引き続き、先月亡くなられた恩師・中嶋嶺雄・前国際教養大学(AIU)前理事長・学長をしのぶ資料をご紹介します。
今回は、諸先輩方の追悼文を差し置いてこのブログの主正田がゼミの追悼文集に寄稿した文章をお送りします。
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「内では慈父、外では闘う父」
私は1986年から88年まで東京外大の学部生として国際関係論研究室の中嶋ゼミに在籍し、現在は人材育成の仕事をしています。
多くの諸先輩方、同期生方の共通の思い出の中にあるように、中嶋先生は多忙な中で学生をよく褒め、1人ひとりと丁寧に向き合い、研究や進路の相談に乗り、学生自身が決断したことには心からのエールを贈られました。卒論テーマにしても進路にしても、学生の意に反することを押しつけたことは、私の知る限り一度もありませんでした。そして、学生・卒業生の成功を心から喜んでくださいました。
それは、中嶋先生をよく知らない人の目から見たら驚くべき「優しき父」の顔だったでしょう。その当時の東京外大中国語学科の正統的な陣営、すなわち親中国的な語学文学系の人たちから見ると、1980年代の中嶋先生というのは右派の論客であり、外務省の弱腰外交を叱咤し、日本の国益本位に論陣を張る中国研究の異端児でした。先生ご自身も、やや対決姿勢の論調でものを書かれていました。
そしてまた、研究においては海外の一流研究者との交流を密にし、教育分野においては在米経験などに照らして日本の大学教育のあるべき姿を提言する存在でもありました。その姿は現状容認、前例踏襲的な日本の風土の中では、当時は、やはり「異端」であり、「闘士」とも呼べるものでした。
内において「慈父」であった中嶋先生はそうして、外には対照的な「闘う父」の背中を私たちに見せておられました。現状に甘んじるものを嫌い、徹底して糾弾する人だということは、嫌というほど学生たちも植えつけられていました。それらは車の両輪として、常に高みを目指すよう促す要因になっていました。
今、行動心理学の観点からみると、これは説明がつくのです。良い行動を褒めて伸ばす「オペラント条件づけ」と、指導者のあり方そのものから学ばせる「モデリング」。このどちらかだけに偏っては人材育成はうまくいかないものですが、中嶋先生はこれらをどこからも教わることなく自然体で行っておられた方でした。結果として、学生の高いレベルの研究や卒業生の活躍につながっていたように思います。
研究において、新大学設立において、自らの「闘う場」を持っておられた中嶋先生は、学生・卒業生1人ひとりのフィールドでの「闘い」にも温かい理解を寄せる方でした。
私は東北大震災直後の2011年春、主宰するNPOの人材育成分野のイベント「承認大賞2011プロジェクト」に中嶋先生の推薦文を書いていただくご依頼に秋田の国際教養大学(AIU)まで伺いました。宿舎の「クリプトンプラザ」で、畑違いを承知ながら差し出した私の資料を、中嶋先生は独特の食い入るような大きな厳しい目でご覧になりました。そして、「はい。わかりました。明日までに推薦文を書きましょう」と、資料を持って自室に戻られました。
これは私の想像ですが、幼少時から「スズキ・メソード」に親しまれ、同メソード会長も務められた中嶋先生であれば、「佐与さんが何か新しいメソッドを創ったらしい。耳慣れないが、多分価値のあるものなのだろう」といった感覚でいらしたのではないでしょうか。
ただ、結果的に推薦文を頂くことができたとはいえ、ご自身が天然の「褒め名人」であり、人を認める、心からの称賛をする、期待の言葉を掛ける、励ます、力づけるなど、日本人男性としては珍しいくらい人を育てる言葉掛けや関わり方のできる方だった中嶋先生にとっては、何故これらの行為をわざわざ教育したり、普及しなければならないのか、現代日本の社会にどれほど欠けていてかつ必要なものかは、恐らく理解していただくのは難しかったのではないかと思うのです。
(しょうだ・さよ 1988年中国語学科卒 NPO法人企業内コーチ育成協会代表理事)
100年後に誇れる人材育成をしよう。
NPO法人企業内コーチ育成協会
http://c-c-a.jp
今回は、諸先輩方の追悼文を差し置いてこのブログの主正田がゼミの追悼文集に寄稿した文章をお送りします。
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「内では慈父、外では闘う父」
正田佐与(旧姓畠山)
私は1986年から88年まで東京外大の学部生として国際関係論研究室の中嶋ゼミに在籍し、現在は人材育成の仕事をしています。
多くの諸先輩方、同期生方の共通の思い出の中にあるように、中嶋先生は多忙な中で学生をよく褒め、1人ひとりと丁寧に向き合い、研究や進路の相談に乗り、学生自身が決断したことには心からのエールを贈られました。卒論テーマにしても進路にしても、学生の意に反することを押しつけたことは、私の知る限り一度もありませんでした。そして、学生・卒業生の成功を心から喜んでくださいました。
それは、中嶋先生をよく知らない人の目から見たら驚くべき「優しき父」の顔だったでしょう。その当時の東京外大中国語学科の正統的な陣営、すなわち親中国的な語学文学系の人たちから見ると、1980年代の中嶋先生というのは右派の論客であり、外務省の弱腰外交を叱咤し、日本の国益本位に論陣を張る中国研究の異端児でした。先生ご自身も、やや対決姿勢の論調でものを書かれていました。
そしてまた、研究においては海外の一流研究者との交流を密にし、教育分野においては在米経験などに照らして日本の大学教育のあるべき姿を提言する存在でもありました。その姿は現状容認、前例踏襲的な日本の風土の中では、当時は、やはり「異端」であり、「闘士」とも呼べるものでした。
内において「慈父」であった中嶋先生はそうして、外には対照的な「闘う父」の背中を私たちに見せておられました。現状に甘んじるものを嫌い、徹底して糾弾する人だということは、嫌というほど学生たちも植えつけられていました。それらは車の両輪として、常に高みを目指すよう促す要因になっていました。
今、行動心理学の観点からみると、これは説明がつくのです。良い行動を褒めて伸ばす「オペラント条件づけ」と、指導者のあり方そのものから学ばせる「モデリング」。このどちらかだけに偏っては人材育成はうまくいかないものですが、中嶋先生はこれらをどこからも教わることなく自然体で行っておられた方でした。結果として、学生の高いレベルの研究や卒業生の活躍につながっていたように思います。
研究において、新大学設立において、自らの「闘う場」を持っておられた中嶋先生は、学生・卒業生1人ひとりのフィールドでの「闘い」にも温かい理解を寄せる方でした。
私は東北大震災直後の2011年春、主宰するNPOの人材育成分野のイベント「承認大賞2011プロジェクト」に中嶋先生の推薦文を書いていただくご依頼に秋田の国際教養大学(AIU)まで伺いました。宿舎の「クリプトンプラザ」で、畑違いを承知ながら差し出した私の資料を、中嶋先生は独特の食い入るような大きな厳しい目でご覧になりました。そして、「はい。わかりました。明日までに推薦文を書きましょう」と、資料を持って自室に戻られました。
これは私の想像ですが、幼少時から「スズキ・メソード」に親しまれ、同メソード会長も務められた中嶋先生であれば、「佐与さんが何か新しいメソッドを創ったらしい。耳慣れないが、多分価値のあるものなのだろう」といった感覚でいらしたのではないでしょうか。
ただ、結果的に推薦文を頂くことができたとはいえ、ご自身が天然の「褒め名人」であり、人を認める、心からの称賛をする、期待の言葉を掛ける、励ます、力づけるなど、日本人男性としては珍しいくらい人を育てる言葉掛けや関わり方のできる方だった中嶋先生にとっては、何故これらの行為をわざわざ教育したり、普及しなければならないのか、現代日本の社会にどれほど欠けていてかつ必要なものかは、恐らく理解していただくのは難しかったのではないかと思うのです。
(しょうだ・さよ 1988年中国語学科卒 NPO法人企業内コーチ育成協会代表理事)
100年後に誇れる人材育成をしよう。
NPO法人企業内コーチ育成協会
http://c-c-a.jp