正田佐与の 愛するこの世界

神戸の1位マネジャー育成の研修講師・正田佐与が、「承認と職場」、「よのなかカフェ」などの日常を通じて日本人と仕事の幸福な関係を語ります。現役リーダーたちが「このブログを読んでいればマネジメントがわかる」と絶賛。 現在、心ならずも「アドラー心理学批判」と「『「学力」の経済学』批判」でアクセス急増中。コメントは承認制です

◆正田の近刊『行動承認―組織の能力を最大化する「認める力」』◆
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◆上司の承認力と部下の幸せな躍動…「承認研修」宿題を一挙28例公開!!あったかい気持ちになってください
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お世話になっている皆様


 おはようございます。
 一般財団法人承認マネジメント協会の正田です。
 本日も神戸のわが家周辺は曇り。
 気象庁の「期間合計日照時間」のページをみておりましたら、
 http://www.data.jma.go.jp/obd/stats/data/mdrr/tenkou/alltable/sun00.html 

 神戸の過去5日間の日照時間合計は22.0時間で平年比69%。過去10日間では、同33.0%で50%、となっていました。
 「日照不足」少々心配になりますね…。

※このメールは、正田が過去にお名刺を交換させていただいた方・当協会のイベントやセミナーにご来場いただいた方にお送りしています。ご不要の方は、メール末尾にありますURLより解除ください。
(解除方法が変わりました!詳細はメール末尾をご覧ください)


 本日の話題は:

■わたしたちは、どこまで「見えて」いるでしょうか
 ―判断を歪めるものとの闘いシリーズ・『見て見ぬふりをする社会』を更新しました―

■現代をどんな心で生きるか 共感した記事をご紹介します
 ―「三つの寂しさと向き合う」―

■「月刊人事マネジメント」誌 連載を更新しました
 ―「承認」の学習ステップ―

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■わたしたちは、どこまで「見えて」いるでしょうか
 ―判断を歪めるものとの闘いシリーズ・『見て見ぬふりをする社会』を更新しました―

 人の「認識のミス」を起こさせる、ヒューリスティック・バイアス・ステレオタイプ。
 こうした「思考の陥穽」について、ここ数年認知科学の世界で研究が進んでおり、そうした文献をわたくしのブログでもフォローしてきました。

 シリーズの最新版として、『見て見ぬふりをする社会』』(マーガレット・ヘファーナン、河出書房新社、2011年12月。原題’Willful Blindness’)という本を取り上げました。
 ここでは、巨大組織の中で、忙しさや疲れのために、あるいは拝金主義のために、「本来見えるものを見ようとしない」人々の行動を取り上げています。登場する主な事例にはBP社の製油所爆発事故、エンロン、サブプライムローン、グリーンスパン元FRB議長、イラクのアプグレイブ刑務所での米軍による虐待事件などがあります。
 ご興味のあるかたはこちらの記事をご覧ください:
◆できれば「見える」状態でいたいものです―『見て見ぬふりをする社会』をよむ
 http://c-c-a.blog.jp/archives/51920996.html 
 
 ちなみにわたくし正田は女性であるため、「バイアス」「ステレオタイプ」の被害を受けやすい立場にあります。
「そんなの、女の人なんだからしょうがないじゃないか、そう見られるのは」
とお叱りを受けるかもしれません。
 ただ先月末に「女性活躍推進法」も参院で成立しましたし、だんだん、どなたもこの問題に無関心ではいられなくなるのではないかと思います。
 ちなみに読者のあなたが、「自分にも何かのバイアスがあるんじゃないか?」と思いこっそり試してみたくなったら―、
 「潜在的連合テスト(Implicit Association Test, IAT)」というものがあります。指示した二通りの分類方法における反応速度の違いを調べることで、その人がある社会的カテゴリーとさまざまな特性をどの程度強く関連付けているかを探ることができます。つまり男性と女性、白人と黒人、などのカテゴリについて、どんなバイアスを持っているかがわかります。
 怖いものみたさのあなたに、こちらが日本語版のIAT無料診断サイトです
 https://implicit.harvard.edu/implicit/japan/ 

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■現代をどんな心で生きるか 共感した記事をご紹介します
 ―「三つの寂しさと向き合う」―

 前回は広井良典氏の『ポスト資本主義』の読書日記に添えて、2009年年頭におけるわたくしの駄文をご紹介してしまいました。

 さて、今年2015年。「今」を語るもう少し雄弁なエッセー(?)をご紹介します。
 この感覚、読者のみなさまは共有していただけますでしょうか。

◆三つの寂しさと向き合う(演出家・平田オリザ氏、2015年8月16日)
 http://politas.jp/features/8/article/446 

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■「月刊人事マネジメント」誌 連載を更新しました
 ―「承認」の学習ステップ―

 「月刊人事マネジメント」誌(ビジネスパブリッシング社)に今年7回シリーズの連載をさせていただいている、「上司必携・行動承認マネジメント読本」の第2回を、同誌編集部のお許しをいただいてブログ上に掲載させていただいております。

◆第2章 「承認」の学習ステップー月刊人事マネジメント8月号
 http://c-c-a.blog.jp/archives/51921667.html 

 ちょうど、この記事をブログアップしようと思うさなか、NHK「クローズアップ現代」では「承認の問題です」「承認の劣化」という言葉が流れ…。みると、高槻の中学生殺人事件に絡め、スマホをもって深夜漂流する若者たちについて言ったものでした。
 ただ頭で必要性がいくらわかっても、「できる」ようにはならないのがわたしたち人間というものです。当協会では、「できる」には何が必要か、真摯に考えてきました。そしてご理解のあるお客様に恵まれ、2003年以来幸せな業績向上例を作り続けて今にいたっております。

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★そのほか幾つか「承認」および「マネジャー教育」「教育研修全般」についての雑感をブログに書きました。もしご興味があればご覧ください:

◆「大人に教える16か条」、哲学的思考、猛獣つかい
 http://c-c-a.blog.jp/archives/51921647.html
◆試論・学者さんはなぜ間違うのか
http://c-c-a.blog.jp/archives/51921811.html
◆盗用剽窃時代と出典明記主義、研修カクテル再掲
 http://c-c-a.blog.jp/archives/51921871.html
 
※このメールは、正田が過去にお名刺を交換させていただいた方・当協会のイベントやセミナーにご来場いただいた方にお送りしています。

解除される場合は、下記の解除フォームから受信していただいたメールアドレス入力して下さい。
メールアドレスを入力していただいた後、解除専用の確認メールをお送りさせていただきますので解除専用のURLをクリックして下さい。
いたずら防止のため解除の確認メールをお送りさせていただいておりますのでご理解のほどよろしくお願い申し上げます。
http://mag1.hyper-mail.jp/md/publish/quit.asp?mid=848


※このメールの過去アーカイブはこちらです
http://c-c-a.blog.jp/archives/cat_50052130.html 


※このメールは転送歓迎です。
もしこのメールを新たに購読ご希望のかたがいらっしゃいましたら、
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*…*…*…*…*…*…*…*…*…*…*…*…*…*
100年後に誇れる教育事業をしよう。
一般財団法人承認マネジメント協会
(旧NPO法人企業内コーチ育成協会
http://abma.or.jp
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
理事長 正田 佐与
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ツイッターアカウント: @sayoshoda

フェイスブックページ: http://www.facebook.com/sayo.shoda

ブログ「コーチ・正田の 愛するこの世界」
http://c-c-a.blog.jp/

近著『行動承認―組織の能力を最大化する「認める力」』
http://www.amazon.co.jp/gp/product/4434198572 


*…*…*…*…*…*…*…*…*…*…*…*…*…*

 某デザイナーと東京五輪のエンブレムその他のデザイン盗用問題がこのところ話題でありまして、

 すごくこの問題に興味があるわけではありませんが自分の分野に照らして考えれば、「出典明記主義」を改めて確認するのは大事なことかと思います。

 このブログで何度もお話したとおり、当協会というか正田は「出典明記」にこだわるほうです。こういう人は業界でも珍しいと思います。他社様の研修で資料をもらうと、「おやおや、出典が書いてないのだなあ」と思うことはよくあります。心理学の知見でもなんでも、だれがどういう実験デザインでやった、とわからない書き方をしています。
 
(実は心理学の実験にはかなりいい加減なものもある、追試してみたところ3分の2は再現できなかったという記事がありまして

 http://www.afpbb.com/articles/-/3058654?act=all 

これも1つ前の記事でいう「業績至上主義」のもたらす弊害といえそうですね。信頼できる重要なものを選別できる目を持ちましょう)


 出典明記のお話に戻ると、これも何度も書きますように、人様に教えている自分は所詮先人の知識や思考の蓄積の「器」であります。オリジナルの部分などそんなに多いわけではありません。それを自覚したうえで、自分オリジナルの考えについてはそうと断ったうえで述べます。

 それは決してアカデミズムの世界に入りたいからとかの下心ではなく、自分的にほかのかたの仕事をリスペクトする形で文を書きたいからそうなりました。自分がそういうスタイルで文を書くので、書物を読んでいてもそういうスタイルで書かれている方の文章が好きであります。フェアプレイで誠実な仕事だと感じます。

 ちなみに「行動承認」を重視するのは一応オリジナルの考えであります。「例の表」を使用しだしたのは記憶に残っている範囲では2006年ごろから。当時から既に「行動承認」は「存在承認」に次ぐ位置にありました。それ以前から、学校や大学と違って会社組織という共通の目的のもとに集まった人々について最適化した承認とは何か、ということを延々と考えてきました。ただひょっとしたらわたしの知らないだけで先行の類似のものがどこかにあったかもしれません。

 ひとつ懺悔をしないといけないのは、目下「月刊人事マネジメント」誌に連載中の「行動承認マネジメント読本」では、あまり出典明記とか引用の形で書けていません。これは編集部様からの「あまり理屈っぽくなく、話しかける文体で書いてください」というリクエストに従った形で、そうなりました。(人のせいにしていますネ)本当は忸怩たるおもいです。これに限らず、引用とか出典明記にこだわると、文章の読みやすさをそこなう、という問題はたしかにあります。


 なおこういう盗用剽窃花盛りで、「やったもん勝ち」みたいな時代ですと、当協会コンテンツが盗用される側になる危険性は大いにあります。とりわけ「内製化論」に煽られた人事担当者の皆様は…、やめとこう。そしてわたしが「女性」であることは盗用リスクを増します。ワトソンとクリックはDNA螺旋構造に関する研究を…これもやめとこう。


****


 「研修カクテル」という現象について、過去に何度か触れました。

 「研修カクテル」がもたらす副作用―傲慢、ナルシシズム、全能感、打たれ弱さ

 http://c-c-a.blog.jp/archives/51819638.html

 当協会方式の研修に触れてせっかく素晴らしくよい状態になった個人や企業様が、矢継ぎ早に類似の研修に触れることによって、急速にダメになってしまわれることがあります。

 事実なので、こうした指摘をするわたしのことを傲慢だと思わないでください。


 どういう現象なのだろうか、わたしの考えた今のところの答えは、

 昔の人だったら素直に一生の指針にするような思想にせっかく触れても、今の時代はどんどん他の類似品にアクセスできる。色々と見比べて天秤にかけて、そこで「消費者気分」が出てくる。
 さらに、自分が色んな思想群を俯瞰できる立場だ、という傲慢な感覚が出てくる。実はまだ何も自分は習得していないのであっても。
 最初の研修で味わった、自分の枠が大きく拡がったという感覚、自分の側の「修練」が問われるという感覚、それを「維持」するにも自分の努力が要る、という感覚、それがどこかへ行ってしまう。クルマの免許が取れてもいないのに大型バイクの免許もあるよねー、二種の免許もあるよねー、と屁理屈こねているようなものです。


 そうして伸びきったゴムのような感性の、とんでもなく傲慢なナルシシストができあがる。企業の人事とか研修担当者にそんな人は多いです。先日わたしが会った、「承認」について社内講師をやったという研修担当者も、「承認」にどういうカテゴリがあるか、かなり上のほうの代表的なカテゴリについても忘れていました。


 わたしが「例の表」にこだわるのはなぜかというと、あれは「承認」という難しいものをいつも脳のワーキングメモリに置いていただくためのいわば「圧縮フォルダ」なんです。

 最近の研究で、人のワーキングメモリは思われているほどキャパが大きくない、一度に4つぐらいのものしか処理できない、という知見が出てきまして

 http://karapaia.livedoor.biz/archives/52199837.html

 
 ―お友達(それもあまり近い縁ではない)の投稿でこういう知見に出会えるからフェイスブックも捨てがたいのですが―

 拙著『行動承認』に書いた、

「『承認』『傾聴』『質問』その他で構成される『コーチング』ですら、マネジャーがワーキングメモリの上に置いておくには『メモリ過多』です。
 しかし、『承認』だけでいいですよ、と言われれば置いておけるのです」

 これも決してどこかからの盗用剽窃ではなくてわたしのオリジナルの考えであり言葉なんですが、

 こうした「ワーキングメモリの限界」の知見をみるにつけ、やはりそれで正しいのだ、と思います。


 「『承認』だけでいいんですよ」

 こういうフレーズは、一見「甘やかし」のようにも見えてバッシングを浴びてきましたが、著書をきちんと読んだり研修をきちんと受けた方なら、その世界にはきっちり「叱責」もあり、バランスを欠いたものではないことがお分かりになると思います。

 そして実際に強烈な成果に結びついています。

 不遜な言い方ですが、わたしは職場という「乱戦状態」のただなかにあるマネジャーの脳内活動にきちんと想像力をめぐらしたからこそこういう教育プログラムを作ることができた、と思います。


 ・・・そして、極限までシンプルにしたいわけですが、しかし「承認」が「ほめる」に矮小化されたり、「感謝」だけに偏ったり、という、困ったところまでメモリサイズがダウンしてしまうのは避けたい、のです。

 だから「あの表」があります。これだけのメモリサイズのものですよ、これをワーキングメモリに置いておいてくださいね、と繰り返し念押しするために。


 だから、過去記事の繰り返しになりますが、当協会方式と他社方式をまぜないでください。まぜるな危険。まぜたら、今あなたの手にしている成果は失われます。すみません一見エクストリームなことを言っていて。でも過去のさまざまな事実に照らして本当です。


(一財)承認マネジメント協会
 正田佐与

 注:ここで扱う「学者さん」とは最近このブログに登場された方のことではありません。


 つれづれなるままに。

 「学者さんはなぜ正しくものを考えられないのか」
 
 これは特に、わたしに関わりのあるとみられる経営学とか経営教育学の分野について感じることですが、
 彼らの一人のブログをみていると、

「業績数値化」

というプレッシャーがあるらしい。

 論文を何本書いたとか、大学院生を何人獲得したとか。

 (実は、これを書いているのがわたしの天敵、「研修内製化」を提唱している当の大学の先生ご本人だったりする。消されるかもしれないから書いておくと7月30日付の記事である。だから「ベンダー排除―内製化論」のよって来る動機は自明なのだ。社内講師志望の人を大学院生として囲い込むことなのだ。たぶん本人さんも自分の動機はそこなのだと自覚はしていないだろうが、なんという利己主義の独り勝ち理論(笑)さすが団塊ジュニア。)


 そして最近のブログを見ていると、この人は「ものさしは幾らでも多数ある」という趣旨のことを書いていらっしゃるようなのだが、これは要は「iPS細胞に対抗するSTAP細胞的なものを論文数作成のためにいくらでも作り出せる」と言っているのにひとしいのではないのでしょうか。まあどうぞやってください、国の研究費使って。

 わたしは、自然科学分野の研究でもある一つの理論に収斂することは珍しくないことなので、価値のある理論は大きく価値づけすればいい、と思うほうです。もちろんそれしかないと思う思考停止はいけませんが。過去のこのブログで取り上げた経営学の本『世界の経営学者は何を考えているのか』でも、「理論のインフレ」という現象に言及しています。しかしそれは必要悪で仕方ない、と思わず、良識のある知性は「重要なもの」と「その他色々」をきちんと切り分けることが必要です。前にも書きましたよね、栄養学のスタンダードと、納豆ダイエットバナナダイエットのたぐいの関係って。この人、最高学府のくせに要は納豆ダイエットバナナダイエットのたぐいに際限なく惹きつけられる知性なんですよ。もっと三流大でやるならわかるんですが。
(そういう人に限って大学名を冠した自分のメルマガを発行したりするんです笑)

 学者さんがオリジナリティを追求するということを宿命づけられている限り、例えば学者さんが100人いてうち1人が正しいことを言ったら、残り99人は間違うことを運命づけられる。だから学者さんの集団に石を投げたら、99%の確率で間違っている人に当たる。「学者さんを見たら間違っている人だと思え」と思うのが正しいのかもしれない。正しい人を探すのは本当に難しい。彼らは自分の生存のために際限なく珍説を開陳し、「まだ確立されたものは何もない」と言い張る。自分の分野で確立されたものができてしまったが最後自分は確実におまんま食い上げになる。


 もちろんこの分野に研究者はうじゃうじゃいらっしゃるわけだが、わたしはこれまで何人かアクセスしてみた結果、この人たちとお付き合いすることに倦んでしまっている。ナルシシストで嫉妬ぶかくて、当協会の出してきた研修実績を認めようという気などさらさらない、簡単に言えば口惜しいから。中には女性のわたしにとんでもない汚い嘲り言葉を言った人もいた。そんな人たちをおだてたいとは思わない。彼らはやるべきことをやらない怠慢な人たちなのだ。


 ここで余談:他分野の例を挙げると、発達障害や自閉症のお子さんの療育指導の方法でTEACCHという有名な手法があるが、その中でも有名な「構造化」という手法は、まだ本家アメリカで検証されていないという。しかし「構造化」はとっくに津津浦浦で使われているし、体感的に有効なのは自明な手法である。たぶんあまりにも有効なので、学者たちが「無力感」で検証するのをサボってしまったのだと思う。それは反知性主義というような問題ではない、学問が無力だっただけの話だ。


 わたしが「この人ダメだな」と思った人は大体本当にダメになる、明らかにおかしなタイトルの本を書いたり良識ある人の吟味にたえないような底の浅い議論をするようになる。過去に「ほめる教」の教祖の1人と仲良くなった知り合いの学者さんが、急に発言の中に「ほめる」という言葉が増え、加えてわたしに対するメールに小バカにしたトーンがまじり、そしておかしなタイトルの本(うち何冊かは読んでみたがやっぱり中身も本当に変だった)を書くようになった。「ほめる」と「おかしくなる」がどう関連しているのかわからない。ただわたしは研修副作用のシリーズの一環で「幼児化か、老化か」という記事を書いたが、ある種の研修に暴露して幼児化したような状態になった人の脳の状態は、幼児化とも言えるが老化とも言える。何か、理性のタガが外れてしまったような状態になる。

 よくわからないが「承認」だと脳の可動域が広がるのだが、「ほめる」だと逆に狭まる気がする。

顔も「悪相」になる。テストステロンードーパミンが行動原理になった人の顔はそういうものだ。なぜ「ほめる」という本来いいことをやっているのにテストステロンードーパミン連合になるんだろう。すべてをバカにしちゃった感じ。


 お客様に「研修後、時間がたつと『承認』の理解が『ほめる』とか『感謝する』とかの部分的な理解に変質してしまって後退してしまうことがあるので気をつけてください」とメールする。

 このお客様は良くわかっていらして、「例の表」をラミネートして受講生さんに配ってくださっていた。


 いまだ、出口のみえないトンネル。

 敵だらけ。昨日の友は今日の敵。
 

 去年、「仲間」とよんだ人を全部切ってしまった。「仲間」になど期待できない、自分の思考の跡しか信じられない。
 たとえ「手伝いたい」というオファーがあったとしても、
 どんな醜い世の中をわたしが闘いながら生きていて、手伝うということがどんな泥沼の戦場に自分自身も身を置くことになるとわかって言っているだろうか。自分自身も手ひどく汚されるかもしれない、と知っているだろうか。また対立相手を斬るという汚れ仕事をしなければならないということをわかっているだろうか。


 ああまたネガティブなことを書いてしまった。


(一財)承認マネジメント協会
 正田佐与
 

 ふとTVから「承認」という単語が流れました。
 高槻の中学生殺人事件についての「クローズアップ現代」でスマホを持って漂流する中学生はじめ若い子たちの特集をやっており、筑波大学教授の土井隆義氏が「承認の質的劣化」という言葉を言いました。
 今の親子関係はフラットで、子供は過去ほど親に全面的に依存できない。勢い外の承認を求める。承認の質が劣化しているので、量で与えないといけない。
 ・・・と言うような趣旨でした。
 さて、この議論に同意してよいものかどうか。もともと、人は昔も今も根源的に「承認」を求める生物です。どうもそこが共有されていないまま、こんなふうに犯罪や問題行動の契機として「承認」を語る言説が溢れています。ふだんから「承認」という言葉に耳慣れていない、そのことについて考えたことのない一般視聴者にどれぐらい伝わったでしょうか。
 (またこのブログでの古くて新しい問題、「犯罪学」などの負の側から「承認」を語ると「承認」がおどろおどろしいものにみえてしまい、与え手の側の「やりたい」という動機に結びつきにくい、という問題もあります。)

 ともあれ「月刊人事マネジメント」誌に連載させていただいている、「上司必携・承認マネジメント読本」の2回目のゲラをご厚意により「公開OK」でいただきましたので、転載させていただきます。

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以下、本文の転載です:
 
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上司必携・『行動承認マネジメント読本』
〜人手不足チームのやる気と力の引き出し方〜


一般財団法人 承認マネジメント協会 理事長
正田佐与


第2章 「承認」の学習ステップ


 第2章では、「承認」スキルの習得について、「承認研修」の実際を通じて順に解説します。大きく4つのステップから成ります。

習得のために踏まえておくべきことは?

Step 1. 行動理論による「強化」の仕組みを知る

 心理学の行動理論では、「人は、行動した後に褒められると(ご褒美をもらうと/嬉しい気持ちになると)、その行動を繰り返しとる(強化される)性質がある」という法則(オペラント条件づけ)があります。まずは、この大原則を押さえていただきます。

Step 2.「承認」が人の働く動機づけの最大のものである(承認論)ことを理解する

 「承認」がすべての働く人にとっての根源的な欲求であることを、受講者自身の経験に照らし理解していただきます。金銭的報酬を得ることも、もちろん生活のためでもありますが、ひとかどの働く人として認められていることのシンボルでもあります。また精神的にも、労苦を伴った仕事が全く評価されなかったら、報われなかったら、誰しも深い悲しみを経験することでしょう。
 一方で「承認」の重要性を知ることは『両刃の剣』です。自分が認められたいという思いを募らせることは不幸なことでもあるからです。自分が「認める」側になり他人の「認められたい」を満たすことが、「承認欲求」を学ぶことの正しいゴールなのだ、ということも理解していただきます。


「承認」にはどんな種類がありますか?

Step 3. 承認の種類

 ここでいよいよ実際に使いこなすための知識の解説です。コミュニケーションの中での人を認める言葉、「承認」の代表的なものには、以下のような種類があります。重要な順になっています。

‖減濔鞠:あいさつや、名前を呼ぶこと、「最近どう?」など、相手が存在していることを知っていますよという意味合いのこもった日常的な声かけが「存在承認」です。すべての「承認」の中で最も基本的・根源的なものです。
行動承認(事実承認):存在承認と並んで最も重要なもの。「あなたは〇×しましたね」「してくれましたね」と、相手の行動したことを事実通り、記述的に言うものです。これは前述の「行動理論」を仕事の現場に応用したときに、「褒める」よりも「行動を事実通り認める」ことのほうが大の大人の場合、嬉しさすなわち「強化」につながりやすいことからきています。この後に述べる多くの「承認」は「行動承認」のバリエーションと考えられ、マネジャーが「行動承認」に重点的に取り組むと、前章で述べたような人々の目覚ましい成長が起こり、業績向上に直結します。
成長承認:「〇×ができるようになったね」「成長しているなあ」といった、相手の成長を認める言葉を言う「承認」です。とりわけ今の若い人は自分の成長を上司に認められたい気持ちが強いため、「成長承認」は有効です。
し覯名鞠:結果が出たときに言う「承認」。「やりましたね!すごい成果ですね」「よくやった!」など。当たり前のようですが大事なこと。
ゴ待・信頼:期待されると、それに応えようとしてパフォーマンスが上がる心の働きが私たちには備わっています(ピグマリオン効果)。ただし、根拠のない期待はかえって重荷になるもの。根拠を添えるには、△旅堝鮎鞠Г大事です。
ηい擦:人によっては言葉による「承認」よりこちらが嬉しい場合もあります。また「行動承認」をするうち、上司も「任せることが自然とできるようになるようです。
Т脅奸△佑らい:「行動承認」をしていると、自然とそれに伴って「感謝」の念が湧いたり、「大変だったろうなあ」と「ねぎらい」の気持ちが湧いたりします。これらは「行動承認」のバリエーションだ、と捉えます。こまめに相手の「行動」を認めていると「感謝、ねぎらい」も自然と出てきます。
╋Υ:相手の感情を共に感じること、あるいは理解すること。
感情を伝える(Iメッセージ):褒めることとは違い、「私は〇×と感じます」と、「私」を主語にして自分の感情を伝えます。嫌みにとられることが少なく、年上・元上司の部下との会話に悩む管理職にも使い勝手がよいようです。
Weメッセージ:「私たち」を主語にした言い方です。これも相手にとっては嬉しい表現です。
励まし、力づけ:「その調子です。続けてください」「あなたの判断は間違っていない」など、相手にエネルギーを与える言い方です。
褒める(Youメッセージ):「すごい!」「さすが!」など、よくある褒め言葉はここに分類しています。
第三者メッセージ:「お客様の担当者の〇×さんがあなたのことを『…』と褒めていたよ」など、お客様や他部署の人など第三者を主語にした言い方です。上司自身が「頑張っているな」などと言うと操作的に聞こえる場合がありますが、第三者が主語であると真実味があり、素直に喜べるものです。
その他:「話を聴く」「相手の考えを質問してみる」「相談する」「教えを乞う」「提案や意見を採用する」「決定の理由・根拠・背景・目的を説明する」「メールにすぐ返事をする」「叱る」など。
 研修では、上記の 銑を用例を添えて一覧にした表をお渡しします。このA4・1枚もののシートは忙しいマネジャーの役に立つようで、「机のガラスマットの下に入れて毎日見ている」「手帳のビニルシートの中に入れている」など、様々なやり方で研修後に手元に置いていてくれます。
 「べからず集」でなく「望ましいこと」の一覧なので、見ると自分自身前向きな気持ちになり、部下を「承認」しよう、という気持ちになれるのです。

実際に試してみたいのですが?

Step 4. 「行動承認」+「Iメッセージ」の実習

 Step 1.〜3.を踏まえ、最後に「行動承認+Iメッセージ」の実習をしていただきます。この実習の手順は以下の通りです。
/場の部下や後輩1人を選び、その人の最近行った良い行動を3つ、書き出してもらいます。
△修譴鉾爾辰董屬△蠅たい」「助かっている」「よくやっているなあ」といった、良い感情が自分の中にあれば、それも書いてもらいます。
 続いて、,鉢△鯊海韻新舛如■何唯荏箸料蠎蠅謀舛┐討發蕕い泙后
 相手は、部下の年齢、性別、人となり等を理解したうえで、部下になりきった状態でその言葉を受け取ります。
 この実習のポイントは「部下になりきる」こと。すでに功成り名遂げた管理職同士が互いを「承認」し合う形で実習を組むと、心があまり動かないことがあります。未熟な成長途上の部下にとって「承認」されることがどれほど嬉しいかを、管理職が自身の若い時代を思い出しながらしっかり体感していただくことがカギになります。実際にやってみると、女性管理職などでは感極まって涙ぐむことさえあります。
 ここまでくれば、あとは職場で「承認」を実践していただくのみ。部下の喜びの表情だけでなく、事後のプラスの行動変化まで観察していただけるといいですね。(了)


「上司必携・行動承認マネジメント読本」シリーズ全体の構成は:

第一章 行動承認は”儲かる技術”である(2015年7月号)
 http://c-c-a.blog.jp/archives/51919833.html
 第二章  「承認」の学習ステップ(8月号掲載)
 http://c-c-a.blog.jp/archives/51921667.html
第三章 女性活用と登用は「上司の眼差し」次第(9月号掲載)
 http://c-c-a.blog.jp/archives/51923763.html
第四章 LINE世代に対するマネジメントとは(10月号掲載)
 http://c-c-a.blog.jp/archives/51925545.html
第五章 「踏み込みすぎない」メンタルヘルス対策(11月号掲載)
 http://c-c-a.blog.jp/archives/51927183.html
第六章 部下の凸凹を戦力化に転じる(12月号掲載・本記事)
 http://c-c-a.blog.jp/archives/51932814.html
第七章 伝えたいことが「伝わる」伝え方(2016年1月号掲載)
 http://c-c-a.blog.jp/archives/51934650.html



(一財)承認マネジメント協会
 正田佐与

 以前の拙著『認めるミドルが会社を変える』(2010年)では、「大人に教える16か条」として、マネジャー教育のためにこれまで研修機関、講師として心がけてきたこと、取り組んできたことをまとめてみました。
 今見ると章のタイトルにもとっていないし、目立たない書き方しちゃったなあと思います。

 このところの「研修内製化の波」それも『行動承認』出版後に「オレも承認の講師になれるかも?」と思われたかたのご参考用に、再掲しておきたいと思いました。

 その16か条とは・・・

^貭螳幣紊慮修時間数、継続性、期間を確保する
△罎辰りした丁寧な講義。質疑を奨励する間合い
9峙粗睛討砲弔い突論的根拠を示す。できるだけ本物の講師にも触れさせる
ぜ講生への承認
ゥ侫ローアップ。宿題を出し、コメントをして返す。相互に共有するほか
Ε瓮襯泪、パネルディスカッションなどで情報共有。先輩の姿を示す
Д泪優献磧柴瓜里離灰潺絅縫謄を作り、交流を促す
┯開講座もできるだけマネジャー同士で受講できるようにする
「宿題を太田教授にみてもらおう」「承認大賞に応募しよう」などのキャンペーン
私自身の姿勢がぶれない、一貫したメッセージを発する
つねにマネジャーの人格を尊重する。手段として見ない。仕事の忙しさ、大変さに共感を示す
断言口調でものを言わない。絶対不変の真理であるように言わない
「上から口調」でものを言わない
私自身が常に学んでいること、それを発信すること
マネジメントはつねにネガティブなことと対面することを迫られる。それに鑑み、セミナーをあまり楽しくエンタテインメント風に演出しない。ブログでも時折ネガティブなことも書く
阿△襭嫁越しの研修では、1年目に成果を挙げた受講生6名を「内部講師」に仕立て、2年目の研修(6回連続)に順番に来て体験談を話してもらった


 以上であります。

 まあざっとみてリーダーシップの行為に似ている、という感想もありえるでしょう。

 これはあくまでわたしが「承認」という、一般的にはむずかしいものをマネジャーさん方に教えて習得していただく場合のものです。業界ではむしろ特殊なほうの心得だと思います。講師の先生によって、力点の置き方は違うでしょう。びっしりデータを書き込んだ、特殊なグラフを使ったスライドとか、すごい早口でしゃべりまくるとか、そういうところにアイデンティティを置かれる先生もいらっしゃるかもしれません。

 今はわたし自身もこの16か条を全部はやれていないところもあるなあと思います。40代前半に比べるとかなり疲れてしまいましたね。イベント業とかできないですもんね。

 逆に最近ある方に評価していただいたような、「シンプルでわかりやすい」一方で「哲学的な思考が土台にある」ことを感じていただく、というのも、16 か条には含まれなかった、でも大事な要素なのだと思います。めったに指摘していただけないがわたし的には大事にしてきたところだけにありがたいお言葉でした。また学びやすさに配慮するためできるだけ易しい言葉を使って語るのでともすればその背後の哲学的思考というのは、なんとなく感じはするのだけれど知覚されず、言葉の易しさだけが「利用可能性」として印象づけられて内製化を招いてしまうところがあるので、ありがたいお言葉でした。その評言をくださった方は学生さんの論文にも細やかなコメントをされる方のようです。

 またの後半、「できるだけ本物の講師に触れさせる」のところは、最近はやれていませんが、任意団体〜NPO時代の前半には、東京や神奈川からわたしが「これは」と思う講師の方をお招きして、「本物の先生」に登壇していただく、ということをしていました。「強み」の森川里美さん、「部下力」「ビジョンマッピング」の吉田典生さん、システム思考の小田理一郎さん、それに「行動理論アメフトコーチング」の武田建氏にも。そう、システム思考さんとは仲良かったナー。

 やっぱり「本物」は違うんです、教えてきた迫力とか奥行きが。質疑をしても対応が全然違うんです。
 (だから、訓練不足の人が講師をやったら受講生さんが可哀想なんですよ。)

 システム思考に関しては、わたしは確か東京で基礎〜応用と2つか3つのコースを受講しましたが、それで自分が人に教えられるようになるとは全然思わなくて、チェンジエージェント社の社長の小田氏に1回来ていただいたのと、その後もう1回、同社の女性の方で長年スタッフをされていた方に来ていただきました。やっぱり、何かのコンテンツを教えられるようになるのは、「徒弟制」のような学びが必要だと思います。コンテンツを学ぶ側に少々なったぐらいでは、また少々の「講師育成セミナー」を受けたぐらいでは教える資格にならないと思います。教えるからにはそのコンテンツに没入しないと。またそのコンテンツを一から作ったり認知されるために道を切り拓いてきた先生に畏敬の念をもたないと。




 「哲学的思考」とはまたすこし別の話題ですが、

 マネジャーとかリーダー向けの教育は、「猛獣つかい」の仕事でもあります。厳しい質問が出るときも出ないときもありますが、どんな質問にでも備えはできているといえるだけの引き出しが必要です。また、質問に答えられる答えられないの問題ではなくて、彼ら彼女らの中にある「攻撃性」をはるかに上回り包み込むぐらいの大きさの「愛」が必要です。 大学生とか若手・中堅だけ教えてきた人には分かりにくい感覚かもしれません。

 ―「猛獣つかい」とは、たとえば今夏公開中の映画「ジュラシック・ワールド」で主人公の訓練士がヴェロキラプトルの顔に手を出して頬をなでるシーンを思い出していただけますでしょうか―

 わたし的には、そういうことが「ノウハウ」です。

 前にも書きましたがそういうことが横でみていてわかる方とそうでない方とがいる、と思います。わかる方は少数派ですね。

 そして正田の風貌をみて、「この人は若手か中堅向きの講師だろう」と思われる方も多いんですが、どっこい理論上も組織のトップに近い方々、社長さんや役員さん、部長さんぐらいから課長さんあたりまでの人に学んでいただくのが組織への浸透はいいです。中堅さんあたりにだけ教えても立ち消えになります、1つの組織の中で。また正田自身もそのクラスの上層部の「獰猛な」方々と相性がいいです。子供子供した見かけ上そう見えないかもしれませんが。

 「見かけ問題」最近もフェイスブックにぶちぶち書きましたが困ったものです―。
 ちょっと「16か条」から話がそれてしまいました。


そういえば去年、わたしの講師ぶりをみて「話す口調に一切ナルシシズムが入っていない」と言われた方もいました。
色々総合して「16か条」作り直さないといけないかもしれないです。











(一財)承認マネジメント協会
 正田佐与
 

お世話になっている皆様


 おはようございます。
 一般財団法人承認マネジメント協会の正田です。
 「今年は秋が来るのが早いですね?」
 いつになく涼しい9月の始まりを迎えて思います。

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 本日の話題は:

■資本主義の現在にアカデミズムからの責任ある考察
 『ポスト資本主義』読書日記をアップしました

■続・ヨロコビの感情で仕事をすることはできるでしょうか
 ―幸福感が内省をつくる・研修1か月のイノベーション・協力行動・時間・若手…

■6年半前の漠然とした予想。今は…?

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■資本主義の現在にアカデミズムからの責任ある考察
 『ポスト資本主義』読書日記をアップしました

 「資本主義」を問いなおす出版が近年続いています。
 今年は『21世紀の資本』のトマ・ピケティ氏来日の話題もありましたが、千葉大学教授・広井良典氏の『ポスト資本主義―科学・人間・社会の未来』(2015年6月、岩波新書)を読書日記で取り上げてみました。
 広井氏は公共政策・科学哲学専攻。経済学の外の学問、科学や哲学を動員して語る「資本主義の未来」です。多くの方は実感を伴ってうなずける結論ではないかと思うのですがいかがでしょう―。
 長文ですが、もしお時間があればこちらの記事をご覧ください:

◆アカデミズムからの責任ある論考、「福祉」と「環境」の興味深い相関―『ポスト資本主義』をよむ
http://c-c-a.blog.jp/archives/51921557.html 

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■続・ヨロコビの感情で仕事をすることはできるでしょうか
 ―幸福感が内省をつくる・研修1か月のイノベーション・協力行動・時間・若手…

 前回もご紹介した、ベーカリーのチェーン様での「承認研修」の2回目です。
 ここでは、1カ月間で観察された働き手の方々の多数の喜ばしい変化が語られました。
 そこでは、
 「若手の自発的行動の増加」
 「協力行動の増加」
 「商品開発をしてくれた」
 そして、
 「内省の言葉を言ってくれた」
などの変化がありました。
 また、研修終了時にはちょっとしたサプライズがありました。
 詳しくはこちらの記事をご覧ください:

 ◆幸福感が内省する強さをつくる―株式会社牧様2回目研修
 http://c-c-a.blog.jp/archives/51921235.html 

 
 実は、前の記事の広井教授からは、拙著『行動承認』に嬉しいエールをいただいておりました。
 これもご紹介すると自慢めいてしまいますが、親愛なる受講生様方が引き続き確信をもって取り組んでいただくため、ご紹介する次第です。

 ◆「土台に哲学的な思考」広井良典先生より書評(メール)をいただきました
 http://c-c-a.blog.jp/archives/51921034.html 

 非常に情報量の多い現代ですが、「承認」は恐らく大きな歴史観に照らして正しい方向のもの。漠然とそんな確信をもってきました。
 これまでの受講生様、そしてこれからお出会いする方々も、共有していただけますように―。
 

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■6年半前の漠然とした予想。今は…?

 ふと思い立ってブログの過去記事を見直してみました。
 今から6年9か月前。2009年1月1日に書いた記事があります。
 ここで未来に関する「悲観的なシナリオと楽観的なシナリオ」というのを、これは何もデータの裏づけがあるわけではなくて漠然と書いております。

◆ともに過ごすこの1年を
 http://c-c-a.blog.jp/archives/51433600.html 

 わたしの尊敬する友人のひとりは、「僕の周りは今まさにこの『悲観的なシナリオ』の通りになっています」と言われました。それは残念なことですね…!
 ただ、この悲観的なシナリオも1か所明らかな間違いがあります。さて、どこでしょう…^^

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『ポスト資本主義―科学・人間・社会の未来』(広井良典、2015年6月、岩波新書)を読みました。

(すみません、最近読書日記の長文化が続いています。今度はワード18pになりました。ご容赦ください。)

 現代を「第三の定常化社会への移行期」と規定する著者の最近の集大成と位置づけられる本。

 コンパクトな中に非常に多数の分野、多数の研究群を渉猟しながら大きなパラダイムを浮かび上がらせ、そして日本のすすむべき未来(緑の福祉国家/持続可能な福祉社会)を提言しています。

 この著者の近年の著作『コミュニティを問いなおす』『創造的福祉社会』『人口減少社会という希望』などの集大成であろうとともに、著者自身の科学への関心をも盛り込んだ、とあとがきでは述べられています。

 内容的には新書何冊か分を集約している感じで非常に多数の話題が登場するので読みやすい本とは言い難いのですが、さっと読んだだけでも主張が明快に抵抗なく頭に入ってくる、というのは、恐らく著者の簡にして要を得た「文体の力」と、所々に出てくる「ブレードランナー」「インセプション」などの映画の話題、手塚治虫の「火の鳥」など、サブカルチャーからの引用がありイメージが喚起されやすいことなどからくるのでしょう。けっして衒学趣味的な読後感は持たれないでしょう。

 ―「文体」に関しては、ヘーゲル哲学の晦渋を極めた文体に泣かされた身としては有難さが身に沁みますね。

 たぶん、当ブログの長い読者の方は、本書の時代認識と未来への提言について、直感的に同意される方が多いと思うのですが、それが全体としてどういう論考から成っているのか、というところを少し丁寧にフォローしてきたいと思います。
 
 では恒例の抜き書きです。今回は引用多数となります。(引用下線)

 人類の歴史を大きく俯瞰すると、それを人口や経済規模の「拡大・成長」の時代と「定常化」の時代の交代として把握することができ、次のような三回のサイクルがあったととらえることができる。(pp.1-2)
第一のサイクル:現生人類(ホモ・サピエンス)が約20万年
第二のサイクル:約一万年前に農耕が始まって以降の拡大・成長期とその成熟
第三のサイクル:主として産業革命以降ここ200〜300年前後の拡大・成長期
 これについて本書ではアメリカの生態学者ディーヴェイの世界人口の長期推移についてのモデルを提示しています。グラフから、ほぼそうした曲線を描いているのがわかります。

 こうした人間の歴史における「拡大・成長」と「定常化」のサイクルは、人間の「エネルギー」の利用形態、あるいは「人間による“自然の搾取”の度合い」から来ると本書はいいます。狩猟採集の場を各地に求めてホモ・サピエンスは地球上に広がり、そして狩猟採集のみでは十分な食料確保が困難になったとき、約一万年前に農耕を始めた。そして共同体的秩序や階層や格差が生まれた。
 農耕段階が資源・環境的制約にぶつかって成熟・定常化すると、ここ200〜300年の工業化の時代に入る。(pp.3-6)

人間の歴史の中でのこの第三の拡大・成長と定常化のサイクルの全体が、(近代)資本主義/ポスト資本主義の展開と重なるというのが、本書の基本的な問題意識となる。(p.6)

 そして、「思想」の誕生。「人間の歴史における拡大・成長から定常への移行期において、それまでには存在しなかったような何らかの新たな観念ないし思想、あるいは価値が生まれた(p.7)と本書はいいます。「心のビッグバン(意識のビッグバン)」あるいは「文化のビッグバン」という現象。第一のサイクルの中で加工された装飾品、絵画や彫刻などの芸術作品が約5万年前に一気に現れた。第二のサイクルでは、現在に続く「普遍的な原理」を志向するような思想が地球上の各地で“同時多発的”に生まれた。すなわちインドでの仏教、中国での儒教や老荘思想、ギリシャ哲学、中東での旧約思想(キリスト教やイスラム教の源流)などがそう。最近の環境史という分野では、この時代、これらの地域で農耕と人口増加が進んだ結果として、森林の枯渇や土壌の浸食等が深刻な形で進み、農耕文明が最初の資源・環境制約に直面しつつあったといいます。本書は、仮説と断りつつも、「これら普遍思想(普遍宗教)の群は、そうした資源・環境的制約の中で、いわば「物質的生産の量的拡大から精神的・文化的発展へ」という方向を導くような思想として、あるいは生産の外的拡大に代わる新たな内的価値を提起するものとして生じたと考えられないだろうか」と提起します。定常期とはむしろ豊かな文化的創造の時代だ、とも(p.7-9)。

 そこで、現在が人類史における第三の定常化の時代だとすれば、心のビッグバンにおいて生じた自然信仰や、第二サイクルで生まれた普遍宗教に匹敵するような、根本的に新しい何らかの価値原理や思想が要請される時代の入り口を私たちは迎えようとしているのではないか という問題提起にもつながります。(p.10)

 このあとは今後のシナリオとして2つの両極端が示されます。

 超(スーパー)資本主義VSポスト資本主義。言い換えれば拡大・成長と定常化と。この2つの方向性がせめぎあいながら、21世紀は定常型社会への移行の世紀となるだろう、本書の大きな見解としてはそうです。

 前者・超(スーパー)資本主義は、「21世紀は『第4の拡大・成長』の時代となるはずだ」というビジョンに基づいています。著者は、「そのような技術的な突破の可能性があるとしたら、以下の3つが主要な候補として考えられると思う」と、第一に「人工光合成」、第二に「宇宙開発ないし地球脱出、第三に「ポスト・ヒューマン」とその候補を挙げます。(ただし著者自身はこれらに懐疑的であるとも述べます)

 ―このあとの「ポスト・ヒューマン」論では、「共同主観性」という、以前ヘーゲル承認論の中でわたしが引きつけられた「間主観性」の概念に似たものが出てきたり、「ソーシャル・ブレイン」が出て来たり、子供のころ親しんだ荘子の「胡蝶の夢」が出て来たりして楽しめました。先月ぐらいに「全部わたしの妄想なのではないだろうか」と言ったばかりですね。「共同幻想」というのは「会社の理念」もまさしくそういうところがあるのですが。

 このなかでおもしろい記述としては、AI(人工知能)に関する記述をひとつご紹介しておきましょう。

 …逆手をとって、AIと人間(ないし生命)を“融合”させていけばよいではないか。そして、AIのすぐれた面(上記のような情報処理能力の速さや記憶容量の大きさ)と人間のすぐれた面(生存への志向とそこから派生する世界の「意味」づけ、あるいは他者との共感能力等々)を組み合わせれば、いわば“最強の存在”―それを「人間」と呼ぶかどうかは別として―が生まれるはずではないか。(p.15)

 ―人間のすぐれた面として、「生存への志向とそこから派生する世界の意味づけ」としているところが興味ぶかいですね。「共感能力」については、ひょっとしたら近い未来に機械に代替されるかもしれない、という気がしています。人間の中にもそれが低い人は多いですし。

 ―さあ、前提の「おさえておきたいこと」のところだけで随分長くなってしまいました。やっと本論にまいります―

 資本主義とは、なにか。
 本書は、「純化した把握」として、
  資本主義=「市場経済プラス(限りない)拡大・成長」を志向するシステム」と呼びます。

 「市場経済=悪」ではない。資本主義と市場経済が異なる点は何かというと、それは最終的に「拡大・成長」という要素に行き着くのではないか、と。(「G(貨幣)―W(商品)―G’(貨幣)」)資本主義は「そうした(量的増大を志向する)経済活動を広く社会的に肯定するシステム」だ、とも呼びます。

 こうした資本主義精神を象徴するものとして、第二サイクルから第三サイクル、すなわち定常から拡大へ移行した時期に登場したバーナード・マンデヴィル(1670-1733)という思想家の「質素倹約といった個人のレベルでの“美徳”は社会全体の利益にはつながらない、逆にこれまで道徳的に悪とされてきた、放蕩や貪欲といった行為、一言でいえば限りない私利の追求という行為が、結果的にはその国や社会の繁栄につながり、また雇用や経済的富も生み出す」という主張があります。(pp.28-34)

 では、マンデヴィルのいうような放蕩や貪欲、私利の追求はその後の時代でなぜ可能になったのでしょうか。わたしたちの属する「第三の拡大・成長」期すなわち(近代)資本主義と呼ぶものの中心は、自然資源の圧倒的な規模での開発と搾取という、食糧・エネルギーの利用形態の根本的な転換にあった、と本書では言います。
 ここでは二つの次元が関係し、すなわち

(1)「個人―社会」の関係……個人が共同体の拘束を離れて自由に経済活動を行うことができ、かつそうした個人の活動が社会全体の利益になるという論理【個人の独立】
(2)「人間―自然」の関係……人間は(産業)技術を通じて自然をいくらでも開発することができ、かつそこから大きな利益を引き出すことができるという論理【自然支配】
と言います。(pp.36-37)

 さて、こうした資本主義は、実は「科学」―正確には「(西欧)近代科学」―の基本的な世界観や態度と同じ構造をもっているのではないか、と本書。

 17世紀の「科学革命」以来の「科学」は2つの基本的特質をもっていた。すなわち、
(1)「法則」の追求―背景としての「自然支配」ないし「人間と自然の切断」
(2)帰納的な合理性(ないし要素還元主義)―背景としての「共同体からの個人の独立」


 こうした特質は、「資本主義の2つの次元」として上記に挙げた要素と重なる、といいます。いずれも「共同体から独立した個人」および「自然支配(自然と人間の切断)」という、共通の世界観や思考から派生した営みであると。(pp.38-40)

 このあとは資本主義の歴史の概観になります。お詳しい方は飛ばして読んでいただいたらいいのですが、ジョン・ステュワート・ミル(1806-1873)は19世紀半ばに「定常状態」論を提起しています(『経済学原理』1848年)。当時はなお農業の比重が大きく、ミルの議論も(一国内の)「土地の有限性」を意識したものだったといいます。
 そして20世紀、ケインズの登場。ケインズは、経済成長を最終的に規定するのは(生産ではなく)人々の「需要」であり、しかも人間の需要は政府の様々な政策によって誘発ないし創出することができる、これにより不断の経済成長が可能であると主張しました。人々の需要や雇用という、市場経済ないし資本主義の“根幹部分”を政府が管理しまた創出することができるという、これは資本主義の根本的な“修正”と言えるものです。国家あるいは政府の政策目標として「経済成長」が語られるようになったのは比較的最近のことであり、第二次大戦後のケインズ政策の時代だったといいます。また経済成長の指標である、GNP(国民総生産)やGDP(国内総生産)も世界恐慌後のこの時代につくられました。「“GNPの起源”としての世界恐慌」と言うこともできます。
 一方で近年のブータンの「GNH(幸福総生産)」をはじめとする様々な幸福度指標、またスティグリッツやセンといった経済学者が「GDPに代わる指標」に関する報告書を刊行するなど、「豊かさ」の指標に関する動きが活発化していることについて、本書の解釈は:

 ちょうど世界大恐慌がGNPという新たな指標を要請し、それがケインズ政策と連動していったのとパラレルに、現在の世界の状況を踏まえた真の豊かさや発展に関する新たな指標やコンセプト、ひいては「限りない拡大・成長」というパラダイムそのものの根底的な見直しが求められる時代に私たちは入ろうとしているのではないだろうか。(pp.45-51)


 次に、「科学国家=アメリカ」と「福祉国家=ヨーロッパ」というコンセプトが出てきます。

 ケインズ政策的枠組みにおいて、他国に比べて「科学研究」への公的投資に圧倒的な力を注いできたのが第二次大戦後のアメリカであり、他方、社会保障を通じた再分配に優先的なプライオリティを与えてきたのがヨーロッパであったと言える。象徴的に、前者を「科学国家」、後者を「福祉国家」と呼ぶことが可能であるだろう。(p.53)

 
 
外的な限界と内的な限界。ローマ・クラブによる「成長の限界」(1972年)はミルの定常論に次ぐ、第二段階の定常経済論と位置づけることができ、それは工業化の資源的限界という歴史的局面と呼応していた。これを“外的な限界”とすると、同時に“内的な限界”という状況も起きた。すなわち、人々の需要が徐々に成熟ないし飽和し、かつてのように消費が際限なく増加を続けるということを想定し続けられなくなるという限界。
(p.56)

 80年代以降には2つの動きが起こり、「成長の限界」論がいったん“後退”する。その動きとは、
情報技術の展開とも一体となった、アメリカが主導する金融の自由化とグローバル化
いわゆるBRICsに象徴されるような新興国の台頭と工業化
しかしそうした新たな展開(特に 砲、少なくともいったん明確な形で破綻したのが2008年のリーマン・ショックだった、と本書。(pp.57-58)

 ここまで駆け足で現代までの直近の状況をみてきましたが、今後を展望するための思考材料として、著者は「地球規模での少子化・高齢化の進展」を挙げます。中国をはじめアジア諸国でも高齢化と少子化は進行し、国連推計では世界人口は2100年には109億人で、2050年時点の人口推計は96億人と、21世紀後半はほぼ定常状態に入る。「21世紀はむしろ“高齢化の地球的進行”が進んでいく時代なのであり、それは自ずと人口の成熟ないし減少を意味する」と本書は述べます(pp.60-61)

 このような今世紀後半の展望を本書では「グローバル定常型社会」と名づけたり、国際政治学者の田中明彦の言葉を引いて「新しい中世」と呼んだりしています。(pp.62-63)

 さて、先にみたアメリカが主導する金融の自由化とグローバル化は、この時期における科学・技術の新たな展開、すなわち情報技術とが文字通り“両輪”の関係であった、と本書。
 私たちが生きる今という時代はいわば「情報文明の成熟化ないし飽和」あるいは「ポスト情報化」ともいうべき局面への移行期と考えるべきである。(p.66)

 このあとリーマンショックに絡めて「期待の搾取」、また「観念の自己実現」という概念が出てきますが詳しくは割愛。後者から導きだされるのは、人間の経済とは、その基盤にある貨幣を含めて主観的な(共同)幻想ということになり、まさに“脳が見る(共同の)夢”になる。経済学者の西部忠は、そのような現在のシステムを改変していくためには貨幣そのもののありようを変えていくことが原理的に必要であるとし、それを踏まえて「コミュニティ通過」(ローカルな地域をベースとし、自立循環型の地域経済を確立するような、利子を生まない貨幣)を提案します。(pp.66-76)

 こうした、経済における期待や観念と現実の乖離をどう考えたらいいか。ここで本書は、

  ひとつのありうるビジョンとして、そのように市場経済を無限に“離陸”させていく方向ではなく、むしろそれを、その根底にある「コミュニティ」や「自然」という土台にもう一度つなぎ“着陸”させていくような経済社会のありようを私たちは志向し実現していくべきではないか
と述べます。
 個人・共同体・自然をそれぞれ市場経済・コミュニティ・環境とリンクさせたピラミッ
ドの図が示され、最下層の「自然/環境」に着陸させる矢印があります。

 さて、近年「脳」と「意識」をつなぐ研究が脳科学の方から盛んにおこなわれているよ
うです。私はうっかりこのあたりの文献を積読して読みそびれているのですが、本書では
アントニオ・ダマシオの主張、「事故や意識の根底には、安定した有機体の内部環境から生
まれる『原自己(protoself)』があるとし、それを抜きにして自己意識や思考、感情といった
ものを考えることはできないという議論を紹介します。こうした脳科学の側からの人間認
識が、「市場経済をその土台にあるコミュニティや自然につないでいく」という方向、すな
わち「脳」をその土台にある「身体」に“着陸”させるような方向ともつながるものだ、
と本書は主張します。
 これは著者のかなり以前にさかのぼる「私(自己)の重層構造」という理解にも対応し
ているとします。
A 個人の次元:“思考する私”(=反省的な自己ないし自我)
B 共同体の次元:“コミュニティ的な存在としての私”(=他者との関係性における自己)
C 自然の次元:“身体的な私”(=非反省的な自己ないし個体性
)(pp.80-81)

 という、私流の造語では「自己の身体性」というお話になるのでした。これは、デカルトに限らず哲学書を読んでかならず突き当るフラストレーションと同じで、「思考する私」が、「身体性」から離れて思考しているときその思考の結論を正しいと認めてよいか?という問いにもつながるでしょう。現代のわが国の少壮哲学者にもそれを思うことがあるな。

 さて、第II部「科学・情報・生命」では、

 科学国家アメリカ。戦後アメリカは軍事分野以外では、医療あるいは医学・生命科学研究分野に圧倒的な予算配分を行ってきました。たとえば2015年度の政府研究開発予算のうち、国防省予算を除く部分の4割以上(44.9%)をNIH(国立保健研究所)の予算が締めています。ところが、主要先進諸国の医療費の規模と平均寿命をみると、アメリカは医療費の規模(対GDP比)が先進諸国の中で突出して高く、しかしそれにもかかわらず、平均寿命は逆にもっとも低いという状況があります。;">つまりアメリカは、研究費を含めて医療分野に莫大な資金を投入しているが、にもかかわらず、その成果ないしパフォーマンスはむしろかなり見劣りのするものとなっているのです。著者は、日本版NIH構想のような動きがいわゆるTPPとも一体となり、アメリカのような私費医療の拡大と医療費の高騰、医療における格差拡大と階層化、平均寿命ないし健康水準の劣化など、アメリカの医療システムの“悪いとこ取り”とも言うべき事態が進んでいくことを危惧します。(pp.84-91)

 ところで、医療や健康をめぐるテーマを考えていくに当たって「社会的(ソーシャル)」な要素や側面が重要になってくるということを、近年の諸研究が示唆しています。これは19世紀に成立した「特定病因論」という考え方から、それだけでは解決できないうつや慢性疾患に対応するために新たに発展したものです。「社会疫学」という分野は、「健康の社会的決定要因」という基本コンセプトに基づいています。(pp.92-93)

 そして私がここで注目したいのは、このように、「個人」あるいは個体というものを単に独立した存在としてとらえず、他者との相互作用を含む社会的(ソーシャル)な関係性の中でとらえたり、あるいは他者との協調行動や共感、利他的行動といったものに焦点を当てるような研究が、近年、文・理を含む様々な学問分野で、“百花繚乱”のように生成し発展しているという点だ。(p.94)

 ここでは、『共感の時代へ』のドゥ・ヴァールやオキシトシン研究のポール・ザック、ソーシャル・ブレイン研究など、当ブログでおなじみの著者や文献名が出てきて嬉しくなります。

 こうした諸科学は、「独立した個人」というものを基本に置き、また(経済学などでは)そうした個人は“利潤の極大化”を追求するという個体中心のモデルを想定した近代科学のパラダイムとは異質な要素を含む、科学の新たな方向性を示すものととらえることができるだろう、と本書。
 関係性や人間の協調性等への注目といった点自体を含めて、そうした科学や知のあり方(ひいてはそこで提示される人間観や自然観等々)の全体が、その時代の経済社会の構造変化や環境等によって大きく規定されているのではないか(p.97)

 そこで再度17世紀のマンデヴィルの例を引き、
 およそ人間の観念、思想、倫理、価値原理といったものは、究極的には、ある時代状況における人間の「生存」を保障するための“手段”として生成するのではないか(p.99)
という著者の考察が述べられます。

 近年の諸科学において、人間の利他性や協調行動等が強調されるようになっているのは、そのような方向に行動や価値の力点を変容させていかなければ人間の存続が危ういという状況に、現在の経済社会がなりつつあることの反映とも言えるだろう。(同)
 さらに一段進めた考察として、
 「情報」を含めてこうした科学の流れは、(略)近代科学が上層の「個人」のレベルから、その視点や関心を中層のレベル(情報やコミュニティ、個体間の関係性に関するレベル)にシフトさせてきたととらえることができるだろう。(p.101)
と、述べています。
 
 このあとの章では自然観や生命観にまつわるかなり深い議論が出てきます。(pp.103-115)
・ニュートンが代表する、機械論的自然観。(ニュートン自身は彼の古典力学の「力」について、キリスト教の神と結びつけて理解していたという)
・またデカルトが代表するような、「人間と人間以外」との間に本質的な境界線を引く立場。
・続いて、「生命と生命以外」に境界線を引く立場。ドイツの生物学者ハンス・ドリーシュ(1867-1941、「エンテレヒー」という概念を唱える)がその代表で、ドリーシュは生命には因果論的把握に還元できない“目的性”をもつ、とした。物理学者シュレディンガーの「生物は負のエントロピーを食べて生きている(無秩序から秩序を生み出している)」という議論がそれに続く。
・最後は、非生命―生命―人間をすべて連続的なものととらえる見方。ベルギーの化学者イリヤ・プリゴジンの非平衡熱力学に関する議論が代表。非生命にも秩序形成(自己組織化)がみられるとする。「それは、自然そのものの中に秩序形成に向けたポテンシャルが内在しており、それが展開していく中で生命、人間(ないし精神)といった存在が生成していったととらえる、いわば一元論的な世界像とも言える。」(p.112)

 ここで著者は、上記の4つの立場のうち、1つめと4つめは実は「共通しているものがある」と述べます。ニュートンらの機械論的な把握なのか、森羅万象は生命も非生命も一元的であるとするアニミズム的把握なのか。
 “機械論ですべてを説明しようとしていったら、人間と人間以外、あるいは生命と非生命の境界線がなくなり、新しいアニミズムに回帰していく”というのが現代の科学において生じつつある状況ではないだろうか。(p.115)

―ここまで読んでわたしは、つい、最近の自分のモチベーション論を化学物質の話に置き換えたり、人の能力低下の状態を「脳のどの部分が縮小したから」と説明したりする議論の癖に思いをいたしました。機械論的一元論良くないのかな、と思うこともあったが実はかまわないのカナ。

 次の段階の議論。本書は、これまでの近代科学の本質的な特質には2つの柱があるとします。
(1)「法則」の追求―背景としての「自然支配」ないし「人間と自然の切断」
(2)帰納的な合理性(ないし要素還元主義)―背景としての「共同体からの個人の独立」
(p.116)

 するとこれからの新たな科学のありようを考えるとしたら、両者について、近代科学が前提としたような方向ではないあり方が可能性として考えられる、とします。すなわち、人間と「自然」「共同体」それぞれの関係性であります。
・(1)については、人間と切断された、かつ単なる支配の対象としての受動的な自然ではなく、人間と相互作用し、かつ何らかの内発性を備えた自然という理解。また、一元的な法則への還元ではなく、対象の多様性や個別性ないし事象の一回性に注目するような把握のあり方。
・(2)については個人ないし個体を共同体的な(ないし他者との)関係性においてとらえるとともに、世代間の継承性(generativity)を含む長い時間軸の中で位置づけるような理解。また要素還元主義的ではなく、要素間の連関や全体性に注目するような把握のあり方。
(p.120)


 ―ここで述懐:正田のマネジメント論というか、「人、物、金」の人に特化したマネジメント上の困り事に対応するやり方というのは、上記の「(1)については」の後半、多様性や個別性に徹底して着眼する。それはおおむね「正解」なようで、困り事は大概直ってしまう。たんに今までにない視点でものを考え、今の時点であまり有名ではない物差しを使うせいでもあると思うが―、

 デカルト的な人間中心の自然観からアニミズムへ。
 近代科学はある意味で、”新しいアニミズム”とも呼ぶべき自然像に接近しているともいえるのである (pp.122-123)

 ただしそれは、かつてのアニミズム的な自然観への単純な回帰ではない。(略)近代科学の機械論的自然観が展開をとげていったその先に、つまり自然や生命についてのより分析的あるいは俯瞰的な把握をへた上で、アニミズムと高次のレベルで循環的に融合していく、ともいうべき姿である(p.123)

 いよいよ、“解決編・提言編”ともいうべき、第III部に入ります。

 ここで提示されるグラフはいきなり暗澹となります。所得格差(ジニ係数)の国際比較。我が国はOECD加盟22か国で上から5番目と上位にあります。アメリカ、イギリス、スペイン、ポルトガル、日本です。下位にはノルウェー、アイスランド、デンマークと北欧諸国がきます。日本は1980年代頃までは大陸ヨーロッパと同程度の平等度だったが、その後徐々に経済格差が拡大し現在の状態になったのです。

 若者を中心とする慢性的な失業のもっとも基底には構造的な“生産過剰”がある、と本書。モノがあふれ、人々の需要の大半が満たされているような時代にあっては、生産物を作っても売れないということが珍しくなくなる。加えて、そこで生産性(労働生産性)を上げれば、それは“より少ない人数で多くの生産を上げることができる”ということを意味するから、必要な労働力はさらに少なくなり、一層失業が増えることになる。結果として、“生産性が上がれば上がるほど失業が増える”という逆説的な事態が生まれているのだ。(pp.126-131)

 楽園のパラドックス。(ローマ・クラブが1997年に公にした「雇用のジレンマと労働の未来」による)
 過剰による貧困。生活保護の受給世帯全体が増加しているが、「高齢者世帯」「傷病・障害者世帯」「母子世帯」「その他世帯」の区分のうち、若者などを多く含む「その他世帯」の割合が顕著に増加している(1997年の6.7%から2012年には18.4%に増加)。さらに、過重労働によりストレスや過労や健康悪化に悩まされる。
 現在は人々の需要が成熟・飽和し、他方では地球資源の有限性が顕在化し、限りないパイの総量の拡大という前提がもはや成立しない状況になっている。そうした中で拡大期と同じような行動を続けるとすれば、プレイヤー同士が互いに首を絞め合うような事態が一層強まっていくだろう。(pp.132-134)

ここからは提言となります。
 “過剰”という富の生産の「総量」の問題と、“貧困”や“格差”という、富の「分配」の問題が互いに絡み合う形で存在している、という現状認識を踏まえ、本書は
(1) 過剰の抑制―富の総量に関して
(2) 再分配の強化・再編―富の分配に関して
 を提言します。

 (1)の例としては近年のヨーロッパにおける「時間政策」を挙げます。そこでは、人々の労働時間(正確には賃金労働時間)を減らし、その分を地域や家族、コミュニティ、自然、社会貢献などに関する活動にあて、つまり“時間を再配分”し、それを通じて全体としての生活の質を高めていこうとします。

 「時間政策」は「余暇消費」増、創造性の向上、健康増進、失業率削減や貧困是正にも寄与する、地域活性化・コミュニティ再生にも寄与する、など多くのメリットがあると本書は言います。

 著者自身は「国民の祝日」倍増を提案してきたそうです。本音では休みを取りたいが「空気」の支配する職場では休みがとりづらい、そうした日本人の実像に照らした苦肉の策といいます。

 さらに一歩進めて、スピードをゆるめる「時間環境政策」というものも本書は提言します。生物学者の本川達雄(『ゾウの時間、ネズミの時間』の著者)は、人間は生活のスピードを無際限に速めてきており、現代人の時間の流れは縄文人の40倍ものスピードになっている(同時に縄文人の40倍のエネルギーを消費している)、しかしそうした時間の速さに現代人は身体的にもついていけなくなりつつあり、「時間環境問題」の解決こそが人間にとっての課題であると主張します。「時間をもう少しゆっくりにして、社会の時間が体の時間と、それほどかけ離れたものではないようにする」(本川)進化医学という分野でも同様に、「遺伝子と文化(スピードも含めて)」のギャップ―人間の身体が適応できないほどに人間が作った環境が大きく変化したこと―が多くの病気の根本原因だというそうです。(pp.136-143)

 「過剰の抑制」に絡めてもうひとつ、「生産性」の概念の転換も本書は提起します。「労働生産性から環境効率性(ないし資源生産性)」。かつては“人手が足りず、自然資源が十分ある”という状況だったので「労働生産性」(=少ない人手で多くの生産を上げる)が重要だった。現在は“人手が余り(=慢性的な失業)、自然資源が足りない”という状況になっている。そこで「環境効率性(資源生産性)」、つまり人はむしろ積極的に使い、逆に自然資源の消費や環境負荷を抑えるという方向が重要だと本書。

 経済的なインセンティブとしては1990年代頃からヨーロッパにおいて「労働への課税から資源消費・環境負荷への課税へ」という政策がとられるようになり、例えばドイツで1999年に行われた「エコロジー税制改革」がそう。環境税を導入するとともにその税収を年金にあて、そのぶん社会保険料を引き下げるという内容。(pp.144-146)

 ここで福祉や教育という対人サービスの領域がもっとも“生産性が高い”領域として浮上する、と本書では言います。おやおや本当カナ。これらの領域は基本的に「労働集約的」な分野であり、「労働生産性」という物差しでは“生産性が低い”となるが、労働集約的であるということは“人手”を多く必要とする、それだけ“雇用を創出しやすい”ことを意味するのです。

 資源の有限性が顕在化し、かつ生産過剰が基調となって失業が慢性化する成熟・定常期においては、人々の関心はサービスや人との関係性(あるいは「ケア」)に次第にシフトし、人が中心の「労働集約的」な領域が経済の前面に出るようになるだろう。(pp.147-148)

 そしてこうした方向への転換は、市場経済にゆだねていれば自然に進んでいくものではなく、北欧の福祉・教育などの政策や、ドイツのエコロジー税制改革などのように、それを促すための公共政策が不可欠になる、と本書は述べます。(p.150)

 提言編・次に「再分配の強化・再編」について。
 社会保障、社会的セーフティーネットの整備というのは資本主義の末端部分から根幹部分へ順次、分配の不均衡や成長の推進力の枯渇といった各時期の“危機”に対応する形で進んでいったと本書は言います。そこで今後展望されるのは、「システムのもっとも根幹(ないし中枢)にさかのぼった社会化」であろうとも。
 著者の従来からの提言と重なりますが、次の3点を重要な柱とします。
(1)「人生前半の社会保障」等を通じた、人生における“共通のスタートライン”ないし「機会の平等」の保障の強化
(2)「ストックの社会保障」あるいは資産の再分配(土地・住宅、金融資産等)
(3)コミュニティというセーフティネットの再活性化
 
 ここで、例えば相続の問題にも触れられます。「格差の相続ないし累積(あるいは貧困の連鎖)」が無視できないほど浮上している、と現状認識を述べ、

 個人の「チャンスの保障」という、それ自体は資本主義的な理念を実現するために、ある意味で社会主義的とも言える対応が必要になるという、根本的なパラドックスがここには存在している言い換えれば、逆説的にも個人の「自由」の保障は、“自由放任”によっては実現せず、むしろそれは積極的あるいは社会的に「作って」いくものなのである。(pp.160-161)

 人生前半の社会保障として「教育」があります。わが国は教育に対する公的支出が少なく、私費負担が多いというデータ。GDPに占める公的教育支出の割合を国際比較すると、一位のデンマーク(7.5%)のかノルウェー、アイスランド等北欧諸国が上位を占める一方、日本のそれは3.6%で、先進国(OECD加盟国)中で最下位という状況が5年連続で続いている(OECD加盟国平均は5.3%)。特に日本の場合、小学校入学前の就学前教育と、大学など高等教育における私費負担の割合が高いことが特徴的で、これは「機会の平等」を大きく損なう要因になっていることだろう(就学前教育における私費負担割合は55%(OECD加盟国平均は19%)、高等教育における私費負担割合は66%(同31%、以上2011年のデータ)。(pp.161-162)

 これは戦後の教育改革が存続する中で格差の累積や“世襲”的な性格が強まっているのが現在の日本社会だろう、と本書。「日本社会は、いわば放っておくと“固まりやすい”社会であり、」という記述があり、これはまったくその通り、とわたしも思います。変に「変えたくない」が強く出る。高齢化、長寿命化すると前の世代が決めたことを益々変えられなくなるかもしれません。

 またここに見られる「教育コストを公的に負担したがらない性格」は、企業研修にもまったく同じ現象があり、皮肉なことに国際平均との間の差の数値もよく似ています。「欲しがりません勝つまでは」を教育に関してやってしまっています。

 さらに社会保障の「世代間配分」に関しては、日本は社会保障全体の規模は先進諸国でもっとも「小さい」部類に入るのに、高齢者関係支出(年金)の規模はもっとも大きいというデータが目を引きます。日本と似た構造にあるのはギリシャやイタリアなどの南欧諸国でありこれらの国々は社会保障全体の規模は相対的に低いが、年金の規模は大きいという特徴があります。高齢者の「世代内」にも大きな格差があり、全体として、日本の年金は「世代内」および「世代間」の双方において、ある意味で“逆進的”な、つまり「格差をむしろ増大させる」ような制度になってしまっています。(pp.163-166)

「ストックの社会保障」という概念。
 「所得」つまりフローの格差より「ストック」あるいは資産(金融資産や土地・住宅)に関する格差のほうが大きい。

 実際、格差の度合いを示すいわゆるジニ係数を見ると、年間収入(二人以上の一般世帯)のジニ係数が0.311であるのに対し、貯蓄におけるそれは0.571、住宅・宅地資産額におけるそれは0.579となっており(全国消費実態調査、2009年)、所得よりむしろ金融資産や土地等の格差のほうがずっと大きいのである。(pp.168-169)

 土地所有に関してヨーロッパでは土地における公的所有の割合が相対的に大きく、特に北欧などは、たとえばヘルシンキ市では土地の65%が市有地であったり、ストックホルム市では土地の70%が市有地であるなど、「土地公有」が一般的なのだといいます。ここから、本書では今後は資産の再分配あるいは「ストックの社会保障」という観点からの対応が重要であるとし、具体的には、住宅保障の強化や土地所有のあり方の再吟味(公有地ないし「コモンズ(共有地)」の強化や積極的活用)、そして金融資産・土地課税の強化とそれによるストックの再分配や社会保障への充当を挙げます。(p.171)

これについてピケティの『21世紀の資本』では、「経済成長の速度が弱まる時代においては、自ずと過去の資産が不均等に大きな重要性をもつに至る」そして「起業家は金利生活者に転身するのが不可避となる」と述べています。それは資本主義の終焉または自殺行為であるとし、それを回避するために「資産の再分配」が要請される。本書の記述によれば、「つまり資本主義的な理念を存続するために、社会主義的な対応が必要になるというパラドキシカルな構造があり、これは「人生前半の社会保障」と機会の平等をめぐる議論と同質のものだとします。(pp.172-173)

 第8章「コミュニティ経済」。ここはほぼ過去の著作少なくとも1冊分の考察が収められている「濃い」章です。
 「ローカル‐ナショナル‐グローバル」という横軸と、「共」「公」「私」の原理の縦軸。
一般的には、
「共」〜コミュニティ →ローカル
「公」〜政府 →ナショナル
「私」〜市場 →グローバル
と対応するとします。
 しかし、16世紀前後からのプロト工業化、産業革命期以降の本格的な産業化ないし工業化の中で生じたのは、“「共」も「公」も「私」も、すべてがナショナル・レベル=国家に集約される”という事態だった、といいます。「国民経済」という意識あるいは実体が前面に出ることになり、「産業化(工業化)」の“空間的な広がり(ないし空間的ユニット)”は、ローカルよりは広く、グローバルよりは狭かったのです。「金融化=情報化」の時代に入ると、その最適な空間的ユニットはグローバル・レベルに移りました。(pp.177-185)

 そこで今後の展望は、
(1) 各レベルにおける「公‐共‐私」の総合化
(2) ローカル・レベルからの出発
という2点が重要になるだろう、と本書は言います。
 なぜなら、
 ポスト情報化・金融化そして定常化の時代においては、いわば「時間の消費」と呼びうるような、コミュニティや自然等に関する、現在充足的な志向をもった人々の欲求が新たに展開し、福祉、環境、まちづくり、文化等に関する領域が大きく発展していくことになる。これらの領域はその内容からしてローカルなコミュニティに基盤をおく性格のものであり、その「最適な空間的ユニット」は、他でもなくローカルなレベルにあると考えられるからである<。(pp.185-186)

 ここでまた日本の社会資本という観点からみると、明治以降の日本における様々な社会資本の整備は、鉄道や道路などの社会資本が、徐々に普及しやがてその成熟段階に達するという「S字カーブ」として示されています。鉄道、道路、そして高度成長期後半には廃棄物処理施設、都市公園、下水道、空港、高速道路など“3つのS”があります。
 これら工業化時代あるいは高度成長期の社会資本整備は、いずれも「ナショナル」な空間範囲に関わるものでした。しかしそれらはすでに成熟・飽和状態に達しており、今後大きく浮上する“第四のS”があるとすれば、それは情報化・金融化の波でありグローバルな性格を持つもの。その後にくる“第五のS”としては、福祉(ケアないし対人サービス)、環境、文化、まちづくり、農業等、「ローカル」な性格の領域だろう、と本書は述べます。「言い換えれば、経済構造の変化に伴って、いわば問題解決(ソリューション)の空間的ユニットないし舞台がローカルな領域にシフトしているわけで、(略)“地域への着陸”という方向が今求められているのである。」(pp.187-190)

 地域においてヒト・モノ・カネが循環し、そこに雇用やコミュニティ的なつながりも生まれるような経済という展望は従来から著者の著作に繰り返し現れ「コミュニティ経済」と名づけられます。イギリスの経済学者シューマッハーの流れを引き継ぐNEFという団体が2002年、「地域内乗数効果」という興味深い概念を提唱しています。
こうしたローカルなコミュニティ経済が比較的うまく機能しているのは、ドイツやデンマークといった国々だそうです。多くの都市で中心部からの自動車排除がなされ「歩いて楽しむ」ことができゆるやかなコミュニティ的つながりを感じられるような街があり、座ってゆっくり過ごせる場所があります。
 著者自身は「私見では」と断り、コミュニティ経済の例として「(a)福祉商店街ないしコミュニティ商店街、(b)自然エネルギー・環境関連、(c)農業関連、(d)地場産業ないし伝統工芸関連、(e)福祉ないし「ケア」関連 などを挙げています。(e)の例としては千葉県香取市の「恋する豚研究所」の試みを挙げます。(pp.190-197)


 著者自身がここ数年進めている「鎮守の森・自然エネルギーコミュニティ構想」。

 ドイツではエネルギーの地域自給を目指す「自然エネルギー100%地域」プロジェクトというものが進められており、2012年現在でそうした自然エネルギー100%地域は74で、ドイツの面積全体の28.6%、人口では2000万人(24.2%)に及んでおり、なお急速に拡大中であるといいます。
 自然エネルギー拠点の整備というテーマはローカルな地域コミュニティの再生という視点とリンクしなければならないと著者は考え、そして「神社」「鎮守の森」に着眼します。全国の神社の数は約8万数千で(お寺もほぼ同数)、コンビニの約5万よりずっと多い。神社は単なる宗教施設ではなく、「市」が開かれたり「祭り」が行われたりするなど、ローカルな地域コミュニティの中心としての役割を担っていた、といいます。こうした鎮守の森と、自然エネルギー拠点の整備を結びつけ、福祉や世代間交流などの視点も総合化して進めていくというのが「鎮守の森・自然エネルギーコミュニティ構想」です。

 そしてこうした試みは実際に進んでいて、岐阜県と福井県の県境にある石徹白(いとしろ)地区という場所で、地域再生機構というNPOが小水力発電を通じた地域再生事業を進めています。そこはかつて白山信仰の拠点として栄えた地域であり、「小水力発電を見に来ていただく方には必ず神社にお参りいただいています」というのだそうです。
 鎮守の森以外にも、学校、福祉・医療関連施設、自然関係(公園等)、商店街、神社・お寺なども、自然エネルギー等とうまく結びつけコミュニティで循環する経済を築いていくことがポスト成長時代の日本における中心的な課題になるだろう、と著者は言います。(pp.200-204)

 ここで、「緑の福祉国家」「持続可能な福祉社会」というコンセプトが出てきます。

 資本主義が様々なレベルの格差拡大と過剰という構造的問題を抱えていることへの対応として、
(1) 過剰の抑制(2)再分配の強化・再編(3)コミュニティ経済の展開
という3つの方向があり、(1)〜(3)を含んだ全体を「緑の福祉国家」ないし「持続可能な福祉社会」という社会構想と本書は位置づけます。

 「福祉」と「環境」を結びつけて論じることは奇異に、また理想論にみえるかもしれませんが、おもしろいことに両者には一定の相関がみられるようなのです。

 本書p.211のグラフでは、ジニ係数を縦軸、環境パフォーマンス指数を横軸にとったとき、メキシコ、トルコ、アメリカ、韓国、日本は同一グループに属し図の左上に位置します。「高ジニ係数、低環境パフォーマンス指数」のグループです。また図の右下には格差が相対的に小さく、環境パフォーマンスが良好な国があり、スイスやドイツ、北欧などがあります。

 ―このグラフは大変興味深いですが、このブログには図表は引用しません。見たいかたは本書をお買い求めくださいね―

 なぜ、こうした相関が起こるか。前者の諸国では、おそらく競争圧力が高く、再分配への社会的合意も低いので、「パイの拡大=経済成長による解決」という志向が強くなり、環境への配慮や持続可能性といった政策課題の優先度は相対的に下がるのだろう、と本書。  逆に後者の「格差小、環境パフォーマンス良」の諸国では、
競争(上昇)圧力は相対的に弱く、また再分配への社会的合意も一定程度存在するため、「経済成長」つまりパイ全体をお拡大しなければ幸せになれないという発想ないし“圧力”は相対的に弱くなるだろう。

 それは(家族や集団を超えた)「分かち合い」への合意が浸透しているということでもあり、つまりこれら「福祉/環境」関連指標や社会像の背景には、そうした人と人との関係性(ひいては人と自然の関係性)のありようが働いているのだ。

 同時にそこには、そもそも自分たちが「どのような社会」を作っていくか(いきうるか)という点についてのビジョンの共有ということが関わっているだろう。(pp.209-213)
 
 −このあたりは力のこもった記述であり少し長く引用しますね−

 日本の抱えるマイナス要素。わが国では、経済格差は大きい部類に入り、労働時間も長く、「社会的孤立度(家族や集団を超えた人とのつながりの少なさ)」も先進諸国の中でもっとも高く(世界価値観調査での国際比較)、年間の自殺者がなお2万5000人程度存在する(2014年)、「人生前半の社会保障」も不十分である一方、国の借金は1000兆円を超え先進諸国の中で突出した規模になっている。
 それらの根本的な背景として、日本においては、(工業化を通じた)高度成長期の“成功体験”が鮮烈であったため、「経済成長がすべての問題を解決してくれる」という発想から(団塊世代などを中心に)抜け出せず、人と人との関係性や労働のあり方、東京‐地方の関係、税や公共性への意識、ひいては国際関係(「アメリカ―日本―アジア」という序列意識など)等々、あらゆる面において旧来型のモデルと世界観を引きずっているという点が挙げられるだろう。(p.214)
 
 さて、最終章では、「市場の失敗」、手塚治虫の「火の鳥」の生命観、文化の多様性、エピジェネティクスなどの話題が出てきますが、最終的に
「『ポスト資本主義』の社会構想が求められているということと、生命の内発性や「関係性」、多様性・個別性に関心を向ける新たな科学のあり方が様々な領域で“同時多発的”に台頭していることはパラレルな現象なのである」と本書は述べています。

 本書の主張としてはこれでほぼ大団円を迎えていると思いますが、わたしの個人的な興味で、「思想」のもつパラドックスのところも抜き書きをしておきたいと思います。

 “第二の定常化”の時代に生成した枢軸時代/精神革命の諸思想、仏教、儒教、老荘思想、旧約思想、ギリシャ哲学など。共通していたのは特定の民族や共同体を超えた「人間」あるいは「人類」という観念を初めて持ち、そうした人間にとっての普遍的な価値原理を提起したという点にその本質的な特徴がありました。それぞれ風土的環境を反映した特徴はありましたが、「普遍性」への志向という点は共通していました。またある意味でいずれも「幸福」の意味を―たとえばキリスト教の愛、仏教における慈悲、儒教やギリシャ思想における「徳」―といった形で説きました。
 さらに、これらの諸思想は、「普遍性」を“自認”するぶん、互いに共存することは困難な性格を持っていました。
 つまり、およそ思想というものは、自らの考えの「普遍性」を自負し主張する度合いが強ければ強いほど、互いに両立が困難になるだろう(これは象徴的には“複数の普遍”は可能か、という問いの形で表現することもできる)。(p.238)
 現代のような時代においては、キリスト教とイスラムの対立を含めて、普遍宗教同士が互いにそのままの形で共存するのはきわめて困難な状況になっている。(p.239)

―耳の痛いところです。正田がときに狭量な記事をブログアップするのは、自分的には妙な邪教のたぐいが正田の領域を侵してきた場合はやり返す、それもその邪教がとりわけ弱者に対して優しくない、と判断したときにそうするのですが、じゃあ副作用のない「普遍志向」のよその思想が出てきたときにちゃんと仲良くできるんだろうか。そもそも正田は狭量な人間なんじゃないだろうか。


 本書の提唱する望ましい「地球倫理」は、第一のポイントとして、「エコロジカル」を挙げます。

「地球上の各地域における思想や宗教、あるいは自然観、世界観等々の多様性に積極的な関心を向け、しかもそうした多様性をただ網羅的に並列するだけでなく、そのような異なる観念や世界観が生成したその背景や環境、風土までを含めて理解しようとする思考の枠組み」(p.239)。

 ―これは、学生時代「国際関係―地域研究」ゼミに籍を置き、「地域研究」がいかに学際的な学問であるか、実際に勉強したかどうかは別にして「こんこん」と恩師から説かれたわたしにとっては、いささかなつかしいフレーズでありました。

 もう一つのポイントは、「自然信仰/自然のスピリチュアリティ」。それは自然信仰が重視する生命や自然の内発性に関心を向けるということにもつながります。フランスの精神医学者ミンコフスキーの「生命との直接的な接触」という言葉が出てきます。
 もっとも「ローカル」な場所にある自然信仰は、その根源において宇宙的(ユニバーサル)な生命の次元とつながり、それはグローバルな地球倫理をも包含する位置にあると言えるかもしれない。(pp.240-243)
 
 ―抜き書きは以上であります。丁寧にロジックを押さえながら読めば、著者自身が丁寧にさまざまな議論を踏まえながら論をすすめているおかげもあり、さほど突飛なとか理想論に走った結論部分ではないように思います。

 ―わたし個人は21世紀の初め(もう15年も過ぎてしまったが)の現時点において、アカデミズムの立場での責任感ある論考の仕事と大変興味深く読ませていただきました。

 ―さて、「承認」は「地球倫理」というところまで格上げされるというシナリオはあるのでしょうか。いちおうそういうのを頭のすみに置いて最後のほうの文章を読ませていただいた不遜なわたしであります。拙著『行動承認』の末尾部分で生命活動と「承認」について身近な出来事に絡めて書いたのと、最近はまた個人的に少し「生命との直接的な接触」ということもこころみています。



(一財)承認マネジメント協会
 正田佐与

 「内発的動機づけ」がまたリバイバルブームなのでしょうか。

 NPOリーダーのためのブログでエドワード・デシの「内発的動機づけ」が紹介されており

 http://npotips.seesaa.net/article/52577385.html

(正田は元NPOリーダーのくせにこの記事を知らなかった)

 きのう話をされたNPO関係の人はこれを金科玉条にしているのかな、と思いました。

 ググってみると有名な自己啓発セミナー会社のサイトにも「内発的動機づけ」は大きく載っております。ちなみに正田は自己啓発セミナーが差し違えたいぐらい嫌いであります。


 エドワード・デシの『人を伸ばす力』については、当ブログでは2011年暮れに読書日記を書いています。れいの『報酬主義をこえて』とのからみです。

 http://c-c-a.blog.jp/archives/51781122.html


 要は、「外発・内発っていう分け方自体にあんまり意味ないよね」というのと、「内発的動機づけが一番好きな社会人は、大学の先生とかの一人作業で仕事する人なんじゃないの?」というものです。例によって、「大学の先生は自分たちのことを研究するのが好き」なのです。


 正田は、例えば子供や若者が新しく何かに習熟する時、初期には指導者からの励ましや褒めなどの「外発的動機づけ」の出番が多く、次第に習熟すると作業そのものの手ごたえが楽しくなり報酬系が活性化されるので、いわゆる「内発的動機づけ」の状態になるだろう、報酬系を回すガソリンが交代するだけの話だ、それでも外発的動機づけの仕事はなくなるわけではない、というようなことを過去に書いていますが、

 ちょうどこれと同じことを、1991年に国内の研究者が言っています。

 https://kaken.nii.ac.jp/d/p/03610044


 デシが『人を伸ばす力』を書いたのが1996年だったが、その5年も前に国内ではこういう研究がちゃんとなされていたのです。

 ほらね、正田ってあんまり間違わないでしょ?

 ・・・あと、デシのファンの方には申し訳ないですが英字のWikiでデシの扱いは小さいですね。行動理論家たちに比べてはるかに小さいです。行動理論は、初期のスキナーの頃には一部確かに同意できない主張もありますが例えば学習された無力感やポジティブ心理学のセリグマン、アサーションや系統的脱感作法のジョゼフ・ウォルピ、模倣学習理論のバンデューラなど、良心的ないい心理学者を輩出していますよ。


 身近な人の例としては、あるアーチスト(音楽家)の知人がいました。彼女は難病を抱えたアーチストとして学校関係にも講演兼演奏会をするのですが、子供たちに「夢はある?」と問いかけ、「今の子は夢がない」と嘆いていた。自分は小学校の時から「アーチストになる」という夢を持っていた、と言いました。

 それについてわたしは多少批判的に、「夢をもつとき、普通は身近な人からの褒めや励ましがあって自信をもったから夢をもったのではないだろうか。何もない状態で夢を持てただろうか」とぶちぶちブログに書きました。

 すると彼女は新しく思い出したようなのでした。

 その次の講演兼演奏会で、「私を褒めてくれた学校の先生がいた」と彼女は言いました。
 他に取り柄のなかった私のピアノの演奏を褒めてくれた。
 通信簿で彼女の音楽が4か5か微妙なとき、ほかの成績のいい子の5をつけかえて私を5にしてくれた。

 その後お母さんの勧めもあって、彼女は中学時代に「演奏家になりたい」と心に決めた、といいます。


 そういう、記憶の改ざんのような現象もあいまって、何しろ「内発」「自己決定」「目標を持つ」などは快楽物質のドーパミンの仕事なので、刺激がきついのです。いっぽう信頼する先生やお母さんにほめられ励まされたのは、たぶんオキシトシンやセロトニンのマイルドな喜びであり、ドーパミンに比べると記憶に残りにくいのです。でもたぶんオキシトシンが出たからドーパミンも出たのです。


 わたしがなんでこんなに「内発と自律」のモチベーション論に神経をとがらせるのかというと、それが主流になってしまうと、まず「権力者の怠慢」が起こるからです。モチベーションを喚起するような上司・先輩からの介入が不要だ、ということになってしまうからです。
 そして、権力者の側はちょっとほっとくといくらでも怠慢になれるのです、古今東西。

 かつ、地位の低い人たちに関しては、目標や夢を持つことができるのはとりわけ日本人では少数派なので、(平本あきお氏の「ビジョン型と価値観型」のフレームワークに割合わたしは同意するほうです。わたし自身は価値観型だと思います)目標を持つことができた人だけが「勝ち組」になり、残りの人は落ちこぼれる、ということになりかねない。

 たとえば貧困問題の解決のために何をすべきか。ごくまれに夢や目標をもって、アメリカンドリームみたいに貧困層から成りあがった人がいるとする。では、すべての貧困層の人が夢を持って立志伝中の人になることが解決になるのでしょうか?社会の構造的な問題を何とかしないといけないのではないですか?自己責任論にまでなっちゃいますよね。私リバタリアンじゃないので。

 また、社会福祉的には、昨日のパネルディスカッションでどなたかいみじくも言われたように、「寝たきりのおとしよりにどう夢を持たせられるのか。それを家族介護している人もどう夢を持てるのか」というのもあります。認知症の人では前頭葉が縮小する、実行機能がなくなるのですから夢とか計画どころではありません。でも自分の「尊厳」を感じる力は残っているのです。もちろん不幸にも災害に遭った人も同様で、夢を持つどころではない精神状態の時期が長いでしょう。
 


 色々ありますが、1つ前のブログ記事を借りてお客様のご協力をいいことに、「あんたら内発と自律方式でこれと同じことやってみろよ」と思います。現実に「効く」ほうを使ったほうがいいじゃないですか。


 で、「承認方式」では「内発と自律」は全然要らないのかというと、あります。ちゃんと組み込んでいます。

 相手の「内発と自律」が存在するならそれを尊重するのが「承認方式」です。

たとえばわたしの最初の子は誰に似たのか「じぶんで〜!」とか「やーだ」が口癖の我の強いおこさまでしたが、彼女の「内発と自律」を尊重して延々と自分でお着替えするのを手を貸さずに待ちました。その子は高校ぐらいからリーダーになりました。二人目の子はそんなに「じぶんで〜!」が強くなく手が止まることも多かったので、もう少し手伝ってやり、でもできるだけ最小限にして自分でやることを多くしていました。本人たちにとってはそれは「内発と自律」でしたがこちらからみると彼女らの「内発と自律」を「承認」していたわけであります。

 以前ヘーゲル承認論の中で「間主観性」という概念に触れましたが、人はその人の主観だけで生きていけるわけではないのです。主観に即していえば「内発と自律」、しかしそれを「承認」してくれる他者がいなければ「内発と自律」を発揮することはできないのです。

 内発的な動機というと、たとえば「価値観」というものがあります。人を思わず知らずある行動をとるようにプログラミングしているもの。(自閉症の人では、それは「常同行動」という形をとります。)


 「相手の価値観を尊重せよ」は、「承認マネジメント」にもちゃんと組み込んであります。

 ただ、企業活動ですから働き手の側もその企業の価値を尊重しないといけません。というか、本来はその企業の理念に共感して入ってくるのが筋です。

 ある程度仕事に習熟した働き手には仕事を任せ、相手の内発的自律的働きにゆだねることも承認。

 ちょうどきのうのお客様のところでは、2年目の若手クンが「〇〇をしましょうか?」という言い方から「〇〇をやります」という言い方に、「承認」後に変わった、というお話も出ました。「承認」によって「内発」「自律」も育つ、というのは以前から明らかだったことです。大学の先生ってこういうことを知らないんでしょうか。

 目標を持つ力がついてきたら目標を設定させることも承認。

 何か文句あります?


 なので、「承認マネジメント」と「内発と自律」は、「含む、含まれる」の関係なんです。ごめんなさいね。あたしの方が大きくて。「内発」は大事なことではあるけれど、指導者が「大事だ」と頭に入れておけばいいことで、「内発さえあれば外発は要らない」「アメとムチ」などという論の立て方は大変おかしなことなのです。



 自己決定感とか自己有能感とか、「モチベーション」に関わる用語は色々あります。でもどれもドーパミンがらみの概念です。いっぽう承認マネジメントの世界では、独特の「みていてくれるんだなあ」という感覚があります。拙著『行動承認』で初めて出てきましたが、その後の研修でも繰り返されています。まだ、学術的な名前はありません。

 この「みていてくれるんだなあ」の感覚に、どなたかかっこいい名前をつけていただけないものでしょうか―。
ひょっとしたら経営学史上に名前が残るかもしれないですよ?



(一財)承認マネジメント協会
 正田佐与
 

 26日、東京・江戸川区の株式会社牧(ベーカリーチェーン「リヨンセレブ」)様での第2回研修でした。


 「承認研修」の2回目は、前回からの実践報告で華やいだ空気ではじまります。
 お盆に「全スタッフへの承認個別面談」をされた店長が、「ブログ読ませていただきました」と輝く表情で言われました。

 ほかの皆様からも、

「商品開発を承認したところ次の商品開発をしてくれた」
「色々と気がついてフォローしてくれる」
「具体的な行動承認によって2年目の壁を乗り越えてくれた」
「製パンの段取りを自分で決めておぼえてくれた」
「若い人が自発的に仕事をするようになって仕事を頼みやすくなり、自分の仕事が進んだ」

…などと、嬉しいご報告がありました。
「自分の仕事が進んだ」と言われた20代後半の製パン責任者さんは、来月のオリジナルキャンペーン商品を開発し、開発者の顔写真つきで大きく売り出すそうです。

 「勇気」と「時間」の両面で「イノベーション」に関わってしまいましたね…。

 
 また、「承認」をきっかけに内省の言葉を自分から言ってくれた、という例も複数きかれました。

 「承認」がつくる安心感・信頼感があると、すすんで内省をする勇気を持てる。
 一般に信じられているような、フィードバック技術を磨けば内省をしてもらえる、というのとはまたちょっと違うのです。それとは別の有効なルートがある感じなのです。


 「承認研修」の2回目はまた、どどーんと奈落に突き落とされるような、イヤなお話をする場面もあります。
わたしなんかがこんなことご指導する資格があるのだろうかと思いながら、でも何か一つお伝えするために膨大なアーカイブを作るのがわたしだ、ときっと受講生様はわかってくださっている、と祈りながら。
 これも、皆様真摯に受け止めてくださり、
 わたしが思うのに、「承認」がつくる幸福感の力を借りれば、イヤな現実を直視する勇気をも持てるのではないかと思うのです。
 逆に、そういう手順でなければこういうお話をどうやってするんだろう、と何度かこの手順でやってきているわたしなどは思います。


 研修終了時、ひとつのサプライズがありました。

 同社のNO.2、飯田万里子GMが前に立ってご挨拶され、

「私はこれまで、社長に承認していただけなかったんです」

と、カミングアウト。

飯田GM


 「新規のお店を立ち上げ、既存のお店に改善のために入り、夢中でやってきましたけれど、社長からはひとことも承認がなかった。そのことでどんなに心が不安定だったか。ところがこの春、社長が承認してくださったんです。私はおかげで救われました。
 あとで伺うと、正田先生から社長に『承認の宿題』が出ていて、その宿題の対象が私だったんだそうです」

 飯田GMは学校時代体操部のキャプテンだったそう。今もとてもスラリと細身の体で、この日はキャンペーン用のポロシャツ姿でしたが美しい方です。

 ―わたしはビジネス界で有能な女性が妨げられずに能力を発揮されているのをみるのがすきであります。それは浅田真央ちゃんやなでしこジャパンが世界で活躍するのをみるのと同じくらい、目の喜びなのであります。
 そして以前にも書いたと思いますが、有能な女性たちは決して権力ある男性におもねるわけでも底意地がわるいわけでも人を蹴落としたいと競争心マンマンなわけでもない、単に神様が与えてくれた能力を十分に発揮しているだけなのであります―

 続いて牧田雄治社長が立たれ、

牧田社長


 飯田GMからの”暴露”は想定外だったと頭をかきながら、

「なんというか、昔の男の意識で、『言わなくてもわかるだろう』『部下をおだててどうするんだ』という意識があったんですよねえ。恥ずかしい。私自身もこの『承認』によって救われました」。

 そして、

「この『承認』は末永く取り組んでいきましょう」

と、店長さん方に呼びかけられたのでした。

時間は戻りますが研修冒頭には、

「マネジメント論多数あるが横滑りであれもこれもやっても何も身につかない。一つを深くやること。そのうえでほかを見てみると、そこでも得るものがある」

と、その通り!!と膝を打ちたくなるご挨拶をしてくださった牧田社長です。
本当に、教えているわたしもどんなにか、皆様が末長く使ってくださることを願っていることでしょう。そしてこういうことをお分かりになっている方が少ないことでしょう。


 このあとは受講生様方も全員参加の懇親会になり、そこでは「承認」というよりはプライベートの暴露やらカミングアウトの話が飛び交い、男性も女性も学校の部活のようにげらげら笑いあってらっしゃいました。プライベートダダもれみたいになったのは「承認効果」なのかどうか、以前はそこまでの雰囲気ではなかったということですが。

 そしてまた生地部の方から「リヨンセレブ」の材料のこだわりについて伺いました。粉は他店にないミックス粉だし、味オンチの正田でもこれはと思ったように、バターも〇〇〇バター100%使用なのだそう(このところの調達は大変だったそうだ)
「材料にこだわっても原価100円上がるぐらいですからね。それなら10個余分に売ればいいこと」
と、牧田社長。
 ご近所に住んでいたら絶対毎日買いにいかしていただくなあ。
 
 まじめな話、先日の試食以来、パン屋さんに入っても
「ここは惰性で流して仕事してるなあ」
「ここは本気でやってるなあ」
と空気を感じるクセがついてしまいました。


「聡明な皆様が、
はるばるスイスやドイツまで理想のパンの味を求めて行かれ、
また粉のミックスを何通りも工夫してパンを焼かれる、
それと同じ学習欲や探求心を、
この研修の採用と学習に向けてくださった、
そのことが嬉しいのです」

とわたしは牧田社長へのメールに書きました。


****


 帰神して午後に福祉関係の講演会+パネルディスカッションへ。

 ここでは、兵庫県稲美町でのおとしよりのコミュニティづくりの話がおもしろかったです。

 地域に役立つちょっとした手仕事をし、感謝されるとやりがいになる。そうして公民館などに集まっていたおとしよりが、ある日「ピンピンコロリ」で亡くなってしまう。介護の手が要らない。

 そういうふうに、最後の最後までだれかに役立っていると実感して生き、そして「ピンピンコロリ」ができたらいい人生ですよね・・・。

 こういうのもひろい意味での「承認」と、わたしは捉えてしまいます(いえ、ピンピンコロリが、じゃないですよ、仕事をして感謝されるのところがですよ)


 一方で、日本の団塊世代の方と、アメリカの「内発と自律」思想の人(主に大学の先生)のモチベーション論は重なるところがあるようで、その部分は困ったなという感じでした。いかにも朗らかで外向的で幸せな人生を送ってきただろうな、話をすることが楽しくてしょうがない感じだな、という人ですが基本的に他者へのリスペクトがない。スピーカー稼業をする人なんて、他人をリスペクトしていたらやってられないところがあるだろうかなナー。奥さん幸せカナ。
 こういうモチベーション論の「思想対立」はほんとうに不毛だ。もう「認める」でまとめてしまえればよいのに。


(あれ、基調講演って誰だったカナ(^O^))



(一財)承認マネジメント協会
 正田佐与

 近著『行動承認』に、嬉しいエールをいただきました。

 千葉大学法政経学部教授・広井良典氏(公共政策、科学哲学)より。

 ご了承のうえ、いただいたメールをご紹介させていただきます(また後日のメールのやり取りをもとにご了承のうえ加筆させていただいております):


正田佐与様
 先日は貴重な御著書をお送りいただきありがとうございました。
 質の高い内容が大変わかりやすい形で述べられており、意義の大きい内容と感じるとともに、土台に哲学的な思考が流れていることが伝わってくる内容で、印象深く受け止めました。
 もちろん実際の研修では実践的でわかりやすい内容にすることが求められると思いますが、それがありがちなマニュアル的なものにならないためにも、哲学的な考察のところが意義深いと思います。
 ヘーゲル承認論に関するブログ記事や、どこかで中国哲学に関することも書かれていたと思いますが、そうした哲学や科学への御関心がベースにあることが、単なるノウハウ本や技術論ではない深みにつながっていると思います。またそうしたものへのニーズは現在の日本で大きいと思います。
 御礼とともに、事業の発展に期待しております。     千葉大学 広井良典



 広井教授は近著『ポスト資本主義―科学・人間・社会の未来』(岩波新書、2015年6月)をはじめ、『定常型社会―新しい「豊かさ」の構想』(同、2001年)『コミュニティを問いなおす つながり・都市・日本社会の未来』(ちくま新書、2009年)など、「人口減少」「拡大・成長から定常への移行」「コミュニティ」「福祉」について一貫した視座をもって発言してこられた方です。

 ちょうどそれらの著書の中にある、例えば

近年の諸科学において人間の利他性や協調行動が強調されるようになっているのは、そのような方向に行動や価値の力点を変容させていかなければ人間の存続が危ういという状況に、現在の経済状況がなりつつあることの反映とも言えるだろう」(『ポスト資本主義』)

というフレーズに不肖正田が膝をうち、著書をご献本させていただいた、という次第です。


 『ポスト資本主義』をもういちど真剣に読解させていただこう、と思いました。

  
 一回りも幾回りも大きな視点で現代を読み解かれる方より評価いただけたのは幸せなことです。
 わたしだけでなく、信念をもって取り組んでくださるいまだ多数派とは言い難い受講生様方にも勇気をいただけたことでしょう。

 
 広井先生、ありがとうございました!


(一財)承認マネジメント協会
 正田佐与

『見て見ぬふりをする社会』(マーガレット・ヘファーナン、河出書房新社、2011年12月。原題’Willful Blindness!)という本を読みました。

 表紙には、「見ざる言わざる聞かざる」のイラスト。巨大組織の中で、忙しさや疲れのために、また拝金主義のために「本来見えるものを見ようとしない」人々の行動に焦点を当てています。
 以前伊丹敬之氏の講演に出て来た「偏界曾て蔵さず(真理は現れているものだ、ただ目が曇って見えないだけだ。道元の言葉)」という言葉にも通じそうですね。

 久々の「判断を歪めるものとの闘い」の更新になります。著者のマーガレット・ヘファーナンは作家。ハフィントン・ポストのブログの寄稿者でもありTEDでの「意図的な無視」や「生産性を上げるのにスター選手はいらない」に関する講演をネットでみることができます(ので、この人の存在を知り、検索してこの邦訳書があるのを知りました)

 「見て見ぬふり」に関する非常に多数の事例と人物の登場する400ページに及ぶ分厚い本なので、読書日記も長文になることをお許しください。登場する主な事例にはBP社の製油所爆発事故、エンロン、サブプライムローン、イラクのアプグレイブ刑務所での米軍による虐待事件などがあります。

 長文に備えて、本書の章立てを先に出しておきます。大枠でどういうことを主張している本なのか把握していただくために―。

日本語版刊行に寄せて
第1章 似た者同士の危険
第2章 愛はすべてを隠す
第3章 頑固な信念
第4章 過労と脳の限界
第5章 現実を直視しない
第6章 無批判な服従のメカニズム
第7章 カルト化と裸の王様
第8章 傍観者効果
第9章 現場との距離
第10章  倫理観の崩壊
第11章  告発者
第12章  見て見ぬふりに陥らないために
謝辞

それでは恒例の抜き書きです。なお、それぞれの抜き書きは厳密な引用ではなく本書の文章の要約です。引用をされたい場合には本書をお買い求めくださいね。


●大規模な事故や災害の前には、後悔してもしきれないパターンがあることが多い。早い時期に何度も警告(シグナル)が発せられていたのに無視されていたとか基本的な想定に誰も疑問を持たずにいたなどの状態がある。福島原発は見て見ぬふりの典型的な事例だ。早い段階で危険を知らせる兆候がいくつもあったが、複数の人や組織がそれを深刻に取り上げようとしなかった。

●彼らがそうしないのは、知りたくないからだという場合が多い。疲れすぎているとか、他に注意をそらされている。同時に複数のことをしなければならず、それぞれのシグナルを関連づけて考えるだけの時間も認知の容量もない場合もある。もっとも重要なのは、彼らが悪いニュースは絶対に歓迎されないと考えていることだ。

●法学者キャス・サンスタインは、同じような考えを持った人々を数人集めると、反論が出ないだけでなく、互いに影響しあってみな持論が極端になることを発見し、「集団極性化」と名づけた。サンスタインのグループを使った調査では、広範囲に及ぶデータと反論を提示されても、人々は現在の自説の根拠となるような情報にだけ集中して読み、自説と対立するものにはあまり注意を払わなかった。全体として、人々は自説に有利な情報を探すのに、反論を検討する際の二倍のエネルギーを注ぐ。

―人は自分の好むオピニオンを好む、ということですね。

●インターネットの大きな強みは類似点の多い人々のグループを作り、さらにそのグループ同士をつなげる力にある。我々は新聞と同じように、ブログを読む際にも自分が同意できるものを読む。

―ネットが無限の情報にアクセスできる装置なのかというと、やはり好みによって偏った情報をとりこんでしまうようです。Amazonもこれまでの購買履歴からお勧めしてきますしね、やはり時々リアル書店に行って全体ではどんな本が売られているのかみたほうがよいですね。

●バートン(神経科医)は偏見によって我々が何かを固く信じてしまうメカニズムを理解し、それを防ぐ方法を模索している。「脳は過去に認識したことがあるものを好む。なじみがあるものが好きなのだ。だから見慣れているものはすぐに見える。なじみがないものを見るには時間がかかる。あるいは意識の上では存在を認知せずに終わるかもしれない。それを見たくなかったからだ」

●偏見のできるプロセスは川床ができるプロセスに例えられる。一か所に長く住んだり、ある経験や友人や考え方に慣れたりすると、水は速く、容易に流れるようになる。抵抗がどんどん減っていく。抵抗がないことによって我々は居心地の良さや、安心感や確信を得る。しかし同時に、川の両岸の壁はどんどん高くなっていく。こうして見て見ぬふりがはじまる。意識して積極的に見て見ぬふりをするのではなく、一連の選択の結果、ゆっくりと、しかし確実に視界が狭まっていくのだ。そしてこの経過でもっとも恐ろしいのは、視野がどんどん狭くなっていくと、さらに居心地よさと自信を感じるようになることだ。

―ある主張で徒党を組んでいる人たちの視野が極端に狭いことがあるのを経験したことのある人は多いと思います。それは政党でも宗教でもどこかの有名大学のゼミでも。素人でも思いつくような反論を彼ら自身では思いつくことができない。わたしは去年から今年にかけて、「仲間」というものの居心地の良さと脆弱さを感じる経験をしました。「承認」という、外形的にはカルトにみえなくもないものを標榜する人々が集団をつくると、よほど気をつけないと視野狭窄になってしまうでしょう。


●人間は自分を好きになれ、安心できるような人間関係を探して守ろうとする強い傾向を持っている。だから似た者同士で結婚し、自分に似た人ばかりが住む地域に住み、自分に似た人たちと仕事をする。こうしたものを鏡にして自分の価値を確認している。

―私はつい「承認」というあまりにも正しいことが自明のものを、受け入れられる人そうでない人について考えてしまうのですが、「群れ」で思考するタイプの人は受け入れたがらないようですね。その人の属している「群れ」が、自明のことを正しいと受け取ることを阻んでいると感じます。


●愛は幻想に基づいているほうが長続きする。心理学の専門家グループが交際中のカップルを調査し、相手をどう見ているかを分析した。すると相手を理想化して見ている方が付き合いは長続きする可能性が高いことがわかった。本人がそう思っていない美点があると恋人が考えている場合、その恋人たちの関係に対する満足度が高い。

●ロンドン大学のチームは脳のどの領域が愛に反応して活性化するか調べた。その結果、あまり意外ではないが、愛によって活性化するのは報酬をつかさどる領域であることがわかった。食物や飲み物やコカインを得たときに反応する細胞が愛にも反応している。さらに愛情は死の恐怖さえ減少させることがあると示唆する証拠もあるようだ。

●愛によって活性が止まる領域。愛する対象のことを考えているとき、脳の二つの領域は使用されない。一つは注意や記憶や否定的な感情をつかさどる領域だ。そしてもう一つは否定的な感情と社会的な判断と他者の感情や意図の判別に使われる領域だ。つまり、愛によって脳に化学反応が引き起こされ、愛する人について批判的に考えられなくなる。

●愛が重大な悪行に目をつむらせた1つの例は、カトリック教会での児童虐待スキャンダル。教会への畏怖、両親への愛情、伝統を重んじる気持ち、このすべてのせいでコミュニティ全体が、間違いなくわかっていたはずの事実に目をつぶっていた。

●ナチスでの例。1942年以降ドイツ第三帝国でナンバー2の権力を持っていた建築家のアルベルト・シュペーアの見て見ぬふりは、ヒトラーへの愛情が大きな動機になっているという。シュペーアは若い頃ヒトラーに夢中になっていたので、ナチの残虐行為についての話を耳にしても何が起こっているかわかっていなかった。1944年1月、シュペーアはヒトラーの側近の間の権力争いで力を失い、そしてヒトラーの悪行の証拠をあらゆるところで見るようになった。シュペーアはひそかに命令を無視し、指示を無効にして、ヒトラーの焦土作戦を妨害した。10週間ぶりにヒトラーに会い握手したとき、シュペーアは考えた。「ああ、こんなに醜いと、いままでどうして気づかなかったんだろう?」


●エモリー大学のウェステンは熱心な民主党員と熱心な共和党員を15人ずつ集め、政治的な資料を読んでいる際の脳の状態をfMRIで調べた。実験の結果、熱心な党員である被験者は反対陣営の候補者の矛盾にはるかに厳しい反応をすることがわかった。「被験者たちはライバル党の候補者の矛盾を発見するのにはまったく問題を感じなかった。しかし自分が支持する候補者に関する問題がありそうな政治的情報を読んだときには、苦痛を作り出すニューロンのネットワークが活性化した。脳は誤った論法で苦痛を押さえ込む。しかも非常にすばやく。感情の統制をつかさどる神経回路は信念を利用して苦痛と葛藤を取り除いたようだ」

●ウェステンの実験で脳が用いている報酬回路というのは、麻薬中毒患者が一服したときに活性化するのと同じ部分である。つまり、自分と同意見の考えを見つけたとき、あるいは不愉快になるような考えを排除できたときに、人はお気に入りの麻薬を一服やったときの中毒患者と同じ陶酔と安心感を味わっている。

―フェイスブックも基本有名人のタイムラインは「そうだそうだー」の大合唱になりますね…


●不愉快な異論を、それがどんなに正しくても認めようとしない一例。医師アリス・スチュワートは1956年、妊娠中の母親に対するレントゲン検査が子供がガンにかかる確率を劇的に増加させることをデータで示した。しかし医師たちはその後25年間、妊娠中の母親たちにレントゲン検査を実施し続けた。1980年になってようやく、アメリカの主要な医療組織が実施をやめるよう強く推奨した。なぜそこまで時間がかかったか。アリスが離婚歴のある二人の子持ちの女性という型にはまらない科学者であることも不利な要因だった。当時の大病院は最新鋭の放射線機器をそろえていた。またアリスの発見は当時の科学界の主流となっていた重大な説を覆すものだった。当時、放射線を大量に被曝すれば危険だが、これ以下の値ならば絶対に安全だという閾値が必ずあるという閾値説が支持されていた。しかしアリス・スチュワートはこの場合、胎児にとって放射線はどんなに少量でも有害であると主張した。アリスの主張は科学者たちに認知の不一致を呼び起こした。アリスの説は間違っていなければならない。でなければ、他のあまりに多くの仮説を検証し直さなければならなくなる。

―人の命に関わる重要な発見が25年も黙殺された、というお話です。アリスの説が広く採用されるまでに数百万人の妊婦がレントゲン検査を受けたといいます。正田は10何年になりますがまだ未熟だなぁ。「女性」という要素が関わっているふしもあり少し長く引用してしまいました


●認知の不調和説。相いれない二つの考えが生む不調和は、耐えがたいほど激しい苦悩をもたらす。その苦悩、つまり不調和を減らすもっとも簡単な方法は、どちらか一つの考えを排除し、不調和をなくすことだ。科学者たちにとっては自説を捨てないことの方が簡単だった。

●認知の不調和説を提唱したフェスティンガーによれば、人はみな首尾一貫し、安定していて、有能で、善人であるという自己像を必死で保とうとしている。その人が一番大切にしている信念は、本人や友人や同僚から見たその人自身の人となりの核となる大切な部分だ。自己意識を脅かし、痛みを感じさせるものは、飢えや渇きと同様に危険や不快さを感じさせる。大事にしている考えを揺るがされることは、命にかかわるように感じる。だから我々はその痛みを減らすために、自分が間違っているという証拠を無視し、あるいは自分の都合のいいように解釈して、必死で抵抗するのだ。アリス・スチュワートの説がもし正しいと認めるとしたら、医師や科学者たちは、自分たちが患者に危害を加えていたという事実を認めることになる。


●経済モデルでも、こうしたイデオロギーと同じようなことが起こる。そのモデルに合う情報は取り入れ、組み込むが、当てはめられない情報は排除する。

●我々は自分の経済モデルや個人的な持論を大事にする。それはどういう人生を送り、誰と親しくなり、なにを支持すべきかという決断を容易にするからだ。我々の内面の奥深くにある自分自身というものは、我々の人生のすべての側面にとても深く関わっている。あまりにすべてに関わっているので、我々はなにを見、記憶し、吸収するかを選択するのにどれだけ深く関わっているかを忘れているかもしれない。

●元FRB議長のグリーンスパンは、ロシアからの移民で作家兼経済自由主義者のアイン・ランドの熱心な助手だった時期に世界観の重要な部分をつくられた。グリーンスパンは、政府による規制や制限から解放されれば、人はもっとずっと自由と想像力と富を得ることができるという彼女の信念を、まるである種の宗教のように熱く信じていた。ランドの世界観では、成功した者はすべての抑制から解き放たれ、自分の才能をフルに表現でき、喜びと達成感を味わえる。それを目標としない者は寄生者であり、脱落し、消えていくだろう。

―見事に「自己実現者礼賛」の人間観、世界観ですね。こうした目標志向最上志向自我の方々の自画自賛につきあった挙句現在の世界の格差社会ができあがったのだろうかと暗澹たる気分になります。

●グリーンスパンは規制緩和で金融商品に祝福を与えた。証券取引所を経ない店頭取引の金融商品には何の規制もかけられなかった。必要な資本がなくても、市場操作や詐欺に対する規制もないまま、取引を続けられることになったのだ。そして2001年、エンロンが破綻し、複雑に入り組んだ不正行為の中には自社の株価を頼りにしたデリバティブがあり、これが致命傷になって、出資者たちにはなにも残らなかった。グリーンスパンの信念のためにアメリカ経済は犠牲になった。


●第4章では疲労と脳の限界について解説する。BP社のテキサスシティの製油所の2005年の爆発事故では、従業員たちが過度のコスト削減策で37連勤という過酷な勤務実態で、疲れ切っていたため、事故の予兆を見逃していた。「疲れ切っている人間は思考が硬直化し、環境の変化や異常に反応するのが難しくなる。そして論理的に思考するのに時間がかかるようになる」。あることに意識を集中すると他のすべてが目に入らなくなるというのが疲れが行動に与える典型的な影響だ。これは認知の固着とか認知のトンネル視と呼ばれている。

●イギリス健康安全局(HSE)は連日の朝早いシフト(午前6時前後からの勤務)のせいで疲労のレベルが上がることを発見した。早朝シフト3日目では、初日に比べて30%疲労が増し、早朝シフト連続5日目では60%、そして7日目では75%疲労が増したという。

●一晩眠れなかっただけで脳の機能には多大な影響が出る。ブルックヘヴン国立研究所のダルド・トマシらは健康な非喫煙者で右利きの男性14人を集め、そのうちの半分に徹夜をさせた。翌朝、眠ったグループと眠らなかったグループの被験者に一連のテストをしてもらい、テストを終えた被験者をfMRIにかけて脳を撮影した。予想通り、眠い方の被験者はテストでの正確さが低かった。さらに、眠らなかった被験者たちは眠った被験者たちより脳の重要な二つの領域、頭頂葉と後頭葉が不活発になっていることがわかった。頭頂葉は脳の中でも感覚からやってきた情報を統合する部分であり、数字や物体の操作に関する知識をつかさどる部分でもある。後頭葉は視覚の処理をつかさどる。要するにこの二つの領域は視覚情報と数字の処理に深くかかわっているのだ。製油所のモニター画面を見ている技術者、コンピューターゲームのエンジニアがいつも仕事で扱っているのは?視覚情報と数字だ。つまり、どちらの仕事にも必要な脳の高レベルの活動が最初にだめになるのだ。

●疲れていなくても、我々が見ることのできるものは限られる。「インビジブル・ゴリラ」。バスケをする選手とゴリラの映像。
「我々は目にしたもののうち、自分たちが思っている以上に少ないものしか知覚していません。我々は指示されたことや探していることやすでに知っていることにしか注意をむけていない。特に脳が指示した事柄は大きな役割を果たす」(ダニエル・シモンズ)

―これは「行動承認」をマネジャーに訓練してもらうためのひとつの証左となりそう。これまでは「錯視」を使ったりしていましたが。


●シモンズらは10年にわたって単独でも共同研究でも実験をしてきた結果、人は予想しているものを見て、予想していないものは見えないという結論に達した。そして一定の時間内に取り込める情報量には絶対に超えることのできない限界がある。「人間の脳にとって注意力はゼロサムゲームだ。ある場所やものや出来事により注意を払うと、必ず他の場所への注意がおろそかになる」

―少し話が飛ぶけれど、わたしがなんで「承認」の話をしたいときに「主婦」と呼ばれるのを嫌がるかというと、記事の読者にとって「承認」というこの壮大な広がりのあるものを理解するだけでもそうとうな認知的負荷を伴うのに、それより先に「この女は主婦だ」という情報が先に出てきてしまうと、そこの違和感にばかり注意が引きつけられて、そのあと「承認」のスケールの大きさを理解しよう、などと思わなくなるのがイヤなのだ。よっぽど大きな記事にしてもらえるなら別だけれど―

●人は疲れきっていたり、なにかに注意を引きつけられているなどの、心理学でいう資源消耗の状態にあると、残りのエネルギーを節約して使おうと省エネルギーモードになりはじめる。高次の思考にはそれだけエネルギーが必要だ。疑念を持つことや、議論することなどもそうだ。「資源消耗の状態では、特に認知的に複雑な思考ができなくなる」ハーバード大学の社会心理学者ダニエル・ギルバートは書いている。疑うより信じる方が脳のエネルギーを使わないですむので、疲れていたり、なにかに気を取られていると、人はだまされやすくなる。

●人間の脳は過負荷の状態で睡眠不足になると、倫理的な問題を看過するようになるのを伝道者や洗脳者は熟知していて利用するが、管理職や企業のトップはあえて忘れてしまう。これはアブグレイブ刑務所での出来事の原因の一つだ。

●日焼けサロンは皮膚がんリスクを増大させることに、日焼けサロン愛好家は決して耳を傾けない。「本当は悪いと心の奥ではわかっているものを続けるために、人々が思いつく反論には驚くべきものがあります」ホーク教授は語る。

●スターンビジネススクールの二人の教授、モリソンとミリケンが「雇用者の沈黙」に関する画期的な研究をした。これは雇用者が自分の身の回りの問題について詳しく述べることや、議論することを望まないという現象だ。様々な部署の管理職たちに面接調査を行ったところ、85%が上司に問題提起をしたり、懸念を伝えることができないと感じたことがあった。

●無批判な服従のメカニズムの代表、ミルグラム実験。被験者は権威からの指示に従い実験対象者役に電気ショックを与え続ける。
「権威の下で行動している人は、良心の基準に違反した行動を実行するが、その人が道徳感覚を喪失すると言っては誤りになる。むしろ、道徳感覚の焦点がまるっきり違ってくるというべきだ。自分の行動について道徳的感情で反応しなくなる。むしろ道徳的な配慮は、権威が自分に対して抱いている期待にどれだけ上手に応えるか、という配慮のほうに移行してしまう。」指示にあまりに集中してしまうため、他のすべてが見えなくなるのだ。

●看護師を対象にミルグラム実験と似た実験をし、看護師は医師の指示があきらかに患者の命を危険にさらす場合でも服従するかを調べた。看護師は尋ねられると、患者の事を一番に考えているとかなりはっきりと答える。しかし実験では、22人中21人が医師の指示に従い未認可の薬の投与のための準備をした。

●服従と同化。服従は正規の権威の指示に従うことを伴うが、同化は「その人物に行動を指示する権限を特に持たない仲間の、習慣や日常や言語に適応する」ことだ。社会心理学者ソロモン・アッシュ(ミルグラムの師)の実験では、3人の学生のうち2人が間違った答えをすると、残る1人も40%以上の確率で同じように答える。同化の顕著な特徴は、潜在的なものでありながら、自らの意思で行動したように感じられることだ。我々は自分に似た人々と過ごすことを好むのと同じように、周囲に合わせることも好む。別の実験では、女性より男性のほうが同化しやすいという結果が出た。

●競争的な雰囲気を持つ企業では容易に、時には故意に、社員の同化を引き起こす。トレーディングを扱う組織にはよくあることで、冗談のタネや嘲笑の対象にされたり、社内の勢力争いの中で屈辱を感じたりする。しかし穏やかな組織でも同じような行動が起こることはある。特に医療関係のような、上下関係がはっきりしている組織で起こりやすい。

●ブリストル王立診療所では手術後の死亡率が突出して高く、英国全体の平均の2倍だった。ウィシャートという外科医の執刀例で死亡が多く、死亡した子供は30〜35人に上ったとみられる。これを内部告発したボルシンという医師は村八分となり、オーストラリアに移住した。

―わが国でも今年初めに発覚しましたね、関東のほうの大学附属病院で…。

●人は疎外されると現実に痛みを感じる。社会的に排除されて不快な気持ちを感じると、脳の同じ領域から身体的な痛みが発生する。そして身体的な痛みを調節するのと同じ神経化学物質が社会的な喪失からくる心理的なつらさをコントロールする。我々は社会的な人間関係を形成したり承認されたりすると、それに刺激され、自分をすばらしいと思うようにする物質であるオピオイドが作られる(同様に人間関係が解消されると、オピオイドは作られず、我々はひどい気分になる)。精神薬理学のパイオニア、ジャアク・バンクセップはこういっている。「社会的な影響と社会的な絆は基礎的な神経化学的な意味でオピオイド依存だといえる」つまり、我々が他社との社会的なつながりを求めるのは、社会的な報酬だけでなく、化学的な報酬も原因だ。

―オピオイド説は知らなかったなあ。検索してみよう。
この「同化」は「承認」の正負両方の側面として位置づけられそうだ。朱に交われば赤くなる。いいものにもわるいものにも染まり得る。わるい方にも操作できるからといって、良い方向に組織と人を同化させたいと意図する営みを否定することはできない。

●仲間外れにされたプレイヤーがクンツェンドルフの無意味度診断テストを受けると、自分の人生に意味などないと思いやすくなり、新たな意味を見いだそうという意欲も失っていた。仲間はずれを経験すると、人は希望もやる気も失ってしまう。

―経験しましたね、そういう気分も。

●アッシュの同化のテストをより難しくしたバーンズらの実験では、人々は同化する際、前頭葉は活性化しなかった。つまり意識的な選択が行われていないということだ。活性化は認知をつかさどる領域で起こっていた。つまり他の人びとが見たものを知ることで、被験者が見たものが変わった。また他の人びとが選んだ答えを知ると、被験者の精神的な負担が減っていた。つまり他者の考えを知ると、自分で考えることが減るのだ。同化による決断は、それと知覚されず、感覚もなく、完全に気づかぬまま行われる。

●さらに、被験者がグループの決断に反抗して、独自の決断をした場合は、別の事態が起こる。感情をつかさどる領域である小脳扁桃が高度に活性化するのだ。苦痛と同等のなにかが起こっている。独立はかなりの犠牲を必要とするもののようだ。

●心理学者アーヴィング・ジャニスによると、集団の中では、意見の一致を維持していこうという圧力のせいで、考えることが減る。一人一人が情報を検討して、それを正しいかどうかを確認することがなくなるのだ。「政策決定をする内集団が素直で団結心が強いと、独立した批判的な思考が集団思考に置き換えられてしまうという危険がそれだけ大きくなる。その結果、外集団に対する理不尽で人間性を奪うような行動につながりやすい」

―今年戦後70年でしたが、あらゆる「戦争」はこうした集団思考の危険を最大化したもの、とみることはできるでしょう。


●集団思考をしている集団は、自分たちはなににも傷つけられないと考えがちだ。彼らはもっともらしい理屈をつけて警告を無視し、自分たちの集団が倫理的に優れていると熱く信じている。敵対する者や部外者を悪者と考えがちで、反対者には同化するよう強い圧力をかける。ほとんどの組織では、チームに従い、面倒な質問をいない者がチームの一員として望ましいという暗黙の了解がある。

―ここだな〜。「承認教育」は単体でもきわめて有効なものですが、フォローアップとして必要なことがあるとすれば、「承認」が過度の同質化圧力にならず、内部で何の角も立たないなめらかな文化をつくることを自己目的化せず、異論を歓迎する程よくゴツゴツした文化というところを着地点にするように支援することではないかと思います。簡単なようで結構むずかしいです。

●心理学者ダーリーとラタネの提唱した「傍観者効果」。アンケートに記入している間に部屋に煙がたまってくる。通報したり何らかの対応をする被験者は、一人きりのときは100%、しかし二人でいたときは10人に1人、3人でいたときは24人に1人の率になった。

―これは「承認研修」の受講生人数の設定にも関わるお話です。従来から、宿題提出率や定着率について、「10人なら10人、20人でも10人、30人でも10人」つまり受講者数が多ければ多いほど歩留まりはわるくなる、ということを言っているのですけれど。ドラスティックな変化を起こす研修だけに、人数が多いと「傍観者効果」が起こりやすくなる、という説明ができるかと思います。

●もうひとつ傍観者効果の実験。被験者を小さく区切った部屋に隔離し、癲癇の発作を起こしている人の声が聞こえたと信じさせる。そして、被験者がそれを知っているのは自分だけだと考えている場合は、85%が報告している。しかし、他の場所にいる被験者も発作のことを知っていると考えている場合は、なにか対応した者は3分の1にとどまった。この実験が示すのは、危機的状況を目撃した人数が多ければ多いほど、なにか行動を起こす人が減るということだ。一人ならばちゃんと認識できる出来事が、集団になると見えなくなるということだ。

●「見て見ぬふり」はイノベーションの黙殺についても当てはまる。新たな技術などがアイデアの欠如ではなく、勇気がないせいで導入されないことはあまりに人間的であまりによくあることだ。経営のトップはいつも革新を望んでいるというが、誰かが別のところでリスクを冒してくれるのを待っているので、凍りついたようになにもできなくなっている。

―うん、でしょ?わたしは日本人は独創性のない民族だとは思っていません、単に勇気がないだけです。かつ勇気をもたらすのは、アイデアを提起する本人さんに期待するより、アイデアを奨励する組織の空気づくりをしたほうが現実的に有効なのです。
「イノベーティブな人材づくり研修」にあんまり乗れないのはそういう理由です

●「傍観者効果」はいつ学習するのだろうか。かなり早く、学校でのいじめを目にすることによっても学ぶ。
 ホロコーストの生き残りであるエルヴィン・ストーブはすべての集団暴力には傍観者がいないと成立せず、傍観者によって激化するという観察からいじめに興味を抱いた。
「集団暴力について私が一番強くいいたいのは、我々は早く行動しなければならないということだ。早いうちの方が、信念や地位が固まり、強固になる前の方が行動を起こしやすい。…事態が進んでしまうと、誰かにいわれてやめると、面子が潰れるような状況になる。」

●集団暴力は徐々に進行していく。誰かを疎外したり、職場の環境を差別に都合よく変えていくようなことは、いつも少しずつ段階を踏んで進んでいく。

●「現場との距離」。テキサスシティの製油所で爆発事故を起こしたBP社の本社はロンドンでもっとも優雅な区域、セント・ジェームズ・スクエアにある。役員のマンゾーニ氏は事故前にテキサスシティ製油所を視察しているが、何も見なかった。誰も彼に何も告げなかった。本社役員と現場の距離は、物理的にも心理的にも遠かった。

●「直接見る」ことの意義。ミルグラムの服従実験の新しいバージョンでは、ショックを与える対象者と被験者の距離が、最大のショックを与える率に影響した。同じ部屋にいてわずか数メートルのところに座っていると、その率は65%から40%に減った。また対象者の手に触れ、電気ショックを与えるプレートにその手を導かせるようにすると、接触したことが影響し、最後までスイッチを押しつづけた被験者は30%だけになった。対象者が同じ部屋に座っていて、目を合わせ、身体的な接触まですると、すべてが変わる。

―どこかのファストフードチェーンのCEOも、「ワンオペ」をする学生アルバイトがトイレに行く暇もなく徹夜勤務をするようすをまぢかでみていたら違ったかもしれませんね…

●権力は持つ者と持たざる者の間の距離を広げる。権力を持つ者はこの問題を認識していないことが非常に多いが、どんなに努力をしても、距離はなくならない。

●ステレオタイプ思考と権力の関係。支配欲を持つ者はそうでない者より性急に判断し、既存の知識に従う傾向が強い。

―はは〜、だからだな。先日わたしが取材を受けたのは割合功成り名遂げた資産家の層が読む雑誌なのだが、取材者が「専業主婦」という語を連発して話がかみあわなかった。この人たちにとってほとんど無意識なのだろう、ステレオタイプ思考は。しかも、それを指摘しようとするとむっとしそうな空気があった。こだわるなぁこの話題に。

●ミリケンの研究では、危機的状況に置かれると、裕福で権力を持つ者は、さらに良い結果を期待する傾向がある。彼らがこれほど楽天的である理由の少なくとも一つは、ほとんどどんな逆境でも乗り切れるだけの力があるから、あるいはあると思っているからだ。これは彼らが他の者たちと違って、現実的に考えられないことを意味している。権力と楽観主義と抽象的思考の組み合わせのせいで、権力者はさらに自信を持つ。

―今もいますね、一線を退いた有名経営者で「イケイケドンドン」の持論を展開する人は。

●分業と見てみぬふりの関係。自動車を製造している人と、修理や点検に当たる人とは違う。これは自社の車の構造に問題があったとしても特に知ろうとしなかったら見えてこないということだ。アメリカ食品医薬品局(FDA)では、医薬品の認可を行う部署は規模も予算も大きく、市販後の医薬品の安全性を調査する部署は反対に規模も予算も小さい。そこで、一旦認可された薬の問題点を、局内の影響力の小さい部署から大きい部署へ考え直してくれと指摘するということになり、否定され抵抗されるのは目に見えている。だから、小規模な治験によって承認された薬品は、何百万人もの患者たちに使用されるようになると、事実上は監視されておらず、FDAは自らが下した判断の結果に実質的には目をつぶっていた。

―おもしろい指摘。ドラッグギャップというものがよく問題になりますが、アメリカで認可された薬をはいそうですかとそのまま使用してしまうと問題が多いかもしれないのです

●スペースシャトル「チャレンジャー」の爆発事故。部品のOリングは非常な低温下では裂けやすいが、天気予報によると発射予定日の気温は低すぎた。部品メーカーはこれを心配しNASAに伝えようとしたが相手は顧客であり、下請け業者なので発言力も強くなかった。「外注業者」であることがコミュニケーションを困難にした。

●「倫理観の崩壊」。金銭が提示されると人は倫理的な判断ができなくなり、金銭だけを判断材料にするという一連の実験結果。

●金について考えるようきっかけを与えられた被験者は、選択の自由を与えられると、一人で作業をするか、一人で趣味の活動をすることを望む傾向があった。以前より意欲的になったものの、社会性が減り、他人との絆が薄れた。より孤立し、他人に対する親切心が減り、同情心も薄れた。
業績変動給は、従業員がもっとよく働き、忍耐強くなるように考えられたものだが、実際には人間関係に複雑な影響を及ぼす。

―成果主義を取り入れた営業組織では、営業マンたちが仕事上の情報を教え合わなくなり足の引っ張り合いも起こり、非効率になった、という話を以前にもご紹介しましたね。

●社会的な動機と経済的な動機のバランス、それにその2つが相反するように働くことは、科学的には証明されてはいないが直感的に理解されている。人は金を稼げば稼ぐほど、国全体の福祉には関心を持たなくなるという暗黙の理解のせいだ。

―重要な指摘。実は現代ドイツではヘーゲル的な承認と再分配ではなく、逆に富めるものを益々富ませ、かれらからの善意の寄付を福祉に充てるべきだ、という主張が新右翼?から出ていて、エスタブリッシュメントの一定の支持を得ているという。だが常識的に考えて、富を「自らの才覚によって」独占する人々がそれを社会に再分配する方向に自主的に考えるとはとても思えないのだ。

●経済的な優遇を受けると人は、他人への配慮を以前よりしなくなるとわかったのだから、この手段は非常に慎重に扱わなければならない。経済的な優遇策に重きを置きすぎると、大事なのは金であり、それ以外は問題ではないというメッセージを送ることになってしまう。しかし慎重に配慮している企業はほとんどない。

●模倣学習で有名な心理学者、「アル」ことアルバート・バンデュラ。彼は生涯を通じて、人が犯罪行為や非人間的に行動をする際に起こる道徳心からの離脱のメカニズムを解明しようと研究している。避妊と衛生教育がいかに良い影響を及ぼしたかについて語った若いアフリカ人女性に、裕福な欧米人がブーイングした。彼らは欧米の出生率では将来高齢者の年金をまかなえなくなると認識していた(だから産児制限は彼らにとって「悪」なのだ)

●バンデュラは主張する。金は我々に道徳心から離れ、自分の決断が社会におよぼす影響を考えずにいられるようにする。すべてを経済的な観点からのみ考えている限り、自分たちの決断の社会的、倫理的な結果を直視せずにすむのだ。

●内部告発者を、本書は「カサンドラ」と呼ぶ。カサンドラは古代ギリシア神話に登場する預言者で、王家の血を引く娘。アポロンが美貌のカサンドラを見初め、預言の力を与えた。しかし彼女に振られると、アポロンは腹いせに自分が与えた力にその預言を誰も信じないという運命をつけたした。だからカサンドラがトロイ人たちにギリシア人が置いていった大きな木馬を町に入れないようにと警告しても、誰も信じなかった。カサンドラはアガメムノンとともにクリュムネーストラーに殺される。カサンドラの運命が残酷で皮肉なのは、彼女の預言の話を読んでいる我々には、それが本当なのがわかっていても、他の登場人物の誰もが真実を知らないことだ。

●内部告発者は冷笑的でなく、みな前向きな人物で、一般社会への反逆者ではなく、真実を信じているだけだ。彼らの特徴はふてくされたり、落胆したりしないことだ。生まれつき反抗的なわけではなく、彼らが愛する組織や人々が間違った方向に向かっているのを見て、声を上げずにはいられなくなったのだ。

●カサンドラの多くはアウトサイダーだ。生まれ合わせや、送ってきた人生や、事実を知った衝撃などのせいで、周囲との隔たりは埋めようもないほど大きくなっている。

●カサンドラはみな真実を知るために権威に挑戦する。その結果、みな困惑し、いらいらし、頑固になる。こうした性質は彼らの信用を落とそうとしたり、孤立させたりするために利用されることも多いが、この性質こそ彼らが忍耐強くやり通せるエネルギーの源なのだ。

―なんだか共感するフレーズが続くなあ^^

●解決編。カサンドラ、悪魔の代弁者、反体制の人間、トラブルメーカー、道化、コーチ…名前はなんであろうと、トップの人間がはっきりとものを見る力を失わないために、外部の人間が必要だ。(しかし外部の人間もいずれ同化していく)

●だから我々は外部の人間に頼るばかりでなく、自分たちでも2つの重要な習慣を確立しなければならない。それは批判的思考と勇気を持つことだ。

●スタンフォード監獄実験を指揮した心理学者フィリップ・ジンバルドは、その後自分が置かれた状況の影響力に抵抗する教育プログラムを考えた。自分たちがどれだけイージーで、他人の期待に合わせているのかを認識するように促すエクササイズをする。

●集団暴力を研究したエルヴィン・ストーブは、いじめへの対応を子供に教えるためのプログラムを考えた。

●英雄的な経営スタイルを持つトップのいる会社や、一人の人間の権力と影響力に注目が集まっている企業では、役員たちが人の顔色をうかがうようになり、自分たちが知っていることが本当かどうかを考え直したり、分析したりすることができなくなる。…トップの性格やエゴほど、議論や反対意見を押しつぶすものはない。最近の企業や組織の不祥事の多くは強い経営者のいる組織で起きていることを考えると、高級誌の表紙に載ったり、なにかの権威としてあがめられることは、はたして誰かの役に立つのだろうかと思わずにはいられない。

―以前こういう社風の有名企業に関わったが、かなり重症度が高かったが1年関わるとかなりましになった、すなわち人々が率直に話し合う空気ができた。しかし単年度で研修が終わるとすぐどどーんと元の暗いシニシズム文化に戻った。思いつきレベルの単年度の介入では土台むりな話なのだ

―最近のアメリカではこういう傾向はちょっとましになったようで、グーグルの新CEOはインド人の謙虚な人格の人だという。まあグーグルは元々集団指導で、スター経営者はつくらなかったみたいだが

●しめくくりは、歴史から学ぶことの価値。ビジネスの思考や教育の大半にはこの歴史的視点が驚くほど欠けている。商業的な世界は新しいもの、革新的なもの、革命的なものと非常に相性がよいせいで、長期的な傾向やパターンが見えなくなりやすい。…歴史的な感覚を得ることの利点の一つに、長期的な傾向をつかみやすくなり、かすかな兆候にも敏感になることがある。

―ですよね〜。


今回の記事は移動中にワードに打ってからUPしましたが、ワードで15pにもなってしまいました。長文をお詫びします。重要な知見をたくさん含んでいるので(他の本との重複も多いようですが)うかつに省略できませんでした。大変示唆に富んだ読書であったと思います。


(一財)承認マネジメント協会
正田佐与



お世話になっている皆様


 おはようございます。
 一般財団法人承認マネジメント協会の正田です。
 猛暑が少し和らぎ、過ごしやすくなりました。
 みなさま、お変わりありませんか。
 

※このメールは、正田が過去にお名刺を交換させていただいた方・当協会のイベントやセミナーにご来場いただいた方にお送りしています。ご不要の方は、メール末尾にありますURLより解除ください。
(解除方法が変わりました!詳細はメール末尾をご覧ください)


 本日の話題は:

■この夏、心に残った戦争映画…。
■「教育」における「承認」と、ある少女の転落をめぐる考察―「ヘーゲル承認論」シリーズ
■ヨロコビの感情で仕事をすることはできるでしょうか
 ―お客様からの嬉しいご報告―
■兵庫県で「承認」を学ぶチャンス!加東市商工会様でのセミナーご案内

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■この夏、心に残った戦争映画…。

 この夏は例年になく、映画が国内外ともに大豊作だったよう。
 映画好きのわたくし正田もホクホクでしたが、その中で時節柄目を引いた映画がありました。
「野火」。
 大岡昇平の原作小説の二度目の映画化。監督の塚本晋也氏が主人公の田村一等兵を演じています。レイテ島の戦線で繰り広げられる異常な光景を、徹頭徹尾田村一等兵の眼を通して描きます。
(シネリーブル神戸ではあす21日まで上映)

 そこに描かれる、飢餓地獄とともに旧日本軍の奇妙な不条理。
 旧日本軍の判断の誤りについては野中郁次郎氏ら『失敗の本質』に詳しいです。それとともに、組織体質、いわば「マネジメント」のレベルの話が興味深いです。

 ご参考になりますかどうか、少し古いですがこちらのブログ(読書日記)にその一端とそれに関する考察を書かせていただきました:

◆「かっこよくない実像、セクショナリズム、医療軽視、生者軽視―『日本軍と日本兵』」
 http://c-c-a.blog.jp/archives/51883101.html

 なお『野火』に続いて公開された『日本のいちばん長い日』も、重厚な大作でした。
 このほか『インサイド・ヘッド』『ジュラシック・ワールド』『進撃の巨人(アニメ版・実写版)』とこの夏は観る映画に事欠きませんでした…。

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■「教育」における「承認」と、ある少女の転落をめぐる考察―「ヘーゲル承認論」シリーズ

 今春から、「ヘーゲル承認論」シリーズを始めています。
 現代ドイツの教育学で「承認論」が盛んなようです。
 『人間形成と承認』という本の読書日記をこちらにUPさせていただきました

◆他者との相互作用と「人間形成(ビルドゥング)」―『人間形成と承認』をよむ(上)
 http://c-c-a.blog.jp/archives/51920246.html

◆ある少女の転落と「承認」、それに学校の役割―『人間形成と承認』をよむ(下)
 http://c-c-a.blog.jp/archives/51920309.html

 この中では、インパクトのあるエピソードが語られますが、できればそうしたインパクトに頼らずに「承認」を語りたいものです。
 なぜ、負の事象をことさらに紹介することが好ましくないか。それについての考察をこちらにUPしています。

◆長すぎてしまった前振り 承認欲求と食欲と栄養と過剰摂取の関係について
 http://c-c-a.blog.jp/archives/51920236.html

◆誤解を招かないように 「非行エピソード」を語ることの功罪
 http://c-c-a.blog.jp/archives/51920414.html

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■ヨロコビの感情で仕事をすることはできるでしょうか
 ―お客様からの嬉しいご報告―

 さて、久々に研修のお客様からのさわやかなご報告が届きました。
 7月末に研修をさせていただいた、ベーカリーのチェーン様。
 ある日ある店舗で、ゼネラルマネジャーから店長にある“提案”をしました。それは―。
 ご興味のある方はこちらの記事をご覧ください

◆ヨロコビをともにできる方だけが読んでください―お客様の「承認をめぐる冒険」
 http://c-c-a.blog.jp/archives/51920606.html

 この中で、GMのメールの中に
「7月29日の先生の講習を店長はとにかく楽しみにしておりました。」
という言葉があります。
 このお客様のところでは、事前に受講生の店長さん、リーダーさん方に拙著『行動承認』を配っていただき、当日前のコーチングセッション(GMから個々の店長に「コーチング」をしています)の中でも話題にし、「学ぶ」空気を盛り上げてくださっていました。
 こうして下地づくりをしてくださったところでは、外部講師のわたしがお邪魔しても、お話したこと一言一言を受講生さんが吸取り紙のように余すところなく吸収してくださるのがわかります。
 どのお客様にもお願いできることではないですが、講師をさせていただくうえでは理想的な状態ですね。
 お客様から、「学ぶ姿勢」を教わったような経験でした。
 

 このお客様の研修風景をこちらにUPしています(再掲)
◆胸を打つアイスブレイク、夏のベーカリーの賑わい
 http://c-c-a.blog.jp/archives/51919437.html 

 当協会のマネジャー教育は、「12年業績1位マネジャー輩出」の実績を誇ります。学術的検証はまだされておりません。しかしファンタジーではありません。何度も何度もお伝えしても伝わらないことですが、お客様の「業績向上」は、細かく見るとこうしたプロセスをいくつも経ているのです。
 わたしどもとしては、「業績向上」の実績とともに、お客様がご厚意で公開してくださるこれらのプロセスをご紹介していくしか手だてがないのだと思います。

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■兵庫県で「承認」を学ぶチャンス!加東市商工会様でのセミナー案内

 「オープンセミナーはないんですか」
『行動承認』の出版後、よくそういうお問い合わせをいただきます。なかなかそれにお応えできなかったのですが、兵庫県内で「学びたい」と思われた方に朗報です!加東市商工会様で9月から11月にかけて、「承認」「傾聴」の3回のセミナーをいたします。
  加東市商工会HP http://www.katosci.or.jp/index.shtml 
詳しくは9月11日(金)、10月16日(金)、11月6日(金)の各13時30分〜16時30分。
 加東市商工会館(加東市社717-1)2階会議室にて。
 実際に「承認」で成果を挙げられた経験者の関西国際大学経営学科長の松本茂樹先生と正田が2人で講師を務めさせていただきます。
 受講料はおひとり1500円(資料代)。会員企業以外でも参加できます。
 お問い合わせは、同商工会(0795-42-0253)まで。

 なお、上記のセミナーではお申込みいただいた方に、拙著『行動承認』を配布していただく予定です。

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※このメールは、正田が過去にお名刺を交換させていただいた方・当協会のイベントやセミナーにご来場いただいた方にお送りしています。

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メールアドレスを入力していただいた後、解除専用の確認メールをお送りさせていただきますので解除専用のURLをクリックして下さい。
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もしこのメールを新たに購読ご希望のかたがいらっしゃいましたら、
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(旧NPO法人企業内コーチ育成協会
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ブログ「コーチ・正田の 愛するこの世界」
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近著『行動承認―組織の能力を最大化する「認める力」』
http://www.amazon.co.jp/gp/product/4434198572 


*…*…*…*…*…*…*…*…*…*…*…*…*…*

 この夏「ピクサー長編アニメーション20周年記念」の話題映画「インサイド・ヘッド」は「感情」がテーマの作品でした。

 ヨロコビ・イカリ・カナシミ・ムカムカ・ビビリの5つの感情がヒロインの女の子ライリーの頭の中にあり、大騒ぎしながら、調整しながら、ライリーの言動を決めているのです。
 物語はそれら5つの感情たちにある日生まれたトラブルとそれの解決のためのそれぞれの活躍が描かれます。こういうことが映画のモチーフになり得るということも目からウロコでしたが、内容は最新の心理学の知見を踏まえたものだそうです。大団円ではわたくしも思わず落涙してしまったのでした・・・。


 ところで、
 5つの感情の中で唯一のポジティブ感情である「ヨロコビ」。なぜ、1つしかないのか。

 結局わたしたち人類は生存のためにネガティブ感情を先に発達させました。最も原始的な「爬虫類の脳=脳幹」は、ビビリ(恐れ)とイカリの塊のようなものです。
 現在でも、わたしたちは自分の生存が危うくなると、これらの感情が支配的になります。

 しかし、わたしたちの生がサバンナで肉食獣に捕食されるかどうかだけを考えることだけでできているのなら別ですが、周囲とつながり集団をつくって狩猟採集農耕をするようになると、ポジティブ感情が必要になります。


 そこで後から発達した「ヨロコビ(ポジティブ感情)」。ポジティブ心理学では、ポジティブ感情を以下の10通りに分類します。
 。ヾ遒(Joy) 感謝(Gratitude) 0造蕕(Serenity) ざ縮(Interest) ゴ望(Hope) Ω悗(Pride) 愉快(Amusement) ┯殄(Inspiration) 畏敬(Awe) そして 愛 (Love)
(『ポジティブな人だけがうまくいく 3:1の法則』バーバラ・フレドリクソン、日本実業出版社、2010年)


 すみません、ここまでは例によって「長すぎる前振り」でした…。


****

 研修のお客様から、また嬉しいお知らせをいただきましたので、ご紹介させていただきます。


 研修後2週間、お盆の土曜日のある店舗。

 忙しいながらスタッフ6名が全員そろっている日だったので、会社のゼネラルマネジャー(GM)から店長に、「三者面談に同席してくれませんか?」と提案。

 店長も同意し、急遽、GMと店長による社員への三者面談となりました。

 
 その結果、どうなったでしょうか・・・。

 ここから先は、GMからいただいたメールをそのまま引用させていただこうと思います。

 (固有名詞だけ伏せております)



毎日毎日、朝から晩まで社員さんと向き合い闘っている店長、
嫌われ役になって、親の気持ちになって、
叱責、注意、励まし、それを諦めず繰り返して頑張っていました。

ただ、昨日の面談は、まず承認から入って、
たくさんたくさん相手を認め、そして改善してほしいことを
店長が話しました。

私は店長と社員さんの話をじっくり黙って聞いて、
一通り終了したところで、店長を後押しするよう、
まず相手をたくさん承認して、
それから、少しコーチングを織り交ぜ質問して考えさせたり、
また若い従業員にはわかりやすく例を挙げて、
「A君とB君がいて・・・
A君はこういう人、B君はこういう人、
もしあなたが社長だったら、A君とB君のどちらを選択しますか?」
など、とにかく相手のレベルに合わせ、優しく向き合いました。

そう、店長と私、本当に向き合いました。
そういう面談になりました。

今まで店長も手に負えなく悩んでいたくらい手ごわかった若い社員さんたちが
みるみるその場で変わっていくのがわかりました。

これが承認の成果だと思いました。

現場で毎日のように彼らと向き合い、
叱り、諭し、励ましていた店長ですが、
なかなか相手には通じていなかったので、
悩み苦しんでいた店長ですが、

昨日は、まず承認から入り、
自分の言葉で相手をたくさん認めていました。

社員さんたちも「面談→叱られる」と思っていたようで、
いきなりたくさん認めてもらって調子が狂ったような?
でも、心の中では嬉しくて、素直にならざるを得なくなってしまったかのようでした。

私は、社員さんの変わり方もさることながら、
店長の成長を目の前で見ることができて、
嬉しくてそれだけで感無量の気持ちでした。
正田先生の「承認マネジメント」が目の前で実践され、
相手がどんどん変わっていく・・・
本当に素晴らしかったです。

6人の社員さんの面談をいたしましたので、
連続して4時間、狭い休憩室で、
店長と私は足がしびれて参りましたが、
承認マネジメントの心地よさで二人とも
足の痛さが吹き飛びました。

休憩室から現場に戻った時、
そこには依然より顔つきも良くきびきび、
生き生き動いていた社員さんたちがいました。

店長と私の承認が彼ら一人一人の心に確実に響いたのだと
確信が出来ました。

今まで味わえなかった心地よさを充分に感じて、
私の帰宅の足取りも軽く、本当にすがすがしい気持ちでした。
ここに「承認マネジメント」の成果を充分に感じ、
先生にご報告申し上げます。

本当に正田先生との出会いに感謝いたします。
と同時に、先生を見つけてくださった弊社牧田社長と
そして、あの講習をしっかりと自分の中に取り入れ、
実践をしてくれた店長の成長に感謝したく思います。

7月29日の先生の講習を店長はとにかく楽しみにしておりました。
「自分に必ず何かを習得したい」とそうも申しておりました。
その言葉通りに彼女は、「承認」を習得し、
それを実践して、素晴らしい成果を手に入れました。


社員さんたちは若い社員さんも多いので、
今回だけの承認では足らず、これからもこういう承認を繰り返す必要はあると
思いますが、態度が明らかに違ってきておりますので、
これからが楽しみです



 こういうご報告(お客様にわたしからそんな言葉もおこがましいんですが)でした。

 ・・・さて、何か補足できることがありますでしょうか・・・


 メールに出てきた「店長」は、タカラヅカの男役のようにビシッと背筋の伸びた、かっこいい女性です。
 きっとご自身は厳しい環境で歯を食いしばって育ってこられただろう、と思うような。

 そういう方にして「承認」を学ばれるというのは、ご自身の過去の整理も意味するであろう、また繰り返し自身の中に湧く「背中を見てついてこい!!」という思いとの葛藤でもあるであろう、決して簡単ではなかったはずです。

 でもこの方は乗り越えたのでした。たぶん信頼するGMからの背中押しによって、またご自身のもともと持っている克己心によって。
 そこへもうひと押し、たぶん『行動承認』の嘘いつわりのない世界によって。ひょっとしたらそこに出て来た男女のマネジャーたちの「成長物語(ビルドゥングス・ロマン)」は店長の目にも魅力的に映ったかもしれない。


 
 きっとこの店長からの「承認」というのは、厳しい中に人一倍正確な観察眼に基づいた、若いスタッフたちの成長意欲を刺激するものであっただろう。そういう言葉に出会えるというのは、若い働き手たちにとってどれほどの幸せでしょう。


 この三者面談の翌日も、「スタッフたちの態度が変わったことで店長も力がみなぎったようだ」とGMからのメールにあり、研修で意図した「両方よし」が実現できたようなのでした。



 当協会の「承認」自体は、いまだ学術的に検証されていませんけれども正しいものです。
 ただ同じものでも、信念を共有してくださる、心正しく真摯なお客様のもとにインストールされたとき、絶大な力を発揮します。

 そしてわたしは決して力を誇示したいわけではなく、ひとえに当事者の方々の人生がどれほど幸せだろう、と想像することで心が満たされるのでした。また、「学術的に検証されてない」ということについても、聡明な方ならこうやってわかってくださる、これ以上わざわざ証明が必要だろうか、という気もするのでした。


 お忙しい中のひとときを割いて嬉しいご報告をくださったお客様に感謝です。



 また、こうしたことをブログで公表することで「承認学校」に自分が否定された、と感じる人びとがわたしを罵り嘲りたいなら、どうぞそうなさってください、幸せになるべく努力する人たちの幸せと引き換えにはできませんから、と思うのでした。



(一財)承認マネジメント協会
 正田佐与
 


 さて、今日の記事は正田のアホみたいに真面目な性格が書かせる、1つ前の記事についての補足です。


 1つ前の記事「ある少女の転落と『承認』、それに学校の役割―『人間形成と承認』をよむ(下)」では、ヤニカというドイツ人の少女の非行に至った過程に「承認欲求」と「承認の不在」がどうかかわったか、というお話を書きました。


 こういうお話は世間にごまんとあるはずで、ひょっとしたら承認欲求の極端に強い性格が犯罪とか非行に関連づけられる、なんていう結論がいずれ出るかもしれません。

 いっぽう。

 当ブログでは従来あまりご紹介しなかったタイプの話なのでそこそこインパクトはあったかもしれませんが、やはりこのタイプの話を紹介することは誤解を招くおそれもあり、今後はちょっと控えようかと思います。


 といいますのは、何度も書きますように、2011-13年ごろに出た世間の「承認欲求本」で「承認欲求」と「若者の非行」を関連づける言説というのは既に出尽くしたぐらい出ているからであります。そうした書籍に出てくる「承認欲求」はグロテスクであります。

 そちら側からばかり「承認欲求」を語っていると、まるで「承認欲求」が非行に走る少年少女にだけ特有の危険な性質のもの、というふうに見えかねません。

 恐らくその文脈の上に、昨年の有名な心理学本の「承認欲求は満たされると思うな」という、悪者扱いしているかのような記述があり、それを読んだらしい人の「僕には承認欲求はありません(注:正田の観察では本当はありあり)」という言葉や態度になったのだと思われます。

 しかし、それは非常に偏った見方です。

 3つほど前の記事に書きましたように、「承認欲求」は「食欲」と似ていて、適切に満たしている限りよいものです。まれに極端に強い「承認欲求」の持ち主がいて、問題行動につながる、そういう時にだけ意識されやすいですが、本来そんな極端なものではありません。だれしも程度の差こそあれ「承認欲求」はもっていて、普通は常識的な範囲に収まっています。そしてだれにとっても、「承認欲求」は「良い仕事をしよう」というモチベーションになります。むしろ、「自分には『ない』」などと自分に言い聞かせやせ我慢をしていることのほうが、問題が多いです。それこそ問題行動につながったり、こころを病んでしまうかもしれません。

 
 ですので、「問題行動に走ったとき初めて『承認欲求』に注目する」という態度自体をやめたほうがいいのです。
 それは、まかない係の怠惰ゆえに飢餓状態に追い込んでいるようなものです。

 普通に「与える」ことを習慣化してしまえば、ほとんどの人は良い方向に行き、学業成績が上がったり有能になります。少数の例外として、ますます欲求がこうじてエスカレートしてしまうタイプの人がいるだけです。

 「承認欲求」は、決して、虞犯少年少女だけが持ち合わせているものではありません。
 この記事を読んでいるあなたにも必ずありますから、安心してください。
 

 なので今日の記事はほとんど、3つ前の記事「長すぎてしまった前振り 承認欲求と食欲と栄養と過剰摂取の関係について」の焼き直しのようなものですが、

 「ヤニカ」の事例のインパクトのために、このブログが慎重に避けてきた「承認欲求」に関する誤解を招いてしまうと非常にもったいないことになるので、あえて再度この記事を書きました。


 「承認」は、「普通に」与えましょう。「与える承認」は非常に大人の行為で、美しいものです。

 欠乏状態は異常なので、つくらないよう努力しましょう。また、常識的な範囲の「承認欲求」をやせがまんすることもやめましょう。
 



(一財)承認マネジメント協会
 正田佐与



 追記:
 でもまた思いました、
 正田は時々立ち回り先で人様からひどいことを言われることがあるんだけどあれはどういう心理なのだろう?と考えたとき、その人は「ヤニカ」の状態なのだなあ、と思いました。自分を承認してくれない学校を全否定しているのだなあと。
 正田が象徴する「承認」の「学校」のような世界では、「承認」の実践者のマネジャーたちが奇跡のような成果を手に入れ、かつ正田から心からの賞賛を受けます。
 「承認」の実践者でない人はそのような賞賛は得られません。実践者がもらう賞賛の甘美さを知っている傍観者の人たちは、そこで「承認されない」気持ちを味わいます。学校で「ダメ生徒」のレッテルを貼られたような。あるいは「その他色々」に分類されたような。
 そこで、その人たちは自己イメージを守るために、「学校」や正田を全否定することで仕返しをするのです。
 正田なんにも悪いことしてないのに。
 そういうことが続いてきたから正田は疲れちゃったんだなあ。
 
 こういう読み解きのツールになるから、「ヤニカ」のエピソードがあったことはわるくないですね。


 『人間形成と承認』(L・ヴィガー+山名淳+藤井佳世編著、北大路書房、2014年7月)の読書日記の後半です。


 ここでは、ある少女「ヤニカ」のインタビューが出てきます。ヤニカは実科学校8年生を落第し、暴力行為のため退学となり、数日間の少年拘禁に処せられたあと生活支援グループホームないしは保護施設へ移される、というタイミングでインタビューに応じました。

 少女が非行に突き進む痛ましい事例の中に「承認欲求」「承認」はどう関わっているでしょうか…。


 「承認欲求」「承認」の問題行為への契機の側面について、当ブログではこれまであまり触れないできました。どちらかというと、世間の「承認欲求本」のほうにそれらの情報はあふれているから、という判断でした。

 しかし、この「ヤニカ」のインタビューは平凡ではあるが痛ましいものであるだけに、あえてご紹介したくなった次第です。

 当協会の教育に触れ、承認を「与える」能力を既にもった大人の方々は、無数の「ヤニカ」をそれと知らずに救っているかもしれない。そしてこれからも救えるかもしれないとの希望のもとに。


 以下、かいつまんで「ヤニカ」の事例をご紹介しますと、
 
 ヤニカは当初「基幹学校」(ドイツの中学生年齢の子が通う職業訓練校のようなもの)に通っていましたが、「通訳になりたい」と希望し、基幹学校には英語のクラスしかなくフランス語やイタリア語も習いたかった、レベルも低いなどの理由で、基幹学校で良い成績をとって実科学校に転学しました。

 ところが、実科学校に行くと、ヤニカの知識不足が明らかになりました。実科学校の教師たちは彼女が遅れを取り戻すことに積極的には手を貸しませんでした。ヤニカは7年生に編入しましたが実科学校5年生6年生の教科書をもらってしばらく独学で頑張りました。しかしその努力は実を結ばず、ヤニカの成績は8年生でさらに下がりました。

「ヤニカは授業への興味を失い、8年生を繰り返すことになった。そのクラスで3人の女子生徒と知り合い、彼女らといっしょに授業をサボり、挑発的な態度をとり、他の女子生徒を殴ったりした。」(p.114)

「実科学校は「それまでの家庭環境を超えた、将来のよりよい人生へのチャンス」を約束してくれる。そのため、抵抗にあってもヤニカは転校を言い出し、実行する。けれども、実科学校での成功とそれにかかわる承認は達成されないままである。基幹学校では優秀な生徒の一人であったが、実科学校では求められる知識や能力の面で遅れを取り戻せないため、その立場に再び立つことができない。彼女は軽蔑的に「天使」や「ガリベン」と呼ぶ他の生徒の成功を知っている。そして、授業の課題や校則にあからさまに背を向け、要求されることに取り組むのではなく、やりたいことだけをするようになる。」(p.115)

「コンフリクトのダイナミクス、すなわち学校での問題やコンフリクトの激化、家庭内の立場をめぐる闘争の激化、そして学校外での暴力の激化は、次のジレンマから生じている。すなわち一方では、職歴や社会的地位に決定的な意味をもつ場所、つまり学校での成功や承認を得るための努力がうまくいかなくなり(または、思い描いていた職業上の目標が結果的に実現できなくなり)、他方でヤニカは(学校や家庭や祖父母のもとで)ますます排除され、根本的な承認の拒否を経験しなければならないにもかかわらず、優越した人物という自己像や成功への要求に固執する、というジレンマである。」(p.116)


 ヤニカは、学校が彼女に与えたダメというレッテルが彼女の自己像と矛盾したため、学校そのものを否定しました。
 ヤニカは、判決後に送られた施設でも若者グループ内でイニシアチブをとり続け、インタビューの中でさえもインタビュアーとの間で優位性をかちとろうとします。彼女のすべての行為は「優位性を効果的に自己主張し自己描写するという課題」のためになされるのでした。すなわち、ヘーゲルの見出した「承認をめぐる闘争」でした。


 こうした「ヤニカ」の事例について、本書では続いて学校の役割について考察し、その中心的な観点は以下の4つであるとします:

ヽ惺擦砲ける公的、法的な関係の基礎。そこから発生する関係者にとっての権利と義務

学校が備える制裁力。もし生徒が義務を怠る場合、教育的な介入または規制措置を行う権限をもつ。

3惺擦人間形成(ビルドゥングス)ないしは教育という課題をもつ。生徒の個別の条件を考慮しつつ、必要な知識、能力、技術、価値観を伝達しなければならない。

こ惺擦備える選別機能。生徒の成績評価をし、異なる教育の進路に割り振る。

 
 著者の見解では、中核的な矛盾はとぁ△垢覆錣舛垢戮討了劼匹發紡个垢訖祐峽狙ないしは教育という課題と、学校のもつ選別機能との間の矛盾だといいます。


 ヤニカをめぐるここまでのお話、いかがでしょうか?

 わたしなりの理解は―、

 ヤニカは、「承認」を人並み以上に求めるタイプの少女だったかもしれません。彼女にとっての「承認」は、「突出して優れていると認められること、優位に立つこと」を意味しました。それは彼女独自の「価値観」あるいは「ニーズ」の世界であったかもしれません。
 
 こういう性向の人が望むような「承認」を得られるのは、それに見合うような突出した「能力」「才能」を幸いにももちあわせている場合だけです。
 残念ながらその均衡がとれていない場合、極端な場合にはヤニカがそうしたように暴力に頼って周囲を支配し、「承認」を得ようとする、ということが起こり得ます。
 また自分の望むように自分を評価してくれない周囲を完全否定することによって自己評価を守ろうとするかもしれません。

 こういうタイプの人がもし身近にいたら何がしてやれるのだろうか?

 賢明な読者のみなさまのご判断をあおぎたいと思います。



 本書ではこのあと「ドイツの教員養成」についてのお話が続きます。2000年のPISAにおいてドイツは読解(総合能力)で21位、「数学」と「科学」でそれぞれ20位という不名誉な結果となり、それに伴って教員養成の在り方が議論されたのでした。
 
 ここには教育の達成をみる指標として学業成績だけではなく人間形成を、という著者の主張も読み取れますが果たしてそれは可能なのですかどうか。

 とはいえわが国でも、過去にこのブログに登場された何人かの優れた先生方は既に取り組んでおられ不可能ではないのでした。



(一財)承認マネジメント協会
正田佐与

 『人間形成と承認』(L・ヴィガー+山名淳+藤井佳世編著、北大路書房、2014年7月)という本を読みました。


 だいぶながいこと「ヘーゲル承認論」をお休みしてしまいましたが、「承認論」が現代ヨーロッパを中心に、「格差是正」「フェミニズム」など社会問題解決の文脈で語られるようになっているようで、ほんとはそれをフォローしたい(でもドイツ語は読めないし、訳文も言葉がむずかしいのでしょっちゅう投げ出している)


 本書は、教育学で「人間形成(ビルドゥングの訳語)」と「承認」の関係を扱います。

 ややこしいのは、現代ドイツにホネット(『承認をめぐる闘争』の著者)というヘーゲル研究の大家がいて、そのホネットの承認論をヴィガーという本書の著者が研究している、という「入れ子構造」になっていることです。

 かつ、やっぱり文がひとつひとつ難しくて、「この一文がきれいに全体の要約になっている」という書き方をしていないので、このブログでよくやるような抜き書きがむずかしい。正確に文意がとれているかどうかも自信がもてない。

 そのなかで比較的わかりやすい文では、たとえば:


「誤解のないように付言すれば、ヴィガー氏が『承認』を教育目的とするような議論を展開していないということは、彼が人間形成にとっての『承認』の意義を軽視しているということを意味しているわけではない。他者からの『承認』によって自らの人生の意味が変容してしまうほどに、私たちの生は『承認』によってあきらかに左右されている。ヴィガー氏による議論の根底にあるのは、そのような『承認』の意義に対する揺るぎない確信である。だからこそ、ヴィガー氏は、他者による「承認」と社会に適応していく側面がどのようにかかわっているのかをつぶさに読み解こうとするのである」(p.12)



 うんうん。まあ「承認は大事なものだ」ということは言っていますね。

 「ヘーゲル承認論」を読んでいて困るところは、そこでは「承認の有効性」が最初から所与のものとして語られてしまうので、いきなり「がん」と地平が上がっていて、普通の「承認」という言葉すら知らない人とかもっと他のものがモチベーションを左右するだろうと思っている人と対話するのに苦労するということです。本書もやっぱりその例にもれません。ぶちぶちぶち。まあ現代ドイツの教育学者が大真面目に議論しているから有効なんだ、と思うしかないのでしょうか。

 従来、「例示がない」のが難でしたが、本書のあとの方では、「少年へのナラティブ・インタビュー」などがでてきます。
 ヴィガー氏はナラティブ・インタビューを人間形成研究における手法と位置づけますが、そこでは「承認」がよりよい方向に作用したと思われるようなエピソードばかりではありません。

「「承認」を得ようとして非行と呼ばれる行為に接近したり、人生が暗転したと感じられたりするような事例も取り上げられている。「承認」というテーマが織り込まれた過程としての人間形成は、けっして肯定に捉えられることばかりではない。挫折や悩みなども人間形成の一側面であり、「承認」と深くかかわるできごととみなされる。」(p.12)
 

 よい方向への変化ばかりではなく、わるい方向への変化も「承認」の影響とみなせる、というのでした。あまりこの視点はなかった。しかし考えてみるとわが国では、「承認欲求」の暗黒面を描く文献が一時期溢れ、承認欲しさに「いじめ」「非行」に走る若者を取り上げてきたと思います。そしてそちらが先行してしまったので、「承認」そのものにダークイメージがついてしまっていました。本当は、いつもいいますけれど大人の人格の人が「与える」承認は、とてもいいものです。


ヘーゲルは一番はじめ、『精神現象学』において「承認」を提起しました。
 本書によれば、


「…『精神現象学』では、個人と共同体の関係が初めて前景に現れてくるのは、「理性」章においてである。そこでは、生命という全体の一部であるという自覚を得ながらも、欲望の対立のなかで強者と弱者へ階層分化しつつ相互に存在を承認しあう「自己意識」の段階を越えて、各構成員の単純な「我あり」の確信に立脚した不平等な相互承認から、客観的真理である「われわれである私と、私であるわれわれ」としての相互承認(共同体の設立)へと意識は高まっていく。」(pp.37-38)



 これもわかりにくいですねえ…(わかります?)

 思い切り我田引水的な解釈をしますと、
 不平等な相互承認、ということでいうと、先の記事でもとりあげた、「地位の高い人は既に地位からくる『承認』を受けている」。一方、部下たちにはそれは「ない」ものなので、そのままだと「不平等な承認」ということになってしまう。地位の高い人が意識的に「承認」の「与え手」となれば、地位の有無をこえて組織の一体感が出てくる、ということになります。いいのかなこの解釈。


 このあと本書にはナラティブな語りによる「事例解釈」が出てきます。17歳の少年、家庭的に恵まれず学業成績も振るわず暴力的傾向もあった、そういう少年に対するインタビュー。そこで恋人の死や尊敬する武術の師匠の死などの出来事を経て、彼が「人間形成」していくプロセスが語られます。彼のばあいの「人間形成」は、「自己規律化」という変化になります。(pp.57-67)


 本書には「行動承認」に関連するような記述もあります。後学のためにそこもちょっと抜き書きしておきましょう。


「総じて、差異の承認あるいは承認の教育学的要求(vgl.Rosenbusch 2009; Prengel/Heinzel 2004)は、理解しやすいが、あまりにも十把一絡の状態にある。それらの規範は明確ではなく、その根底にある対立はあきらかにされていない。一方で、他の人格の自立に対する尊敬の要求は、追体験でき、近代の法的関係において基礎づけられている。他方で、それは、あらゆる教育的行為とすべての人間形成過程が、まさに、知識や熟練した技能、態度や確信や行動にみいだされた状態の受容と承認を目標とするのではなく(vgl.Ricken 2009: 88f.)、それらの変容を目標とする限り、先の要求は、一面的であり誤解を招きやすい。むしろ、承認されるべきことの事実に関する説明と根拠づけ(そして場合によっては、十分に吟味すること)が求められる。その際、考えなければならないことは、行動動機と相互行為状況に関する、歴史的な可変性、社会的な制度設立、個々人の決定可能性である。」(pp.81-82、黄色は正田)



 …わかりますか?わたしは正直、黄色にした最後の2センテンス以外はよくわかりません。しかし自分にわかる都合のよいところだけ抜き書きするのはアンフェアかなと思って前のほうの文も抜き書きしたわけですが…、

 最後の2センテンスは、「承認するには根拠が大事だよ(行動承認)」ということと、「ビジネスプランなんかを承認する(GOサインを出す)ときは周辺状況もよく勘案しようね」といっているように読めます。


 その後にくる文章。

「承認が成果のともなう行動やうまくいったコミュニケーションを含意する限り、承認の願望や承認を目指す明確な努力は、失敗の経験や壊れたコミュニケーション関係を問題にする。そして、コミュニケーションの目的あるいは対象へ向けた承認が生じたかどうか、実際的な失敗や失敗したコミュニケーションの問題とともに失われた承認の問いもまた取り扱われるかどうかが、あきらかになる。」(p.82)



 これもわかったような、わからないような。原文のせいかなあ訳文のせいかなあ。ヘーゲルの時代の哲学者の文章がなぜ難解だったかというと、哲学書を読むことは当時の知識人や貴族の子弟の高級な楽しみであり、「高級感」をかもし出すためにあえて難解に書いてあった、とどこかで読んだことがあります。現代もそういう伝統に縛られなければいけないのかどうか。


 さて、ホネットの承認論です。

「ホネットは、承認の三形態―愛、法、社会的価値評価―において、一方では「さまたげられていない自己関係の可能性」(Honneth 1994: 8)に対する構成的な条件をみている。だが、他方で、『承認をめぐる闘争』の焦点として、軽んじられた経験を発生させる「社会的コンフリクトという道徳的倫理」(Honneth 1994: 8)もおいている。」(p.83)


 これをもう少し詳しくみていくと、

「私は、ホネットの理論的努力を、次に述べる根本思想の基礎づけの試みであると理解している。承認は、人間のコミュニケーションの基本的な道徳的内容であり、その意味において、社会構造や相互行為のさらなる発展の動因でもある。(中略)承認の動機は、「うまく切り結ばれた自己関係に到達するために」(Honneth 1994: 220)、自己実現に対する人間の関心、主体の「アイデンティティ要求」(Honneth 1994: 106)、相互主観的な承認への依存に、人間学的な根をおろしている。(中略)ホネットにとって、承認は、「社会的実存の基礎メカニズム」(Basaure u.a. 2009: 154)であり、総じて、社会に対して構成的である。「社会的統合の相互承認の型への依存は、変化しない。このことは、私にとって、まさに形式人間学的テーゼである。先鋭化していえば、私たちは、相互承認のメカニズムやある特定の型を越えて規範的統合が作用しないような、生存や生き残りに長けた社会の形をまったく想定することはできない」(Basure u.a.2009: 154)」(p.84、黄色正田)



 承認の三つの異なる形態である、愛、法、社会的価値評価。
 「軽んじられること(ミスアハトゥンク)の三つの形態は、この三つの承認形態に対応している」と本書はいいます。

「軽んじられることの三つの形態とは、暴力的抑圧、権利の剥奪、尊厳の剥奪である。暴力的抑圧とは、身体的な虐待において、「自己の固有の身体を自律的に自由に用いること」(Honneth 1994: 214)に対する尊重が奪われることである。権利の剥奪とは、規定的な法の所有からの排除において、「道徳的な責任能力における認知的な尊重」(Honneth 1994: 216)が奪われることである。そして、尊厳の剥奪とは、文化的な格下げにおいて、社会のなかに織り込まれた自己実現の形態に対する「社会的同意」(Honneth 1994: 217)が奪われることである。ホネットは、「肯定的な自己理解のなかでの人格が傷つけられること」(Honneth 1994: 212)を通して、軽んじられる経験のなかに、「社会的抵抗やコンフリクト、すなわち承認をめぐる闘争へ向かう動機」(honneth 1994: 213f.)をみている。その意味において、ホネットの承認論は、「道徳的経験のダイナミズムに基づいて、社会闘争を説明すること」(Honneth 1994: 225)を要求する。」(pp.84-85)


 
 このあたりの文章は、むしろわかりやすいのではないかと思います。「軽んじられる」は、「承認欲求」という言葉や概念を知らなくても、だれにとっても不愉快な経験です。
 1つ目の「暴力的抑圧」は、戦争や、よくある虐待やいじめや、介護の現場での「拘束」の問題なども連想しました。
 3つ目の「尊厳の剥奪」は、1つ前の記事に出てくる「開会あいさつを頼まれなかったからとふくれてねじ込んだ」大学教授氏などもそうですが、もっと共感しやすい例としては、職場のLINEいじめなどもそうでしょう。

 このような社会的コンフリクトはすべて「承認の不在」として説明することができ、またそこで失われた「承認」を回復しようとしてさまざまな対立や闘争が起こります。被害者が回復しようとするのは自己への「承認」なのです。

 こちら側からの「承認」についての説明は、すごくわかりやすい。
 ただ、そうした悲劇的な文脈でばかり「承認」を語ると、やはりイヤなものとして意識されやすいですね。わたしは「承認」が「ある」風景の、活気ある躍動的な風景のほうをなるべく多く語りたいとおもいます。それがいわば人の性(さが)というものに逆らわない状態です。


 さて、このような「わかりやすい」承認不在の状態から「承認」や「人間形成」を説明ことにそれほど大きな意味はない、という見方もあるわけです。
 
 
 ジープという別のヘーゲル研究者は、この点でホネットとは違う立場をとります。

「ホネットは、軽んじられることの形態―暴力的抑圧、権利の剥奪、尊厳の剥奪―を、承認の回復へむかう闘争の動機として説明している。それに対して、ジープは、次のように問う。軽んじられることの形態は、自己生成にとって、必要不可欠なのかどうか。「愛の確認、自律という法の承認、ある共通文化の維持への寄与や成果に対する価値評価への依存は、個人を抵抗力のない傷つきやすいものにする―だが、この傷つきやすさとその克服は、固定した自己尊重の人間形成にとって、必要不可欠なのだろうか?」(Siep 2009a: 195)


 前半の問いはある意味もっともかと思います。
 現代の「承認」されてたちどころにイキイキ働き出す若い子たちは、もともと「ほめる教育」の下で育ってきて、軽んじられた体験などないのかもしれない。それは幸せなことだ、と思います。
 一方、差別でも戦争でも、過去のイヤな記憶が残っている間のほうが良い状態を維持しようという努力も続けやすいわけで、最近のアメリカの黒人差別の事件などをみていると、差別を憎む力が弱ってきているのかな?と思ったりします。

 そして後半の問い、例えば若者は「承認依存」になってしまっていいのか?

 こういう問いを発してしまいたくなるのはすごくわかるんですが、わたしは、過去の「承認マネジメント」の世界で起きたことの経験からこのように答えたいです。

「子供や若者はもともと生物として『承認欲求』の強い存在である。仕事に入った若者に関しては、上司が初期には『承認』によって導き、次第に本人が仕事そのものと格闘するようになる。若者の目的は自然と仕事の完成度や、『お客様の喜び』といった、『上司の承認』とは別のものに移っていく。それも『承認』の供給元が交代しただけに過ぎないともいえる。」

「いずれにしても他者からの評価をまったく度外視した仕事というものは存在しない」




 次の文は、依然わたしは理解できているかどうかわかりませんが、前半の「まとめ」的なものです。


「ヘーゲルは、自我と他我の相互行為の関係の問題を、個人と共同体の関係とつなぎあわせ、自我と他我のパースペクティヴを自己―他者―我々の関係の理論パースペクティヴへずらしている。したがって、承認は、三つの極の関係である。承認の相互関係と地平的関係は、常に、直線的で垂直的な承認関係に埋め込まれている(vgl.Mesch 2005: 355)。制度の秩序と課題、および、規範体系の調節と要求は、承認関係の境界と形態、内容を規定する。すなわち、それらは、承認のコンフリクトと承認の闘争に対する基盤である。したがって、承認は、実践的関係とコミュニケーションの構成的要素として理解される。それゆえ、承認は、ある内容と目的ではなく、むしろ、多様な内容と目的をもちうるのである。第一に、失敗や軽んじられること、期待やコミュニケーションの失敗は、まず、承認それ自体が、実践的な目的に関することであり、場合によっては、抵抗に対して闘争しなければならない条件である。したがって、「承認をめぐる闘争」は、正常な事態ではなく、社会的な相互作用の境界事例なのである(vgl.Siep 2009a: 197f; vgl. Wigger/Equit 2010; Equit 2011)。」(p.94、黄色正田)


「すなわち、人間形成論に対していえることは、承認論の体系を取り出すことでもなく、承認論の目的規定を読み取ることでもない。経験的に内容豊かな人間形成論は、制度的要求、社会的規範、個人の野心や戦略の克服との連関の具体的な分析とかかわりあうべきである。人間形成論は、また、承認論が内容的にではなく構造的に内包している相互関係の規範を志向しているだけではない。その意味で、教育学的に提案された人間形成過程は、権力と依存によって特徴づけられ、そのなかで承認は常に、アンビヴァレントでありうるような非対称的な相互行為と関係において遂行される。最終的に、人間形成は、自己自身、他者、世界と人間の関係として、把握される。それゆえ、自己意識の構成は、他者の承認を通して、人間形成のある(重要な)側面だけを把握する。したがって、人間どうしの関連は、道徳的、社会的、自然的世界において発生し、自分自身との関係は、道徳、社会的なもの、自然の世界と互いにかかわりあって形成された成果でもある。」(同)


 ふーふー、やっぱり文章がむずかしいから少し長めに引用してしまいました。私がもう少し賢くなったときに正しく理解できるように。

 まあおおむね、「人間は他者との相互作用で成長する」という意味のことを言っているのでほっとしますね。アメリカですかね、一時期「外発と内発」とかめんどくさいことを言ったのは。あのフレームワークを使う人と話すのは疲れるんだ。


 ここまでが本書のほぼ前半部分です。後半は、承認論をもうちょっと進めるのに加え、ドイツにおける教員養成の問題なども取り上げています。

 少しつかれたので本記事を(上)として読書日記を二部構成にしたいと思います。(下)はまた今度。



(一財)承認マネジメント協会
正田佐与


 
 
 


 本業(のお勉強)に戻ります。


 このところ思うのは、

「承認欲求―承認―ナルシシズム」の関係は、「食欲―食事/栄養―肥満」に限りなく似ています。

 適切に与えている限り、いいもの。不足すれば栄養失調になってしまいます。
 まれに食欲のコントロールができない人がいて、むやみに摂取して肥満や成人病になってしまうこともあります。

 でもそういう個体の人がいるからといって、食事/栄養が大事なものだということを否定できるわけではない。それは極論です。不足することのデメリットのほうがはるかに大きい。


 そんなことを考えるのは、このところ「承認研修」でも新しい試みとして、宿題を出すときに「部下の行動変化までみてください」ということを言っていて、
 するとわずか1週間の期限の中でも

「よりすすんで他の人のフォローをしてくれるようになった」
「仕事の問題点について意見を言ってくれるようになった」

などの部下のプラスの「行動変化」を観察して、報告してくださるのです、受講生さんが。

 なので、「ご飯を食べたりサプリを飲んだらより健康的になって活動的になった」というぐらいか、それ以上のはっきりした変化が短時間でうまれている。ご報告がウソじゃないとすると。


 そうすると、なんでこんなにはっきり有効なものが今まで発見されなかったか?という話になりますが、

 やっぱり「モチベーション」を学問とか理論として語る、学者さんやコンサルタントさんと、組織の末端の人たちの人格や立場の違い、ということを思います。


 「人格の違い」ということでいうと、学者さんやコンサルタントさんでそこそこ有名になった人たちは、「自らを恃む」気質が強い。いわば「外発、内発」の分け方でいうと、「内発的動機づけ」の力が強く、「自分の功名心」とか「克己心」のためにがんばる。相対的に、他者との人間関係で一喜一憂する傾向は弱い。「ない」のではなく「相対的に弱い」だけなのですが。

 ほんとうはこの人たちも、親ごさんに喜んでもらったり尊敬する師匠に「OK」をもらったり、と嬉しい「承認」の場面はあるにはあるのですが、この人たちのプライドが、「自分の原動力はそれなのだ」と思うことをゆるさない。

 また立場の違いでいうと、そこそこ有名になった学者さんやコンサルさん、という立場ですと、「〇×先生」と人から呼ばれ、すでに「社会的地位からくる承認」を受けているのです。 

 「承認」は決して「ほめる」といった、「狭義の承認」だけを意味していない。会社勤めの人なら、朝来て「おはよう」と言ってもらったりちょっと話しかけてもらうだけでも広義の「薄い」承認は受けています。また地位役職からくる「名誉欲」を刺激するタイプの「承認」もあります。

 学者さんは、「自分はほめられなくてもいい」と思っているかもしれないけれど、実は「先生」と呼ばれたり相応の扱いを受けることにはものすごくご執心だったりする。うちの近所の大学にも、学内で他の人がイベントをするのに招待されないと、あるいは開会あいさつの役割を振られないと、すごくふくれる「めんどくさい」ので有名な先生がいます。それも要は「承認欲求」なんです。そうした大人げない振る舞いをみる限り、むしろその人たちにとって「根源的」なことだ、と思います。


 ともあれ、感情認識能力の弱い学者さんコンサルタントさんがどう思うかに関わりなく、「承認欲求」は根源的なものです。
 適切なやり方で満たしてあげる限りいいもので、元気になれます。また、有能になります。(当協会で「行動承認」という言い方をこのところよくするのは、その「適切に満たす」ということを意図しているからです) 逆に不足するとこころを病んでしまったりもします。
 また性格的に「過剰摂取」になりやすい一部の人については―、確かに「めんどくさい」です。ただそれは全体のメリットからいうと副次的な問題です。

 そして、一般に組織の末端のほうにいる人たち、何の地位もない若い人や、またわが国においては「承認されない」傾向の強い女性たちにとって、「承認」が供給されることはどれほどの恵みの雨か、こころの栄養になるか、は社会的地位の高い人たちにとっては想像を超えているでしょう。


 「承認中心コーチング」(近年では「承認マネジメント」ということが多い)が過去10数年にわたってコンスタントに成果を挙げ続け、今も宿題ではっきりした「行動変化」を作り続けるのは、要はそういうことだと思います。


 そして、これほどに本来「根源的」であるものが、一般にはまだそうと位置づけられないし適切に供給されないということが、わたしの心には繰り返し悲しみのもととなります。


 今も「ほめない子育て」「ほめない教えない部下育て」のような文言が大手新聞社のメルマガで入って来て、ほめるはあくまで狭義の承認だけど「承認欲求」自体をを否定すると弱い立場の人が可哀想だ、とそれをみてわたしなどはおもっています。ほめるはダメで勇気づけだけはいい、ということの根拠が全然わからない。(勇気づけもご存知のように「承認」の一形態です。わるいものではないがそればかり単独で使うとちょっと危ない)こういう「食事/栄養」のような大事な問題であれもこれも言って振り回すのは正直やめればいいのに、と思う。

 栄養学みたいに、はっきりとスタンダードなところがあるのが、こういう問題は正しいのではないか、それと「バナナダイエット」「納豆ダイエット」みたいなことは切り分けたほうがよいのではないか、と思います。


 さて、この記事は久しぶりに「ヘーゲル承認論」を書こうと思ってそれの前振りのつもりで書いていたのですが、ここまでで既に長くなってしまいました。


 現代ドイツの教育学で「承認論」を使ったアプローチが隆盛のようです。次回はそれの読書日記を書こうと思います。



(一財)承認マネジメント協会
正田佐与

「子曰く、吾十有五にして学に志す、三十にして立つ、四十にして惑わず、五十にして天命を知る、六十にして耳順う、七十にして心の欲する所に従えども、矩を踰えず」(論語 為政編)

意味:

「私は十五才で学問を志し、三十才で学問の基礎ができて自立でき、四十才になり迷うことがなくなった。五十才には天から与えられた使命を知り、六十才で人のことばに素直に耳を傾けることができるようになり、七十才で思うままに生きても人の道から外れるようなことはなくなった」
(故事ことわざ辞典より)


 孔子晩年の言葉だそうです。
 

 偉大な人の人生の言葉から自分を振り返るというのも傲慢なかんじがしますが、ふと考えました。

「五十にして天命を知る」。


 そういえば『行動承認』はちょうどわたしの五十の年の出版でした。

 でも今51になり、

「こんな虚業はもうイヤだ」

と迷っていたりします。偉大ではない凡人のゆえんです。


 読者のかたは、いかがでしょうか。


 「七十にして…矩を踰えず」というのは、「いちいち考えずに自然体で発言しても、人を傷つけるようなことがなくなった」というような意味かなあ、と考えます。

 そういう時がくるといいですねえ。



****


 『行動承認』で良かったナと思うことは、あの本の中には一切「他社批判」がなく、「毒」がないことです。

 昨年は有名な「心理学」の本で「承認欲求」や「承認」を否定するくだりがあり、それを読んだらしい受講生さんの奇妙な反抗に遭い苦労しました。

 その他、「早くこのトレンド終わってよ」といいたくなる流行はようさんあります。また露骨な「他社批判」もさまざまな書籍の中にあります。仁義なきたたき合いの時代です。

 自分の身に火の粉が降りかかったらはらう。このブログでは時折そんなことをやって長い友人のかたにご心配をお掛けすることがありますが、何かの折に自分のスタンスを明確にするのは、そういうよくいえば百家争鳴、わるくいえば「なんでもありの無法状態」には必要な作業と思います。


 ただ、自分の「本」では一切そういうのを出さなかった。
 「承認の世界」のエビデンスとエピソードをつづり、それらを信頼してくださるお客様と対話しようと努めました。

 たぶんお客様がこちらからお願いもしないのに本を「反転学習」の教材に使ってくださったりするのも、そういう「毒気」のないスタイルを信頼してくださったゆえと思います。

 ほんとはブログでは結構どんぱちやって殺伐としているので、びっくりされるかもしれませんが。


また偉大な人を引き合いに出して恐縮ですが、孔子先生は競合のよその塾の先生を暗殺したことがあるそうです。すごいですよねー。



****

 
 あの「大学の先生」も、よくわからないけど生き残り大変なのだろうな、と思います。

 「大学の先生」も「ベンダー」も、要は企業の人事の人を奪い合う「競合同士」なのです。お客さんを永遠に囲い込んでおきたいと思えば、「研修内製化」とか「ベンダーを使うのは思考停止」みたいな言葉が出てしまうのでしょう。

 「大学」のような大組織に属していると、むしろ別の種類の重いプレッシャーがあるのかもしれない。「現場」がどうなるか、ということまで気にかけてられない。

 そんなふうに同情することにしました。


当方は大事なことをしているので、邪魔しないでください。

「女性活躍」について書いた記事のゲラを返していただいたところ、すごく言葉に「トゲ」があって赤面した。結局この分野について冷静になれない自分がいる。「認められていない」と感じながら働く女性たちのことを考えると、「たまらない」のだ。でも読者は管理職を想定しているので、管理職がイヤな気持ちになったら元も子もない。ので何か所か慌てて修正する。

…ということをフェイスブックに書いていたらお友達(男性)のかたから心優しいコメントいただき、「そのリアクションは正しいと思いますよ。身近な女性管理職も、気持ちが分かるだけに辛いと言っています」とのことでした。
 そうなんだ、「認められてない女性のことを考えるとつらい」というわたしの感覚は間違ってないのだ、とほっとしました。

 そしてこのことも、新たに思い出したわたしのひとつの「暗黙知」につながるなあ、と思いました。

 暗黙知とは、すなわち「両方よし」ということです。
 これは、このブログにも滅多に書かないです。やっぱり管理職がイヤな気持ちになってしまうといけないので。

 管理職とは気の毒なもので、管理職が何かを「できてない」ことがその管理職を「悪」たらしめてしまうことがある。
 「承認」などはその最たるものです。

 「承認」が「ない」「できない」ことで職場の末端にどれほど多くの種類の「不幸」をつくりだしてしまうかイヤというほど知っています。1つ2つ前の記事に出てくる「職場のストレスレベル」などもそうですが、あくまで沢山ある中の1つです。

 しかし、「できない」管理職を「けしからん」と「勧善懲悪」の目でみてはならない。そのトーンで「承認」を語ってはならない。彼ら彼女ら自身も生身の人間で、それまで一生懸命生きてきていて、あと一歩枠を拡げなくてはならない局面にきているだけなのです。

 そして、「できてないあなたがたはけしからん」というトーンをにじませる研修講師のことは、管理職は決して好きにはなりません。自分たちの味方だとはみなしません、「この人敵だ」と認識します。それは恐らく社内講師だろうがベンダーだろうが一緒だと思います。

 できてない管理職に「アソシエイト」しながら、「このスキルを習得すればあなたがた自身幸せになれますよ」という意味のことを、「けしからん」を一切まじえず真心から伝えなければなりません。

 それができれば、管理職は幸福感をもって習得できるし、また習得したスキルを幸福感をもって使いこなすことができます。それが最終的に部下の側のほんものの幸福感になります。
 それが、ここでいう「両方よし」。


 この、「けしからん」を自分のこころから完全に追い払った状態で管理職の前に立ち、彼ら彼女らの味方に徹して語るということが、やっぱりノウハウとして必要だとわかっている人はすくないですね。これまで何度かほかの講師のかたとご一緒に仕事させていただいて思います。とりわけ「承認」というコンテンツは、問題解決の「急所」になるところだけに、「けしからん」という居丈高な感情を誘発しやすいようです、講師の側に。

 正田なんかはご存知のようにけっこう怒りっぽかったり悲しみやすかったりネガティブ感情をいっぱい持っている人間で、「認められない」人の悲しみはイヤになるぐらい自分のこころの中にも入ってきます。ときには怒りもわきます。それは確実にわたしの動機づけになっているのですが、それとは真逆に、文章や語り口にはそれを消し去り、管理職たちのほうをしっかり向いてあげることをします。枠を広げる彼ら彼女らがいかに大きな勇気と克己心でそれをなしとげるかを称揚し、彼ら彼女らのこころの疲れにも寄り添います。



 …ところで、このところこのブログで取り上げている「研修内製化」。
 最近またあるところで、「社内講師」のかたが「承認研修」をどういうやり方でやったか、きくことができました。
 管理職たちに、部下の名前をフルネームで書かせたのでした。そして、「下の名前まで書けない」「漢字で正確にどう書くか忘れた」という管理職たちに、「ほら、それが『承認がない』ということですよ」と言ったそうでした。なんでも「承認」だけを扱った研修ではなく、色んなことにちょっとずつ触れる研修だったらしいですが―。

 それをきいて脱力しました。
 管理職たちはすっかり「承認」なんて「嫌い」になり、何かのときに人に語る際には嫌悪をにじませた口調で「承認」を語るでしょうね―。

 こうやって、「社内講師」のかたがどういうやり方で研修をやっているか、事例を集めていくと、「内製化」をやみくもに謳うことがどんなに「危険」か、わかってくると思うのです。
 過去の「内製化」関連の記事はこちら。ここにも1つ事例が載っています

 内製化ブームに「1位マネージャー育成」の講師が思うこと
 http://c-c-a.blog.jp/archives/51885682.html


 「内製化」が正しい文脈というのもあるにはあり、ベンダーが粗悪品の研修をバカ高いねだんで売っているケースもあるのです。ただ、正しい場合と正しくない場合とある。「理念研修」のような、その会社のまったく独自のことは内製化で当然いいと思います。

 わたしなどは「ワールドカフェ」みたいな、碌なコンテンツも存在しないようなものは「社内講師」のかたがしてもいいとは思いますが、それでもやはり講師に一定の訓練が必要と思います。最低限、「リスペクトの口調」とか、「ある程度の歯切れのよさ」とか「手際よく的確な指示出し」とか。

 (補足:世間のワールドカフェのプロの方などには、「人を『乗せる』面白おかしい流れるような口調」というのもあるみたいですが、わたし個人的にはそういうのがもたらす人のこころの状態というのはイヤなもので―。チャライのは嫌い。はい、純粋に好みの問題です)

 「見よう見まね」レベルで、プロのノウハウのごく一部しかわからないで講師をしたがる「社内講師予備軍」の人が多すぎます。先の例の社内講師のかたは、「コーチングの本格的なトレーニングをどこかで受けましたか」ときくと、受けてなくて、「社内でやったコーチング研修にアテンドしたことがある」ということでした。なんか「本格的な訓練」というものを小バカにして、広く薄く、カタログだけぺらぺらめくっているようなところがある。そんなでも人に(それもラインマネジャーに)教えていいと思ってる。こういうのも、「内製化のすすめ」+「大人の学び」のもたらした荒涼たる風景でしょう。

 こういう人に、今回の記事の内容のような、一子相伝的なあまり外に公開しないノウハウを教えてあげたいかというと、教えたくない。意地悪するわけじゃないけれど。あ、ノウハウほかにもようさんありますからね。



 …さて、「認められないと感じながら働く女性たち」の風景というのは、わたしもつらくてみていられないところがあるのですが、もし機会があればまた情報収集してこのブログにでも書くでしょう。
 
 管理職たちにとっても「女性」は非常にセンシティブな話題のようで、「女性活用研修」などと銘打った研修をすると、露骨にイヤそうな顔で参加されます。「この講師は敵だ」と思っていることでしょう。ありがたいことに正田のところにはそういうタイトルのご依頼はめったにきません。
 ところが「承認研修」の流れの中でちらっと「女性にも『行動承認』してあげましょうね」ぐらいに触れておくと、それはイヤではないみたいで、ちゃんとやってくれます。そしてしばらくすると「えっ」と思うような素敵な活用事例を報告してくれることがあります。

 なので、「女性の一味」である正田は、「承認研修」という千載一遇のチャンスを、いい加減な講師のかたにやっていただきたくないのです。

 なお、「内製化のすすめ」を謳っている大学の先生には、社会的地位の高い人だけにわたしは厳しいです。どんな事態を全部でもたらすか想像力がはたらかないままに言っているとしか思えない。仕事柄企業の人事の人を敵に回してはやっていられない立場だろうとは思いますが(正田だって本当は敵に回したくないけど)、逆に事ここまでに至ってしまうと、「ベンダーを使ったほうがいい場合もありますよ」ということは口が裂けても言えないだろうと思う。旧日本軍みたいに、薄々間違っていると知りながらその方向に突っ走るしかないと思う。

 そして、ただでさえ企業の1人あたり教育訓練費が先進国の中でも極端に低いわが国で、粗製乱造の「内製化」がダブルパンチで来ると、わが国の強みである「現場力」すらも急速に衰えてしまうことが予見されるのです。最後は学者さんみたいな口調になっちゃった。

 真摯に企業のゆくすえを案じる立場の人がこの記事を読んでくださることを祈ります。


(一財)承認マネジメント協会
正田佐与

お世話になっている皆様


 おはようございます。
 一般財団法人承認マネジメント協会の正田です。
 連日の猛暑です。
 みなさま、お変わりありませんか。
 

※このメールは、正田が過去にお名刺を交換させていただいた方・当協会のイベントやセミナーにご来場いただいた方にお送りしています。ご不要の方は、メール末尾にありますURLより解除ください。
(解除方法が変わりました!詳細はメール末尾をご覧ください)


 本日の話題は:

■職場のストレスと「上司力」
■「月刊人事マネジメント」誌で連載がはじまりました
■おめでとうございます!有光毬子さん表彰
■兵庫県で「承認」を学ぶチャンス!加東市商工会様でのセミナーご案内

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■職場のストレスと「上司力」

「上司の部下対応に改善が必要な職場は、高ストレス者比率が約10倍高い」という調査内容がこのほどまとまり、公開されました。
 こちらのサイトに詳細が載っています↓↓↓
  http://www.peacemind-jeap.co.jp/news/release/9004.html

 この調査によると、約4万人の調査対象者の中で「高ストレス者」と判定されたのは8.7%。男性よりも女性、若手従業員ほど高ストレス者比率が高いということです。また表題にあるように「上司の部下対応に改善が必要な職場は、高ストレス者比率が約10倍高い」と、上司の部下対応が職場のストレスに大きく関わるらしいことが伺われます。具体的には、「上司のリーダーシップ」「上司の公正な態度」「ほめてもらえる職場」「失敗を認める職場」の4項目が「上司の部下対応」の指標になっています。

 今年12月から職場のストレスチェックが義務化されるに当たって、興味ぶかい資料といえるでしょう。

 この資料について、あるいはそれをめぐる様々な状況について、こちらで考察しています。もしご興味があられましたら、ご覧ください:
 儲かる資質、「上司力」と職場のストレスレベル、また種明かし「習得」「克己心」を生む装置
 http://c-c-a.blog.jp/archives/51919901.html 

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■「月刊人事マネジメント」誌で連載がはじまりました

 企業の様々な人事制度、人材開発の話題をとりあげる「月刊人事マネジメント」誌(ビジネスパブリッシング社発行)で、「行動承認マネジメント」に関する全7回の連載が先月から始まりました。
 第1回掲載記事をこちらにUPしています

 「行動承認は”儲かる技術”である」―月刊人事マネジメント7月号
 http://c-c-a.blog.jp/archives/51919833.html
 今後の連載では、「学習ステップ」「女性活用」「若手の離職防止」「メンタルヘルス」などについて、「行動承認」の応用による解決策をご紹介していく予定です。
 生産年齢人口の減少という、今明らかに迫っている課題について、少しでも現実的な解をご提示していければと思います。

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■おめでとうございます!有光毬子さん表彰

 もう少し古い話題になってしまいました。
 去る6月24日、コープこうべ元役員・有光毬子さん(70)が、男女共同参画社会づくり功労者として内閣総理大臣表彰を受けられました。
 内閣府男女共同参画ホームページ
 http://www.gender.go.jp/public/commendation/souri/meibo-h27.html

 有光さんは、本メルマガでも過去何度かご紹介させていただきました。コープこうべにて、一社員として入社されのちに女性初のバイヤー、店長として活躍されました。
 その壮絶な頑張りぶりと、近年「承認」を活用した地域活動で成果を挙げられていることなどを昨年、インタビューしご紹介させていただきました。いずれも「人」の可能性の豊かさを感じさせてもらえる素敵なお話でした。
 有光さんインタビューはこちらからご覧ください:
 http://c-c-a.blog.jp/archives/51881408.html


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■兵庫県で「承認」を学ぶチャンス!加東市商工会様でのセミナーご案内

 「オープンセミナーはないんですか」
『行動承認』の出版後、よくそういうお問い合わせをいただきます。なかなかそれにお応えできなかったのですが、兵庫県内で「学びたい」と思われた方に朗報です!加東市商工会様で9月から11月にかけて、「承認」「傾聴」の3回のセミナーをいたします。
  加東市商工会HP http://www.katosci.or.jp/index.shtml

 詳しくは9月11日(金)、10月16日(金)、11月6日(金)の各13時30分〜16時30分。
 加東市商工会館(加東市社717-1)2階会議室にて。
 実際に「承認」で成果を挙げられた経験者の関西国際大学経営学科長の松本茂樹先生と正田が2人で講師を務めさせていただきます。
 受講料はおひとり1500円(資料代)。会員企業以外でも参加できます。
 お問い合わせは、同商工会(0795-42-0253)まで。
 本日、神戸新聞東播版にもセミナーの広告が載っているそうですので、お申し込みはお早めに…。

 なお、上記のセミナーではお申込みいただいた方に、拙著『行動承認』を配布していただく予定です。
 最近では、研修先企業様でも「セミナー前に『行動承認』を読んでから受講」というやりかたを取り入れていただけるようになりました。
 東京の「株式会社牧」様での研修風景をこちらでご紹介しています:
 胸を打つアイスブレイク、夏のベーカリーの賑わい
 http://c-c-a.blog.jp/archives/51919437.html 
 
 予習をしてから授業本番に臨むというこういうやり方を「反転学習」といい、今学校教育の中にも取り入れられているそうです。
 かつてなく情報量が多くお一人お一人が忙しいこの時代に、ひとつの研修の効果を最大化するには、お勧めの方法かもしれません…。


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 メルマガ発行が少し長く空いてしまいました。
 猛暑の中、熱中症にはくれぐれもお気をつけください。

 
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*…*…*…*…*…*…*…*…*…*…*…*…*…*
100年後に誇れる教育事業をしよう。
一般財団法人承認マネジメント協会
(旧NPO法人企業内コーチ育成協会
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━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
理事長 正田 佐与
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TEL: 078-857-7055 FAX: 078-857-6875
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ツイッターアカウント: @sayoshoda

フェイスブックページ: http://www.facebook.com/sayo.shoda

ブログ「コーチ・正田の 愛するこの世界」
http://c-c-a.blog.jp/

近著『行動承認―組織の能力を最大化する「認める力」』
http://www.amazon.co.jp/gp/product/4434198572 


*…*…*…*…*…*…*…*…*…*…*…*…*…*

 成功を約束する資質とは何か。あるいは「儲かる」に直結する資質は何か。

 この問いに『成功する子 失敗する子』(ポール・タフ、英治出版、2013年12月)という本ではこう答えます:


●パーソナリティ心理学の領域で勤勉性の研究の第一人者であるブレント・ロバーツによると、研究の世界では「勤勉性」は厄介者扱いされ、あまり研究されないできた。「研究者というのは自分が価値を置くものについて研究をしたがるものです」とロバーツはわたしにいった。「勤勉性を高く評価するのは知識人でも学者でもない。リベラルでもない。宗教色の濃い保守派で、社会はもっと管理されるべきだと思っている人びとです」(ロバーツによれば心理学者が好んで研究するのは「未知のものごとに対する開放性」だそうである。「開放性はクールですからね」と彼は少しばかり悲しそうにいっていた。「独創力についての研究だから。それに、リベラルのイデオロギーともいちばん強い結びつきがある。パーソナリティ心理学の世界にいる人間はほとんどがリベラルなんですよ。いってしまえばぼくもね。学者は自分たちのことを研究するのが好きなんです」)


●産業・組織心理学の分野では、勤勉性は評価されてきた。企業には学究的で難解な議論とはかけ離れたニーズがあり、生産力が高く、信頼のおける、仕事熱心な働き手を雇いたいわけである。職場の成功のいちばんの指標となるのはビッグファイブのうちの勤勉性であるとわかった。
 勤勉性の高い人びとは、高校や大学での成績もよい。犯罪にかかわる率が低い。結婚生活も長く続く。そして長生きである。喫煙率や飲酒率が低いせいだけではない。血圧が低めで脳卒中にならず、アルツハイマー病を発症する確率も低い。


 詳しくはこちらの読書日記参照
 http://c-c-a.blog.jp/archives/51879835.html


 えーと要約しますと、企業の業績向上のためには何を伸ばすべきかというと、「独創性」と「勤勉性」では、「勤勉性」を伸ばすことが業績向上にはもっとも近道、という結論になります。「独創性」がダメだ、と言っているわけではないんです。順序としてどちらが先にくるのが冷静な判断か、というお話です。

 学問的には、あまりおもしろくない結論ですよね―。


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 もうひとつきのうフェイスブックでお友達がシェアされた記事を、こちらにも引用しておきたいと思います。

 【調査結果】上司の部下対応に改善が必要な職場は、高ストレス者比率が約10倍高い 〜 約4万人のストレスチェック結果のデータ分析より 〜

 http://www.peacemind-jeap.co.jp/news/release/9004.html

 
 これもまあ、「やっぱり」という感の記事ではあります。ストレスチェック義務化の中で当然注目しなければならない視点です。
 上司がリーダーシップがない、不公正、ほめない、失敗を認めない、という人であると部下のストレスが高い。またその影響を受けやすいのは、若い人ほど受けやすい。

 若い人時代が遠い昔になっちゃうと、実感しにくくなりますね。

 でもまた、「そんなの上司にちゃんと教育すればいいじゃないか」と思われるかもしれませんけど、著書にもかきましたが管理職教育の質が恐ろしく下がっています。

 高ストレスぐらいで済めばいいですけど、鬱になってしまうと、1年とか1年半は軽く棒に振ります。再発も多い、一生しょいこむ病気ですから、職場復帰しても再発を繰り返し生活保護のお世話になる可能性も高い。

 社会設計上も、ほんとは管理職教育、ちゃんとすべきなんです。

あと、この資料は今流行りの「カウンセリングマインド」よりも、むしろ「承認」とほぼ重なる指標を重視していることも興味深いです。


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 「大人の学び」とか「内製化」は当然そのラインマネジャーの質低下に寄与しているでしょうね…、

 これは初めて書くと思いますが、拙著『行動承認』出版以来、実は企業の人事担当者の方からちょこちょこご連絡をいただきます。内容は、「コンテンツを自分がやる研修に利用してよいか」という打診が多いです。

 たぶん打診してくるのは「まし」なほうなんでしょうけれど…、

 で、わたしは「いいですよ」とは言わないことにしています。

 何故って、「承認研修」を現実の管理職を前にしてやることの重みがわかってないだろう、人事の人あたりだと、と思ってしまうからです。
 
 「ラインマネジャー」は自社の「人事の人」が付け焼刃の知識でおこなう研修をはいそうですか、とすなおに受講するほどお人よしではないです。



 「承認」は本来ラインマネジャーが背負っている「責任」からすると、非常に難しいことを彼ら彼女らに課します。
 端的に言うと、責任のない人のほうが、ほめられる。お母さんよりジジババのほうが孫をほめられる、甘やかせられる。責任を担う人が「よいところとか行動に目を向ける」となるのは結構大変なんです。

 
 だから、ミドル以外の人に学ばせたらという意見もあります。「承認」はたとえばメンタリングにも使えるからミドルではなく、メンターになるような中堅に学ばせたらどうか、という意見もあります。
 どうしてもの要請があれば仕方なくそうすることもありますが、わたし個人の意見は「いや、ミドルマネジャー(課長級ぐらい)が学ぶべきだ」というものです。

 なんでかというと、中堅が優しくてミドルが「承認」が出来ない怖いばかりのおじさん、という状態ですと、ミドルが職場で孤立しかねないからです。ミドルによる職場運営が難しくなるからです。そしてスキル習得が「下から上」に波及することは、まずありません。
 そのぐらいの想像力は働かさないといけない。

 逆にミドルが担い手になった場合は、同じスキルが下まで波及し、驚くほど職場運営がスムーズになり、人々の心がミドルの下にまとまります。
 だから、できるだけその線を狙いたい。


 でも現実にミドルにこういう研修をするのは難しい。生半可な人が講師で前に立ったら、野武士のようなミドルは猛反発します。社内の関係上露骨に反発を顔に出さなくても、できるだけ聞き流そう、スルーしようとします。
 彼らの職場運営の中で味わう人としての苦しみ、痛みがわからないで「承認」なんていうきれいごと的なことを教えにくる人間のいうことなんかきくものか、と思っています。


 だからでしょう、

 先日「株式会社牧」様で研修をさせていただいたとき、牧田社長が講師紹介で打合わせなしに言われたのが、

「正田先生は皆さん(店長さん)の苦しみ、痛みをすべてわかってくれる方ですよ」

ということでした。
 わたしには「ない」発想でしたが、そうかなるほど、と(自分のことながら)膝をうつ思いでした。


 それはちょっと脱線でしたけれど、

 わたしは「承認」というコンテンツをミドルマネジャーに教えるための免罪符がいくつかあると思っています。

 それは例えば「この分野に特化して啓発活動をしながらやり続けている専門ベンダーであること」であったり、「任意団体―NPO―財団法人と、非営利教育でいわばインディーズ出身で、生身のマネジャーたちに寄り添い研修の『予後』を丁寧にみながらプログラムを作ってきた講師」であること。

 それがあるから、わたしは彼ら彼女らに「これをやってください」と、慎重な中に「きっぱり」した口調で言うことができる。行動をリクエストすることまでできる。

 その結果、「承認っていうものがあるんですよ〜。大事なことですよね〜」と、腰の引けたトーンでコンセプトだけ提示するのとは研修の「予後」がまったく異なってきます。


****

 
 本『行動承認』もまた、このところお客様が「反転学習」で使われているように、「学ぶ」「習得する」ための装置です。

 「あの本」は、「アソシエイトとディソシエイト」という概念の中の「アソシエイト(共感する、没入する)」を意図的につかっています。

 つまり、実在の何人かのミドルマネジャーたちが、「承認前」と「承認後」、地獄から天国へ移行するプロセスを、「習得」を経ることをまじえながら「彼ら目線」で語っています。
 その彼ら彼女らに「アソシエイト」できた読者は、「自分もこういうことができるようになりたい」と思う。その意欲が、小さな「習得」という壁を乗り越えさせる。彼ら彼女らの中に元々あった克己心が目覚める。

 もともとラインマネジャーになる人たちは、(正田とはちがい)スポーツ経験者が多く、若い頃からスポーツその他での色んな「乗り越え体験」をもっているのです。そして学習能力もあるのです。それらを正しく向ければ、「承認の習得」はそんなにむずかしいことではないのです。

 だから、「あの本」はマネジャーたちの学習に必要な「克己心」を引き出す装置、といいますか。

オープンセミナーより企業研修の比重が大きくなった時、学習意欲の低くなりやすい企業研修の中でマネジャーたちに「克己心」のレベルの学習意欲を持ってもらうにはどうしたらいいか?というのは一時期、かなり真剣に悩んだ課題でした。
「克己心」は殴ったり虐めたりして、怒らせたり泣かせたりすれば出てくる、と思ってる人も一部にいらっしゃいますがー、わたしSM趣味ないし。そんな負の感情を持って承認を学べるわけじゃないですし。


(また余談ですが、「アソシエイト」の能力が生得的に低いのだろうとみられる方がAmazonのあの本に低評価レビューを書いておられますが・・・、「ディソシエイト(引き目線)」の話法しか受け付けたくないという人は、どのみち「担い手」にはなれない層の人ですから、ほっときたいと思います)


 こうして書いているとまた、実名で「あの本」への登場を快諾してくれた現役マネジャーたちへの感謝の念が湧いてきますが。


 こうして、種明かしをすれば一切「ずる」のないプロセスで、正田流の「承認研修」はマネジャーたちに奇跡を起こさせます。



 わたしは「学問のための学問」には興味はありません。

 ただ、本音のところは「業績向上」も実はどうでもよくて、もうちょっと人道主義的なところに本当は興味があるのだけれど、それもたぶん聡明なマネジャーたちは薄々気づいていながら、でも「業績向上」のこともきちんと報告してわたしを安心させてくれます。


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 「株式会社牧」の店長さんがたの宿題が返ってきました。

 「反転学習」の甲斐あって、皆さんすごい実践でした。1つ1つの事例から、パンの職人さんやパートさんの「成長物語」が伝わってきました。平均点で過去最高だったのではないだろうか。

 総務のかたから宿題の取りまとめとメールでのご送付と同時に、なんと同社から小包も。

 中は、素朴な焼き菓子でした。

 写真は「チュイル」「ごまチュイル」「グラノーラ」

牧 焼き菓子20150806


 これも各店舗で皆さんが焼いていらっしゃるそうでした。

 ひと袋の量がたっぷりあって、驚くほどサクサクの生地でした。

 「月刊人事マネジメント」誌(ビジネスパブリッシング社発行)7月号に掲載された、「上司必携・『行動承認マネジメント読本』〜人手不足チームのやる気と力の引き出し方〜」第1章のゲラをいただきました。

 掲載から1か月たちましたので、同誌編集部のご厚意でこちらにも転載させていただきます。第一章は題して「『行動承認』は”儲かる技術”である」です。


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以下、本文の転載です:

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上司必携・『行動承認マネジメント読本』
〜人手不足チームのやる気と力の引き出し方〜


一般財団法人 承認マネジメント協会 理事長
正田佐与


第1章 「行動承認」は”儲かる技術”である


 生産年齢人口、若年労働者人口の減少に伴い、採用した人材をいかに余すところなく活用し戦力化するかは、人事部の方、そして管理者の方にとっても喫緊の課題でしょう。

 本連載では、人手が足りないなかでもチームのやる気と力を安定的に引き出して業績向上に寄与する「行動承認マネジメント」という手法をご紹介し、上司の立場におられる読者の皆様に職場の課題解決のヒントをご提供します。


「行動承認」って何ですか?


 「行動承認」とは、文字通り「行動を認める」ことです。

 一口に「認める」というと漠然としていますが、そこには「行動承認(良い行動を事実通り認める)」をはじめ、「共感する」「任せる」「力づける」、ときには「叱る」など、場面によって様々な言葉がけや行為が該当します。総じては「相手の存在価値や良い行動を認めること」といえます。

 この中の「行動承認」について、なぜ、部下を持つ上司のあなたにそのマネジメント手法をお伝えしたいのかというと、行動こそが承認を通して最も「人」の成長を促す基準だからです。

 そして、実はこの「行動承認」は、単に人の行いを褒めるだけの”甘い”マネジメントではなく、極めて業績向上の効果が高い手法であることが実証されています。

 過去13年にわたって、「承認」を導入した職場では、製造・銀行・生保・コールセンター・OA機器販売・福祉・自治体など業種を問わずに、売上・品質・生産性・人材定着率といった各種指標が上がることが報告されてきました。そこでは「人」の成長が促され、それも女性・若手・外国人・障がい者…といった従来マイノリティだった人々が成長し、その力が業績を押し上げたのです。

 業界・業種の個別性、企業戦略の適否を別にすると、「人の成長」そして「良好な人間関係」「マネジャーの求心力」が業績向上に大きく寄与するということは、おそらく時代を超えて変わらないことなのでしょう。そして、上司による「(行動)承認」というシンプルな行動規範こそがそこで”儲かる技術”としての大きな役割を果たすというわけです。

 こうした過去の事例も踏まえて、「行動承認」の具体的な手法とその応用により組織に起こる各種の効用について、これから述べていきたいと思います。

 
 なぜ「承認」が業績につながるのですか?


 上司による「承認」は部下たちの前向きの行動を増やすとともに、部門内の協力行動を増やし、情報共有を増やし、極めて効率のよい組織運営につながります。なぜでしょうか?

 そのメカニズムが科学的に解明されているわけではありませんが、ここでは有力とされる3つの点を指摘しておきます。

 嵒坩造米本人」を能動的に変える

 例えば、アメリカ人と日本人では生得的にも成人してからも大きく気質が異なるといわれています。文化心理学、遺伝子学などの研究でも、平均的な日本人はアメリカ人に比べて不安感が高く、他人からの評価を気にかける人が多いことが分かっています(図表)。

 「承認」はこうした日本人特有の不安感を払拭し、プラスの行動量を増やす働きがあると考えられます。実際に、「承認」をトップ以下全社的に取り入れた職場の例では、社員の失敗を恐れずチャレンジする気風が生まれ、逆にそれまではよくみられた、仕事を振られて尻込みsるうような社員の後ろ向きの発言がなくなった、ということです。

脳が成長することの幸福感

 「脳は貪欲なまでに成長を求める臓器だ」という脳科学者の言葉があります。そうした脳の性質から成長が人の幸福感をつくること、さらに受験勉強的な知識の蓄積ではなく、行動を通じての学びによって脳は最も成長することが分かっています。

 「行動承認」では行動することを尊び、行動を奨励しますが、身近な他者から行動と成長を励まされることは、特に若手にとっては大きな幸福感につながるといえそうです。このことは離職防止の回で詳しく述べたいと思います。

信頼⇒幸福感⇒協力行動の促進

 近年、信頼ホルモン、共感ホルモンと呼ばれる女性ホルモンの1つ「オキシトシン」という物質の作用が大きくクローズアップされています。人は、他人との間で信頼する・される経験をすると、男性・女性を問わず血中にオキシトシンが分泌され、幸福感を覚えます。幸福感が高いと身体の行動量が増えることも分かっており、このことも「承認」のある職場の業績全般が上がることの根拠の1つとなりそうです。

 幸福感が高まることのもう1つの効用として、他人に親切な振る舞いをするようになることが挙げられます。「承認」が定着した組織では、人々が成長するだけでなく、例えば困っている同僚がいればさっと近寄って手伝うというような「協力行動」が増えます。

 「行動承認マネジメント」では、お世辞を言うのではなく事実に基づいて相手のプラスの行動を言うことを奨励します。間違いのない事実の言葉ですから、それは言われた相手が上司のあなたの存在を信頼することにつながります。すると、幸福感が高くなり、互いに協力し合う、有機的な職場が生まれるのです。


どうすれば実践できるのですか?

 こうした「行動承認」による一連の職場改革を起こすためには、まずはマネジャーが一定の行動規範に沿って適切な言葉がけや行動をとり続けること。そのために適切な教育プログラムを施すことが大切になります。

 しかし、日常の多くの実務に忙殺されているマネジャーがコンスタントに実践できるということを考えると、あまり専門的・複雑になりすぎず、シンプルな法則から成り立ったプログラムであることも大切です。

 では、どうすれば職場のマネジャーが行動承認マネジメントを実践できるようになるのでしょうか。まず簡単にそのポイントに触れておきます。

●行動理論による「強化」の考え方を理解する
●「承認」が人の働く動機づけの最大のものであること(承認論)を理解する
●「行動承認」をはじめとする「承認」のバリエーションを理解する
●「行動承認」+「Iメッセージ」を使った実習で部下の心にどう働きかけるかを体感する


 次回は、上記のような「行動承認」をはじめとした「承認」の具体的な学習ステップを、実際の研修の順序に沿ってお伝えします。

(了)



「上司必携・行動承認マネジメント読本」シリーズ全体の構成は:

第一章 行動承認は”儲かる技術”である(2015年7月号)
 http://c-c-a.blog.jp/archives/51919833.html
 第二章  「承認」の学習ステップ(8月号掲載)
 http://c-c-a.blog.jp/archives/51921667.html
第三章 女性活用と登用は「上司の眼差し」次第(9月号掲載)
 http://c-c-a.blog.jp/archives/51923763.html
第四章 LINE世代に対するマネジメントとは(10月号掲載)
 http://c-c-a.blog.jp/archives/51925545.html
第五章 「踏み込みすぎない」メンタルヘルス対策(11月号掲載)
 http://c-c-a.blog.jp/archives/51927183.html
第六章 部下の凸凹を戦力化に転じる(12月号掲載・本記事)
 http://c-c-a.blog.jp/archives/51932814.html
第七章 伝えたいことが「伝わる」伝え方(2016年1月号掲載)
 http://c-c-a.blog.jp/archives/51934650.html

 このブログでは過去、『報酬主義をこえて』という本を徹底批判しました。今読んでも、行動理論という当時すでに確立された理論について面白くないとかみついた、それに大層な理屈をまぶしつけた、不愉快な本でした。

 「確立されたものだから、面白くない」
というゆがんだ情熱に動機づけられた本は、独特の邪悪な匂いをはなつのです。
 去年STAP細胞の記者発表をした(のちに亡くなった)学者さんも、iPS細胞への対抗意識をむきだしにしていましたねぇ。またそれに近いものは、ここ2−3年流行っているべつの「心理学」―これもわたしからみると、心理学というより極論のオピニオンに近いのだが―にも感じます。

 余談になりますが大学教育でまた「教養」を否定する流れがあるとき、「実学」もいいのですがこういう、
「変なものに騙されない能力」としての「教養」は継承され得るのか、と心配になります。


 そしてそれに続き、巷にある「大人の学び」なるものを批判しなければならないところに来ているのかどうか―。
 批判ということは、するのは「大人げない」のですが、言語化することでほかの方の頭の中にもあるモヤモヤしたものを具現化することができるようだ、というのも思います。だれかがどこかで言語化しないといけない。


 この件に関してまだあまり固まっていないのですが、今の私の中に出来上がりつつある見方は、


 「『大人の』も『学び』も本来、使うに値しない。いうなれば『意識高い人(痛)のための参加型情報番組』という呼び方がふさわしいのではないか」

ということです。

 主宰者の大学の先生の、「大人の学びはあくまで個人の学びの入り口」という言葉がほんとうであるなら、所謂「大人の学び」という楽しいイベントのその先には自発的に求める克己的求道的な厳しい学びの世界があるはずであり、それこそがほんとうは「大人の学び」とよぶに値するはずでしょう。英語でもなんでも何かを「習得した」といえるレベルになるには相応の時間数が必要で、自分の従来のキャパを打ち破ろうとするような克己心や集中力も必要です。

 何の負荷もかからない、TVの情報番組のように早いテンポでぱっぱと移り変わり仕事の息抜きにはいい、所謂「大人の学び」のところにいつまでもとどまっていたら、

「まだそんなことやってるの!?ガキじゃないの」

とバカにされるのが正しい、のではないでしょうか。


「いや、つかれてるから本当は何も学びたくないんだ、ただ新しい情報がぱっぱと入れ替わるのをみると息抜きになるんだ」
という需要に心優しく応えるのを「大人の」というならべつですが―。


 ただ所謂「大人の学び」は、異業種交流というお土産もあるから、「夕活」ブームの中で一定の地位を占めるでしょう。

 しかし「学び」というものの中には、一方の対極にわたしがやっているような「修練」「習得」に重きを置いたような学びもある。こちらはむしろ本当に種もしかけもない。しかし、それを「学ぼう」と決意した人、というのはある意味、その時点で大いに「大人」なのです。

 「真摯さ」を嘲笑のタネにしたい、という歪んだ心理も世の中にあるのは承知していますが―、
 往々にしてそうした心理は、「邪悪」のレベルまでいってしまいます。そちらを肯定してしまうと極端な話、「いじめ」にまでいってしまいます。
 これも「功罪の比はどれくらいか」という話になるのですが、「真摯さ」がわるさをする確率は「あるにせよごくまれで小さい、多くの場合は良い方向に作用する、わるい兆候がみえた場合には待ったをかけることも必要だが兆候がみえない場合には肯定しておいてよい」です。医薬品の副作用のようなものです。
 「真摯さがわるさをすることがある」ということを論じる場合には、「そういう功罪比である」ということが読み取れるように語らないといけません。

 そして仕事の現場は「真摯さ」のかたまりです。


 「大人の学び」という、大人げない名称を変えてくれるならいいのではないでしょうか。

(「大人」を自称する時点で「大人」ではない、という見方もできるかもしれませんね…)


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 こうした問題を考えるとき、わたしはどうしても「ラインマネジャーとスタッフ部門の人の人格の違い」ということにも思いを馳せます。

 たとえば、「情熱」はどちらかというとラインマネジャーのほうに多い。スタッフ部門の人には、生得的に少ないのではないかと思える人が多い。それは加藤清正と石田三成の違い、をイメージしていただければわかるでしょうか。

 自分が生得的に持ち合わせていないもの、というのは、不気味にみえたりするものです。

 だから、スタッフ部門の人に「受ける」話をしようと思えば、ラインマネジャーの「情熱」を笑いのめすというネタもあり得る。

 しかし現場的にはそれは間違いだったりする。


 この業界に入ってから10何年、こんなことばかりです。


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 ・・・あと、こういうことを言うと関係者のかたを傷つけてしまうかもしれないんだけれど、

 際限なく新しいことを言ってあるいは自己矛盾するようなことをわざと言って混乱させ、ひっぱりまわし、受講生にいっさい「達成感」を与えない、というやりかたは、「自己啓発セミナーの教祖」もおなじことをするんですよねえ。永遠に自分が優位に立てるんです。あくまで似ている、というだけです。ついていく人は、際限なくついていきます。

 先日の「株式会社牧」様に続き、9月から3回の公開セミナーを行う加東市商工会様でも、拙著『行動承認』を事前にお配りいただいたうえでセミナーをすることになりました。

 このセミナーでコンビを組ませていただく松本茂樹先生(関西国際大学准教授、経営学科長)によると、こういう「あらかじめ予習をしてから授業に臨む」やりかたを「反転学習」といい、今大学でも取り入れるところが増えているそうです。

 うれしいことに、今回のセミナーに社員さんを参加させることを決めたある企業の社長さんが、商工会の会長さん(別の企業の社長さん)に拙著『行動承認』を渡して「読め!」と言われたのですって。でもともとの発信元である商工会の会長さんが、本を貰って帰ってきたのですって。


 ところで、『行動承認』を読まれたあとで著者のわたしに会われたかたは、こういう印象をもたれるのだそうです:

「あれ、本を読んだ印象ではすごくエネルギッシュな強い人のように思えたのに、実物はむしろ弱弱しく大人しくて無口な、『おどおど』しているとすら言える感じの人なんだな」

 これも、今後お出会いする方々にも起こる可能性のあることなので…。


 自分なりにどうしてこういうあり方になっているのだろう、と改めて考えてみた結果、出てきた結論は大きく次の2点でした。
 これまでも形を変えてこのブログに繰り返し出て来たことと重なるかもしれませんが…、

1.「管理職に教える」という仕事の要請上、過剰に「情熱的」なあり方ではなくニュートラルでなければならない

2.元々の正田の生物としての能力の凸凹。とりわけ「動作スピードは平均よりやや遅い」ということがわかっているので、それが印象の大半を決めている可能性がある


 1.は、繰り返し出ていることです。
 管理職の抱える現場は多種多様です。そして管理職自身の人格も多様です。これまでの成功体験がどんなにあろうとも、虚心に新しい受講生さんに向き合わないといけないとつねに自分に言い聞かせるわたしです。むしろこれまでの成功体験がなまじあればあるほど、その態度は必要なのだと思います。

 かつ、「管理職の人格」は独特で、若手や中堅よりも「疑心暗鬼」が強いことが多い。それはその人の人生のそれまでの「裏切られ体験」にもよるのだろうと思いますが、
 研修講師という人種に厚顔無恥、臆面のない人格の持ち主が結構いて、本来断言することのできないことを自信たっぷりに断言する人がいて、うっかり研修講師の言うことなど信じるととんでもない下手をうつ。
 
 変にテンションの高い人格など見せようものなら逆に「ひく」のが普通の管理職です。

 だから、正田は淡々とニュートラルなあり方をたもちます。それが「自信のなさ」と受け取られるリスクがあっても。
 ―実際に「自信」など今でも「ない」ですが―

 これまでの蓄積がいくらあっても、それが目の前の受講生さんのもとで再現される保証はない。
 わたしがそのスタンスを保っているから、受講生さんは逆に成果を出される。


 また、これまでの膨大な管理職たちの実践経験をアーカイブとして引っ張りだしたり、神経化学物質や遺伝子学、脳科学の知識まで援用しながら伝える、ということもします。
 そして膨大な情報を取捨選択したすえに「この教育」「この方式」の妥当性がゆるがない、というわたしの確信を伝えていきます。
 「個人のオピニオンのレベルの話ではない」
という確信が持てれば、普通に聡明な管理職の方だと納得して取り組んでいただけます。

 それもこれも、目の前の受講生さんの先に人びとの大きな幸せの可能性が開けているのだと思えばこそ、わたしは自分個人の魅力や自己実現より大切な、慎重かつニュートラルなありかたを選びます。



 2.の「生物としての凸凹」の問題は、さまざまな人材育成分野のツールに加えて、最近WAIS-IIIという知能検査の詳しいのも受けました。
 こういうお話も、「ひく」人は少なからずいるのでしょうけれど。
 その結果わかったのは、おおむね高いレベルの中でところどころ「抜け」があるのがわたしの知能で、
 今回は

「動作スピードが平均よりやや遅い」
「視覚的情報をとっさに判断する力が平均なみ」(こちらは平均をやや上回る程度だがほかの指標に比べると大きく落ち込んでいる)

ということがわかりました。


 たぶん、「動作スピードの遅さ」は、仕事内容によっては有能・無能の決定的な分かれ目になるところかもしれないし、「視覚的情報―」うんぬんは、多分初めていく場所や初対面の人をやや苦手とする、これもこどものころから傾向としてありましたが、そういう特性につながっているでしょう。
 初めてあう人に対しては、自分のあまりよく働かない神経細胞をフル稼働させるために「まじまじとみる」傾向もあるかもしれません。それが「おどおどしている」という印象につながるかもしれません。

 そしてその2つを印象として強くインプットする人は、わたしのことを「能力が低い人」と評価するでしょう。

 いいんですけれどね、別に。

 
 優れた成果を出した受講生さんは、もともと優れた能力の持ち主だったのです、わたしなどより、はるかに。


 遺伝と「相対優位」の関係を扱った議論は、『遺伝子の不都合な真実』という本の中に出てきます。
 こちらの読書日記などをご参照ください

 http://c-c-a.blog.jp/archives/51822753.html

 この記事の、かなり後半のほうですけれど、「相対優位」を使った「利他的互恵関係」という言葉。
 なんかいい言葉でしょ?
 だからイチローは野球をし、球場のお掃除の人は掃除をして、それぞれ社会に貢献するのです。

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 「信念」や「情熱」をもつことの功罪。

 それらがわるさをする場合もあります。
 ただし、「信念」も「情熱」も本来リーダーには不可欠のものです。
 これまで成果を出されたリーダーには、必ず「このままではいけない」「こうでなければならない」という、やむにやまれぬもの
 ―ひとことで言えば「信念」「情熱」―
がありました。

 それらが科学的で正しいものであるとき、「承認」はその人にとってきわめて大きな武器となります、というお話を過日しました。
 
 世の中まれには「邪悪な信念」や「はきちがえた情熱」というものもあるでしょう。刑事事件に発展しそうなそれもあるでしょう。わるい目的のために「承認」を使うことまでは想定していません。それはお医者さんが医療用医薬品や医療用具をわるい目的に使うことまでは想定できないのと同じです。


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 そして「教えられること」に反発することの功罪。

 コンサル業界には数年前の一時期「OJE(On the Job Experience)」という言葉が流行ったことがありました。これは「OJT(On the Job Training、昔ながらの「技能伝承」に近い、上司部下、先輩後輩間の「教える―教えられる」の関係)などもう古い、上司先輩の持っている知識は陳腐化し現代には通用しなくなった、これからは人から教わるのではなく経験から学ぶことだ」という考えからきていました。最近は幸いあまりきかなくなりました。

 極端から極端に振れる議論というのはあるもので、時代がどんなに移り変わっても上司先輩から部下後輩に「教える」部分はなくなりません。そしてその「教える」作業を信念をもって行えなくなった上司先輩が増えたことを見聞きすると、こうした「OJTよりOJE」といった議論は、罪深いことをしたなあ、と思います。ああそういうのにくみしないで良かった、とも。

 往々にして今どきの若手は上司先輩に質問せずにネットのQAサイトなどで質問し全然よその人から回答をもらう、しかしそれがその企業・組織の方法論とは合致せず困った事態を引き起こすというのをききます。
 また最近のNHK「クローズアップ現代」では、登山ブームの中で経験豊富なリーダーの言うことをきかなかったりそもそも経験のある人をパーティに入れないで出発して遭難する人が後を絶たない、という話を取り上げていました。「自分の経験にこだわる」態度は、「他人の経験をリスペクトしない」態度をも生みます。
 これも「承認の不在」というカテゴリに分類できるのかもしれないですが。

 一般的には「教えられる」ことへの反発(リアクタンスといいます)が強く働きやすいのはナルシシストがそうなりやすいです。また認知特性としては…、このブログでよく出てくる「ある認知特性」の人たちも反発が強く働きやすいです。「自分の経験」に固執しやすいです。―


 誤解されかねないのでわたしのスタンスはどうなのかというと、上司や先輩からの伝承と自分の独自の経験とどちらも大切で学ぶ価値のあるもの、どちらかに偏重するといいことはない、というものです。そして「教える」というのは今の時代、結構な信念と勇気を要することなのでその営みを否定すべきではない、とも。


 もしわたしが「上司や先輩の言うことを盲目的に信じるのではなく、経験からも学べ」という趣旨のことをどこかで論じるとしても、もっと「功罪」にきちんと触れながら語るでしょう。
 また、上司先輩の側が自分の信念に妥当性がないのに押しつけてくる、という場合には、その人はセルフモニタリング能力に難がある可能性がありますね。往々にして「自己理解の欠如―すなわち、自分独自の特性がその経験につながっているという要素をみないで他人が同じことをできるように思う―」がそれにつながりやすいので「承認研修」のなかではしつこいぐらい「自己理解、他者理解」をとりあげます。


 ちなみに「傾聴研修」の中では、「話を聴けないのはどんなときか」のくだりで、「先入観の罪」の話をします。「学びの場も『聴かない態度』をつくってしまうことがあります。こういう研修で教わったことがすべてだ、と思って現実に起きていることを軽視するようなことはしないでください。わたしもじゅうじゅう気をつけて慎重にお伝えするようにしていますが、みなさんももしこの研修でお伝えしたことと現実が一致しないことがありましたら、とりあえず現実のほうを信じるようにしてください」というお話をかならずします。
 
 まあ、どれだけ良心的につくりこんでも、「わかる人にはわかる」でしかないのですが…、


 ああ、こまかく論争するとつかれる。


(一財)承認マネジメント協会
正田佐与

 胸を打たれる研修の風景でした。

 29日、東京・江戸川区のベーカリー「リヨンセレブ」(株式会社牧)の店長様、リーダー様方に「承認研修」をさせていただきました。


 確信をもって研修を企画された同社の牧田雄治社長・飯田万里子マネージャーのもと、12名の受講生様に事前に拙著『行動承認』をお配りいただきました。

 そして研修開始前に「アイスブレイク」として受講生様1人1人からの発声があり、
 そのごあいさつから、配られた拙著に皆さんしっかり目を通されていたことがわかりました。中には既に職場で始めて手ごたえをつかみつつある、という方も。

 それも「皆さん、ご挨拶を」と飯田GMが促すと、指名されるのを待たず端から順番にでもなく、自発的にどんどん手が挙がり発言されるのでした。会社でこんなの見たことない、大人の学校をみるよう。良い会社は学校に似ているのです。

研修風景3-1



 それから4時間。
 「承認」のすべてのプログラムの最後の実習では、やはりこのうえなく真摯に皆さん取り組まれ、「本番」をイメージした形で実習されているのが伝わりました。

 質疑の時間にもまた多くの手が挙がり、質の高い実践的なご質問が出ました。


 締めくくりもまた、お1人お1人からのご挨拶があり、ここでも指名されるでもなく自発的に手が挙がりました。


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 株式会社牧では、前社長(会長)の時代から、「職人になるな。管理職であれ」との号令のもと、パートの販売職の人から店長になる流れをつくり、このたびのご参加者も約半数は女性店長です。中には、2歳の保育園のお子さんのいる女性店長も。凛とした人、優しいフンワリした人、分析型系の人、どの人もとても有能そう。

「彼女たちも予算をきっちり立てますよ。月の途中で予算に届かなさそうだとわかると知恵を絞って色んなイベントを打ってきます」と牧田社長。飯田GMもパート出身です。


 ベーカリー業界では例外といっていいくらい人材育成に力を入れる同社では、一昨年より牧田社長、飯田GMがコーチングを学ばれ社内で店長たちを対象にコーチングし、冒頭のような自発的に発言し、考え行動する文化をつくってきました。でもあと一歩足りない、というとき牧田社長が『行動承認』に出会われました。


 牧田社長によると当初は本を読んでも「こんなこと(承認)到底できない」と思われたそうですが、当協会にコンタクトをとられて史上初の「メールサポート」を受け、「宿題」のやりとりもすると、ちゃんとできるように。できた結果、困っていた人間関係が劇的に改善、その後飯田GMも本を読んで「承認」に取り組まれ、やはり店長やスタッフたちの変容につながったそうです。


「こんな単純なことが、こんなに多くの問題解決につながるとは」

牧田社長は言われ、正田は

「ありがとうございます。わたしもひそかに『すごく単純ですごく役に立つ良いものをみつけた』とうぬぼれているんですが、お客様からそう言っていただくのは初めてで、嬉しいです」

と頭を下げました。


 飯田GMからは、あるスタッフに最近投げかけた「承認」の言葉をきかせていただきました。
 以前から関係がこじれ、ほとんど「絶体絶命」だった個人面談で、飯田GMが言った言葉。

「あなたを数年前の面接で『すばらしい』と感じて採用した私の気持ちは今も全然変わっていません。あなたを信頼しているし、認めています。あなたの今からの3年間を私にください。絶対あなたに満足してもらえる会社にしてみせるから」

 そこまで言うと、スタッフからはもう不満は出なかったそうです。
 飯田GMの渾身の承認。


「正田先生のご本のお蔭で承認ができました」

 そういう飯田GM。いえいえそこまでウルトラC級の「承認」は、あの本では想定していなかったんですけれど。きっかけぐらいは、作って差し上げられたでしょうか。

 こころのエネルギーが高くまっすぐな飯田GMの人柄を載せた「承認」。
 「承認ワールド」の英雄列伝に、また女性マネジャーが1人名を連ねてくださったのでした。


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 翌30日朝、リヨンセレブ鹿骨(ししぼね)店を牧田社長のご案内でご訪問させていただきました。


 朝9時、ぴかぴか輝く焼き立てパンが店の棚にずらり並び、そしてその時間にもかかわらずお客様がどんどん入ってこられます。パンはカレーパン100円をはじめ1個100〜200円と、神戸の有名店に比べれば庶民的なお値段。でも試食でいただいてみると、外側カリッ、中はモチッ、だったり、コロッケパンはミンチが具だくさんに、明太フランスは明太子と海苔のふくよかな香りが。製法に独特のこだわりがあちこちにあり、粉も独自の「リヨン粉」だったりミキシングの工夫ですばらしい香りを出したりするそうです。

 お客様は近隣からも遠方からも来店され、両手にパンの詰まった大きな袋を2つ下げて帰られる方が多い。「夏はパンが売れなくて」というのが嘘のよう。月商1000万。

 きのう受講された小林店長と中村トレーナーが抜群の笑顔で挨拶してくださいました。

「次回も楽しみにしています」
「その前に宿題、楽しみにしていますよ」

 お店のイートインコーナーで沢山の種類の焼き立てパンを少しずつ切り分けて試食させていただいたのはちょっと王侯貴族、「セレブ」のような気分でございました…。
 鹿骨店の皆様、牧田社長様ご馳走さまでした!!

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 「私は自己懐疑と自信の間を揺れ動いています」

とこの日なんどか言いました。

「これまで研修のお客様が出してくださった成果が、あまりに凄すぎて、『これは全部妄想なのではないか』『自分は妄想の中を生きているのではないか』と思う自分。

お客様が『そうではないよ、あなたの研修導入後こんないいことが起こったよ』と言ってくださって、『そうかやっぱり全部現実だったのか』と自信を取り戻す自分。

その両方の間を揺れています。

自信を持っている自分が優勢になったらどんな傲慢な嫌な人間になるだろう、と思います」



『ヤフーとその仲間たちのすごい研修』(日経BP社)という本を読みました。

 ヤフー、インテリジェンス、日本郵便、野村総研そして北海道美瑛町の職員という異色のコラボで、ベンダーを通さない人事の人主導のプロジェクト型研修のもようをドキュメント風に語った本です。


 幹部候補生のリーダーの研修と「地方創生」のテーマを組み合わせた意欲的なプロジェクトであり関係者のかたの熱気と労力がしのばれます。
 こういう研修を企画するのは人事担当者の人にとって「夢」であろうなあ、とも。


 登場する有名教育学者の言葉の端々からは「ベンダー(教育研修業者)を使う研修は悪い研修」という含みが感じられます。不定形なものがすきなのだろうなあ、このひとは。


 さて、詳細は本書を読んでいただくとして、
 ベンダー(のはしくれ)として思うところを述べます。

 
 自社の研修をベンダーに依頼する風景の中に思考停止のもの粗悪なものがある、ということは認めるにやぶさかではありません。その結果ゆがんだ市場原理が起き現場のマネジャーとその部下が翻弄されるのはわたしもずっと危惧してきたところでした。

 しかし、「だからベンダーを使わず自前でしたほうが優れた研修効果が得られる」と結論づけることはできない、とも。短絡的な「ベンダー悪玉論」は正しくありません。

 というのは、しょってる言い方ではありますがわたしが過去お邪魔してある程度の時間数を確保して研修をさせていただいた先では、むしろ劇的な各種指標の向上が起こっている、という単純な事実から言うのであります。


 それは、わたし流に種明かしをするなら、
1.「定番」であること。
2.専門ベンダーによる研修であること。

 管理職研修にも「定番中の定番」と位置づけるべきものが本来存在する、それが「承認研修」。
 ただ、定番だから変化がなくておもしろくない。未知のフロンティアを探究するプロジェクト型研修ほどには。

 ところがその定番であるべきものが定番である、そもそも定番が存在する、というコンセプト自体がまだ普及していない。管理職研修のメニューも無数にある中で「どれが基本でどれが応用」という階層的なイメージが見えないまま選択されることが多い。さらにともすれば中小〜中堅企業では、「管理職に研修などけしからん。若いやつらにこそ研修を手厚くするべきだ」という考えが支配的になり、研修の導入がなかなかできないうちに若手の離職がどんどん起きてしまう。


 定番/基礎編をすっ飛ばして応用編ができるのかというと…、

 わたしは例えば、本書の1人の登場人物の言葉
 「ただ外国人を入れました、女性を入れましただけがダイバーシティじゃない」
 という言葉に「一部賛成、一部反対」なのだけれども、

 そう言っている人自身、例えば「女性」や「外国人」に対するバイアスを卒業できているだろうか?という疑問があるのです。

 意識の高いブログ読者のかたは「まさか」と思われるかもしれません。
 あまりにも基本中の基本、耳にタコができた、でも本当はその段階を卒業できていない。
 実際は世の中にはそういうことがいっぱいあります。

 「バイアス」について最近新しく思ったことをこの記事のあとのほうで述べます。


 …で、「承認研修」は、多分講師のわたし自身が女性であることも手伝って、「バイアス」全般をとるのに大きな効果を発揮します。
 こんなことを書くとまた、
 「要は宣伝したいんでしょ」
 と思われるでしょうか。

 
 そして、2番目の点、「ベンダーであること」も、「承認研修」に関しては大事なのだろうと思います。

 その会社の従来の管理職のありかたとは真逆で社内にロールモデルがいない、自分が部下時代に上司をみていて管理職の振る舞いとして学んだことをアンインストールしないといけない、そういう種類のものについて、それでも時代の趨勢によりやらなければならない研修というのは、信頼できるベンダーから学んだほうがいい。

 その場合重要なのはなんなのだろうか。

 管理職にとって重要なのは、「コンテンツをきっちり確信をもって教えてくれる先生」であろうとわたしは勝手に思っています。
 同じ手法でこれまでの成功したマネジャーたちの群像も、社内でロールモデル不在の状況で学ぶには参考になる。


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 「バイアス」「ヒューリスティック」については、このブログでは2013年前後にシリーズで、認知科学の一連の知見を紹介してきました。もしご興味のある方がいらしたら、「判断を歪めるものとの闘い」という言葉でこのブログの検索窓に入れてみてください。

 自分自身女性なので、こうした問題はいつもひとごとではないのです。またこうした問いを立てることは、このブログによく登場する発達障害をはじめ障害者や外国人、あらゆるダイバーシティの問題についても役に立つと思います。


 最近の見聞でまたおもしろかったこと。

 あるところから取材を受けたのですが、取材者のかたが「専業主婦からリーダー教育の第一人者になったのはなぜか」という問いをもっていて、「専業主婦」という言葉を繰り返しぶつけてこられます。

 わたし自身べつに「専業主婦」に対してバイアスをもっているわけではなく、だからこそ自ら一時期専業主婦にもなれたので、経歴の中にも長いバージョンの中では1行「子育てのため専業主婦8年」と入れています。

 「生老病死」
という、人生の基本のところを大事にしたい、というようなことは過去にもこのブログに書いたことがあります。「専業主婦」を一時選択したのは自分にとってはそういう意味あいがあったでしょう。


 ところが、どうも話がかみ合わないなあ、と思ったのは、取材者のかたが途中で

「西も東もわからない専業主婦」

という言葉を使われたので。
 
 ああ、そういうイメージでこのひとは「専業主婦」をつかっているのか、と思いました。

 わたしの場合、実家も遠い中で子育てを自分でちゃんとやりたかったので人生の一時期無職期間をつくったが、一生そうしていたいと思っていたわけではなく、子どもがある程度手を離れたら仕事の世界に戻ることは念頭にありました。1人M字カーブ。たまたま仕事として選んだのが当初は医薬翻訳者であり、次にコーチング、そしてマネジャー教育の研修講師、だったのであります。

 そしてあまり傲慢な言い方にならないよう気をつけたいのですが結婚前の職業は通信社記者であり、女性としてはかなりさまざまな世界に触れさせてもらったほうなのです。


 このインタビューでは結局取材者のかたの期待されるようなお話はできなかったのではないかと思います。


「困られたのはどんなことですか」
「そうですね、早くから成果は出ていたのですが、皆さんがなかなかそれを信じてくださらない、そのことが辛かったです。この手法が普及しないということは、この手法によって幸せになれるはずの人を幸せにできないということですから」

 わたしは淡々と言いました。

「2003年から14年までの間に『業績1位になった』などの成果事例発表のセミナーを通算7回やっています。いかに長い間信じていただけなかったかということですよね」


 たぶんこういう答えは取材者のかたにはおもしろくなかったのだろうと思います。期待されていたのは、たとえば

「私は仕事になど興味はなかったのです。若い頃から花嫁修業をして主人や子供のためだけに生きることが夢でした」
といった、絵に描いたような優等生の「専業主婦」の答えなのでしょう。それと「リーダー教育」のイメージギャップを記事に仕立てよう、という構想があったことでしょう。

 取材者のかたが自分にとってピンとくる「フック」に出会えずにじりじりされているのがなんとなく伝わりました。でも嘘は言えないんですよね。

 もうひとつ付け加えるなら、わたしの研修講師として駆け出し時代のころから出会ったマネジャーたちは、わたしについて「専業主婦」という言葉では考えなかった、「正田さん」という一人の真摯な人として出会い、遇してくれたのです。そしてわたしも彼ら彼女らを心からリスペクトしていたのです。

 そういう言葉をこの取材の中で言ったかどうか、ひょっとしたら嫌味に響くかもしれないから言わなかったかもなあ。


 こうした行き違いもいずれは笑い話になるでしょう。

 それにしても、「取材」を業とする人は読者のかたにわかりやすい物語をつくろうとするあまり、自分自身もステレオタイプの思考にはまっていることが多いです。この件にかぎらず。


****


 NHKの朝ドラ「まれ」。

 このブログではよく朝ドラをネタにとりあげるので、そういう行動傾向はまんま専業主婦なんですが、、
 過去には朝ドラに明らかに「発達障害」を思わせる人物が、それもヒロインの恋人役という重要な役どころで登場したことに注目し、今世の中の認識はそうなってるのかと思ったり。


 この春からやっている「まれ」ではどうなのかというと、多分初めて、「中国人」が登場しています。ヒロインの「まれ」の横浜での修業先の洋菓子店のご主人の奥さんがやっている中華料理店のシェフの陳さん。

 この陳さんは実生活でも本物のシェフらしいのですが、劇中では在日経験が長いにもかかわらず日本語は片言(かたこと)。いつも「はい、激辛マーボー豆腐〜」と激辛料理をつくって出す。

 しかし、しょっちゅう本質を突いたことを言ったり、あるときには合コンをやろうと「まれ」たちのために若いイケメンの男の子をつれてきたり、不思議なところで能力を発揮する、おもしろいキャラクターです。


 何がいいたいのかというと…、

 朝ドラは当然「主婦」がみることを前提につくられていますが、
 「主婦」たちのイメージする「中国人」はドラマとはいえまだこれぐらいステレオタイプだ、ということ。
 もちろん、差別だと腹を立てるのも大人げないように漫画チックにデフォルメされていますが。


 ―異質な者の存在を認めるとき、わたしたちはまず「ステレオタイプ」として認めるのだ。でもいつまでもその段階に留まっているべきではない―


 そしてまた、

 メディアの世界の人にとっての「専業主婦」という言葉もまた、「主婦」が魚眼レンズから世の中をみている世界の「中国人」と同じくらいステレオタイプなイメージを誘発するのではないか、と。

 ひどい言い方をすると、「主婦」の世界も「メディア」も実は鏡のこちらとあちら、よく似ているのではないかと。


****


 『月刊人事マネジメント』誌での連載は、3回目の「女性活躍」に関する記事を編集部にご送付したところです。

 締切より10日ほど早めに提出し、「ご意見お願いします」と言葉を添えましたら、「これでいきましょう」というお返事をいただきました。
 自分のものの見方がおかしいんじゃないか、ときにそんな不安に襲われるときに、すこし元気になります。


 今月号に掲載された同誌での連載記事『上司必携!人手不足時代のチームをやる気にさせる 行動承認マネジメント』第1回の記事は、編集部様のご厚意で8月上旬にブログにもUPさせていただきます。


 猛暑の中、読者のみなさまもくれぐれもお体お労りください。

 

(一財)承認マネジメント協会
正田佐与

 「月刊人事マネジメント」((株)ビジネスパブリッシング)誌様よりお声がけいただき、「行動承認マネジメント」についての全7回の連載をさせていただくことになりました。


 その第1回が7月号に掲載されています。

5月刊人事マネジメント10705月刊人事マネジメント2


 表紙にも「新連載」として取り上げていただきました。

 題して
「上司必携『行動承認マネジメント読本』〜人手不足チームのやる気と力の引き出し方〜」 
とこの連載タイトルは編集部の方が案を出していただきました。

 中身はちょっと格式あるフォントやレイアウトで、「行動承認マネジメント」というやや硬い定番チックなタイトルに見合うように。

 全7回の構成は以下の通りです:

第1章 「行動承認」は”儲かる技術”である(7月)
第2章 「承認研修」の実際(8月)
第3章 女性活用と登用は「上司の眼差し」次第(9月)
第4章 上司の「承認」が若手の早期離職を防ぐ(10月)
第5章 「踏み込みすぎない」メンタルヘルス対策(11月)
第6章 部下の凸凹を戦力化に転じる(12月)
第7章 「腹落ち感」をつくる「伝え方」とは(2016年1月)


****

 
 「ああ、やっぱりそうですか」

 このところ続けて、研修や講演のご依頼に対してそんなお返事をしました。

「介護施設の離職原因は給与や労働環境より、スタッフ間の人間関係のほうが大きいのだという」

「チェーンストアの売上は立地もさることながら、スタッフ間の人間関係が大きく影響する」

 お客様のそうした問題意識に基づいて「承認研修」のご依頼をいただくのです。

 それも聡明なトップの方ご自身が気づかれて、というパターンが続きましたので、有難いことと感じます。

 当方のソリューションにあまりバリエーションがないのがちょっと悲しいです。


****


 「たった一度きりしかない人生」

 51歳、当たり前のこの言葉が繰り返し頭をめぐります。

 不完全で取り立てていいところのないわたしも、この人生を一度きりしか生きられない。泣いても笑っても。
 またほかのかたにとっても。

 「自己受容」や「個別性」、長年学んできたつもりではありますが、時に応じて新しい言葉で腑に落ちることがあります。
 今のわたしにとっては、(輪廻転生のような可能性を排除すれば)与えられた生命と人生は一度きりしかない、ということが、歯ぎしりするような現実として腑に落ちているのであります。

 それはまた、研修に行かせていただいた先の、わたし自身は出会うことのない若手や中堅や役職定年後の人びと、研修のエンドユーザーである管理職のそのまた先にいる人びとの人生もまたそうなのだ、と頭はそこに向かいます。



(一財)承認マネジメント協会
正田佐与


 丹波市の社会福祉法人山路福祉会の特養山路園施設長、澤村安由里様より、法人のおたよりをいただきました。

山路だより


 
 巻頭の澤村さんの「ご挨拶」から。

人にではなく、主に仕えるように、
    善意をもって仕えなさい。
      エペソ人への手紙6章7節

(略)

 昨年度は、「独立型再生可能エネルギー発電システム等対策補助金」の交付により、太陽光発電のためのソーラーパネルや蓄電池等を設置し、快晴の日には、ロビーの発電モニターの棒グラフを見るのが楽しみになりました。これにより、災害により送電がストップしても最低限の電力は確保でき、利用者さんの生活の安心と福祉避難所としての機能強化につながると思われます。
 今年度は、特に「〜してあげる」ではなく「〜させていただく」気持ちを忘れず、謙遜に、献身的に、愛のある介護の実践に力をいれます。在宅福祉・施設福祉の両側面から、地域福祉の向上に寄与できるように、職員の成長と法人組織の充実を目指します。
 そのためにも、今年度も、職員がひとつになり、職員ひとりひとりが心も体も健康で、気持ちよく楽しく働ける職場風土を築くとともに、お互いのよいところを認め、思いやりをもって、仕えあい、支えあい、心をひとつにして、愛のある介護を実践していきたいと思います。



 

 このほかおたよりからは、たくさんの委員会活動や啓発活動、施設整備など常に一つところにはいないたゆまぬご努力ぶりに心打たれます。
 また編集後記にあったアラフィフの会での
「内科的な衰え」「脳神経科的な衰え」
は、わたしにとってもまさしく自分ごとでありまして、

「私たちの肉体は日々衰えている。
しかし、魂は衰えるどころか新たに生まれ変わることができる。
日々新たにしてくださる神様が共にいてくださることに、感謝しつつ、
変わらない愛を用いて『愛のある介護』の実践をしていきたい」

この言葉がひときわ心に沁みました。


 澤村さんは、2013年2月の兵庫県社協・青年協主催の「承認研修」に参加され、以来「『承認』は根源的なことですね」と言われました。
 このたび丹波ブロック老人福祉事業協会総会の講演にお招きいただき、当日お食事をご一緒しながら、その後の職員さん方のお話をひとしきり伺いました。
 施設では年間にほとんど退職者は出ず、皆さん元気に頑張っておられるご様子。この日6月16日はちょうど職員さんのUSJへの親睦旅行の日でした。

 80人の職員さん一人一人に誕生月には記念品を贈り、自筆のお手紙を添えて渡すという澤村さん。
 「私自身はクリスチャンなので、『だれも見ていてくれなくても神様は見ていてくださる』という感覚があるんです」と、澤村さんは言われました。


****

 
 以前にこのブログでもインタビューをご紹介した、元コープこうべ役員の有光毬子さん(70)が、24日、男女共同参画社会づくり功労者として内閣総理大臣の表彰を受けられました。

 http://www.gender.go.jp/public/commendation/souri/meibo-h27.html

 あれっどこかで見た写真のような気が…(*^^*)

「生活協同組合コープこうべ女性初の食品バイヤー、店長等を経て役員に就
任するなど女性が社の方針決定に参画する道筋を切り開いた。また、兵庫県
経営者協会内に女性産業人懇話会(VAL21)を発足させ、女性の管理職登用
促進等に尽力した。」

と、兵庫県ホームページに功績内容が載っています。


 嬉しいですね(*^_^*)

 有光さんの世代のかたは、制度が整った現代では想像ができないぐらいハードな頑張り方をして道を切り拓かれました。周囲も必ずしも理解ある目線ではない中、結婚子育てもされながら意志を保ち続けるのは大変な困難なことだったでしょう。

 そしてむしろこの世代のかたは、いま沈黙されがちなのでした。「今の若い方々に当てはめることはできないから」と自ら謙虚に振る舞われことさら体験を語ろうとはされないのでした。

(ブログに掲載させていただいたインタビューは、だから口を開いてくださった貴重な機会なのです。ちなみにそのインタビュー記事はこちらからご覧くださいませ
http://c-c-a.blog.jp/archives/51881408.html


 だから、表彰されたとの報が傍の目にはひときわ嬉しいのです。

 有光さん、おめでとうございます!

 お知らせくださった友人にも感謝。


****


 引き続き新しい受講生様に出会い、新しい宿題を拝見し、コメントしてお返しします。

 
 お伝えしたことが永くお役に立てますように。




(一財)承認マネジメント協会
正田佐与


『僕が18年勤めた会社を辞めた時、後悔した12のこと』(和田一郎、バジリコ、2015年2月)を読みました。

 百貨店に大卒後就職し42歳で退社するまでのサラリーマン生活で思い残したことを、現在はアンティーク着物のネット販売を営む著者がつづった本。

 著者自身のとても「痛い」エピソードが満載で、でも読後感がすごく爽やかな、「大人が書いた」味わいです。


 どんなふうに「痛い」かというと、例えば入社式での出来事:

++++

「……というのに、まだ上着も着ていないやつがいる。社会人として……」

 ふと気がつくと、上着を着ていないのは僕ひとりで、あとの同期はいつの間にかすべて上着を着ているではないか。

 僕は慌てて上着を着た。

(中略)

 この一件は、入社初日から僕の心構えがなっていなかったことを存分に示している。ゲームは既にスタートしていた。

++++

 こうした「うっかりエピソード」程度だとだれもが「あるある」と済まされそうだけれど、
 この本では著者がこのあと中堅〜管理職になった時期にいたるまで、仕事以外の夢を追いかけてどこか半身で仕事をしていた自分、仕事に没入するようになってからもどこか方向違いの頑張りをしていた自分、などをさらけ出し、自ら「勘違い」「痛い」と述べています。


 「痛い自分」をここまで徹底的にさらけ出せる強さ。凄いですね。

 著者は十分に優秀な部類のサラリーマンだった、ということも伝わります。しかし上には上がいた。大組織で役員にまで昇進していく人たちは少々の優秀さではないものを持っている。

 この本は著者がアンティーク着物ショップ「ICHIRO-YA」の代表になってから、ブログに連載した文章を書籍化したということで、ブログで自らのサラリーマン時代の悔悟をつづったものが反響を呼んだ、ということです。



****


 ひるがえって、
 わたしはここまで「痛い自分」をさらけ出せるだろうか。

 と、このところ内省モードにいるわたしです。


 そもそも大した人間でないのに管理職の方々に何かをお教えするということが「おこがましい」の極みです。

 その「おこがましい」という感覚についてはこれまでもこのブログの中で何度も触れ、仕事の中でも大事にしてきたつもりでしたが、さて。


 拙著『行動承認』で書かせていただいた、奇跡のような業績向上エピソードの数々はいずれも誇大妄想ではなく、事実です。
 しかしまた、「承認/行動承認」を導入していただいたときの組織に及ぼせる効果の大きさと、伝えているわたし自身とのギャップがこのところ大きくなりすぎてしまい、そのギャップを扱いかねているわたしがいます。


 ところが、そう言っている間にも信頼してくださるお客様がいて、それも非常に優秀な、世間の広い方々から、研修や講演や原稿のご依頼をいただきます。有難いことですね。


「いつもメルマガを見ていますよ。大変なご活躍ですね」

と仰るお客様に、

「ありがとうございます。自慢話ばかり書くメルマガでお目にかけるのがお恥ずかしいです…、
皆様が『そんなに効果があるのなら、やろうか』と思ってくだされば、世の中がより良くなると思いまして」

冷や汗ものでお答えしました。



 おこがましさ、痛さ、ギャップ問題は解決しないものの、

 このようなもの(承認)をご提供してお客様にお役立ちできる立場にいるというのは、幸せなことです。
 
 しかし内省モードは中途半端になってしまうかもしれません。
 
 



100年後に誇れる教育事業をしよう。
一般財団法人承認マネジメント協会
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 障害者福祉の社会福祉法人さざんか福祉会宝塚めふプラザ所長の溝田康英さんにお話を伺いました。

 さざんか福祉会様は、これも拙著『行動承認』に登場されるところ。昨年6-7月と2回にわたり「承認研修」を取り入れてくださいました。


 10以上の事業所を擁し全体では200人ほどの職員。中でも溝田さんが所長を務める「宝塚めふプラザ」さんは進取の気性に富むという言葉がふさわしく、織物の小物やガラス器など多様な製品を開発して販売し、ものづくりスピリットに溢れています。


「あれからもみんな一丸となって頑張っていますよ。
今度、百貨店に出店できることになったので大忙しです。見本市のようなところに出したら企業さんが百貨店さんとつないでくれまして。」

と溝田さん。

 1週間ほど百貨店の一角を借りて出品できるのですがそのために今製品や価格の見直しに追われ、職員さん方は5月の連休がない状況だとか。

 勢いのあるめふプラザさんです。


 法人全体の状況を伺うと、昨年度での離職者は前年度の3分の1以下と激減だったそう。詳しい数字は控えます。(注:元々そんなに高い方の数字ではない)
 やっぱり「目が届く」ようになるからでしょうか…いや、勝手な憶測です。

「研修担当者同士で、『正田先生の研修は後々すごく役に立っている』と意見が一致しています。『承認』はOJTにも使えますからね。昔風の『こうやるんだよ!』という指導では今は通じない。『そこ出来てるやん』と認めてやりながら。」


問題はないわけではない、
 それでも「離職者(前年比)激減」は嬉しかったニュースでした。


 
 溝田さん、お忙しい中、いいお話をありがとうございました!
(^_^)
 百貨店出店の大成功をお祈りしております。



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 おはようございます。
 一般財団法人承認マネジメント協会の正田です。
 

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 本日の話題は:

■「幸せな職場」は身体が動いて生産性が高い?―ウエアラブルによる研究から
■「ラジオ体操」がさらに進展―有光毬子さんより

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■「幸せな職場」は身体が動いて生産性が高い?―ウエアラブルによる研究から

「身体運動、幸福感、生産性という深い結びつきがはっきりした」
 こんな言葉がきかれました。まったく異分野から。
 4月20日付日経新聞朝刊、「経営の視点―あなたの職場はハッピー?ウエアラブルが問う生産性」という記事。
 ここでは、
「幸福な人は仕事ができ、創造的」という心理学の知見に基づき、「従業員がどのくらいハッピーか」を定量的に測る方法があれば、生産性の高い職場づくりに役立つのではないかと考えた、日立製作所の研究を紹介しています。
 働く人たちに名札状のウエアラブル端末を身につけてもらい、加速度センサーで身体運動のデータをきめ細かく収集。それに同じ人たちの感情状態を答えてもらった情報をつき合わせると、「ハッピーと感じている人は身体運動が活発」ということがわかったそうです。

 ウエアラブル端末を働く人全員が身に着けるということも昨今の開発スピードから考えれば近い将来起こり得るのかもしれません。

 それはそれとして、「ハッピーな状態であれば生産性が高い」だれもが直感的には理解できるがこれまであまりまともに議論されなかったことが取り上げられるようになるのは、興味深いことですね。
 上の記事では、何が「幸福感」に寄与するのかについて・エアコンの温度・机のレイアウト・管理職の席の位置・組織の統廃合―などと例示しています。
 もちろん、過去12年にわたり教育研修による業績向上をみてきた当協会のお勧めは―。

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■「ラジオ体操」がさらに進展―有光毬子さんより

 拙著『行動承認―組織の能力を最大化する「認める力」』(パブラボ)に登場される、有光毬子さん(コープこうべ顧問)に、久しぶりに近況をうかがいました。
 有光さんは2013年秋に「承認」に出会ってから、自宅近くのラジオ体操の集まりを「承認」の考え方を取り入れて活性化された方。
 無言で身体を動かしていた集まりがみるみる100人の規模になり、会話が活発になって「コミュニティ」になり…、その年の暮れ最終日には熱いコーヒーをみんなで飲んで「お疲れさん会」。年明けにはバレンタインデーやホワイトデーにそれぞれプレゼントを贈りあうようになりました。
 そんな「劇的」なビフォーアフターを拙著にも書かせていただいた、その後。
 1年半後の今はまたさらに進展があり、「お誕生日をお祝いするようになったんですよ」と有光さん。

 詳しくは、こちらの記事をご覧ください:
 http://c-c-a.blog.jp/archives/51912717.html

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*…*…*…*…*…*…*…*…*…*…*…*…*…*

 コープこうべ顧問の有光毬子さん(70)に久しぶりにお話を伺いました。


 有光さんは、拙著『行動承認』にも登場されている、神戸の働く女性の元祖のような方。コープこうべで一女性社員から結婚子育てのかたわら奮闘のすえ常務理事にまでなりました。

 昨年2月に、全5回にわたってそのドラマチックな人生をこのブログで披露していただきました:

 そのシリーズ1回目はこちらから

 第一回「有光毬子さん物語―上司の言葉でライフプランを持てた私」

 http://c-c-a.blog.jp/archives/51881408.html


 上記の記事の5回目にもありますが、有光さんは現在は「地域活動」に力を入れ、「承認」に出会われて地域のラジオ体操の場を活性化。口も利かず時間になったら集まって体を動かすだけだった集団が、「承認」の考え方を取り入れた表彰やスピーチを繰り返す中、100名を超える規模になりお互いの会話も密になったといいます。

 「承認」をお伝えしていても「地域活動」に徹底して活かしていただいた事例は初めてのことでした。著書の時点ではバレンタインデーやホワイトデーのプレゼントを男性会員、女性会員の間でし合うようになった、というところまで伺っていました。
 なんと、華やいだおとしより同士の風景であることでしょう。


 最近のそのラジオ体操の風景は―。
 また、発展されていました。


「お誕生日をお祝いするようになったんですよ」

と有光さん。

「だれかのお誕生日の日には『お誕生日おめでとう』の横断幕を掲げます。そこに「○○さん」「××さん」のお名前をつけます。

 100名の会員で3日に一度の頻度でしょうか、3人くらい重なるときもあります。

 会員さんは、『この歳になると家族もだれもお誕生日のお祝いなんかしてくれない。嬉しい』と涙を流す方もおられますね。

 引き続き会員で顔見知りになった人同士、お話が弾んでいますよ。顔の表情が全然違うんです。


 私はね正田さん、あなたの研修で学んだ『人に関心を持つこと』、本当にあれがきっかけでした。今でもその通りだなと思います。」


 ―しみじみ嬉しいお言葉でした。

 「12年1位」などと企業の業績が上がりますよ、というのを提示してインセンティブに、と思ってずっとやってきたんですけれども(それ自体は嘘いつわりではない)本当はわたしのやりたいのはそこではない、ということにも薄々気がついていました。

 いかに多くの人が「自分という存在のかけがえのなさ」を感じて生きていただけるか。

 それは従来意識してやってきた「若者」「女性」や「障害をもった人」もそうですしこのたびは地域のおとしより、にもフロンティア精神溢れる有光さんが広げていただきました。

 「ラジオ体操」は毎日のことなので、おとしよりを集めた月1回の昼食会、懇話会といった活動よりもさらにダイレクトにみなさんの生活に関わることでしょう。それこそ、身体の健康にも精神の健康にも、お互いの関わりやそのほかの活動にも。


 神戸市にこうしたラジオ体操の集まりは60ほどあるそうですが有光さんのような取り組みはまだ他にありません。
 
 
 有光さんは今春でコープこうべ顧問や経営者協会の副会長など多くの要職を退任されるそうです。
 「次のステージの人生」に思いを巡らしていらっしゃることでしょう。


 有光さん、素晴らしいお取組を、またお話を本当にありがとうございました!



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 年度明けのご多忙もやや落ち着かれたという方、いやまだまだ続いているという方、これを読まれているあなたはどちらでしょう。

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■桜は見納めですが―「現場から声が上がるようになった」食品工場にて

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■桜は見納めですが―「現場から声が上がるようになった」食品工場にて

 今週は、2月下旬、県北の商工会様主催「承認マネジメントセミナー」で学んでいただいたものづくりのマネジャーさんにその後のご様子を伺いました。
 従業員100人ほどの食品工場、その中で30-40人を束ねる製造課主任の方です。
 現場は、女性作業者の方多数。

「あの研修以来、自分の周囲のサブリーダーにも『認めることが大事だ』とお話を共有して実施しています。
声が上がるようになりましたね、作業者から」

と、男性の主任さん。

「抑えつけられていない、期待されている、と感じるのでしょうね。
 具体的には、『これはこうしたほうがいいんじゃないですか(提案)』『これはどうしたらいいんですか(質問)』と言ってくるようになりました」
 
「すばらしい!いいお話をありがとうございます」と私。
 研修後約40日の時点です。

 読者の方の中には、「なんだそんなこと」と思われる方もいらっしゃるかもしれません。

 ところが、近年ものづくりの現場からこの延長上で、「えっ」と思うようなお知らせをいただくようになっています。

「3か月やり続けていたら社内の改善小集団活動で優秀賞をとりました」
「約半年で現場が見事に変わり、見学に来たお客様から『発注しよう』と言っていただけるようになりました」
「研修以来2年間で1件もお客様のもとに不良を出していません(それまでは不良続出でした)」

 誇大広告ではないのです。

 それくらい、ものを作る現場の人たちの仕事の能力や意識に「認められること」は大きく作用するのですね。こうしたご報告に触れるたび実感することです。

 もちろん、研修というものは受講された方の「実際にやる、やらない」に依存します。
 当方からは受講生様が気持ちよく「よし、やろう」と思っていただけるよう一心に願ってお伝えするのみ。

 県北の桜は今からが見ごろでしょうか―。
 わたくしはあまり成長がないですが、今年も引き続き「花さか爺さん」ならぬ「花さかおばさん」をしてまいりたく思います。

 読者のみなさま、「女のくせに、生意気だ」とお感じになられるかもしれませんが、何卒本年度もよろしくお願いいたします。


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 フランシス・フクヤマの『歴史の終わり』を今年3月、読みました。以下、当時の読書メモです(引用部分太字)。
 ここでは、「承認」を「認知」という言葉で言っています。「認知」には「優越願望」と「対等願望」がある、とフクヤマは言っています。


 人は、自分が他人より優越していることを認めさせようとしがちだし、それはほんとうの精神的価値にもとづいている場合もあるが、多くは思い上がった自己評価から生まれてくる。

 このように、自分の優越性を認めさせようとする欲望を、私は古典ギリシア語から語源を借りて「優越願望」(megulothymia,メガロサミア)と新たに命名したい。(略)一方、「対等願望」(isothymia, アイソサイミア)はその反意語であり、他人と対等なものとして認められたいという欲望を意味する。「優越願望」と「対等願望」は、認知への欲望の2つのあらわれであり、近代への歴史の移行もこの両者とのからみで理解することができる。(下巻pp-31-32)


 この「優越願望」を体現した人物としてフクヤマはシーザー、ヒトラー、スターリンを挙げます。




 アメリカの自由、リベラリズムとヘーゲル流の自由と。・・・どうでしょう、わたしたちはどちらに近いでしょうか。


 ヘーゲルはわれわれに、ホッブズやロックに端を発するアングロ・サクソン的な自由主義の伝統とは異なった視点からリベラルな近代民主主義を改めて解釈する機会を与えてくれている。自由主義に対するこのヘーゲル流の理解は、同時に、自由主義が何をあらわしているかについてのいっそう気高いビジョンであり、世界じゅうの人々が民主主義社会に住みたいという願いを口にするときそれが何を意味しているかについてのいっそう正確な解釈でもある。

 ホッブズやロック、そして合衆国憲法や独立宣言を起草した後継者たちにとってリベラルな社会とは、特定の自然権、なかんずく生命の権利―つまり自己保存の権利―や財産獲得の権利として一般に理解されている幸福追求の権利を有する個人のあいだの一つの社会契約だった。つまり、互いに生活や財産に干渉しないという、市民館の相互的かつ対等な合意であった。これに対してヘーゲルにとってのリベラルな社会とは、市民が互いに認め合うという相互的かつ対等な合意のことであった。ホッブズやロックのいう自由主義が理にかなった私利私欲の追求であるなら、ヘーゲル流の「自由主義(リベラリズム)」は理にかなった認知、つまり、各人が自由で自律的な人間として万人から認められるという普遍的な基盤の上に成り立つ認知の追求と解釈できる。(同、p.57)


 また現代のアメリカ人が自分たちの社会や政府のことを話題にするときには、ロック流の用語よりもヘーゲル的な用語のほうを頻繁に使う。さらに公民権運動の高揚期にはごく当然のことのように、公民権の法制化は黒人の尊厳を認めるためであり、すべてのアメリカ人に尊厳と自由の生活を保証した独立宣言および憲法の公約を実現させるためである、と主張されていた。当時の人は、こういう論議の要点を理解するのにヘーゲル学者になる必要などなかったし、ほとんど教育のない人間や底辺の市民でさえこういう言葉を使ったのである。
(中略)
 アメリカ建国の父たちが「認知」とか「尊厳」とかいう言葉を使わなかったにせよ、それは、権利についてのロックの用語が知らず知らずのうちに認知についてのヘーゲルの用語にすんなり移行していくことを妨げるものではなかった。(同p.63)



 労働は、ヘーゲルによれば人間の本質である。自然の世界を人間の暮らしやすい世界に変えることによって人類史を作り上げるのは働く奴隷である。少数の怠惰な主君をのぞいて、すべての人間は労働をする。(同p.92)


 言い換えれば、リベラルな民主主義国家はそれだけでは完全なものとはいえないのである。そのような国家の土台となる共同体生活は、究極のところでは、自由主義そのものとは異なったルーツをもっている。合衆国建国当時、アメリカ社会を作り上げた男たちや女たちは、孤立して私益ばかりを計算する合理主義的な個人ではなかった。むしろ彼らのほとんどは、道徳観念や信仰をともにする宗教的共同体の一員だった。彼らが最後にはようやく受け入れた自由主義は、それ以前からあった文化の投影ではなく、そうした既存文化とのある種の緊張関係をもって存在していたのである。
(中略)
 長い目で見るとこのような自由主義的な原理は、強固な共同体を維持するのに欠かせない自由主義以前の諸価値を侵食し、ひいては自由主義社会の自己を維持する能力をも蝕んでいくことになったのである。(同p.245)



 アリストテレスによれば、歴史は永続的に進むのではなく、むしろ循環するものだとされた。なぜなら、いかなる政権もどこか不完全であり、そのために人々はいつも自分の暮らしている政府を何か違った形に変えたいと願うようになるからだ。そのあたりを考え合わせると、現代の民主主義にも同じことが当てはまるとはいえないだろうか?
 アリストテレスにならって、われわれはこう仮定してもよいかもしれない。欲望と理性だけでできている「最後の人間」の社会はやがて、認知のみを追い求める獣のような「最初の人間」の社会に道を譲り、ついでその逆が繰り返され、そしてこの歴史の横揺れがはてしなく続いていく、と。(同p.257)





『人間の未来―ヘーゲル哲学と現代資本主義』(竹田青嗣、ちくま新書、Kindle版、2009年)より


 ミルトン・フリードマンの主張の中心点は2つある。第一に、先進資本主義国家の新しい傾向である長期不況については、これまで効果があると信じられていた政府介入型、ケインズ的処方は間違いであり、通貨量調整型にし、基本的に市場原理に任せるのがよい、という考え。第二に、社会にとってもっとも大事なのは、政府の諸権力に対して個々人の自由と権利が守られることであり、もっとも合理的かつ効率的な経済理論と、個人の自由に対する政府の介入の最小化の原理とは両立するという主張である。
 第一の点については、ケインズ理論に一定の不備のあることは現在、多くの経済学者の認めるところだし、少なくともアメリカの80年代不況についてはフリードマンの理論が一定の実績を上げたこと(ボルカー、グリーンスパンFRB議長時代にそれが採用された)は認めねばならない。しかし、一つの経済理論が、経済現象をうまく捉えていたかが実証されるにはふつう50年以上のスパンを必要とするから、現状で、マネタリズム理論がケインズ理論を超えるより正しい理論かどうかはまったく確定できない(この文章を書いた直後世界金融危機が現れ、じっさいに、フリードマン理論は大きく相対化されることになった)。
 さらに、フリードマン理論が帰結する市場原理主義の世界化が、総じて、マネーゲーム的性格をもつ金融資本主義について、共存と調整のルール整備ではなく、その競争の激化をもたらすものであることはかなり明らかになりつつある。とくに金融市場の競争の自由化と世界化が、持てるものに有利に働き、持たざるものに不利に働く傾向をもつことはいまや否定しがたい。市場原理主義は競争原理の最大化によって経済効率の最大化をめがけるのだが、それが、世界経済全体における、金融経済と実体経済の適切な均衡をとる保証は存在せず、実証されてもいない。
 もう一つの問題は、フリードマンの理論がいわば「純粋自由主義」の理念に裏打ちされている点である。

 (中略)

 フリードマンの主張には、完全平等主義の考えの不合理性、それが全体主義を招く危険性をもつこと、国家権力集中の危険性、人間の自由の権利の重要性、経済システムとしての自由市場原理の優位性、生の価値の多様性(自由)の強調など、多くの観念が混在している。そしてこの混在の全体が、ちょうど、フロイトの「ハンスの言い訳」のようにからみあった矛盾をはらんでいる。
 しかしもっとも根本的な弱点は、その「自由」理論が、人間はだれも自分の諸権利を侵されない「自由」をもつ、という純粋化された「理想理念」だという点にある。
 この「理想理念」の性格については、ちょうどその対極にあるアマルティア・センの主張と対照するとよく理解できる。センの主張のポイントは、社会思想の根本を、いわば人間の理想的な平等化の理念、どんな人間も、人間であるかぎり、最低限の尊厳ある生活を営むことができるのでなくてはならない、という観念にある。そこで、一般市民(とくに先進国の一般市民)にとって、弱者(貧しい立場にある人々)に救済の手をさしのべることは一つの「義務」(「完全義務」ではないとしても「不完全義務」だとされる)である。

(中略)

 先験的自由論は一つの「理想理念」であり、その祖型はロックの天賦人権論(神が人を自由な存在として創った)である。これは、当時の王権イデオロギー(王権神授説)に対するいわばカウンター・イデオロギーとして強い力をもち、アメリカ革命における人権憲章、フランス革命における人権宣言に強い影響を及ぼし、近代国家の基礎理論となった。しかし哲学的には、ルソーやヘーゲルの理論がその弱点を超え出ている。

 ヘーゲルは「自由」を人間精神の本質と考えたが、「自由」(諸権利)が本来人間に属するとは考えなかった。彼は、ロックやカントの人権と自由の生得説を転倒する形で、人間は生来自由ではないし、かつて一度たりとも自由であったことはないが、各人が「自由の相互承認」の意志をもち、これを”社会化”する場合にのみ人間の自由(人権)は可能となる、と説いた。(No.3121-3181)

 


 ここでわたしが、哲学的な原理として示そうとしたことは二つだ。それがどれほど多くの矛盾を含もうとも、現代国家と資本主義システムそれ自体を廃棄するという道は、まったく不可能であるだけでなく、無意味なものでしかないこと。そうであるかぎり、現在の大量消費、大量廃棄型の資本主義の性格を根本的に修正し、同時に、現代国家を「自由の相互承認」にもとづく普遍ルール社会へと成熟させる道をとる以外には、人間的「自由」の本質を擁護する道は存在しないこと。

(中略)

 現代社会は、さまざまな困難と矛盾を抱えこんではいるが、人間の本質的な「自由」が生きのびる可能性の原理はまだ死に尽くしてはいない。これがわたしの第一の主張である。この「可能性の原理」を現実化できるか否かは、われわれ自身の一つの根本的な決断にかかっている。つまり、恣意的な理想理念の「物語」からではなく、これ以外にはあり得ないといういくつかの原理的選択肢から一つを明瞭に選びとる、多くの人間の「われ欲す」を、現代社会は必要としているのである。(No. 3353-3376)



 すいません、この記事は完全にメモ書きだけの記事でした(汗)


(一財)承認マネジメント協会
 正田佐与

 広野ゆい氏(NPO法人発達障害をもつ大人の会代表)インタビュー第2弾の3回目です。

 ここでは、日常出くわす、どこかに分類しきれない発達障害者らしい人たちとマネジメントのルールの世界の「困った!」について、広野さんにお伺いしました。
 広野さんとしても当事者の会の運営の中でこうした現象に出会うことは珍しくないようで、ひじょうに率直に答えていただきました。


広野ゆい氏にきく(2)発達障害者マネジメントの「困った!」問答


1.「一律」になじまない現実と付き合う
■メンタルヘルス問題に「発達障害」の視点がない
■「軍隊式マネジメント」はなぜ存在するか
■5Sに「発達障害」の視点を入れると
■全体の質低下を防ぐには
■「発達障害」と昇進昇格と嫉妬


2.「弱みの自覚」のむずかしさと大切さ

■自己診断にチェックリストは有効か
■若い人の成長過程のむずかしさと自己認知
■適性のない仕事についていたら?
■「強みを活かす」の限界 弱みの自覚の大切さ
■感情表現(Iメッセージ)の壁を訓練で乗り越える


3.発達障害者マネジメントの「困った!」問答

■管理職研修と発達障害
■ASDの人の固定観念と性バイアス
■ADHDは薬で改善されるか
■告知はどんな言い方が有効?
■ADHDの人が自己判断で仕事をしたら

ききて:正田佐与




広野ゆい氏にきく(2)発達障害者マネジメントの「困った!」問答

3.発達障害者マネジメントの「困った!」問答


■管理職研修と発達障害


正田:今、承認マネジメント協会では管理職に対する「承認」を中心とした研修をご提供する中で、「発達障害」という言葉をはっきり使って部下の特性を知ったうえでマネジメントする、ということを言っています。あくまで管理職まではそういう視点をもっておいていただきたい、ご本人に告知するかどうかは別として、ということですけれど。

広野:是非!やっていただきたいです。この言葉が普通にならないといけない。

正田:そうですよね。一昨年の聞き取りで、私の実感値としては働く人の1割前後が発達障害かそれに近い、仕事上の指示出しに配慮の要る人、という感触を持っています。だからどの職場にも1人はいると考えていいだろうと。ただあるビジネスパーソンの友人は「そんなものじゃない、4−5人に1人はいる」と言います。

広野:私の基準では、最低限6割の人を発達障害にしたいです。6割になると、マジョリティの側じゃないですか。障害ではない可能性が出てくるでしょう。
「凸凹が大きいよね」「小さいよね」
「まあみんなそういうものだよね」
 みんながそうだということを気づいてない。お互いの凸凹を受け入れて認め合ってやっていく。

正田:完璧な人なんていないですよね。自分でどこまでそれを認めるか、ですね。

広野:やっぱり自分で認めないと。「私はこういう人で」と言えないと。自分で受け入れて、「実はこうなんです」と言えることによって周りもそれを助けてくれる。自分で自分を認めるってすごく大事です。
 「対人コミュニケーション」も大事ですが「対自コミュニケーション」ですよね。そこができてやっと「対人コミュニケーション」だろうなと思います。


■ASDの人の固定観念と性バイアス

正田:お時間もだいぶ迫ってきましたが。ASDの人たちの固定観念の問題についてはいかがですか。私はどうも、この人たちがかなり強固な既成観念というか固定観念をお持ちで、とりわけ「女性」に関してそれが出やすいように感じるんですけれど。

広野:地位の高い女性への違和感。これはありますね。

正田:あ、そうですか。やっぱり。

広野:「こうでなければならない」という気持ちが、「女の人は家を守る、男の人が働く」という固定観念はありますね。それが差別である、という認識がないんです。やっぱりそれはありますね。
 それは、私はつくられたものだと思うんです。というのは昔の人は家にお母さんがいた、家で仕事をしていた。家で畑の仕事をして、着物も作って、働いていたんです。専業主婦で家のことしかしていない、というのは多分、高度成長のときからでしょう。

正田:起源をたどると明治大正のころからサラリーマンができて、職住分離になって、専業主婦ができて。ただ日本は高度成長の時代にそれを続けてしまったんですね。ほかの先進国がそれをやめた時期に。


■ADHDは薬で改善されるか

正田:ADHD治療薬のコンサータやストラテラは、ADHDの症状が良くなるんですか。

広野:そうですね、私は両方のみました。コンサータをのむことによって、自分の苦手なことに対して何とか集中してこなすことができます。ストラテラは、すごく効くという感じではないんですがパフォーマンスを底上げしてくれます。疲れてしまって途中からミスが続出するということがあるときに少しそれがましになる。ADHDのある人にはある程度有効かなと思います。ただ薬で頑張りすぎようとすることになると、それは正しくない。

正田:そうなんですか。

広野:際限なく頑張ってしまうために薬をのむのであれば、それは正しい使い方ではないんです。本当に困っているときに使うならいいですけれど。
例えば私だったら、1人では困ってしまうような難しいことがあってそれでもやらなければいけないときに、ちょっと薬の力を借ります。そうじゃなければ人に頼めれば頼みます。これらをのんでずっとずっと頑張り続けるということになると、それは本来のこの薬の使い方とは違うと思います。
 ただすっごい多動な方は、これをのむことによって落ち着きやすいんです。苦労しても落ち着かない人に落ち着いてもらうためにのんでもらう。普通の人はこれをのむと違う効き方をするらしいです。多動なADHDの方はこれをのむことによって落ち着く。

正田:例えばミスが多い方などは、こういう薬をのむとどうなるんですか。

広野:ミスの原因が何かによりますね。どんなことでミスをしてしまうのか。例えばLDみたいなものが関わっているようなミスであれば、あんまりこの薬で改善することがないんですけれども、例えば先ほどのあっちこっちに物を置き忘れてそれを本人も忘れちゃうというようなことであれば、もしかしたらこの薬で効くかもしれない。

正田:そうなんですか。それは朗報だと思います。

広野:ただ、劇的には効かないんです。少しましにはなります。じゃあ普通の人みたいに出来るようになるかというと、そこまでは難しい。許容範囲にはなるかもしれない。
 また、二次障害で鬱がある場合には鬱の治療も合わせてしないといけないです。


■告知はどんな言い方が有効?


正田:また別のご質問で、ミスの多い方に対して上司は
「障害なのでは?」
とご本人に言えずに困っている。言うと気分を害するのではないか、と。

広野:自分でミスしたくないのにどうしてもミスしてしまうようだったら、「そういうのに効く薬があるらしいよ」と言ってみたらどうですか。

正田:薬をのむということは、その前提として診断を受けなければいけないですね。

広野:そうですね、そこはあえて言わない。
 本人さんがそれを問題だと思っていて何とかしたいと思っていたときに、「あ、そういうことだったら病院に行こうかな」となるかもしれない。
 ADHDは子供の頃からずっとなので、そういうことがある人はもっと前から困ったり悩んだりしてるはずなんですよ。それを何とか解決する方法があるということは本人にとってプラスになります。
 こちらの資料に「障害を告知されてどんな気持ちになったか」というグラフがありますが、ADHDの人の場合は「ほっとした」が6割ぐらいいます。

正田:そうなんですか。これは興味ぶかい資料ですね。
 しかし、病院に診断を受けに行くというのは既にそこに心が開かれているという状態なのではないですか。
「この人には言っても無理」と周囲に思われている人はこの中に入っていないのでは。

広野:ええ。でもそれは言ってみないと分からないですよ。言ったら必ずその人は絶望的になるのかどうか。
 絶望的になったり困惑する人というのは、ASDの人に多いです。ADHDの人は基本、喜びます(笑) だって、「努力不足だ」とか「なんでお前だけできないんだ、みんなできているのに」と散々言われて傷ついてきているのに。
「それはあなたのせいじゃないんです、努力不足だとか怠け者だからできないんじゃないんです」
と言われたら、
「あ、そうなんだ!」
と普通、ほっとすると思います。
 だからADHDの人だとほっとする。ASDの人は絶望するかもしれない。中には喜ぶ人もいます、免罪符をもらったような感じで。「アスペルガーだからこれが出来ません、あれが出来ません」と言い始める。「なぜならこの本に書いてありますから」逆に迷惑だったりするんですけれど(笑)
 うちの当事者の会にも会社の人に言われて「え〜、何それ」と思って来た、という人が結構いるんですよ。来たら来たでわ〜っと盛り上がってほっとして帰って行きますよね。
 そういう人は「こういうところがあるから行ってみたら」というぐらいの感じで言ってあげたらいいと思います。診断をもらってない人も結構来ています。それで当事者の人たちと話して薬をのむことが有効だと思えば病院に行けばいいし、「診断なんか受けたら一生発達障害になってしまう」と思えば行かなければいいし。
 告知する時の言い方のコツとしては、
「○×ができないから発達障害じゃないか」
という言い方を避けることですね。
「自分の知り合いにADHDの人がいるけれど似ているよね」
「言ってることとかやってることとか、結構似ている気がする」と。
 あるいは、同じ職場にADHDの人がいて、
「自分は発達障害だけど、君もそうじゃないか?」
と言われた、とか。よりソフトな感じで遠まわしに言うとしたらそういう感じですね。

正田:実際に言われて納得して自覚につながった人たちの体験からくるものですから、貴重ですね。

広野:そのほか上司から「ミスが多すぎる。このままだと居続けるのが難しいから、対処方法を考えるから医者に行って来い」と言われた、というケースも最近は少なくないのですが。
 立場的に利害関係がそんなにない人から言ってもらえるほうがいいかもしれません。

正田:知り合いのASD気味の人は、言われてちょっとショックを受けていた感じでした。自分で「自分も発達障害なんじゃないか」と言っているのも、言葉の裏に「これまで発達障害の人を見下していたけれど、その中に自分も入っちゃうんじゃないか」というのがあるような気がします。

広野:だから、みんな発達障害なんです。気づいてるか気づいてないか、という話で。
 そういう風な意識に変えていきたいですね。それを言われたからショックを受けるということ自体が残念です。
凸凹があったからといってマイナスではないと思います。
ただ「知らない」ことはマイナスです。知らないがゆえに、出来ないのに出来ると思って扱われたりみなされたりすることがものすごくマイナスです。
そういう特性があるということ自体はマイナスではありません。でもそれを知った時点で修正していかないといけないとか、色んな傷をメンテナンスしていかないといけないといけないんですが、それを知らないと始まらないですね。知ってほしいです。

(正田注:とはいいながら職場での「告知」の問題はやはり難しいことのようです。
 ひょうご発達障害支援センター・和田俊宏センター長によると、同センターに会社の上司や産業医に連れられてきた当事者の人はひどく機嫌がわるく、診断を勧めようにも取り着く島もなかったといいます。
「診断を勧める前に『あなたはこの仕事ができていない』ということを伝える段階が大事。そこをしっかりやってほしい」と和田センター長は言われます。また診断を勧める以前に職場でできる工夫をしてほしい、とも。
 逆に本人が希望してセンターに相談に来られたケースではまったく問題なく診断も受けられたそうです。
 職場での告知、成功例もあるとはいいながらまだまだ慎重に行わないといけなさそうです。
 なお今20-25歳の人を境に赤ちゃんの頃からの保健指導のスタンスが変わり、発達障害の有無のスクリーニングをするようになっています。子供の頃に診断を受けたか、否かの境目がその年齢で、それより上の人たちは自覚のないまま大人になった人が多い、すなわち「職場での告知」が問題になりやすい、といえます)


■ADHDの人が自己判断で仕事をしたら

正田:最後、自己判断で変なことをやってしまう人というのは。
 仕事でお出会いする方にそのタイプの方が多くて結構苦労しました。上司部下関係ではないので注意したり叱責したりというのはできないんです。

広野:自分が自己判断でやってしまっているということを認識していないということですよね。
本人さんは自己判断でやってしまっていることを気づいているんでしょうか。

正田:たまにご本人の若い頃の同僚から話を聴けて、若い頃からそういう傾向があった、とわかることがあります。
それがコーチングの研修を受けた経験者も多くて、「自分で判断するのは、いいことだ」と思ってしまってるんです。「君はどうしたい?」というノリで。

広野:ああなるほど…。「それはダメだよ」と誰かに言ってもらわないと。

正田:多分上司の方が言いにくい雰囲気もあると思います。

広野:この冊子(「発達凸凹活用マニュアル2」発達凸凹サポート共同事業体発行)の26ページ、「報連相の1」は自己判断の失敗なんです。これの原因は、(ADHDの人の)興味の偏りですね。自分で「これは報告したい、これは報告しない」と決めてしまっている。
 あとは、「自分のやり方で仕事をしたい」気持ちが強い。人に教えを乞うとそれが変わっちゃったりするので、イヤなんです。
 自分の裁量でやってもいいかどうかの判断がまずできない。仕事というのは基本、自分の裁量、判断でやってはいけないことがほとんどですよね。

正田:なるほど、基本はそうですね。
 「任せる」「権限移譲」ということも一方で大事ですけれども、それはある程度経験を積んで判断力があると評価された人、という前提だと思うんです。
 その関連で何度も痛い思いをしまして、例えばわたしが「このやり方でやってください」と指定したことを、間に入った人が書いてあるのを無視して「そうでないやり方でやっていいです」と言ってしまう。その指定したやり方でないとまずいことが起きる、とわかっていたわけですが、見事にそのまずいことが起きました。

広野:それはADHDの入っている人かもしれませんね。その場合は、「こういう風にしてください」と言われたことを、「あ、めんどくさいな」「適当でいいや」と思ったらそうしてしまう。自分にとって興味のないことはスルーしてもいいと思ってるんです。
 そこは相当言わないとダメですね。怒るぐらいでいいんです。「これをちゃんとやってくれないと何の意味もないんだ!こんなにお金かけてやってるのに、何なんですか!」と。

正田:そこまではいかないけれど割ときっぱり言いました。するとその人は「正田さんが怒った、怖い」と周りじゅうにメールを書きまくったんです。

広野:それでいいと思います。私は当事者サロンで人の領域に踏み込むことをしたりとか、ちょっとナンパ的なことをしたりした人にはきつく言うんです。すると向こうは「ゆいさんが怖い」と周りに触れ回るんですけれど、私はそれでいいと思っているんです。「いけないことは、いけない」ときっぱり言わないといけない。でないとそれでいいと思われてしまいますから。
 
正田:ハードな体験をされますねえ(笑)

広野:言われたその人はショックを受けたから悪口を触れ回るようなことをしていると思うんですけど、やっぱり「してはいけないことは、いけない」とラインを守らないといけないですから。でないとADHDの人は適当でいいと思っちゃうんです、興味がないことに関しては。

正田:今のお話は、会社組織でもだれが言っていることが正しいのか、だれが間違ったことをしたのか、見極めることが非常にむずかしく、そして大事なところですねえ。
発達障害の人が入っている職場で、「何が正しいのか分からなくなった、オレが間違ったことを言ってるんだろうか」と頭を抱えているマネジャーもよく見るんです。仕事としての本筋が分からなくなっちゃう。それは何が起きているか正確にみる目を持たないといけないですね。
今日は大変勉強になりました。広野さん、お忙しい中、ありがとうございました。このあとの講演がんばってくださいね。



あとがき:

 いつものことながら、1つ1つかみしめるように丁寧に答えてくださった広野さんでした。
 急速な人口減少の中、発達障害を含む障害のある人も戦力化していかなければならない要請があります。
 ただ実際にやっていくには細かい人間理解が要り、またそれと網の目のような職場のルールとを継ぎ合せる作業が必要そうです。
 その作業の全貌は2回のインタビューを経てもまだ「見えた」とは言えませんが、読者のかたが今抱えておられる難題にすこしでもヒントになれば幸いです。
なお何度も書きますように「承認」習得後の管理職の方にとっては、こうした多様な人間理解に基づくマネジメントの作業というのは段違いに「らく」になります。
 最後に広野さん、インタビュー起こしが遅くなり申し訳ありませんでした!
 こころよく修正に応じてくださり、ありがとうございました。
 



広野ゆい氏にきく(2)発達障害者マネジメントの「困った!」問答


1.「一律」になじまない現実と付き合う
■メンタルヘルス問題に「発達障害」の視点がない
■「軍隊式マネジメント」はなぜ存在するか
■5Sに「発達障害」の視点を入れると
■全体の質低下を防ぐには
■「発達障害」と昇進昇格と嫉妬


2.「弱みの自覚」のむずかしさと大切さ

■自己診断にチェックリストは有効か
■若い人の成長過程のむずかしさと自己認知
■適性のない仕事についていたら?
■「強みを活かす」の限界 弱みの自覚の大切さ
■感情表現(Iメッセージ)の壁を訓練で乗り越える


3.発達障害者マネジメントの「困った!」問答

■管理職研修と発達障害
■ASDの人の固定観念と性バイアス
■ADHDは薬で改善されるか
■告知はどんな言い方が有効?
■ADHDの人が自己判断で仕事をしたら




100年後に誇れる教育事業をしよう。
一般財団法人承認マネジメント協会
http://abma.or.jp

 広野ゆい氏(NPO法人発達障害をもつ大人の会代表)インタビュー第2弾の2回目です。

 ここでは、ふだん正田が行わせていただいている管理職研修とは異なり、キャリアコンサルタントでもある広野氏のみた「今の若者観」があり、そこで必要と思われる再教育とは、というお話を中心にうかがいました。


広野ゆい氏にきく(2)発達障害者マネジメントの「困った!」問答


1.「一律」になじまない現実と付き合う
■メンタルヘルス問題に「発達障害」の視点がない
■「軍隊式マネジメント」はなぜ存在するか
■5Sに「発達障害」の視点を入れると
■全体の質低下を防ぐには
■「発達障害」と昇進昇格と嫉妬


2.「弱みの自覚」のむずかしさと大切さ

■自己診断にチェックリストは有効か
■若い人の成長過程のむずかしさと自己認知
■適性のない仕事についていたら?
■「強みを活かす」の限界 弱みの自覚の大切さ
■感情表現(Iメッセージ)の壁を訓練で乗り越える


3.発達障害者マネジメントの「困った!」問答

■管理職研修と発達障害
■ASDの人の固定観念と性バイアス
■ADHDは薬で改善されるか
■告知はどんな言い方が有効?
■ADHDの人が自己判断で仕事をしたら

ききて:正田佐与



広野ゆい氏にきく(2)発達障害者マネジメントの「困った!」問答

2.「弱みの自覚」のむずかしさと大切さ

■自己診断にチェックリストは有効か


正田:先日いただいた冊子(「発達障がいと発達凸凹はちがう?」NPO法人発達障害をもつ大人の会発行)のチェックリストを皆さんにやってもらった時、気づきますか?

広野:気づかない時もあります。

正田:自己愛傾向の人は気づかないということはないですか。

広野:時と場合によります。多分、タイプがあるんですよ。
 アスペルガーの傾向の人で、一方的な関わりしかできなくて、自分の枠の評価でしか世界を観れないタイプの人だと、自己認知が難しい。自分を客観視することが能力的に難しい。そういう場合は、チェックリストをやってもらっても周りからみたその人とご本人がみたその人が食い違うんです。自分が「できる」と思っていることが、「いやいや、できないでしょ」と周りは思っている(笑)

正田:うん、うん。それがあるんですね。
 アスペルガーの場合は、そうなんですか。ADHD系の愛想のいい人だとどうですか。

広野:あ、それだったらチェックリストできるかもしれません。自分が何となくしんどいと抱え込んでいることの正体はこれだったんだ、と気づくと、変わる可能性があるかな。
 ただ、あまり良くない状況にいる人だと、気づくことによってストレスがかかりますね。
 余裕のない人は気づくこと自体拒否しますね。チェックリストをやらせようとしただけで怒ってしまったり。やっている間にものすごく機嫌が悪くなってしまう人というのは、それを受け入れるような状態にないんです。
 ものすごく人の意見を受け入れない一方的な人に見えるけれども、本人は「いっぱいいっぱい」で、周りを考える気力もない人かもしれません。
 その人にもよりますが、一般にはチェックリストは性格チェックのようなもので楽しくできる。
 例えば「発達障害のことを理解したい」という支援者の方がチェックリストのワークに参加してくださったときは、最後に出た感想は「自分のことがわかってすごく良かった」と言われるんです、みなさん。発達障害のことを分かりたくて来たけれど、そうじゃなく自分の凸凹とか元々の特性をみることができて、これは多分みんながやったらいいもの。
 困った人に気づいてもらうということもあるんですけれども、それだけではない。
 例えば苦手なことを無理に頑張ると、普通の人でもすごいエネルギーを使いますよね。

正田:使いますよね。

広野:そうなんです。
 これは元々こっちの分野の人じゃなかったのかな、とわかって、そこまで無理しなくてもいいんだと思えて。「こういう(オールラウンドの)人にならなきゃいけない」と思っていたのが、「もともとそういうタイプの人じゃないんだ」と気づくことによって、本来の自分の在り方に気づくことによって、無理なくできることを仕事にする、と変えていくことができる。

正田:本来の自分の在り方。ここの捉え方が難しいですねえ。遺伝的に可塑性のある範囲の自分、可塑性の「ない」ところまでは無理しない自分、でしょうか。ちょっと間違えると、自分甘やかしワードになってしまいそうな気がします、「本来の自分」というのは。

広野:自己理解を深めて、無駄なエネルギーを使わないで自分の能力をしっかり発揮できる、ということですね。
 みんながそのように「自分の在り方」を捉え直すその中でなお困った人が浮かび上がったときに「あ、もしかして(発達障害)」となるといいのかな、と。
 チェックリストだけであれば2−3時間あればできます。それに、では日常の扱い方はどう、メンタルヘルスはどう、という話が入るともっと長くなります。

正田:「承認研修」を受けていただいた受講生さんの中で「うちの部下は、もしかして」というお話がチラホラ出ますので、そういう場合はその研修をぜひお願いします。


■若い人の成長過程のむずかしさと自己認知


広野:会社を対象にした職場環境の改善をテーマにした研修で、若手の離職率改善を狙いにして、それでみんなにチェックリストをやってもらおうという企画があります。発達障害という言葉を出すと会社側が拒否されるので、その言葉を使わずにこれをやってもらうにはどうしたらいいか。
 当事者の間ではずっとこういうことをやってきました。
 管理職研修はやったことがないので緊張しますね。

正田:管理職研修は、長年やってきましたので「承認」から入ると一番いい効果が出ることはわかっています。いろんな場面がありますから注意したり叱責したりするにしても、すべてのコミュニケーションの基盤になりやすいです。発達障害の人を部下に持った場合でも、「承認」は基本の考え方や心の構えとして持っておいたほうがいいものです。また上司自身にとっても幸福感が高く、ものを考える枠が広がったりしていい効果があるようです。
逆に「承認」の話を若い人にしてしまうと、承認欲求の暴走が起きやすいので、経営者から管理職までが共有しているといいことだと思います。若い人の承認欲求はそんなに煽らないほうがいいのだと思います。上司から自然と貰えるのは別ですけれど。

広野:そうですよね。
 若い人のはどちらかというと「自分を受け入れる」自分の弱みを認めて受け入れることが自分のありのままを受け入れることの第1歩です。
 昔は集まったら飛び回って遊んでいましたけれど、今の若い子って集まってみんなでゲームしているじゃないですか。それでは集団で遊んでいることにならないですよね。

正田:去年の夏「妖怪ウォッチ」にしばらくはまりまして、子供が小さいころのポケモンなんかと一緒だなと思いながらやってたんですけど、草むらに入るのでも本物の草むらに入るのとゲームの草むらに入るのでは全然違いますよね。

広野:そう。それにずうっとお母さんの監視下に置かれてますよね。

正田:わたしも四半世紀前、子供を育てたときそう思いました、その当時からそうでした。

広野:ずうっとお母さんの顔色を窺っている。そこから解放されて「じゃあ僕はどうしたんだ」とか「ちょっと悪いことをしてみよう」「ばれなきゃいいよね」とか、ザリガニを叩きつけて殺してみたりとか、その段階があるわけですよね。小っちゃいときみんなやっていたと思うんですけど。
 今の子はそういうことができないですよね。ちょっとケンカするとお母さんが飛んできて。

正田:はいはい。口出しまくるというのは良くないですね、お母さん方がお茶しながら子供をみていて、ちょっとモメたら割って入って。確かにそういう雰囲気があります。
 広野さんは子供時代は自由にお育ちになったんですか。

広野:うちは共働きだったんです。静岡県のすごい田舎で、私も放置されてたんです。全然、親に監視されていたということがないんです。
 父が多動で、休みのたびに「キャンプだ!!」と連れて行かれて、私は家で大人しくしていたいタイプだったのですごく疲れました。
 朝も弱いのに朝の4時ごろから起こされて「マラソンだ!!」
 それをやらされたけれど、朝は今でもダメなんです(笑)これは訓練じゃないんです。

正田:へえ〜。広野さんぐらいの世代の人たちだと、早期教育育ちの人も多いじゃないですか。

広野:ええ、ええ。

正田:それとは全然違う育ち方でしたね。

広野:全然違いますね。うちの田舎には塾というものはなくて、高校受験で塾に行っているという人もあんまりいなかったです。大学受験もそう。塾に行かないで自分で勉強している人が多かった。
 今の子たちの、あんなにびっちりコマを作られて朝9時から夜10時11時まで塾に行っているというのは、人として育っていく時間がないですよね。そんなで大人になって、「はい、今から大人になりました、はい自分でやって」というのは可哀想ですよ。
 素直に作られたプログラムをこなす能力は高いかもしれないですけれど、社会に出て色んなことを自分で考えて決めていくとか選んでいくことがたくさんあるのに、しなきゃいけないことすら気づかないとか。
 まあ、就職活動ぐらいからわかりますけどね。そのあたりから差が出てきますね。

正田:知り合いの大学の先生がプロジェクト型の授業をやっていて、限界集落、過疎化した集落に行って農業をやって再生させるというプログラムを、地元のNPOと連携しながらやっています。そこは学生さんも伸びているし能力も高いそうです。
 ただ、その大学の先生は元は銀行の支店長さんで、バリバリのビジネスマンなんです。みていて、「これと同じ事ができる人は大学の先生にはいないだろうな」と(笑)

広野:そういうことは必要だと思いますね。
 いい大学を出ていてお仕事が上手くできるかというと中々難しいですし、今の若い人の離職率の高さにある程度関わっているだろうなと思います。

正田:若い方で、ある程度いいほうの大学を出た方とお話したときの反応が、「これはASDが入っているからこういう反応なんだろうか、それとも入ってないけどこうなんだろうか」と思うことがあります。感情の応答がないとか、機械的だとか。

広野:あります、あります。本来は持っていたはずのその人の能力を(育つ過程で)無くなった状態で今ここに来ている、みたいな。「次の指示はなんでしょうか」という感じの人。
 その人たち自身が「自分で考えてやってもいいんだ」と気づいてもらう。そういう人たちって、基本的に自分自身を認めることができていない。自分という人間を感覚的に分かっていない。世間的にみるとこういう人になるために生きている。親の理想のために生きている。「自分」じゃないんです。そうすると「自分」が基本なんだよ、というのをやらなきゃいけない。
 それが若手の社員さんに通用するか、というのはこれからではあるんですが。
 単純に面白いな、とは思ってもらえると思います。自分が本来どういう人間なのか、認める。

正田:ただ、そういったものは就職前のキャリアコンサルティングの中でやっているかもしれません、それでかえって頭でっかちになっているかもしれません。

広野:それとこれとは全然視点が違います。性格診断、刷り込まれたもの。
 刷り込まれたものというのは本来の自分ではないんです。「こうなりたい自分」が「そうでなければならないと思っている自分」。
 そこを分かってもらうためにもうちょっと掘り下げて、元々の特性というところから見てもらわないといけない。
 でないと全然自分の特性と合わない職業を選んでしまうんですよ。

正田:はあ、例えば?

広野:例えば、「金融機関に就職できるのがすごい」と一般的に思われていると、計算が苦手であったとか銀行と合わない特性があっても銀行ばかり受けてしまう。周りからも勧められる。そうすると入ってから失敗しますね。
 本人がその仕事をみて「面白そうだな」と思ったからといっても、本人がイメージしている内容と実際入ったときの内容が違うんです。ほぼ違うんです。
 まあ、イメージしていたのと実際にやってみたら違うというのは別の仕事でもよくある話です。


■適性のない仕事についていたら


正田:今いるお仕事が自分に合ってないと分かったら、どうしたらいいんですか?

広野:思っていたのはこうだけれど、実際はこんなものなんだな、というところからスタートしたほうがいいと思います。でも「こうに違いない」と思っていてそれと違うと失望するというのは、土台がないからなんです。こういう(思い込みの)枠があって、その枠に現実がはまらなかったら不安でしょうがないんです。

正田:ある程度大きい会社だとその中に色んな部署があって、営業かもしれないし総務かもしれないし製造かもしれない。どこに行くか自分で決められるわけではない、という場合は?

広野:研修期間は、まあまあ研修なのでお勉強としてできてしまうとして、そのあとどこかに配属されると、何か「違った」というのが出てきますね。
「会社の理念がすばらしいと思ったから入りました!」となっても、現場がみんな理念に基づいて動いているか。実際入ったら色んな話が出てくると、「思っていたのとは違う」と思ってやる気を失ってしまう。
 その状態を受け入れて対応していく力というのがないと、お仕事って難しいと思います。
 それを何とかしようと思ったら、本人にしっかり見通しをつけてもらうとか、見通しを説明してあげるとか。
 そこができないでいると、仕事ができるできないに関わらずどんどん本人さんのモチベーションが下がっていって、それにさらに場の空気が読めないということが加わったりすると、もうそこにいること自体に意味が感じられなくなって辞める、ということになると思います。
 完全にその業務ができないで辞めるのであれば、合わない仕事についちゃったかなと思うんですけど、そこで「でも頑張ってみよう」と思えるかどうかというのは、その人が本来持っているエネルギーとか本人自身の適応能力によりますね。
 そこで自分を客観視できて「自分はこういう風に頑張っていこう」という見通しがつけば、やっていけると思います。
 上の人に認めてもらって、フォローしてもらって、客観視と見通しの力をつけていかないと、なかなか今の若い人たちは難しいのかな、と思います。
 
正田:本当に今、大人世代は若い人の難しさがわかっていないところがありますね。本当に難しいです。
 今の若い人は(大学卒業の)22歳まで自分を鍛える経験をしてこなかったですよね。

広野:大学で本当にいい先生に出会って真剣に何かに取り組むという経験をしている人としてない人ではまったく違う。教育の問題だろうなと思います。
 教育がうまくいってないことの責任を会社がとらなあかんのか?と。

正田:そうですね。根源的なところだろうと思います。


■「強みを活かす」の限界 弱みの自覚の大切さ


正田:強みの概念を割と使うんですけれど、あれも程度問題ですね。
 先日もご相談いただいた話題で、すごくミスの多い人がいる。愛想はすごくいい、社交性がある。どうもADHD傾向があるのではないかと思うが、前の部署ではそのミスが多いということは全然言わないでこちらの部署に異動させてきた。恐らく、ミスが多いという事実を言ってしまったらどこも受け取ってくれないから、伏せていた。ずっと前の前の部署からそれを繰り返してきているだろうと。
 上司の方はその人の社交性の部分を何とか生かしたいので、今は事務仕事をしているけれど対お客様のサービス中心の仕事に回そうかと考えておられます。
 しかしそれも正解かどうか分からないんです。私から言ったのは、
「私は最近そういった、社交的だけれどミスが多い人に仕事で会ったんですが、対お客様の場面で『えっ、そんなことやっちゃうか』と開いた口がふさがらないようなことがあったんです。お客様に迷惑がかかる場面だったんです」
と。
「社交性が高いのを活かすといっても限界はあると思います。強みを活かすといいと言われてますが綺麗ごとの部分がありますよね。程度問題ですよね」と。

広野:私がやる強み弱みというのは、どちらかというと「凸凹」の「凹」のほうなんです。
 自分を受容するってどういうことか。強みを認識することではなくて、弱みを受け入れるということです。弱みを受け入れて初めて強みを発揮できる。
 弱みを隠したり弱みで迷惑をかけている状態で強みを発揮できるか、というと無理なんです。
 弱みを自分で認識して受け入れて、そこをカバーしてもらえるようなシステムがあったり問題にならないような仕事をさせてもらって、初めて能力というのは活かせるんです。
 弱みを隠したり必死で自分だけで克服しようと思ったりしているとダメなんです。
 私も数字に弱いのに秘書をやったりFPをやったりしましたが、ダメでしたもの(笑)やればやるほどドツボになる。最終的に鬱になって辞めました。
 そういうことではなくて、「これはできないんだ」ということを諦めて受け容れて、それをどうやってカバーしてもらえるか考えると、私ができないことをいとも簡単にできてしまう人がいるわけです。じゃあその人と一緒に仕事をして、お互いに出来ることをフォローしあってやっていけば、すごくいい成果が出る、とやっとわかってきたんです。

正田:それは実際に体験されておっしゃるとすごい重みがありますよね。綺麗ごとで言っていると入ってこないけれど。

広野:鬱で死ぬ思いをしてきたんで(笑)
 そこは、「強み」って言いますけれども、ですねえ。強みの殻でがっちり弱みの部分を隠している状態でも、それは能力を活かすことにはつながらない。総合的に会社に貢献するとか成果を出すということを考えると、そこは出来る出来ないを受け入れてほかの人と協力してやるということですね。

正田:友人にも「発達障害かな?」という人がいて当事者の会に一緒にいってみよう、と誘ったんですが来なかったですね。

広野:働いている人がちょっと会社で集まれるようなコミュニティというか場を作りたいなと。その方がそういう方は来やすいかもしれないですね。

正田:それはいいかもしれません。
 その人は「自分も発達障害なんじゃないか」と何度も言っているんです。私からみると多少考え方が硬くて、例えば「Iメッセージ」が言えない。「安心しました」「嬉しくなりました」とかを、言うべきときに言えない。



■感情表現(Iメッセージ)の壁を訓練で乗り越える


広野:そうなんだ。Iメッセージは、訓練ですけどね。私もかなり頑張りました。

正田:あ、そうなんですか。以前は言えなかったんですか。

広野:言えなかったですね、昔。
 まず結婚後DVを受けているときに、DVを受けていると知らなかったんです。

正田:なんで知らなかったんですか。

広野:例えば言われることが、
「お前は専業主婦でなんで1日片付けすらできないんだ」
「何やってるんだ」
「こんな家に帰ってくるオレの気持ちになってみろ」
とずーっと言われるんです。確かにそうなんです、それは事実なんです。普通の人はできることなのに私はできない。発達障害とわかる前は、私の努力不足だと。
 ただ、ADHDだと分かったのにまだ言ってくる。「これはでも脳機能の障害で」と私が説明しても、
「それは言い訳だ」
「お前はそういう言い訳をして自分のやるべきことをしていない」
とまた、畳みかけるように。
 それは正論を言っているように聞こえるけれども暴力なんだ、と初めて気づいたんです。

正田:サディズムが入っているかもしれないですね。

広野:そうなんです。
 会社でも彼はすごく頑張っていたらしいので、多分はけ口なんです。ずっとはけ口でいてほしいじゃないですか。でも私はずっとはけ口ではいたくない。そこでずれが生じてきました。
「私には確かにできないけれども、こういう風にしてくれればこういう風にできます、だからお願いします」
と言ってもダメ。だんだんキレて、暴れるようになってきました。
 で、「ああもう無理だなあ」と。
 私は元に戻りたくなかった、元に戻って大人しくしていたらずっと結婚生活が続いたかもしれないですけど。それはイヤでしたね。
 (ADHDという)理由があると分かったときに自分が不当な目に遭っているとわかって、じゃあそうでない関わり方って何だろう、とそこで勉強しました。
 それでアサーションを勉強し始めました。

正田:ああ、そこでIメッセージに出会われたわけですね。

広野:はい。同じ言い方をするのでも、「あなたはこうだ、ああだ」と言うよりも「私はこういう風に感じました」「こういう風に思いました」と伝えたほうが全然印象が変わるんです。言いたい、けれど相手を傷つけたくない。そういう伝え方を相当頑張ってできるようになったんです。
 それって、言い換えじゃないですか。頭の中で「変換」するんです。変換して出す、という訓練。
 1回それが上手くいくと気持ちいいんです。「ああ、これが『自分もOKで相手もOK』のやりとりなんだ」と実感すると。

正田:それは大変興味深いです。広野さんにとって、感情を表す言葉を見つけるというのはどんなことだったんでしょう。苦痛ではなかったんですか。

広野:DVを受けたときに自助グループに入ったんですが、「自分もOKで相手もOK」という関わり方が「ある」ということすら知らなかったんですよ。それでアサーションを勉強しないといけないかな、と思ったんです。
ところが、最初アサーションが失敗していまして、最初私はそこにぽんと受けに行ったんですけど、ものすごいトラウマになるほどきつかったんです。

正田:ああ、アサーションのやり方によってはきついといいますね。

広野:それが何故かと考えたときに、「自分を表現する」「自分を主張する」のがアサーションですよね。でも私には「自分」がなかったんです。自分の感情とか、本当はどうしたいというところがないんです。「ない」状態でそれをトレーニングしちゃったから、もう疲れてしまって、DVのフラッシュバックが起きて。
そのあと「フォーカシング」という手法に出会いました。自分の気持ちに焦点を当てて表現するというものです。たまたまカルチャーセンターで「自分の心の声を聴く」みたいなタイトルでやっていました。
まずリラックスを学び、心理学の基本的な講義もあり、その中で自分が今感じていることを感じ、表現する練習をします。
例えば
「胸のあたりに硬い感じがある。石のような」
「背中にすごく重〜い物が載っている」
それが究極何なのかは、分かっても言わなくてもいいし、それに対して自分はどういう言葉をかけてあげたらいいか。それに対して名前をつけてそれに対して自分で語りかける、ということをやる。それをしていると、「自分がどうしたいのか」という「感覚」が出てくる。
そういう「感じる」トレーニングを始めたんです。
そうすると、「そういうことをされたら、イヤだ」ということが分かってきました。

正田:イヤだって感じなかったんですか。可哀想…!

広野:そうなんです。全部が。
まあ、ひどいこと言われても当然な人間だと思っていたし、そのことに対してNOと言ってはいけないんだ、という感覚でした。そこを変えていくことができました。

正田:ラッキーでしたねえ。

広野:すると今度は、発達障害の人がアサーションを学んでいくにはどうしたらいいかを考えて「発達障害のためのアサーショントレーニング」というのを自分で作ったんです。
 健康な人向けのプログラムでそのまま上手くいけばいいですけれど、アサーションの歴史を辿っていくと、精神疾患のある人が自分を表現してそれによって回復していくというのが一番最初にあったようなんです。だから「健康な人」というところから少し引いて、自分自身が何なのかわからないような状態の人から出発して心理教育をして、そこまで持っていけるようなプログラムじゃないと。発達障害の人はそうじゃないと私が最初そうだったようにバタバタ倒れるだろうな、と。

正田:それはとても正しいと思いますね。
 以前にフェイスブックのお友達がシェアされた記事によると、ASDの人に向けてスキルトレーニングを先にやってはいけない。ASDの人にとっては感情の発露、感情の表現がまず最初に必要なのだと。

広野:あとは、何かをできないからといって人格とか価値が否定されるものではない、「人権」というところから入る。そこを知らないと、「自分みたいな人間は生きていないほうがいいんだ」と思っていたりします。そこまでやらないと、アサーションが目指すような「お互いがOKな関係作り」というのは難しいと思います。
 根幹にある自己否定感から、自分の存在に対する不安感を認めてあげてそこから改善していかないと、その上にある「強み」と一見思われるプライドの鎧のほうが無くならないんです。
 そこは通常の普通の人に対するプログラムでは、対応が難しいと思います。

正田:今、広野さんとお話していてすごく風通しのいい人だなとかお話していて楽しい人だな、と感じるんですが。

広野:だからむしろガッチガチに固まって何にもできていない人の気持ちもすごくよくわかるんです。でもそれを変えることができると思える、自分が体験しているから。
自分のダメだった経験が活かされるわけじゃないですか。それがすごく有難い。本当に辛かったんですけど、「あれがあったから、今これができる」と思えるんです。
皆さんに楽しくお仕事してもらいたいですね。



広野ゆい氏にきく(2)発達障害者マネジメントの「困った!」問答


1.「一律」になじまない現実と付き合う
■メンタルヘルス問題に「発達障害」の視点がない
■「軍隊式マネジメント」はなぜ存在するか
■5Sに「発達障害」の視点を入れると
■全体の質低下を防ぐには
■「発達障害」と昇進昇格と嫉妬


2.「弱みの自覚」のむずかしさと大切さ

■自己診断にチェックリストは有効か
■若い人の成長過程のむずかしさと自己認知
■適性のない仕事についていたら?
■「強みを活かす」の限界 弱みの自覚の大切さ
■感情表現(Iメッセージ)の壁を訓練で乗り越える


3.発達障害者マネジメントの「困った!」問答

■管理職研修と発達障害
■ASDの人の固定観念と性バイアス
■ADHDは薬で改善されるか
■告知はどんな言い方が有効?
■ADHDの人が自己判断で仕事をしたら




100年後に誇れる教育事業をしよう。
一般財団法人承認マネジメント協会
http://abma.or.jp


 広野ゆい氏(NPO法人発達障害をもつ大人の会代表)に2回目のインタビューをさせていただきました。


 発達障害をもつ人とマネジメントの問題、実はだれにもひじょうに身近な問題でありながら、まだ答えはありません。発達障害者を支援する側の人の守備範囲は「就労」にとどまっている感じです。その先は、仕事の場を預かる(経営者を含む)マネジャーたちにゆだねられています。

 
 今回は、昨年10月に行ったインタビュー(同11月8日ブログ掲載)よりさらに細かいところの現実に起こっているちぐはぐさとそれに対するノウハウについて、少し突っ込んだことをお伺いしました。


 広野さんが当事者の会を運営しながら培ってこられたノウハウ、実際の企業の中に点在するノウハウを突き合わせて現場の方にいくらかでもヒントになれば、と願います。

 

広野ゆい氏にきく(2)発達障害者マネジメントの「困った!」問答


1.「一律」になじまない現実と付き合う
■メンタルヘルス問題に「発達障害」の視点がない
■「軍隊式マネジメント」はなぜ存在するか
■5Sに「発達障害」の視点を入れると
■全体の質低下を防ぐには
■「発達障害」と昇進昇格と嫉妬


2.「弱みの自覚」のむずかしさと大切さ

■自己診断にチェックリストは有効か
■若い人の成長過程のむずかしさと自己認知
■適性のない仕事についていたら?
■「強みを活かす」の限界 弱みの自覚の大切さ
■感情表現(Iメッセージ)の壁を訓練で乗り越える


3.発達障害者マネジメントの「困った!」問答

■管理職研修と発達障害
■ASDの人の固定観念と性バイアス
■ADHDは薬で改善されるか
■告知はどんな言い方が有効?
■ADHDの人が自己判断で仕事をしたら

ききて:正田佐与



広野ゆいさんプロフィール

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NPO法人発達障害をもつ大人の会(DDAC) 代表
子供時代から、遅刻、片付けができない、周りに合わせられないなどの特性があり、忘れ物の女王、遅刻の帝王などと呼ばれながら学生時代を過す。専業主婦であった28歳でうつ病、31歳のときADHDと診断される。2002年に大人の発達障害のグループ関西ほっとサロン、2008年4月に「発達障害をもつ大人の会」を立上げる。現在は発達障害当事者の立場でキャリアカウンセリング、教師や専門職向けの講演、成人当事者向けの片付け・金銭管理セミナー等も行っている。
S47年生まれ。青山学院大学卒。ICDSキャリアコンサルタント。2級FP技能士。
NPO法人発達障害をもつ大人の会(DDAC)HP http://www.adhd-west.net/


広野ゆい氏にきく(2)発達障害者マネジメントの「困った!」問答


1.「一律」になじまない現実と付き合う

■メンタルヘルス問題に「発達障害」の視点がない


正田:引き続きよろしくお願いします。
 今年12月から施行される改正労働安全衛生法で従業員50人以上の企業でメンタルヘルスチェックが義務化されますが、まだ「発達障害」の視点はそこに盛り込まれていないですね。
 2013年の暮れぐらいの「問題社員さんセミナー」の時点では、個々の表面的な問題行動とそれへの対応法は話されたんですがその背景にあるであろう発達障害やスマホ依存といったところまでは触れなかったんです。

広野:そうなんですねえ。メンタルヘルス(への配慮)が義務化されていくと、こういう人たち(発達障害やスマホ依存)の扱いをどうするか、というところの責任を問われてくると思います。そこをどう上手く扱っていくか。そういう意味では、意識が進んできたかな、と思います。

正田:そうですね。

広野:その新しいメンタルヘルス法の中にも「発達障害」の要素はないようです。何かが起きないようにストレスのチェックをすることが必要だ、ということまでは言っているんですが、それがなんでそうなるのか、という原因のところまでは行けてないです。
 やっと、これまでは産業医さんや精神科の先生でも全然「発達障害」の人を診れない人がほとんどだったんですが、メンヘル法の成立でそのへんが変わってくるかもしれません。
 フォローできる人材が少なすぎるということもありますし、基準がしっかりできてない。原因はそのへんじゃないかな、という気がします。

正田:不思議ですね、例えば正社員を辞めないでも雇用できる仕組みの必要性を提言される弁護士の先生もいらっしゃるようですが、「発達障害」ということは言われなかったんですか。

広野:やっぱり精神障害という括りですね。一回鬱になってリワークしてきた社員について、前みたいに働けなかったり心理的な負担が大きくなってしまうタイプの方などを想定してお話をされていたみたいです。
障害者雇用促進法に精神障害の人は盛り込まれてますが、雇用が義務化されるのは2018年からです。
それに鬱の人が精神障碍者として手帳をとるかというと、鬱になったからといってみんなが手帳をとるわけではないので、また別の問題が出てくるんです。
 手帳をとらないけれども、普通の人のように働けない人たちがいます。一つの事情としては発達障害のような背景があるでしょうが、何らかの精神疾患というだけでそういう状態になる方もいらっしゃる。
 その中で発達障害はまだ(注目されていない)ですね。

正田:精神障害の方のリワークの問題全体の中で発達障害かどうかという背景情報はまだ重視されていないのですね。

広野:(精神疾患の方は)戻るのに何年もかかるんです。一回脳が破壊されているので、仕事自体には半年―1年で復帰できるかもしれないですけれど、元のパフォーマンスになるというのは4−5年かかる。そうなると皆さんのようにバリバリ働くということは難しくなる。そして無理したらまた鬱に戻ってしまう。結局はそれで上手くいかないというケースが多いんじゃないかと思います。
 ですから、回復する前に回復したかのように周りが扱うとまた発症してしまう。リワークするとき、戻ったときがゴールではなくてそこから後が新たなスタートになります。しかしそこが多分できてない。
 ベースに発達障害があると、またもう1つ難しくなります。やっぱり「仕事が出来ない(業務能力が低い)」というのがありますので。


■「軍隊式マネジメント」はなぜ存在するか


正田:障碍者を多く雇用している企業で、意外に「軍隊式」という例があります。

広野:そうですね、結局は厳しくやれば何とかなるという発想ですね。

正田:ですね。

広野:東京のIT企業の特例子会社でも「軍隊式」をすすめている方がいて、予備自衛官をされているようでした。

正田:私、日本の製造業がなんであんなに「軍隊式」なんだろう、大声で命令するような指示の出し方をするんだろう、と考えるんです。ものづくりに就職する人に発達障害率が高くて、そういう人に適したコミュニケーションだ、と思ってやっているところがあるんじゃないか。

広野:そうですね。

正田:それが正しいというわけじゃないですよ。

広野:それよりはどちらかというと、沢山の人を一度に一律に動かして成果を上げるというのが多分軍隊式なんですよね。
 それがあてはまる人ばかりではなくて、発達障害の特性によってはそこ(軍隊式)からは外れてしまう。そうするとどうしてもそれに当てはまる人を選別されるし、枠にはまろうと無理をすれば不適応状態になってしまう人もいると思います。
 逆行している、と思いますね。これからもっと多様性を尊重したり、グローバルな会社を作っていかなきゃいけないときに。一律で、厳しく枠をつくってそこに当てはめていくというのは。軍隊式は一時的には成果が出るとしても、完全に逆行していると思います。

正田:私が想像したのは、「構造化」というのがありますね。自閉症やそのスペクトラムの人に対する手法で、明確なルールを提示してあげて混乱しないようにする。それが一部の発達障害の方にある程度有効だ、と思うと、どんどんそれが広まってしまったんじゃないか。

広野:そうですね…、確かにルールがあるということですごく安定するという側面はあるんです。あくまでも視覚的な認知の弱さを支援するためのもので、変化に対応できない部分はそれで対応できるんですけれども。
 でもそれをやればどんどん普通に近づくかというとそれはちょっと違う(笑)

正田:ストレスフルな環境に置いたら適応できなくなりますね。

広野:成果を上げられている工場が、ツールを決めて例えばカラーテープでしっかり囲ったりとか、みんなが使う道具は場所を決めてしっかり枠を決めて色分けしたりとか、そういうことをしているところが成果を出しているというのがあります。
 それは決して自閉症の人のためにやっているわけじゃないんです。みんながやりやすいように、と作ったルールなんです。誰にとってもその辺は、そうなんじゃないかと思います。

正田:その風景はよく見ます。きれいに色分けしたり、作業場と通路の床をテープで区切ったりしていますね。

広野:ああそうなんですか。やっぱりそこがきっちりしていると皆さんもやりやすいでしょうね。
 それはむしろ、「一律」というのが色んなレベルの人に対応できる。
 でも「軍隊式」というのは、そうではない。このレベルに到達させるための枠組み、みたいな。

正田:うん、うん。

広野:外れる人には優しくないですよね。

正田:ものづくりの場合、品質だけは譲れないというところがあるので、でないと「タカタのエアバッグ」のような問題が起きてしまいますから。そこをまずクリアしてくれる方をまず採用したうえで、おっしゃるような配慮をする、という感じになりますね。

広野:そうですね。
 基本、問われてくるのは作業スピードであったり、作業内容的なもの。そういう意味では「一律」でないと逆に製品にならないですから、必要なことかなとは思いますね。


■5Sに「発達障害」の視点を入れると

正田:「5S」は発達障害が関わりやすい場面で、「全員一律にこうしよう」とすると中にはその通りいかない人が出てきますね。
ある工場では、社員さんの中に、手に持った工具などをあちこちに置き忘れちゃう人がいるんだそうです。いくら言っても毎日のようにどこかに置き忘れる。
 そこで、「これは発達障害のケースかもしれない」と思って、
「ご本人さんの努力を求めるよりも、ほかの方が気付いたら元に戻してあげるという形でちょっとやってみていただけませんか?」
と、わたしから言ったんです。
 すると、
「それは違うと思う」
と言われました、社長さんが。
 えっと思ったんですが、その置忘れの人は結構職位が高い人なんです。課長さん。全体としては仕事ができる人だと周りに評価されているけれど、その工具を置き忘れることだけは無くせないと。
 前回のインタビューの中でお話いただいた、「その仕事の本筋の仕事ができている人」というケースだと思うんです。
 朝礼で置忘れの件数をみんなの前で指摘して、それでその人が自分で頭をかいて戻しに行く、毎日そんなことを繰り返しているんだそうです。
「あ、なるほどな、職位の高い人だったらそれでいいか」
と思いました。

広野:うん、うん。そうですね。

正田:その後また社長さんにおききしましたら、加工して作ったあとの製品がその置忘れの彼の現場では機械の周りに散らばるんだそうです。それを、自分で工夫して周りを壁で囲ったりして散らばらないようにしたので、散らばりが改善していると。ああ優秀な人なんだなあと。

広野:うんうん。
 そうですね、結構賢い人は自分で環境を整えたりシステム化したり、というのが出来るんです。それはその人自身が地位が高かったら許されるかもしれないですね。勝手にパーティションを作ったりするのは、下っ端の立場でやると怒られそうですが(笑)
 逆に、そういうことはその人に率先してやってもらったらいいですね。それをみて「ああ、そういうふうにしていいんだ」「許されるんだ」という空気ができます。

正田:そうですね。

広野:やっぱり本人さんがが気づいて改善してもらうためには、周りもそれを「責めない」という空気が大事です。責めないで「あ、これ出来てないね」と指摘だけすれば、「あ、直さなきゃ」と頑張って直すようになるんです。否定されたり叱責されたりすると、それが人格的な攻撃になっちゃう。するとエネルギーがどんどん無くなってしまう。対処ができなくなるんです。

正田:うん、うん。

広野:指摘はどんどんしてあげて欲しいんですけど、そこに人格否定的な要素を入れないというのは大事です。
 そういう人もいる、という理解ですね。基本的に、それがその人の「素」なんですよね。「素」を否定されるって非常につらい(笑) 「素」がそうなんだと認めたうえで、仕事上の支障が出るようだったら、何とか本人もカバーするということで補う、みんなも補う。それはその人だけじゃなく、ほかの人のそういう出来ないこともカバーしようという空気ですね。そういうものが出来るかどうか。
 だから、その人だけが許されちゃダメなんです。似たような別の人も許されないといけない。
 偏りが強い人でも弱い人でも適用できるような改善システムを職場全体で作る。「この人はできないからやらなくていい」「でもみんなはやらなきゃいけない」ということにすると、(自閉症)スペクトラムの中間の人がやりにくくなりますね。
 そうではなくて一番大変なこの人が出来るシステムをみんなに適用することで、みんながやりやすくなるように。
 そういう事例は実際にあるんです。
 例えば、情報伝達の仕方を口頭だけではなく、決まった事柄をメールにしてみんなに回すということを徹底した会社があるんです。そうすることでほかの人も抜けがなくなって全体が環境改善できた、という事例です。
 ですからその人だけを、ということではなくみんなが、ということが大事なのかな、と。

正田:なるほど。
 置忘れが時々ある、という方が、逆に自分の強いことを活かしてほかの方の苦手なことを補ってあげれればベストですね。意外に自然にそういう形になっているかもしれないですね。




■全体の質低下を防ぐには


正田:ただ、発達障害のある方の抱える困難が一様ではないですから、その困難に合わせてみんなのシステムを変える、ということができるかどうかはケースバイケースかもしれないと思います。
 もう1つ別のケースがあります。これは困っているケース。
 これもものづくりなんですけど、休憩時間を不規則にとってしまう人がいます。仕事の手は早いんですけれども、勝手に休憩をとってしまう。午前1回、午後1回の決められた休憩時間以外の時に、屋上にタバコを吸いに行ってしまう。集中力が長く続かないようです。
 その人が親分クラスなので、子分がゾロゾロついて行ってしまう。会社の半分くらいがタバコを吸いに行く。上司は「こんなところをお客さんに見られたら大変だ!」と人々をかき集めて職場に戻している。そこへ不満が出て「なんで彼だけが仕方ないんだ」「なんであの人だけが」という話になる。

広野:そうですよね。
 それは本人にちゃんと事情を説明してわかるかどうかですよね。
 そんなふうにみんなが(タバコを吸いに)行ってしまうと、お客さんが来たときに休憩時間でもないのに誰もいない、これは客観的にまずい、ということを一緒に考えてもらったら。
 
正田:おっしゃるようなトークを上司がしてみたら、本人は「会社には勤めてやっているんだ」という口のきき方なんだそうです。

広野:そしたら、ついて行っちゃうほかの人にも問題がありますね。「この人はこういう考えだけれどもほかの人も同じ考えなの?」と。
 その人が社長だったらしょうがないかもしれない。社長ではないんですから、勤務態度ということでいうと、マイナスですよね。勤務態度でマイナス評価になる、損をする、ということで考えてもらって「休み時間ではないから、行きません」って本当は言ってもらわないといけないですよね。
 結局は長い物に巻かれるとか、正しい正しくないよりもそっちについておいた方が楽だ、とか。そういう流れがあるわけですよね。
 そこは、特性の問題ではないですよね。意識の問題かもしれない。

正田:現実にあります。1人の「自覚してない発達障害」らしい人がその職場の空気を作って、周囲の人を巻き込んでしまい仕事全体の質が低下するという問題。
 そうすると、「その人は障害だからあなたがたとは違うんだ」というレッテル貼りが必要になってくるんでしょうか?

広野:その人だけが許されるより、許されないほうがいいんです。それは会社として認められないと。それでもやるんだったら勝手にやりなさい、だけど評価は下がりますよ、と。
 それが分かった上でそれを本人も選択するのであれば、それは別の問題で。

正田:それは巻き込まれて一緒に問題行動をとってしまう周囲の健常な人に対して、ということですね。

広野:そこはビッシリキッチリ、やったらいいと思います。

正田:その人にだけ認めるというのはやらないほうがいいということですか。

広野:やらないほうがいいと思います。
 それはダメなんだけれど、マイナスになると分かっていてそれでもやるのならどうぞ、という。給与が下がってもいいのなら、仕方ない。

正田:その本人は工場でもリーダー、係長級ですけど、リーダーから外した、というところまできいています。

広野:そうですよね。ついていく人も、そういうふうになるよ、という話じゃないですか。



(正田注:1つ前の項目とこの項目で二通りの考え方が出てきました。
「当事者が許されるならほかの人も許されるような当事者の困難を基準にしたシステムを作る」

「当事者にだけ許すべきではない」
と。
 これが、常日頃考える
「当事者の抱える困難と仕事のルールをどう整合するか?」
「仕事の質の低下をどう防止するか?」
という難題のひとつです。
 時折、「すべての指示をメールで視覚的にわかるように発信するようにした」といった、整合の成功例はありますが、そのやりかたが「つかえる」場合とそうでない場合があるのです。非常にケースバイケースの判断になり、だれがそれを判断するのか、という問題も出てきそうです。結局5-10名程度の中小企業なら社長さんが感度のいい人であればすべての人に大きな不満の出ないやり方が自然と編み出される、という感じでしょうか。
 そう言っているうちに平成28年4月には「障害者差別禁止指針」と「合理的配慮指針」が試行されます)


■「発達障害」と昇進昇格と嫉妬


正田:発達障害の人の昇進昇格についてのケースをご存知ですか。

広野:自分より下の人とか同じ立場の人にはものすごく嫌なヤツ、という人だと昇進はしますね。

正田:嫌な社会だなあ(笑)

広野:上の人に気に入られるという要素が大きいですね。同じタイプの上司の人に気に入られるとか。何かで爆発的な成果を出して評価されることによってとんとん拍子で行ってしまうとか。そういうことで昇進してしまうことは珍しくないですね。

正田:上司は何を思って昇進させるんでしょうか(笑)

広野:今の企業さんをみていると、「気に入る」とか「気に入らない」だと思うんです。成果を挙げていて、気に入るかどうか。のような気がします。
 そこで特性的なものをみてバランスをとったり、自分と似たタイプの人ばかり引き上げるのではなくて、会社にとってどんな人材が必要かまで考えて昇進させないといけないですね。
 結局、人の見方が分からない。数値化は色々とされているとは思うんですけれど。その状況で成果が上げられるとして、では別の状況では成果は上げられるか。「これができるから、こっちもできるだろう」という考え方で人事をしてしまうと、ちょっときついですね。

正田:昇進昇格に絡めた嫉妬、という問題についてお尋ねします。
特例子会社さんで、発達障害の非常勤の人を常勤に昇進させたいが、周りの人がどう思うかわからないというご相談がありました。
 同僚の中からある人を昇進させるとき、「なんであの人だけが?」という反応がすごく強く出る可能性がある。どうも、発達障害の方には定型発達者以上に「不公平感」という感情が強く働きやすいんじゃないか、と。

広野:昇進させることは、逆にいいと思うんです。その人が常勤になれば、ほかの人もなれる可能性がある。
 その人だけが特別で、あとの人はまずなれないだろうとなると困りますけれど。

正田:仕事の能力は今いちなんだけれど、「不公平感」の問題で主張する傾向は強い、という方が2.3いらっしゃるみたいなんです。

広野:なるほど。ではその方々は、「仕事はできない」ということは自覚されてないんですか。

正田:能力について監督者から正確なフィードバックはしているはずなんですけど、単純作業で入力の仕事をしてもらってミスを指摘して、という。

広野:なるほど。その優秀な人は常勤になると、周りの面倒をみるというお仕事自体は増えますよね。

正田:そうです。

広野:周りの面倒をみるという部分があるからこの人は昇進できたんだと。「それをやるためにはこういうことやこういうことが出来なきゃいけないから、やっぱりそれが出来る人じゃないと常勤の立場にはなれないんだよ」という説明があれば、納得するかもしれないですね。
まったく同じ仕事をしていて1人だけ昇進させたら、不満が出ると思います。
 でも、不満を言う人には言わせておいたらいい、という気もしますが。何をやっても不満は出ますから。

正田:そうですね。
 ほかの職場で、かなり自己愛の傾向がある発達障害、と思われる方が課長に昇進しているケースがありました。上司はご本人の能力が足りないことや現実ばなれして自己評価が高いことはよく分かっているけれど、昇進意欲はとても高い人なので、昇進させれば「地位が人を作る」で本人も満足して能力も向上するか、と昇進させたそうです。
 結果的には能力が足りないのは同じで、周囲から「なんであの人が」と不満の種になっているという。

広野:そうですね、その昇進は間違った解釈かもしれないですね。多分永遠に「もっと、もっと」と欲が湧くタイプだと思うので。
 それよりも、自分の目指すところと実際とズレがあるということを分かってもらえるような教育が必要ですね。気づいてもらう自己認知の力を高めてもらうことが必要。



(正田注:あとでも出ますが、やはり「あなたはこの仕事のこの部分ができていない」という正確なフィードバックがすべての基本のようです。そこができて初めて昇任昇格の話もできますね)


広野ゆい氏にきく(2)発達障害者マネジメントの「困った!」問答


1.「一律」になじまない現実と付き合う
■メンタルヘルス問題に「発達障害」の視点がない
■「軍隊式マネジメント」はなぜ存在するか
■5Sに「発達障害」の視点を入れると
■全体の質低下を防ぐには
■「発達障害」と昇進昇格と嫉妬


2.「弱みの自覚」のむずかしさと大切さ

■自己診断にチェックリストは有効か
■若い人の成長過程のむずかしさと自己認知
■適性のない仕事についていたら?
■「強みを活かす」の限界 弱みの自覚の大切さ
■感情表現(Iメッセージ)の壁を訓練で乗り越える


3.発達障害者マネジメントの「困った!」問答

■管理職研修と発達障害
■ASDの人の固定観念と性バイアス
■ADHDは薬で改善されるか
■告知はどんな言い方が有効?
■ADHDの人が自己判断で仕事をしたら




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 こんにちは。
 一般財団法人承認マネジメント協会の正田です。
 急に冷え込み花曇りとなりました。お変わりなくお過ごしですか。

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 本日の話題は:

■「5S」の次の一手は―楽しく進化し続ける受講生様に畏敬の念。

■読書日記:「ヘーゲル承認論」の歴史観 「承認をめぐる命を懸けた闘争」

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■「5S」の次の一手は―楽しく進化し続ける受講生様に畏敬の念。

 先週は、昨年11月に奈良県中小企業団体中央会様で「承認」「傾聴」「質問」3回の研修を受講された、射出成型・ブロー成型のものづくり企業、成和樹脂工業株式会社さん(奈良県香芝市逢坂、従業員10名)をお訪ねしました。
 同社の中村隆一社長(65歳)自ら受講され、研修のあいだも渾身の力で「とりにきて」くださったのがわかりました。
 直後の12月には、研修で学ばれたことを活かして長年の課題だったという「5S」に取り組まれ、いきなりの進展でした。
 そして今年に入ってからは…。
 社員さんの元気ぶり、十分にお伝えできていますでしょうか?
 成和樹脂工業さんの記事はこちらです↓↓↓

◆「5S」の次の新たな化学変化「社員同士ほめるようにしたんですよ」―成和樹脂工業さん(奈良)をお訪ねしました
 http://c-c-a.blog.jp/archives/51910630.html

※この記事の中では、「わたくし正田がなぜ今のような仕事(マネジャー教育)をするようになっているか?」というお話もちょっとご紹介しています。ご興味のある方は、ご覧ください。
 

 前号(3月17日発行)でご紹介したこちらの記事も、その後も高いアクセスをいただいています。
 フェイスブックの1人のお友達からは、
「私は福祉でこれをやりたいんです!」
と、レスポンスいただきました。

◆「1年生にお造りをつくらせた 老舗旅館厨房ものがたり―松岡兼司さん(有馬温泉料理長)
http://c-c-a.blog.jp/archives/51910143.html

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■読書日記:「ヘーゲル承認論」の歴史観 「承認をめぐる命を懸けた闘争」

社員さんの成長と会社の幸せな変化の記事のあとに、物々しいタイトルの記事をご紹介してしまいます。
「承認」という言葉はまだ耳慣れず、リーダー研修のタイトルに出てきても違和感のあるかたもいらっしゃるかと思います。
ところが、本来は今の国家や法体系のもととなる考え方だったのだ、というとちょっと印象が変わってくるのでは。
「ヘーゲル承認論」の中でも中心になるところ、「承認をめぐる闘争」を(あくまでダイジェストで)ご紹介します。
のちにフランシス・フクヤマという人が、この考え方どおり実際に歴史が動いてきたのだ、という意味のことを言っております。

◆「承認をめぐる生命を賭した闘争」「主と奴」「自由主義社会と歴史の終わり」−ヘーゲル承認論

http://c-c-a.blog.jp/archives/51910832.html 

 なお言わずもがなですが、こうした「承認」をめぐる過去の哲学史をひもとかなくても、「承認研修」は楽しく学んでいただけます!また、そのあとジワジワと幸せな方向への変化を手にしていただけます。
 ただ何かの折、「『これ』はもっと大きな視点ではどういう意味があるんだろう?」とご興味をもたれた方にお送りしたいと思います。

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 さて、「ヘーゲル承認論」の「承認の原型は『愛』だった」というお話からすこし間があいてしまいました。

 あのお話で止めておくと簡単でわかりやすかったかもしれないですね。

 でも「ヘーゲル承認論」のもっとも有名なところは「その先」にあります。
 
 「承認をめぐる生命を賭けた闘争」そして「主人と奴隷の弁証法」です。


 もし「承認研修」をきっかけにこのブログの読者になってくださった方ですと、ヘーゲルのこのあたりの議論をブログでご紹介していると、「なんだこれ!?」と「引いて」しまわれるかもしれません。

 研修でしたお話とは似ても似つかぬお話ですし、「主人と奴隷」などは現代の何のメタファーなんだろう?と思われるかもしれません。


 当協会の「承認研修」では、ヘーゲルの考えた「承認」からはだいぶ趣がことなっていて、行為としての「承認」を扱います。そこでは現役マネジャーが実践に落とし込みやすいように「行動理論」の要素が入っていたり、「ミンツバーグのマネジャー論」の考え方も入っています。でお蔭様で「これは実際にできるようになるなあ!」と言っていただけます。ヘーゲルは「承認」が「ない」状態からどうやって「ある」状態にするか、という教育プロセスのところは考えなかったですからね。


 とりあえず今回の記事では、現実との橋渡しをあきらめてできるだけヘーゲルが考えた通りにたどってみたいと思います。

 ここでは、とうとう入門書の『はじめてのヘーゲル「精神現象学」』(竹田青嗣+西研、講談社現代新書、2014年3月)をテキストに使います。


****


 わたしたちは「自己意識」を持って世界と向かいあっています。しかし自己意識は他者関係のなかでは絶対的な自己であることができないのです。

 

「自己意識が本気で『自己自身』たろうとすれば、『相手の存在を否定することで自己の自立性・主体性を守る』という態度をとることになる」(前掲書p.63)

そこで「承認のせめぎあい」という状態が起きます。


「他者がいる場面では、自己意識は、自分こそ世界の『主人公』であるという意識を保てない。そこで、自己の『主人公性』、つまり絶対的独自性を保とうとすれば、自己こそ世界の中心であることを、自分だけでなく他者にもまた認めさせることが必要となる。

 この試みは、これを極端にまで追いつめるなら、他者との命を懸けた戦いへの意志として現れる。」(同、p.64)


 
 と、「承認をめぐる生命を賭けた闘争」となります。


 「ところが、もし実際に戦いの結果相手を殺してしまえば、はじめに意図されていた自己の自由の承認という欲望は、達せられない。死を賭して戦いあうことは、双方が自己の絶対的『自由』を守ろうとする意思の証しではあるが、相手が死んでしまえば、勝利者の『自由』を”承認”する他者はいなくなるからだ。」(同、p.65)

 と、戦って勝った人は負けた人に「承認される」ことをめざすのです。相手を死なせてしまうと、「承認」してくれる相手がいなくなります。そこで敗者を隷従させつづける奴隷制度のはじまりが起こります。あくまでヘーゲルがそう言っている、というお話です。

 ―ここは、「承認研修」がめざすところの「上司による部下への承認、そこから展開する認め合う組織」とは逆の、「上司はつねに部下に承認されている」という構図ですね。自然の重力にしたがうとそうなってしまいますね。

 そしていよいよ、「主(Herr)と奴(Knecht)」(主人と奴隷)の弁証法が出てきます。


 「承認をめぐる死を賭した戦いの結果、人間は主と奴に分かれる。両者の関係はつぎのようだ。

 まず戦いに勝利した主は、奴に対して絶対的な『自立存在』を保つ。つまり奴に対して絶対的な威力、『死によって脅かす威力』を振るい、このことで奴は主のために労働することを余儀なくされる。これが主の奴に対する関係の第一面だ。」(同、p.66)


 死を怖れた側が自分の自立性を放棄し服従し、奴隷になるのだと。

 すごく極端な話のようですが、べつのテキストによればこれは現代というより古代諸大国の始まりを言っていると考えればわかる、と述べています。古代ギリシャ、古代ローマ、あるいは秦漢・・・などを考えればいいのでしょうか。



 ここで、「労働」というものの重要さもヘーゲルは言っています。


「じつはこの関係において、潜在的には、かえって主のほうが非自立的であり、労働によって物(自然)に働きかける力を育てる奴のほうに、本来の自立性の契機が存在していることが、やがて明らかになる。

(中略)

 奴は自然(物)に労働を加えてこれを有用な財に形成し、生産する。この行為はまた、自分の欲望を抑制し、代わりに技能を鍛えることで可能となる。またそれは、人の生産と能力の持続的向上につながるものだ。

 この労働の能力こそ人間の自然に対する支配の本質力であり、奴は労働を通して力を身につけ、そして自分がこの本質力をもつことを直観してゆくのだ。」(同、pp,67-68)



 労働を通じて聡明になれる、というのは、数年前に流行った「意志力」や「ワーキングメモリ」の知見でこれらの能力は後天的に鍛えることができる、と言っていることを思えば多少はわかる気がします…


 さまざまなテキストをみるとヘーゲルやはりフランス革命(19歳の時)の影響は大きかったようです。当時大学内で「自由の樹」を植えてお祝いしたとか、ナポレオンのイエナ大学侵攻では「世界精神の勝利」と言ったとか、ラディカルな世界観のもちぬしです。

 ところが、1770-1831年の間生きたヘーゲルが構想したものは近代自由主義社会そのもので、階級社会の従属関係から法によって所有権を保障される(=法による承認)平等な社会への移行をいちはやく構想した人なのです。

 フランシス・フクヤマは1992年に書かれた『歴史の終わり』の中で、近代自由主義社会こそが人類史の終着点だ、人類史は最終的にもっとも矛盾の少ないほうが生き残るとヘーゲルは予見したと述べています。
 それはベルリンの壁崩壊直後の本だということを考えて多少割り引いて読まないといけないかもしれませんが。

 フクヤマによると、

「ヘーゲルにとって人類史の原動力とは、近代自然科学ではなく、また近代自然科学の発展をうながした無限に膨らみ続ける欲望の体系でもなく、むしろ完全に経済とは無関係な要因、すなわち認知(=承認)を求める闘争(他者から認められようとする人間の努力)にあった」。(『歴史の終わり』(上)、三笠書房、p.228)
 
と、ヘーゲルの「承認をめぐる生命を賭けた闘争」「主と奴」の歴史観を全面肯定したのでした。

**** 


 「承認をめぐる闘争」のところは、現実世界のあれこれを考えると正直、書くのがしんどかった部分です。
 そして本来はもっと原文(訳文)を引用しないといけないのですがやはり難解で…。


 現代はたとえば「自由主義社会」からはじき出された若者がISに取り込まれ、そこで自爆テロに従事させられるという、悲惨な現実があります。その「自由主義社会」はヘーゲルの構想したものと比べてどうなのだろうか、とも思います。
 

 現代のヘーゲル研究者ではA・ホネットという人が有名で、この人は「承認論」を「再配分」や「フェミニズム」の問題とも関連づけているようです。


 この人の文章も結構難解なのです。さあご紹介できますかどうか…。



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 18日、成和樹脂工業株式会社(奈良県香芝市逢坂、従業員10名)さんをお訪ねしました。


3中村社長


 こちらは、11月の奈良県中小企業団体中央会主催セミナー(「承認」「傾聴」「質問」各4時間の3回研修です)に社長の中村隆一さん(65)ご自身が参加され、宿題にデモンストレーションに、と大活躍されたところです。


 中村社長の宿題はブログ上部の「宿題一挙28例公開」↑↑↑ の一番目に載っています。

 「社長さんのされた宿題としては過去最高の実践です!!」と正田は絶賛いたしました。


 3回のセミナー終了後の12月に入り、中村社長は、長年懸案だったという「5S」に取り組まれました。社員さんと話して「5S自分の約束」を書いてもらって守らせるように。するとその行動が定着し、過去よりははるかに現場がきれいになったといいます。5Sには過去何度も取り組んでは挫折していた、ということです。

 きいていて「急進的すぎないかしら?」とハラハラしましたが、社長さん自ら「承認」に取り組んで1か月時点であると、社員さんのエネルギーも社長さんの求心力も上がっていて、はっきりした変化が創れたようなのです。


 セミナーから4か月、思い切って会社をお訪ねしてみると…。

 機械音の合間に社員さん方の元気のいいかけ声が響いています。
 少し早く到着したわたしに、社員さんが心優しく機転を利かせて社長さんを呼び出してくださいました。

 そして中村社長はまた、新たな取り組みをされていました。

「今年1月から『朝礼』で社員同士、ほめ合うようにさせたんですよ。
 まだ3か月の取り組みですが、以前よりはっきり社員がいきいき仕事をしているような気がします」

と中村社長。

「毎朝の朝礼とは別に、月に3回ほど大きな『朝礼』をします。毎月当番を決めて、その月の目標も決めてもらい、その目標のための話し合いをします。

 そこで先生から『ほめることが大事だ』と習ったので、社員同士がお互いのいいところをほめるようにしたんです。」

 ・・・えとえと、ほめるというかできるだけ「認める」という言葉を使ってるんですけど・・・


1


「ああ、そう『認める』ということですね。
 毎回の朝礼で社員2人が、それぞれほかの社員3人をほめるようにしました。だから毎回6人がほめられる側になり、1か月3回ですと18人がほめられることになりますね。」

 ほめる内容としては、
「○×さんが元気よく挨拶していた」
「よく整理整頓をしていた」
「連絡事項を細かく言ってくれる」
といった、その月の目標に即した内容です。


「『できるだけ具体的にわかるように』
ということも私からリクエストしました。
 ともすれば、『みなさんよく整理整頓している』といった言い方になってしまうんですけどね。
 『何月何日、○さんがどういうふうにしっかり整理整頓していた』とわかるように、と。」(中村社長)

 なるほど、それで「行動承認」の目指す「リアリティに軸を置く」ということができているわけですね。

「ほめられた社員がそのときどんな顔しているか、私はみていないんですけれど、あとあとの仕事ぶりはやっぱり元気がいいですね。
 また、ほめる側の社員についても、『この人はよく周囲をみているな』ということがわかってきますね」

「私は昔からノウハウを『盗む』んです、習った通りでなく、ハハハ」

と、オリジナリティを付け加える中村社長です。

 こうした受講生様のもとでのバリエーションは楽しいものですね。


 このあと1階のブロー成型、射出成型の現場を見せていただきました


2


 
 射出成型では車やフォークリフトのエンジンに入れるプラスチックの部品、それにラムネの栓など(写真)を製造していました。射出成型の独自の工夫により加工した栓が離れた形で成型されてくるプロセスはわたしなどには不思議の一言。最近は円安で急な発注がかかるときがあり対応が大変、とのことです。


 以前のお話にあったような、成型品の「こぼれ」は見られず、袋で受けるなどして改善されていたようです。


 「あそこはなかなか、ヤンチャな感じの社員さんが元気よく働いてますよ」

と横から入れ知恵していただいてお訪ねした成和樹脂工業さんでしたが、おっしゃる通り皆さんの元気な声かけの響く仕事風景と、それに早めに着いた来客のわたしのために社員さんがちょっと社長を呼び出してくださる、親切な機転が、わたしには「活気」とうつったのでした。


 中村社長、成和樹脂の皆様ありがとうございました!


****

 
 この日は別のかたからも、

「あのときのセミナーは役立っています。今でも研修資料を見ますよ。僕の仕事でいうと、周りの話が聴けるようになった。そして任せられるようになった。研修前より、はるかに」

と嬉しいお言葉をいただきました。

「同じような研修をその後も受けたんですが、正田さんのやられたことのほうが『深かった』。あとに残った。
僕、お世辞は言わないですから」

  3回のセミナーを通じて、もう1人のこれも「サムライ」風の現場マネジャーさんと2人1組でいらしたスポーツマンタイプの方です。

 普通なら「バーチャル」になってもおかしくない部署の方からこういうお言葉をいただけるというのは、大変ありがたいことなのです。



 そこで珍しく、「自分はどうしてこういう仕事になったのか」という話をいたしました。
 女性講師がマネジメントを教える、今でもやはり特異なことでしょう。
 そしてその部分をお話することはふだんあまりないのですが、


「私はもともとが人の話を聴くことが好きだったんです。通信社の記者をしていてもインタビューをするのは好きでした。
そこへ当時『コーチング』というものがはしりで出てきて、すぐ飛びつきました。
しかしやっていてすぐに、『これは個人契約でやるより現場のマネジャーさんが担い手になったほうがいいなあ』となりました。
そこに100人ほどのマネジャーさんのグループのまとめ役のような立場になってしまったんです。
そこで勉強会などをあの手この手とやっているうちに、それらの内容がマネジャーさん方にどう『落ちる』か、それを伴走型で体験することになりました。だから研修のその場だけのお付き合いではないんです、何年もにわたるお付き合いです。
そうしてどういう内容をやってあげると一番いい形でマネジャーさんの人格的成熟につながり、組織にも次々といい化学変化が連続して起きていく、というのがわかってきました。
逆に研修の内容とかやり方によっては『残念』な結果になってしまうこともある、『こういうことはしない方がいいな』ということもわかってきました。
それは40歳、50歳まで生きて来たマネジャーさんの人生の重みというのが元々ありますので、その人たちをある方向に『動かす』というのは大変なことですので…」
 
 
 まあ、要は正田はマネジャー経験もない一介の女性にすぎないんですが、しばらく「マネジャー」という存在と息長くお付き合いして試行錯誤したり観察を続けた結果が今の教育プログラムになっていて、それが結果としては成功している、ということなんですよね。


 その過程では既存の大手研修機関の教えに首を傾げ路線変更する場面もありました、色々みてくるうちにいわゆる「コミュニケーションオタク」「セミナージプシー」ではない人たちのうちに本当に有能なマネジャーはいて、するとそういう人たちに出会う確率を最大化するにはどうしたら、というのは今も悩みの種ではあります。

 また、近年では従来より強く「承認」のほうに舵を切ったときに、「年間業績向上8例」といった過去最高の結果になっている、また「心理学より実践倫理の性格が強い」といった言い方もし始めている、というのは少し長い読者の方だとご存知のとおりです。


****


 ヘーゲル語の「間主観性」という言葉に最近引っ掛かりを感じています。

 正田の独特の教えるときの語気、ときに「自信がないのではないか」と批判の種になる口調は、相互に「主観」をもった存在である講師受講生の間で情報を受け渡すときの「相手の主観」にたいする畏敬の態度なのではないかと、

 たぶん現場の上司部下関係とも厳密には少し違うけれども人一倍強い人格の「リーダー」が自分の主観の側から手を伸ばして受け取るために最適な強さを選んでやっているのではないかと。またリーダーが現場に帰って担い手になるときにもその「間主観性」の態度というのは役に立つのではないかと。

―「間主観」のところをひとによっては「共感」という言葉で言うかもしれませんが、わたしは「間主観」という「理性」ぽい言葉のほうがすきです―

 それは余談であります。「超人」ではない正田が不思議と人様に何かをお伝えできるのは何故だろうか、というお話。いまだ後継者のいない正田なので自分のノウハウらしきものをぼそぼそ書いています。

 
 ちなみに、今日の記事の冒頭で「社長さんにはむずかしいことだ」みたいな言い方をしたのは、恐らく経営者さんにとっては「理念を発信する」ということが大事な仕事であり、それにあたっては思い切って「間主観」ではなく「主観」に寄る、「主観」の幹を太くする、ということが必要になるのだろうと思うからです。

 ただ四六時中「主観」の世界に生きていることが正解なわけでもなく、自在に「主観」と「間主観」の間を行き来できることが経営者さんとしても理想なのだろう。その配分比に決まった正解はないのだと思います。



100年後に誇れる教育事業をしよう。
一般財団法人承認マネジメント協会
http://abma.or.jp
 

お世話になっている皆様


 おはようございます。
 一般財団法人承認マネジメント協会の正田です。

※このメールは、正田が過去にお名刺を交換させていただいた方・当協会のイベントやセミナーにご来場いただいた方にお送りしています。ご不要の方は、メール末尾にありますURLより解除ください。
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 本日の話題は:

■1年生にお造りをつくらせた 老舗旅館厨房ものがたり

■「聴いていない」は傾聴の問題なのでしょうか?

■読書日記:「ヘーゲル承認論」 「承認の原型は__だった」

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■1年生にお造りをつくらせた 老舗旅館厨房ものがたり

 昨年12月と1月の2回にわたり、兵庫県中小企業団体中央会主催「トップリーダーズセミナー」を受講された、有馬温泉の御所坊別館・「花小宿」の料理長兼責任者、松岡兼司さん(36)をお訪ねしました。

 旅館の厨房を舞台とした「今どきの若手」の成長物語。またそこで上司、お客様の役割とは…。
 「人の成長」のダイナミズムの中で日々の料理を作り、出す営みがドラマをはらんで続けられている、そんな景色をどうぞ、楽しんでください!!

 インタビュー記事はこちらです

◆「1年生にお造りをつくらせた 老舗旅館厨房ものがたり―松岡兼司さん(有馬温泉料理長)
http://c-c-a.blog.jp/archives/51910143.html

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■「聴いていない」は傾聴の問題なのでしょうか

 このところ「傾聴」に関する教育は普及しているようで、上手に相槌を打ちながら話を聴く人のことはよく目にします。
 ところが、そのことが次の段階の問題解決につながっていない、という現象もよく目にします。そこに関わるのは何なのだろうか、と考えるとき、「傾聴」ではない別の解に行き着きます。
 このところお出会いする心あるビジネスパーソンの方々からは大いに賛同していただきます。やはり、「事実」と「リスペクト」に軸足を置いた教育をしなければならない、と肝に銘じるところです。
 1つ1つ長くなりますがご関心のある方はご覧ください:

http://c-c-a.blog.jp/archives/51909764.html
http://c-c-a.blog.jp/archives/51909834.html
http://c-c-a.blog.jp/archives/51909993.html 

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■読書日記:「ヘーゲル承認論」「承認の原型は__だった」

前号(2月23日発行)からご紹介を始めた「ヘーゲル承認論」のシリーズです。

50過ぎたヘーゲル読みですので、むずかしい言葉は使おうと思いません(ヘーゲル自身は大変難解な言葉の使い手で、できるだけそれに巻き込まれないでいきたいと思います)

 シリーズ第3回では、「承認の原型は_だった」
 …だから、実は日本でもリーダーに対する「承認教育」のもとで12年も業績向上例が続き離職も防止できる、というのはある意味当然のことかもしれないのです…

◆「愛」から「承認」へ―ヘーゲル承認論―『承認と自由』(2)
 http://c-c-a.blog.jp/archives/51910094.html 

 前号記事に、わたしの尊敬する宮崎公立大学学長・林弘子先生(弁護士)より、
「ヘーゲル、大学院時代が思い出されます。しかし、素晴らしいです」とおほめの言葉をいただきました。ありがとうございます!!

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★今年の「新年のごあいさつ」を再掲します。

◇「12年1位」を達成したいま 2015年の願いとは―新年のごあいさつ(公式)
 http://c-c-a.blog.jp/archives/51905578.html 

◇ちいさな声でよびかける 心の友たちへ 新年のごあいさつ(私的)
 http://c-c-a.blog.jp/archives/51905431.html 


 
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※今年3月に書いて「下書き」にしておいた記事です。ヘーゲル承認論シリーズ、始めてはみたものの右往左往しています。


 さて、3回ほど「ヘーゲル承認論」を追ってきましたが、ここで「ヘーゲル」が哲学史上どう位置づけられているか、ということも、新しく出版された入門書をみておさらいしてみたいと思います。


『闘うための哲学書』(講談社現代新書)より。

「よく哲学史では『ヘーゲル以前』と『ヘーゲル以降』という言い方をします。ヘーゲルの哲学がヨーロッパの哲学の歩みの1つの到達点であり、それ以降はそれを踏まえて現代の哲学が展開されていく、という意味ですね。

 その区分が正しいかどうかは別としても、ヘーゲルの哲学がそれまでのヨーロッパの哲学の一つの完成体であり、ヘーゲル自身もそれを目指して自らの哲学体系をつくっていったということはありますね。」(萱野稔人)



 本書では対談者の小川仁志氏と萱野稔人氏がいずれも「私はヘーゲル主義者」と言っています。へ〜。このひとたちほかのスピノザとかカントのところでは「理性か、エゴか」で思い切り対立していたのに。

(ちなみにこの論争に関してはわたしは小川氏の「理性」派です。「理性」は個体差はあってもかなりの程度まで教育訓練可能であるからで、その適切な教育訓練が「ない」とか「破壊される」ことがむしろすごい問題だからです)


「ポストモダン思想ではヘーゲル哲学はとても評判が悪かった。まさに批判すべき対象、乗り越えるべき対象としてのみヘーゲルは言及されていました。

 たしかにヘーゲルは、先ほども触れたように、道徳的な押しつけに見えるところがなくはない。だからヘーゲル哲学の権力性を批判する人もかなりいました」(萱野)


 このあと小川、萱野両氏とも「でもヘーゲルをよく知らないで批判するのは、ばかばかしい」で一致します。


 「道徳的な押しつけ」は、ちょっと同意しますね…、
 ヘーゲルは「人格的相互承認」のある共同体を構想しますが、現実にそういうものが「ない」ときはどうやって「ある」状態にするの?という問いには全然答えていません。正田はそれを教育であくせくやっているわけですが、「押しつけ」られるわけではないので、「業績向上」とか「マネジメントが『らく』になる」という名目でお誘いするわけです(それ自体は誓って、うそじゃないんです)。そういう誘因がなかったら人を動かせないですよね。


 本書『闘うための哲学書』は、ヘーゲルは現実の観察に基づいて言っている部分と理想形を言っている部分と両方ある人だ、ということも言っています。さあ、何を観察したのでしょうか…。


 別の本『1日で学び直す哲学〜常識を打ち破る思考力を身につける〜』(甲田純生、光文社新書、2013年)では「フランス革命こそはヘーゲルが生涯かけて思索的に取り組まなければならなかった巨大な『現実』の代表的な一面であった」という中埜肇氏の言葉を引用しています。

 たしかに有名な「主と奴(主人と奴隷)の闘争」という論は、専制君主―労働者の対比で古代国家群の成り立ちを言っているようにもとれますが専制君主はあんまり頭を使わない、労働者は理性を働かせ労働を通じた自己実現をしているので賢い、ということも言っています。それは最終的にフランス革命のようなところに行き着くのだ、と暗示しているようにもとれます。

 ヘーゲルは19歳のフランス革命のときに学生同士快哉を叫び、37歳のナポレオンのイエナ大学入城のときも歓迎したのだそうで、当時としては結構ラディカルです。自分自身は身分制の中にいながらその先の近代国家を夢みていたかのようでした。

 それがマルクスにまで行ってまうやんけ、と言う人もいるでしょうがおそらくわたしたちの今住んでいる日本もヘーゲルの構想した国家像の延長線上だと思います。


 さあこのシリーズ、どういう落としどころになるんでしょうね〜。


 
(一財)承認マネジメント協会 
 正田佐与

 ここ数週間でブログに書いた以外にもたくさんのお出会いと感動、感激、感謝の場面がありました。


 諸般の事情でなかなかそれを言葉にできずにいます。本来のわたしであればその方々の人となりについて、文脈について、リスペクトを込めて延々と書き綴るところです。


****


 「バーチャル」になることのほうがはるかに簡単なこの時代において、「行動承認は真実ですね」というお言葉があちこちで聴けたのは、むしろ奇跡のようなことでした。


 せっかく一度伝えることができても、すぐ次の情報次の情報に押し流されていく現代です。


 


 「正田は生意気だ、傲慢になっている」
という声をきくときもあるけれど、

 わずか1回「経済団体主催セミナー」をさせていただくために、何回「自団体主催の事例セミナー」をしてきたことだろう、この12年。

 「セミナー」でなく「事例セミナー」と言っていることに注意してください。セミナー研修の実験室の場や、専門家との個人契約の会話空間の中で人の心にあれこれ手を加えるのは、技術的には簡単なことなのです。
 それに基づいて「組織」について仮説レベルのことを言うことも。

(「実験室の会話」という言い方は、行動理論家でアメフト常勝監督の武田建氏もよくしていました)


 そうではなくて、「事例セミナー」というのは、ほかの意味でも聡明なリーダーたちが一定期間確信をもってやり続け、その結果組織に無理なくよい方向への化学変化を起こし続け業績が向上した、それが続出した、ということです。

 …そういうのは「先験的にわかっている」タイプの人には一々言うまでもないのでしょうけれど。


 はたらく人たちの「現場」にひとつの手法が正しく落ち、よい方向への持続的な化学変化を起こし続けるためには、セミナー研修個人契約等の「実験室」を成り立たせるのとは質の異なる思考が要ります。多数の方式を横断的にみたうえでの効果発現メカニズムの見極めと副作用への配慮、そして教授法の工夫が要ります。それらの結実が「12年1位」とか「事例セミナー7回」になっている、ということです。


 それら事例セミナー開催のためにどれほどの労力と私財を投じてきたことだろう。そしてそれでもバーチャルな人々には「ぴんとこなかった」ことだろう。「これが決定打だ」とは考えず、腰の据わらないまま次の手法次の手法を追い求めてきた、アトム型自己観の人々が「永遠に拡大し続ける世界」を追い求めるように。

 それは、自分個人の幸福とか成功を考えたら本当にばかばかしい労力でした。生まれ変わったらもっと別の、人に侮られない仕事をしたい。

 それでも、「この手法」を伝えることでお客様に作ることのできる経済的精神的幸福には替えられないのです。


 
 「この手法」に親しんだあとの人の口から、よく「承認って、当たり前のことですよね」という言葉がきかれます。

 「この手法」で現に自分の会社を幸せにしている人でもあったりするのですが、その言葉はことわたしには、「承認欠如」の言葉として残酷に響きます。

 「当たり前」ではないはずです。上の世代から継承された価値観に当たり前に流されていたらこの人の会社の成功はありえなかったし、わたしは率先してそれに異を唱えるものとして普通の人なら浴びないはずの迫害や非難を浴びてきました。

 そして先にも書いた「1回の(あなたが参加した)経済団体主催のセミナーのために何回の事例セミナーをしてきているか」という問題であったり、またこの情報の多い、ともすれば「実験室レベル」の話に流されてしまいそうな時代に、ブログやメルマガで絶えずあの手この手と切り口を変えながら「この手法」にリーダーたちの心を引き戻しブレさせないようにしていること。

 「承認」がいくら再現性を持って生物学的その他あらゆる視点から正しいものであっても、わたしがその作業をしていなかったらこの人はブレていただろう。


 また、「教授法」の問題―、
 わたしは「弱い」と言われることがあります。過去に無数の心理学系のセミナーの類をみてきて、上手だと言われるそれらの先生方の手法とは意識的に一線を画してしまったところがあります。
 要は、
「実験室ではいくらでもディープなことエクストリームなこと非現実的にポジティブなことは言えるし、できる。でも現場に落ちるには何が大事かをみなければならない」
ということなんですが。
 逆に「正田の講師ぶり」を過去に高く評価いただいた英国の倫理学の教授とは、実は向こう式の「授業の相互評価」を担当する先生でもありました。そこで論理性客観性や「フェアネス」を担保いただいたようなものですが、それはさておき、最近ある受講生のリーダーの方から言われたのは、
「心地いい空間だった」
ということでした。これもなかなかに癖のつよい一家言ありそうな方だったので嬉しい評価でした。

 わたしなりに、自分が現場を預かるリーダーだったとして、こういう「決定的だ」と思える教育コンテンツに出会うとき、それをどんな先生にどんな口調で教わりたいと思うか。

 それは強引に押し流すタイプのものではないと思います。大風呂敷を広げたり、講師のナルシシズムが前に出たような強気なスタンスではなく、教えられたものであっても自分の判断を働かせたうえで「とりにいった」と感じるものでなければなりません。

 だから、リスペクトを基調とした一見こちらが「弱い」と感じられるような口調を維持しています。

 それを「弱い。この人ダメだ」と思うか、「いや、こういう語り口を介して真実に出会うことができてラッキーだ」と思うかは、その人の元々の頭が「バーチャル」か、それともこのブログが読者として想定しているところの「タフな実務家」かによると思います。
 その語り口を維持するがゆえに、実務家ではないタイプの人々からの攻撃にも遭ってきました。


ーここまで書いて気がつきました、これは二律背反の話なのだなと。
実務家に訴えかけたければ淡々と、「相手に判断させる」語り口で話せばよい、そうではないほうの人たちには「夢をみさせてあげる」あるいは「少々の矛盾をものともせず強気で押し切る」口調で話せばよい、あとのほうの話し方をすると実務家タイプの人たちは最初から「これは自分とは関係ない」と思ってきいているのでどのみち大きな波乱は起きないー

ー実務家タイプの人に語りかけるセミナー、研修をそうではない人も混じっているところで質疑も含めて成立させるにはどうするか?
そこは事務局の方々にやり方を一考していただきたいところでありますー



 だから、「これって当たり前ですよね」というひとは、自分が「これは真実だ」と直感できた理由であるところのその教授法が、講師の自己犠牲とひきかえのものであることを見落としています。


 わたしの心と身体の無数の痛みの上に、自分の人生を諦めた生き方の上に、その人の会社組織の成功や生き残りは載っています。
 それがわからない人は…。それは謝金とかの問題ではないのです。


****


 と、嘆き節のような内容の日記になってしまいましたが、、

 このところお出会いする、非常に世慣れた方々が、ここ数か月のわたしの決断の意味を行間から理解してくださることが、有難いと言わざるをえません。

 一度言葉にまとめておきたく思いました。

 その方々にはむしろ言うまでもないことなのかもしれませんが。

 深い感謝を込めて。



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 「人間の普遍的相互作用および陶冶(とうや、形成/教育、Bildung)のなかには相互的であるような承認(Anerkennen)がある」(ヘーゲル)


 すみません、かっこつけてしまいました。陶冶Bildungはビルドゥングス・ロマン(教養小説)のビルドゥングですね。



「先日、お造りを1年目の子につくらせたんですよ」


 12月―1月の兵庫県中小企業団体中央会主催の「トップリーダーズセミナー」に参加された、御所坊グループ「花小宿 旬重(しゅんじゅう)」の料理長、松岡兼司さん(36)からお話を伺いました。


11松岡さん3-1



「僕らの仕事は、お客様と向かい合って一瞬一瞬のことですからね」
「ブログ、携帯でブックマークして読んでますよ」


 このブログ上部↑↑↑にある「承認」宿題事例集の後半のほうに松岡さんの「旅館業」の事例があります。
 宿題はどの方もそれぞれに味わいがありますが松岡さんの事例は、お客様と直接向かい合う緊張感の中での部下の貴重なやりとりの一瞬を切り取った、ひときわ味わい深いものでした。

「『承認』にはまっています」
「わずか1週間の実践でしたが、顕著に違いがみられたので続けていきたいと思います」
と松岡さんは宿題に書かれていました。


 20代と見誤った風貌の松岡さんでしたが、実は5人のスタッフ(新年度から7人)を使う料理長さんで鎌倉幕府の時代から続く老舗旅館の別館「花小宿」全体の責任者。その中の「旬重」はカウンター中心の料理屋で、シックな空間。宿泊のお客様もここで食事されます。有馬温泉全体でもカウンターでお客様の目の前で調理するお店はここだけだそう。お客様はおなじみ様が多く、よく料理におほめの言葉をいただいたりお叱りをいただいたりもするそうです。





「僕は、若い子にどんどん『失敗』させるんですよ。『やってみ』と言って」

と松岡さん。

正田「えー、でも失敗して食材をだめにしてしまったら、ロスが痛くないですか」

松岡さん「痛いですよ。…食材で一番高いのはお造りですね。
お造りを先日、1年目の子につくらせたんですよ」


「ええー」

それには、わたしは心底びっくりして言いました。

「あの、三枚におろすのをですか。1年目の子って普通下ごしらえだけじゃないですか!?レストランの調理場って大抵そんなじゃないですか」


「ええ、見事に失敗しました。
お客様にお出しできないものになってしまったので、本人に『これどこが悪いんやと思う?』『なんでこうなったのか、考えてみ』そして指導していた2年目の子も呼んで、『これはなんでこうなったんやろ』。

2人とも大事な食材を残念なことをした、というのはよくわかったみたいでした。それはヒラメでしたけど。お造りには使えないので、焼き物にしました。

それで相当1年生の子も2年目の指導役の子も考えたみたいです。翌日にはお客様にお出しできるものをつくりました。」

 ひたすら舌を巻く正田。

「今の若い子は自分から取りに来ないじゃないですか。だからこちらからさせるんです。
 今月(3月)に入ってから、もうあと数週間で次の子が入ってくるので、1年生の子に『やってみようか』『いつやるの?』と言ってたんです」

 本当にダメだったら次以降つくらせないですよ、でもその子は次回ちゃんとつくれたので、と松岡さん。

「ほかのお店からみたら、『何やってるんだお前のとこは』となるでしょうね。でもいつかはやること、早いか遅いかですから」。


 そんなふうにして若い子たちにどんどん経験させるそうです。お造りをつくらせるぐらいなら、ほかに怖いものはそうそうないですね。早い段階での技能伝承、ものづくり企業でも話題になるところです。

老舗旅館の厨房、昔ながらのアゴで使う徒弟制度のイメージとはまったく違う世界があります。それはやっぱりこの世界では特異なことのようです。


 そして「グループ全体でも、僕の店は若い子が辞めてないです。ここ数年」(松岡さん)

 それは若い人の「成長したい」という欲求を満たしたら、今の若い人でも仕事のおもしろさに目覚めて辞めないということでしょうか。

 宿題でよい実践をされた人も、じっくりきいてみるともともとの育成センスの高い人だった、ということがあります。だから「承認研修」の手柄にだけできないのですが、ただ研修でしっかりした理論的根拠を与えてあげるとこの人たちもより力強く実践してくれる、さらにその先の四十八手を編み出してくれる、ということがあります。研修でできるのは結局それだけか、ということになりそうですが、わたしの駆け出しのころよりは明らかに高い確率で優れた実践者のかたに出会えていると思います。


 「ゆとり世代」、やはり能動的ではない面があります、松岡さんによると。

「お給料はもらえるものだ、お給料をもらってるから仕事する、と思っているところがあります、どうしても。僕は、『それは違うよ』と話します。『仕事がこれだけできるようになったから、これだけお給料を貰えるんだよ』と。それは昇給のときなどに言うとわかってくれますね」

 
 4月からはこの厨房に正社員1人、調理補助1人が入ってきます。


11松岡さん


「お店での僕の定位置はここ、おなじみ様の席はここです」(松岡さん)


 「失敗したりお叱りを受けたら責任は僕がとりますから」
という松岡さんの言葉が綺麗ごとにきこえないのは―本当はこれ以外に「叱った」エピソードもかなり伺ったんですが―現にお客様の前に立ち続けている人だからでしょう。
 

 3月11日の今日ですがわたしはこんな形でしか「いのち」を見つめることができません。そして現場にたつ受講生様方の優れた実践が、世界への信頼を取り戻させてくれます。


 松岡さん、「花小宿」のみなさんありがとうございました!



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 久しぶりに「ヘーゲル承認論」です。

 再度『承認と自由―ヘーゲル実践哲学の再構成』(高田純、未来社、1994年)より。

 ヘーゲル研究者の人は、「承認」に注目する人とそうでない人とはっきり分かれるんですね。20世紀初めの有名なヘーゲル研究者コジェーブという人は、文中で重要な語を太字にしてるんですが、「自己意識」という言葉は太字ですが「承認」は太字ではなかったりします。それはコジェーブ先生の趣味のようです。


 で1980年代から「承認」に注目した研究が出てきて、比較的新しい流れです。その中でやはり本書『承認と自由』が読みやすいです。


 若い頃のヘーゲルは「愛」をテーマとし、これがのちの「承認論」につながったようです。それもかなり若く、チュービンゲン神学校に在籍した頃(1788-93年、ヘーゲル18-23歳)。

「当時のヘーゲルは古代ギリシアのポリスを模範として、全体と個人、理性と感性とが調和した民族共同体の実現をめざした。」(前掲書p.31)

 それは当時のシラーら新人文主義の影響もあったようです。

「ヘーゲルは、諸個人を調和的に統合するうえでの愛の役割に注目する。…ヘーゲルは、愛のなかに、『他人における自己直観』という承認の原型構造を見出す」(同)

と、「承認の原型は愛だった」というお話です。これ、あんまり認めたくないですね。しかし現代の神経化学物質の知見から言っても多分ほんとうです。以前どなたかに「正田さんは『理性的な愛』というのをやっているんですね」と言われました。

 
 さらに、ベルン期(1793-96年、同23-26歳)には次の段階の思索。

「ヘーゲルは、いかに愛が少数者のあいだでの私的、閉鎖的なものにとどまることなく、多数者のあいだの公共的、開放的なものへ高まることができるかを問題とする。」

 その気持ちはよくわかりますね。
 やがて、ヘーゲルは「愛の限界」に気づきます。フランクフルト期(1797-1801年、同27-31歳)。

「愛はそれ自身では、社会的に開かれた共同体の原理となることはできないことに気づくようになる。…真の共同体が実現されるのは、多数の人々のあいだに平等、協力、連帯などが存在するときであるが、このような社会的、客観的条件は愛自身によって生み出されるのではない
(中略)
愛の承認は身近な人間の直接的コミュニケーションにもとづくものである。ヘーゲルは当初は、このような相互人格的承認にもとづいて社会的承認を理解しようとした。だがやがて、ヘーゲルは愛による相互人格的承認の限界に気づき、これから区別される社会的承認の独自のあり方への探究に向かっていく。」(
同p.42)


 なんで愛ではダメかというと、愛は自己献身、自己否定を求めるものなので、「闘争において示される自己主張、自己肯定が欠けている」からなのだそうです。

 愛だけだと「毅然」とできない、というお話でしょうか、またこのブログでよく出る「依存」を招いてしまうというお話でしょうか。

 1802年に書かれた『自然法』では、「共同体有機体論」というものが登場します。

「民族共同体は『人倫的有機体』であり、諸個人はその『器官』『分枝』であることが明確にされる。」(同p.47)

 ヘーゲルは全体主義者だと言われることもありますが、基本的に全体あっての個、という立場をとった人です。ヘーゲルの使う「自由」という言葉は本書によれば「自由自在」の「自在」にあたるといいます。普通に言われるところの「自由」が他人から制約を受けないという「消極的自由」だとしたら、ヘーゲルのいう「自由」は他人あっての自分であり他人の中に生きる自由なのだと。個人と他人は協働しあって生きるのが前提なのだと。

 なので、わたしたちがイメージするアメリカ的自由とヘーゲルのいう自由はかなり違います。

 以前大井玄氏の言う「アトム型自己観」と「つながりの自己観」を長々と考察しましたが、あれを一般には欧米と東洋の対比でとらえましたがヘーゲルも相当「つながりの自己観」の人でした。生物学者によると、こちらのほうが東洋西洋いずれでも正解なのだそうです。生物としての人間は他者のまなざしの中に自己を見出すものなのだそうです。


 ただ全体がすべてかというと、近代の共同体にとって個人の自覚や自立(「自己知」「対自存在」)が不可欠であり、個人のあいだの相互承認のいっぽうで個人の自覚によって支えられる、ということもヘーゲルは言っています。

 
 『イエナ精神哲学II』(1805-06年)では、愛の弁証法的構造が出てきて、愛が承認の関係であることが明言されます。

「人間は承認されることを必要とする。この必要性は人間自身の必要性である」

 
 さて、こんなにヘーゲル世界に入っていると、こうして「承認」を「所与」のものとして明言する彼の論法に巻き込まれてしまいそうです。イエナ大学時代、結局ヘーゲルは承認論のご同業フィヒテともシェリングとも同僚だったんです。どんな日々だったのでしょうね―、

 ただここで言っていることは現代のさまざまな知見から言っても決して間違ってません。非常な先見性だったといえます。


 このあとは「承認をめぐる闘争」や「法、国家による承認」にも触れたいと思います。


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 ひょうご発達障害者支援センター・クローバーの和田康宏センター長をお訪ねした。

 職場での未自覚の当時者に対する告知の問題、医療機関の問題などをお話いただいた。


 「事業所からのご質問が集中するのは、大体その問題です」

と和田センター長。

 最近では、「中小企業家同友会」に招かれて講演し、社長さん方からの質問の集中砲火に遭われたとか。


 そういう時代に入ったのだな。

 だから、正田が研修中に「発達障害」という言葉を使うのも、そろそろエクストリームではなくなりつつあるのだ。


 中小企業で4〜5人ぐらいの規模のところだと、この問題がどんなに切実か想像がつく。切迫感を持って質問してくる社長さんの気持ちもわかるし、質問されて往生する和田氏の立場もわかる。

 ただ、なんだか意味のわからなかった問題に名前がつく、というのはそれだけでストレスの軽減になるだろうという気がする。あと「承認」にとっては少し応用編の問題ではあるが、やはり「承認」の大原則のもとでこの問題をみたほうがいいだろうとも。


 告知というかクローバーさんに連れてこられただけでひどく不機嫌になる当事者の方のケースがあるのだそうで、やはり職場での告知というのは難しい問題のようだ。

 「仕事ができていない現状を正確に伝える段階が大事」

と、和田センター長は強調されていた。


 正田の実感値「職場のほぼ1割は発達障害かそれに近い、指示を出すのに特別な配慮が要る人なのではないか」には、そんなに間違ってないようです。


****



 精神医学や心理学の分野の人でも、「発達障害」のことがわかるのはごく少数派です。ほとんどの人は知らない派です。

 しかし今精神医学や心理学の過去の疾患分類とか切り口がどんどん「発達障害」の登場によって塗り替わっているときで…、
 残念ながら専門家はそこについて来れてない人が大半なんです。

 そして例えば中小企業の社長さんとかのお悩みは深刻で、その専門家の方々の面子の問題にはひきかえにできないことなんです。

 クローバーさんでは来年度、診断できる県内の病院のリストアップをする、とのことでした。絶対数が少ないので診断を受けるのは平均3か月待ちだそうです。


****

 12月に行った発達障害をもつ大人の会(DDAC)代表・広野ゆいさんのインタビュー第二弾の起こしをやっと終えてみていただけることになりました。


 3か月も経ってしまった。この間色々あったとはいえ…、広野さん、ごめんなさい。お心広く許してくださってありがとうございます。

 要約版はこちらです

 「パズルの解が出ると少し愉快 広野ゆいさんインタビュー第二弾をしました 予告編」

 http://c-c-a.blog.jp/archives/51904358.html

 
 この回のインタビューでは、発達障害当事者がからむケースで非常に「仕事として何が正しいのか」混乱してしまいそうなケースが出てきます。
 実際に混乱している職場も多々ありそうな気がします。
 
 だから、少なくとも管理職のところまでは、「発達障害」の概念を知ってもらわないといけないのだな。本人さんに告知するかどうかは別として。でないと筋読みを間違えてしまうと思います。



 今日はゆるく終わります。


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 以前に「傾聴研修」について「具体的にどんなやり方をしているかわからない」と書きましたが、「わかる」範囲でいうと、わたし自身が「承認マネジメント研修」の2回目に使う「傾聴」の教材があります。


 これもいい加減なものではなくて、ある大学の心理学の先生から了解をいただいて使用させていただいているものです。それもご夫妻でこのタイプの研修教材を多数作ってきている、アイデア夫妻。
 たぶん、その世界でもかなり精巧にPDCAを重ねてつくられているほうのものです。


 AさんBさんに分かれ、それぞれが8種類のカードを手に持つ。計16種類のカードを印刷する。
 そして「8通りの傾聴」をやってもらう。かなり反復練習の要素が入ったハードなもの。

 そのカードで指示しているのは、ネタバレ残念ですが、こういうものです。

 「悲しかったこと、情けなかったことを話してください」
 「腹が立ったことを話してください」
 「うれしかったことを話してください」
・・・

 「感情とそれにまつわるエピソード」を話してもらい、最終的に「傾聴における共感の大事さ」を体得する仕組みになっています。


 うーんと、それがいけないとはいいません。
 自分が実際に使っているものですから。

 でも、人間観からいうと「不完全」なものだといわざるをえません。「承認」の補助的なもの、「承認研修」で基本的人間観をつくったあとにそれを補うもの、という位置づけなら、やっぱりいいでしょう。わたし自身は、「傾聴」を教えることは教えるが(しかもかなり技能としては徹底して教えるが)、やはり「道具だ」と割り切っているところがあります。


 これ、おわかりになりますか?



****


 わたしは友達の少ない人間なんですが、数少ない交友範囲の中に世間でいう「大経営者、名経営者」という人がいました。

 これも自慢したいわけではありません。文脈上、わたしがつくってきた人間観、というものに触れざるを得ないからです。

 今年で87歳になるその人は、「江田島の海軍兵学校」を経験した(ご本人が3年生のときに終戦)数少ない生き残りの人です。

 自伝なども出ていますが、そこで行っていた強烈な訓練の日々は、もちろん体力のない現代っ子のわたしなどには到底体験しえないもの。
 そしてもちろん現代に持ってきようのない教育ではありますが、「あの日々が自分をつくった」とその人は言われます。
 その人は終戦後には職を転々とする鬱屈した日々があり、きっかけがあって起業し、それからもとんでもない七転び八起きを繰り返し…。
 つい先年は、米ハゲタカファンドが自社の株主総会に送り込んだ人を怒鳴りつけて撃退する、という快挙をしました。


 現実に目の前にいるのはひょうひょうとした「素朴」な老人であります。普通の人と変わらない体のサイズの。

−「素朴」な顔つき、ということは伊丹敬之氏の経営者論の中に出てきますが、旺盛な外界への好奇心とナルシシズム抑制の態度として大事なことであろうと思います―

 そうした人との対話を繰り返す中、同じような体のサイズの中に詰まっている圧倒的な知性のキャパの存在に触れることが幸運にもできていました。「経験の質」の明らかに違う人がいるのです。おとしよりだからとか功成り名遂げた人だからそうなのではない、同じ80歳超の年齢の人でも「経験の質」の高い、巨大な知性の持ち主でいくら話しても飽きない人とそうでない人がいます。


 また、こうした人たちは「承認」が「大事なものだ」と「先験的に」知っている人たちでもありました。だからずっとお付き合いできたんです。ただそうした人たちでさえも、「承認か、傾聴か」というレベルの話になると「わしゃ、そんなことまで知らん」と「お手上げ」状態になるんですけどね。


 わたしにとっては一方でこうした人たちとの交友があったから、一方で明らかに心を病んだ人を援助する目的の「臨床心理講座」に通って傾聴を学ぶ、ということをしていても人間観の軸がブレなかったと思います。

 自分より圧倒的にサイズの大きい知性がある。その人の経験してきたことと到底同じ経験はできないけれど、畏敬の念をもって追体験し、学ぶ。

 これはだから普通の「傾聴研修」の枠の中ではおそらく学べないことです。
 そしてその人の経験知の大きさをはかり知る作業というのは、年齢が基準なのではなく、丁寧に分析すると「行動承認」に近いことをやってきたと思います。

 臨床心理講座でも「畏敬と尊重」を繰り返し言う武田建氏のもとで学びましたが、それはわたしにとっては、
自分をはるかに上回る知力体力をもつ人に対しても(想像力を働かせて)受け止め、またこころを病んだ人悩みを抱えた人も受け止め、と非常に広いレンジにこころを動かす作業を意味しました。
 

 そうしたわたしにとっての「暗黙の前提」が、しかし現代の「傾聴研修」ではほとんど共有されていない可能性があります。その人の奥行きを感じることなく、とても貧弱な人間観にたって傾聴をしている。

 ともすればその場の「悲しかった」「うれしかった」的なこと「だけ」が大事なことであるかのように。

 それらが大事ではないとはいいませんが、このところ会話の中で
「正田さんは12年1位を作ってきましたね」
という「行動承認(事実承認)」の部分がまったく不在のまま会話をすすめる人々をみたとき、

「なんだこれ!?」

と首をかしげたくなるのです。

 その場の感情についていう、

「それはお気の毒でしたね」
「それは残念でしたね」

とかの応答だけが大事なんでしょうか。

 もしそれだけが大事なことだと思っていたら、『行動承認』最終章にある親の看取りはできなかったでしょう。

「今痛い?」「つらい?」「苦しい?」
だけしか言えなかったでしょう。

「あなたはこんな風に人生を生きたね」
という形の看取りはできなかったでしょう。


 感情は確かに大事ではあるんですが、
 「感情が何よりも大事だ」と位置づけると、前にも書いたけれど行動しない「不作為」が増えてしまいます。

 詳しくいうと、人の感情の中でもっとも強力で影響力が大きいのは「不安感」「恐怖」なのです。生存のための根源的な感情ですから。良い感情はそれほど力をもつわけではないのです。

 もともと日本人は不安や恐怖の感情が強いけれど、何か新しいことをする前に必ず不安や恐怖の感情が頭をもたげる。そのとき、
「これは単なる気の迷いなんだ、あのとき決めて約束したんだから、やるんだ」
と思うか、それとも
「こわくなった。やりたくなくなった。感情は何よりも大事なものだと教わったから、この『やりたくない』という感情を大事にしよう」
と思うか。


 もし後者のほうを優先したら、仕事の世界の約束とか義務、責任の世界はガタガタになってしまいます。で正田の経験上も「感情が何より大事」と意識づけられた人はドタキャンが多かったのです。「理性」は感情に優先して大事なことなのです。


 財団になって「承認マネジメント協会」という名称になったのは、「マネジメント」という少し「統制」の匂いのする言葉を使わないと今の時代職場運営はできないな、という予感が働いたということがあります。


 だから、カウンセラーさんはメンタルヘルス時代なので自分の出番だと思って「感情が大事だ、共感が大事だ」と言うかもしれないが、わたし的にはNOです。
 そして、「行動と成長」という軸を大事にしたほうがいい。その中に人の幸福感もちゃんと入っています。

 2007年ごろのメンタルヘルス白書には、職場のメンヘル問題の解決策としてちゃんと「承認」が入っていて、あれは正しかったと思うんですけどね。今の人はあれを見てないんですね。


 また、武田建氏も1970年前後の論考で、自分自身カウンセラーであるにもかかわらず「青少年のキャンプリーダーには『傾聴』『共感』を教えないほうがいい」ということを言っていまして、あれも「先験的に正しい」のだと思います。
 これまでの経験で、「傾聴」を学んだ人が紛争解決の見立てを間違えやすいことを考えると、彼ら彼女らは共感しやすいほうに共感して、例えば自分と同じ属性であったり、多弁で自己主張の強いほうに共感してしまうので、ものを考える軸を誤ってしまうのだろうと思います。目先の感情に流される。そういう間違いをしてはいけない、という歯止めが「傾聴研修」にはないんではないでしょうか。


 「まさか」と思うことでも、教育を施すときに「暗黙の前提を共有していない」ことが今の時代、大いに起き得るのです。




100年後に誇れる教育事業をしよう。
一般財団法人承認マネジメント協会
http://abma.or.jp

『藻谷浩介対談集 しなやかな日本列島のつくりかた』(新潮社、2014年)を読みました。

「現智の人」7人との対話。それぞれ話題と人を挙げておくと、

「商店街」新兼史(社会学者)
「限界集落」山下祐介(社会学者)
「観光地」山田桂一郎(地域経営プランナー)
「農業」神門善久(農業経済学者)
「医療」村上智彦(医師)
「鉄道」宇都宮浄人(経済学者)
「ユーカリが丘」嶋田哲夫(不動産会社社長)

 「まちづくり」「地域」を考えるうえでカバーしておきたい視点。

それぞれの論者の一人語りだけでなく藻谷氏のエネルギッシュな「かえし」があることで話が立体的に飛び込んできます。

 だけでなく、
 「この国の同時代とは、何か」
 これは「戦争」に向かって突き進んでいるかにみえる政治面、あるいは個別の社会面の事件に目を奪われ見えにくくなりそうですけれども、平成26年2014年という時代に日本はどうだったか、を後から読み取る場合には押さえておきたい1冊になるでしょう。

 本書に繰り返し出るように、島国日本は、本来は生き残りやすい有利な条件にある(たぶん軍事上も)。ただしそれを上手くハンドリングできてない、局所には悲惨な状況を作ってしまっている現状には、メディアを含む意志決定層の妄想と不作為や誤った仮説による施策(正田がいう「知的怠惰」とか「ものに驚かない感性」と似たもの)が関わっていることが、個々の対話から浮かび上がります。「脳化」(バーチャル化?)という言葉が繰り返し出てきます。

 年齢的には、年齢を気にするとお叱りを受けそうだけれど新氏が41歳、山下氏46歳、山田氏50歳、神門氏53歳、村上氏54歳、宇都宮氏55歳、嶋田氏80歳。とよくみると年齢の若い順に並んでいた。同世代の「闘士」の方がいらして結構うれしかった。たぶん、「某高齢者世代」以降にできた社会秩序システムに対して、「これの延長線上ではだめだ」「自分の世代で立て直さないとだめだ」と感じる人たちが、バブル世代前後にいらっしゃるのだ。そして場数を踏んで発言するようになっているのだ。と、自分に都合のよいように解釈します。

 わたしは信頼した人を割合長く信頼するところがある、のは自分でも認めます。
 藻谷氏に関しては、最初に触れた著作『デフレの正体』(2010年)では、基となったデータをすべて辿れるわけではない(もちろん手間を惜しまなければ辿れる)ものの「この論証プロセスは正しい」と直感して、開催予定だった「人口減少社会」のよのなかカフェの課題図書にしましょう、共通の土台にしましょう、と呼びかけたのが始まり。
 その次のベストセラー『里山資本主義』ではこれも知らなかった話が多くて自分では検証不可能だったけれど、地域社会の思想「手間返し」「感謝」という概念が出てきたときに、それは「承認教」なかでも「行動承認」と同じことをほかの言葉で言い換えているように思え、「この著者わかってるな」と思わされたのでした。つまり、共同体が上手くいく基本原理を上手く言い当てている、それほどこの分野に関して沢山のPDCAをしてきたとも思えないのに、と。ウチダ語でいえば「先験的に知っている・わかっている」というか。
 逆にこうした経済学、社会学の人たちが「マネジメント」や「コミュニケーション」「人材育成」の分野に踏み込んで発言したとき、どんなに不用意な間違いをしやすいことか、を考えると。
 
 でどういう知的作業をふだんしている人なのか、というと本書の序文によると
「テレビをまったく見ない、ネットも確認せず、本もほとんど読まない」(うわ〜、そこまで言えないなあわたしには)、
そして情報入手手段として
「対話」

「『現場』の『現実』を目の当たりにしての『自問自答』」
の2つを挙げます。
 後者に関しては、
「全国や世界各地に無数の定点観測点を設置し、そこで出会うあらゆる事象を前に、『うわぁ、こんなことになっているのか』『なぜここがこうで、あそこはこうではないのか』と自問自答を繰り返す」。

 本書でも藻谷氏はその独特の地誌学的見聞を大いに発揮します。地理が苦手科目だったわたしなどには驚くべき知性であります。
 自分には「ない」種類の知性なので想像するほかないのですが、多分極めて優れた映像記憶をもち、行く先々で目に飛びこんでくる膨大な情報群をフィルターをかけずにそのまま蓄積し格納し、土地間の比較や同じ土地の経時的な比較が即座にできるようになっているのだろう。比較のうえ「違い」「変化」に敏感に目をとめ、その都度それが思考材料になる、ということなのだろう。
 そうした「生の情報」に触れ続けることは、これもわたしにはない「体力」という要素も入る。身体の体力と知的体力と。
 知的体力のほうは、「新規の情報をとりこむ」と「脳内の情報を書き換える」ことの手間を惜しまない、ということなのかなぁ。。よくわからない。。
 
「とはいえ自問自答だけでは、学びのスタートは切れても、ゴールにはたどり着けません。そのままでは仮説の山を抱えて立ち往生するだけです。仮説を現実に通じる“智識”にまで昇華させていくのに不可欠なプロセスは別に存在します。それが、現地の人ならぬ“現智の人”との対話です。
 “現智の人”とは、特定の分野の「現場」に身を置いて行動し、掘り下げと俯瞰を繰り返した結果、確固たる『知恵』を確立している人のことです」

 つまり、「生情報」に触れ分析を繰り返すことにも限界があり、さらに「“現智の人”と対話する」と言っているのでした。

 そうした藻谷氏の知的作業プロセスを本書は開示するかのような本になっています。

 一読して思うのは、「よく驚くなあ、この人」ということであります。あっちこっちで「えっ」と言ったり「ああそうか!」「目から鱗でした」とか言っている。
  雑誌連載と単行本化の二度にわたる校正を経て、こうしたやりとりを残してあるのは、あえて意図して提示しているようにみえます。対話集としては、もっと「驚かない」で、予定調和の会話で進むことはできるのだろう。過去に読んだ識者の対話集の類では、ホストはこんなに驚いてない。相手が何を言っても「わかったふり」をしてそれなりに自分の言葉で言い換えて。「驚かない」ほうが「賢そう」で「かっこいい」と思いますね。
 「驚く」だけではなく、「悔悟する」「不明を恥じる」「自分は間違っていたんだろうか、と自問自答する」ということも会話の流れの中でやっている。

 それは対話相手の見聞が自分の予測をはるかに超えたものであるとき、恐らく正しい反応でありましょう。会話の中で自己否定を迫られかねない、大幅な書き換えを迫られかねない、それでも情報に肉薄する。それをやり続けられるのは「知的体力」の問題であったり、相手へのリスペクトの問題であったり、あるいは自分のナルシシズムの克服という問題でもあるかもしれません。そしてそれをしなければ「現智の人」から学ぶことはできないのです。
 とりわけメディアがあらかじめある「絵」に固執してほかのものを報じない現実―本書でも「夕張は実は大都市からアクセスのいい土地なのに、僻地だ、不便だ、住んでいるのはかわいそうな人たちだというイメージに描かれ続ける」という話が出てきます―であると、メディアによってつくられた先入観をリアルな対話の中でこまめに覆す作業が必要になるでしょう。
 自己否定をも辞さず驚き続ける知性はこの不定形な時代にも情報をとりこんで拡大していくことでしょう。ただ、現実にあっちこっち動き回れない身としては結局「信頼できる人」を見極めて情報を入手するしかないのか、ということになるのですけど。



 もうひとつ本書では藻谷氏は自分のルーツ的なものを少しずつ挿入しています。
 母方の祖先が今は廃村となった石川県の「新保」という集落の庄屋であったこと。ディズニーランドの開業直前から10年ほど浦安市民であったこと。…
 それは過去にも「対話集」の中で部分的に試みられたことがあるが、今度のほうがより確信犯的におこなっているようです。優れた観察力の持ち主にして、実は論を立てる前提にみている景色があること、いわば主観の出発点があること。有限の自己、有限の客観性を先に認めることによって手のうちをオープンにし論の普遍性を問うこと、それもまた知的作業として重要なことであろうと思います。主観をいちどくぐり抜けた客観、といいますか。
 
 ―わたしの立ち回り先の「困った人たち」も、何が一番困るかというとその人たちがみてきた、よって立つ風景を開示しないことなのだ。先入観が何から出来上がっているか。それはよくみれば「TVで見たから」みたいな貧困なものかもしれないのだ―

 というわけで本書は現代を停滞させる「知的怠惰」への藻谷氏流のアンチテーゼを提示しているようにわたしには読めてしまったのでした。

 個々の対話の中に付箋をつけた、心に残るフレーズが多数ありましたが全部ご紹介すると長くなりすぎるので諦めます。
 個人的には農業の神門氏、医療の村上氏の章が「行間から血を流している」ようでずしっと重たく、村上氏の章の序文(藻谷氏による)の一文「とりわけ医療と義務教育と地域づくりの現場は、無名の超人たちの墓碑銘で埋め尽くされているように思う」。これは無意識に死に所を探している感のあるわたしにとっても(超人ではないですが)身に迫るものでした。
 「鉄道」の章は「愛」が溢れています。ここは著者が(たぶん本来は強調したかった箇所にもかかわらず)「客観」に徹することを放棄してしまった章なのでしょう。
最終章、千葉県佐倉市のユーカリが丘を作った嶋田哲夫氏の話は「やりようによっては、できるのだ」と希望が持てます。
 わたしにとっては個々の分野へ俯瞰図をもらったような読み応えのある有難い本でした。ご興味のある方はぜひ本書をお買い求めください。



100年後に誇れる教育事業をしよう。
一般財団法人承認マネジメント協会
http://abma.or.jp

 関東の某大学医学部付属病院のお話。

 このブログではめったに時事問題を直接とりあげないんですが、ある意味「典型的」だと思うので…。

 「承認教の正田」は、この事件はこうみる、というお話です。


 問題の男性医師自身が悪いことは、論をまたないです。たぶんこのブログによく登場するある種の知性の偏り、
「セルフモニタリング能力低」
「ミスの認識力低」
「内省力低」
という問題です。


 いっぽう、それを「10人死亡」になるまで放置してきた組織の問題については。

 いくつかの要因があるでしょう。わたし的には、


1.「ものに驚かない精神」
2.性差別/性バイアス
3.相互批判をしない気風


です。

1.ものに驚かない精神 については、1つ前の記事をはじめこのブログで何度も触れました。「12年1位」の正田も今もずうっと「これ」の被害に遭い続けています。

 「えっ」「おやっ」「むっ」という感覚。情報に接して自分の細胞が入れ替わるような感覚。膝から下がぴくっ、と動くような感覚。
 …が、ない奇妙なフラットな感情状態。

 ストレングスファインダーでいうと「×××」が関わっていそうだ、という話も以前に書きました。

 たぶん、「10人死亡」になる前の段階で、報告相談めいたものはちょこちょこあっただろう、常識的に。
 しかし「黙殺」されてきただろう。


 「1人死亡」の段階も、それでも由々しきことですが、「6人、7人、8人、9人死亡」ということになるともう、話が大きすぎちゃう。「なんで、2人3人の段階で予防しなかったんだ」という話になり、不作為を責められるのが怖さに再度不作為をする。この段階になると「隠ぺい」と言ってもいいと思います。

 それはまだむしろ「理性的」(でもほめられないけれど)な反応だが、それ以前に、

「8人?イヤだ、そんなのすごすぎて信じられない、きかなかったことにしたい」

そういう「感情的」というか「感情不全」の反応があるようだ。と「12年1位」をいくら言っても信じてもらえない正田はおもいます。

 要は、サイズの小さい知性の人同士自分たちの想定内の情報をチャラチャラやりとりしているのが心落ち着くのに、感情のメーターが振り切れるようなサイズの情報が来てしまうと、「思考停止」になり、「ききたくなかった」「言ってきたこいつが悪い」となる。「なかった」ことにしちゃう。

 「妄想的」で「知的怠惰」の人たちが、大きなサイズの情報に対しては「感情的拒否」を起こす。あ、多いんですよ社会的地位の高い人で、現場から遠いとか遠くなった人の中に。

 「ものに驚かない精神」が起こす殺人。

 「10人」の後半ある時期からは、それの繰り返しだったのではないかと思う。




2.上記に関連して、たぶん、「性差別」「性バイアス」的なものが関わっているだろうなと、この問題解決能力の低さの裏側に。


 なんでそうつながっちゃうの?と思われると思いますが、

 恐らく、報告相談めいたものがあったとき、それはくるとしたら「ナース」からだろうと思います。患者家族は、その医師がそんなことを繰り返しているとは気がつきにくい、ナースだったら気がつく。


 どこに相談するだろうか、診療科長とか学部長病院長かそれに準じる人たちでしょうかね。看護師長にまず言って、師長からその先はそういう人たち。


 そのとき、「ナース」に対する医師からの差別意識とか、もっというと性差別意識が出るだろうと思います。

 人は、自分が見下している人の言うことはリアリティをもって聴けない。

 今どきのナース、きれいにお化粧して髪も薄い色に染めて、という人が多いですけれども、それを悪いとはいいません。外見がどんなでもナースの多くは責任感当事者意識の高い人たちだと思います。問題は、やはり社会的地位のある男性たちが、彼女たちのお化粧した顔、リップを塗った唇、甲高い声によって伝達される情報をリスペクトしないという問題であります。

 とりわけ、話の内容が男性の医師を告発する内容であると、「けしからん!(ナースが)」という意識が先に立ちやすいでしょう。いえあたしは全然「共感」しませんよそういうの、バカだ、と思ってますよ。


 ほんと、冗談じゃなくそういうのが現実に日常的にあります。問題解決能力の低さの裏側に。中1の子の殺人事件も、母子家庭で保護者がお母さん1人だったのが問題解決にマイナスに働いたかもしれない、と思ったりしますもの。ドスの効いた腹式の声で「そのにやにや笑いをやめなさい!」なんて怒鳴れるお母さんはそう多くないですよ。そうして子供さんの命を見殺しにしちゃったかもしれないです。


 女の人の言葉をリアリティをもって聴けない。昨今、どうもそういう風潮が以前より強まっているような気がします。まかり間違えば人を殺しちゃう感性です。

(逆にだから、「承認研修」を女性講師の正田から受けるのは、マイナス点ではなく恩恵なんです。「女性が有益な情報をもってくる」と認識することができ、あらためて「女性」についての研修をする手間が省けますから)

(拙著『行動承認』では、わざと「だ、である」調の文章を一か所入れて、「物事を認識し判断する力に男性も女性もない」と最終章で種明かししたりしました。でもそんなことをわざわざやらないといけないぐらい、「女性は判断力が低い」という迷信がまかり通っています)


 1.2.の問題は「傾聴教」の人は「傾聴の問題だ」と言われるかもしれませんがあたしは「承認の問題」ととらえます。「承認教」では、聴き手も運動体ですから、聴いても何もしないカウンセラーさんじゃないですから。また「承認教」では、相手をリスペクトしますしまっとうな社会人で判断能力もある相手のもってくる情報もリスペクトしますから。それは自然とそうなるものなんです。


 
3.あと相互批判不在の問題。

 
 お医者さん業界は相互批判しない、のは以前は有名な話で、医療過誤訴訟の弁護士さんは原告側に立って証言してくれるお医者さんを探すのに苦労してました。1990年ごろ。今は、状況は変わってますかどうか、業界の風雲児的に発言するお医者さんはちらほらいますが。

 たぶん今回も、院内でも話が表に出にくかったと思いますが、表に出ていたとしてもちゃんと批判する同僚はいなかったんじゃないでしょうか。


 あたしは、批判しないのは無責任だとおもってます。人の命とひきかえにできることじゃない。
 このブログの読者のかたは、このロジック理解していただけますでしょうか。
 目の前の同僚を批判することがけしからんか、患者さんの命をそまつにすることがけしからんか。




****



 さて、また蛇足で自分の仕事に引きつけて書きますが、

 これも、あたしが「承認大事だ」というとかならず「ほかのことも大事じゃないか」という反論が出るわけですが、


 「ほかのこと」をやって無効だったときに「承認」を入れたら「がん」と業績が伸びたんです。
 そういうのを、今年が2015年だからもう10年以上やり続け、結果の比較も出続けてるわけです。

 詳しくいうと、例えば他研修機関で研修を受けて「傾聴」「質問」を一生懸命1年ぐらいやり続けてそれでも業績が低迷していた人に、しばらく見て「足りないのは『承認』だな」と思って「『承認』だいじですよ、部下が求めているのはそれですよ」と言ってあげてツールも提供してあげて、そしたら右肩上がりで業績が上がった。半年ほどで1人当たり生産性で90位から50位代へ、そして目標達成率は1位へ。

 その「右肩上がり」以前に「傾聴と質問」をどれくらい一生懸命やっていたかというと、プロコーチの真似して部下1人1人に週1回パーソナルコーチングみたいなことを電話でしていた。かなり徹底してます。でも本人さん「他者否定」が強かった人なので、そういう性格のまま「傾聴と質問」をいくらやっても部下は苦痛なだけなんです。だから業績が上がらなかったんです。

ー 経営者管理者は、そういう過去の方式では結果が出ないとわかったら割合方式の転換を納得してやっていただきやすいです。問題は中間に入るひとたちが面子にこだわることですー

 だから、「傾聴とか質問」「だけ」で何かができる、と思うのは幻想なんです。
 「承認」は「がん」と業績が上がりますが「ほかのもの」は「ほとんどゼロ」に等しい成果なんです。多少はあってもプラセボ程度です。

 経済活性化をしようと本気で思ったら、どっちがいいんですか。

 そのたぐいのことは枚挙にいとまがなくて。2003年ぐらいからそんなことやってます。


 そういう、あたしは「ほかのことも大事じゃないか」という人に対しては「当方はエビデンス出てますから」と、いとも冷たい言い方をします。本来はお客様が幸せになることが、エビデンスうんぬん以前に大好きな人間なんですけどね。


 「ほかのこと」を一生懸命やってるのは、あたしからみると「周回遅れ」なんです。PDCAを回し始めてもいない、幻想妄想のたぐいなんです。「未知のものに期待する」って、ドーパミンが出て「楽しい」ことらしいですけどね。子供の遊びをしてるわけではないので。


 傾聴セミナーの中で絶頂感恍惚感を得て、「あの喜びを否定しないで!」と言ってるようなものです。あたし心理学より倫理のほうの先生だから、絶頂感与えるのは上手じゃないんです、丁寧にしみじみ言って論理的に順序立てて納得させるほうの講師なもので、ごめんなさいねテクニック不足で。


 
 



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 このところまた「傾聴教」の人たちと接して違和感を感じたことを備忘録として書いておくと、

 この人たちは「ものに驚く」ということがない。

 人の話を聴いて、「ええっ」と飛び上がったり、「大変だ」と感じたり、「大変勉強になります」ということがない。


 ほんとうは、わたしたちは人の話を聴くなかで、自分の細胞が全部入れ替わるぐらいすごい体験をすることがあり得るのだ。


 以前にも書いた、「特ダネをとるコツは?」のひとつの答えが「ものに驚くこと」だということ。従来自分の知っていた知識経験の中に収まりきらない、従来の序列をくつがえしてしまうものに出会うことがある。そのとき、驚きを驚きとしてきちっと知覚できるか。ひょっとしたら不快体験かもしれないその感情をちゃんと受け入れ、そして次の段階の思考をできるか。

 まあ、これがちゃんとできる人は記者さんでもほとんどいないんですけどね。みなさん自分の「想定内」のことしか聴こうとしません。


 でも、「傾聴教」が具体的にどんな研修の仕方をしているのか知らないのだが、みていると彼ら彼女らは、驚いたほうがいいところで驚かない。
 「それはすごいことですね」
と言うべきところでそう言わない。


 以前にもどこぞで「傾聴研修」を受けてきたらしい高校の養護教諭の先生を怒鳴りつけたことがあった、

「そのにやにや笑いをやめなさい!どこの『傾聴研修』でそれを習ってきたんですか!真剣な話のときは真剣な表情をしなさい!」

と怒鳴りつけたのだが


―その後結局この養護教諭の先生の見立てや筋読みは完全に誤りであったことがわかり、いじめ被害者の側であったわたしの子供は養護の先生の勧める自主退学を免れ卒業までこぎつけた。ほとんどの先生からみて「いい子」であり「守ってやるべき側」であった―

―「見立てる力」というものについては、すごく難しいが別の記事で触れたいと思う。全部で何が働いているのかわからない。わたし個人にとっては、記者経験、翻訳者経験や母親経験、あるいは幼少期からの読書経験いろんなものが役立っているが結果としては「12年1位」と、「業績向上の山」を築いている。このことはきちんと踏まえたうえで議論していただきたいものだと思う―


 いろんな体験を経て、「傾聴教」は、「他者への見下し」を教えているのではないか?と思う。

 カウンセラーさんから教わるばあい、実は先の養護教諭の先生のように援助職の人にも結構「邪悪」な心根の人がいるのだが、クライエントつまり話者を最初から見下しているばあいがある。

 とりわけカウンセラーでない一般社会人に「傾聴」をわざわざ教えにくる先生というのは、「傾聴」をできない一般人への見下しから入っているのではないだろうか。


 そしてとりわけ「クレーム対応のための傾聴テクニック」を教えたり学んだりするときそうなりやすい。表面的にほほえみ、表面的に共感しながら傾聴をすると、クレーマーは機嫌を直してこちらの言うことを聴いてくれる、みたいな。

 それは「人が人を『操作』することへの歪んだ期待」ともいえる。

 多いんだなあ、心理学を「いいものだ」という人の中に、その「操作したいという歪んだ期待」の人が。



 上記の高校の養護教諭の先生のように、そもそも「傾聴」をする側のスタンスが間違っている場合には、それはとんでもない「不敬」である。
 クレーマーがクレーマーでなく正義の側だったらどうするんだ、ということはそこではいつまでたっても考慮しない。(なのでわたしは緊急避難的に怒鳴りつけた)


―カウンセラーさんの仕事では、基本的に「内省を迫られる場面」というのはないのだ。
 ついでにいうと研修講師も内省のない人が多く、かれらの人格をかっこいいと思って真似すると内省のできない人ができてしまう―


 そして、「12年1位」のわたしは言ってしまうが、仕事というものは実績や事実に基づいて思考し、お客様のためを考え抜くのが仕事である。この基本から外れたら間違う。カウンセリングは、心を病んだときの緊急避難である。


 以前に「脳画像診断医との対話」の中での質疑、

「右脳だけを鍛えたらどうなりますか」
「簡単です。妄想的な人になります。何もやらない人になります」

というやりとりも、想起されたい。


 「行動に価値を置く」は、価値があるのである。



100年後に誇れる教育事業をしよう。
一般財団法人承認マネジメント協会
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