引き続きテレビっ子になっています。
NHK「週刊ニュース深読み」でメディアの暴力表現・性表現と教育の問題を取り上げていました。言わずとしれた、「はだしのゲン」論争からきたもの。
女優、コメディアン、ルポライター、学者、漫画家という面々で議論していた。皆さん他人の話をさえぎって我先にしゃべるしゃべる。とりわけ「表現の自由」を標榜する漫画家の江川達也がきつく、彼にならってほかの人もそういうマナーになっているふしがありました。これはファシリ大変そう。また発言量の偏りも気になりました。
ここで私が聞き耳を立てたのはメディアの子どもへの影響を研究する佐々木輝美(国際基督教大学教授)という人。60年代〜70年代に行われた実験から、メディアの暴力を子どもがまねすることが立証されている、と主張。
他の素人同士がガーガー発言量の多いなかであり、放送のその場としてはすごく周囲に影響を与える発言だったとはいえないが、現実にメディア側では対応が始まっています。90年代ごろに「ゾーニング」(コンビニの書棚で成人向け雑誌専用の区域をつくり区別する。そこに「18歳未満の方は買わないでください」と明確に書く)、そして2000年代には「ラベリング」(ゲームソフトに5段階で「全年齢向け」「12歳以上向け」など等級をつける)を始めています。
そのことがどうよ、というと、佐々木氏は「食品なら必ず裏の成分表示をみますよね。それと同様、メディアにも内容表示をする時代になった。当然の流れだと思います」といいます。
私は(ブログの長い読者の方はご存知の通り)暴力や性の表現の自由なんてもともと評価していないから、佐々木氏に大いに賛成であります。だってTVもネットもない時代には、そして特別戦乱期でない場合なら、暴力を見聞きするなんていうのは近所の狭い範囲で、ごくまれなことでした。そのことの是非について話し合う道徳教育の時間もありました。それが今や表現の自由がありネットがあるので1日中でもみることができるわけですから。
個別の感じ方はありますが、このブログで時々出てくるフレーズ、
「人は、(選ぶことができるなら)自分の好む種類の刺激に繰り返し曝露することを好む」
だからホラー映画が好きな人はホラー映画ばかり延々とみるだろうしロリコン物が好きな人はそればかりみるだろうし。
「研修」のほうに引っ張って考えたら人を傷つけるのが好きな人は延々と「叱る研修」ばかりはしごして受講するかもしれないわけです。
「表現」も「観たい」「曝露したい」も、「欲」「煩悩」の次元のものであります。一方で人間社会には「規範」(こうあるべき)も一定レベル以上なければ成り立ちません。自由が何もかもすばらしいのではなくバランスが大事です。バランスをとることが難しいなら自由を規制するのもやむなし、と私は思います。
ニューヨークのブルームバーグ市長でしたっけ、ジュースのカップの大きさを規制したのは。あれは「自由」と「健康」(医療費問題でもある)の相剋でしたが、「自由」と「秩序」(犯罪コスト問題?)の相剋も当然あるでしょう。
もうひとつ感じたのは、
佐々木氏の引用した60−70年代の研究とは恐らく当協会の教育でも重視する行動理論のモデリングを仮説に使ったものでしょう。その時代がちょうど行動理論の全盛期でした(今も間違っているわけではなく、やれることをやり尽くしただけです)
しかしその知見が今まで日本に知れわたっていたとは思えません。一時期「ゲーム脳」について盛んに書いていたお医者さんはのちに「論拠がいい加減だ」「エキセントリックだ」と叩かれました。しかし子どもが見たものをまねしやすい、というのは極めて常識的なことであり、またちゃんと裏付けのあることなのです。反論側はメディア特にゲーム業界の意向だったのではと思われます。
そうして行動理論みたいなごく常識的なことが、メディア発達後長年たって初めて現実の知恵として反映されるようになるのでした。Wii-fit みたいな運動ゲームにも「コーチがほめてくれる」という形で思い切り「行動理論/行動科学」は入っているのにね。
と、「社会変革とは時間のかかるものよのう」といつもの伝で感慨にふけったのでした。
このお話はここまでであります。