少し更新の間が空いてしまいました。
『「バカ」は性格か!?』(篠原菊紀著、ブックマン社)という本を読みました。
著者の篠原氏は、諏訪東京理科大学教授で脳科学者ですが、これまでの著書や書評をみるとあざといベストセラー狙いの本ばかりで、まじめな議論をする人にみえない。
ではありますが、本書では「バカ」にみえる人と、他人をそうみる人について統計解析をしていて、切り口がおもしろい。コーチングにもつかえる視点です。
時代による人格の変遷、のようなことも言っていて、このあたりは以前ブログでご紹介した『自己愛過剰社会』の続編として読むと興味深いです。
たとえば、こんなくだり―。
この著者としては何気なく書いた一節なのかもしれませんが私的には大変ヒットしました。
長年、「性格心理学」的なものをご紹介してきて目にしたもの、それは自己暗示による特定の気質の拡大、とりわけコミュニケーションの分野では歓迎されることの多い「新奇性探索」や「報酬依存性」の拡大による極端な人格形成であり、それらの持ち主の人の「自己愛過剰現象」でした。(どの気質の人にも持っている気質の拡大は起こり得ます)
そうした「特定の気質の拡大」「自己愛化」は、決して人格的成長は意味しません。たとえば「報酬依存性」が過剰であれば、外的条件にやる気を左右されやすい情緒不安定な人になりますし、「新奇性探索」が過剰であれば、コロコロと気が変わりやすく軸のない人になります。長期的にものごとを達成し得ない人になります。
(もちろん、固執性や損害回避性が過剰でももっと始末のわるい人になります)
ものごとを達成する人格、というのはもっと別の、うまれつきではなく社会の要請によって規定されるもので、後天的につくりあげる必要があります。
というわけで本書で重視するクロニンジャーの性格理論には私もかなり同意です。
(ちなみにクロニンジャーのいうところの「自己志向性」「協調性」「自己超越性」という後天的性格は、畏友瓜生原葉子氏のいう「プロフェッショナリズム」の内容ともかなり近いような・・・)
もうひとつ同意するのは、やはり豊かな社会による性格の「ガキ化(未熟化)」というところで、むかしの人が何でもかんでも偉かったというのもいかがかとは思いますが、このところ明治や昭和初期の人びとの書いたものに触れると、こういう教養の担い手がいてそれを受け止める読者層がいたことに思いをいたすのであります。
―『武士の娘』という本を先日秋田にいる娘に勧めてしまいました。読んでないだろうなどうせ。―
豊かな自己愛時代から、貧しく厳しい時代への転換期には、「望ましい人格の転換」も、あるかもしれません。
姫路師友会で、「河合寸翁(道臣)」という人のお勉強をしました。
姫路藩における「上杉鷹山」のような、財政再建の立役者。
姫路には藩校の「好古堂」のほかに、河合寸翁が興した仁寿山の私塾があり、ほかにもこの当時姫路藩周辺には101軒の私塾があったそうです。勉強が昔から盛んな藩だったんですね。
ん〜、神戸はどうなんでしょう。・・・
『「バカ」は性格か!?』(篠原菊紀著、ブックマン社)という本を読みました。
著者の篠原氏は、諏訪東京理科大学教授で脳科学者ですが、これまでの著書や書評をみるとあざといベストセラー狙いの本ばかりで、まじめな議論をする人にみえない。
ではありますが、本書では「バカ」にみえる人と、他人をそうみる人について統計解析をしていて、切り口がおもしろい。コーチングにもつかえる視点です。
時代による人格の変遷、のようなことも言っていて、このあたりは以前ブログでご紹介した『自己愛過剰社会』の続編として読むと興味深いです。
たとえば、こんなくだり―。
たとえば、物質的にも精神的にも豊かな時代では比較的自由に生きることができますから、もともともっている気質が強く出てきます。もともとの気質をそのまま出しても、それが個性として認めてもらえる時代が豊かな時代です。
一方で、厳しい時代では個性的に生きることは困難です。誰もが生きていくことで精いっぱいな時代では、みんなが同じような行動を取りがちです。同じように働き、楽しみも、楽しみ方も似たようなものだったりします。
たとえば、戦後の復興を実現した日本人の多くはそうでした。
勤勉でまじめ、一獲千金を狙うより、コツコツと努力して自ら道を切り開いていく――いわゆるかつての”日本人らしさ”の定番イメージと一致します。日本の復興といった大きな目標のもとで、自己超越性をもち、他人との協調性が高く、何かあっても自分にも責任の一端があると思う自己志向性の強い人間が育っていったのです。
そして、そういった物質的にも精神的にも余裕のなかった時代と比べると、現代はずっと自由で豊かです。豊かになれば、環境によって抑圧されることが少なくなるため、生まれながらの気質のままに生きられるようになります。その結果、相変わらず地道に頑張る努力型の人がいる一方で、煩わしいことが苦手、手っ取り早く成果を得たい、うまくいかないのは自分以外の誰かのせい、と考えるような人も出てきます。
良く言えば個性的、悪く言えばわがままで自己愛的。
そこでは自己志向性、協調性、自己超越性の性格に比べて、新奇探索性、損害回避性、報酬依存性、固執性の気質が強まるのです。簡単に言えば、現代社会は素のままの人間が多すぎる―いわば、ガキ化した社会です。(pp.102-103)
この著者としては何気なく書いた一節なのかもしれませんが私的には大変ヒットしました。
長年、「性格心理学」的なものをご紹介してきて目にしたもの、それは自己暗示による特定の気質の拡大、とりわけコミュニケーションの分野では歓迎されることの多い「新奇性探索」や「報酬依存性」の拡大による極端な人格形成であり、それらの持ち主の人の「自己愛過剰現象」でした。(どの気質の人にも持っている気質の拡大は起こり得ます)
そうした「特定の気質の拡大」「自己愛化」は、決して人格的成長は意味しません。たとえば「報酬依存性」が過剰であれば、外的条件にやる気を左右されやすい情緒不安定な人になりますし、「新奇性探索」が過剰であれば、コロコロと気が変わりやすく軸のない人になります。長期的にものごとを達成し得ない人になります。
(もちろん、固執性や損害回避性が過剰でももっと始末のわるい人になります)
ものごとを達成する人格、というのはもっと別の、うまれつきではなく社会の要請によって規定されるもので、後天的につくりあげる必要があります。
というわけで本書で重視するクロニンジャーの性格理論には私もかなり同意です。
(ちなみにクロニンジャーのいうところの「自己志向性」「協調性」「自己超越性」という後天的性格は、畏友瓜生原葉子氏のいう「プロフェッショナリズム」の内容ともかなり近いような・・・)
もうひとつ同意するのは、やはり豊かな社会による性格の「ガキ化(未熟化)」というところで、むかしの人が何でもかんでも偉かったというのもいかがかとは思いますが、このところ明治や昭和初期の人びとの書いたものに触れると、こういう教養の担い手がいてそれを受け止める読者層がいたことに思いをいたすのであります。
―『武士の娘』という本を先日秋田にいる娘に勧めてしまいました。読んでないだろうなどうせ。―
豊かな自己愛時代から、貧しく厳しい時代への転換期には、「望ましい人格の転換」も、あるかもしれません。
姫路師友会で、「河合寸翁(道臣)」という人のお勉強をしました。
姫路藩における「上杉鷹山」のような、財政再建の立役者。
姫路には藩校の「好古堂」のほかに、河合寸翁が興した仁寿山の私塾があり、ほかにもこの当時姫路藩周辺には101軒の私塾があったそうです。勉強が昔から盛んな藩だったんですね。
ん〜、神戸はどうなんでしょう。・・・