さて、1つ前のブログで友人からの嬉しいフィードバックをご紹介した後で、
私自身が「天狗」になっていないだろうか?と自戒しつつ、少し可愛げのないことを書いてみたいと思います。
このところ先生業(いわばご同業)をしている方から「役に立った」「ここを活用している」と言っていただくのが続き、
それにつけて思うのが、
「よい先生(教師)は『自分は学んだ』『だれそれさんから、あるいは何々から学んだ』ということを、その都度自覚できる人達なのではないだろうか」
ということであります。
ひいては、これも大仰な表現ですが、
「自分は先人からの知の器にすぎない」という、謙虚な心のありかたを持ち続けられる人、というか。
このようなことを考えるのは、その逆の現象というのもよく経験するからで、
たとえば私はネット上にブログや過去の原稿を公開していて無料でどなたでも読めるようにしているのですが、
出会う人が、あらかじめそれを読まれていて、そのことは有難いのですが読んでいることは隠し、しかもあろうことか、読んだその内容(いわば知識)をあたかもご自分がもとから知っていたことであるかのように開陳されることがある。さらに、その知識をもとに私(つまりもともとの筆者)に対して「お説教」をしてくることがある。
恐らく、「人物研究のためにあらかじめ読む」という行為をされるにあたり、恐らくそのときはそれなりに興味をもってふんふんと読まれ、そのあと頭の中で消化されたあと、自分がその知識と一体になり、その知識を得たがゆえに自分は優位に立った、という錯覚におちいられるのであろう。
そういう、「知識を得る」「知識を開陳する」ことが、自分の優位性を表現することに直結する人がいる。
そういう人々にとって、ほかの人に何かを教えること、あるいは人前で知識を披露することは、
「勝つ」
「圧倒する(やっつける)」
「優位に立つ」
あるいは
「自己顕示欲を満たす」
ことである。
「知識を持ち、人前に立って注目を集めながら話すすばらしい自分」
がまずあって、
他人は自分より下に立ち、自分を賞賛し注目してくれる存在。自分の欲求を満たす道具である。
しょうだは長期の研修を担当することが割合多いが、その長期の研修をみている側の人のなかに、結構こういう種類の「欲」が芽生え、亢進するという現象があるみたいであります。
その人達は、目の前の女の講師になりかわり、自分が人前に立って注目を浴びたい、知識を開陳して自分の優位を示したい、という願望がぎらぎらと強くはたらきはじめるのであります。
しかし、それはしょうだが守ってきた「教師」としてのあり方のなかで、いわばしょうだ的規範のなかで、人にものを教えるのにふさわしい心のあり方とはいえない。
前にもこのブログに書いたかもしれないけれど、大人から大人へ知識を伝達するときは、
「上からものを言いたい」「自己顕示欲を満たしたい」などの「我欲」「我執」を一切捨てた状態で、
「相手にこの知識を役立ててほしい」と純粋な願いのかたまりになった状態で、横方向にそっと知識を受け渡す姿勢を貫くと、それは伝わり、最終的に役立ててもらえるのだ。と、それはしょうだの信念の世界。
そのとき、よい「教師」であれば、知識と自分を混同しない。知識はお金と同様、天下の回りもので、自分のもっている知識はかならずだれかからもらったものである。(自分の実体験や意見感情はのぞく)
だから、しょうだは「出典を明示する」ことにもことのほかこだわる。それは出典がドラッカーであれ稲盛さんであれ、また身近な友人、男女を問わず普通の会社員、主婦、サービス業の人、その他であれ。
なので自分がネット上で読んだ人の文章をもってその筆者自身にお説教をするなどは私には「シンジラレナイ」ことなのだが、残念ながらそういう人はいる。(私が女性で一見若そうにみえるのもいけないのかもしれない)
そういう人はビジネスパーソンの何人かに1人の割合でいて、
それなりにそれは、その人の出世にも役立っているようであります(笑)。
しょうだにとっては不思議な、興味深い観察対象であります。「友人」とは呼ばないにしても。
そういう意味ではしょうだからみてよい「教師」である人達が、有名人でもない私に対して「正田さんから教えてもらった」と言ってくださるのは稀有なことで、そういう人達は本当に尊敬に値すると思う。私自身もそうありたい。
神戸のコーチング講座 NPO法人企業内コーチ育成協会
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