正田佐与の 愛するこの世界

神戸の1位マネジャー育成の研修講師・正田佐与が、「承認と職場」、「よのなかカフェ」などの日常を通じて日本人と仕事の幸福な関係を語ります。現役リーダーたちが「このブログを読んでいればマネジメントがわかる」と絶賛。 現在、心ならずも「アドラー心理学批判」と「『「学力」の経済学』批判」でアクセス急増中。コメントは承認制です

◆正田の近刊『行動承認―組織の能力を最大化する「認める力」』◆
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お世話になっている皆様


 おはようございます。
 一般財団法人承認マネジメント協会の正田です。
 
※このメールは、正田が過去にお名刺を交換させていただいた方・当協会のイベントやセミナーにご来場いただいた方にお送りしています。ご不要の方は、メール末尾にありますURLより解除ください。
(解除方法が変わりました!詳細はメール末尾をご覧ください)


 本日の話題は:

■ハートフルな映画か、思想の映画か
 ―映画「マイ・インターン」を「承認」で読み解く―

■何が「伝説の銀行支店長」を作ったのか
 ―秘伝のワークと現代ドイツ思想と。

■人は本来自立した存在なのか?
 ―社会思想史学会第40回大会聴講記―

■「月刊人事マネジメント」連載記事を更新しました
 ―「LINE世代」のマネジメントと離職防止―
 
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■ハートフルな映画か、思想の映画か
 ―映画「マイ・インターン」を「承認」で読み解く―

 「マイ・インターン」。名優ロバート・デニーロが久々に殺人者や悪人でない好人物を演じ、日米ともに上々の興行成績のよう。フェイスブック上には「コメディーなのに周りの女子が泣いていた」というご報告とともに、「既に3回観ました」という猛者もいらっしゃいました。
 なぜ、この映画がこんなに人々の心をつかむのか。あえてこの映画のシナリオをを「承認」で読み解いてみよう(監督の真意はわからないまま)という記事をアップしました。
 よろしければ、ご覧ください:

◆爽やか問題解決力のルール―映画「マイ・インターン」をみる
http://c-c-a.blog.jp/archives/51926047.html 

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■何が「伝説の銀行支店長」を作ったのか
 ―秘伝のワークと現代ドイツ思想と。

 去る6日、加東市商工会様主催の「行動承認セミナー」全3回の最終日でした。
 今回はご一緒に講師を務めていただいた、松本茂樹・関西国際大学経営学科長とご相談し、ある「ワーク(実習)」を…。
 どうも、松本先生の銀行支店長最後の2年間、「2年連続トップ支店」「目標達成率150%」の”偉業”に寄与したと思われるのです、このワークが。
 いえ、もちろん偉業に寄与したのはたくさんの要因があってこれ1つだけではなかったと思いますけれど。
 このほか、正田が最近凝っている現代ドイツ思想家のアクセル・ホネットによる「承認の定義」などの新しい要素が入りました。
 その模様はこちらからご覧いただけます:

◆秘伝のワーク登場。最終回も熱かった行動承認セミナー3日目
http://c-c-a.blog.jp/archives/51925645.html 

 「3日間セミナー」は今どきの研修短時間化の風潮には逆行する、主催者様にとって思い切ったご決断だったと思います。途中でちょっと集客にご苦労されたというお話も伺っています。
 それでも、「行動承認」は従来手法とはまったく異なる効果のあるもので、そうする価値があるのです、と図々しい講師の正田がつぶやきたくなった、あるブログ読者様からのメールがありまして、ここでご紹介:
◆新たな実践経験談 ”教育困難校”と「行動承認」―佐賀県・宮崎照行さんのメールより
 http://c-c-a.blog.jp/archives/51926030.html 

 どんなに偉い先生から嘲笑されたとしても、実践そして現場の「人」は貴いものなのです。
 県下きっての経営支援通、加東市商工会の篠原靖尚さんの洞察の通り、地域の企業様の躍進に、雇用増に、また幸福感の増大と人口増に、このセミナーが永く効果を発揮しますように…。
 チラシ作りや集客、そして開催中のアテンド等で一貫して優れたお仕事をしてくださった同商工会北島様にも、お礼申し上げます。

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■人は本来自立した存在なのか?
 ―社会思想史学会第40回大会聴講記―

 「承認」をはじめとする現代ドイツ思想に凝り「隠れフランクフルト学派」を名乗りだした私。
 前号のメルマガで論文をご紹介させていただいた、一橋大学・藤野寛教授のお誘いで、8日関西大学で開催された社会思想史学会第40回大会に行ってまいりました。
 そこで飛び出した興味ぶかいフレーズ。
「私たちは依存関係がデフォルトであり、それを前提としてAutonomy(自律)を獲得しようとする」(斎藤純一氏・上野千鶴子氏)
 一見当たり前とみえるかもしれませんが、また社会学・思想史の世界では既に常識だったのかもしれませんが、モチベーション業界、教育業界に繰り返し出現する「内発と自律論」を位置づけるに当たり大変重要な視点です。
 これにより、たとえば企業内人材教育でも、どの階層にどんな教育を施すのが大事なのか、が変わってまいります。これはエビデンスでどれほどお示ししても、底流の「思想」が変わらないと変わらなかったことです。
 このほかにも今日的な重要なフレーズがどんどん出てまいりました。大会の模様はこちらの記事をご覧ください:

◆ケア労働、ジェンダー…市民社会の新しい主要モチーフ―社会思想史学会聴講記
 http://c-c-a.blog.jp/archives/51925792.html 

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■「月刊人事マネジメント」連載記事を更新しました
 ―「LINE世代」のマネジメントと離職防止―

 今年「月刊人事マネジメント」誌(ビジネスパブリッシング社)に連載させていただいている、「上司必携・行動承認マネジメント読本」。同誌編集部のご厚意により、掲載1か月後にブログに全文転載させていただいています。
 第4回の記事を更新しました。「若手の気持ちがわからない!」お悩みの経営者・管理者・人事担当者の方、必見です:

◆第四章 「LINE世代」のマネジメントと離職防止月刊人事マネジメント10月号
 http://c-c-a.blog.jp/archives/51925545.html
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★パリでの同時テロは、フランスがシリアへの空爆に積極的だったことを考えると、色んな意味でやりきれない思いになります。どの暴力にも当事者には正義があります。今は、犠牲者の方への哀悼の意を表したいと思います。

★次号より、本メルマガに「一般財団法人承認マネジメント協会」の名称はなくなります。
 読者の皆様のご愛読に感謝いたしますとともに引き続き正田からのメルマガにお付き合いくださいませ。


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いたずら防止のため解除の確認メールをお送りさせていただいておりますのでご理解のほどよろしくお願い申し上げます。
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もしこのメールを新たに購読ご希望のかたがいらっしゃいましたら、
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100年後に誇れる教育事業をしよう。
一般財団法人承認マネジメント協会
(旧NPO法人企業内コーチ育成協会
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理事長 正田 佐与
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ブログ「コーチ・正田の 愛するこの世界」
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近著『行動承認―組織の能力を最大化する「認める力」』
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 久しぶりに「発達障害」関連の読書です。

 「自閉症スペクトラム4%」ついに、こういう数字が出てきました。その背景に潜むものとともに、考えたいものです。

 『発達障害の謎を解く』(鷲見聡、日本評論社、2015年4月)。

 以下、本書からの抜き書きです:

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●自閉症スペクトラム(ASD)4%は、2012年発表された浜松市出生コホート研究の暫定的な集計。354名の幼児のうち14名、約4%の子供がASDと診断された。精度、正確度ともに優れた手法で、わが国で進行中の疫学研究のうち最も質の高い研究の速報値。

●さらに高い数値が横浜で出ている。横浜市港北区の小学1年生におけるASDの発生率は4.2%、有病率は5.4%。
 
(発生率と有病率とは、本書によれば、「発生率とは一定期間にある集団で病気・障害が発生する割合で、有病率とはある集団におけるある時点での罹患者の割合である。有病率は転出入などの社会的要因の影響を受けやすく、支援ニーズの把握には有効であるが、学術的視点から見れば、発生率の方が重要である。」)

●ASD増加の原因の解釈は、I 見かけ上の増加(診断基準の拡大やスクリーニング体制の充実)、II 真の増加(生物学的要因、生育環境の悪化)がある。

●ADHDは子供の場合100人に数人、大人では100人に2,3人という報告が多い。大人の有病率が低いのは、小児期にADHDと診断された子供たちの中に、その後診断基準を満たさなくなるケースがいるためと考えられる。

●(高機能)ASDも一部は成人に達するころには適応(寛解)すると推測される。現在ある調査では、ASD児の約1割程度は症状が軽快している。

●しかし逆に、ASDの子供時代には困難さが顕在化せず、大人になってから初めて支援が必要になる場合もあるかもしれない。
―大いにありそうですね。

●アメリカでのADHDは増加傾向である。1990年代の有病率調査では5%に満たない数値が多かったが、2000年以降は増加。アメリカ疾患管理予防センターの報告によると、2003年は有病率7.8%(男児11.0%、女児4.4%)、2007年は同9.5%(男児13.2%、女児5.6%)。原因は見かけ上の増加、真の増加両方考えられる。
わが国では継続的なADHDの疫学調査は行われていない。

●発達障害の遺伝要因。ASD、ADHDともに「多因子遺伝病」と考えられる。これは典型的なメンデル型遺伝病(一つの遺伝子の変異が発症につながる)と異なり、いくつか原因遺伝子の変異があり、それに環境要因が複合した場合に発症する。

●「増加」は多様性への理解をもたらしただろうか?
 「早期発見を焦るあまりに『定型発達から少しでもずれる乳幼児は問題である』という誤った発達観が関係者に広がりつつあるのではないか」と著者は危惧する。
―確かに、昔なら「ちょっと変わった子」と受容されていた子が今は「障害」になり問題視されている感は否めない。それは社会の狭量さに拍車をかけ、余計「生きづらい」社会になってしまう。

●社会学的にも「人間社会は本来多種多様な特徴をもつ人間からなる」という考えが以前から唱えられていた。さらに、最新の科学研究、ヒトゲノムプロジェクトなどの進展によって、人間には予想以上に遺伝的多様性が存在することが明らかにされた。例えば、病気の罹りやすさや薬物代謝の多様性(個人差)であり、その多様性を前提とした医療が検討され始めている。それらの事実を踏まえ、「人間には多様性があることを前提として、お互いが尊重し合う社会を構築すべきである」という新しい理念を人類遺伝学会が発表している。したがって、子どもたちの発達についても、人間の行動特性についても、さらに、私たちの文化に関しても「多様性が存在する」という大前提に立つべきであると筆者は考えている。(この項はすべて引用文、太字正田)

●遺伝と環境の相互作用。
 脳の発達には、遺伝子からの情報が重要な役割を果たすが、環境要因も「エピジェネティクス」や「刈り込み」というメカニズムを介して大きな影響を与えている。

●未分化な細胞が多数の神経細胞へ変化するのは遺伝子の指示による。このステップでは遺伝子の影響が大きいが、胎児期に晒される化学物質がエピジェネティクスを介して影響を及ぼすこともある。

●シナプスによって神経細胞同士が接続する、すなわちネットワークが作られる過程でも、主に遺伝子からの情報が元になるが、より効率的なネットワークとして完成するためには環境からの刺激も重要である。

●「刈り込み」というプロセス。生後1歳頃にシナプスの数は最も多くなるが、あまりにも多いためそのままでは効率的に機能しなくなる。そこで、環境からの刺激の有無により、使われるシナプスが残され、使われないシナプスは失われる。一例として、生まれてから一定期間、視覚刺激が全くない場合には、視力に関連するシナプスが失われ、視力の障害をきたすことが知られている。

●ASDの様々な特徴の中には、遺伝要因の影響が大きいものもあれば、環境要因の影響が大きいものもあるとみられる。認知機能の偏りと感覚異常に関しては、遺伝要因の影響が非常に大きい。同様に、コミュニケーション能力も遺伝的影響が比較的大きいと思われる。ただし、コミュニケーションや対人関係のスキルの獲得には、経験の積み重ねや相手の反応が重要なので、環境要因も一定の影響を及ぼすと考えられよう。あるいは、エピジェネティクスなどのメカニズムを介する影響もあるかもしれない。また、興味の限局やこだわり行動については、両方の影響がともに大きいのではないだろうか?一方、かんしゃくやパニック、自傷行為などは、その時点の環境要因の影響が大きいと思われる。さらに、自己肯定感の低下や、様々な精神疾患の合併に関しては、長期間におよぶ環境要因の影響の積み重ねが大きいと推測している。

●環境決定論、遺伝決定論、この両極端な考え方が子どもたちを苦しめてきたのではないだろうか。変えることのできない部分に対しては、いくら努力しても報われない。そういう場合は、周りの大人たちが、それを「個性」として認める必要がある。一方、変わる可能性がある部分でも、そのために必要な体験がなければ、変化は起こらない。子どもたち1人ひとりの個性を理解して、それぞれに応じて適切な成育環境を与えることは、大人としての重要な使命であると筆者は考えている。
―重要な、かつハードルの高い問い。変わらないもの、変わり得るものを見極めよ、後者について適切な体験を与え、前者については個性と認めよ、という。しかし確かにこういう切り分けは必要なのだ。でなければどんな体験を積ませてやるのが適切なのかわからない。どんな希望をもつのが正しいのかわからない。1つ前の項で著者が推測と断ったうえで例示したが、今後こうした「遺伝要因のもの、環境要因のもの」が特定され、どんな関わり方が適切か、指導者にも適切なガイダンスが与えられるのが望ましいと思う。

●発達障害の関連遺伝子は多数ある。またASDとADHDの関連遺伝子がオーバーラップする。したがって、遺伝子と病気が1対1で対応する古典的な遺伝病と異なり、多数の遺伝子が多数の発達障害と関連している(多数対多数)。さらに、発達障害の関連遺伝子と様々な精神疾患の関連遺伝子も、それらの一部がオーバーラップしていると報告されている。
―最後の一文はやはり要注目。発達障害であると、精神疾患リスクは高いと思っていいようです。

●自閉症に関する間違った環境要因説。自閉症心因論、MMRワクチン説、自閉症水銀説。科学的根拠がない情報が一気に拡散し、当事者・家族に大混乱をもたらした。


―ここからは、発達障害の原因として「遺伝と環境」に絡め、生活習慣の影響について論じられます。そこでは今どきの家庭教育、子どもたちの育ち方、電子メディアの影響なども…。スマホ依存も顕著になる中、気になるところです。

●幼児の1日当たりテレビ視聴時間は2000年ごろに平均2時間40分でピーク。以後微減傾向で2013年には2時間を切っているが、ビデオの視聴時間が増加した。

●小学生での「インターネット2時間以上使用」が2008年には3.7%、2013年には6.6%に増加。中学生では同14.0%と24.5%、高校生では同15.1%と42.8%。

●2002年、テレビ・ビデオ視聴による言葉遅れについての報告が出された。言語発達や社会性の遅れのある幼児の中には、テレビ・ビデオの長時間視聴によって言葉遅れなどが生じ、視聴をやめると改善がみられた例がある。その後2004年にも、テレビ・ビデオ視聴が4時間以上で言葉遅れの頻度が9.6%と、視聴時間が長いほど言葉遅れの頻度が高いとの調査が出た(岡山県・1歳6カ月児健診対象児約1000名を対象に調査)。

●電子メディアは発達障害児にはどのような影響を与えるのか。一般の子供たちでさえ電子メディア視聴の影響を受けるのだから、元々コミュニケーションが苦手な発達障害児により悪影響があったとしても不思議ではない。しかし推論の域を出ない。

●ここ30年の変化としてはこのほかに”睡眠習慣”の変化がある。夜更かし型の生活をする幼児の比率が激増した。夜10時以降に就寝する2歳児は、1980年には30%弱だったが、2000年には60%弱までになった。起床時間は7時頃で変化ないので、睡眠時間が短くなっている。専門家は、このような睡眠習慣が発達に悪影響を与えることを危惧する。体内時計の調子が悪くなると、心身に様々な悪影響が出てくる。幼児期の睡眠不足は肥満のリスクになる。また、睡眠不足の子供では学業不振に陥りやすい、抑うつ、イライラなどの精神症状を示しやすいという報告もある。諸外国との比較で日本の幼児の睡眠時間は短く、日本の幼児の睡眠時間は17か国の中で最短時間だった。

●発達障害児の生来の特徴として睡眠障害がある。ASDに睡眠障害が合併する比率は報告によって幅があるが、約30%から90%と、少なくとも一般の子供集団より高率である。ASDの場合、例えば神経過敏性などが関係し、入眠困難、中途覚醒、睡眠随伴症などの問題が生じる。

●ADHDにも高頻度で睡眠障害が合併する。入眠困難、中途覚醒、日中の過眠、むずむず脚症候群など。

●生来、睡眠障害を伴いやすい発達障害の子供が生活習慣として不規則な睡眠習慣を続けた場合、さらに悪影響が出たとしても不思議ではない。

●セロトニンの関連。近年のPETを用いた研究では、高機能自閉症では脳の広範囲にわたりセロトニン・トランスポーター濃度の低下が明らかになり、濃度の低下の程度と強迫症状との関連も示唆された。

●セロトニン神経の重要なポイントは「生活環境の影響を受けやすい」点であり、適切な生活習慣で毎日を過ごしていけば、子どもたちのセロトニン神経の働きが向上する可能性がある。

●外遊びの減少。子供たちの運動能力は長期的に低下傾向であり、11歳男児のソフトボール投げの平均値は1986年33.7mだったのが、2006年には29.5mにまで低下した。発達障害児に協調運動障害が合併しやすいことはよく知られており、そのような子供たちが運動不足になれば、協調運動障害が深刻化するかもしれない。またASD児の場合、元々室内遊び(ゲーム等)を好む傾向があるので、運動遊びの減少が一般の子供以上に進んでいる可能性もある。

●ここ数十年の子育て環境の急激な変化に専門家は警鐘を鳴らす。子育ての変化が始まってから2世代目になっていることに着目し、より深刻な影響が出ることを懸念している。親からの語りかけ等が少ない時代に育った子供が親になれば、その子供に対してさらに偏った子育てをしてしまうという懸念である。そして、その無意識の偏った子育てが、発達障害に類似した行動を示す”境界領域”の子供たちを増加させているという仮説を述べている。自閉症心因論は否定されるべきだが、元々の軽い偏りに、偏った子育ての影響が加わって問題行動が顕在化する可能性はある。


―自閉症の概念、発達障害の概念が変わりつつある。

●自閉症の概念が変わりつつある。フランセスカ・ハッペらが2006年、ネイチャー・ニューロサイエンス誌に発表した論文では、「自閉症の原因は病態は1つではないので、一元的な説明は不可能である。それぞれの原因、病態、症状を探求する方が有用である」と主張した。そこから、「対人関係障害」「コミュニケーション障害」「興味の限局等」にはそれぞれの原因があり、3徴候それぞれに対して評価を行い、それぞれ別の診断分類として独立させるということにもなりかねない。それは自閉症の概念の解体にもつながることである。

●ウィリアム・マンディらは統計学的手法を用いて3徴候を徹底的に調べ上げ、対人関係障害とコミュニケーション障害を合併させた1つのグループと、興味の限局等のもう1つのグループにする、つまり、主要3徴候の代わりに主要2徴候にするべきであるという論文を発表した。このため、DSM−5ではASD症状を2つの徴候、「社会的コミュニケーション」「興味の限局等」にすることとなった。

●2014年に発行されたDSM−5の日本語版では、新たな名称「神経発達症群」が採用された。

●神経発達症群は、二者択一ではとらえられない。「障害にも個性の範囲内にもなり得る」「広い意味で治る(寛解する)場合がある」「遺伝と環境の両方が重要」「医療にも教育にも関係する」という中間的な答えが妥当だろう。

●神経発達症群の特徴を簡潔に述べると、「生まれつきの発達の偏りがあり、その後の成育環境の影響も受けながら多様な経過をたどるため、社会的不適応と精神疾患のリスクが高い子ども(人)たち」となる。

●ここ10年の発達障害ブームで神経発達症群に対する支援は確実に進んだ。しかしいくつかの問題はある。1つは、発達の多様性に対する許容範囲が狭くなってきたように感じられる点。発達の個人差と言える凸凹まで問題視してしまう場合がある。また、支援において能力面の向上を過剰に追求する姿勢。レオ・カナーはアメリカ精神医学会賞の受賞講演の中で親や教師の過剰期待を強く戒めた。


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 抜き書きは以上です。

 「子育ての変化」については、正田の20年以上前の子育て時代にもひしひしと感じていました。「遅寝遅起き」「おやつ食べさせ放題」これらが、ママ友同士の過剰な人間関係(ダラダラ1日中つるんでいる)に合併していたことがフラストレーションで、あえてお付き合いを切り上げて子供を早くに寝かせていたものだから、そんなことだけでママ友のいじめの対象になったりしました。

 その世代の子たちが今就職年齢になっています。

 子供時代を母親たちのお付き合いにお付き合いして生理的にも不自然に過ごしていた子が大人になって、どんな社会人になるのやら。

 会社は「育て直し」の場になるのではないか。幼児時代からの間違った子育てを矯正する(不完全にせよ)場となるのではないか。諦念と希望の織り混ざったわたしの予感です。

 あ、でもそれは発達障害の話題の本筋ではなかったですね。

 とまれ、「ASD4%時代」を受けた本書の主張、

「私たちの多様性への感度を上げるべきだ」

には、大いに賛同します。このブログでおなじみの単語(漢字2文字のやつ)も、そこに資するはずです。

 


正田佐与

マイ・インターン


 お友達が「レディースデーに行ったらコメディーなのに周囲の女子が泣いていた」と推薦していた「マイ・インターン」(原題’The Intern’、ナンシー・マイヤーズ監督、2015年)。

 ご存知、ロバート・デニーロ扮する70歳の老インターン、ベンがネット通販企業に入社し、問題解決していくお話。男性女性問わず、見終わると元気になる映画です。

 これが、何となくハートフルな映画なのか、それとも深遠な思想があるのか。どちらなのだと思いますか?

 本日はこの映画を勝手に思い切り「承認」で読み解いてみたいと思います。
 かなり「ネタバレ」を含みますので未見の方は読まれないほうがいいかも―。


 この映画の舞台は、1年半前に創業しあっという間に従業員220人の規模になったアパレルのネット通販企業。

 ここには、IT企業によくある「祝祭感覚」がもともと存在します。
「インスタグラムでいいね!を2500獲得しました」ワーッとみんなで拍手。社員一人一人のお誕生日を祝う。

 活気があるが、混乱している。温かみはあるものの微妙な「承認欠如」が漂っている状態から始まります。

 主人公はアン・ハサウェイ扮する女社長のジュールズ。美人で頭の回転が速く、配慮に満ちて魅力的な人柄ですが予定はいつもパンパン。スタッフが次々とジュールズに話しかけますが、どの案件に対してもジュールズ自身の時間が足りません。物語は、このジュールズを中心に放射状に作られる人間関係に、それぞれベンがからむことで変化がもたらされます。

●ジュールズ―ベン
 70歳のベンがインターンで入社し、社長付になったことに、ジュールズは当初不満顔。高齢の男性に良いイメージを持っていないようです。ベンが普通以上に目ざとい人物なのをみると、ベンを配置転換させようとしたほど。しかしベンが献身的で有能で出しゃばり過ぎず、良い人柄なのを知り、徐々にベンに信頼を寄せます。自分の家族関係をオープンにし、さらに重大な秘密と心の迷いまで打ち明けるようになります。

「自分の代わりになるCEOを」ジュールズは気の進まないまま、CEO候補と面接を繰り返します。浮かない顔で面接に出かけるジュールズに、ベンが声を掛けます。
「1年半前創業し、220人の会社に育て上げたのは誰の偉業?」
 君は君の偉業を思い出せ、というメッセージ。きれいに「行動承認」になっています。

●ジュールズ―ベッキー(秘書)
 ジュールズと同様ベッキーも働き過ぎ。そして「認めてくれない」が不満の種です。
「1日14時間も働いてるのにジュールズは理解してくれないの!私、ペンシルベニア大経営学部を出てるのに!」と泣きじゃくります。
 ベンはベッキーの仕事の片づけを手伝い、ジュールズに対して顧客動向の分析をプレゼンする際、「ベッキーのお蔭だ」「ベッキーは経営学部卒だから」を連発、ベッキーの貢献をアピールします。「忘れてたわ。褒めてあげなくちゃ」と応じるジュールズ。最も頼りにしている右腕の貢献は、酷使していても忘れがちになるのは洋の東西を問わないものでしょうか。
 劇中後半、余裕が生まれたベッキーはフェミニンな花柄の服を着ています。ベンにも「顔色が悪いわ」と労わる余裕を見せるように。

●ジュールズ―マット
 夫のマットは専業主夫となり、一人娘のペイジを育てています。妻の辣腕ぶりに自ら家庭に入ったマット、しかし内心は鬱屈しています。実はCEO探しも「夫婦の時間を取り戻したい」というマットの希望。ベンはマットに、「ジュールズには幸せになってほしい。物凄く頑張ってきた人だ」。
 マットにとっての「承認欠如」はある残念な行動を生みます。そこからの夫婦の再生は可能なのか?脚本も担当したナンシー・マイヤーズ監督は実生活ではパートナーと別れているそうなのですが…。

●ジュールズ―ママ友
 多忙で夫を専業主夫にしてしまっているジュールズに、ママ友の目は厳しい。ある朝、ママ友からジュールズに「ワカモレを18人分お願い。忙しいだろうから市販のでいいのよ」。「あら、作るわよ。大丈夫」とジュールズ。ベンの待つ社用車に乗り込んでジュールズはドッと疲れた表情。(ちなみにワカモレとはメキシコ料理でアボガドをベースにしたディップのようなものです)
 ペイジの親友、マディのお誕生会にはマットの病気でベンがペイジを送ってきました。ママ友たちに「ジュールズの部下です」と自己紹介した年上男性部下のベンに、ママ友は「あら、ジュールズってキツイ(タフ)ってきいたわ」。ベンはにっこりし、「確かにタフだ。だから彼女は成功した。あなた方も誇りに思うべきだ、友人がネット業界の風雲児だということを!」。
 ここでは、「公正な評価」と「嫉妬の克服、理性による祝福」という、感情に流されるとむずかしい舵取りを「承認ルール」で乗り切ろうよ、というメッセージがあります。

●ジュールズ―CEO候補たち
 劇中では3人のCEO候補と面談します。1人目は、ジュールズの言葉を借りると「女性差別主義者で、イケ好かないヤツ」。2人目は、「アパレルを『ギャル商売』と呼んだ」。3人目は、「礼儀正しくて、考え深い人」。女性社長のジュールズとその業種をリスペクトするかどうかが、大きな評価基準でした。

●ベン―若手男子たち
 ベンも入社後、自分の周りに磁場をつくります。IT企業の若手男子たちにとってベンは格好のメンター。彼女とメッセージでこじれた男子には、「リアルで話せ」。セレブの家に宅配に行くことになった男子には「襟のあるシャツを着ろ。シャツの裾はズボンに入れて」。下宿探しが暗礁に乗り上げた男子は、ベンが自宅にしばらく泊めてやります。

●ベン―フィオナ
 社内マッサージ師のフィオナとは恋愛関係を育みます。
 ジュールズとベンは上司部下として急速に信頼関係を作り接近しますが、それが男女の関係になるとは限らないのです。というメッセージは監督インタビューによると、実際に込められていたらしいです。

●最後の判断
 最後は、「承認」が判断基準になります。だれに対する「承認」?何が最優先すべき「承認」?それがカギでした。
 大団円はご都合主義に見えるかもしれない、しかしプレーヤーの全員が自己理解を徹底し、共通ルールを理解しているとこういう解決もあり得るかも。



 と、メカニズムをわかっている人がみるとこの映画聞かせどころのセリフは全部「承認」あるいは「承認ルール」じゃん、と手の内がわかるのですが、それでも感動できるし爽やかな感覚が残ります。イーストウッド監督の「インビクタス」と並んで「承認映画」として推したいゆえんです。

 ナンシー・マイヤーズ監督は1949年生まれの団塊世代、アクセル・ホネットと同い年ですが何か関係あるのでしょうか。ネット上の監督インタビューでは残念ながら承認’Recognition’との関連はわかりませんでした。成功した女性の男性との悩ましい関係、女性同士の悩ましい関係、リアリティがあります。「上手く解決してほしい」という祈りがこめられているかもしれません。

 ベンチャーに詳しい人がみると映画冒頭の会社の様子はスタートアップ時のベンチャーの典型的なもの、ジュールズの異常な働きぶりもベンチャー起業家ならよくあるもの、です。で支援のプロからみるとどこかの時点でそこにコーチングまたは「承認ルール」を導入すべきだというのは火をみるより明らかなのですが当事者には中々みえないものです。そして、往々にして外部からの介入を拒みます。

 そこでベンのような魅力的な高齢者が入社して出過ぎずにさりげなく介入してくれれば。健康な頭脳をもった高齢者の働き方の理想をみせてくれるのでした。


 

正田佐与

 佐賀県唐津市の研修業・Training Office代表、宮崎照行さんから、「行動承認マネジメントを学びたい」と嬉しいメールをいただきました。

 ご興味をもっていただいたきっかけは、宮崎さんの仕事上の実体験だったということです。以下、ご了解をいただいて宮崎さんのメールからの引用です。:


〈行動承認マネジメントに興味を持つようになった経験〉
現在、業務の一つとして高校生に対象にビジネスマナーの研修を担当しております。
私が依頼をいただく高校様の多くは、一般的に教育困難校といわれている高校様でございます。ほとんどの生徒は、いわゆるヤンキー(死語?)といわれる生徒さんです。
以前の研修スタイルは、「目標を持つことの大事さ」「価値観を大切しよう」という内容でしたが、彼ら(彼女ら)にとっては、「それがどうした?」と意に介せず研修に参加しようとする意識が非常に低い状態でした。
このままではいけないと感じ、彼ら(彼女ら)の行動に対する承認、例えば「皆さんが話しを聞いてくれるので、こちらは話しやすいよ」「面倒くさいと思っていたお辞儀、すごく綺麗で格好良かったと、やればできるやん。もっと格好よくしていこうか」
など私が感じた事実をフィードバックすることで、真剣に練習に取り組むようになりました。(感受性豊かな生徒さんたちに対し、おべっかを使うと見透かされてしまいます)

上記のような強い経験をしましたが、何分、我流のため体系的に学習方法を確立できておりません。
よって、もっと行動承認マネジメントを深く学びたいと思った所存でございます。



私見ですが、「承認」の難しさは「テクニック」レベルで捉えようとすると効果が薄くなると思います。例えば、「こちらの話を聞いてもらうために、承認のスキルを使って振り向いてもらおう」や「こちらが意図する行動をとってもらうために、承認のスキルを使えば意図するように行動してもらえるのではないか」など利己的な観点から「承認」を捉えようとすると、うまくいかない気がします。一方で、昨今の研修素材はどちらかというと「テクニック偏重」「即効性偏重」が受けるようです。だから、そのような枠組みからいくと一般的なものではないのかもしれません。しかし、「人」はそう単純なものなのでしょうか?だからこそ、「承認」を使用する側は「スキル」を超越したものを構成していく必要があると考えています。




 嬉しかったですね。
 わたし自身は学校の生徒さん相手の実体験がありません。マネジャーさん方のご報告から、新卒の方にも著効があるようなので、もっと若い学生さん方にも上手く行くだろうな、とは思っていました。

 やっぱり実体験のある方は、言葉の力が違いますね。

 正田からのお返事です:


宮崎さんの教育困難校でのご経験を大変興味深く読ませていただきました。
貴重な体験をされましたね。
教育分野での「行動承認」の応用経験は、まだ私にはありません。
ただマネジャーたちの実践から、新卒の方にも非常に有効なことから
学生さんにも有効なのではないかな、と類推するばかりです。
大学では、関西国際大学での松本茂樹先生の実践があります。

お問い合わせいただいた、行動承認を体系的に学習していただくということですが
オープンセミナーは、力不足のため現在開講していないのです。
もし、書籍でもよろしければ
拙著の『行動承認』(パブラボ社、2014年)は、ご参考になるのではないかと思います。
スキルとしてはごく簡単なものですので、宮崎さんでしたらすぐ習得していただけると思います。

こうしてご理解者の輪が広がることは幸せなことですね。
世間一般では、「承認」は決して一般的ではありません。
心無い中傷をされることも多いです。
でも宮崎さんが体験された、学生さん方の目覚ましい変容は多分本物です。
どうぞ確信をもって進んでいかれてください。
若い方々に本当に必要なものを、宮崎さんは提供されたのだと思います。
今後の学生さん方の人生に大きな影響を与えていただけることでしょう。

私は力不足のため、財団を今月21日には解散し、個人事務所に戻ります。
それでもこうして、
確信をもって実践される方が育っていかれることは心強いです。
この手法はこの国を建て直す力のあるものだと信じています。
どうか宮崎さんも、担い手になられてください。


 
 こういうときに、「書籍でよければどうぞ『行動承認』で…」と書けるように、『行動承認』の本は作られていますから、つまり真摯な学習者・実践者の方のためのテキストとしては手前味噌ですが良く出来ていますから、まあ悔いのない作り方をして良かったナと思います。

 
 そして、今はわたしはリビングの片隅にホネットハーバーマスヘーゲルの本を60cmほど積み上げて満足もといさあ読まなくちゃナと思っているところですが、
 それはそれとしてやっぱりこういう実践の現場の手触りを忘れたくない。
 理論は理論として、一方で生身の「人」が何を求めているのかを。
 それは、ドイツ観念論フランクフルト学派で物足りなければ科学哲学も援用すると思う、とにかく現場の「人」のことを一番たいせつに考えていたい、と思うのでした。そこから逆算して発想したい、と。
(けっして今の時点で理論に不満があるわけではないですよ。)



 宮崎さんへのわたしのメールにも書きましたが、

「この手法はこの国を建て直す力のあるものだと信じています」

これはわたしが嘘いつわりなく日々思っていることです。
 
 そして宮崎さんが気づいてくださっていたように、「行動承認」は極めてシンプルなもので、表面的に学ぶことはたやすくできます。むしろそのあまりのシンプルさゆえに、軽んじられ「いろんなその他の手法と同等かそれ以下」のように見なされるきらいがありました。
 ところがそれは実は巨大なコンテンツで、講師あるいはマネジャーの人としての「ありかた」もまた問われますし、加えてわたしが無意識に「認識論」や「討議倫理」や「正義の判断基準」にまで手を広げていたように、日常のあらゆる場面をカバーし得るものです。そして学び手もその巨大さを感じながら学んでいただきたいものです。

 
 しかし心身ともに衰弱している52歳。(ほんとは、52歳になるのは来月ですが)

 生きているうちにこれの全容を教育プログラムとして完成し、商品化できるのかどうかは謎です。



正田佐与

 8日、関西大学で開催された社会思想史学会第40回大会に一般参加者で伺いました。

 同学会の幹事のお一人である一橋大学の藤野寛教授のご教示によるもの。


 このブログではおなじみの名前になりつつある、フランクフルト学派のホネットやハーバーマスについてのセッションもあり、藤野先生が司会を務めておられました。

 午後には、第40回を記念したシンポジウム「<市民社会>を問い直す」。

 
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 齋藤純一氏(早稲田大学教授、政治理論・政治思想史)と上野千鶴子氏(東大名誉教授、立命館大学教授、社会学)が登壇されました。

社会思想史学会 上野氏の官、共、私

上野氏スライド 市民社会の4つの領域 「官、共、家庭、市場」

社会思想史学会3 ケアの配分と出生率

同「労働とケアの配分と出生率」


 おおっ、という「今日的」な質問、発言があり…。

「リプロダクション(再生産、生殖)をどの程度市民社会に位置づけるべきですか?」


 これは会場から、また上野千鶴子氏からも齋藤純一氏に発せられました。
 齋藤氏、かなり答えにつまる。
 リプロダクション、育児と介護すなわちケアはハードワークであり、誰がそれを担うか?という問題が出てくる。
 上記の上野氏のスライドでは、日本は先進国でも例外的な(C)、すなわち「移民労働力」を排除しているため女性が全面的にケアを担ってきた。

 このことを上野氏は、

「日本ではジェンダーと言う変数が諸外国のエスニシティという変数の機能的等価物の役割を果たしている」

と海外研究者に説明すると、割合わかってもらえるそうです。

 そして上野氏の厳しいフレーズ。

「ジェンダーは市民社会論の中で故意に忘却された変数だと思っている。多元社会論が要請されている」。




「家族は市民社会の外部なのか?」

 これも齋藤氏へ。
 齋藤氏の答え

「外部とは思っていない。私と公を媒介する位置にある。
市民間の関係を律するような契約関係、法関係は家族内に入らない。
子供も市民としてtreatされるべきである、だが現実にはそうなっていない。
子供も市民として尊重されるような法体系に変えていくべき」。

 これは、児童虐待や高齢者虐待、DVなどが頻発する今、重要な問いであり答えでしょう。
 このブログではホネットの愛と家族に関する藤野寛論文で触れていたところですね。




 厳しい議論の続く中で(このお2人の議論ぶりもわたしにはとても興味ぶかかった)
 齋藤氏、上野氏が一致した興味ぶかいフレーズ。

「私たちは依存関係がデフォルトであり、それを前提としてAutonomy(自律)を獲得しようとする」

―だから、ケアは市民社会を論じるうえで欠かせない要素なのだ、と続くのですが。

 これは、従来このブログでも経営学、心理学、経営教育学などの「内発と自律論」をモグラ叩きしてきたわたしには、快哉を叫びたくなるフレーズでした。

 「自律」は「である」ではないのです。「そうありたい」ものなのです、「依存」を初期設定とするわたしたちにとって。

 ああ、来た甲斐があった。また、叩いてきた甲斐があった。藤野先生ありがとうございます。

 読者の皆様、今後まだ「内発と自律論」をデシとか引用して言う人がいたら、「周回遅れ。ダサイ」と言ってあげてくださいね。あ、「承認欲求バッシング」の人もその系列かな。




 
 藤野先生が「社会思想史学会は左翼思想家のたまり場ですよ」とおっしゃるので、一般参加した正田はここでは自己紹介するとき
「修正資本主義をやらしていただいております。よろしくお願いいたします」
と挨拶しておりました。

 このブログの「ヘーゲル・ホネット承認論」の初期に登場した『承認と自由』の著者、札幌大学の高田純教授にもお会いし、ご挨拶することができました。
 1994年のこの本は、わが国のヘーゲル研究がそれまで弁証法とかマルクス思想へのかけ橋の思想としてばかり研究されてきたのが、「承認研究」に転換した初期の良書と思います。今でもこの分野のスタンダードと言えるのではないかと思います。(文章も大変読みやすいです)

 
 藤野寛教授には、この日の午前、関大前のガストにて「フランクフルト学派と承認」についての素人質問を思い切りぶつけ、語っていただきました。
 そのお話はわたくしのような素人学習者には、有益なガイダンスになると思います。
 いずれご了解をいただいたうえで藤野先生インタビューもブログに掲載させていただきたく思います。


社会思想史学会1


 セッションでの発表者に厳しいコメントをする藤野教授(左)

 フランクフルト学派は「批判理論」であり「承認」とか言いながら一方では厳しい批判をするのだ。正田も「隠れフランクフルト学派」を名乗ろう…


正田佐与

 6日、加東市商工会主催「行動承認セミナー」3回シリーズの最終日でした。

 このたびの受講生様に特別にお伝えしたこと。
 
 共同で講師を務めてくださった松本茂樹先生(関西国際大学経営学科長、元銀行支店長)は、ご存知「承認」の史上最高の使い手でした。しかし実は松本先生が「コーチング」を学ばれた2004年当時、正田はまだそんなに「承認」と言ってませんでした。コーチングの幾つかあるスキルの1つでした。また、「行動承認」という言葉は存在してなかったと思います。
 なのになぜ、松本先生は「達人級」にまで、「行動承認」の使い手になられたのか?

 実は、そのことに寄与したと思われる、ある「ワーク(実習)」がありました。

 松本先生の代の受講生さんにだけ、このワークを行っていました。後にも先にも、この代の生徒さんだけ。

 で、今回の受講生様方にも、特別にそのワークをやっていただきました。
 えーと、その内容は、ないしょ。
 「秘伝のワーク」なんて、1つぐらいそんなのがあっても面白いじゃないですか。(*^^*)

 このワークは結構講師が「はずかしい」ので、松本先生にも半分やっていただきました(^^;;)
 (はずかしいからその後やらなくなっていたんだナ)

 
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 (今回は加東市商工会北島様に写真を撮っていただきました)


 そして、「傾聴」の時間では、恒例・「傾聴8本ノック」。

 ハードな内容の実習に皆様眠気が吹き飛んだよう…。

 企業不祥事が相次ぐ当今ですが、そういう時代には「承認と傾聴」は厄除けのお守りのようなもの。
 そういうそれらの機能を真摯に感じながら実習に参加してくださったようです。


 松本先生のお言葉。
「私は承認と傾聴を学んでから、トラブルに遭っていません。職場でも家庭でも。
 皆さんが末永く上手くいっていただくため、是非末永く使っていってください」


 受講生様のアンケートには、
 
「3日間とても楽しかったです」
「行動承認は使い続けます」

という嬉しいお言葉が並びました…。


 超ご多忙な中時間を割いて3回駆けつけてくださった松本先生、
真摯な学び手となりわたしたちを支えてくださった受講生様方、

そして開催の労をとってくださった加東市商工会の皆様、
ありがとうございました!


正田佐与

 今日はなんか背伸びをやめて普段着のわたしに戻っております。

(「大学の先生」が話題になっておりますが最近このブログに登場された方々のことではありません。念のため)

 昔々の大学時代、恩師は院に進学しろと言ってくださったんですが「家が貧乏ですから」と言って就職しました。
 貧乏も嘘じゃなかったんですが、本当に進学したかったらバイトしてでも何でもしたと思います。本当は自分は学者になれるたちではない、と思っていたんです。

 ゼミの1年先輩にすごく深く掘り下げる、しかもすごいスピードで、という方がいらっしゃいまして。中本義彦さんとおっしゃり、今静岡大学の教授になられています。どんな文献を読まれても、わたしなどが「この本には今いち乗りきれないなあ」というときでもウッと深く突っ込んでいかれその文献の世界の住人になられるんです。かと思うと「自分の中にもナチズムやマルクス主義と同様のファナティシズム(H.アーレントの世界ですね)がある」と内省されたり、いやファナティシズムも才能でいらっしゃるから内省しなくていいんじゃないですか、と思いましたけれど、まあそういう、文献の中に深く潜る、しかも素早く、ということにかけてオリンピック選手のような方がいらっしゃったんです。
 先年恩師の逝去後のゼミOBの集まりでその中本さんにお会いし、いい大人になられてるなあと思いました(失礼か!?)

 ともあれ大学時代にそういう方を間近でみていて、「あれはできないなあ」と。

 このところのこのブログをご覧になって、既に話題が難し過ぎる高踏的すぎるとお感じになった方もいらっしゃるかもしれないし、「正田はアカデミズムの方へ行くのか?」と思われた方もいらっしゃるかと思いますけれど、わたし的にはその当時から、ひとつ動かせない自分の傾向性というのがある気がしていました。

 それは、
「知的好奇心は人一倍ある。しかしふつうの人にわからない領域まで突き進めない、突き進みたくない自分。ブレーキをかけてしまう自分」
ということであります。
 あるところまで突き進むと、振り返って
「ふつうの人と乖離していないだろうか?」
と不安にかられる、だけでなく本気でそれ以上進みたくない自分がいる。

 たとえば抽象的な言葉だけで書かれている文章を読むと、自分的に無理すればわからないことはないのだけれど、自分にとってのわかる/わからないはさておき、「どうしよう、こんなのほかの人に説明できない」という感情のゆらぎが起きます。
 その「説明できない」という感覚はすごく不快なものなのでした。
 探検ずきではあるのだけれど、しょっちゅう後ろを振り返ってほかの人に説明したい、それが不可能になるほどの探検はしたくない。
 普通にいう「世間の目が気になる」というのともちょっと違って、わたしの場合は「自分の後ろにいる親しい人につねに説明したい、それができないのはイヤ」という感覚なのでした。
 亡くなった母によると、幼児の頃のわたしはお砂場で遊んでいても、しょっちゅう母のほうを振り返ってみる子供だったそうです。

 そういう意味ではそのあとマスコミに行ったのはまあまあ正しい選択だったのかな、と思います。マスコミに行ったら行ったで「学究肌のほうの記者」になったのですが。


 そして「ふつうの人と乖離している、していない」というとき、ではその「ふつうの人」って誰なのか、といいますと、知り合いがすくなく世間のせまいわたしにとって、「ふつうの人」の基準に置いていたのは、自分の親戚のおじさんおばさん、ではなかったかと思います。

 このブログに以前出てきました(2014年3月だったカナ)、長野県の伯父さん伯母さんは農家で、とても聡明な優しい人たちでした。
 わたしは結局、「自然の制約を受けながら、『こうやれば、こうなる』の単純なロジックの連なりで世界を捉え、働きかけ、生計を立てている人たち」のことが無条件ですきなのではないか、と思ったりします。

 
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 成り行きでフランクフルト学派についての本を、まずは例によって入門書から、読んでいます。
 例の、ホルクハイマー、アドルノ、ハーバーマス、ホネットという人たちであります。
 
 おおむね、フランクフルト学派の哲学者はマジメな嫌みのない感じの人たちで好感がもてます(本当カナ)

 そのうちハーバーマスという人は「対話教」「コミュニケーション教」の教祖のような人で、「討議倫理」のようなことも論じていて、よのなかカフェを主宰していた正田も無関心ではいられません。この人はまた相手かまわず批判しまくった人のようで、あっちこっちで論争の当事者になっています。それだけきくと「怖い感じの人」ですが、本来はすごいマジメな秀才であったとのこと。またこの人と直接会った人は「市井の素朴な哲学者」とその印象を述べています。ので、ちょっといいなと思います。ので、ハーバーマス関係の本もまた読んでみることにします。

 しかし、この人の文章は入門書の中にも引用がありますが、まあ難解。抽象に次ぐ抽象で、例によってわたしは「なんか例示してよ?」「どういう実体験があったのよ?」とイライラしてきます。こういう文章を書くのは、知識人コミュニティの品質を保ちたいためなのでしょうかネ…。

(そういいながらアドルノの『三つのヘーゲル研究』という本を読んでいると、ヘーゲルのあの難解な文章は独特の思想のうねりのようなものを表現していること、抽象に徹した文章なのは自分の思考の限界を極めるような作業だったこと、などが書かれていてちょっと腑に落ちました。読み手も限界になるんですけど;;)

(またこの本によると、ヘーゲルは人気教授だったそうですがその語り口は雄弁とはほど遠いものだったそうです。あらかじめ用意したテキストを話すのではなく、訥弁で、その場でお腹の底から言葉を紡ぎ出して話す人だったそうです。そういうので感動させる語り手だったんですね)

 お話は戻って、EUの理念を提唱したのもハーバーマスだといいます。
 EUに関しては、壮大な理想ですがこれも付け焼刃の知識ですが2012年1月でしたか、日経ビジネスオンラインでの岩井克人氏の「知性の失敗」という言葉が印象的で、このブログにも引用したことがあります。
 それによれば、EUを構想した知識人たちは労働力に国境がなくなる、と信じていた。労働力の完全流動化を予想していた。統一通貨というものは労働力の流動化のもとで機能するのだ。現実にはヨーロッパにも、自分の生まれた土地からまったく動かない層の人びとがいる。その人たちについて知識人たちは想像力が働かなかった。

 これはとても示唆的な認識であり分析で、知識人やメディアというのは、往々にして、社会の「動きのある」部分に着眼しますが、動かない「不易」の部分はみえにくいのです。そこをみないがゆえに墓穴を掘ることがあるのです(いや、まだ、EUが失敗だったかどうかわかりませんが)。また、このブログでしょっちゅう書くように、「大学の先生は自分たちのことを研究することが好き」で、自分や自分のコミュニティ内部の皮膚感覚を社会全体に一般化して当てはめようとするところがあります。大学の先生方は、国境を苦もなく越えて仕事するのです。

****


「お叱りを受けそうですが、マネジャー教育という一方の軸足のある中でどこまでこういう思想の世界に首を突っ込んでいいのか…」

 過日一橋大学の藤野教授に書いたメールの中で正田は泣き言を言いました。

 たぶんわたしの性格からして、アカデミズムには入らないでしょう。昔お砂場でしょっちゅう母のほうを振り返っていたのと同様に、「思想」のお勉強をしていてもしょっちゅう親愛なる受講生様方やお友達のほうを振り返り、自分が「わからないこと」をやっていないかどうか、ちゃんと共有できることをやっているかどうか、確認し続けるでしょう。


正田佐与

 

 
 
 

 今、どちらの企業でも

「若手に言葉が通りにくくなった」

との嘆きの言葉がきかれます。

 小さいころからネット・スマホの世界に生きて来た若者世代。リアル人間関係の比重は、われわれの世代よりはるかに小さく、重視されなくなっているのです。
 その結果、会社に就職してからも上司の言葉が右から左へ素通り…。
 これでは、社会人はつとまりません。会社も回りません。

 とはいえ今の時代、ネット・スマホと共存していかなければならない、ではどうするか。
 そんなとき、またもや「承認」が功を奏します。「ウソだろ」と思われますでしょうか。

 「月刊人事マネジメント」誌に連載させていただいている、「上司必携・承認マネジメント読本」の4回目のゲラを編集部様のご厚意により「公開OK」でいただきましたので、転載させていただきます。


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 以下、本文の転載です:

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上司必携・『行動承認マネジメント読本』
〜人手不足チームのやる気と力の引き出し方〜

一般財団法人 承認マネジメント協会
理事長 正田佐与


第4章 「LINE世代」のマネジメントと離職防止


 インターネット、スマホ、とIT技術が私たちの生活に入りこんできたなか、近年とりわけ若手の日常を「激変」させたものがあります。それがLINE(ライン)というアプリです。

LINEは職場にどう影響しているのですか?

 ご存知のようにLINEはグループや個人間でメッセージや無料通話をやりとりするアプリですが、その大きな特徴は、メッセージを読むと「既読」マークがつくこと。それに返信しないことは「既読スルー」といって友人関係を大事にしない行為とみなされます。これがもとで若者たちはスマホ画面から目が離せなくなりました。
 スマホ特有の同時性もあり、LINEの若者世代への影響力は驚くほどです。それは職場でも同様です。ある部門で上司部下間の行き違いが起こると、それを若手目線で伝えるメッセージがLINEを通じて同世代間で飛び交い、他部署の若手が誤解したままになっているというケースがあります。
 「集団離職」にまでつながってしまうこともあります。上司への不満が若手グループ内でやりとりするうちに鬱積し、若手4,5人が一度に辞めてしまったというケース。筆者も昨年以来いくつかの企業で見聞きし、珍しいことではなくなっています。
 そこまで深刻でなくても、LINEで同世代の結束が固くなる反面、上司・先輩とのつながりが薄くなり仕事上の指導や経験の伝承がしにくいという傾向は広く見られます。LINEによってかつてない世代間の分断を招いています。また、「LINEいじめ」が職場で起こるケースもあります。
 LINE世代の登場はまだ新しい話題なので、はっきり確立されたマネジメントの方法論があるわけではありません。しかし、ー禺蠅悗侶屡 ⊂綮福先輩による「承認」 8鎚面銘漫´ぅ繊璽犲言―が今のところ有効です。

LINE世代をどうマネジメントしたらいいですか?


以下、順番に解説していきましょう。

ー禺蠅悗侶屡
 スマホ、とりわけLINEの使用方法について、ICTの専門家から若手に対して研修を行う。できれば同世代の先輩からも経験談を話してもらうとよいでしょう。また、上司・先輩もLINEを使えるようにし、若手と同じグループに入ってコミュニケーションの改善を図る企業がある一方で、LINEでの人間関係が煩雑だという社員からの訴えを受けて、「職場でのLINE禁止令」を出した企業もあります。

⊂綮福先輩による「承認」
 若手が上の世代と交流したがらないと先に述べましたが、実はそんな今どきの若手にも、「承認」は非常に有効です。「承認」をする上司・先輩には急速に心を開き、信頼してくれます。「行動承認」は世代を問わず有効ですし、とりわけ若手向けにお勧めしたいのが、「成長承認」。「…ができるようになったね」「成長しているなあ」といった言葉がけです。若い人であればあるほど、行動をとることによって自分の経験が広がり成長できることは大きな幸福感につながります。そして身近にいてそれをともに喜んでくれる上司・先輩は、信頼できる存在になるのです。
 「行動承認」や「成長承認」をベースにした「承認」は、「見ていてくれるんだなあ」という独特の幸福感をつくります。行動経験の少ない今の若い人であっても、職場のユニットの中で信頼する大人から日々の行動を「見てもらえる」というのは生涯初めての体験です。それによって「行動を通じて現実と格闘する」ことの面白さを学べば、それはLINEなどでのバーチャルな人間関係よりもはるかに大切にしたいものとなりえるのです。

8鎚面銘
 「承認」と並んでお勧めしたいのが個別面談です。会議では人目を気にして発言せず、1対1の場で初めて本当の心の内を打ち明けてくれるのが今の若手の特徴。ある営業会社では、課長が週1回全課員に個別面談をすることを義務づけたところ、離職が減ったそうです。先の「LINEいじめ」のような困り事の話も、こうした場で初めて出てきます。

ぅ繊璽犲言
 これは、少し説明が必要かもしれません。近年話題になるのが、「叱られ下手な子が増えた」ということ。叱責されるとその上司を恨んでしまい、その後ふてくされて、ちょっとした指導を受け付けなくなる、といいます。これは「ほめる教育」や、多くの時間をゲームやネットで費やし実体験が極めて少ないまま社会人になってきた、今の若い人の育ち方が影響しているかもしれません。
 こうした若い人を叱って行動の修正を図るのは過去より難しくなっていますが、お勧めしたいのが、複数の人が見守ることで、「叱り役」以外に「フォロー役」を設けておくことです。フォロー役の人は、叱責された若い人の傷ついた感情の受け皿となり、前向きの行動を促すとともに、叱り役の人に悪感情を持たないよう誘導します。ここで、フォロー役の人は若手に寄り添うものの、叱った内容については否定することなく、叱り役の人と同じ方向性を保つ必要があります。これを、「チーム・ティーチング」ならぬ「チーム叱責」と呼んでいます。

 この連載ではこれまで「叱責」については紙幅の関係で触れられませんでしたが、「承認マネジメント」の世界には「叱責」がちゃんと存在します。それも、メンタルヘルスやハラスメントへの懸念が先に立ち多くの上司が「叱る」ことを手控える昨今でも、「承認」をするマネジャーたちは一方でかなり部下を叱ることもしています。
 なお、若い人に限らず、職場で良い人間関係を維持しパフォーマンスを上げるには「5:1の法則」があります。「良いフィードバック:悪いフィードバック=5:1」。難しいとお感じになるかもしれませんが、すでに「承認」に取り組み始めたあなたなら、自然とこの比に近づけられることでしょう。

LINE世代は上司の承認を求めていますか? 

 実は想像以上に「承認」を求めています。そのことを示すデータがあります。
 昨年の新入社員を対象にしたジェイック社の調査では、新人は‖嵯匹垢訃綮覆梁減漾´⊂綮覆自分の成長を気にかけてくれる その会社で自分が活躍できるイメージが持てる―の3要素があれば、退職を考えるには至らないということが分かりました。このうち´△呂修里泙「承認する上司」を意味しているといえます。
 昔も今も、若者は「承認欲求」の強い存在であり、また「成長」も求めています。若者自身も「認めてほしい」という言葉を頻繁に使い、「承認」には驚くほど素直に反応します。
 昨年兵庫県のある大学では、退学防止に「存在承認」に取り組みました。教授陣が「〇〇君、おはよう」と学生に朝の挨拶をするようになったところ、退学者がそれまでの3分の1に激減した、ということです。また「承認」が浸透した職場では、若者たちが上司に心を開いて仕事の悩みはおろか、「恋バナ」までも打ち明け、「今の若い子は分からない」という一般の嘆きが嘘のようです。信頼できると認めた上司には反応するのも速いのが、今の若い世代であるようです。
(了)

 なんか今回は説明口調が先にたってあんまり出来のいい文章じゃないです
 書いてることは本当です。

「若者が上司の言うことを聴いてない」
 この事態に対して、若者の側に「傾聴研修」をする、という考え方もあるでしょうが、もっと有効なのが「上司からの承認」。

 脳の中で「自分を感じる機能(自己観)」をもつ領域は「内側前頭前皮質」といいますが(こんなの、おぼえなくていいですよ)、いわば「承認」に反応するこの同じ領域が、同時に自分の外部の規範を取り込む仕事もしている。ということを、『21世紀の脳科学』の読書日記でみました。
 つまり、「承認」によって自分の自意識を活性化させてくれる人の言うことは、若者にとって取り込むに値するということ。
 これが、「上司が承認をすると部下が話を聴いてくれやすい」ということのメカニズムです。


「上司必携・行動承認マネジメント読本」シリーズ全体の構成は:

第一章 行動承認は”儲かる技術”である(2015年7月号)
 http://c-c-a.blog.jp/archives/51919833.html
 第二章  「承認」の学習ステップ(8月号掲載)
 http://c-c-a.blog.jp/archives/51921667.html
第三章 女性活用と登用は「上司の眼差し」次第(9月号掲載)
 http://c-c-a.blog.jp/archives/51923763.html
第四章 LINE世代に対するマネジメントとは(10月号掲載)
 http://c-c-a.blog.jp/archives/51925545.html
第五章 「踏み込みすぎない」メンタルヘルス対策(11月号掲載)
 http://c-c-a.blog.jp/archives/51927183.html
第六章 部下の凸凹を戦力化に転じる(12月号掲載・本記事)
 http://c-c-a.blog.jp/archives/51932814.html
第七章 伝えたいことが「伝わる」伝え方(2016年1月号掲載)
 http://c-c-a.blog.jp/archives/51934650.html



(一財)承認マネジメント協会
 正田佐与

お世話になっている皆様


 おはようございます。
 一般財団法人承認マネジメント協会の正田です。
 
※このメールは、正田が過去にお名刺を交換させていただいた方・当協会のイベントやセミナーにご来場いただいた方にお送りしています。ご不要の方は、メール末尾にありますURLより解除ください。
(解除方法が変わりました!詳細はメール末尾をご覧ください)


 本日の話題は:

■「承認」は現代に向き合う思想たり得るか
 ―沢山の「いいね!」に感謝。藤野寛論文シリーズ4部作をブログに掲載しました
 
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■「承認」は現代に向き合う思想たり得るか
 ―沢山の「いいね!」に感謝。藤野寛論文シリーズ4部作をブログに掲載しました

 お蔭様でわたくしのブログ「コーチ・正田の愛するこの世界」は開設10周年。
 関係あるのかどうかわかりませんが、不思議と、今年は良いお出会いに恵まれております。
 藤野寛・一橋大学大学院言語社会研究科教授とのお出会いもその1つといえるでしょう。

 前号でも藤野教授が第一章を執筆された『ジェンダーにおける「承認」と「再分配」』をご紹介しましたが、このほど同教授から、「愛」と「承認」について書かれた過去の論文3篇をいただき、それらについてもブログに読書日記を掲載いたしました。
 また嬉しいことに、このシリーズはフェイスブックのお友達が毎回シェアしてくださったり、「いいね!」を押してくださったり、長文記事にもかかわらず温かく受け止めていただきました。
 
 読者の皆様、週明けのご多忙のさなかでいらっしゃると思いますが、お時間のふと空いたときにご覧になってみてください:

「愛」と「自由」と「暴力」と「承認」についての藤野寛論文シリーズ

(1) 温かい見方と客観的な見方、愛と人権尊重と業績評価―『ジェンダーにおける「承認」と「再分配」』をよむ 
http://c-c-a.blog.jp/archives/51924134.html

(2) 「愛の危機」の時代「愛」の差別、闘争、苦しみと幸福、そして家族のジレンマ―藤野寛氏「家族と所有」をよむ
http://c-c-a.blog.jp/archives/51925108.html

(3) 村上春樹文学と「承認」、無視、軽視、物象化との対決、よい社会とは何か―藤野寛氏論文より第二弾
http://c-c-a.blog.jp/archives/51925168.html 

(4) 自由と暴力と承認、「承認」が引き受けるものの範囲―藤野論文をよむ(3)
   http://c-c-a.blog.jp/archives/51925241.html  

(番外編)
   正田と「承認をめぐる闘争」、実践者たちの強さと脆弱さ
   http://c-c-a.blog.jp/archives/51925284.html 


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*…*…*…*…*…*…*…*…*…*…*…*…*…*

 さて、「藤野寛論文シリーズ」を終えてマネジャー教育の「行動承認」の教師である正田がおもうこと。

 ここでは、

●わたしが経験した「承認をめぐる闘争」
●実践者たちの強さと脆弱さ

という話題を書こうと思います。


 「承認教育」にも、「闘争(葛藤)」の側面があります。52歳女の正田はそれの当事者となり続け、実はそのことにもうかなりくたびれてもいます。

 その「疲れた」という自分の中の正直な感覚も含め、これまでに経験した「闘争」について、この機会に書いておこうと思います。
 たぶんそれは歴史の一コマで、記録するに値することだと思うのです。


 もともとホネットが「承認をめぐる闘争」というとき、正田のやるようなマネジャー教育が「与える承認」を社会に供給するという事態を想定しているのかどうか―。
 藤野論文にも「承認は「認められる」という受動態であるところに独特の意味がある」ということを言っていて、「与える承認(=能動態の承認)」が、そこで想定されているのかどうかわかりません。
 
 でも、「与える承認」をマネジャー向け教育プログラムとしてご提供し続けてきて、10数年来強烈な成果を出し続けてきたのは厳然たる事実です。

(ちなみに、「学術的に検証」してもらうのはもう、諦めています。だって少々の学者さんが想定するような業績向上のレベルではありませんもの。論文書いてどこかに出しても「捏造?」って言われるだけで、学者さんにとってもメリットないと思います。
 学者さんたちがやるような業績1.05倍とか1.1倍とかの程度の、「学術的に検証された」教育プログラムより、民間療法の当方のほうが「はるかに上」だ、ということです)

 さて、「与える承認」を社会に供給するには、社会の上のほうの階層に働きかけないといけません。経営者、マネジャー…あたりに担い手になってもらわないといけません。
 そこで経営者教育、あるいはマネジャー教育、という選択肢になるわけですが、その市場には独特の流通のルールがあり、購買担当者は独特の人格、独特の利害関係をもった人たちであり、一介の主婦から出発した正田の参入は容易ではありませんでした。

 以前にも書いたと思いますが正田が初めて勇気を奮い起こして「法人営業」にいった先の購買担当者は、営業資料を投げ返したものです。「主婦」の正田が、「でもわたしの生徒さんは業績1位なんです!」てなことを言うからです。その件はいまだにトラウマになっています(苦笑)

 正田が経験してきた「闘争」というのは、そうした「社会の上層部」に働きかけようとする際の参入障壁のようなものであったり(「無視」「軽視」にカテゴライズされるでしょう)、いざ参入したあとも起こる妨害であったり、またその参入の困難をいくら訴えても理解しない周囲の人の鈍感さとの間の葛藤であったり、します。
 参入障壁を詳しく言うと、そこには関西の風土特有の、「お爺さんコンサルタントをありがたがる」気風も影響していたと思います。より特定すると、「団塊コンサルタント」ですけれど。その方々が今の時代到底通用しないような、イケイケドンドンの論調のリーダー研修を行い、それは受講生がまじめに取り組めば取り組むほど死屍累々になるようなものでした。そういう類のものがメンヘル疾患や自殺、パワハラ訴訟をつくりだしていないか、わたしなどは本気で危惧しますが、まあそういう因果関係に思い当たる人はいませんナ。
 また下手にわたしのために動いてくれた人びとが動いた先で「憤死」するのもみてきました。中にはこころを病んだ人もいました、まじめな話。

 ちょうど1年ほど前、通算7回目の事例セミナーを神戸で行った際(7回もやらなければならなかったことが、既に「無視、軽視」を象徴しているのだが)、あろうことかパネリストの1人がイベントの席上で反旗を翻し、この教育プログラムに何も価値がなかったかのように言い、自分の部下が優秀だっただけだと強弁し、かつわたし個人のことも侮辱した、という事件もありました。
 そういうのも「承認をめぐる闘争」の一部でしょう。歴史の一コマですから、担い手の名前とともに記録しておきたいものです。

 また、ブログの長い読者の方はお読みになっているかと思いますが、他社批判の作業の忙しいこと。
 このブログの右側に最近表示させた記事カテゴリに「研修副作用関連」というのがありますが、そこをみていただくと、主に心理学系の教育研修や自己啓発本を軒並み批判してきました。「内発と自律論」や「離職者続出」にするコーチングの某流派やNLP、アドラー心理学の「勇気づけ」、自己啓発本、さては「傾聴教」も批判しました。中には善意の担い手の方もいらっしゃるかと思いますが、多くは専門家の間では常識である「暗黙の前提」を欠いたプログラムであるために、素人である受講生の中に落ちるとおかしなことが起きてしまう。そこまでの想像力をもたずに提供しているなら、それは「わるい研修」です。クルマのリコールをわらえません。

 そうして、「他社批判」という汚れ仕事は、「承認」のもつあたたかく受容的な雰囲気にそぐわないものでした。それで味方のロイヤリティが下がる場合もありました。「承認」は「内集団」のなかでは限りなく温かいのです。しかし、「外集団」が攻撃してくるときには無防備ではいられません。また「外集団」との間になぜきっちり線をひく必要があるのか、なぜぼやけてはいけないのか、ということもきっちり言わないといけません。とはいえ批判の仕事はあまりにも多すぎ、自分の人格がおかしくなったのだろうか、と思えるほどでした。

 残念ながらその汚れ仕事を担うのはずうっとわたし一人で、その孤独感は半端ありませんでした。

 最近懺悔したのですが、「他社批判」「他理論批判」をやる中で、「承認欲求バッシング」に対する批判は、後手に回りました。そこまで手が回らなかった、と言ってもいいです。現象としては2013年ぐらいから、どうも出版界のこの傾向はおかしい、と気づいていましたが、ほかに批判しないといけないものがあまりにも多すぎて、そこに手をつけられないできました。

 もっと早く
「そこに照準を合わせないといけない」
と気づいていれば、また
「なぜそれがおかしいか」
をきっちり言っておけば、そこに連座しないですんだ人もいたかもしれない。

 わたしを「他社批判ばかりする」と批判する立場もあるでしょうけれど、自分の責任を全うするために批判をしなければならない場面もあるわけです。批判が遅れて悲劇を生むかもしれないわけです。
 

 
 ともあれ、正田は失うものもない身ですので、売られた喧嘩は喜んで買います。今社会で下の階層に沈められ苦しんでいる人々のためであれば、「えせ知識人」の1人や2人、にどと表舞台に立てなくするぐらい全然平気です、たとえ相打ちになっても。
 そして喧嘩慣れしているので、たぶん喧嘩になったらわたしのほうが強いです。このあいだも某ダンジョンで自称武術家の人を投げとばしました、言葉で。喧嘩売りたければどうぞ売ってきてください。52歳女性のわたしを怒らせたかったら怒らせてみなさい。


****


 さて、「承認教育」は、極めて優れたマネジャーをつくり、高い業績向上を起こします。

 その担い手となるマネジャーは、決断力に富み、配慮に富み、行動力があり、人々を上手にモチベートし、人々を公正に評価し、人の痛みがわかり、柔軟で過去にとらわれず、また責任感高く、真摯で考え深い人々です。
 それはもともとそうした才能があった人々が担い手として定着しやすいのだと思いますが、トレーニングと実践により、それらがますます高まります。ワーキングメモリが増え思考や感性の密度が上がり、恐怖を感じる扁桃体の細胞密度が減り、ものごとを前向きに考え決断します。

 いいことずくめのようですが。
 ところが、この人々にも弱点があります。
 どうも、「悪意に無関心でいられない、傷つきやすく落ち込みやすい」という脆弱さがあるようなのです。

 これは過去の複数の事例をみて言っているので、「どういう実体験に基づいて?」という探りはおやめください。

 たぶん彼(女)らの鍛え抜かれたミラーニューロンは、他人の悪意ある言動をもフォローしてしまい、その意味・意図を理解してしまうのでしょう。また共感ホルモンのオキシトシンには、沢山のよい作用がある一方で、「おちこみやすい」という副作用があります。

 だから、実践者を傷つけるのはやめてほしい。

  また、傷つけ(harm)を誘いこみやすい、というんでしょうか―
 正田もクソマジメなたちなのでよくわかるのですが、真摯でない人は、真摯な人をばかにしたくなる。真摯な人というのは、からかい甲斐がある。
 なので、真摯な人々に向けた「からかい」というのは、よく出やすい。

 大きなワーキングメモリをもった人というのは、ものごとを通常より一段階深く考えることを厭いません。
 その姿勢は部下からは絶大な信頼を生むものですが、(ドラッカーの「マネジャーは真摯であれ」というフレーズも想起されたい)そこまで真摯ではない同輩や上司からみると、鬱陶しくみえます。それが、こころを傷つける揶揄につながりやすいものです。

 そして、昨今のクルクル変わる研修採用の問題。
 「承認教育」が有効なのは既に自明のことですから、彼(女)らから取り上げないでほしい。1年やそこらで取り上げて次の類似の研修を採用してしまったら、恐らく真摯な人ほど深く傷つきます。

 そこで起こる「傷つき、落ち込み」は、真摯でない人からは恐らく想像がつかないものです。



正田佐与
 

 

 


 

 

 さて、「毒食わば皿」で、藤野寛氏(一橋大学大学院言語社会研究科教授)からいただいた最後の論文、「自由と暴力、あるいは<関係の暴力性>」(『自由への問い 8 生―生存・生き方・生命』岩波書店、2010年)を軸に、

「暴力と承認」
「自由と承認」

あるいは

「(ホネット承認論において)承認がその定義の範囲として引き受けているもの」

を、まとめてみたいと思います。


藤野寛氏論文-2


 
 ここに出てくるのは、フランクフルト学派のアドルノ、イギリスの政治哲学者バーリン、そしておなじみ現代ドイツのホネットです。そろそろこのブログ的にホネットにシンパシーが出来つつありますね。

 アドルノ(テオドール・W・アドルノ、1903−1969)は、ユダヤ系ドイツ人の哲学者で、ナチズムの「暴力の経験」を生涯身に帯び多様な現象に暴力を感じ取りながら生きていました。「暴力の遍在する(偏在ではなく)世界」というのがアドルノの指摘でした。
 

「アウシュヴィッツ以降に生きるとは、アドルノのような人にとって、日常生活に見出される様々な暴力現象が、その都度、アウシュヴィッツとの連想の下に経験されねばならなかった、ということを意味したのだろう。「アウシュヴィッツ以後、詩を書くことは野蛮だ」というよく知られた言葉も、そのように受け止められるべきものである。」(「自由と暴力…」p.60)

「アドルノ/ホルクハイマーが暴き出したのは、文明化という出来事の内に、「野蛮」がそれだけを切除することが不可能な仕方でセットされている、という消息だった。人間を暴力や野蛮から着実に遠ざけ、洗練させると無邪気に信じられていた「文化=啓蒙」が、それ自体「野蛮」であるということ、文化人とは野蛮人の別名であるということ、それが『啓蒙の弁証法』という著作が暴き出した事態に他ならない」(p.62)

 
―ここで「アドルノのような人にとって」という言葉がちょっと意味深に、わたしには映りました。「暴力性」に対する感受性の高さ、というのは、このブログの過去記事では、「傷つけないこと」(harm reduction / care)という種類の道徳感情に当たりそうです。
脳科学から見た5つの道徳感情が人を動かす―『脳に刻まれたモラルの起源』をよむ参照)

 そのような資質をもってアウシュヴィッツの時代を生きたとしたら、そこではひりひりするむきだしの感受性を思想に反映させずにはいられなかったろう、と思うのです。

 
 さて、アドルノは啓蒙という語の内にある理性や主体、自由といった近代の諸理念はいずれも外部の自然、および内部の自然に対して支配する地位に立とうとする、自由の獲得をめざす営みだ、と言い、そこで「自由とは支配の別名である」という指摘があります。自分が主体になるということは、他のものや他人を支配することだと。だから野蛮なのだと。


 これ自体大きな指摘です。しかし、これに異論を挟んだのがフランクフルト学派第三世代のホネットでした。ホネットは、社会理論を「自由を求めての闘争」のみをモデルに考えることが、社会理論としては一面的であり、不十分だと主張しました。


「ホネットは、近代の社会哲学が、社会関係を基本的に「自己保存をめぐる闘争」として理解してきた、と指摘する」(p.62)

 1つ前の記事でもみたルソーが『社会契約論』でいうように、片時も休まず命がけの闘いをしないで済むように、人々は契約を結び、「社会」を形成した。そして関係の中で生きることを余儀なくされますが、そこで人々が目指すのは、支配者の地位を確保すること。少なくとも、支配されないという消極的な意味で、自由であること。

「自然に対する関係に定位して自由を考えようとすることで、「自然支配の能力としての理性の獲得=自由(自律)」と立論され、身体も含め、物との関係においては、自由とは支配の能力である、という等式が成り立つ」(p.63)

―自由とは支配の能力である(物との関係において)。読者の皆様おわかりになりますか。わたしは既にあたまが痛くなっておりますが、例えば原始時代、人間が火のおこし方を発明し、石や枝を変形させて武器の作り方をおぼえ、そうして非力な人間が自分より大きく牙をもった獣を狩るようになる、そういうプロセスを思い起こすといいでしょうか。

 (ルソーらの)社会哲学は、この等式モデルを社会関係の構想にも当てはめ、他者支配を通しての自己決定(自由)の確保ということが、この社会理論の理念でもあるとみている、とホネットはいいます。

 それ、ちゃうやろー。と、いう声がここで、読者の皆様の脳裏にも起こりましたでしょうか。だって、他人は獣でも石器でもないですもの。
(でも確かに、「万人の万人に対する闘争状態」、たしかホッブズがそんなこと言ってたしルソーもそれ的なこと言ってた気がするな。)

 と、ホネットも同様に考えたようです。

「社会関係が「自己保存・支配をめぐる闘争」に一面化され、還元されて論じられてしまっていると(ホネットは)指摘する」
「そして、この批判を可能ならしめているものこそ、ホネットがその社会理論として精力的に展開している承認論である。社会性とは「自己保存をめぐる闘争」に尽きるものではなく、それと同等に「承認をめぐる闘争」が考慮されねばならず、それをこそ「社会的なもの」の本質構成要素として捉えなければならないとする主張である」(p.64)

―ふーやれやれ。結局ここがほっとする着地点ですね。
 自分と同様に主体であり、尊厳をもった他人の中で生きるということ。だから承認論。ここでいう「承認」は「支配する―されるのではない、対等な尊重し合う人間関係」ということを言っているようにみえます。

 人間は人の間と書くんだよ。なんて、実は当たり前のことを言っていそうな気もしますが、先行するほかの理論との対比の中でやっとそれは明らかになります。なので面倒でも先行する理論をおさえながらすすまないといけないゆえんです。

 この手続きのめんどうなこと。次以降の記事で少し詳しく書こうと思っていますが、正田はこのブログの誕生以来、いろんな「よそさま」の理論を批判しまくって今に至っていますが、やっぱりそれは「承認教育」が生き延び人々を幸せにするために必要な手続きでした。

 閑話休題。

 自由とは支配である。
 だから、自由であるだけではその人は幸福とは言えない。
 このことを言うためにもう一つの視点がバーリンの自由論だ、と本論文はいいます。
 
 アイザイア・バーリンはその『自由論』の中で「消極的な自由」と「積極的な自由」の区別を規定しました。
 前者「消極的な自由」とはすなわち、自己の活動が他者による干渉を免れていること。
 しかし、それはうれしいか?
 例えば引きこもりも他人からの干渉を一切受けていないのかもしれないけれども、それを「自由」だ、と呼べるかどうか。自分の中に何らかの欲求がありそれを実現するために行動する人のことを「自由」だ、とわたしたちはイメージするのではないか。

 そこでバーリンの「積極的自由」も「欲求」を問題にします。

「「自由」という言葉の「積極的」な意味は、自分自身の主人でありたいという個人の側の願望からくるものだ。」(バーリン)(藤野論文p.65)

「自分自身の主人、という言い方をする時、より正確には何に対する主人(主体)が考えられているのか、と問えば、「欲求」を措いてあるまい。」(同)

 自分の欲求の主人になる。しかし、「欲求」というのは100%自分の内発的な欲求などはないので、(正田注:これも「内発と自律論」のきわめてあっさりとした否定です)

「現実には、人は、自らの欲求を、周囲(他者、社会)との関係の中においてこそ見出してゆくのではないか。私の欲望とは、他者の欲望であるとは言わずとも、他者の欲望との同一性と差異性の認識を通してこそ自覚されてゆくものなのではないか」(p.67)


―これは、親御さんが望むからいい高校や大学を受験するとか、いい会社に就職するとかいうことかな?あるいはその社会や文化が規定する「まっとうな人」として社会人になろう、と思うことだったり、「偉大な人」「尊敬されるべき人」を目指して努力する、ということも入るかもしれません。会社の理念や学校の校訓にしたがって生きるようなことも入るかも。
 わたし的には例えば論文を書いてもそれを査読で認められなければ世に出ない、というところから「人に認められる」が不可欠だ、というロジックを期待していたのがそこを言っているわけではないようです。「欲求の形成される前段階の他者の影響」を言っているようです。いずれにしても、ひょっとしたらマズローの「自己実現」へのアンチテーゼかな、という風にもとれます、時代的に。


「消極的自由を100%実現しようと思うなら、人は、全くもって他者との関係なしに生きるか(テレビやパソコンの前に座り続けるか)、さもなくば、関係するすべての他者を客体(奴隷)の位置に追い込むかするしかない。そういう孤独な、そして内容を欠く自由に飽き足らず、そこに実質的な内容を与えようとすると、他者との関係に支援を求めるしかなくなり、つまりは、自由が他者によって侵害されることを意味せずにはすまなくなる。
 私は、無造作に「充実」という言葉を用いている。「幸福」という言葉で置き換えても差し支えないものだ。バーリンの自由論が教えてくれることは、「積極的自由」の理念の孕みうる危険に警鐘を鳴らすことである以上に、むしろ、自由の理念一本槍では、「充実した自己」「幸福な自己」について構想するための道具立てとしては不十分だ、という点にある。」(p.68)

―自由だけでは幸福であるために不十分だ。
 そこで、バーリンは「承認(欲求)」を出してきます。必要なのは、人から認められる/褒められる、愛される経験なのだと。

「注目すべきは、承認が、自由に対する1つのオルターナティヴとして呈示されている点だ。人間は自由だけでなく、同時に、承認への欲求をも抱く存在であるという論点が、いささか唐突に、しかし力強く表明されている。」(p.69)

―唐突、そう、いつも唐突なんだよなー承認の登場って。ルソーにおいてもヘーゲルにおいてもそう。前触れなくグイと突き出される。だから仕事ですごく説明しにくい。
 ともあれバーリンは自由への欲求と承認への欲求のふたつを呈示しました。ただしその関係、両者は両立可能なのか否かは呈示しませんでした。

 
 そしてやっと「承認をめぐる闘争」が出てきます。

「人間がその理性を拠り所にして自然支配の能力を高めてゆくプロセスとしての文明化が、自由の拡大と考えられているのだが、そのように「支配をめぐる闘争」「自由をめぐる闘争」に着目するだけでは、人間が生きる上での「社会」性というものの一面しか捉えていない。それどころか、「社会的なもの」の最も本質的な側面を取り逃がしてしまっている、と。
 では、その時、社会的なものとして何を考えればよいのか。「自由をめぐる闘争」と並んで、「承認をめぐる闘争」こそそれである―これがホネットの回答である。」(p.71)


―「承認をめぐる闘争」と「自由を求めての闘争」が異なる点は、どこか。

「相手も主体であることは、こちら側にとっては、自由の制限を意味せずにはすまない。」(p.72)

 「自由の制限」の表現が出てきました。フィヒテ先生だったかな、以前このブログでそれを言ったのは。わたし賛同してたんですよね、それに。

「自由とは、自律であり、自己決定であるが、相手を主体として認めることは、相手の意思を尊重することであり、その限りで、こちら側の意思が制限される事態を伴わずにはすまない。言いかえれば、自由を求めての闘いは、相手を客体たらしめることによってこそ完成する。強く言えば、相手を奴隷たらしめることだ。」(pp.72-73)

 ―「主人と奴隷の弁証法」ですね。なんども出てきたのでそろそろ奇異には感じないでしょう。でも時々おさらいが必要ですね。

 それに対して、「承認をめぐる闘争」とは。

「それに対して、「承認をめぐる闘争」においては、相手が客体(奴隷)になってしまったのでは、闘いに勝利したことにはならない。一体誰が、奴隷から認められて喜ぶだろうか。相手も自由に判断できる人であってこそ、そういう人に認められ、評価され、あるいは愛されることが、私にとって価値ある経験となる。(略)相手も主体でなければそもそも意味をなさない闘いなのだ。「承認をめぐる闘争」においては、主体/客体という概念セットは機能しない。主体と主体の関係、間主観性こそがこの闘争の内実をなす、と表現するしかない。」(p.73)


―おもしろい。
 (わたし的には)ここは2つのポイントがあります。
「一体誰が、奴隷から認められて喜ぶだろうか。相手も自由に判断できる人であってこそ、そういう人に認められ、評価され、あるいは愛されることが、私にとって価値ある経験となる。」
 「イエスマン」から認められても嬉しくない。あるなあ。(時々、それでも嬉しい人はいますけれどね)
 で、少々手ごわい、利害関係のない人から認められると嬉しい。尊敬する人、雲の上の人から認められると最高に嬉しい(後者の代表的なものが「園遊会」であるとわたしは思っています)
 だからこそ、ある時期から子は親の元を離れる。自分を無条件で愛してくれる人では飽き足らなくなり、友人や異性や先生、コーチからの評価、あるいは試合に勝つこと、などを求めるようになる。
 そして最後の文、
「主体と主体の関係、間主観性こそがこの闘争の内実をなす」
 これもおさらい。
 前にも書きましたが正田は「間主観性」という言葉が好きなんです。ウエットな「共感」という言葉よりも。(もちろん、「共感」もTPOに応じてつかいます。)
 「間主観性」には、「共感」以上に、他人の主体性、他人の尊厳を認める、という語感があります。そして、感情のレベルで共感できようができまいが、理性のレベルで維持する、という語感があります。
 「共感」一本槍だと、例えばすごい努力して成功した人には「共感できない」という事態もすぐうまれてしまいます。映画「マイ・インターン」に出てくる「ママ友」たちのレベルの低い感情状態もうまれてしまいます。(この映画については、いずれ稿を改めて書きたいと思います。「承認映画」です。)

 
―では、社会生活というものを「自己保存/支配/自由をめぐる闘争」と「承認をめぐる闘争」という2つの観点からとらえることは何を意味するでしょうか。これが次のパラグラフです。

「第一に、両者が共に「闘争」として捉えられることで、社会生活を調和や平和の相のもとに見る視点が斥けられる。われわれは、個人主義が支配し、その弊害が強く意識される環境の中に生きているため、関係や間柄について語ることは、既にそれだけでもう友好的で肯定的な何ごとかについて語ることでありうるかのように感じかねないのだが、それは一面的だ。間柄とは、闘争(葛藤)の別名である。そして、闘争であれ葛藤であれ、そこに勝者だけでなく敗者もまた生まれることは避け難い。それは、社会生活という競技のルール、あるいは文法とでも呼ぶべきものだ。「共同」や「連帯」の理念一本槍で押し、一人の敗者も生み出さないことを標榜する「社会」主義は、社会性への誤解に基づく社会的ロマン主義として、破綻を約束されたプロジェクトなのではないか。社会的なものの社会的なものたる所以は、そこで必然的に生み出されることになる敗者を、どのようにケアするか、という点にこそあるだろう」(p.76)


―社会生活とは、「闘争(葛藤)」だ。
 1つ前の記事の繰り返しにもなりそうですが、その視点をもたらすときの苦渋と諦念の語感をも写しとりたかったので、あえてパラグラフごと引用しました。
 「社会で生きることは闘いなんや!当たり前だ、どや!」と突きつけているのとも、違うのです。というために。
 ここは、今「一億総活躍社会」が言われ、その中で「ソーシャル・インクルージョン」(@菊池桃子)が提唱され、という時代に、どういう役割を果たすか分からないままに引用しております。
 
 「闘争(葛藤)」ということでいえば、実は正田も「与える承認」の教育をしてきた立場として、それの繰り返しをこのブログでも実生活でも演じてきた、という自覚があり、次の記事あたりでそれをまとめて書かせていただこうかと思います。

 このあと「暴力」についての考察がありますが、それは1つ前の記事と重なります。すなわち、ホネットのいう「承認の不在」がもたらす「暴力」とは、(1)無視(2)軽視(3)物象化―であると。

(ここは、IS(イスラム国)でのような、あるいはシリア難民を生み出したような物理的な「暴力」とは違うものですが、そちらは「自由(支配)を求める闘争」がもたらすものとして理解してよいのかもしれません。いや、「物象化」の中に入るのかな。)

 そこで「承認をめぐる闘争」は、上記のような「暴力」に対抗しようとするものになります。合法的には社会運動、訴訟、問題特化型政党、投票行動、のような形をとりうるでしょう。

 「難民」はまた、受け入れ先の国家で「承認をめぐる闘争」の当事者になることが予想され、それは「闘争」の連鎖であります。そこから目を背けてはならない、タイムリーな話題で言えばそうなるでしょう。
 え?FBのヘイトスピーチイラストレーターのページ削除を求める署名は、しましたよ。


―まとめると、「ホネット‐藤野論文」で「承認」が引き受けている意味あいというのは、

大定義:肯定的な見方、関心をもった見方

小定義:
(1)愛(限られた範囲での無条件の濃密な感情)
(2)人権尊重(無視しない、みくださない、包摂する)
(3)公正な評価(努力したものが報われること)

 そしてそれは、「それを得るために闘争(葛藤)する価値があるもの」ということになります。
 また、「幸福の不可欠の要素の1つ」だ、ということも読みとれるでしょう。
 「自由を求める闘争」というエゴイスティックなものだけでは人は幸福になれないのだ、というメッセージも。

 そこからリベラリズム・リバタリアニズムとの分岐、コミュニタリアニズムとの合流、という文脈も読みとれるのかな、と思います。
 「ポストモダン」からはまた一歩先に進んだ思想、ともいえるかと思います。

 やはりこのへんは藤野教授にお伺いしたいところです。

 「ベルリンの壁」が崩壊したとき(1989年)、「今からは冷戦ではない、民族対立の時代だ」という言い方がなされました。
 より時代が下って格差社会が鮮明になるこんにち、浮かび上がっているのが「承認」だ、ということに早く気づいた人ほど先に幸せになれそうです。とこれはわたしの勝手な物言い。



 以上までが「藤野論文3部作」(最初の一橋大学連続講義本からの引用を含めれば4部作)ということになります。
 インデックスとしては

(1)温かい見方と客観的な見方、愛と人権尊重と業績評価―『ジェンダーにおける「承認」と「再分配」』をよむ
 
(2)「愛の危機」の時代「愛」の差別、闘争、苦しみと幸福、そして家族のジレンマ―藤野寛氏「家族と所有」をよむ

(3)村上春樹文学と「承認」、無視、軽視、物象化との対決、よい社会とは何か―藤野寛氏論文より第二弾

(4)自由と暴力と承認、「承認」が引き受けるものの範囲―藤野寛論文をよむ(3)(本記事)

となります。


 「引用過多」の読書日記になっていることについてお詫びしたところ、(1)の本の出版社からの喜びの声を伝えて温かくお許しくださった藤野教授に感謝です。行動理論的に図に乗って(2)以下の記事もアップしてしまいました。

 時節柄、「承認論」を正しく皆様に知っていただきたい、と思うのです。
 またいつものことながら研修受講生である実践者の皆様も、教師・正田の知的探検(それは六甲山に登ってイノシシに引きずられて、というレベルの他愛のないものではありますが;;)を温かく見守ってくださり、ありがとうございました。
 そしてフェイスブックの心優しいお友達の皆様、長文記事ばかりのブログにいつも「いいね!」を押してくださり、コメント・シェアしてくださり、ほんとうに感謝しております。


正田佐与




 
 

 

 

 ふたたび藤野寛(一橋大学大学院言語社会研究科教授)論文。

 ◆「アクセル・ホネットと社会的なもの」 一橋大学大学院言語社会研究科2009年度紀要『言語社会』第4号所収
◆「自由と暴力、あるいは<関係の暴力性>をめぐって」 『自由への問い 8 生―生存・生き方・生命』(岩波書店、2010年)


 藤野教授を「愛を語る哲学者」と一面的なレッテルをはってもいけません。

 社会哲学である「承認論」を、さまざまな分野で「社会の側から経済を再構築する哲学が必要だ」という主張が出始めている今、藤野教授の論文に沿ってご紹介したいと思います。

 ここでは思想の系譜としてルソー-ヘーゲル-アドルノ-ホルクハイマー-ホネットが登場します。途中で「村上春樹」も登場したのにはびっくり。ホネットはこのブログ読者の方はもうおなじみ、現代ドイツを代表する思想家で、ヘーゲル研究者であり「承認論」の継承者ですね。


「アクセル・ホネットと社会的なもの」

 フランス革命期の啓蒙思想家、ルソーを、ホネットは社会哲学の祖と位置づけます。ルソーは「人間不平等起源論」で、自然状態/社会状態の二項対立を描き、そこで自立した孤立生活/他者志向の社会生活を対比させたのでした。
 しかし、ルソーは自然状態のほうを肯定し、社会生活を、またそこで発生する「認められたい」というダイナミズムをとことん否定したのでした。
 「社会化というこの段階にたどり着くや、たちまち、社会的ダイナミズムが発生し、その行き着く先は、認められたいという欲求と威信を誇示することとのきりのない堂々めぐりなのだ」(p.241)

「他者から認められたいという欲求が、往々にして、とても見苦しい振舞いを引き起こすことは否めない。それは、人にチヤホヤされたいという願望であり、実際の自分以上のポジティヴな像を流布させようとする思惑なのだから。また、他人の評価は人から謙虚さを奪うだろう。承認をめぐる闘争とは、常に、虚栄・虚飾・虚勢の闘争に転落しうる素性のものだ。ルソーを承認論の―ただし、否定的な―始祖と見なすことで、ホネットは、その消息にも十分に自覚的であることを示している」(p.242)

 ―うーん、そうですね。「承認欲求バッシングを批判する」立場のわたしもこの点は同意します。「承認欲求」って、亢進してみっともない有様になることがあります。
 願わくは、受講生様方は「虚栄・虚飾・虚勢」と距離を置く人々であってほしい。
 そのためには、まずは「承認欲求」という自分の内にも他人の内にも存在する、善にも魔にもなり得る巨大なものの存在を「認め」、ときにはそれに呑みこまれる経験も経て受容し、時間をかけてコントロールするすべを身につける、しか結局手はないのだと思うのです。リーダーの方々には苦しい試練です。
 あ、正田はね、時々このブログも書けなくなるときがあるんですが、それはよっぽど忙しいときを除いては、「ブログを書く自分」への懐疑が湧いて自分もまた承認欲求の徒ではないのか?という自問の声が強くなるときです。


 ホネットはそれに対し、「承認」を肯定的な方向に捉えます。
「自分自身に満足し他者を必要としない、というあり方が可能になるためにも、いささかの不安の思いもなく他者による承認を享受したという経験が経られていなければならない」(承認の経験、pp.242-243)

 加えて、「承認の不在」という事態。これは「無視あるいは軽視(Missachtung)」と「物象化」という二つの現象に分けられます。
 「無視あるいは軽視」は、「不可視性」ということ。例えば黒人の奴隷(奉公人)の前で貴族は平気で服を脱ぐ。それは奉公人たちはそこに居合わせないものとされていたから。見えていないのではなく、その「存在を認めない」のです。

 そして、半月前の論文にも出て来た、「承認が認識に先んじる(承認の優先性)」というテーゼ。
 わたしも読み違えていたかもしれませんが、ホネットはこれを、対人に限定して言っていたのではないのです。世界全体に対する姿勢について言っていたのです。

「関心を寄せるという態度が、現実を中立的に認識する態度に先立つ。承認が認識に先立つのである」(p.244)

 先立つ・優先性という言い方は、時間的な先行だけではなく、承認という経験は、認識のそれが成り立つための基盤の役割を果たすものだ、とホネットは言います。


「 「承認」と「認識」の対比をめぐって、もう1点、基本的なことを押さえておこう。
 遠くから歩いてくる人を見て、あれは恋人だ、と認知する。あるいは、敵だ、でもよい。その場合、視界に入ってきたものはただ無関心に確認されているのではない。ある種の焦点化のような操作が働いている。ある対象だけを浮き彫りにする、際立たせるという操作だ。(略)自らの関心によって中心化/周縁化された画面の中で、世界は、対象は認識されていくのに違いない。ホネットが引用する「知識は最終的に承認の上に基礎を置く」というヴィトゲンシュタインの言葉が言わんとするのも、そういうことだろう。
 ということは、そこでは、自分にとって重要な何かとそうでない何かとの差別化が行われているということだ。それは一種の価値評価である」(p.246)

―あ、そこまで言っちゃうんだ。ここで言われていることは、価値評価ではあるけれどもマネジメントの承認の世界でいう業績の評価や、行動の評価とは異なり、「何にフォーカスするかを無意識に決める」という、きわめて消極的なレベルの原始的な価値評価であるようです。うーんたしかにその段階のことも依怙贔屓とも言えるな。昔、マイナーな球団のファンだったわたしは「ジャイアンツが好きな人は結局最初にジャイアンツが目に入ったから「偏愛」してるんじゃないだろうか?」とおもっていましたが。
 また、ホネットは純粋客観的な認識をダメだと言っているわけでもなく、二項対立ではなくそれをも肯定するので、正田は「承認の徒」でありながら一方で「ヒューリスティック論」みたいなものをやるのですが実はそれでいいみたいなんです。

 ここで筆者藤野氏は「子供の音楽発表会での親の態度」というものを例示します。

「…しかし、私は、1〜2時間の発表会の間、ほぼわが子しか見ていない。大勢の他の親も、同様に、ほぼ自分の子供しか見ていないのではないか。この事態に気づいて、私は奇妙な気分にとらわれる。舞台の上では、1つの合同発表会が行われているのに、聴衆・観客である親たちにとっては、実態としては、複数の独演会が同時並行的に行われているに等しい。そして、子供の側でも、会場の中で自分の親しか意識していない。彼(女)にとっての聴衆・観客はただ一人、という事情にあるのかもしれないのだ。
 ここで起こっているのが承認ではないか。(こう言うことで、「承認」という日本語がおよそ事象内容にそぐわないものであることも明らかになろう。)」(pp.248-249)

―最後の一文は、anerkennenというドイツ語は「承認」よりは「認める」という日本語に対応する、という半月前の論文を思い出したらいいのでしょうね。

 藤野氏によれば、幼稚園では親がカメラを構えるのを防ぐためプロのカメラマンに撮影を委託するが、そのカメラマンは無味乾燥なロングショットを撮っていればいいわけではなく、可能な限り一人ひとりのクローズアップをおりこむ。それはあくまで公平な神の視点と、究極のえこ贔屓である親の視点を両方あわせ備えるようなアクロバット的カメラワークである(これを、ケアの視点とフェアネスの視点の両立、と捉えることも可能だろう)と言います。おもしろい。

 そして村上春樹が登場。
 『風の歌を聴け』における、「僕」の「わかった」という表現は、正確な理解を意味しているのではなく、
「君(の心の状態)は、僕にとって、どうでもよい何ごとかなのではない」という関心の念を表明しているのだ。加えて、こちらの解釈を押しつけるつもりもないよ、という思いも。まさしく「承認」であろう。」(p.250)

 筆者藤野氏の言葉として、「村上春樹は「承認」の姿勢を定着することで、1969年の世界に対するアンチテーゼを差し出した。」(p.256 注18)

 否定ばかりしていた全共闘の時代へのアンチテーゼ。考えてみれば先行した村上龍も強烈な「否定」の人だったかも。そういう時代感覚は、なるほどでした。

 
 最後の「よい(病んでいない)社会について」の文章が、みものです。

「承認の優先性についての超越論的な議論と、承認をめぐる闘争についての社会学的な議論との間の関係は、次のように考えることができるだろう。たしかに、承認の経験が先行するのだが、それが中心化の方向をとるとすれば、その後の子供の成長のプロセスにおいては、脱中心化が起こるのであり、そこでは、承認の世界から認識の世界へと―比喩的に語るなら―離陸していく、という方向性が見出される。しかし、完全に離陸してしまうわけではない。人間は、承認の世界にのみ生きることはできないが、承認の世界を離れても、経験の基層において常に承認を必要とし続ける。だからこそ、承認をめぐる闘争は、やむことなく戦われ続けるわけだ。
 乳・幼児期の承認の経験は、それ以降、承認をめぐる闘争がきちんと闘われるための地盤を用意する、と言うべきだろう。
 だから、よい社会とは、承認をめぐる闘争が闘われない社会、その意味で、平和な社会なのではない。平和とは、むしろ、社会の「社会」性の否定だろう。この観点からすれば、平和な社会こそ病んでいることになる。そうではない。承認をめぐる闘争が、その文法に従ってフェアに闘われる条件が整っている社会こそ、そして、実際にも闘いがきちんと闘われ、そして、敗者には過不足ないケアが保障されている社会こそ、病んでいない社会である、ということなのだ。
 闘争は、よい社会においても継続される。Der Kampf geht weiter!」(pp.254-255)


―いかがでしょうか。「承認をめぐる闘争」はヘーゲルがはじめに言い、ホネットが継承しホネットの代名詞のような言葉ですが、それは、闘争が原始状態の野蛮なものだからそこから人類は抜け出さなければならないと言っているわけではないのです。
 この社会を構築する営みがすなわち永遠に「承認をめぐる闘争」そのものなのであり、その残酷な側面を含めて直視し分析しよう、ということを言っているようにみえます。
 「階級闘争」という19〜20世紀の用語が死語になったかにみえても、わたしたちの社会は闘争を内包していることに変わりはなく、それはフェミニズムであれインクルージョンであれ他の何であれ、「承認をめぐる闘争」に還元される、というふうに理解できそうですがいかがでしょう。


 もう一つの論文、「自由と暴力、あるいは<関係の暴力性>をめぐって」にもこれに近い記述があり、並べてみることで見えてくるものがあるかもしれません:

「社会性ということが、協力や連帯といった、一義的に肯定的な関係としてのみ成り立つものではなく、その本質成分として「闘争」ということを含み、敗者を生み出さずにはすまないという側面を持つのだとすれば、求められるのは、社会生活の残酷な側面をもきちんと直視する理論構築こそそれであろう。
 (中略)
 「承認をめぐる闘争」に注目することで、われわれは、暴力のない世界の住人になろうとするわけではない。しかし、それは、「自由をめぐる闘争」において現象する暴力とは異なる特徴を示す暴力として現象せずにはすむまい。暴力概念のインフレーション現象に対極されるべきものとは、暴力を人畜無害化することではなく―暴力のない世界を描き出すことも、すべては暴力だと言ってしまうことも、いずれも暴力を人畜無害化することだ―暴力現象に対する差異化された、分析的な視点を獲得することを措いて他にはないはずである。」(「自由と暴力…」p.81)



 また蛇足:

 ホネットのいう「自己自身の物象化」という概念を記した文章も抜き書きしておきます:

「ホネットが、「自己自身の物象化」という捉え方で具体的に視野に収めているのは、「臓器売買」、「代理母」や「売春」といった現象である。日本では、所有論の文脈で論じられることの多いこれらの問題を、ホネットは、物象化論の枠内で取り上げる。自己自身の身体の物象化が起こる前提に、承認の忘却、つまり、人が自らの欲求や感覚を尊重する姿勢を失っているという事態を突き止めるのである。自らの感情や欲求、感覚を、まるで他人事のように距離を置いて眺めるという事態が生じていて初めて、上記のような「病理」も起こりうる、と考えるのだろう」(「アクセル・ホネットと…」p.256 注15)

―ここでいう「人が自らの欲求や感覚を尊重する姿勢を失う、まるで他人事のように距離を置いて眺める」という現象を、私は「承認欲求バッシング」の行き着く先の事態として予感するのです。あ、なんだか哲学者みたいな文の書き方になっちゃったよ。
 ここでは臓器売買、代理母、売春がそれに該当するのかどうかは、ちょっと保留です。


 ともあれ、21世紀の世界が直面する格差と暴力にたいして、まともに対峙する社会哲学として「承認論」は位置づけられるのではないか、と思うのです。


※藤野寛論文シリーズのインデックスができました!

(1)温かい見方と客観的な見方、愛と人権尊重と業績評価―『ジェンダーにおける「承認」と「再分配」』をよむ
 
(2)「愛の危機」の時代「愛」の差別、闘争、苦しみと幸福、そして家族のジレンマ―藤野寛氏「家族と所有」をよむ

(3)村上春樹文学と「承認」、無視、軽視、物象化との対決、よい社会とは何か―藤野寛氏論文より第二弾

(4)自由と暴力と承認、「承認」が引き受けるものの範囲―藤野寛論文をよむ(3)(本記事)



正田佐与

 半月ほど前の読書日記

  温かい見方と客観的な見方、愛と人権尊重と業績評価―『ジェンダーにおける「承認」と「再分配」』をよむ

 http://c-c-a.blog.jp/archives/51924134.html

に登場される、第一章の執筆者・藤野寛氏(一橋大学大学院言語社会研究科教授、現代ドイツ思想)より、
 「愛」「承認」について同教授が書かれた過去の論文3篇の抜き刷り・コピーをいただきました


藤野寛氏論文-2



 執筆年代順に、

◆「家族と所有」 『所有のエチカ』(ナカニシヤ出版、2000年)所収
◆「アクセル・ホネットと社会的なもの」 一橋大学大学院言語社会研究科2009年度紀要『言語社会』第4号所収
◆「自由と暴力、あるいは<関係の暴力性>をめぐって」 『自由への問い 8 生―生存・生き方・生命』(岩波書店、2010年)

です。

 藤野教授のご了解をいただいて、ふたたび「愛」についての印象的な記述のある「家族と所有」から、ご紹介させていただこうと思います。

****

 「家族」には「所有」の問題がからむ。

 「私の夫」「私の娘」には、「他の女の、ではない」「あなたの、ではない」という排除・独占の意味が色濃くにじみ出てきている。所有、さらには専有の意味まで匂わせるものとなる。

 そして「所有」は自由と平等をおびやかす性質がある、と筆者はいいます。
 「極限的には、親が子を道連れにして心中する、というような酷たらしい現れ方をしかねないものである。「殺人」行為が、「我が子」の場合には、道連れ心中」などと表現してすまされてしまう」(pp.104-105)
 さらに「平等」がゆらぐ。自分の息子さえ幸せになってくれればよい。家族の外部の人たちとの間に差別が設けられる。

 これを避けるため、
1)家族メンバー間で互いに自由を尊重しあおう、という努力がなされる。
2)特別扱いの問題を回避するため、家族を外に向かって開いてゆこうとする努力がなされる。

「そして、家族のメンバーそれぞれに自律を認めるということは、メンバー相互の間に対等の関係を確立しようと試みることと不可分にして一体である。自由は、平等と結びついていないとき、必ず、誰かの不自由を帰結せずにはすまないからだ。」(p.106、太字正田)

―ここ、わかりますね。以前のブログで「風船プール」のたとえを使いましたけど、だれか1人が自由を際限なく追及し、それ以外の人がそれを志向しなかったり志向したくてもそこまでの能力がなかったりしたとき、最初の1人の自由が際限なく拡大し、ほかの人の自由をひしゃげさせる。特にリーダーの方は重々気をつけていただきたいことです。


 しかし、家族を自由と平等の原理一本槍で押し通そうとすることは、家族を家族たらしめる当のものの否定に、つまりは結局、家族そのものの否定につながってしまうのではないか。と筆者は問題提起します。

 ここで「愛」というキーワードが出てきます。

「家族を家族たらしめる当のもの、として私が考えているのは、「愛」という言葉によって表現されるような、強度をもった濃厚な情緒的関係である。」(p.108)

 しかし「愛」を神話化してはならない、とすぐに別の視点がもたらされます。「愛」には、「差別」と「闘い」という、美しくない側面があります。

「愛」の脱神話化(その1)愛は差別する。

 「愛」は普遍性志向ではありえない。

家族形成につながるような「愛」とは、究極の特別扱い、究極の依怙贔屓とよぶべきものである。ただ一人の人が好きになり、ほかの人のことは目に入らなくなる。そして、逆に、その相手からも、自分一人の方だけを向いてくれるように求める」(pp.109-110)

「要するに、愛は差異を前提とし、構成成分とする。差異を認める。強く言えば、差別する。正義感が分け隔てをせず、依怙贔屓をゆるさないのに対して、愛の方は、その強度にあからさまな差異を、あるいは、濃淡の差を示す。」(p.110)

「愛」の脱神話化(その2)愛は苦しめる

 この部分の記述が例によって「イイ」ので少し長く引用させていただきます―

「第二に、この「愛」とは、決して、甘く・優しく・調和のとれた・喜びと幸福感をもたらしてくれるばかりの結構づくめの感情なのではない。「愛する」とは、いってみれば、闘いに身を投じることだ」(p.111)

「そもそも「愛」というものは調和や均衡などとはおよそ両立し難いどろどろした何事かなのだ。(略)逆にしかし、「愛」という言葉を前にして照れたり恥ずかしがったりする必要もないのである」(同)

「「ロマンチックな愛」という言葉にまといつく人畜無害なイメージが、感情の危険な激越さをオブラートにつつむことに成功し続けている光景は、奇異だ、と言うほかない。にもかかわらず、どうして人は「愛」について語り始めるや、自分を理想主義者、あるいはロマンチストと錯覚してしまうのか。どうして「愛」のお手本が「神の愛」ででもあるかのような語り方をし始めるのか。「人間の愛」が、そのように無償であったり分け隔てがなかったりする、うるわしくも気高いものであるわけではないこと、少なくとも、それだけではないことは、われわれは骨身にしみて知っているはずではないか。愛しているときほど苦しむことは、人は滅多にないのであり、それを「甘酸っぱい苦しみ」と言うことさえ、すでに、人畜無害化である。「愛の説教者」には眉に唾してかかるのが相応しい。彼(女)らは、たとえば聖書など開きながら言うかもしれない。「あなたのいう愛は真実の愛ではありません」と。それには「真実の愛でないかもしれないが、人間の愛ではあります」と涼しい顔で応じてすましておけばよい。」(pp.111-112、太字正田)
 
 また、激しさを帯びつつ妙に説得力のある記述が出てきました。
 つい、どういう実体験からこういう言葉が出てくるのか、と邪推したくなりますが恐らくそのへんは哲学者藤野氏の「手」なのでありましょう。

 前回の読書日記のあと、正田は藤野教授にメールを書き引用だらけの読書日記となったことをお詫びしたあと、
「咀嚼され抜いた思考と文章に出会えたことを嬉しく思っております」
とお伝えしたのでしたが、同教授の「愛」についての思索は少なくとも2000年以前からのものだったようです。また、このへんよくわかりませんが藤野教授の研究対象であるフランクフルト学派のアドルノ、ホルクハイマーにもそういう独特の言葉の性質があるらしいです。

 
 そして、愛はアイデンティティを揺るがす。

 テイラーによれば、(ぼやき:テイラーも読まなきゃなあ)私たちは、自分が自分にとって特別に価値があるとみなす物事が、私にとって重要な他者/私が愛する人間との関係の中でしかもたらされない。その人間は、私のアイデンティティの一部分をなす。
 いいかえれば、「重要な他者がわれわれのアイデンティティの内部にまで食い込んできており、われわれ自身の一部をなしている」(藤野)ということなのです。

―「食い込んできている」っていう言い回し、良くないですか?
 このブログでも正田は時折ぼそぼそ「中嶋先生」とか、言ってますけどね。はい、食い込んでるんです。

 それは、「自律」を揺るがすことであるかもしれない。
「自分自身の判断にしたがって行動しているつもりでいても、実は、私は、自分の一部分と化してしまっている内なる他者によって動かされているのかもしれないのである。」(p.113)

―うん、否定しませんね。
 逆に、以前にも書いたような気もしますが、わたしにとっての「自律」は恩師がつくってくれた、という感覚があるんです、わたしの場合。
(ちなみに恩師は、「片付け」については、お手本にならなかったみたいです)


 閑話休題、 
 愛のもたらす幸福感。
 自由でなくても平等でなくても愛し合っていれば幸福、という特殊な状態があります。
 「藤野節」が冴えるところです。

「つまり、われわれは、自由と平等が揺らいでいるにもかかわらず、幸せに感じる、いや、まさに揺らいでいるからこそ、幸せに感じる、ということがあるのではないか。ある特定の人からかけがえのない存在として特別の処遇をうけることの内にこそ、また逆に、ただ一人の特別な存在んために特別の尽くし方で接することの内にこそ、我々は生きることの充実・喜びを見い出すということがあるのではないか。また、自己と他者の境界がぼやけるほどに二人の存在が互いに食い込みあい、そのようにして自分で動いているのか相手に動かされているのかすら定かでなくなってしまうような状態の中でこそ、そのような一体感の中でこそ、最も強烈な幸福感が経験される、という可能性がありうるのではないか。とりこになることの幸福。しかも、それを、宗教的帰依=自己否定というような特殊な事件においてでなく、たとえば、家族への愛というようなごく日常的なありふれた出来事の中で、人はリアルに経験しているのではないか。」(p.115)

「だから、相手を独り占めにしたい、と欲するとしても、それは、他者を自分の思いのままに動かしたい、操作したい、と欲することと同じではない。例えば、政治的支配のような一方的操作への欲求ではない。アイデンティティの相互嵌入を前提とする独り占めなのだ。だから、「私はあなたのものよ(僕は君のものだ)」という―あからさまに所有関係を表わす―言葉は、にもかかわらず、真正のものだ。そこからうまれる幸福感は、自由な人間同士の対等の交渉を通して得られる充実とはまた別種の幸福感だ、と言うことができるだろう」(p.116)

「「恋は盲目」という言葉がある。恋愛における感情の激しさが、理性の冷静さと対比して考えられている。しかし、愛はただ激しいだけのものではない。恋をするとき、人は、一方では、他に例をみないほどの細心の注意深さをもって相手の一挙手一投足を追い、それに繊細に反応するのではないか。そこでは、感情の強度が、感受性のまれにみる細やかさと結びついているのではないか。盲目とは、ここでは、視野の限定を意味するのであって、その限られた視界の中では、限りない覚醒の状態が実現されているのではないか」(pp.116-117)

―というわけで。
 家族の話に戻ると、利害や目的合理性を根拠としてではなしに成り立つ家族というものは結局こういった情動、愛に基づくものであるしかないだろう、と筆者。それは「自由」や「平等」一本槍では仕切れない空間となります。

 しかしそれは当然、感情というものの不安定さに家族をゆだねることになります。

 そこで、現代ドイツの思想家アクセル・ホネットが出てきます。
 ホネットは、
「現代の家族が置かれている状況は、むしろ、家族の中で「正義・自由の原理」を強化することが要請される、そのような状況である、と指摘する」(p.117)

 たとえば、子供は両親の関係が動揺し感情が安定を失ったとき、その不安定さから守ってくれるものがない。夫婦関係の中でのDVも同様で、感情だけをよりどころとする家族は暴力からも無防備である。

「親の気まぐれな暴力から子供を守るための権利条約を制定するよう求める運動や、夫婦関係内部での女性に対する身体的暴行を刑罰の対象としようとする動きは、こういう状況に直面して、家族を、社会的公正の領域に再度つなぎとめなおそうとする試みであるとみなすことができるとホネットは指摘する。」(p.118)


 結論として。

「家族を「愛」一辺倒で仕切るべきだ、などと性急な結論を出してはならない。そうではなくて、「正義・自由の原理」と「愛の原理」とが拮抗し葛藤しつつも辛うじてきわどいバランスが保たれている危うい緊張の場として、家族を位置づけることだ。」(p.120)

「「私だけのあなた」「自分の命よりも大切なわが子」といった表現は、それがどれほど「押しつけがましさや「大きなお世話」として受け止められかねない危険をはらむものであろうとも、だからといって決して無碍に退けてはすまされない、家族の実質を言いあてている。「私だけのあなた」と「みんなの一人としてのあなた」という論理的には衝突するはずの二つのありかたを、にもかかわらずなんとか両立させようとして骨折られるアクロバット的綱渡りの場―それが「家族」なのだ、と言えば、私は再び、愛や家族を冒険としてロマン主義化する誘惑に屈してしまっていることになるのだろうか」(p.121)

 
****


 「家族と所有」は以上です。

 なぜこの一篇を特にとりあげたか、というと、やはり現代を覆う「愛の危機」というもの、そして私の立ち回り先だけなのかもしれませんが一部での「愛」への関心の高まり、が背景にあります。

 この問題については当ブログの読者の大半を占める今家庭持ちの人ならだれでも一家言ありそうなものですが、ここで藤野教授が言うように「愛」は、強烈な幸福感を産み出す一方で差別や闘い、憎しみも産む、アンビバレントなものであります。それでも特に近代以降、人類は「愛」に魅入られてきました。
 しかし現代、ある世代以降はそれに伴う多大なエネルギーを負担することを避けているようにみえます。

 この事態をどう捉えたらいいんでしょうか―、実は今読んでいる別の本に昨今の子育て事情の変化と、新しい子育て法二世が育ってきていること、そして育ってくる子供たちの変容、が扱われていて大変興味深いです。いえ、暗澹となる、と言ったほうがいいかもしれません。

 ひょっとしたら、藤野教授は今年59歳の方ですが、ここにみるような「愛」観は今50代のおじさんおばさんだけが共有できるものかもしれません。いや、下の世代に伝承していけるのでしょうか。それができるとしたらどんな隘路を通じてでしょうか―。
 以前にこのブログにそのへんを自分の感慨としてぼそぼそ書きましたが読者の方はご記憶でしょうか?

 また、「上司部下関係に『愛』の感情はないのか?」
 これは特に受講生様やこのブログ読者の皆様にはご関心の高いところで、先日さるところで早速そのご質問をいただきました。
 「承認は上司から部下へ「愛」と「力」を伝えられるものですね」
 過去にはそんな印象的なコメントをくださった現役マネジャー(男性)もいらっしゃいました。
わたしの周囲の人は現代日本でもかなり特殊かもしれません。
 
 この辺は藤野教授にご質問を投げさせていただきたいところです。


 もうひとつ蛇足的に、、

「恋をするとき、人は、一方では、他に例をみないほどの細心の注意深さをもって相手の一挙手一投足を追い、それに繊細に反応するのではないか。そこでは、感情の強度が、感受性のまれにみる細やかさと結びついているのではないか。盲目とは、ここでは、視野の限定を意味するのであって、その限られた視界の中では、限りない覚醒の状態が実現されているのではないか」

 ここで言われているような認識の世界は、実は、これほどまでに細やかではないかもしれませんが、「承認教育後」の上司部下関係(上司から部下へ)では、実現できるものです。
 ただひとりのパートナーや家族に対するほど濃密でなく、また視野狭窄でなく、しかしそれまでの段階よりははるかに緻密にきめ細かく、そして視野は広く。
 
 なので「愛」の、家族愛よりは一段階薄まった形、のようにも思えるのです。

 


 他の二篇はまた、私個人的に勉強したいものなので、今後の記事でご紹介したいと思います。

 この論文を「ヘーゲル承認論」カテゴリに入れるのが適切なのかどうか。暫定的に入れておきます―

※藤野寛論文シリーズのインデックスができました!

(1)温かい見方と客観的な見方、愛と人権尊重と業績評価―『ジェンダーにおける「承認」と「再分配」』をよむ
 
(2)「愛の危機」の時代「愛」の差別、闘争、苦しみと幸福、そして家族のジレンマ―藤野寛氏「家族と所有」をよむ

(3)村上春樹文学と「承認」、無視、軽視、物象化との対決、よい社会とは何か―藤野寛氏論文より第二弾

(4)自由と暴力と承認、「承認」が引き受けるものの範囲―藤野寛論文をよむ(3)(本記事)


正田佐与
 

 ベーカリーチェーン「リヨンセレブ」の株式会社牧(東京都江戸川区)牧田社長よりメールをいただきました。

 一昨日26日、柴又店がプレオープンをされたそうです。おめでとうございます!

 いただいたメールと写真を、ご許可をいただいてご紹介させていただきます:


****
 

いつも丁寧なご返信、ありがとうございます。
パンが美味しいという評価は、大変嬉しい承認です。
食パンは、私が未だ許可していないので、「アレッ未だ完成てないのに送っちゃったの」といつものあわてものぶりを露呈してしまいました。すみません。
お店の方は、お陰様で、昨日プレオープンを迎える事ができました。デザイナーは参加してもらいましたが、お店の内装は全て手作りで、素人が集まってバタバタとやった割にはよくできて私もびっくりです。飯田GMもプロジェクトマネージャーとして、ご存知の勢いで、そつなく指示をし奮闘努力しておりました。私も飯田の指示に従い、買い物担当として一日中ホームセンターを漁っておりました。
近況報告でした。

柴又店1


元気で粋な飯田GM(右)と山下店長(左)


柴又店2
柴又店3
柴又店4
柴又店5



プレオープンした柴又店。手づくりのこだわり、伝わるでしょうか



 2015/10/23 16:41、(一財)承認マネジメント協会 正田佐与 のメッセージ:
株式会社牧
牧田社長様

大変お世話になっております。
承認マネジメント協会の正田です。
過ごしやすい気候が続きますが
皆様お変わりなくお過ごしですか。

先日は、大変美味しいパンをどっさり頂戴いたしまして
ありがとうございました。
その後、毎日1つずついただいてきて
とうとう後は食パンを残すのみとなりました。
開発途中とのことでしたが
どのパンもそれぞれ個性があり美味しく、
解凍後にもふっくらした食感と豊かな香りがありました。
レーズンとナッツの入ったパンは黒パンの生地で、
とりわけ美味しゅうございました。
改良点など、まったくわからず
ただ美味しい美味しいといただいておりました。
役に立たないモニターで、申し訳ございません。
きっとお客様にも喜ばれることと思います。

柴又店様の改装は、その後順調に進んでいらっしゃいますか。
確か飯田GMと山下店長とお2人で自らの手で改装されるとのことでしたが…。

私はその後、「承認」と「愛」というコンセプトに凝りはじめました。
先の研修2日目の後の懇親会では、皆様お互いのご家族やご結婚のこと、彼女のことを
オープンにお話していらっしゃいましたが
今の時代、「人を愛する力」というのがいかに貴重なものか、ということを思います。
御社の良い社風のゆえと思います。
お仕事以外の部分でも皆様に「承認」がどんなふうに影響を及ぼしたか
知りたいと思いました。

もちろん、お仕事でもさらなる飛躍をなしとげられますよう
祈っております。

朝夕寒くなって参りますが
くれぐれもご自愛ください。
柴又店様新装オープンのご成功を祈っております。
また皆様のお元気なお顔にお会いできますことを
楽しみにしております。

PS
来月後半財団を一旦解散し、個人事務所に移行します。
今後共どうぞよろしくお願いいたします。

‥‥…━━…‥‥…━━…‥‥…━━…‥‥

 いつもありがとうございます
 一般財団法人承認マネジメント協会
   正田 佐与(しょうだ さよ)
  〒658-0032
  神戸市東灘区向洋町中1-4-124-205
  TEL: 078-857-7055 FAX: 078-857-6875
  E-mail s-shoda@abma.or.jp   URL: http://abma.or.jp

‥‥…━━…‥‥…━━…‥‥…━━…‥‥


「『インクルージョンの波』が来年度、職場に押し寄せてきます。」

 こういう書き出しの文章を「月刊人事マネジメント」編集部にお送りしました。
 
 今年連載させていただいている、「上司必携・行動承認マネジメント読本」の6回目の原稿です。

 今回は、「障害者雇用・活用」がテーマです。後半は「発達障害」についての記述が中心になりました。


 わたしなんかがこういう記事を書く資格があるのだろうか。

 実はこの記事に備えて、今年「ガイドヘルパー全身」「同行援護」「行動援護」の研修を受けました。大げさな。(行動援護は今も受講中。きょうはその2日目です)

 でもまあ、2800字で触れられることはたかが知れています。

 

 情報提供をすることは、「寝た子を起こす」ことでもあります。

 先日もまた、「承認研修」2日目はそのお話をする場面があり、午後の睡魔のお時間もそこは皆さんしゃきっとなられました。決して目覚ましに使っているわけではないんですよ。

 そして「承認研修」の中では不愉快な気分が出やすい場面でもあるのですが、しかし情報提供をしないことには問題解決もありません。

 
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 「一億総活躍」は、ネーミングからして評判のわるい政策です。

 ただ趣旨はわるくはないのではないかと思っています。中身はこれから詰めるそうなのではっきりしたことは今言えませんが。

 この国の人が陥りがちな「均質」「一律」のバイアスがとれて、色々な人が共生し、仕事で能力を発揮できるようになるのなら、いいことです。
 そこには「女性」もそうですし障害者、外国人、元気な高齢者、が入ることでしょう。
 漏れ聞こえるのは「引きこもり」を外に出そう、ということですが―。


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 「女性活躍」が言葉として消えるのはいいのか悪いのか。

 「女性」に特化した施策が必要だ、という声もあり充分傾聴に値する一方で、

 首相が「女性活躍」と言えば言うほど、実感としては社会のミソジニー指数が上がった気がします。ミソジニーお爺さんが妙に元気に発言し、普通にまともだと思っていたコンサルの人も「男女別の会社を作ったらいい」と発言するに至っては。
(これについてはFBの自分のTLで「女性を同僚として正しく評価できない人が女性の協力会社を正しく評価できるわけないではないか」と反論しました)


 まあ「女性特化施策」が、保育所の整備や短時間勤務などハード面でわんさかやらないといけないことがあるのとは別に、従来の主張ですが、ソフト面の人の心の問題に関しては、「女性」と意識してやらないほうがいいのだろう、とわたしは思うんですよね。「女性女性女性」って思えば思うほどドツボにはまりますね。

 なので、「女性活用研修」より「承認研修」のほうが実質的効果がある。
あっ女性自身も「自分は女性だ」と意識しないほうがいいパフォーマンスが出せる、という知見がありまして、女子学生に「自分は女性だ」と意識づけさせてからテストを受けさせると、テストの成績が悪かったそうです。「自分は優秀な学生だ」「テストでいい成績をとったことがある」ということを思い出させると、テストの成績が良くなったそうです。

 
 ただ、うーんこれは難しいところで、上で言った「女性と意識しないほうがいい」のはまだ問題が出ていない白紙の状態の場合です。多くの職場では、あるいは社会のさまざまな場面では、「女性」が差別・搾取・過剰な依存・DVの対象になっていてそれを解決したり是正することをまずしないといけなかったり、当事者の女性が傷ついているのを治してあげないといけなかったりするわけです。やっぱり、相手が男ならこんなひどいことはしないだろう、ということを女だから平気でする、みたいな現象もゴロゴロあるわけです。だから「男女を意識しない」の前に「起きている問題を解決する」がやはり、必要かもしれないです。「それ、ダメだよ」っていうことをきっちり、言ってやっていかないといけないです。

 以前このブログに書いた「男性原理の会社でハーレム化しちゃったところがあります」というのは決して誇張ではなくて、労働局雇用均等推進室なんかではゾッとするようなセクハラの事例を今も多数みているそうです。自分の教え子がそういう目に遭うということが想像つかないなんて。


 またそういうのがあるから、「女性活躍」を当事者の女性にばかり任せるのはおかしな話なのでした。そういうこと反省してるのかなあ。関係ないからいいですけれど。

 やっぱり、「女性」のお話が長くなっちゃいましたねえ。
 もう研修に行かなくちゃです。
 今日の記事もオチなしです。


(一財)承認マネジメント協会
 正田佐与
 
 
 

お世話になっている皆様


 おはようございます。
 一般財団法人承認マネジメント協会の正田です。
 
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 本日の話題は:

■ブログ開設10周年(2)よのなかカフェを振り返りました
 ―労働、教育、福祉、政治、震災、神戸、スウェーデン、女性そして幸福

■「北播磨に承認の文化を」「この手法は恐らく揺るぎません」
 ―加東市商工会第2回セミナー

■読書日記:認識の世界を180度転換する「承認」の定義と「愛」について
 ―『ジェンダーにおける「承認」と「再分配」』

■女性の活用と登用は「上司の眼差し」次第
 ―月刊人事マネジメント9月号
 
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■ブログ開設10周年(2)よのなかカフェを振り返りました
 ―労働、教育、福祉、政治、震災、神戸、スウェーデン、女性そして幸福

 前号でもお伝えしましたように、先月21日をもちまして、わたくし正田のブログ「コーチ・正田の愛するこの世界」は開設10周年を迎えました。
 http://c-c-a.blog.jp/

10年を振り返る中で、やはり忘れられないのが5年間、41回にわたり開催してきた「よのなかカフェ」。

  さまざまな社会問題を、時には専門家や当事者の方をゲストにお招きしながら、参加者主体で語り合い、対話/議論した場でした。

  今の時点で振り返って「よのなかカフェ」の果たした役割を考えますと、わたくし正田はもともとジャーナリズムにいたので、社会問題全般についての関心はあったわけですが、マネジャー教育の研修機関として考えたとき、よのなかカフェは受講生様に対して、「この教育」が大きな社会問題とどうつながっているのか、ということを提示する場にもなってきたように思います。
 あるいは、開催の都度、詳細な議事録をご紹介することによって、忌憚なく率直に議論しあうことの価値をもご提示していたように思います。「承認教育」の延長線上にはけっして遠慮しあってものを言わない気風を目指したいのではなく、談論風発の議論をする風土があるのだと。
 そしてそこには経験の中で蓄積した独特のファシリテーションのルールがありました…。

 41回をアルバム風に駆け足で振り返ったまとめ記事をこちらに作りました。

◆10周年(4)よのなかカフェ41回・労働、教育、福祉、政治、震災、神戸、スウェーデン、女性そして幸福…
 http://c-c-a.blog.jp/archives/51923756.html 

 いつかまた、どこかでよのなかカフェを再開することはできるでしょうか。可能性を閉ざさないことにいたしましょう。
 「わがまちで開催したい」というご要望があれば、伺いたいと思います…。

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■「北播磨に承認の文化を」「この手法は恐らく揺るぎません」
 ―加東市商工会第2回セミナー
 

 16日、加東市商工会様主催の「行動承認セミナー」第2回が行われました。
 今どきの地方創生では、「G経済とL経済ではL経済(地方経済)の方が地道な経営改善が功を奏する」と言われます。
 地域の商工会会員企業様から来られた受講生様、1回目との間に「宿題」をこなされたせいか以前より穏やかな優しい眼差しになられています。笑顔が多くこぼれます。
 「宿題」の結果、部下がより早く・より自主的に・より責任感をもって行動してくれた、というこの1か月の事例をご紹介し、次いで共同講師の松本茂樹先生からは、銀行・大学を舞台に人が成長する力の凄さを示す事例を多数紹介していただきました。
「承認を文化に」という言葉が、松本先生から出ました。

◆「北播磨に承認の文化を」「この手法は恐らく揺るぎません」
 ―加東市商工会第2回セミナー
 http://c-c-a.blog.jp/archives/51924344.html

 この情報の多い時代、受講生様が「かけがえのないものと出会えた」ともし感じていただけたなら、それは幸運なことだと言わなければなりません。

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■読書日記:認識の世界を180度転換する「承認」の定義と「愛」について
 ―『ジェンダーにおける「承認」と「再分配」』

 さて、わたくし正田は長年「承認」を教えてきましたが、「承認」発祥の地・ドイツでの「承認」の定義は何なのか?というところは、恥ずかしながら空白でした。
 この本に教えてもらいました。
 そして「承認の定義」だけでなく「愛」について―、
 個人的には、「恋愛できない若者」が増えたということをきくにつけ、出版やメディア、ネットの世界で2008年ごろから始まった「承認欲求バッシング」が今の若者たちの「失われた7年」になっていないだろうか?と危惧せざるを得ません。また逆に、研修先の企業様で社員様方の結婚、出産、また若手に彼女ができて上司に恋バナも相談してくれる、といった話を伺うたびに、人が人を愛することのたいせつさをもう一度取り戻してほしい、と願う次第です。

◆温かい見方と客観的な見方、愛と人権尊重と業績評価―『ジェンダーにおける「承認」と「再分配」』をよむ
 http://c-c-a.blog.jp/archives/51924134.html 

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■女性の活用と登用は「上司の眼差し」次第
 ―月刊人事マネジメント9月号

 「月刊人事マネジメント」(ビジネスパブリッシング社)で今年、全7回の連載をさせていただいている「上司必携・行動承認マネジメント読本」の記事を更新しました。
 今回のテーマは「女性」。タイトルは、極端だと思われるでしょうか―。
 しかし、このあとの回で取り上げる「若者」と同様、上司という環境要因に極めて大きく左右されるのが女性の特性。それは、決して主体性がないとか能力的に劣っているからではなく、むしろ周囲の期待を敏感に読んで行動するという、女性の優れた「社会性」とよぶべき特性からきているのです。

◆第三章 女性の活用と登用は「上司の眼差し」次第―月刊人事マネジメント9月号
 http://c-c-a.blog.jp/archives/51923763.html

 なおこれまでの連載記事はこちらからご覧いただけます:


◆第一章 「行動承認は”儲かる技術”である」―月刊人事マネジメント7月号
 http://c-c-a.blog.jp/archives/51919833.html

◆第二章 「承認」の学習ステップー月刊人事マネジメント8月号
 http://c-c-a.blog.jp/archives/51921667.html 

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*…*…*…*…*…*…*…*…*…*…*…*…*…*

 16日、加東市商工会にて 「行動承認セミナー」2日目。

 2日目の冒頭はおなじみ、宿題のご紹介から。

 ものづくり、金融、介護…で、「行動承認」を契機に、

・報連相が増えた
・自主的に仕事をしてくれる
・責任の感覚が出てきた
・明日やる予定だったのがその日のうちにしてくれた
・難しい仕事の説明をしてくれた

・・・・等の喜ばしいお話が続きます。

 付随して「巻き込みの要諦」のようなお話を正田からさせていただきました。


 後半は、元銀行支店長にして現大学准教授、松本茂樹先生から、銀行時代、大学時代の「承認の実践体験談」のお話をしていただきました。

松本先生2



 銀行員、大学生、計9名の目覚ましい成長のエピソード。

 中には当初松本支店長の手法に反発された女性行員さんが、のちに大きく伸びただけでなく退任時にはものすごいサプライズプレゼントをくれた、という事例もあり、

「お話していて、すみません涙が出てきちゃいました」。

松本先生1


 10年以上のお付き合いで初めてみた松本先生の涙。

 大学生さんがたの事例は、わたしも初めておききすることばかりでした。

 ビジネスプラン発表で全国表彰された学生さん。
 松本先生のクラスは昨年就職率100%、今年も90%以上決まっている。
 「GPAオール4」の学長賞(学費全額返還)の学生は松本先生ともうお1人、「承認」の手法を使われる先生のクラスからばかり出ること。
 障害があったが松本先生の勧めで簿記1級をとった学生さん。この学生さんは当初無口でいじめられる側だったが、自信をつけてからはいじめていた学生に教える側になったそう。

「学生は若いから反応が速いです。大人の銀行員は、色々積み重なっているから反応するまで2年かかったケースもありましたが。」

 恐らく日本の大学業界の中でも例のない事例を輩出していることでしょう。

 最後に松本先生は、

「ここ北播磨の地で承認が文化として根付いてほしい。そして世界に向けて発信できるものになってほしい」。


 質疑タイムに出たご質問では、

「ここで伺うお話はここだけの貴重なお話ですか、それとも全国どこにでもある話で私が知らないだけなのですか」

 これには正田より:

「ここだけと言っていいと思います。本日も同じクラスの仲間がここ1か月でこんな風に働きかけて部下がこんな風に変わって…という事例をみていただきましたが、こういうお話をこのセミナーの外で皆さんがよそのかたにされたとき、『あんた詐欺にでもあったんちゃう?』と言われる可能性は大いにあります。それぐらい他に例のない成果をここでは出しています。」

「私の研修講師人生で幸せだったのは、研修会社を通じて1日こっきりのおつきあい、そのあとお客様と連絡もとれない、だから研修をした結果がどうなったかもわからない、という仕事の仕方をしてきませんでした。草の根、非営利教育で出発し、初期に松本先生のような確信をもった実践者の方に出会えました。そうして、細かくフォローアップしながら実践していただくと組織でこんなにすばらしいことが起こる、というのをみることができました」

「以来どれほど文献を読んでも、結論はこの手法になります。この手法は恐らく揺るぎません」

「そして手法を徹底的に絞り込みシンプルにすることで、マネジャーの皆さんがだれでも習得でき日常行動にできるようなものにしました。普通はもっとガラパゴス的に難しくするので、日常行動にすることができません」

「今、国内で何人かの方が、『今からは思想、倫理の時代だ。でなければ人類は生き残れないところに来ている』ということに気づかれています。まだその数はあまり多くありません」


 
・・・さて、今日ご来場された皆様は幸せだったのでしょうか・・・

 抜けるような青空の10月中旬の午後でした。


(一財)承認マネジメント協会
 正田佐与
 

ジェンダーにおける「承認」と「再分配」

 『ジェンダーにおける「承認」と「再分配」―格差、文化、イスラーム』(越智博美+河野真太郎編著、彩流社、2015年3月)という本を読みました。


 アメリカでは承認論と公民権運動、とりわけフェミニズムや性的マイノリティが市民権を得るための運動とが分かちがたく結びついて独特の政治空間を作っているもよう。

 正田はフェミニズムと従来やや距離をとってきたつもりだったのですが、最近の格差社会ぶりとそれに連動した女性の貧困という現状をみるに、そうも言っていられなくなってきた感があります。
 そもそもフェミニズムに対して良い感情を持てなくさせられていたのは、最近このブログに登場したようなわが国の反動的男性知識人(=ミソジニーお爺さん)たちの陰謀だったのかもしれない。


 そして、こういうヘーゲルをはじめドイツ観念論を源流とした「承認論」と、まったく次元の違う無根拠なネットスラング、罵倒語としての「アンチ承認欲求論(=承認欲求叩き)」、それに正田のやっているような実践の世界の「行動承認」、これらが同時並行に存在しているのがわが国の状況。

 正田は当然前者の「承認論」にシンパシーを感じています。従来は「アンチ承認欲求論」のほうはめんどくさいから、無視してきました。ただどうも無視しえない勢力になってきて本業の教育のほうにも影響が出てきたから、今年本格的に「承認欲求叩き批判」を開始した、というかんじです。床をあけてみたら想像以上にゴキブリの巣窟になっていたぜ、みたいな。
 新しく「承認欲求バッシングを批判する」というカテゴリを作りました
 http://c-c-a.blog.jp/archives/cat_50056406.html

 それはちょっと脱線でした。
 本書『ジェンダーにおける…』は、十三章からなる本ですが実は第一章「承認論とジェンダー論が交叉するところ」に目が釘付けになってしまい、その他の章はちょっとお留守です。
 それぐらい、インパクトのある第一章です。「承認」について、「愛」について、わずかなページ数で多くを語っています。

「はじめに」(越智博美、河野真太郎)より。


「本書は、一橋大学のリレー講義「ジェンダーから世界を読む」をもとに構想されたものである」
と編著者らは言います。

「そう、経済格差は自己責任という個人のレベルでのみ語れるものではないのだ。そしてこのことに今、世界じゅうが気づきつつある」(p.5)

「2014年の12月には、ついにOECDが『トリクルダウン』はしないどころか、格差があることが経済成長を妨げると述べ、従来のネオリベラリズム路線に修正の必要があることをみずから認めるに至った。この制度はおかしいのではないか、限界なのではないか。そのような感情が、おそらくトマ・ピケティの「21世紀の資本」(2013年)が爆発的に受容される裏にはある」(pp.5-6)

「フェミニズムにおける承認は実のところ再分配と切り離せないものではないか。現在の苦境はなにより、承認と再分配を並び立たない問題、ジレンマとして捉える発想にはまり込んでいることにも一因があるのではないか」(p.7)


 そしていよいよ
「第一章 承認論とジェンダー論が交叉するところ」(藤野寛)

 ここでは「承認」の語義の検討から入ります。大事なところです。

 「承認」はドイツ語ではanerkennen 。
 辞書的には、
「正当と認める、承認(是認)する、認可(認知)する、(他人の功労・業績などを)認める、賞賛する、高く評価する」。

 というわけで、日本語に移すときほんとうは「承認」よりは「認める」のほうが適切なのだ、と筆者。
 「承認」というのも名詞化する必要上、しょうがないんでしょうけどね。
 そうそう、わたしドイツ語わからないから困ってたんですよ、このへんのこと。

 では、日本語の「認める」にはどんな意味、どんな用法があるか。

,海亮更塢提案をお認めください。
∋愼涯鬼韻貿Г瓩蕕譟△箸討盍鬚靴ぁ
上空に何らかの飛行物体を認めた。
こ慊垢呂茲Δ笋自らの非を認めた。



 このうち、ドイツ語のanerkennenが表すのは´↓い澄△班者。

 ただの認識と「承認」を分かつものは「肯定的な価値評価」だと筆者は言います。「正当と認める」「是認する」「賞賛する」「高く評価する」というように、対象や相手に対して肯定的に向き合う姿勢が意味されている。

 それは、自然科学で使うような冷静・客観的な認識とは異なる性格のものだ、と筆者。


「その際、この観点がはらむ破壊力の深刻さは、ささやかなものではない。その点は、「事実と価値」に関する学問論的理念を思い浮かべるだけでも、容易に明らかになるだろう。いやしくも学問に携わる者は、(客観的)真理認識のために、まずは、価値判断に関わる自らの先入見を括弧にくくり、価値中立的な姿勢で事実そのものに向き合わねばならない、とする理念である。ところが、承認とは、そもそも対象や相手に肯定的価値評価をもって向き合う姿勢なのだ。」(同)

「そして―承認を認識から区別した上で―ホネットは、承認が価値中立の理念を裏切るにもかかわらず、承認を斥け認識に就くことを要請するのではなく、「認識に対する承認の優先性=先行性」テーゼを掲げる。つまり、承認こそ、人間の態度としてより基底的・先行的であり、認識という姿勢は、そこから派生ないし逸脱し、頽落し、むしろ、疎外されたあり方である、と主張するのである。われわれの世界に対する態度は、はなから、価値評価含みである。価値評価抜きに、中立公正に、客観的に世界と向き合っているのではない。関心によって駆動されており、魅かれ(angezogen)、あるいは反発する(abgestoBen)。」(pp.21-22)


―ここでは、現代ドイツを代表するヘーゲル研究者、アクセル・ホネットが繰り返し引用されているので、引用文中に「ホネット」が多出することをお許しください―

 「認識に対する承認の優先性=先行性」。すごいこと言いますねホネット。認識論については、正田のヒューリスティック趣味も認識論みたいなものですが、それとは別に、たしかにそうなんです。「承認」をやってると、いわば「温かい見方×冷たい(純粋客観的な)見方」の対立というか乖離がうまれます。ところが「承認」的な温かい見方がポジティブバイアスで間違った見方かというとそうでもない。対象者が人間の場合には、温かい見方をされることがむしろ自然の摂理にかなっていて、「生物学的に」成長することにつながり、ひいては多少贔屓目にみた見方が現実のものになってしまう、というのはよく経験するところです。あんまりバカ高い期待をしてもいけませんけれど。

 逆にこの後の記述で言う、「客観的とはいわば疎外されているのだ」、詳しく言うと、

「世界を冷静、客観的に認識することは、それはそれでとても大切なことだが、ただしその時、世界はわれわれにとってすでに「疎遠な」ものになっている。単なるモノの世界、死せるモノの世界、物象化された世界、その意味で、疎外状態にある世界である。こう考えるとき、「価値自由」という理念に拠る学問という営みは、すでに疎外の内にある世界との関わりであることになる。」(p.22)


 そういう「認識論のコペルニクス的転回」のようなことを、現代の承認論者ホネットは言っているというわけです。
 受講生様方おわかりになりますかしら。でも実践してみると、感覚的にわかるでしょ。

 よく、「承認」に関する拙著を読まれた方で「こういう体の構えが大事なんですね」ということを言っていただく、それは要はここでいうような、「純粋客観に先んじる肯定的な見方」ということを仰っているのかもしれません。


 そして承認概念には3つの型がある、と藤野はいいます。
 
 すなわち


⊃邑尊重
6叛喇床


 順番にみてまいりましょう。
 このあたり重要な記述ばかりで引用が続きますが大丈夫かなこんなに引用して。



「愛とは、相手を自分にとって大切な存在として認める、ということであり、その意味で、承認の一つの形である、と言うことができる。(略)その上で、そこにさらに、相手に対する情動上の強い結びつき(Bindung)がつけ加わるのである。
 結びつきとは、拘束とも表現されうる事態である。愛する相手に、私は―強く言えば―縛りつけられている。相手の一挙手一投足に一喜一憂するのだから。その意味で、愛とは、不自由の別名である。そして、にもかかわらずその拘束が、それほどにも大切な人が存在すること自体において、愛する当人に最強度の幸福をもたらしてくれるのである(もちろん、相手を憎みつつ縛りつけられているというケースもあるわけだが、それは、愛の形としてはすでに一種の倒錯であると言うべきだろう)」(p.23)

 ―ここは後で出てくるような母子関係を言っているともとれるし異性愛について言っているようにもとれますね。この藤野寛氏は1956年生まれの一橋大学教授、哲学者ですがまあ愛というものをビビッドな言葉で語るひとですね

「こう考えるとき、われわれが自由の語の下に考えているものの両義性もまた露わになってくるのではなかろうか。「他者=異なるもの」との結びつきを否定し、それから解放され、それなしに自足・自存し、さればこそ他者を自在にコントロールしうるポジションにも立ちうる、ということが、「自由」の語の下に考えられているのだとすれば、それはある意味で、疎外の一形態だとこそ言わねばならないのではないか」(pp.23-24)

「ホネットは、愛の説明において、「異なるものの内にあって自己自身であること(Selbstsein in einem Fremden)というヘーゲルの規定を援用する。この逆説的な規定を、ホネットは、さらに「愛という第一次的な関係は、自立性と拘束との間できわどくバランスをとることにかかっている」という風にほぐして解説する。「共生における自己犠牲と個人としての自己主張との間の緊張関係」とも言いかえられる消息である。愛とは、相手に対する感情面での「依存」を不可欠の要素として含む経験であるけれども、それは否定的に表現すれば「依存」ということになるだけであって―ヘーゲルに倣って―積極的に「異なるものの内にあって自己自身であること」と表現することも十分に可能な事態なのである。」(p.24)

「愛の経験の基底には―拘束と捉えることも可能な―相互依存的な結びつきがある。そして、この結びつきこそが相手に対する細やかでありながら熱い関心と働きかけを可能にする土台となるのだ、と言ってよいだろう。それは「助ける」ということの土台をなすものであり、「ケアの倫理」において浮き彫りにされてきた事態である。自由というあり方が、関係からの解放、その上で、関係のコントロールを志向するのに対し、愛の経験は、関係への沈潜、没入を下支えする。」(p.24)

「愛における共生に関する論述を、ホネットはしばしば、母子関係をモデルに展開してゆく。それは「すべての形態のより成熟した愛の基本的雛形として捉えられうるものだ」とも言う。その際、「成熟」とは何をすることか。その内容の一面は、乳児が、母親の内にも自らのそれと同じ「意図をもった行為者」を認めることにあるという。つまり、母親が、自らの欲求に無条件に応えてくれる、ある意味で、奴隷のような存在であるわけではなく、彼女にも彼女の人生があることを認め始める、ということだ(フロイトなら「欲動断念」というところか)。子の母に対する承認という場合、まずは、相手に対する全面的な信頼が前提にあり、自らの欲求に必ず応えてくれる存在、そのような大切な存在、ということが出発点にあるわけだが、その上に、相手を自律した存在として認める、という異なる方向性の承認(=尊重)が積み重なってゆく。親離れとも表現可能な事態であるが、生後九ヵ月あたりにそれが起こり始めるというのが、近年の実証研究の明らかにするところであるという(「九ヵ月革命」という表現すらあるのだという)」(pp.24-25)

「愛というこのタイプの承認にあって特徴的なことは、それが、特定の個人と個人の間で成立する承認であって、言うなれば、人を選ぶという点にある。われわれは、誰彼かまわず―その意味で、平等に―人を愛するのではない。ある特定の人と―その人とだけ―強く、深く結びつく。分け隔てを特徴とする承認であって、それは、普遍主義的基準を立てれば、欠点ともみなされうる特性である。(略)愛や介護(ケア)を女性の十八番として称揚する場合でも、その視野の狭さを確認して否定性をほのめかすということはしばしばなされてきたのであり、それに対して、男は人類社会に正義を実現しようとする志において偉い、というような話にもなる。だからこそ、愛さえも普遍化しようとする試みが「人類愛」や「隣人愛」の名のもとに繰り返されてきたわけだが、これは「究極の依怙贔屓」としての愛の本質を見誤り、それを薄めて解釈する振舞いだ、と言わざるをえない。」(p.25)

「ただし、ホネットは、愛の経験の重要性を倦むことなく強調しつつも、それを女性という一方の性に割り振る、という理論構築上の誘惑には一切屈しない。愛という形の承認は、言わば、人間的経験として重要なのであり、女性の占有物ではない。ホネットは、これまで女性の十八番に祭り上げられ、そのようにして女性に独占的に押しつけられてきたものを、人間全体に、ということはつまり男性にも奪い返そうとしているのだ、と言ってよい。
 考えてもみよう。仮に、ホネットが母子関係の内に愛という相互承認の形のいわば原型のごときものを見出すとしても、そこから、愛が、母(となりうる存在)にのみ帰する、との結論は決して出てはこないのだ。なぜなら、すべての子供が―女の子も、男の子も―母子関係における愛の経験を経由して大人になるのだから、その意味すべての大人はかつての子供として愛の経験のエキスパートなのであり、だからこそ、逆に、この時期に愛の経験を拒まれた幼児は、その後の成長過程において、しばしば深刻な心理的負荷を抱え込むことになるという点を、ホネットは繰り返し強調することにもなるのである。」(pp.25-26)



⊃邑尊重としての承認

 「基本的人権」の概念って、基本的にドイツ観念論の「承認」をよりどころにしているんですよ、ご存知でしたか。「すべての人が人格として承認される、尊厳を剥奪されない」ということを言ってるんです。

 
「承認論は、避け難い仕方で倫理学的問題に関わる。なぜなら、承認には肯定的評価が含まれるから。ただし、肯定の仕方には様々なタイプがありうる。例えば、人間として認める、という語用。これは、人間にカテゴライズする(人間という範疇に入れる)ということであって、プラスの点数をつける、という意味での肯定的評価ではない。「ある範疇に認め入れる」ということである。人権尊重とは、何か肯定的な資質・能力の故をもってプラスの点数をつけることとは関わらない。あえて言えば、その範疇に認め入れること、そのこと自体が、肯定なのだ。」(pp.26-27)

―重要な箇所。「あるカテゴリーに認め入れる」という作業を「承認者」の側からするとき、これは「被承認者」の「所属欲求」という名の「承認欲求」を満たしてやっている、と言いかえることもできる。
 一方でこれらはきれいに1対1の対応関係にはならないであろう、というのは、「あるカテゴリーにに認め入れられる」というのが、「被承認者」にとってはかなり大きな背伸びである場合があるからだ。
 よくTVで流れる「認められたい」という語には、このパターンが多い。
 例えば:
・芸人として認められたい。
 これは、その世界のプロとして認められるということは膨大な数の志願者の中から氷山の一角のようなきわめて低い確率で、人並み外れた努力をし才能を発揮することのできた者のみが「認め入れられる」わけであるから、単なる就職をするような「カテゴリーに認め入れられる」ことを意味しない。極めて高いレベルの集団に「認め入れられる」、いわば、第三のタイプの「公正な業績評価としての承認」によって、「最高ランクの集団に振り分けられる」ことを意味する。
・外国人嫁が日本人の姑に嫁として認められたい。
 これも、姑の「差別意識」というか「外国人への違和感」があるところから出発して、自分の努力によってそれらを取り除きたい、そこで初めて家族の一員として「認め入れられ」たい、ということ。極めて高い障壁を乗り越えたい、という願望を言う。
 そこでは、「認められる」ことに対して自分の側が努力を惜しまない、という姿勢がある。数年がかりの努力をするだけのファイト、ガッツがある。

 こういうことをNHKなどで「承認欲求」の言葉として「認められたい」と繰り返し流していることに、わたしなどは違和感をもってきた。
 もっとハードルの低い日常的なところに「所属し、認められたい」はゴロゴロ転がっているのではないか?ということ。
 お砂場の遊びともだちでも、学校の友達グループでも、あるいはボランティアグループでももちろんアルバイトから始まって正社員まで、ともに労働をする仲間としても。
 もちろんそうした場で「承認を剥奪」することはそれだけで残酷なことである。

6叛喇床舛箸靴討両鞠

「残る問題が、承認の第三のタイプ、即ち業績評価である。このタイプの承認は、公正な再分配が行われるための前提をなすものであり、したがって、「再分配か、承認か」という「あれか/これか」は、公正な業績評価(としての承認)に基づく再分配か、文化的アイデンティティの承認かと、二つの承認のタイプ間の「あれか/これか」という風にもパラフレーズ可能であると思われる。」(p.27)




●三つの承認の型の相違と相互関係

「愛は、限られた相手・対象に向けられる承認である。すでに確認したように、すべての人を愛する、ということはありえない。ある特定の人だけに向けられる承認、それが愛である。普遍・特殊・個別というカテゴリー・セットで言えば、(略)愛は一人の個人のみを対象とし、つまりは、個別に関わる。もちろん、子の親に対する、あるいは逆に親の子に対する愛のように、相手が複数となり、そのように愛の対象が拡張されることは大いにありうるのだが、だからといって、その拡張が融通無碍、無際限ということはない。とにかく、愛は人を選ぶ(差別する)のである。」(pp.27-28)

「それに対して、第二の承認の型である人権尊重は、普遍性志向を特徴とする。人を人として尊重(承認)するのは、人であるという点以外の特質は無視する、ということであり、愛が究極の依怙贔屓であるのとは対照的に、こちらは、一切の差別を峻拒する。」(p.28)

「普遍性へのこの関係は、第三の承認の型である業績評価にも認められるものだ。それは、評価基準の普遍性を前提する。つまり、公平で偏りのない基準に則る評価でなければならない、ということだ。ただし、この承認は、その結果においては差をつける。立派な業績は高く評価し、見劣りする業績はそれ相応に厳しく評価するのでなければ、公正な業績評価は成り立たない。誰にも同じ点数をつけることで差別を回避していては、評価(という承認)をしたことにならない。この点で、愛という承認との違いは歴然としている。親は、我が子が優れた能力・資質を備えるから愛するのではない。その意味で、親の偏愛は許されると思うが、教師が愛をもってクラスの生徒に接することは認められまい。」(同)

「これを、同一性/差異性というカテゴリー・セットに即して言えば、第一の承認が徹底して差異性の承認である(「あなただけを一途に愛す」)のに対して、第二の承認は同一性の承認であり(「あなたも私も同じ人間」)、第三の承認は、同一性を基準としつつ結果として差異を志向するものだ、と整理できようか。」(p.29)


●承認か再分配か

「しかし、ホネットにとっては、問題は「再分配か、承認か」という二者択一の形をとらない。承認か/認識か、承認か/再分配か、ケアか/正義か―これらの定式化は、いずれも二者択一を迫る点で、問題を捉えそこなっている。承認の経験の上にこそ、正義も成り立つ。後者を成り立たせる、いわば可能性の条件として、前者の意義を浮き彫りにすること、それがホネットの戦略である。(略)ホネットからすれば、批判的社会理論の改訂版にとって、承認こそより基底的な概念となるのであり、フェアな再分配のためにこそ、適切な承認がそれに先行しなければならない、と考えるのだ。」(p.31)

「承認を欠落させた再分配の試みは、適正な承認を伴うことは決してない」(p.32)
例:女性が担い手となる労働は低く評価される。労働の実際の内容にかかわらず。
⇒このようなバイアスが厳然としてあるからこそ、労働の価値は承認によって公正に評価されなければならない、と解される


●イデオロギーとしての「承認」?

 承認が差別や役割の固定化をもたらすという懸念はある。

「イデオロギーとは、虚偽意識の算出のメカニズム、という意味であり、承認はそれではないか、と自問される。ホネットは「承認という実践は、主体の強化ではなく、逆に主体の屈従という結果を生み出す」というテーゼを立て、自律ではなく、全く逆に自発的な屈従を生み出す巧妙な社会的装置としての承認、というこの論点を、さらに次のように解説する。」(p.36)

―例えば「良妻賢母」やアンクル・トムの卑屈な美徳に対して繰り返される賞賛。

―そういう承認はしないでくださいね受講生様。おおむね、「行動承認」に特化していれば、そういう間違いに陥らないですむ、と考えるわけですが油断は禁物。反動男性知識人なんかは容貌を褒めることで女性を自分の都合のいいように仕立て上げようとしますからね、要注意です。


「しかしホネットは、単純な価値の多元主義・相対主義を採らない。複数存在する価値評価基準をさらに比較しうる、いうなればメタレベルの価値を想定するのである。自律である。より高度の自律性を人に可能にする承認こそ、より適切な承認だ、とする論法である。そもそもなぜ、承認されるという経験が決定的に重要視されることになったのか、という着眼点は、それが人間の自律性を強化する、という点にこそ見出されたのだった。

 肯定的に評価するという態度は、明白に、積極的な性格を有している。というのも、そういう態度は、賞賛の向けられる人に、自己自身の資質と同一化し、従って、より大きな自律性に至ることを可能にするからである。」(p.37)

―不思議というべきか、「承認」によって「自律性」が育つという現象は確かにあります。いずれだれかが証明してくれるでしょうけれど。行動承認はそのためにやはり大事です。


「〔承認論の〕試みの全体は、そもそも、承認の欠如ないし不十分さという社会現象を起点として批判的に推進されてきたもの以外ではない。視野に収められるべきは、屈辱を味わわされたり尊厳を傷つけられたりするという現実の経験である。その経験によって、主体は、正当な理由ある社会的承認を与えられず、それに伴い、自律性を育てるうえで決定的に重要な条件を差し控えられてしまうのである。」(p.38)

―そうですね、残念ながらわたしにとってもやはり「承認欠如」の状態をみることが「承認教育の必要性」を繰り返し提唱する動機づけになっていると思います。「承認欠如」は自分にとっての、じゃないですよ。世間の、とりわけわが国では評価されることの少ない良心的な女性の働き手たちについて、思います。
 

 第一章からの抜き書きは以上です。
 このあとの章はわが国におけるフェミニズムの現状や性的マイノリティについての言及が続きます。それなりに興味深いんですが―、


「第十三章 表象=代表(representation)、知識人、教育」(中井亜佐子)から、マララ・ユスフザイに関する記述を抜き書きして、終わりたいと思います。

「彼女(マララ・ユスフザイ)はここ(国連スピーチ)で、みずからrepresentationという困難な任務―表象でありつつ、代表でもあるということ―を引き受けている。それはまさに、スピヴァクが定義する意味での「知識人」の任務でもある」(p.303)

「しかし、マララ・ユスフザイの教育への熱意に接するとき、わたしたちはみずからの教育に対するシニシズムを、いったん学び棄てる必要がある。彼女の言葉はわたしたちに、教育とはなんであったか、あるいは未来においてどのようなものでありうるかをあらためて思い出させてくれる。」(p.308)


「ここでユスフザイが使う一人称複数代名詞「わたしたち」は、「教育という大義のために」団結する人びとを指しているが、「わたしたち」はまた、教育を通じていっしょになり、団結する。知識は「武器」であり、団結は「盾」となる。(略)そして、この「わたしたち」の立ち上げそのものが、彼女にとっての教育の目的でもある。この瞬間、わたしたちが目撃しているのは、representationという任務をみずから引き受ける女性知識人の誕生である。」(p.310)


※藤野寛(第一章の著者)論文シリーズのインデックスができました!

(1)温かい見方と客観的な見方、愛と人権尊重と業績評価―『ジェンダーにおける「承認」と「再分配」』をよむ
 
(2)「愛の危機」の時代「愛」の差別、闘争、苦しみと幸福、そして家族のジレンマ―藤野寛氏「家族と所有」をよむ

(3)村上春樹文学と「承認」、無視、軽視、物象化との対決、よい社会とは何か―藤野寛氏論文より第二弾

(4)自由と暴力と承認、「承認」が引き受けるものの範囲―藤野寛論文をよむ(3)


 


(一財)承認マネジメント協会
 正田佐与


 この春からうちの本棚に急に増えたコレクション。

本棚の指輪物語-2


 映画「ロード・オブ・ザ・リング」の原作、『指輪物語』関係の本。

 重い荷をもって旅するお話。

 戦い、仲間割れ、沼地、邪悪との出会い、信頼、不屈―。

 本棚が整理できることなんて永遠にありません。リビングの向こう側の床は本の山です。

 「新潮45」2015年8月号を読みました。
 創刊400号記念特大号―といってもふだんこの雑誌の読者ではないので実感しにくいのですが、

 「地に足のついた話をしよう」
と題して、藻谷浩介×内田樹の対談があります。

 辛いですが、今日の記事ではこの対談を批判的に吟味してみたいと思います。
 「承認欲求」という言葉が、多くの犯罪心理学者や社会学者と同じ、逸脱行為を理解するための言葉として使われています。


 3月に起きたドイツのジャーマンウィングス機の墜落事故を話題にして、

 ―この事故はスペインからドイツに向かった旅客機の副操縦士が、百五十人の乗客乗員を乗せたままフランスの山中に自ら墜落させたというもの。副操縦士はうつだったとの報道があった。このほか新幹線の中で焼身自殺を図り、1人が巻き添えになって無くなるという痛ましい事件が起きた―

 
内田 平凡な言い方になってしまいますが、いずれも背景にあるのは社会的承認欲求でしょうね。

藻谷 承認欲求…。ただ自殺したのでは記事にもならない。大勢を道連れにすれば、みんな自分の名前を知るだろうと。

内田 名前を知って欲しいというより、「彼はなぜこんなことをしたのか」という問いを立てて欲しいんじゃないですか。「彼はなぜこんなことをしたのか」という問いの対象になるのが、現代人が求めている社会的承認欲求の標準になっているような気がします。

藻谷 なるほど、皆に考えて欲しいと。(p.61)



 読者の皆様は、お気づきでしょうか。
 「(社会的)承認欲求」という言葉が、ここでも”負の文脈”で使われ、なんども言うように「自己顕示欲」とほぼ同義で使われていることに。

 かつ、「(社会的)承認欲求」という言葉と「自己顕示欲」という言葉、どちらを使うのがここでは適切か。
 「自己顕示欲」を使うほうがはるかに適切なのです。

 コーチングを含めたコミュニケーションの世界には、「チャンクダウン」「チャンクアップ」という言葉があります。それぞれ、「具体化」と「抽象化」とほぼ同じ意味。チャンクというのは塊という意味で、チャンクダウンは塊を小さく崩すこと、チャンクアップは大きな塊にまとめあげること、をいいます。

 それでいうと、「(社会的)承認欲求」という言葉は、ここで使うには「チャンクが大きすぎる」のです。より細分化・特定した、「自己顕示欲」を使うほうがよほど親切、適切。

 「(社会的)承認欲求」では、著書や芸術作品を世に問う行為も、会社に就職することもそこで頑張って働いて仕事のできる人と認められたい、ということもすべて入ってしまいます。そういうことまで悪いのか、と誤解させかねません。

 というか、「社会的」をここにつけるのは何か学術的な意味があるのか?マズローの言う第三階層の「社会的欲求(所属欲求)」と第四階層の「承認欲求」を合体させた造語なのか?社会学のほうにでも、こういう合体させた用語があるのでしょうか?正田は寡聞にして知りません。


 先月のこのブログにも書いたように、内田氏は実に恣意的な言葉の使い方をする人物であり、さまざまな分野について碌に知識のないまま聞きかじり、ネット読みかじり程度の知識で大上段にものを言ってしまう癖があります。
 詳しくは
 ウチダ本ついに学ぶものなし(悲)
 http://c-c-a.blog.jp/archives/51922494.html
 無知と知ったかぶり、恣意的な用語と思考、ファンタジーのオンパレード(★)―再度『困難な成熟』
 http://c-c-a.blog.jp/archives/51922668.html
(ちなみにあとのほうの記事は、フェイスブックでお友達の法政大学の組織論の先生から「いいね!」をいただきました)

かつ、「言葉の両義性」というものもお好きなようで、「両義性」が好きであると「承認欲求」のようなチャンクの大きい言葉を使って何かあれば「両義性」で言い抜けようとするのもわかる気もします。いずれにしても、まともな学者なら自分の学生には禁じるはずの、非常に不誠実な態度です。

 また藻谷氏は―、以前の同氏の著作『しなやかな日本列島のつくりかた』でも、序文中の「私は本を読まない」というフレーズに「???」とわたしはなったのですが、本を読まなければ必然的に情報源はネットか聞きかじりか、ということになります。
 ―この本も、今読み返すと男性ばかり8人で「日本」を語り、女性が話題に登場するのは点景としてのみ、という、非常に偏った本なのだ―

 残念ながら、「承認欲求」という言葉はこういう種類の、そこそこ有名な、しかし不勉強な、大学教授、コンサルタント、売文業の人びとが遊び半分に(対岸の火事として)もてあそぶための言葉になってしまっていたのでした。

 もう1つ藻谷氏の言葉を挙げておきましょう。

藻谷 最近、私が違和感を覚えるのは、「藻谷さんはいろいろ発信できて、社会に影響を与えることができて、いいですね」と言われることです。要するに、藻谷は私を拡張できて、公にいろいろ口出しできて羨ましいということなんです。
 こう言われると、二つの意味でげんなりします。
(中略)
 傲慢に聞こえてしまうかもしれませんが、私は他人に認めてもらいたいわけではないし、そういう意味での欠落感はないんです。(p.65)
 

 ここでは、「認めてもらいたい=欠落感」という使われ方をしています。
 さて、「認めてもらいたい」はイコール欠落感なんだろうか?
 読者の皆様は、どう思われますか?

 先にも言いましたように、承認欲求というのは著書や芸術作品を世に問う行為も、会社に就職することもそこで頑張って働いてそこそこ仕事のできる人と認められたい、ということもすべて入ってしまいます。たとえば感情労働といわれる仕事の人がお客様に「ありがとう」と言ってもらうとほっとこころがなごむ、身体の疲れが癒されたように感じる、そんなささやかなことも承認欲求です。あるいは無理解な上司から問答無用で叱りとばされ、こころが傷つくことも承認欲求の一形態です。
 また恋愛をしたり家庭を営んだりする私的な行為も―。

 藻谷発言には、それらすべてをひっくるめた、人びとが関係性の中で喜びや悲しみを感じる「承認欲求」に対する見下しがあります。
 そうしたものすべてから自由でいられる立場だ、とはある意味羨ましいことです。

 
 ここで藻谷氏の名前を出さざるを得ないのはわたし的に非常に残念なのですが、同氏は昨年12月21日の毎日新聞書評で拙著『行動承認』を取り上げてくれたのでした。「今年の3冊」のうちの1冊として。当時わたしも非常に感謝しました。
 しかしそのときの文面をここに出すのは控えましょう。同氏も後悔しているでしょうから。

 同氏のように、わたしのしてきた教育事業とそれによる幸福な業績向上事例、そして拙著『行動承認』をはじめとする事例提供、それらに当初感銘を受け、シンパになってくれ、そのすぐあとネットの「承認欲求叩き」に触れたのか内田氏のような「良く知らないで承認欲求叩きの尻馬に乗るえせ知識人」に流されたのか、自らも「承認欲求」を揶揄・嘲笑する側に回ったという例は、このところ後を絶たなかったのです。

 去年から今年、何度そういう人々の手のひらを返したような仕打ちに遭ったことだろう。

 そして今年春、わたしは一時期体調を崩していました。

 だから、ブログ読者の皆様、わたしが「承認欲求叩き」とそれに便乗するえせ知識人に対して厳しいことに、驚かないでください。そしてどうかご理解ください。にどと藻谷氏のような人物に出会いたくないのです。もちろん内田氏のような人物にも。

 神様、どうかお守りください。

 この記事が、おぞましい「承認欲求叩き」の最後の1つになりますように。

 
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 7月、8月と研修をさせていただいたベーカリーチェーン「株式会社牧」様から、クール宅急便が届きました。

牧様のパン20151006-2


 冷凍状態でもぷうんと香ばしい香りのたちのぼる、パンの数々。

 「柴又店が今月末に新装開店します。それに向けて開発しているパンをお送りしました」

 電話に出られた牧田社長のお元気な声。
 そういえばこの人も「ヘーゲル読み」でいらしたんだ。
 9月末にはまたヨーロッパ研修旅行に行かれたとのことで、皆様新しい”ネタ”をたっぷり仕入れてこられたことでしょう。
「私は承認によって救われました」
と言った飯田GMは、まだ1人ヨーロッパにとどまって旅しているそうです。

 わたしは、手を動かしてお仕事をする方々が本当にすきです。


(一財)承認マネジメント協会
 正田佐与
 


 

 「女性活躍」。

 どなたかが国連演説の中で「難民受け入れよりも女性活躍(国内問題優先)」と言って失笑を買っていましたっけ。。

 わが国の女性活躍の遅れからすると理の当然やらなければならないことなのですが、それが浮上するときの文脈などをみるとどこかスッキリしない感があります。


 ともあれ「月刊人事マネジメント」誌に連載させていただいている、「上司必携・承認マネジメント読本」の3回目のゲラをご厚意により「公開OK」でいただきましたので、転載させていただきます。

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以下、本文の転載です:
 
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上司必携・『行動承認マネジメント読本』
〜人手不足チームのやる気と力の引き出し方〜


一般財団法人 承認マネジメント協会 理事長
正田佐与


第3章 女性の活用と登用は「上司の眼差し」次第


 先にカナダで行われたサッカー女子W杯では、「なでしこジャパン」は準優勝でしたが、引き続き「日本女性の能力は世界トップレベル」であることを例証してくれました。しかしビジネスの世界では、わが国の女性の活用と登用は依然、先進諸国の中で大きく後れをとっています。
 こうしたなか、求められているのが環境要因としての「上司の承認」の効用です。


「承認」が女性活用にどう関わるのですか?

 女性の活躍は、出産や育児などのライフイベントに左右されやすく、そのため制度や施設などの整備が不可欠です。しかし、それらはハード面の課題なので分かりやすいのですが、上司の「承認」の有無は、ソフト面の見えにくい課題といえます。
 それはさまざまなハード面の整備を行った後にも厳然と横たわる根強い課題であり、実は根源的なものなのです。とりわけ管理職の意識の部分は変わりにくいことから、最近は「粘土層管理職」という呼び方もなされるようになってきています。
 わが国では女性が出産・育児期に退職する「M字カーブ」が顕著なことはよく知られています。しかし、出産・育児が本当に女性の退職の直接的な原因なのでしょうか。
 意外なことに現実には、日本の高学歴女性では家庭責任などのライフイベントよりも、仕事の不満や行き詰まり感が退職原因の大半を占めています。詳しくいうと、「女性が休職や退職をする確率が高いため、投資する対象とみなされず訓練を受け成長する機会が少ない」ことが、退職原因なのです。これを「不安の自己成就」といいます。
 訓練を受けない⇒認められていないと感じる⇒退職する⇒ますます訓練コストを絞るという負のループが存在しています。
 「訓練」とは重要性のある部署に配属するか否かも関わりますし、管理職からの日常の仕事の振り方にも「訓練」の要素があります。多くの男性管理職は「やはり女性より男性のほうがちょっとした仕事を頼みやすい」と本音を漏らします。
 「訓練を受けない」ことはまt、いざ社内にいる女性社員を管理職に登用する段に至っても、十分な能力や経験を積んでいないという形で壁になってきます。
 「認められたい」。マスメディアなどで女性活躍推進についてインタビューを受ける働く女性たちの切実な声が響くゆえんです。

「承認」がないと、どんな弊害が生まれますか?


 例えば中小企業で女性を活かしきれていないケース。優秀な男性はどうしても大企業が先にさらってしまうため、中小企業のある管理職は「われわれ中小は『優秀な女性社員と普通の男性社員』の組み合わせなんですよ」と自嘲気味に言います。ところがそうした現実をよそに、地方の多くの中小企業では依然、男性と女性との間に序列を付ける人事配置が行われています。能力の追いつかない男性上司の下で女性部下が実質的な管理職の職務を担い、現場に不満が渦巻いているというケースが往々にして見られます。
 また逆に、「機械的な女性登用の弊害」という問題もあります。一部官公庁や公的団体では、建前としての男女平等は浸透していますが、その結果若い頃からの訓練不在のまま本人の能力や意欲に関係なく、年齢順で女性を管理職に登用するケースもみられます。この場合も現場のモチベーションに深刻な影響をもたらします。
 一方、育児休暇から復職した女性社員への「過剰な配慮」により、責任のある仕事を与えないという現象も、本人の能力や成長意欲を認めない「承認不在」の現象といえるでしょう。
 「マミートラック」とは、復職後に負担の少ない仕事を与えられ男性社員とはっきりと差を付けられるキャリア形成の仕方を指す言葉ですが、この「マミートラック」に甘んじた女性のほうが会社には残りやすい、という指摘もあります。それまで男性並みにバリバリ働いてきた、仕事上の成長意欲のある女性は逆にそこで辞めてしまうのです。

「承認」によって、どんな効果がありますか?

 「行動承認」はバイアスをとる効用があり、「公正な評価」と「ダイバーシティ」の推進に大きく関わる要素です。
 これまで「承認」のトレーニングを受けた管理職の下では、研修直後から一転して「女性」への見方・関わり方が変わり、それに応じて女性社員の側も大きく成長したケースが多数見られました。例えば、

●個々の女性社員の動きがよく見えるようになった。その中で営業力の高い女性が一層活躍できるよう条件を整えたため女性の売上が飛躍的に伸びた。

●責任感のある女性を抜擢してリーダーに登用することができた。

●ネガティブな発言をするベテラン女性に「行動承認」で対応すると、俄然前向きな発言に変わり行動も改まった。

―などです。研修以前は、「女性」が十把一絡げにしか見えていなかったのです。
 コープこうべの元役員で、今年男女共同参画社会づくり功労者総理大臣表彰を受けた有光毬子さん(70)は、「結婚退職しか考えていなかった私に仕事の面白さを教えてくれたのは会社の理念を語って励ましてくれた上司の存在」と言います。
 またある営業職の女性は、管理職になる自信がなく悩んでいたときに外出先で自分の会社の社長に出会って名前を呼んでもらって「最近どう?」と聞かれ、「それだけで俄然モチベーションが上がった」と言っています。
 上司の期待に男性以上に敏感なのが女性。「承認」を導入したとき、部下世代では男女とも成長がスピードアップしますが、女性のほうがより大きく成長することが分かっています。「女性活躍推進」を、女性自身の側の努力に期待するのは一面的です。「上司の眼差し」が環境要因として極めて大きいことを管理者はしっかり認識すべきでしょう。
 では、上司は何から始めればいいのか?女性部下に対してこそ、お勧めしたいのが「行動承認―相手の行動を事実の通り記述的に認めること―」です。やってみると、「やったことを正確に認めてもらえた」と、女性たちが見違えるように生き生きと働くようになるのです。すべての「承認」の入り口として、「行動承認」にぜひ、取り組んでみてください。
(了)


「上司必携・行動承認マネジメント読本」シリーズ全体の構成は:

第一章 行動承認は”儲かる技術”である(2015年7月号)
 http://c-c-a.blog.jp/archives/51919833.html
 第二章  「承認」の学習ステップ(8月号掲載)
 http://c-c-a.blog.jp/archives/51921667.html
第三章 女性活用と登用は「上司の眼差し」次第(9月号掲載)
 http://c-c-a.blog.jp/archives/51923763.html
第四章 LINE世代に対するマネジメントとは(10月号掲載)
 http://c-c-a.blog.jp/archives/51925545.html
第五章 「踏み込みすぎない」メンタルヘルス対策(11月号掲載)
 http://c-c-a.blog.jp/archives/51927183.html
第六章 部下の凸凹を戦力化に転じる(12月号掲載・本記事)
 http://c-c-a.blog.jp/archives/51932814.html
第七章 伝えたいことが「伝わる」伝え方(2016年1月号掲載)
 http://c-c-a.blog.jp/archives/51934650.html



(一財)承認マネジメント協会
 正田佐与

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 ブログ開設10周年、やっぱり振り返ってみたい大切にしてきたことがありました。

 2009年4月から始まった「よのなかカフェ」(旧NPO法人企業内コーチ育成協会の事業の1つ)は、2014年12月まで通算41回開催されました。

 ネーミングは、藤原和博氏が世田谷の中学校長時代にやっていた「よのなか科」のパクリです。中身は授業ではなく、特定の時事問題のテーマを参加者の話し合いで掘り下げていく、というものです。

 時事問題といっても個々の殺人事件とかを取り上げるよりはもう少し普遍的にみんなに関係あることを、ということで、いくつか繰り返し扱ったテーマがありました。

 たとえば「労働」。

 2010年8月「日本人と仕事」。

 
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 ひょうご仕事と生活センター長・北条勝利氏、同志社大学教授太田肇氏、と正田の公開対談。
 この公開対談は5回シリーズでご紹介していますが、大変おもしろい内容でした。大筋、「日本人のモチベーションの低さ、労働生産性の低さ」に関する調査数字を取り上げて、じゃあどうするか?を語っています。
 

 2012年2月、正田が「日本人不安説に基づく承認マネジメント論」を初めて出したのが「日本の企業をつながり力で変える!」同月中に三宮と姫路で開催しました

 三宮編「なぜ語られないのか?日本人の特性に合った人材育成」

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 初の姫路開催となった、大人数参加で熱気あふれる姫路編「凄い回になりました 日本の企業をつながり力で変える!」

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 そして「教育」。学校の荒廃に何ができるのか?姫路から「学級崩壊お助けマン先生」を招いて2012年5月、「子供たちが危ない!」

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 12年8月、「たくましい若者の作り方」(姫路)では、地域の大学関係者と中小企業経営者が「若い人の人材育成」を共同で議論。有意義な回でした。

 
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 「福祉」と「地域のつながり」を探った回、「姫路版・高齢化社会を探る!」2013年2月。

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 まあ地域のおじいさん(失礼)方が元気。そしてNPOの人たちも元気。よう語りました。


 「政治」を初めて扱ったのが2013年5月の「もしも私が首長だったら」(三宮)。
 この年、兵庫県知事選と神戸市長選が同日選挙になるのを控え、「首長の仕事って何、行政の仕事って何?もっと主体的に選ぼうよ」という問題意識で開催しました。

 
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 松本茂樹先生(関西国際大学)の解説が秀逸。松本先生は他にも、「ユーロ危機」の回にも登場され大変おもしろい解説をしていただきました。


 忘れられないのが、3・11を受けた2011年4月の「震災」の回。
 
 神戸に本拠を置く被災地NGO協働センターの村井雅清代表にお越しいただきました。参加費を無料としたため、よのなかカフェ史上最高の集客に。

 
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 タイトルにもなった村井氏の「非日常の中から生まれた良いものを日常に」、いい言葉ですよね。


 地元「神戸」を話題にした回「神戸は住みやすいのか住みにくいのか?『外から見た神戸、内から見た神戸』」(2012年10月)は今も高いアクセスを集める人気記事です。どうも、まじめに神戸への移住を考えている人が参照されるよう。ひょっとして地元の悪口言って地方創生の邪魔してないか?

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 「データ重視」のよのなかカフェ、このときは地域の経済指標等に関するその年の日銀支店長の講演データを借用して冒頭に解説し、たたき台としました。しかし議論はそのデータには全く頓着せず自由な方向に(苦笑)
 

 「スウェーデン」も2回、テーマに取り上げました。
 (本当は、スウェーデンというより「北欧」を取り上げたかったんですが、そういうと漠然としているので、あえて人口規模の一番大きいスウェーデンを選んだ、という感じです)

 IKEA神戸の2人の女性管理職を招いた回「責任と決断の根づく人びとが作る社会」(2011年5月)
 
 
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 IKEAのお二人は日本人ながらIKEA精神を体現して自分の「責任」に基づいて語ると、わが「承認」受講生の男性管理職たちも「ほ〜」という感じ。カッコ良かった。

 同じ年の秋、こんどはスウェーデン人福祉研究者のアンベッケン女史を招いてカフェを開催しました。
 「議論、透明性、そして信頼」(2011年10月)。

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 福祉関係者を中心に大変意識の高い方々が参加され、アンベッケン女史へ熱気ある質問が相次ぎました。
 「スウェーデンでは政府への信頼があるから、政策にも納得感がある」という同女史の言葉が印象的でした。

 

 「女性」。主宰者が女性なもので(汗)、いや、やっぱり人口の半分が冷遇されている社会はおかしいです。いろんな角度からあの手この手とやりました。

 これは過去にも一度まとめをしましたけれど、もう1回出すと…。

 女性に「働いてほしい」(行政)されど事情は。。 女性活用カフェ開催しました!(2011年1月)
 ―神戸市男女共同参画課の方にもお越しいただきデータをみながら議論しました

 リツイート感謝。団塊の世代価値観を問う「男のプライド」よのなかカフェ (2011年8月)
 ―正田のアナーキーな性格がわかるちょっとカゲキな回でした

 「女性が輝く社会には何が必要?」(2014年12月)
 ―少人数で公務員さん中心のちょっと偏った回でしたが、そのぶん比較的先進的なところでは今こういうことが起こっている、という理解には役立った。

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 このほかにも「スウェーデンよのなかカフェ」の2回とも「女性」の回であるともいえますし。


 さいごに、「幸せ」について。

 過去に開催したよのなかカフェでも、たとえば「人口減少社会」「ユーロ危機」がテーマのときにも後半は「(色々問題はあるけど)じゃあ私たち自身の幸福とは何か、考えようじゃないか」という時間がありました。

 その「幸せ」を正面からとりあげたのが、第40回「幸せって何?」

 
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 やってみるとわかったのは、おもしろいことに、自分個人の「幸せ」をとことん考えると、自然と「社会全体の幸せとは」「(自分や自分の子でない)若い人にとっての幸せとは」を考えるようになる、ということでした。参加メンバーが良かったのかもしれませんが…。

 後日有光毬子さんが「正田さん、あの『幸せよのなかカフェ』ぱくらせてね」なんて言っていただきましたが、どんどんぱくってやっていただきたいものです。

 絵本風「よのなかカフェ総まくり」は以上であります。


 さて、ここからは多少手法の「ネタばらし」的なお話です。

 よのなかカフェがやろうとしたのは「対話」と「議論」の両方でした。「うちの業界」には、「議論はわるいもので対話はいいもの」という変なコードがありますが、当社ではそれに縛られず、「議論も対話も両方OK」にしました。共感もあり、反論もあっていい。

 そこでは、今みてもうるさすぎるほどのファシリテーションのルールがありました。

 ファシリテーション方法についてまとめた回

 後日談 よのなかカフェと女性とファシリとブログ文体と。。

 色んなことを言っていますが要は「承認」。

 ここでいう「承認」はほめるなんていう薄っぺらいものではなくて、「すべての人が属性に関わりなく尊重される、尊厳を傷つけられない、敬意をもって遇される」ということ。
 また「悪平等」ではなく、「重要な発言については(これも属性に関わりなく)きちんと価値づけすること」(公正)もあります。
 
 とりわけ、やはり、男女に平等に機会を与えること、公正に評価すること、についてはうるさかったですね。できなかったファシリは「クビ」にしちゃいましたからね。「どけ、あたしがやる!」みたいな感じで。本当に。たぶん女性主宰者じゃないとそこまでできなかったでしょうね。

 
 でもそういう、異常なぐらい「機会の平等、評価の公正」に神経をとがらせた世界は、案外男性にとっても居心地がいいものだ、というのは、参加者への個別インタビューで出ました(インタビュー先が偏っていたかもしれませんが)。


 男性も女性も同じ地平にたってワイワイ、っていいものですよ。私は男性だけが大声でしゃべってて女性はお茶をついで回るだけ、みたいな昔の村の寄り合いみたいなダサイ場にはしたくなかったんです。自然に任せるとすぐそうなってしまいます。


 
 まあこうして改めてみると2011〜12年がよのなかカフェ一番元気あったなあ、今はそんな元気ないなあ、というのも思いますけど、思い出にひたる記事でございました。おつきあいくださいまして、ありがとうございました。

 よのなかカフェ41回を支えてくださったお客様、スタッフの皆様にも、改めてお礼申し上げます。


(一財)承認マネジメント協会
 正田佐与

お世話になっている皆様


 おはようございます。
 一般財団法人承認マネジメント協会の正田です。
 
※このメールは、正田が過去にお名刺を交換させていただいた方・当協会のイベントやセミナーにご来場いただいた方にお送りしています。ご不要の方は、メール末尾にありますURLより解除ください。
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 本日の話題は:

■ご愛読ありがとうございます!お蔭様でブログ開設10周年。

■自然信仰、アニミズムと「承認」―広井良典教授との対話より

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■ご愛読ありがとうございます!お蔭様でブログ開設10周年。

 ご報告が遅くなりました。
先月21日をもちまして、わたくし正田のブログ「コーチ・正田の愛するこの世界」は開設10周年を迎えました。
http://c-c-a.blog.jp/
 2005年9月21日。それまでも別のドメイン、別の名称で執筆していたブログを、急に思い立って現在のライブドアブログに引っ越し、名称も現在の名に変えてしまいました。
以来、マネジメント、心理学、リーダーシップ、コミュニケーション、脳科学、遺伝子学、などの話題をつづってきました。最近は「哲学」の話題も増えています。
 なおライブドアはその後ホリエモンの逮捕などで騒然となり、今はLINEの子会社となり、これがベストの選択なのかどうかわかりませんが漫然と使い続けております…。

 10年間、このブログへ読者のみなさまからのアクセス、及び温かいお便りや直接お会いしたときの温かい励ましをいただいてまいりました。皆様の日々のマネジメントに少しでもお役に立つところがありましたら幸いです。
引き続きのご愛読、よろしくお願いいたします。

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■自然信仰、アニミズムと「承認」―広井良典教授との対話より

 『ポスト資本主義』(岩波新書)の著者である広井良典氏(千葉大学法政経学部教授、科学哲学専攻)とフェイスブックメッセージをやりとりさせていただきました。
 そのなかで広井教授は長年テーマの1つにしてこられた「自然のスピリチュアリズム」と「承認」の関連を語っておられ、正田もびっくりいたしました。
 開かれた知性の方とは、こうして「承認」を話題に対話ができるのですね。
 前回と前々回、アカデミズムの一部の歪んだ「承認欲求バッシング」のお話を書かせていただきましたが、正常なあり方に向かう兆しが感じられます。
 どんな対話だったか、ご興味のある方はご覧ください:

 自然信仰、アニミズムと「承認」―広井良典教授との対話より
 http://c-c-a.blog.jp/archives/51923240.html 

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※このメールは、正田が過去にお名刺を交換させていただいた方・当協会のイベントやセミナーにご来場いただいた方にお送りしています。

解除される場合は、下記の解除フォームから受信していただいたメールアドレス入力して下さい。
メールアドレスを入力していただいた後、解除専用の確認メールをお送りさせていただきますので解除専用のURLをクリックして下さい。
いたずら防止のため解除の確認メールをお送りさせていただいておりますのでご理解のほどよろしくお願い申し上げます。
http://mag1.hyper-mail.jp/md/publish/quit.asp?mid=848


※このメールの過去アーカイブはこちらです
http://c-c-a.blog.jp/archives/cat_50052130.html 


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もしこのメールを新たに購読ご希望のかたがいらっしゃいましたら、
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100年後に誇れる教育事業をしよう。
一般財団法人承認マネジメント協会
(旧NPO法人企業内コーチ育成協会
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ツイッターアカウント: @sayoshoda

フェイスブックページ: http://www.facebook.com/sayo.shoda

ブログ「コーチ・正田の 愛するこの世界」
http://c-c-a.blog.jp/

近著『行動承認―組織の能力を最大化する「認める力」』
http://www.amazon.co.jp/gp/product/4434198572 


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 ブログ開設10年、いろんな場面がありました。

 個人的に非常に苦しかった体験の1つが、「某ビジネススクールに入学してわずか1か月半で退学」したときのことです。2006年春のことです。

 途中から、「これはどうも一種異様な体験をしているぞ」と思って、その顛末をブログに書き始めました。

 カテゴリ:ビジネススクール観察記
 http://c-c-a.blog.jp/archives/cat_50041112.html

 
 長い間読み返しませんでしたが、今読み返すと、
「三つ子の魂百まで」
といいますか、

 今わたしが教育上のこだわりとして持っていることの原型がこのときできたんだな、と思います。

 例えば、

「恣意的に振り回さない。勝手なルールで運ばない。後出しジャンケンをしない」

とか、

「言葉の語義を良く知らないでものを言わない。印象論でものを言わない」

とか。

(このときも、講師が出したお題の言葉の意味をちゃんと調べてそれに基づいてものを言ったのがわたし1人だったので、腐ったのでした)

 また、

「論理的思考うんぬんより前に正確な事実認識が大事。そこがきちんとできていれば、あとは職場で普通に使う『こうなれば、こうなる』というロジックのつながりでほとんどは十分思考できる。事実認識の方法を教えないまま論理的思考を教えるのは本末転倒」

ということも言っていて、これは初めてきかれる方には「???」なお話かもしれませんけれども、逆に「事実認識抜き」で架空のロジックを振り回している図を想像していただくと、それが変なのはちょっとご理解いただけるでしょうか。

 例えばハーバード大MBAで使われる「ケーススタディ」という手法。
 ある(実在の)企業の成功のプロセスが「物語風」に出され、それを元に議論するというものです。先生は正解を用意していて、このケースはこのマーケティング戦略を使ったから成功したんだ、というところに着地させるようになっている。
 ところが、実在の企業なのでそのケースについてちょっとネットで調べると、「ケーススタディで紹介されているのは『神話』で、実際にはそれとは別に『〇×』が功を奏した」なんていう話がゴロゴロ出てきます。
 なんじゃらほい。
 でも、そういうネットだけでも調べたことは使ってはいけないことになっています。
 普通は、そういうルールだと納得して従うんですが、正田は「おかしいんちゃうの?」と思いました。
 だって、あらゆる手を講じてサイド情報を仕入れようとするじゃないですか、現実のビジネスでは。

 で事実はどうだったか、というと、マーケティング戦略よりは組織論的なことが功を奏したりしてね。ありがちなことです。


 ビジネススクールを辞めて数年後、わたしは認知科学の分野の「ヒューリスティック」にはまりはじめ、その手の本を収集したり読書日記を書いたりするようになりますが、この時の体験は大きかったと思います。

 人は、どれほど願望、妄想、希望的観測で事実認識を誤ってしまう生きものか。
 その事実認識の部分をきちっと押さえないまま論理とか思考法を使用しても意味のないものか。


 また、教育を担う人の「口調」の問題。
 講師の言葉の端々ににじむ「見下し」等の悪意が、いかにその場の空気を悪くするか、学生たちの人格を悪くするか、攻撃的にするか、ということも、このときうんざりするほど体感したことでした。なので「正田研修」で「リスペクト」は絶対死守しなければならないものなのです。

 これは現在でも、「嫌悪」というのは非常に感染力の高いやっかいな感情なので、たとえば研修講師や講演業の人、経営者等人前で話す立場の人は、相当気をつけていただきたいことであります。年配の講演業の人などによく見るのは、お爺さんらしい底意地の悪さや「女性嫌悪(ミソジニ―)」の気分をまき散らしながら話す人。そういう人とは正田は決してご一緒いたしません。



 ・・・そしてその当時は家族とも同居していたので、学校を辞めるかどうか真剣に悩んで当時の家族に相談したりしているのが、ほほえましいというか笑えるというか、でした。



 というわけで、もし余程お時間のある方でご興味があれば読んでみてください:
 
  カテゴリ:ビジネススクール観察記
 http://c-c-a.blog.jp/archives/cat_50041112.html

 

(一財)承認マネジメント協会
 正田佐与


 ブログ開設10周年記念。
 どこまでやるべきなんでしょう。

 読者様に抽選でプレゼント!なんていう気の利いたことはできないのがわたし。

 他ならぬ”このブログ”について過去に書いた記事としては、こちら

 当ブログ流の「僕は君たちに武器を配りたい」(2013年11月)
 http://c-c-a.blog.jp/archives/51875568.html

があります。
 「マネジャー教育で1位輩出開始10周年」で感謝のつどいをした時ですね。今は蹴とばしてしまった、わずか2年前ですが遠い過去です。

 なんで今孤独を選んでいるのかというと、この世は一歩外は敵だらけだ、ということを、「味方」「仲間」はだれも理解しなかったからです。どんな殺伐とした世界を正田が生きていて闘わなければ生き残れないか、そして満身創痍状態か、わからない人たちばかりだったからです。ブログには繰り返し外の世界の「悪」について書いていたのに、かれらはその意味をわかっていませんでした。

 そういうことで繰り返し落胆するよりは、いっそ1人でいるほうが心穏やかにいられます。

 最近は、「敵」の正体がすこしわかってきた気がします。

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 その一方で最近はフェイスブックのお友達の皆様にお願いしにくいことをお願いすることが続いていまして、でも意外なことに心温かく応じてくださる方がいらっしゃるのは本当にありがたかったのです。

 ネットもある意味情報戦の場です。

 決してお友達を利用したいなんて思っていなくて、今後はできるだけこういうことをしないで済むように願います。
 温かいご理解をくださった皆様、リアルの友人以上に味方でいてくださった皆様、本当にありがとうございます。

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 自分自身について、最近「ビジョン型ではなく価値観型」だ、と書きました。未来にどうなりたい、という夢が持てなくて、ただ毎日を自分らしく価値観を大事にして生きたい。

 ではそれはどういう価値観なのか、と訊かれると、

 「幸福な王子に出てくるツバメ」のように生きたい、と答えます。

 オスカー・ワイルドの『幸福な王子』('The Happy Prince')は、ブログ読者の方はご存知でしょうか。最近も新訳本が出ていましたが。

 ご存知ない方のために、Wikiに載っていたあらすじを引用させていただきます。


ある街の柱の上に、「幸福な王子」と呼ばれる像が立っていた。かつてこの国で、幸福な生涯を送りながら、若くして死んだとある王子を、記念して建立されたものだった。 両目には青いサファイア、腰の剣の装飾には真っ赤なルビーが輝き、体は金箔に包まれていて、心臓は鉛で作られていた。とても美しい王子は街の人々の自慢だった。 しかし、人々が知らないことが有った。その像には、死んだ王子自身の魂が宿っており、ゆえに自我を持っていること。王子が、この町の貧しい、不幸な人々のことを、嘆き悲しんでいることである。

渡り鳥であるが故にエジプトに旅に出ようとしていたツバメが寝床を探し、王子の像の足元で寝ようとすると突然上から大粒の涙が降ってくる。 王子はこの場所から見える不幸な人々に自分の宝石をあげてきて欲しいとツバメに頼む。 ツバメは言われた通り王子の剣の装飾に使われていたルビーを病気の子供がいる貧しい母親に、両目のサファイアを飢えた若い劇作家と幼いマッチ売りの少女に持っていく。エジプトに渡る事を中止し、街に残る事を決意したツバメは街中を飛び回り、両目をなくし目の見えなくなった王子に色々な話を聞かせる。王子はツバメの話を聞き、まだたくさんいる不幸な人々に自分の体の金箔を剥がし分け与えて欲しいと頼む。

やがて冬が訪れ、王子はみすぼらしい姿になり、南の国へ渡り損ねたツバメも次第に弱っていく。 死を悟ったツバメは最後の力を振り絞って飛び上がり王子にキスをして彼の足元で力尽きる。その瞬間、王子の鉛の心臓は音を立て二つに割れてしまった。 みすぼらしい姿になった王子の像は心無い人々によって柱から取り外され、溶鉱炉で溶かされたが鉛の心臓だけは溶けず、ツバメと一緒にゴミ溜めに捨てられた。

天国では、下界の様子を見ていた神が天使に「この街で最も尊きものを二つ持ってきなさい」と命じ、天使はゴミ溜めから王子の鉛の心臓と死んだツバメを持ってくる。神は天使を褒め、そして王子とツバメは楽園で永遠に幸福になった。


 ほらね、いいお話でしょ?

 正田は「非業の死」を遂げる人が好きで、ワトソンとクリックに研究を盗用されて37歳で病死する女性研究者ロザリンド・フランクリンにも憧れています(もうすぐ52歳、ああ15年も余計に生きてしまった)。
 (ロザリンド・フランクリンに関する記事はこちら

 この物語のツバメは、サブキャラで王子ほど強い信念をもっているわけではないんですが、王子に心動かされてその意思の実現のために働きます。南に向かうことも忘れて貧しい家々に宝石や金箔を配ります。そして寒さに凍え力尽きて死にます。

 そして人々が全然真相を知らないし感謝もしないところが、イイですよね。

 悲劇の話を好きなのは、正田が悲しみの感情を好きな人だからかもしれません。
 いけないなあ、否定的な情報や物語に注目する習慣を止めましょうって『ワイル博士のうつが消えるこころのレッスン』に書いてありました。


 また、現実の正田は1人親方なんですが、「王子」という架空の上司がいる物語が好きなのは、自分は本来は番頭タイプだ、と思っているからかもしれません。「王子」、どこにいるんでしょうね。



(一財)承認マネジメント協会
 正田佐与


 さて、10周年記念。無精ものの正田の精一杯の読者様サービスです♪

 1つ前の記事で、『環境世界と自己の系譜』という本の読書日記をちらっとご紹介しておりましたが、これは1冊の本を延々9回ものシリーズ記事で取り上げたもの。2009年9月のことです。

 昔は、長い記事1本にまとめたりせず、シリーズにしたりしてたんですねー。ほかには「U理論」の本もこういう扱いをしましたが、こちらの本のほうが今みてもおもしろいです。

 インデックスをお作りしましたので、タイトルだけ見ておもしろそうなところを、お時間のあるときお読みください:


『環境世界と自己の系譜』の読書日記
「日本人の自己観と幸福観」シリーズ、インデックスを作りました!!
2015年10月現在読み返してもなかなか面白いことを言っております。
よろしければご覧ください:

日本人の自己観と幸福観(1) −『環境世界と自己の系譜』より
http://c-c-a.blog.jp/archives/51515101.html

日本人の自己観と幸福感(2)−「つながりの自己」と「アトム型自己」
http://c-c-a.blog.jp/archives/51515159.html

日本人の自己観と幸福感(3) −心理学が強化した「アトム的自己」観?
http://c-c-a.blog.jp/archives/51515163.html

日本人の自己観と幸福感(4)− ふたつの幸福感、離脱肯定とつながり肯定
http://c-c-a.blog.jp/archives/51515305.html

日本人の自己観と幸福感(5)―エイズパニックにみる、自我拡張と自我縮小の出会い
http://c-c-a.blog.jp/archives/51515882.html

日本人の自己観と幸福感(6)―江戸時代に完成された「閉鎖系」の倫理観
http://c-c-a.blog.jp/archives/51516148.html

日本人の自己観と幸福感(7)―アトム的自己観を前提とする不幸
http://c-c-a.blog.jp/archives/51516790.html

日本人の自己観と幸福感(8) ―「つながりの自己」は万能か
http://c-c-a.blog.jp/archives/51517365.html

日本人の自己観と幸福感(9)―不安にみちた現実世界と世界仮構のいとなみ
http://c-c-a.blog.jp/archives/51517379.html


本シリーズは以上であります。

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もうひとつ思い立って、ブログの新カテゴリを立てました。

中嶋嶺雄先生・国際教養大学(AIU)
http://c-c-a.blog.jp/archives/cat_50056392.html

先生っ子のわたし、亡くなった恩師を慕っていると(生前も同じでしたが)強くなれる気がするのでした。

AIU訪問記などは今も高いアクセスがあります。中嶋先生はもういらっしゃいませんが、同大学を目指される方の手掛かりになれば幸いです。

また恩師の死の4か月前のインタビューは―、ゼミOBの方から「先生の遺言のようなインタビューだったな」と言っていただきます。わたしの宝物です。


(一財)承認マネジメント協会
 正田佐与


大変申し訳ありません。
自分のアニバーサリーを忘れておりました。
いえ50歳はもう一昨年迎えたんです。

当ブログ「コーチ・正田の愛するこの世界」は
先月21日をもちまして、10周年を迎えておりました。
2005年9月21日、イベント「コーチング関西」の準備中に
ストレス解消のために(?)開設したのでした。

最近は1日平均200人強の方がご訪問くださいまして、
すごく人気ブログであるとはいえませんが
延々と文章ばっかりの不愛想なブログに辛抱づよくおつきあいいただき
ありがたいことです。

相変わらず、成長のない当ブログですが
読者のみなさまのご愛読に心から感謝申し上げます。
みなさまのより充実した1日にお役立ちできますよう、
ひきつづき精進してまいります。
何卒今後ともどうぞよろしくお願いいたしますm(_ _)m


(一財)承認マネジメント協会
 正田佐与

 1つ前の記事に取り上げた本『21世紀の脳科学―人生を豊かにする3つの「脳力」』はわたしの仕事的に非常に示唆に富んでおりました。

 モチベーションに関しては従来心理学分野で言われ、そこでは割と「言ったもん勝ち」と言いますか、恣意的にいろんなことが言われておりました。「内発と自律論」もそうですが承認教のご本尊の1つともいえるマズロー五段階欲求説なども、広く流布してはおりますがどこまでの妥当性があるのかの議論は「保留」という感じでした。

 アメリカは1990年代を「脳の10年」と呼びその後も脳科学が発展し続けました。fMRIについては一部でその限界も言われておりますが、本書でほとんどすべての実験にfMRIによる検証が行われているのは、心強く感じることであります。そういうものが「ない」状態で恣意的なことが言われてきた時代に比べれば。

 また遺伝子学や認知科学、それに神経経済学もそれぞれ発展し、心理学で言われてきたこともさまざまな自然科学分野の手法でメスが入れられるようになりました。実験デザインもそれぞれに工夫され、「ミラーニューロン」の知見についても「発見―批判―再発見―再批判」が繰り返されて「ここまでのことは言える」と精度が上がっているのはすばらしいことです。

 さて、本書に触発されて、
1.「マズロー五段階欲求説」のわたし流の解体、
2.新たな「自己感」とそれに基づく「内発と自律論」の再検討、
3.「承認」と「規範」の関係
―を書きたいと思います。よろしくお付き合いくださいませ。


1.「マズロー五段階欲求説」の解体

 本書には
「生理的欲求の中に『愛されたい欲求』が含まれる。マズローのピラミッドの最下段にこの欲求が来ないといけない。愛され世話されないと人間の乳児は即死んでしまう。そのため『愛されたい欲求』を人間は生涯持ち続ける」
という指摘があります。
 大いにうなずけるもので、「愛される欲求」は従来マズローのピラミッドの下から3番目、「社会的欲求/所属と愛の欲求」に入れられていましたが、実はもっと根源的なものであろうと思います。
 たぶん人間は老人になっても生涯「愛されたい(ついでにリスぺクトされたい)」と願うものです。たとえ愛される愛されないが自分の生死に関わる問題でなくても。

 欲求には階層がある、と最初に言ったのはヘーゲルだったんじゃないですかね。『法の哲学』の中にそういうのが出てきましたね。もっと前の人も言ってたでしょうか。ヘーゲルはあんまり細かい区分は言ってなかったと思いますけど、「承認」という言葉を再生させたマズローはヘーゲルの影響は受けたんでしょうか。

 ちなみにマズローの欲求5段階説をWikiに載っていた図を拝借すると、こうなります

欲求5段階説


 でわたし流の欲求の再区分は、ざくっと「生理的欲求」と「社会的思考の欲求/承認欲求」「非社会的思考の欲求」の3つに区切ってしまいます。すごいアバウト。血液型O型ですかって?いえA型ですけどね。

 でもオリジナルで(まあ、『21世紀の脳科学』に触発されてるんですが)「非社会的思考の欲求」というのをつくって、これは「社会的思考の欲求」の領域の中に食い込んでいます。よくみると従来「自己実現欲求」に分類されていたイチロー的なものがそこに入っているかも…。
 
 議論が分かれると思いますけどね。とりあえず暫定的に作ってみましたね。盗用剽窃しないでくださいね。

欲求段階説正田バージョン201510


欲求段階説正田バージョン2015年10月。禁無断転載



 図形の形がゆがんでいるとか色遣いがヘタクソだ、といった批判は受け付けません。

 えーと、「社会的思考の欲求/承認欲求」として、従来「承認欲求」「所属と愛の欲求」とされていたものを、ここにひとまとめにしてあります。
 よく言葉の乱れとしてあったのは、従来の区分で「所属欲求」としたほうがよいと思われるものを「承認欲求」の中に入れていたことです。スマホで友だちとつながりたい欲求を「承認欲求」とよぶとか、いじめの共犯者や傍観者の形で加担することを「承認欲求」とよぶとか、ですね。
 で今回の区分では、所属欲求も「承認欲求」の下位概念ととらえ、包摂してしまいます。何でも食ってしまうブラックホールみたいな奴だ。たぶん脳科学的にもきれいに「切れない」んではないかと思いますのでね。そのぶん「承認欲求」がわるさもすることにはなりますけどね。
 あっ、犯罪心理学でおなじみの「自己顕示欲」もやっぱり「承認欲求」に入れちゃいました。わるさをすることにつながりそうな要素を「承認欲求」の最下段にまとめましたね。
 また、「内発と自律論」について以前「含む、含まれるの関係でございます」なんて書きましたが、「自律欲求」を、やはり「承認欲求」の少し高次な1ジャンルとして加えてあります。「私、自律的に仕事ができるんだからアゴで使わないで任せてください」っていうのも「承認欲求」の一形態です。今どきの在宅勤務なんかもこれで解決できるんではないかと思います。

 
2.新たな「自己感」とそれに基づく「内発と自律論」の再検討

 1つ前の記事でもかなりコメントを書きましたけれど、欧米的な「独立した個人としての自己」という自己感がだいぶ怪しくなってきました。
 当ブログでは、2009年の秋に大井玄という人の『環境世界と自己の系譜』という本の読書日記を延々とUPして、欧米の「アトム型自己」と東洋の「つながりの自己」との対比を取り上げました。
 参照されたい方はこちらが筆頭の記事になります
 日本人の自己観と幸福観(1) −『環境世界と自己の系譜』より

 その欧米の「アトム型自己」がどうも幻想に基づくもののようだ、ということが本書では沢山の脳科学の知見を添えて書かれています。
 わるいのは「人間は利己的だ」と言ったホッブズとヒューム、それに「心身二元論」を言ったデカルトみたいです。
 そういう“美しい誤解”をしていても欧米社会がそれなりに繁栄してきたのは、ひとつには元々オキシトシン受容体遺伝子の高オキシトシンのスニッブを持つ人が多く、ほっておいても他人との信頼関係のつながりを強く感じて生きられる人が人口比で多いから、という解釈ができるんではないかと思います。

 日本人をはじめアジア人種は遺伝子的にはそういうつながり感というのは弱くて、どうやってカバーしてきたかというとひょっとしたら、フェミニズムの人に叩かれるかもしれませんが、お母さんがずーっとおんぶとか抱っこして皮膚接触を絶えずするような子育てをしていたから、という解釈ができるかもしれません。べつに「お母さんが」じゃなくてもいいんですけど。
 なので、保育所の数が整備されてもそこで働く保育士さんの数が十分確保できないうちは、私個人は子供を乳児のうちから預けて働くことにあんまり賛成できないのです。皮膚接触の絶対量が少なくなってしまいますから。

 あ、それは脱線でした。

 で「内発と自律論」です。
 これらは、上記のホッブズヒュームデカルトらの言葉を盲信しちゃった延長線上にあるであろう、「自分は依存的ではない、自律的だ」と思ったほうが自分に誇りが持てるであろう。とともに断言はできませんが、「内発と自律論」は元々アメリカ心理学界で行動主義/行動理論が普及し権威を持ったことへの反発反感から生まれたようなところがあり、デシの「金銭的報酬がやる気を下げる(ことがある)」という実験も、「だから、報酬を与えることは良くない」という結論を導き出すことはできないものでした。そういう風に拡大解釈して乱用した方も一部にいらっしゃいますが。
 そしてリバタリアニズムの、「がしがし働いてアメリカンドリームを実現した人だけが大金持ちになればいい」という、なんというか「夢中華思想」「成功者ナルシシズム」っていうか、そういうのにも合流し利用されたようにもみえます(リバタリアニズム本当にそんな思想なのか!?)
 このへんはあまりちゃんと調べて書いてるわけではないんですけどね…。
 「内発と自律論」はモチベーション業界で周期的に流行るもので、最近のアメリカではジャーナリストのダニエル・ピンクの『モチベーション2.0』がこの流れで有名ですが、ジャーナリストは唯我独尊の小生意気な職業ですからねえ。
 いくら「ものは言いよう」的にジャーナリストやモチベーション業界の人が言っていても、本書で言うように課題をこなしたあとの休憩時間には他人のことや社会のことが頭に浮かぶのが人間の習性であります。逆にそれが「ない」人は…問題発言になるから、やめとこ。
 「内発と自律論」をわたしが毛嫌いする理由はほかにもあって、実はそれは悩める青少年〜中堅を自己啓発本・自己啓発セミナーの永遠の迷路に引きずり込む入口の商材にもなり得るからです。
 「承認研修」がいくら正しくても、頭でっかち系の職種のこの手の自己啓発にかぶれた若手〜中堅のこころには入っていかない。それは、本書で言う(「自立した個人」という)「自己充足的予言」にかぶれているため、こころが頑なになっているからです。
 それは、彼ら彼女らのために惜しい、と思います。彼ら彼女らの学習能力をむしばんでいます。
 あとは、わたしにとって難攻不落のように思えていた「ジョブズスピーチ」の誤りも指摘してくれているので、ジョブズ決して嫌いではないんですが、あれも「自己充足的予言」に結構なりえるので、非常にスッキリしました。


3.「承認」と「規範」の関係

 これも1つ前の記事の後半部分にかなりコメントで書いておりますが、
「承認すると規範意識が上がる」
という、風が吹けば桶屋が儲かる的な現象があります。
 あるリーダーが部下を承認していると、リーダーが会社のルールやコンプライアンス的なことで指示やお説教をした場面でも、部下はリーダーの言うことを素直に受け取ってくれやすい。
 現象としてはこれまで繰り返し見られてきたことで、これまではその理由を、
「自分を承認されて(特に行動承認を含む承認をされて)感じる喜びはリアリティのあるものなので、承認してくれる人の言うことはそれがコンプラ的なことであっても、リアリティをもって聴けるのです」という説明をしてきました。この説明自体も別に間違いではなかったと思います。
 ところが、脳科学的に、「承認されて喜びを感じる領域」と「外部の規範を取り入れる領域」は同じだ、というではありませんか。
 それじゃ、この2つがダイレクトにつながっていても無理ないですよね。
 社員の規範意識を高めたかったら、承認をしましょう。
 逆にたとえば、ベネッセの個人情報流出なんかも犯人は契約社員だったということですけれど、本人の性格や経済状況の問題もありますが「承認されてない」という問題を抜きには語れなかったんではないでしょうか。(だから、やっぱり正社員/非正規社員の区分も、見直しが必要なんですよねー。改正派遣法は改悪なんちゃうの?と思いますが)

 以上で「考察編」は終わりであります。

 まだ未熟な考察ですが、ご意見ご批判がありましたらコメントかメッセージでもいただければ幸いです。

 

21世紀の脳科学表紙画像


 『21世紀の脳科学―人生を豊かにする3つの「脳力」』(原題’SOCIAL Why Our Brains Are Wired to Connect’、マシュー・リーバーマン、講談社、2015年5月20日)を読みました。
 「ソーシャルブレイン」「つながり脳」の系統の脳科学の本。この手の本が好きなのは決して広井教授に影響されたからではないと思います。わたし自身のもとからの選好だと思います。

 脳科学本としては“軽い”文体の本なのでささっと読んでスルーできるかと思ったらあにはからんや、正田の分野的には読み過ごすことのできない重要な知見、主張がたくさんありました。
 例えば「マズローの欲求五段階説」の解体、欧米的「自立した個人」の幻想、スティーブ・ジョブズのスピーチへの反論…。

 今回は二部構成として、まずは本書の内容を一通り押さえたうえで、別建てで正田のほうに引きつけた考察の記事を書きたいと思います。

 著者は、「カリフォルニア大学ロサンゼルス校心理学部教授、精神医学・生物行動科学部教授。社会認知神経科学分野において、世界で最も注目される研究者のひとり」と紹介されています。本書の中ではfMRI(機能的磁気共鳴画像法)を用いた実験が多数出てきます。若手研究者に贈られる賞を2007年に受賞したとありますが生年が書いてない…。たぶん若いんでしょう。まあいいや。

それでは恒例の抜き書きでございます。(特に断りのない場合は要約)今回はワード20pになってしまいました。職場活性化や教育現場への応用についても終章近くで触れているので、ご興味のあるかたはこの記事をうしろからお読みください。

●大統領選も「自分でなく、他人がどう思うか」に左右される。1984年、レーガンとモンデールのTV討論を聴いた人は、「レーガン健在」と信じたが、それはTVスタジオの聴衆の笑い声に左右されていた。

―アメリカのTV番組の聴衆って大しておもしろくないところで笑いますよねー。あれがいつも不思議でした

●「社会的思考」と「非社会的思考」の定義。
本書で述べる「社会的思考」とは、自分自身と自分を取り巻く周囲との関係や、社会のなかで自分がどう行動するのかを考えるための思考である。つまり、周囲のできごとや社会生活のなかで受け取った情報を処理して、自分自身を知ったり、相手の心の状態を読み取って他者を理解したり、周囲の人間関係について考えたりして、社会的に行動するための思考と言えるだろう。社会的思考に優れた人は、他者とうまく交流したり協調したりして、豊かな人間関係を築き、充実した社会生活を送る能力の持ち主である。
 
 一方の「非社会的思考」とは、文字通り、社会的思考以外のあらゆる思考を指す。そのなかには先にも述べた、チェスをしたり、微分積分を解いたり、ものごとを論理的に分析したりする抽象的な思考能力ももちろん含まれる。世間では、論理的思考能力や分析能力に優れた人を「頭のいい人間」と見なす傾向にある。

●社会的思考と非社会的思考とを脳はまったく別の領域で扱う。そのため複数の領域が連携し合って働く、それぞれのネットワークが発達した。しかもそのふたつのネットワークは、たいてい“互い違いに”働く。社会的思考のネットワークがオンになると、非社会的思考のネットワークはオフになってしまうのだ。

―ここです。少し前の記事で「論理的思考能力と感情認識力はトレードオフ関係ではない、両方優れた人もいらっしゃる」という意味のことを書きましたが、現実には両方優れている人は珍しく、とりわけ学者さんやコンサルタントさんの業界は論理的思考能力「だけ」が強い人が大半を占めている。その人たちがモチベーションを語ると非常におかしなことになる、ということを正田は前から言っていたわけですが。
「両方優れた人」というのは、相当意識してトレーニングした人たちなのかもしれないです。

●自己とは、私たちが考えるような“難攻不落の砦”に囲まれたものではない。それどころか、周囲の考えや価値観を簡単に取り入れる“スーパーハイウェイ”のようなものだ。自己という概念を生み出す脳の同じ領域を使って、進化は、私たちのなかに社会の信念や価値観をうまく取り入れる仕組みをつくり出した。こうして、私たちは自分でも気づかないうちに外部の信念や価値観を自分自身のものと思い込み、社会規範に従い、集団や社会との調和を図ろうとする―そしてそれこそが、進化が私たちに与えた第3の脳力「調和する力」である。

●私たちが言語を獲得したのは約5万〜数十万年前と考えられている。それに対して、私たちの祖先が社会性を獲得したのは、少なくとも哺乳類が地球上に初めて誕生した約2億5000万年前にまでさかのぼる。つまり私たち哺乳類の祖先は“社会的動物”になることで、厳しい生存競争を勝ち抜いてきたのだ。…となると、人類が持つ優れた特徴とは、言語でも理性でも拇指対向性でもなく、進化が私たちに与えた「社会性」と言えるのかもしれない。

●第一の脳力「つながる」。哺乳類が初めて誕生した時、進化は私達の祖先に「社会的苦痛」と「社会的喜び」という、ふたつの基本的な動機を与えられた。未熟なままで生まれ、ひとりでは生きていけない乳児は、常に養育者とつながり、世話をしてもらう必要がある。そこで乳幼児の脳は、養育者から放って置かれるという社会的な分離を、「社会的苦痛」として感じるように発達した。一方の養育者の脳も、我が子の世話を報酬と捉え、「社会的喜び」を感じるように発達した。…しかも、養育者と常につながっていたいという乳幼児期の欲求は、成長後も失われず、生涯にわたって私たちの考えや行動を決定づけるのだ。

●第2の脳力「心を読む」。人や集団や社会とつながり、また他者と戦略的にやりとりするために、進化は私たちに、もっぱら他者の心の状態を読み取るための脳のネットワークを与えた。相手の考えや目的や意図を読み取る脳力のおかげで、私たちは協力し合って難しいアイデアを実現したり、周囲の人間の望みや欲求を予想したりして、集団をスムーズに運営できるのだ。まず「心の理論」、さらに「メンタライジング系」と「ミラー系」という2つのネットワークはそれぞれ異なる機能を持ち、たいてい相互補完的に働く。

―共感の回路。2つのネットワークのそれぞれの役割も後の章で注目です。ちなみに「行動承認」はそこで何をやっているのかというと…。

●第3の脳力:「調和する」:自己観―「自分とは誰なのか」という概念―を生み出す脳の領域は、私たちが周囲の影響を受け、社会の規範や価値観を取り入れるルートでもあるのだ。脳はその同じ領域を用いて、当の私たちも知らないうちに、外部の信念や価値観を私たちのなかにこっそりと運び込んでいる。こうやって私たちの脳は、社会の規範を内面化し、その上に自分自身の自己観をつくり上げ、私たちが外部の信念や価値観に従って考え、行動し、社会の調和を生み出す仕組みをつくりだしたのである。

―「規範の内面化」に関する興味深い考察。後の章では「トロイの木馬」という比喩も用いられています。実はここも、「承認をするとなぜ(部下の)規範意識が高まるか」という点で要注目です。


●脳の「デフォルト・ネットワーク」。1977年、神経学者のゴードン・種ルマンはPET(陽電子放射断層撮影)を用い、「認知、運動、視覚的弁別課題を行っていない時に活性化する領域」を発見した。これを「デフォルト・ネットワーク」とよぶ。何かの課題が終わったときに“デフォルト(初期)設定として現れるネットワーク”という意味。このネットワークと脳の社会的認知ネットワークとがほぼ一致する。休み時間、脳は活発に動き、社会のできごとや周囲の人びとにまつわる情報を処理する認知プロセスに忙しい。

●人間はこの世に生まれるとすぐに、生後2日の新生児の脳でも、デフォルト・ネットワークが活性化する。

●人間と他の霊長類を分ける特徴のひとつとして、脳のサイズがあげられる。とりわけ私たち人間は、前頭前皮質と呼ばれる、目のすぐ後ろに当たる前頭葉の前側の領域が大きい。前頭前皮質は、ほぼどんなソフトウェアでも搭載できる汎用コンピュータによく喩えられる。

●一般的知性や一般的な認知能力と関係がある領域は脳の外側の表面である。一方、社会的知性を働かせる時には、たいてい脳の内側の領域が活性化する。
 さらに、社会的思考を支えるネットワークと、非社会的思考を支えるネットワークは、“シーソー”の両端のように互い違いに活性化する。

●人間の脳は、脳化指数という指標を用いるとバンドウイルカの1.5倍、チンパンジーやアカゲザルの4倍近くにもなる。また人間の前頭前皮質は他の動物と比べても飛びぬけて大きい。

●大きな脳はどんな脳力を提供してきたのか。専門家の3つの仮説は:1.「個人の問題解決能力」。2.「他者の真似をする、個人の社会的学習脳力」。3.「互いにつながり、協力し合う能力」。

●1990年代初め、進化人類学者のロビン・ダンバーは、新皮質比と群れの規模との間には相関関係があり、新皮質比が大きければ大きいほど、群れも大きいという事実を発見したのである。


●マズローの間違い。1943年、心理学者のアブラハム・マズローは、人間の欲求を5段階のピラミッドで表す「マズローの欲求5段階説」を発表した。最下段から「生理的欲求」、「安全欲求」、「社会的(愛と帰属の)欲求」、「承認の欲求」そして「自己実現の欲求」である。マズローは、これらの5段階をすべて実現した人を「自己実現者」と呼んだ。

●ところが乳児を例にとると、乳児にも水や食べ物や安全が必要だが、乳児は自分ひとりではこれらの欲求を満たせない。そのため、生まれた瞬間から哺乳類の赤ちゃんにとって必要なのは、「生理的欲求」と「安全の欲求」とを満たしてくれる養育者の存在である。とすると、マズローのピラミッドは間違っている。乳児にとって最も重要なのは「社会とつながり、誰かに世話をしてもらう」という欲求だからだ。つまり、ピラミッドの底辺は「生理的欲求」ではなく、「社会的(愛と帰属の)欲求」でなければならない。人はつながりを渇望する。なぜならつながりは、私たちが生き残るうえで最も基本的な欲求と深く結びついているからである。

―マズロー5段階欲求説をひっくり返す説。元々wikiにもマズロー説には科学的厳密さがないとの批判が載っているが。わたしもこのところ、マズローのカテゴリ区分や重要性の順位を見直す必要があるのではと感じていたので、大変タイムリーでございました。食べ物の前に愛が必要なわけございますね。

●ボウルビイの愛着理論。当ブログでも再三ご紹介したでしょうか。フェミニズムからは批判されたが、今日ではほぼ定説。
 愛着理論とは、泣いたり、まとわりついたりして愛着を求める乳幼児の欲求に養育者が積極的に答えることで、ふたりの間に強いきずなが結ばれるという考え方である。ボウルビイによれば、乳幼児は生まれ持った“愛着システム”によって、常に養育者との距離を監視し、愛着関係が脅かされるとすぐに警報を鳴らすという。警報は内面的には“不快な痛み”となり、外面的には“分離苦痛の泣き声”となって現れる。そして、激しい泣き声を聞いた母親を急いでそばに呼び戻すのだ。乳幼児期に私たちを大泣きさせたこのシステムは、のちに成人した私たちを、泣きわめく我が子の元へと走らせる。愛着システムは失われない。養育者とのつながりは、乳児にとって生き残りをかけた欲求である。だがその代償として、私たちは「愛されたい」という欲求を命尽きるその日まで持ち続ける。私たちが生涯を通して味わう社会的苦痛は、すべて乳児の頃の生き残りをかけた欲求から生まれたものなのだ。

●1978年、感情神経科学者のジャーク・バンクセップは、「社会的愛着は身体的苦痛系に便乗し、オピオイドによって機能する」という説を発表した。バンクセップは、動物の母子に見られる愛着行動とドラッグとの類似性を指摘する。動物の母子を分離すると、ドラッグを中止・減量した時の離脱(禁断)症状のような苦痛を引き起こす。その一方で、母子を再び引きあわせると、双方のつながりが痛み止めのように作用して苦痛が和らぐ。しかも両者の間には、依存と呼ぶにふさわしい満ち足りた愛着関係が存在する。イヌを使った実験では、親から引き離されたときモルヒネを与えられた子イヌは、ほとんど鳴き声をあげなかった。さらに分離後に再び母子を会せると、母イヌと子イヌの両方でオピオイドの分泌量が増した。この実験結果は、「身体的苦痛と社会的苦痛とを脳が同じように扱う」という仮説を裏付けた。

●背側前帯状皮質の機能。私とナオミはこの領域を脳の「警報系」と名づけた。「問題を検知し」「警報音を鳴らす」というふたつの機能を持つ領域として捉えた。この領域は情動をも引き起こし、私たちの苛立ちや不安といった情動を強く感じれば感じるほど、強く活性化する。

―預言者カサンドラはいつもイラついている、またイラつくからまた色んな悪い兆しに敏感になるというお話。このブログの読者の方の中にも、心当たりはないでしょうか―。ひょっとしたら福島原発の事故を未然に予測した人もイラついていたかもしれません(ひょっとしたらそれで周囲からイヤがられていたかも)

●死別や失恋、他者からの批判、あるいはただ単に相手の咎めるような表情を見た場合でも、背側前帯状皮質は活性化する。

●いじめがもたらす苦痛。「サイバー・ボール」というコンピュータゲームで仲間外れにされた経験をすると、被験者はそれがプログラミングであるとわかっていても社会的苦痛を感じずにはいられなかった。いじめは広く蔓延する社会的拒絶であり、アメリカ、イングランド、ドイツ、フィンランド、日本、韓国、チリで行われた調査では12〜16再の生徒の約10%が日常的ないじめを受けている。しかもその85%は身体的な暴力を含まず、心無い言葉を投げつけたり、噂話の標的にしたりという陰湿ないじめだ。いじめられたほうは長く苦しむ。抑うつ状態に陥り、自殺まで考える。1989年にフィンランドで5000人以上を対象に行われた調査では、8歳の時にいじめに遭っていた人が25歳までに自殺する割合は、いじめられなかった人の6倍にのぼった。

●公平に扱われると報酬系が活性化する。fMRIと「最後通牒ゲーム」を使って測定したところ、公平な扱いを受けた被験者の脳では報酬系が活性化していた。また別の実験では、金持ちグループの被験者と貧乏グループの被験者との金額差が縮まり不公平さが解消された時には、金持ちグループの被験者の脳で報酬系が活性化していた。利己的な計算よりも公平さが優先されたのである。

―不公平感・公平感は霊長類にも表れる感情で、倫理観の一番基礎だという知見も前にありましたね。あれは『共感の時代へ』だったかな。このパラのあとの方の知見は、金持ちグループと貧乏グループがペアを組んでface to faceの関係であることに注意が必要でしょう。相手が目に入らないとき平気で「1人勝ち」を志向する人はいっぱいいますから。

●一次強化子と二次強化子。一次強化子とは人間の基本欲求を満たし、生命を維持するために必要な水や食べ物、体温調節といったもの。二次強化子とは、それ自体は報酬の働きを持たないが、やがて学習や経験によって報酬を“予測できる”ために強化子となる要素である。人間にとって最も身近な二次強化子といえば、やはりお金だろう。

●自分に関する感動的な手紙を読むと、水や食べ物などの報酬を得た時と同じように、大脳基底核にある腹側線条体と呼ばれる領域が活発に反応する。

●褒め言葉は好意的な評価といった社会的報酬は、一次強化子と二次強化子の両方と言えよう。

●哲学者のホッブズとヒュームは、人間は自己の利益を優先すると述べた。しかし囚人のジレンマとfMRIを使った実験では、これとは異なる結果が出た。Bのプレイヤーが協力を選び、その選択を知って同じように協力を選んだAの脳では、協力しないを選んだ時よりも、(自分の取り分が減ったにもかかわらず)報酬系である腹側線条体が活性化していた。腹側線条体はどうやら、個人が手に入れる金額よりも、双方が手に入れる合計金額に強く反応するらしい。さらに言えば、協力を選んだ時、社会規範に従う時に活性化する外側前頭前皮質に反応はなかった。つまりプレイヤーは社会規範に従って協力を選んだのではなく、本心から協力を選んだのである。

●利他主義。人に役立っていると感じると報酬系が活性化する。カップルを対象に、女性がMRIのなかに入り、恋人の男性はそのすぐ外で電気ショックを受ける。MRIのなかの女性には、「恋人の腕」か「小さなボール」のどちらかを握ってもらう。すると、ボールよりも恋人の腕を握っていた時のほうが、自分が恋人の役に立っているという感情を女性は強く味わった。さらには、電気ショックを受けている恋人の腕を握っていた時に、女性の脳の報酬系が最も強く活性化したのである。大好きな恋人が痛がっているに違いないと思いながら腕を握っている時、自分が恋人を支えているという満足感を女性は強く感じたのだろう。

―意味深な実験だ。恋人が痛がってるのに快感を感じているなんてエゴイスティックにも見える。時々、お叱りを受けるかもしれないけれど慈善行為や災害ボランティアにもその匂いを感じることがある。あんたも行くじゃないか災害ボランティア。よく、「だめんず好きな女性」というのがいるけどあれもこの傾向の強い人なのかな。

●2種類の社会的報酬―「人から好意を持たれる時」と「相手の世話をする時」―には、それぞれ脳の違うプロセスが関係している。人から好意を持たれる時には、オピオイドによって“快”の情動が生まれる。一方、相手の世話をする時には、快感物質であるドーパミンの放出に伴ってオキシトシンが分泌される。

―ここは、ポール・ザックの本の記述と食い違うかも。ザック本では、オキシトシンの分泌に伴ってドーパミンが分泌されると言っているから。どっちが先なんだろう、どっちもありなんだろうか。

●子の世話をしたいという感情は、脳の腹側線条体と腹側被蓋野―どちらも報酬系だ―で作用するオキシトシン濃度と関係がある(腹側被蓋野は脳幹の上部に位置する領域)。一説によると、腹側被蓋野でオキシトシンが分泌されると、その刺激によって腹側線条体でドーパミンが分泌されるという。また、腹側線条体と隣り合った中隔野でオキシトシンが作用すると、恐れの感情が和らぐ。

―最後の一文、ほらね、「承認されると勇気がわく」メカニズムってあるでしょ?本書では言っていないけれど「信頼されたと感じるとオキシトシンが分泌される」っていうメカニズムがありますからね。

●オキシトシンには「世話」と「攻撃性」両方の働きがある。人間では、オキシトシンを投与すると、囚人のジレンマのような行動経済学のゲームに参加する時に気前が良くなる反面、人種の違うプレイヤーに対しては攻撃的になりやすい。このようにオキシトシンは、自分が属する内集団のメンバーをひいきにし、“よそもの”である外集団のメンバーに対しる敵意を促す。

●霊長類かそれ以外の哺乳類かによって、敵味方を分ける境界線が大きく異なる。霊長類以外の哺乳類では、オキシトシンが働くと、内集団以外の相手をすべて潜在的な脅威と見なし、その敵に対して攻撃的な態度をとる。一方、人間の場合は、相手を少なくとも3つのカテゴリーに分ける―「好きな集団のメンバー」「嫌いな集団のメンバー」「どちらに属しているかわからない、見知らぬ相手」。オキシトシンを投与すると、好きな集団のメンバーには親切にする傾向が強まり、嫌いな集団のメンバーに対しては敵意が強まった。それでは、見知らぬ相手に対しては?好きなメンバーの場合と同様に、親切にする傾向が見られたのである。

―オキシトシンの内集団びいきの傾向。だから宗教戦争はコワイのだ。うちらの心理学の教団同士も大変です、なんでそんなひどいことできるの?っていうこと平気でしはります。このへんは要研究課題です。
「味方か敵かわからない相手には親切にする」というのはちょっと救いですね。

●“偽の利己主義”の正体。社会的報酬について、私たちはつい脳の反応とは反対の答えを言ってしまう。
社会心理学者のデイル・ミラーは、この“偽の利己主義”の根本的原因を突き止めた。「利己主義こそがあらゆる動機の源泉だ」というホッブズやヒュームの主張が「自己充足的予言」になってしまったと、彼は言うのだ。自己充足的予言とは、無意識のうちに、周囲や世間の期待に応えるような行動をとってしまい、結果としてそれが現実のものになってしまう現象を指す。偉大な哲学者が「人間は利己的だ」と述べたせいで、社会全体がその期待に沿うように行動してしまった。つまり、「人間は利己的だ」と教えられてきたために、私たちはその文化規範を遵守しようとし、利己的に見える態度や行動を取ってしまうのだと、ミラーは考えたのである。

―なるほどー。でも幼児の世界をみていると「自然状態」っていうか思い切り利己的にふるまいあっているようにも見えるんですけど、そこはミラー先生、どうでしょ。
ただ「利己的」と暗示をかけることによって(要は暗示ですよね)大人が利己的に振るまい合っているという部分は確かにある気もします。わが国では「団塊教」という宗教があり、そこでは「人間社会は競争で成り立っており他人を押しのけて自分ひとりが勝ちを取りにいかなければならない」と教えています。それで大分企業組織が傷んでいます。また「内発と自律論」との関係も悩ましいですねー。あれも自己暗示になるとちょいと困ります。

●私たちは、利己的な動機と利他的な動機の両方を持っている。霊長類は、なんの物質的な見返りもないとわかっている時でさえ、他者を助けようとする。見返りを期待するかどうかにかかわらず、人を助けると、助けたほうも心地よい幸せを感じる。
 利他的に人を助ける行為は、利己的な行為と同じくらい自然である。学校でそう教わり、その事実を良く理解していれば、利他的に行動する時に味わう“後ろめたい気持ち”を感じずに済むのではないだろうか。

―「人間は利他的だ」という暗示を教える。おもしろい提言だ。北欧かどこかでやっているところがあるのではないだろうか。

●演繹法か帰納法を用いて論理的な思考を巡らせている時には、脳の外側前頭前皮質と外側頭頂皮質が活性化する。外側頭頂皮質は、「ワーキングメモリ(作業記憶)」と深い関係がある領域だ。

●心の理論も外側前頭前皮質や外側頭頂皮質と関係があるのではないか?実はそうではない。メンタライジングの必要がないセンテンスを読むと、言語やワーキングメモリと関係のある外側前頭前皮質が活性化する。ところがメンタライジングの必要な文章を読む時には、背内側前頭前皮質(DMPFC)や側頭頭頂接合部(TPJ)、後帯状皮質、側頭極が活性化する。。側頭頭頂接合部は、側頭葉と頭頂葉とが接する領域を指す。後帯状皮質は帯状皮質の最後部に位置し、側頭極は側頭葉のいちばん前の部分である。

●この15年間、たくさんの専門家が同様の実験を行い、次のように結論づけた。第1に、メンタライジング能力を働かせている時には、ほぼ例外なく背内側前頭前皮質と側頭頭頂接合部が活性化する(後帯状皮質と側頭極もかなりの割合で活性化していた)。そのため、私はこの領域を「メンタライジング系」と名づけた。第2に、ワーキングメモリや非社会的思考、流動性知能に関係のある領域は、これらの実験の間、ほとんど活性化していなかった。つまり進化は、社会的思考と非社会的思考とにまったく別のネットワークを与えたのである。

●冒頭で述べたデフォルト・ネットワークを強く活性化させてきた人ほど、社会的な思考に優れていることが証明された。安静時に背内側前頭前皮質が強く反応していた被験者は、メンタライジング課題をこなすスピードが速かった。この領域を最も強く活性化させていた被験者は、活性化の度合いが最も弱かった被験者と比べて、課題を終えるスピードが10%も速かった。この10%という数字は、実社会の色々な場面で大きな影響をもたらすはずである。

●戦略的知能指数と人の心を読む社会的知能との関係。神経経済学者のジョルジオ・コルセリは、戦略を要するゲームをしたあと被験者の“戦略的知能指数”を計算した。他の被験者の戦略的な度合いをどのくらい考慮して―すなわち他者の心をどのくらい読んで―それぞれの被験者が数字を選んだかを計算したのだ。その結果、戦略的知能指数の高い人ほど、メンタライジング系である背内側前頭前皮質が強く反応していた。その一方で、非社会的な知能指数と関係のある外側頭頂皮質は活性化していなかった。

●1996年、イタリアのパルマ大学で「ミラーニューロン」を発見した。以降、これは心理学の難しい問題を何でも解決する“流行りの仮説”としてもてはやされた。心理学のいろいろな現象、言語能力や文化、真似、他者の心を読む能力、そして共感もミラーニューロンによって説明できるとみなされた。

●現在、ミラーニューロンはふたつの役割―「他者を真似る能力」と「他者の心を読む能力」―を担っていると考えられている。

●ミラーニューロンは「モノマネ細胞」とも呼ばれる。1999年、神経科学者のマルコ・イアコボーニが論文を発表し、人間の脳にも“ミラー系”が存在するという初めての証拠を明らかにした。人間の外側前頭皮質と頭頂領域は、マカクザルのミラーニューロンと同様の特徴を持っていると考えられる。だがfMRIでは個々の神経細胞の活動までは直接とらえられないので、人間の脳にミラーニューロンそのものを発見したとは主張できない。そのため人間の場合、前頭葉の運動前野や頭頂間溝前方部、下頭頂小葉は、ミラーニューロン系ではなく、あくまでも“ミラー系”と呼ばれる。

●ミラー系を一時的に損傷すると、被験者は何度も真似に失敗した。また複雑な行為を学ぶときもミラー系は関与する。リゾラッティは、ギターを弾けない被験者が複雑なコードの押さえ方を初めて真似た時にも、やはりミラー系が反応していた。

●ミラーニューロンは「他者の心を読み、相手の意図や目的を理解する能力」の役割を果たすだろうか。リゾラッティと共にミラーニューロンを発見したパルマ大学のヴィットリオ・ガレーセは、「ミラーニューロンはシミュレーション説を脳神経レベルで実行する」と主張する。シミュレーション説とは、私はその状況に“置かれた自分”を想像し、「自分ならどう反応するか」を考える。「他者の心を直接的な体験によって理解する根本的なメカニズムは…観察したできごとを、ミラーメカニズムによって直接シミュレーションすることだ」。

●ガレーセ説によれば、誰かがカップに「手を伸ばす行為」を見た時、あなたと相手の「手を伸ばす時に発火する」神経細胞は活発に反応する。ガレーセはそれを「運動共鳴」と呼んだ。相手が体験している運動状態と同じ運動状態をあなたも神経レベルで体験しているのなら、あなたの脳は本質的に相手の脳の重要な側面を模倣(シミュレーション)していることになる。だからこそ、相手がなんらかの行為をしているのを見ただけで、相手の心の状態も自動的に理解できるのである。

●言い換えればミラーニューロンは―相手の心の状態を理解しようとするか、しないかにかかわらず―他者の心を自動的に読む、魔法のような装置を与えてくれたことになる。

●ミラー陣営とメンタライジング系の両陣営の最大の違いは、それぞれが説明しようとしている目的の種類にある。ミラー系の陣営が重視するのは、低レベルの運動意図である。(「彼がスイッチを入れたのは、明かりをつけるためだ」など)。一方、メンタライジング系の陣営が重視するのは、もっと高レベルの意図である(「彼がスイッチを入れたのは、期末試験の勉強祖するためだ」など)
 運動共鳴という考え方は、私たちが低レベルの意図を理解する方法を説明する。

●他者の心を理解する時にミラー系がすることは高度なマインドリーディングではない。朝っぱらからウィスキーをあおっている人のパーソナリティや動機を探るのは、ミラー系でなくメンタライジング系の仕事なのだ。
 ミラー系は、メンタライジング系が高レベルの意図を理解するための土台となる働きをしている。ミラー系は、人が「何を」しているのかを理解する。つまり、私たちのからだの“動き”を“行為”として認識する。ミラー系は私たちのように心がある動物の世界を、運動ではなく行為の点から捉えるのである。ミラー系の働きは本質的に、メンタライジング系が論理的に働いて「なぜ」の問いに答えるための前提を提供することだ。運動の世界を行為という心理的な要素にまとめ直し、メンタライジング系が作業しやすいようにお膳立てをする―それこそがミラー系の重要な働きなのだ。

●自閉症の原因は、「彼らが周囲の世界に鈍感なせいではなく、外界の刺激に過敏なあまり、社会との接触を子供時代に充分に体験できなかったせいである」―このような考えを「強烈世界仮説」と呼ぶ。外界からの刺激が強烈すぎるために、彼らは周囲に背を向け、ひとり静かに過ごせる世界を好む。そしてそのせいで、メンタライジング系の発達を促す重要な機会を逃してしまうのだ。

―このブログでは過去に綾屋皐月(あややさつき)さんの著書からの引用で、ASDの人の体内感覚の世界をご紹介しました。強烈でしたねえ…

●最近の研究は、自閉症と扁桃体の関係を指摘する。自閉症の子供は他の子供と比べて扁桃体が大きい。扁桃体は側頭葉内側の奥に位置し、神経細胞がアーモンド形に集まっており、恐怖や不安といったネガティブな情動体験に敏感に反応する。これでは“過敏な社会情緒メカニズム”を持って歩き回っているようなものだ。


●1641年、哲学者のルネ・デカルトは「精神と身体とは別物で、このふたつは決して交わらない」という「心身二元論」を発表した。このデカルト的二元論は、過去数百年にわたって広く知られ、私たちに深く染みついた。現代の科学では、心を生物学的で物質的な存在として捉える。

―哲学者の人って過去には随分間違ったこと言って世間を惑わしてたんですねえ(;^ω^)

●自己意識には脳のどの領域が関わるか。鏡に映った自分の姿を見ている人間の脳をfMRIで調べたところ、右半球の外側表面が活性化していた。前頭前皮質と頭頂皮質の頭蓋骨に近い脳の表面である。

●「礼儀正しい」「話好き」といった形容詞を見せ、「形容詞が自分自身に当てはまる」と判断したグループの被験者の脳では、自分の姿を鏡で見た時と同じく、前頭前皮質と頭頂皮質が活性化していたが、その中の活性化した部位はことなった。今回活性化していたのは頭蓋骨に近い外側表面ではなく、脳の内部に位置する内側前頭前皮質(MPFC)とけつ(木偏に契の字)前部だったのである。すなわち、鏡に映った「自己の姿を認知する」時と「自己を概念的に捉える」時とでは、別々の領域が使われるのである。

―自意識にはどこが関わるか。あ、ずっと知りたかったんです、そこ。いえ、知ったって何かいいことが起こるわけじゃないんですけどね。今までの脳科学本には不思議とこれが出ていなかったんじゃないかなあ。承認欲求、ナルシシズムの源もそこなわけじゃないですか?

●私たちが自己を概念的に捉える時、ブロードマン10野に当たる内側前頭前皮質が活性化する。(すぐ下には報酬系の領域であるブロードマン11野に当たる副内側前頭前皮質(VMPFC)がある)あなたが額の“第3の目”と呼ばれるあたりを指で差す時、そこが“自己”という感覚をつくり出す内側前頭前皮質である。

●人間以外の霊長類では、脳全体に占める内側前頭前皮質の割合が0.2〜0.7%だったのに対して、人間の場合には1.2%だった。言い換えれば、人間の内側前頭前皮質はチンパンジーと比べて2倍のスペースを占めるのだ。他の霊長類の脳と比べてこれほど大きな割合を占める人間の脳の領域は、内側前頭前皮質を覗いてあまり見当たらない。この領域はまた、神経細胞の密度が低いため、膨大な数の神経細胞同士がつながりやすい。

●私たちの考える自己感―自分とは誰なのかという感覚―もトロイの木馬と同じではないかと、私は思うのだ。西洋人は、自分を特別な存在だと考える。そして自己を、自分自身の中心にあって、個人の目標を達成したり自己実現を果たしたりするためのものと見なす―しかも、大切な宝物箱のなかに仕舞われ、自分以外の誰にもアクセスできない難攻不落の砦に囲まれたものだ、と。だが実のところ、自己とは、私たちが集団の規範に従い、社会に調和して生きるために、進化が巧みに仕組んだ策略の道具なのかもしれないのだ。

●ニーチェも、自己感とは本質的に内面的なものではなく、自分という存在の中心を成すものではないと捉えていた。ニーチェは自己感を、私たちの人生に関わりのある人間によって組立てられ、私たちのためではなく、彼らのために働く“秘密諜報部員”だと論じたのである。

●人間が本来持っている衝動に社会的な衝動を補い、社会の調和を生み出す手段として、自己は存在するのだ。社会は、私たち自身や道徳について、あるいは生きる価値のある人生についていろいろ教えてくれる。人は、それらの考えを自分自身の信念であり、自分の内面から生まれた価値観だと思い込んでいる―集団の持つ信念や価値観をただ理解するだけでは充分ではなく、自分自身のものとして内面化する必要があるからだ。こうして私たちは、社会の信念や価値観や規範を、知らず知らずのうちに自分のなかに取り込み、“その土台の上に”自己を作り上げた。

●直接的評価(「私は自分を頭がいいと思っています」など)と、反映的評価(「友だちは私を頭がいいと思っています」など)について13歳の思春期の子どもと成人のふたつの被験者グループに訊ねると、どちらのグループでも、直接的評価の場合には内側前頭前皮質が、反映的評価の場合にはメンタライジング系が活性化していた。
 ところが思春期の子どもの場合、「直接的評価を考える時には、内側前頭前皮質だけでなくメンタライジング系も」、また「反映的評価を考える時にも、メンタライジング系だけでなく内側前頭前皮質も」活発に反応していた。すなわち、思春期の子どもは、直接的評価と反映的評価のどちらを考える時でも、内側前頭前皮質とメンタライジング系の両方が活性化していたのだ。思春期の子どもは「自分が自分をどう思うか」を考える時でさえ、自己の内面を探るよりも他者の心に焦点を当てて、「自分とは誰なのか」という問いに答えているのかもしれない。

●内側前頭前皮質は本当の自己を探る近道ではない。それは自分自身について教えてくれる、いろいろな情報を反映する領域である。そのなかには、個人的で内省的な情報もあれば、周囲が自分をどう思っているかという反映的評価から生まれる情報も含まれる。つまり「自分とは誰なのか」という自己感は、社会的に作り上げられたものであり、そのプロセスに関わっているのが内側前頭前皮質なのである。

●暗示にかかりやすい人とそうでない人をfMRIにかけ、催眠術にかかっている時の脳の活動について調べた。催眠術で課題の混乱を防ぐような情報を与えたところ、暗示にかかりやすいグループのほうが課題への取り組みが速くなった。ふたつのグループで脳の活動を調べた結果、暗示にかかりやすい被験者の脳で、内側前頭前皮質が活発に反応していたのである。

●説得に従うプロセスをみる実験で日焼け止めを使うかどうかをみた。被験者が実際に日焼け止めを使用したかどうかと関係があったのは、彼らが米国皮膚科学会の報告を見ていた時の脳の活動だったのだ。その時、内側前頭前皮質が活発に反応していた学生ほど、日焼け止めを使っていた。しかも、実際に日焼け止めを使用したかどうかと、質問にどう答えたかの間には、ほとんど関係がなかった。被験者は自分でもまったく気づかないうちに、日焼け止めを使うか使わないかについて影響を受けていたのだ。私たちが態度や行動を変えるかどうかは、内側前頭前皮質が広告や説得にどう反応するかによって決まるのである。

●これらの実験は、「自己とは他者と自分とを明確に区別し、私たちを特別な存在にしてくれるものだ」という考えにとどめを刺したと言えるだろう。なぜなら、私たちの概念的な自己感をつくり出す内側前頭前皮質は、「私たちの考えや行動に影響を与える情報を、外部から取り入れるルートでもある」からだ。

―おもしろい知見。「説得されやすさ」「影響されやすさ」は、経験的にも個人差があるが。広告や説得に反応する領域と、自己感をつかさどる領域が同一だというのは、「行動承認」で規範意識が向上する現象の説明となりそうだ。自分を承認してくれる上司に対しては内側前頭前皮質が活性化するから、その説得を取り入れ内面化することもしやすい…。

●2005年、スタンフォード大学の卒業式に招かれたスティーブ・ジョブズは次のような名台詞を残した―「他人の意見という雑音(ノイズ)で、心の声を掻き消してはならない……勇気を持って自分の心と直観に従ってほしい」
 だが内側前頭前皮質の働きを考えれば、ジョブズは間違っている。自己感―彼の言う心と直観―とは実のところ、私たちが集団の規範に合わせ、社会の調和を生み出すための“仕掛け”なのである。自己は、私たちが集団にうまく溶け込むために働く。ジョブズにとっては納得し難いかもしれないが、ほとんどの人にとってはそれが真実なのだ。
 人は誰でも利己的な衝動を持つ。その一方で社会的な信念や価値観を自己の一部として取り入れ、内面化している。このふたつの間でせめぎ合いがあるにしろ、それはジョブズが考えたように自分対社会ではなく、自分対自分の闘いなのだ。

―わ〜、伝説のジョブズのスピーチが否定されちゃった。実はこのスピーチは、他にも「自分が納得できる仕事をしなさい」と、困ったキャリアカウンセリング的なことも言っていて、感動的ではあるけどどうかなと思っていたのだ。
 この章が本書でもっとも“革命的”な章ではないだろうか。自立した個人という、欧米の想定した人格モデルの常識を覆してくれる。内発と自律論者どうするかな。

―このあとは「自制心」の話になり、例の「マシュマロ・テスト」などが出てきます。

●認知自制とフレーミング課題の実験で抑制をしていた時、、右腹外側前頭前皮質が活発に働いた。

●抑制と再評価は、どちらも腹外側前頭前皮質と関係がある。抑制の場合、腹外側前頭前皮質は動揺が始まって少し時間が経ってから活性化する。再評価の場合には早い時期に活性化する。抑制の場合、腹外側前頭前皮質が活性化すると顔の表情をうまく隠せるのに対して、再評価の場合には扁桃体の反応と情動が和らぐ。

●情動のラベリングには暗黙の自制効果がある。情動を言葉で言い表すと、右腹外側前頭前皮質が活性化して扁桃体の活動が弱まるのだ。

―感情認識を苦手とする人々よ、感情を言葉で言い表すことをおぼえてください。変に抑制しているとおかしな形で出るよ。

●私たちは「評価され」「自制心を働かせ」「社会規範に従う」動物である。この3つのプロセスは、どれも右腹外側前頭前皮質と関係がある。

●社会に評価される可能性があるだけで、私たちは自制心を働かせる。周囲の人間にどう思われるかと考えただけで、右腹外側前頭前皮質が活性化する。この領域のなかで、「評価され」「自制心を働かせ」「社会規範に従う」という3つの機能がなぜ結びついたのかについては、今後の詳しい研究を俟たなければならない。

●自制心とは、個人と集団との間で目的や価値観が衝突する時、集団の目的や価値観を優先させて、私たちを社会規範に従わせるメカニズムである。アメリカ人は、同調する人を見るとつい、「群れに従う意志の弱い人間」と判断しがちだ。ところが最近の調査によれば、ある状況では、自制心の強い人のほうが同調しやすいという。

―大事ですねー。正田が過去からブログで某心理学セミナー受講者さんに逸脱行為が起こりやすいというのをぶちぶち言う、それはそのセミナーさんに「ルールに従うな。自分の心に従え」「誰一人として、間違っている人はいない」という教えが埋め込まれてるからなんですが、セミナー主宰者の思いに反して人間性に反することをやっていることになります。えっ正田自身が抑制的な人かどうかはちょっと棚に上げます。

―ただ日本人の場合、外部の価値観を過剰にとりいれやすいという別の問題は確かにある気がします。それについては本書は答えてくれてないですね。承認研修のばあいは、正しい価値観を知っているリーダーが承認することによって相手に正しい価値観をしみこませるというモデルをとっています。結局それぐらいしか解はないのかしらん。リーダーが間違っていたらどうするかって?どうしようもないですね。

―このあとは社会や企業を活性化させる仕組みづくりについての提言。ご紹介してもいいけどまあ「『組織や仲間に認められたい』という気持ちは強いインセンティブとして働く。しかも、何度でも使える無限の資源だ」と、要は「承認論」のお話だからとばしますね。

●リーダーシップについての知見。リーダーシップで最も大事な要素は「対人能力」だ。
 リーダーシップの専門家であるジョン・ゼンガーは、優れたリーダーの能力を5つにまとめた。「個人的な能力(知性、問題解決力、専門知識、訓練能力)」「最後までやり抜く力」「人格(高潔さ、信頼性)」「組織を変化させる力」「対人能力」の5つである。そして、どの要素をふたつ組み合わせたときに、リーダーシップが向上するかについて分析した結果、「対人能力」と他の要素とを組み合わせた時に、上司の能力が最大限に発揮されるとわかった。たとえば「最後までやり抜く力」で高く評価されても、上位20%の「素晴らしい」上司にランクされる可能性は14%しかないが、同時に「対人能力」を高く評価された上司が、「素晴らしい」上司入りする確率は72%にまで跳ね上がったのだ。

●SCARFモデルを提唱するロックは述べている。「いつも決まって耳にするのは、専門知識に優れた人間ほど社会的スキルに欠けるという指摘ですね。だから、彼らが管理職かリーダーになると問題が生じやすいのです」

―これはリーダー育成上よくみること。名選手必ずしも名監督ならず。冒頭近くで「社会的思考」と「非社会的思考」はシーソー状態で働き同時に現れることはない、という知見を考えると、仕事の遂行能力(i.e.非社会的思考)に優れた人はそればかり使ってしまうので社会的思考が発達しにくい、ということが考えられるかもしれませんね。

●リーダーシップの中で社会的思考と非社会的思考が補完的に働かない理由の1つは、「非社会的思考を支えるネットワークが活性化する傾向が強く、その偶然の副作用として、社会的思考のネットワークがあまり活性化しない人間がいる」という考え方。遺伝のせいかもしれないし、長年、社会的思考より抽象的思考を重視してきたせいかもしれない。
 第2の理由として、リーダーという仕事を彼らが非社会的な側面で捉えるからである。うまくいかないプロジェクトで、職場の対人関係に目配りが利かないリーダーは、メンバーどうしの人間関係のトラブルを理解せず、「彼女は仕事をやり遂げる能力が足りないのだ」と判断してしまう。
メンバー全員に帰属意識を持たせ、愛着をつくり出す―それが優れたリーダーの姿である。

―リーダーシップについての誤解。アメリカもいまだにそうなんですね。よく見る議論で、「リーダーシップを映画から学ぶ」というと、「ダイ・ハード」の例が上がる。本来高い職位でない、ブルースウィリスのような人物が「自分がやらなければ」と火事場の馬鹿力を発揮する、それをリーダーシップと呼ぶ。研修メニューでも、中堅向けに「自分リーダーシップ」とか「全員リーダーシップ」といったタイトルで入っている。
 ブルースウィリス嫌いではないが、そういうヒーロー的人物を「リーダー」とは言わない、実務では。現実には、不愉快かもしれないけれど、「承認研修」を徹底してやるのがものすごい業績向上効果がある。不愉快さを越えて現実を直視したほうがいいのではないだろうか。
 詳しくは、当ブログ記事
 男性的リーダーシップと女性的リーダーシップ
 http://c-c-a.blog.jp/archives/51834972.html
などを参照。
 
●人と人のつながりを強化するプログラムに政策的に投資すれば、生産性が高まり、犯罪率の低下や医療費の抑制というメリットも生まれる。しかしそのようなプログラムは、道路や鉄道のインフラ整備といった大義よりもわかりにくいために、ほとんど理解を得られない。

―あたしと同じようなこと考えるな、この人。

●アメリカ人の3人に1人がアパートで暮らす。アパートに「大学の学生寮」のような懇親を産む仕掛けを組み込んではどうか。アパートの各フロアで戸数をひとつずつ減らして、その代わりに交流を促すオープンスペースを作ったらどうだろう?そして政府は、そのようなアパートを開発する業者に対して税を優遇するといった策を打ち出すのだ。

―それおもしろい。

●学校での「つながり」感を学力向上に生かそう。
 帰属意識を高めると学力向上に資することを示す実験がある。心理学者のグレッグ・ウォルトンとジェフ・コーエンは、イェール大学の学生のアフリカ系アメリカ人とヨーロッパ系アメリカ人を対象に、帰属意識を高めるような文章(上級生の手紙)を読ませたところ、その後3年間にわたって成績評価平均値が上がり続け、3年後には0.4も向上した。

―おもしろいですね。日本の大学では、松本茂樹先生のいる関西国際大学で教授陣が「朝のあいさつ」を励行したところ退学者が3分の1に激減した、という例があります。

●社会的報酬は脳の報酬系を活性化させ、私たちを幸せな気分にしてくれる。社会心理学者のアリス・アイセンは実験を通して、ポジティブな感情が思考力と意思決定力を高める現象を何度も目にしてきた。プラスの感情を味わうと、人はいろいろな考えの類似点や相違点を素早く見つけられ、ワーキングメモリの働きも向上する。
 
●神経科学者のグレッグ・アシュビーは、ポジティブな感情も思考力もドーパミンと関係があるからだと説明する。いい気分を味わえ、やりがいを感じる行動を取ると、脳幹の腹側被蓋野からドーパミンが放出されて腹側線条体へと投射される。この時、ドーパミンの影響を受けるのは腹側線条体だけではない。ドーパミン受容体が多く存在する外側前頭前皮質もその影響を受ける。前頭前皮質のドーパミン濃度が高まると、ワーキングメモリの働きが向上するのだ。つまり、「社会的報酬を感じている時に放出されるドーパミンの量が、授業中に前頭前皮質のコントロール力を高めて、成績を向上させる」というのがアシュビーの考えである。

―このブログでもよく「承認の世界の人はあたまがいい」などと感覚的なことを書きますが、それは立証可能なようです。彼ら彼女らは承認と関係のない場面でも、問題解決能力が高いです。

●思春期を過ごす子供の頭の中は周囲の世界のことでいっぱいだ。この時、大いに活躍するのがメンタライジング系である。進化的に見れば、それは単なる気晴らしではない。彼らにとっては、それこそが最大の関心事なのである。
 その強い欲求に対して学校が「“つながり脳”のスイッチを切ってください」というのは得策ではない。それでは腹を空かした者に、食欲のスイッチを切れと言っているようなものだ。

―食欲の比喩でてきた。うわ〜

●“つながり脳”を敵視せずに、学習プロセスの一部として取り入れればいいのだ。メンタライジング系は記憶系としても働くため、一般的な記憶系以上に強力な効果を発揮する可能性があるのだ。情報を“社会的なデータに変換”した場合に、記憶力が高まる。この時に活性化した領域は一般的な学習系ではなく、メンタライジング系のCEOとでも呼ぶべき背内側前頭前皮質だったのである。

―おもしろい知見。昔の「3年B組金八先生」の中の論争を思い出す。金八先生が何かの仕組みを人形や箱などを使って物語風に解説する授業をし、生徒には大好評だった。しかし金八先生のライバルの数学の先生「カンカン」が、「すべての教師が同じことをできるわけではない。人気取りはしないでください」とかみついた。
 どちらも非常にまじめな問題提起だと思ってみていたが、学力向上に資することがわかっているなら、取り入れられる範囲で取り入れればいいのではないだろうか。

●子供同士教え合うことの価値。1980年、心理学者のジョン・バーは、“教えるために覚える”効果を測定した。テストのために情報を覚えるグループと、誰かに教えるために情報を覚えるグループに分けて、記憶力の違いを比較したのだ。すると、誰かに教えるために覚えた被験者のほうが、記憶テストの成績が良かったのである。著者の研究室が行った実験では、教えるという社会的な動機だけでもメンタライジング系が活性化するというかなり確かな証拠がある。

―なるほど。「人に教えることでよりよく学べるんですよ」というフレーズの起源はここからきているのか。
 また別のことを連想してしまった。「社内講師」「内製化」がらみの話。「内製化推進」の人びとはよく上記のフレーズを振り回すのだが、ジョン・バーの実験で教えたのはあくまで数学や科学といった非社会的な内容である。かつ、教えた側にメリットがあったことははっきり出ているが、教わった側のメリットは明らかではない。これでは「社内講師予備軍」の人びとだけが得をする仕組みではないか。

●自制を教えること。著者の実験で、「ストップ・シグナル課題」を試した被験者は3週間に8回の実験終了時、感情をコントロールする能力がずっと向上していた。運動の自制能力が向上していた被験者ほど、感情の自制能力も向上していた。

●中学生が自制心を身につける方法はこのほかにも、「マインドフルネス」などがある。


 抜き書きは以上です。

 非常に重要な知見を惜しげもなく盛り込んでいる本書。このところ「意識と脳」の関係の本が大量に出ているのに今ひとつ食指が動かなかったのは、それらが人間の脳の活動をAIで再現するために「情報処理」に焦点を合わせていたからで、本書はそれとは全然切り口が違うようです。
 
 惜しいのはそれぞれの実験に出典が付されていないので、検証がむずかしい。検証が必要な場合にそなえて、実験した学者の名前(カタカナですが)はできるだけ残しておきました。

 共感するところも多く、本書の主張がメインストリームになることを願います。

(一財)承認マネジメント協会
 正田佐与

 今年出た資本主義論の中の「白眉」である『ポスト資本主義』の著者、広井良典氏(千葉大学法政経学部教授、科学哲学専攻)より、新たに「承認論」について大変興味深いご示唆をいただきましたので、ご紹介したいと思います。

 ちなみに『ポスト資本主義』については、当ブログではこちらにご紹介しております

 アカデミズムからの責任ある論考、「福祉」と「環境」の興味深い相関―『ポスト資本主義』をよむ
 http://c-c-a.blog.jp/archives/51921557.html

 ここでは、4つの自然観が最終的に帰結するものとして、また定常化社会に移行する時期に生まれるであろう「心のビッグバン」「文化のビッグバン」を経て「地球倫理」というものが生まれるとすれば、その候補になるものとして「アニミズム」というものに言及されています。ここから広井教授は、「鎮守の森エコプロジェクト」すなわち村の「神社」などに自然発電の拠点をつくる、というご活動を独自にされています。


 今回のやりとりの舞台はフェイスブックメッセージで、広井教授にお友達承認をしていただいた返礼としてわたくし正田が書いたメッセージから始まりました。

正田:「広井先生、ご承認ありがとうございます! FBページで広井先生のリアルなご活動の一端を知り、益々勉強になります。
このシルバーウィークの連休で熊野方面に参り、先生が仰った『アニミズム』をまだ体感できていないけれどこういうことかなあ、と思いました。これからも色々勉強させてください。よろしくお願いいたします。」


広井教授:「メッセージありがとうございます。それは幸いで、前から少し思っている点ですが、アニミズムや自然信仰(自然とのつながり)は、ある種の『承認』をもたらすもののようにも思います(自己の土台、よりどころのようなもの)。通常の意味の他者からの承認とは異なりますが、このあたりは結構おもしろいテーマかもしれませんね。」


正田:「広井先生、メッセージ頂き色々な意味でびっくりいたしました。
 あえてお伺いしてみたいことがあります。 広井先生にとって、自然信仰やアニミズムの対象物に向き合っておられるとき、自分がそこからある種の『承認』を得られていると感じるとき、その感覚を何と名づけますか?
 わたしどもでは、マネジメントの中で『承認されている』と感じたとき、『みていてくれてるんだなあ』という感覚がわき、幸福感につながり行動や成長につながります。この感覚に何かもっといい名前をつけられないか?と思っているのです」


広井教授:「メッセージありがとうございます。さすが正田さんで、根源的な応答をいただき感謝いたします。その点は私もまだ探究途上のものですが、『みていてくれている』というよりもう少し広い印象のもので、自分が生きている土台というか『根っこ』があるといった感覚でしょうか。また、『包まれている』という感覚ともつながり、さらに角度をかえて言えば『世界(宇宙)の中の自分の居場所』とでも呼べるかもしれません。 正田さんとのやりとりで『承認』のテーマが私にとって別のテーマだったもの(自然のスピリチュアリティ)とつながり幸いでした。」


正田:「広井先生 ありがとうございます!こちらこそ、本来広井先生が大事にしてこられ現実に『鎮守の森エコプロジェクト』のような形で取り組んでこられたアニミズムというテーマについて、『承認』との共通性を語っていただけたということは望外の喜びでした。別個のものとして在るのも仕方ないのでは、と思っていました。
 連休に友人と議論したことで、承認はドイツ観念論から生まれそこでは人はまず神から承認を受ける、神による承認を起点として人同士の承認が生まれる、と考えたのだから日本には根づかないというのが友人の説だったのですが、私はピアノやバレエやバイオリン等本来日本文化の中になかったものを受容して今は日本人が国際コンクールで優勝するようになっている、それと同様に日本的な承認の受容と発展があってもいいのではないかと思っていました。なので広井先生からのご示唆はタイミング的にも目から鱗で、そうか自然信仰を起点とした承認があり得るのだ、と思いました。」


広井教授:「書かれている点そのとおりで、私も承認というテーマは広い意味での宗教と深く関わると思ってます。以前ケアというテーマに関し、『絶対的なケアラーとしてのイエスとブッダ』ということを書いたことがありますが、ここでのケアラーは「(自分を)承認してくれる人」ともいいかえられると思います。
 ちなみに承認論を含むポジティブ心理学について、統合医療でよく知られたアンドリューワイルさんが『ワイル博士のうつが消えるこころのレッスン(原題はSpontaneous Happiness〕)』で評価しながら関連して『自然とのつながり』の重要性を指摘していますが、その中でリチャード・ルーヴというアメリカの作家の『あなたの子どもには自然が足りない』という本(アメリカでベストセラー)での「自然欠乏障害nature deficit disorder」というコンセプトを重要視しています。多少話題を広げてしまいましたが、私自身はこうした自然とのつながりが大きな意味をもっていると感じています。大変有意義なやりとりができて幸いでした。」


・・・やりとりは以上です。
 以前拙著『行動承認』について、「土台に哲学的な思考」と勿体ないような賛辞をくださった広井教授でしたが、今回はメッセージ中にもあるように、同教授ご自身の長年取り組んでこられたフィールドと共通するところに「承認」を位置づけてくださったことは、また望外の喜びだったのでした。

 自然から承認されていると感じるときの、
「包まれている」
「自分の土台、根っこ」
 こういう感覚の下位概念として、
「みていてくれるんだなあ」
を位置づけることができるかもしれない。
 「承認」の与え手が人間であるとき、そこに「みる」というフィジカルな行為が介在するので、「みていてくれるんだなあ」になるわけですが。
 古来、武将や僧侶や修験者たちは山に向かいましたね。
 崖っぷちに立って、「神仏もご照覧あれ」なんて言いましたね。

 6月ごろこのブログにも、
「私はクリスチャンだから、神様がみていてくれる、という感覚があるんです」
と仰ったリーダーの方がおられましたね。
 それが、「神様」をもたない平均的な日本人だとどうしたらいいか?というと、自然から発する承認を受け取ることができるかもしれない。
 それを起点として対人の承認をすることのできるリーダーや教育者の方もいらっしゃるかもしれない。

 不肖正田は、「この手法は人間社会を幸せにするんです!」と、誇大妄想かと思われるようなことをすぐ言います。そしてアカデミズムの世界でまともに評価してくださる方は、「承認論」以外の世界の方は皆無でした。とりわけ前にも言いましたように、経営学、経営教育論、心理学、等の方々はそうでした。


 あとは、感激して言葉が出なくなってしまったので、読者の方々の評価をまちたいと思います。

 でも受講生様方、大丈夫です。この道は正しい道です。太古から人類が歩んできた道の続きです。自信をもって、引き続きお取り組みくださいね。



(一財)承認マネジメント協会
 正田佐与

お世話になっている皆様


 おはようございます。
 一般財団法人承認マネジメント協会の正田です。
 好天に恵まれたシルバーウィークでした。本日からご出勤の方もまだ9連休中という方もいらっしゃるでしょう。
 
※このメールは、正田が過去にお名刺を交換させていただいた方・当協会のイベントやセミナーにご来場いただいた方にお送りしています。ご不要の方は、メール末尾にありますURLより解除ください。
(解除方法が変わりました!詳細はメール末尾をご覧ください)


 本日の話題は:

■素敵な論考がありました。「承認欲求」を否定してしまうと、何が起こるか
 ―決定版・アンチ承認欲求についての論考・熊代亨氏ブログ「シロクマの屑籠」

■「労働」はいかに強力なものか、幸福をつくりだす力の強いものか
 ―読者様のおたよりから

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■素敵な論考がありました。「承認欲求」を否定してしまうと、何が起こるか
 ―決定版・アンチ承認欲求についての論考・熊代亨氏ブログ「シロクマの屑籠」


 前号の本メルマガで、「承認」「承認欲求」という言葉がまるで悪いもののように使われていることに疑問を呈しました。

 犯罪心理学者や社会学者らが、例えば寝屋川の中学生殺人事件で「子供が深夜徘徊するのは『承認の質的劣化』」と言い(正田注:家庭環境の要因もあったかもしれないが、なまじLINEがあったがゆえに連絡をとりあって子供らしい冒険心を発揮した、その結果痛ましいことになった、と解釈してもいいのではないだろうか)、JR連続放火事件の劇場型犯罪については「自己承認欲求(=「自己顕示欲」とほとんど同じ意味で使っている。自己顕示欲でよいのでは)」であるといいます。

 どうも、言葉の本来の意味をまったく参照することなく、この言葉を使うと何かがわかったつもりになる、そういう「お約束ワード」と化していたきらいがありました。

 「それはヘンだよ」とわたしは思っていたわけですが、同じことを昨年、もっと深く考察されたブログがありました。

 シロクマ先生こと精神科医・熊代亨氏のブログ「シロクマの屑籠」です。

 同ブログで2014年1月発表された「承認欲求四部作」。非常に完成度の高い考察です。

 例えば同四部作でのこのフレーズ:
 「『承認欲求や自己愛は人間の基本的な心理的欲求』であり、それそのものをバッシングするのは人間の基本的性質をバッシングするに等しい。」

 このフレーズは本メルマガ前号の

「わたしたちのあらゆる社会的活動、学校へ行くことも仕事をすることも恋愛したり家庭を営むことも、すべて『承認欲求』が行動原理だ、ということです。」

というフレーズと非常に通じます。

 わたしはこういう、複雑な現代で起きていることを真摯に思考する同時代人には敬意を表します。

 熊代氏のご了解により、同四部作を拙ブログに引用させていただきました。

 お子さんをお持ちの方、学校関係者の方。そして本メルマガの読者の大半を占める経営者管理者の方も、今会社に入ってくる若い人たちのこころがどうなっているのか?なぜ、成長不全が起こってしまうのか?よろしければ、ご覧ください。

◆決定版・アンチ承認欲求についての論考―ネットスラング、罵倒語からの市民権回復へ―熊代亨氏ブログ『シロクマの屑籠』より
 http://c-c-a.blog.jp/archives/51922715.html 

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■「労働」はいかに強力なものか、幸福をつくりだす力の強いものか
 ―読者様のおたよりから


 わたしのブログを過去5−6年にわたり読んでくださったという、読者の方からおたよりをいただきました。「行動承認」の価値を非常に高く評価してくださっています。ありがたいことです…。

 その方はマネジャーとして、「行動承認」を発達障害と思われる部下の方に対して使い、その結果部下は「仕事のできる人」になっただけでなく、人生に大きな展開がありました…。

 その顛末を書き綴った詳細な手記。その中には「労働」についての素敵な言葉がありました:

◆働くことの重さと貴さ、幸せ連鎖の頂点、そして自信のない正田
 http://c-c-a.blog.jp/archives/51922570.html 

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★本日から雨や曇り空が続きます。突発的な大雨に見舞われるおそれも。ご出勤の方もそうでない方も、くれぐれもお気をつけください。

※このメールは、正田が過去にお名刺を交換させていただいた方・当協会のイベントやセミナーにご来場いただいた方にお送りしています。

解除される場合は、下記の解除フォームから受信していただいたメールアドレス入力して下さい。
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100年後に誇れる教育事業をしよう。
一般財団法人承認マネジメント協会
(旧NPO法人企業内コーチ育成協会
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理事長 正田 佐与
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ツイッターアカウント: @sayoshoda

フェイスブックページ: http://www.facebook.com/sayo.shoda

ブログ「コーチ・正田の 愛するこの世界」
http://c-c-a.blog.jp/

近著『行動承認―組織の能力を最大化する「認める力」』
http://www.amazon.co.jp/gp/product/4434198572 


*…*…*…*…*…*…*…*…*…*…*…*…*…*

 先日、「コミュニケーショントレーニングは『徳』に至る手段c菊池省三先生」ということを書きましたが、

 やはり哲学・倫理の素養のある人もコミュニケーショントレーニングが必要、ということを最近思いました。

 たとえば、

「さえぎらず聴く」
「質問を発したら、待つ」
「話しながら激さない」
「自分ばかり一定時間以上話さない」
「会話の中でいくつもの話題を自分が話すときに入れない」
「相手が何かしている最中にあまり矢継ぎ早に話しかけない(相手の認知的負荷をおもんぱかる)」

など、「行動抑制」に関わること。当たり前だけどやっぱり大事なことです。恐らくトレーニングを受けないとできないことです。

 会社では、上司がこれらをやるだけで部下は疲弊してしまいます。
 そして上司になったらだれも注意してくれる人はいません。

(なお「正田は行動抑制ができてるのか?」というツッコミは、無視します)


 そして「行動承認」の場合は、前提として「みる」トレーニングが入ります。
 部下の仕事ぶり、行動ぶりを一定時間継続して「みる」。そして相手の行動の記憶を蓄積し、それを事実そのとおり言語化する。
 これらも、そういうものだとわかった上でトレーニングしないとできるようになりません。すごく単純なことではあるんですけれど。


****


 「哲学」分野の人でよくいらっしゃるのが、「思考」の強みが優れていて、ものごとをすべて「認知のレベル」で理解しようとします。
 「思考」の強みが優れている人は、「感情」をバカにしやすい。女子供のめめしいもの、と思いやすい。
 こうした人と「承認」について議論しても、しょうがない。役人や記者にもそういう人がよくいます。

 ほんとうは「思考する力」と「感情認識力」は、トレード・オフ関係なのではなく独立した因子で、どちらも優れている人も世の中にはいらっしゃると思います。

 正田は決してそれほど「感情的」な人間ではなく、「論理8:感情2」ぐらいの人間だと自分では思っていますが(ほんとか?)
 それでも、こうした「思考」に偏った知覚感覚の人に対しては、
「あなた、頭だけで物事を理解してもしょうがないよ」
と思います。
 視覚や身体感覚も総動員して理解しないといけないものが、世の中にはあります。「承認」もその中の1つです。

 そして身体感覚は―、残念ながら、子育て経験のある・なしがかなり大きく影響します。「ない」人はかなり努力していただかないといけないかもしれません。

****

 拙著『行動承認』は、現場のリーダーにも読んでいただきやすいようできるだけ平易な言葉で書き、かつ論理だけでなく、視覚や身体感覚まで総動員して味わっていただくことを狙って書きました。

 「承認」で幸福な状態になった職場を視覚的、身体的に味わっていただくこと。
 そこに行くまで暗中模索を繰り返しときには自己嫌悪、自己否定にまで陥ったリーダーたちのこころの軌跡も味わっていただくこと。

 残念ながらそれは読解力に依存したりもするんですけどね―、幸い、セミナーテキストとして読んでいただいた現場の方々には、それはリアルな物事として受け取っていただけたようです。

 わたしに対して「行動承認」についてのさまざまな質問を発したい方は、まず拙著を読んで視覚、身体感覚まで総動員してその幸福の世界を体験していただきたい。
 そこまでやって「これはリアルなものなんだ」と実感してから、理論上の色々なことについて質問していただきたい。
 
 そういう要求をするのは、決してわたしが傲慢なのではないと思います。

 あの本で言語による表現を尽くして幸福の状態をリアルに描いたものを、立ち話のような会話で再現できるわけではありません。230ページ分の情報量は、まずは読んでください。

 ひょっとして、「この教育」が実現してきたものは、ヘーゲルもカントも実現しえなかったものかもしれないのです。またしょってる発言。カントも勉強しよう。

****

 シルバーウィーク、読者のみなさまはどんな風にお過ごしになりましたか。

 正田は1日和歌山方面に行って観光&友達に会い、
 最終日は、地元神戸・板宿の「井戸書店」さんに行って、寄席を聴いてまいりました。
 店主・森忠延社長の創作落語(桂三枝師匠の)「読書の時間」、お腹がよじれるほど笑いました。



(一財)承認マネジメント協会
 正田佐与

 

 このところ「アンチ承認欲求論」―つまり、承認欲求が高じて犯罪や非行やいじめなどの逸脱行為が起こるので承認欲求とはわるいものだというような言説―のようなものの存在が気になり、その系列の本を読んで批判したりしていましたが、

 「承認欲求叩き」というタームを使って昨2014年、この風潮に疑義を呈したブログがあるのを知りました。
シロクマ先生こと精神科医・熊代亨氏のブログ「シロクマの屑籠」です。


 昨年1月、「承認欲求四部作」と題して発表された記事は、今月突然この現象をまじめに調べ始めた正田と違い、非常に完成度の高い論考。

 幸運にも筆者熊代氏のお許しをいただき、本ブログに転載させていただきます。


 四部作の全体像は:

 その1 承認欲求そのものを叩いている人は「残念」

 その2 承認欲求の社会化レベルが問われている

 その3 承認欲求がバカにされる社会と、そこでつくられる精神性について

 その4 私達はいかにして承認欲求と向き合うべきか


 では、1つ1つご紹介していきたいと思います―


 その1 承認欲求そのものを叩いている人は「残念」

 「承認欲求や自己愛は人間の基本的な心理的欲求」であり、それそのものをバッシングするのは人間の基本的性質をバッシングするに等しい。


 この記述はまったくわたしの感慨とおなじもので、出会えて非常にスッキリしました。

 (たとえば拙ブログの当たり前の日常から発して、リーダー教育を語る参照)

 あまりにも基本的な欲求である「承認欲求」だからこそ、「承認欲求(笑)」などと叩く人々、風潮の危うさ。

 だから私は、承認欲求という言葉を、考えもなしに罵倒語として用いる人というのは、若いなら若いなりに、年を取っているなら年を取っているなりに「残念」と感じる。人間を飛躍させる原動力になり得るモチベーションを、リスクばかりにとらわれて否定すること、現代という時代に即して評価できないこと、どちらも建設的なことではあるまい。承認欲求の存在*3や今日的意義を認めたうえで、いかにそのモチベーションを運用するのか、どのような目標に向かってモチベーションを転がしていくのかを考えたほうが良いだろう。


 非常にうなずける、私的には常識的な、安心できる見解です。



 その2 承認欲求の社会化レベルが問われている

 「承認欲求には社会化レベルがある」と筆者。

 幼児期から学齢期へ、それは褒められたい・認められたい欲求をモチベーション源にして発達していく。この時期に適切に褒め・認められなかった子は、「自分がやりたい事をやって承認欲求を充たす、という心理的営為のノウハウ蓄積が欠落してしまう」と筆者。

 そして思春期になると、子供時代とは違う新たなアイデンティティの構築に承認欲求が大きな役割を果たすが、ここで子供時代の承認欲求の満たされ方がそこに影響する。その人によって特有の躓きを経験するかもしれない。

“褒められたくてもバカにされるかもしれない”……という範疇的な不安だけでなく、自分が褒められてしまう事態にうろたえてしまう人や、自分自身の心のなかにせり上がってくる(思春期特有の)衝き上げてくるような承認欲求が怖くなってしまう人もいる。


 そこで「トライアンドエラー」の重要性を筆者は説きます。

 幸い、思春期前半は誰であれ承認欲求のブレ幅が大きくなりやすい季節なので、それまで承認欲求の社会化レベルが低めだった人でも、トライアンドエラーについてまわるミスや過ちが許容されやすく目立ちにくい――つまり遅れを取り戻すための修練がやりやすい――とは思われる。自分自身のこなれていない承認欲求を否認することなく、認め、乗りこなしていくための意志や能力は必要かもしれないが。



 こうした、逸脱しているわけではない普通の思春期の子供(若者?)についての特定個人の個体を超えた「メタ」な議論には、これまで「承認欲求叩き」の中では中々巡り合えなかっただけに、ほっとしますね。

 
 そして「社会化」の結論部分:

承認欲求がほとんどの人に生得的に存在する以上、それを超克しようとか、無くしてしまおうとか
考えるのは、かなり難しい。それよりも、承認欲求の熟練度を少しでも高め、より社会化された、より穏当なかたちへと洗練させていくほうが、やりやすく、実りも大きかろう。自分自身のなかに眠る承認欲求を弾圧するのでもなく、檻の中で飼い殺しにするでもなく、放し飼いにしても大丈夫なように手懐けていくこと――それが肝心のように思われる*4。


 超克するのではなく「洗練させる」「手なずける」というキーワードが出てきます。


 その3 承認欲求がバカにされる社会と、そこでつくられる精神性について


「昨今、思春期前半の承認欲求が馬鹿にされたり、批判に曝されたりする機会が増えたように思う。」と筆者は書きます。

 その背景には、若者特有の逸脱を許さないいわば狭量な社会がある、と筆者。

そうした逸脱を包摂する共同体的雰囲気はなくなり、きわめて契約社会的な、個人的文脈を忖度しない社会がやってきた。


 こうした社会になれば、若者ははみ出さなくなる。犯罪発生率も下がる。そして若者にとっての”生きづらい”社会が到来する。

中二病が嘲笑され、承認欲求が罵倒語として機能し、若者の逸脱が厳しい制約を受けるようになったため、現代思春期において、承認欲求の社会化レベルをあげる難易度は高くなった、ともいえる。


逸脱の振幅が大きすぎる個人は嘲笑され、叩かれ、排除される。承認欲求絡みのトライアンドエラーの安全マージンが狭くなったということでもあり、ネット炎上に象徴されるような新しいタイプのブラックホールと隣り合わせになった、ということでもある。



 そして幼児期〜学齢期に「承認欲求の社会化」があまりうまくいかなかった人は、その影響をもろに受ける、という。

承認欲求の社会化プロセスのハードルが高くなり、安全マージンが狭くなってしまうと、もともと承認欲求の社会化レベルを稼げている人にはさほど影響は無いかもしれないとしても、承認欲求の社会化レベルの遅れを取り戻したいと思っている人にこそ、そのしわ寄せは大きく響くと推測される。

 こうした社会のなかで、一体どれぐらいの若者が承認欲求を適切に社会化し、モチベーションとして上手に生かしていけるだろうか?



承認欲求の重要性が高まったにも関わらず、その社会化プロセスが難しくなったせいで、おそらく、現代思春期の心理的な成長過程は険しくなっていると思われる。



 わぁあたしが面倒くさがってちゃんとみてこなかったところを静かな目で「まじまじ」と見続けた人がいはんねんなあ。
 ついいつもの癖で、解決編「私の教育の下では…」というフレーズが頭に渦巻きそうになるのを抑え、最終章にまいります。



 その4 私達はいかにして承認欲求と向き合うべきか

 
 
承認欲求全般の否定は、おそらく自分自身の心理的性向の一部を否定することにも直結する。そうやって承認欲求に“臭いものに蓋”を続ければ、さしあたり承認欲求周辺の問題から自由になれるかもしれないが、承認欲求の年齢相応な社会化はいつまでも遅れ、承認欲求をモチベーションとした技能習得やアイデンティティ確立が成立しなくなってしまうため、社会適応に大きな偏りを免れないと思われる。
 

 はいはい。ここはもう一度押さえましょう。
 ではそうならないためにどうするか。

 「だから、よほど特殊事情を持っている人でない限り、自分自身の承認欲求は、なるべく年齢相応に使ってあげて、モチベーションの源としての熟練度をあげていったほうが望ましい。それも、できれば年齢が若いうちのほうがいい」と筆者。
 セルフケアとしては、そうですね。

 ラインケア(メンタルヘルス用語)としては―。

 
 また、もしも承認欲求を不器用に充たしている年下の人を見かけたら、本当にそれを笑って構わないのか、本当に炎上させて良いのか、立ち止まって考えたほうが良いと思う。笑って構わないと判断された場合も、どのように笑うのが適当か検討が必要だ。ちなみに、私自身はそうやって立ち止まって考える習慣がこれまで足りなかった。これは私自身の課題でもある――年少者の成長を願い、喜べるような成人になっていくための。


 うんうん。

 ここでやっと「当協会方式の承認教育」も出番になってくるかな。


 しめくくりに、筆者は「承認欲求の社会化」が困難な現代社会について、こう言う。

承認欲求が個人のモチベーション源として重要な社会ができあがっているにも関わらず、幼児期〜思春期にかけて、承認欲求の社会化プロセスを適切に踏んでいくのは簡単でも当然でもないのは、随分ひどいことだ。


さしあたって今、承認欲求の社会化プロセスが難しくなっていて、それが次世代の精神性に影響を与えているであろう点には留意が必要だとは思うし、今後、どのような社会が理想的な社会なのかを考えていくにあたって、勘定に入れていただきたいとも思う。
 


 いかがでしょうか。

 「解決編」にすぐいきたい正田がふだん思考をサボっている部分をこうして激するでもなく陰陰滅滅とでもなく、描写し分析し建設的に処方箋を出す人がいた。

 こういう品質の思考にこの分野でこれまで出会えなったのだ。

 (欲をいえば正田はマズローだけでなくヘーゲル承認論まで遡りたいが…こらこら。)


 このブログへの引用を快くお許しくださった熊代亨先生、ありがとうございました!


 もう1つ、「承認欲求という言葉の使われ方が変」と感じたわたしの疑問に親切に答えてくださった番外編の記事

 番外編その1 ネットで「承認欲求」が使われるようになっていった歴史

 本来の語義を離れ(参照することなく)ネットスラング、罵倒語として「承認欲求」が使われるようになった、残念な経緯がまとめられています。
 正田ほんとうにこういうこと知らなくて良かったのか(苦笑)

 ありがたいことに、これまで受講生さん方はあまりネット世界の住人でなかったせいか、こうしたネットでの残念な使われ方の影響をそれほど受けてきませんでした。

 受講生様方、大人は「満たす」ことに集中しましょうね。


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 先の加東市商工会での「行動承認セミナー」を受講された経営者、管理者の皆様の宿題が続々返ってきています。
 皆様一様にいい感触のよう。宿題をみると、つい「にっこり」してしまうわたしです。

 「承認研修」は、シロクマ先生の論考のような、若者の側の「承認の社会化プロセス」の分析を経てうまれたものではありません。

 たんに上司側からこう働きかけるといい結果になるよ、という大人社会側での知恵を集積したもの。

 「行動」承認であるのは、「承認の最適化」「質の高い承認」という、これまで承認不全で育って来たきらいのある若者たちの側のニーズにそれがジャストフィットするからなのでした。

 宿題でも、型どおり「行動承認」の形でやってくださった方が最もよい結果を出され、長く続くモチベーションになるであろう、という予感があります。


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 こうして引用、出典明記にこだわるのはわたしのスタイルです。できればオリジナルの方に仁義を切りたいと思うのもわたしのスタイルです。
 自分以外の聡明な方のお知恵をお借りして少しでもいい仕事をしたいのです。またオリジナルの方がイヤな気持ちにならないやり方でしたいのです。

 そして複雑極まる現代のために真摯に思考したり行動する同時代の人に対しては、敬意をもちます。


 ありがたいことに他所にもそういう方がいらっしゃるようで、8月にこのブログに書いた記事を最近別の人材育成業の方が、

「自分が感じていたことと同じだったので引用させてもらいました」

と事後承諾でしたが、ご連絡をいただきました。

 そういう、認め合って引用しあうようなコミュニティってひそやかにあるのかもしれません。



(一財)承認マネジメント協会
 正田佐与

 2つ前の記事で「ウチダ本学ぶものなし」と取り上げた『困難な成熟』という本のAmazonレビューが、今新規投稿・編集ができなくなっているようです。

 ので、こちらに取りあえずアップしておきます。

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 無知と知ったかぶり、恣意的な用語と思考、ファンタジーのオンパレード ★1つ


組織論を名乗っているが底が浅くペラペラ薄い。用語の用法や、基本的知識で間違いが多く、まったく依拠するに値しない。著者のファンだけが共同幻想のために買えばよい。
間違いを2、3例示する。

”組織論というのは「生き延びるための集団づくり」の知恵のことです。…構成員の心身のパフォーマンスが最大化するのは、どのようなサイズの集団においてか。人類の祖先たちはそれを考え、答えを見出した。”(p.113)
⇒組織論イコール集団のサイズ、という定義づけ。この後もずっとこの定義で行っているが、こんな定義を付与する文献はほかにないだろう。通常はリーダーシップ、組織心理学、組織制度設計などが複雑にからみあっている。

"でも、そのときに見出された組織論的知見は今では軍隊にしか残っていません。もう親族共同体にも、地域共同体にも、企業にさえ残っていない。軍隊だけなんです。”(同)
⇒「軍隊にしか残っていません」がまったく根拠不明。ただ「組織論的知見=最適な集団のサイズ=150人」というこの著者の独特のルールだと、親族共同体に援用するのは難しいかもしれないが。この変な定義づけの下では、確かに残っていないかもしれない。常識的な定義での「組織論」に真摯に取り組む企業は決して少なくない。

”自衛隊では先般「いじめ」による自殺者が出て問題になりました。「戦友」に心理的・身体的ストレスをかけてパフォーマンスを低下させ、ついには自殺するまで追い込むようなことは臨戦体制ではありえないはずです。”(p.114)
⇒ここが一番笑えた。著者は、旧日本軍の下でどれほど熾烈な「いじめ」「しごき」が行われ死者や脱走者が出ていたかご存知ないのだろうか。詳しくは『日本軍と日本兵』(講談社現代新書)など参照。「臨戦体制ではありえないはずです。」このフレーズは完全に著者の妄想の産物である。
わずか2ページで3つの明らかな間違いが見つかった。様々な分野の専門家が力を合わせれば、400ページの本書に600の間違いを見つけるのも夢ではないだろう。
ことほどかように、無知と知ったかぶり、テキトーに作った用語をテキトーに組み合わせた恐ろしく場当たり的な思考、ファンタジーのオンパレード。だが著者の年齢(1950年生まれ)を考えるとちょっと微笑ましくさえある。無害な妄想として、言葉を楽しめばいいのではないだろうか。


(一財)承認マネジメント協会 正田佐与

 久々に明るい話題(批判でない話題)です。

 先日、「ブログ発・幸せな発達障害部下?」の記事に登場されたブログ読者の方(仮にY子さんとします)から、このときの部下の方について詳細なエピソードを綴った体験談が届きました。Y子さんのもとで仕事に自信をもち、障害とも向き合い人生全般幸せになってしまった、というお話です。
 

 能力の凸凹があり、ある部分ではすごく有能だけれど時間管理ができず、プロジェクトを完遂できそうにない部下。マネジャーとして初めて直面するタイプの部下に戸惑い悩んだすえ、Y子さんは自己流で、この部下のために「詳細なタスク分解をし、スケジュールを把握し、細かくGOとSTOPをかける」というやり方を編み出します。そのやり方は、「行動承認」の応用編のようなものでした。細かく分けたタスクを達成するごとに承認を与え、自信を持たせて前に進ませました。

 その結果この部下は、「生まれて初めてプロジェクトを1人で完遂できた」と言いました。
 だけでなく、自ら医療機関に赴き発達障害の診断を受け、障がい者手帳も取りました。職場でも障害をオープンにし、自分の出来ること、出来ないことを周囲に伝えて仕事をするようになりました。

 さらに半年後には結婚もし、今は幸せに暮らしているといいます。
 結婚式にもよばれたが上司のY子さんは都合で行けなかった。その後、「自分が障碍者を作り出してしまったのではないだろうか…」と悩み続けたそうです。

 一方で、「大人の発達障害」の本も読み、さらにこのブログの一連の発達障害に関する記事を読むことで、「あれで良かったのだ」と氷解したそうです。


 このくだりでY子さんの記述が心に沁みます:

私のとった方法が正しいものだったのどうかは、未だ自信が無い。ただ、Aさんがプロジェクトの完遂を成功体験として認識したことは、心から嬉しかった。そして、発達障害であることを受け入れ、その中で自分なりの働き方を見つけようとしてくれたことについては、驚きをこえ彼女の勇敢さに尊敬すら感じた。

彼女のことを思い出すと、仕事をする、働くということを通して人が得られる意味の重さ、その貴さの前に、跪いてひれ伏したいような気持ちになる。(太字正田)


 働くということの意味の重さ、貴さ。
 
 そうなのでした。
 人はこれほどに、働くという行為から人として自信を得、そこから人生すべてを変え得るのでした。

 そしてこの部分を読んで、わたしは思い出したのでした。なぜ、「マネジャー教育」というドメインを自分が選んだか。

 通信社記者、主婦、母親、医薬翻訳者、というそれまでの経歴から連続性がありません。でも、「いや、恐らくこれが正解だから、これをやるしかないんだ」と思ってきました。

 それは、人がもっとも人として誇りを持って生きられるのは「仕事」の場であり、それは上司のマネジャーからの働きかけによってもっとも効果的になされる、とわかっていたから、ではないでしょうか。

 もっといえば人が仕事の場で誇りをもった存在でいられるとき、その人は家庭、地域でもよいメンバーでいられ、ひいては子供さんたちにも良い影響を及ぼすことができる。
 子供たちの幸せは親御さんに大きく依存するのだけれど、じゃあ親御さんの幸せや誇りや子供を愛する能力を育めるのはどこか。それは「職場」なのだ。

 社会に幸せの連鎖を生む、その頂点は職場にある。もっといえばマネジャー(経営者を含む)に。決して、同じことをご家庭から発してできるわけではない。


 そういう「結果」が見えていたので、自分自身マネジャー経験がなくてもマネジャーに教える仕事をするという無謀な賭けに出たのでした。
 不思議なことにマネジャーたちはそんなわたしを許容してくれました。許容しなかったのは「間の人」たちですね。今でもしつこくその人たちに「主婦」って呼ばれますからね。

 長い間の「間の人」たちの無理解で、心や身体に随分ガタがきていますけれど、やはり「この教育」が人々に作り出すことのできる幸福のスケールの大きさは、それとは引き換えにできないものです。

 いえ、お蔭様でこのところ皆様に良くしていただいています。
 

****

 上記の記事で「子供さんの幸せは親御さんに大きく依存する」ということを書きましたけれど、ちょうど昨日「小学生の暴力行為が過去最多」というニュースが流れました。中高生の暴力行為が減っているのに、小学生さんに増えているといいます。

 わたしなどは「ああ、スマホ(親世代の)だなあ」と直感的に思いましたし、また専門家の方々は様々に分析しておられるようですのでちょっと資料を集めたいと思いますが、
 大げさに言えば、「社会崩壊の危機」が、はじまっているのではないか、という予感があります。

 既に小学生さんになっているお子さんたちが前頭前皮質/実行機能の発達が大きく遅れ、行動抑制ができない、という事態だとしたら、何がしてあげれるのでしょうか。

 教育すべきはお子さんでしょうか、親御さんでしょうか。

 すっこんでろ団塊。いやなんで今それが出てくるの。

****


 先日研修をさせていただいたベーカリーチェーン「リヨンセレブ」の牧田社長より、「正田の第一印象」を教えていただきました。

 牧田社長は今年5月の連休前後に史上初の「メールサポート」を受けて「行動承認の宿題」に取り組まれ、見事飯田GMほか社内の人との関係を改善され、その効果に確信をもって翌6月、当方に社内研修を依頼してこられました。

 さらに6月中旬、飯田GMとお2人で関西まで正田を訪ねてこられました。お忙しいトップとNO.2が日程を合わせて関西に1日来られるというのはそれだけで大変な決断だったでしょう、わあ「三顧の礼」ってこういうことを言うのかしら、と正田は柄にもなく感激しておりました。

 ちょうど新大阪で企業研修があった日の夕方に駅で待ち合わせてお会いしました。
 その日の正田の印象というのは―。

 ここからは牧田社長のメールからの引用です。

さて先生にお会いした時の印象は、品格もあり丁寧で印象の良い方だなと思いました。私はそういう方と話すのは実は苦手なほうで、(自分は品がないので)ちょっと緊張感が走りました。
その後お話ししていく中で、少し先生が引かれているのかなと感じる場面もありました。でもそんなことはないはずなのにと思い直したりしました。何とかやってもらえることになり、安堵して帰った記憶があります。
帰りに飯田GMの印象は、先生は自信がないようだったけど、大丈夫ですかね?と言ってきました。私の勢いに押されてしまわれたんですかね?でも社長の私の印象としては、「うちのような会社の講師経験が少ない事を心配されているのか?わからないけど、当社には必要なので先生にかけてみるしかないね」という結論で話は終わりました。その後、正田先生と当社とのやり取りの中で、机の位置やどこまでコーチングを社内に落とし込んでいるのか等のやり取りの中で、講習を充実した内容にしたいという先生の思いが伝わってきて、私も飯田GMも安心した思いがありました。現在は何の心配も無く、本当に良かったと思っています。



 「品格もあり丁寧」だって…その当時はあまりブログを更新していなかったので、最近のような悪口雑言の文章を牧田社長にお目にかけないで済んだみたいですね(苦笑)

 「自信がない」というのは多分本当にそうだったと思います。多分性格的に「自信のある」表情など一生できないのかもしれませんが―、

 ベーカリーチェーン様での講師経験がなかったというのも本当です。加えて「職人気質の人もおり、難しい」ということも伺っていたので、「どう難しいの?どんなわだかまりがあるの?」という疑問とプレッシャーが頭の中でぐるぐる回り、
(実際には研修でお会いした店長、リーダー様方は職人出身の人も気持ちのいい人ばかりだった)

 いつも研修前は情報収集をしたがるのですが必要な情報を事前に十分入手できるだろうか、とか、
 研修は水もの当日何が起きるかわからない、とか、

 要は、『行動承認』のせいで研修効果についての期待値が上がってしまっているので、事前期待が高ければ高いほど正田は自信のない表情になる、という現象なんですけどね。


 なので、これからお会いする方々も、どうか「正田の自信のなさそうな様子」は、あまり気になさらないでください。いつものことですから。多分本番になると腹をくくってしゃきしゃき喋るとおもいます。そして結果を出すとおもいます。


 牧田社長、わたくしからの変なお願いに応えていただきありがとうございました。


(一財)承認マネジメント協会
 正田佐与
 


 

 『困難な成熟』(内田樹、夜間飛行、2015年9月)という本を読みました。

 このブログでは最近批判記事ばかり続いていましたが、この本に関しては元々批判しようと思っていなくて「大人の成熟」ということに関してちょっとは答えが書いてあるかな?と手に取ったのですが、

 ダメでした。

 ウチダ本、もはや学ぶところなし。そこまで言っちゃうか。

 以前は、「内田樹本」はそれなりの衝撃があったり、指針にするところがあったのでした。学び手が消費者になったことを指摘した『下流志向』などは、無条件のテキストとして頭に叩き込まれました。

 しかし―、

 やっぱり、「定年後のおじさん」なのだなあ、この人も。小さな小窓から企業とか労働の場を覗いて、そこにたっぷり妄想と恣意的な思考をくっつけて文章を書いている感じ。


 たとえば、

「会社には、『母』がいない」というフレーズ。

 すいません、女性社長たちはあれは何なんですか。

 「姐さん」なんですって。

 会社は、「父性原理・男性原理」でなければならないのですって。

 ここで「あの〜、父性原理・男性原理ってどこの心理学とか哲学の用語ですか?どういう文献の中でどういう文脈で使われてますか?」なんて、野暮なことをきいてはいけないようです。

 この本のあとの方に、「私は用語の定義などしない。そんなことを要求されたら逃げ出す」と、「逃げ」をちゃんと打ってあります。
 ずるいですねえ。
 だからこの本は、内田氏が恣意的にテキトーに作った用語を組み合わせて恣意的に議論をすすめるんです。

 いいですね〜気楽で。自在の境地ってやつですね。

ひょっとしてちょっと、緻密にものを考える姿勢って壊れてきてませんか?私の知り合いでそういう人いたんですよ、その人はアルコール依存でしたけどね、ええ。ちょっとヨタ話の匂いを感じたもんですからね。いろんな理由で脳って壊れますよねー。

あ、わたし「個別化」という資質が強いので、本来はマジメですけど不真面目な人のことは不真面目に相手するんです。

 野暮を承知で、「父性的」や「男性的」をあえて神経化学物質の知見にまで還元すると、「テストステロン原理の会社がいい」と言っていることになります。

 それ、ダメでしょ。

 内田氏がどの程度の人生経験や会社を観察した経験があるのか知らないが、テストステロンの暴力性を肯定してしまうと、それはパワハラ肯定、暴力肯定、それについていけない多数の人たちの切り捨て肯定ということになる。
間違った仮説を持って物事をみると、結局いつまでも正しく見れない。内田氏は結局団塊世代の制約を抜けきれない人なのではないだろうか。


 かつ、今どきの女性も障碍者も外国人も受け入れましょう、という多様性前提のところではテストステロン原理はつかえない。テストステロン性の強いリーダーは、過去も何度もご一緒したが、人の多様性個体差に対して恐ろしく無頓着で、自分と同様の有能さのない人は平気で切り捨てる。障碍者とわかっていながら罵る。女性は見下すか、愛人にするか。ハーレム化しちゃった会社もありましたよ。

 だから、「男性性」なんてむやみに持ち上げないほうがいいのです。わたしの経験では元々テストステロン性の強いリーダーでも、「女性的な」承認トレーニングを受けることではじめてその有能さを組織に反映させられます。男性はそのままでは良いリーダーになれないのです。40代半ばくらいにテストステロン値が落ちてきて、枯れてきて、その頃に女性性を学習して身につける、というのが幸せな転換なんですよ。そのくらいの発達心理学の知見は盛り込んであるのかと思った。全然ない、ウチダ氏の狭い見聞の中からだけの話だった。この人はあんまり成長しなかったほうの人なのではないだろうか。

 でも男性的な会社がお勧めだ、と内田氏は言っているのです。

 この人は女子大の先生だったと思うんですけどねえ。

 全体に、この人の文体に感じるのは、なまじ大学の先生であったがゆえに人生経験の少ない未熟な人向けに大風呂敷広げたような、博識をひけらかしてはいるんだけど恐ろしく断片的で恣意的で、読者がそこから何かを構築しようがない、そういう話のすすめかたなのでした。

 こういうのを喜ぶ人は、本当に人生経験が少なくて「偉い人」に教えてもらって喜んでる人だなあ、あと同じ団塊世代で威張ってるこの人をみて威張りたい自分を投影したい人だなあ、と思うのでした。去年は「哲人」が説教しているスタイルの本が流行りましたけれどね、あの路線ですかね。威張り本とでもいうジャンルですかね。


あと、女嫌い(ミソジニー)の気配も感じる。女を引き合いに出すのはフェミニストとかで、いかにも「嫌い」という文脈で、だ。奥さんに逃げられるとかしたんじゃないだろうか。そして「橋本治さんにゴミ拾いを教えてもらった」などと、男の有名人のお友達にしがみつきたい症候群、みたいのも感じるのだ。(そんなこと市井の経営者なら誰でも教えてくれることだろうに)


 以前はこの人の本を読んでこんな風に感じなかったなあ。

 わたしの人間がわるくなったのだろうか。


 ともあれ、「父性原理の会社がいい」なんて言説は、信じないほうがいいです。良識ある現役の経営者・リーダー層が読む本ではないことを祈ります。

(本当は、本書は黙殺するほうの本だったのだが、「無意味を通り越して有害」という記述があり、過去には一定の影響力のあったことに鑑みてあえてブログアップしたのだ)

 団塊はまだ当分本を買いますからね、こういうのが団塊向けのマーケティングで、老々介護なのかもしれないですね。


(一財)承認マネジメント協会
 正田佐与

お世話になっている皆様


 おはようございます。
 一般財団法人承認マネジメント協会の正田です。
 

※このメールは、正田が過去にお名刺を交換させていただいた方・当協会のイベントやセミナーにご来場いただいた方にお送りしています。ご不要の方は、メール末尾にありますURLより解除ください。
(解除方法が変わりました!詳細はメール末尾をご覧ください)


 本日の話題は:

■22名のリーダーの方々へ 祈りを込めて
 ―加東市商工会・行動承認セミナー開催しました―

■当たり前の日常から発すること、日常を慈しむこと
 ―「アンチ承認欲求本」を評す―

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■22名のリーダーの方々へ 祈りを込めて
 ―加東市商工会・行動承認セミナー開催しました―

 先週11日、兵庫県中部にある加東市商工会にて、「行動承認セミナー」3回シリーズの第1回を開催しました。
 地域から製造業、電器販売、金融業、小規模事業者などの22名のリーダーの方が参加。
お一人も欠けることなく、大変コミットメント高く、初日を無事終了しました。
 改めて主催された加東市商工会の皆様、そして共同で講師を務めてくださった、このプログラム初期の成功者・松本茂樹先生(関西国際大学経営学科長)に感謝申し上げます。
 数人から100数十人の部下をもつこのリーダーの方々が、この情報の多い時代においても、ひとつのプログラムの良い学習者となり、担い手となり、強く幸せな会社を作ってくださることを願います。
 当日の詳細をこちらにご紹介しております

◆幸せな行動承認セミナー第一弾、情けないJ-POPとの決別ー加東市商工会様
 http://c-c-a.blog.jp/archives/51922286.html 

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■当たり前の日常から発すること、日常を慈しむこと
 ―「アンチ承認欲求本」を評す―

 さて、「承認」という良いものの与え手になる人を増やす仕事をすると同時に、現代に多い、人を惑わす言説にも目を向けなければなりません。そうした言説の影響をできるだけ最小にしなければなりません。
 「承認」「承認欲求」という言葉は、2008年ごろから最近まで、何か悪いことが起きたときの理由づけとして、さも悪いもののように扱われる風潮がありました。社会学者、犯罪心理学者などが、犯罪や非行やいじめ、その他もろもろの逸脱行為の動機として、憎しみをこめて「承認欲求」というものに言及してきました。
 ところが、そうした論者たちが大きく見落としている事実があります。
 わたしたちのあらゆる社会的活動、学校へ行くことも仕事をすることも恋愛したり家庭を営むことも、すべて「承認欲求」が行動原理だ、ということです。そして一部の人が承認欲求ゆえに逸脱行為に走ったとしても、大多数の人は、承認欲求ゆえに、逸脱をしないで踏みとどまるのです。
 そうしたわたしたちの当たり前の営みに、慈しみや畏敬の念をもつことから出発してはいかがでしょうか。
 「アンチ承認欲求本」について評した記事はこちらです

◆幸せな行動承認セミナー第一弾、情けないJ-POPとの決別ー加東市商工会様(後半部分)
 http://c-c-a.blog.jp/archives/51922286.html 

◆再度「アンチ承認欲求本」を斬る―『「認められたい」の正体』『人に認められなくてもいい』
 http://c-c-a.blog.jp/archives/51922394.html 


 もうひとつ、では「承認」「承認欲求」をどう位置づけたらいいのか?というとき、「栄養」「食欲」との関連を書いた記事があります。「人に認められようなどと思うな!」などという言説は、「栄養を摂るな!ガリガリに痩せて生理も止まってしまえ」というのと同じぐらい、危険行為です。

◆長すぎてしまった前振り 承認欲求と食欲と栄養と過剰摂取の関係について
 http://c-c-a.blog.jp/archives/51920236.html 

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★台風18号は、北関東から東北南部にかけて甚大な被害をもたらしました。
 犠牲者の方々のご冥福をお祈りするとともに、今はささやかながら義援金をお送りしたいと思います。
 多数の自治体に被害がまたがっているため、日本赤十字社に送ることにしました。有効な使い方をしてくれることを願います。

 
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*…*…*…*…*…*…*…*…*…*…*…*…*…*
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理事長 正田 佐与
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 また引き続き「負の承認欲求本」を読んでみる。

 このブログでは2011年7月にもとりあげた『「認められたい」の正体―承認不安の時代』(山竹伸二、講談社現代新書)。

 再読してみますと、この本自体は最終結論部分では「社会の『承認』の総量を増やそう」的なことを言っていてわたしとそんなにスタンス変わらないじゃないの、と思います。だがわたしのやってるみたいなコミュニケーショントレーニングは有効な道筋と認めてなくて、もっと何となくやりたい、自分の身の回りからほそぼそと、というスタンスみたいですが。向こう三軒両隣。

 甘いね。それじゃ1000年かかっても無理、と実際家でコミュニケーショントレーニング屋のわたしは思う。「コミュニケーション」は見下されがちだが、菊池省三先生も著書の中で言われたように、「徳」の手段なのだ。コミュ力を鍛えることが、徳に至る道筋。そう意識して使っている指導者のもとでは、そうだし、そういう志のない空虚で受講料ばかりバカ高いコミュニケーショントレーニングも一部にある。そこと一緒にしないでいただきたい。また現実の手応えとして、何となくやってるつもりでいるのと、きちんとやり方を学び宿題もこなして型を身につけるのとでは、天と地ほどの開きがある。

 
 そして結論部分はそうなのだが、本書『「認められたい」の正体』の導入部分ではやっぱり「犯罪」「いじめ」と「承認欲求」との関連を延々と描き、「承認欲望」という明らかに善悪の「悪」の価値判断を含む言葉づかいをし、陰陰滅滅と、「承認欲求」のきもちわるさを訴える。そんなんで社会に承認が増える結果に結びつくとは思えないのだが。

 もう1冊、『人に認められなくてもいい』(勢古浩爾、PHP新書、2011年12月)は、この年に先行で出た『「認められたい」の正体』を長めに引用し、引用文献としてはそれが唯一と言ってもよく、あとは「認められたい心理(承認欲求)」をひたすら品位の低い言葉で貶しまくっている本。いわば便乗本、尻馬乗り本という感じ。たぶん「内発と自律論」にかぶれて憧れてるほうの人だと思う。

 「内発と自律論」についての最近の記事はこちらです

 ふたたび「内発と自律」をモグラ叩きする
 http://c-c-a.blog.jp/archives/51921314.html


 このへんの論者の方々にわたしが言いたいのは、たとえば大前提として、承認欲求がボルテージ上がってるから犯罪が増えてるんだろうか?そもそも、犯罪発生率が上がってるという事実もあるんだろうか?

 すっごく犯罪が増えていて、アキバ通り魔事件のようなのの発生率が過去に比べて右肩上がりで上がっていて、それの原因が承認欲求の亢進だ、という図式が成り立つんだったらいいですよ。現実には、犯罪は減ってるんでしょ。ちょぼ、ちょぼ、と起きていて、たまに起きるがゆえに目立つそれの原因をみると承認欲求由来のものがある、という話でしょ。

 そのへんのデータ的なところは詳しい方にゆずるとして、、、


 昔から、犯罪の動機が承認欲求だった、というのは実はよくあった。「永山則夫」とかもそうなんじゃないですか、たぶんほかにも枚挙にいとまがない、めんどくさいから一々挙げない。三島由紀夫とかインテリがやるのもそうだし粗暴犯もそうだったろうし、明治の人も江戸時代の人も戦国時代の人ももっと前の人もやってた。だってギリシャローマ秦漢の時代から承認欲求ゆえに戦争をし、主と奴に分かれた、っていうんだから。

 承認欲求ゆえに人は恋愛もする。源氏物語だってそれを言えば承認欲求の産物だと思う。思い返すと近代ヨーロッパの恋愛小説とかビルドゥングスロマンとかも全部、今読み直せば延々と承認欲求のことを書いている。漱石のこころだって言ってみればそうじゃないですか。「近代的自我」なんて今の言葉で言えば全部承認欲求じゃないですか。

 だから、ふつうのことなんです。承認欲求を持っているのって。
 昔から若い人はそれで悶々としてたんです。
 単に今の大人が成熟度が低いから、出し惜しみして与えないから、社会に足りなくて窒息感が起きてるんです。それと、昔は文章を書くなんて一部のエリートの行為だったのが、彼らは社会的地位が高かったので割合承認的に満たされていたのが、今はもっと普通の社会的地位の低い人も書いて公開できるようになったから目立つということはあるでしょう。
 去年はまたナルシシストのスキャンダルが連続して起きたが、あれは「承認欲求」も度を越すと一種の才能だ、という話なんだと思う。別にすきじゃないですよ、あのひとたちのこと。
 (あと多少、顔出しできるツールの出現が自己顕示欲という形の承認欲求を高めたというところはあるでしょうね。拡張させるツールは溢れていますね、それは1960年代からアメリカ人を肥満にさせるスナックが溢れたのと同じです。そういう社会を作っちゃったのは大人です)

 でもこの著者たちは、「アンチ承認欲求」で論陣を張ると、それだけで新書が何冊も書けちゃったのだ。「まるで承認欲求の亢進ゆえに不条理犯罪が増えた」みたいに見せかける文章を書いて、日本的なケガレみたいな味つけをして。そういう、イージーな論客たちの「おまんまのたね」だったのだ、承認とか承認欲求は2008年ごろから最近まで。牧歌的な時代でしたねえ。

 『承認をめぐる病』(斎藤環、日本評論社、2013年12月)は、病気の人のことなので、こころの栄養である承認が極端に不足すれば病気になるのはわかりきっているので、省きます。あと病的に承認欲求の強い一部の人も病気になりやすいです。専門家の方はそういうものだと思って粛々と対処なさってください。


 そしてもうひとつ意地悪なことを言いましょう。

 承認や承認欲求のことを何と表現するか。それは、その人自身の内面の投影だ、とわたしはみています。

 たとえば、求めても得られないもの。ここにはないどこか。幸せの青い鳥のようなもの。J-POPで歌う夢とか幸せのような現実味のないもの。地獄の餓鬼の絵のような嫌悪の情をもよおすもの。際限のない闘争をもたらすもの。羨望と見下し。

 全部それは、その人自身の内面の物語なのです。
 きっと本人さんが「ほしい〜、ほしいのに〜、もらえない〜」と悶々としている人なのです。ノドから手が出ているのです。イソップ童話のキツネのように、手に入らないから、悪口を言うのです。そして「与える側になる」なんて夢にも思わないのです。はいクイズです、そういう人格の人のことを何と呼ぶでしょう。


 わたしなどは、
「そうか、足りないのか、じゃあ与えよう、そのためにトレーニングをしよう。そのために人びとを説得して動かそう」
という脳の回路をしているので、そうした陰陰滅滅としたイメージはあまり持ちません。供給したあとの現実の美しいイメージのほうを沢山蓄積で持っています。しかし根暗イメージを持つ人は持つので、ふうんそう見えるんだなあ、と不思議な思いでみています。
(もちろん不足のために問題が起きていることには人一倍心を痛めます、だから迅速に行動を起こします。わたしの受講生たちが1位続出しはじめたのは、わるいけれどこの論者たちが「承認欲求」の悪口垂れはじめるより5年も早かったのです)


 適切に与えさえすればこんないいものはないものについて悪口雑言たれる人とはお友達になれません。

 彼らは、「承認」「承認欲求」を遠巻きにしてみて悪口言う仲間をつくり、その仲間同士の承認を期待しているナルシシストなのです。


 
 もうひとつ追加しましょう。

 拙著『行動承認』は「はじめに」の一章を除けば、全編が「解決編」でできている、と言ってもいい本です。

 わたしは恨み節嘆き節がすきではないのであまり気乗りがしなかったのですが、打ち合わせでそういう章が必要だ、という話になったので、仕方なく「承認不在の職場でどんなイヤなことが起きているか」を取材して書いたのでした。

 残りは全部、解決編。
 世間には、データだけ出して解決編提言編は書きたくなかったとか言われる御仁もいらっしゃるけど、

「こういう問題が起きています」「さあ、あなたはどうしますか」

という本の書き方より、解決編に徹して書くほうが責任が重いのです。

 とりわけリーダーの行動規範に関する本なので、リーダーが間違ったことをやったらものすごく影響が大きい。それは、あらゆる取り違えや行き過ぎや色々な事態を考えて、丁寧に副作用の芽を摘み取って書いているつもりです。

 わたしは「変える」という言葉もあまりすきではなくて、「変えるより『つくる』ほうがはるかに難しい」と思っています。現状に問題があるから変えたい。でも変えた先の形でまた別の問題が起きない保証はない。

 そして受講生さんや読者さんは素人なので、ほっとくと色んな失敗をされる。本当はリーダーの行動では失敗は許されません。経験値のある当方が、できるだけ失敗しないように丁寧に指導してあげる必要があります。「失敗してもいいですよ」は若いうちだけのことです。


 そういう、「この形に変えたあかつきに何が起こるか」を丁寧に予測して問題の芽を摘み取る作業をしている本なのですが、そういう配慮を読み取ってくれる読者さんはすくないですね。世間の本でそういうの中々ないですよ。いいんだけど。


 わたしは、嘆き節の本何冊も書いているよりも自分の生きている時代に責任持った仕事の仕方してます。超マジメタイプですから。
 
 
 
(一財)承認マネジメント協会
 正田佐与

 

 加東市商工会で11日、3回シリーズの「行動承認セミナー」初日が開幕しました。


 会員企業様から22名の経営者〜リーダー層の方(うち女性6名)が参加されました。

 県下きっての経営支援通、篠原靖尚経営支援課長(拙著『行動承認』に登場したK島さんの以前のお師匠さんです)が冒頭挨拶を読み上げられ、

「コーチングの研修も受けました。ほめる研修も受けました。どれも違う、と思った時に私が去年出会ったのが『承認研修』でした・・・」

 荘重な、教会のパイプオルガンの前奏のような冒頭挨拶。

 照れ屋のわたしはつい、「篠原さん、話長いです」とつっこんでしまいましたが…、本当は内心は感謝でいっぱいでございました。


 ご一緒に講師を務められた元銀行支店長の松本茂樹先生(関西国際大学経営学科長)は、

「この研修はその通り『素直に、愚直に』やり続ければいい、というものです」

「私も銀行支店長時代、個別面談をやりながら部下が目の前でみるみる変わっていくのを経験しました。みなさんも経験してください」

と、嬉しい援護射撃をくださいました。


 商工会から事前に本を配布するという「反転学習」の効果か、皆様最初の実習から大変コミットメント高く参加していただき、笑顔がこぼれました。

 その瞬間は何度立ち会ってもいいものですネ(*^_^*)


 3時間、最後の実習で、ちょっと難しかったカナ?と当方が気をもんでいた最後のお1人も破顔一笑。

 あとは、このまま順調に職場で実施してくださいますように。と祈るばかりです。


 非常に沢山の課題を事前アンケートで出していただいていましたが、わたしがみる限りすべて「承認」の先に解決策があります。それはみなさまの実践に依存します。




 「幸せな初回の終了」のかげには、加東市商工会K島様の周到なご準備もありました。チラシレイアウト、配布、FAXDMなど事前告知の労、それに当日作ってくださった感動的な席次表。いまやこの方しかご存知ないセミナー開催ノウハウの塊ではないかと。

 この場をお借りして、ありがとうございました。「承認研修」、こんなに盛り立てていただいて幸せ者です。


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 さて、幸せな気持ちになったので、少しイヤなことにも目を向けようと思います。

 今回の読書は『友だち地獄―「空気を読む」世代のサバイバル』(土井隆義、ちくま新書、2008年3月)と『希望難民ご一行様―ピースボートと「承認の共同体」幻想』(古市憲寿+本田由紀、光文社新書、2010年8月)。

 いわば「負の承認欲求本」の「はしり」のような文献群であります。けっしてこのあたりの論者の方々を敵視したいわけではないんですが、きっと良心的な方々なのだと思いますが、このあたりの書物がつくるイメージが、「承認」という本来すごくいいものをわるいもののように見せてしまっているということは指摘しなければならない。

 わたしは大人の世界に「承認教育」をして、サクサク問題解決をしようというほうの人なんです。そう、本当にサクサク解決できるんですもん。


 このあたりの「若者論」の文献に、「承認」「承認欲求」は、どういう形で現れるでしょうか。なんだか、大学生さんの卒論みたいな論の立て方ですが。


 たとえば前者、『友だち地獄』では―。

「他者のまなざしを自己の内にもたない人間が自らを物語ろうとする場合には、自分の外部にその聞き手をもたざるをえない。しかし、自己の物語が赤裸々なものであればあるほど、自分と利害関係のある人びとにその役割を求めるのは危険が大きすぎる。そこで彼らは、具体的な利害関係のないバーチャル空間の他者にその役割を求め、ネット上に日記を公開する」(p.69)

 ―ここでは「承認欲求」という言葉こそ使っていませんが、ブログを書く人は承認欲求を満たしたいから公開で書くのだ、という意味のことを言っています。そうですかすみませんねえ。


「献血によって彼女(南条)が得たいのは、自分という存在の確認とともに、他者からの絶対的な承認である」(p.82)

「(南条の自殺願望の記述を受けて)ここには、なんと切ない自己承認への欲求があることだろう。死亡後に発見される自分の刺激的な身体が、さらには自殺という衝撃的な事件によって自分の欠けたダンスのステージの光景が、かえって自分という存在の強力なアピールになることを敏感に感じとっている」(p.83)

 ―いやですね〜、自殺によるドタキャン願望。傍迷惑このうえない自己顕示欲。まじめ義理人情タイプの正田はそれは絶対ないな。でも時々、例えば職務怠慢な新聞記者があまりにも「承認」のことを書かないものだから、「あなたたち私が死んだら書いてくれるんですか?」なんて言うことは本当にあります。ギャグですから、あのひとたちは。まあ「思想」なんて高級なことはわからない、ミニコミ紙ですからどこも。
 ともあれ、その人はビョーキなんだと思いますよ。


「一般的な他者の視線が自分のなかに取り込まれないとき、自らの身体感覚のみに依拠した自分は、まさに世界の中心点となる。しかしそれは、社会という確固たる根拠をもたない空虚な中心点である。それゆえに、自己の安定のためには具体的な他者からの絶えざる承認が必要となる。その承認欲求の強さは、南条の日記に書きつらねられた内容ばかりでなく、ネット上でそれを公開するという形態にも表れている」(pp.83-84)

 ―はいはい。現代の若者の病理を解剖する時に、どうしても表現力豊かなエクストリームな人の例を挙げざるを得ないんでしょうかね。
 最近も自分がブログを書いていることに関してナルシシストだとか言われて、「私は碌に発表場所もないから受講生様のために自分が思考した軌跡を書き残しているんです、なんか悪いですか?」ってある人に言ったんでしたっけ。なんでこんな説明しなきゃいけないのよ、疲れるなあ。相手はベストセラー作家さんでしたけどね。あいつら一味だな。回し者だな。


「彼女(南条)は、甘美なものとして仕事を捉える。そこに、自己承認への活路を見出しているからである。彼女にとって仕事とは、確固たる承認を得るために非常に有効な手段だった」(p.85)

 ―あの〜、「仕事が承認を得る手段」だ、というのは、いたって「まとも」ですよ。ビョーキの人だからそうなんじゃないですよ。そういう認識は全然ないみたいですね。なんか読むのイヤになってきたこの本。あなた自身は、仕事は承認を得るための手段じゃないんですか?この人本当はいい人じゃないんじゃないのかな。


 ―さて、「昔の若者はそれほど承認を必要としなかった」という言説も登場します。

「…かつての若者たちが人間関係の強い絆にからめとられているように見えながら、その一方で孤独にも強く、むしろ孤高にふるまうことすら可能だったのは、自分の判断に客観的な色彩を与えてくれる社会的な根拠を自己の内面に取り込んでいたからである。その根拠が、つねに一定方向を示しつづける羅針盤の役割を果たして、彼らの自律性を支えてくれていたからである。だから、たとえ周囲の人びとから自分だけが浮いてしまおうとも、『我が道を突き進んでいく』と宣言することができた。いわば一般的・抽象的な他者による承認を感じとることができていたので、具体的な他者からの承認を現在ほどには強く必要としなかったのである」(p.122)

 ―昔の若者は自律的だった説。異議あり。昔がどのへんの時代なのかわかりませんが、たとえば安保闘争とか学生運動、紅衛兵、など若者がモブ化したことは何度もあり、それは自立していない若者が集団行動すると安心したからで、要は承認欲求です。紅衛兵なんかは、毛主席から承認されたかったんです。だから団塊はその過去を恥じて右翼反動になってるんです。中には本当に自分の信念と一致していた人もいたでしょうけど、大多数は自分なんてありませんでした。もちろん普通の働く風景でも、高度経済成長の長時間労働のサラリーマンは当然、会社や周囲から承認されたくてそうしていたわけであります、もっとさかのぼれば軍国主義にしても。正田は会社員時代も一匹オオカミで上司とか周囲の(「弱くあれ」という)期待には従わないほうの女の子でしたが、それは大学で強い恩師の影響を受け承認も受けたからで、良い親御さんや師に承認された経験のあるひとは周囲に流されず強く振る舞えるかもしれません。自分1人でそれができるわけではない(できるのは恐らく病的に空気を読まない人)、それは昔も今も同じと思います。漱石とか鴎外とか、文豪と言われるクラスの文献を残している人は例外でしょうけどね。あと太宰治は自己愛性人格障害だった説もどこかにありましたね。あー、どんどんきらいになってきたこの人。言ってること変。学者のくせに間違ったこと言ったら、アウトでしょ。かなり妄想的な頭脳の人、学者というよりアーチストなんじゃないだろうか。


 ―いじめ自殺も「承認欲求」の産物説。別に否定はしませんが…。

「2006年の後半に引き続いたいじめ自殺の背後にも、この「私を見つめて」という強い承認欲求が潜んでいるように思われる。自殺を企てたいじめの被害者たちは、…「優しい関係」に孕まれた対立点の表面化が巧みに回避されることで、いじめの傍観者たちが自己肯定感の基盤を補強していくのと引き換えに、自らの肯定感をとことん剥奪されてしまった存在である。「私を肯定的に見つめてほしい」という想いは、ふつうの若者たち以上に強かったに違いない。」(pp.135-136)

 ―そうだろうと思いますよ。ホネットも言ってるでしょ、いやヘーゲルだったかな、人間同士の葛藤とは、要はどれも「承認の剥奪」の問題なんです。戦争も犯罪もいじめも。だから、奪われた側は必死でなんらかの形で奪い返そうとする、承認を。それは自然なことです、といっても自殺などしてほしくないが、彼らには奪い返す権利は当然あるんです。それはそこまで追い詰められた被害者が悪いんですか?自殺した被害者をナルシスティックだといえますか?承認を奪った加害者が悪いんじゃないですか?あるいは放置した大人たちが悪いんじゃないですか?
例えばこの文章を、「餓死した人の表情からは強い食欲が窺われる」という文と比べてみてください。


 「ケータイは…、つながりたい、承認されたいという欲求を、とりあえずはいつでも満たしてくれる装置として活用されている」(p.172)

 ―きたきた。本書は2008年の出版なので、まだスマホ登場前で「ケータイ」を話題にしています。ここでいう「承認」は、当協会的には「やすっぽい承認」なのやけどなあ。本書では「優しい関係」という言い換えバージョンも度々出てくる。「さみしい」に対しての「さみしくない」、「ないよりまし」というレベルの不安定なもの。だから、仕事の場での「行動承認」に出会うと、それはいまだかつてない大人同士の骨太な強固な信頼できるものなので、今どきの若い子もコロっと変節(いい方へ)してしまう。


 『友だち地獄』、「おわりに」で著者は、「本書で述べてきた若者のメンタリティの半分は、自分にも当てはまることを率直に認めておかなければならない」(p.231)と述べたところには、ちょっとだけ救いがありました。

 しかし全体としては、若者の現状の暗黒面を取り上げ嘆いてみせ(慨嘆調)、そして「承認」「承認欲求」をスケープゴートにしている本なのでした。まるで、人間ではない架空の概念だから悪玉にしてよいのだとばかりに。
 いや向かうべきはそっちじゃないでしょう。大人社会をどうつくりかえるか、でしょう。

 問われるべきは大人社会なのだ、という視点がこの本には見事に抜け落ちている。「若者の病的な承認欲求」のおぞましさだけが読後感として残る。

 あれですよね、問題発見とか慨嘆調がお上手な著者の方っていらっしゃるんですよね。それだけで本が何冊も書けちゃう。ネガティブ日本人は嘆き節には「そうだそうだー」って反応するんです。イヤだわ男のくせに慨嘆調ヨロメキ調。定年後の読者層の方なんかには受けますね。

 でも社会問題は何も解決しない。有効な問題解決をしているこちらが足引っ張られる。

 このブログでは、最近も「承認と栄養の関係」を取り上げているが、

 長すぎてしまった前振り 承認欲求と食欲と栄養と過剰摂取の関係について
 http://c-c-a.blog.jp/archives/51920236.html

承認欲求は誰にも普通にあるもので、正常な範囲のものは与えられて然るべきもの。


 ごめんね、教育技術の進化によって、また地道な社会変革によって(それはお気楽な大学の先生ではない正田の長年の心身をすり減らす「営業活動」で成り立ってきたのだが。正田はもう歳でかなり疲れてきているので、大学の先生にはとりわけ厳しいです)、大人のほうに「承認教育」を施し、「承認の与え手」の大人の数を増やすことができるようになると、ここにみるような「承認観」はむしろ退場していただかざるを得なくなる。

 美しいものなんです、大人の「与える承認」は。この教育に関与できることも美しいんです。汚いものみたいに言ってご商売してきた無責任なひとは、関与しなくて結構です。


 
 
 もう1冊の『希望難民ご一行様』(光文社新書、2010年)は、気鋭の若手社会学者・古市憲寿氏のデビュー作らしい。綾野剛みたいな今どきのイケメンの人ですね。


 ピースボートに同乗し、その限界を見、返す刀で「承認の共同体」を切っている感じの本。「承認」はもちろん本書の本筋の話ではないが、承認屋なので一応、どう扱われたかフォローしておきたいです。


「そう、「承認の共同体」は再分配の問題(経済的格差)を覆い隠すし、しかもなかなか政治運動へも発展しないのである」(p.264)


―政治運動には、このところ「反原発」や「反安保」に発展しているようにみえますけどね…。
 再分配の問題と承認を切り離して論じているところが曲者で、ヘーゲルの構想した承認は、ちゃんと再分配にまでつながっていた。ヘーゲルは承認を当初公共の愛として構想し、次に法や社会制度として構想したのだ。承認を、非力な若者同士で歌うJ-POPみたいなものに矮小化しちゃったのは著者の勝手な解釈である。

 
「要するに、ピースボートは特に「セカイ型」と「文化祭型」の人に対して、ムラのようなコミュニティを作った。それは一部の人が期待したような世の中に反抗するような集団ではないし、社会運動につながるようなものでもない。なぜなら、「共同性」による相互承認が社会的承認をめぐる闘争を「冷却」させる機能を持ってしまうからだ。
 
 つまり、「承認の共同体」は、労働市場から体制側から見れば「良い駒に過ぎない。このことを、「若者にコミュニティや居場所が必要だ」と素朴に言っている人たちは、どのくらい自覚しているのだろうか」(p.265)
 
―だからねー、さっきも言いましたけどね。ぽりぽり。
 たぶん、現代の非正規労働化、ブラック企業化というのは、「社会全体で、いわば大人世代が若者に与える承認のパイが縮小した」という現象なのだ。生身の若者たちにとって取り分が少なすぎるから、自分らの世代の中でなけなしの承認を回さざるを得ない。それが、ここに現れるような負け犬の遠吠えのようなゴールデンボンバーの歌のような「情けない承認イメージ」になってしまう。
 それは承認の責任ではないっつーの。イケメンさんだけどおばさんは厳しいよ。

 どうも見てると、土井隆義氏が「承認悪玉説」「昔の人はもっと自律的だった説」の先鞭をつけ、それに便乗して、本来の承認の意味をよく調べもせずに悪者扱いして使う人が学者さんでも増えた、という系譜のようにみえます。土井隆義氏元凶説。土井氏って本当は内発と自律論者なんじゃないの。いや本当はどうなんでしょうね。あまりこの問題に深入りしたい気もしないんですが、もしお詳しい方がいらしたら、ご教示ください。


 ああ鬱陶しい、このひとたちに触ることもわたしにとっては「汚れ仕事」だわ。



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 えー、せっかく加東市商工会様で幸せなセミナーをさせていただいたのにね。返す刀で憎まれ口叩くわたしは罰当たりな女です。

あ、こんなにブログでは毒舌吐く女でどんな恐ろしいセミナーするんだろうと思われるかもしれませんがセミナーではすごく優しい先生キャラです。(^_^)v

 でもね、論破すべきは論破しないといけない。3時間のセミナーではごくわずかしか伝えられないのだが、受講された方がこのあたりの文献に触れてしまうととたんにそのネガティブなトーンに「かぶれる」可能性がある。「あのセミナーは、こういうのを読んだことのない人のきれいごとなんだわ」と思っちゃう可能性がある。

 それくらい、田植えをしてから害虫駆除を念入りにやらないといけない時代です。



(一財)承認マネジメント協会
 正田佐与

 

 
 

 今年は色々と事情があって、「研修営業」ということをしないことにしています。

 企業の人事とか研修担当者の方に頭を下げて「承認研修を採用してください」とお願いすることをしないことにしています。先方からご依頼があったときだけ、お仕事をする。殿様商売。

 だから、「内製化批判」のようなことも書けるのかもしれないです。


 わたしは「承認研修」で人々が幸せになるのを見すぎてしまいました。それは動かしがたい現実です。

 だから、ほとんどの人事とか研修担当者の方々とお話するのが苦痛です。「選ぶのは当方だ」とばかりにふんぞり返って、いかにもほかの選択肢も考えてるんだ、という空気を匂わすところへ行ってプレゼンするのが辛いのです。かれらの妄想がわたしの知る現実より「上」だ、高級なものだと考えているのをみるのが辛いのです。わたしのことを「オーラのない女だな」という目でみるのが辛いのです。


 「承認研修」の価値を露骨に鼻で笑う人もいます。また、アポには応じ続けるのですが、採用はしない。情報収集だけのためのアポだと思っている。

 後者の人とみられる、とある大企業の研修担当者との会話。先方が「謎かけ」のような話を振ってきました。去年ぐらいに実際にあった会話です。



担当者「例えばうちで最近出た部下からの不満で、『上司が色々なフォーマットを要求してくるから面倒だ。統一してほしい』というものがありました。各部署の月次の予算達成の状況を報告するフォーマットが、上司ごとにばらばらなフォーマットを要求する。見たい指標が違うらしい。部下にとってそれは煩雑だ、と映るようだ」


正田「詳しい状況がわかりませんが、部下がどれくらいの仕事量を抱えている中でその上司の要求に応じているのでしょうか。
 ひょっとしたら、『臨機応変』に対応するのが苦手だ、という部下の方なんでしょうか。
 あくまでひとつの答えですが、そうした月次の報告というようなのはいわば『雑用』ですが、そうした『雑用』は今、細かくタスク化して障害のある方に集約してやってもらう、という流れがあります。(注:かなり大きな規模の会社で、ここでいう『各部署』も数百人規模である)そこでそういうきめ細かい、上司1人1人ごとに報告する指標を変える、というような作業はその方々の手に余る、という話になるかもしれません。統一フォーマットで報告してもらい、上司のほうが譲歩する。すべての指標を盛り込んだフォーマットを作るとか、特別に見たい指標には上司が自分でアクセスするとか。」


 すると質問をした担当者氏は怒ってしまい、

「そんな障害をもった人がいるなら話は別ですが、うちにはいませんので」

という。

 そうなんだ、おたくの会社にはいないんだ。すばらしいですね。

 で、ここの会社にはめんどくさいのでもうご訪問しないことに、わたしはしました。有名な食品メーカーさんですけどね。まあ、こういうのも歴史の一コマなので記録しておきます。


 まあ、わたしのこの時の答え方も不完全で、こういう考え方もあります。

 「特別な指標をみたい上司」が、「ごめんな忙しいのに無理いって。頼むよ」と可愛げのある態度で「お願い」をしていればまた話は違ったかもしれないです。いかにも当然という態度で命令するから反発されるかもしれないのです。要は「承認」の問題です。とっさにはそこまでの可能性について答えられないものですが、わたし的にはそれは当たり前すぎる答えなので―。(え、当然それはやっていらっしゃるわけですよね?)


****

 嬉しかったこと。

 このブログを5〜6年前からみていたというある読者の方とお話することができました。

 その方は、

「発達障害と思われる部下を先生のブログでヒントを得て『行動承認』で成長させました」

と、体験談を話してくださいました。

「タスクを細かく割り、承認することで達成感を持たせました。20代後半、それまで成功体験がなく転職を繰り返していたという部下はそれで一気に自信を得、自ら診断を受けて障害者手帳を取り、さらには結婚もしました。今は幸せに暮らしているときいています。この部下のあまりの変容ぶりに、自分はやりすぎたのではないかと思うぐらいでした。

 だから正田先生とこのブログには感謝しています。そういう人はいっぱいいるんじゃないかと思う、ただ忙しさに紛れて感謝を届けられないのだと思う」


 えっどんな気持ちだったかって?
 嬉しいに決まってるじゃないですか(*^_^*)


 だから、わたしはこのブログで「発達障害」と、ストレートに言葉を書くことをためらいません。たとえ批判を浴びても。結果的に当事者の方が幸せになれるんです。

 ―でも、「幸せになる」というのがこの方のお話のようなレベルにまで幸せになるということは想定していませんでしたけれど。「仕事で自信をつけた結果すすんで診断を受けた」というところは、何日か前のブログ記事での「承認の作る幸福感がイヤなことと向き合う勇気につながる」という話に通じるかも―


 この読者の方がまたいわく、

「『行動承認』は、すごくシンプルだけれどすごく難しく、そして『できるようになる』と、今度は『当たり前』になってしまい、有難みが薄れ、感謝がなくなってしまう。
 でも『当たり前』だと思って感謝がなくなったとたんに『落ちて』いく、そういうものですね。

 だから、繰り返し確認しないといけない、自分が『行動承認』という形でできているかどうか。

 月に1回ぐらい、ちゃんとできているかどうか確認するためだけの集まりがあればいいと思う。仏教の法会などのように」


 そうなのかもしれません。
 
 この方の言われたように、一度承認の恩恵を受け、そのあと感謝が薄れ、とんでもない「罰当たり」な行動に出る人、というパターンに、去年ぐらいからあまりにも沢山遭いすぎてしまいました。それでわたしは心を痛めることが続き、一時期自分の健康を害しました。

 いちど「罰当たり」になってしまった人とは、にどと関係を修復できません。また、その人の人生ももう良くなる見込みはありません。「承認」というたいせつなものを否定してしまったら、それの類似の何もかも全部価値を見いだせなくなるはずです。よいものから目を背け続け、だめになっていきます。「悪相」で長い老後を生きることになります。


 この「思想」―最近わたしは「思想」ということをためらわなくなっている―をより大きく広めるということについて、新しい展開というのは何かあり得るのでしょうか。

 それは、今の段階ではわたし以外の人の行動が問われると思います。

 わたしは、もう頑張れません。



(一財)承認マネジメント協会
 正田佐与

お世話になっている皆様


 おはようございます。
 一般財団法人承認マネジメント協会の正田です。
 本日も神戸のわが家周辺は曇り。
 気象庁の「期間合計日照時間」のページをみておりましたら、
 http://www.data.jma.go.jp/obd/stats/data/mdrr/tenkou/alltable/sun00.html 

 神戸の過去5日間の日照時間合計は22.0時間で平年比69%。過去10日間では、同33.0%で50%、となっていました。
 「日照不足」少々心配になりますね…。

※このメールは、正田が過去にお名刺を交換させていただいた方・当協会のイベントやセミナーにご来場いただいた方にお送りしています。ご不要の方は、メール末尾にありますURLより解除ください。
(解除方法が変わりました!詳細はメール末尾をご覧ください)


 本日の話題は:

■わたしたちは、どこまで「見えて」いるでしょうか
 ―判断を歪めるものとの闘いシリーズ・『見て見ぬふりをする社会』を更新しました―

■現代をどんな心で生きるか 共感した記事をご紹介します
 ―「三つの寂しさと向き合う」―

■「月刊人事マネジメント」誌 連載を更新しました
 ―「承認」の学習ステップ―

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■わたしたちは、どこまで「見えて」いるでしょうか
 ―判断を歪めるものとの闘いシリーズ・『見て見ぬふりをする社会』を更新しました―

 人の「認識のミス」を起こさせる、ヒューリスティック・バイアス・ステレオタイプ。
 こうした「思考の陥穽」について、ここ数年認知科学の世界で研究が進んでおり、そうした文献をわたくしのブログでもフォローしてきました。

 シリーズの最新版として、『見て見ぬふりをする社会』』(マーガレット・ヘファーナン、河出書房新社、2011年12月。原題’Willful Blindness’)という本を取り上げました。
 ここでは、巨大組織の中で、忙しさや疲れのために、あるいは拝金主義のために、「本来見えるものを見ようとしない」人々の行動を取り上げています。登場する主な事例にはBP社の製油所爆発事故、エンロン、サブプライムローン、グリーンスパン元FRB議長、イラクのアプグレイブ刑務所での米軍による虐待事件などがあります。
 ご興味のあるかたはこちらの記事をご覧ください:
◆できれば「見える」状態でいたいものです―『見て見ぬふりをする社会』をよむ
 http://c-c-a.blog.jp/archives/51920996.html 
 
 ちなみにわたくし正田は女性であるため、「バイアス」「ステレオタイプ」の被害を受けやすい立場にあります。
「そんなの、女の人なんだからしょうがないじゃないか、そう見られるのは」
とお叱りを受けるかもしれません。
 ただ先月末に「女性活躍推進法」も参院で成立しましたし、だんだん、どなたもこの問題に無関心ではいられなくなるのではないかと思います。
 ちなみに読者のあなたが、「自分にも何かのバイアスがあるんじゃないか?」と思いこっそり試してみたくなったら―、
 「潜在的連合テスト(Implicit Association Test, IAT)」というものがあります。指示した二通りの分類方法における反応速度の違いを調べることで、その人がある社会的カテゴリーとさまざまな特性をどの程度強く関連付けているかを探ることができます。つまり男性と女性、白人と黒人、などのカテゴリについて、どんなバイアスを持っているかがわかります。
 怖いものみたさのあなたに、こちらが日本語版のIAT無料診断サイトです
 https://implicit.harvard.edu/implicit/japan/ 

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■現代をどんな心で生きるか 共感した記事をご紹介します
 ―「三つの寂しさと向き合う」―

 前回は広井良典氏の『ポスト資本主義』の読書日記に添えて、2009年年頭におけるわたくしの駄文をご紹介してしまいました。

 さて、今年2015年。「今」を語るもう少し雄弁なエッセー(?)をご紹介します。
 この感覚、読者のみなさまは共有していただけますでしょうか。

◆三つの寂しさと向き合う(演出家・平田オリザ氏、2015年8月16日)
 http://politas.jp/features/8/article/446 

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■「月刊人事マネジメント」誌 連載を更新しました
 ―「承認」の学習ステップ―

 「月刊人事マネジメント」誌(ビジネスパブリッシング社)に今年7回シリーズの連載をさせていただいている、「上司必携・行動承認マネジメント読本」の第2回を、同誌編集部のお許しをいただいてブログ上に掲載させていただいております。

◆第2章 「承認」の学習ステップー月刊人事マネジメント8月号
 http://c-c-a.blog.jp/archives/51921667.html 

 ちょうど、この記事をブログアップしようと思うさなか、NHK「クローズアップ現代」では「承認の問題です」「承認の劣化」という言葉が流れ…。みると、高槻の中学生殺人事件に絡め、スマホをもって深夜漂流する若者たちについて言ったものでした。
 ただ頭で必要性がいくらわかっても、「できる」ようにはならないのがわたしたち人間というものです。当協会では、「できる」には何が必要か、真摯に考えてきました。そしてご理解のあるお客様に恵まれ、2003年以来幸せな業績向上例を作り続けて今にいたっております。

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★そのほか幾つか「承認」および「マネジャー教育」「教育研修全般」についての雑感をブログに書きました。もしご興味があればご覧ください:

◆「大人に教える16か条」、哲学的思考、猛獣つかい
 http://c-c-a.blog.jp/archives/51921647.html
◆試論・学者さんはなぜ間違うのか
http://c-c-a.blog.jp/archives/51921811.html
◆盗用剽窃時代と出典明記主義、研修カクテル再掲
 http://c-c-a.blog.jp/archives/51921871.html
 
※このメールは、正田が過去にお名刺を交換させていただいた方・当協会のイベントやセミナーにご来場いただいた方にお送りしています。

解除される場合は、下記の解除フォームから受信していただいたメールアドレス入力して下さい。
メールアドレスを入力していただいた後、解除専用の確認メールをお送りさせていただきますので解除専用のURLをクリックして下さい。
いたずら防止のため解除の確認メールをお送りさせていただいておりますのでご理解のほどよろしくお願い申し上げます。
http://mag1.hyper-mail.jp/md/publish/quit.asp?mid=848


※このメールの過去アーカイブはこちらです
http://c-c-a.blog.jp/archives/cat_50052130.html 


※このメールは転送歓迎です。
もしこのメールを新たに購読ご希望のかたがいらっしゃいましたら、
info@abma.or.jp まで、「メールニュース希望と書いて
お申込みください。


*…*…*…*…*…*…*…*…*…*…*…*…*…*
100年後に誇れる教育事業をしよう。
一般財団法人承認マネジメント協会
(旧NPO法人企業内コーチ育成協会
http://abma.or.jp
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
理事長 正田 佐与
----------------------------------------
Email:s-shoda@abma.or.jp
TEL: 078-857-7055 FAX: 078-857-6875
Post:〒658-0032 神戸市東灘区向洋町中1-4-124-205

ツイッターアカウント: @sayoshoda

フェイスブックページ: http://www.facebook.com/sayo.shoda

ブログ「コーチ・正田の 愛するこの世界」
http://c-c-a.blog.jp/

近著『行動承認―組織の能力を最大化する「認める力」』
http://www.amazon.co.jp/gp/product/4434198572 


*…*…*…*…*…*…*…*…*…*…*…*…*…*

 某デザイナーと東京五輪のエンブレムその他のデザイン盗用問題がこのところ話題でありまして、

 すごくこの問題に興味があるわけではありませんが自分の分野に照らして考えれば、「出典明記主義」を改めて確認するのは大事なことかと思います。

 このブログで何度もお話したとおり、当協会というか正田は「出典明記」にこだわるほうです。こういう人は業界でも珍しいと思います。他社様の研修で資料をもらうと、「おやおや、出典が書いてないのだなあ」と思うことはよくあります。心理学の知見でもなんでも、だれがどういう実験デザインでやった、とわからない書き方をしています。
 
(実は心理学の実験にはかなりいい加減なものもある、追試してみたところ3分の2は再現できなかったという記事がありまして

 http://www.afpbb.com/articles/-/3058654?act=all 

これも1つ前の記事でいう「業績至上主義」のもたらす弊害といえそうですね。信頼できる重要なものを選別できる目を持ちましょう)


 出典明記のお話に戻ると、これも何度も書きますように、人様に教えている自分は所詮先人の知識や思考の蓄積の「器」であります。オリジナルの部分などそんなに多いわけではありません。それを自覚したうえで、自分オリジナルの考えについてはそうと断ったうえで述べます。

 それは決してアカデミズムの世界に入りたいからとかの下心ではなく、自分的にほかのかたの仕事をリスペクトする形で文を書きたいからそうなりました。自分がそういうスタイルで文を書くので、書物を読んでいてもそういうスタイルで書かれている方の文章が好きであります。フェアプレイで誠実な仕事だと感じます。

 ちなみに「行動承認」を重視するのは一応オリジナルの考えであります。「例の表」を使用しだしたのは記憶に残っている範囲では2006年ごろから。当時から既に「行動承認」は「存在承認」に次ぐ位置にありました。それ以前から、学校や大学と違って会社組織という共通の目的のもとに集まった人々について最適化した承認とは何か、ということを延々と考えてきました。ただひょっとしたらわたしの知らないだけで先行の類似のものがどこかにあったかもしれません。

 ひとつ懺悔をしないといけないのは、目下「月刊人事マネジメント」誌に連載中の「行動承認マネジメント読本」では、あまり出典明記とか引用の形で書けていません。これは編集部様からの「あまり理屈っぽくなく、話しかける文体で書いてください」というリクエストに従った形で、そうなりました。(人のせいにしていますネ)本当は忸怩たるおもいです。これに限らず、引用とか出典明記にこだわると、文章の読みやすさをそこなう、という問題はたしかにあります。


 なおこういう盗用剽窃花盛りで、「やったもん勝ち」みたいな時代ですと、当協会コンテンツが盗用される側になる危険性は大いにあります。とりわけ「内製化論」に煽られた人事担当者の皆様は…、やめとこう。そしてわたしが「女性」であることは盗用リスクを増します。ワトソンとクリックはDNA螺旋構造に関する研究を…これもやめとこう。


****


 「研修カクテル」という現象について、過去に何度か触れました。

 「研修カクテル」がもたらす副作用―傲慢、ナルシシズム、全能感、打たれ弱さ

 http://c-c-a.blog.jp/archives/51819638.html

 当協会方式の研修に触れてせっかく素晴らしくよい状態になった個人や企業様が、矢継ぎ早に類似の研修に触れることによって、急速にダメになってしまわれることがあります。

 事実なので、こうした指摘をするわたしのことを傲慢だと思わないでください。


 どういう現象なのだろうか、わたしの考えた今のところの答えは、

 昔の人だったら素直に一生の指針にするような思想にせっかく触れても、今の時代はどんどん他の類似品にアクセスできる。色々と見比べて天秤にかけて、そこで「消費者気分」が出てくる。
 さらに、自分が色んな思想群を俯瞰できる立場だ、という傲慢な感覚が出てくる。実はまだ何も自分は習得していないのであっても。
 最初の研修で味わった、自分の枠が大きく拡がったという感覚、自分の側の「修練」が問われるという感覚、それを「維持」するにも自分の努力が要る、という感覚、それがどこかへ行ってしまう。クルマの免許が取れてもいないのに大型バイクの免許もあるよねー、二種の免許もあるよねー、と屁理屈こねているようなものです。


 そうして伸びきったゴムのような感性の、とんでもなく傲慢なナルシシストができあがる。企業の人事とか研修担当者にそんな人は多いです。先日わたしが会った、「承認」について社内講師をやったという研修担当者も、「承認」にどういうカテゴリがあるか、かなり上のほうの代表的なカテゴリについても忘れていました。


 わたしが「例の表」にこだわるのはなぜかというと、あれは「承認」という難しいものをいつも脳のワーキングメモリに置いていただくためのいわば「圧縮フォルダ」なんです。

 最近の研究で、人のワーキングメモリは思われているほどキャパが大きくない、一度に4つぐらいのものしか処理できない、という知見が出てきまして

 http://karapaia.livedoor.biz/archives/52199837.html

 
 ―お友達(それもあまり近い縁ではない)の投稿でこういう知見に出会えるからフェイスブックも捨てがたいのですが―

 拙著『行動承認』に書いた、

「『承認』『傾聴』『質問』その他で構成される『コーチング』ですら、マネジャーがワーキングメモリの上に置いておくには『メモリ過多』です。
 しかし、『承認』だけでいいですよ、と言われれば置いておけるのです」

 これも決してどこかからの盗用剽窃ではなくてわたしのオリジナルの考えであり言葉なんですが、

 こうした「ワーキングメモリの限界」の知見をみるにつけ、やはりそれで正しいのだ、と思います。


 「『承認』だけでいいんですよ」

 こういうフレーズは、一見「甘やかし」のようにも見えてバッシングを浴びてきましたが、著書をきちんと読んだり研修をきちんと受けた方なら、その世界にはきっちり「叱責」もあり、バランスを欠いたものではないことがお分かりになると思います。

 そして実際に強烈な成果に結びついています。

 不遜な言い方ですが、わたしは職場という「乱戦状態」のただなかにあるマネジャーの脳内活動にきちんと想像力をめぐらしたからこそこういう教育プログラムを作ることができた、と思います。


 ・・・そして、極限までシンプルにしたいわけですが、しかし「承認」が「ほめる」に矮小化されたり、「感謝」だけに偏ったり、という、困ったところまでメモリサイズがダウンしてしまうのは避けたい、のです。

 だから「あの表」があります。これだけのメモリサイズのものですよ、これをワーキングメモリに置いておいてくださいね、と繰り返し念押しするために。


 だから、過去記事の繰り返しになりますが、当協会方式と他社方式をまぜないでください。まぜるな危険。まぜたら、今あなたの手にしている成果は失われます。すみません一見エクストリームなことを言っていて。でも過去のさまざまな事実に照らして本当です。


(一財)承認マネジメント協会
 正田佐与

 注:ここで扱う「学者さん」とは最近このブログに登場された方のことではありません。


 つれづれなるままに。

 「学者さんはなぜ正しくものを考えられないのか」
 
 これは特に、わたしに関わりのあるとみられる経営学とか経営教育学の分野について感じることですが、
 彼らの一人のブログをみていると、

「業績数値化」

というプレッシャーがあるらしい。

 論文を何本書いたとか、大学院生を何人獲得したとか。

 (実は、これを書いているのがわたしの天敵、「研修内製化」を提唱している当の大学の先生ご本人だったりする。消されるかもしれないから書いておくと7月30日付の記事である。だから「ベンダー排除―内製化論」のよって来る動機は自明なのだ。社内講師志望の人を大学院生として囲い込むことなのだ。たぶん本人さんも自分の動機はそこなのだと自覚はしていないだろうが、なんという利己主義の独り勝ち理論(笑)さすが団塊ジュニア。)


 そして最近のブログを見ていると、この人は「ものさしは幾らでも多数ある」という趣旨のことを書いていらっしゃるようなのだが、これは要は「iPS細胞に対抗するSTAP細胞的なものを論文数作成のためにいくらでも作り出せる」と言っているのにひとしいのではないのでしょうか。まあどうぞやってください、国の研究費使って。

 わたしは、自然科学分野の研究でもある一つの理論に収斂することは珍しくないことなので、価値のある理論は大きく価値づけすればいい、と思うほうです。もちろんそれしかないと思う思考停止はいけませんが。過去のこのブログで取り上げた経営学の本『世界の経営学者は何を考えているのか』でも、「理論のインフレ」という現象に言及しています。しかしそれは必要悪で仕方ない、と思わず、良識のある知性は「重要なもの」と「その他色々」をきちんと切り分けることが必要です。前にも書きましたよね、栄養学のスタンダードと、納豆ダイエットバナナダイエットのたぐいの関係って。この人、最高学府のくせに要は納豆ダイエットバナナダイエットのたぐいに際限なく惹きつけられる知性なんですよ。もっと三流大でやるならわかるんですが。
(そういう人に限って大学名を冠した自分のメルマガを発行したりするんです笑)

 学者さんがオリジナリティを追求するということを宿命づけられている限り、例えば学者さんが100人いてうち1人が正しいことを言ったら、残り99人は間違うことを運命づけられる。だから学者さんの集団に石を投げたら、99%の確率で間違っている人に当たる。「学者さんを見たら間違っている人だと思え」と思うのが正しいのかもしれない。正しい人を探すのは本当に難しい。彼らは自分の生存のために際限なく珍説を開陳し、「まだ確立されたものは何もない」と言い張る。自分の分野で確立されたものができてしまったが最後自分は確実におまんま食い上げになる。


 もちろんこの分野に研究者はうじゃうじゃいらっしゃるわけだが、わたしはこれまで何人かアクセスしてみた結果、この人たちとお付き合いすることに倦んでしまっている。ナルシシストで嫉妬ぶかくて、当協会の出してきた研修実績を認めようという気などさらさらない、簡単に言えば口惜しいから。中には女性のわたしにとんでもない汚い嘲り言葉を言った人もいた。そんな人たちをおだてたいとは思わない。彼らはやるべきことをやらない怠慢な人たちなのだ。


 ここで余談:他分野の例を挙げると、発達障害や自閉症のお子さんの療育指導の方法でTEACCHという有名な手法があるが、その中でも有名な「構造化」という手法は、まだ本家アメリカで検証されていないという。しかし「構造化」はとっくに津津浦浦で使われているし、体感的に有効なのは自明な手法である。たぶんあまりにも有効なので、学者たちが「無力感」で検証するのをサボってしまったのだと思う。それは反知性主義というような問題ではない、学問が無力だっただけの話だ。


 わたしが「この人ダメだな」と思った人は大体本当にダメになる、明らかにおかしなタイトルの本を書いたり良識ある人の吟味にたえないような底の浅い議論をするようになる。過去に「ほめる教」の教祖の1人と仲良くなった知り合いの学者さんが、急に発言の中に「ほめる」という言葉が増え、加えてわたしに対するメールに小バカにしたトーンがまじり、そしておかしなタイトルの本(うち何冊かは読んでみたがやっぱり中身も本当に変だった)を書くようになった。「ほめる」と「おかしくなる」がどう関連しているのかわからない。ただわたしは研修副作用のシリーズの一環で「幼児化か、老化か」という記事を書いたが、ある種の研修に暴露して幼児化したような状態になった人の脳の状態は、幼児化とも言えるが老化とも言える。何か、理性のタガが外れてしまったような状態になる。

 よくわからないが「承認」だと脳の可動域が広がるのだが、「ほめる」だと逆に狭まる気がする。

顔も「悪相」になる。テストステロンードーパミンが行動原理になった人の顔はそういうものだ。なぜ「ほめる」という本来いいことをやっているのにテストステロンードーパミン連合になるんだろう。すべてをバカにしちゃった感じ。


 お客様に「研修後、時間がたつと『承認』の理解が『ほめる』とか『感謝する』とかの部分的な理解に変質してしまって後退してしまうことがあるので気をつけてください」とメールする。

 このお客様は良くわかっていらして、「例の表」をラミネートして受講生さんに配ってくださっていた。


 いまだ、出口のみえないトンネル。

 敵だらけ。昨日の友は今日の敵。
 

 去年、「仲間」とよんだ人を全部切ってしまった。「仲間」になど期待できない、自分の思考の跡しか信じられない。
 たとえ「手伝いたい」というオファーがあったとしても、
 どんな醜い世の中をわたしが闘いながら生きていて、手伝うということがどんな泥沼の戦場に自分自身も身を置くことになるとわかって言っているだろうか。自分自身も手ひどく汚されるかもしれない、と知っているだろうか。また対立相手を斬るという汚れ仕事をしなければならないということをわかっているだろうか。


 ああまたネガティブなことを書いてしまった。


(一財)承認マネジメント協会
 正田佐与
 

 ふとTVから「承認」という単語が流れました。
 高槻の中学生殺人事件についての「クローズアップ現代」でスマホを持って漂流する中学生はじめ若い子たちの特集をやっており、筑波大学教授の土井隆義氏が「承認の質的劣化」という言葉を言いました。
 今の親子関係はフラットで、子供は過去ほど親に全面的に依存できない。勢い外の承認を求める。承認の質が劣化しているので、量で与えないといけない。
 ・・・と言うような趣旨でした。
 さて、この議論に同意してよいものかどうか。もともと、人は昔も今も根源的に「承認」を求める生物です。どうもそこが共有されていないまま、こんなふうに犯罪や問題行動の契機として「承認」を語る言説が溢れています。ふだんから「承認」という言葉に耳慣れていない、そのことについて考えたことのない一般視聴者にどれぐらい伝わったでしょうか。
 (またこのブログでの古くて新しい問題、「犯罪学」などの負の側から「承認」を語ると「承認」がおどろおどろしいものにみえてしまい、与え手の側の「やりたい」という動機に結びつきにくい、という問題もあります。)

 ともあれ「月刊人事マネジメント」誌に連載させていただいている、「上司必携・承認マネジメント読本」の2回目のゲラをご厚意により「公開OK」でいただきましたので、転載させていただきます。

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以下、本文の転載です:
 
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上司必携・『行動承認マネジメント読本』
〜人手不足チームのやる気と力の引き出し方〜


一般財団法人 承認マネジメント協会 理事長
正田佐与


第2章 「承認」の学習ステップ


 第2章では、「承認」スキルの習得について、「承認研修」の実際を通じて順に解説します。大きく4つのステップから成ります。

習得のために踏まえておくべきことは?

Step 1. 行動理論による「強化」の仕組みを知る

 心理学の行動理論では、「人は、行動した後に褒められると(ご褒美をもらうと/嬉しい気持ちになると)、その行動を繰り返しとる(強化される)性質がある」という法則(オペラント条件づけ)があります。まずは、この大原則を押さえていただきます。

Step 2.「承認」が人の働く動機づけの最大のものである(承認論)ことを理解する

 「承認」がすべての働く人にとっての根源的な欲求であることを、受講者自身の経験に照らし理解していただきます。金銭的報酬を得ることも、もちろん生活のためでもありますが、ひとかどの働く人として認められていることのシンボルでもあります。また精神的にも、労苦を伴った仕事が全く評価されなかったら、報われなかったら、誰しも深い悲しみを経験することでしょう。
 一方で「承認」の重要性を知ることは『両刃の剣』です。自分が認められたいという思いを募らせることは不幸なことでもあるからです。自分が「認める」側になり他人の「認められたい」を満たすことが、「承認欲求」を学ぶことの正しいゴールなのだ、ということも理解していただきます。


「承認」にはどんな種類がありますか?

Step 3. 承認の種類

 ここでいよいよ実際に使いこなすための知識の解説です。コミュニケーションの中での人を認める言葉、「承認」の代表的なものには、以下のような種類があります。重要な順になっています。

‖減濔鞠:あいさつや、名前を呼ぶこと、「最近どう?」など、相手が存在していることを知っていますよという意味合いのこもった日常的な声かけが「存在承認」です。すべての「承認」の中で最も基本的・根源的なものです。
行動承認(事実承認):存在承認と並んで最も重要なもの。「あなたは〇×しましたね」「してくれましたね」と、相手の行動したことを事実通り、記述的に言うものです。これは前述の「行動理論」を仕事の現場に応用したときに、「褒める」よりも「行動を事実通り認める」ことのほうが大の大人の場合、嬉しさすなわち「強化」につながりやすいことからきています。この後に述べる多くの「承認」は「行動承認」のバリエーションと考えられ、マネジャーが「行動承認」に重点的に取り組むと、前章で述べたような人々の目覚ましい成長が起こり、業績向上に直結します。
成長承認:「〇×ができるようになったね」「成長しているなあ」といった、相手の成長を認める言葉を言う「承認」です。とりわけ今の若い人は自分の成長を上司に認められたい気持ちが強いため、「成長承認」は有効です。
し覯名鞠:結果が出たときに言う「承認」。「やりましたね!すごい成果ですね」「よくやった!」など。当たり前のようですが大事なこと。
ゴ待・信頼:期待されると、それに応えようとしてパフォーマンスが上がる心の働きが私たちには備わっています(ピグマリオン効果)。ただし、根拠のない期待はかえって重荷になるもの。根拠を添えるには、△旅堝鮎鞠Г大事です。
ηい擦:人によっては言葉による「承認」よりこちらが嬉しい場合もあります。また「行動承認」をするうち、上司も「任せることが自然とできるようになるようです。
Т脅奸△佑らい:「行動承認」をしていると、自然とそれに伴って「感謝」の念が湧いたり、「大変だったろうなあ」と「ねぎらい」の気持ちが湧いたりします。これらは「行動承認」のバリエーションだ、と捉えます。こまめに相手の「行動」を認めていると「感謝、ねぎらい」も自然と出てきます。
╋Υ:相手の感情を共に感じること、あるいは理解すること。
感情を伝える(Iメッセージ):褒めることとは違い、「私は〇×と感じます」と、「私」を主語にして自分の感情を伝えます。嫌みにとられることが少なく、年上・元上司の部下との会話に悩む管理職にも使い勝手がよいようです。
Weメッセージ:「私たち」を主語にした言い方です。これも相手にとっては嬉しい表現です。
励まし、力づけ:「その調子です。続けてください」「あなたの判断は間違っていない」など、相手にエネルギーを与える言い方です。
褒める(Youメッセージ):「すごい!」「さすが!」など、よくある褒め言葉はここに分類しています。
第三者メッセージ:「お客様の担当者の〇×さんがあなたのことを『…』と褒めていたよ」など、お客様や他部署の人など第三者を主語にした言い方です。上司自身が「頑張っているな」などと言うと操作的に聞こえる場合がありますが、第三者が主語であると真実味があり、素直に喜べるものです。
その他:「話を聴く」「相手の考えを質問してみる」「相談する」「教えを乞う」「提案や意見を採用する」「決定の理由・根拠・背景・目的を説明する」「メールにすぐ返事をする」「叱る」など。
 研修では、上記の 銑を用例を添えて一覧にした表をお渡しします。このA4・1枚もののシートは忙しいマネジャーの役に立つようで、「机のガラスマットの下に入れて毎日見ている」「手帳のビニルシートの中に入れている」など、様々なやり方で研修後に手元に置いていてくれます。
 「べからず集」でなく「望ましいこと」の一覧なので、見ると自分自身前向きな気持ちになり、部下を「承認」しよう、という気持ちになれるのです。

実際に試してみたいのですが?

Step 4. 「行動承認」+「Iメッセージ」の実習

 Step 1.〜3.を踏まえ、最後に「行動承認+Iメッセージ」の実習をしていただきます。この実習の手順は以下の通りです。
/場の部下や後輩1人を選び、その人の最近行った良い行動を3つ、書き出してもらいます。
△修譴鉾爾辰董屬△蠅たい」「助かっている」「よくやっているなあ」といった、良い感情が自分の中にあれば、それも書いてもらいます。
 続いて、,鉢△鯊海韻新舛如■何唯荏箸料蠎蠅謀舛┐討發蕕い泙后
 相手は、部下の年齢、性別、人となり等を理解したうえで、部下になりきった状態でその言葉を受け取ります。
 この実習のポイントは「部下になりきる」こと。すでに功成り名遂げた管理職同士が互いを「承認」し合う形で実習を組むと、心があまり動かないことがあります。未熟な成長途上の部下にとって「承認」されることがどれほど嬉しいかを、管理職が自身の若い時代を思い出しながらしっかり体感していただくことがカギになります。実際にやってみると、女性管理職などでは感極まって涙ぐむことさえあります。
 ここまでくれば、あとは職場で「承認」を実践していただくのみ。部下の喜びの表情だけでなく、事後のプラスの行動変化まで観察していただけるといいですね。(了)


「上司必携・行動承認マネジメント読本」シリーズ全体の構成は:

第一章 行動承認は”儲かる技術”である(2015年7月号)
 http://c-c-a.blog.jp/archives/51919833.html
 第二章  「承認」の学習ステップ(8月号掲載)
 http://c-c-a.blog.jp/archives/51921667.html
第三章 女性活用と登用は「上司の眼差し」次第(9月号掲載)
 http://c-c-a.blog.jp/archives/51923763.html
第四章 LINE世代に対するマネジメントとは(10月号掲載)
 http://c-c-a.blog.jp/archives/51925545.html
第五章 「踏み込みすぎない」メンタルヘルス対策(11月号掲載)
 http://c-c-a.blog.jp/archives/51927183.html
第六章 部下の凸凹を戦力化に転じる(12月号掲載・本記事)
 http://c-c-a.blog.jp/archives/51932814.html
第七章 伝えたいことが「伝わる」伝え方(2016年1月号掲載)
 http://c-c-a.blog.jp/archives/51934650.html



(一財)承認マネジメント協会
 正田佐与

 以前の拙著『認めるミドルが会社を変える』(2010年)では、「大人に教える16か条」として、マネジャー教育のためにこれまで研修機関、講師として心がけてきたこと、取り組んできたことをまとめてみました。
 今見ると章のタイトルにもとっていないし、目立たない書き方しちゃったなあと思います。

 このところの「研修内製化の波」それも『行動承認』出版後に「オレも承認の講師になれるかも?」と思われたかたのご参考用に、再掲しておきたいと思いました。

 その16か条とは・・・

^貭螳幣紊慮修時間数、継続性、期間を確保する
△罎辰りした丁寧な講義。質疑を奨励する間合い
9峙粗睛討砲弔い突論的根拠を示す。できるだけ本物の講師にも触れさせる
ぜ講生への承認
ゥ侫ローアップ。宿題を出し、コメントをして返す。相互に共有するほか
Ε瓮襯泪、パネルディスカッションなどで情報共有。先輩の姿を示す
Д泪優献磧柴瓜里離灰潺絅縫謄を作り、交流を促す
┯開講座もできるだけマネジャー同士で受講できるようにする
「宿題を太田教授にみてもらおう」「承認大賞に応募しよう」などのキャンペーン
私自身の姿勢がぶれない、一貫したメッセージを発する
つねにマネジャーの人格を尊重する。手段として見ない。仕事の忙しさ、大変さに共感を示す
断言口調でものを言わない。絶対不変の真理であるように言わない
「上から口調」でものを言わない
私自身が常に学んでいること、それを発信すること
マネジメントはつねにネガティブなことと対面することを迫られる。それに鑑み、セミナーをあまり楽しくエンタテインメント風に演出しない。ブログでも時折ネガティブなことも書く
阿△襭嫁越しの研修では、1年目に成果を挙げた受講生6名を「内部講師」に仕立て、2年目の研修(6回連続)に順番に来て体験談を話してもらった


 以上であります。

 まあざっとみてリーダーシップの行為に似ている、という感想もありえるでしょう。

 これはあくまでわたしが「承認」という、一般的にはむずかしいものをマネジャーさん方に教えて習得していただく場合のものです。業界ではむしろ特殊なほうの心得だと思います。講師の先生によって、力点の置き方は違うでしょう。びっしりデータを書き込んだ、特殊なグラフを使ったスライドとか、すごい早口でしゃべりまくるとか、そういうところにアイデンティティを置かれる先生もいらっしゃるかもしれません。

 今はわたし自身もこの16か条を全部はやれていないところもあるなあと思います。40代前半に比べるとかなり疲れてしまいましたね。イベント業とかできないですもんね。

 逆に最近ある方に評価していただいたような、「シンプルでわかりやすい」一方で「哲学的な思考が土台にある」ことを感じていただく、というのも、16 か条には含まれなかった、でも大事な要素なのだと思います。めったに指摘していただけないがわたし的には大事にしてきたところだけにありがたいお言葉でした。また学びやすさに配慮するためできるだけ易しい言葉を使って語るのでともすればその背後の哲学的思考というのは、なんとなく感じはするのだけれど知覚されず、言葉の易しさだけが「利用可能性」として印象づけられて内製化を招いてしまうところがあるので、ありがたいお言葉でした。その評言をくださった方は学生さんの論文にも細やかなコメントをされる方のようです。

 またの後半、「できるだけ本物の講師に触れさせる」のところは、最近はやれていませんが、任意団体〜NPO時代の前半には、東京や神奈川からわたしが「これは」と思う講師の方をお招きして、「本物の先生」に登壇していただく、ということをしていました。「強み」の森川里美さん、「部下力」「ビジョンマッピング」の吉田典生さん、システム思考の小田理一郎さん、それに「行動理論アメフトコーチング」の武田建氏にも。そう、システム思考さんとは仲良かったナー。

 やっぱり「本物」は違うんです、教えてきた迫力とか奥行きが。質疑をしても対応が全然違うんです。
 (だから、訓練不足の人が講師をやったら受講生さんが可哀想なんですよ。)

 システム思考に関しては、わたしは確か東京で基礎〜応用と2つか3つのコースを受講しましたが、それで自分が人に教えられるようになるとは全然思わなくて、チェンジエージェント社の社長の小田氏に1回来ていただいたのと、その後もう1回、同社の女性の方で長年スタッフをされていた方に来ていただきました。やっぱり、何かのコンテンツを教えられるようになるのは、「徒弟制」のような学びが必要だと思います。コンテンツを学ぶ側に少々なったぐらいでは、また少々の「講師育成セミナー」を受けたぐらいでは教える資格にならないと思います。教えるからにはそのコンテンツに没入しないと。またそのコンテンツを一から作ったり認知されるために道を切り拓いてきた先生に畏敬の念をもたないと。




 「哲学的思考」とはまたすこし別の話題ですが、

 マネジャーとかリーダー向けの教育は、「猛獣つかい」の仕事でもあります。厳しい質問が出るときも出ないときもありますが、どんな質問にでも備えはできているといえるだけの引き出しが必要です。また、質問に答えられる答えられないの問題ではなくて、彼ら彼女らの中にある「攻撃性」をはるかに上回り包み込むぐらいの大きさの「愛」が必要です。 大学生とか若手・中堅だけ教えてきた人には分かりにくい感覚かもしれません。

 ―「猛獣つかい」とは、たとえば今夏公開中の映画「ジュラシック・ワールド」で主人公の訓練士がヴェロキラプトルの顔に手を出して頬をなでるシーンを思い出していただけますでしょうか―

 わたし的には、そういうことが「ノウハウ」です。

 前にも書きましたがそういうことが横でみていてわかる方とそうでない方とがいる、と思います。わかる方は少数派ですね。

 そして正田の風貌をみて、「この人は若手か中堅向きの講師だろう」と思われる方も多いんですが、どっこい理論上も組織のトップに近い方々、社長さんや役員さん、部長さんぐらいから課長さんあたりまでの人に学んでいただくのが組織への浸透はいいです。中堅さんあたりにだけ教えても立ち消えになります、1つの組織の中で。また正田自身もそのクラスの上層部の「獰猛な」方々と相性がいいです。子供子供した見かけ上そう見えないかもしれませんが。

 「見かけ問題」最近もフェイスブックにぶちぶち書きましたが困ったものです―。
 ちょっと「16か条」から話がそれてしまいました。


そういえば去年、わたしの講師ぶりをみて「話す口調に一切ナルシシズムが入っていない」と言われた方もいました。
色々総合して「16か条」作り直さないといけないかもしれないです。











(一財)承認マネジメント協会
 正田佐与
 

お世話になっている皆様


 おはようございます。
 一般財団法人承認マネジメント協会の正田です。
 「今年は秋が来るのが早いですね?」
 いつになく涼しい9月の始まりを迎えて思います。

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 本日の話題は:

■資本主義の現在にアカデミズムからの責任ある考察
 『ポスト資本主義』読書日記をアップしました

■続・ヨロコビの感情で仕事をすることはできるでしょうか
 ―幸福感が内省をつくる・研修1か月のイノベーション・協力行動・時間・若手…

■6年半前の漠然とした予想。今は…?

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■資本主義の現在にアカデミズムからの責任ある考察
 『ポスト資本主義』読書日記をアップしました

 「資本主義」を問いなおす出版が近年続いています。
 今年は『21世紀の資本』のトマ・ピケティ氏来日の話題もありましたが、千葉大学教授・広井良典氏の『ポスト資本主義―科学・人間・社会の未来』(2015年6月、岩波新書)を読書日記で取り上げてみました。
 広井氏は公共政策・科学哲学専攻。経済学の外の学問、科学や哲学を動員して語る「資本主義の未来」です。多くの方は実感を伴ってうなずける結論ではないかと思うのですがいかがでしょう―。
 長文ですが、もしお時間があればこちらの記事をご覧ください:

◆アカデミズムからの責任ある論考、「福祉」と「環境」の興味深い相関―『ポスト資本主義』をよむ
http://c-c-a.blog.jp/archives/51921557.html 

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■続・ヨロコビの感情で仕事をすることはできるでしょうか
 ―幸福感が内省をつくる・研修1か月のイノベーション・協力行動・時間・若手…

 前回もご紹介した、ベーカリーのチェーン様での「承認研修」の2回目です。
 ここでは、1カ月間で観察された働き手の方々の多数の喜ばしい変化が語られました。
 そこでは、
 「若手の自発的行動の増加」
 「協力行動の増加」
 「商品開発をしてくれた」
 そして、
 「内省の言葉を言ってくれた」
などの変化がありました。
 また、研修終了時にはちょっとしたサプライズがありました。
 詳しくはこちらの記事をご覧ください:

 ◆幸福感が内省する強さをつくる―株式会社牧様2回目研修
 http://c-c-a.blog.jp/archives/51921235.html 

 
 実は、前の記事の広井教授からは、拙著『行動承認』に嬉しいエールをいただいておりました。
 これもご紹介すると自慢めいてしまいますが、親愛なる受講生様方が引き続き確信をもって取り組んでいただくため、ご紹介する次第です。

 ◆「土台に哲学的な思考」広井良典先生より書評(メール)をいただきました
 http://c-c-a.blog.jp/archives/51921034.html 

 非常に情報量の多い現代ですが、「承認」は恐らく大きな歴史観に照らして正しい方向のもの。漠然とそんな確信をもってきました。
 これまでの受講生様、そしてこれからお出会いする方々も、共有していただけますように―。
 

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■6年半前の漠然とした予想。今は…?

 ふと思い立ってブログの過去記事を見直してみました。
 今から6年9か月前。2009年1月1日に書いた記事があります。
 ここで未来に関する「悲観的なシナリオと楽観的なシナリオ」というのを、これは何もデータの裏づけがあるわけではなくて漠然と書いております。

◆ともに過ごすこの1年を
 http://c-c-a.blog.jp/archives/51433600.html 

 わたしの尊敬する友人のひとりは、「僕の周りは今まさにこの『悲観的なシナリオ』の通りになっています」と言われました。それは残念なことですね…!
 ただ、この悲観的なシナリオも1か所明らかな間違いがあります。さて、どこでしょう…^^

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『ポスト資本主義―科学・人間・社会の未来』(広井良典、2015年6月、岩波新書)を読みました。

(すみません、最近読書日記の長文化が続いています。今度はワード18pになりました。ご容赦ください。)

 現代を「第三の定常化社会への移行期」と規定する著者の最近の集大成と位置づけられる本。

 コンパクトな中に非常に多数の分野、多数の研究群を渉猟しながら大きなパラダイムを浮かび上がらせ、そして日本のすすむべき未来(緑の福祉国家/持続可能な福祉社会)を提言しています。

 この著者の近年の著作『コミュニティを問いなおす』『創造的福祉社会』『人口減少社会という希望』などの集大成であろうとともに、著者自身の科学への関心をも盛り込んだ、とあとがきでは述べられています。

 内容的には新書何冊か分を集約している感じで非常に多数の話題が登場するので読みやすい本とは言い難いのですが、さっと読んだだけでも主張が明快に抵抗なく頭に入ってくる、というのは、恐らく著者の簡にして要を得た「文体の力」と、所々に出てくる「ブレードランナー」「インセプション」などの映画の話題、手塚治虫の「火の鳥」など、サブカルチャーからの引用がありイメージが喚起されやすいことなどからくるのでしょう。けっして衒学趣味的な読後感は持たれないでしょう。

 ―「文体」に関しては、ヘーゲル哲学の晦渋を極めた文体に泣かされた身としては有難さが身に沁みますね。

 たぶん、当ブログの長い読者の方は、本書の時代認識と未来への提言について、直感的に同意される方が多いと思うのですが、それが全体としてどういう論考から成っているのか、というところを少し丁寧にフォローしてきたいと思います。
 
 では恒例の抜き書きです。今回は引用多数となります。(引用下線)

 人類の歴史を大きく俯瞰すると、それを人口や経済規模の「拡大・成長」の時代と「定常化」の時代の交代として把握することができ、次のような三回のサイクルがあったととらえることができる。(pp.1-2)
第一のサイクル:現生人類(ホモ・サピエンス)が約20万年
第二のサイクル:約一万年前に農耕が始まって以降の拡大・成長期とその成熟
第三のサイクル:主として産業革命以降ここ200〜300年前後の拡大・成長期
 これについて本書ではアメリカの生態学者ディーヴェイの世界人口の長期推移についてのモデルを提示しています。グラフから、ほぼそうした曲線を描いているのがわかります。

 こうした人間の歴史における「拡大・成長」と「定常化」のサイクルは、人間の「エネルギー」の利用形態、あるいは「人間による“自然の搾取”の度合い」から来ると本書はいいます。狩猟採集の場を各地に求めてホモ・サピエンスは地球上に広がり、そして狩猟採集のみでは十分な食料確保が困難になったとき、約一万年前に農耕を始めた。そして共同体的秩序や階層や格差が生まれた。
 農耕段階が資源・環境的制約にぶつかって成熟・定常化すると、ここ200〜300年の工業化の時代に入る。(pp.3-6)

人間の歴史の中でのこの第三の拡大・成長と定常化のサイクルの全体が、(近代)資本主義/ポスト資本主義の展開と重なるというのが、本書の基本的な問題意識となる。(p.6)

 そして、「思想」の誕生。「人間の歴史における拡大・成長から定常への移行期において、それまでには存在しなかったような何らかの新たな観念ないし思想、あるいは価値が生まれた(p.7)と本書はいいます。「心のビッグバン(意識のビッグバン)」あるいは「文化のビッグバン」という現象。第一のサイクルの中で加工された装飾品、絵画や彫刻などの芸術作品が約5万年前に一気に現れた。第二のサイクルでは、現在に続く「普遍的な原理」を志向するような思想が地球上の各地で“同時多発的”に生まれた。すなわちインドでの仏教、中国での儒教や老荘思想、ギリシャ哲学、中東での旧約思想(キリスト教やイスラム教の源流)などがそう。最近の環境史という分野では、この時代、これらの地域で農耕と人口増加が進んだ結果として、森林の枯渇や土壌の浸食等が深刻な形で進み、農耕文明が最初の資源・環境制約に直面しつつあったといいます。本書は、仮説と断りつつも、「これら普遍思想(普遍宗教)の群は、そうした資源・環境的制約の中で、いわば「物質的生産の量的拡大から精神的・文化的発展へ」という方向を導くような思想として、あるいは生産の外的拡大に代わる新たな内的価値を提起するものとして生じたと考えられないだろうか」と提起します。定常期とはむしろ豊かな文化的創造の時代だ、とも(p.7-9)。

 そこで、現在が人類史における第三の定常化の時代だとすれば、心のビッグバンにおいて生じた自然信仰や、第二サイクルで生まれた普遍宗教に匹敵するような、根本的に新しい何らかの価値原理や思想が要請される時代の入り口を私たちは迎えようとしているのではないか という問題提起にもつながります。(p.10)

 このあとは今後のシナリオとして2つの両極端が示されます。

 超(スーパー)資本主義VSポスト資本主義。言い換えれば拡大・成長と定常化と。この2つの方向性がせめぎあいながら、21世紀は定常型社会への移行の世紀となるだろう、本書の大きな見解としてはそうです。

 前者・超(スーパー)資本主義は、「21世紀は『第4の拡大・成長』の時代となるはずだ」というビジョンに基づいています。著者は、「そのような技術的な突破の可能性があるとしたら、以下の3つが主要な候補として考えられると思う」と、第一に「人工光合成」、第二に「宇宙開発ないし地球脱出、第三に「ポスト・ヒューマン」とその候補を挙げます。(ただし著者自身はこれらに懐疑的であるとも述べます)

 ―このあとの「ポスト・ヒューマン」論では、「共同主観性」という、以前ヘーゲル承認論の中でわたしが引きつけられた「間主観性」の概念に似たものが出てきたり、「ソーシャル・ブレイン」が出て来たり、子供のころ親しんだ荘子の「胡蝶の夢」が出て来たりして楽しめました。先月ぐらいに「全部わたしの妄想なのではないだろうか」と言ったばかりですね。「共同幻想」というのは「会社の理念」もまさしくそういうところがあるのですが。

 このなかでおもしろい記述としては、AI(人工知能)に関する記述をひとつご紹介しておきましょう。

 …逆手をとって、AIと人間(ないし生命)を“融合”させていけばよいではないか。そして、AIのすぐれた面(上記のような情報処理能力の速さや記憶容量の大きさ)と人間のすぐれた面(生存への志向とそこから派生する世界の「意味」づけ、あるいは他者との共感能力等々)を組み合わせれば、いわば“最強の存在”―それを「人間」と呼ぶかどうかは別として―が生まれるはずではないか。(p.15)

 ―人間のすぐれた面として、「生存への志向とそこから派生する世界の意味づけ」としているところが興味ぶかいですね。「共感能力」については、ひょっとしたら近い未来に機械に代替されるかもしれない、という気がしています。人間の中にもそれが低い人は多いですし。

 ―さあ、前提の「おさえておきたいこと」のところだけで随分長くなってしまいました。やっと本論にまいります―

 資本主義とは、なにか。
 本書は、「純化した把握」として、
  資本主義=「市場経済プラス(限りない)拡大・成長」を志向するシステム」と呼びます。

 「市場経済=悪」ではない。資本主義と市場経済が異なる点は何かというと、それは最終的に「拡大・成長」という要素に行き着くのではないか、と。(「G(貨幣)―W(商品)―G’(貨幣)」)資本主義は「そうした(量的増大を志向する)経済活動を広く社会的に肯定するシステム」だ、とも呼びます。

 こうした資本主義精神を象徴するものとして、第二サイクルから第三サイクル、すなわち定常から拡大へ移行した時期に登場したバーナード・マンデヴィル(1670-1733)という思想家の「質素倹約といった個人のレベルでの“美徳”は社会全体の利益にはつながらない、逆にこれまで道徳的に悪とされてきた、放蕩や貪欲といった行為、一言でいえば限りない私利の追求という行為が、結果的にはその国や社会の繁栄につながり、また雇用や経済的富も生み出す」という主張があります。(pp.28-34)

 では、マンデヴィルのいうような放蕩や貪欲、私利の追求はその後の時代でなぜ可能になったのでしょうか。わたしたちの属する「第三の拡大・成長」期すなわち(近代)資本主義と呼ぶものの中心は、自然資源の圧倒的な規模での開発と搾取という、食糧・エネルギーの利用形態の根本的な転換にあった、と本書では言います。
 ここでは二つの次元が関係し、すなわち

(1)「個人―社会」の関係……個人が共同体の拘束を離れて自由に経済活動を行うことができ、かつそうした個人の活動が社会全体の利益になるという論理【個人の独立】
(2)「人間―自然」の関係……人間は(産業)技術を通じて自然をいくらでも開発することができ、かつそこから大きな利益を引き出すことができるという論理【自然支配】
と言います。(pp.36-37)

 さて、こうした資本主義は、実は「科学」―正確には「(西欧)近代科学」―の基本的な世界観や態度と同じ構造をもっているのではないか、と本書。

 17世紀の「科学革命」以来の「科学」は2つの基本的特質をもっていた。すなわち、
(1)「法則」の追求―背景としての「自然支配」ないし「人間と自然の切断」
(2)帰納的な合理性(ないし要素還元主義)―背景としての「共同体からの個人の独立」


 こうした特質は、「資本主義の2つの次元」として上記に挙げた要素と重なる、といいます。いずれも「共同体から独立した個人」および「自然支配(自然と人間の切断)」という、共通の世界観や思考から派生した営みであると。(pp.38-40)

 このあとは資本主義の歴史の概観になります。お詳しい方は飛ばして読んでいただいたらいいのですが、ジョン・ステュワート・ミル(1806-1873)は19世紀半ばに「定常状態」論を提起しています(『経済学原理』1848年)。当時はなお農業の比重が大きく、ミルの議論も(一国内の)「土地の有限性」を意識したものだったといいます。
 そして20世紀、ケインズの登場。ケインズは、経済成長を最終的に規定するのは(生産ではなく)人々の「需要」であり、しかも人間の需要は政府の様々な政策によって誘発ないし創出することができる、これにより不断の経済成長が可能であると主張しました。人々の需要や雇用という、市場経済ないし資本主義の“根幹部分”を政府が管理しまた創出することができるという、これは資本主義の根本的な“修正”と言えるものです。国家あるいは政府の政策目標として「経済成長」が語られるようになったのは比較的最近のことであり、第二次大戦後のケインズ政策の時代だったといいます。また経済成長の指標である、GNP(国民総生産)やGDP(国内総生産)も世界恐慌後のこの時代につくられました。「“GNPの起源”としての世界恐慌」と言うこともできます。
 一方で近年のブータンの「GNH(幸福総生産)」をはじめとする様々な幸福度指標、またスティグリッツやセンといった経済学者が「GDPに代わる指標」に関する報告書を刊行するなど、「豊かさ」の指標に関する動きが活発化していることについて、本書の解釈は:

 ちょうど世界大恐慌がGNPという新たな指標を要請し、それがケインズ政策と連動していったのとパラレルに、現在の世界の状況を踏まえた真の豊かさや発展に関する新たな指標やコンセプト、ひいては「限りない拡大・成長」というパラダイムそのものの根底的な見直しが求められる時代に私たちは入ろうとしているのではないだろうか。(pp.45-51)


 次に、「科学国家=アメリカ」と「福祉国家=ヨーロッパ」というコンセプトが出てきます。

 ケインズ政策的枠組みにおいて、他国に比べて「科学研究」への公的投資に圧倒的な力を注いできたのが第二次大戦後のアメリカであり、他方、社会保障を通じた再分配に優先的なプライオリティを与えてきたのがヨーロッパであったと言える。象徴的に、前者を「科学国家」、後者を「福祉国家」と呼ぶことが可能であるだろう。(p.53)

 
 
外的な限界と内的な限界。ローマ・クラブによる「成長の限界」(1972年)はミルの定常論に次ぐ、第二段階の定常経済論と位置づけることができ、それは工業化の資源的限界という歴史的局面と呼応していた。これを“外的な限界”とすると、同時に“内的な限界”という状況も起きた。すなわち、人々の需要が徐々に成熟ないし飽和し、かつてのように消費が際限なく増加を続けるということを想定し続けられなくなるという限界。
(p.56)

 80年代以降には2つの動きが起こり、「成長の限界」論がいったん“後退”する。その動きとは、
情報技術の展開とも一体となった、アメリカが主導する金融の自由化とグローバル化
いわゆるBRICsに象徴されるような新興国の台頭と工業化
しかしそうした新たな展開(特に 砲、少なくともいったん明確な形で破綻したのが2008年のリーマン・ショックだった、と本書。(pp.57-58)

 ここまで駆け足で現代までの直近の状況をみてきましたが、今後を展望するための思考材料として、著者は「地球規模での少子化・高齢化の進展」を挙げます。中国をはじめアジア諸国でも高齢化と少子化は進行し、国連推計では世界人口は2100年には109億人で、2050年時点の人口推計は96億人と、21世紀後半はほぼ定常状態に入る。「21世紀はむしろ“高齢化の地球的進行”が進んでいく時代なのであり、それは自ずと人口の成熟ないし減少を意味する」と本書は述べます(pp.60-61)

 このような今世紀後半の展望を本書では「グローバル定常型社会」と名づけたり、国際政治学者の田中明彦の言葉を引いて「新しい中世」と呼んだりしています。(pp.62-63)

 さて、先にみたアメリカが主導する金融の自由化とグローバル化は、この時期における科学・技術の新たな展開、すなわち情報技術とが文字通り“両輪”の関係であった、と本書。
 私たちが生きる今という時代はいわば「情報文明の成熟化ないし飽和」あるいは「ポスト情報化」ともいうべき局面への移行期と考えるべきである。(p.66)

 このあとリーマンショックに絡めて「期待の搾取」、また「観念の自己実現」という概念が出てきますが詳しくは割愛。後者から導きだされるのは、人間の経済とは、その基盤にある貨幣を含めて主観的な(共同)幻想ということになり、まさに“脳が見る(共同の)夢”になる。経済学者の西部忠は、そのような現在のシステムを改変していくためには貨幣そのもののありようを変えていくことが原理的に必要であるとし、それを踏まえて「コミュニティ通過」(ローカルな地域をベースとし、自立循環型の地域経済を確立するような、利子を生まない貨幣)を提案します。(pp.66-76)

 こうした、経済における期待や観念と現実の乖離をどう考えたらいいか。ここで本書は、

  ひとつのありうるビジョンとして、そのように市場経済を無限に“離陸”させていく方向ではなく、むしろそれを、その根底にある「コミュニティ」や「自然」という土台にもう一度つなぎ“着陸”させていくような経済社会のありようを私たちは志向し実現していくべきではないか
と述べます。
 個人・共同体・自然をそれぞれ市場経済・コミュニティ・環境とリンクさせたピラミッ
ドの図が示され、最下層の「自然/環境」に着陸させる矢印があります。

 さて、近年「脳」と「意識」をつなぐ研究が脳科学の方から盛んにおこなわれているよ
うです。私はうっかりこのあたりの文献を積読して読みそびれているのですが、本書では
アントニオ・ダマシオの主張、「事故や意識の根底には、安定した有機体の内部環境から生
まれる『原自己(protoself)』があるとし、それを抜きにして自己意識や思考、感情といった
ものを考えることはできないという議論を紹介します。こうした脳科学の側からの人間認
識が、「市場経済をその土台にあるコミュニティや自然につないでいく」という方向、すな
わち「脳」をその土台にある「身体」に“着陸”させるような方向ともつながるものだ、
と本書は主張します。
 これは著者のかなり以前にさかのぼる「私(自己)の重層構造」という理解にも対応し
ているとします。
A 個人の次元:“思考する私”(=反省的な自己ないし自我)
B 共同体の次元:“コミュニティ的な存在としての私”(=他者との関係性における自己)
C 自然の次元:“身体的な私”(=非反省的な自己ないし個体性
)(pp.80-81)

 という、私流の造語では「自己の身体性」というお話になるのでした。これは、デカルトに限らず哲学書を読んでかならず突き当るフラストレーションと同じで、「思考する私」が、「身体性」から離れて思考しているときその思考の結論を正しいと認めてよいか?という問いにもつながるでしょう。現代のわが国の少壮哲学者にもそれを思うことがあるな。

 さて、第II部「科学・情報・生命」では、

 科学国家アメリカ。戦後アメリカは軍事分野以外では、医療あるいは医学・生命科学研究分野に圧倒的な予算配分を行ってきました。たとえば2015年度の政府研究開発予算のうち、国防省予算を除く部分の4割以上(44.9%)をNIH(国立保健研究所)の予算が締めています。ところが、主要先進諸国の医療費の規模と平均寿命をみると、アメリカは医療費の規模(対GDP比)が先進諸国の中で突出して高く、しかしそれにもかかわらず、平均寿命は逆にもっとも低いという状況があります。;">つまりアメリカは、研究費を含めて医療分野に莫大な資金を投入しているが、にもかかわらず、その成果ないしパフォーマンスはむしろかなり見劣りのするものとなっているのです。著者は、日本版NIH構想のような動きがいわゆるTPPとも一体となり、アメリカのような私費医療の拡大と医療費の高騰、医療における格差拡大と階層化、平均寿命ないし健康水準の劣化など、アメリカの医療システムの“悪いとこ取り”とも言うべき事態が進んでいくことを危惧します。(pp.84-91)

 ところで、医療や健康をめぐるテーマを考えていくに当たって「社会的(ソーシャル)」な要素や側面が重要になってくるということを、近年の諸研究が示唆しています。これは19世紀に成立した「特定病因論」という考え方から、それだけでは解決できないうつや慢性疾患に対応するために新たに発展したものです。「社会疫学」という分野は、「健康の社会的決定要因」という基本コンセプトに基づいています。(pp.92-93)

 そして私がここで注目したいのは、このように、「個人」あるいは個体というものを単に独立した存在としてとらえず、他者との相互作用を含む社会的(ソーシャル)な関係性の中でとらえたり、あるいは他者との協調行動や共感、利他的行動といったものに焦点を当てるような研究が、近年、文・理を含む様々な学問分野で、“百花繚乱”のように生成し発展しているという点だ。(p.94)

 ここでは、『共感の時代へ』のドゥ・ヴァールやオキシトシン研究のポール・ザック、ソーシャル・ブレイン研究など、当ブログでおなじみの著者や文献名が出てきて嬉しくなります。

 こうした諸科学は、「独立した個人」というものを基本に置き、また(経済学などでは)そうした個人は“利潤の極大化”を追求するという個体中心のモデルを想定した近代科学のパラダイムとは異質な要素を含む、科学の新たな方向性を示すものととらえることができるだろう、と本書。
 関係性や人間の協調性等への注目といった点自体を含めて、そうした科学や知のあり方(ひいてはそこで提示される人間観や自然観等々)の全体が、その時代の経済社会の構造変化や環境等によって大きく規定されているのではないか(p.97)

 そこで再度17世紀のマンデヴィルの例を引き、
 およそ人間の観念、思想、倫理、価値原理といったものは、究極的には、ある時代状況における人間の「生存」を保障するための“手段”として生成するのではないか(p.99)
という著者の考察が述べられます。

 近年の諸科学において、人間の利他性や協調行動等が強調されるようになっているのは、そのような方向に行動や価値の力点を変容させていかなければ人間の存続が危ういという状況に、現在の経済社会がなりつつあることの反映とも言えるだろう。(同)
 さらに一段進めた考察として、
 「情報」を含めてこうした科学の流れは、(略)近代科学が上層の「個人」のレベルから、その視点や関心を中層のレベル(情報やコミュニティ、個体間の関係性に関するレベル)にシフトさせてきたととらえることができるだろう。(p.101)
と、述べています。
 
 このあとの章では自然観や生命観にまつわるかなり深い議論が出てきます。(pp.103-115)
・ニュートンが代表する、機械論的自然観。(ニュートン自身は彼の古典力学の「力」について、キリスト教の神と結びつけて理解していたという)
・またデカルトが代表するような、「人間と人間以外」との間に本質的な境界線を引く立場。
・続いて、「生命と生命以外」に境界線を引く立場。ドイツの生物学者ハンス・ドリーシュ(1867-1941、「エンテレヒー」という概念を唱える)がその代表で、ドリーシュは生命には因果論的把握に還元できない“目的性”をもつ、とした。物理学者シュレディンガーの「生物は負のエントロピーを食べて生きている(無秩序から秩序を生み出している)」という議論がそれに続く。
・最後は、非生命―生命―人間をすべて連続的なものととらえる見方。ベルギーの化学者イリヤ・プリゴジンの非平衡熱力学に関する議論が代表。非生命にも秩序形成(自己組織化)がみられるとする。「それは、自然そのものの中に秩序形成に向けたポテンシャルが内在しており、それが展開していく中で生命、人間(ないし精神)といった存在が生成していったととらえる、いわば一元論的な世界像とも言える。」(p.112)

 ここで著者は、上記の4つの立場のうち、1つめと4つめは実は「共通しているものがある」と述べます。ニュートンらの機械論的な把握なのか、森羅万象は生命も非生命も一元的であるとするアニミズム的把握なのか。
 “機械論ですべてを説明しようとしていったら、人間と人間以外、あるいは生命と非生命の境界線がなくなり、新しいアニミズムに回帰していく”というのが現代の科学において生じつつある状況ではないだろうか。(p.115)

―ここまで読んでわたしは、つい、最近の自分のモチベーション論を化学物質の話に置き換えたり、人の能力低下の状態を「脳のどの部分が縮小したから」と説明したりする議論の癖に思いをいたしました。機械論的一元論良くないのかな、と思うこともあったが実はかまわないのカナ。

 次の段階の議論。本書は、これまでの近代科学の本質的な特質には2つの柱があるとします。
(1)「法則」の追求―背景としての「自然支配」ないし「人間と自然の切断」
(2)帰納的な合理性(ないし要素還元主義)―背景としての「共同体からの個人の独立」
(p.116)

 するとこれからの新たな科学のありようを考えるとしたら、両者について、近代科学が前提としたような方向ではないあり方が可能性として考えられる、とします。すなわち、人間と「自然」「共同体」それぞれの関係性であります。
・(1)については、人間と切断された、かつ単なる支配の対象としての受動的な自然ではなく、人間と相互作用し、かつ何らかの内発性を備えた自然という理解。また、一元的な法則への還元ではなく、対象の多様性や個別性ないし事象の一回性に注目するような把握のあり方。
・(2)については個人ないし個体を共同体的な(ないし他者との)関係性においてとらえるとともに、世代間の継承性(generativity)を含む長い時間軸の中で位置づけるような理解。また要素還元主義的ではなく、要素間の連関や全体性に注目するような把握のあり方。
(p.120)


 ―ここで述懐:正田のマネジメント論というか、「人、物、金」の人に特化したマネジメント上の困り事に対応するやり方というのは、上記の「(1)については」の後半、多様性や個別性に徹底して着眼する。それはおおむね「正解」なようで、困り事は大概直ってしまう。たんに今までにない視点でものを考え、今の時点であまり有名ではない物差しを使うせいでもあると思うが―、

 デカルト的な人間中心の自然観からアニミズムへ。
 近代科学はある意味で、”新しいアニミズム”とも呼ぶべき自然像に接近しているともいえるのである (pp.122-123)

 ただしそれは、かつてのアニミズム的な自然観への単純な回帰ではない。(略)近代科学の機械論的自然観が展開をとげていったその先に、つまり自然や生命についてのより分析的あるいは俯瞰的な把握をへた上で、アニミズムと高次のレベルで循環的に融合していく、ともいうべき姿である(p.123)

 いよいよ、“解決編・提言編”ともいうべき、第III部に入ります。

 ここで提示されるグラフはいきなり暗澹となります。所得格差(ジニ係数)の国際比較。我が国はOECD加盟22か国で上から5番目と上位にあります。アメリカ、イギリス、スペイン、ポルトガル、日本です。下位にはノルウェー、アイスランド、デンマークと北欧諸国がきます。日本は1980年代頃までは大陸ヨーロッパと同程度の平等度だったが、その後徐々に経済格差が拡大し現在の状態になったのです。

 若者を中心とする慢性的な失業のもっとも基底には構造的な“生産過剰”がある、と本書。モノがあふれ、人々の需要の大半が満たされているような時代にあっては、生産物を作っても売れないということが珍しくなくなる。加えて、そこで生産性(労働生産性)を上げれば、それは“より少ない人数で多くの生産を上げることができる”ということを意味するから、必要な労働力はさらに少なくなり、一層失業が増えることになる。結果として、“生産性が上がれば上がるほど失業が増える”という逆説的な事態が生まれているのだ。(pp.126-131)

 楽園のパラドックス。(ローマ・クラブが1997年に公にした「雇用のジレンマと労働の未来」による)
 過剰による貧困。生活保護の受給世帯全体が増加しているが、「高齢者世帯」「傷病・障害者世帯」「母子世帯」「その他世帯」の区分のうち、若者などを多く含む「その他世帯」の割合が顕著に増加している(1997年の6.7%から2012年には18.4%に増加)。さらに、過重労働によりストレスや過労や健康悪化に悩まされる。
 現在は人々の需要が成熟・飽和し、他方では地球資源の有限性が顕在化し、限りないパイの総量の拡大という前提がもはや成立しない状況になっている。そうした中で拡大期と同じような行動を続けるとすれば、プレイヤー同士が互いに首を絞め合うような事態が一層強まっていくだろう。(pp.132-134)

ここからは提言となります。
 “過剰”という富の生産の「総量」の問題と、“貧困”や“格差”という、富の「分配」の問題が互いに絡み合う形で存在している、という現状認識を踏まえ、本書は
(1) 過剰の抑制―富の総量に関して
(2) 再分配の強化・再編―富の分配に関して
 を提言します。

 (1)の例としては近年のヨーロッパにおける「時間政策」を挙げます。そこでは、人々の労働時間(正確には賃金労働時間)を減らし、その分を地域や家族、コミュニティ、自然、社会貢献などに関する活動にあて、つまり“時間を再配分”し、それを通じて全体としての生活の質を高めていこうとします。

 「時間政策」は「余暇消費」増、創造性の向上、健康増進、失業率削減や貧困是正にも寄与する、地域活性化・コミュニティ再生にも寄与する、など多くのメリットがあると本書は言います。

 著者自身は「国民の祝日」倍増を提案してきたそうです。本音では休みを取りたいが「空気」の支配する職場では休みがとりづらい、そうした日本人の実像に照らした苦肉の策といいます。

 さらに一歩進めて、スピードをゆるめる「時間環境政策」というものも本書は提言します。生物学者の本川達雄(『ゾウの時間、ネズミの時間』の著者)は、人間は生活のスピードを無際限に速めてきており、現代人の時間の流れは縄文人の40倍ものスピードになっている(同時に縄文人の40倍のエネルギーを消費している)、しかしそうした時間の速さに現代人は身体的にもついていけなくなりつつあり、「時間環境問題」の解決こそが人間にとっての課題であると主張します。「時間をもう少しゆっくりにして、社会の時間が体の時間と、それほどかけ離れたものではないようにする」(本川)進化医学という分野でも同様に、「遺伝子と文化(スピードも含めて)」のギャップ―人間の身体が適応できないほどに人間が作った環境が大きく変化したこと―が多くの病気の根本原因だというそうです。(pp.136-143)

 「過剰の抑制」に絡めてもうひとつ、「生産性」の概念の転換も本書は提起します。「労働生産性から環境効率性(ないし資源生産性)」。かつては“人手が足りず、自然資源が十分ある”という状況だったので「労働生産性」(=少ない人手で多くの生産を上げる)が重要だった。現在は“人手が余り(=慢性的な失業)、自然資源が足りない”という状況になっている。そこで「環境効率性(資源生産性)」、つまり人はむしろ積極的に使い、逆に自然資源の消費や環境負荷を抑えるという方向が重要だと本書。

 経済的なインセンティブとしては1990年代頃からヨーロッパにおいて「労働への課税から資源消費・環境負荷への課税へ」という政策がとられるようになり、例えばドイツで1999年に行われた「エコロジー税制改革」がそう。環境税を導入するとともにその税収を年金にあて、そのぶん社会保険料を引き下げるという内容。(pp.144-146)

 ここで福祉や教育という対人サービスの領域がもっとも“生産性が高い”領域として浮上する、と本書では言います。おやおや本当カナ。これらの領域は基本的に「労働集約的」な分野であり、「労働生産性」という物差しでは“生産性が低い”となるが、労働集約的であるということは“人手”を多く必要とする、それだけ“雇用を創出しやすい”ことを意味するのです。

 資源の有限性が顕在化し、かつ生産過剰が基調となって失業が慢性化する成熟・定常期においては、人々の関心はサービスや人との関係性(あるいは「ケア」)に次第にシフトし、人が中心の「労働集約的」な領域が経済の前面に出るようになるだろう。(pp.147-148)

 そしてこうした方向への転換は、市場経済にゆだねていれば自然に進んでいくものではなく、北欧の福祉・教育などの政策や、ドイツのエコロジー税制改革などのように、それを促すための公共政策が不可欠になる、と本書は述べます。(p.150)

 提言編・次に「再分配の強化・再編」について。
 社会保障、社会的セーフティーネットの整備というのは資本主義の末端部分から根幹部分へ順次、分配の不均衡や成長の推進力の枯渇といった各時期の“危機”に対応する形で進んでいったと本書は言います。そこで今後展望されるのは、「システムのもっとも根幹(ないし中枢)にさかのぼった社会化」であろうとも。
 著者の従来からの提言と重なりますが、次の3点を重要な柱とします。
(1)「人生前半の社会保障」等を通じた、人生における“共通のスタートライン”ないし「機会の平等」の保障の強化
(2)「ストックの社会保障」あるいは資産の再分配(土地・住宅、金融資産等)
(3)コミュニティというセーフティネットの再活性化
 
 ここで、例えば相続の問題にも触れられます。「格差の相続ないし累積(あるいは貧困の連鎖)」が無視できないほど浮上している、と現状認識を述べ、

 個人の「チャンスの保障」という、それ自体は資本主義的な理念を実現するために、ある意味で社会主義的とも言える対応が必要になるという、根本的なパラドックスがここには存在している言い換えれば、逆説的にも個人の「自由」の保障は、“自由放任”によっては実現せず、むしろそれは積極的あるいは社会的に「作って」いくものなのである。(pp.160-161)

 人生前半の社会保障として「教育」があります。わが国は教育に対する公的支出が少なく、私費負担が多いというデータ。GDPに占める公的教育支出の割合を国際比較すると、一位のデンマーク(7.5%)のかノルウェー、アイスランド等北欧諸国が上位を占める一方、日本のそれは3.6%で、先進国(OECD加盟国)中で最下位という状況が5年連続で続いている(OECD加盟国平均は5.3%)。特に日本の場合、小学校入学前の就学前教育と、大学など高等教育における私費負担の割合が高いことが特徴的で、これは「機会の平等」を大きく損なう要因になっていることだろう(就学前教育における私費負担割合は55%(OECD加盟国平均は19%)、高等教育における私費負担割合は66%(同31%、以上2011年のデータ)。(pp.161-162)

 これは戦後の教育改革が存続する中で格差の累積や“世襲”的な性格が強まっているのが現在の日本社会だろう、と本書。「日本社会は、いわば放っておくと“固まりやすい”社会であり、」という記述があり、これはまったくその通り、とわたしも思います。変に「変えたくない」が強く出る。高齢化、長寿命化すると前の世代が決めたことを益々変えられなくなるかもしれません。

 またここに見られる「教育コストを公的に負担したがらない性格」は、企業研修にもまったく同じ現象があり、皮肉なことに国際平均との間の差の数値もよく似ています。「欲しがりません勝つまでは」を教育に関してやってしまっています。

 さらに社会保障の「世代間配分」に関しては、日本は社会保障全体の規模は先進諸国でもっとも「小さい」部類に入るのに、高齢者関係支出(年金)の規模はもっとも大きいというデータが目を引きます。日本と似た構造にあるのはギリシャやイタリアなどの南欧諸国でありこれらの国々は社会保障全体の規模は相対的に低いが、年金の規模は大きいという特徴があります。高齢者の「世代内」にも大きな格差があり、全体として、日本の年金は「世代内」および「世代間」の双方において、ある意味で“逆進的”な、つまり「格差をむしろ増大させる」ような制度になってしまっています。(pp.163-166)

「ストックの社会保障」という概念。
 「所得」つまりフローの格差より「ストック」あるいは資産(金融資産や土地・住宅)に関する格差のほうが大きい。

 実際、格差の度合いを示すいわゆるジニ係数を見ると、年間収入(二人以上の一般世帯)のジニ係数が0.311であるのに対し、貯蓄におけるそれは0.571、住宅・宅地資産額におけるそれは0.579となっており(全国消費実態調査、2009年)、所得よりむしろ金融資産や土地等の格差のほうがずっと大きいのである。(pp.168-169)

 土地所有に関してヨーロッパでは土地における公的所有の割合が相対的に大きく、特に北欧などは、たとえばヘルシンキ市では土地の65%が市有地であったり、ストックホルム市では土地の70%が市有地であるなど、「土地公有」が一般的なのだといいます。ここから、本書では今後は資産の再分配あるいは「ストックの社会保障」という観点からの対応が重要であるとし、具体的には、住宅保障の強化や土地所有のあり方の再吟味(公有地ないし「コモンズ(共有地)」の強化や積極的活用)、そして金融資産・土地課税の強化とそれによるストックの再分配や社会保障への充当を挙げます。(p.171)

これについてピケティの『21世紀の資本』では、「経済成長の速度が弱まる時代においては、自ずと過去の資産が不均等に大きな重要性をもつに至る」そして「起業家は金利生活者に転身するのが不可避となる」と述べています。それは資本主義の終焉または自殺行為であるとし、それを回避するために「資産の再分配」が要請される。本書の記述によれば、「つまり資本主義的な理念を存続するために、社会主義的な対応が必要になるというパラドキシカルな構造があり、これは「人生前半の社会保障」と機会の平等をめぐる議論と同質のものだとします。(pp.172-173)

 第8章「コミュニティ経済」。ここはほぼ過去の著作少なくとも1冊分の考察が収められている「濃い」章です。
 「ローカル‐ナショナル‐グローバル」という横軸と、「共」「公」「私」の原理の縦軸。
一般的には、
「共」〜コミュニティ →ローカル
「公」〜政府 →ナショナル
「私」〜市場 →グローバル
と対応するとします。
 しかし、16世紀前後からのプロト工業化、産業革命期以降の本格的な産業化ないし工業化の中で生じたのは、“「共」も「公」も「私」も、すべてがナショナル・レベル=国家に集約される”という事態だった、といいます。「国民経済」という意識あるいは実体が前面に出ることになり、「産業化(工業化)」の“空間的な広がり(ないし空間的ユニット)”は、ローカルよりは広く、グローバルよりは狭かったのです。「金融化=情報化」の時代に入ると、その最適な空間的ユニットはグローバル・レベルに移りました。(pp.177-185)

 そこで今後の展望は、
(1) 各レベルにおける「公‐共‐私」の総合化
(2) ローカル・レベルからの出発
という2点が重要になるだろう、と本書は言います。
 なぜなら、
 ポスト情報化・金融化そして定常化の時代においては、いわば「時間の消費」と呼びうるような、コミュニティや自然等に関する、現在充足的な志向をもった人々の欲求が新たに展開し、福祉、環境、まちづくり、文化等に関する領域が大きく発展していくことになる。これらの領域はその内容からしてローカルなコミュニティに基盤をおく性格のものであり、その「最適な空間的ユニット」は、他でもなくローカルなレベルにあると考えられるからである<。(pp.185-186)

 ここでまた日本の社会資本という観点からみると、明治以降の日本における様々な社会資本の整備は、鉄道や道路などの社会資本が、徐々に普及しやがてその成熟段階に達するという「S字カーブ」として示されています。鉄道、道路、そして高度成長期後半には廃棄物処理施設、都市公園、下水道、空港、高速道路など“3つのS”があります。
 これら工業化時代あるいは高度成長期の社会資本整備は、いずれも「ナショナル」な空間範囲に関わるものでした。しかしそれらはすでに成熟・飽和状態に達しており、今後大きく浮上する“第四のS”があるとすれば、それは情報化・金融化の波でありグローバルな性格を持つもの。その後にくる“第五のS”としては、福祉(ケアないし対人サービス)、環境、文化、まちづくり、農業等、「ローカル」な性格の領域だろう、と本書は述べます。「言い換えれば、経済構造の変化に伴って、いわば問題解決(ソリューション)の空間的ユニットないし舞台がローカルな領域にシフトしているわけで、(略)“地域への着陸”という方向が今求められているのである。」(pp.187-190)

 地域においてヒト・モノ・カネが循環し、そこに雇用やコミュニティ的なつながりも生まれるような経済という展望は従来から著者の著作に繰り返し現れ「コミュニティ経済」と名づけられます。イギリスの経済学者シューマッハーの流れを引き継ぐNEFという団体が2002年、「地域内乗数効果」という興味深い概念を提唱しています。
こうしたローカルなコミュニティ経済が比較的うまく機能しているのは、ドイツやデンマークといった国々だそうです。多くの都市で中心部からの自動車排除がなされ「歩いて楽しむ」ことができゆるやかなコミュニティ的つながりを感じられるような街があり、座ってゆっくり過ごせる場所があります。
 著者自身は「私見では」と断り、コミュニティ経済の例として「(a)福祉商店街ないしコミュニティ商店街、(b)自然エネルギー・環境関連、(c)農業関連、(d)地場産業ないし伝統工芸関連、(e)福祉ないし「ケア」関連 などを挙げています。(e)の例としては千葉県香取市の「恋する豚研究所」の試みを挙げます。(pp.190-197)


 著者自身がここ数年進めている「鎮守の森・自然エネルギーコミュニティ構想」。

 ドイツではエネルギーの地域自給を目指す「自然エネルギー100%地域」プロジェクトというものが進められており、2012年現在でそうした自然エネルギー100%地域は74で、ドイツの面積全体の28.6%、人口では2000万人(24.2%)に及んでおり、なお急速に拡大中であるといいます。
 自然エネルギー拠点の整備というテーマはローカルな地域コミュニティの再生という視点とリンクしなければならないと著者は考え、そして「神社」「鎮守の森」に着眼します。全国の神社の数は約8万数千で(お寺もほぼ同数)、コンビニの約5万よりずっと多い。神社は単なる宗教施設ではなく、「市」が開かれたり「祭り」が行われたりするなど、ローカルな地域コミュニティの中心としての役割を担っていた、といいます。こうした鎮守の森と、自然エネルギー拠点の整備を結びつけ、福祉や世代間交流などの視点も総合化して進めていくというのが「鎮守の森・自然エネルギーコミュニティ構想」です。

 そしてこうした試みは実際に進んでいて、岐阜県と福井県の県境にある石徹白(いとしろ)地区という場所で、地域再生機構というNPOが小水力発電を通じた地域再生事業を進めています。そこはかつて白山信仰の拠点として栄えた地域であり、「小水力発電を見に来ていただく方には必ず神社にお参りいただいています」というのだそうです。
 鎮守の森以外にも、学校、福祉・医療関連施設、自然関係(公園等)、商店街、神社・お寺なども、自然エネルギー等とうまく結びつけコミュニティで循環する経済を築いていくことがポスト成長時代の日本における中心的な課題になるだろう、と著者は言います。(pp.200-204)

 ここで、「緑の福祉国家」「持続可能な福祉社会」というコンセプトが出てきます。

 資本主義が様々なレベルの格差拡大と過剰という構造的問題を抱えていることへの対応として、
(1) 過剰の抑制(2)再分配の強化・再編(3)コミュニティ経済の展開
という3つの方向があり、(1)〜(3)を含んだ全体を「緑の福祉国家」ないし「持続可能な福祉社会」という社会構想と本書は位置づけます。

 「福祉」と「環境」を結びつけて論じることは奇異に、また理想論にみえるかもしれませんが、おもしろいことに両者には一定の相関がみられるようなのです。

 本書p.211のグラフでは、ジニ係数を縦軸、環境パフォーマンス指数を横軸にとったとき、メキシコ、トルコ、アメリカ、韓国、日本は同一グループに属し図の左上に位置します。「高ジニ係数、低環境パフォーマンス指数」のグループです。また図の右下には格差が相対的に小さく、環境パフォーマンスが良好な国があり、スイスやドイツ、北欧などがあります。

 ―このグラフは大変興味深いですが、このブログには図表は引用しません。見たいかたは本書をお買い求めくださいね―

 なぜ、こうした相関が起こるか。前者の諸国では、おそらく競争圧力が高く、再分配への社会的合意も低いので、「パイの拡大=経済成長による解決」という志向が強くなり、環境への配慮や持続可能性といった政策課題の優先度は相対的に下がるのだろう、と本書。  逆に後者の「格差小、環境パフォーマンス良」の諸国では、
競争(上昇)圧力は相対的に弱く、また再分配への社会的合意も一定程度存在するため、「経済成長」つまりパイ全体をお拡大しなければ幸せになれないという発想ないし“圧力”は相対的に弱くなるだろう。

 それは(家族や集団を超えた)「分かち合い」への合意が浸透しているということでもあり、つまりこれら「福祉/環境」関連指標や社会像の背景には、そうした人と人との関係性(ひいては人と自然の関係性)のありようが働いているのだ。

 同時にそこには、そもそも自分たちが「どのような社会」を作っていくか(いきうるか)という点についてのビジョンの共有ということが関わっているだろう。(pp.209-213)
 
 −このあたりは力のこもった記述であり少し長く引用しますね−

 日本の抱えるマイナス要素。わが国では、経済格差は大きい部類に入り、労働時間も長く、「社会的孤立度(家族や集団を超えた人とのつながりの少なさ)」も先進諸国の中でもっとも高く(世界価値観調査での国際比較)、年間の自殺者がなお2万5000人程度存在する(2014年)、「人生前半の社会保障」も不十分である一方、国の借金は1000兆円を超え先進諸国の中で突出した規模になっている。
 それらの根本的な背景として、日本においては、(工業化を通じた)高度成長期の“成功体験”が鮮烈であったため、「経済成長がすべての問題を解決してくれる」という発想から(団塊世代などを中心に)抜け出せず、人と人との関係性や労働のあり方、東京‐地方の関係、税や公共性への意識、ひいては国際関係(「アメリカ―日本―アジア」という序列意識など)等々、あらゆる面において旧来型のモデルと世界観を引きずっているという点が挙げられるだろう。(p.214)
 
 さて、最終章では、「市場の失敗」、手塚治虫の「火の鳥」の生命観、文化の多様性、エピジェネティクスなどの話題が出てきますが、最終的に
「『ポスト資本主義』の社会構想が求められているということと、生命の内発性や「関係性」、多様性・個別性に関心を向ける新たな科学のあり方が様々な領域で“同時多発的”に台頭していることはパラレルな現象なのである」と本書は述べています。

 本書の主張としてはこれでほぼ大団円を迎えていると思いますが、わたしの個人的な興味で、「思想」のもつパラドックスのところも抜き書きをしておきたいと思います。

 “第二の定常化”の時代に生成した枢軸時代/精神革命の諸思想、仏教、儒教、老荘思想、旧約思想、ギリシャ哲学など。共通していたのは特定の民族や共同体を超えた「人間」あるいは「人類」という観念を初めて持ち、そうした人間にとっての普遍的な価値原理を提起したという点にその本質的な特徴がありました。それぞれ風土的環境を反映した特徴はありましたが、「普遍性」への志向という点は共通していました。またある意味でいずれも「幸福」の意味を―たとえばキリスト教の愛、仏教における慈悲、儒教やギリシャ思想における「徳」―といった形で説きました。
 さらに、これらの諸思想は、「普遍性」を“自認”するぶん、互いに共存することは困難な性格を持っていました。
 つまり、およそ思想というものは、自らの考えの「普遍性」を自負し主張する度合いが強ければ強いほど、互いに両立が困難になるだろう(これは象徴的には“複数の普遍”は可能か、という問いの形で表現することもできる)。(p.238)
 現代のような時代においては、キリスト教とイスラムの対立を含めて、普遍宗教同士が互いにそのままの形で共存するのはきわめて困難な状況になっている。(p.239)

―耳の痛いところです。正田がときに狭量な記事をブログアップするのは、自分的には妙な邪教のたぐいが正田の領域を侵してきた場合はやり返す、それもその邪教がとりわけ弱者に対して優しくない、と判断したときにそうするのですが、じゃあ副作用のない「普遍志向」のよその思想が出てきたときにちゃんと仲良くできるんだろうか。そもそも正田は狭量な人間なんじゃないだろうか。


 本書の提唱する望ましい「地球倫理」は、第一のポイントとして、「エコロジカル」を挙げます。

「地球上の各地域における思想や宗教、あるいは自然観、世界観等々の多様性に積極的な関心を向け、しかもそうした多様性をただ網羅的に並列するだけでなく、そのような異なる観念や世界観が生成したその背景や環境、風土までを含めて理解しようとする思考の枠組み」(p.239)。

 ―これは、学生時代「国際関係―地域研究」ゼミに籍を置き、「地域研究」がいかに学際的な学問であるか、実際に勉強したかどうかは別にして「こんこん」と恩師から説かれたわたしにとっては、いささかなつかしいフレーズでありました。

 もう一つのポイントは、「自然信仰/自然のスピリチュアリティ」。それは自然信仰が重視する生命や自然の内発性に関心を向けるということにもつながります。フランスの精神医学者ミンコフスキーの「生命との直接的な接触」という言葉が出てきます。
 もっとも「ローカル」な場所にある自然信仰は、その根源において宇宙的(ユニバーサル)な生命の次元とつながり、それはグローバルな地球倫理をも包含する位置にあると言えるかもしれない。(pp.240-243)
 
 ―抜き書きは以上であります。丁寧にロジックを押さえながら読めば、著者自身が丁寧にさまざまな議論を踏まえながら論をすすめているおかげもあり、さほど突飛なとか理想論に走った結論部分ではないように思います。

 ―わたし個人は21世紀の初め(もう15年も過ぎてしまったが)の現時点において、アカデミズムの立場での責任感ある論考の仕事と大変興味深く読ませていただきました。

 ―さて、「承認」は「地球倫理」というところまで格上げされるというシナリオはあるのでしょうか。いちおうそういうのを頭のすみに置いて最後のほうの文章を読ませていただいた不遜なわたしであります。拙著『行動承認』の末尾部分で生命活動と「承認」について身近な出来事に絡めて書いたのと、最近はまた個人的に少し「生命との直接的な接触」ということもこころみています。



(一財)承認マネジメント協会
 正田佐与

 「内発的動機づけ」がまたリバイバルブームなのでしょうか。

 NPOリーダーのためのブログでエドワード・デシの「内発的動機づけ」が紹介されており

 http://npotips.seesaa.net/article/52577385.html

(正田は元NPOリーダーのくせにこの記事を知らなかった)

 きのう話をされたNPO関係の人はこれを金科玉条にしているのかな、と思いました。

 ググってみると有名な自己啓発セミナー会社のサイトにも「内発的動機づけ」は大きく載っております。ちなみに正田は自己啓発セミナーが差し違えたいぐらい嫌いであります。


 エドワード・デシの『人を伸ばす力』については、当ブログでは2011年暮れに読書日記を書いています。れいの『報酬主義をこえて』とのからみです。

 http://c-c-a.blog.jp/archives/51781122.html


 要は、「外発・内発っていう分け方自体にあんまり意味ないよね」というのと、「内発的動機づけが一番好きな社会人は、大学の先生とかの一人作業で仕事する人なんじゃないの?」というものです。例によって、「大学の先生は自分たちのことを研究するのが好き」なのです。


 正田は、例えば子供や若者が新しく何かに習熟する時、初期には指導者からの励ましや褒めなどの「外発的動機づけ」の出番が多く、次第に習熟すると作業そのものの手ごたえが楽しくなり報酬系が活性化されるので、いわゆる「内発的動機づけ」の状態になるだろう、報酬系を回すガソリンが交代するだけの話だ、それでも外発的動機づけの仕事はなくなるわけではない、というようなことを過去に書いていますが、

 ちょうどこれと同じことを、1991年に国内の研究者が言っています。

 https://kaken.nii.ac.jp/d/p/03610044


 デシが『人を伸ばす力』を書いたのが1996年だったが、その5年も前に国内ではこういう研究がちゃんとなされていたのです。

 ほらね、正田ってあんまり間違わないでしょ?

 ・・・あと、デシのファンの方には申し訳ないですが英字のWikiでデシの扱いは小さいですね。行動理論家たちに比べてはるかに小さいです。行動理論は、初期のスキナーの頃には一部確かに同意できない主張もありますが例えば学習された無力感やポジティブ心理学のセリグマン、アサーションや系統的脱感作法のジョゼフ・ウォルピ、模倣学習理論のバンデューラなど、良心的ないい心理学者を輩出していますよ。


 身近な人の例としては、あるアーチスト(音楽家)の知人がいました。彼女は難病を抱えたアーチストとして学校関係にも講演兼演奏会をするのですが、子供たちに「夢はある?」と問いかけ、「今の子は夢がない」と嘆いていた。自分は小学校の時から「アーチストになる」という夢を持っていた、と言いました。

 それについてわたしは多少批判的に、「夢をもつとき、普通は身近な人からの褒めや励ましがあって自信をもったから夢をもったのではないだろうか。何もない状態で夢を持てただろうか」とぶちぶちブログに書きました。

 すると彼女は新しく思い出したようなのでした。

 その次の講演兼演奏会で、「私を褒めてくれた学校の先生がいた」と彼女は言いました。
 他に取り柄のなかった私のピアノの演奏を褒めてくれた。
 通信簿で彼女の音楽が4か5か微妙なとき、ほかの成績のいい子の5をつけかえて私を5にしてくれた。

 その後お母さんの勧めもあって、彼女は中学時代に「演奏家になりたい」と心に決めた、といいます。


 そういう、記憶の改ざんのような現象もあいまって、何しろ「内発」「自己決定」「目標を持つ」などは快楽物質のドーパミンの仕事なので、刺激がきついのです。いっぽう信頼する先生やお母さんにほめられ励まされたのは、たぶんオキシトシンやセロトニンのマイルドな喜びであり、ドーパミンに比べると記憶に残りにくいのです。でもたぶんオキシトシンが出たからドーパミンも出たのです。


 わたしがなんでこんなに「内発と自律」のモチベーション論に神経をとがらせるのかというと、それが主流になってしまうと、まず「権力者の怠慢」が起こるからです。モチベーションを喚起するような上司・先輩からの介入が不要だ、ということになってしまうからです。
 そして、権力者の側はちょっとほっとくといくらでも怠慢になれるのです、古今東西。

 かつ、地位の低い人たちに関しては、目標や夢を持つことができるのはとりわけ日本人では少数派なので、(平本あきお氏の「ビジョン型と価値観型」のフレームワークに割合わたしは同意するほうです。わたし自身は価値観型だと思います)目標を持つことができた人だけが「勝ち組」になり、残りの人は落ちこぼれる、ということになりかねない。

 たとえば貧困問題の解決のために何をすべきか。ごくまれに夢や目標をもって、アメリカンドリームみたいに貧困層から成りあがった人がいるとする。では、すべての貧困層の人が夢を持って立志伝中の人になることが解決になるのでしょうか?社会の構造的な問題を何とかしないといけないのではないですか?自己責任論にまでなっちゃいますよね。私リバタリアンじゃないので。

 また、社会福祉的には、昨日のパネルディスカッションでどなたかいみじくも言われたように、「寝たきりのおとしよりにどう夢を持たせられるのか。それを家族介護している人もどう夢を持てるのか」というのもあります。認知症の人では前頭葉が縮小する、実行機能がなくなるのですから夢とか計画どころではありません。でも自分の「尊厳」を感じる力は残っているのです。もちろん不幸にも災害に遭った人も同様で、夢を持つどころではない精神状態の時期が長いでしょう。
 


 色々ありますが、1つ前のブログ記事を借りてお客様のご協力をいいことに、「あんたら内発と自律方式でこれと同じことやってみろよ」と思います。現実に「効く」ほうを使ったほうがいいじゃないですか。


 で、「承認方式」では「内発と自律」は全然要らないのかというと、あります。ちゃんと組み込んでいます。

 相手の「内発と自律」が存在するならそれを尊重するのが「承認方式」です。

たとえばわたしの最初の子は誰に似たのか「じぶんで〜!」とか「やーだ」が口癖の我の強いおこさまでしたが、彼女の「内発と自律」を尊重して延々と自分でお着替えするのを手を貸さずに待ちました。その子は高校ぐらいからリーダーになりました。二人目の子はそんなに「じぶんで〜!」が強くなく手が止まることも多かったので、もう少し手伝ってやり、でもできるだけ最小限にして自分でやることを多くしていました。本人たちにとってはそれは「内発と自律」でしたがこちらからみると彼女らの「内発と自律」を「承認」していたわけであります。

 以前ヘーゲル承認論の中で「間主観性」という概念に触れましたが、人はその人の主観だけで生きていけるわけではないのです。主観に即していえば「内発と自律」、しかしそれを「承認」してくれる他者がいなければ「内発と自律」を発揮することはできないのです。

 内発的な動機というと、たとえば「価値観」というものがあります。人を思わず知らずある行動をとるようにプログラミングしているもの。(自閉症の人では、それは「常同行動」という形をとります。)


 「相手の価値観を尊重せよ」は、「承認マネジメント」にもちゃんと組み込んであります。

 ただ、企業活動ですから働き手の側もその企業の価値を尊重しないといけません。というか、本来はその企業の理念に共感して入ってくるのが筋です。

 ある程度仕事に習熟した働き手には仕事を任せ、相手の内発的自律的働きにゆだねることも承認。

 ちょうどきのうのお客様のところでは、2年目の若手クンが「〇〇をしましょうか?」という言い方から「〇〇をやります」という言い方に、「承認」後に変わった、というお話も出ました。「承認」によって「内発」「自律」も育つ、というのは以前から明らかだったことです。大学の先生ってこういうことを知らないんでしょうか。

 目標を持つ力がついてきたら目標を設定させることも承認。

 何か文句あります?


 なので、「承認マネジメント」と「内発と自律」は、「含む、含まれる」の関係なんです。ごめんなさいね。あたしの方が大きくて。「内発」は大事なことではあるけれど、指導者が「大事だ」と頭に入れておけばいいことで、「内発さえあれば外発は要らない」「アメとムチ」などという論の立て方は大変おかしなことなのです。



 自己決定感とか自己有能感とか、「モチベーション」に関わる用語は色々あります。でもどれもドーパミンがらみの概念です。いっぽう承認マネジメントの世界では、独特の「みていてくれるんだなあ」という感覚があります。拙著『行動承認』で初めて出てきましたが、その後の研修でも繰り返されています。まだ、学術的な名前はありません。

 この「みていてくれるんだなあ」の感覚に、どなたかかっこいい名前をつけていただけないものでしょうか―。
ひょっとしたら経営学史上に名前が残るかもしれないですよ?



(一財)承認マネジメント協会
 正田佐与
 

 26日、東京・江戸川区の株式会社牧(ベーカリーチェーン「リヨンセレブ」)様での第2回研修でした。


 「承認研修」の2回目は、前回からの実践報告で華やいだ空気ではじまります。
 お盆に「全スタッフへの承認個別面談」をされた店長が、「ブログ読ませていただきました」と輝く表情で言われました。

 ほかの皆様からも、

「商品開発を承認したところ次の商品開発をしてくれた」
「色々と気がついてフォローしてくれる」
「具体的な行動承認によって2年目の壁を乗り越えてくれた」
「製パンの段取りを自分で決めておぼえてくれた」
「若い人が自発的に仕事をするようになって仕事を頼みやすくなり、自分の仕事が進んだ」

…などと、嬉しいご報告がありました。
「自分の仕事が進んだ」と言われた20代後半の製パン責任者さんは、来月のオリジナルキャンペーン商品を開発し、開発者の顔写真つきで大きく売り出すそうです。

 「勇気」と「時間」の両面で「イノベーション」に関わってしまいましたね…。

 
 また、「承認」をきっかけに内省の言葉を自分から言ってくれた、という例も複数きかれました。

 「承認」がつくる安心感・信頼感があると、すすんで内省をする勇気を持てる。
 一般に信じられているような、フィードバック技術を磨けば内省をしてもらえる、というのとはまたちょっと違うのです。それとは別の有効なルートがある感じなのです。


 「承認研修」の2回目はまた、どどーんと奈落に突き落とされるような、イヤなお話をする場面もあります。
わたしなんかがこんなことご指導する資格があるのだろうかと思いながら、でも何か一つお伝えするために膨大なアーカイブを作るのがわたしだ、ときっと受講生様はわかってくださっている、と祈りながら。
 これも、皆様真摯に受け止めてくださり、
 わたしが思うのに、「承認」がつくる幸福感の力を借りれば、イヤな現実を直視する勇気をも持てるのではないかと思うのです。
 逆に、そういう手順でなければこういうお話をどうやってするんだろう、と何度かこの手順でやってきているわたしなどは思います。


 研修終了時、ひとつのサプライズがありました。

 同社のNO.2、飯田万里子GMが前に立ってご挨拶され、

「私はこれまで、社長に承認していただけなかったんです」

と、カミングアウト。

飯田GM


 「新規のお店を立ち上げ、既存のお店に改善のために入り、夢中でやってきましたけれど、社長からはひとことも承認がなかった。そのことでどんなに心が不安定だったか。ところがこの春、社長が承認してくださったんです。私はおかげで救われました。
 あとで伺うと、正田先生から社長に『承認の宿題』が出ていて、その宿題の対象が私だったんだそうです」

 飯田GMは学校時代体操部のキャプテンだったそう。今もとてもスラリと細身の体で、この日はキャンペーン用のポロシャツ姿でしたが美しい方です。

 ―わたしはビジネス界で有能な女性が妨げられずに能力を発揮されているのをみるのがすきであります。それは浅田真央ちゃんやなでしこジャパンが世界で活躍するのをみるのと同じくらい、目の喜びなのであります。
 そして以前にも書いたと思いますが、有能な女性たちは決して権力ある男性におもねるわけでも底意地がわるいわけでも人を蹴落としたいと競争心マンマンなわけでもない、単に神様が与えてくれた能力を十分に発揮しているだけなのであります―

 続いて牧田雄治社長が立たれ、

牧田社長


 飯田GMからの”暴露”は想定外だったと頭をかきながら、

「なんというか、昔の男の意識で、『言わなくてもわかるだろう』『部下をおだててどうするんだ』という意識があったんですよねえ。恥ずかしい。私自身もこの『承認』によって救われました」。

 そして、

「この『承認』は末永く取り組んでいきましょう」

と、店長さん方に呼びかけられたのでした。

時間は戻りますが研修冒頭には、

「マネジメント論多数あるが横滑りであれもこれもやっても何も身につかない。一つを深くやること。そのうえでほかを見てみると、そこでも得るものがある」

と、その通り!!と膝を打ちたくなるご挨拶をしてくださった牧田社長です。
本当に、教えているわたしもどんなにか、皆様が末長く使ってくださることを願っていることでしょう。そしてこういうことをお分かりになっている方が少ないことでしょう。


 このあとは受講生様方も全員参加の懇親会になり、そこでは「承認」というよりはプライベートの暴露やらカミングアウトの話が飛び交い、男性も女性も学校の部活のようにげらげら笑いあってらっしゃいました。プライベートダダもれみたいになったのは「承認効果」なのかどうか、以前はそこまでの雰囲気ではなかったということですが。

 そしてまた生地部の方から「リヨンセレブ」の材料のこだわりについて伺いました。粉は他店にないミックス粉だし、味オンチの正田でもこれはと思ったように、バターも〇〇〇バター100%使用なのだそう(このところの調達は大変だったそうだ)
「材料にこだわっても原価100円上がるぐらいですからね。それなら10個余分に売ればいいこと」
と、牧田社長。
 ご近所に住んでいたら絶対毎日買いにいかしていただくなあ。
 
 まじめな話、先日の試食以来、パン屋さんに入っても
「ここは惰性で流して仕事してるなあ」
「ここは本気でやってるなあ」
と空気を感じるクセがついてしまいました。


「聡明な皆様が、
はるばるスイスやドイツまで理想のパンの味を求めて行かれ、
また粉のミックスを何通りも工夫してパンを焼かれる、
それと同じ学習欲や探求心を、
この研修の採用と学習に向けてくださった、
そのことが嬉しいのです」

とわたしは牧田社長へのメールに書きました。


****


 帰神して午後に福祉関係の講演会+パネルディスカッションへ。

 ここでは、兵庫県稲美町でのおとしよりのコミュニティづくりの話がおもしろかったです。

 地域に役立つちょっとした手仕事をし、感謝されるとやりがいになる。そうして公民館などに集まっていたおとしよりが、ある日「ピンピンコロリ」で亡くなってしまう。介護の手が要らない。

 そういうふうに、最後の最後までだれかに役立っていると実感して生き、そして「ピンピンコロリ」ができたらいい人生ですよね・・・。

 こういうのもひろい意味での「承認」と、わたしは捉えてしまいます(いえ、ピンピンコロリが、じゃないですよ、仕事をして感謝されるのところがですよ)


 一方で、日本の団塊世代の方と、アメリカの「内発と自律」思想の人(主に大学の先生)のモチベーション論は重なるところがあるようで、その部分は困ったなという感じでした。いかにも朗らかで外向的で幸せな人生を送ってきただろうな、話をすることが楽しくてしょうがない感じだな、という人ですが基本的に他者へのリスペクトがない。スピーカー稼業をする人なんて、他人をリスペクトしていたらやってられないところがあるだろうかなナー。奥さん幸せカナ。
 こういうモチベーション論の「思想対立」はほんとうに不毛だ。もう「認める」でまとめてしまえればよいのに。


(あれ、基調講演って誰だったカナ(^O^))



(一財)承認マネジメント協会
 正田佐与

 近著『行動承認』に、嬉しいエールをいただきました。

 千葉大学法政経学部教授・広井良典氏(公共政策、科学哲学)より。

 ご了承のうえ、いただいたメールをご紹介させていただきます(また後日のメールのやり取りをもとにご了承のうえ加筆させていただいております):


正田佐与様
 先日は貴重な御著書をお送りいただきありがとうございました。
 質の高い内容が大変わかりやすい形で述べられており、意義の大きい内容と感じるとともに、土台に哲学的な思考が流れていることが伝わってくる内容で、印象深く受け止めました。
 もちろん実際の研修では実践的でわかりやすい内容にすることが求められると思いますが、それがありがちなマニュアル的なものにならないためにも、哲学的な考察のところが意義深いと思います。
 ヘーゲル承認論に関するブログ記事や、どこかで中国哲学に関することも書かれていたと思いますが、そうした哲学や科学への御関心がベースにあることが、単なるノウハウ本や技術論ではない深みにつながっていると思います。またそうしたものへのニーズは現在の日本で大きいと思います。
 御礼とともに、事業の発展に期待しております。     千葉大学 広井良典



 広井教授は近著『ポスト資本主義―科学・人間・社会の未来』(岩波新書、2015年6月)をはじめ、『定常型社会―新しい「豊かさ」の構想』(同、2001年)『コミュニティを問いなおす つながり・都市・日本社会の未来』(ちくま新書、2009年)など、「人口減少」「拡大・成長から定常への移行」「コミュニティ」「福祉」について一貫した視座をもって発言してこられた方です。

 ちょうどそれらの著書の中にある、例えば

近年の諸科学において人間の利他性や協調行動が強調されるようになっているのは、そのような方向に行動や価値の力点を変容させていかなければ人間の存続が危ういという状況に、現在の経済状況がなりつつあることの反映とも言えるだろう」(『ポスト資本主義』)

というフレーズに不肖正田が膝をうち、著書をご献本させていただいた、という次第です。


 『ポスト資本主義』をもういちど真剣に読解させていただこう、と思いました。

  
 一回りも幾回りも大きな視点で現代を読み解かれる方より評価いただけたのは幸せなことです。
 わたしだけでなく、信念をもって取り組んでくださるいまだ多数派とは言い難い受講生様方にも勇気をいただけたことでしょう。

 
 広井先生、ありがとうございました!


(一財)承認マネジメント協会
 正田佐与

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