正田佐与の 愛するこの世界

神戸の1位マネジャー育成の研修講師・正田佐与が、「承認と職場」、「よのなかカフェ」などの日常を通じて日本人と仕事の幸福な関係を語ります。現役リーダーたちが「このブログを読んでいればマネジメントがわかる」と絶賛。 現在、心ならずも「アドラー心理学批判」と「『「学力」の経済学』批判」でアクセス急増中。コメントは承認制です

2015年03月


 フランシス・フクヤマの『歴史の終わり』を今年3月、読みました。以下、当時の読書メモです(引用部分太字)。
 ここでは、「承認」を「認知」という言葉で言っています。「認知」には「優越願望」と「対等願望」がある、とフクヤマは言っています。


 人は、自分が他人より優越していることを認めさせようとしがちだし、それはほんとうの精神的価値にもとづいている場合もあるが、多くは思い上がった自己評価から生まれてくる。

 このように、自分の優越性を認めさせようとする欲望を、私は古典ギリシア語から語源を借りて「優越願望」(megulothymia,メガロサミア)と新たに命名したい。(略)一方、「対等願望」(isothymia, アイソサイミア)はその反意語であり、他人と対等なものとして認められたいという欲望を意味する。「優越願望」と「対等願望」は、認知への欲望の2つのあらわれであり、近代への歴史の移行もこの両者とのからみで理解することができる。(下巻pp-31-32)


 この「優越願望」を体現した人物としてフクヤマはシーザー、ヒトラー、スターリンを挙げます。




 アメリカの自由、リベラリズムとヘーゲル流の自由と。・・・どうでしょう、わたしたちはどちらに近いでしょうか。


 ヘーゲルはわれわれに、ホッブズやロックに端を発するアングロ・サクソン的な自由主義の伝統とは異なった視点からリベラルな近代民主主義を改めて解釈する機会を与えてくれている。自由主義に対するこのヘーゲル流の理解は、同時に、自由主義が何をあらわしているかについてのいっそう気高いビジョンであり、世界じゅうの人々が民主主義社会に住みたいという願いを口にするときそれが何を意味しているかについてのいっそう正確な解釈でもある。

 ホッブズやロック、そして合衆国憲法や独立宣言を起草した後継者たちにとってリベラルな社会とは、特定の自然権、なかんずく生命の権利―つまり自己保存の権利―や財産獲得の権利として一般に理解されている幸福追求の権利を有する個人のあいだの一つの社会契約だった。つまり、互いに生活や財産に干渉しないという、市民館の相互的かつ対等な合意であった。これに対してヘーゲルにとってのリベラルな社会とは、市民が互いに認め合うという相互的かつ対等な合意のことであった。ホッブズやロックのいう自由主義が理にかなった私利私欲の追求であるなら、ヘーゲル流の「自由主義(リベラリズム)」は理にかなった認知、つまり、各人が自由で自律的な人間として万人から認められるという普遍的な基盤の上に成り立つ認知の追求と解釈できる。(同、p.57)


 また現代のアメリカ人が自分たちの社会や政府のことを話題にするときには、ロック流の用語よりもヘーゲル的な用語のほうを頻繁に使う。さらに公民権運動の高揚期にはごく当然のことのように、公民権の法制化は黒人の尊厳を認めるためであり、すべてのアメリカ人に尊厳と自由の生活を保証した独立宣言および憲法の公約を実現させるためである、と主張されていた。当時の人は、こういう論議の要点を理解するのにヘーゲル学者になる必要などなかったし、ほとんど教育のない人間や底辺の市民でさえこういう言葉を使ったのである。
(中略)
 アメリカ建国の父たちが「認知」とか「尊厳」とかいう言葉を使わなかったにせよ、それは、権利についてのロックの用語が知らず知らずのうちに認知についてのヘーゲルの用語にすんなり移行していくことを妨げるものではなかった。(同p.63)



 労働は、ヘーゲルによれば人間の本質である。自然の世界を人間の暮らしやすい世界に変えることによって人類史を作り上げるのは働く奴隷である。少数の怠惰な主君をのぞいて、すべての人間は労働をする。(同p.92)


 言い換えれば、リベラルな民主主義国家はそれだけでは完全なものとはいえないのである。そのような国家の土台となる共同体生活は、究極のところでは、自由主義そのものとは異なったルーツをもっている。合衆国建国当時、アメリカ社会を作り上げた男たちや女たちは、孤立して私益ばかりを計算する合理主義的な個人ではなかった。むしろ彼らのほとんどは、道徳観念や信仰をともにする宗教的共同体の一員だった。彼らが最後にはようやく受け入れた自由主義は、それ以前からあった文化の投影ではなく、そうした既存文化とのある種の緊張関係をもって存在していたのである。
(中略)
 長い目で見るとこのような自由主義的な原理は、強固な共同体を維持するのに欠かせない自由主義以前の諸価値を侵食し、ひいては自由主義社会の自己を維持する能力をも蝕んでいくことになったのである。(同p.245)



 アリストテレスによれば、歴史は永続的に進むのではなく、むしろ循環するものだとされた。なぜなら、いかなる政権もどこか不完全であり、そのために人々はいつも自分の暮らしている政府を何か違った形に変えたいと願うようになるからだ。そのあたりを考え合わせると、現代の民主主義にも同じことが当てはまるとはいえないだろうか?
 アリストテレスにならって、われわれはこう仮定してもよいかもしれない。欲望と理性だけでできている「最後の人間」の社会はやがて、認知のみを追い求める獣のような「最初の人間」の社会に道を譲り、ついでその逆が繰り返され、そしてこの歴史の横揺れがはてしなく続いていく、と。(同p.257)





『人間の未来―ヘーゲル哲学と現代資本主義』(竹田青嗣、ちくま新書、Kindle版、2009年)より


 ミルトン・フリードマンの主張の中心点は2つある。第一に、先進資本主義国家の新しい傾向である長期不況については、これまで効果があると信じられていた政府介入型、ケインズ的処方は間違いであり、通貨量調整型にし、基本的に市場原理に任せるのがよい、という考え。第二に、社会にとってもっとも大事なのは、政府の諸権力に対して個々人の自由と権利が守られることであり、もっとも合理的かつ効率的な経済理論と、個人の自由に対する政府の介入の最小化の原理とは両立するという主張である。
 第一の点については、ケインズ理論に一定の不備のあることは現在、多くの経済学者の認めるところだし、少なくともアメリカの80年代不況についてはフリードマンの理論が一定の実績を上げたこと(ボルカー、グリーンスパンFRB議長時代にそれが採用された)は認めねばならない。しかし、一つの経済理論が、経済現象をうまく捉えていたかが実証されるにはふつう50年以上のスパンを必要とするから、現状で、マネタリズム理論がケインズ理論を超えるより正しい理論かどうかはまったく確定できない(この文章を書いた直後世界金融危機が現れ、じっさいに、フリードマン理論は大きく相対化されることになった)。
 さらに、フリードマン理論が帰結する市場原理主義の世界化が、総じて、マネーゲーム的性格をもつ金融資本主義について、共存と調整のルール整備ではなく、その競争の激化をもたらすものであることはかなり明らかになりつつある。とくに金融市場の競争の自由化と世界化が、持てるものに有利に働き、持たざるものに不利に働く傾向をもつことはいまや否定しがたい。市場原理主義は競争原理の最大化によって経済効率の最大化をめがけるのだが、それが、世界経済全体における、金融経済と実体経済の適切な均衡をとる保証は存在せず、実証されてもいない。
 もう一つの問題は、フリードマンの理論がいわば「純粋自由主義」の理念に裏打ちされている点である。

 (中略)

 フリードマンの主張には、完全平等主義の考えの不合理性、それが全体主義を招く危険性をもつこと、国家権力集中の危険性、人間の自由の権利の重要性、経済システムとしての自由市場原理の優位性、生の価値の多様性(自由)の強調など、多くの観念が混在している。そしてこの混在の全体が、ちょうど、フロイトの「ハンスの言い訳」のようにからみあった矛盾をはらんでいる。
 しかしもっとも根本的な弱点は、その「自由」理論が、人間はだれも自分の諸権利を侵されない「自由」をもつ、という純粋化された「理想理念」だという点にある。
 この「理想理念」の性格については、ちょうどその対極にあるアマルティア・センの主張と対照するとよく理解できる。センの主張のポイントは、社会思想の根本を、いわば人間の理想的な平等化の理念、どんな人間も、人間であるかぎり、最低限の尊厳ある生活を営むことができるのでなくてはならない、という観念にある。そこで、一般市民(とくに先進国の一般市民)にとって、弱者(貧しい立場にある人々)に救済の手をさしのべることは一つの「義務」(「完全義務」ではないとしても「不完全義務」だとされる)である。

(中略)

 先験的自由論は一つの「理想理念」であり、その祖型はロックの天賦人権論(神が人を自由な存在として創った)である。これは、当時の王権イデオロギー(王権神授説)に対するいわばカウンター・イデオロギーとして強い力をもち、アメリカ革命における人権憲章、フランス革命における人権宣言に強い影響を及ぼし、近代国家の基礎理論となった。しかし哲学的には、ルソーやヘーゲルの理論がその弱点を超え出ている。

 ヘーゲルは「自由」を人間精神の本質と考えたが、「自由」(諸権利)が本来人間に属するとは考えなかった。彼は、ロックやカントの人権と自由の生得説を転倒する形で、人間は生来自由ではないし、かつて一度たりとも自由であったことはないが、各人が「自由の相互承認」の意志をもち、これを”社会化”する場合にのみ人間の自由(人権)は可能となる、と説いた。(No.3121-3181)

 


 ここでわたしが、哲学的な原理として示そうとしたことは二つだ。それがどれほど多くの矛盾を含もうとも、現代国家と資本主義システムそれ自体を廃棄するという道は、まったく不可能であるだけでなく、無意味なものでしかないこと。そうであるかぎり、現在の大量消費、大量廃棄型の資本主義の性格を根本的に修正し、同時に、現代国家を「自由の相互承認」にもとづく普遍ルール社会へと成熟させる道をとる以外には、人間的「自由」の本質を擁護する道は存在しないこと。

(中略)

 現代社会は、さまざまな困難と矛盾を抱えこんではいるが、人間の本質的な「自由」が生きのびる可能性の原理はまだ死に尽くしてはいない。これがわたしの第一の主張である。この「可能性の原理」を現実化できるか否かは、われわれ自身の一つの根本的な決断にかかっている。つまり、恣意的な理想理念の「物語」からではなく、これ以外にはあり得ないといういくつかの原理的選択肢から一つを明瞭に選びとる、多くの人間の「われ欲す」を、現代社会は必要としているのである。(No. 3353-3376)



 すいません、この記事は完全にメモ書きだけの記事でした(汗)


(一財)承認マネジメント協会
 正田佐与

 広野ゆい氏(NPO法人発達障害をもつ大人の会代表)インタビュー第2弾の3回目です。

 ここでは、日常出くわす、どこかに分類しきれない発達障害者らしい人たちとマネジメントのルールの世界の「困った!」について、広野さんにお伺いしました。
 広野さんとしても当事者の会の運営の中でこうした現象に出会うことは珍しくないようで、ひじょうに率直に答えていただきました。


広野ゆい氏にきく(2)発達障害者マネジメントの「困った!」問答


1.「一律」になじまない現実と付き合う
■メンタルヘルス問題に「発達障害」の視点がない
■「軍隊式マネジメント」はなぜ存在するか
■5Sに「発達障害」の視点を入れると
■全体の質低下を防ぐには
■「発達障害」と昇進昇格と嫉妬


2.「弱みの自覚」のむずかしさと大切さ

■自己診断にチェックリストは有効か
■若い人の成長過程のむずかしさと自己認知
■適性のない仕事についていたら?
■「強みを活かす」の限界 弱みの自覚の大切さ
■感情表現(Iメッセージ)の壁を訓練で乗り越える


3.発達障害者マネジメントの「困った!」問答

■管理職研修と発達障害
■ASDの人の固定観念と性バイアス
■ADHDは薬で改善されるか
■告知はどんな言い方が有効?
■ADHDの人が自己判断で仕事をしたら

ききて:正田佐与




広野ゆい氏にきく(2)発達障害者マネジメントの「困った!」問答

3.発達障害者マネジメントの「困った!」問答


■管理職研修と発達障害


正田:今、承認マネジメント協会では管理職に対する「承認」を中心とした研修をご提供する中で、「発達障害」という言葉をはっきり使って部下の特性を知ったうえでマネジメントする、ということを言っています。あくまで管理職まではそういう視点をもっておいていただきたい、ご本人に告知するかどうかは別として、ということですけれど。

広野:是非!やっていただきたいです。この言葉が普通にならないといけない。

正田:そうですよね。一昨年の聞き取りで、私の実感値としては働く人の1割前後が発達障害かそれに近い、仕事上の指示出しに配慮の要る人、という感触を持っています。だからどの職場にも1人はいると考えていいだろうと。ただあるビジネスパーソンの友人は「そんなものじゃない、4−5人に1人はいる」と言います。

広野:私の基準では、最低限6割の人を発達障害にしたいです。6割になると、マジョリティの側じゃないですか。障害ではない可能性が出てくるでしょう。
「凸凹が大きいよね」「小さいよね」
「まあみんなそういうものだよね」
 みんながそうだということを気づいてない。お互いの凸凹を受け入れて認め合ってやっていく。

正田:完璧な人なんていないですよね。自分でどこまでそれを認めるか、ですね。

広野:やっぱり自分で認めないと。「私はこういう人で」と言えないと。自分で受け入れて、「実はこうなんです」と言えることによって周りもそれを助けてくれる。自分で自分を認めるってすごく大事です。
 「対人コミュニケーション」も大事ですが「対自コミュニケーション」ですよね。そこができてやっと「対人コミュニケーション」だろうなと思います。


■ASDの人の固定観念と性バイアス

正田:お時間もだいぶ迫ってきましたが。ASDの人たちの固定観念の問題についてはいかがですか。私はどうも、この人たちがかなり強固な既成観念というか固定観念をお持ちで、とりわけ「女性」に関してそれが出やすいように感じるんですけれど。

広野:地位の高い女性への違和感。これはありますね。

正田:あ、そうですか。やっぱり。

広野:「こうでなければならない」という気持ちが、「女の人は家を守る、男の人が働く」という固定観念はありますね。それが差別である、という認識がないんです。やっぱりそれはありますね。
 それは、私はつくられたものだと思うんです。というのは昔の人は家にお母さんがいた、家で仕事をしていた。家で畑の仕事をして、着物も作って、働いていたんです。専業主婦で家のことしかしていない、というのは多分、高度成長のときからでしょう。

正田:起源をたどると明治大正のころからサラリーマンができて、職住分離になって、専業主婦ができて。ただ日本は高度成長の時代にそれを続けてしまったんですね。ほかの先進国がそれをやめた時期に。


■ADHDは薬で改善されるか

正田:ADHD治療薬のコンサータやストラテラは、ADHDの症状が良くなるんですか。

広野:そうですね、私は両方のみました。コンサータをのむことによって、自分の苦手なことに対して何とか集中してこなすことができます。ストラテラは、すごく効くという感じではないんですがパフォーマンスを底上げしてくれます。疲れてしまって途中からミスが続出するということがあるときに少しそれがましになる。ADHDのある人にはある程度有効かなと思います。ただ薬で頑張りすぎようとすることになると、それは正しくない。

正田:そうなんですか。

広野:際限なく頑張ってしまうために薬をのむのであれば、それは正しい使い方ではないんです。本当に困っているときに使うならいいですけれど。
例えば私だったら、1人では困ってしまうような難しいことがあってそれでもやらなければいけないときに、ちょっと薬の力を借ります。そうじゃなければ人に頼めれば頼みます。これらをのんでずっとずっと頑張り続けるということになると、それは本来のこの薬の使い方とは違うと思います。
 ただすっごい多動な方は、これをのむことによって落ち着きやすいんです。苦労しても落ち着かない人に落ち着いてもらうためにのんでもらう。普通の人はこれをのむと違う効き方をするらしいです。多動なADHDの方はこれをのむことによって落ち着く。

正田:例えばミスが多い方などは、こういう薬をのむとどうなるんですか。

広野:ミスの原因が何かによりますね。どんなことでミスをしてしまうのか。例えばLDみたいなものが関わっているようなミスであれば、あんまりこの薬で改善することがないんですけれども、例えば先ほどのあっちこっちに物を置き忘れてそれを本人も忘れちゃうというようなことであれば、もしかしたらこの薬で効くかもしれない。

正田:そうなんですか。それは朗報だと思います。

広野:ただ、劇的には効かないんです。少しましにはなります。じゃあ普通の人みたいに出来るようになるかというと、そこまでは難しい。許容範囲にはなるかもしれない。
 また、二次障害で鬱がある場合には鬱の治療も合わせてしないといけないです。


■告知はどんな言い方が有効?


正田:また別のご質問で、ミスの多い方に対して上司は
「障害なのでは?」
とご本人に言えずに困っている。言うと気分を害するのではないか、と。

広野:自分でミスしたくないのにどうしてもミスしてしまうようだったら、「そういうのに効く薬があるらしいよ」と言ってみたらどうですか。

正田:薬をのむということは、その前提として診断を受けなければいけないですね。

広野:そうですね、そこはあえて言わない。
 本人さんがそれを問題だと思っていて何とかしたいと思っていたときに、「あ、そういうことだったら病院に行こうかな」となるかもしれない。
 ADHDは子供の頃からずっとなので、そういうことがある人はもっと前から困ったり悩んだりしてるはずなんですよ。それを何とか解決する方法があるということは本人にとってプラスになります。
 こちらの資料に「障害を告知されてどんな気持ちになったか」というグラフがありますが、ADHDの人の場合は「ほっとした」が6割ぐらいいます。

正田:そうなんですか。これは興味ぶかい資料ですね。
 しかし、病院に診断を受けに行くというのは既にそこに心が開かれているという状態なのではないですか。
「この人には言っても無理」と周囲に思われている人はこの中に入っていないのでは。

広野:ええ。でもそれは言ってみないと分からないですよ。言ったら必ずその人は絶望的になるのかどうか。
 絶望的になったり困惑する人というのは、ASDの人に多いです。ADHDの人は基本、喜びます(笑) だって、「努力不足だ」とか「なんでお前だけできないんだ、みんなできているのに」と散々言われて傷ついてきているのに。
「それはあなたのせいじゃないんです、努力不足だとか怠け者だからできないんじゃないんです」
と言われたら、
「あ、そうなんだ!」
と普通、ほっとすると思います。
 だからADHDの人だとほっとする。ASDの人は絶望するかもしれない。中には喜ぶ人もいます、免罪符をもらったような感じで。「アスペルガーだからこれが出来ません、あれが出来ません」と言い始める。「なぜならこの本に書いてありますから」逆に迷惑だったりするんですけれど(笑)
 うちの当事者の会にも会社の人に言われて「え〜、何それ」と思って来た、という人が結構いるんですよ。来たら来たでわ〜っと盛り上がってほっとして帰って行きますよね。
 そういう人は「こういうところがあるから行ってみたら」というぐらいの感じで言ってあげたらいいと思います。診断をもらってない人も結構来ています。それで当事者の人たちと話して薬をのむことが有効だと思えば病院に行けばいいし、「診断なんか受けたら一生発達障害になってしまう」と思えば行かなければいいし。
 告知する時の言い方のコツとしては、
「○×ができないから発達障害じゃないか」
という言い方を避けることですね。
「自分の知り合いにADHDの人がいるけれど似ているよね」
「言ってることとかやってることとか、結構似ている気がする」と。
 あるいは、同じ職場にADHDの人がいて、
「自分は発達障害だけど、君もそうじゃないか?」
と言われた、とか。よりソフトな感じで遠まわしに言うとしたらそういう感じですね。

正田:実際に言われて納得して自覚につながった人たちの体験からくるものですから、貴重ですね。

広野:そのほか上司から「ミスが多すぎる。このままだと居続けるのが難しいから、対処方法を考えるから医者に行って来い」と言われた、というケースも最近は少なくないのですが。
 立場的に利害関係がそんなにない人から言ってもらえるほうがいいかもしれません。

正田:知り合いのASD気味の人は、言われてちょっとショックを受けていた感じでした。自分で「自分も発達障害なんじゃないか」と言っているのも、言葉の裏に「これまで発達障害の人を見下していたけれど、その中に自分も入っちゃうんじゃないか」というのがあるような気がします。

広野:だから、みんな発達障害なんです。気づいてるか気づいてないか、という話で。
 そういう風な意識に変えていきたいですね。それを言われたからショックを受けるということ自体が残念です。
凸凹があったからといってマイナスではないと思います。
ただ「知らない」ことはマイナスです。知らないがゆえに、出来ないのに出来ると思って扱われたりみなされたりすることがものすごくマイナスです。
そういう特性があるということ自体はマイナスではありません。でもそれを知った時点で修正していかないといけないとか、色んな傷をメンテナンスしていかないといけないといけないんですが、それを知らないと始まらないですね。知ってほしいです。

(正田注:とはいいながら職場での「告知」の問題はやはり難しいことのようです。
 ひょうご発達障害支援センター・和田俊宏センター長によると、同センターに会社の上司や産業医に連れられてきた当事者の人はひどく機嫌がわるく、診断を勧めようにも取り着く島もなかったといいます。
「診断を勧める前に『あなたはこの仕事ができていない』ということを伝える段階が大事。そこをしっかりやってほしい」と和田センター長は言われます。また診断を勧める以前に職場でできる工夫をしてほしい、とも。
 逆に本人が希望してセンターに相談に来られたケースではまったく問題なく診断も受けられたそうです。
 職場での告知、成功例もあるとはいいながらまだまだ慎重に行わないといけなさそうです。
 なお今20-25歳の人を境に赤ちゃんの頃からの保健指導のスタンスが変わり、発達障害の有無のスクリーニングをするようになっています。子供の頃に診断を受けたか、否かの境目がその年齢で、それより上の人たちは自覚のないまま大人になった人が多い、すなわち「職場での告知」が問題になりやすい、といえます)


■ADHDの人が自己判断で仕事をしたら

正田:最後、自己判断で変なことをやってしまう人というのは。
 仕事でお出会いする方にそのタイプの方が多くて結構苦労しました。上司部下関係ではないので注意したり叱責したりというのはできないんです。

広野:自分が自己判断でやってしまっているということを認識していないということですよね。
本人さんは自己判断でやってしまっていることを気づいているんでしょうか。

正田:たまにご本人の若い頃の同僚から話を聴けて、若い頃からそういう傾向があった、とわかることがあります。
それがコーチングの研修を受けた経験者も多くて、「自分で判断するのは、いいことだ」と思ってしまってるんです。「君はどうしたい?」というノリで。

広野:ああなるほど…。「それはダメだよ」と誰かに言ってもらわないと。

正田:多分上司の方が言いにくい雰囲気もあると思います。

広野:この冊子(「発達凸凹活用マニュアル2」発達凸凹サポート共同事業体発行)の26ページ、「報連相の1」は自己判断の失敗なんです。これの原因は、(ADHDの人の)興味の偏りですね。自分で「これは報告したい、これは報告しない」と決めてしまっている。
 あとは、「自分のやり方で仕事をしたい」気持ちが強い。人に教えを乞うとそれが変わっちゃったりするので、イヤなんです。
 自分の裁量でやってもいいかどうかの判断がまずできない。仕事というのは基本、自分の裁量、判断でやってはいけないことがほとんどですよね。

正田:なるほど、基本はそうですね。
 「任せる」「権限移譲」ということも一方で大事ですけれども、それはある程度経験を積んで判断力があると評価された人、という前提だと思うんです。
 その関連で何度も痛い思いをしまして、例えばわたしが「このやり方でやってください」と指定したことを、間に入った人が書いてあるのを無視して「そうでないやり方でやっていいです」と言ってしまう。その指定したやり方でないとまずいことが起きる、とわかっていたわけですが、見事にそのまずいことが起きました。

広野:それはADHDの入っている人かもしれませんね。その場合は、「こういう風にしてください」と言われたことを、「あ、めんどくさいな」「適当でいいや」と思ったらそうしてしまう。自分にとって興味のないことはスルーしてもいいと思ってるんです。
 そこは相当言わないとダメですね。怒るぐらいでいいんです。「これをちゃんとやってくれないと何の意味もないんだ!こんなにお金かけてやってるのに、何なんですか!」と。

正田:そこまではいかないけれど割ときっぱり言いました。するとその人は「正田さんが怒った、怖い」と周りじゅうにメールを書きまくったんです。

広野:それでいいと思います。私は当事者サロンで人の領域に踏み込むことをしたりとか、ちょっとナンパ的なことをしたりした人にはきつく言うんです。すると向こうは「ゆいさんが怖い」と周りに触れ回るんですけれど、私はそれでいいと思っているんです。「いけないことは、いけない」ときっぱり言わないといけない。でないとそれでいいと思われてしまいますから。
 
正田:ハードな体験をされますねえ(笑)

広野:言われたその人はショックを受けたから悪口を触れ回るようなことをしていると思うんですけど、やっぱり「してはいけないことは、いけない」とラインを守らないといけないですから。でないとADHDの人は適当でいいと思っちゃうんです、興味がないことに関しては。

正田:今のお話は、会社組織でもだれが言っていることが正しいのか、だれが間違ったことをしたのか、見極めることが非常にむずかしく、そして大事なところですねえ。
発達障害の人が入っている職場で、「何が正しいのか分からなくなった、オレが間違ったことを言ってるんだろうか」と頭を抱えているマネジャーもよく見るんです。仕事としての本筋が分からなくなっちゃう。それは何が起きているか正確にみる目を持たないといけないですね。
今日は大変勉強になりました。広野さん、お忙しい中、ありがとうございました。このあとの講演がんばってくださいね。



あとがき:

 いつものことながら、1つ1つかみしめるように丁寧に答えてくださった広野さんでした。
 急速な人口減少の中、発達障害を含む障害のある人も戦力化していかなければならない要請があります。
 ただ実際にやっていくには細かい人間理解が要り、またそれと網の目のような職場のルールとを継ぎ合せる作業が必要そうです。
 その作業の全貌は2回のインタビューを経てもまだ「見えた」とは言えませんが、読者のかたが今抱えておられる難題にすこしでもヒントになれば幸いです。
なお何度も書きますように「承認」習得後の管理職の方にとっては、こうした多様な人間理解に基づくマネジメントの作業というのは段違いに「らく」になります。
 最後に広野さん、インタビュー起こしが遅くなり申し訳ありませんでした!
 こころよく修正に応じてくださり、ありがとうございました。
 



広野ゆい氏にきく(2)発達障害者マネジメントの「困った!」問答


1.「一律」になじまない現実と付き合う
■メンタルヘルス問題に「発達障害」の視点がない
■「軍隊式マネジメント」はなぜ存在するか
■5Sに「発達障害」の視点を入れると
■全体の質低下を防ぐには
■「発達障害」と昇進昇格と嫉妬


2.「弱みの自覚」のむずかしさと大切さ

■自己診断にチェックリストは有効か
■若い人の成長過程のむずかしさと自己認知
■適性のない仕事についていたら?
■「強みを活かす」の限界 弱みの自覚の大切さ
■感情表現(Iメッセージ)の壁を訓練で乗り越える


3.発達障害者マネジメントの「困った!」問答

■管理職研修と発達障害
■ASDの人の固定観念と性バイアス
■ADHDは薬で改善されるか
■告知はどんな言い方が有効?
■ADHDの人が自己判断で仕事をしたら




100年後に誇れる教育事業をしよう。
一般財団法人承認マネジメント協会
http://abma.or.jp

 広野ゆい氏(NPO法人発達障害をもつ大人の会代表)インタビュー第2弾の2回目です。

 ここでは、ふだん正田が行わせていただいている管理職研修とは異なり、キャリアコンサルタントでもある広野氏のみた「今の若者観」があり、そこで必要と思われる再教育とは、というお話を中心にうかがいました。


広野ゆい氏にきく(2)発達障害者マネジメントの「困った!」問答


1.「一律」になじまない現実と付き合う
■メンタルヘルス問題に「発達障害」の視点がない
■「軍隊式マネジメント」はなぜ存在するか
■5Sに「発達障害」の視点を入れると
■全体の質低下を防ぐには
■「発達障害」と昇進昇格と嫉妬


2.「弱みの自覚」のむずかしさと大切さ

■自己診断にチェックリストは有効か
■若い人の成長過程のむずかしさと自己認知
■適性のない仕事についていたら?
■「強みを活かす」の限界 弱みの自覚の大切さ
■感情表現(Iメッセージ)の壁を訓練で乗り越える


3.発達障害者マネジメントの「困った!」問答

■管理職研修と発達障害
■ASDの人の固定観念と性バイアス
■ADHDは薬で改善されるか
■告知はどんな言い方が有効?
■ADHDの人が自己判断で仕事をしたら

ききて:正田佐与



広野ゆい氏にきく(2)発達障害者マネジメントの「困った!」問答

2.「弱みの自覚」のむずかしさと大切さ

■自己診断にチェックリストは有効か


正田:先日いただいた冊子(「発達障がいと発達凸凹はちがう?」NPO法人発達障害をもつ大人の会発行)のチェックリストを皆さんにやってもらった時、気づきますか?

広野:気づかない時もあります。

正田:自己愛傾向の人は気づかないということはないですか。

広野:時と場合によります。多分、タイプがあるんですよ。
 アスペルガーの傾向の人で、一方的な関わりしかできなくて、自分の枠の評価でしか世界を観れないタイプの人だと、自己認知が難しい。自分を客観視することが能力的に難しい。そういう場合は、チェックリストをやってもらっても周りからみたその人とご本人がみたその人が食い違うんです。自分が「できる」と思っていることが、「いやいや、できないでしょ」と周りは思っている(笑)

正田:うん、うん。それがあるんですね。
 アスペルガーの場合は、そうなんですか。ADHD系の愛想のいい人だとどうですか。

広野:あ、それだったらチェックリストできるかもしれません。自分が何となくしんどいと抱え込んでいることの正体はこれだったんだ、と気づくと、変わる可能性があるかな。
 ただ、あまり良くない状況にいる人だと、気づくことによってストレスがかかりますね。
 余裕のない人は気づくこと自体拒否しますね。チェックリストをやらせようとしただけで怒ってしまったり。やっている間にものすごく機嫌が悪くなってしまう人というのは、それを受け入れるような状態にないんです。
 ものすごく人の意見を受け入れない一方的な人に見えるけれども、本人は「いっぱいいっぱい」で、周りを考える気力もない人かもしれません。
 その人にもよりますが、一般にはチェックリストは性格チェックのようなもので楽しくできる。
 例えば「発達障害のことを理解したい」という支援者の方がチェックリストのワークに参加してくださったときは、最後に出た感想は「自分のことがわかってすごく良かった」と言われるんです、みなさん。発達障害のことを分かりたくて来たけれど、そうじゃなく自分の凸凹とか元々の特性をみることができて、これは多分みんながやったらいいもの。
 困った人に気づいてもらうということもあるんですけれども、それだけではない。
 例えば苦手なことを無理に頑張ると、普通の人でもすごいエネルギーを使いますよね。

正田:使いますよね。

広野:そうなんです。
 これは元々こっちの分野の人じゃなかったのかな、とわかって、そこまで無理しなくてもいいんだと思えて。「こういう(オールラウンドの)人にならなきゃいけない」と思っていたのが、「もともとそういうタイプの人じゃないんだ」と気づくことによって、本来の自分の在り方に気づくことによって、無理なくできることを仕事にする、と変えていくことができる。

正田:本来の自分の在り方。ここの捉え方が難しいですねえ。遺伝的に可塑性のある範囲の自分、可塑性の「ない」ところまでは無理しない自分、でしょうか。ちょっと間違えると、自分甘やかしワードになってしまいそうな気がします、「本来の自分」というのは。

広野:自己理解を深めて、無駄なエネルギーを使わないで自分の能力をしっかり発揮できる、ということですね。
 みんながそのように「自分の在り方」を捉え直すその中でなお困った人が浮かび上がったときに「あ、もしかして(発達障害)」となるといいのかな、と。
 チェックリストだけであれば2−3時間あればできます。それに、では日常の扱い方はどう、メンタルヘルスはどう、という話が入るともっと長くなります。

正田:「承認研修」を受けていただいた受講生さんの中で「うちの部下は、もしかして」というお話がチラホラ出ますので、そういう場合はその研修をぜひお願いします。


■若い人の成長過程のむずかしさと自己認知


広野:会社を対象にした職場環境の改善をテーマにした研修で、若手の離職率改善を狙いにして、それでみんなにチェックリストをやってもらおうという企画があります。発達障害という言葉を出すと会社側が拒否されるので、その言葉を使わずにこれをやってもらうにはどうしたらいいか。
 当事者の間ではずっとこういうことをやってきました。
 管理職研修はやったことがないので緊張しますね。

正田:管理職研修は、長年やってきましたので「承認」から入ると一番いい効果が出ることはわかっています。いろんな場面がありますから注意したり叱責したりするにしても、すべてのコミュニケーションの基盤になりやすいです。発達障害の人を部下に持った場合でも、「承認」は基本の考え方や心の構えとして持っておいたほうがいいものです。また上司自身にとっても幸福感が高く、ものを考える枠が広がったりしていい効果があるようです。
逆に「承認」の話を若い人にしてしまうと、承認欲求の暴走が起きやすいので、経営者から管理職までが共有しているといいことだと思います。若い人の承認欲求はそんなに煽らないほうがいいのだと思います。上司から自然と貰えるのは別ですけれど。

広野:そうですよね。
 若い人のはどちらかというと「自分を受け入れる」自分の弱みを認めて受け入れることが自分のありのままを受け入れることの第1歩です。
 昔は集まったら飛び回って遊んでいましたけれど、今の若い子って集まってみんなでゲームしているじゃないですか。それでは集団で遊んでいることにならないですよね。

正田:去年の夏「妖怪ウォッチ」にしばらくはまりまして、子供が小さいころのポケモンなんかと一緒だなと思いながらやってたんですけど、草むらに入るのでも本物の草むらに入るのとゲームの草むらに入るのでは全然違いますよね。

広野:そう。それにずうっとお母さんの監視下に置かれてますよね。

正田:わたしも四半世紀前、子供を育てたときそう思いました、その当時からそうでした。

広野:ずうっとお母さんの顔色を窺っている。そこから解放されて「じゃあ僕はどうしたんだ」とか「ちょっと悪いことをしてみよう」「ばれなきゃいいよね」とか、ザリガニを叩きつけて殺してみたりとか、その段階があるわけですよね。小っちゃいときみんなやっていたと思うんですけど。
 今の子はそういうことができないですよね。ちょっとケンカするとお母さんが飛んできて。

正田:はいはい。口出しまくるというのは良くないですね、お母さん方がお茶しながら子供をみていて、ちょっとモメたら割って入って。確かにそういう雰囲気があります。
 広野さんは子供時代は自由にお育ちになったんですか。

広野:うちは共働きだったんです。静岡県のすごい田舎で、私も放置されてたんです。全然、親に監視されていたということがないんです。
 父が多動で、休みのたびに「キャンプだ!!」と連れて行かれて、私は家で大人しくしていたいタイプだったのですごく疲れました。
 朝も弱いのに朝の4時ごろから起こされて「マラソンだ!!」
 それをやらされたけれど、朝は今でもダメなんです(笑)これは訓練じゃないんです。

正田:へえ〜。広野さんぐらいの世代の人たちだと、早期教育育ちの人も多いじゃないですか。

広野:ええ、ええ。

正田:それとは全然違う育ち方でしたね。

広野:全然違いますね。うちの田舎には塾というものはなくて、高校受験で塾に行っているという人もあんまりいなかったです。大学受験もそう。塾に行かないで自分で勉強している人が多かった。
 今の子たちの、あんなにびっちりコマを作られて朝9時から夜10時11時まで塾に行っているというのは、人として育っていく時間がないですよね。そんなで大人になって、「はい、今から大人になりました、はい自分でやって」というのは可哀想ですよ。
 素直に作られたプログラムをこなす能力は高いかもしれないですけれど、社会に出て色んなことを自分で考えて決めていくとか選んでいくことがたくさんあるのに、しなきゃいけないことすら気づかないとか。
 まあ、就職活動ぐらいからわかりますけどね。そのあたりから差が出てきますね。

正田:知り合いの大学の先生がプロジェクト型の授業をやっていて、限界集落、過疎化した集落に行って農業をやって再生させるというプログラムを、地元のNPOと連携しながらやっています。そこは学生さんも伸びているし能力も高いそうです。
 ただ、その大学の先生は元は銀行の支店長さんで、バリバリのビジネスマンなんです。みていて、「これと同じ事ができる人は大学の先生にはいないだろうな」と(笑)

広野:そういうことは必要だと思いますね。
 いい大学を出ていてお仕事が上手くできるかというと中々難しいですし、今の若い人の離職率の高さにある程度関わっているだろうなと思います。

正田:若い方で、ある程度いいほうの大学を出た方とお話したときの反応が、「これはASDが入っているからこういう反応なんだろうか、それとも入ってないけどこうなんだろうか」と思うことがあります。感情の応答がないとか、機械的だとか。

広野:あります、あります。本来は持っていたはずのその人の能力を(育つ過程で)無くなった状態で今ここに来ている、みたいな。「次の指示はなんでしょうか」という感じの人。
 その人たち自身が「自分で考えてやってもいいんだ」と気づいてもらう。そういう人たちって、基本的に自分自身を認めることができていない。自分という人間を感覚的に分かっていない。世間的にみるとこういう人になるために生きている。親の理想のために生きている。「自分」じゃないんです。そうすると「自分」が基本なんだよ、というのをやらなきゃいけない。
 それが若手の社員さんに通用するか、というのはこれからではあるんですが。
 単純に面白いな、とは思ってもらえると思います。自分が本来どういう人間なのか、認める。

正田:ただ、そういったものは就職前のキャリアコンサルティングの中でやっているかもしれません、それでかえって頭でっかちになっているかもしれません。

広野:それとこれとは全然視点が違います。性格診断、刷り込まれたもの。
 刷り込まれたものというのは本来の自分ではないんです。「こうなりたい自分」が「そうでなければならないと思っている自分」。
 そこを分かってもらうためにもうちょっと掘り下げて、元々の特性というところから見てもらわないといけない。
 でないと全然自分の特性と合わない職業を選んでしまうんですよ。

正田:はあ、例えば?

広野:例えば、「金融機関に就職できるのがすごい」と一般的に思われていると、計算が苦手であったとか銀行と合わない特性があっても銀行ばかり受けてしまう。周りからも勧められる。そうすると入ってから失敗しますね。
 本人がその仕事をみて「面白そうだな」と思ったからといっても、本人がイメージしている内容と実際入ったときの内容が違うんです。ほぼ違うんです。
 まあ、イメージしていたのと実際にやってみたら違うというのは別の仕事でもよくある話です。


■適性のない仕事についていたら


正田:今いるお仕事が自分に合ってないと分かったら、どうしたらいいんですか?

広野:思っていたのはこうだけれど、実際はこんなものなんだな、というところからスタートしたほうがいいと思います。でも「こうに違いない」と思っていてそれと違うと失望するというのは、土台がないからなんです。こういう(思い込みの)枠があって、その枠に現実がはまらなかったら不安でしょうがないんです。

正田:ある程度大きい会社だとその中に色んな部署があって、営業かもしれないし総務かもしれないし製造かもしれない。どこに行くか自分で決められるわけではない、という場合は?

広野:研修期間は、まあまあ研修なのでお勉強としてできてしまうとして、そのあとどこかに配属されると、何か「違った」というのが出てきますね。
「会社の理念がすばらしいと思ったから入りました!」となっても、現場がみんな理念に基づいて動いているか。実際入ったら色んな話が出てくると、「思っていたのとは違う」と思ってやる気を失ってしまう。
 その状態を受け入れて対応していく力というのがないと、お仕事って難しいと思います。
 それを何とかしようと思ったら、本人にしっかり見通しをつけてもらうとか、見通しを説明してあげるとか。
 そこができないでいると、仕事ができるできないに関わらずどんどん本人さんのモチベーションが下がっていって、それにさらに場の空気が読めないということが加わったりすると、もうそこにいること自体に意味が感じられなくなって辞める、ということになると思います。
 完全にその業務ができないで辞めるのであれば、合わない仕事についちゃったかなと思うんですけど、そこで「でも頑張ってみよう」と思えるかどうかというのは、その人が本来持っているエネルギーとか本人自身の適応能力によりますね。
 そこで自分を客観視できて「自分はこういう風に頑張っていこう」という見通しがつけば、やっていけると思います。
 上の人に認めてもらって、フォローしてもらって、客観視と見通しの力をつけていかないと、なかなか今の若い人たちは難しいのかな、と思います。
 
正田:本当に今、大人世代は若い人の難しさがわかっていないところがありますね。本当に難しいです。
 今の若い人は(大学卒業の)22歳まで自分を鍛える経験をしてこなかったですよね。

広野:大学で本当にいい先生に出会って真剣に何かに取り組むという経験をしている人としてない人ではまったく違う。教育の問題だろうなと思います。
 教育がうまくいってないことの責任を会社がとらなあかんのか?と。

正田:そうですね。根源的なところだろうと思います。


■「強みを活かす」の限界 弱みの自覚の大切さ


正田:強みの概念を割と使うんですけれど、あれも程度問題ですね。
 先日もご相談いただいた話題で、すごくミスの多い人がいる。愛想はすごくいい、社交性がある。どうもADHD傾向があるのではないかと思うが、前の部署ではそのミスが多いということは全然言わないでこちらの部署に異動させてきた。恐らく、ミスが多いという事実を言ってしまったらどこも受け取ってくれないから、伏せていた。ずっと前の前の部署からそれを繰り返してきているだろうと。
 上司の方はその人の社交性の部分を何とか生かしたいので、今は事務仕事をしているけれど対お客様のサービス中心の仕事に回そうかと考えておられます。
 しかしそれも正解かどうか分からないんです。私から言ったのは、
「私は最近そういった、社交的だけれどミスが多い人に仕事で会ったんですが、対お客様の場面で『えっ、そんなことやっちゃうか』と開いた口がふさがらないようなことがあったんです。お客様に迷惑がかかる場面だったんです」
と。
「社交性が高いのを活かすといっても限界はあると思います。強みを活かすといいと言われてますが綺麗ごとの部分がありますよね。程度問題ですよね」と。

広野:私がやる強み弱みというのは、どちらかというと「凸凹」の「凹」のほうなんです。
 自分を受容するってどういうことか。強みを認識することではなくて、弱みを受け入れるということです。弱みを受け入れて初めて強みを発揮できる。
 弱みを隠したり弱みで迷惑をかけている状態で強みを発揮できるか、というと無理なんです。
 弱みを自分で認識して受け入れて、そこをカバーしてもらえるようなシステムがあったり問題にならないような仕事をさせてもらって、初めて能力というのは活かせるんです。
 弱みを隠したり必死で自分だけで克服しようと思ったりしているとダメなんです。
 私も数字に弱いのに秘書をやったりFPをやったりしましたが、ダメでしたもの(笑)やればやるほどドツボになる。最終的に鬱になって辞めました。
 そういうことではなくて、「これはできないんだ」ということを諦めて受け容れて、それをどうやってカバーしてもらえるか考えると、私ができないことをいとも簡単にできてしまう人がいるわけです。じゃあその人と一緒に仕事をして、お互いに出来ることをフォローしあってやっていけば、すごくいい成果が出る、とやっとわかってきたんです。

正田:それは実際に体験されておっしゃるとすごい重みがありますよね。綺麗ごとで言っていると入ってこないけれど。

広野:鬱で死ぬ思いをしてきたんで(笑)
 そこは、「強み」って言いますけれども、ですねえ。強みの殻でがっちり弱みの部分を隠している状態でも、それは能力を活かすことにはつながらない。総合的に会社に貢献するとか成果を出すということを考えると、そこは出来る出来ないを受け入れてほかの人と協力してやるということですね。

正田:友人にも「発達障害かな?」という人がいて当事者の会に一緒にいってみよう、と誘ったんですが来なかったですね。

広野:働いている人がちょっと会社で集まれるようなコミュニティというか場を作りたいなと。その方がそういう方は来やすいかもしれないですね。

正田:それはいいかもしれません。
 その人は「自分も発達障害なんじゃないか」と何度も言っているんです。私からみると多少考え方が硬くて、例えば「Iメッセージ」が言えない。「安心しました」「嬉しくなりました」とかを、言うべきときに言えない。



■感情表現(Iメッセージ)の壁を訓練で乗り越える


広野:そうなんだ。Iメッセージは、訓練ですけどね。私もかなり頑張りました。

正田:あ、そうなんですか。以前は言えなかったんですか。

広野:言えなかったですね、昔。
 まず結婚後DVを受けているときに、DVを受けていると知らなかったんです。

正田:なんで知らなかったんですか。

広野:例えば言われることが、
「お前は専業主婦でなんで1日片付けすらできないんだ」
「何やってるんだ」
「こんな家に帰ってくるオレの気持ちになってみろ」
とずーっと言われるんです。確かにそうなんです、それは事実なんです。普通の人はできることなのに私はできない。発達障害とわかる前は、私の努力不足だと。
 ただ、ADHDだと分かったのにまだ言ってくる。「これはでも脳機能の障害で」と私が説明しても、
「それは言い訳だ」
「お前はそういう言い訳をして自分のやるべきことをしていない」
とまた、畳みかけるように。
 それは正論を言っているように聞こえるけれども暴力なんだ、と初めて気づいたんです。

正田:サディズムが入っているかもしれないですね。

広野:そうなんです。
 会社でも彼はすごく頑張っていたらしいので、多分はけ口なんです。ずっとはけ口でいてほしいじゃないですか。でも私はずっとはけ口ではいたくない。そこでずれが生じてきました。
「私には確かにできないけれども、こういう風にしてくれればこういう風にできます、だからお願いします」
と言ってもダメ。だんだんキレて、暴れるようになってきました。
 で、「ああもう無理だなあ」と。
 私は元に戻りたくなかった、元に戻って大人しくしていたらずっと結婚生活が続いたかもしれないですけど。それはイヤでしたね。
 (ADHDという)理由があると分かったときに自分が不当な目に遭っているとわかって、じゃあそうでない関わり方って何だろう、とそこで勉強しました。
 それでアサーションを勉強し始めました。

正田:ああ、そこでIメッセージに出会われたわけですね。

広野:はい。同じ言い方をするのでも、「あなたはこうだ、ああだ」と言うよりも「私はこういう風に感じました」「こういう風に思いました」と伝えたほうが全然印象が変わるんです。言いたい、けれど相手を傷つけたくない。そういう伝え方を相当頑張ってできるようになったんです。
 それって、言い換えじゃないですか。頭の中で「変換」するんです。変換して出す、という訓練。
 1回それが上手くいくと気持ちいいんです。「ああ、これが『自分もOKで相手もOK』のやりとりなんだ」と実感すると。

正田:それは大変興味深いです。広野さんにとって、感情を表す言葉を見つけるというのはどんなことだったんでしょう。苦痛ではなかったんですか。

広野:DVを受けたときに自助グループに入ったんですが、「自分もOKで相手もOK」という関わり方が「ある」ということすら知らなかったんですよ。それでアサーションを勉強しないといけないかな、と思ったんです。
ところが、最初アサーションが失敗していまして、最初私はそこにぽんと受けに行ったんですけど、ものすごいトラウマになるほどきつかったんです。

正田:ああ、アサーションのやり方によってはきついといいますね。

広野:それが何故かと考えたときに、「自分を表現する」「自分を主張する」のがアサーションですよね。でも私には「自分」がなかったんです。自分の感情とか、本当はどうしたいというところがないんです。「ない」状態でそれをトレーニングしちゃったから、もう疲れてしまって、DVのフラッシュバックが起きて。
そのあと「フォーカシング」という手法に出会いました。自分の気持ちに焦点を当てて表現するというものです。たまたまカルチャーセンターで「自分の心の声を聴く」みたいなタイトルでやっていました。
まずリラックスを学び、心理学の基本的な講義もあり、その中で自分が今感じていることを感じ、表現する練習をします。
例えば
「胸のあたりに硬い感じがある。石のような」
「背中にすごく重〜い物が載っている」
それが究極何なのかは、分かっても言わなくてもいいし、それに対して自分はどういう言葉をかけてあげたらいいか。それに対して名前をつけてそれに対して自分で語りかける、ということをやる。それをしていると、「自分がどうしたいのか」という「感覚」が出てくる。
そういう「感じる」トレーニングを始めたんです。
そうすると、「そういうことをされたら、イヤだ」ということが分かってきました。

正田:イヤだって感じなかったんですか。可哀想…!

広野:そうなんです。全部が。
まあ、ひどいこと言われても当然な人間だと思っていたし、そのことに対してNOと言ってはいけないんだ、という感覚でした。そこを変えていくことができました。

正田:ラッキーでしたねえ。

広野:すると今度は、発達障害の人がアサーションを学んでいくにはどうしたらいいかを考えて「発達障害のためのアサーショントレーニング」というのを自分で作ったんです。
 健康な人向けのプログラムでそのまま上手くいけばいいですけれど、アサーションの歴史を辿っていくと、精神疾患のある人が自分を表現してそれによって回復していくというのが一番最初にあったようなんです。だから「健康な人」というところから少し引いて、自分自身が何なのかわからないような状態の人から出発して心理教育をして、そこまで持っていけるようなプログラムじゃないと。発達障害の人はそうじゃないと私が最初そうだったようにバタバタ倒れるだろうな、と。

正田:それはとても正しいと思いますね。
 以前にフェイスブックのお友達がシェアされた記事によると、ASDの人に向けてスキルトレーニングを先にやってはいけない。ASDの人にとっては感情の発露、感情の表現がまず最初に必要なのだと。

広野:あとは、何かをできないからといって人格とか価値が否定されるものではない、「人権」というところから入る。そこを知らないと、「自分みたいな人間は生きていないほうがいいんだ」と思っていたりします。そこまでやらないと、アサーションが目指すような「お互いがOKな関係作り」というのは難しいと思います。
 根幹にある自己否定感から、自分の存在に対する不安感を認めてあげてそこから改善していかないと、その上にある「強み」と一見思われるプライドの鎧のほうが無くならないんです。
 そこは通常の普通の人に対するプログラムでは、対応が難しいと思います。

正田:今、広野さんとお話していてすごく風通しのいい人だなとかお話していて楽しい人だな、と感じるんですが。

広野:だからむしろガッチガチに固まって何にもできていない人の気持ちもすごくよくわかるんです。でもそれを変えることができると思える、自分が体験しているから。
自分のダメだった経験が活かされるわけじゃないですか。それがすごく有難い。本当に辛かったんですけど、「あれがあったから、今これができる」と思えるんです。
皆さんに楽しくお仕事してもらいたいですね。



広野ゆい氏にきく(2)発達障害者マネジメントの「困った!」問答


1.「一律」になじまない現実と付き合う
■メンタルヘルス問題に「発達障害」の視点がない
■「軍隊式マネジメント」はなぜ存在するか
■5Sに「発達障害」の視点を入れると
■全体の質低下を防ぐには
■「発達障害」と昇進昇格と嫉妬


2.「弱みの自覚」のむずかしさと大切さ

■自己診断にチェックリストは有効か
■若い人の成長過程のむずかしさと自己認知
■適性のない仕事についていたら?
■「強みを活かす」の限界 弱みの自覚の大切さ
■感情表現(Iメッセージ)の壁を訓練で乗り越える


3.発達障害者マネジメントの「困った!」問答

■管理職研修と発達障害
■ASDの人の固定観念と性バイアス
■ADHDは薬で改善されるか
■告知はどんな言い方が有効?
■ADHDの人が自己判断で仕事をしたら




100年後に誇れる教育事業をしよう。
一般財団法人承認マネジメント協会
http://abma.or.jp


 広野ゆい氏(NPO法人発達障害をもつ大人の会代表)に2回目のインタビューをさせていただきました。


 発達障害をもつ人とマネジメントの問題、実はだれにもひじょうに身近な問題でありながら、まだ答えはありません。発達障害者を支援する側の人の守備範囲は「就労」にとどまっている感じです。その先は、仕事の場を預かる(経営者を含む)マネジャーたちにゆだねられています。

 
 今回は、昨年10月に行ったインタビュー(同11月8日ブログ掲載)よりさらに細かいところの現実に起こっているちぐはぐさとそれに対するノウハウについて、少し突っ込んだことをお伺いしました。


 広野さんが当事者の会を運営しながら培ってこられたノウハウ、実際の企業の中に点在するノウハウを突き合わせて現場の方にいくらかでもヒントになれば、と願います。

 

広野ゆい氏にきく(2)発達障害者マネジメントの「困った!」問答


1.「一律」になじまない現実と付き合う
■メンタルヘルス問題に「発達障害」の視点がない
■「軍隊式マネジメント」はなぜ存在するか
■5Sに「発達障害」の視点を入れると
■全体の質低下を防ぐには
■「発達障害」と昇進昇格と嫉妬


2.「弱みの自覚」のむずかしさと大切さ

■自己診断にチェックリストは有効か
■若い人の成長過程のむずかしさと自己認知
■適性のない仕事についていたら?
■「強みを活かす」の限界 弱みの自覚の大切さ
■感情表現(Iメッセージ)の壁を訓練で乗り越える


3.発達障害者マネジメントの「困った!」問答

■管理職研修と発達障害
■ASDの人の固定観念と性バイアス
■ADHDは薬で改善されるか
■告知はどんな言い方が有効?
■ADHDの人が自己判断で仕事をしたら

ききて:正田佐与



広野ゆいさんプロフィール

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NPO法人発達障害をもつ大人の会(DDAC) 代表
子供時代から、遅刻、片付けができない、周りに合わせられないなどの特性があり、忘れ物の女王、遅刻の帝王などと呼ばれながら学生時代を過す。専業主婦であった28歳でうつ病、31歳のときADHDと診断される。2002年に大人の発達障害のグループ関西ほっとサロン、2008年4月に「発達障害をもつ大人の会」を立上げる。現在は発達障害当事者の立場でキャリアカウンセリング、教師や専門職向けの講演、成人当事者向けの片付け・金銭管理セミナー等も行っている。
S47年生まれ。青山学院大学卒。ICDSキャリアコンサルタント。2級FP技能士。
NPO法人発達障害をもつ大人の会(DDAC)HP http://www.adhd-west.net/


広野ゆい氏にきく(2)発達障害者マネジメントの「困った!」問答


1.「一律」になじまない現実と付き合う

■メンタルヘルス問題に「発達障害」の視点がない


正田:引き続きよろしくお願いします。
 今年12月から施行される改正労働安全衛生法で従業員50人以上の企業でメンタルヘルスチェックが義務化されますが、まだ「発達障害」の視点はそこに盛り込まれていないですね。
 2013年の暮れぐらいの「問題社員さんセミナー」の時点では、個々の表面的な問題行動とそれへの対応法は話されたんですがその背景にあるであろう発達障害やスマホ依存といったところまでは触れなかったんです。

広野:そうなんですねえ。メンタルヘルス(への配慮)が義務化されていくと、こういう人たち(発達障害やスマホ依存)の扱いをどうするか、というところの責任を問われてくると思います。そこをどう上手く扱っていくか。そういう意味では、意識が進んできたかな、と思います。

正田:そうですね。

広野:その新しいメンタルヘルス法の中にも「発達障害」の要素はないようです。何かが起きないようにストレスのチェックをすることが必要だ、ということまでは言っているんですが、それがなんでそうなるのか、という原因のところまでは行けてないです。
 やっと、これまでは産業医さんや精神科の先生でも全然「発達障害」の人を診れない人がほとんどだったんですが、メンヘル法の成立でそのへんが変わってくるかもしれません。
 フォローできる人材が少なすぎるということもありますし、基準がしっかりできてない。原因はそのへんじゃないかな、という気がします。

正田:不思議ですね、例えば正社員を辞めないでも雇用できる仕組みの必要性を提言される弁護士の先生もいらっしゃるようですが、「発達障害」ということは言われなかったんですか。

広野:やっぱり精神障害という括りですね。一回鬱になってリワークしてきた社員について、前みたいに働けなかったり心理的な負担が大きくなってしまうタイプの方などを想定してお話をされていたみたいです。
障害者雇用促進法に精神障害の人は盛り込まれてますが、雇用が義務化されるのは2018年からです。
それに鬱の人が精神障碍者として手帳をとるかというと、鬱になったからといってみんなが手帳をとるわけではないので、また別の問題が出てくるんです。
 手帳をとらないけれども、普通の人のように働けない人たちがいます。一つの事情としては発達障害のような背景があるでしょうが、何らかの精神疾患というだけでそういう状態になる方もいらっしゃる。
 その中で発達障害はまだ(注目されていない)ですね。

正田:精神障害の方のリワークの問題全体の中で発達障害かどうかという背景情報はまだ重視されていないのですね。

広野:(精神疾患の方は)戻るのに何年もかかるんです。一回脳が破壊されているので、仕事自体には半年―1年で復帰できるかもしれないですけれど、元のパフォーマンスになるというのは4−5年かかる。そうなると皆さんのようにバリバリ働くということは難しくなる。そして無理したらまた鬱に戻ってしまう。結局はそれで上手くいかないというケースが多いんじゃないかと思います。
 ですから、回復する前に回復したかのように周りが扱うとまた発症してしまう。リワークするとき、戻ったときがゴールではなくてそこから後が新たなスタートになります。しかしそこが多分できてない。
 ベースに発達障害があると、またもう1つ難しくなります。やっぱり「仕事が出来ない(業務能力が低い)」というのがありますので。


■「軍隊式マネジメント」はなぜ存在するか


正田:障碍者を多く雇用している企業で、意外に「軍隊式」という例があります。

広野:そうですね、結局は厳しくやれば何とかなるという発想ですね。

正田:ですね。

広野:東京のIT企業の特例子会社でも「軍隊式」をすすめている方がいて、予備自衛官をされているようでした。

正田:私、日本の製造業がなんであんなに「軍隊式」なんだろう、大声で命令するような指示の出し方をするんだろう、と考えるんです。ものづくりに就職する人に発達障害率が高くて、そういう人に適したコミュニケーションだ、と思ってやっているところがあるんじゃないか。

広野:そうですね。

正田:それが正しいというわけじゃないですよ。

広野:それよりはどちらかというと、沢山の人を一度に一律に動かして成果を上げるというのが多分軍隊式なんですよね。
 それがあてはまる人ばかりではなくて、発達障害の特性によってはそこ(軍隊式)からは外れてしまう。そうするとどうしてもそれに当てはまる人を選別されるし、枠にはまろうと無理をすれば不適応状態になってしまう人もいると思います。
 逆行している、と思いますね。これからもっと多様性を尊重したり、グローバルな会社を作っていかなきゃいけないときに。一律で、厳しく枠をつくってそこに当てはめていくというのは。軍隊式は一時的には成果が出るとしても、完全に逆行していると思います。

正田:私が想像したのは、「構造化」というのがありますね。自閉症やそのスペクトラムの人に対する手法で、明確なルールを提示してあげて混乱しないようにする。それが一部の発達障害の方にある程度有効だ、と思うと、どんどんそれが広まってしまったんじゃないか。

広野:そうですね…、確かにルールがあるということですごく安定するという側面はあるんです。あくまでも視覚的な認知の弱さを支援するためのもので、変化に対応できない部分はそれで対応できるんですけれども。
 でもそれをやればどんどん普通に近づくかというとそれはちょっと違う(笑)

正田:ストレスフルな環境に置いたら適応できなくなりますね。

広野:成果を上げられている工場が、ツールを決めて例えばカラーテープでしっかり囲ったりとか、みんなが使う道具は場所を決めてしっかり枠を決めて色分けしたりとか、そういうことをしているところが成果を出しているというのがあります。
 それは決して自閉症の人のためにやっているわけじゃないんです。みんながやりやすいように、と作ったルールなんです。誰にとってもその辺は、そうなんじゃないかと思います。

正田:その風景はよく見ます。きれいに色分けしたり、作業場と通路の床をテープで区切ったりしていますね。

広野:ああそうなんですか。やっぱりそこがきっちりしていると皆さんもやりやすいでしょうね。
 それはむしろ、「一律」というのが色んなレベルの人に対応できる。
 でも「軍隊式」というのは、そうではない。このレベルに到達させるための枠組み、みたいな。

正田:うん、うん。

広野:外れる人には優しくないですよね。

正田:ものづくりの場合、品質だけは譲れないというところがあるので、でないと「タカタのエアバッグ」のような問題が起きてしまいますから。そこをまずクリアしてくれる方をまず採用したうえで、おっしゃるような配慮をする、という感じになりますね。

広野:そうですね。
 基本、問われてくるのは作業スピードであったり、作業内容的なもの。そういう意味では「一律」でないと逆に製品にならないですから、必要なことかなとは思いますね。


■5Sに「発達障害」の視点を入れると

正田:「5S」は発達障害が関わりやすい場面で、「全員一律にこうしよう」とすると中にはその通りいかない人が出てきますね。
ある工場では、社員さんの中に、手に持った工具などをあちこちに置き忘れちゃう人がいるんだそうです。いくら言っても毎日のようにどこかに置き忘れる。
 そこで、「これは発達障害のケースかもしれない」と思って、
「ご本人さんの努力を求めるよりも、ほかの方が気付いたら元に戻してあげるという形でちょっとやってみていただけませんか?」
と、わたしから言ったんです。
 すると、
「それは違うと思う」
と言われました、社長さんが。
 えっと思ったんですが、その置忘れの人は結構職位が高い人なんです。課長さん。全体としては仕事ができる人だと周りに評価されているけれど、その工具を置き忘れることだけは無くせないと。
 前回のインタビューの中でお話いただいた、「その仕事の本筋の仕事ができている人」というケースだと思うんです。
 朝礼で置忘れの件数をみんなの前で指摘して、それでその人が自分で頭をかいて戻しに行く、毎日そんなことを繰り返しているんだそうです。
「あ、なるほどな、職位の高い人だったらそれでいいか」
と思いました。

広野:うん、うん。そうですね。

正田:その後また社長さんにおききしましたら、加工して作ったあとの製品がその置忘れの彼の現場では機械の周りに散らばるんだそうです。それを、自分で工夫して周りを壁で囲ったりして散らばらないようにしたので、散らばりが改善していると。ああ優秀な人なんだなあと。

広野:うんうん。
 そうですね、結構賢い人は自分で環境を整えたりシステム化したり、というのが出来るんです。それはその人自身が地位が高かったら許されるかもしれないですね。勝手にパーティションを作ったりするのは、下っ端の立場でやると怒られそうですが(笑)
 逆に、そういうことはその人に率先してやってもらったらいいですね。それをみて「ああ、そういうふうにしていいんだ」「許されるんだ」という空気ができます。

正田:そうですね。

広野:やっぱり本人さんがが気づいて改善してもらうためには、周りもそれを「責めない」という空気が大事です。責めないで「あ、これ出来てないね」と指摘だけすれば、「あ、直さなきゃ」と頑張って直すようになるんです。否定されたり叱責されたりすると、それが人格的な攻撃になっちゃう。するとエネルギーがどんどん無くなってしまう。対処ができなくなるんです。

正田:うん、うん。

広野:指摘はどんどんしてあげて欲しいんですけど、そこに人格否定的な要素を入れないというのは大事です。
 そういう人もいる、という理解ですね。基本的に、それがその人の「素」なんですよね。「素」を否定されるって非常につらい(笑) 「素」がそうなんだと認めたうえで、仕事上の支障が出るようだったら、何とか本人もカバーするということで補う、みんなも補う。それはその人だけじゃなく、ほかの人のそういう出来ないこともカバーしようという空気ですね。そういうものが出来るかどうか。
 だから、その人だけが許されちゃダメなんです。似たような別の人も許されないといけない。
 偏りが強い人でも弱い人でも適用できるような改善システムを職場全体で作る。「この人はできないからやらなくていい」「でもみんなはやらなきゃいけない」ということにすると、(自閉症)スペクトラムの中間の人がやりにくくなりますね。
 そうではなくて一番大変なこの人が出来るシステムをみんなに適用することで、みんながやりやすくなるように。
 そういう事例は実際にあるんです。
 例えば、情報伝達の仕方を口頭だけではなく、決まった事柄をメールにしてみんなに回すということを徹底した会社があるんです。そうすることでほかの人も抜けがなくなって全体が環境改善できた、という事例です。
 ですからその人だけを、ということではなくみんなが、ということが大事なのかな、と。

正田:なるほど。
 置忘れが時々ある、という方が、逆に自分の強いことを活かしてほかの方の苦手なことを補ってあげれればベストですね。意外に自然にそういう形になっているかもしれないですね。




■全体の質低下を防ぐには


正田:ただ、発達障害のある方の抱える困難が一様ではないですから、その困難に合わせてみんなのシステムを変える、ということができるかどうかはケースバイケースかもしれないと思います。
 もう1つ別のケースがあります。これは困っているケース。
 これもものづくりなんですけど、休憩時間を不規則にとってしまう人がいます。仕事の手は早いんですけれども、勝手に休憩をとってしまう。午前1回、午後1回の決められた休憩時間以外の時に、屋上にタバコを吸いに行ってしまう。集中力が長く続かないようです。
 その人が親分クラスなので、子分がゾロゾロついて行ってしまう。会社の半分くらいがタバコを吸いに行く。上司は「こんなところをお客さんに見られたら大変だ!」と人々をかき集めて職場に戻している。そこへ不満が出て「なんで彼だけが仕方ないんだ」「なんであの人だけが」という話になる。

広野:そうですよね。
 それは本人にちゃんと事情を説明してわかるかどうかですよね。
 そんなふうにみんなが(タバコを吸いに)行ってしまうと、お客さんが来たときに休憩時間でもないのに誰もいない、これは客観的にまずい、ということを一緒に考えてもらったら。
 
正田:おっしゃるようなトークを上司がしてみたら、本人は「会社には勤めてやっているんだ」という口のきき方なんだそうです。

広野:そしたら、ついて行っちゃうほかの人にも問題がありますね。「この人はこういう考えだけれどもほかの人も同じ考えなの?」と。
 その人が社長だったらしょうがないかもしれない。社長ではないんですから、勤務態度ということでいうと、マイナスですよね。勤務態度でマイナス評価になる、損をする、ということで考えてもらって「休み時間ではないから、行きません」って本当は言ってもらわないといけないですよね。
 結局は長い物に巻かれるとか、正しい正しくないよりもそっちについておいた方が楽だ、とか。そういう流れがあるわけですよね。
 そこは、特性の問題ではないですよね。意識の問題かもしれない。

正田:現実にあります。1人の「自覚してない発達障害」らしい人がその職場の空気を作って、周囲の人を巻き込んでしまい仕事全体の質が低下するという問題。
 そうすると、「その人は障害だからあなたがたとは違うんだ」というレッテル貼りが必要になってくるんでしょうか?

広野:その人だけが許されるより、許されないほうがいいんです。それは会社として認められないと。それでもやるんだったら勝手にやりなさい、だけど評価は下がりますよ、と。
 それが分かった上でそれを本人も選択するのであれば、それは別の問題で。

正田:それは巻き込まれて一緒に問題行動をとってしまう周囲の健常な人に対して、ということですね。

広野:そこはビッシリキッチリ、やったらいいと思います。

正田:その人にだけ認めるというのはやらないほうがいいということですか。

広野:やらないほうがいいと思います。
 それはダメなんだけれど、マイナスになると分かっていてそれでもやるのならどうぞ、という。給与が下がってもいいのなら、仕方ない。

正田:その本人は工場でもリーダー、係長級ですけど、リーダーから外した、というところまできいています。

広野:そうですよね。ついていく人も、そういうふうになるよ、という話じゃないですか。



(正田注:1つ前の項目とこの項目で二通りの考え方が出てきました。
「当事者が許されるならほかの人も許されるような当事者の困難を基準にしたシステムを作る」

「当事者にだけ許すべきではない」
と。
 これが、常日頃考える
「当事者の抱える困難と仕事のルールをどう整合するか?」
「仕事の質の低下をどう防止するか?」
という難題のひとつです。
 時折、「すべての指示をメールで視覚的にわかるように発信するようにした」といった、整合の成功例はありますが、そのやりかたが「つかえる」場合とそうでない場合があるのです。非常にケースバイケースの判断になり、だれがそれを判断するのか、という問題も出てきそうです。結局5-10名程度の中小企業なら社長さんが感度のいい人であればすべての人に大きな不満の出ないやり方が自然と編み出される、という感じでしょうか。
 そう言っているうちに平成28年4月には「障害者差別禁止指針」と「合理的配慮指針」が試行されます)


■「発達障害」と昇進昇格と嫉妬


正田:発達障害の人の昇進昇格についてのケースをご存知ですか。

広野:自分より下の人とか同じ立場の人にはものすごく嫌なヤツ、という人だと昇進はしますね。

正田:嫌な社会だなあ(笑)

広野:上の人に気に入られるという要素が大きいですね。同じタイプの上司の人に気に入られるとか。何かで爆発的な成果を出して評価されることによってとんとん拍子で行ってしまうとか。そういうことで昇進してしまうことは珍しくないですね。

正田:上司は何を思って昇進させるんでしょうか(笑)

広野:今の企業さんをみていると、「気に入る」とか「気に入らない」だと思うんです。成果を挙げていて、気に入るかどうか。のような気がします。
 そこで特性的なものをみてバランスをとったり、自分と似たタイプの人ばかり引き上げるのではなくて、会社にとってどんな人材が必要かまで考えて昇進させないといけないですね。
 結局、人の見方が分からない。数値化は色々とされているとは思うんですけれど。その状況で成果が上げられるとして、では別の状況では成果は上げられるか。「これができるから、こっちもできるだろう」という考え方で人事をしてしまうと、ちょっときついですね。

正田:昇進昇格に絡めた嫉妬、という問題についてお尋ねします。
特例子会社さんで、発達障害の非常勤の人を常勤に昇進させたいが、周りの人がどう思うかわからないというご相談がありました。
 同僚の中からある人を昇進させるとき、「なんであの人だけが?」という反応がすごく強く出る可能性がある。どうも、発達障害の方には定型発達者以上に「不公平感」という感情が強く働きやすいんじゃないか、と。

広野:昇進させることは、逆にいいと思うんです。その人が常勤になれば、ほかの人もなれる可能性がある。
 その人だけが特別で、あとの人はまずなれないだろうとなると困りますけれど。

正田:仕事の能力は今いちなんだけれど、「不公平感」の問題で主張する傾向は強い、という方が2.3いらっしゃるみたいなんです。

広野:なるほど。ではその方々は、「仕事はできない」ということは自覚されてないんですか。

正田:能力について監督者から正確なフィードバックはしているはずなんですけど、単純作業で入力の仕事をしてもらってミスを指摘して、という。

広野:なるほど。その優秀な人は常勤になると、周りの面倒をみるというお仕事自体は増えますよね。

正田:そうです。

広野:周りの面倒をみるという部分があるからこの人は昇進できたんだと。「それをやるためにはこういうことやこういうことが出来なきゃいけないから、やっぱりそれが出来る人じゃないと常勤の立場にはなれないんだよ」という説明があれば、納得するかもしれないですね。
まったく同じ仕事をしていて1人だけ昇進させたら、不満が出ると思います。
 でも、不満を言う人には言わせておいたらいい、という気もしますが。何をやっても不満は出ますから。

正田:そうですね。
 ほかの職場で、かなり自己愛の傾向がある発達障害、と思われる方が課長に昇進しているケースがありました。上司はご本人の能力が足りないことや現実ばなれして自己評価が高いことはよく分かっているけれど、昇進意欲はとても高い人なので、昇進させれば「地位が人を作る」で本人も満足して能力も向上するか、と昇進させたそうです。
 結果的には能力が足りないのは同じで、周囲から「なんであの人が」と不満の種になっているという。

広野:そうですね、その昇進は間違った解釈かもしれないですね。多分永遠に「もっと、もっと」と欲が湧くタイプだと思うので。
 それよりも、自分の目指すところと実際とズレがあるということを分かってもらえるような教育が必要ですね。気づいてもらう自己認知の力を高めてもらうことが必要。



(正田注:あとでも出ますが、やはり「あなたはこの仕事のこの部分ができていない」という正確なフィードバックがすべての基本のようです。そこができて初めて昇任昇格の話もできますね)


広野ゆい氏にきく(2)発達障害者マネジメントの「困った!」問答


1.「一律」になじまない現実と付き合う
■メンタルヘルス問題に「発達障害」の視点がない
■「軍隊式マネジメント」はなぜ存在するか
■5Sに「発達障害」の視点を入れると
■全体の質低下を防ぐには
■「発達障害」と昇進昇格と嫉妬


2.「弱みの自覚」のむずかしさと大切さ

■自己診断にチェックリストは有効か
■若い人の成長過程のむずかしさと自己認知
■適性のない仕事についていたら?
■「強みを活かす」の限界 弱みの自覚の大切さ
■感情表現(Iメッセージ)の壁を訓練で乗り越える


3.発達障害者マネジメントの「困った!」問答

■管理職研修と発達障害
■ASDの人の固定観念と性バイアス
■ADHDは薬で改善されるか
■告知はどんな言い方が有効?
■ADHDの人が自己判断で仕事をしたら




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 こんにちは。
 一般財団法人承認マネジメント協会の正田です。
 急に冷え込み花曇りとなりました。お変わりなくお過ごしですか。

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 本日の話題は:

■「5S」の次の一手は―楽しく進化し続ける受講生様に畏敬の念。

■読書日記:「ヘーゲル承認論」の歴史観 「承認をめぐる命を懸けた闘争」

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■「5S」の次の一手は―楽しく進化し続ける受講生様に畏敬の念。

 先週は、昨年11月に奈良県中小企業団体中央会様で「承認」「傾聴」「質問」3回の研修を受講された、射出成型・ブロー成型のものづくり企業、成和樹脂工業株式会社さん(奈良県香芝市逢坂、従業員10名)をお訪ねしました。
 同社の中村隆一社長(65歳)自ら受講され、研修のあいだも渾身の力で「とりにきて」くださったのがわかりました。
 直後の12月には、研修で学ばれたことを活かして長年の課題だったという「5S」に取り組まれ、いきなりの進展でした。
 そして今年に入ってからは…。
 社員さんの元気ぶり、十分にお伝えできていますでしょうか?
 成和樹脂工業さんの記事はこちらです↓↓↓

◆「5S」の次の新たな化学変化「社員同士ほめるようにしたんですよ」―成和樹脂工業さん(奈良)をお訪ねしました
 http://c-c-a.blog.jp/archives/51910630.html

※この記事の中では、「わたくし正田がなぜ今のような仕事(マネジャー教育)をするようになっているか?」というお話もちょっとご紹介しています。ご興味のある方は、ご覧ください。
 

 前号(3月17日発行)でご紹介したこちらの記事も、その後も高いアクセスをいただいています。
 フェイスブックの1人のお友達からは、
「私は福祉でこれをやりたいんです!」
と、レスポンスいただきました。

◆「1年生にお造りをつくらせた 老舗旅館厨房ものがたり―松岡兼司さん(有馬温泉料理長)
http://c-c-a.blog.jp/archives/51910143.html

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■読書日記:「ヘーゲル承認論」の歴史観 「承認をめぐる命を懸けた闘争」

社員さんの成長と会社の幸せな変化の記事のあとに、物々しいタイトルの記事をご紹介してしまいます。
「承認」という言葉はまだ耳慣れず、リーダー研修のタイトルに出てきても違和感のあるかたもいらっしゃるかと思います。
ところが、本来は今の国家や法体系のもととなる考え方だったのだ、というとちょっと印象が変わってくるのでは。
「ヘーゲル承認論」の中でも中心になるところ、「承認をめぐる闘争」を(あくまでダイジェストで)ご紹介します。
のちにフランシス・フクヤマという人が、この考え方どおり実際に歴史が動いてきたのだ、という意味のことを言っております。

◆「承認をめぐる生命を賭した闘争」「主と奴」「自由主義社会と歴史の終わり」−ヘーゲル承認論

http://c-c-a.blog.jp/archives/51910832.html 

 なお言わずもがなですが、こうした「承認」をめぐる過去の哲学史をひもとかなくても、「承認研修」は楽しく学んでいただけます!また、そのあとジワジワと幸せな方向への変化を手にしていただけます。
 ただ何かの折、「『これ』はもっと大きな視点ではどういう意味があるんだろう?」とご興味をもたれた方にお送りしたいと思います。

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 さて、「ヘーゲル承認論」の「承認の原型は『愛』だった」というお話からすこし間があいてしまいました。

 あのお話で止めておくと簡単でわかりやすかったかもしれないですね。

 でも「ヘーゲル承認論」のもっとも有名なところは「その先」にあります。
 
 「承認をめぐる生命を賭けた闘争」そして「主人と奴隷の弁証法」です。


 もし「承認研修」をきっかけにこのブログの読者になってくださった方ですと、ヘーゲルのこのあたりの議論をブログでご紹介していると、「なんだこれ!?」と「引いて」しまわれるかもしれません。

 研修でしたお話とは似ても似つかぬお話ですし、「主人と奴隷」などは現代の何のメタファーなんだろう?と思われるかもしれません。


 当協会の「承認研修」では、ヘーゲルの考えた「承認」からはだいぶ趣がことなっていて、行為としての「承認」を扱います。そこでは現役マネジャーが実践に落とし込みやすいように「行動理論」の要素が入っていたり、「ミンツバーグのマネジャー論」の考え方も入っています。でお蔭様で「これは実際にできるようになるなあ!」と言っていただけます。ヘーゲルは「承認」が「ない」状態からどうやって「ある」状態にするか、という教育プロセスのところは考えなかったですからね。


 とりあえず今回の記事では、現実との橋渡しをあきらめてできるだけヘーゲルが考えた通りにたどってみたいと思います。

 ここでは、とうとう入門書の『はじめてのヘーゲル「精神現象学」』(竹田青嗣+西研、講談社現代新書、2014年3月)をテキストに使います。


****


 わたしたちは「自己意識」を持って世界と向かいあっています。しかし自己意識は他者関係のなかでは絶対的な自己であることができないのです。

 

「自己意識が本気で『自己自身』たろうとすれば、『相手の存在を否定することで自己の自立性・主体性を守る』という態度をとることになる」(前掲書p.63)

そこで「承認のせめぎあい」という状態が起きます。


「他者がいる場面では、自己意識は、自分こそ世界の『主人公』であるという意識を保てない。そこで、自己の『主人公性』、つまり絶対的独自性を保とうとすれば、自己こそ世界の中心であることを、自分だけでなく他者にもまた認めさせることが必要となる。

 この試みは、これを極端にまで追いつめるなら、他者との命を懸けた戦いへの意志として現れる。」(同、p.64)


 
 と、「承認をめぐる生命を賭けた闘争」となります。


 「ところが、もし実際に戦いの結果相手を殺してしまえば、はじめに意図されていた自己の自由の承認という欲望は、達せられない。死を賭して戦いあうことは、双方が自己の絶対的『自由』を守ろうとする意思の証しではあるが、相手が死んでしまえば、勝利者の『自由』を”承認”する他者はいなくなるからだ。」(同、p.65)

 と、戦って勝った人は負けた人に「承認される」ことをめざすのです。相手を死なせてしまうと、「承認」してくれる相手がいなくなります。そこで敗者を隷従させつづける奴隷制度のはじまりが起こります。あくまでヘーゲルがそう言っている、というお話です。

 ―ここは、「承認研修」がめざすところの「上司による部下への承認、そこから展開する認め合う組織」とは逆の、「上司はつねに部下に承認されている」という構図ですね。自然の重力にしたがうとそうなってしまいますね。

 そしていよいよ、「主(Herr)と奴(Knecht)」(主人と奴隷)の弁証法が出てきます。


 「承認をめぐる死を賭した戦いの結果、人間は主と奴に分かれる。両者の関係はつぎのようだ。

 まず戦いに勝利した主は、奴に対して絶対的な『自立存在』を保つ。つまり奴に対して絶対的な威力、『死によって脅かす威力』を振るい、このことで奴は主のために労働することを余儀なくされる。これが主の奴に対する関係の第一面だ。」(同、p.66)


 死を怖れた側が自分の自立性を放棄し服従し、奴隷になるのだと。

 すごく極端な話のようですが、べつのテキストによればこれは現代というより古代諸大国の始まりを言っていると考えればわかる、と述べています。古代ギリシャ、古代ローマ、あるいは秦漢・・・などを考えればいいのでしょうか。



 ここで、「労働」というものの重要さもヘーゲルは言っています。


「じつはこの関係において、潜在的には、かえって主のほうが非自立的であり、労働によって物(自然)に働きかける力を育てる奴のほうに、本来の自立性の契機が存在していることが、やがて明らかになる。

(中略)

 奴は自然(物)に労働を加えてこれを有用な財に形成し、生産する。この行為はまた、自分の欲望を抑制し、代わりに技能を鍛えることで可能となる。またそれは、人の生産と能力の持続的向上につながるものだ。

 この労働の能力こそ人間の自然に対する支配の本質力であり、奴は労働を通して力を身につけ、そして自分がこの本質力をもつことを直観してゆくのだ。」(同、pp,67-68)



 労働を通じて聡明になれる、というのは、数年前に流行った「意志力」や「ワーキングメモリ」の知見でこれらの能力は後天的に鍛えることができる、と言っていることを思えば多少はわかる気がします…


 さまざまなテキストをみるとヘーゲルやはりフランス革命(19歳の時)の影響は大きかったようです。当時大学内で「自由の樹」を植えてお祝いしたとか、ナポレオンのイエナ大学侵攻では「世界精神の勝利」と言ったとか、ラディカルな世界観のもちぬしです。

 ところが、1770-1831年の間生きたヘーゲルが構想したものは近代自由主義社会そのもので、階級社会の従属関係から法によって所有権を保障される(=法による承認)平等な社会への移行をいちはやく構想した人なのです。

 フランシス・フクヤマは1992年に書かれた『歴史の終わり』の中で、近代自由主義社会こそが人類史の終着点だ、人類史は最終的にもっとも矛盾の少ないほうが生き残るとヘーゲルは予見したと述べています。
 それはベルリンの壁崩壊直後の本だということを考えて多少割り引いて読まないといけないかもしれませんが。

 フクヤマによると、

「ヘーゲルにとって人類史の原動力とは、近代自然科学ではなく、また近代自然科学の発展をうながした無限に膨らみ続ける欲望の体系でもなく、むしろ完全に経済とは無関係な要因、すなわち認知(=承認)を求める闘争(他者から認められようとする人間の努力)にあった」。(『歴史の終わり』(上)、三笠書房、p.228)
 
と、ヘーゲルの「承認をめぐる生命を賭けた闘争」「主と奴」の歴史観を全面肯定したのでした。

**** 


 「承認をめぐる闘争」のところは、現実世界のあれこれを考えると正直、書くのがしんどかった部分です。
 そして本来はもっと原文(訳文)を引用しないといけないのですがやはり難解で…。


 現代はたとえば「自由主義社会」からはじき出された若者がISに取り込まれ、そこで自爆テロに従事させられるという、悲惨な現実があります。その「自由主義社会」はヘーゲルの構想したものと比べてどうなのだろうか、とも思います。
 

 現代のヘーゲル研究者ではA・ホネットという人が有名で、この人は「承認論」を「再配分」や「フェミニズム」の問題とも関連づけているようです。


 この人の文章も結構難解なのです。さあご紹介できますかどうか…。



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 18日、成和樹脂工業株式会社(奈良県香芝市逢坂、従業員10名)さんをお訪ねしました。


3中村社長


 こちらは、11月の奈良県中小企業団体中央会主催セミナー(「承認」「傾聴」「質問」各4時間の3回研修です)に社長の中村隆一さん(65)ご自身が参加され、宿題にデモンストレーションに、と大活躍されたところです。


 中村社長の宿題はブログ上部の「宿題一挙28例公開」↑↑↑ の一番目に載っています。

 「社長さんのされた宿題としては過去最高の実践です!!」と正田は絶賛いたしました。


 3回のセミナー終了後の12月に入り、中村社長は、長年懸案だったという「5S」に取り組まれました。社員さんと話して「5S自分の約束」を書いてもらって守らせるように。するとその行動が定着し、過去よりははるかに現場がきれいになったといいます。5Sには過去何度も取り組んでは挫折していた、ということです。

 きいていて「急進的すぎないかしら?」とハラハラしましたが、社長さん自ら「承認」に取り組んで1か月時点であると、社員さんのエネルギーも社長さんの求心力も上がっていて、はっきりした変化が創れたようなのです。


 セミナーから4か月、思い切って会社をお訪ねしてみると…。

 機械音の合間に社員さん方の元気のいいかけ声が響いています。
 少し早く到着したわたしに、社員さんが心優しく機転を利かせて社長さんを呼び出してくださいました。

 そして中村社長はまた、新たな取り組みをされていました。

「今年1月から『朝礼』で社員同士、ほめ合うようにさせたんですよ。
 まだ3か月の取り組みですが、以前よりはっきり社員がいきいき仕事をしているような気がします」

と中村社長。

「毎朝の朝礼とは別に、月に3回ほど大きな『朝礼』をします。毎月当番を決めて、その月の目標も決めてもらい、その目標のための話し合いをします。

 そこで先生から『ほめることが大事だ』と習ったので、社員同士がお互いのいいところをほめるようにしたんです。」

 ・・・えとえと、ほめるというかできるだけ「認める」という言葉を使ってるんですけど・・・


1


「ああ、そう『認める』ということですね。
 毎回の朝礼で社員2人が、それぞれほかの社員3人をほめるようにしました。だから毎回6人がほめられる側になり、1か月3回ですと18人がほめられることになりますね。」

 ほめる内容としては、
「○×さんが元気よく挨拶していた」
「よく整理整頓をしていた」
「連絡事項を細かく言ってくれる」
といった、その月の目標に即した内容です。


「『できるだけ具体的にわかるように』
ということも私からリクエストしました。
 ともすれば、『みなさんよく整理整頓している』といった言い方になってしまうんですけどね。
 『何月何日、○さんがどういうふうにしっかり整理整頓していた』とわかるように、と。」(中村社長)

 なるほど、それで「行動承認」の目指す「リアリティに軸を置く」ということができているわけですね。

「ほめられた社員がそのときどんな顔しているか、私はみていないんですけれど、あとあとの仕事ぶりはやっぱり元気がいいですね。
 また、ほめる側の社員についても、『この人はよく周囲をみているな』ということがわかってきますね」

「私は昔からノウハウを『盗む』んです、習った通りでなく、ハハハ」

と、オリジナリティを付け加える中村社長です。

 こうした受講生様のもとでのバリエーションは楽しいものですね。


 このあと1階のブロー成型、射出成型の現場を見せていただきました


2


 
 射出成型では車やフォークリフトのエンジンに入れるプラスチックの部品、それにラムネの栓など(写真)を製造していました。射出成型の独自の工夫により加工した栓が離れた形で成型されてくるプロセスはわたしなどには不思議の一言。最近は円安で急な発注がかかるときがあり対応が大変、とのことです。


 以前のお話にあったような、成型品の「こぼれ」は見られず、袋で受けるなどして改善されていたようです。


 「あそこはなかなか、ヤンチャな感じの社員さんが元気よく働いてますよ」

と横から入れ知恵していただいてお訪ねした成和樹脂工業さんでしたが、おっしゃる通り皆さんの元気な声かけの響く仕事風景と、それに早めに着いた来客のわたしのために社員さんがちょっと社長を呼び出してくださる、親切な機転が、わたしには「活気」とうつったのでした。


 中村社長、成和樹脂の皆様ありがとうございました!


****

 
 この日は別のかたからも、

「あのときのセミナーは役立っています。今でも研修資料を見ますよ。僕の仕事でいうと、周りの話が聴けるようになった。そして任せられるようになった。研修前より、はるかに」

と嬉しいお言葉をいただきました。

「同じような研修をその後も受けたんですが、正田さんのやられたことのほうが『深かった』。あとに残った。
僕、お世辞は言わないですから」

  3回のセミナーを通じて、もう1人のこれも「サムライ」風の現場マネジャーさんと2人1組でいらしたスポーツマンタイプの方です。

 普通なら「バーチャル」になってもおかしくない部署の方からこういうお言葉をいただけるというのは、大変ありがたいことなのです。



 そこで珍しく、「自分はどうしてこういう仕事になったのか」という話をいたしました。
 女性講師がマネジメントを教える、今でもやはり特異なことでしょう。
 そしてその部分をお話することはふだんあまりないのですが、


「私はもともとが人の話を聴くことが好きだったんです。通信社の記者をしていてもインタビューをするのは好きでした。
そこへ当時『コーチング』というものがはしりで出てきて、すぐ飛びつきました。
しかしやっていてすぐに、『これは個人契約でやるより現場のマネジャーさんが担い手になったほうがいいなあ』となりました。
そこに100人ほどのマネジャーさんのグループのまとめ役のような立場になってしまったんです。
そこで勉強会などをあの手この手とやっているうちに、それらの内容がマネジャーさん方にどう『落ちる』か、それを伴走型で体験することになりました。だから研修のその場だけのお付き合いではないんです、何年もにわたるお付き合いです。
そうしてどういう内容をやってあげると一番いい形でマネジャーさんの人格的成熟につながり、組織にも次々といい化学変化が連続して起きていく、というのがわかってきました。
逆に研修の内容とかやり方によっては『残念』な結果になってしまうこともある、『こういうことはしない方がいいな』ということもわかってきました。
それは40歳、50歳まで生きて来たマネジャーさんの人生の重みというのが元々ありますので、その人たちをある方向に『動かす』というのは大変なことですので…」
 
 
 まあ、要は正田はマネジャー経験もない一介の女性にすぎないんですが、しばらく「マネジャー」という存在と息長くお付き合いして試行錯誤したり観察を続けた結果が今の教育プログラムになっていて、それが結果としては成功している、ということなんですよね。


 その過程では既存の大手研修機関の教えに首を傾げ路線変更する場面もありました、色々みてくるうちにいわゆる「コミュニケーションオタク」「セミナージプシー」ではない人たちのうちに本当に有能なマネジャーはいて、するとそういう人たちに出会う確率を最大化するにはどうしたら、というのは今も悩みの種ではあります。

 また、近年では従来より強く「承認」のほうに舵を切ったときに、「年間業績向上8例」といった過去最高の結果になっている、また「心理学より実践倫理の性格が強い」といった言い方もし始めている、というのは少し長い読者の方だとご存知のとおりです。


****


 ヘーゲル語の「間主観性」という言葉に最近引っ掛かりを感じています。

 正田の独特の教えるときの語気、ときに「自信がないのではないか」と批判の種になる口調は、相互に「主観」をもった存在である講師受講生の間で情報を受け渡すときの「相手の主観」にたいする畏敬の態度なのではないかと、

 たぶん現場の上司部下関係とも厳密には少し違うけれども人一倍強い人格の「リーダー」が自分の主観の側から手を伸ばして受け取るために最適な強さを選んでやっているのではないかと。またリーダーが現場に帰って担い手になるときにもその「間主観性」の態度というのは役に立つのではないかと。

―「間主観」のところをひとによっては「共感」という言葉で言うかもしれませんが、わたしは「間主観」という「理性」ぽい言葉のほうがすきです―

 それは余談であります。「超人」ではない正田が不思議と人様に何かをお伝えできるのは何故だろうか、というお話。いまだ後継者のいない正田なので自分のノウハウらしきものをぼそぼそ書いています。

 
 ちなみに、今日の記事の冒頭で「社長さんにはむずかしいことだ」みたいな言い方をしたのは、恐らく経営者さんにとっては「理念を発信する」ということが大事な仕事であり、それにあたっては思い切って「間主観」ではなく「主観」に寄る、「主観」の幹を太くする、ということが必要になるのだろうと思うからです。

 ただ四六時中「主観」の世界に生きていることが正解なわけでもなく、自在に「主観」と「間主観」の間を行き来できることが経営者さんとしても理想なのだろう。その配分比に決まった正解はないのだと思います。



100年後に誇れる教育事業をしよう。
一般財団法人承認マネジメント協会
http://abma.or.jp
 

お世話になっている皆様


 おはようございます。
 一般財団法人承認マネジメント協会の正田です。

※このメールは、正田が過去にお名刺を交換させていただいた方・当協会のイベントやセミナーにご来場いただいた方にお送りしています。ご不要の方は、メール末尾にありますURLより解除ください。
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 本日の話題は:

■1年生にお造りをつくらせた 老舗旅館厨房ものがたり

■「聴いていない」は傾聴の問題なのでしょうか?

■読書日記:「ヘーゲル承認論」 「承認の原型は__だった」

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■1年生にお造りをつくらせた 老舗旅館厨房ものがたり

 昨年12月と1月の2回にわたり、兵庫県中小企業団体中央会主催「トップリーダーズセミナー」を受講された、有馬温泉の御所坊別館・「花小宿」の料理長兼責任者、松岡兼司さん(36)をお訪ねしました。

 旅館の厨房を舞台とした「今どきの若手」の成長物語。またそこで上司、お客様の役割とは…。
 「人の成長」のダイナミズムの中で日々の料理を作り、出す営みがドラマをはらんで続けられている、そんな景色をどうぞ、楽しんでください!!

 インタビュー記事はこちらです

◆「1年生にお造りをつくらせた 老舗旅館厨房ものがたり―松岡兼司さん(有馬温泉料理長)
http://c-c-a.blog.jp/archives/51910143.html

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■「聴いていない」は傾聴の問題なのでしょうか

 このところ「傾聴」に関する教育は普及しているようで、上手に相槌を打ちながら話を聴く人のことはよく目にします。
 ところが、そのことが次の段階の問題解決につながっていない、という現象もよく目にします。そこに関わるのは何なのだろうか、と考えるとき、「傾聴」ではない別の解に行き着きます。
 このところお出会いする心あるビジネスパーソンの方々からは大いに賛同していただきます。やはり、「事実」と「リスペクト」に軸足を置いた教育をしなければならない、と肝に銘じるところです。
 1つ1つ長くなりますがご関心のある方はご覧ください:

http://c-c-a.blog.jp/archives/51909764.html
http://c-c-a.blog.jp/archives/51909834.html
http://c-c-a.blog.jp/archives/51909993.html 

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■読書日記:「ヘーゲル承認論」「承認の原型は__だった」

前号(2月23日発行)からご紹介を始めた「ヘーゲル承認論」のシリーズです。

50過ぎたヘーゲル読みですので、むずかしい言葉は使おうと思いません(ヘーゲル自身は大変難解な言葉の使い手で、できるだけそれに巻き込まれないでいきたいと思います)

 シリーズ第3回では、「承認の原型は_だった」
 …だから、実は日本でもリーダーに対する「承認教育」のもとで12年も業績向上例が続き離職も防止できる、というのはある意味当然のことかもしれないのです…

◆「愛」から「承認」へ―ヘーゲル承認論―『承認と自由』(2)
 http://c-c-a.blog.jp/archives/51910094.html 

 前号記事に、わたしの尊敬する宮崎公立大学学長・林弘子先生(弁護士)より、
「ヘーゲル、大学院時代が思い出されます。しかし、素晴らしいです」とおほめの言葉をいただきました。ありがとうございます!!

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※今年3月に書いて「下書き」にしておいた記事です。ヘーゲル承認論シリーズ、始めてはみたものの右往左往しています。


 さて、3回ほど「ヘーゲル承認論」を追ってきましたが、ここで「ヘーゲル」が哲学史上どう位置づけられているか、ということも、新しく出版された入門書をみておさらいしてみたいと思います。


『闘うための哲学書』(講談社現代新書)より。

「よく哲学史では『ヘーゲル以前』と『ヘーゲル以降』という言い方をします。ヘーゲルの哲学がヨーロッパの哲学の歩みの1つの到達点であり、それ以降はそれを踏まえて現代の哲学が展開されていく、という意味ですね。

 その区分が正しいかどうかは別としても、ヘーゲルの哲学がそれまでのヨーロッパの哲学の一つの完成体であり、ヘーゲル自身もそれを目指して自らの哲学体系をつくっていったということはありますね。」(萱野稔人)



 本書では対談者の小川仁志氏と萱野稔人氏がいずれも「私はヘーゲル主義者」と言っています。へ〜。このひとたちほかのスピノザとかカントのところでは「理性か、エゴか」で思い切り対立していたのに。

(ちなみにこの論争に関してはわたしは小川氏の「理性」派です。「理性」は個体差はあってもかなりの程度まで教育訓練可能であるからで、その適切な教育訓練が「ない」とか「破壊される」ことがむしろすごい問題だからです)


「ポストモダン思想ではヘーゲル哲学はとても評判が悪かった。まさに批判すべき対象、乗り越えるべき対象としてのみヘーゲルは言及されていました。

 たしかにヘーゲルは、先ほども触れたように、道徳的な押しつけに見えるところがなくはない。だからヘーゲル哲学の権力性を批判する人もかなりいました」(萱野)


 このあと小川、萱野両氏とも「でもヘーゲルをよく知らないで批判するのは、ばかばかしい」で一致します。


 「道徳的な押しつけ」は、ちょっと同意しますね…、
 ヘーゲルは「人格的相互承認」のある共同体を構想しますが、現実にそういうものが「ない」ときはどうやって「ある」状態にするの?という問いには全然答えていません。正田はそれを教育であくせくやっているわけですが、「押しつけ」られるわけではないので、「業績向上」とか「マネジメントが『らく』になる」という名目でお誘いするわけです(それ自体は誓って、うそじゃないんです)。そういう誘因がなかったら人を動かせないですよね。


 本書『闘うための哲学書』は、ヘーゲルは現実の観察に基づいて言っている部分と理想形を言っている部分と両方ある人だ、ということも言っています。さあ、何を観察したのでしょうか…。


 別の本『1日で学び直す哲学〜常識を打ち破る思考力を身につける〜』(甲田純生、光文社新書、2013年)では「フランス革命こそはヘーゲルが生涯かけて思索的に取り組まなければならなかった巨大な『現実』の代表的な一面であった」という中埜肇氏の言葉を引用しています。

 たしかに有名な「主と奴(主人と奴隷)の闘争」という論は、専制君主―労働者の対比で古代国家群の成り立ちを言っているようにもとれますが専制君主はあんまり頭を使わない、労働者は理性を働かせ労働を通じた自己実現をしているので賢い、ということも言っています。それは最終的にフランス革命のようなところに行き着くのだ、と暗示しているようにもとれます。

 ヘーゲルは19歳のフランス革命のときに学生同士快哉を叫び、37歳のナポレオンのイエナ大学入城のときも歓迎したのだそうで、当時としては結構ラディカルです。自分自身は身分制の中にいながらその先の近代国家を夢みていたかのようでした。

 それがマルクスにまで行ってまうやんけ、と言う人もいるでしょうがおそらくわたしたちの今住んでいる日本もヘーゲルの構想した国家像の延長線上だと思います。


 さあこのシリーズ、どういう落としどころになるんでしょうね〜。


 
(一財)承認マネジメント協会 
 正田佐与

 ここ数週間でブログに書いた以外にもたくさんのお出会いと感動、感激、感謝の場面がありました。


 諸般の事情でなかなかそれを言葉にできずにいます。本来のわたしであればその方々の人となりについて、文脈について、リスペクトを込めて延々と書き綴るところです。


****


 「バーチャル」になることのほうがはるかに簡単なこの時代において、「行動承認は真実ですね」というお言葉があちこちで聴けたのは、むしろ奇跡のようなことでした。


 せっかく一度伝えることができても、すぐ次の情報次の情報に押し流されていく現代です。


 


 「正田は生意気だ、傲慢になっている」
という声をきくときもあるけれど、

 わずか1回「経済団体主催セミナー」をさせていただくために、何回「自団体主催の事例セミナー」をしてきたことだろう、この12年。

 「セミナー」でなく「事例セミナー」と言っていることに注意してください。セミナー研修の実験室の場や、専門家との個人契約の会話空間の中で人の心にあれこれ手を加えるのは、技術的には簡単なことなのです。
 それに基づいて「組織」について仮説レベルのことを言うことも。

(「実験室の会話」という言い方は、行動理論家でアメフト常勝監督の武田建氏もよくしていました)


 そうではなくて、「事例セミナー」というのは、ほかの意味でも聡明なリーダーたちが一定期間確信をもってやり続け、その結果組織に無理なくよい方向への化学変化を起こし続け業績が向上した、それが続出した、ということです。

 …そういうのは「先験的にわかっている」タイプの人には一々言うまでもないのでしょうけれど。


 はたらく人たちの「現場」にひとつの手法が正しく落ち、よい方向への持続的な化学変化を起こし続けるためには、セミナー研修個人契約等の「実験室」を成り立たせるのとは質の異なる思考が要ります。多数の方式を横断的にみたうえでの効果発現メカニズムの見極めと副作用への配慮、そして教授法の工夫が要ります。それらの結実が「12年1位」とか「事例セミナー7回」になっている、ということです。


 それら事例セミナー開催のためにどれほどの労力と私財を投じてきたことだろう。そしてそれでもバーチャルな人々には「ぴんとこなかった」ことだろう。「これが決定打だ」とは考えず、腰の据わらないまま次の手法次の手法を追い求めてきた、アトム型自己観の人々が「永遠に拡大し続ける世界」を追い求めるように。

 それは、自分個人の幸福とか成功を考えたら本当にばかばかしい労力でした。生まれ変わったらもっと別の、人に侮られない仕事をしたい。

 それでも、「この手法」を伝えることでお客様に作ることのできる経済的精神的幸福には替えられないのです。


 
 「この手法」に親しんだあとの人の口から、よく「承認って、当たり前のことですよね」という言葉がきかれます。

 「この手法」で現に自分の会社を幸せにしている人でもあったりするのですが、その言葉はことわたしには、「承認欠如」の言葉として残酷に響きます。

 「当たり前」ではないはずです。上の世代から継承された価値観に当たり前に流されていたらこの人の会社の成功はありえなかったし、わたしは率先してそれに異を唱えるものとして普通の人なら浴びないはずの迫害や非難を浴びてきました。

 そして先にも書いた「1回の(あなたが参加した)経済団体主催のセミナーのために何回の事例セミナーをしてきているか」という問題であったり、またこの情報の多い、ともすれば「実験室レベル」の話に流されてしまいそうな時代に、ブログやメルマガで絶えずあの手この手と切り口を変えながら「この手法」にリーダーたちの心を引き戻しブレさせないようにしていること。

 「承認」がいくら再現性を持って生物学的その他あらゆる視点から正しいものであっても、わたしがその作業をしていなかったらこの人はブレていただろう。


 また、「教授法」の問題―、
 わたしは「弱い」と言われることがあります。過去に無数の心理学系のセミナーの類をみてきて、上手だと言われるそれらの先生方の手法とは意識的に一線を画してしまったところがあります。
 要は、
「実験室ではいくらでもディープなことエクストリームなこと非現実的にポジティブなことは言えるし、できる。でも現場に落ちるには何が大事かをみなければならない」
ということなんですが。
 逆に「正田の講師ぶり」を過去に高く評価いただいた英国の倫理学の教授とは、実は向こう式の「授業の相互評価」を担当する先生でもありました。そこで論理性客観性や「フェアネス」を担保いただいたようなものですが、それはさておき、最近ある受講生のリーダーの方から言われたのは、
「心地いい空間だった」
ということでした。これもなかなかに癖のつよい一家言ありそうな方だったので嬉しい評価でした。

 わたしなりに、自分が現場を預かるリーダーだったとして、こういう「決定的だ」と思える教育コンテンツに出会うとき、それをどんな先生にどんな口調で教わりたいと思うか。

 それは強引に押し流すタイプのものではないと思います。大風呂敷を広げたり、講師のナルシシズムが前に出たような強気なスタンスではなく、教えられたものであっても自分の判断を働かせたうえで「とりにいった」と感じるものでなければなりません。

 だから、リスペクトを基調とした一見こちらが「弱い」と感じられるような口調を維持しています。

 それを「弱い。この人ダメだ」と思うか、「いや、こういう語り口を介して真実に出会うことができてラッキーだ」と思うかは、その人の元々の頭が「バーチャル」か、それともこのブログが読者として想定しているところの「タフな実務家」かによると思います。
 その語り口を維持するがゆえに、実務家ではないタイプの人々からの攻撃にも遭ってきました。


ーここまで書いて気がつきました、これは二律背反の話なのだなと。
実務家に訴えかけたければ淡々と、「相手に判断させる」語り口で話せばよい、そうではないほうの人たちには「夢をみさせてあげる」あるいは「少々の矛盾をものともせず強気で押し切る」口調で話せばよい、あとのほうの話し方をすると実務家タイプの人たちは最初から「これは自分とは関係ない」と思ってきいているのでどのみち大きな波乱は起きないー

ー実務家タイプの人に語りかけるセミナー、研修をそうではない人も混じっているところで質疑も含めて成立させるにはどうするか?
そこは事務局の方々にやり方を一考していただきたいところでありますー



 だから、「これって当たり前ですよね」というひとは、自分が「これは真実だ」と直感できた理由であるところのその教授法が、講師の自己犠牲とひきかえのものであることを見落としています。


 わたしの心と身体の無数の痛みの上に、自分の人生を諦めた生き方の上に、その人の会社組織の成功や生き残りは載っています。
 それがわからない人は…。それは謝金とかの問題ではないのです。


****


 と、嘆き節のような内容の日記になってしまいましたが、、

 このところお出会いする、非常に世慣れた方々が、ここ数か月のわたしの決断の意味を行間から理解してくださることが、有難いと言わざるをえません。

 一度言葉にまとめておきたく思いました。

 その方々にはむしろ言うまでもないことなのかもしれませんが。

 深い感謝を込めて。



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 「人間の普遍的相互作用および陶冶(とうや、形成/教育、Bildung)のなかには相互的であるような承認(Anerkennen)がある」(ヘーゲル)


 すみません、かっこつけてしまいました。陶冶Bildungはビルドゥングス・ロマン(教養小説)のビルドゥングですね。



「先日、お造りを1年目の子につくらせたんですよ」


 12月―1月の兵庫県中小企業団体中央会主催の「トップリーダーズセミナー」に参加された、御所坊グループ「花小宿 旬重(しゅんじゅう)」の料理長、松岡兼司さん(36)からお話を伺いました。


11松岡さん3-1



「僕らの仕事は、お客様と向かい合って一瞬一瞬のことですからね」
「ブログ、携帯でブックマークして読んでますよ」


 このブログ上部↑↑↑にある「承認」宿題事例集の後半のほうに松岡さんの「旅館業」の事例があります。
 宿題はどの方もそれぞれに味わいがありますが松岡さんの事例は、お客様と直接向かい合う緊張感の中での部下の貴重なやりとりの一瞬を切り取った、ひときわ味わい深いものでした。

「『承認』にはまっています」
「わずか1週間の実践でしたが、顕著に違いがみられたので続けていきたいと思います」
と松岡さんは宿題に書かれていました。


 20代と見誤った風貌の松岡さんでしたが、実は5人のスタッフ(新年度から7人)を使う料理長さんで鎌倉幕府の時代から続く老舗旅館の別館「花小宿」全体の責任者。その中の「旬重」はカウンター中心の料理屋で、シックな空間。宿泊のお客様もここで食事されます。有馬温泉全体でもカウンターでお客様の目の前で調理するお店はここだけだそう。お客様はおなじみ様が多く、よく料理におほめの言葉をいただいたりお叱りをいただいたりもするそうです。





「僕は、若い子にどんどん『失敗』させるんですよ。『やってみ』と言って」

と松岡さん。

正田「えー、でも失敗して食材をだめにしてしまったら、ロスが痛くないですか」

松岡さん「痛いですよ。…食材で一番高いのはお造りですね。
お造りを先日、1年目の子につくらせたんですよ」


「ええー」

それには、わたしは心底びっくりして言いました。

「あの、三枚におろすのをですか。1年目の子って普通下ごしらえだけじゃないですか!?レストランの調理場って大抵そんなじゃないですか」


「ええ、見事に失敗しました。
お客様にお出しできないものになってしまったので、本人に『これどこが悪いんやと思う?』『なんでこうなったのか、考えてみ』そして指導していた2年目の子も呼んで、『これはなんでこうなったんやろ』。

2人とも大事な食材を残念なことをした、というのはよくわかったみたいでした。それはヒラメでしたけど。お造りには使えないので、焼き物にしました。

それで相当1年生の子も2年目の指導役の子も考えたみたいです。翌日にはお客様にお出しできるものをつくりました。」

 ひたすら舌を巻く正田。

「今の若い子は自分から取りに来ないじゃないですか。だからこちらからさせるんです。
 今月(3月)に入ってから、もうあと数週間で次の子が入ってくるので、1年生の子に『やってみようか』『いつやるの?』と言ってたんです」

 本当にダメだったら次以降つくらせないですよ、でもその子は次回ちゃんとつくれたので、と松岡さん。

「ほかのお店からみたら、『何やってるんだお前のとこは』となるでしょうね。でもいつかはやること、早いか遅いかですから」。


 そんなふうにして若い子たちにどんどん経験させるそうです。お造りをつくらせるぐらいなら、ほかに怖いものはそうそうないですね。早い段階での技能伝承、ものづくり企業でも話題になるところです。

老舗旅館の厨房、昔ながらのアゴで使う徒弟制度のイメージとはまったく違う世界があります。それはやっぱりこの世界では特異なことのようです。


 そして「グループ全体でも、僕の店は若い子が辞めてないです。ここ数年」(松岡さん)

 それは若い人の「成長したい」という欲求を満たしたら、今の若い人でも仕事のおもしろさに目覚めて辞めないということでしょうか。

 宿題でよい実践をされた人も、じっくりきいてみるともともとの育成センスの高い人だった、ということがあります。だから「承認研修」の手柄にだけできないのですが、ただ研修でしっかりした理論的根拠を与えてあげるとこの人たちもより力強く実践してくれる、さらにその先の四十八手を編み出してくれる、ということがあります。研修でできるのは結局それだけか、ということになりそうですが、わたしの駆け出しのころよりは明らかに高い確率で優れた実践者のかたに出会えていると思います。


 「ゆとり世代」、やはり能動的ではない面があります、松岡さんによると。

「お給料はもらえるものだ、お給料をもらってるから仕事する、と思っているところがあります、どうしても。僕は、『それは違うよ』と話します。『仕事がこれだけできるようになったから、これだけお給料を貰えるんだよ』と。それは昇給のときなどに言うとわかってくれますね」

 
 4月からはこの厨房に正社員1人、調理補助1人が入ってきます。


11松岡さん


「お店での僕の定位置はここ、おなじみ様の席はここです」(松岡さん)


 「失敗したりお叱りを受けたら責任は僕がとりますから」
という松岡さんの言葉が綺麗ごとにきこえないのは―本当はこれ以外に「叱った」エピソードもかなり伺ったんですが―現にお客様の前に立ち続けている人だからでしょう。
 

 3月11日の今日ですがわたしはこんな形でしか「いのち」を見つめることができません。そして現場にたつ受講生様方の優れた実践が、世界への信頼を取り戻させてくれます。


 松岡さん、「花小宿」のみなさんありがとうございました!



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 久しぶりに「ヘーゲル承認論」です。

 再度『承認と自由―ヘーゲル実践哲学の再構成』(高田純、未来社、1994年)より。

 ヘーゲル研究者の人は、「承認」に注目する人とそうでない人とはっきり分かれるんですね。20世紀初めの有名なヘーゲル研究者コジェーブという人は、文中で重要な語を太字にしてるんですが、「自己意識」という言葉は太字ですが「承認」は太字ではなかったりします。それはコジェーブ先生の趣味のようです。


 で1980年代から「承認」に注目した研究が出てきて、比較的新しい流れです。その中でやはり本書『承認と自由』が読みやすいです。


 若い頃のヘーゲルは「愛」をテーマとし、これがのちの「承認論」につながったようです。それもかなり若く、チュービンゲン神学校に在籍した頃(1788-93年、ヘーゲル18-23歳)。

「当時のヘーゲルは古代ギリシアのポリスを模範として、全体と個人、理性と感性とが調和した民族共同体の実現をめざした。」(前掲書p.31)

 それは当時のシラーら新人文主義の影響もあったようです。

「ヘーゲルは、諸個人を調和的に統合するうえでの愛の役割に注目する。…ヘーゲルは、愛のなかに、『他人における自己直観』という承認の原型構造を見出す」(同)

と、「承認の原型は愛だった」というお話です。これ、あんまり認めたくないですね。しかし現代の神経化学物質の知見から言っても多分ほんとうです。以前どなたかに「正田さんは『理性的な愛』というのをやっているんですね」と言われました。

 
 さらに、ベルン期(1793-96年、同23-26歳)には次の段階の思索。

「ヘーゲルは、いかに愛が少数者のあいだでの私的、閉鎖的なものにとどまることなく、多数者のあいだの公共的、開放的なものへ高まることができるかを問題とする。」

 その気持ちはよくわかりますね。
 やがて、ヘーゲルは「愛の限界」に気づきます。フランクフルト期(1797-1801年、同27-31歳)。

「愛はそれ自身では、社会的に開かれた共同体の原理となることはできないことに気づくようになる。…真の共同体が実現されるのは、多数の人々のあいだに平等、協力、連帯などが存在するときであるが、このような社会的、客観的条件は愛自身によって生み出されるのではない
(中略)
愛の承認は身近な人間の直接的コミュニケーションにもとづくものである。ヘーゲルは当初は、このような相互人格的承認にもとづいて社会的承認を理解しようとした。だがやがて、ヘーゲルは愛による相互人格的承認の限界に気づき、これから区別される社会的承認の独自のあり方への探究に向かっていく。」(
同p.42)


 なんで愛ではダメかというと、愛は自己献身、自己否定を求めるものなので、「闘争において示される自己主張、自己肯定が欠けている」からなのだそうです。

 愛だけだと「毅然」とできない、というお話でしょうか、またこのブログでよく出る「依存」を招いてしまうというお話でしょうか。

 1802年に書かれた『自然法』では、「共同体有機体論」というものが登場します。

「民族共同体は『人倫的有機体』であり、諸個人はその『器官』『分枝』であることが明確にされる。」(同p.47)

 ヘーゲルは全体主義者だと言われることもありますが、基本的に全体あっての個、という立場をとった人です。ヘーゲルの使う「自由」という言葉は本書によれば「自由自在」の「自在」にあたるといいます。普通に言われるところの「自由」が他人から制約を受けないという「消極的自由」だとしたら、ヘーゲルのいう「自由」は他人あっての自分であり他人の中に生きる自由なのだと。個人と他人は協働しあって生きるのが前提なのだと。

 なので、わたしたちがイメージするアメリカ的自由とヘーゲルのいう自由はかなり違います。

 以前大井玄氏の言う「アトム型自己観」と「つながりの自己観」を長々と考察しましたが、あれを一般には欧米と東洋の対比でとらえましたがヘーゲルも相当「つながりの自己観」の人でした。生物学者によると、こちらのほうが東洋西洋いずれでも正解なのだそうです。生物としての人間は他者のまなざしの中に自己を見出すものなのだそうです。


 ただ全体がすべてかというと、近代の共同体にとって個人の自覚や自立(「自己知」「対自存在」)が不可欠であり、個人のあいだの相互承認のいっぽうで個人の自覚によって支えられる、ということもヘーゲルは言っています。

 
 『イエナ精神哲学II』(1805-06年)では、愛の弁証法的構造が出てきて、愛が承認の関係であることが明言されます。

「人間は承認されることを必要とする。この必要性は人間自身の必要性である」

 
 さて、こんなにヘーゲル世界に入っていると、こうして「承認」を「所与」のものとして明言する彼の論法に巻き込まれてしまいそうです。イエナ大学時代、結局ヘーゲルは承認論のご同業フィヒテともシェリングとも同僚だったんです。どんな日々だったのでしょうね―、

 ただここで言っていることは現代のさまざまな知見から言っても決して間違ってません。非常な先見性だったといえます。


 このあとは「承認をめぐる闘争」や「法、国家による承認」にも触れたいと思います。


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 ひょうご発達障害者支援センター・クローバーの和田康宏センター長をお訪ねした。

 職場での未自覚の当時者に対する告知の問題、医療機関の問題などをお話いただいた。


 「事業所からのご質問が集中するのは、大体その問題です」

と和田センター長。

 最近では、「中小企業家同友会」に招かれて講演し、社長さん方からの質問の集中砲火に遭われたとか。


 そういう時代に入ったのだな。

 だから、正田が研修中に「発達障害」という言葉を使うのも、そろそろエクストリームではなくなりつつあるのだ。


 中小企業で4〜5人ぐらいの規模のところだと、この問題がどんなに切実か想像がつく。切迫感を持って質問してくる社長さんの気持ちもわかるし、質問されて往生する和田氏の立場もわかる。

 ただ、なんだか意味のわからなかった問題に名前がつく、というのはそれだけでストレスの軽減になるだろうという気がする。あと「承認」にとっては少し応用編の問題ではあるが、やはり「承認」の大原則のもとでこの問題をみたほうがいいだろうとも。


 告知というかクローバーさんに連れてこられただけでひどく不機嫌になる当事者の方のケースがあるのだそうで、やはり職場での告知というのは難しい問題のようだ。

 「仕事ができていない現状を正確に伝える段階が大事」

と、和田センター長は強調されていた。


 正田の実感値「職場のほぼ1割は発達障害かそれに近い、指示を出すのに特別な配慮が要る人なのではないか」には、そんなに間違ってないようです。


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 精神医学や心理学の分野の人でも、「発達障害」のことがわかるのはごく少数派です。ほとんどの人は知らない派です。

 しかし今精神医学や心理学の過去の疾患分類とか切り口がどんどん「発達障害」の登場によって塗り替わっているときで…、
 残念ながら専門家はそこについて来れてない人が大半なんです。

 そして例えば中小企業の社長さんとかのお悩みは深刻で、その専門家の方々の面子の問題にはひきかえにできないことなんです。

 クローバーさんでは来年度、診断できる県内の病院のリストアップをする、とのことでした。絶対数が少ないので診断を受けるのは平均3か月待ちだそうです。


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 12月に行った発達障害をもつ大人の会(DDAC)代表・広野ゆいさんのインタビュー第二弾の起こしをやっと終えてみていただけることになりました。


 3か月も経ってしまった。この間色々あったとはいえ…、広野さん、ごめんなさい。お心広く許してくださってありがとうございます。

 要約版はこちらです

 「パズルの解が出ると少し愉快 広野ゆいさんインタビュー第二弾をしました 予告編」

 http://c-c-a.blog.jp/archives/51904358.html

 
 この回のインタビューでは、発達障害当事者がからむケースで非常に「仕事として何が正しいのか」混乱してしまいそうなケースが出てきます。
 実際に混乱している職場も多々ありそうな気がします。
 
 だから、少なくとも管理職のところまでは、「発達障害」の概念を知ってもらわないといけないのだな。本人さんに告知するかどうかは別として。でないと筋読みを間違えてしまうと思います。



 今日はゆるく終わります。


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 以前に「傾聴研修」について「具体的にどんなやり方をしているかわからない」と書きましたが、「わかる」範囲でいうと、わたし自身が「承認マネジメント研修」の2回目に使う「傾聴」の教材があります。


 これもいい加減なものではなくて、ある大学の心理学の先生から了解をいただいて使用させていただいているものです。それもご夫妻でこのタイプの研修教材を多数作ってきている、アイデア夫妻。
 たぶん、その世界でもかなり精巧にPDCAを重ねてつくられているほうのものです。


 AさんBさんに分かれ、それぞれが8種類のカードを手に持つ。計16種類のカードを印刷する。
 そして「8通りの傾聴」をやってもらう。かなり反復練習の要素が入ったハードなもの。

 そのカードで指示しているのは、ネタバレ残念ですが、こういうものです。

 「悲しかったこと、情けなかったことを話してください」
 「腹が立ったことを話してください」
 「うれしかったことを話してください」
・・・

 「感情とそれにまつわるエピソード」を話してもらい、最終的に「傾聴における共感の大事さ」を体得する仕組みになっています。


 うーんと、それがいけないとはいいません。
 自分が実際に使っているものですから。

 でも、人間観からいうと「不完全」なものだといわざるをえません。「承認」の補助的なもの、「承認研修」で基本的人間観をつくったあとにそれを補うもの、という位置づけなら、やっぱりいいでしょう。わたし自身は、「傾聴」を教えることは教えるが(しかもかなり技能としては徹底して教えるが)、やはり「道具だ」と割り切っているところがあります。


 これ、おわかりになりますか?



****


 わたしは友達の少ない人間なんですが、数少ない交友範囲の中に世間でいう「大経営者、名経営者」という人がいました。

 これも自慢したいわけではありません。文脈上、わたしがつくってきた人間観、というものに触れざるを得ないからです。

 今年で87歳になるその人は、「江田島の海軍兵学校」を経験した(ご本人が3年生のときに終戦)数少ない生き残りの人です。

 自伝なども出ていますが、そこで行っていた強烈な訓練の日々は、もちろん体力のない現代っ子のわたしなどには到底体験しえないもの。
 そしてもちろん現代に持ってきようのない教育ではありますが、「あの日々が自分をつくった」とその人は言われます。
 その人は終戦後には職を転々とする鬱屈した日々があり、きっかけがあって起業し、それからもとんでもない七転び八起きを繰り返し…。
 つい先年は、米ハゲタカファンドが自社の株主総会に送り込んだ人を怒鳴りつけて撃退する、という快挙をしました。


 現実に目の前にいるのはひょうひょうとした「素朴」な老人であります。普通の人と変わらない体のサイズの。

−「素朴」な顔つき、ということは伊丹敬之氏の経営者論の中に出てきますが、旺盛な外界への好奇心とナルシシズム抑制の態度として大事なことであろうと思います―

 そうした人との対話を繰り返す中、同じような体のサイズの中に詰まっている圧倒的な知性のキャパの存在に触れることが幸運にもできていました。「経験の質」の明らかに違う人がいるのです。おとしよりだからとか功成り名遂げた人だからそうなのではない、同じ80歳超の年齢の人でも「経験の質」の高い、巨大な知性の持ち主でいくら話しても飽きない人とそうでない人がいます。


 また、こうした人たちは「承認」が「大事なものだ」と「先験的に」知っている人たちでもありました。だからずっとお付き合いできたんです。ただそうした人たちでさえも、「承認か、傾聴か」というレベルの話になると「わしゃ、そんなことまで知らん」と「お手上げ」状態になるんですけどね。


 わたしにとっては一方でこうした人たちとの交友があったから、一方で明らかに心を病んだ人を援助する目的の「臨床心理講座」に通って傾聴を学ぶ、ということをしていても人間観の軸がブレなかったと思います。

 自分より圧倒的にサイズの大きい知性がある。その人の経験してきたことと到底同じ経験はできないけれど、畏敬の念をもって追体験し、学ぶ。

 これはだから普通の「傾聴研修」の枠の中ではおそらく学べないことです。
 そしてその人の経験知の大きさをはかり知る作業というのは、年齢が基準なのではなく、丁寧に分析すると「行動承認」に近いことをやってきたと思います。

 臨床心理講座でも「畏敬と尊重」を繰り返し言う武田建氏のもとで学びましたが、それはわたしにとっては、
自分をはるかに上回る知力体力をもつ人に対しても(想像力を働かせて)受け止め、またこころを病んだ人悩みを抱えた人も受け止め、と非常に広いレンジにこころを動かす作業を意味しました。
 

 そうしたわたしにとっての「暗黙の前提」が、しかし現代の「傾聴研修」ではほとんど共有されていない可能性があります。その人の奥行きを感じることなく、とても貧弱な人間観にたって傾聴をしている。

 ともすればその場の「悲しかった」「うれしかった」的なこと「だけ」が大事なことであるかのように。

 それらが大事ではないとはいいませんが、このところ会話の中で
「正田さんは12年1位を作ってきましたね」
という「行動承認(事実承認)」の部分がまったく不在のまま会話をすすめる人々をみたとき、

「なんだこれ!?」

と首をかしげたくなるのです。

 その場の感情についていう、

「それはお気の毒でしたね」
「それは残念でしたね」

とかの応答だけが大事なんでしょうか。

 もしそれだけが大事なことだと思っていたら、『行動承認』最終章にある親の看取りはできなかったでしょう。

「今痛い?」「つらい?」「苦しい?」
だけしか言えなかったでしょう。

「あなたはこんな風に人生を生きたね」
という形の看取りはできなかったでしょう。


 感情は確かに大事ではあるんですが、
 「感情が何よりも大事だ」と位置づけると、前にも書いたけれど行動しない「不作為」が増えてしまいます。

 詳しくいうと、人の感情の中でもっとも強力で影響力が大きいのは「不安感」「恐怖」なのです。生存のための根源的な感情ですから。良い感情はそれほど力をもつわけではないのです。

 もともと日本人は不安や恐怖の感情が強いけれど、何か新しいことをする前に必ず不安や恐怖の感情が頭をもたげる。そのとき、
「これは単なる気の迷いなんだ、あのとき決めて約束したんだから、やるんだ」
と思うか、それとも
「こわくなった。やりたくなくなった。感情は何よりも大事なものだと教わったから、この『やりたくない』という感情を大事にしよう」
と思うか。


 もし後者のほうを優先したら、仕事の世界の約束とか義務、責任の世界はガタガタになってしまいます。で正田の経験上も「感情が何より大事」と意識づけられた人はドタキャンが多かったのです。「理性」は感情に優先して大事なことなのです。


 財団になって「承認マネジメント協会」という名称になったのは、「マネジメント」という少し「統制」の匂いのする言葉を使わないと今の時代職場運営はできないな、という予感が働いたということがあります。


 だから、カウンセラーさんはメンタルヘルス時代なので自分の出番だと思って「感情が大事だ、共感が大事だ」と言うかもしれないが、わたし的にはNOです。
 そして、「行動と成長」という軸を大事にしたほうがいい。その中に人の幸福感もちゃんと入っています。

 2007年ごろのメンタルヘルス白書には、職場のメンヘル問題の解決策としてちゃんと「承認」が入っていて、あれは正しかったと思うんですけどね。今の人はあれを見てないんですね。


 また、武田建氏も1970年前後の論考で、自分自身カウンセラーであるにもかかわらず「青少年のキャンプリーダーには『傾聴』『共感』を教えないほうがいい」ということを言っていまして、あれも「先験的に正しい」のだと思います。
 これまでの経験で、「傾聴」を学んだ人が紛争解決の見立てを間違えやすいことを考えると、彼ら彼女らは共感しやすいほうに共感して、例えば自分と同じ属性であったり、多弁で自己主張の強いほうに共感してしまうので、ものを考える軸を誤ってしまうのだろうと思います。目先の感情に流される。そういう間違いをしてはいけない、という歯止めが「傾聴研修」にはないんではないでしょうか。


 「まさか」と思うことでも、教育を施すときに「暗黙の前提を共有していない」ことが今の時代、大いに起き得るのです。




100年後に誇れる教育事業をしよう。
一般財団法人承認マネジメント協会
http://abma.or.jp

『藻谷浩介対談集 しなやかな日本列島のつくりかた』(新潮社、2014年)を読みました。

「現智の人」7人との対話。それぞれ話題と人を挙げておくと、

「商店街」新兼史(社会学者)
「限界集落」山下祐介(社会学者)
「観光地」山田桂一郎(地域経営プランナー)
「農業」神門善久(農業経済学者)
「医療」村上智彦(医師)
「鉄道」宇都宮浄人(経済学者)
「ユーカリが丘」嶋田哲夫(不動産会社社長)

 「まちづくり」「地域」を考えるうえでカバーしておきたい視点。

それぞれの論者の一人語りだけでなく藻谷氏のエネルギッシュな「かえし」があることで話が立体的に飛び込んできます。

 だけでなく、
 「この国の同時代とは、何か」
 これは「戦争」に向かって突き進んでいるかにみえる政治面、あるいは個別の社会面の事件に目を奪われ見えにくくなりそうですけれども、平成26年2014年という時代に日本はどうだったか、を後から読み取る場合には押さえておきたい1冊になるでしょう。

 本書に繰り返し出るように、島国日本は、本来は生き残りやすい有利な条件にある(たぶん軍事上も)。ただしそれを上手くハンドリングできてない、局所には悲惨な状況を作ってしまっている現状には、メディアを含む意志決定層の妄想と不作為や誤った仮説による施策(正田がいう「知的怠惰」とか「ものに驚かない感性」と似たもの)が関わっていることが、個々の対話から浮かび上がります。「脳化」(バーチャル化?)という言葉が繰り返し出てきます。

 年齢的には、年齢を気にするとお叱りを受けそうだけれど新氏が41歳、山下氏46歳、山田氏50歳、神門氏53歳、村上氏54歳、宇都宮氏55歳、嶋田氏80歳。とよくみると年齢の若い順に並んでいた。同世代の「闘士」の方がいらして結構うれしかった。たぶん、「某高齢者世代」以降にできた社会秩序システムに対して、「これの延長線上ではだめだ」「自分の世代で立て直さないとだめだ」と感じる人たちが、バブル世代前後にいらっしゃるのだ。そして場数を踏んで発言するようになっているのだ。と、自分に都合のよいように解釈します。

 わたしは信頼した人を割合長く信頼するところがある、のは自分でも認めます。
 藻谷氏に関しては、最初に触れた著作『デフレの正体』(2010年)では、基となったデータをすべて辿れるわけではない(もちろん手間を惜しまなければ辿れる)ものの「この論証プロセスは正しい」と直感して、開催予定だった「人口減少社会」のよのなかカフェの課題図書にしましょう、共通の土台にしましょう、と呼びかけたのが始まり。
 その次のベストセラー『里山資本主義』ではこれも知らなかった話が多くて自分では検証不可能だったけれど、地域社会の思想「手間返し」「感謝」という概念が出てきたときに、それは「承認教」なかでも「行動承認」と同じことをほかの言葉で言い換えているように思え、「この著者わかってるな」と思わされたのでした。つまり、共同体が上手くいく基本原理を上手く言い当てている、それほどこの分野に関して沢山のPDCAをしてきたとも思えないのに、と。ウチダ語でいえば「先験的に知っている・わかっている」というか。
 逆にこうした経済学、社会学の人たちが「マネジメント」や「コミュニケーション」「人材育成」の分野に踏み込んで発言したとき、どんなに不用意な間違いをしやすいことか、を考えると。
 
 でどういう知的作業をふだんしている人なのか、というと本書の序文によると
「テレビをまったく見ない、ネットも確認せず、本もほとんど読まない」(うわ〜、そこまで言えないなあわたしには)、
そして情報入手手段として
「対話」

「『現場』の『現実』を目の当たりにしての『自問自答』」
の2つを挙げます。
 後者に関しては、
「全国や世界各地に無数の定点観測点を設置し、そこで出会うあらゆる事象を前に、『うわぁ、こんなことになっているのか』『なぜここがこうで、あそこはこうではないのか』と自問自答を繰り返す」。

 本書でも藻谷氏はその独特の地誌学的見聞を大いに発揮します。地理が苦手科目だったわたしなどには驚くべき知性であります。
 自分には「ない」種類の知性なので想像するほかないのですが、多分極めて優れた映像記憶をもち、行く先々で目に飛びこんでくる膨大な情報群をフィルターをかけずにそのまま蓄積し格納し、土地間の比較や同じ土地の経時的な比較が即座にできるようになっているのだろう。比較のうえ「違い」「変化」に敏感に目をとめ、その都度それが思考材料になる、ということなのだろう。
 そうした「生の情報」に触れ続けることは、これもわたしにはない「体力」という要素も入る。身体の体力と知的体力と。
 知的体力のほうは、「新規の情報をとりこむ」と「脳内の情報を書き換える」ことの手間を惜しまない、ということなのかなぁ。。よくわからない。。
 
「とはいえ自問自答だけでは、学びのスタートは切れても、ゴールにはたどり着けません。そのままでは仮説の山を抱えて立ち往生するだけです。仮説を現実に通じる“智識”にまで昇華させていくのに不可欠なプロセスは別に存在します。それが、現地の人ならぬ“現智の人”との対話です。
 “現智の人”とは、特定の分野の「現場」に身を置いて行動し、掘り下げと俯瞰を繰り返した結果、確固たる『知恵』を確立している人のことです」

 つまり、「生情報」に触れ分析を繰り返すことにも限界があり、さらに「“現智の人”と対話する」と言っているのでした。

 そうした藻谷氏の知的作業プロセスを本書は開示するかのような本になっています。

 一読して思うのは、「よく驚くなあ、この人」ということであります。あっちこっちで「えっ」と言ったり「ああそうか!」「目から鱗でした」とか言っている。
  雑誌連載と単行本化の二度にわたる校正を経て、こうしたやりとりを残してあるのは、あえて意図して提示しているようにみえます。対話集としては、もっと「驚かない」で、予定調和の会話で進むことはできるのだろう。過去に読んだ識者の対話集の類では、ホストはこんなに驚いてない。相手が何を言っても「わかったふり」をしてそれなりに自分の言葉で言い換えて。「驚かない」ほうが「賢そう」で「かっこいい」と思いますね。
 「驚く」だけではなく、「悔悟する」「不明を恥じる」「自分は間違っていたんだろうか、と自問自答する」ということも会話の流れの中でやっている。

 それは対話相手の見聞が自分の予測をはるかに超えたものであるとき、恐らく正しい反応でありましょう。会話の中で自己否定を迫られかねない、大幅な書き換えを迫られかねない、それでも情報に肉薄する。それをやり続けられるのは「知的体力」の問題であったり、相手へのリスペクトの問題であったり、あるいは自分のナルシシズムの克服という問題でもあるかもしれません。そしてそれをしなければ「現智の人」から学ぶことはできないのです。
 とりわけメディアがあらかじめある「絵」に固執してほかのものを報じない現実―本書でも「夕張は実は大都市からアクセスのいい土地なのに、僻地だ、不便だ、住んでいるのはかわいそうな人たちだというイメージに描かれ続ける」という話が出てきます―であると、メディアによってつくられた先入観をリアルな対話の中でこまめに覆す作業が必要になるでしょう。
 自己否定をも辞さず驚き続ける知性はこの不定形な時代にも情報をとりこんで拡大していくことでしょう。ただ、現実にあっちこっち動き回れない身としては結局「信頼できる人」を見極めて情報を入手するしかないのか、ということになるのですけど。



 もうひとつ本書では藻谷氏は自分のルーツ的なものを少しずつ挿入しています。
 母方の祖先が今は廃村となった石川県の「新保」という集落の庄屋であったこと。ディズニーランドの開業直前から10年ほど浦安市民であったこと。…
 それは過去にも「対話集」の中で部分的に試みられたことがあるが、今度のほうがより確信犯的におこなっているようです。優れた観察力の持ち主にして、実は論を立てる前提にみている景色があること、いわば主観の出発点があること。有限の自己、有限の客観性を先に認めることによって手のうちをオープンにし論の普遍性を問うこと、それもまた知的作業として重要なことであろうと思います。主観をいちどくぐり抜けた客観、といいますか。
 
 ―わたしの立ち回り先の「困った人たち」も、何が一番困るかというとその人たちがみてきた、よって立つ風景を開示しないことなのだ。先入観が何から出来上がっているか。それはよくみれば「TVで見たから」みたいな貧困なものかもしれないのだ―

 というわけで本書は現代を停滞させる「知的怠惰」への藻谷氏流のアンチテーゼを提示しているようにわたしには読めてしまったのでした。

 個々の対話の中に付箋をつけた、心に残るフレーズが多数ありましたが全部ご紹介すると長くなりすぎるので諦めます。
 個人的には農業の神門氏、医療の村上氏の章が「行間から血を流している」ようでずしっと重たく、村上氏の章の序文(藻谷氏による)の一文「とりわけ医療と義務教育と地域づくりの現場は、無名の超人たちの墓碑銘で埋め尽くされているように思う」。これは無意識に死に所を探している感のあるわたしにとっても(超人ではないですが)身に迫るものでした。
 「鉄道」の章は「愛」が溢れています。ここは著者が(たぶん本来は強調したかった箇所にもかかわらず)「客観」に徹することを放棄してしまった章なのでしょう。
最終章、千葉県佐倉市のユーカリが丘を作った嶋田哲夫氏の話は「やりようによっては、できるのだ」と希望が持てます。
 わたしにとっては個々の分野へ俯瞰図をもらったような読み応えのある有難い本でした。ご興味のある方はぜひ本書をお買い求めください。



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 関東の某大学医学部付属病院のお話。

 このブログではめったに時事問題を直接とりあげないんですが、ある意味「典型的」だと思うので…。

 「承認教の正田」は、この事件はこうみる、というお話です。


 問題の男性医師自身が悪いことは、論をまたないです。たぶんこのブログによく登場するある種の知性の偏り、
「セルフモニタリング能力低」
「ミスの認識力低」
「内省力低」
という問題です。


 いっぽう、それを「10人死亡」になるまで放置してきた組織の問題については。

 いくつかの要因があるでしょう。わたし的には、


1.「ものに驚かない精神」
2.性差別/性バイアス
3.相互批判をしない気風


です。

1.ものに驚かない精神 については、1つ前の記事をはじめこのブログで何度も触れました。「12年1位」の正田も今もずうっと「これ」の被害に遭い続けています。

 「えっ」「おやっ」「むっ」という感覚。情報に接して自分の細胞が入れ替わるような感覚。膝から下がぴくっ、と動くような感覚。
 …が、ない奇妙なフラットな感情状態。

 ストレングスファインダーでいうと「×××」が関わっていそうだ、という話も以前に書きました。

 たぶん、「10人死亡」になる前の段階で、報告相談めいたものはちょこちょこあっただろう、常識的に。
 しかし「黙殺」されてきただろう。


 「1人死亡」の段階も、それでも由々しきことですが、「6人、7人、8人、9人死亡」ということになるともう、話が大きすぎちゃう。「なんで、2人3人の段階で予防しなかったんだ」という話になり、不作為を責められるのが怖さに再度不作為をする。この段階になると「隠ぺい」と言ってもいいと思います。

 それはまだむしろ「理性的」(でもほめられないけれど)な反応だが、それ以前に、

「8人?イヤだ、そんなのすごすぎて信じられない、きかなかったことにしたい」

そういう「感情的」というか「感情不全」の反応があるようだ。と「12年1位」をいくら言っても信じてもらえない正田はおもいます。

 要は、サイズの小さい知性の人同士自分たちの想定内の情報をチャラチャラやりとりしているのが心落ち着くのに、感情のメーターが振り切れるようなサイズの情報が来てしまうと、「思考停止」になり、「ききたくなかった」「言ってきたこいつが悪い」となる。「なかった」ことにしちゃう。

 「妄想的」で「知的怠惰」の人たちが、大きなサイズの情報に対しては「感情的拒否」を起こす。あ、多いんですよ社会的地位の高い人で、現場から遠いとか遠くなった人の中に。

 「ものに驚かない精神」が起こす殺人。

 「10人」の後半ある時期からは、それの繰り返しだったのではないかと思う。




2.上記に関連して、たぶん、「性差別」「性バイアス」的なものが関わっているだろうなと、この問題解決能力の低さの裏側に。


 なんでそうつながっちゃうの?と思われると思いますが、

 恐らく、報告相談めいたものがあったとき、それはくるとしたら「ナース」からだろうと思います。患者家族は、その医師がそんなことを繰り返しているとは気がつきにくい、ナースだったら気がつく。


 どこに相談するだろうか、診療科長とか学部長病院長かそれに準じる人たちでしょうかね。看護師長にまず言って、師長からその先はそういう人たち。


 そのとき、「ナース」に対する医師からの差別意識とか、もっというと性差別意識が出るだろうと思います。

 人は、自分が見下している人の言うことはリアリティをもって聴けない。

 今どきのナース、きれいにお化粧して髪も薄い色に染めて、という人が多いですけれども、それを悪いとはいいません。外見がどんなでもナースの多くは責任感当事者意識の高い人たちだと思います。問題は、やはり社会的地位のある男性たちが、彼女たちのお化粧した顔、リップを塗った唇、甲高い声によって伝達される情報をリスペクトしないという問題であります。

 とりわけ、話の内容が男性の医師を告発する内容であると、「けしからん!(ナースが)」という意識が先に立ちやすいでしょう。いえあたしは全然「共感」しませんよそういうの、バカだ、と思ってますよ。


 ほんと、冗談じゃなくそういうのが現実に日常的にあります。問題解決能力の低さの裏側に。中1の子の殺人事件も、母子家庭で保護者がお母さん1人だったのが問題解決にマイナスに働いたかもしれない、と思ったりしますもの。ドスの効いた腹式の声で「そのにやにや笑いをやめなさい!」なんて怒鳴れるお母さんはそう多くないですよ。そうして子供さんの命を見殺しにしちゃったかもしれないです。


 女の人の言葉をリアリティをもって聴けない。昨今、どうもそういう風潮が以前より強まっているような気がします。まかり間違えば人を殺しちゃう感性です。

(逆にだから、「承認研修」を女性講師の正田から受けるのは、マイナス点ではなく恩恵なんです。「女性が有益な情報をもってくる」と認識することができ、あらためて「女性」についての研修をする手間が省けますから)

(拙著『行動承認』では、わざと「だ、である」調の文章を一か所入れて、「物事を認識し判断する力に男性も女性もない」と最終章で種明かししたりしました。でもそんなことをわざわざやらないといけないぐらい、「女性は判断力が低い」という迷信がまかり通っています)


 1.2.の問題は「傾聴教」の人は「傾聴の問題だ」と言われるかもしれませんがあたしは「承認の問題」ととらえます。「承認教」では、聴き手も運動体ですから、聴いても何もしないカウンセラーさんじゃないですから。また「承認教」では、相手をリスペクトしますしまっとうな社会人で判断能力もある相手のもってくる情報もリスペクトしますから。それは自然とそうなるものなんです。


 
3.あと相互批判不在の問題。

 
 お医者さん業界は相互批判しない、のは以前は有名な話で、医療過誤訴訟の弁護士さんは原告側に立って証言してくれるお医者さんを探すのに苦労してました。1990年ごろ。今は、状況は変わってますかどうか、業界の風雲児的に発言するお医者さんはちらほらいますが。

 たぶん今回も、院内でも話が表に出にくかったと思いますが、表に出ていたとしてもちゃんと批判する同僚はいなかったんじゃないでしょうか。


 あたしは、批判しないのは無責任だとおもってます。人の命とひきかえにできることじゃない。
 このブログの読者のかたは、このロジック理解していただけますでしょうか。
 目の前の同僚を批判することがけしからんか、患者さんの命をそまつにすることがけしからんか。




****



 さて、また蛇足で自分の仕事に引きつけて書きますが、

 これも、あたしが「承認大事だ」というとかならず「ほかのことも大事じゃないか」という反論が出るわけですが、


 「ほかのこと」をやって無効だったときに「承認」を入れたら「がん」と業績が伸びたんです。
 そういうのを、今年が2015年だからもう10年以上やり続け、結果の比較も出続けてるわけです。

 詳しくいうと、例えば他研修機関で研修を受けて「傾聴」「質問」を一生懸命1年ぐらいやり続けてそれでも業績が低迷していた人に、しばらく見て「足りないのは『承認』だな」と思って「『承認』だいじですよ、部下が求めているのはそれですよ」と言ってあげてツールも提供してあげて、そしたら右肩上がりで業績が上がった。半年ほどで1人当たり生産性で90位から50位代へ、そして目標達成率は1位へ。

 その「右肩上がり」以前に「傾聴と質問」をどれくらい一生懸命やっていたかというと、プロコーチの真似して部下1人1人に週1回パーソナルコーチングみたいなことを電話でしていた。かなり徹底してます。でも本人さん「他者否定」が強かった人なので、そういう性格のまま「傾聴と質問」をいくらやっても部下は苦痛なだけなんです。だから業績が上がらなかったんです。

ー 経営者管理者は、そういう過去の方式では結果が出ないとわかったら割合方式の転換を納得してやっていただきやすいです。問題は中間に入るひとたちが面子にこだわることですー

 だから、「傾聴とか質問」「だけ」で何かができる、と思うのは幻想なんです。
 「承認」は「がん」と業績が上がりますが「ほかのもの」は「ほとんどゼロ」に等しい成果なんです。多少はあってもプラセボ程度です。

 経済活性化をしようと本気で思ったら、どっちがいいんですか。

 そのたぐいのことは枚挙にいとまがなくて。2003年ぐらいからそんなことやってます。


 そういう、あたしは「ほかのことも大事じゃないか」という人に対しては「当方はエビデンス出てますから」と、いとも冷たい言い方をします。本来はお客様が幸せになることが、エビデンスうんぬん以前に大好きな人間なんですけどね。


 「ほかのこと」を一生懸命やってるのは、あたしからみると「周回遅れ」なんです。PDCAを回し始めてもいない、幻想妄想のたぐいなんです。「未知のものに期待する」って、ドーパミンが出て「楽しい」ことらしいですけどね。子供の遊びをしてるわけではないので。


 傾聴セミナーの中で絶頂感恍惚感を得て、「あの喜びを否定しないで!」と言ってるようなものです。あたし心理学より倫理のほうの先生だから、絶頂感与えるのは上手じゃないんです、丁寧にしみじみ言って論理的に順序立てて納得させるほうの講師なもので、ごめんなさいねテクニック不足で。


 
 



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 このところまた「傾聴教」の人たちと接して違和感を感じたことを備忘録として書いておくと、

 この人たちは「ものに驚く」ということがない。

 人の話を聴いて、「ええっ」と飛び上がったり、「大変だ」と感じたり、「大変勉強になります」ということがない。


 ほんとうは、わたしたちは人の話を聴くなかで、自分の細胞が全部入れ替わるぐらいすごい体験をすることがあり得るのだ。


 以前にも書いた、「特ダネをとるコツは?」のひとつの答えが「ものに驚くこと」だということ。従来自分の知っていた知識経験の中に収まりきらない、従来の序列をくつがえしてしまうものに出会うことがある。そのとき、驚きを驚きとしてきちっと知覚できるか。ひょっとしたら不快体験かもしれないその感情をちゃんと受け入れ、そして次の段階の思考をできるか。

 まあ、これがちゃんとできる人は記者さんでもほとんどいないんですけどね。みなさん自分の「想定内」のことしか聴こうとしません。


 でも、「傾聴教」が具体的にどんな研修の仕方をしているのか知らないのだが、みていると彼ら彼女らは、驚いたほうがいいところで驚かない。
 「それはすごいことですね」
と言うべきところでそう言わない。


 以前にもどこぞで「傾聴研修」を受けてきたらしい高校の養護教諭の先生を怒鳴りつけたことがあった、

「そのにやにや笑いをやめなさい!どこの『傾聴研修』でそれを習ってきたんですか!真剣な話のときは真剣な表情をしなさい!」

と怒鳴りつけたのだが


―その後結局この養護教諭の先生の見立てや筋読みは完全に誤りであったことがわかり、いじめ被害者の側であったわたしの子供は養護の先生の勧める自主退学を免れ卒業までこぎつけた。ほとんどの先生からみて「いい子」であり「守ってやるべき側」であった―

―「見立てる力」というものについては、すごく難しいが別の記事で触れたいと思う。全部で何が働いているのかわからない。わたし個人にとっては、記者経験、翻訳者経験や母親経験、あるいは幼少期からの読書経験いろんなものが役立っているが結果としては「12年1位」と、「業績向上の山」を築いている。このことはきちんと踏まえたうえで議論していただきたいものだと思う―


 いろんな体験を経て、「傾聴教」は、「他者への見下し」を教えているのではないか?と思う。

 カウンセラーさんから教わるばあい、実は先の養護教諭の先生のように援助職の人にも結構「邪悪」な心根の人がいるのだが、クライエントつまり話者を最初から見下しているばあいがある。

 とりわけカウンセラーでない一般社会人に「傾聴」をわざわざ教えにくる先生というのは、「傾聴」をできない一般人への見下しから入っているのではないだろうか。


 そしてとりわけ「クレーム対応のための傾聴テクニック」を教えたり学んだりするときそうなりやすい。表面的にほほえみ、表面的に共感しながら傾聴をすると、クレーマーは機嫌を直してこちらの言うことを聴いてくれる、みたいな。

 それは「人が人を『操作』することへの歪んだ期待」ともいえる。

 多いんだなあ、心理学を「いいものだ」という人の中に、その「操作したいという歪んだ期待」の人が。



 上記の高校の養護教諭の先生のように、そもそも「傾聴」をする側のスタンスが間違っている場合には、それはとんでもない「不敬」である。
 クレーマーがクレーマーでなく正義の側だったらどうするんだ、ということはそこではいつまでたっても考慮しない。(なのでわたしは緊急避難的に怒鳴りつけた)


―カウンセラーさんの仕事では、基本的に「内省を迫られる場面」というのはないのだ。
 ついでにいうと研修講師も内省のない人が多く、かれらの人格をかっこいいと思って真似すると内省のできない人ができてしまう―


 そして、「12年1位」のわたしは言ってしまうが、仕事というものは実績や事実に基づいて思考し、お客様のためを考え抜くのが仕事である。この基本から外れたら間違う。カウンセリングは、心を病んだときの緊急避難である。


 以前に「脳画像診断医との対話」の中での質疑、

「右脳だけを鍛えたらどうなりますか」
「簡単です。妄想的な人になります。何もやらない人になります」

というやりとりも、想起されたい。


 「行動に価値を置く」は、価値があるのである。



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「上司が部下に指導するとききつい言い方をしてしまう、また部下がそれに従わずほかのやり方をして失敗したとき『あの時私の言うことをきかなかったからだ』と責め、ますます部下にイヤがられてしまう、どうしたら?」

というご相談がありました。

 わたしからは、

「今どきの傾向を考えると、上司側部下側両方の問題をみた方がいいと思います」

というご回答をしました。

 上司も、当然言い方がきつくなりやすい人はいる。同じことでも言い方を意識して和らげることで部下にきいてもらえるケースはある。
 具体的にはストレングスファインダー○○○○とか▽▽とか×××とかを持っている方だと…、、、
 そのへんはコミュニケーションの世界の「定石」のアプローチといえます。

 ただ、一般には上記の回答だけで終わるんですけど、
 数日前のこのブログでも尾木直樹さんのコメントを取り上げたように、「今どき部下」が上司や先輩の言うことをきかないで失敗してしまうケースも大いにあり得るのです。

 下手にネットやスマホでほかから情報を仕入れるので、目の前の上司が同じ社内や同じ顧客について蓄積した経験に基づいて言うことがきけない。

 著書にも書いた、

「目の前の肉体を持った人をリスペクトしない」

という状態です。
とても非効率です。

 まあ理想は部下にも「承認」を学習させて「承認の精神」を浸透させて、がいいと思いますがそれはちょっと理想論ぽいかな。できればいいですけれど。

(無理ではないんですよ。知り合いの数名規模の会社の経営者さんで、「わが社は全社で『行動承認』の考えでいっています」という方もいらっしゃいます。それはうまくやれば、上司部下の心がベストの状態でかみ合う方法だからと思います)

 とりあえずはそこでは、

「上司や先輩が経験に基づいて言ってくれたことは聴くんやで」

と部下に意識づけする、というのが解になるかと思います。


 そんなときある優秀な女性経営者さんとお食事し、この件を伺ってみました。

 この方の会社も大筋「承認」で統一されうまくいっていらっしゃるのですが、

 リーダー格の女性2人、AさんBさんが人格能力非常にしっかりされていて、かつ部下の不足については過不足なく適時に指摘する、ということができている人なので、

経営者さんは他の部下に対しては

「(中間管理職の)AさんBさんが注意してくれたりアドバイスしてくれることは、仲間に対して言うのは勇気も責任も要ることなんだから、大事に聴きなさいよ」

と、言われるそうです。

(ちなみにこの方は、とても人格の練れた方で、上記のようなことも押しつけがましくないやんわりとした言い方ができる方です)

 そして注意して憎まれ役になるAさんBさんに対しては、

「私は応援してるからね、追い風になるからね」

と伝えているそうです。

「大事なことですね」

わたしはタイムリーに、教科書に載ってない重要な現場の知恵を教えてもらったことに感謝しました。

「わたしも『承認』を教えている身ですが、その部分がなかったらゆるゆるの組織になってしまうと思います。中間管理職が勇気をもって注意すること、また上位者の方がそれを後押しすること、ほんとうに大事ですね、規律規範を維持するために」


このブログでも以前、ご家庭のお父さんお母さんお子さんの間のダイナミズムについて、「お母さんが叱り役の時お父さんが子供さんの肩を持ってしまう現象がある。ケースバイケースだが『お母さんの言うことをききなさい!」と子供に言ったほうがいいことが多いのではないか」てなことを、書いたことがあります。

子供に逃げ場を与えてやらなければ、という考え方もありますが、スマホ時代はむしろ子供の逃げ場がありすぎるんですね。叱り役の人の権威は、損なわない方がいい。


 読者の皆様、いかがでしょうか。皆様の職場に当てはまるところはありますか。

 なお上記のような、「中間管理職が注意する、上位者がそれを後押しする」というモデルは、やはりAさんBさんが上記のように人格能力的にも高く、注意することも的確に行い、パワハラ的な無駄な理不尽な言い方をしない、という前提のもとで是となります。


 AさんBさんがパワハラ的だったらどうするか?やっぱりそこを直すのが優先になりますかね…。



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 1月、2月と2回、「承認研修」を受けられた社会福祉法人夕凪会の女性サブリーダーさんから、研修後アンケートをいただきました。

 1人遅れてご提出。丁寧な字(原文は手書き)でびっしり綴ってくださいました。

 「看取りをされている」とのことで、その立場から『行動承認』最終章(正田の母への看取りシーン)へのご感想も。

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●受講後の感想

承認という方法を初めてきいたが、これなら出来そうと思えました。
承認の種類の一覧を意識してコミュニケーションをとっていけたらと思う。これまではどうしても悪い所気になる所にばかり目がつき、指摘することが多かったので少し意識を変えていきたい。まだあまり承認ができていないが、このツールを使いこなし自然とコミュニケーションがとれるようになったら、自分自身の成長にもつながる。
誰もが認められたい気持ちを持っているので、承認を行い部下のみんなが気持ちよく仕事ができる環境を作っていきたい。認められるのはうれしいことなので。
今、職場は安定というより停滞していると思う。職員のレベルアップ、施設の質を上げ、いつまでも選ばれる施設を保っていかなければならないと感じている。
もともと話すのが苦手なので、どこまでできるかわかりませんが―。


●『行動承認』最終章への感想

どんな状況でも認められるというのはうれしいし安心できるものですね。
看とりを行っています。ご家族から感謝されていますが本当にこれでいいのか・・・と思うこともあります。
最後の看とられる時に、他者からの承認はどんなにうれしいことかと思います。
どんな状況であれ伝わっていることを信じて、これから看とりを行っていけたらと思う。
最期に自分の人生を誇りに思ってもらいたい。


●正田先生へ一言
先生の笑顔や声かけで気持ちよく研修が受けれました。こういう気持ちを部下に感じてもらえるようにしたらいいのですね。
本を読んでもう少し勉強します。ありがとうございました。


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 ほかのかたもそうでしたがとてもしみじみ、嬉しいご感想でした。

 30代後半、「とてもまじめで、利用者さんに関してはびっくりするほど情報を持っており見立ての力もある」と評価される方。
 1月の宿題の時点でも、同じように真摯で有能な職員さんに、緻密な観察に基づいた「行動承認」をされ、相手の喜びとやる気を引き出されていました。

 この宿題については、

「部下は自分の仕事の専門性をわかってくれる上司に認められることが一番のモチベーションだ、という調査結果があります。有能な中堅の方であってもノドから手がでるほど『承認』がほしかったでしょう」

と、絶賛させていただきました。


 真摯な人にとっての使いがってのいい武器を提供したい、もとより正田の願いとするところであります。



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 徹底して「達成」「成果」にこだわる、という研修会社の方々にお会いしました。急速に伸びている企業さんです。

 「当社も管理職研修のメニューを持っていましたが、先生の『行動承認』を読んで『これでいこう!』と思いました」
と言ってくださる、会社で一番に本を入手し読まれたという営業部長さん。


「もともと当社内で『承認』という言葉は頻繁に使っています。精神としては共有しているが具体的にどうやっていいかわからなかった。ところが『行動承認』1本に絞ると、『これならできるなあ』と。

しかも『ほめる』とは違う、ということも本の中に書いておられ、『ほめられる』のはわれわれもこそばゆいものですが、『行動承認』という形で相手を是認していることを伝えられる、と」

 このようなことを言ってくださいました。

 ありがとうございます。
 沢山の「承認」の本も読まれた、という人生経験、ビジネス経験豊かな営業部長さんです。

 そうなんです、受講生さんに確実に「できる」感覚をつかんでもらうために、試行錯誤のすえにたどり着いた方法です。
 「できる」と、もうあとの人生が全然違ってしまわれるんです。
 そしてわたしも、専門家風をふかしてみなさんに永遠にできないようなことをリクエストして「できない」のをみて鼻で笑うというのはきらいな人間なので、みなさんに「できる」人になってもらって同じ地平に立ちたいんです。


 本当はその先に「12年1位」とか「2年間不良ゼロ」とか「メンタルゼロ化」とか、この世界の奇跡とよべる事例が起きるには人間性と組織にとって全部でどんな効果発現メカニズムが、という話がざあざあ大量にあるわけですが、、、

 そのかたにとっての第一歩の「これなら、できるなあ」という感覚、それをつかまえることのできた方は「この手法の不変の真実の世界」の友になっていただける、と思うのであります。




 実は、下手に「できるチャンス」を与えられたのに「できそこなった」人は、(「できそこない」って言っているわけじゃないんですよ;;)、あとあと人間性がゆがんでしまうなあ、やっぱり「できる」ようになった人がほめられているのを見るのは「目の毒」だからなあ、ということも経験上思っていて、、、

 だから、本当はすべての方に「宿題」はやっていただきたいんですけどね―。


このほか今週は、昨年「承認」2時間セミナーを開催いただいた商工会様にも伺い、
会員様のお声として

「非常にわかりやすかった」
「家庭にも通じることですね」

と、ご好評だった、と嬉しいお知らせをいただきました。
(正田は、いつもの伝で「あまりいい出来ではなかったと悔やむことしきりなんですが…どんなご反応だったでしょう?」と恐る恐るたずねました)

それで、図に乗って次回の「2回セミナー」のお願いをしてしまったのでした。



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 先週の新温泉町でのセミナーの宿題が返ってきました。

 実践された方では難しかった人間関係を好転させた方、続出。

 現業の方々もみなさん健闘されました。

 教育は失敗しているひまはない、と正田は思うのであります。




100年後に誇れる教育事業をしよう。
一般財団法人承認マネジメント協会
http://abma.or.jp


100年後に誇れる教育事業をしよう。

お世話になっている皆様


 おはようございます。
 一般財団法人承認マネジメント協会の正田です。
 3月になりました。皆様、いかがお過ごしですか。

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 本日の話題は:

■読書日記:「ヘーゲル承認論」シリーズ更新しました
―アメリカ心理学とドイツ哲学。日本人にはどちらが合っているでしょう―

■研修副作用シリーズ更新しました
―「変な傾聴」みたことありませんか―

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■読書日記:「ヘーゲル承認論」シリーズ更新しました
―アメリカ心理学とドイツ哲学。日本人にはどちらが合っているでしょう―

 先月からブログで始めた、「ヘーゲル承認論」シリーズ。
 「亀の歩み」で少しずつ更新させていただいています。

 言葉が難解でわたしも完全に理解しているとはいえないんですが、入門書解説書をつきあわせて読むと、どうもわたしたちの社会生活全般にまたがることを言っているようなのです。
「自分は『承認』なんてダサいものは関係ない、能力が高いんだから『マキャベリズム』でいくんだ!!」
と、いう方は仕方ないですけれど。
 能力の低いわたしなどは、「人はその成り立ちからして社会的存在だ」というフレーズに救いを見出したくなります。
 また、「法とは何か」「正義とは何か」時節柄、そんなことを考えたい方にもお勧めです。

 いま、わたしの頭の中では「アメリカ心理学」と「ドイツ哲学」という比較の構図がおぼろげながらできかかっております。
 そして事実としては、日本の主に兵庫県で「12年1位」を達成してきた、かなり「ドイツ観念論」に近い思考と教育プログラムによって、ということがあります。

 まだまだ入口のところで申し訳ありません。途中経過、ご興味のある方はご覧ください:

◇「承認論」はヘーゲルのオリジナルではなかったというお話―『承認と自由』(1)
http://c-c-a.blog.jp/archives/51909371.html

◇「部下はコーチングされたいのではない、○○されたいのだ」―ヘーゲル承認論途中で正田の感慨
http://c-c-a.blog.jp/archives/51909426.html 

 このあとのほうの記事で、わたしの「心理学系セミナー受講歴」というのもご紹介しています。
もしそういうことも怖いものみたさで、ご興味があれば…。
 共通の話題にできれば、幸いです。

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■研修副作用シリーズ更新しました
―「変な傾聴」みたことありませんか―

 わたしがよくお叱りを受けるのは、「人が受講して『良かった良かった』と言っているものを否定すると、嫌われるよ」ということです。
 その意味では、このメルマガやブログで「研修副作用」シリーズをするのは、もう「嫌ってください」と言っているようなものなのですが。
 アメリカ心理学のセミナーを健常な人に施すときの共通の問題、「副作用」の問題は、わたしには看過できないものなのです。そうしたものが、意思決定層の方々の思考も蝕んでいることを考えると。そこには、よって立つ「人間観、社会観」の問題が横たわっているように思います。
 このメルマガをご覧になっているあなたが、「よい社会、よい会社をつくりたい」という思いをもっている方だと信じて、発信します。

◇なぜ「傾聴教」でなく「承認教」がいいのか―研修副作用の話(10)
http://c-c-a.blog.jp/archives/51909393.html 

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★受講生様・お客様から嬉しいお声をいっぱいいただきました!!

「言い訳が減った」「厳しいことも受け入れてくれる」
◇温かいお言葉、力強いお言葉―敬愛する受講生様・お客様からいただいた「ほっこり」
http://c-c-a.blog.jp/archives/51909267.html

◇「人生に敬意を払う」ことと「行動承認」―夕凪会様アンケートより
http://c-c-a.blog.jp/archives/51909320.html 


 花粉、黄砂の舞う季節となりました。
 みなさまもくれぐれもお身体お労りください。



 
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100年後に誇れる教育事業をしよう。
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(旧NPO法人企業内コーチ育成協会
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理事長 正田 佐与
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TEL: 078-857-7055 FAX: 078-857-6875
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ツイッターアカウント: @sayoshoda

フェイスブックページ: http://www.facebook.com/sayo.shoda

ブログ「コーチ・正田の 愛するこの世界」
http://blog.livedoor.jp/officesherpa/

近著『行動承認―組織の能力を最大化する「認める力」』
http://www.amazon.co.jp/gp/product/4434198572 


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 「ヘーゲル承認論」のシリーズをやっと2回書いたところですが、ここでわたし個人のここ14年間の思索の歩みを書いておきたいと思います。


 年譜的にいうと、

2001年 コーチングの学びに入る。パーソナルコーチングも仕事として開始
2002年 マネジャー教育開始。100人ほどのマネジャーのMLの主宰者になる
2003年 「業績1位」輩出開始。任意団体CLSを立ち上げる。
      (組織と理念についての思索を開始する)
      この年から、やっと研修講師としての自覚をもち「教える」ことを始める
2003~06年 4年連続で事例セミナー開催。
      「業績1位」多数
      マネジャー教育の傍ら、「エグゼクティブ・コーチング」でも高い効果が出、「正田マジック」の異名。
2005年 太田肇教授の「承認論」に出会う
2006年 某ビジネススクールに通うも、1か月半で退学。
      「感情認識なきロジカルシンキング」の限界をみる
      「マネジャー論」のミンツバーグに親しむ
2007年 武田建氏の授業(@関西福祉科学大学)に3か月通う
      心理学史を解体・再構築
2008年 このころNLP、アサーティブネスを並行して受講。
      「研修副作用」に関するブログ記事多数。
      脳画像診断医との対話
      リーマンショック。
      NPOを設立。
      哲学カフェに通い、翌年からの「よのなかカフェ」につながる
2009〜10年 低迷期。NPOとして神戸で講座を行うも、集客で苦しみ続ける
      「つながりの自己観」と「アトム型自己観」(@大井玄)について思索
      英国の倫理学の先生から「正田の講師ぶり」が高く評価される
2010年 『認めるミドルが会社を変える』発刊
      第一回承認大賞
2011年 東日本大震災
      久しぶりの事例セミナー開催、業績向上例回復
      ナルシシズムについて、アンチ行動理論について思索
2012年 統計調査開始(まだテスト段階、試行錯誤を重ねる)
2013〜14年 業績向上例8例。奇跡と呼べるような事例がゴロゴロ出る
2013年ごろから 「発達障害」についての思索
2013年秋から 「スマホ・ネット依存」についての思索
2014年 『行動承認』発刊
     「柔道有段・凄腕担当者がみた承認研修」をブログ掲載。



 まあ山あり谷ありなんですが、「業績1位」を生み続けました。そしてPDCAを重ねてきました。受講生さんとの長年の対話を通じて、また読書と思索を通じて。というのを、読み取っていただけるでしょうか。      


 そのなかで昨2014年は、やや不作年だったといえましょう。「某商工会」の事例はありましたが(しかしその後某トップが公開の席でとんでもない裏切り。恥ずかしいことですね)、お客様のもとで「1回研修」「2時間研修」のご要望が増え、お答えせざるを得なかった。せっかく業績が向上するプログラムなのに、早回しの1回こっきりで、というのは効果を発揮するどころか「机上の空論、きれいごと」に響いてしまうおそれがあり、忸怩たる思い。途中から「短時間1回こっきりのご依頼お断り」をブログに書いた時期がありました。


 
 さて、こういう14年の中で、心理学系のセミナーは大量に受けているわけです。コーチング研修機関大手2社(それぞれ100時間超のもの)、アサーション(日精研、26時間)、アサーティブネス(アサーティブジャパン40時間)、NLP(約100時間)、武田建氏の臨床心理講座3ヵ月毎週(行動理論・ロジャーズの傾聴を含む)、自治体主催の心理学コミュニケーションセミナー連続もの、強みセミナー、そのほか自団体主催の各種セミナーや、自分自身では受けていないけれどCLS〜NPOの講座を開催する中で、他研修機関で受講した人にどんな行動傾向が出る、というのを観察してきました。

(なので、このブログの読者の方々は、くれぐれも「承認」以外の心理学セミナーを新しくいっこ受けたから「自分はえらい」と思わないでください。某トップもそのケースだった可能性があるんですが…、お出会いする方がそんなふうに思っているのをみると、何百時間も受けてきているわたしはつらいです。心理学セミナーって勘違いをさせやすいし免疫のない人はすぐそうなるんです。手の内を隠さず、「この研修を受けましたが先生がご覧になってどうですか?」ときいていただけるといいんですけどね)

 
 そしてあるころから、わたしなりに到達した結論があります。
 それは、「コーチング研修機関がいうコーチング」ではない、会社の上司部下関係というのをしみじみ観察して考察したから生まれた結論ですけれども、


「部下は上司にコーチングされたいのではない。

『肯定』されたいのだ。

そして『道徳的、人道的』に扱われたいのだ。

そのなかで指示命令、指導を仰ぎたいのだ」


と、いうことです。

 こういう言い方は、「自立した人格」を前提とする「自己啓発」の考え方の人には、

「けしからん!依存的だ」

となるかもしれませんけれども、でも現実としてそうなんです。


 ぜひ、このブログを読まれている経営者管理者の方は、現在の功成り名遂げた時点の自分を基準にせず、学校を出たばかりの若い人の身になってみてください。20代の人と30代ぐらいの人とではまた微妙に違うかもしれませんけれどね。


(あとジャーナリストとか大学教授研究者、コンサルタント、といったお仕事の方は、もし上記のことがご自分に当てはまらなくても、「自分のほうが働く人全体の中では特殊なんだ」と自覚なさってください)


(そしてまた、「肯定されたい」という言葉を使うと、「じゃあこんな部下どうやって肯定しろというんだ!」という「悪意の部下」の例を出される人がいますけれど、あなたの会社ほんとにそういう部下ばっかりなんですか?それ「例外例」じゃないですか、ちゃんとやってる普通の部下のことちゃんとみてますか、という話になります。また「承認不在」のためにひねくれる部下も多いし、「承認」実践後もやっぱり悪意で仕事したら「じゃあその人は個体差でこういう人かもしれませんね」という話になります)


 そこで上司側に必要なのは、主に倫理学です。それも知識が大量に必要なわけではなく、日常行動にできる指針があればよい。あともう少し心理学をテクニックとして身につけ、また若い人の現状認識や個体差についての知識を持てばよい、というかんじです。
 「心理学」は現実世界にふだん「ない」ものなので、現実がうまくいかないと「心理学」はすっごい答えをもっているように錯覚してしまいます。でもそれは幻想で、実際に現実に働きかける力があるのは倫理学とそれを行動化することのほうです。
 

 「承認本」でなんども書くように、「質問」(「君はどうしたい?」)は、よほど会社の理念ミッション戦略を共有している相手でないとよい効果を生みません。また経験値の低い人ではよい効果を生みません。それらの条件をクリアした後でなら、ときどき有効かもしれません。あくまでときどき、であります。


 会社には理念があり、それに沿って大量の仕事があり、学校を出たばかりの若手社員はその仕事に合流するよう求められます。
 多くの若手社会人にとっては、上司は「仕事の配分者」として存在するのであり、まず明確に指示をしてほしい。かつ、それに加えて行動したことへの承認があれば、さらに良い仕事をするモチベーションになります。そして会社の理念への共感も上がっていきます。
 これも仮説ではなく統計で裏付けをとりながら言っていることなので…。


 少し前の記事で出たような、上司や会社というものに心を閉ざしている感じの若い人。そういう人たちはいきなり「傾聴」で、「話を聴いてやるから、しゃべれ」と言ってもしゃべらないのが普通です。「行動承認」で前向きの行動が増えた段階でなら、少しずつ「傾聴」でこれまでの生育歴を話してもらったり、あるいは「アドバイス」「叱責」などの「介入」をしたり、「仕事とは、生きるとは」といった、上司の哲学的なものを話してやることができます。

 だから、「ほかのもの」は、「承認」が根づいたあとで少しずつつけたしてあげればいいのです。

 こういうことは、農業や製造業、実際に手を動かして物や自然にはたらきかけて仕事している人だと、むしろすぐわかっていただけるんだけどなあ。間に入る人たちに色んな考えが入りすぎている。


 
「必要なのはコーチングではない、心理学でもない、むしろ倫理学だ」


という考えに行きついたのはいつごろからだろう―。かなり早かったです。「1位続出開始」の直後くらいではなかったかと思います。

 そこに太田肇氏の「承認論」に出会って「これだ!」と思ったのは、それが「肯定されたい」を「肯定する」に行動様式として落とし込む、誰にもわかりやすい共通ルールにしやすい倫理学の可能性を感じた、のではないでしょうか。


 「共通ルール」ということに反発を感じるようだと、例えば武田建氏の「行動理論コーチング」も、100数十人いる選手たちを指導する10数人のコーチたちに共通の指導ルールにするために、だれにもわかりやすい言葉で書いてあるわけですが、そういう「7連覇、5連覇」の勝利のための営みがじゃあわるいものなのか、ということになってしまいます。実は組織で、指導者側にこういうことを共有するのは全然わるくないのです。そして、1つの組織のなかにいろんな考え方が混在するのは、おそろしく非効率なのです。



 また、「誰にもわかりやすい共通ルール」ということにからめて、つい一昨年までわたしが身を置いた「陽明学」の学びの場に苦言を呈すると、

 「人間学」が大事だ、と定年後や会長職に退いた段階の男性たちが気づき、熱心に学ぶのはご立派ではありますが、
 じゃあ江戸期の日本の儒者たちの事績を延々と学び続けよ、歴史学なくして人間学なし、みたいな袋小路に入り込むと、今どきの若い人とか現役経営者だれがそこまで学ぶんですか、ということになります。
 「歴史がすき」というのはつきつめると「過去がすき」「未来に興味がない」というところまでいくなあ、とその姿を観察していて思います。(ほんとは、恩師も言っていたけれど未来を考えるための歴史です。)

 現実にみんなが担い手になって世の中をよくするためには、倫理学として一番大事なことだけを教え、行動指針にできればそれで足ります。現実に膨大な量の問題解決がありますから。

 そして「承認」はその役を担うに足る思想というか概念なんです。最後は法体系にまでいきますから。

 せっかくこんな使い勝手のいい現実に効果のあるものが現代に出てきたのに、自分たちの若い頃にはなかったというだけでキーッと切れてしまい悪口を言うみたいな、大人げのない対応をするようでは、立派なお勉強が身になってない、というほかないです。



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「先生の指導が入らなくなった」。

「中1いじめ殺人事件」でNHKの番組に出ていた教育評論家の尾木直樹氏が興味深いことを言われていました。
 

 何かというと、スマホとくにLINEの影響。先生があらかじめ「こういうテーマで」と指示したことでも、先生のいないところで勝手にLINEで議論し、とんでもないテーマを決めている、先生が「あ、それは去年の先輩が大失敗したやつなのに」というのに決めている。これも大変な非効率です。


 そこで尾木氏がやったのは、「LINEでは連絡しかしない、議論はしない」と決めることでした。「お蔭で今はゼミは活発に動いていますよ」。


 大人の教育の世界で起きていることを考えてみても、大変示唆的なことでございます。経験の少ない人の「自由」に任せることは、正しくないのです。どうも、一部のADHD傾向の人ばかりでなく普通の若い人も、「上の人の言うことをきかないで勝手なことやっちゃう」という傾向があるようです、見識ある大人がみていて手綱を引かなければなりません。また、ほっておくと「横」のつながりで間違った考え方をしてしまう今の人、という風に読み解くこともできます。


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それからですね、、
一回「承認」を習っただけで「社内で自分が教えたい」という人に、わたしは厳しいんですが、そういうのをみて「正田って性格わるい」と思われたかもしれませんが、
その理由はいくつもあるんです。

今日の話題とのからみで理由の一つを挙げると、
元々他者否定の強い経営者管理者に、「承認」という他者肯定の方法を教えて、実際にやってもらって「できる」という感覚をつかんでもらい、「部下って反応してくれますねえ!」と言ってもらうのは、実はすっごい力技をやっているんです。そのために論法とか実習の組み方とかを考え抜いています。「例の表」もイノベーションの一つです。それにわたしの話し方とか、過去の事例の蓄積の見せ方とか、もノウハウのかたまりなんです。

どれだけ渾身の「力技」をしているか、は、参加者の中の比較的「他者肯定」が高くて穏やかな気質のほうの人には見えづらいのではないかと思います。その人たちのご気性とは、闘ってないので。
 ひょっとしたら、わたしがリーダー教育の先生の中では穏やかな口調で話をするほうなので、「自分と同様穏やかな人だ」「自分も穏やかに話すればいいんだ」と思うかもしれません。

もしその人たちが気性の激しいほうのリーダーと直接対決したら、先生がどれだけとんでもない相手をニコニコしながらねじ伏せていたか、わかるんではないかと思います。
ただまた、社内で一度でも失敗すると「後がない」ので…。
「きかなかったことにします。ご健闘をお祈りいたします」
の意味、わかっていただけますでしょうか?


100年後に誇れる教育事業をしよう。
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