フランシス・フクヤマの『歴史の終わり』を今年3月、読みました。以下、当時の読書メモです(引用部分太字)。
ここでは、「承認」を「認知」という言葉で言っています。「認知」には「優越願望」と「対等願望」がある、とフクヤマは言っています。
人は、自分が他人より優越していることを認めさせようとしがちだし、それはほんとうの精神的価値にもとづいている場合もあるが、多くは思い上がった自己評価から生まれてくる。
このように、自分の優越性を認めさせようとする欲望を、私は古典ギリシア語から語源を借りて「優越願望」(megulothymia,メガロサミア)と新たに命名したい。(略)一方、「対等願望」(isothymia, アイソサイミア)はその反意語であり、他人と対等なものとして認められたいという欲望を意味する。「優越願望」と「対等願望」は、認知への欲望の2つのあらわれであり、近代への歴史の移行もこの両者とのからみで理解することができる。(下巻pp-31-32)
この「優越願望」を体現した人物としてフクヤマはシーザー、ヒトラー、スターリンを挙げます。
アメリカの自由、リベラリズムとヘーゲル流の自由と。・・・どうでしょう、わたしたちはどちらに近いでしょうか。
ヘーゲルはわれわれに、ホッブズやロックに端を発するアングロ・サクソン的な自由主義の伝統とは異なった視点からリベラルな近代民主主義を改めて解釈する機会を与えてくれている。自由主義に対するこのヘーゲル流の理解は、同時に、自由主義が何をあらわしているかについてのいっそう気高いビジョンであり、世界じゅうの人々が民主主義社会に住みたいという願いを口にするときそれが何を意味しているかについてのいっそう正確な解釈でもある。
ホッブズやロック、そして合衆国憲法や独立宣言を起草した後継者たちにとってリベラルな社会とは、特定の自然権、なかんずく生命の権利―つまり自己保存の権利―や財産獲得の権利として一般に理解されている幸福追求の権利を有する個人のあいだの一つの社会契約だった。つまり、互いに生活や財産に干渉しないという、市民館の相互的かつ対等な合意であった。これに対してヘーゲルにとってのリベラルな社会とは、市民が互いに認め合うという相互的かつ対等な合意のことであった。ホッブズやロックのいう自由主義が理にかなった私利私欲の追求であるなら、ヘーゲル流の「自由主義(リベラリズム)」は理にかなった認知、つまり、各人が自由で自律的な人間として万人から認められるという普遍的な基盤の上に成り立つ認知の追求と解釈できる。(同、p.57)
また現代のアメリカ人が自分たちの社会や政府のことを話題にするときには、ロック流の用語よりもヘーゲル的な用語のほうを頻繁に使う。さらに公民権運動の高揚期にはごく当然のことのように、公民権の法制化は黒人の尊厳を認めるためであり、すべてのアメリカ人に尊厳と自由の生活を保証した独立宣言および憲法の公約を実現させるためである、と主張されていた。当時の人は、こういう論議の要点を理解するのにヘーゲル学者になる必要などなかったし、ほとんど教育のない人間や底辺の市民でさえこういう言葉を使ったのである。
(中略)
アメリカ建国の父たちが「認知」とか「尊厳」とかいう言葉を使わなかったにせよ、それは、権利についてのロックの用語が知らず知らずのうちに認知についてのヘーゲルの用語にすんなり移行していくことを妨げるものではなかった。(同p.63)
労働は、ヘーゲルによれば人間の本質である。自然の世界を人間の暮らしやすい世界に変えることによって人類史を作り上げるのは働く奴隷である。少数の怠惰な主君をのぞいて、すべての人間は労働をする。(同p.92)
言い換えれば、リベラルな民主主義国家はそれだけでは完全なものとはいえないのである。そのような国家の土台となる共同体生活は、究極のところでは、自由主義そのものとは異なったルーツをもっている。合衆国建国当時、アメリカ社会を作り上げた男たちや女たちは、孤立して私益ばかりを計算する合理主義的な個人ではなかった。むしろ彼らのほとんどは、道徳観念や信仰をともにする宗教的共同体の一員だった。彼らが最後にはようやく受け入れた自由主義は、それ以前からあった文化の投影ではなく、そうした既存文化とのある種の緊張関係をもって存在していたのである。
(中略)
長い目で見るとこのような自由主義的な原理は、強固な共同体を維持するのに欠かせない自由主義以前の諸価値を侵食し、ひいては自由主義社会の自己を維持する能力をも蝕んでいくことになったのである。(同p.245)
アリストテレスによれば、歴史は永続的に進むのではなく、むしろ循環するものだとされた。なぜなら、いかなる政権もどこか不完全であり、そのために人々はいつも自分の暮らしている政府を何か違った形に変えたいと願うようになるからだ。そのあたりを考え合わせると、現代の民主主義にも同じことが当てはまるとはいえないだろうか?
アリストテレスにならって、われわれはこう仮定してもよいかもしれない。欲望と理性だけでできている「最後の人間」の社会はやがて、認知のみを追い求める獣のような「最初の人間」の社会に道を譲り、ついでその逆が繰り返され、そしてこの歴史の横揺れがはてしなく続いていく、と。(同p.257)
『人間の未来―ヘーゲル哲学と現代資本主義』(竹田青嗣、ちくま新書、Kindle版、2009年)より
ミルトン・フリードマンの主張の中心点は2つある。第一に、先進資本主義国家の新しい傾向である長期不況については、これまで効果があると信じられていた政府介入型、ケインズ的処方は間違いであり、通貨量調整型にし、基本的に市場原理に任せるのがよい、という考え。第二に、社会にとってもっとも大事なのは、政府の諸権力に対して個々人の自由と権利が守られることであり、もっとも合理的かつ効率的な経済理論と、個人の自由に対する政府の介入の最小化の原理とは両立するという主張である。
第一の点については、ケインズ理論に一定の不備のあることは現在、多くの経済学者の認めるところだし、少なくともアメリカの80年代不況についてはフリードマンの理論が一定の実績を上げたこと(ボルカー、グリーンスパンFRB議長時代にそれが採用された)は認めねばならない。しかし、一つの経済理論が、経済現象をうまく捉えていたかが実証されるにはふつう50年以上のスパンを必要とするから、現状で、マネタリズム理論がケインズ理論を超えるより正しい理論かどうかはまったく確定できない(この文章を書いた直後世界金融危機が現れ、じっさいに、フリードマン理論は大きく相対化されることになった)。
さらに、フリードマン理論が帰結する市場原理主義の世界化が、総じて、マネーゲーム的性格をもつ金融資本主義について、共存と調整のルール整備ではなく、その競争の激化をもたらすものであることはかなり明らかになりつつある。とくに金融市場の競争の自由化と世界化が、持てるものに有利に働き、持たざるものに不利に働く傾向をもつことはいまや否定しがたい。市場原理主義は競争原理の最大化によって経済効率の最大化をめがけるのだが、それが、世界経済全体における、金融経済と実体経済の適切な均衡をとる保証は存在せず、実証されてもいない。
もう一つの問題は、フリードマンの理論がいわば「純粋自由主義」の理念に裏打ちされている点である。
(中略)
フリードマンの主張には、完全平等主義の考えの不合理性、それが全体主義を招く危険性をもつこと、国家権力集中の危険性、人間の自由の権利の重要性、経済システムとしての自由市場原理の優位性、生の価値の多様性(自由)の強調など、多くの観念が混在している。そしてこの混在の全体が、ちょうど、フロイトの「ハンスの言い訳」のようにからみあった矛盾をはらんでいる。
しかしもっとも根本的な弱点は、その「自由」理論が、人間はだれも自分の諸権利を侵されない「自由」をもつ、という純粋化された「理想理念」だという点にある。
この「理想理念」の性格については、ちょうどその対極にあるアマルティア・センの主張と対照するとよく理解できる。センの主張のポイントは、社会思想の根本を、いわば人間の理想的な平等化の理念、どんな人間も、人間であるかぎり、最低限の尊厳ある生活を営むことができるのでなくてはならない、という観念にある。そこで、一般市民(とくに先進国の一般市民)にとって、弱者(貧しい立場にある人々)に救済の手をさしのべることは一つの「義務」(「完全義務」ではないとしても「不完全義務」だとされる)である。
(中略)
先験的自由論は一つの「理想理念」であり、その祖型はロックの天賦人権論(神が人を自由な存在として創った)である。これは、当時の王権イデオロギー(王権神授説)に対するいわばカウンター・イデオロギーとして強い力をもち、アメリカ革命における人権憲章、フランス革命における人権宣言に強い影響を及ぼし、近代国家の基礎理論となった。しかし哲学的には、ルソーやヘーゲルの理論がその弱点を超え出ている。
ヘーゲルは「自由」を人間精神の本質と考えたが、「自由」(諸権利)が本来人間に属するとは考えなかった。彼は、ロックやカントの人権と自由の生得説を転倒する形で、人間は生来自由ではないし、かつて一度たりとも自由であったことはないが、各人が「自由の相互承認」の意志をもち、これを”社会化”する場合にのみ人間の自由(人権)は可能となる、と説いた。(No.3121-3181)
ここでわたしが、哲学的な原理として示そうとしたことは二つだ。それがどれほど多くの矛盾を含もうとも、現代国家と資本主義システムそれ自体を廃棄するという道は、まったく不可能であるだけでなく、無意味なものでしかないこと。そうであるかぎり、現在の大量消費、大量廃棄型の資本主義の性格を根本的に修正し、同時に、現代国家を「自由の相互承認」にもとづく普遍ルール社会へと成熟させる道をとる以外には、人間的「自由」の本質を擁護する道は存在しないこと。
(中略)
現代社会は、さまざまな困難と矛盾を抱えこんではいるが、人間の本質的な「自由」が生きのびる可能性の原理はまだ死に尽くしてはいない。これがわたしの第一の主張である。この「可能性の原理」を現実化できるか否かは、われわれ自身の一つの根本的な決断にかかっている。つまり、恣意的な理想理念の「物語」からではなく、これ以外にはあり得ないといういくつかの原理的選択肢から一つを明瞭に選びとる、多くの人間の「われ欲す」を、現代社会は必要としているのである。(No. 3353-3376)
すいません、この記事は完全にメモ書きだけの記事でした(汗)
(一財)承認マネジメント協会
正田佐与