です(正田肩書は11月1日当時のものです):

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上司必携・『行動承認マネジメント読本』
〜人手不足チームのやる気と力の引き出し方〜

一般財団法人 承認マネジメント協会
理事長 正田佐与


第5章 「踏み込みすぎない」メンタルヘルス対策
 


 改正労働安全衛生法により、従業員のストレスチェックが今年12月から義務づけられます。
 メンタルヘルスケアについては、厚労省が平成12年より制定した4つの柱があります。すなわち、1.従業員1人ひとりによる「セルフケア」、2.管理職による「ラインケア」、3.社内の産業保健スタッフによるケア、4.社外の専門機関によるケアです。
 本章では、2.のラインケアについて、現場の上司の方1人ひとりにできることを解説します。

マネジャーはカウンセラーになるべきですか?

 「ラインケア」のためには、「職場では上司・マネジャーが部下のカウンセラーであるべきだ」という主張があります。部下の話を共感的に聴き、受容することが大事だ、と。
 筆者は、それにはあまり同意しません。マネジャーはあくまで仕事の現場を前に動かすことに責任を負う人であり、心を病んでしまった部下のケアを担当するのは荷が重すぎるのです。部下がもし本当に心を病んでしまったら、マネジャーはできるだけ早く産業医または医療機関にバトンタッチすることをお勧めします。
 むしろ、読者の上司の皆様にお勧めしたいのは、「未病段階」の日常のケアとしての「承認」です。
 ピースマインド・イープ(株)が今年8月に発表した約4万人を対象としたストレスチェック調査結果の分析によると、「上司の部下対応に改善が必要な職場では、それらが良好な職場に比べ高ストレス者比率が約10倍」という結果が出ました。
 「上司の部下対応」とは、より具体的には、上司のリーダーシップ、すなわち部下の育成やキャリア形成に積極的であること、上司の公正な態度ほめてもらえる職場失敗を認める職場―などが指標となります。ですので、上司の必要な行動様式としては、「承認」を日頃心がけて行っていただくことで大丈夫なのです。

傾聴より承認が大事なのでしょうか?

 少し抽象的な話になりますが、「傾聴(話を聴くこと)が大事か、承認(認めること)が大事か」、どちらでしょうか?
 「傾聴」の一環として「承認」をするのが正しいか、「承認」の一環として「傾聴」をするのが正しいか。どうも、経験的には後者のようだ、と筆者は考えます。
 「認める」ことを日常行動のコミュニケーション手法としても心の構えとしても基盤として持ったうえで、場面に応じて「傾聴」もする。「承認」は「見る」ことと「聞く」ことの両方を駆使し、「声がけ」の段階の「浅い」レベルのものから「行動承認」その他の各「承認」カテゴリ(第2章参照)を行うこと、さらに、指示出しやトップダウンで語ることまで通じ、極めて使用頻度も応用範囲も広いものです。
 「話を聴いてもらいたい」という部下の真意は多くの場合、「認めてもらいたい」とイコールです。
 逆に、「傾聴」が大事だ、という構えでいると、マネジメントのなかでじっくりとした「傾聴」ができる場面は限られていますので、せっかくの宝の持ち腐れになってしまいます。また、たまたま「傾聴」したことに囚われて、物事の本筋を見誤ってしまうことになりかねません。
 ですので、メンタルヘルス対策の「ラインケア」としてマネジャーが行うべきことは何か?というとき、やはりここでも「承認」をお勧めしたいのです。
 そして実際にやってみると、「承認」は鬱など心の病気になる前の「未病」の段階で非常に大きな予防的効果を発揮し、日常行動として行う価値があることが分かります。

「承認個別面談」は必要ですか?

 日常の声がけや「行動承認」などの「承認」に加え、やはり前章同様、ここでも「承認個別面談」をお勧めしたいと思います。ラインにおけるメンタルヘルス対策としても、これが現時点でベストの解だと思われます。
 定期的に、月2回〜週1回の頻度で、マネジャーが個々の部下と対話する。あらかじめその部下に即した「承認」の言葉を3つ、考えておきましょう。ここでも具体的な行動を観察した結果を伝える「行動承認」は非常に効き目があります。
 実際にやってみると、こうした「承認」を交えた個別面談では、部下は実に素直に仕事の進捗状況はもとより、今抱えている悩み事を、仕事だけにとどまらずプライベートも含めて話してくれ、マネジャーは的確に状況把握ができます。

鬱から復職の部下にも「承認」は使えますか?

 鬱休職からの復職は、難しい問題です。回復期に入ると本人は1日も早く復職したいと思われるものですが、

実際にはフルタイムの勤務は心身の負担が大きく、ちょっとしたきっかけで再度悪化してしまうことがあります。リハビリ的な勤務を経て慎重に本格的な復職のタイミングを見極めたいものです。
 いざ復職したら、普通よりこまめに様子を見て声がけをしましょう。本人の机を上司の机の近くに配置替えするなどもよいでしょう。
 よく「頑張れ」は禁句だと言われますが、逆に「では何を言ってあげたらいいの?」と困って声をかけづらくなってしまうようです。第2章に示したさまざまな「承認」では、「頑張れ」以外の「承認」の言葉が多数紹介されています。
 ぜひ、これらを使って細やかに声がけしてみてください。一般に、やはり「存在承認」「行動承認」「感謝」「Iメッセージ」などは、復職後の人にも素直に受け入れられ、静かなやる気につながります。
 一方で、「ラインケア」ばかり強調すると、本人の自助努力による「セルフケア」がなおざりでよいのか、と思われるかもしれません。やはりセルフケアは大事です。現代特有の、PCやスマホの使用からくる寝不足やストレスの問題、またバランスの良い食事や適度な運動など、本人の生活態度がメンタルヘルス疾患の予防にも治療にも大きく影響します。
 こうした自己責任のセルフケアの重要性を十分に啓発しながら、一方でラインケアにも取り組んでください。

(了)

「上司必携・行動承認マネジメント読本」シリーズ全体の構成は:

第一章 行動承認は”儲かる技術”である(2015年7月号)
 http://c-c-a.blog.jp/archives/51919833.html
 第二章  「承認」の学習ステップ(8月号掲載)
 http://c-c-a.blog.jp/archives/51921667.html
第三章 女性活用と登用は「上司の眼差し」次第(9月号掲載)
 http://c-c-a.blog.jp/archives/51923763.html
第四章 LINE世代に対するマネジメントとは(10月号掲載)
 http://c-c-a.blog.jp/archives/51925545.html
第五章 「踏み込みすぎない」メンタルヘルス対策(11月号掲載)
 http://c-c-a.blog.jp/archives/51927183.html
第六章 部下の凸凹を戦力化に転じる(12月号掲載・本記事)
 http://c-c-a.blog.jp/archives/51932814.html
第七章 伝えたいことが「伝わる」伝え方(2016年1月号掲載)
 http://c-c-a.blog.jp/archives/51934650.html


 正田佐与

 

 お誕生日にいただいたメッセージのご紹介 第二弾です。
 佐賀県の研修業・Training Officeの宮崎照行さんより。先月、新たな実践経験談 ”教育困難校”と「行動承認」―佐賀県・宮崎照行さんのメールより の記事で登場していただきました。

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正田先生

お誕生日おめでとうございます。
いつも考えるキッカケを与えてくださるブログの投稿、ありがとうございます。

この1年もさまざまな視点でのご投稿を心より楽しみにしております。

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昨日のブロク『褒めない・叱らないは正しくない!「逆張りロジック」に正しく反論する知性を磨こう―「嫌われる勇気」著者講演会』を興味深く拝読いたしました。

私が疑問を感じたのは下記の点です。

>「叱る、とは、対人関係において、相手を"下"だと思っているからできる行為である。対等だ、同じ価値を持った人だと思って接すればいいだけである。褒めるのでも叱るのでもなく、言葉で説明する。話し合えば1歳の子どもでもわかるものだ」
「叱られた子どもは、大人の顔色を見るようになる。自分で判断するのではなく、叱られないならやる、という風になっていく。」
私は、自己認識をする上において、第三者からのフィードバックにより事実を意味づけることが可能になると考えています。特に、タブラ・ラサ状態の子供に対しては、そうなると「叱る」「褒める」などの行為を通してのフィードバックによって事実を客観視させていく必要があります。
何も相手を“下”だと思っているわけではありません。”希望”や”期待”からフィードバックをしています。”希望”や”期待”が相手に伝わるために必要なことは何か?私は、信頼関係だと思っています。だからこそ、普段の何気ない声がけやそれこそ「承認」が必要です。信頼関係が築けると”下”や”対等”などの階層的意味付けは自然消滅してしまうと思っています。


>「では、褒めるのはどうか?褒めるのも対等と思っていたらやらないですよね。褒める行為は、能力のある人が能力のない人に下す評価である。 褒められて喜ぶのは、自分の能力がないと思っている人なのかもしれない」「褒めて欲しいから行動する、というような振る舞いになっていく」
私は、褒められたら素直に「嬉しい」です。それがエネルギーになることも多々有ります。別段、自分の能力が劣っているとも思っていません。この点は、岸見氏の表現は危険極まりません
「褒める」も肯定的なフィードバックの一つだとすると、行動を強化する強化因になるわけですから、別段、「褒めて欲しいから行動する」わけではなく、「その行動が正しいから行動する」だけであると思います。

私自身、「褒める」という表現は肯定的なメッセージの一部分しか表していないので「承認」という表現を好んでいます。今回、岸見氏の講演では、肯定的なメッセージを「褒める」ということだけに限定されていることに無理があるのではないかと思っています。
そして、私が危惧していることは、岸見氏のような大ベストセラー作家の講演に対して、、産業カウンセラーの方々が思考的盲目になられている点にあります。「売れている」=「正しい考え」のような図式が成り立っているようなきがしてなりません。専門職の方々に声を大にしていいたい。「もっと深く勉強をしてください」「自分の力でもがき苦しみ、解決の方略としていろいろと調べて下さい」と。

『嫌われる勇気』は読み物としては面白いかもしれませんが、わたしは参考になる点は、残念ながらあまりありませんでした。

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【私が正田先生を尊敬する理由】
|療好奇心が旺盛なこと
表面上の知識だけでなく、深いレベルで理解されようとすること
H稟修気譴襪箸は客観的なデータを用いたり、一過性の感情論ではなく、しっかりと論理的矛盾をつかれること
ご蕎陬譽戰襪範斥レベルがうまくバランスがとられていること

改めて、お誕生日おめでとうございます。
乾杯!!

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 いかがでしょうか。
 正田は、このメッセージをいただいたとき、ほっとしてしばらくダラーっとしてしまったのですが(情けない・・)本当はこういうのは、承認される側より承認する側が偉い、のかもしれないです。器が大きいのかもしれないです。あたしはどうみてもこんな賛辞には引き合わない。
 
 と思うんだけれども、万一ひょっとしてこの世のどこかにもうお1人ぐらい、正田のことを「いい」と思ってくださってる方がいて、そのことがその方が「承認実践者」であられるためのモチベーションになっているとしたら、その方にとっては自分と同じように思っている人が少なくとももう1人いる、と思えることは勇気づけになるわけじゃないですか。
 などという言い訳をして、ナルシスティックかもしれないんだけれどもおほめの言葉をいただいたのをUPしてしまうのでした。

 宮崎さんの岸見講演について言われた論点、「ふだん承認をしていればフィードバックに上下の感覚は入らない」、これはおっしゃる通りだとわたしも思います。わたしの記事ではそこが抜けていました。
 「褒めてほしいから行動する」のではなく「正しいから行動する」。大事なポイントですね。「自律」というとき、ある人が自律的に行動するに至るメカニズムとは何か。要はこういうことなのではないか。と、思ったりします。(これはまだ考え中の段階ですが)

 また、聴衆の方々がクリティカルシンキングが出来ていないようにみえること。ちょうどこのブログでも、某自己啓発本のWEB書店ページにならぶ賞賛のレビューの数々のことを言っていたところです。それはステマかと思っていたのですが、実際にこの講演レポートが紹介されたFBページでも、アドラー心理学への賞賛のコメントばかりが並び、わたしなどは「えっ?」と思いました。そこへわたしが「アドラー心理学を批判していいですか?」と記事引用のお願いのコメントを入れたので、すごい空気読まないことをやっていたわけです。

 皆さん、やっぱりもうちょっとちゃんと考えましょう。皆さんの現場での実感と食い違ったらそう言っていいんですよ。でないと皆さんの大切なお子さんを不幸にしてしまいますよ。
 

 あと、宮崎さんは、「自分の名前を出してもらって構わない」と言われたのですが、岸見氏のようなベストセラー作家を公開で批判するというのは、ほんとうはご自分が今後出版の世界で上手く泳ぐには不利になるかもしれないんです。このところ出版業界さんというのは、言うては悪いですが「石橋を叩いて渡る」、ベストセラー作家頼みの傾向が強まっています。そして売らんかなで「逆張り」をやり、反常識を通り越して非科学トンデモ、のこともお構いなしです。

 でもそういうドン・キホーテ的なことをあえてする人がもう一人いたというのは、ちょっと嬉しいですね。


 ドン・キホーテついでに、本日21時すぎ、わたしがフェイスブックに投稿した文章もご紹介します:

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お友達の皆様ありがとうございます❗昨日21時56分にUPしたこちらの記事(褒めない・叱らないは正しくない!「逆張りロジック」に正しく反論する知性を磨こう―『嫌われる勇気』著者講演会 )が、今まで約1日のうちに学校の先生を含む10人の方にシェアしていただき、654PV、110いいね!と、ささやかな私のブログとしては過去最高の数字となりました。
昨年来、このベストセラー書の影響を受けた方が残念な言動をとられ、職場の雰囲気が悪くなることを垣間見、憂慮してきました。子育てに深刻な影響をもたらすことも予想されました。どんな子育てを選ぶかは、どんな未来を選ぶかにもつながります。
このTLを読まれる方には出版界の方もいらっしゃり、きっとベストセラー書とその著者というのは大事な収入源でいらっしゃると思いますが、それでも食品添加物の問題などと同様、消費者に良質のものを届けることを大事に考えていただきたいのです。未来を担うお子さん方に関することなのです。
目の前で起こっていることについて真摯に考え、態度表明されることを厭わないお友達の皆様に感謝と畏敬の念を持ちます。私にとってまたとないお誕生日プレゼントでした。ありがとうございます❗️これからもよろしくお願いいたします。

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 では、宮崎さんの「乾杯!!」に少し遅れて、わたしもお猪口のワインで乾杯して寝まする。。


正田佐与


<シリーズ・アドラー心理学批判>

●「勇気づけ」についての副作用情報。。(2014年12月)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51903598.html

●褒めない・叱らないは正しくない!「逆張りロジック」に正しく反論する知性を磨こう―『嫌われる勇気』著者講演会 (2015年12月)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51927076.html

●「自己認識には事実のフィードバックが大事」「思考的盲目が心配」―宮崎照行さんのメッセージ(同)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51927143.html

●「子どもさんは大いにほめてください。そして叱ってください」―正田、アドラー心理学セミナーで吠えるの記 (2016年1月)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51933511.html

●「誰もが活躍できる社会」とは「承認社会」―NYさんからのメッセージ (同)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51933591.html

●「勇気を持って指摘されたからこそ、いずれ考えを改める」―永井博之さんからのメール (同)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51933656.html

●『行動承認』Kindle化に向けて(4)メディアの考える怠惰なお客様と「行為者」の乖離、王道とパチモンの「大衆的人気」(2016年5月)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51940842.html

●NHKおはよう日本 アドラー心理学特集を批判する(同)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51940920.html

●NHKおはよう日本 アドラー心理学特集を批判する(2)友人たちの反応 (同)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51940923.html

●『行動承認』Kindle化に向けて(5)行為者の脳発達と細胞レベルの変化の可能性――林田直樹先生との対話より(同)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51940962.html

●アドラー心理学批判 「承認欲求否定」「ほめない叱らない」はどこから来るか―「共同体感覚」との関連において―アドラー『個人心理学講義』をよむ
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51941070.html

●アドラー心理学批判・友人からのお便り「幼稚さ、ナルシシズム亢進、成熟拒否」
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51941137.html

●アドラー心理学批判 「トラウマ否定」「承認欲求否定」起源はみつけたが誤読と捏造だった―『人生の意味の心理学』をよむ
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51941143.html

●アドラー心理学批判 アドラーの罪:発達障害者向けのお説教と批判封じ
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51941204.html

●アドラー心理学批判 まとめ:「承認欲求を否定せよ」「トラウマは存在しない」有害フレーズの捏造と岸見氏の罪
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51941255.html


 きょうは52歳の誕生日。
 先日来、52歳52歳と自称していましたが、誕生日の少し前から自称してしまう癖があるのです。まあこの歳になると変わらないですよね。
 
 親しい友人(女性)からいただいたメールをご紹介します。聡明な、やさしい言葉遣いの方です。

****

正田さま

お誕生日おめでとうございます!
これからもたくさんのしあわせが
正田さまのもとにやってきますように・・・!
゜ヽ(*´∀`)ノ゜♪


その後、お元気でいらっしゃいますか。
財団解散の手続き、大変でいらしただろうと思います。
(略)
本当にお疲れ様でした。

ブログ、毎日拝見させていただいております。
とても濃密で今の私の心にずんと響く大切な内容を、
いつもありがとうございます。

私の職場では、以前お話ししておりました
担当の長時間残業のトンネルは、やっと抜けることができました。
まだまだ新しい仕組みは頼りないところも多く気を抜くことはできませんが、
一番過酷な時期を彼らは乗り越えてくれました。

ともすればじっと見守るしかできない私が、
せめて、と心掛けていたのが、「行動承認」でした。
彼らの頑張りを、きちんと見て、認めて、
それをできるだけ周りにも伝える、
ひたすらそれだけを心掛けてきました。

その結果、ひとりも倒れたりすることなく、投げ出すことなく、
モチベーションを保って、なんとかここまでくることができました。
これからもしっかりひとりひとりをみつめていきたいと思います。

本当にありがとうございました。
ご多忙のことと思いますが、お体には十分お気をつけて。

今日が素敵なお誕生日でありますように。

****

 彼女の職場では、1万人余の組織はじまって以来のシステムを導入し、彼女はそのシステムを司る職場の発足直後から長の立場でした。

 若手担当者の長時間労働、それはWLBにうるさい昨今ではいささか「長」の決断力の要ることでした。その状態がもう2年以上にわたって続いていました。数か月に一度、そんな職場の様子を伺うことができました。

 
 よくこのブログでは「10何年1位マネジャー輩出」というような言い方をしますが、そういうのではない、長期にわたる地道なプロジェクトを1人も欠けず、倒れず完遂する、一番過酷な時期を乗り越える、という達成もあるのです。
 
 責任感の高い細身の彼女の頬に苦悩の色はあるのか?会うたび、毎回わたしにはよくわかりませんでした。ともかく時間のかかることを前提に耐えているようにみえました。

 その中に日々、ひっそりと「行動承認」があったことを、あらためて報告いただくと小さな感動をおぼえるのでした。


正田佐与

 久々に「批判記事」でございます。

 このブログの少し長い読者のかたは、「正田の批判ずき」にもうだいぶ慣れてくださったかと思いますが、中には「たたかう正田は苦手」というかたもいらっしゃるようです。このところのエントリが「愛」づいていて「愛の化身」みたいに振る舞っていたのに(爆)ゴメンナサイ!!そういう方は、この記事はスルーなさってくださいね。

 2015年現時点でいまだに非常に影響力があるとみられる、『嫌われる勇気』の著者、「アドラー心理学」の岸見一郎氏について。
 影響力がどういうところにあるかというと、これからご紹介する講演記事によれば、産業カウンセラーさんらしき人多数が出席されていたということです。

 さあ、産業カウンセラーさんがこういう講演の内容を鵜呑みにしたら、どういうことが起こるんだろうか…。

 講演会に参加された、記事の筆者の田中淳子氏(グローバルナレッジネットワーク株式会社 人材教育コンサルタント&産業カウンセラー)のこころよいご了解に感謝し、引用させていただきます。


(1)『嫌われる勇気』(アドラー心理学)著者・岸見一郎氏の講演会に行ってきた!(2015年11月28日(土))<レポート前編>
http://blogs.itmedia.co.jp/tanakalajunko/2015/12/20151128.html

(2)『嫌われる勇気』(アドラー心理学)著者・岸見一郎氏の講演会に行ってきた!(2015年11月28日(土))<レポート後編>
http://blogs.itmedia.co.jp/tanakalajunko/2015/12/20151128_1.html 

 
 この中にはもちろん一般的で正しいと思える部分も大いにあるのですが、記事を短くしたい都合上、批判点だけを抽出させていただくことになります。全体像をお知りになりたい方は、どうぞ上記の記事のほうをご参照されてください。

 まずは、(1)の記事から。(今回は、正田の批判を青字にさせていただきます)

■「子どもに"反抗期"はないん。反抗させる大人がいるだけ。反抗したくなるような言動をする大人がいるだけ、とアドラー心理学は言っています」

 これ、大真面目に言ってるんでしょうか。産業カウンセラーさんで「おかしい」と思った人はいなかったんでしょうか。
 反抗期はあります。思春期の反抗期では、男女とも性ホルモン値が上昇し、攻撃的になります。大人にやたらとつっかかるのはそのせいです。非行・犯罪リスクも増します。男の子では、テストステロン値はそれまでの14倍にも上昇します。そういう生理学的な知識が少しでもあれば、このフレーズは「間違い」あるいは「冗談」だと思えるはずです。しかし大真面目な言葉として発せられ、聴衆も大真面目に受け取っている感じなんです。



■「叱る、とは、対人関係において、相手を"下"だと思っているからできる行為である。対等だ、同じ価値を持った人だと思って接すればいいだけである。褒めるのでも叱るのでもなく、言葉で説明する。話し合えば1歳の子どもでもわかるものだ」
「叱られた子どもは、大人の顔色を見るようになる。自分で判断するのではなく、叱られないならやる、という風になっていく。」

 これも困ったものですねえ。こういう言辞を鵜呑みにする人が、今度は叱れなくて困るんです。子供さん相手の場合、褒めることも叱ることも必要です。子供は褒められたり叱られたりすることによってその社会の規範を学び、いわば文化を身につけていきます。叱られることなしに自分で頭打ちを経験できるかというと、その状況になっても頭打ちを自覚できないことが多いでしょう。
 例えばの話、自分より弱い子を殴って泣かせた、あるいはひどい言葉で罵って泣かせたとします。相手が反撃する力がない時、どうやって「自分は悪いことをした」と知ることができるでしょう?その場合、身近な大人が本気で叱って、「自分は決定的に悪いことをしたんだ」とわからせなければなりません。
 そうすることが、岸見氏の言うように「顔色を見る」「叱られないならやる」子供を作ってしまうか?
 わたしが3人の子供をみてきた経験では、3人のうち1人は確かにそうなりやすい資質をもった子供だった。それは、彼の担任の先生も同意見でした。「彼は賢いから、こちらの顔色を見ますね」と。その子に関しては残念ながら叱る回数が多くなった。どのみち、叱らなくてはそれぞれの問題行動にストップをかけられませんでしたし、わたしの尊敬するベテラン先生もそこを見切って叱っていました。
 残る2人は、回数としては数少ない「叱られ体験」が自分の規範として残るタイプの子たちでした。いわば、そういう子では、「叱られ体験」がのちのちの自律の材料になっていったのです。要は、子供の資質による、ということです。
  ここは現場の先生方におききしたいところですが、上記のような、「叱っても顔色をうかがって性懲りもなく同じことをやる子」と、「叱られたことで学習して同じことをしなくなる子、自律できるようになる子」とどちらが比率として多いんでしょうか。岸見氏の言い分だと子供は前者の子ばかりだ、というようにきこえますね。

 なお、「褒める」という言葉を使うと、どうしても「君は賢い子だね」という、NG褒め言葉もOK、というニュアンスになってしまうので、それを避けるため、正田は「承認」と言っています。ところが「褒めてはダメ」と言ってしまうと、今度は「君はよく頑張ったね」という望ましい言い方までNG、ということになってしまうので、それはダメでしょう、ということです。




■「では、褒めるのはどうか?褒めるのも対等と思っていたらやらないですよね。褒める行為は、能力のある人が能力のない人に下す評価である。 褒められて喜ぶのは、自分の能力がないと思っている人なのかもしれない」「褒めて欲しいから行動する、というような振る舞いになっていく」

 褒めることの否定。
 確かに、対等な立場での「承認」を重んじる当方の流儀では、「褒める」にたいする評価はやや低くなります。しかし、肯定的評価はだれでも嬉しいものです。それを伝えそこなうよりは、伝えたほうがよっぽどよい。
 いわば、誰かが良いことをしたとき、どう反応してあげるか。
  承認 > 褒める > 何も言わない
という図式が成り立つと思えばいいです。とっさにそんなに選べるわけではないので、言うことに迷ったら、「えらいね」でもいいんです、別に。相手が子供さんなのでしたら。
 「承認」という言葉が何を指すか。これは相手に肯定的なメッセージを送る、意外と幅の大きいパッケージなので、そこには存在承認、行動承認のほか、岸見氏が推奨する「感謝」もその1つに含んでしまっています。褒めるも含んでいまして、別に排除するわけではありません(ちょっと評価は低いですけど)。宣伝になりますが拙著『行動承認』で、受講生様にお配りしている「承認の種類」の表を掲載していますので、よろしければご覧くださいね。


「褒められて喜ぶのは、自分の能力がないと思っている人なのかもしれない」
 語尾を「しれない」で逃げていますけれど、これは褒められて喜ぶ性格のPromotingやFacilitatingの人に対して失礼なんじゃないですか?よくある、「偉い先生は自分のことを研究することが好き」というやつで、岸見先生はご自分が「ツンデレ」なだけじゃないですか?(いや、本当はわたしもそうなんですけど;;)


「褒めて欲しいから行動する、というような振舞いになっていく」
 これも古くから言われてきた「都市伝説」のようなことです。あちこちの立ち回り先でききました。実際にそうなるかどうか、やってみればいいこと。往々にしてやっていない人がこういうことを言うことが多いです。
 正田流では「褒める」でなく「承認」あるいは「行動承認」と言っていますが、それをきちんとやってあげると、ほとんどの子供はより自律的になり、言われなくても良いことをするようになります。それは大人が見ていないときでも、です。例外的に、上の「叱る」の例でみたように、大人の顔色を窺いみていないところでは良いことをしない、というタイプの子が確かにいます。しかし大勢はそうではないのです。というのは、過去に「承認研修」を受講されたマネジャーたちの自宅での子育てについての聞き取りをした結果、そうです。


(2)の記事について。ここでは、講演後の質疑が記録されています。詳細な記録に、田中さん、改めて感謝です。

■(祖父母だが4歳の孫をつい褒めてしまう、という質問に対して)
A1:お孫さんと同居ですか。それはそれは。「孫」「小さい子」と思うと、つい褒めてしまうのですが、「大切な友だち」と思ったらどう言いますかね。そう考えてみてはどうでしょう?何かをしたとき、大切な友だちだったら、「いい子だね」「よくできたね」なんて言わないですよね。たぶん、「ありがとう」と言うんじゃないかと思います。

 4歳のお孫さんは、おじいちゃんおばあちゃんから、「いい子だね」「よくできたね」って言われて嬉しいと思いますよ(なんと、「よくできたね」もダメ扱いなんですか!?)。このブログで11月9日のエントリ(ケア労働、ジェンダー…市民社会の新しい主要モチーフ―社会思想史学会聴講記) にあるように、「私たちは依存関係がデフォルト」なんです。今、ケア社会が現実に目の前にあるとき、それを前提としないと人類はやってられないところに来ているんです。私たちは周囲にどうしようもなく依存していた乳幼児時代を経て、学齢期〜青年期に長い時間をかけて自律を獲得し、そして高齢者になってまた依存的な存在に戻っていくんです。人は生まれながらに自律的だなどと考えるのは、自分が依存的だった時代を忘れてしまった傲慢な人だけですよ。
 少なくとも4歳であれば、おじいちゃんおばあちゃんから言ってもらう「いい子だね」「よくできたね」を栄養にし、材料にして、社会で生きていく規範を獲得していきます。そういう時代はまだまだ続くと思っていいです。大事な栄養を上げてるんですよ。

 
■(職場で相談業務をしているが承認欲求っていけないものなのですか?という問いに)
A2:職場では、上司の顔色をうかがう、誰かの評価を気にしなければ、出世できない、などいろいろあるでしょうけれど、でも、なんでも「その通りです」というものでもないですよね。誰かが言っていることが間違っていると思ったら、「それは違うのではないか」と言う勇気も持たなければならない。
つい「誰がそれを言っているか」を考えてしまいますが、一度でいいから、「誰が言っているか」ではなく、「何がそこで言われているか」に注目してみるといいのです。

 この岸見一郎先生にとっては、「承認欲求」というのは、「顔色をうかがう」とか「なんでもその通りです」というのとイコールなわけですね。変なところと等号で結ばれていますなあ。よく「チャンクが大きい」「小さい」という言い方をこのブログでしますが、概念と概念の位置関係とか「含む、含まれる」の関係を正しく捉えていません。
 「承認」と「承認欲求」の関係は、「栄養」と「食欲」の関係とイコール、と思えばいいのです。身体にとって栄養が必須のものであり、それを取り込んで生存するために食欲があるように、人のこころにとって承認は必須のもので、それを取り込むために承認欲求があるんです。承認欲求があるから、人は少しでも良い仕事をしようと頑張ります。よく「内発」「外発」なんて混乱させるような言い方をしますが、お客様に喜ばれるのも上司に喜ばれるのも、働き手にとっては同じ「承認」なんです。産業カウンセラーさんに「承認欲求はいけない」なんて、間違ったことを教えちゃいけません。
 また、「違うことを『違う』という勇気」も、「承認」によって生まれるんです。わたしは、「承認」がある程度浸透した職場では、今度は「反論しよう」という課題を課します。少々反論したからって相手との人間関係が壊れるわけではない、人格批判をしたことにはならない、という信頼があれば、そこで初めて「反論」ができるようになります。迂遠なようですが、実際に「違うことは違うと言える人」をつくるには、談論風発な職場をつくるには、それが一番現実的な道筋なんです。

 
 「誰が言っているか」ではなく、「何がそこで言われているか」。
 この言葉は、そっくり岸見先生の言葉に当てはまりますね。偉い岸見先生の言うことが正しいわけではない、ということです。むしろ批判的に吟味したほうがいい、ということです。



■アドラーはこうも言っています。
「患者を無責任と依存の地位に置いてはいけない」と。
「無責任」にするというのは、「あなたの症状、病気は、あなたのせいではないよ」と言ってしまうことです。
一方でカウンセラーや友人が「依存」されたら、力になってあげることができません。課題を抱えた自分自身の力でよくなっていかないといけないのです。

 うーん。
 部分的に同意したい部分もないではないが、基本的にそれ、ダメでしょ。
 「責任」の問題。メンタルを病んだ人に、多少そうなりやすい器質的な問題があるかもしれないが、状況的に本人にどうしようもないことがある。職場の上司部下関係では、部下側に出来ることは少ないです。むしろ大うつ病になる人なんかはまじめで責任感が強い人が多いので、「本人の責任問題」なんかを問い詰めたらかえって打ちのめすことになります。そういうのは、アドラーがどう言おうとシカトしていいんじゃないかと思います。
 どうも、色々アドラーの言葉を引用してるのをきいてると、アドラーって今の時代の精神疾患分類とか発達障害のような個体差の問題まで知らないし考えないで言ってる人なんじゃないの?と思います。はい、無視していいです。
 そして「依存」の問題は、1つ前の項目で言っています。私たちはデフォルトで依存しているんです。壮年期の人でも、こころを病めば、すぐ「依存状態」に逆戻りします。友人関係だと背負いきれないからほどほどにお付き合いするのは「あり」だと思いますが、わたしは家族に鬱患者がいましたから、鬱の勢いが強いときは思い切り「依存」させてあげてました。その時期はそうすることが栄養になるからです。その代り、治ってきた段階でわがままが出たら叱り飛ばしてました。
 カウンセラーさんの場合は、約束の日時を守るとかセッション時間の制限を守るという部分での「依存を防ぐ」は必要だと思いますが、セッション内では状況に応じて甘えさせてあげていいと思います。泣きたいクライエントには泣かせてあげる、ぐらいでいいんです。このあとご紹介する別の記事にありますが、親から十分に愛されなかったクライエントが「カウンセラーのカウチの横で子供のように丸くなりたかった」ということを言います。そのぐらいの引き出しを持ってないカウンセラーがするカウンセリングは、拷問です。
 「課題を抱えた人が自分の力で」っていうのは、なんか心が健康な人を前提とした、コーチングのようなセリフだなあ。「病んでる状態」っていうのを本当には想像できてないんと違います?




■(成育歴によって、「存在しているだけで貢献だ」と思えない人には?)
親子関係のあり方によってこれは変わってくるはずです。「生きている」という時間を味わう、そういう体験をしてこなかった人がいたら、つまり、父も母も自分の「仲間」だと思えないような育ち方をしてしまったとしたら、そうだとしても、彼ら・彼女らに「過去がない」と言う風に考えるのではなく、「過去のことを、今、問題にしても仕方がない」と考えたらよいのです。

 これも程度問題ですねえ・・本当に深刻な、例えば虐待を受けて育ったなどのケースを想定できているでしょうか?被虐待児では脳の報酬を感じる部分の働きが弱い、という研究結果が最近出ていましたが…。岸見氏は、さまざまな場合の「ワーストケース」についてあまり想像できていないのではないでしょうか。現代にはその想像力は必要です。
 成育歴が本当に問題になるようなケースの場合、産業カウンセラーの手には余るということでもっとディープな分野のカウンセラーに紹介する、というのが良心的なやり方ではないでしょうか。



■Q6:企業内で看護師をしています。自信過剰で、上司に立ち向かっては叱られている若い人がいます。「自分には能力があるのに、だから、もっと能力にあった仕事をさせてください」という社員がいるのですが。

A6:「優越コンプレックス」と言いまして、現実が伴っていないのに、過剰に自分を誇示する人というのがいます。これは、劣等感の裏返しなんですね。
「支戦場(しせんじょう)」・・・本来の仕事の場で戦わず、上司は部下に理不尽に叱るのも、上司側の「承認欲求」の表われです。上司も劣等感がある。
部下は部下で、そのやり方にのっかって、はむかっていく。こちらも劣等感の表われ。
子どもの例ですけれど、問題行動を起こす子どもというのは、「責めて叱られたい」と思うという屈折した欲求があります。

 また「承認欲求」をわるものにしている。岸見氏はよほど「承認欲求」がお嫌いなんだなあ。
 わたしだったら、このQに対してはもう少し詳しい聴き取りをします。これだけの情報量で即回答することはしません。本人の自己評価は本当に正しいのか。「立ち向かっている」というのはどういう言動か。上司はどんな言葉で叱責しているのか。もし、本人が能力が伴わないのに、身の程知らずに高度な仕事をしたがるのであれば、それを叱ることは上司の承認欲求とはいえません。看護の仕事などでは、安全上の問題でスキル不足の人にはさせられないことがあります。
 この回答が質問者の状況に本当にフィットするものなのかどうか、フィットしてなかった場合、質問者はどんな気持ちを職場に持ち帰るのだろうか、どんな眼でこれからの職場をみるのだろうか。


■Q7:家庭の問題で、問題行動を起こす子ども。どうしたらよい?

A7:「不適切な行動」を無視するのがよくないです。アドラー心理学で言っているのは、「注目しない」であって、「無視する」ではありません。・・・(後略)

 これも上記と同じ。問題行動の種類によるので、そこを聴き取りします。
 行動理論では、軽微な問題行動は無視することを教えます。
 それ以外のところで良い行動を認めてやることで、軽微な問題行動は自然と消失することがあるのです。
 もちろん重篤な問題行動の場合はそれにとどまらないので、とりあえずこの質問が出た段階で聴き取りです。アルゴリズムがあるのです。
 多分アドラー心理学の人は行動理論はお嫌いなんだろうな。



■(大学に10日で通わなくなったお子さんがアスペルガーの症状に当てはまる、という相談について)
A9:まず最初に言えることは、「病名」をすぐつけるのはよしたほうがよいです。それと、アドラーは「原因」を探すのは止めよう」とも言っています。
原因、理由・・・何かあるはずだ!と周囲は考えたくなりますが、理由は後付けになります。

 すいません。わたしなら、そのアスペルガーの線を重視して聴き取りをします。だって、「出現率4%」ですよ。25人に1人は可能性があるわけです。それが、高校までは顕在化しなかったのが大学で顕在化した、大いにあり得ることです。アスペルガーの人は構造化されていない環境が苦手なので、カリキュラムを自分で選んでどの教室に行っても違う人がいて、という環境はストレスになり得るだろうからです。
 もしアスペルガーだと特定できると、恐らくそのほうがそのケースではハッピーになります。若いうちに診断を受けられたほうがいいんです。大学1年なら、就職に備えて社会人になったとき困らないような立居振舞を今からおぼえることもできます。周囲に対して環境調整をお願いすることもできます。障害識をもったほうが幸せなんです。とりわけ、高校までは顕在化しなかったような軽症のアスペルガーのほうが、自覚していないと職場では問題が多いんですよ。
 岸見氏は、要はアスペルガーについて良く知らないだけなんじゃないですか?



 ツッコミもとい批判は以上であります。ああ疲れた。
 しかし改めて、ここまで詳細なメモを残してくださった田中氏に感謝です。講演では岸見氏はささやくような小声で話すということだったので、なおさら。(実はそれをきくと、「岸見氏ってナルシなんじゃないの!?」というツッコミも、わたしの心に湧きます。本記事をシェアしてくださったある学校の先生が言われましたが、褒めるアプローチを否定する人って自分の承認欲求が強い人が多いんですよね)

 1つ1つは些細なことかもしれませんが、聴衆が産業カウンセラーさんだときくと、やっぱりこれは聞き捨てならないなあ、と思います。カウンセラーさんや精神科医さんのところでの「見立て間違い」は、患者さんを一生の不幸につきおとしてしまうことがあります。治るものをダラダラ治さないことがあります。そして鬱は、一度本格的になってしまうと再発も多い、一生ついて回る、自殺もあり得る、怖い病気です。

 正しい(というか普通の)部分も多いとはいえ、1回の講演でこれだけ「明らかな間違い」というところがあったら、クルマならリコール、マンションなら建て替え賠償、のレベルです。最近、知識人のこういう「仕事」に向ける眼が厳しくなったわたしです。

 あえて、厳しいことを言います。
 『嫌われる勇気』を読んだときも思ったことですが、こういう論理構築って、基本的に子供との問題やクライエントとの問題で疲れ果てている人を対象に、あえて「褒めてはいけない、叱ってもいけない」とか「反抗期はない」とか「常識の逆張り」みたいなことを言ってやることで、
「あ、それは私が今やっていることだわ。今までのやり方が間違っていたんだわ」
と、虚をついてこころを思考不能にし、空白をつくり、そこへいい加減な頭の中だけでつくったロジックを畳みかけて注入してるんじゃないでしょうか。悪質な詐欺と同じテクニックなんじゃないでしょうか。


 そして、「承認欲求」というものの日米の扱いの違い。わが国でのような、底意地の悪い使われ方は、アメリカではしません。
 最近見つけた、アメリカの女性臨床心理士によるこんな記事をご紹介します。自己愛の強い母親に育てられた娘の悲劇、という題材です:


「母親が乳児のあらゆる動きや言葉、欲求に応えるとき、そこに信頼と愛情の堅いきずなが結ばれる。子どもは安心して母親に面倒を見てもらい、温かい愛情と承認を受けとる。それが娘に自信をもたらす。

ところが、深い感情をもたない母親は、娘とのあいだにきずなが結べない。母親が子どもに愛情を与えるのは、自分の利益にかなうときだけだ。娘は母親に頼れないことを学ぶ。そして、いつも落ち着かず、見棄てられる不安を感じ、なにかにつけて母親に裏切られるのではないかと思ってしまう。」(太字正田)

「自己愛の強い母親が、ムスメを不幸にする! その「束縛」から逃れる方法放置すると自分の恋愛にまで悪影響が…」(3)

 いかがでしょうか。ここでは、「承認」が「愛」と同等の、「与えられてしかるべきもの」として、いわば「心を潤す栄養」のようなものとして、描写されています。
 これが、「正しい使い方」なんです。

 このところ当ブログでご紹介してきた、フランクフルト学派による「承認論」も、「民族差別」や「フェミニズム」の問題に注目するように、当然与えられて然るべきものが与えられないことについての、弱者の側にたった憤りが出発点にあります。
 「承認」は弱者の側にたつための論理であり、わが国のように弱者を嘲笑することに使われるのは、また「与えない」ことを指南するのは、大きな間違い、恥ずべき間違いなのです。これは、日米欧の「知識人」のレベルの違いなんでしょうか。


 そういうわけでわたしは、岸見氏の講演が全国各地で行われ、患者さんに接する最前線にたつはずの産業カウンセラーの方々がそれを拝聴している、という図を大いに憂えます。

 どうかこれからの講演会では、「それはおかしい」と声を上げる勇気ある人が出てきますように。

 改めて、引用をお許しくださった田中淳子氏、またそもそものきっかけを作ってくださったお友達に感謝し、筆を置きます。



正田佐与
 

<シリーズ・アドラー心理学批判>

●「勇気づけ」についての副作用情報。。(2014年12月)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51903598.html

●褒めない・叱らないは正しくない!「逆張りロジック」に正しく反論する知性を磨こう―『嫌われる勇気』著者講演会 (2015年12月)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51927076.html

●「自己認識には事実のフィードバックが大事」「思考的盲目が心配」―宮崎照行さんのメッセージ(同)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51927143.html

●「子どもさんは大いにほめてください。そして叱ってください」―正田、アドラー心理学セミナーで吠えるの記 (2016年1月)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51933511.html

●「誰もが活躍できる社会」とは「承認社会」―NYさんからのメッセージ (同)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51933591.html

●「勇気を持って指摘されたからこそ、いずれ考えを改める」―永井博之さんからのメール (同)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51933656.html

●『行動承認』Kindle化に向けて(4)メディアの考える怠惰なお客様と「行為者」の乖離、王道とパチモンの「大衆的人気」(2016年5月)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51940842.html

●NHKおはよう日本 アドラー心理学特集を批判する(同)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51940920.html

●NHKおはよう日本 アドラー心理学特集を批判する(2)友人たちの反応 (同)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51940923.html

●『行動承認』Kindle化に向けて(5)行為者の脳発達と細胞レベルの変化の可能性――林田直樹先生との対話より(同)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51940962.html

●アドラー心理学批判 「承認欲求否定」「ほめない叱らない」はどこから来るか―「共同体感覚」との関連において―アドラー『個人心理学講義』をよむ
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51941070.html

●アドラー心理学批判・友人からのお便り「幼稚さ、ナルシシズム亢進、成熟拒否」
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51941137.html

●アドラー心理学批判 「トラウマ否定」「承認欲求否定」起源はみつけたが誤読と捏造だった―『人生の意味の心理学』をよむ
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51941143.html

●アドラー心理学批判 アドラーの罪:発達障害者向けのお説教と批判封じ
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51941204.html

●アドラー心理学批判 まとめ:「承認欲求を否定せよ」「トラウマは存在しない」有害フレーズの捏造と岸見氏の罪
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51941255.html

 藤野寛教授(一橋大学大学院言語社会研究科)の「ホネット承認論」についての講義原稿 第三弾です。


****


「ホネット承認論」講義(9)                                       30.11.2015
                                     
Axel Honneth: Kampf um Anerkennung, S. 212‐234、256‐287.

【1‐1】 ホネットは、その承認論を、自己自身との関係の毀損の問題として(も)論じている。他者との(承認)関係が失調することは、自己自身との関係の毀損ということと切り離せない。その意味で、「自己自身との関係」論でもあり、キルケゴール『死に至る病』に直接する。ただし、『死に至る病』における「自己自身との関係」の分析よりも、さらに具体的であり、より細やかだ。自己自身との関係の失調は、つまり、自己自身を信頼できない、尊重できない、(正当に)評価できない、という風な異なる現れ方をするのだ。(「自信の喪失」という問題は、第三の承認の毀損の問題として解釈できる。つまり、(自己自身に対する)不当な過小評価だ。劣等感という問題も、ここに関わる。)

【1‐2】 キルケゴールは、父から「お前は罪深い人間だ」という言葉を間断なく聞かされて育ったに違いない。しかし、「罪深い」というこの抽象的な言葉は、どのような経験的裏づけを見出したのだろうか。「そうだ、確かに自分は罪深い」ということを、キルケゴール少年は、どのようにして確認していったのか。
「自分はダメだ」と感じるということは、われわれの生において頻繁に起こることだ。しかし、それは、なすべきことができなかったりする自分の「弱さ」の確認なのではないか。意志が弱いとか、能力に欠けるとか。あるいは、してはいけないとわかっていることをしてしまう「悪い」自分の確認。しかし、「罪深い」という確認は、そのいずれとも異なるだろう。弱い自分でも、悪い自分でもなく、罪深い自分。『死に至る病』に従えば、神の観念が抱かれている、ということが、絶望の強度を罪へと高める。だからこそ、神に逆らう、という事態が起こりうるのであり、それが罪なのだ。

【1‐3】 自分を(他者を)信頼することだって、自分を(他者を)尊重することだって、自分を(他者を)評価することだって、(人間関係の中で)社会的に、骨を折り折り学習されていくしかないことなのだ。
そして、自己実現ということだって、個人が一人孤独に自己自身との関係の中に引きこもって成し遂げられる何ごとかなのではない。これもまた、社会的(評価)承認の網の目の中で行われる。

【1‐4】 「認める」という行為を、ホネットは三通りに言い換えている、と考えることが可能だろう。信頼する、尊重する、評価する、という風に。(Selbstvertrauen, Selbstachtung, Selbstschatzung をあえて訳そうとするなら、自信、自尊、自負ぐらいか。ただし、「自信」という日本語はむしろ第三の承認に深く関わり、「信頼」という意味は後景に退くように感じられる。あるいは、「自己自身との肯定的な関係」を全体としてカヴァーする言葉だ、と見るべきか。)
そして、それらの承認は、相互に(双方向的に)起こることだ、というのである。(評価については、一方通行にも感じられるが、評価される側でも、評価する側に評価能力を認めていなければ、評価という行為は成り立たない。評価基準は共有されているのであり、その意味では、一方通行ではない。だからこそ、ホネットは、この社会的(業績)評価という行為を、「連帯」の語で理解しようともするのでもあろう。)
その際、相手へのコミットメントの度合としては、愛における信頼が最も高い(深い)と見てよいだろう。尊重という行為には、どこか、「手出ししない」という、否定的(消極的)な語感がつきまとう ― あなたの権利は尊重します、あなたの自由は尊重します、という言い回しにおいて感じ取られうるように。(その点で、尊重は、寛容に近づく。)それに対して、性愛においては、われわれは、自分のもっとも弱い部分、傷つけられやすい部分までも相手にさらす、あるいは開くのだし、相手のもっとも弱い部分にまで踏み込むのだ。それは、相手への深い信頼なしには成り立たない出来事だ。逆に、強姦というような経験によって、女性は、他者(男性)に対して信頼して心と体をゆだねることができなくなるだけでなく、自分自身の身体への信頼をもまた失い、安心してそれが感じるに任せることもできなくなるのだという。(快原理のみで性愛を説明しようとするならば、それは生物学主義的に一面的だ、と言わざるをえない。)
だからこそ、われわれは ― すべての人を人として尊重しなければならないし、また、そうすることができるのに対して ― すべての人を愛することができないのでもある。稀有のことだとは思うが、一人の人しか愛さない、一人の人にしか愛されたくない、ということが起こりうるのだ。

【1‐5】 他者を信頼し、他者から信頼される経験を通してこそ、人は、自らを信頼することができるようになる。他者を尊重し、他者から尊重される経験を通してこそ、人は、自らを尊重することができるようになる。他者を(公正に)評価し、他者から(公正に)評価される経験を通してこそ、人は、自らを(公正に)評価することができるようになる。
自分を公正に評価する、というのは至難の業だ。自己を知る、とは、自己の事実(昨夜どんな夢を見たか、とか、とか、マスターベーションの際に何を想像したか、とか)を知っている、ということだけでなく、自己を評価できる、ということをも含むだろう。前者はともかくとして、後者は、一人でできるようになることではないだろう。他者に評価され、他者を評価するという経験の積み重ねをも必要とするだろう。それなしの自己評価は、概して、過大評価になったり、過小評価になったりせずにはすまないのではないか。

【1‐6】 自己実現なんて、どうでもよい、とカントやハーバーマスが言っているのではない。とても大切な話題(課題)ではあるのだが、倫理学が引き受けるべきテーマではない、と彼らは考えるのだろう。公正な社会の実現、ということに、課題を限定しようとするわけだ。
 もちろん、ホネットも、自己実現に、内容的に口出ししようとするのではない ― 自己実現の可能性の条件(文法、と呼んでもよいか)を確定することを、課題とみなすのだ。そして、その作業を、承認に注目することで、やろうとする。社会的(業績)評価、人権尊重、愛、この三種類の承認が、歪められることなくフェアに実践される可能条件が整っているとき、ようやく、自己実現も可能になる、とそう考えるのだ。

【2】 「承認依存」ということを、鬼の首を取りでもしたかのように叱りつける人々がいる。それに対してホネットは、「人間は、本質構成的に、他者による承認の経験に依存している」(220,224)とさらっと言ってのける。もちろん、そう言うホネットの方が優しい。
もっとも、そこから、人間に本質構成的に伴う「依存」と、病理的「依存」を区別する、という課題が出てこずにはすむまい。
それは、ホネットが、他方で、「自律」の理念を手放さない、という事実とも関わっている。人間は、自律と依存の間できわどくバランスを取りながら生きているときにこそ、もっとも人間的なのだ、と言うべきなのかもしれない。(依存を叱りつける人に対しては、スーパーマンのように自律している(と思い込んでいる)人こそ、病理的なのだ、切り返せばよいだろう。)

【3】 「コミュニケーションとは承認をめぐる闘争だ」と言ってしまった手前、コミュニケーションとは何か、という問いを避けて通ることはできない。それは複数の主体が合意形成をめざしてなす間主体的な実践、という風に描き出せるものか、そうではなくて、「承認をめぐる闘争」なのではないか ― そうホネットは問題提起しているわけだ。コミュニケーションに臨む態度としては、前者こそ、正しい態度なのであって、後者はあるべき姿からの逸脱だと、そう言えるか。そうではなく、人間として生きることとは、闘いの中に身を投じることだ、などと言ってしまうと、それは野蛮なヒロイズムか。なにしろ、闘いは必ず敗者を生むのであり、そうでない闘いなんて八百長なのだから。そうではなく、人生とは(他者と)つながろうとするいじらしい努力こそ、それなのか。
後者の答えは、やはり、人生を一面化していると思う。それも、ロマン主義的に。その際、「人生=つながりの追及」という解釈に強力な支持を与える経験が、「愛」であるわけだが、まさにそうであるからこそ、ホネットは、愛の経験をすら、いやそれをこそ、「闘争(承認をめぐる)」と特徴づけるのだ。愛の伝道者には、お引き取り願おう。愛するとは、認められよう(愛されよう)とするいじらしい悪戦苦闘なのであって、それがかなわない苦しみは「片思い」と呼ばれる。(この文脈で、コミュニケーションの理論家であるルーマンが愛について何を語っているかという問いには、とても興味をそそられる。)

【4】 承認の三つのタイプのうち、資本主義ということに最も深く関わるのが業績評価であることは、一目瞭然だろう。資本主義社会では、フェアな業績評価が、なぜ構造的に歪められ、妨げられてしまうのか ― これは大問題だ。
 それに対して、「愛」という承認は、近代化において一定の解放をみた、と言えるだろう。イエとイエの契約としての結婚から、個人と個人の恋愛へ。しかし、そこでも、現代の資本主義は、核家族・専業主婦という関係を行き渡らせることで、承認を歪める力を行使しているのだ。
その点、人権の尊重は、近代社会と最も親和的だ。近代の理念は、この型の承認とは問題なく両立するだろう。


****

 今回も沢山の「論点」が出てきました。
 以下、思いついた順にわたしの感想を…。

【1-5、1-6】 「自己実現」の用語がもう一度出てきました。
 この語についてWikiを参照すると、
 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%87%AA%E5%B7%B1%E5%AE%9F%E7%8F%BE
「もともとは心理学の用語で、ユダヤ系のゲシュタルト心理学者で脳病理学者でもあったクルト・ゴルトシュタイン (Kurt Goldstein) が初めて使った言葉。(略)ゴルトシュタインがナチの迫害を逃れてアメリカへ渡った後、「彼の教え子の一人カール・ロジャーズが、これを、人が自己の内に潜在している可能性を最大限に開発し実現して生きることとして概念化し、これをもとに「健全な人間は、人生に究極の目標を定め、その実現のために努力する存在である」としたことで、この言葉が世に知られるようになった。」(太字正田)
 とあります。ゴルトシュタイン―ロジャーズのリレーで形成されたそうです。その後マズロー先生が使用されたそうです。ふーん。
 この文章に限っていうと、「健全な人間は、人生に究極の目標を定め」ってそんな高級な人はどれほどいるんでしょうね?やっぱり先生方、自分自身のことを言ってないでしょうか。いやこれは藤野教授のことじゃなくゴルトシュタイン、ロジャーズ、マズロー先生のことですけど。あたしが低レベルすぎるんですか。
 そこまでは言わなくて、「成長する喜びを知覚しながら仕事をする幸福感」というのなら、「あり」だと思うんです。「脳は貪欲なまでに成長を求める臓器」といいますから。そこでは、上司やお客様、周囲の人の反応がやはり自己の成長の指標となります。

【1-6】自己実現は、倫理学が引き受けるべきテーマではないとカントやハーバーマスは考えた。彼らは、公正な社会の実現、ということに、課題を限定しようとした。
 いいんじゃないですかね。わたしは心理学(自己啓発セミナー関係を含む)の世界の、セミナー行って自我がブワーッと膨れあがったようになった異様な人をここ10数年、見続けてきました。一度そのような人工的なナルシシズムのような状態になった人にたいする解毒剤はないのです。往々にして富裕層がそういうセミナー行くんですけどね。だから自己実現なんて、煽らんでよろし。「公正な社会」のほうがはるかにすきです。
 

【3】コミュニケーションが合意形成をめざしてなす間主体的な実践なのか、それとも承認をめぐる闘争なのか。あとのほうだと考えると、TVの討論番組などをみている時におもしろいです(あんまり見ませんが)

 しかしこのブログで2010-11年に取り上げたU理論のように、延々と対話をすることによって合意形成をしましょう、という一派の人がいらっしゃり(ハーバーマスはそれの親玉のようだ)、「闘争」と言い切ってしまうと身も蓋もないではないか、という反論もあり得るでしょう。
 そこは、ホネットとハーバーマス不一致点なんでしょうか。


【1-4】認めることの定義の1つとしての「愛」。
 確かに藤野原稿の中にもあるように、性愛は、「認めて欲しい」という感情のもっとも強烈なものだ、と思います。はい。
 たぶんそれがそこまで強烈なのは、種の保存の必要上そういうふうに本能がプログラミングされてるんだと思うんですけどね。性的マイノリティの方々つっこまないでくださいね。近年ではスマホやゲーム、ITのツールのほうがそれを上回るドーパミンを分泌させてくれるので、困っていますね。
 ただやっぱり「愛」ってそれ以外のものもあるでしょう、と妙にそこに拘ってしまうわたしです。
 例えば現役マネジャーから、「部下をあえて『叱る』とき、そこに『愛』がなかったら、やれないですよね」という言葉が出るとき、それを否定できないわけです。
 でやはり、マネジメントの世界では、ひょっとしたらホネットも想定しなかったような、家族よりはやや薄い「親密圏」が「承認」によってつくられるのであり、それは外集団と比べれば依怙贔屓と言えるかもしれない。よその部署の部下はうちの部下ほど可愛くない、なんてことは普通にあるかもしれない。ただ「内集団」の中では公正さを重んじないと運営できないでしょう。それを欠くと深刻なダメージが起きる、これは一度経験してみると身に沁みてわかることだろうと思います。
 
【3】「『愛の伝道者』には、お引き取り願おう」だって。えーんえーん。


 わたしが「愛」にこだわるもう1つの理由として、今日フェイスブックでみたアインシュタインの「愛」に関する言葉があります。
 アインシュタインが娘に宛てた1400通の手紙のうちの1通が「愛」に関するものだそうです。
 http://ameblo.jp/deguchng/entry-12100122049.html
 (出口弘オフィシャルブログ 2015年11月27日)

 ここでアインシュタインは上記のブログからの孫引きで恐縮ですが、

 「愛」のもつチカラを述べるとともに、

 「恐らく私たちにはまだ、この惑星を荒廃させる憎しみと身勝手さと貪欲を完全に破壊できる強力な装置、愛の爆弾を作る準備はできていない。」


 この言葉、21世紀を生きるわたしたちはちょっとロマンを感じませんか?


正田佐与
 

お世話になっている皆様


 おはようございます。
 正田です。
 
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 本日の話題は:

■師走に考える「労働と管理と愛」の話

■読書日記『発達障害の謎を解く』
 ―「自閉症スペクトラム4%時代」には、何をすべきなのか―

■「ホネット承認論」藤野寛教授より講義原稿をいただきました
 
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■師走に考える「労働と管理と愛」の話

いよいよ今年もあと1か月となりました。皆様、いかがお過ごしですか。
 先月の勤労感謝の日、わたくし正田のブログにこんな記事をアップしたところ、思いがけず大きな反響がありました:
 
◆マネジメントに「愛」を入れることは適切か?
 http://c-c-a.blog.jp/archives/51926558.html 

 フェイスブックで多くの方から賛同いただき「シェア」していただいたほか、1人の読者の方から心のこもったメールをいただきました。それに対するご返信でもう一歩踏み込んだ表現をしました:

◆「愛の技術」「愛を力に変換すること」―技術屋からY子さんへのメール
 http://c-c-a.blog.jp/archives/51926881.html 

 これらのタイトルだけ見ると突拍子もないことを言っているように見えるかもしれません。しかし、過去に「承認マネジメント教育」を受け、一定期間以上継続して実践されているお客様、受講生様方は、恐らくごく自然に受け取っていただけると思うのです。「承認」が行き渡った職場は、独特の「親密圏」となります。
 それが依怙贔屓の温床にならないのか?と言えば、もしそれがあれば依怙贔屓の対象にならなかった人への「承認欠如」となる、ということを意識づけすることでカバーできるでしょう。「承認」は「愛」であると同時に「公正さ」を実践者に繰り返しリマインドするものでもあります。
 またその「親密圏」は、従業員個々が職場とは別に家庭を営むことと容易に両立し、むしろそれが前提となるのでワークライフバランス的にも上手くいく例が多いです。
 マネジメント教育の世界であまりこうしたことを提唱する先例がないので、また既存の理論とも矛盾を来すようなのでちょっと「冒険」ではあるのですが、過去のマネジャー教育での経験に照らして真実だと言えることは言っていきたいと思います。
 DVや児童虐待、家庭内の悲劇の激増する時代に―。

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■読書日記『発達障害の謎を解く』
 ―「自閉症スペクトラム4%時代」には、何をすべきなのか―

 久々に「発達障害」についての読書日記です。
 従来、自閉症スペクトラム障害(ASD)の出現率は1〜2%という数字が報告されていました。
 これと、注意欠陥障害(ADHD)の報告されている出現率4〜5%と合計すると5〜7%となりますが、実感値としては職場の働く人のほぼ1割に発達障害かそれに近い、指導やマネジメントする上で特別な配慮の必要な人がいる、ということをお伝えしてきました。
 本書では、個別地域での詳細な調査から「ASDの発生率4%」という最新の数字を紹介しています。この数字に専門家の間でも「実感値に近い」という声があるそうです。
 そうした時代にわたしたちは何をすべきなのでしょうか。

◆自閉症スペクトラム4%時代到来。多様性の理解は進むのか―『発達障害の謎を解く』を読む
 http://c-c-a.blog.jp/archives/51926078.html 

 なお昨年来、発達障害の当事者の方やそのご家族の方から丁寧なメール、メッセージをいただき、「当事者でないのにこんなにこの問題を深く探求している」と、このブログを高く評価してくださいました。

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■「ホネット承認論」藤野寛教授より講義原稿をいただきました

 一橋大学大学院言語社会研究科の藤野寛教授(現代ドイツ思想)より、「ホネット承認論」に関する同大学での講義原稿をいただきました。
 アクセル・ホネット(69)は、同じフランクフルト学派のハーバーマスとともに、現代を代表する思想家といってもよいでしょう。
 ISが猖獗を極める現代、それらの思想はどんな意味をもってくるでしょうか。原稿のご提供に感謝して、ご紹介したいと思います。
(なお所々読者のわたしの変なツッコミが入っているのはご愛敬です^^)

◆ISとテロの時代に求められる「承認」、批判的社会理論と改良理論―一橋大学・藤野寛教授講義原稿(1)
 http://c-c-a.blog.jp/archives/51926445.html◆基本的人権、コミュニケーションと「承認をめぐる闘争」―一橋大学・藤野寛教授講義原稿(2)
 http://c-c-a.blog.jp/archives/51926626.html 

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ブログ「コーチ・正田の 愛するこの世界」
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近著『行動承認―組織の能力を最大化する「認める力」』
http://www.amazon.co.jp/gp/product/4434198572 


*…*…*…*…*…*…*…*…*…*…*…*…*…*


 今年、このブログに2回登場された「Y子さん」(仮名)から、また丁寧なメールをいただき、それへのわたしのご返信を紹介します。

 Y子さんの登場記事


「研修営業」をしないわけ、ブログ発・幸せな発達障害部下? (9月8日)
 http://c-c-a.blog.jp/archives/51922006.html

働くことの重さと貴さ、幸せ連鎖の頂点、そして自信のない正田(9月18日)
 http://c-c-a.blog.jp/archives/51922570.html


 Y子さんが、メールの中で

「マネジメントに愛のブログ、心に響きました。
承認は愛の技術だなあと、つくづく感じております。」

と書かれていたことを受けてのものです。


****

____さま

メールありがとうございます。正田です。
札幌は40cmの雪ですか。__さん、お元気でお過ごしですか?

私は今は財団の解散登記の雑用などをしていて、
こうした作業は少し気がふさぎます。

(中略)

ブログ読んでいただきありがとうございます。
__さんはじめ、今年は研修業の方の中から
行動承認を良いと言ってくださる聡明な方が登場されました。

そしてドイツ思想がかなり入ったので
研修業としては、道なき道だなあと思っていたところ
思いがけず、多くの方から支持していただきほっとしています。
メジャーなブログに比べるとささやかなものですが―。

「マネジメントに愛」は、
これも研究者の方からは賛同を得られないので
現場の方々からのご支持を頼みにしてすすむしかないことだと思います。
「愛の技術」と言っていただいてありがとうございます。
思うのですが、「愛」とか「やさしさ」と言えば、
広く賛同は得られるのですが現実の力にはなりにくい。
本気で現実を変えようと思ったら「力」に変換する必要があり、
そのとき「承認」はその受け皿になりうる概念なのだと思います。

財団は解散しましたが、
いつか、本当に良いと思って下さる専門職の方が集まって
何らかの形にできる日がくるかもしれませんね。

先般お会いしたヘーゲル研究の札幌大学の高田純教授は、気さくな良い方でした。
__さんもしご興味があれば、コンタクトとられてみてください。


それでは
いつかお会いできることを楽しみに。


****


 ここでは、「マネジメントに愛」と考えていることに加え、過去のY子さんとのやりとりならびにブログ記事に出ていたのでメールでわざわざ触れなかったのですが

「社会に愛を伝播させるには、マネジメントに働きかけることがもっとも効果が高い」

と考えていることも、付け加えないといけないかもしれません。


 そういうのは経営者さん方は本来預かり知らないことで、そんなのは国とか自治体がやってくれよ、と思っているかもしれませんが。
 でも結果的には、そうなるんです。

 (これも研究者さん方に理解していただいたり裏づけていただくのは難しいことなので、ただ「実感」として、現実に起きていることを丁寧にご紹介しながらすすむしかないことなのでしょう。)


 ささやかな身ではありますがそれほどの大きなものに関われる人生であることに感謝していたいと思います。

 こういう感覚をともにできる友人とつながっていられることにも。





※なお、研究者さん方が「マネジメントに愛」という考えへの抵抗が強いのは、自身が大学教員であり講義対象が大学生さんである、という制約が大きく影響していると考えたほうがいいかもしれません。
 わたしでも、仮に今から社会に出ていく大学生さんに向けて、
「マネジャーに承認教育を施すことによって愛のあるマネジメントとなり、成員のパフォーマンスが上がり組織のアウトプットが上がる」
てなことを講義できるか、というと、いささかためらいをおぼえます。
 大学生さん〜若手社会人は、それに関して「受益者」の立場であります。「実践者」ではありません。
 マネジメントにそういうものを期待して、虫の良い考えで社会に出ていったら、不幸になるのは目に見えています。

 しかし「承認教育で強烈な業績向上が起きる」という現実は、10数年前から厳然としてあるわけです。
 大学や研究機関は、それを証明するにふさわしい機関では恐らくないということです。

 そしてまた、目を転じれば、わが国には「会社は家、従業員は家族」という言い方はもともとあり、もちろんそれは「家父長制」「私物化」などとも繋がりやすいものではありますが、「家族愛」に近い感情的距離の近さは現場では普通にあったわけです。ただの家族愛ではなくそこに「公正さ」を持ち込んで、かるく修正を加える、という効用も「承認」にはあります。


※なお繰り返しになりますが正田も、あからさまに「マネジメントに愛を」という教育をしているわけではありません。「行動承認」というごく簡単な行動をマネジャーの皆さんにやっていただき、それが結果的にほぼ「愛」と同じ効用―オキシトシン値の上昇とか信頼感のアップとか規範の取り込みや行動量創意工夫の増加とか―をもつことを実際に体験してもらう、ということをやっているだけです。



****

 フェイスブックで新しくお友達申請いただいた方(複数)から丁寧なメッセージをいただき、このブログの「発達障害」関連の記事を読まれ「当事者でないのにここまで深く探求している」ことに感銘を受けたことが述べられていました。
 いや正田も限りなく怪しい、「半当事者」のようなものだと自分で思っていますが(苦笑)

 大手メディアが「触らぬ神に祟りなし」と避けているぶん、いまだに「知っている人だけが知っている」話題です。(研修でご紹介すると「初めてきいた」というリアクションがかなりあります。)でも日本はそんなことをやっているから発達障害への学校・職場の対応が先進国の中でも遅れるのです。

 このブログの発達障害関連の記事の中には、個別には、ちょっとキャッチ―なものもあるのですが、そこだけを見ずに全体を真摯なものとして受け止めていただいたことに感謝でした。


正田佐与



 藤野寛教授(一橋大学大学院言語社会研究科)より、「ホネット承認論」についての新しい講義原稿をいただきました。
 昨23日、祝日にも関わらず授業があったとか。ご苦労様です。


 講義原稿は、出版された本に比べると完成度の低い粗削りなものかもしれません。しかしカント・ヘーゲルの時代の哲学者というのは1日5〜6時間講義をしていて、思想の大半は講義の中にあって、出版されたものはそのほんの一部だったそうです。

 というわけで「承認論」の「いま」を映す貴重な資料として、このたびも掲載させていただきます(引用を太字表示):


「ホネット承認論」講義(8)                                     23.11.2015

Axel Honneth: Kampf um Anerkennung, S. 173 – 210.

今回のテーマは、承認の第二のタイプ「人権尊重」と、第三のタイプ「社会的業績評価」である。

【1】 基本的人権とは、どういうことか。それは、どの程度、「基本的」なのか。たとえば、江戸時代の日本には、「切り捨て御免」などという言葉があった。武士が百姓を切り捨てても(殺しても)、罪を免じられたのだ。これでは、平等もへったくれもない。「殺されてはならない」とする権利は、間違いなく基本的人権だ。しかし、そこからさらに「政治参加の権利」 ― これまた「基本的権利」だろう ― までは、なお道遥かだ。

 ホネットは言う、「個人が、理性的洞察に基づいて自律的に行為することを可能にするもろもろの特性には、(そうこうするうちに)今や、最低限の文化的陶冶と経済的安定ということが付け加わったのである」(190)。人を人として認める、ということには、人にこの最低限を保証するということが含まれる。それなしには、「人を人として認める」と言ったって、それは「絵に画いた餅」にとどまるのである。「人を人として認める」ことの実質化、と言ってもよい。だから、ホネットの承認論には、再分配問題は、もちろん、含まれているのである。
 人を人として認める、という場合、その形式を整えるだけではダメなのであって、そこに実質を伴わせなければならない。法の整備で一件落着、ではないのである。

近代になりさえすれば、人権尊重をめぐる「闘争」は終結した、ということではない。誰を人として認めるか、をめぐる闘争は継続されたのであり、今も継続中である。「近代」について語るとき、まるで「士農工商」が一夜にして「四民平等」に変わったかのように考えるのは、安易だ。確かに、「平等」は、近代の原理ではある。しかし、原理に過ぎないのではあって、一夜にしてすべての人が人として認められるように変わったわけではない。平等への歩みは、ものすごく「徐々に」進んだものであったに違いない。それは、選挙権を考えるだけでも、明らかだ。最初は、多くの税金を払うほんの一部の男にしか、選挙権は認められなかった。近代が16世紀に始まった、と言われることと、女性に参政権が認められるには20世紀を待たねばならなかった、という事実の間には、大きな隔たりが口を開いている。それに加えて、人を人として認める、という場合には、生物学的にヒト科に属していさえすれば、誰もが「人格」として認められるのか、という問いも、絡んでくるわけだ。

人を人として認めることは、厄介な問題をはらむ。殺人ということとも関わってくる。人間がどういうあり方をしているとき、その人間の命を奪うことは殺人になり、殺人にならないのか。この問題を論じる際に投入される概念が「人格」だ。(人格という言葉は、物 ― 物格だ ― との違いを際立たせるために用いられる。)具体的には、胎児の命を奪うこと、妊娠中絶は、いつから殺人になるのか、という問いとして、現れる。逆に言うと、胎児はいつから人になるのか、という問いだ。
これは、どこかに正解のある問いではあるまい。社会的に合意形成がなされる問いだろう。(これは、自然科学の問いではない、と言ってもよい。)人を人として認める、とはどういうことか、ということに関する合意が社会的に形成されるのだ。そして、これに関する見解は時代によって変化する。(ライヒ・ラニツキが紹介するエピソードからわかることは、かつて、ユダヤ人は人間と動物の間に位置づけられていた、ということだ。ユダヤ人は、十全には人間として認められていなかった、平等な人間とは認められていなかった、ということだ。この第二のタイプの承認は、平等の理念と深く関わっている、ということだ。)

人を人として認める、という問題は、差別の問題と密接に関わっている。というのも、とりあえず、人と認めるが、しかし、一級市民、二級市民という差はつける、ということはあるからだ。そもそも、人として認めない、というのは、とても極端な例だ。胎児や重度障害者を人として認めないというのは、それらの存在を殺すことを正当化するための論理だ。しかし、そこまで極端でなくても、人を二級市民としてしか認めない、ということは、ごく日常的になされている。そして、それは、第三の型の承認とも地続きである。例えば、私が職業(身分)とか明かさずに人前に立てば、ただの「冴えないオヤジ」だが、職業を明かすと途端に、微妙にではあるけれども、相手の態度が変わる、ということはある。そして、それと同じ経験を、18〜22歳の日本の若者は、大学名を明かすことで普段に繰り返しているのに違いない。この事情を、日本語では、「勝ち組」「負け組」という言葉で表現する。私は、自分が大学受験における勝ち組に属することで傲慢になることだけはなんとしても避けたいと念じて生きてきたが、しかし、その事実が私に精神的安定をもたらしてくれてきたことは、否めない。その点では、私は、お気楽に生きられたのだ。
日本は、入学した大学が何大学であるかということが、社会的評価基準としてとてつもなく大きな意味を持つ、いびつな社会だ。(日本は、学歴社会というよりは、大学名社会なのだ。)なぜ、いびつか。所詮、18歳時点での一事実にすぎないものが、それ以降の人生にわたってまるで挽回することがもはや不可能に感じられるほどに、決定的な意味合いを持つからだ。
それは、18歳までの勝負が不当に重い意味を持つ、ということであり ― だから、日本の子供は不幸だ、と言ってよい ― 逆に言うと、18歳以降、とりわけ、18−22歳の時間が、ほとんど勝負の時間にならない、ということでもある。モラトリアム、とはそういうことだ。本当は、18−22歳の4年間というのは ― 就活だけでなく ― とても重要な勝負所ではないのか。

「社会的価値評価」というのは、社会的に、時代的に相対的な事柄だ。評価基準は、時と所で異なり、変化する。(だからこそ、「イデオロギーとしての承認」という問題が、ここに露わになってくるのだ。)
「(入学した)大学名重視」社会ということも、一つの例だが(高田珠樹論文、参照)、もう一つ、具体例が考えられる。かつて、私は、時代が進歩すれば、外見(美醜)ということは重要性を減じていくだろう、と予想していたのだが、現実は、逆に進んでいる。むしろ、物質的に豊かな社会になればなるほど、外見、装飾の意味は大きくなる。心をみがくことは容易でないが、体をみがくことならすぐにできる、お金さえあれば、とでも言わんばかりだ。
かつて、われわれは、能力主義社会というものを批判しようとしたのだった。今は、この言葉はほぼ死語と化しているのではないか。それほどにも、能力主義は当たり前のこととして受け入れられてしまっているのであり、問題の焦点は、どのような能力が伸ばされるべきか、という、能力主義内部での差異化に移ってしまっている。われわれは、能力主義に変わる代案を提出することに失敗してきたのだ、と言わねばならない。

【2】 承認、という理念と、現代が個人主義の時代である、という事実は、どう両立するのか、という問いが立つだろう。というのも、承認という行為は、他者の存在を前提とする(必要とする)のであって、少なくとも(承認する人、される人という)二人の人間が価値観を共有していなければ承認は成り立たないからだ。そして、現実には、承認とは、やはり、広く社会的に承認される、ということであるので、そこでは、広く社会的に価値観が共有されているということが前提されているのだ。(ホネットが、社会的評価という第三のタイプの承認を、「連帯」という言葉でも捉えようとするのは、つまりは、「価値観の社会的共有」というこの側面に注目するからだろう。)
さて、しかし、現代は、個人主義の時代である。一人ひとりの人間が自己実現をめざすわけだが、そこで実現されること、達成されること ―実現されるべき自己 ― は、常に、社会によって、人々によって、他者によって評価・承認されねばならないのだろうか。誇張して言えば、反社会的行為によって自己実現する、ということだって、十分ありうるのではないのか。その際、反社会的行為といっても、必ずしも、犯罪行為であるとは限らない。社会によって共有される価値観をはみ出したり、超え出たりするような行為という意味で、反社会的行為ということが、十分に考えられるはずなのだ。
つまり、社会への貢献、ということでないと社会的には評価されないわけだが、しかし、今現に存在する社会に貢献することなどまっぴら御免、ということでありながら、しかし、意味ある行為、というものはあるはずではないか。
誰からも認められない自己実現、それは苦しいものだろう。ニーチェ、ゴッホ、、、そういう例は、私が知らないだけで、歴史には無数に存在するに違いない。
承認論に、(私も含め)多くの人が抱く Unbehagen(違和感、居心地悪さ)というのは、この点に関わってのことであり、つまりは、第三の型の承認に関わってのことであり、そこに体制への迎合の気配、現存する社会の価値観へのすり寄りの気配が嗅ぎつけられるからなのだろう。

問題は、人間が社会的存在である、とはどういうことか、という点にある。一人では、個人ではサバイバルできないから、他者との協力関係に入らざるをえない、ということが、人間の社会性ということの意味なのか。
社会理論を労働に注目して推し進める、とは、つまりは、協働と分業に注目して社会理論を展開する、ということだ。(ホルクハイマーが「哲学は社会哲学であらねばならない」と主張したときに考えていたことは、経験の可能性の条件を問う「超越論的」というカテゴリーを「社会的」と読み替える、という提案であったわけだが、これは、「言語」の問題とも関わるとても大きな構想だった。)けれども、上に「協力関係に入らざるをえない」とも書いたように、この意味での社会性というのは、否定的な色調を帯びずにはすまないものだ。できることなら、そうせずにすましたいものだが、という気味を伴う。個人の自由をこそ第一の価値とみなす個人主義者・自由主義者にとっては、社会性というのは、できれば「なしですましたいもの」、最小限化したい性質だろう。ということは、労働に定位する社会哲学は、ある意味で、社会性を否定する社会哲学になりかねない、ということであり、戦後のホルクハイマーにはその傾向が顕著なのだ。
そこにハ−バーマスが現れて、修正をはかる。社会性を、相互行為、コミュニケーション行為に定位して解釈しようとするのだ。(社会性、ということのメディアは、やはり、コミュニケーションなのではないか。経済のメディアがお金であり、政治のメディアが権力であるのに対して。その点では、ハーバーマスもルーマンも、そしてホネットも見解を一にしているのではないか。)
コミュニケーションというのは、肯定的な響きを持つ言葉だ。労働とは違って、「嫌々そうする」という風には考えにくい。(ただし、労働だって、本当は、価値の生産・創造という意味で、肯定的な実践であったはずなのだが。現実には、嫌々なされていることが多いとしても。)だから、コミュニケーションに定位する社会哲学には、どうしても「肯定」的な気配が漂う。そこには、闘争という含意は弱い。だからこそ、ホネットは、人間が社会的存在である、とは、承認をめぐって闘う存在であることに他ならない、という点を強調し、そこから社会理論を展開しようとするのである。(でも、考えてみればコミュニケーションだって、「承認をめぐる闘争」ではあるわけだ。ホネットは、コミュニケーションが「承認をめぐる闘争」に他ならないことを明らかにしているのだ、とも言えるだろう。)



 いかがでしょうか。

 第2パラグラフは、「承認」に以下のような切り口があることを想像させます。

1)法的承認(基本的人権)
2)経済的承認(再分配)
3)精神的承認―正田が研修でやっているのは主にこれです

―ホネットとナンシー・フレイザーの論争本のタイトルにもなっている「承認か再分配か?」というフレーズは、「3)か2)か?」と言っているわけで、ほんとはナンセンスなのです。―

 ここでは、「自己実現」という語も出てきますが、「自己実現」ってそもそもどういうことを意味するのでしょうか…これまでの講義の中にあったでしょうか…この問題は、マズロー先生も全然当てにならない。よくいうように、「自己実現」を称揚するマズローの代表的著作『人間性の心理学』で例示するのはリンカーンとかエジソンとか、特殊な人たちだから。ここで言っているのはちょっと違うニュアンスのようです。どなたが最初に言った言葉なんでしょ。

 ハーバーマスの位置づけも出てきますが、スケールの大きい思惟ですがやはり技術屋にはあんまり縁のない人かな…。(いやいや、もっとちゃんと読みなさい。)ホネットとハーバーマスは、双子のようにお互いの言ったことはほぼ是認しあっていて、それを踏まえて重ならない分野を論じているようにみえます。

 最後の一文、

コミュニケーションが「承認をめぐる闘争」に他ならない

 このフレーズは秀逸ですね。(ほんとにホネット自身にこういうフレーズがあるんですか?)

 ここで言う「コミュニケーション」は宣伝広告活動とか、政府広報とか、もそうでしょうし、何かを言うこと書くこと描くことSNSで発信すること、すべてが入るでしょう。
 たとえば格差問題や、社会的弱者の人が声を上げる行為もそうです。

 少し極端な例で言えば、確かにわたしがよく出会う「マシンガンスピーカー」の方々は、「オレを認めろ!」という強い承認欲求に動機づけられているようにみえます。そんなに闘わないでくれよー。またネットのどこかのスレで「ああ言えばこう言う」の下らない揚げ足取り議論をしている人も、高齢者でさえも、強い承認欲求の塊のようにみえますよ。(あ、承認欲求の悪口言っちゃった。^^;)



 藤野先生、このたびもありがとうございました!

尚東京方面の読者の方に朗報です!
朝日カルチャーセンター新宿教室で来年1-3月、藤野教授による講座「キルケゴールからホネットへー自己自身との関係と他者による承認」(3回)が開講します。
詳細は
https://www.asahiculture.jp/shinjuku/course/8cb98e00-f391-698b-1d36-562e1257ad9f
にて。


正田佐与


 気がつくと今日は勤労感謝の日。
 読者の皆様、いい骨休めをされていますか。

 正田は先週末、お客様にお電話したところ色々収穫がありました。今年前半に「承認研修」を受けてくださったお客様3社。

 3社様とも、「フォローアップお願いします」というお話になり日程やプログラムのお話をさせていただきました。このブログやメルマガはこのところ「思想」づいていますが、それはマイナス点にならなかったよう。

 このほか、研修後の受講生様方と組織のご様子を伺うことができました。

「人に任せるという点で難のあったリーダーが、今は任せることができ、上手く組織が回っている」
というお客様。
 
「新装オープンのお店が大賑わいのほか、新しく人が3人入った」
というお客様。このお客様のところでは人材の供給源である専門学校と上手く連携ができ、専門学校からは「あそこに行った子は学校時代よりもいい顔で働いている」と評価されているそうです。

 またもう一社様では、
「概ね良好なのだがスタッフの妊娠が続けて3人わかり、人繰りでバタバタしている」。

 それは大変…。
 前にも触れたと思いますが以前から、「承認」のお客様のもとでは社員さんの結婚、出産、といったイベントは多いです。それがもとで優秀な女性スタッフが残念ながら「寿退社」という事態になることも、珍しくありませんでした。

 (そこは辞めずに残ってくれよ、と思いますが、もちろん慰留はしているわけですが、女性の「責任感が高い」という資質は、「両立はムリ」「中途半端はイヤ」という決断にもつながってしまいやすいようです。男性の育児参加が望まれるところです)


 まあ、「承認」の定義の1つの大きな要素として「愛」が入っているので、そういう現象も今はわからなくないのです。職場が愛や信頼という気恥しくなるようなものに満ちたところであると、プライベートで異性(同性?)を愛したりパートナーを愛したり、ということにも自然とつながります。映画「マイ・インターン」にもそれを匂わせるシーンがありました。

 先日の藤野教授との対話の中で、

「これまでは研修の仕事の中で『愛』という言葉を表立って使ったことがないんです」

「それは使わないほうがいいでしょう」

という話になったのですが、
 一方でこのブログのタイトルは10年前から「愛するこの世界」です。何を企んでいるかバレバレ、であります。

 たしか10年前、突然「降りてきた」ように、このタイトルが頭に浮かんだのです。大丈夫かなあたし、と思いながら、それまでのタイトルから変更してしまいました。

 (一方で最近、気がつかれたかもしれませんが、「コーチ」の単語をとり「正田佐与の愛するこの世界」としました。) 


 先日は、加東市商工会様での3回研修の中で、1回目に「承認の定義」を掲げたときにはまだ、「愛」を含む「ホネット承認論」を入れてませんでした。
 そこに触れずにマネジャーたちに「承認」を実践してもらい、3回目になってから「ホネット承認論」の講義を入れました。


 経営者様方、社員様が「人を愛する主体」であったほうがいいですか、ないほうがいいですか。

 ホネットや藤野教授は、家族以外のところに「愛」を適用するのに反対の立場です。
 しかし、わたしが思うにここが学者さんと企業のマネジャーの立場の違いで、部門を束ねるマネジャーは研究の世界よりはるかに部下との「一体感」が必要になります。疑似家族のような磁場をつくります。

 そこに「濃淡」が出ないように、また「不適切な関係」にならないように、クギをささないといけませんね。藤野教授ともそういう話になったのでした。

 録音起こししなくちゃ・・・。




正田佐与

 このところ嬉しいお出会いが続きやりとりをさせていただいています。


1)ヘーゲル研究書の『承認と自由』の著者である札幌大学の高田純(まこと)教授(西洋哲学、環境倫理学、教育哲学)からいただいたメールへの正田からのご返信。

高田先生、思いがけず、ご丁寧な温かいメールを頂戴し、感激しております。社会思想史学会でお出会いさせていただいただけの素人学習者に嬉しいお言葉を有難うございます。

私は今年に入ってヘーゲルを起源とする思想としての「承認」を理解したいと学びはじめ、
幸いにも先生の御本『承認と自由』に出会わせていただきました。
ヘーゲルの年譜とともに思想の変遷、発展がわかり、大変助けになる本でした。
高田先生が徹底した原典の読み込みとヘーゲルの懐に入った理解に基づいて初学者への親切なガイダンスを書かれたことも、素人には伝わってくる御本でした。

(ご献本させていただいた)拙著は昨年時点のものなので、まだヘーゲルの学びは入っておりません。
それでも、無意識のうちに、先達の方々の「承認」に込めた思いを汲み取ってすすんで来させていただいたのではないかとひそかに自負しております。
私の段階での課題は、どうやってこの大きな思想を、特別哲学倫理学の素養があるわけではない企業のマネジャーたちに、無理なく実践レベルで共有してもらえるか?にあります。
「行動承認」は、その試行錯誤の中で生まれてきたものです。

先生が見事に看破されたように、「行動」を承認するということは相手の意志、気持ち、アイデア、意見等を承認するということとイコールです。実践の中では自然にそのようにつながってまいります。また、ホネットが危惧したような、「属性の承認」によって差別を固定化させるというような負の現象も、「行動承認」ですと無理なく回避することができます。
多分これは思想のスケールの大きさに比べれば現場での「小技」のようなものなのですが。


―高田教授は、北海道哲学学会会長を務めるなど斯界の重鎮のお1人です。風貌や空気感は、それこそ「市井の素朴な哲学者」というもの。痩身で、ひょうひょうとした雰囲気の方です。


2)1つ前の記事にある、講義原稿を送ってくださった一橋大学の藤野寛教授に宛てたメール。

大変お世話になっております。
正田です。
藤野先生、あれから、録音起こしがなかなか進まず
先生に申し訳ない気持ちでおりましたところ、
メール有難うございます。救われた気分です。
講義原稿、拝見させていただきました。貴重なものを有難うございます。
こういう風に先生は講義原稿をお作りになるんですね…。
(大学の先生の講義録も、初めて拝見しました。)

終わりまで読ませていただきましたら、
経営学の中の承認法という現世の垢にまみれたものを、

「誤れる全体」の内部での部分的改良(修正)のための実践は、それそれで是とされるべきなのではないか。

このように位置づけてくださったようで、
とても光栄です。

先生の講義原稿の中にもありましたように、
ハーバーマスについては、私もいささか不満に思うところがあります。
「コミュニケイション行為」「討議倫理」をいくら読んでも
(まだまだ浅い読解とは思いますが)
私どもが現場でジタバタしているような、
「こうすれば問題が起きなくなる(最小にできる)」
という、ああでもないこうでもないという思考と重なってこないので、
歯がゆいのです。
そんなに現実問題の解決と遠いところに身を置いていていいのか?
と思います。
それに比べると、ホネットのほうがもう少し現実界に近く、
親近感が持てるように思います。
(子供レベルの感想と聞き流してくださいね。)


「承認依存」にまつわる議論についても、
今まだこの件についてギャーギャー言っているのが
ほとんど私一人(ともうお一人)のようなものなので、
こうして位置づけていただけることを心から有難く思います。



それに対して、1と2は、概して、近代の理論がないがしろにしてきた論点ではある。そういうものが、一挙に畳み込まれ(叩き込まれ)ているのが、承認論だ、ということになる。

 ここもなるほど!と思いました。
 そうです、「愛」が位置づけられていないのです、というのは、経営学全体もそうですし、最近も某有名大学の「フィードバック研究会」において、私は出席していませんでしたがそこで取り上げられた論文を紹介されたところによると、「フィードバックによって人は改善される、あるいは場合によってされない」の議論の中に「愛着関係」の要素が全然入ってこなかったので、こういうことをわざわざ取り上げる必要があると思う研究者さんがいないんだな、と思っていたところです。
 藤野先生の言葉でこのように概観していただくと、腑に落ちますね。なぜ「承認論」を私も10年も取り組んでこれたかわかる気がします。


 実際の講義にはこの原稿にもっと枝葉がついていたのでしょうか。聴講できた方々が羨ましいです。

 手前味噌ですがわたくしのしている「行動承認」は、「承認論」に心理学の「行動理論」をドッキングした改良品のようなものです。単純なものなので世界には同じようなことを考えた方がいるのではないかと思います。この方法だと「属性の承認」が差別につながるというような、予想される弊害をほぼ回避でき、非常に安定して実践してもらうことができます。
 ホネット自身がそこまで考えなかったというのはちょっと意外な気すらしますが、そこまで懇切丁寧に現実にコミットする必要はない、と考えていたのでしょうか。


批判的社会理論は、改良理論でもあってもよいのではないか。

 このフレーズもいいですね。ホネット自身が何と言うか、きいてみたい気もします。



 藤野教授のお会いしてみた人となりというのは、文章から想像する雰囲気よりは「かたい」感じ。批判、懐疑、など人を寄せつけない感情の働きを外側に感じさせるけれども懐に入ると温かい感じ。そしてそもそものお出会いがジェンダー論のリレー講義の論考集であったように、女性に対して特別馬鹿丁寧ではないけれども配慮があり、一切の「不敬」が入りこまない方であります。



 拙著『行動承認』は、あまりやたらと色々な先にご献本していません。内容が愛する教え子さんたちの汗と努力の結晶なので、「実践」「成果」の価値のわからないタイプの人に手渡したくないのです。

 「承認研究」の先生方には、わかっていただけたみたいです。

  たぶんわたしの「承認研修プログラム」も影響し影響されることによって、少しずつ変わっていきます。


 きのうで、一般財団法人承認マネジメント協会は解散しました。
 今日からは個人ということになります。


正田佐与

 一橋大学の藤野寛教授(現代ドイツ思想)より、今年度開講している「ホネット承認論」の講義原稿をいただきました。今週月曜(11月16日)の講義で使用されたものです。

 大学の先生の講義原稿というもの不肖正田はみさせていただくのは初めてです。
 同教授によると、

「私は書くことが好きで、
 また、書きながらでないと考えられない、
 ということもあり、
 講義では、常に、長短いろいろですが
 原稿を用意して、それにコメントしながら話す、
 というスタイルを採っています。」

とのことでした。なので実際の講義はこれにもう少し枝葉をつけた形で行われるようです。

 ISの台頭など今まさに激動する世界を視野に入れた「新・ホネット承認論」であり、また一部は
「正田さんと成田さん(先日の社会思想史学会での発表者)からの刺激に対するリアクション」(藤野教授)
と言われるように、当方が経営学・マネジメントの分野でしている”技術屋仕事”についても触れてくださっているくだりもあります。光栄なことであります。
 本当は全文こちらでご紹介したかったのですが、同教授が固辞されたので、全文ではなく例によって「大幅引用」の形でご紹介させていただきます。
 今回の原稿は全体が3つのパートに分かれていまして、パートごとにご紹介していきたいと思います。

※なおこの記事では、引用部分を太字で表示します


「ホネット承認論」講義(7)                               16.11.2015

《承認論の中間整理》
 なぜ、今、承認か。この問いへの答えは、Ch.テイラーが与えてくれている、と考えるのがわかりやすい。つまり、集合的属性の承認ということが、まさに、この「国境を越える移動(空間的にも、情報的にも)の時代」に、とても重要になってきている、ということと密接に関連している。
(イスラム国に、ヨーロッパで生まれ育った若者が大量に馳せ参じている、という現実は、再分配の問題としては説明できまい。彼(女)ら自身は、結構、学歴もあり、豊かな生活を送ろうと思えば送れる人たちなのではないか。そうではなく、自分たちがふさわしい承認を受けていない、ふさわしい処遇を受けていないという、屈辱の思いこそが、彼(女)らをイスラム国へと追いやっているのではないか。)
 そこには、「個人主義と普遍主義がセットになった尊重(というカント的な承認)」では、人々の承認欲求が満たされない、という事情があるのではないか。
 もし、カントの原理が、近代の原理である、と言えるならそこでは、「ポスト近代(モダン)」とでも呼ぶべき状況が出来していることになる。近代の原理(個人主義と普遍主義の合金)が批判にさらされているのである。
ちなみに、この問題は、アイデンティティをめぐる問題として考えることも可能だ。というのも、近代の個人は、普遍的な一つの価値の体現者として、安定したアイデンティティを享受できていたからだ。もちろん、社会の中に個人は常に複数いるわけだが、一人ひとりの個人は、その個性には目をつぶる仕方で、一個の個として尊重される。個性を重視することは、差別にならずにはすまないのだが、そのことはごまかされえたのである。ところが、それとは違って、特殊という属性に注目し始めると、それは必ず複数存在するので、分裂が生じずにはすまなくなる。中世において共同体に属することは、一つの安定したアイデンティティの確保を意味したわけだが、現代においては、それはアイデンティティの分裂を意味することになる。複数性の出現だ。
個人の尊重、だけではなく、集合的属性の承認を ― これが、新たな状況を一言で言い表わすキャッチフレーズだ。
 そこから振り返って考えるに、これまでだって、「2.普遍的人権の尊重」は謳われていたわけだし(模範的には、カントの尊重の倫理)、「3.フェアな業績評価」も、それこそ資本主義の中核をなす原理だ。(家柄の否定、男女差別の否定 etc.)
だから、テイラーがあぶりだした承認には、2と3の承認だけでは、問題は片づかない、ということを明らかにした点にこそ、貢献があるわけだ。さらにそこから、特殊性の意義を取り出し(共同体主義)、普遍主義を相対化することを通して、1の承認、つまり、愛ということをも承認の問題として捉えることを可能にした。これは、普遍的承認の対極にあるものだ。しかし、家族論を考えればすぐわかるように、共同性という集合的属性の承認と、それは地続きになっている。そう考えると、承認のタイプは、三つではなく、四つに分類することこそ正しいのではないか、という気がしてくる。
1.愛
2.集合的属性の承認
3.人権尊重
4.業績評価
だ。1と2は地続きではあるのだが、しかし、フェミニズムや「聾文化宣言」をいきなり愛の問題と等置するのは、やはり強引すぎると言うべきだろう。
この内、3と4は、近代や資本主義とも相性が良い、と言える。特に、4がそうだ。経営学の内部でも、これまで、承認についてはいろいろ語られてきたようだ(マズローとか)。承認論の(左翼にとっての)胡散臭さというのは、とりわけこの点に関わってのことなのだ。
それに対して、1と2は、概して、近代の理論がないがしろにしてきた論点ではある。そういうものが、一挙に畳み込まれ(叩き込まれ)ているのが、承認論だ、ということになる。


―イスラム国(IS)への先進国の若者の流入。それは恐らく先進諸国での「承認欠如」の問題なのだろう。それはこのブログの読者の方なら、既にご想像いただいていたことと思います。「承認欠如」は再分配すなわち経済格差の問題でもありますし、藤野教授が言われるような精神面における問題でもあります。

―最近お話したある聡明な女性の友人は、「女性同士では、最近よく、『やさしさが足りないのよね』という話になる」ということでした。これを男性語に翻訳すれば、「承認欠如」「承認の不在」ということになるのでしょう。
 いずれにせよ、今この状況を軍事力以外でどうにかできる思想は、「承認」以外にはないのです。

―「承認欠如」は、多くの場合「屈辱の経験」となります。それは、激しい悪感情の源となります。いま世界を覆う悪感情を拭い去るのは、生易しいことではありません。しかし、こうしてメカニズムを特定する地道な作業がそれに通じる道なのです。


―ここでは、承認の定義の再整理が出てきます。
 新しく出てきた「2.集合的属性の承認」これは、カナダ・ケベック州の独立問題を通じて明らかになった「多文化主義(マルチカルチュラリズム) 」という承認の一側面の応用といえます。テイラーはマルチカルチュラリズムの論客でした。それは民族的アイデンティティにとどまらず、性別、障害の有無、などすべてにわたって、「差別される側」から「(集合として)尊重される存在」への引き上げという作業になります。
 わたしなどはすぐ、性差別を「個人尊重」と「業績評価」の理念で解決しようとしますがそうでもない。女性という性そのものへの尊重が必要だ、ということですね。
 
―こうした再定義の作業が繰り返し必要になる、というのは、例えば企業様の問題解決においても、「人」の問題の多くは「承認」の問題なのですが、承認のどの定義を適用するかはその場によって違い、例えば2.+3.の組み合わせであったり3.+4.の組み合わせであったりするからです。


それに対して、1と2は、概して、近代の理論がないがしろにしてきた論点ではある。そういうものが、一挙に畳み込まれ(叩き込まれ)ているのが、承認論だ、ということになる。

―この概観。
 「愛」と「集合的属性の承認」という論点が、カント以降の近代にはなかった。たしかに「承認論」では、「愛」という気恥しくなるものが堂々と組み込まれています。「そういうものが、一挙に畳み込まれ(叩き込まれ)ている」というフレーズに、「承認論」のもつ、軍事力に比肩しえるほどの巨大な能力が表現されています(実際にわたしが現場で体験してきたように)。だからこそ、わたしも10年もこればかりやってこれたのだと思います。



《差別されるとは、どういう経験か》
 「スクール・カースト」などで問題になっているのは、カテゴリー化と序列化だ。カテゴリー化であるかぎりで、それは差別である。引き出しに入れること、分類すること。例えば、男と女に。これは広い意味での差別であって(差異化と言った方がよいのかもしれない)、社会の病理とみなされる狭い意味での「差別」とは区別して考えるべきだろう。人種差別、男女差別(性差別)、障害者差別、部落差別、、、 これら狭い意味での差別について考えたい。
 一つには、それらが、集合的属性に関わるものであるからだ。(序列化は、個人に対しても行われうる。)
個人を差別する、ということはそもそもあるのだろうか。この言い方は適切ではないのではないか。それは、集合的属性が差別されているのであるが、その集合的属性を備える(帰せられる)個人の身の上でそれが起こる、ということなのではないか。個人が備える集合的属性のゆえに差別されるのだ。ユダヤ人を差別する、外国人を差別する、女性を差別する、障害者を差別する、部落民を差別する、、、、 それは具体的には、生の一定の領域からの締め出し、とか、権利の剥奪とかいう形をとるだろう。ただし、それは、懲罰としての排除や権利剥奪とは異なり、人間としての価値の低い評価、を伴うものなのだ。だから、「反差別」というのであれば、人間としての価値の貶め徒言うことを、集合単位でも、個人単位でも、絶対にしない、ということでなければなるまい。「人間としての価値の評価」という点がポイントであって、そこれを拒むことは、集合単位でも、個人単位でも、あってはならない。それに対して、能力や業績については negative な評価ということは、なされるし、なされねばならないのだ。さもないと、フェアな評価、とは言えなくなる。
 承認が価値評価であるということこそ、決定的なのだ。そうであるからこそ、人は傷つく。それに対して、ハーバーマスのいうコミュニケーションの歪み、というのは、否定性の経験ではあるのだが、それほどには深くヒトを傷つけないのではないか。人を深く傷つけるということがないと、人々にとって、それと闘うという動機づけになりにくい。参政権だけではダメだろうし、家事分担だけでもダメだろう。屈辱の経験として、弱くないか。
 女性の価値が容貌、外見においてしか評価されない、というのでは、人間としての価値が認められている、とは言い難いだろう。つまり、その場合は、人間としての価値の承認が、言うなれば第三の承認にすりかえられているのだ。能力や業績の評価である。その際、容貌・外見は能力ではないし、業績でもない。個人の努力によって伸ばせるものではないのだから。(女性に対する、美しさを「磨く」ことへの社会的圧力には、とてつもないものがあるだろう。)
 人間として認められる、とは、個人として認められる、ということと、集合的属性のゆえに認められる、ということの、その両方が含まれていなければならないのだ。
 ハーバーマスのコミュニケーション行為の理論では、あるレベルまでしか、差別と闘う理論となりえない、と言わねばならないのではないか。個人を普遍的価値の担い手として承認することは求めるので、コミュニケーションからの締め出しには断固として闘うが、集合的属性の肯定的評価(という承認)を求めるところにまでは行かないのではないか。差をつけない、という承認だけでは十分ではない。特殊な属性の肯定的評価が求められているのであって、否定的価値評価をやめるだけでは、十分ではない。
 ハーバーマスがやっているのは、結局、民主主義の理論化、ということなのではないか。「人(他者)を軽んじる」という経験は、それではカヴァーできないのではないか。「差別してはいけない」ということが、同等の権利を言うだけでは実現されないように。そのことを、ユダヤ人は肌身にしみて感じていたのではないか。




―承認は反差別の理念でもあります。そのことは以前にもこのブログで言いましたね。
 だからでしょうか、承認研究の世界の先生方はわたしのような人間にもオープンマインドでいらっしゃると思います。
 「みくださない」。ここを強調するのは大事なことです。
 以前、姫路で儒教の学びに凝っていたわたしは、「承認」は「仁(おもいやり)」と「敬」「礼」の合体したものだ、てなことを言いました。仁Compassionだけでは充分ではない、オキシトシンの作用だけでは充分ではないのと一緒で。なぜなら「思いやり」は往々にして、「かわいそう(同情)」というような、「上から下」に流れる感情となるからです。そのままでは対等、尊重、にならないのです。
 「敬」の状態を維持するのは努力が要ります。理性の作業です。「みくださない」というもう一歩踏み込んだ言葉で意識するのも必要なことです。

―ここで藤野教授はハーバーマスに言及されています。もともとあまりハーバーマスお好きではない由。なんでもフランクフルト大学では哲学科でサッカーをする、そのときカントチームとヘーゲルチームに分かれる、ハーバーマスはカント派だとのこと。(ホネットはもちろんヘーゲル派)
 わたしも実は、今はまだ「ハーバーマス本」を収集して拾い読みしている段階ですが、どうも技術屋のわたしに必要なことが書いてある本ではないのではないかという予感があります。まあそれはこれからです。



《ホネットの承認論は批判的社会理論である、ということ》
ホネットは、承認の拒絶という現象に注目することで、社会を批判するのだから、当然のことながら、承認は ― 正当な承認は ― なされるべきこと、と考えられている。
ところが、「承認依存」ということを批判する人々は、まるで「承認欲求」それ自体を「弱さ」ででもあるかのように論じる。もちろん、病理的な承認欲求というものはあるだろう。しかし、承認欲求そのものは、社会的存在としての人間にあって当然の何ものか、と受け止められるべきではないか。「依存」ということからして、ただちに「弱さ」として叱りつけるのではなく、社会的存在としての人間に本性的についてまわる属性と見なされるべきだろう。社会的存在としての人間に、承認欲求は抱かれて当然である。
ただ、その病理的な現れということはあるので、適切な承認、あるべき承認と、そうでない承認とを区別する基準が提示され、根拠づけられねばならない、ということはあるわけだ。そこから、承認論は、正しい承認のノウハウの教えみたいな性格をも帯びることになる。 しかし、そのことは、アドルノのトータルな否定主義(「全体は非真である」「誤れる全体の中で正しい人生はありえない」)を理論上の欠陥と捉えるホネットとしては、甘受するしかない傾向ではあるわけだ。
例えば、経営学において、上司が部下を正しく承認するための指針、みたいなものとして承認論が使われるとしても、それは避け難く、また間違ったこととも言えまい。
 トータルな否定か、改良主義(修正主義)か、という二者択一を採用しないのであれば、「誤れる全体」の内部での部分的改良(修正)のための実践は、それそれで是とされるべきなのではないか。批判的社会理論は、改良理論でもあってもよいのではないか。



―へへへ。
 ここでは、「承認依存」の議論(=「承認欲求バッシング」とそれへの批判)への言及と「経営学における承認」への言及、2つの点で言及していただいてしまいました。
 「承認依存」の議論は、目下のところこの問題でギャーギャー言っているのがわたしともうお一人ぐらいしかいらっしゃらないので、(もうお一人はわたしほど血の気多くギャーギャー言ってないと思う;;)
 非常にタイムリーに、取り上げていただいたと思います。これも、講義対象が大学生さんであり、今どきのネットスラング、罵倒語としての「承認欲求」に触れている可能性も高いことを考えると、押さえていただくのは大事なことなのではないかと思いました。

―アドルノのトータルな否定主義。どうも、「資本主義は全体として間違っているから、その中でちょっといいことがあって喜ぶのは本当の喜びとは言えない」というようなことをアドルノは言っているらしいのです。このひととはお友達になれないかもわたし(苦笑) ホネットはそれを理論上の欠陥と捉えているのだそうで、ああ良かった。

―でも、例えば拙著『行動承認』にみるような、企業の中での「承認」で人々が躍動するさまが現実にあるとき、どう位置づけるか。「それは避け難く、また間違ったこととも言えまい」と、講義原稿では位置づけてくださっています。てへへ。
 
「誤れる全体」の内部での部分的改良(修正)のための実践は、それそれで是とされるべきなのではないか。批判的社会理論は、改良理論でもあってもよいのではないか。


―このくだりは、ホネット自身はどう思うか、きいてみたいものですね。



 講義原稿のご紹介は以上であります。あれ、藤野先生、結局全文紹介しちゃいました。(^o^)

 
 藤野教授の『アドルノ/ホルクハイマーの問題圏(コンテクスト)―同一性批判の哲学』(2000年、勁草書房)には、「哲学することへの反省」という章があります。

 何をしていれば、私たちは哲学していると言えるのか。西洋の難解な哲学書を読み、解釈していれば哲学していると言えるのか。

「(とりわけ日本では)西洋哲学の、とりわけその最新の産物を材料にして、人々が学習能力の高さと知識量を競い合っているというのが、もっとも目につく光景ではないか。輸入業務と解釈業務に没頭する日本の哲学の世界のこの状況は、シュネーデルバッハにしたがえば、一つの病いであると言わねばならないだろう。この病いは、自らが病んでいる事実への自覚の欠如をその症状の一つとする。」


 いやーすばらしい。「輸入業務と解釈業務に没頭する」、正田も以前経営学についてこれと同じようなことを言いました。うちの近所の国立大学法人にもその路線でそこそこ有名な方がいらっしゃいます。

 目線を低く、素朴な疑問に立ち返り、正直に投げ出すのが藤野教授の持ち味であるように思います。

 「いや、私は自分がわかったと言えることしか書きませんから」先日のインタビューの中で、藤野教授はそんな風に言われています。正田が哲学書とその翻訳の文章の難解さを嘆き、「それに比べて藤野先生はわからせよう、という書き方をされていますね」と水を向けたときです。


「(ドイツ語の文献を読めない私ですが)こうして藤野先生というフィルターを通して見させていただくことは
日本に住んでいてならではの体験と思います。」

 このたびの講義原稿を送っていただいたお礼のメールにそんなことを書きました。


 藤野教授は今後の講義原稿も送っていただけるそうですので、またその都度ご紹介させていただこうと思います。どうぞお楽しみに。


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 最近、フェイスブックでぽろっと口をついで出たこと。

「私には夢というものはない。ただ作り続ける。サグラダ・ファミリアのように」。

 たぶん、「承認論」という巨大なサグラダ・ファミリアを今まさに世界各国で作り続けている人びとがいるのです。




正田佐与


 

 
 
 


 薄気味の悪いこと。
 このブログで今秋以来3回ほど登場した某「自己啓発本」。用語用法のいい加減さ、論理の雑さが目に余り、各分野の専門の人が見たら失笑するレベル。この本のAmazonページのレビュー欄が紛糾している。
 低評価レビューが、コメント欄で執拗な攻撃に遭っている。Dgというハンドルネームの人物から、繰り返し「ああ言えばこう言う」式の揚げ足取りのコメントが入る。

 ―どのぐらい「ああ言えばこう言う」なのか、ご興味のある方は、たとえばこちらのAmazonページをご覧ください

 http://www.amazon.co.jp/product-reviews/4906790208/ref=cm_cr_pr_btm_link_1?ie=UTF8&showViewpoints=1&sortBy=bySubmissionDateDescending&pageNumber=1

 ある低評価レビュー(私が書いたのではないが、非常に妥当な常識的なレビュー)には総数41件ものコメントがついた。あるときひと晩に、Dg氏より3回もの揚げ足取りコメントが入っている。レビュワーも猛烈に応酬している。

 別の★1つのレビュー(これも、私が書いたのではないが「知ったかぶりはやめてほしい」というごく常識的な内容のレビュー)は、Dg氏からの執拗なコメント攻撃に根負けしてレビューを取り下げてしまった。★1つのレビューが1つ消えると、レビュー平均点としてはかなり向上したことであろう。

 私の書いたレビュー(友人が代理投稿)にも同じDg氏からの攻撃が来たので、こう反駁しておいた。

著者様ですか、ご苦労様です。この誤謬、破綻だらけの本をそこまでマジに擁護できるのは本人しかいないでしょうね。
私は他に関心事が沢山あるので正直言ってその後本書を読み返しておりません。いずれにしても、「組織論」と大見得を切った割には、言いたいことは(というか、知っていることは)「最適サイズ=150人」ということだけなわけでしょ?そういうのは組織論と呼べません。「組織論のごくわずかな一部」なのであって、普通の含羞を持った人は、そこまで部分的なものは組織論というチャンクの大きな言葉で代替できないとわかるものです。本書をリコールして、「組織論」の単語をすべて「組織論のごく一部」と変換したものと交換すべきでしょう。一般社会人はそういう厳密さで仕事をするんです。あなたのような言葉の使い方を若手社会人がしたら、上司に即叱りとばされますよ。あなたも社会人の基本からやり直したらどうですか。


 ―ちょっとおもしろかったでしょうか。どれぐらいレベルの低い議論をしていたか、わかります?

 
 おもしろいことにこの本についている全15件のレビューは大半が内容をよく読んだとも思えない礼賛一色のものなのだが、それに対する「参考になった」の評がきわめて低く、ある★5つのレビューには、「5人中1人が「参考になった」と投票しています」とある。つまり5人中4人はこのレビューに「参考にならなかった」に票を投じているのである。


 この著者のAmazonレビューのからくりはそういうことなのだ。低評価をつけると執拗にコメントで攻撃し、取り下げさせる。結果、著者本人か編集者あたりが書いた嘘くさい5つ星か4つ星のレビューであふれかえる。本自体の本来の価値とはかけ離れたバブル評価になる。

(もし、この状況に義憤を感じた方がいらっしゃったら、低評価レビューを書くと延々と絡まれて職業生活にも影響をきたしかねないので、高評価レビューに「参考にならなかった」票を投じて意思表示されるのがいいと思う。それらがハリボテですよ、と示すために。言論の自由からいうとおかしなことだが、そうなのだ)

 
 昨年、「哲人」が延々と説教するスタイルの「自己啓発本」がベストセラーになり、私などはその内容をみて目が点になったものだが、二匹目のドジョウを狙ってか、この手の「自己啓発本」は多い。誰も知らないような哲学者心理学者の名前や用語を出して大風呂敷を広げ、けむに巻き、著者自身も信じていないような屁理屈をこねる。ちょっと社会を知った大人がみると噴飯ものだ。そんなもので社会は回ってない、とすぐ断じることができるのだが、社会に出る前の若者にはそれはわからない。知名度の高い著者のほうが正しいことを言っているとやすやすと信じ込む。

 昔から若者は情報に振り回されやすい、と言われてきたが、今どきのスマホ育ちで実体験の極めて少ない若者はそういうものに過去以上に免疫がないだろう。また、このブログでは2つ前の記事に出て来た話題だが、現実世界で「生きづらさ」を抱え実体験が少ないことでは人後に落ちないASDの若者がそういうものに曝露したら―。
 (私は以前から、「自己啓発本」の中心読者はASDかそれ気味の人ではないか、と疑っているのだ。この人たちはもっと年を取ってからでも人を信じやすく、詐欺に遭いやすい)

 そうした若者が社会人になるとどうなるか。

 上司の言うことを話半分にきく若者になる。上司の話は、しみじみした人生訓になるか鬱陶しいお説教になるか、上司自身の力量にもよるし受け取る側の状況や心の構えにもよる。しかしちゃんとした力量のある、人格的にも正しい上司の言うことでも、自己啓発本にかぶれた若者にとっては耳に入らない、「鬱陶しいおじさんの説教」になる。本人の学習に結びつかない。本当は、本人を目の前でみてフィードバックしてくれる人の言うことをきちんと聴いたほうがとりわけ若い人には大事な学習になるのだが。

 著名人にかぶれるということは、こわい。これもストレングスファインダーで〇〇〇〇を持っている人にはありがちなのだが、「カリスマ好き」。この人たちにとっては、カリスマの言うことには信じられないほどの重みがあり、その裏をとるとか妥当性を検証するなど思いもよらない。一切のフィルターなしに無批判に頭の芯へ入っていく。一方で平凡なサラリーマンの上司の言うことにはまったく価値がない。要はこの人たちは「偉い人バイアス」が強いのだ。

 こういう傾向はこれまでは、思春期に強くみられその後だんだん直って正常化していくものだが、今どきの風潮だと、いつまでも直らない。ネットで、SNSでなまじ偉い人と直接コンタクトでき、フォロワーになったりお友達になれるからだ。偉い人が一言何か言うとワーッと「そうだそうだ」のコメントがつく。無批判に偉い人の取り巻き、金魚のフンをやってそれが楽しいのだ。そういう状態の人の耳には、周囲の普通のまともな人の言葉は入らない。

 嘆かわしいことだが、今どきの不況にあえぐ出版界では、「著名人著者」におんぶにだっこである。上記の「自己啓発本」の著者が典型だが、ハイペースで粗製乱造の本を書く。到底、書きながら自分で中身を丁寧に検証したと言えないような、誇大妄想をそのまま文章にしたような。
(しかし、それらの本のAmazonレビューは上記のような事情で、★5つだらけである。)


 この構造はいつになったら直るのだろう。
 わたしは、管理者の側に関わる立場なので、こうした著名人著者やいかがわしい自己啓発本にかぶれたとみられる若者に振り回される側の相談をよく受ける。

 イタチごっこだが、やはり上司教育の方からきちんとやり、若者が上司の指導を通じておかしな本を読まないでも人生を切り開く力をつけていくよう持っていくのが王道だと思う。
 このブログによく出てくる漢字2文字の単語は、若者の脳の「内側前頭前皮質」に働きかけ、外部の規範を取り込ませるには有効である。若者本人を目の前でみている上司はその点アドバンテージがある、「漢字2文字の単語」のなかでももっとも正しいやつをできるわけだから。
 自己啓発本にもまともな本といかがわしい本とあるのだが、いかがわしい系の自己啓発本が売れなくなるのが、幸せな社会の姿だといえるだろう。


正田佐与
 
 

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