正田佐与の 愛するこの世界

神戸の1位マネジャー育成の研修講師・正田佐与が、「承認と職場」、「よのなかカフェ」などの日常を通じて日本人と仕事の幸福な関係を語ります。現役リーダーたちが「このブログを読んでいればマネジメントがわかる」と絶賛。 現在、心ならずも「アドラー心理学批判」と「『「学力」の経済学』批判」でアクセス急増中。コメントは承認制です

2013年03月

 引き続き、先月亡くなられた恩師・中嶋嶺雄・前国際教養大学(AIU)前理事長・学長をしのぶ資料をご紹介します。


 今回は、諸先輩方の追悼文を差し置いてこのブログの主正田がゼミの追悼文集に寄稿した文章をお送りします。


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「内では慈父、外では闘う父」     
正田佐与(旧姓畠山)
 
 
 私は1986年から88年まで東京外大の学部生として国際関係論研究室の中嶋ゼミに在籍し、現在は人材育成の仕事をしています。

 多くの諸先輩方、同期生方の共通の思い出の中にあるように、中嶋先生は多忙な中で学生をよく褒め、1人ひとりと丁寧に向き合い、研究や進路の相談に乗り、学生自身が決断したことには心からのエールを贈られました。卒論テーマにしても進路にしても、学生の意に反することを押しつけたことは、私の知る限り一度もありませんでした。そして、学生・卒業生の成功を心から喜んでくださいました。

 それは、中嶋先生をよく知らない人の目から見たら驚くべき「優しき父」の顔だったでしょう。その当時の東京外大中国語学科の正統的な陣営、すなわち親中国的な語学文学系の人たちから見ると、1980年代の中嶋先生というのは右派の論客であり、外務省の弱腰外交を叱咤し、日本の国益本位に論陣を張る中国研究の異端児でした。先生ご自身も、やや対決姿勢の論調でものを書かれていました。

 そしてまた、研究においては海外の一流研究者との交流を密にし、教育分野においては在米経験などに照らして日本の大学教育のあるべき姿を提言する存在でもありました。その姿は現状容認、前例踏襲的な日本の風土の中では、当時は、やはり「異端」であり、「闘士」とも呼べるものでした。

 内において「慈父」であった中嶋先生はそうして、外には対照的な「闘う父」の背中を私たちに見せておられました。現状に甘んじるものを嫌い、徹底して糾弾する人だということは、嫌というほど学生たちも植えつけられていました。それらは車の両輪として、常に高みを目指すよう促す要因になっていました。

 今、行動心理学の観点からみると、これは説明がつくのです。良い行動を褒めて伸ばす「オペラント条件づけ」と、指導者のあり方そのものから学ばせる「モデリング」。このどちらかだけに偏っては人材育成はうまくいかないものですが、中嶋先生はこれらをどこからも教わることなく自然体で行っておられた方でした。結果として、学生の高いレベルの研究や卒業生の活躍につながっていたように思います。

 研究において、新大学設立において、自らの「闘う場」を持っておられた中嶋先生は、学生・卒業生1人ひとりのフィールドでの「闘い」にも温かい理解を寄せる方でした。

 私は東北大震災直後の2011年春、主宰するNPOの人材育成分野のイベント「承認大賞2011プロジェクト」に中嶋先生の推薦文を書いていただくご依頼に秋田の国際教養大学(AIU)まで伺いました。宿舎の「クリプトンプラザ」で、畑違いを承知ながら差し出した私の資料を、中嶋先生は独特の食い入るような大きな厳しい目でご覧になりました。そして、「はい。わかりました。明日までに推薦文を書きましょう」と、資料を持って自室に戻られました。

 これは私の想像ですが、幼少時から「スズキ・メソード」に親しまれ、同メソード会長も務められた中嶋先生であれば、「佐与さんが何か新しいメソッドを創ったらしい。耳慣れないが、多分価値のあるものなのだろう」といった感覚でいらしたのではないでしょうか。

 ただ、結果的に推薦文を頂くことができたとはいえ、ご自身が天然の「褒め名人」であり、人を認める、心からの称賛をする、期待の言葉を掛ける、励ます、力づけるなど、日本人男性としては珍しいくらい人を育てる言葉掛けや関わり方のできる方だった中嶋先生にとっては、何故これらの行為をわざわざ教育したり、普及しなければならないのか、現代日本の社会にどれほど欠けていてかつ必要なものかは、恐らく理解していただくのは難しかったのではないかと思うのです。

(しょうだ・さよ 1988年中国語学科卒 NPO法人企業内コーチ育成協会代表理事)




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NPO法人企業内コーチ育成協会
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 引き続き、先月亡くなった恩師、中嶋嶺雄・国際教養大学(AIU)前理事長・学長をしのぶ資料をご紹介します。

 今回は、去る17日に行われたAIU大学葬において遺族挨拶として読まれた中嶋洋子夫人の言葉です。

 大学葬は学生自身が企画しリハーサル等も学生主導で行われたユニークなものだったそうです。


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 このような独創性に溢れ、ユニークな、そして豊かな葬儀、大学葬を、私は今まで見たことも経験したこともありません。大学の教職員の皆様、加えて企画・運営に若者らしい発想を取り入れてくださった卒業生、在校生の皆様に心から感謝申し上げます。

 私ども家族は、突然の中嶋との別れにただ、最初は呆然といたしました。

 しかし、中嶋は自分の理想を次々に現実のものとし、世間の人々に褒めていただき、励ましていただき、助けていただき、いわば彼のもっとも華やかなこの時に自分の生を閉じたということは美しいこと、と思うことにいたしました。そう思うことで私たち家族は悲しみから心を開放することができたように思います。

 しかし、これは家族だけの感傷でありまして、今現在もっと重要なことは他にあり、そのことについては後程お話とお願いをさせていただきます。

 入院・治療中のことに少し触れさせていただきます。

 中嶋に対し懸命にご努力くださいました病院の先生がた、及びスタッフの皆様に心から御礼を申しあげます。

 初め検査入院をしていた頃には、病室で取材を受け国際教養大学のことを熱っぽく語っていました。

 その後、手術をしたのですが、意識が回復し、初めは筆談で、その後自らの言葉で4人の子供たちに語ったことは、大部分が国際教養大学のことでした。大学の未来の構想を次々と展開していました。学生たちの力で世界一の大学にしたいとも申しておりました。この数日間こそが私たちにとって幸せな充実した最後の別れの時となりました。

 話は変わりますが、このおよそ一か月間、私は雪の秋田で病院と宿舎を行き来する生活をしました。その毎日の中で秋田の方々のものの感じ方、考え方などその生活ぶりをほんの少し見させていただきました。

 雪と対峙する生活がどんなに厳しく大変か、を深く実感しました。秋田の皆様は猛烈な忍耐力をもっていらっしゃる、と思いました。また、吹雪の中の車の運転には、細心の注意が必要でしょうし、周りの車のことも人ごとではなく、お互いに助け合い寛容の精神を持ち合わせてこそ安全が保障されるのですね。各ご家族もまた、屋根の雪おろし、お子様たちの学校への送り迎え、買い物など心を一つにして生活していらっしゃることもわかりました。現在の日本の危機の一つは家庭崩壊にあるといわれている中で、秋田の方々の家庭は本当にすばらしい、家庭教育が自然にしっかりと機能をはたしていると思いました。そんな秋田県が私の心の中に大きな存在感をもたらしました。

 私が敬意の念をもつ秋田県の皆様がた、そこでお願いがあります。国際教養大学の将来の発展のために、どうぞ力をお貸しください。最初に、現在もっと重要なことがあると申しましたのは、まさに国際教養大学の将来の発展のために何ができるか、しなければならないかを考えることです。

 ここにお集まりのすべての皆様がた、国際教養大学の将来のために知恵をお貸しくださりご協力ください。

 (後略)


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 去る28日、私はやっと東京都板橋区の中嶋先生のご自宅に伺いこの奥様にお悔やみを申し上げることができました。


 奥様は私の長女がAIUに在籍していることをお話しすると大変喜ばれ、

「中嶋の死によってAIUが駄目になったと世間から思われては絶対にいけませんね。今の学生さん方にもマイナスになってしまいますね」

と、きっぱりした口調で言われました。

 その一環として「次期学長人事」も非常に大事にお考えになっているようでした。中嶋先生が生前、遺言という形まではいかないが自分の万一の後、あるいは引退後にはこの人に託したい、大学についての考え方が非常に一致する方だから、と名指しで言われた方がおられ、その方に打診してよい感触をもっているとのことでした。


「奥様、なぜそこまで…、一番おつらいのは奥様ではないですか」

 かえって私のほうが涙目になりました。


 私の実家は中嶋家とある部分でよく似た家族構成でした。研究者の父、英語教師の母。父は長野県出身だったこと。ただ父は性格破綻者で企業の研究所に一時期勤めた後はフリーで過ごし、生計は母が立てました。


「うちもそうでしたよ。中嶋の下積みが長くて、今度こそは原稿料が出る、今度こそは原稿料が出る、とかつかつの生活をして、生計は私が立てていました。そのうちやっと『現代中国論』を出して、それからです、やっと生活できるようになったのは」

「ああ、『現代中国論』はそんな中で生まれたものだったんですか」



 それまでの中国礼賛一色の現代中国研究の流れに強烈な一石を投じた中嶋先生30歳のデビュー作がうまれた背景。先生にとっては決死の闘いであったろう、と想像してしまうのでした。



 資料整理など大量にやることがあるが最近スケジュールなどが頭から抜けてしまうことが多くて、と言われる奥様に、

「奥様もですか。私も最近そうなんです。忘れ物や遅刻や道を間違えたりが多くて・・・、きっと中嶋先生からきているのだろう、ここまで悲しめるのはそれだけ素晴らしい方に出会えたからだろう、と思っているのですけど」

そして、

「奥様、素晴らしい先生を支えてきてくださいまして本当にありがとうございました」


 深々と頭を下げて中嶋家を辞したのでした。





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 引き続き、亡くなられた恩師・中嶋嶺雄前国際教養大学(AIU)学長・理事長をしのぶ資料をご紹介させていただきます。

 今回は、中嶋先生逝去の報を公表した2月19日、AIU学内で学生・職員に一斉配信された訃報のメールです。

 「通り一遍でない、温かみのある文章で」とのご遺族の希望を受けた文面になりました。

 冒頭の句は、中嶋先生訃報を受けてご遺族の中の俳人・名取眞砂さん(ホトトギス派)が詠まれたものだそうです。


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敬はれ
凛と飛翔や
雪の槍



 中嶋嶺雄理事長・学長が、病気療養中のところ、2月14日(水)午後10時26分に、肺炎のため秋田市内の病院にて逝去いたしましたので謹んでお知らせいたします。
 葬儀は2月18日(月)都内にて家族葬が行われました。

 「教育効果、卒業生の活躍がわかる10年後に答えを出します。」
 国際教養大学が開学する1年前の2003年5月10日付けの朝日新聞で中嶋学長は上記のように新設大学設立の意気込みを語っておりました。

 「国際舞台で通用する人材を地方で育てる、現代の松下村塾にしたい」
という学長の強い想いは10年を待たずに現実のものとなり、日本の高等教育に大きな影響力をもつ大学が秋田の地に根付きました。

 最近まで精力的に活動をし、次の新たな構想をたくさん抱えた学長にとっては10年目を迎える前の早すぎる旅立ちであり、創設者という大きな存在を亡くし、残念でなりません。

 しかしながら、残された私たちに託された課題は、学長の理念、熱意、意思、先見性を引き継ぎ、将来に向かって国際教養大学を益々発展させることであり、それこそが、学長に対する最大で最高の弔いになるものと思います。

 なお、大学葬を3月17日(日)13時より本学多目的ホールにて執り行いますのでお知らせいたします。

 また、学長の奥様より次のようなメッセージをいただいております。

 「中嶋の心は、常に、深く、学生の皆様と共にありました。在校生の卒業式ならびに全国から受験して入学してくる新入生の入学式を、毎年どれだけ楽しみにしていたことか!キャンパス近くに闘病しておりましたのも皆様の側にいたい、という想いだったからです。
 次世代のリーダーを育成したい、学生たちの力で世界一の大学にしたい、と家族がびっくりするようなことを申しておりました。
 国際教養大学は中嶋が命がけで育てた大学です。これまでの皆様の御協力に心より感謝いたします。」


理事兼副学長
マーク・ウィリアムズ



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 先月亡くなられた恩師、中嶋嶺雄・国際教養大学前学長・理事長(元東京外国語大学学長)をこのブログでも繰り返し追想させていただくことをお許しください。


 先生が残してくださったものを振り返る作業をすることは、先生に学んだものの使命であると感じます。


 今回は、中嶋ゼミOBで現拓殖大学海外事情研究所教授・国際教養大学東アジア調査研究センター特任教授の名越健郎氏による追悼文を、ご許可をいただいて引用させていただきます。
 中嶋先生の学者としての業績から趣味、そして新設大学設立にまでつながった人間的迫力を伝える文章です。


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 中嶋嶺雄先生の「未完の革命」


拓殖大学海外事情研究所教授
国際教養大学東アジア調査研究センター特任教授
名越 健郎



「激流に掉さす確かな視点を!」

 34年前、中嶋嶺雄先生の学位論文となった著書『中ソ対立と現代』(中央公論社)にサインを頼むと、この言葉が添えられていた。先生は、学者、教育者の両面で圧倒的な成果を挙げたが、双方に共通していたのは、多数意見や定説、惰性に果敢に挑み、妥協を拒んで闘う姿だった。

 現代中国論、国際関係論の学者としては、ペシミスティックなリアリズムが基調にあった気がする。冷製で現実的、仮説も重視する多角的な分析は、卓越した筆力と相まって論文を量産し、著書は百冊に上る。思想戦が激しかった1960〜1970年代、中国革命の批判的考察を展開し、学界大御所との論争もいとわなかった。

 二十代に修士論文として書いた『現代中国論』(青木書店)は、左翼知識人の共感を呼んでいた毛沢東思想を徹底して批判的に分析した。文革期の論文をまとめた『北京烈々』(筑摩書房)は、文化大革命を「毛沢東政治の極限形態としての党内闘争の大衆運動化」と分析。その後に起きる非毛沢東化と現代化・工業化を予測していた。『中ソ対立と現代』は、スターリンと毛沢東の駆け引きや朝鮮戦争をめぐる角逐など対立顕在化以前の秘められた中ソ関係を最新の資料を基に浮かび上がらせ、将来の中ソ和解も正しく予告した。

 この3冊が代表作と言えるが、アジア各地で中国の影を追ったノンフィクション風の『逆説のアジア』(北洋社)、天安門事件後に緊急出版してベストセラーとなった『中国の悲劇』(講談社)、返還を機に香港の歴史と未来を描いた『香港』(時事通信社)も語り継がれる名著だ。旺盛な執筆意欲と集中力は驚異的だった。論文は正しさだけでなく、謎解きのエンターテインメント性も重視する優れたストーリーテラーだった。

 先生は全体主義や覇権主義に対して厳しい視点を貫き、中ソ両国の一党独裁体制を批判。台湾やチベット、内・外モンゴルなど大国主義に翻弄される地域に同情的だった。根が民主的で小国に優しいのである。

 わが国の浮薄な「日中友好」外交には終始批判的で、対中位負け外交に警鐘を鳴らし続けた。昨年の国交四十周年では、尖閣をめぐる中国の圧力について、「わが国はひたすら中国に跪拝(きはい)し、中国を刺激しないように低姿勢を貫いてきたにもかかわらず、いや、それがゆえに、今日の事態に立ち至ったのである」(『産経新聞』2012年9月28日付)と断じた。

 先生は芸術に造詣が深い粋な文化人だった。バイオリンはプロ級で、絵を描き、山登りも好んだ。「旅の達人」でもあり、私が赴任していたワシントンやモスクワに来られた時は、国連発祥の地の見学やロシアのモダンバレエ鑑賞を所望された。旅や音楽の巧みなエッセーは、『リヴォフのオペラ座』(文芸春秋)などに収録されている。

 先生は教育者として、優れた国際人を育てることに情熱を注ぎ、ここでも「激流に棹す」姿勢が顕著だった。95年から6年間、母校・東京外国語大学の学長を務め、大学改革に心血を注いだが、学内の抵抗が強く、改革は挫折した。先生は「現在の大学には全共闘世代の人材が多く残り、諸機関を支配していることが改革できない理由」(『学歴革命』)と既得権益に安住する国立大学の左翼系教授を糾弾した。

 最後の大仕事となった2004年の国際教養大学(AIU)設立は、秋田市の郊外にグローバル水準の大学を作るという野心的構想だった。先生は「現状では、日本は国際社会で埋没する」との憂国の情から、「現代の松下村塾をつくる」と秋田に乗り込み、教授会を排除したトップダウンのリーダーシップを導入した。英語だけの授業、半数の外国人教員、徹底したリベラルアーツ(教養)教育、1年の外国留学義務化といった新機軸は、大手企業に歓迎され、就職率100%を毎年達成して日本の高等教育に革命的旋風を巻き起こした。

 「万事に消極的な大学教員がのさばれば、日本の大学は旧弊を改められず、時代に取り残される」。先生はAIUをさらに飛躍させ、日本の大学刷新につなげる野望を抱いていたが、2月14日の急逝で「未完の革命」となってしまった。東奔西走、激務に耐えながらの惜しまれる「途上の死」だった。


『外交』Vol.18 所載





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 また、あまりまとまっていないことを書きます。

 でも時代の過渡期であり、恐らく稚拙な思考であっても投げ出すことで何かが前に進むということを信じて。


 「受けとめてほしい」

という言葉にわたしが違和感をもつのは、何故なのか。


 とりわけある種の発達障害の人がこの言葉を発するとき、反射的におもうのは、

「受けとめる」

というのは、ある種繊細な共感のこころの働きであり、それを動かすことには危険な匂いがする、ということであります。


 きわめて繊細な心のひだを動かすことは、健常者であっても、自分の心を脆弱な無防備な状態に置くことになります。


 だからでしょう、わたしの心に防衛反応が出てしまうのは。


 非常に申し訳ないのだがある種の発達障害の人は、健常者がたいせつにしている価値を踏みにじるような行為をすることもあります。丁寧な緻密な努力をあざわらったり、自分に共感してくれる人のこころを傷つけるようなことも、時にはします。

 (だからでしょう、ピア・サポートがもっとも有効だというのも。)
 

 そうしますと健常者が「受けとめる」という繊細なこころをもつことは、危険行為になってしまうのです。

−企業活動によっては、組織の価値をメンバーが高いレベルで共有していないとなし得ない仕事というのも沢山あって、あるメンバーにとって「価値を共有する」ことが不可能なとき本当に受けとめられるのか、という問題もありますが−


 残念ながらこころに障害をもつ人には、相互に受けとめあう、という相互関係は期待できません。しかし健常者であっても相互関係のない一方通行の「受けとめる」関係は、こころを病んでしまうこともあります。


 というわけでわたしの結論としては、「受けとめる」というエモーショナルな言葉ではなく、「理解する」「学習する」といった、知的なレベルの言葉で言っていただきたいと思います。共倒れになることはやはり避けたいので。たとえ、障害をもつ当事者にとってもっとも望ましいのは「受けとめてもらう」という状態であっても。


 ―日本語でかくとはずかしいことは英語でかきます―


 During my mother's illness, which once seemed fatal, there was almost nothing I could do.

However, the home's staff let me sit her bedside because it would encourage her.

The staff said to my mother: "Hatakeyama-san, Sayo-chan came." but there was no response on Saturday. My mother's eye was half-opened and seemed to see nothing under her sickly breath. Since the last autumn, she couldn't recognize me.

This time I did which I have liked to try. I played a role of an older woman than my mother who have watched her 80 year's life.

"Misao-chan," I said to my mother, "you're making good effort, you have always worked hard in your life...You were good elder sister of your sisters...Your sisters are all proud of you...Fusae-chan (her sister's name) said you are her respectable sister, she said she respect you so much... Your mother (namely my grandmother) was a capable and strict woman, she was very good at cooking and needlework...So you can cook and sew so well....She must be proud of you, Misao-chan."


"Misao-chan, do you remember the house in Fujinomiya-city? ... It was small white house next to woods. ...Beautiful Mt. Fuji was seen there...There you lived with your husband and two children. ...The house was too small for four families but there you raised a couple of pigeon, a couple of chicken and a dog. ... You and your family as well as the dog walked in the mountain almost every sunday. ...You loved nature."


"Misao-chan, you were graduated from the university which produces the best English teacher in Japan...You also became a good English teacher..."


I told her life as if I have watched it closely, wishing she could receive it as if a narration by another herself. And it is a kind of expression of 'Acknowledgement' which is the most important behavioral ethics of my coaching.


Her voice "Ah, ah" at her every breath suddenly stopped and I was anxious that she stopped breathing. But she was breathing calmly. She slept after a long time struggle of the day. And it was a good sign.

Also, because it was soon after the change of her laying position, she might feel comfortable. But the staff said she could feel calm because of me.


I tried again the narration of her life history after the next change of position and she slept down again. I left the home after I saw she slept.


Actually To call an old client "Misao-chan" is inhibited to careworkers. Staffs should treat clients with respect even if he or she is returning to his or her childhood. I could do it bacause of being a family member of the client.


Then, on the next day I was surprized at her sitting on the wheel chair.



This past weekend I experienced a real miracle. Let me tell the whole story.

On this past Friday evening my mother got worse. My mother has severe dementia and lives in a small group home in Chiba prefecture. She had pneumonia due to aspiration (誤嚥性肺炎) and had high fever on Friday. I was informed of it from my elder brother who lives near my mother and went to see her on Saturday. She wheezed sickly in spite of wearing oxygen mask and said “Ah, ah” at every breath.

Fortunately, the president of the home was experienced nurse so she gave my mother infusion (点滴)of antibiotic (抗生物質) and normal saline (生理食塩水) by herself and a doctor who is old friend of her visited the home to make a diagnosis and decide medication(診断と投薬). So my mother was taken care of in group home, without hospitalization. The staffs of the home are all well-trained and took exacting care of my mother, saturating her dried lip with gaze frequently, change her position on the bed every two hours, et cetra. The president instructed the staffs on how to massage the client's arm after infusion.

My brother was inclined to hospitalize my mother and introduce gastronomic feeding on Saturday. He was shocked at my mother's condition and thought that advanced equipments and treatment is needed. I called him and said: “The care the home provides is miracle. No other institution can do it. The training level is incrediblly high and it is not achieved in larger institutions. Gastronomic feeding is much stronger intervention than infusion and it would deprive mother of dignity. Mother has attatchment to the home and the staffs, especially to the president. Let her die being surrounded by the people whom she trust.”

I said it on Sunday morning without being informed of my mother’s condition and in the afternoon of the day I visited the home again to see my mother. She was sitting on a wheel chair! And the staff said my mother started taking fluid meal and tea from her mouth. Who can expect that an old woman who had pneumonia due to aspiration just two days ago can take meal from her mouth! It came from the belief of the president that every elderly should live his or her life to the end with dignity.

It happened in a small group home in Funabashi city, Chiba prefecture, Japan which has 7 dementia clients staying in home and also provides day care service. They have 5 staffs in all. There is only one client who passed away since the home was established by the president after her retirement from nurse 9 years ago.


 アカデミー作品賞の「アルゴ」が再上映されていたので、遅まきながら行ってきました。

 映画に関しては、権威主義者かもしれない私^^


 1979年イラン米大使館占拠事件のとき、大使館を逃れてカナダ大使私邸に逃げ込んだ6人の米人大使館員がいました。逃亡していた彼らが発見されれば公開処刑は必至。この6人を救出するためのCIA諜報部員の活躍を描きます。

 というと地味な映画のようですがその救出作戦が実話なのにハチャメチャ。イランでロケする予定の実在しないSF映画「アルゴ」制作計画というのをぶちあげ、そのロケハンに来た監督や脚本家などクルーに6人が扮して脱出するというものです。

 話をリアルにするために派手な制作発表や脚本やコンテ画やパンフをつくり、そのパンフやコンテ画がラストの出国の時に役立ちます。ハリウッド映画にはあり得ないようなダサいストーリーもイラン人の出国管理官を喜ばせるには十分で・・・。

 どこが見せどころだった、というとやっぱり「実話」だったのがすごいなあ、という感想になってしまうのですが面白かったのは、途中計画段階で出てくる実在の特殊メイク担当や監督のハリウッドでの立ち居振る舞いというか、要するに「ハッタリ」ぶり。なるほどー、向こうの人のセルフプレゼンテーションってこうなのねー。

 ・・・心理学とかビジネス書の世界もハッタリだよなー。こらこら。


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 兵庫労働局・神戸市主催の「発達障害者の就労セミナー」に行ってきました。

 兵庫県看護会館の500人収容のホールがほぼ満杯。

 ASとADHDをもっている当事者の方の講演や、知的・精神障害者就労No.1の富士ソフト企画株式会社(富士ソフトの特例子会社)の方の講演などを聴きました。

 そして、家に帰るとNHK「クローズアップ現代」で、やはり「発達障害者の就労」をやっていました。

 民間企業の障害者の法定雇用比率が平成25年度から2%に引き上げられます。なのでどんどんこの問題に無関心でいられなくなっています。

 ・・・ところで、ひねくれ者の私はまた引っかかりを感じてしまいました。

 「受けとめてほしい」

 この言葉が当事者から頻繁に出るので、うーん、と。

 
 というのはれいによって、「受けとめてもらってない」という不全感を抱えているのは今の時代、健常者も同じだし、もともと共感能力のない人は他人のことを受けとめたりもしないし。あなたはほかの人のことを受けとめてるか?という思いがつい湧いてしまうのですが、これはわがままなのでしょうか。


 それはともかく、セミナーとTVから得た知識によれば、こうした発達障害の方の就労を受け入れる場は広がりつつありますが、やはり就労支援作業所を経由したり、上記の特例子会社などで定期的に行っている就労訓練を受けて段階的に就労したほうがいいとのこと。そういう場で、発達障害の方にありがちな仕事の場での特殊な行動を修正してくれるそうです。

 特例子会社の人からは「障害に甘えない」という言葉も出、少しほっとします。


 職場でのこうした人びとへの支援の仕方は、ほぼ行動理論、行動療法に準じます。行動理論は障害者にも健常者にも優しい「ユニバーサルデザイン」のようなものかもしれません。


 
100年後に誇れる人材育成をしよう。
NPO法人企業内コーチ育成協会
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 当協会も依拠している関学元学長・理事長で現名誉教授の武田建(たけだ・けん)氏の1980年代の著作、『コーチング―人を育てる心理学』が増刷されていました。2048円。


 http://www.amazon.co.jp/%E3%82%B3%E3%83%BC%E3%83%81%E3%83%B3%E3%82%B0%E2%80%95%E4%BA%BA%E3%82%92%E8%82%B2%E3%81%A6%E3%82%8B%E5%BF%83%E7%90%86%E5%AD%A6-%E6%AD%A6%E7%94%B0-%E5%BB%BA/dp/4414403189/ref=sr_1_1?ie=UTF8&qid=1363140336&sr=8-1



 体罰や長時間練習によらないスポーツ指導法が強く勧められる中、すべての指導者に手にとってほしい本です。


 武田建氏は、今更ご紹介するまでもないと思いますがかつての関学アメフト部の常勝監督で、かつ心理学それも行動理論の大家。関学アメフト部、また附属高校のアメフト部は武田監督のもとでそれぞれ「7連覇」「5連覇」の偉業をなしとげました。


 1980〜90年代には「武田建のコーチング」としてビジネスパーソン向けに多くの本が出版されましたが、その中でも集大成的なものがこれ。


 その後も2007年には『武田建のコーチングの心理学』という新たに集大成的な本が出ていますが、私個人は武田氏が現役監督として渦中にあった時代の上記の本のほうが好みです。


 「武田コーチング」は、とにかくわかりやすい。実践しやすい。ご許可をいただいて二次使用させていただいている私のビジネスパーソンの受講生さんのもとでも高い成果を挙げています。

 関学アメフトでは100数十人の選手に10数人のコーチ陣がいた、そのコーチたちが皆同じように足並みをそろえてコーチングができる必要があった。なのでいくつかのシンプルな原則、そしてカタカナや専門用語を極力排した平易な言葉から成っています。

 「コーチは選手にわかる言葉を使わなければならない」というのも武田コーチングを特徴づけている言葉のひとつです。


 体罰指導にかわるものとして「コーチング」が改めて巷で提唱されるようになりました。海外のスポーツ指導者のコーチング本を手にとられた方もいらっしゃるでしょうが、「潜在意識」などという怪しげな言葉を使うより、私は武田コーチングを推奨したく思います。


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 12日は、姫路師友会会長・田中昭夫先生のご自宅こと「切琢書院」にて、「孔子伝勉強会」に参加しました。

切琢書院






 「孔子伝勉強会」は、現代中国でつくられた孔子の一生を描いたDVDをみながら当時の風俗や孔子を取り巻く環境を学びます。12日は第4話と第5話で、孔子が弓矢や礼の師と出会うくだりや、結婚、生まれた子に鯉と名づけたくだりなどを描いていました。


 
  現役経営者でもある田中先生は安岡正篤師の直弟子で、切琢書院には安岡師の揮毫された大きな額があります。ここで毎月経営のかたわら沢山の勉強会を主宰されています。


「この額が私にいつもモチベーションを与えてくれます」

 と、田中先生は安岡師の直筆額を見上げながらいわれます。

 ご自宅には膨大な書籍とともに座禅の合図をする鐘や孔子像、また論語の当時と同様の木簡に刻したもの(写真)などがありました。


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 ある席で「介護職の人のクレーム対応について話をした」ことを話すと、とたんにアレルギー反応のような声が上がりました。


「いや〜、だって認知症の人の妄想みたいなクレームが多いんでしょ?!」

 その場には介護職の人もおられ、

「介護職に対する過剰な『甘え』があります。介護の限界でそこまでできない、と説明してもわかってくれないんです」


 さて。

 このブログでよく出てきた「ヒューリスティック」というもの。「〇×が増えている」ということは、決して「〇×が圧倒的多数だ」ということとイコールではありません。こういうのを何ヒューリスティックというんでしたっけ。・・・まあ、簡単にいうと「錯覚」なんですけど。


 現実には、やはり正当な理由のあるクレームに対して適正に対応できないということは、その施設、事務所にとって大きなリスクです。そしてそちらの方が多数です。


 セミナーでは、そちらの方に立脚して現役の介護職の人にとっては理想論と思われても仕方のないことをお話しし、実習してもらい、3時間の最終的には非常に満足して帰っていただいたわけですが、そうした「一見理想論だけど受け取ってもらえる」教育を大人相手にすることは非常に疲れることなのです。それは途中の実習のデザインの仕方、時間の使い方、あるいは説明の際に全身全霊でのリスペクトと愛をこめてお話しすること、それらが組み合わさって可能になるのですが、そんな自慢たらしいことをその場をみていない人に話しても仕方がないのであまり反論もせずに黙りましたが。


 わたしがセミナーのあと何故疲れて倒れているのか、ときどきだれかに理解してほしくなります。理解されないとますます疲れます。



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NPO法人企業内コーチ育成協会
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「よく晴れた青空が広がります。黄砂の影響はほとんどなさそうです。」

ときょうの天気予報。そして震災から2周年。


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 10日、明石ソーシャルワーカー事務所主催の「あかし!セミナー」第44回で「クレーム」についてお話をさせていただきました。

 題して「クレームは怖くない!心を温かくする『承認』の魔法」。


「あかし!セミナー」さんではこれまでに2回、「承認」についてお話をさせていただいています。今回は趣向を変えて、「承認」を応用したクレーム対応のお話。


 11名の方が参加されました。


 3人1組で「うまくいかなかった会話」をグループワーク。そのあと「クレーム」とりわけ介護福祉でありがちな種類のクレームとそれへの対処法をお話ししました。


 最後は、「共感」と「承認」を使った対応法にもトライしていただき、参加者の皆様から「気持ちが変わった」というお声が出ました。

 
 「こんなに参加者の満足度が高かったのは久しぶり」と主催者さんも言っていただき、皆さんが充分納得して学んでいただけて何よりでした。


 意欲的に業界の向上のための教育に取り組んでおられる明石ソーシャルワーカー事務所さん、このたびもお声がけいただきありがとうございました。また真摯にワークに取り組まれ、「承認」という新しい概念にもその難しさにも真正面から向き合ってくださった参加者の皆様、ありがとうございました。


 ところで、このセミナーでは大筋「善意のクレーマー」を前提にどう対処するか、をお話しし、善意のクレーマーに「モンスター」とレッテルを貼らないこと、マイナス感情にマイナス感情で応じないことなどをお話ししましたが、一方で「これに当てはまらないクレーム主も確かにいる。皆さんの心を守るために」ということも付け加えました。


 実際には、精神障害や、とりわけこのところ私が関心をもってきたような脳機能の障害に精神疾患を合併したような人も執拗な妄想的なクレーマーの中にはいるようでした。そのケースでは自治体も一次関与しましたが手を引き、介護福祉職や看護職の人を守る仕組みはないようだとのことでした。


 それは「クレーム」という現象全体の中の一部ではありますが、当事者の困り度は並大抵ではないのでした。


 このブログの読者の方にも、もしこうしたケースで介護福祉職や看護職の人を精神疾患がらみのクレームから守る仕組みや手立てをご存知の方がいらっしゃれば、是非お知らせください。


 こうした問題を話題にすると、かならず「障害者の権利」や「障害者差別」という概念も出てくることは承知しているのですが、一方で定型発達者/健常者もまた決して今の時代楽に生きているわけではなく、不断の努力をして何とか経済的自立やこころの安寧を確保している存在なのです。

 とりわけ、この「不断の努力」―介護福祉職の中には、コーチングなど余計なお説教だと思うくらいヒューマンスキルの高い人も多い、しかし得てしてそういう人は、ある種の障害をもつ人にとっては自分のお世話係りにしたい候補の人なので安心感やなれなれしさをもって傷つけの対象になったりする―をめぐるジレンマが気の毒でならないのでした。


 こうした問題についても、もし良い案があればご教示いただきたいです。これまで私が漁ってきた文献の中にはなかったです。



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 『なめらかな社会とその敵』(鈴木健、勁草書房、2013年1月30日)という本を読んだ。


 理系的思考と文系的思考のまじりあった本。著者は複雑系、自然哲学の人。3200円もする、私にとっては非常に高価な本。

 (こう書くと恐らく著者からこの本を献本されたとかもっと高い本を買ったとかくだらない自慢をする人がゾロゾロ出てきそうだ。そういうことは「想定内」だと、あらかじめ言っておく)

 
 そして、帯に青木昌彦と中沢新一、両先生の推薦文がついている。アマゾンのこの本のページでは確か内田樹氏が書評を書いて絶賛していたと思う。


 ところで、私は決して天邪鬼なわけではなく、そこそこ期待してこの本を手にしたのだが、冒頭の方の文を読んだだけで「ダメだ、こりゃ」と投げ出してしまった。


 例えば、「責任」は追及しようがないのに追及されざるを得ない、みたいなフレーズは、それこそ内田樹本か何かのどこかで見たことがあるような気もするが、よのなかカフェならぬ哲学カフェでなんとなく世間話的に語られるような、「ゆるい」考察である。わざわざ本で読むほどのことではない気がする。
(哲学カフェには、以前阪大のカフェフィロに4回ほど通ったのだ)


 また、ある著名な経営者に著者が助言したというエピソードは、最終的に「所詮は人も組織も宇宙もコントロールし得ない」と結論づけているが、これもこのブログで良く出てくるフレーズでいうと、

「教育は間違っても人は死なない」、

 間違ったら人が死ぬ仕事をしている人に対して失礼だと思う。

 組織のサイズにもよるが自分以外の他人も全員気をつけないとお客様を死なせてしまうかもしれない組織なんてごまんとあり、そこでは厳しい統制が、その組織の生き残りのために不可欠なのだから。

  それを「コントロール」であり「悪いこと」だという理屈があるだろうか。

 心理学でいう「コントロール」という概念は、よく悪者扱いされるが、もともと心理学はフロイトらがヒステリーの貴婦人らを治療したのが出発点なので、コントロールは病的な状態を起こさせるものとされてきた。

 ただし、人類のすることは何をするにも大抵組織が必要なのである。正田はよくコーチング研修の中でいう、私たちは狩猟採集時代から集団を作って捕食して生きてきたのであり、いかに効率が良くて幸福度の高い組織をつくるかが人類の幸福に直結するのだ、だから私はこのしごとをしているのだと。


 「コントロール」に限界があることは確かであっても、それでもわたしたちの営みにはリーダーが要り、組織が要る。リーダーがある目的のために組織を鼓舞するのも広い意味のコントロールである。それが悪いか。

 たとえ地球環境のため、人類の福祉のためにしごとをする良い組織にもそのコントロールは不可欠である。


 「コントロール」を罪悪視するのは、組織の統制を受けない自由人を自負する学者さんによくみられる態度だし、また老荘思想の影響を受けた人にもよくみられる。万物斉同。以前にも書いたが正田は小学校〜中学の時に老荘思想にはかぶれたので、かぶれる人の気持ちもわからなくはない。かぶれると浮世のあらゆる権力が相対化してみえ、自分の方が偉く思える。またかぶれた人がそれとなく間接的にそのことを自慢したい気持ちもわからなくはない。


 ほんとうに心理学的に問題の多い「コントロール」はある種の障害の人にみられる「過支配欲求」で、これは最近の尼崎の連続殺人などでも恐らく関わっていると思う。ある種の心理カウンセラーや霊能力者にもこのタイプの人がいる。


 ・・・で、このエピソードにはよくみると落ちがなかった。この著者さんが著名な経営者さんにこういう助言をしました、そこで止まっている。経営者さんがその助言をとりいれたかどうかはわからない。たぶん取り入れないだろうなあ。なんだか有名な経営者さんとお話ししたことを自慢したいだけなような気もする。



 そんなわけでこの本の文系的な部分は私も知っている心理学の系譜などが並んでいるが、付け焼き刃のお勉強発表会のようにみえてしまうのだった。


 このブログは基本、著者さんが読まれることを想定していない。たまに著者さん、もっとまれに編集者さんが遊びにくることはあるけれど。もし目に触れたらごめんなさい。


 この本の数学的な部分はまったくわからないので、もしお詳しい方は、この本の真の読みどころをご教示ください。


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 この本は大筋、時代の変わり目に周期的に出てくる退嬰的な思想の本なのだろうと思うが定年後のおじさま学者たちがやたら称揚するのはなぜだろう、と考える。内田樹氏は定年と某府知事への失望の反動からかこのところ「身体論」の本ばかりかいている。

 おととしの暮れにアルフィー・コーン氏の6000円する本をやたらほめた人がいて、私はそれのことも散々こきおろした。あの人(ほめていた人)今何をしてるんだろ。

 アルフィー・コーン氏自身も、今考えるとある種の障害を髣髴とさせる人格だった。知的能力は高く、一方で自分は他人に世話になったことなどないと思っている。そういうことを記憶できる容量がないから。こういう人が行動理論や承認を評価しないのは自明のことだ。



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 まだあまりまとまっていない考えかけのことを書く。2013年3月の時点の考え。


 このところある種の脳機能の障害について調べていて、目につきまた考えたのはコミュニケーショントレーニングの場でのその人たちの振る舞いである。

(『発達障害チェックシートできました』(生活書院)には、学校現場でのソーシャルスキルトレーニング(SST)やエンカウンターの授業の中で起きる問題について書いている。こうしたトレーニングの障害者側からみた偽善性をよく描いていて、考えさせられる。もちろんコーチングも同じだと思う。

 ただこのトレーニングによって「幸せな職場」を作ってきた、これしかないという隘路をやってきた、と自分に言い聞かせ気を取り直すのだが。)


 言語によるコミュニケーションは、「承認」であれ「傾聴」であれ、健常者でもある程度の努力を要する。


 それを、マネジメントに必須のものだからと、いわばなだめすかして教え練習してもらい身につけてもらう。相手は中高年の男性なので、そのプロセスだけでもそこそこ負荷をかけることになる。講師はそのために参加者との間の信頼関係を作るよう、心を砕く。通常は健常な人なら問題にならない、風邪を引いてない人に「さあウォーキングをしましょう」という程度の負荷である。


 ところで参加者の中に脳機能の障害のある人がいてコミュニケーションが上手くとれないとする。あるいは普段は普通に社会人らしくやりとりできるのだが、時々暴言が出る。こうした人が混じってくるのは実際によくあることである。「こいつだけは直らん。何とかしてやってくれ」というノリで研修に送り込まれる。


 こうした人が、研修で課される課題がストレスになり、研修や講師に対して反感むきだしの発言をする。あるいは「承認」プログラムに対して、「そんなことを言ってもわが社のマネジメントはその真逆じゃないですか」と鼻で笑うが、それはその人の主観的な思い込みで、その人自身が暴言失言が多いので上司から頻繁にお小言を食らい、また叱られた記憶だけを強く記憶しているという現象だったりする。


 それが、場全体の学ぶ空気を害するということは実際によくある。

 企業研修は1日こっきりのことが多いから、一度場全体の気分を害すると挽回できないまま研修を終了してしまうことになる。そして習得の歩留まりはわるくなる。


 建前としては人をへだてるべきではないのだが、やはりこの時代、非常に限られた研修予算、時間の枠内で教育をすることを考えると、マネジャー研修も極端にコミュニケーションの問題が多い人は参加してもらうべきではないと思う。健常な人が習得することを重視したほうがいいと思う。

 以前にも書いたがこうした人は元々の障害にプラスして鬱やアルコール依存なども合併していることが多い。たまにくるだけの研修講師が何とかできる相手ではないのだ。


 こうした人々の世界に即して考えると―、

 たとえば運動能力にも色々な種類があり、水泳が得意な人もいればサッカーが得意な人もいる。水泳で十分人に誇れるような成績を挙げているがサッカーは得意でない、そういう人にとってはサッカーは「何が面白いの?」という種類のものだろう。得てして、人は自分の不得意なものを見下す。私自身にもそういう部分がないとは言えない。


 コミュニケーションや共感能力に大きな障害のある人にとっては、それらのスキルは学習しても一向に上達しない自分の不得意科目なのだから、「何が面白いの?」なのである。

 ―以前医療機関で研修したときのコミュニケーション障害のあった、しかし受容していない女性の「何が面白いの?」という冷めた視線は忘れられない。実際にこの職種の人には多いようだ―

 こうした人々は、「コミュニケーションの重要性などは『すきずき』の問題だ。人の好みや考え方は『それぞれ』だ」と主張することがある。それも知的能力の高い人なら言葉巧みにそう言うが、それにも騙されてはならない。マネジャーには一定以上のコミュニケーション能力が必要だ。それはもう共通認識にすべきなのだ。


 またこうした社会的スキルや共感能力に大きな障害のある人は、往々にして「ワーキングメモリ」が小さいことが知られている。

 「ワーキングメモリ」は重要なキーワードだと最近思うようになった。これが小さいと、まず「承認」とりわけ当協会で重視する「行動承認」はできない。他人の良い行動を憶えておく記憶力などないのである。悪意がなくても
「あれっ?この手柄あなたのだった?違うでしょー僕んでしょー」
ということになる。恐らく、自分が知らず知らずのうちにそういう行動をとっていることなどまったく自覚がないと思う。


 また「ワーキングメモリ」が小さいと他人の話の内容を憶えておく容量がないから、「聞いたふりしてもあとで全然憶えていない」ということになる。また上司から指示されたことも憶えておけないから、「あれはやったか?」と突っ込まれて適当な言い訳をしたりする。


 −ある文献によればこうした人たちに対して薬物治療が功を奏したとき、患者が

「自分の評価が低いのが不満だったが、理由がよくわかった。同僚のAさんは自分よりはるかに良くやっているのがわかった」

と言ったそうである。―


 もちろん、こうした行動は邪悪なのでもない。向上心がないのでもない。しかしもしこの人たちが健常な人だという前提で考えると、普通の社会人の大人の努力義務をあざわらうような行為であり、周囲を不快にさせる、あるいはダメージを与えることは言うまでもない。とりわけ上司の立場になったときは害が大きい。


 だから障害を受容するということは大事なのだ。


 障害について書かれた本は、当然当事者が自発的に医療機関を受診し前向きに訓練を受け社会参加することをゴールにしているから、「当事者の生きづらさに寄り添う」ことを強調するが、読んでいて歯がゆさもある。


 その「受容」という入口に当事者がたどり着く前にどれぐらい周囲の人を傷つけるだろう。場合によっては一生残るような心の傷を負わせる場合もある。それについては障害についての文献は「あきらめるしかない」等と述べるにとどまっている。だがあきらめがつくのは障害を前提にする場合だけである。障害でなくモラハラについて書かれた本は、被害者に対して「逃げるしかない」と勧める。


 なるべくその受容までのプロセスを短縮したほうがいいと思うのだが。

 文献によれば、「受容」のプロセスとして望ましいのは、上司が

「なんか困っていることはない?」

という言葉で声をかけ、産業医に相談を勧める、ということである。上司は「障害」という言葉を口にしてはならない。

 つまり本人の自覚として「困っている」ことがないといけないのだが、それはそれまでに様々な場面でミスを犯して叱られ、暴言等で叱られ、周囲や会社からの評価が低くなり、本人はそれらの事実関係を認識している、ということである。


 だから失敗を容認してはいけない。中には恐らく過剰に養育的な上司が本人に負荷をかけず、叱られる機会をつくらないように先回りして配慮していた結果、長い間見過ごされてきたというケースもあると思う。


 
 なんというか、こうした障害について理解が広まったのはほんのここ10年くらいなのだが、まだこの世界には大きな認識の空白があるような気がする。




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 アメリカの精神医学者スコット・ペックは次のように述べたという:


 一般に心理学の世界には、世の中に悪というものは存在しないと考える傾向がある。ところがもともと心理学の問題には、悪ということを考慮に入れた上で考えるべき問題が数多く存在するのである。・・・悪は現実に存在する。・・・善意に対して憎悪をもって応え、力の及ぶ限り善を破壊しようとする人々は本当に存在するのである。そういう人々は自らの悪意に気づくことを避けようとする。宗教文学の中で述べられているように、彼らは光を嫌うため、光を避けるためにはあらゆることを行い、光を消し去ろうとさえする。(中略)彼らは決して他の人々の成長を助けようとはせず、その代わりに破壊しようとする。他の人々の精神が成長していくのを妨げるためには、必要とあらば、殺してしまうことさえある。というのも、彼らの病んだ自我は、まわりの人々が健全な精神を持っていることに恐れを感じるため、その健全な精神をなんとしてでも押し潰し、破壊しようとするからである。私は悪を、精神的な成長を妨げるため、自分の意志を(あからさまに、あるいはひそかに)他の人々に強制的に押しつけることと定義する。悪は愛と対立するものなのである。(『こころの暴力―夫婦という密室で』、太字正田)




 「悪」の定義として、ここに述べられたのは病的なナルシシズム(自己愛性人格障害)ともいえるし、ある種の発達障害のようにも見えるし(すべての発達障害がそうなわけではないのはもちろんだ)、また行動面ではモラハラ犯、ハラッサーである。

(発達障害の専門家の方の中には従来人格障害とみなされサジを投げられた人の中にはかなり発達障害の人がいる、という意見もある。それに即した薬物治療でかなり良くなるとも。
 おそらく医療機関によってまったくまちまちの診断を出すだろう。)


 たしかにいる。まっとうな心の人をを怖れ排斥しようとする人々というのは。以前にもこのブログの中で述べたが、

(たとえば「ハラッサーには余罪がある」http://blog.livedoor.jp/officesherpa/archives/51160421.html

 モラルハラスメントの被害者になりやすいのはむしろ健全、まじめ、高責任感で他者に良いかかわりをしなければならないと考えている人たちである。


 そしてそうした人々を抑圧する行為は、たとえ加害者が障害があろうと何だろうと「悪」とみなすべきだろう。すくなくとも組織の生産性にとってはマイナスであり、ストップをかけなければならない、何らかの方法で。

 そういうときに、「いや、組織には理不尽はつきものだから」とナアナアで済ましてはならない。
 

 もしこのブログの読者が上司としてこうした問題の解決にあたる場合にはそうした予備知識をもっておいた方がいいと思う。弁舌巧みな加害者にだまされて事の本質を見失ってはならない。


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 先日の介護職の方々の宿題は結局、50数人中9人の方が宿題を提出された。非常にレベルの高いものばかりだった。


 なんども出たが、この業界には急速な需要増と人手不足、就職難で、従来介護職に向いているとみなされなかったような、採用試験の段階でお断りしていたような人材も流入している。それを何とか職場で育てて独り立ちさせることが課題だという。


 だから現場のリーダー層の負担感は並大抵ではないのである。皆さんぎりぎりのところでおやりになっていると思う。これまで「マネジメント」が存在しなかった業界だったともいうが、今からはそれでは済まない。
 

 ところが不思議なことだが、「承認」をしっかり身につけていただくと、それ以外のことをがみがみ言わなくてもマネジメント全体が安定してしまう、多くの場合。


 「従来のコーチング研修では変わらなかった部下(現場リーダー)が変わった。情緒が安定し、部下を落ち着いてみれるようになった」

という、嬉しいお言葉もあった。

 従来のコーチングは、私的には、日本人の人格を読み違えているから。できるだけ違和感のないものであろうとしてきた。無理のある前提、強引な論理展開、やたらとちりばめる専門用語や海外の目新しい理論の垂れ流し、エキセントリックな言葉遣いを避けてきた。

 一般の参加者はそこまではわからないだろうが、「なんだかこの研修で言っていることはやれそうな気がする」と思っていただければそれでいい。


 50数人中9人、というのは、過去の経験に照らしても、大人数の研修で1日研修だとどうしてもそうなる。もし10名で2日間研修をやれば
(やはり「承認」というコンテンツの大きさに鑑みて、間に1回睡眠を挟んだほうが学習効率はよい)
宿題提出は8人ぐらいになる。


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 ところで昨年から今年にかけての出来事をつらつら考えるに、研修のときの事務局あいさつとか講師紹介は女性がやってくれたほうがいいのではないかと思うようになった。この期間に問題を起こした(件数は片手の指ちょうどくらい。再現性がある)のはすべて男性だった。女性のばあいは問題はなかった。

 ようするに今男性のレベルがそれだけ下がり、女性講師のとき足を引っ張りたい気持ちを抑えられないのだと思う。たとえ自分自身が依頼したのであっても。


 柔道のパワハラ問題が出た時どこかの週刊誌にコラムニストのこんなコメントがあった。

「女性が強くなった時代には男はとんでもなく汚いことをする。殴る、脅す、レイプする・・・」


 男性による「おかしなあいさつや講師紹介」は恐らくそれの一環なのだ。

 ほんとうにそういう時代だ、と直視しなければならない。



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 2日、大阪で行われた「認知症サポーターキャラバン報告会」に行ってきました。


 今年2月現在、全国で約400万人の「認知症サポーター」が存在。認知症について理解をもち、手助けができる人です。そのうち約45万人は10代。小学校高学年〜の子どももサポーターになれます。


 自治体や地域の包括福祉センターが主体になって、学校や企業で講座を開き、サポーターを養成します。


 今時の子どもは小学校で「おとしよりとは何ぞや」「認知症とは何ぞや」「どう接してあげればいいのか」を学ぶのです。そんな授業受けたことがなかった今年50歳の正田にも目からウロコの世界。


 その他認知症の人を見分けケアに役立てる客観式アセスメント「AOS」を紹介する講演もありました。

 
 ご一緒した認知症ケアの専門家の先生がおっしゃるには、

「公務員や大学の先生が突然、盗撮なんかして捕まることがあるでしょう。ああいうのは私たち、若年性認知症だろうと話してるんですよ」

 実際にこの先生の扱った事例にもあったそうだ。


 50代などで発症する若年性認知症は進行が早く、急速に衰弱して死に至ることが多いという。


 先日のよのなかカフェでも話題が出たが、認知症について知っておかなければならないことは多い。


 企業における講座の実際例では、銀行やスーパーなどおとしよりとの接点の多い業種の人にビデオで対応例を見せながら考えさせる研修をしていた。

 そういう時代になっているのである。


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 認知症と今はもう1つ、「発達障害」についても本を集めたりネットで調べたりしている。

 
 以前私にひどいことをしたあの人この人も発達障害かも思うと納得がいったりする。ナルシシズムだと思ったものも、障害を本人が受容していない発達障害だと考えたほうがいいのかもしれない。受容していないと、自分のある部分での決定的な能力不足に気づかず、文句を言ってくる他人のほうが悪いんだと考えがちである。


 だとしたらあの人たちは邪悪なのではない。向上心がないわけでもない。単に障害なのだ。ただ障害に気づかずその職種に就いていたことが問題なのだ。


 人の世の不条理や無用な傷つけあいに、どれほど「障害の不受容」がかかわっていることだろう。

 ネット情報によると、発達障害の中には「自己正当化型」というものがあり、きわめて他責的で、自分の障害も意地でも認めないタイプがあるようだ。

 日本人に発達障害は多いはずである。共感や信頼のホルモン、オキシトシンの発現がもっとも少ない遺伝子スニップをもっている人の割合が高く、このスニップの持ち主は自閉症リスクが高いことも報告されている。診断名としての自閉症が多いのであれば、それを含む自閉症スペクトラムの人々の割合もさらに高くなるだろう。


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 急逝された中嶋嶺雄・国際教養大学(AIU)学長を語るゼミのOB会が3日都内で開かれ、参加してきた。

 OBたちの語る中嶋教授像は時に優しく、時にアグレッシブで、時にユーモラスで、時に子どものように無邪気に笑い、時に子どものように勝気になり、そして学生だれにも大きな愛情を注いでいた。

 大学教授になっているあるOBはいみじくも、「中嶋先生は学生の僕たちにもリスペクトの姿勢で対してくれた。今の社会学の言葉で言うと『社会的承認』をくださっていたと思う」。

 べつの人は「中嶋先生がわれわれに授業で残してくださったことはそんなに多くない。先生はその生き方でわれわれに示してくださった」


 ―恐らく、その場のだれの胸にもその思いがあっただろう。



 そしてとてつもなく大きな構想力をもった人物だった。

 東京外大の今の調布キャンパス移転も中嶋氏の学長時代の功績。中嶋氏は一面の林だった調布キャンパス予定地を学生とともに訪ね、現地で立っている木を1本1本、「これをこっちにやって、あれはあっちにやって」とシミュレーションしていたそうだ。ご自分の板橋区の自宅も長野の古民家の再生材で建てた中嶋氏は、建築家的な脳の持ち主でもあったようだ。AIUの図書館建築にもその才能がみえる。



 出席されたご家族の話によると、直前まで執務していた中嶋氏は容態の急変、急変の連続で本当に急死と言ってよかったようだ。ご家族にもどれほどの打撃であったことか。

 しかし、奥様とともにOBの会合に出席されたお嬢さんは、「父の死があと10年遅かったらこんなに多くの皆様が集まってくださらなかったでしょう。また母もこんなにご対応できなかったでしょう」と語られたのだった。


 中嶋氏なきあとの世界を生きていかなければならない。いまだにあまり実感が湧かないのだが。


 (やたらと色々な分野の資料を集めているのは、単に不安感からの反応かもしれない)



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 『ファスト&スロー(上)』(ダニエル・カーネマン、早川書房、2012年11月)を読みました。


 題名の「ファスト&スロー」は、本文のことばで言い換えると「システム1」「システム2」となります。


 わたしたちの脳の中の、高速で考える「システム1」と時間をかけて丁寧に考える「システム2」。この2つのシステムを組み合わせてわたしたちは考えています。多くの場合は「システム1」に頼ります。本書では、2つのシステムをそれぞれに個性や能力や欠点を備えた脳の中の行動主体として考えるよう提案しています。


 要は、このブログでも何度か登場している「ヒューリスティック」(経験知に基づく思考法)のお話。それにプラス、今流行りの「意志力」の要素も入ってる感じです。旬な分野ということですね。


 帯の文句は「人間の『意思決定』の『不合理』な真実を解き明かす!よりよい『決断』のための必読書」とうたっており、何が「良い決断」なのかに関心のある方にはお勧めです。


 認知的錯覚は克服できるのだろうか、という問いに著者は、「あまり期待はできない」と答える。「システム1は自動運転していてスイッチを切ることはできないため、直感的思考のエラーを防ぐのは難しいからだ」


 「のべつ自分の直観にけちをつけるのは、うんざりしてやっていられない。そもそもシステム2はのろくて効率が悪いので、システム1が定型的に行っている決定を肩代わりすることはできないのである。私たちにできる最善のことは妥協にすぎない。失敗しやすい状況を見分ける方法を学習し、懸かっているものが大きいときに、せめて重大な失敗を防ぐべく努力することだ」(p.44)

 たとえば「バットとボールは合計1ドル10セントで、バットはボールより1ドル高いです。ではボールはいくらでしょう?」という問題に対して、「10セント」と答えたとしたら、あなたはよく言えば直感的な人すなわちシステム1だけを使う人だ。この問題に有名大学の学生の50%が「直感的な」答えを出したという。

 軽薄なシステム1とマジメなシステム2、というべきか。この本の言い回しでは、

「知的怠惰の罪を犯さない人たちは、より『まじめ』だと言える。」(p.70)


 ドラッカーが「真摯でない者はマネジャーになるべきでない」みたいなことを言っているが、この「真摯」ということを、脳科学的にはどう解釈したらいいのか悩んでいました。ひょっとしたら「システム1」を野放しにせず、「システム2」をこまめに使う、使うことを厭わない人のことを言っているのかもしれません。


 そして過日正田がブログである種の人を「早口病」と揶揄したり、ぱっぱ決断する人が偉いとされるようにデザインされた研修に疑義を呈したりするのは、この「システム1」だけでものを考えると非常に問題があるからです。
(もちろん、何事も時間をかければいいというものではありません。ある程度スピード感をもって仕事をすることは大切です)


 ところでおもしろいことに、本書によれば「システム2」を使っていることは「瞳孔」つまり黒目をみればわかるようなのです。二けたのかけ算をやっているとき、瞳孔がかなり拡がる。もっと難しい問題になると、さらに拡がる。「プラス3問題」という著者らが考案した脳に持続的努力を要求する足し算問題がもっとも難しく、瞳孔はもとの面積より約50%も大きくなり、心拍数は1分間で約7回増えるのだそうです。黒目の大きいひとはまじめで思慮ぶかいんでしょうか。


 その他ヒューリスティックについて、おさらいの内容もありますが面白いものを拾っておきましょう。


●「認知的に忙しい状態では、利己的な選択をしやすく、挑発的な言葉遣いをしやすく、社会的な状況について表面的な判断をしやすいことも確かめられている」(p.62)


●「何かを無理矢理がんばってこなした後で、次の難題が降りかかってきたとき、あなたはセルフコントロールをしたくなくなるか、うまくできなくなる。この現象は、『自我消耗』(ego depletion)と名づけられている」(p.63)


●セルフコントロールを消耗させる状況やタスクとは:

・考えたくないのに無理に考える。
・感動的な映画を観て感情的な反応を抑える。
・相反する一連の選択を行う。
・他人に強い印象を与えようとする。(心の声:正田がセミナーや研修のあと疲れているのはきっとそれだと思う)
・妻(または夫)や恋人の失礼なふるまいに寛容に応じる。(同上:なるほど)
・人種の異なる人と付き合う(差別的偏見を持っている人の場合)。(同上:差別的偏見をもつ人と一定時間以上接触するとこちらも非常に消耗する)

 そして消耗を示す兆候とは:

・ダイエットをやめてしまう。
・衝動買いに走る。
・挑発に過剰反応する。
・力のいる仕事をすぐに投げ出す。
・認知的タスクや論理的な意思決定でお粗末な判断を下す。(pp.63-64)


 消耗は判断力に悪影響をおよぼす。イスラエルの仮釈放判定人の申請書類の審査の仕事ぶりをみると、休憩直後の許可率が最も高く、次の休憩直前にはゼロ近くになった。疲れて空腹になった判定人は、申請を却下するという安易な「初期設定」に回帰しがちだった。

・・・ある人事課長は雨の日は不機嫌であり、何を提案してもネガティブな返事をした。雨音と低気圧で人はそんなにも消耗するものだろうか、もともと小さい彼のキャパシティを低下させていて非常にわかりやすかった。彼の部署は承認どころではなかったろうと思う・・・


●「もしあなたが大統領の政治手法を好ましく思っているとしたら、大統領の容姿や声も好きである可能性が高い。このように、ある人のすべてを、自分の目で確かめてもいないことまで含めて好ましく思う(または全部を嫌いになる)傾向は、ハロー効果(Halo effect)として知られる。後光効果とも言う」(p.122)

 ・・・「あばたもえくぼ」ですかね。去年は正田も自分の人物眼に自信を無くすような出来事が2,3あった。播州ハロー効果とでも言おうか・・・

●見たものがすべて効果。「限られた手元情報に基づいて結論に飛びつく傾向は、直感思考を理解するうえで非常に重要であり、・・・この傾向は、自分の見たものがすべてだと決めてかかり、見えないものは存在しないとばかり、探そうともしないことに由来する。・・・システム1は、印象や直感のもとになっている情報の質にも量にもひどく無頓着なのである」(p.129)

 ・・・教育も、とりわけ正田がやっているような教育は、膨大な情報群の中から自分の主張に都合のよいものを選んで提示しているようなところがある。しかしせめてもの良心で受講生さんに情報を批判的に吟味する習慣をつけていただきたいので、出典を明示することは必ずやっている。正田は受講生さんにシステム1オンリーの軽薄な人にはなってほしくないのだ…


●システム1の日常モニタリングにより、敵と味方を見分ける能力。脳の中には、顔の形から支配力を評価する回路があるらしい。政治家の顔写真を学生に見せたところ、当選した候補者の70%が「能力が高い」と評価されていた。能力の評価結果のほうが好感度の評価結果よりも、当落予想としてはるかに当てになった。具体的には、「能力が高い」という評価は、がっしりした顎と自信あふれる微笑の組み合わせが「できる男」という雰囲気を醸し出す。このシステム1の自動的な選好にとくに左右されやすい有権者とは、政治に疎くてテレビをよく見る人たちだった。この人たちは政治にくわしくテレビをあまり見ない有権者の3倍も「顔の印象に基づく能力」に影響されやすい。(pp.135-136)


●感情ヒューリスティック(affect heuristic)。好き嫌いによって判断が決まってしまう。感情的な要素がからんでくると、システム2は自己批判をする番人ではなくなる。システム1の感情を批判するよりも、擁護に回る傾向が強まる。(pp.153-154)

 感情は意思決定の質に影響を与える。脳の損傷などが原因で意思決定前にしかるべき感情が湧いてこない人たちは、感情による重みづけができないため、よい決定を下す能力が乏しい。悪い結果を見越して「健全な恐れ」を抱くことができないのは、我が身を危うくする欠陥といえる。(pp.204-205)


 ・・・当協会の講座では、リーダーの意思決定の質に重大な影響を与える因子として、「感情」を感じるトレーニングを行います。感情コントロールという意義と、正しい意思決定のために正しく自分の感情を感じる訓練と両方の側面があります。・・・


●利用可能性ヒューリスティック(availability heuristic)。記憶に残っていて呼び出しやすいことを過大評価する。飛行機事故は大々的に報道されるので、あなたはしばらくの間飛行機の安全性を過小評価しがちになる。

 ・・・これもよくありますね。「凶悪な少年犯罪は近年増えているか?」との問いに大抵の人はYESと答える。しかし統計を参照すると逆に減っていることがわかる。凶悪事件は話題性があり大きく報道されるので、強く印象に残っているのだ。・・・

 個人的に直接経験したことも記憶に残りやすく、利用可能性が高まる。自分自身のバイアスを意識することで、さまざまな共同プロジェクトがうまくいく。チームで仕事をする場合、自分のほうが他のメンバーより頑張っており、他のメンバーの貢献度は自分より小さいと考えがちである。システム1にうかうかと従う人は、システム1を厳しく監視している人よりも、利用可能性バイアスがかかりやすいことがわかっている。(pp.193-200)


 利用可能性ヒューリスティックは、リスクの評価に大きく影響する。たとえば脳卒中による死亡数は事故(あらゆる事故の合計)の死者の2倍に達するにもかかわらず、被験者の80%は事故死のほうが多いと答えた。被験者の判断は報道によってゆがめられている。(p.203)


●利用可能性カスケード。報道などによりバイアスが政策に入り込むメカニズム。ある観念の重要性は思い浮かぶたやすさ(および感情の強さ)によって判断される。利用可能性カスケードは自己増殖的な連鎖で、多くの場合、些細な出来事をメディアが報道することから始まり、一般市民のパニックや大規模な政府介入に発展するという過程をたどる。わたしたちはリスクを完全に無視するかむやみに重大視するかの両極端になり、中間がない。(pp.209-211)


●代表性ヒューリスティック。トム・W問題(これをあまり詳述すると申し訳ないので割愛)確率を問われた質問に類似性で答え、基準率を無視する。「彼女は今度の選挙で当選するだろう。成功する政治家のタイプだ」とか「あんなにタトゥーを入れていたら、彼は学界では出世しないよ」といった発言には代表性ヒューリスティックが絡んでいる。映画『マネー・ボール』では、「彼は成功する。ケツが大きいから』などと言っているスカウトたちを尻目にブラッド・ピット扮するGMが過去の実績データだけに基づいて選手を選び、チームは少ない予算ですばらしい成績を上げた。

 きちんとベイズ推定を行う基本原則は以下の2つ。
 ・結果の確率を見積もるときは、妥当な基準率をアンカーにする。
 ・証拠の診断結果をつねに疑う。


●「もっともらしさ」による錯誤。これも詳述しないが「リンダは銀行員である」より「リンダは銀行員で、フェミニスト運動の活動家でもある」のほうがもっともらしく見える。そのもっともらしさを確率(もっとも起こりやすさ)と混同する。本来はこの2つは「含む、含まれる」の関係であり、前者のほうが確率は高いのだが。2つの事象が同時に起きる連言事象のほうが「もっともらしく」見え、それだけでシステム2はゴーサインを出してしまった。


●平均への回帰(regresshon to the mean)。叱ることが好きな人には注目の項目。失敗を大きな声で叱るとその次回はうまくなる。ただしそれは叱られて学習したからではなく、平均に回帰しただけである。たまたま平均を大きく下回る下手なミスをしたのは偶然であり、その次はもっと平均に近いパフォーマンスをする確率が高い。ゴルフトーナメントでは、初日にいいスコアを出した選手がだいたいは2日目にスコアを悪くする現象が認められた。2つの変数の相関が不完全なときは、必ず平均への回帰が起きる。

 

●後知恵バイアスは以前にも取り上げた。
「私は『2008年の金融危機は避けられないことを事前に知っていた』とのたまう御仁をたくさん知っている。」
 後講釈をする脳は、意味づけをしたがる器官だといえる。予想外の事象が起きると、私たちはただちにそれに合わせて自分の世界観を修正する。
「人間の脳の一般的な限界として、過去における自分の理解の状態や過去に持っていた自分の意見を正確に再構築できないことが挙げられる」(p.294)
「過去の自分の意見を忠実に再現できないとなれば、あなたは必然的に、過去の事象に対して感じた驚きを後になって過小評価することになる」(p.295)

 ・・・たぶんこのせいなのだろう、「承認研修」を1回ならっただけで自分は人に承認を教える資格があると思ってしまうのは・・・


●結果バイアスが入り込むと、意思決定を適切に評価することがほとんど不可能になってしまう。わたしたちは、決定自体はよかったのに実行がまずかった場合でも、意思決定者を非難しがちである。また、すぐれた決定が後から見れば当たり前のように見える場合には、意思決定者をほとんど賞賛しない。

 ・・・なんど見たことだろう、私から見て尊敬できない人々が「承認研修」を受けた後、(できもしないくせに)「これって、要するに当たり前のことですよね」と言うのは。後日結果を出す人々は決してその手のことを言わない。彼らは承認に近いものを知らなかったわけではないが、しかし承認を新たなものとして「発見」する。・・・


●結果が重大であればあるほど、後知恵バイアスは大きくなる。たとえば9・11同時テロのように悲劇的な事件では、事前に予測できなかった政府高官を、怠慢か、でなければ無能だと決めつけやすい。後知恵バイアスや結果バイアスは、全体としてリスク回避を助長する。


●成功例の分析からリーダーシップや経営手法のクオリティを推定しても、信頼性が高いとはいえない。『ビジョナリー・カンパニー』の卓越起業とぱっとしない企業との収益性と株式リターンの格差は、調査期間後には縮小し、ほとんどゼロに近づいている。(心の声:この本がその後の巻で「凋落」について書いたのは著者らがいかにがっかりしたかということだろう。ちょっと笑えた)企業の成功あるいは失敗の物語が読者の心を捉えて離さないのは、脳が欲しているものを与えてくれるからだ。それは勝利にも敗北にも明らかな原因がありますよ、運だの必然的な平均回帰だのは無視してかまいませんよ、というメッセージである。そして読者の方は、みなそれを信じたがっているのである。

 ・・・日経ビジネスやルソンの壺をみる目がかわりそうだ。結局わたしの仕事としては業績に高い確率で結びつく「モチベーション」を上げる、というところをしっかりやるだけだ・・・


●妥当性の錯覚。本書によれば新人採用やリーダー昇格の資料にするためのちょっとしたゲームやテストの成績などはまったくあてにならない。採用や昇格にあたる人は心したほうがよいようだ。

「人工的に設定された状況で1時間ばかり兵士の行動を観察しただけで、幹部養成訓練や実戦の場で困難に直面したときどんなふるまいをするか、すっかりわかった気になっていたのだ。私たちの予測は平均回帰をまったく見込んでいなかったし、「自分の見たものがすべて」効果だった」(p.308)


●金融業界の「スキルの錯覚」。ある証券会社の個人客1万人が7年間に行った取引16万3000件について、
売った株とその代わりに買った株のリターンを売買時点から1年にわたって追跡調査した。結果は、打った銘柄は買った銘柄より値上がりしていた。大半の個人投資家にとっては、シャワーでも浴びてのんびりしているほうが、へたな思いつきを実行するよりもよい投資方針と言える。

 この研究者らは「投資は富を脅かす」というタイトルの論文にまとめ、平均的には最も活発な投資家が最も損をすること、取引回数の少ない投資家ほど儲けが大きいことを示した。

 また「男は度し難い」と題する論文では、男は無益な考えに取り憑かれる回数が女よりはるかに多く、その結果、女の投資実績は男を上回ることを示した。


 ・・・投資にはうといわたしですがさいごのほうの知見はよくわかる。男はやたら酒飲んで情報交換するが、結局は無益な考えに取り憑かれて失敗しているのをみると、「その情報むだちゃう?」と思うことが多い・・・


●専門家の予測は当たらない、というお話。ミールの「嫌われ者の小さな本」では、訓練を積んだ専門家の主観的な印象に基づく臨床的予測と、ルールに基づく数項目の評価・数値化による統計的予測とを比較し、どちらがすぐれているか分析したところ、専門家の予測はルールに基づくアルゴリズムを下回った。よくて同等だった。

 その後のドーズの研究によれば、アルゴリズムは封筒の裏に走り書きするようなアルゴリズムで十分だ。最適な重みづけをした複雑な計算式に十分対抗できる。新生児の系統的な評価、「アプガー・スコア」はその例。


●この知見を踏まえて、かつ人間の直感をも加味して行ったおもしろい試み。軍の面接では、いくつかの標準化された事実確認質問を用意し面接官に質問させた。意図としては第一印象によるハロー効果を排除した。しかし面接官が自分の直感を遮断して退屈な事実確認質問だけをするのに抗議したので、著者らは譲歩し、「面接は指示通りに確実に実行してください。そして最後に、あなた方の希望通りにしましょう。目を閉じて、兵士になった新兵を想像してください。そして五段階でスコアを付けてください」数か月後、この新しい面接方式が従来の方式よりはるかに正確に兵士の適性を予測していることがわかった。

直感が価値をもたらすこともある。ただしそれは、客観的な情報を厳密な方法で収集し、ルールを守って個別に評価した後に限られる、ということである。(pp.333-335)


 ・・・直感は正しいのか間違っているのか。ようは、裏付けのない直感には意味がなく、必要十分な情報に裏付けされた直感には意味がある。これを高齢者の直感に当てはめていえば、豊富な経験に基づいて意味があるばあいもあるし、そのひとがたまたまある1つの情報に必要以上に釘付けになってしまった場合には間違うこともある。・・・


 
●たとえば、あなたの会社でセールスマンを採用するとしよう。あなたが真剣に最高の人材を採用したいと考えているなら、やるべきことはこうだ。まず、この仕事で必須の適性(技術的な理解力、社交性、信頼性など)をいくつか決める。欲張ってはいけない。6項目がちょうどよい。・・・この準備にかかる時間はせいぜい30分かそこらだろう。このわずかな投資で、採用する人材のクオリティは大幅に向上するはずだ。(pp.335-336)


 ・・・採用を考えている人には非常に重要な示唆だと思うけれど上記のパラグラフは途中を抜いてあります。読みたいかたは本書をお買い求めください。・・・


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 「よい意思決定」にはなんと多くの因子がかかわっていることでしょう。しかし、意思決定をしごとにする人であれば、こうした知見から逃げてはいけません。重要な業務知識です。

 往々にして高い地位についた人は自分の判断力を過信するようになります。一瞥した印象にもとづいて判断する資格があると思うようになります。私ともども気をつけましょう。「システム2」がさぼらないように、引き続き鍛え続けましょう。


 本書の下巻にはこの著者カーネマンのもっとも重要な発見である「プロスペクト理論」が出てきますが上巻について書いたところで息切れしてしまったので、それはまた日を改めて。


100年後に誇れる人材育成をしよう。
NPO法人企業内コーチ育成協会
http://c-c-a.jp










 
 
 

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