正田佐与の 愛するこの世界

神戸の1位マネジャー育成の研修講師・正田佐与が、「承認と職場」、「よのなかカフェ」などの日常を通じて日本人と仕事の幸福な関係を語ります。現役リーダーたちが「このブログを読んでいればマネジメントがわかる」と絶賛。 現在、心ならずも「アドラー心理学批判」と「『「学力」の経済学』批判」でアクセス急増中。コメントは承認制です

2012年09月

『なぜビジョナリーには未来が見えるのか?―成功者たちの思考法を脳科学で解き明かす』(エリック・カロニウス、集英社、2012年7月)を読みました。


 久しぶりに届くのが待ち遠しかった本。「スティーブ・ジョブズ、リチャード・ブランソン、ウォルト・ディズニーら、いともたやすく革新的アイデアを思い描く彼らは私たちと何が決定的に違うのか?」とオビにあります。


 未来を思い描くという作業はどんな脳のはたらきの組み合わせによって起こるのでしょうか。


 本書では、

1)「発見力」
2)「想像力」
3)「直観」
4)「勇気と信念」
5)「共有力」
6)「運」

を挙げ、これらを順にみていきます。


1)「発見力」とは、「パターン認識力」のことだと著者は言います。そして未来は過去のパターンの延長上に導き出されます。チェスの優秀なプレーヤーなら1000、チャンピオンクラスになると5万以上の棋譜を暗記しているといいます。だから、ボードを人目見るだけで勝つことができるのです。

 ただし、ビジョナリーの洞察力は数ではなくパターンの「質」だ、ともいいます。

「ビジョナリーが探し求めているのは、容易に見つけられない類いのパターンである。何かを産み出そうと考えることは、認知のロッククライミングのようなもの。第一のパターンを見つけたら、さらに困難な高みに登っていって第二のパターンを見つけ、さらに登って第三のパターンを見つける。パターンを見つけるたびにさらに高みに登り、さらに遠くを注視するのだ。」(p.39)


 そして有名な「バスケットボールとゴリラ」の動画の話。わたしはこの動画を「システム思考」の研修中にみせられました。はい、ゴリラを認識できなかったほうの人です。なんか黒いもやもやしたものが見えたような見えなかったような・・・それに注視しようとはまったくしませんでした。バスケの選手が何回パスを放ったかというタスクに気をとられ、試合中にゴリラが横切り胸を叩くという異常な出来事が見えていなかったのでした。ほとんどの人が私と同様、気づかないようです。


「・・・その結果からとても重要なことが明らかになった。この世界で注目に値するものは、いま私たちの目の前にある。ただ、それが見えていないだけなのだ。」(p.43)

「忘れてはならないのは、ビジョナリーと呼ばれる人たちでも、存在しないものは見ていないということ。普通の人よりも見えやすい目を持ってはいるが、彼らが見ているものは、私たちの目の前にある。」(p.46)


2)想像力


 何かを見るときと何かを想像するときとでは、使われる脳の部分がまったく同じだ。このことから、想像したものと実際に見たものは、互いに干渉しあうことがわかる。

 ここには自分のイメージしたものを細部まで思い浮かべることのできる「ビジョナリー」が次々に出てきます。事業の発展のためにすべきことを具体的に思い描いていたウォルト・ディズニー。「見ようと思えば、起こっていることの全容を見るだけでなく、細部を徹底的に見ることだってできる。細部がわかってくると、新しいイメージが次々に脳裏に浮かんでくる」と語ったノーベル賞受賞物理学者。

 一方、「頭の中で視覚化する能力」はかなり個人差があるものの、ビジョナリーであるために必ずしも必須のものではない、とも本書はいいます。

 ビジョナリーに不可欠な能力は、

「画質の良し悪しは重要ではない。それよりも、イメージしたものを分解したり、回転させたり、曲げたり、折り重ねたりできるほうが大切だ。何より、イメージしたものをさまざまな角度から解析できる力が求められる」(p.62)

 例としてパームパイロット(携帯端末)を1996年に発明したジェフ・ホーキンス。木片と割り箸をつねにシャツのポケットに入れ、道を歩きながら絶えず取り出して何かを入力する動作をし、パームパイロットにどんな機能を盛り込むか考えていたといいます。


 ロンドン五輪男子体操金メダリスト内村航平選手が、人形をひねったり回転させたりしながら自分の技をイメージしていたことは有名ですね。

 
 現場を歩き自分の目で構造を見、「心の目」をはたらかせる、ということを工学分野でも再び重視するようになっているようです。


3)直観

 ここでは、ビジョナリーはあまり多くのデータに基づいて考えない、ごく一部のデータから本質を見極める、ということを言っています。

 アップルを追われピクサーで成功を収めたのちもう一度アップルに復帰し、破産寸前だった会社を救ったスティーブ・ジョブズのエピソード。ほとんどデータを集めることなく、重点開発する製品群の数を絞ります。

 自分が十分な経験を積んだ分野では人は「ヒューリスティック」を働かせ限られた情報から答えを出す。『医師は現場でどう考えるか』で出てきた思考法ですね。


 こうしてビジョナリーたちが「直観」に頼って正しい答えを出す事例を挙げるいっぽう、「直観」のもつリスクにも本書は触れています。「直観」がもたらす誤りもあり、過信してはならないということです。このあたりのポジティブ過ぎないパランス感覚はえらい。


4)勇気と信念


 「情熱」といってもいいでしょう。

 困難や危険、友人や取引先や家族を失う挫折をものともせずに信念を貫いて突き進んだビジョナリーたち。何が彼らを突き動かすのか・・・。



 本書では、報酬にともなって出る快楽物質ドーパミンが、未来に報酬が出ることが予測されるときにも出ることを取り上げました。そのドーパミンが目的を魅力的に思わせるのではないか。さらに、ドーパミンにはパターンを見つけることを促す作用があるとも。

「ドーパミンの刺激を受けると、それまでわからなかったものの関係性が見えたり、だれも試そうとしなかった組み合わせを試してみたくなったりする」(p.115)
「目的意識が高まると気分も高揚する・・・なぜなら、目的意識が高まった状態を、脳が喜びとして受け止めるからだ」(p.116)

 一方、ビジョナリーを突き動かすのは喜びばかりでもありません。痛みから逃げようとして走っているばあいもあります。両親との不幸な関係、過去の失敗や屈辱。他人から嘲られ、「見返してやる」という思いが原動力になることもあります。

(こんなことを書いたからといって、人が人を嘲って、相手が見返したい一心で頑張るように仕向けることを推奨しているわけではありません。自分は人を嘲っていい、と思うのは思い上がりもはなはだしいことです。私個人は少なくとも、だれかを見返したくて頑張るという動機づけはないようです。嘲られると、単に早く死にたい、なぜまだ死ねないのだろうかと思うだけです)

 
5)共有力


 ここでは自分のビジョンに他人を巻き込む「巻き込み力」のことを言っています。ビジョナリーたちは変わり者、偏屈者、孤独を好む者でもありますが一方で驚くほど他人の心を読むこと、人を見ぬくことに長けています。またマジックのように他人を巻き込み、自分を魅力的な人物だと思わせてしまいます。

 その能力を「EI」(感情知能、EQとほぼ同義)とよびます。ビジョナリーたちは、つねに本物の自分に基づくと本書はいいます。

ダニエル・ゴールマンの言葉として、
「EIがあれば『どんな状況に置かれていようと、心の最も奥深くに潜む感情や価値観に従って行動を起こすことができる」。(p.161)

また哲学者エックハルト・トールの言葉として
「役割と演技ばかりの世界にあって、自ら自分のイメージをつくりあげるようなことはせず、自分という存在の核となる部分に従って行動を起こす人―自分を実際よりも大きく見せようとはせず、ありのままの自分でいる人は、類まれな存在として際立っている。世界を本当に変えることができるのは、そういう人たちだけなのだ」(同)


6)運

 成功の最大の要因は粘り強さでもスキルでもなく運だといいます。実験中のカエルの足が鉄に触れて細かく動作し、神経を動かすのは電気刺激だと知った科学者。兄と弟で生まれたライト兄弟。

 偶然なにかの場に居合わせたりタイミングが良かったりするのも運です。

「ビジョナリーたちは、決して途中で諦めない。だから彼らは成功する。コインを投げなければ、思い通りの面を出すことは永遠にできない。ときどき休んだり、方向を変えたりすることはあっても、チャーチルの言葉にもあるように、絶対に戦いをやめてはいけない」(p.180)



 さて、こうしたビジョナリーたちの脳のはたらきを、わたしたちは習得することは可能なのでしょうか。

 行動が遺伝子に影響を与えて発現を促す可能性があることが本書では紹介されます。脳を使うと、シナプス結合が増えるだけでなく、これまで変えることは不可能だと思われていた遺伝子までもが変わる。アメフラシに繰り返し刺激を与え、刺激を伝える信号が細胞核に到達すると、それまで発現していなかった遺伝子が発現を始める、といいます。


 本書では第10章で、上記の1)〜6)のビジョナリーたちの脳の働き方を習得する方法を教えてくれます。ブログ読者の皆様、ご興味があれば本書をお買い求めください。



100年後に誇れる人材育成をしよう。
NPO法人企業内コーチ育成協会
http://c-c-a.jp



 
 


 
 


 別居している娘の成績が伸び悩んでいるときいた。


 この子は高校時代「オール10」だった。身体の病気もちでそれがもとで中学、高校と2度いじめられ2度不登校〜別室登校になった。そんなで友達はほとんどできなかったが、制限された自分の能力をそこに注ぎ込んだかのように、学校で課せられる頻繁な資格試験や定期試験をきちんきちんとこなした。


 その当時私がしていたことは、毎日娘の好きなご飯をつくってやることのほかに、「感謝」を口すっぱく言っていた。

「こんなに先生方が一生懸命教えてくれる高校はない。勉強で頑張らせてくれる高校はない。感謝しなさいよ」


 娘はよくそれに応え、毎日6時に家を出てだれもいない高校の教室で試験勉強をした。・・・


 今は、鬱のリハビリと称してサテライト講義だけの予備校に通う。先生にも友達とも接触がない。そして私はもう傍にいて「感謝」を勧めてやれない。代わりに学んでいるのは「冷笑」だろうか。



 「感謝」は、今遠方の大学に通う娘にも言っていた。彼女は美術科のある県立高だったので、ふつうの高校より県の予算を多少余分に配分されていた。美大並みの制作アトリエをもっていた。そのことに感謝しなさいと、折に触れ言った。

 この子はまあ大きな問題のなかった子で、前向きの頑張り方をしていた。

 
 
 今は「感謝」「躾」などまったく受け付けない子どもと暮らす。この子をみていて学んだのは、

 躾がよかったのでこんなによい子に育ちました、というのは、躾を受け付ける形質をもった子に関して言えることなのだ。

 そういうことを学べたのもわるくないのではないか。子どもは家庭の躾さえよければよい子に育つ、というのも傲慢な考え方なのだ。「性同じうして・・・」という孔子の言葉には、異議あり、である。




100年後に誇れる人材育成をしよう。
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 引き続きいろんな考察。


「特ダネをとるコツとはなにか」

 
 最近きかれてまたウーンと考え込んだ。

 短かった記者時代、けっこういろんな題材で特ダネを書いた。チベット暴動をもたらした抑圧行為。臓器移植を妨げる院内政治。キリスト教の輸血を拒む宗派の信者への人工血液輸血。普遍的に使われる抗生物質の副作用についての医療過誤訴訟。大事故の発生とその原因となったずさん作業。・・・


 ― 今思うとしょもないなーと思えたり中途半端だなーと感じるものもあるし、一方で特オチもそこそこしていて決して打率10割なわけでもない。―




「フロックでしょう。これをやったから、というものはない。ノウハウ化できることはない」


 そのときはそう答えたけれど、あとになって気がついたことは、唯一ノウハウと言えそうなこと。


「ものに驚く」


ということである。



「えっ」


何かをきいて驚く。そのとき体のモードが変わる。前のめりの聴く姿勢になるし、それを聴くまでの私とは違う私になる。身体の細胞が入れ替わる、ような感じ。



別のところではまた、


「企業さんで、『イノベーションを生む思考力を社員に身に着けさせたい』というニーズが強い」


という話になった。スティーブ・ジョブズがiPhoneを産んだような、先端技術でなくても既存技術の寄せ集めで過去にないものを産む、そういう思考法をつくる研修はないのかと。


「それは、『企画力研修』のようなものでしょうねえ」

そのときはそうお答えしたけれど、内心はそれだけでもない、と思っていた。


 ものに驚くこころ。


 それはイノベーションを産む側の若手〜中堅にも必要だし、それを「受ける」上司の側にも必要だ。


 目の前のふにゃふにゃした感じの若い子が言ってくるアイデアに


「それ、面白い!やれ!」


と言えるかどうか。

 往々にして、アイデアそのものの評価より目の前のふにゃふにゃした人物の風采に目を奪われ、評価できないのではないか。

 上から降ってくる部長級、研究所長らからのアイデアのほうがすぐれたものだと、信じて疑わない態度がありそちらを優先するのではないか。


 昔の広島時代を考えた。広島から出す原稿を東京のデスクが見て価値判断する。デスクには私の容姿はみえない。純粋な情報として評価し、

「これは『独自』をつけて(特ダネ扱いで)送信しよう」

とか、

「これは『至急』だ」

とか判断する。

 そこでは情報の発信者がだれかよりお客様(通信社の場合は加盟社)の利益が優先である。


 ところが、支局の上司たちからみると、目の前にいる私はどこまでやっても「ふにゃふにゃした童顔の女の子」ひいては「女子供」にしか見えないのだった。その結果・・・、以下省略。


 若いころからそんなことを繰り返しているから、今もときどき

「私の肉体が『ない』ほうがいいのではないか」

と考える。


 いずれにしても、イノベーションが生まれる組織とは「認める」組織である。それは、「ほめる」なんていう軟弱なものではない。だからほめるって言わないでくれよー。


 「ものに驚く精神」も、「認める」の中に含まれるだろう。


 そして、組織全体に「ものに驚く精神」がないときに、恐らく上司がなにを言っても潰してくるだろうな、とわかっているときに、若手から夢のようなイノベーションが生まれるのだろうか?謎である。


 過去に一度だけ、「承認」を「イノベーションを産む組織」にまで高めて活用してもらったときがあった。研究開発組織での長いシリーズ物の研修。
 初回の暗いムードから打って変わって最終的にはきわめて意気軒昂、談論風発な組織になったのだけれど、単年度で終わってしまったから続かなかった。

 受講生さんの1人にその翌年度、約9か月ぶりに会ったところ、早くもやや冷笑的で臆病で自分を守る、もとの人格に戻っていた。かれは久しぶりに「承認ワールド」に触れ、「すがすがしい」「さわやか」を連発していた。



 「スピーチ・ジャマ―」。夢のようなイノベーションといえば、最近ではこれ。人の話している声を0.2秒遅れて流し、思考を混乱させて話し続けられないようにする。話の長い人を撃退するのによい。イグノーベル賞受賞。

 私もこの人に会う時にはもっていきたいなあ、とイメージする人がいる。

(でも自分の研修でつかわれたらどうしよう・・・)
 



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 なんかばたばたした週でした。


 仕事でお付き合いのある人で大変聡明な人がいて、経営や組織について話していてほとんどの点で見解が一致する。共通の知人についての人物評でさえも。


(仕事でご一緒する人にはこの人に限らず凄く聡明な人が多いのだけれど、すべての人に一度に触れられないので順繰りで許していただきたい)


 この人に今週おききした。


「あなたはなんでだれからも教えられないのに、どうあるのが正しいのかわかるんですか」


 これも随分不遜な問いかけだと思うが、、


 すると


「30代の係長時代に同年輩の人5人ほどで連名で会社に建議書を書いた。そのとき物凄く考えたし、『青い議論』をした」


と言われる。当時「このままでは会社は潰れる」と危機感をもったという。


「そのとき物凄い量をお考えになったからですね。今もご自分の言葉で、どこからもお仕着せでない言葉で話されるのは」

と私。


 経営とかとりわけ組織の問題は、ああでもないこうでもないと考え抜く作業が要る。その作業を丁寧にした人同士は、自然と似たような結論におさまっていくように思う。どういう姿が正しいのか。どうすればいいのか。

 ・・・と、思うのは傲慢だろうか。


 いろんな人と話すうち、考えのかみ合わない人にも会う。今までのところそういう人達は、どこかに論理の飛び・抜けがあり、考えることをさぼっている部分があることが見てとれる。

 その人たちはなぜさぼるか。思考停止するか。だれか偉い人の考えに染まって現実をよく目をこらして見ないのではないか。そして偉い人の考えに染まるのは、どこか「虎の威を借る」、自分を大きく見せたい願望のゆえではないか。ようはナルシシズム・・・



 聡明な人々と、このところ旧知の人も初対面の人も含め続けてお会いした。聡明な人のつてで次の人にお会いできることもある。その方々とお会いするたび気分が晴れやかになる。

 現代の儒者のような師を持てることにも感謝。


 
 今週はまた、昨年からお付き合いのある人から、当協会の講座について

「もっと早く行けばよかった。昨年にでも」

そう後悔の言葉を口にされたときに、物凄い混じりけのないその人の誠意を感じた。そんな瞬間に出会うこともあるのだ。


(「良い人格の人に触れることは、それ自体快楽なのだ」

 って言ったのはだれだっけ、ひょっとしてあたしだったっけ)


 中には健康を害した知らせもあれば定年退職の人もあり。


 
 「考え抜いた人」、今からはどのぐらいのペースで生まれるのだろうか、育ってくるのだろうか。これからも会えるのだろうか。

 もし新しく育ってきたら、ちゃんとわかってあげられる自分でありたい。


******

 
 「イスラエルとアラブの問題についてサヨはどう思うか」

 英会話のクリストファー先生にきかれてうーんと考えた。前の週にまた "Acknowledgement-based coaching" (承認中心のコーチング)について力説してしまった私だが、パレスチナ問題にそれが通用するという自信はない。

 人々は対立するグループの一方に身を置いてグループ内の連帯を強化する。信頼ホルモンのオキシトシンは、排他性の性質もある。強い連帯感の裏返しが排他性。

「コーチはセクショナリズムになりやすい」

と武田建氏もいみじくも言った。関学アメフト部に15-6人いたコーチ陣、しかしかれらは傘下の選手を可愛がるあまり排他的に振る舞うというのだ。


 とりわけ信仰によって結ばれたグループ間の問題について、承認中心コーチングもあまり大したことはできないかもしれない。


 ・・・と、いうようなことを英語で堂々と言えればいいのだがここまでの内容を頭の中で日本語でまとめるだけでわたしの回答時間はおわってしまった。


 煮え切らない私に、クリストファー先生は


「日本人はどうしてドグマティック(独善的)にならないのか?」

と重ねて問いかけた。


 先週の勢いで「それは承認で解決すればいいよ!」とわたしが言うだろうと期待していたがその期待が裏切られたことに対する先生のコメントともいえる。


 うーんうーん。また新しく考え始めてしまった・・・ なんでドグマティックになりきれないんだろう。

 英語のクラスだが結構思索をしなければいけないクラスなのだ。


 日中間は今のところ「さまざまなレベルの対話を途切らさない」のが唯一の解決策のようだ。



******


 製造業の方々の宿題のやり取りが一段落し、「共有ファイル」を作ってお送りした。

 今回の提出率はあまり高いほうとはいえない。それでも、提出いただいたのは素晴らしい実践だった。


 未提出の方々も、「共有ファイル」にインスパイアされることを願う。

 相変わらず事務局の方々にもお手数をお掛けするが、人が人を認める姿に触れることで何か心地よいものを感じていただけるなら幸いに思う。


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 男性は、正田のやっている「承認」のことを「ほめる」と言いたがることに気がついた。

 そうじゃないよ。正田のやってる「承認」は、「認める」ことだよ。

 一部の例外はあるがこのブログでもおおむね「認める」ことを推奨していると思う。


 「ほめる」は、「女子どものやること」っぽい。「認める」は男っぽいというか、骨太っぽい。

 正田は、人からみてどうみえるかわからないが、けっこう骨太のキャラなつもりなのだけど。


 あと、「ほめる」は、ナルシシズムにもつながりやすそうですね。それを防止する弁のようなものがないですね。ということも過去にこのブログにかいた。




100年後に誇れる人材育成をしよう。
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 映画「天地明察」を見てきました。滝田洋二郎監督、原作・冲方丁。


 4代目将軍家綱の時代に、碁打ちから天文家、数学者となり、初の和製の暦である「貞享暦」をつくった安井算哲という人の生涯を描いています。


「ご明察!」という言葉が物語のキーワード。ドーパミンが出て数学が好きになりそうな言葉ですね。


 主人公を演じる岡田准一は、笑顔もよいが泣き顔や落ち込み顔も引き込まれるような魅力がある。主人公は物語の中で2回、失敗を経験する。その経験を踏まえて3回目の挑戦はさあどうか・・・、簡単に言えばそういうお話。


 失敗に向き合う態度がいさぎよい。徹底的に落ち込み、謝罪し、歯を食いしばって再度上がってくる。再チャレンジのときには過去の失敗のトラウマがわーっと負いかぶさってくる。しかし渾身の力でそれをはねのけて・・・、


  同じ作者の『光圀伝』を読んだばかり。水戸藩主光圀は中井貴一で、重要な役回りだった。ここでも、「人が人を認める」行為のさわやかさは随所に溢れていた。そして魅力的な「師」がいっぱいいた。


「太平の世には、新しいものをつぶすようになる。閉塞感を打破しなければ」。

 こういった台詞は、現代日本について言っているかのようです。


 名作の呼び声高かったように思うけれど109シネマズHAT神戸のレイトショーはがらがら。(私以外の観客、3名)残念です。


 『光圀伝』は暮れとか正月に長時間ドラマになるのかなあ。



100年後に誇れる人材育成をしよう。
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お世話になっている皆様



 おはようございます。
 企業内コーチ育成協会の正田です。


長かった夏の終わりとともに「政治」の季節になりました。


 先週末は去る民主党総裁選で野田氏の圧勝、このあと自民党総裁選があり、解散・総選挙は必至。近隣諸国でも中国、アメリカ、韓国、と後継者選出や国政選挙が続きます。


 そして国交正常化40周年記念式典が中止となった「日中間」は歴史的な曲がり角にきているのか、いないのか。



※このメールは、NPO法人企業内コーチ育成協会のスタッフ及び代表理事・正田が、過去にお名刺を交換させていただいた方・当協会のイベントやセミナーにご来場いただいた方にお送りしています。ご不要の方は、メール末尾にありますURLより解除いただくか、このメールに直接「不要」とご返信ください。




 本日の話題は:



■兵庫工業会管理監督者大会で講師をさせていただきました


■安岡定子氏講演「今求められる論語のこころ」に思うこと


■今後の講座予定
 企業内コーチ育成講座(コーチング講座)基礎コースA(10月23日、24日)


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■兵庫工業会管理監督者大会で講師をさせていただきました


 去る12、13日に開催された公益社団法人兵庫工業会の管理監督者大会にて、わたくし正田は初日の分科会で初めて講師を務めさせていただきました。


 世界に誇れる日本のものづくり、しかし過去からある品質管理の手法「QC」も過去ほど機能しなくなった、と言われます。代わって浮上しているのは、現場における「責任感の偏在」、「人の質のばらつき」の問題。


 分科会には、非常に意識の高い現場の班長〜課長さんクラスの方々が集まりました。

「今の子は、『僕、褒められて伸びるタイプなんです』と自分から言いますね」。


 いきなりそんな話になりました。


「ほう、ものづくり現場にも来ましたか。これまで営業やサービスの分野ではきいていましたが」

と私。


 恐らく「ほめる」ことをマネジメント手法の中に組み込まなければならないのであろう。しかし具体的にどうやれば?


 そんなお悩みを真剣にもってこられた方々でした。
 さてどうなったでしょうか…


 詳しくはこちらの記事をご覧ください:


 「ものづくり現場 『承認研修』はパンドラの箱になる」

 http://blog.livedoor.jp/officesherpa/archives/51826621.html



 ご参考までに、この研修でご紹介した同じ「行動理論」に関するお話を、兵庫県中小企業団体中央会発行の会誌「O!(オー)」9月号にも掲載させていただきました。どなたにも親しんでいただきたい内容ですので、同会のご理解のもとこちらに転載させていただいています:


 
 「『褒めると伸びる』を知っていると強い!」

 http://blog.livedoor.jp/officesherpa/archives/51826124.html 


 さて、「褒める」ばかりしていると叱れなくなるでしょうって?

 確かに、「褒める」「認める」ことに意識を向けていると、「叱る」ことが弱くなる、叱れなくなる、というお悩みを実際にリーダーたちからお伺いします。


 人は、褒められて「快」の感情に引っ張られて伸びる部分は大いにあるものの、後悔することもまた成長を促します。「後悔」を効果的に感じられるように導けるといいですね。


 そのために役立つような叱り方をしたいものです。過去には、当協会の「叱り方講座」こと基礎コースBを受講された方が、翌日からいきなり叱り出した、などということもありました。
 そのお話は、また、いずれ。

 
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■安岡定子氏講演「今求められる論語のこころ」に思うこと



 22日、姫路で開かれた故安岡正篤師のお孫さん、安岡定子氏の講演会「今求められる論語のこころ」に参加しました。


 地元のお子さん方が澄んだ声で「論語素読」を行ったあと、安岡氏は、祖父正篤師のプライベートでは温かかった人となり、それに「孔子先生」の苦難に満ちた人生と温かい人柄について話されました。次いで、論語の中のなじみ深い節を全員で素読したあと、それらの言葉のうまれた背景、1人1人の弟子との関係、それを語った時の「孔子先生」の口吻などを詳しく解説してくださいました。


 「孔子」のそうした人生について、これまで「四十にして惑わず」などの言葉に触れてはいたものの、そこまで想像力がはたらかずにいました。安岡氏の優しくわかりやすい語り口のたまものでしたね。


 ここからは私の想像です。

 春秋〜戦国、「百家争鳴」の時代。ありとあらゆる言説がありました。具体的な用兵を語ったものもあったし、あきらかに詭弁とみえるものもあったし、老荘思想の中には「論語」に対する揚げ足取りのようにみえるものもあります。

 そうした「なんでもあり」の思想戦争の時代に、孔子の説いた「仁」は、決してとんがった存在とは同時代にはみえなかったでしょう。むしろ埋もれやすい地味なものだったのではないでしょうか。
 

 しかし時代を超えてこうして語り継がれるのは、「中道」を守り人の社会を維持する理(ことわり)を手を替え品を替え根気よく説いているからなのでしょう。


 それがその時代のメジャーにならなかったとしても、孔子はそうすべきだ、と考えたのではないでしょうか。


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■今後の講座予定
 企業内コーチ育成講座(コーチング講座)基礎コースA(10月23日、24日)




 引き続き、現代の諸問題を解決する力のある優れたリーダーを創る「企業内コーチ育成講座」を、姫路にて開講いたします。

 ここでは、最重要スキル「承認」のほか、リーダーの決断力を高める「質問」、情報収集力を高める「傾聴」をお伝えし、それぞれをしっかり身に着けていただくとともに自在に組み合わせて使っていただけるようになることを目指します。

 下記をご参照いただくほか、もし「私の町で開催してほしい」というご要望がありましたら、極力お応えしたいと思います。その場合は info@c-c-a.jp まで、メールでお知らせください。




★10月23日(火)・24日(水)
 企業内コーチ育成講座(コーチング講座)基礎コースA
 〜コーチの眼・耳・心を身につける2日間〜
 各日10:00〜17:30
 姫路・じばさんビル会議室
 受講料42,000円
 詳細とお申し込みは ⇒ http://c-c-a.jp/info2/index.php?nw2=0

 「承認」「傾聴」「質問」と、基本の3大スキルを実習を交えてじっくり学べ、
 これだけで職場のコーチングは十分こなしていただけます。
 中でも「承認」は一般的なビジネスパーソンの常識を覆す学びとなることでしょう。
 すべての管理者、経営者、部下・後輩をもつ立場の人にお勧め。


 皆様のご参加をお待ちしております!!


 100年後に誇れる人材育成をしよう。
 NPO法人企業内コーチ育成協会


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※このメールは、NPO法人企業内コーチ育成協会のスタッフ及び
代表理事・正田が、過去にお名刺を交換させていただいた方・
当協会のイベントやセミナーにご来場いただいた方に
お送りしています。

今後ご不要の方は、
空メールをご返信いただくか、こちらのページ

http://www.webcordial.com/bn/tk.html

より解除していただければ、
購読リストから外し、次回から送信されないようにいたします。


※このメールは転送歓迎です。
もしこのメールを新たに購読ご希望のかたがいらっしゃいましたら、
info@c-c-a.jp まで、「メールニュース希望と書いて
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ここまで読んでいただき、ありがとうございました!



 皆様にとって素晴らしい1週間になりますよう。



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神戸のコーチング講座
特定非営利活動法人企業内コーチ育成協会
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「企業内コーチ育成のすすめ」
(株)帝国データバンク社『帝国ニュース兵庫県版』
2008年〜2012年 長期連載このほど完結
http://blog.livedoor.jp/officesherpa-column/
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 22日、第10回播磨人間フォーラム講演会「今求められる論語のこころ」に参加。

 
 姫路師友会や木鶏クラブほか、姫路の5団体の共催。安岡正篤師のお孫さん(河田尚子先生のいとこ)の安岡貞子先生が東京から来られました。


 冒頭、姫路の「子ども論語」でそらんじてきた幼稚園から中学生のお子さん方10数人が、論語の一節を暗誦。


 お子さん方の甲高い声が「子曰(のたまは)く・・・」と揃って響くと、会場の空気が一気に澄み渡ります。


 そして安岡定子先生の講演。

 論語の中のなじみ深いフレーズについて、「孔子先生」の生き方と人となり、そして弟子に対して語ったその場面についてわかりやすく解説してくださいました。


 大変有意義な講演でした。


 「仁」とは思いやり。人は褒めて認められることで育つ。

 あらためて、その当たり前がいかに「ない」かを思い知らされるのでした。


 わたしが姫路にこのところ足しげく通うのは、「いじめはいじめられる方がわるい」といった、善悪逆転したようなロジックが蔓延していることにへきえきしているかもしれません。



 また「いじめ」の話題になってしまいますが、

 川西市の高校でいじめられ自殺した高2生は、中学のとき「いじめ防止」の標語で表彰されていたことが、今日の新聞で紹介されていました。

 やはり、と思います。

 最近もあるところで言ったことですが、今どきのいじめは理由もなく標的がころころ入れ替わる。そのうち、自分がいじめられたくないばかりに他人をいじめの標的にすり替えることのできない、心優しい子、

「己の欲せざるところ人に施すことなかれ」が躾としてちゃんと浸透している子は、最終的ないじめのターゲットになってしまう。

 というのは、うちの二女がいじめられるに至った過程を紹介した記事を読まれたかたはご存知と思います。

 
 「いじめは家庭の躾の問題」などと言っていると、しっかり躾けた家庭のお子さんが一番損をする、ということになりかねないのです。

 幸い学校の注意義務がこのところ強化されているようであり、

「いじめられる子のほうが悪い」

といった不適切な論調も、いずれ消えていくことでしょう。ただ私の住む界隈ではいまだに時々きく、ということです。


 講演会の会場で購入した『子や孫に読み聞かせたい論語』(安岡定子、幻冬舎)を読みました。


 字が大きくて読みやすく(たぶんそらんじやすい。でもそらんじるかどうかは謎)、かつ、女性の定子氏の筆致で背景を人間味豊かに書いている。こういう記述の論語の本は、もちろん、過去読んだことがありません。

 「女性」と決めつけると失礼なようだけれど、やはり背景説明などをすると女性は上手い。同じことを書いても男性よりはるかにわかりやすい。EU危機やソブリンリスクの背景について各当事者の文脈(要するに「きもち」)を解説した同志社大学教授・浜矩子氏の筆致もそう。
 
 これはデボラ・タネンらの言うように、男性が発話する目的は自分の優秀さを示すことであり、女性が発話する目的は相手にわからせ共有することにあるからだろうか。



100年後に誇れる人材育成をしよう。
NPO法人企業内コーチ育成協会
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 最近続けて「ポジティブリーダー」の害について書いている。うち2人は私よりちょっと上のバブル世代だった。


 なんでこんなにポジティブなリーダーが量産されるんだろう。


 ひとつの仮説として、だれでも「バーチャル」になりやすい時代である。現場に対する想像力が働かないで頭の中でものごとを考える。


 かつ、コンサルタントさんは仕事を得たいがため、表面的な戦略の話をようさん持ってくる。戦略というのは、全部勉強すると数限りなくあるのだが(ミンツバーグの「戦略サファリ」などをみると俯瞰する視点がもてると思う)


 それらに「ハーバードビジネススクールの」とか、かっこいい能書きをつけて吹き込む。

 「なんか新しいことをやって元気を出したい」

と考えるリーダーはそれに飛びつく。テストステロンは新しいものを見たりやったりすると上昇するというデータがある。


 が、組織、人材、マネジメントといったじっくり取り組まなければ成果が上がらないようなことは後回しになる。


 実は氷山の水面下にあるそれらの比重が経営では一番大きく、エネルギーを投下しなければならないところなのではあるが。


 (そういう意味で先の管理監督者大会のメニューを「マネジメントスキル」一色に主催者がしぼったのは大変な見識だとおもう)


 かつ、IT化の時代、「新しい戦略を導入するにはスイッチをポンと押して人を動かせばよい」と安易に考えているところに問題がある。


 人はPCや機械ではない。じっくり説明して承認して、はじめて動いてもらえる存在である。その当たり前のことが、「戦略過多」「決断依存」のリーダーたちには忘れられている。


 かれらが新しい戦略を導入するのは、TVのチャンネルを替えるようなものだ。パッとかポンとかワッとか、ものごとは、人々は、そういう切り替わり方をするものだとおもっている。


 なんと嘆かわしい時代だろう。


 今日はあんまりひねりも落ちもない(ふだんもないが)。下り坂の時代に考えたことを記録するためにだけに書いておきます。



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 私は傲慢なのだろうか、と反芻する。


 数年前にブログに書いたエピソードで、私の研修に登場する人物、武田建氏(元関学理事長・学長、関学アメフト総監督)のこと。


 研修で武田氏の「ほめるコーチング」について触れたところ、武田氏のゼミ生だったという受講生さんがその後逸話を話してくれた。


 社会福祉のゼミで、4回生で自治体などへ実習に行くというとき。


「お前らのうち、福祉を一生の仕事にしようという者、手を挙げろ!」


と武田教授が怒鳴る。学生らはうつむく。


 すると武田氏は容赦なく吠える。

「いいか、受け入れ先は忙しい中時間を割いてお前ら実習生を受け入れるんだ。福祉を一生の仕事にする覚悟のない者を送り込むわけにはいかない。

もう一度きく。お前らのうち、福祉を一生の仕事にしようという者は?」


 学生たちは全員手を上げる。


 「ほめ上手の武田」ってだれの話?というようなエピソードである。



 私は「企業内コーチング」を学ぶ人に「軽い気持ちで」学んでほしくなどない。人が人を指導する、成長させるというのは本質的におこがましいことなのだ。そのおこがましいことを学ぶのに必要な態度というものがある。

「自分さえ元気になれればそれでいい」

というたぐいのコーチング研修であれば、おだてて乗せてくれて、軽やかに軽妙に、テンポよくポンポンと進行してああ楽しかった、で終わればよい。そこでは何も学んだり習得する必要はない。「無条件の畏敬と尊重」という精神について考えたり感じたりする必要もない。


 ―ちなみに巷のコーチング研修がやたらに楽しいのは、コーチがクライアントを獲得するための手段としてセミナーをとらえているせいもある。コーチングの資格のヒエラルキーでクライアントの数によって上の資格試験を受けられるようになるので、普通はコーチはクライアントを獲得するのに必死なのである。そのため講師はとにかく自分を「いい人」として売り込もうとする。それが一般的な商業教育というものだ。正田みたいに受講態度の悪い受講生を叱り飛ばすとか、ブログにネガティブなことも書くとかいうコーチはまれである。―


 
 武田氏はこのほかにも、近しい弟子だった人にいわせると、たとえば学長時代に理事会から研究室に帰ってくるとカンカン怒っている。理事たちを口汚く罵る。会議での保身的態度に腹が立ったのだろう。この弟子はアメフトのほうは知らなかったので、

「あの人がほめ上手の武田なんてびっくりだ」

と言う。とにかく気性の激しい人だったようだ。

 カウンセラーとしての武田氏は、「共感を学んでからはクライエントがドロップアウトしなくなった(カウンセリングをやめたりせず、面接室に戻ってきてくれた)」というように、決して先天的に共感能力にめぐまれた人ではなかったようである。



 閑話休題、
 最近、軽いノリ、いい加減な気持ちのご依頼に対してやたらと腹がたつのはなぜだろうか。ゆっくりと下り坂を下っている時代背景、そこへアメリカ的ポジティブな、ナルシシズム半分、浮ついた気分のコーチング研修をいまだに期待する能天気さに腹がたつのだろうか。



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NHKの朝ドラ「梅ちゃん先生」に、この人発達障害?という人が出てくる。


 主人公の梅ちゃんの元同僚で、梅ちゃんと過去には結婚寸前まで行った、「松岡先生」。


 イケメンなんだけど研究熱心なあまり言動が頓珍漢で微妙に可笑しい。このタイプの人が重要人物として出てくるのは珍しく、発達障害かそのボーダーラインの人が今の時代増えていて、付き合い方を模索せざるを得ないからだろう、と思ってみている。


 一部の発達障害、あまり差別的な言い方をしたくないのでここでは「超男性脳」とよぼうと思う。(これも差別的だろうか)


 このタイプの人は、松岡先生のように中には非常に仕事で有能な人もいる。一方で「感情」を感じるのが苦手。

 自分の感情のはたらきがわからない。「見合いに失敗して、ショックだから仕事のほうを頑張りすぎて暴走したのではないか」と周囲が推測しても、「いえ、そんなことはありません」とかぶりを振る。そして他人の感情のはたらきもわからない。「○×先生は、信頼する部下に裏切られてショックだったと思うわよ」と梅ちゃんに解説してもらって初めて「そうだったのか」とわかる。


 松岡先生のように、他人に説明されて「そうですか」「そうだったのか」と納得したり、少なくとも怒り出さないのはまだ非常に筋のよいほうである。多くの自覚のない「超男性脳」の人は、「感情」というものを小馬鹿にする。それは、自分の苦手科目だからである。本人に感情が「ない」わけではなく、客観的には非常に感情的に振る舞うことも多々あるのだが、そこに自分の感情が介在していることを認めたがらない。手前勝手な論理を振り回し論理の問題にすり替える。(「言ってること、めちゃくちゃ」っていうのもよくある)また「他人が悪い」と他責になる。


 多くのパワハラリーダーにはこの問題がある。超男性脳ゆえにフォロワー時代は有能なのだが、リーダーになって他人の感情に配慮しながらチームを引っ張ることができない。こういう人をコーチングで治せるかというと、非常に困難。もしどうしても治したい場合には、発達障害の治療法というか援助法のようなやり方での介入が必要になるだろう。つまり、診断を受けてもらい周囲にどんな問題が起きているか詳細な現状認識をしてもらい、そのうえで援助を受けてもらいTPOに応じた適切な行動を学んでもらう、というような。
 パワハラリーダーには酒や鬱の問題、高血圧、若年性認知症、ご家庭の問題なども複合していることが多いが、その根っこをたどるとご本人のこうした先天的な能力の偏りがからんでいる。


 かつ、恐らくIT時代には、中年期以降にITにはまり込んで後天的に「超男性脳」的になった人も少なくないだろう。
とこれはわたしのくらい予感。


 
 先日は医療機関で研修をさせていただいたが、医療機関というより悪い意味での公務員さんの集団に近かった。女性でも「超男性脳」的な人が相当数混在し、コミュニケーションについて障害に近い能力の低さがある。共感能力が低いので人の話を聴いて理解することが決定的に苦手。しかし自分のその方面の能力の低さを自覚しておらず、他責にすり替える。そうして組織全体に疲弊と悪感情が蔓延する。一部の優秀な人に負荷がかかる。


 そしてリーダーはよくあるように「ポジティブ」で、職員のそうしたソーシャルスキルの低さを障害と関連づけて考えることができておらず、コーチング研修で治ると単純に考えていた。
「いや、彼女は能力と責任感の高い人ですよ」と、ある「聴く能力」の決定的に弱い人について言った。恐らく数字の計算や書類仕事はコンピュータ並みによくできるのだろうが、何ができて何ができないのか、こうした人々には細分化した理解が要るのだ。
 (そうした他人の能力に関する細分化した理解、というのをコーチングや「承認」の応用形と考えることもできる。ただそれにはかなりの訓練期間が要り、遊び半分の2時間や3時間の研修でできることではない)


 そしてポジティブなリーダーは、よくあるように、研修の事前説明をろくにしておらず、

「組織の現状がこういうふうだからそれを直すために研修をする。このことの成否は皆さんの学習に依存する。しっかり学んでほしい」

という説明をしていなかった。そしてポジティブな人がよくやるように、冒頭あいさつで私を「先生」ではなく「さん」と呼び、「皆さん、まあ軽い気持ちで学んでください」と言ったのであった・・・


 見事に「だらっ」とした、椅子の背もたれによっかかって、よだれを垂らしかねない弛緩した表情の受講生が出来上がったのは言うまでもない。

 ―人が人を見下す表情というのは、観察していると見っともない、美しくないものなのだ―


 つい2か月ほど前にもブログに書いたが、ダメな主催者あいさつ、ダメな講師紹介をしてくれるぐらいだったら、一切その手のものなしで、私自身から話しはじめ、自己紹介もしたほうがよいのだ、オープンセミナーのように。


******


 『光圀伝』(冲方丁、角川書店)。大部でしたが一晩で読めました。

 ちょうど姫路師友会でも、「大日本史」の編纂について話題になったところ。


 非常にさわやかな読後感。


 このなかには心からの賞賛がある。認める言葉がある。感謝がある。試すための問いかけがあり、認める表現としての相談がある。

 これまでの歴史小説のように、言葉をけちったりはしょったりはしない。


 そして多くの「師」や「コーチ」が出てくる。


 そして聡明な女性たちが出てくる。女性も学問をし、高度な詩や歌をつくる。男性の相談相手になり、対等に議論する。詩会は男女同席で行う。


 司馬遼らの世代の歴史小説にはなかったことなのではないか。作者は1977年生まれ。


 
 多くの中高年男性は歴史小説をモデリングする。維新の英雄や戦国武将たちの立ち居振る舞いを無意識に真似る。

 (ある、「決断依存的」で「変化が大好き」で「説明不足」のポジティブリーダーは、『竜馬がゆく』が愛読書だった)


 こうした歴史小説の登場を契機に日本の中高年男性の行動様式が変わってほしい、と願わずにはいられない。
 
 
*****


 ものづくり現場のかたがたから宿題が返ってきている。微笑ましい事例のかずかず。

 出来る限りすぐにコメントをしてお返事する。

 研修後1週間の今の段階では、まだ1つ1つ「微笑ましいエピソード」にとどまる。でもその集積が大ホームランになっていく。


 ある受講生さんは、宿題以外に会社に提出した「研修報告書」を参考に送ってくださった。

「今回の研修を通してコーチングの重要性、コーチングにより人材を上手活用し、企業の業績向上へとなる
よう進めて行きたいと思います。」

 という嬉しい言葉があった。


 振り返って、受講生さんたちのコミットメントの高さは、もちろんご本人様たちが元から持ち合わせていたものでもあるが、それ以外に主催者の冒頭あいさつのインパクトも大いに作用しただろうと改めて思う。

 世の中には受講生や講師をガクッとさせる冒頭あいさつもあるし、反対に奮い立たせる、追い風になる冒頭あいさつがあるのだ。
 変に「自分は賢い」と思っている人が、人をガクッとさせる冒頭あいさつをすることがある、それは言葉の中にどうしても「講師より賢い自分を見せたい」という裏の感情が入り込むからである。
 一方でそれ以上に賢い人は、自分が講師より優位かどうかなどは脇に置いて、講師に良い仕事をさせるよう場全体の空気づくりに努め、「場の目的は何か」ということから外れない。それができる人は、私がみてきた中にそうたくさんはいない。



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 9月16日付読売朝刊1面のコラム「地球を読む」は、劇作家山崎正和氏の「『絆』社会の幸福と焦燥―『日本人論』再考」だった。


 ロンドン五輪での日本選手団のチーム競技での強さをふりかえり、「絆」「集団主義」から過去からの日本人論を踏まえつつ、自説の「柔らかい個人主義」を提唱。


 山崎氏による「柔らかい個人主義」とは、本コラムによれば、


「私自身もそのなかで、・・・日本人が実は、将来の個人主義の普遍的な理想像をめざしていると考えてみた。従来の固い個人主義が自己主張の姿勢なのに対して、柔らかい個人主義は自己表現の態度である。主張は他人と対立するが、表現は認めてくれる他人がなくてはならないから、自己表現者は尊敬に値する隣人を積極的に求めるはずである。

 互いに表現しあい、認め合う場は、それ自体が固い組織ではなく、「社交」と呼ぶべき緩やかな人間関係になる。組織がメンバーシップの殻を持ち、強い指導者とピラミッド型の指揮系統を備え、力を評価基準にしているのに対して、社交はすべてその逆である。中心人物はいるものの、権力も指揮系統もなく、自由な個人が自発的に集まるのだが、そのさいの評価基準は人間的な魅力である」


 さて、

 私は山崎氏と面識があるわけではない。だから逆にこのブログでひっそりと思うところ(ようするに反論)を記しておいてもわるくはないと思う。

 別に「公開反論」とまで気張ったことを考えているわけでもない。私なりの見方はこうだ、ということ。


1)平均的な日本人が遺伝子的に不安感が強く、またその形質ゆえに、「集団主義の度合い」を国民ごとにプロッティングすると、世界で集団主義の最右翼にくる。(韓国、中国はわれわれからみると個人主義的なようだがやはり日本に次ぐ位置にあり、欧米諸国はそれに対してはるかに個人主義の度合いが高い。昨年2回にわたりとりあげたスウェーデンもそう。「不安感」が「集団主義」の原動力であることはほぼ定説といってよさそうだ。


2)かつ、個人としての日本人はけっこう怒りっぽいことも心理学調査であきらかになっている。一定期間中に怒りを感じた回数や度合いが国際比較で高い。しかし一方であきらめやすい性格でもあるので、「怒りを感じたが抑圧した、表現しなかった」の頻度が高い。
「怒りっぽいけれどもあきらめやすい日本人?」http://blog.livedoor.jp/officesherpa/archives/51437510.html



3)上の1)2)を総合すると、不安感ゆえに集団志向的に振る舞うが、個々人の心にはそれでは満たされないものが鬱積している。しかしそれを表出することは避ける。一杯飲み屋で愚痴を言って憂さを晴らし翌日はけろっと出社するサラリーマンの姿が思い浮かぶ。集団を志向するが心には怒りを抱く、アンビバレントな態度、それが遺伝子学、心理学の研究で浮かび上がる日本人である。それを「柔らかい個人主義」「個人主義の理想像」とまで称揚するのはどうだろうか。


4)日本人にみられる集団への反発心や帰属意識の薄さをとりあげて「日本人は集団主義などではない、個人主義だ」という議論も存在するが、1)の研究がいうように国際比較ではやはり集団主義が優位であって、一方で近年の傾向としては過去の文化にはなかったナルシシズムが勃興し、「認められたい」という感情の高まりから集団に対して怒りを感じる度合いが強くなっているとも考えられる。それは、私見では個人主義といえるほど自立した個人に立脚したものではないのではないか。


5)べつの視点。上記の記事の中で山崎氏は
「主張は他人と対立するが、表現は認めてくれる他人がなくてはならないから、自己表現者は尊敬に値する隣人を積極的に求めるはずである。」
と述べるが、ここは論理的に無理があるように私には思える。
単純化すると、Aさんは自己表現するのが好きである。△靴燭ってAさんは自分の自己表現を認めてくれる人を求める。Bさんは尊敬に値する人物である。したがってAさんを認めてくれるはずである。い靴燭ってAさんはBさんを求める。 ―と、いうことを言っている。
Aさん、虫が良くないか。
次のパラグラフではそのあとすぐに「互いに自己表現しあい、認め合う場」というのが出てくる。いきなり理想郷の誕生である。
わたしに言わせれば、「自己表現」は精神年齢が低くても表現力が高ければできるが、「認める」ことは精神的に大人でなければできない。子どもと大人の組み合わせなのである。自己表現をして、それを人に認めて欲しい、というのは、子どもが大人に甘えているのと一緒なのである。一方的にしゃべって人に聴いてもらうのを当然と考えている人も甘えだし、もうひとつ言うと言うべきことをちゃんと言わないで「わかってくれよ」と期待するのもそう。
山崎先生、甘い。きっと家で奥さんに甘えてるでしょ。
「認めて欲しい」から、「認め合う」に移行するためには、すべてのメンバーが「認める」という大人の行為をするよう努力して、初めて可能なのである。
山崎氏はやはり「劇作家」でいらっしゃるな、と思うのは、「表現」ということを「認める」ということと等価のように、すごく大切な高次のもののように言っている。
私は身もふたもない人間なので、「表現する」は、単にアリになりそこなったキリギリス型人間(私をふくめ)が自分の特異な遺伝形質を生かすためにやることで、大して立派なことではないのである。
文化人という人種はおおむねキリギリスのちょっと高等なものなので、「表現する」を過大評価する傾向がある、と思う。かれらにはそういうバイアスがあると思って読まねばならない。
ほんとうはアリの行為、「働く」ということがもっとも称揚されるべきものなのだ。
「主張」と対比して「表現」はいいものだ、という論法は、「議論」より「対話」がいいものだ、という対話の先生方の論法とちょっと似ている。


6)「認め合う場」は、企業などの目的追求型の組織では実現しえないかのように言っている。「認め合う」は、目的追求型でない社交型組織ではじめて可能なのだという。しかしこのコラムの冒頭で取り上げた集団スポーツの勝者たちは、「勝つ」という目的追求のゆえに「認め合う」という行為をもしたのではないか。


7)社交型組織では「人間的魅力」が評価基準なのだという。地位とかが基準よりいいのかもしれないが、なんだかそれも息苦しいなあ、と思う。介護や育児、家族の問題で眉根にしわ寄せてる顔の人は魅力がないから評価が低いのだろうか。わたしはもっと子どもが小さかった頃や鬱、不登校の子どもを抱えていたころ、自分が100%天衣無縫な幸せな表情ができないことが仕事上いささかつらかった。そういうときは独身者で重荷のすくない同業者がうらやましかった。



 ああ、しょもない反論をしてしまった。大して存在感のないブログなので許してください。

 ほんとうは全体としてはおもしろい論考だったのだ。



 ところで、このところ気がかりなことがある。

 以前、『働かないアリに意味がある』をこのブログで紹介したこともあるが、「キリギリス」あるいは「働かないアリ」の比率が、IT化した先進国病の諸国では上がっているのではないか。

 もともと、男女の脳の比較では男性より女性のほうが学習能力、意欲とも高いといわれる。男性はそれより「システム化」の能力が高い。その「システム化力」を、ゲームやSNSが絶え間なく吸い取る。と、見事にリアル生活では意欲のない、言われたことしかやらない、責任感の低い、打っても響かない男の子が出来上がる、のではないか。

 
 誘惑の多い今の世、(わたしたちの世代もそうだったのだが)ちょっと誘惑に弱い形質のある子だとすぐ脇道にそれる。本筋で額に汗して長い時間努力して、というのがむずかしい。

 その、「ちょっと誘惑に弱い形質」が命取りになる。親ももうコントロールできない。


 世間にはITで若くして成功した人のことが喧伝されるが、誘惑に弱くてITにはまりこんだ弱い個体の子がみんながみんな成功するわけではない。

 職場の「責任感の偏在」の問題が出てくるたびにそんなことを思う。
 

 
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 12-13日、兵庫工業会の管理監督者大会に講師として登壇いたしました。

 兵庫県内のものづくり企業から48名の受講生さんが参加。昨年よりやや少ない。今年は全員男性。


 そしてご一緒に講師をされる方々も私以外全員男性、いずれもものづくり企業出身の、社長経験者など錚々たる方々なのに、そこにまぜていただいています。


 担当した初日の分科会「コーチング〜承認・ほめる」の受講生さんは11名。冒頭から皆さん活発にご発言いただき、講師は全然苦労しなかった。ものづくりだから無口、というイメージは過去のもののようです。

 この世界でもコーチング研修は既に一巡。とはいえおおむね1日研修などで入っているので、その結果「承認」という、もっとも重要なパートが入らなかったために、全体があまり浸透しなかった、という結果になっている。

 今回は「承認」だけで6時間と、贅沢な時間のかけかたをさせていただいたが、時間が余るかというとまったくそんなことはなかった。何しろ関連で乗り越えなければならない課題が皆さん多いのです。


(そういうことは、以前「承認研修」に参加して「テンポが遅い」とかのたまった30代の人事のおねえちゃんにはわからん事なんだと思う。みんな研修を聴いては自分のもっている現場の現状を参照するのが正しいし、その過程で「内省」もする。「内省」をするとみんな自分から低い声でゆっくりした話し方になる)


 ものづくり現場の人員構成は年々複雑になっている。派遣・パート、女性、年上部下・・・、


 中には、「自分が入社した当時の上司が今の部下」なんていう逆転現象もある。どれだけやりにくいでしょうか。

 そして案の定、「雑談の時間がない」ことが問題になりました。


 受講生さんからは


「この研修を上の階層も受けてほしい」

「人事に研修報告のとき、この教材のシートを報告書につける」


と、「必要な研修だ」という意味をこめての大ブーイング。

 そして「エビデンスが必要だ」と、効果計測の統計調査を慌てて部下にもとることに。

(行き違いで、上司の受講生本人にしか調査紙がいってなかったのだ)


「皆さん、ちゃんと実践してくださいよ」

「はい」

 元気なお返事のあとに、

「・・・でも恥ずかしいなあ」
「急に(承認を)言うと変だよなあ」

受講生さん同士、顔を見合わせていました。


 30代から40代の現場監督者の皆さん。


 過去の上司などを部下にもちながらものづくり現場の運営、かれらはかつてなく「大人」のマネージャーにならなければならない。

「過去の上司はこんなことやってなかった」

なんてことを言ってるひまはない。

「承認」の表の上から下まで駆使しないと、という世界。使えないでいれば、自分に負担がきて、潰れかねない。


 なにせ管理職の在職死亡も5年前と比べて1.7倍なのです。



 胸痛む思いを抱えつつ、こんどは医療機関向けの資料をつくっています。


 医療関係者にお役に立ちたい、これも積年の念願の1つでした。差別される性にうまれスローペースの私、11年目の今年初めて実現します。



 いずれにしても、わたしの研修は事務局の方に多大なご負担をお掛けします。この場を借りて兵庫工業会事業推進部長の福田さん、ありがとうございました。




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 兵庫県中小企業団体中央会の会報、月刊「O!」に連載中の「誌上コーチングセミナー」新装第3回。

 今回は、ある中小企業での若手育成の取り組みと、行動理論の「褒めて伸ばす」をとりあげました。
 同誌編集部のご厚意により、転載させていただきます。


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 気付かないうちに「人」の問題が起きて、成長の足かせになっている…そんな現象があなたの会社にもありませんか?「人」の問題によく効くクスリ、「コミュニケーション」「リーダーシップ」の観点から解決法をお伝えします


「われわれ中小企業に来る若い人は、いいところを見つけて褒めて伸ばすしかないんですよ」
と、製造業経営者のTさん(67歳)。
 Tさんは社員20名ほどの鋼材加工の会社の社長。大企業から中小企業の経営に転じ、中小での人材育成の難しさをいやというほど味わってきました。「褒める」ということに出会ったのは60歳を過ぎたころだったといいます。
 今年入社した新人について、Tさんが採用したのは「ノート方式」でした。
「それぞれに大学ノートで『教育訓練日誌』を作り、毎日本人に記入させ課長、私と目を通しコメントをします。幼稚園や小学校で先生と生徒の『連絡帳』というのがあったでしょう?あれと同じです。」
 小学校時代に戻ったかのような、連絡帳のやりとり。社長も課長も毎日のことで大変だ、というのですが、
「今の若い人は、人の話を聴いてないですね。すぐ『きいてなかった』『教えてもらわなかった』という。だから連絡帳です。機械の操作の手順まで本人に書かせます。こちらからは、進捗状況に応じて注意すべきことを列記。『わからなかったことは自分から訊くように』ということは、何度も言います。仕事の中で気になったこともその日に注意します。あとから言ったらダメですね」(Tさん)
 IT時代に育ち、注意力散漫な現代の若い人。大学でも私語や携帯メールのために授業が成り立たないところがあるといいます。そんな若者の現実に鑑み、知恵を絞った結果がこのやり方。そして「良いところを見つけて褒める」という、これも時代の流れでしょうか。
 
 さて、こういう気づきに至った経営者さんは、決してまだ多くありません。
 過去の成功体験に縛られていると、なかなか「今の子」についての解はみえてこないもの。思い切って手放し、虚心に現実を見つめたいものです。
 
 ここで、「なぜ、人を育てるのに褒めることが必要なの?」首を傾げる読者のかたのために、「褒めると伸びる」という現象について、簡単にご説明しましょう。当コラムで繰り返し強調する「承認(認める、褒める)」という手法の中でも、「良い行動を褒める」は重要な柱です。
 心理学の行動理論(学習理論ともいう)の中に、「人は、ある行動のあと褒められると、その行動を繰り返しとる性質がある」(強化)という原理があります。ある行動をとって、その結果よいことが起こる。人から褒められることは嬉しい刺激ですし、ほかにも相手が返事をする。何らかの良い結果が得られる。お金や物のご褒美をもらう、なども、嬉しい刺激となり、それを励みにその行動をその後も繰り返し頻繁にとるようになるのです。脳科学で「強化学習」というのも同じ原理です。
 この性質を利用して、人にある行動をしょっちゅうとってほしければ、その人が一度でもその行動をとったときにすかさず褒めてあげればよい。これを繰り返すと、より複雑・高度な行動を自発的にとってくれるようになり、これを「形成化」といいます。人は多くの場合、こうしたプロセスで成長していくのです。
 読者の皆様も、「だまされたつもりで」まわりの人の良い行動を褒め、そのあとの行動の変化を観察してみてください。
 「褒める」ことには、「行動を褒める」のほかにも様々な種類があります。ただ、行動でなく人格や才能を褒めたとき、「人を伸ばす」ことにはつながらないので注意が必要です。「あなたは賢いね」ではなく「頑張ったね」と褒めてあげたほうが、その後も恐れずチャレンジをする人になることも実験でわかっています。
「伸ばし上手」「褒め上手」になってみたい方は、まずは基本の「良い行動を褒める」ことからトライしてみてはいかがでしょうか。


筆者プロフィール・NPO法人企業内コーチ育成協会代表理事。1963年生まれ。
通信社記者、医薬翻訳者を経て2001年、ビジネスコーチ開始。特に管理職育成を得意とし、非営利のマネージャー教育により全国1位、社内1位といった「トップマネージャー」を輩出。
2008年より現職。よのなかカフェ、承認大賞といった社会人教育のイベントも主催する。
著書に『認めるミドルが会社を変える』(カナリア書房)など。
NPO法人企業内コーチ育成協会
URL:http://c-c-a.jp
電 話:078−857−7055
メールアドレス:info@c-c-a.jp



【月刊中央会「O!(オー)」2012年9月号 所載


 あすから兵庫工業会の管理監督者大会。正田は、初めてここで講師を務めます。


 ゆっくりとではあるが、「夢」を実現しているのだろうか。

 「ものづくり企業のかたのお役に立ちたい」と漠然と思っていた、という、夢と呼んでいいのかどうかわからない夢。


 「承認」という、ものづくりと直接関係あるのかないのかわからない「ぬえ」のようなものに、よく分科会を持たせていただけたなあ、と思う。


 このところ、「叱れない」に関する報道があちこちで目につき、それについてレスポンスが出た(ありがたいことに受講生さんから。認めているからこそ叱れる、と実体験で)ので、

「承認」との関連性がやっとわかり易くなったかもしれない。「規律・規範を守れる組織づくり」という文脈で。


 ところで、「ものづくり」については、今日出た?日経ビジネスオンラインの記事でまた、河合薫さんが書かれています:

 「『もはや幻想?』日本のものづくりも損なう”生産性命”の愚行」

 http://business.nikkeibp.co.jp/article/manage/20120909/236568/?rank_n 


 生産現場での「無駄をなくせ」「おしゃべりをなくせ」という風潮に、このところ河合さんは繰り返し疑義を呈しているが、これもその中の1つ。 このブログで「早口病」を揶揄してきたわたしも大いに賛成する。

 これだけ同じことを繰り返し書かなくてはならないほど、その風潮は激しいのだろうか。


 ・・・ちなみにわたしも「純粋な無駄口」というのは苦手なほうで、営業トークとして芸能ネタ、面白ネタを振れ、といわれても、「早く本題に入ろうよ」とイラッとするほうです。だから「無駄口」がつねに素晴らしいとも思わないのですが、やはり「程度問題」・・・


 最近よくいうのが、「生産性」というものを、「ライン単位のスピード」としてだけ解するなら、それ急げやれ急げでいいかもしれない。でも連絡の取りこぼし、というのが全体の生産性にものすごく影響する。要するにコミュニケーション。

 そしてその「コミュニケーション」というもの、少々の傾聴研修で、あるいはプレゼン研修で良くなるかというと、そうではない。

 「あの人の言うことはきく、この人の言うことはきかない」という、人の心理があるから。

 
 スピード一本槍の「生産性」の発想で、失うものは、たとえば河合さんのいうように創造性やメンタルヘルスもそうだし、多様性(「早口病」の人は、育児介護といった「生老病死」を身近に体験しているのだろうか?と心配になる)、知識共有(ようするにコミュニケーションともいえるしそれ以上ともいえる)、チームワーク、
・・・などなど。


 一方で、このところまた「コーチング」「対話」が復権してきた、というのも、こうした風潮を転換させようとするうごきだろう。

 同じく日経ビジネスオンラインで、ある研修の記事が流れた。

 「”ねずみ算”式に対話を増やす
   部門の壁を打ち破る改革が始動」

 http://business.nikkeibp.co.jp/article/report/20120905/236420/?P=1


 日立化成工業での、コーチ・エイ社研修の取り組み。


 いささか「大本営発表」ぽくもないが、1−2年に一度こうして大規模コーチング研修の記事が流れる。



 良いことだと思いつつ、ひがみっぽいわたしにはわだかまりもある。

 それは日本の歴史に、風景にどのように馴染み溶け込んでいくのだろうか、と。



 きのう久しぶりに会った柏原さんにきかれた。

柏原さん:「この『100年後に誇れる人材育成をしよう』って、最近急に言われてますよね」

私:「はい、今年の年頭スローガンとして最初は言ったんですけど。当分使おうと思っています。日本人には『承認』、それは皆さんの実践をみていても間違いないことだと思いますので。」


柏原さん:「それは僕も間違いないと思います。やっててそう思うので」


 柏原さんのお話もおもしろかったが、それはまた今度。




100年後に誇れる人材育成をしよう。
NPO法人企業内コーチ育成協会
http://c-c-a.jp

 通信社時代の先輩の方々とお食事した。


 中国通で、香港、北京、上海の特派員・支局長を歴任されたSさんと、ロシア通で、バンコク、モスクワ、ワシントンの特派員・支局長、そして外信部長を歴任されたNさん。それぞれ今は大学教授になられている。

 
 とくにSさんとは20年以上ぶり。65歳退官を目前に控えているという柔和な笑顔にあれ、こんな人だったっけ、と拍子抜けした(失礼)。


 Sさんには、強烈な思い出がある。Sさんは会社の中の「中国通」の系譜の中での先輩でもあるのだが(私は「通」というより「屋」。中国屋だった)、私が入社した1年目の8月に北京へ赴任されたから、ほとんど接点がない。ただ一度、「中国通」の人々の親睦会のようなものがあり、そこでのこと。


「そんなに大口叩くなら地方で『朝日3段』やってみろ!!」

 
 これがSさんのそのときのセリフ。それに対して私は「ああやってやる」みたいなことを応じたはずなのだが、さすがに1年生社員でそんな言葉を言ったかどうか。

 
 何のことを言っているかというと、私が何かの拍子に

「上の人が二言目には『女の子だからあれやらせられない、これやらせられない』と言う。地方勤務だって、普通のコースなんだから経験したいのに『女は行かせられない』みたいなことを言う。そうして向こうでドアを閉めてしまう。他社ではとっくに女の子の地方勤務など当たり前なのに」

 等と愚痴っていた。

 それをきいたSさん、当時は香港から帰って社会部でバリバリの警視庁回りだったのだが、


「生意気言うな!お前にサツ回りの夜討ち朝駆けができると思うのか」

と吠えた、という次第。


「朝日3段」というのは、通信社の仕組みをしらない人だとわかりにくいかもしれないが、時事通信社から特ダネを出すと朝日読売毎日・・・などの一般紙に情報が入り、それが無視しえない情報であればたとえば朝日にそのまま使われることもある。重要度で見出しの大きさが変わり、「3段」だとかなり大きい特ダネだ、ということである。


「そんなに言うなら朝日3段やってみろ!!」

 1年生の女の子にこんなふうに咬みつく人もまあ、そんなにはいないと思う。

 ところがこの言葉は、当時の私には「エール」として響いていたのだった。

 均等法の下の総合職採用2年目の代、上司からの扱いはつねに「おっかなびっくり」だった。上に書いたような、「地方勤務やらせられるのか」に始まって、「夜勤やらせられるのか」「サツ回りやらせられるのか」「叱ったら泣いちゃうんじゃないか」等々、何かといえば上司の不安(ほとんどは取り越し苦労)をぶつけられる毎日。上司との会話の大半がそれで、腐っていた。


 その後めでたく地方勤務で行った先が広島で、「朝日3段」そのままではないが、十分それに代わる規模の特ダネを続けて書き、一時期は社内報に毎週名指しでお褒めをいただくような仕事をした・・・ 


 だれも事前に期待してくれなかった。かえって、酔っぱらいのからみのようなクレージーなSさんの「朝日3段やってみろ!」が心の支えになっていたふしがある。


 しかしこのたびお会いすると、Sさんはしきりに反省の弁を口にされた。


「あの頃はなあ、狂ってたんだ。毎日ハイヤーで警察官の家に夜討ち、自分の家に帰るのは夜中の2時か3時。それも気が立って考え事して眠れない。いつしか自分がどんどんおかしくなっていく。おかしかったのが自分でもわかる」


 ふーん、そうだったのか。


 私にとってその言葉がどう作用したかとはまったく別に、言葉を発した人にはその人の事情がある。それぞれの文脈がある。


 
 自分を育てたのが厳しい上司の叱責だった、という思い出をもつ人も、だから考えてみてほしい。

 その上司はどんな状況に置かれていたのか。また自分はどんな文脈をもってその言葉を受け止めていたのか。

 いま会ったらその上司はあなたに何と言うだろうか。


 思い出はあくまで思い出以上のものではない。「朝日3段」のエピソードも、だから、ほかの人にとっての人材育成を考えたり論じるうえで参考にしたことはないつもり。





100年後に誇れる人材育成をしよう。
NPO法人企業内コーチ育成協会
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 さて、「起きた現象にきちっと対処する」ことはべつにわるいことではないのだと思う。


 世間にはいまだ、というか、ますます”変な説明”がはびこっている。

 最近私がきいたあるセミナーでの説明。メジャーなマスメディア主催の準公的なセミナーである。特に名は秘す。


(×)コーチングはカウンセリングと同様、内省支援の手法である。

⇒一義的にはコーチングは行動促進の技術である。内省支援の機能「も」もっている、というほうが正しい。エグゼクティブ・コーチングなどでは内省支援のほうにウエートがかかることが多い。またコーチングでも流派によっては、内省支援を「売り」とするところもある。当協会のコーチングは行動理論の武田建氏を引用しているのでもわかるとおり…。



(×)外資系企業ではマネジャーの機能は育成ではない。外資のマネジャーにきくと「われわれの役割は育成ではない、チームマネジメントだ」という。

⇒P&G出身のマネジャーにきくと、同社でははっきり「マネジャーの役割は育成」と位置付けていた。高い業績を上げているマネジャーでも、部下の育成がうまく行っていなければ評価を高くしない。「外資系でも転職者をあまりとらない企業とそうでない企業の違いではないか」とのことだった。米国でも家族主義的な経営をしているエクセレント・カンパニーはおおむねそう。



(×)コーチングは1対1で行われる。マネジャーは沢山の部下をもつ。忙しい職場では1対1だけでは上手くいかない。

⇒2通りの反論が考えられる。(1)コーチングにも「グループ・コーチング」というジャンルがあり、1対他でコーチングを行うのは珍しいことではない。ただトレーニングでは基本の「1対1」で行うことが多い。(2)多数の部下をもつマネジャーであっても、個別面談は強力な武器である。部下がいかに「個」として扱われることを渇望しているかは、驚くべきほどである。わたしの経験した中では最大80名の部下を抱えるマネジャーが全員と個人面談を行い、その結果目標達成をした。


・・・

コーチングではない、新しい手法を売らなければならないのだ。市場は新しい商品を求めているのだ。主催元はそう考えたに違いない。

たしかにこの市場は飽きっぽい。しかし、すでにあるきわめて有効な手法を否定してまで新しい不完全な手法を売らなければならないこともないだろう。


このセミナーで推していた手法は、わたしがきいている限りその手法単独では効果を上げられない種類のものだった。結局はマネジャーたちに、コーチング的なトレーニングも施さなければならなくなるはずだ。


ただ現実にはそこまで研修に時間をかけられる企業は少ない。


そして周囲のマネジャーたちとディスカッションした中では、


「結局は『認める』『認め合う』ことですよねえ」

という話になった。


そこからトレーニングに入った方がはやいのだ。


世間にはこのほか、どれだけ多くの真実ではない情報がとびかっていることだろう。

たのしくはないが、そういう「勉強」もしておかなければならない。




100年後に誇れる人材育成をしよう。
NPO法人企業内コーチ育成協会
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 「瞑想」「マインドフルネス」に関する本をこのところ読んでいます。
(集めています、と言ったほうがいいかもしれません;;)


 スピリチュアルは嫌い。なぜ嫌いかをたどっていくと、要するにスピリチュアルオカルトOKだと、「なんでもあり」に最終的にはなってしまうから。教育をする側が恣意的なことを言えてしまいロジックなんてどうでもよくなる。ということは、教育をする側の一方的優位、ということになりフェアプレイでなくなる。そういうのはおおむね教育を受けた側からその先へ連鎖していく・・・


 で、あまりスピリチュアル系のことをこのブログでも話題にしないようにしているのですが、例外的に「瞑想」はときどき登場する、というのはご存知のかたもおられると思います。去年の春は、「U理論&瞑想」の2日間研修にも参加してしまいました。


 瞑想で脳波がどうなる、脳の形がどうなる、というのも今世紀に入ってからホットな研究テーマのようです。

 そして「マインドフルネス」は近年、うつ治療法としても関心を集めています。


 そのうちの一冊、『マインドフルネス―気づきの瞑想』(バンテ・H・グナラタナ著、サンガ、2012年9月)は、アメリカで出版された「瞑想」についての古典だそうです。


 どうでもいいけどこの関係の本はどれも高いです。2000円を超えるのがほとんどです。


 読了して、れいによって我田引水気味におもうのは、「承認コーチング」がなぜマネジャーたちのもとでこれほどまでに効果を上げるのだろう?


 この仕事に入って11年、その後半数年は、つねに頭の中にこの問いがありました。


 「瞑想」とのからみで出したひとつの答えは、

 「瞑想」が瞑想中だけではなく日常生活にもたらす良い効果、

 すなわちつねに「気づき」とともにある。感覚が鋭敏になり、良いことにも悪いことにもへだてなく、虚心に現象に気づく姿勢を維持し続ける。そのことが高い問題解決能力をもたらす。

 これと同じ効果を、当協会方式の「承認コーチング」はもたらしているのではないか?ということです。

 (もちろんこれ以外に、「人材育成能力の向上」とか「コミュニケーション能力の向上」という、それら自体価値のある効果もあり、それらはむしろ「瞑想」にはない効果です)


 こうしたことは、あくまで「仮説」であります。表だって宣伝文句としてうたえるわけではありませんが、これまでのわたしの実感とは合致することです。このブログに「あくまで仮説です」とお断りしたうえで、書いておくぐらいは許されるでしょうか。


 それでは、わたしがこうした感想をもつにいたった本書の中の記述をいくつか引用いたしましょう:



 
気づきとは、エゴのない注意力のことです。エゴがなく、気づきます。気づくことによって、「私」とか「私の」「私のもの」などの概念を入れずに、あらゆる現象を見ることができます。たとえば左脚に痛みがあるとしましょう。通常の意識では「私の脚が痛い」と思うでしょう。気づきを使う場合は、感覚[痛み]をただ感覚[痛み]としてのみ観察します。「私の」という余計な概念は付け加えません。そのように気づくなら、認識したものに何かを付け加えることもなく、何かを減らすこともなくなります。何かを強調することもしませんし、誇張することもしません。そこにあるものをあるがままに観察するのです。

 気づきとは、変化を認識することです。流れている感覚を観察することであり、変化している現象を観察することです。すべての現象の生起、成長、成熟を観察することです。(p.266)




心の奥深くには、美しくて楽しいことは受け入れ、醜くて痛みがあることは拒絶する、という構造が埋まっています。この構造は、私たちが取り除こうと努力している心の障害物―貪り、欲、憎しみ、怒り、嫉妬などを引き起こします。心の障害物を取り除こうとするのは、障害物という言葉が一般的に悪い意味だからということではなく、障害物が心をとらえて離さないものだからであり、心を占領して注意力をすっかり奪ってしまうからです。また、固くて狭い思考の中でぐるぐる回転し続け、現実から私たちを切り離してしまうからです。(p,.277)



 正田の我流解説(1)・・・最近のこのブログで、人々が「ポジティブ」であり問題解決が遅れる、ということを何度かとりあげました。詳しくいうと、「ポジティブ」は「嫌なことは考えたくない、ききたくない、見たくない」という性質をもった資質です。こういう人達は外の世界をみるとき、「ポジティブバイアス」をもって見ます。「楽しいことしかみたくない」のです。「嫌なこと苦しいこと不快なこと」は自分に嫌な感情を起こさせるので、「ない」ことにしてしまいたいのです。こういうバイアスをもっていると、その人の情報収集能力や問題解決能力は半分以下に落ちます。

 いっぽうで「ネガティブバイアス」をもっている人もみます。この人たちは問題解決能力は高いかもしれませんが、ネガティブなことにばかり目を向けていて良いことをみることが苦手なので、人を伸ばすことは下手でしょう。ネガティブな指摘ばかり受けて伸びることのできる、ごく一握りのゴールドメダリストたちしか伸ばすことはできないでしょう。

 「へだてなく現象をみる心の状態」は大事です。それを妨げるのはその人のもっているバイアスともいえるし、煩悩であるともいえるでしょう。

 「承認コーチング」が成果を上げるという場合、それは「承認」を、「褒める」という部分的理解にとどまらず「へだてなく現象をみる、変化をみる」という認識の方法(気づき)にまで大きく解釈をしてくれたマネジャーのもとで起きます。

 できるだけ多くの方が「褒める」ではなく「現象に気づく」ことにフォーカスしてくださるように、宿題の出し方もそれに向けてデザインしています。・・・ということに気づいてくださった方もおられるでしょうか。


 当協会方式の「承認」が、なにか宗教的な「気づき」「悟り」のようなものと通じているようだ、と思ったことは何回かあって、

 かつて自治体で高い成果を挙げたあるマネジャーは、「承認」に出会うまではネガティブバイアスの人で、課を良くしようと試みるも課員がついてこない状態でした。しかし、「承認を学んでから、職場に戻ってよくみると、課員たちの顔は輝いていた。『プロの顔』をして仕事をしていた。なんと素晴らしい仲間と仕事をしているんだろうと思った」と、いいます。こうした、一気に「視界良好になる」劇的な体験をする人も中にはいる、ということでした。

 
 またこのブログによく登場する林義記さんが、「ご回向する=徳を回すということが『承認』を通じてできるのだと思います」と書かれたように、「承認」それ自体は単純な行動トレーニングであるものが、人によっては「徳」という(拡大)解釈をしてくれる余地があり、自発的に拡大解釈をしてくれた人のもとでは高い成果が出る、のでした。



 
気づきとは、心が鋭敏であるということです。心は何かに囚われて苦しんだり、悩みに縛られたりしていません。何が起こっても即座に対応することができます。本当に気づいているとき、神経系は新鮮で弾力性があり、それによって智慧が現れます。問題が起こったときは素早く、無駄なく、混乱を最小限に抑えて、サッと対処できるのです。どうしたらよいのかわからずにおろおろすることはありませんし、静かな片隅に逃げて座り込み、それについて思い巡らすこともありません。ただその場で対処するのです。まれに解決法がないような状況でも、問題について悩むことはしません。ただ気づくべき次のことに気づき、先へ進みます。直観が具体的に働くようになるのです。(p.313)



 正田の我流解説(2)・・・これは、まさしく「基礎C」の感情プログラムの狙いとするところ。以前にも「マインドフルネス」と当協会の「基礎コースC」のプログラムとの類似性をとりあげましたが(酒井穣氏の著書の紹介だったと思う)、過去の「基礎C」の開催報告の記事にこういうものがあります。

 「心の柔軟性をいつまでも忘れずに コーチング講座基礎コースC 開催しました」(2010年8月)
 http://blog.livedoor.jp/officesherpa/archives/51623353.html


 「リーダーの決断力に『感情』がどう関係するのか。決断とは思考ではないのか」

 とお叱りを受けるかもしれませんが、どっこい「意志」や「決断」は、「感情」のはたらきのかたまりです。

 自分の経験するすべての感情を「へだてなく」認識し、それにふさわしい場所を与え、という作業をして初めて精度の高い決断、あるいはタイムリーな決断というのはできるのです。「へだてなく」というのは、「怒り」「恐れ」もまた、わるいものとしてことさらに退けない、ということです。

(ここでやはり、「恐れ」という感情をことさらに回避するあまり傍からみておかしな決断、あるいは決断の先送り、をしてしまう人は多いです。上記の記事の中では、「恐れの認識をできない中高年男性はこころが柔軟性を失う」ということを言いました)


 自分の感情をまんべんなく経験する、ということは、当協会プログラムにおいては正式には「基礎C」ではじめて登場するのですけれども、でも決して1回それを受講したからといってできるようになるわけではありません。非常にむずかしいことです。ただ感覚の若い人、このブログを隅々までよく見ていてくれる人だと、「先取り」してそこまで体験しているかもしれません。あるいは「基礎A」の内容も、拡大解釈すればそうした内容を含んでいる、と言えるかもしれません。


 そんなわけで、「マインドフルネス/瞑想」は、当協会プログラムを受講される方にとっては、いわばサブテキスト的な役割を果たすでしょう。正田自身はご指導する資格をもちませんが、瞑想に関しては新書でも何冊か指導書が出ていますので、手にとっていただきたいと思います。悪い感情の溢れているこんにち、「承認するリーダー」たちにとっても良いこころの解毒剤となりそうです。


 
 さて、「慈しみ」という感情についての章があるこの本には、私がいまだできていないことについての高いチャレンジも出てきます。

「嫌いな人、敵意をもっている人にも慈しみを持てるか」

 自分の成長のため、あえて目をそらさず、それも書いておきましょう。


 身体を強くするために歩いたり走ったり泳いだりするように、慈しみを定期的に実践すれば心が強くなります。・・・心が強くなるにつれ、困難な人にたいしても慈悲の心を向けることができるのです。

 私の嫌いな人・私を嫌っている人々が、幸せで安穏でありますように。危害がありませんように。困難がありませんように。苦しみがありませんように。いつも成功できますように。(p.351)



 敵意を持つ人たちの成功を願うとき、それは俗世間の成功や非道徳な行為、不正な行為が成功するようにという意味ではありません。精神面での成功を意味しているのです。敵意を持つ人が精神的にうまくいっていないことは明らかです。もし精神的に成功しているなら、他者に害を与えるような行為はしないでしょうから。

 敵意を持つ人に対して「成功しますように」「願いごとがかなえられますように」と言うときはいつでも、「彼らの怒り、欲、嫉妬がなくなりますように。穏やかで、楽で、幸せでありますように」という意味です。なぜ意地悪で残酷な人がいるのでしょうか?もしかすると、彼らは不幸な状況のもとで育てられたのかもしれません。もしかすると、それまでの人生で敵対的な行動をさせるような状況があったのかもしれません。ブッダはそのような人のことを、重い病気で苦しんでいる人と同じであると考えるように、とおっしゃいました。(p.352)



 私に害をもたらす人々が、欲、怒り、嫉妬、恐怖から離れられますように。慈しみの心で包まれますように。身体の全細胞、すべての血液、すべての原子、すべての分子と心が、慈しみで満たされますように。身体が安らぎますように。心が安らぎますように。身体と心が慈しみで満たされますように。慈しみの安らぎと静けさが全身に溢れますように。(p.353)


 

 ふー。入力しているうちにこころが落ち着き、穏やかな気持ちで満たされるのがわかります。読者のかたにもおすすめですよ、こういう文章を写し書きしてみるって。

 当分この境地にはたどり着けないであろうけれど、いつかあるかもしれない到達点として、書いておきました。


 現実的に「敵意をもつ人」「害をもたらす人」として想定されるのは、たとえばネットの「悪口世界」にはまり込んで毒のある感情をいっぱい抱えて、何かのきっかけでそれらを垂れ流す人とか、わたしのしていることに見下しを投げつける「異教」の人びととかです。


 せっかく学んでくれた人もすぐより知名度の高い「異教」に流れ、次に会ったときには傲慢と見下しの世界の人になっている、というかなしいことも経験してきました。ナルシシズムを教えるほうが今の時代、商業的に成功しやすいのです。ただそうなった人々がマネジャーとして成功するか、というと話はまた別です。


 学生時代の友人が自己啓発セミナーの信者になっていて、見下しの言葉を浴びせてきたことも。

 
 そうした悲しみをもうあまり経験したくない、というのが正直な心境。まだまだ、わたしは小さい。




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