正田佐与の 愛するこの世界

神戸の1位マネジャー育成の研修講師・正田佐与が、「承認と職場」、「よのなかカフェ」などの日常を通じて日本人と仕事の幸福な関係を語ります。現役リーダーたちが「このブログを読んでいればマネジメントがわかる」と絶賛。 現在、心ならずも「アドラー心理学批判」と「『「学力」の経済学』批判」でアクセス急増中。コメントは承認制です

2015年08月

『ポスト資本主義―科学・人間・社会の未来』(広井良典、2015年6月、岩波新書)を読みました。

(すみません、最近読書日記の長文化が続いています。今度はワード18pになりました。ご容赦ください。)

 現代を「第三の定常化社会への移行期」と規定する著者の最近の集大成と位置づけられる本。

 コンパクトな中に非常に多数の分野、多数の研究群を渉猟しながら大きなパラダイムを浮かび上がらせ、そして日本のすすむべき未来(緑の福祉国家/持続可能な福祉社会)を提言しています。

 この著者の近年の著作『コミュニティを問いなおす』『創造的福祉社会』『人口減少社会という希望』などの集大成であろうとともに、著者自身の科学への関心をも盛り込んだ、とあとがきでは述べられています。

 内容的には新書何冊か分を集約している感じで非常に多数の話題が登場するので読みやすい本とは言い難いのですが、さっと読んだだけでも主張が明快に抵抗なく頭に入ってくる、というのは、恐らく著者の簡にして要を得た「文体の力」と、所々に出てくる「ブレードランナー」「インセプション」などの映画の話題、手塚治虫の「火の鳥」など、サブカルチャーからの引用がありイメージが喚起されやすいことなどからくるのでしょう。けっして衒学趣味的な読後感は持たれないでしょう。

 ―「文体」に関しては、ヘーゲル哲学の晦渋を極めた文体に泣かされた身としては有難さが身に沁みますね。

 たぶん、当ブログの長い読者の方は、本書の時代認識と未来への提言について、直感的に同意される方が多いと思うのですが、それが全体としてどういう論考から成っているのか、というところを少し丁寧にフォローしてきたいと思います。
 
 では恒例の抜き書きです。今回は引用多数となります。(引用下線)

 人類の歴史を大きく俯瞰すると、それを人口や経済規模の「拡大・成長」の時代と「定常化」の時代の交代として把握することができ、次のような三回のサイクルがあったととらえることができる。(pp.1-2)
第一のサイクル:現生人類(ホモ・サピエンス)が約20万年
第二のサイクル:約一万年前に農耕が始まって以降の拡大・成長期とその成熟
第三のサイクル:主として産業革命以降ここ200〜300年前後の拡大・成長期
 これについて本書ではアメリカの生態学者ディーヴェイの世界人口の長期推移についてのモデルを提示しています。グラフから、ほぼそうした曲線を描いているのがわかります。

 こうした人間の歴史における「拡大・成長」と「定常化」のサイクルは、人間の「エネルギー」の利用形態、あるいは「人間による“自然の搾取”の度合い」から来ると本書はいいます。狩猟採集の場を各地に求めてホモ・サピエンスは地球上に広がり、そして狩猟採集のみでは十分な食料確保が困難になったとき、約一万年前に農耕を始めた。そして共同体的秩序や階層や格差が生まれた。
 農耕段階が資源・環境的制約にぶつかって成熟・定常化すると、ここ200〜300年の工業化の時代に入る。(pp.3-6)

人間の歴史の中でのこの第三の拡大・成長と定常化のサイクルの全体が、(近代)資本主義/ポスト資本主義の展開と重なるというのが、本書の基本的な問題意識となる。(p.6)

 そして、「思想」の誕生。「人間の歴史における拡大・成長から定常への移行期において、それまでには存在しなかったような何らかの新たな観念ないし思想、あるいは価値が生まれた(p.7)と本書はいいます。「心のビッグバン(意識のビッグバン)」あるいは「文化のビッグバン」という現象。第一のサイクルの中で加工された装飾品、絵画や彫刻などの芸術作品が約5万年前に一気に現れた。第二のサイクルでは、現在に続く「普遍的な原理」を志向するような思想が地球上の各地で“同時多発的”に生まれた。すなわちインドでの仏教、中国での儒教や老荘思想、ギリシャ哲学、中東での旧約思想(キリスト教やイスラム教の源流)などがそう。最近の環境史という分野では、この時代、これらの地域で農耕と人口増加が進んだ結果として、森林の枯渇や土壌の浸食等が深刻な形で進み、農耕文明が最初の資源・環境制約に直面しつつあったといいます。本書は、仮説と断りつつも、「これら普遍思想(普遍宗教)の群は、そうした資源・環境的制約の中で、いわば「物質的生産の量的拡大から精神的・文化的発展へ」という方向を導くような思想として、あるいは生産の外的拡大に代わる新たな内的価値を提起するものとして生じたと考えられないだろうか」と提起します。定常期とはむしろ豊かな文化的創造の時代だ、とも(p.7-9)。

 そこで、現在が人類史における第三の定常化の時代だとすれば、心のビッグバンにおいて生じた自然信仰や、第二サイクルで生まれた普遍宗教に匹敵するような、根本的に新しい何らかの価値原理や思想が要請される時代の入り口を私たちは迎えようとしているのではないか という問題提起にもつながります。(p.10)

 このあとは今後のシナリオとして2つの両極端が示されます。

 超(スーパー)資本主義VSポスト資本主義。言い換えれば拡大・成長と定常化と。この2つの方向性がせめぎあいながら、21世紀は定常型社会への移行の世紀となるだろう、本書の大きな見解としてはそうです。

 前者・超(スーパー)資本主義は、「21世紀は『第4の拡大・成長』の時代となるはずだ」というビジョンに基づいています。著者は、「そのような技術的な突破の可能性があるとしたら、以下の3つが主要な候補として考えられると思う」と、第一に「人工光合成」、第二に「宇宙開発ないし地球脱出、第三に「ポスト・ヒューマン」とその候補を挙げます。(ただし著者自身はこれらに懐疑的であるとも述べます)

 ―このあとの「ポスト・ヒューマン」論では、「共同主観性」という、以前ヘーゲル承認論の中でわたしが引きつけられた「間主観性」の概念に似たものが出てきたり、「ソーシャル・ブレイン」が出て来たり、子供のころ親しんだ荘子の「胡蝶の夢」が出て来たりして楽しめました。先月ぐらいに「全部わたしの妄想なのではないだろうか」と言ったばかりですね。「共同幻想」というのは「会社の理念」もまさしくそういうところがあるのですが。

 このなかでおもしろい記述としては、AI(人工知能)に関する記述をひとつご紹介しておきましょう。

 …逆手をとって、AIと人間(ないし生命)を“融合”させていけばよいではないか。そして、AIのすぐれた面(上記のような情報処理能力の速さや記憶容量の大きさ)と人間のすぐれた面(生存への志向とそこから派生する世界の「意味」づけ、あるいは他者との共感能力等々)を組み合わせれば、いわば“最強の存在”―それを「人間」と呼ぶかどうかは別として―が生まれるはずではないか。(p.15)

 ―人間のすぐれた面として、「生存への志向とそこから派生する世界の意味づけ」としているところが興味ぶかいですね。「共感能力」については、ひょっとしたら近い未来に機械に代替されるかもしれない、という気がしています。人間の中にもそれが低い人は多いですし。

 ―さあ、前提の「おさえておきたいこと」のところだけで随分長くなってしまいました。やっと本論にまいります―

 資本主義とは、なにか。
 本書は、「純化した把握」として、
  資本主義=「市場経済プラス(限りない)拡大・成長」を志向するシステム」と呼びます。

 「市場経済=悪」ではない。資本主義と市場経済が異なる点は何かというと、それは最終的に「拡大・成長」という要素に行き着くのではないか、と。(「G(貨幣)―W(商品)―G’(貨幣)」)資本主義は「そうした(量的増大を志向する)経済活動を広く社会的に肯定するシステム」だ、とも呼びます。

 こうした資本主義精神を象徴するものとして、第二サイクルから第三サイクル、すなわち定常から拡大へ移行した時期に登場したバーナード・マンデヴィル(1670-1733)という思想家の「質素倹約といった個人のレベルでの“美徳”は社会全体の利益にはつながらない、逆にこれまで道徳的に悪とされてきた、放蕩や貪欲といった行為、一言でいえば限りない私利の追求という行為が、結果的にはその国や社会の繁栄につながり、また雇用や経済的富も生み出す」という主張があります。(pp.28-34)

 では、マンデヴィルのいうような放蕩や貪欲、私利の追求はその後の時代でなぜ可能になったのでしょうか。わたしたちの属する「第三の拡大・成長」期すなわち(近代)資本主義と呼ぶものの中心は、自然資源の圧倒的な規模での開発と搾取という、食糧・エネルギーの利用形態の根本的な転換にあった、と本書では言います。
 ここでは二つの次元が関係し、すなわち

(1)「個人―社会」の関係……個人が共同体の拘束を離れて自由に経済活動を行うことができ、かつそうした個人の活動が社会全体の利益になるという論理【個人の独立】
(2)「人間―自然」の関係……人間は(産業)技術を通じて自然をいくらでも開発することができ、かつそこから大きな利益を引き出すことができるという論理【自然支配】
と言います。(pp.36-37)

 さて、こうした資本主義は、実は「科学」―正確には「(西欧)近代科学」―の基本的な世界観や態度と同じ構造をもっているのではないか、と本書。

 17世紀の「科学革命」以来の「科学」は2つの基本的特質をもっていた。すなわち、
(1)「法則」の追求―背景としての「自然支配」ないし「人間と自然の切断」
(2)帰納的な合理性(ないし要素還元主義)―背景としての「共同体からの個人の独立」


 こうした特質は、「資本主義の2つの次元」として上記に挙げた要素と重なる、といいます。いずれも「共同体から独立した個人」および「自然支配(自然と人間の切断)」という、共通の世界観や思考から派生した営みであると。(pp.38-40)

 このあとは資本主義の歴史の概観になります。お詳しい方は飛ばして読んでいただいたらいいのですが、ジョン・ステュワート・ミル(1806-1873)は19世紀半ばに「定常状態」論を提起しています(『経済学原理』1848年)。当時はなお農業の比重が大きく、ミルの議論も(一国内の)「土地の有限性」を意識したものだったといいます。
 そして20世紀、ケインズの登場。ケインズは、経済成長を最終的に規定するのは(生産ではなく)人々の「需要」であり、しかも人間の需要は政府の様々な政策によって誘発ないし創出することができる、これにより不断の経済成長が可能であると主張しました。人々の需要や雇用という、市場経済ないし資本主義の“根幹部分”を政府が管理しまた創出することができるという、これは資本主義の根本的な“修正”と言えるものです。国家あるいは政府の政策目標として「経済成長」が語られるようになったのは比較的最近のことであり、第二次大戦後のケインズ政策の時代だったといいます。また経済成長の指標である、GNP(国民総生産)やGDP(国内総生産)も世界恐慌後のこの時代につくられました。「“GNPの起源”としての世界恐慌」と言うこともできます。
 一方で近年のブータンの「GNH(幸福総生産)」をはじめとする様々な幸福度指標、またスティグリッツやセンといった経済学者が「GDPに代わる指標」に関する報告書を刊行するなど、「豊かさ」の指標に関する動きが活発化していることについて、本書の解釈は:

 ちょうど世界大恐慌がGNPという新たな指標を要請し、それがケインズ政策と連動していったのとパラレルに、現在の世界の状況を踏まえた真の豊かさや発展に関する新たな指標やコンセプト、ひいては「限りない拡大・成長」というパラダイムそのものの根底的な見直しが求められる時代に私たちは入ろうとしているのではないだろうか。(pp.45-51)


 次に、「科学国家=アメリカ」と「福祉国家=ヨーロッパ」というコンセプトが出てきます。

 ケインズ政策的枠組みにおいて、他国に比べて「科学研究」への公的投資に圧倒的な力を注いできたのが第二次大戦後のアメリカであり、他方、社会保障を通じた再分配に優先的なプライオリティを与えてきたのがヨーロッパであったと言える。象徴的に、前者を「科学国家」、後者を「福祉国家」と呼ぶことが可能であるだろう。(p.53)

 
 
外的な限界と内的な限界。ローマ・クラブによる「成長の限界」(1972年)はミルの定常論に次ぐ、第二段階の定常経済論と位置づけることができ、それは工業化の資源的限界という歴史的局面と呼応していた。これを“外的な限界”とすると、同時に“内的な限界”という状況も起きた。すなわち、人々の需要が徐々に成熟ないし飽和し、かつてのように消費が際限なく増加を続けるということを想定し続けられなくなるという限界。
(p.56)

 80年代以降には2つの動きが起こり、「成長の限界」論がいったん“後退”する。その動きとは、
情報技術の展開とも一体となった、アメリカが主導する金融の自由化とグローバル化
いわゆるBRICsに象徴されるような新興国の台頭と工業化
しかしそうした新たな展開(特に 砲、少なくともいったん明確な形で破綻したのが2008年のリーマン・ショックだった、と本書。(pp.57-58)

 ここまで駆け足で現代までの直近の状況をみてきましたが、今後を展望するための思考材料として、著者は「地球規模での少子化・高齢化の進展」を挙げます。中国をはじめアジア諸国でも高齢化と少子化は進行し、国連推計では世界人口は2100年には109億人で、2050年時点の人口推計は96億人と、21世紀後半はほぼ定常状態に入る。「21世紀はむしろ“高齢化の地球的進行”が進んでいく時代なのであり、それは自ずと人口の成熟ないし減少を意味する」と本書は述べます(pp.60-61)

 このような今世紀後半の展望を本書では「グローバル定常型社会」と名づけたり、国際政治学者の田中明彦の言葉を引いて「新しい中世」と呼んだりしています。(pp.62-63)

 さて、先にみたアメリカが主導する金融の自由化とグローバル化は、この時期における科学・技術の新たな展開、すなわち情報技術とが文字通り“両輪”の関係であった、と本書。
 私たちが生きる今という時代はいわば「情報文明の成熟化ないし飽和」あるいは「ポスト情報化」ともいうべき局面への移行期と考えるべきである。(p.66)

 このあとリーマンショックに絡めて「期待の搾取」、また「観念の自己実現」という概念が出てきますが詳しくは割愛。後者から導きだされるのは、人間の経済とは、その基盤にある貨幣を含めて主観的な(共同)幻想ということになり、まさに“脳が見る(共同の)夢”になる。経済学者の西部忠は、そのような現在のシステムを改変していくためには貨幣そのもののありようを変えていくことが原理的に必要であるとし、それを踏まえて「コミュニティ通過」(ローカルな地域をベースとし、自立循環型の地域経済を確立するような、利子を生まない貨幣)を提案します。(pp.66-76)

 こうした、経済における期待や観念と現実の乖離をどう考えたらいいか。ここで本書は、

  ひとつのありうるビジョンとして、そのように市場経済を無限に“離陸”させていく方向ではなく、むしろそれを、その根底にある「コミュニティ」や「自然」という土台にもう一度つなぎ“着陸”させていくような経済社会のありようを私たちは志向し実現していくべきではないか
と述べます。
 個人・共同体・自然をそれぞれ市場経済・コミュニティ・環境とリンクさせたピラミッ
ドの図が示され、最下層の「自然/環境」に着陸させる矢印があります。

 さて、近年「脳」と「意識」をつなぐ研究が脳科学の方から盛んにおこなわれているよ
うです。私はうっかりこのあたりの文献を積読して読みそびれているのですが、本書では
アントニオ・ダマシオの主張、「事故や意識の根底には、安定した有機体の内部環境から生
まれる『原自己(protoself)』があるとし、それを抜きにして自己意識や思考、感情といった
ものを考えることはできないという議論を紹介します。こうした脳科学の側からの人間認
識が、「市場経済をその土台にあるコミュニティや自然につないでいく」という方向、すな
わち「脳」をその土台にある「身体」に“着陸”させるような方向ともつながるものだ、
と本書は主張します。
 これは著者のかなり以前にさかのぼる「私(自己)の重層構造」という理解にも対応し
ているとします。
A 個人の次元:“思考する私”(=反省的な自己ないし自我)
B 共同体の次元:“コミュニティ的な存在としての私”(=他者との関係性における自己)
C 自然の次元:“身体的な私”(=非反省的な自己ないし個体性
)(pp.80-81)

 という、私流の造語では「自己の身体性」というお話になるのでした。これは、デカルトに限らず哲学書を読んでかならず突き当るフラストレーションと同じで、「思考する私」が、「身体性」から離れて思考しているときその思考の結論を正しいと認めてよいか?という問いにもつながるでしょう。現代のわが国の少壮哲学者にもそれを思うことがあるな。

 さて、第II部「科学・情報・生命」では、

 科学国家アメリカ。戦後アメリカは軍事分野以外では、医療あるいは医学・生命科学研究分野に圧倒的な予算配分を行ってきました。たとえば2015年度の政府研究開発予算のうち、国防省予算を除く部分の4割以上(44.9%)をNIH(国立保健研究所)の予算が締めています。ところが、主要先進諸国の医療費の規模と平均寿命をみると、アメリカは医療費の規模(対GDP比)が先進諸国の中で突出して高く、しかしそれにもかかわらず、平均寿命は逆にもっとも低いという状況があります。;">つまりアメリカは、研究費を含めて医療分野に莫大な資金を投入しているが、にもかかわらず、その成果ないしパフォーマンスはむしろかなり見劣りのするものとなっているのです。著者は、日本版NIH構想のような動きがいわゆるTPPとも一体となり、アメリカのような私費医療の拡大と医療費の高騰、医療における格差拡大と階層化、平均寿命ないし健康水準の劣化など、アメリカの医療システムの“悪いとこ取り”とも言うべき事態が進んでいくことを危惧します。(pp.84-91)

 ところで、医療や健康をめぐるテーマを考えていくに当たって「社会的(ソーシャル)」な要素や側面が重要になってくるということを、近年の諸研究が示唆しています。これは19世紀に成立した「特定病因論」という考え方から、それだけでは解決できないうつや慢性疾患に対応するために新たに発展したものです。「社会疫学」という分野は、「健康の社会的決定要因」という基本コンセプトに基づいています。(pp.92-93)

 そして私がここで注目したいのは、このように、「個人」あるいは個体というものを単に独立した存在としてとらえず、他者との相互作用を含む社会的(ソーシャル)な関係性の中でとらえたり、あるいは他者との協調行動や共感、利他的行動といったものに焦点を当てるような研究が、近年、文・理を含む様々な学問分野で、“百花繚乱”のように生成し発展しているという点だ。(p.94)

 ここでは、『共感の時代へ』のドゥ・ヴァールやオキシトシン研究のポール・ザック、ソーシャル・ブレイン研究など、当ブログでおなじみの著者や文献名が出てきて嬉しくなります。

 こうした諸科学は、「独立した個人」というものを基本に置き、また(経済学などでは)そうした個人は“利潤の極大化”を追求するという個体中心のモデルを想定した近代科学のパラダイムとは異質な要素を含む、科学の新たな方向性を示すものととらえることができるだろう、と本書。
 関係性や人間の協調性等への注目といった点自体を含めて、そうした科学や知のあり方(ひいてはそこで提示される人間観や自然観等々)の全体が、その時代の経済社会の構造変化や環境等によって大きく規定されているのではないか(p.97)

 そこで再度17世紀のマンデヴィルの例を引き、
 およそ人間の観念、思想、倫理、価値原理といったものは、究極的には、ある時代状況における人間の「生存」を保障するための“手段”として生成するのではないか(p.99)
という著者の考察が述べられます。

 近年の諸科学において、人間の利他性や協調行動等が強調されるようになっているのは、そのような方向に行動や価値の力点を変容させていかなければ人間の存続が危ういという状況に、現在の経済社会がなりつつあることの反映とも言えるだろう。(同)
 さらに一段進めた考察として、
 「情報」を含めてこうした科学の流れは、(略)近代科学が上層の「個人」のレベルから、その視点や関心を中層のレベル(情報やコミュニティ、個体間の関係性に関するレベル)にシフトさせてきたととらえることができるだろう。(p.101)
と、述べています。
 
 このあとの章では自然観や生命観にまつわるかなり深い議論が出てきます。(pp.103-115)
・ニュートンが代表する、機械論的自然観。(ニュートン自身は彼の古典力学の「力」について、キリスト教の神と結びつけて理解していたという)
・またデカルトが代表するような、「人間と人間以外」との間に本質的な境界線を引く立場。
・続いて、「生命と生命以外」に境界線を引く立場。ドイツの生物学者ハンス・ドリーシュ(1867-1941、「エンテレヒー」という概念を唱える)がその代表で、ドリーシュは生命には因果論的把握に還元できない“目的性”をもつ、とした。物理学者シュレディンガーの「生物は負のエントロピーを食べて生きている(無秩序から秩序を生み出している)」という議論がそれに続く。
・最後は、非生命―生命―人間をすべて連続的なものととらえる見方。ベルギーの化学者イリヤ・プリゴジンの非平衡熱力学に関する議論が代表。非生命にも秩序形成(自己組織化)がみられるとする。「それは、自然そのものの中に秩序形成に向けたポテンシャルが内在しており、それが展開していく中で生命、人間(ないし精神)といった存在が生成していったととらえる、いわば一元論的な世界像とも言える。」(p.112)

 ここで著者は、上記の4つの立場のうち、1つめと4つめは実は「共通しているものがある」と述べます。ニュートンらの機械論的な把握なのか、森羅万象は生命も非生命も一元的であるとするアニミズム的把握なのか。
 “機械論ですべてを説明しようとしていったら、人間と人間以外、あるいは生命と非生命の境界線がなくなり、新しいアニミズムに回帰していく”というのが現代の科学において生じつつある状況ではないだろうか。(p.115)

―ここまで読んでわたしは、つい、最近の自分のモチベーション論を化学物質の話に置き換えたり、人の能力低下の状態を「脳のどの部分が縮小したから」と説明したりする議論の癖に思いをいたしました。機械論的一元論良くないのかな、と思うこともあったが実はかまわないのカナ。

 次の段階の議論。本書は、これまでの近代科学の本質的な特質には2つの柱があるとします。
(1)「法則」の追求―背景としての「自然支配」ないし「人間と自然の切断」
(2)帰納的な合理性(ないし要素還元主義)―背景としての「共同体からの個人の独立」
(p.116)

 するとこれからの新たな科学のありようを考えるとしたら、両者について、近代科学が前提としたような方向ではないあり方が可能性として考えられる、とします。すなわち、人間と「自然」「共同体」それぞれの関係性であります。
・(1)については、人間と切断された、かつ単なる支配の対象としての受動的な自然ではなく、人間と相互作用し、かつ何らかの内発性を備えた自然という理解。また、一元的な法則への還元ではなく、対象の多様性や個別性ないし事象の一回性に注目するような把握のあり方。
・(2)については個人ないし個体を共同体的な(ないし他者との)関係性においてとらえるとともに、世代間の継承性(generativity)を含む長い時間軸の中で位置づけるような理解。また要素還元主義的ではなく、要素間の連関や全体性に注目するような把握のあり方。
(p.120)


 ―ここで述懐:正田のマネジメント論というか、「人、物、金」の人に特化したマネジメント上の困り事に対応するやり方というのは、上記の「(1)については」の後半、多様性や個別性に徹底して着眼する。それはおおむね「正解」なようで、困り事は大概直ってしまう。たんに今までにない視点でものを考え、今の時点であまり有名ではない物差しを使うせいでもあると思うが―、

 デカルト的な人間中心の自然観からアニミズムへ。
 近代科学はある意味で、”新しいアニミズム”とも呼ぶべき自然像に接近しているともいえるのである (pp.122-123)

 ただしそれは、かつてのアニミズム的な自然観への単純な回帰ではない。(略)近代科学の機械論的自然観が展開をとげていったその先に、つまり自然や生命についてのより分析的あるいは俯瞰的な把握をへた上で、アニミズムと高次のレベルで循環的に融合していく、ともいうべき姿である(p.123)

 いよいよ、“解決編・提言編”ともいうべき、第III部に入ります。

 ここで提示されるグラフはいきなり暗澹となります。所得格差(ジニ係数)の国際比較。我が国はOECD加盟22か国で上から5番目と上位にあります。アメリカ、イギリス、スペイン、ポルトガル、日本です。下位にはノルウェー、アイスランド、デンマークと北欧諸国がきます。日本は1980年代頃までは大陸ヨーロッパと同程度の平等度だったが、その後徐々に経済格差が拡大し現在の状態になったのです。

 若者を中心とする慢性的な失業のもっとも基底には構造的な“生産過剰”がある、と本書。モノがあふれ、人々の需要の大半が満たされているような時代にあっては、生産物を作っても売れないということが珍しくなくなる。加えて、そこで生産性(労働生産性)を上げれば、それは“より少ない人数で多くの生産を上げることができる”ということを意味するから、必要な労働力はさらに少なくなり、一層失業が増えることになる。結果として、“生産性が上がれば上がるほど失業が増える”という逆説的な事態が生まれているのだ。(pp.126-131)

 楽園のパラドックス。(ローマ・クラブが1997年に公にした「雇用のジレンマと労働の未来」による)
 過剰による貧困。生活保護の受給世帯全体が増加しているが、「高齢者世帯」「傷病・障害者世帯」「母子世帯」「その他世帯」の区分のうち、若者などを多く含む「その他世帯」の割合が顕著に増加している(1997年の6.7%から2012年には18.4%に増加)。さらに、過重労働によりストレスや過労や健康悪化に悩まされる。
 現在は人々の需要が成熟・飽和し、他方では地球資源の有限性が顕在化し、限りないパイの総量の拡大という前提がもはや成立しない状況になっている。そうした中で拡大期と同じような行動を続けるとすれば、プレイヤー同士が互いに首を絞め合うような事態が一層強まっていくだろう。(pp.132-134)

ここからは提言となります。
 “過剰”という富の生産の「総量」の問題と、“貧困”や“格差”という、富の「分配」の問題が互いに絡み合う形で存在している、という現状認識を踏まえ、本書は
(1) 過剰の抑制―富の総量に関して
(2) 再分配の強化・再編―富の分配に関して
 を提言します。

 (1)の例としては近年のヨーロッパにおける「時間政策」を挙げます。そこでは、人々の労働時間(正確には賃金労働時間)を減らし、その分を地域や家族、コミュニティ、自然、社会貢献などに関する活動にあて、つまり“時間を再配分”し、それを通じて全体としての生活の質を高めていこうとします。

 「時間政策」は「余暇消費」増、創造性の向上、健康増進、失業率削減や貧困是正にも寄与する、地域活性化・コミュニティ再生にも寄与する、など多くのメリットがあると本書は言います。

 著者自身は「国民の祝日」倍増を提案してきたそうです。本音では休みを取りたいが「空気」の支配する職場では休みがとりづらい、そうした日本人の実像に照らした苦肉の策といいます。

 さらに一歩進めて、スピードをゆるめる「時間環境政策」というものも本書は提言します。生物学者の本川達雄(『ゾウの時間、ネズミの時間』の著者)は、人間は生活のスピードを無際限に速めてきており、現代人の時間の流れは縄文人の40倍ものスピードになっている(同時に縄文人の40倍のエネルギーを消費している)、しかしそうした時間の速さに現代人は身体的にもついていけなくなりつつあり、「時間環境問題」の解決こそが人間にとっての課題であると主張します。「時間をもう少しゆっくりにして、社会の時間が体の時間と、それほどかけ離れたものではないようにする」(本川)進化医学という分野でも同様に、「遺伝子と文化(スピードも含めて)」のギャップ―人間の身体が適応できないほどに人間が作った環境が大きく変化したこと―が多くの病気の根本原因だというそうです。(pp.136-143)

 「過剰の抑制」に絡めてもうひとつ、「生産性」の概念の転換も本書は提起します。「労働生産性から環境効率性(ないし資源生産性)」。かつては“人手が足りず、自然資源が十分ある”という状況だったので「労働生産性」(=少ない人手で多くの生産を上げる)が重要だった。現在は“人手が余り(=慢性的な失業)、自然資源が足りない”という状況になっている。そこで「環境効率性(資源生産性)」、つまり人はむしろ積極的に使い、逆に自然資源の消費や環境負荷を抑えるという方向が重要だと本書。

 経済的なインセンティブとしては1990年代頃からヨーロッパにおいて「労働への課税から資源消費・環境負荷への課税へ」という政策がとられるようになり、例えばドイツで1999年に行われた「エコロジー税制改革」がそう。環境税を導入するとともにその税収を年金にあて、そのぶん社会保険料を引き下げるという内容。(pp.144-146)

 ここで福祉や教育という対人サービスの領域がもっとも“生産性が高い”領域として浮上する、と本書では言います。おやおや本当カナ。これらの領域は基本的に「労働集約的」な分野であり、「労働生産性」という物差しでは“生産性が低い”となるが、労働集約的であるということは“人手”を多く必要とする、それだけ“雇用を創出しやすい”ことを意味するのです。

 資源の有限性が顕在化し、かつ生産過剰が基調となって失業が慢性化する成熟・定常期においては、人々の関心はサービスや人との関係性(あるいは「ケア」)に次第にシフトし、人が中心の「労働集約的」な領域が経済の前面に出るようになるだろう。(pp.147-148)

 そしてこうした方向への転換は、市場経済にゆだねていれば自然に進んでいくものではなく、北欧の福祉・教育などの政策や、ドイツのエコロジー税制改革などのように、それを促すための公共政策が不可欠になる、と本書は述べます。(p.150)

 提言編・次に「再分配の強化・再編」について。
 社会保障、社会的セーフティーネットの整備というのは資本主義の末端部分から根幹部分へ順次、分配の不均衡や成長の推進力の枯渇といった各時期の“危機”に対応する形で進んでいったと本書は言います。そこで今後展望されるのは、「システムのもっとも根幹(ないし中枢)にさかのぼった社会化」であろうとも。
 著者の従来からの提言と重なりますが、次の3点を重要な柱とします。
(1)「人生前半の社会保障」等を通じた、人生における“共通のスタートライン”ないし「機会の平等」の保障の強化
(2)「ストックの社会保障」あるいは資産の再分配(土地・住宅、金融資産等)
(3)コミュニティというセーフティネットの再活性化
 
 ここで、例えば相続の問題にも触れられます。「格差の相続ないし累積(あるいは貧困の連鎖)」が無視できないほど浮上している、と現状認識を述べ、

 個人の「チャンスの保障」という、それ自体は資本主義的な理念を実現するために、ある意味で社会主義的とも言える対応が必要になるという、根本的なパラドックスがここには存在している言い換えれば、逆説的にも個人の「自由」の保障は、“自由放任”によっては実現せず、むしろそれは積極的あるいは社会的に「作って」いくものなのである。(pp.160-161)

 人生前半の社会保障として「教育」があります。わが国は教育に対する公的支出が少なく、私費負担が多いというデータ。GDPに占める公的教育支出の割合を国際比較すると、一位のデンマーク(7.5%)のかノルウェー、アイスランド等北欧諸国が上位を占める一方、日本のそれは3.6%で、先進国(OECD加盟国)中で最下位という状況が5年連続で続いている(OECD加盟国平均は5.3%)。特に日本の場合、小学校入学前の就学前教育と、大学など高等教育における私費負担の割合が高いことが特徴的で、これは「機会の平等」を大きく損なう要因になっていることだろう(就学前教育における私費負担割合は55%(OECD加盟国平均は19%)、高等教育における私費負担割合は66%(同31%、以上2011年のデータ)。(pp.161-162)

 これは戦後の教育改革が存続する中で格差の累積や“世襲”的な性格が強まっているのが現在の日本社会だろう、と本書。「日本社会は、いわば放っておくと“固まりやすい”社会であり、」という記述があり、これはまったくその通り、とわたしも思います。変に「変えたくない」が強く出る。高齢化、長寿命化すると前の世代が決めたことを益々変えられなくなるかもしれません。

 またここに見られる「教育コストを公的に負担したがらない性格」は、企業研修にもまったく同じ現象があり、皮肉なことに国際平均との間の差の数値もよく似ています。「欲しがりません勝つまでは」を教育に関してやってしまっています。

 さらに社会保障の「世代間配分」に関しては、日本は社会保障全体の規模は先進諸国でもっとも「小さい」部類に入るのに、高齢者関係支出(年金)の規模はもっとも大きいというデータが目を引きます。日本と似た構造にあるのはギリシャやイタリアなどの南欧諸国でありこれらの国々は社会保障全体の規模は相対的に低いが、年金の規模は大きいという特徴があります。高齢者の「世代内」にも大きな格差があり、全体として、日本の年金は「世代内」および「世代間」の双方において、ある意味で“逆進的”な、つまり「格差をむしろ増大させる」ような制度になってしまっています。(pp.163-166)

「ストックの社会保障」という概念。
 「所得」つまりフローの格差より「ストック」あるいは資産(金融資産や土地・住宅)に関する格差のほうが大きい。

 実際、格差の度合いを示すいわゆるジニ係数を見ると、年間収入(二人以上の一般世帯)のジニ係数が0.311であるのに対し、貯蓄におけるそれは0.571、住宅・宅地資産額におけるそれは0.579となっており(全国消費実態調査、2009年)、所得よりむしろ金融資産や土地等の格差のほうがずっと大きいのである。(pp.168-169)

 土地所有に関してヨーロッパでは土地における公的所有の割合が相対的に大きく、特に北欧などは、たとえばヘルシンキ市では土地の65%が市有地であったり、ストックホルム市では土地の70%が市有地であるなど、「土地公有」が一般的なのだといいます。ここから、本書では今後は資産の再分配あるいは「ストックの社会保障」という観点からの対応が重要であるとし、具体的には、住宅保障の強化や土地所有のあり方の再吟味(公有地ないし「コモンズ(共有地)」の強化や積極的活用)、そして金融資産・土地課税の強化とそれによるストックの再分配や社会保障への充当を挙げます。(p.171)

これについてピケティの『21世紀の資本』では、「経済成長の速度が弱まる時代においては、自ずと過去の資産が不均等に大きな重要性をもつに至る」そして「起業家は金利生活者に転身するのが不可避となる」と述べています。それは資本主義の終焉または自殺行為であるとし、それを回避するために「資産の再分配」が要請される。本書の記述によれば、「つまり資本主義的な理念を存続するために、社会主義的な対応が必要になるというパラドキシカルな構造があり、これは「人生前半の社会保障」と機会の平等をめぐる議論と同質のものだとします。(pp.172-173)

 第8章「コミュニティ経済」。ここはほぼ過去の著作少なくとも1冊分の考察が収められている「濃い」章です。
 「ローカル‐ナショナル‐グローバル」という横軸と、「共」「公」「私」の原理の縦軸。
一般的には、
「共」〜コミュニティ →ローカル
「公」〜政府 →ナショナル
「私」〜市場 →グローバル
と対応するとします。
 しかし、16世紀前後からのプロト工業化、産業革命期以降の本格的な産業化ないし工業化の中で生じたのは、“「共」も「公」も「私」も、すべてがナショナル・レベル=国家に集約される”という事態だった、といいます。「国民経済」という意識あるいは実体が前面に出ることになり、「産業化(工業化)」の“空間的な広がり(ないし空間的ユニット)”は、ローカルよりは広く、グローバルよりは狭かったのです。「金融化=情報化」の時代に入ると、その最適な空間的ユニットはグローバル・レベルに移りました。(pp.177-185)

 そこで今後の展望は、
(1) 各レベルにおける「公‐共‐私」の総合化
(2) ローカル・レベルからの出発
という2点が重要になるだろう、と本書は言います。
 なぜなら、
 ポスト情報化・金融化そして定常化の時代においては、いわば「時間の消費」と呼びうるような、コミュニティや自然等に関する、現在充足的な志向をもった人々の欲求が新たに展開し、福祉、環境、まちづくり、文化等に関する領域が大きく発展していくことになる。これらの領域はその内容からしてローカルなコミュニティに基盤をおく性格のものであり、その「最適な空間的ユニット」は、他でもなくローカルなレベルにあると考えられるからである<。(pp.185-186)

 ここでまた日本の社会資本という観点からみると、明治以降の日本における様々な社会資本の整備は、鉄道や道路などの社会資本が、徐々に普及しやがてその成熟段階に達するという「S字カーブ」として示されています。鉄道、道路、そして高度成長期後半には廃棄物処理施設、都市公園、下水道、空港、高速道路など“3つのS”があります。
 これら工業化時代あるいは高度成長期の社会資本整備は、いずれも「ナショナル」な空間範囲に関わるものでした。しかしそれらはすでに成熟・飽和状態に達しており、今後大きく浮上する“第四のS”があるとすれば、それは情報化・金融化の波でありグローバルな性格を持つもの。その後にくる“第五のS”としては、福祉(ケアないし対人サービス)、環境、文化、まちづくり、農業等、「ローカル」な性格の領域だろう、と本書は述べます。「言い換えれば、経済構造の変化に伴って、いわば問題解決(ソリューション)の空間的ユニットないし舞台がローカルな領域にシフトしているわけで、(略)“地域への着陸”という方向が今求められているのである。」(pp.187-190)

 地域においてヒト・モノ・カネが循環し、そこに雇用やコミュニティ的なつながりも生まれるような経済という展望は従来から著者の著作に繰り返し現れ「コミュニティ経済」と名づけられます。イギリスの経済学者シューマッハーの流れを引き継ぐNEFという団体が2002年、「地域内乗数効果」という興味深い概念を提唱しています。
こうしたローカルなコミュニティ経済が比較的うまく機能しているのは、ドイツやデンマークといった国々だそうです。多くの都市で中心部からの自動車排除がなされ「歩いて楽しむ」ことができゆるやかなコミュニティ的つながりを感じられるような街があり、座ってゆっくり過ごせる場所があります。
 著者自身は「私見では」と断り、コミュニティ経済の例として「(a)福祉商店街ないしコミュニティ商店街、(b)自然エネルギー・環境関連、(c)農業関連、(d)地場産業ないし伝統工芸関連、(e)福祉ないし「ケア」関連 などを挙げています。(e)の例としては千葉県香取市の「恋する豚研究所」の試みを挙げます。(pp.190-197)


 著者自身がここ数年進めている「鎮守の森・自然エネルギーコミュニティ構想」。

 ドイツではエネルギーの地域自給を目指す「自然エネルギー100%地域」プロジェクトというものが進められており、2012年現在でそうした自然エネルギー100%地域は74で、ドイツの面積全体の28.6%、人口では2000万人(24.2%)に及んでおり、なお急速に拡大中であるといいます。
 自然エネルギー拠点の整備というテーマはローカルな地域コミュニティの再生という視点とリンクしなければならないと著者は考え、そして「神社」「鎮守の森」に着眼します。全国の神社の数は約8万数千で(お寺もほぼ同数)、コンビニの約5万よりずっと多い。神社は単なる宗教施設ではなく、「市」が開かれたり「祭り」が行われたりするなど、ローカルな地域コミュニティの中心としての役割を担っていた、といいます。こうした鎮守の森と、自然エネルギー拠点の整備を結びつけ、福祉や世代間交流などの視点も総合化して進めていくというのが「鎮守の森・自然エネルギーコミュニティ構想」です。

 そしてこうした試みは実際に進んでいて、岐阜県と福井県の県境にある石徹白(いとしろ)地区という場所で、地域再生機構というNPOが小水力発電を通じた地域再生事業を進めています。そこはかつて白山信仰の拠点として栄えた地域であり、「小水力発電を見に来ていただく方には必ず神社にお参りいただいています」というのだそうです。
 鎮守の森以外にも、学校、福祉・医療関連施設、自然関係(公園等)、商店街、神社・お寺なども、自然エネルギー等とうまく結びつけコミュニティで循環する経済を築いていくことがポスト成長時代の日本における中心的な課題になるだろう、と著者は言います。(pp.200-204)

 ここで、「緑の福祉国家」「持続可能な福祉社会」というコンセプトが出てきます。

 資本主義が様々なレベルの格差拡大と過剰という構造的問題を抱えていることへの対応として、
(1) 過剰の抑制(2)再分配の強化・再編(3)コミュニティ経済の展開
という3つの方向があり、(1)〜(3)を含んだ全体を「緑の福祉国家」ないし「持続可能な福祉社会」という社会構想と本書は位置づけます。

 「福祉」と「環境」を結びつけて論じることは奇異に、また理想論にみえるかもしれませんが、おもしろいことに両者には一定の相関がみられるようなのです。

 本書p.211のグラフでは、ジニ係数を縦軸、環境パフォーマンス指数を横軸にとったとき、メキシコ、トルコ、アメリカ、韓国、日本は同一グループに属し図の左上に位置します。「高ジニ係数、低環境パフォーマンス指数」のグループです。また図の右下には格差が相対的に小さく、環境パフォーマンスが良好な国があり、スイスやドイツ、北欧などがあります。

 ―このグラフは大変興味深いですが、このブログには図表は引用しません。見たいかたは本書をお買い求めくださいね―

 なぜ、こうした相関が起こるか。前者の諸国では、おそらく競争圧力が高く、再分配への社会的合意も低いので、「パイの拡大=経済成長による解決」という志向が強くなり、環境への配慮や持続可能性といった政策課題の優先度は相対的に下がるのだろう、と本書。  逆に後者の「格差小、環境パフォーマンス良」の諸国では、
競争(上昇)圧力は相対的に弱く、また再分配への社会的合意も一定程度存在するため、「経済成長」つまりパイ全体をお拡大しなければ幸せになれないという発想ないし“圧力”は相対的に弱くなるだろう。

 それは(家族や集団を超えた)「分かち合い」への合意が浸透しているということでもあり、つまりこれら「福祉/環境」関連指標や社会像の背景には、そうした人と人との関係性(ひいては人と自然の関係性)のありようが働いているのだ。

 同時にそこには、そもそも自分たちが「どのような社会」を作っていくか(いきうるか)という点についてのビジョンの共有ということが関わっているだろう。(pp.209-213)
 
 −このあたりは力のこもった記述であり少し長く引用しますね−

 日本の抱えるマイナス要素。わが国では、経済格差は大きい部類に入り、労働時間も長く、「社会的孤立度(家族や集団を超えた人とのつながりの少なさ)」も先進諸国の中でもっとも高く(世界価値観調査での国際比較)、年間の自殺者がなお2万5000人程度存在する(2014年)、「人生前半の社会保障」も不十分である一方、国の借金は1000兆円を超え先進諸国の中で突出した規模になっている。
 それらの根本的な背景として、日本においては、(工業化を通じた)高度成長期の“成功体験”が鮮烈であったため、「経済成長がすべての問題を解決してくれる」という発想から(団塊世代などを中心に)抜け出せず、人と人との関係性や労働のあり方、東京‐地方の関係、税や公共性への意識、ひいては国際関係(「アメリカ―日本―アジア」という序列意識など)等々、あらゆる面において旧来型のモデルと世界観を引きずっているという点が挙げられるだろう。(p.214)
 
 さて、最終章では、「市場の失敗」、手塚治虫の「火の鳥」の生命観、文化の多様性、エピジェネティクスなどの話題が出てきますが、最終的に
「『ポスト資本主義』の社会構想が求められているということと、生命の内発性や「関係性」、多様性・個別性に関心を向ける新たな科学のあり方が様々な領域で“同時多発的”に台頭していることはパラレルな現象なのである」と本書は述べています。

 本書の主張としてはこれでほぼ大団円を迎えていると思いますが、わたしの個人的な興味で、「思想」のもつパラドックスのところも抜き書きをしておきたいと思います。

 “第二の定常化”の時代に生成した枢軸時代/精神革命の諸思想、仏教、儒教、老荘思想、旧約思想、ギリシャ哲学など。共通していたのは特定の民族や共同体を超えた「人間」あるいは「人類」という観念を初めて持ち、そうした人間にとっての普遍的な価値原理を提起したという点にその本質的な特徴がありました。それぞれ風土的環境を反映した特徴はありましたが、「普遍性」への志向という点は共通していました。またある意味でいずれも「幸福」の意味を―たとえばキリスト教の愛、仏教における慈悲、儒教やギリシャ思想における「徳」―といった形で説きました。
 さらに、これらの諸思想は、「普遍性」を“自認”するぶん、互いに共存することは困難な性格を持っていました。
 つまり、およそ思想というものは、自らの考えの「普遍性」を自負し主張する度合いが強ければ強いほど、互いに両立が困難になるだろう(これは象徴的には“複数の普遍”は可能か、という問いの形で表現することもできる)。(p.238)
 現代のような時代においては、キリスト教とイスラムの対立を含めて、普遍宗教同士が互いにそのままの形で共存するのはきわめて困難な状況になっている。(p.239)

―耳の痛いところです。正田がときに狭量な記事をブログアップするのは、自分的には妙な邪教のたぐいが正田の領域を侵してきた場合はやり返す、それもその邪教がとりわけ弱者に対して優しくない、と判断したときにそうするのですが、じゃあ副作用のない「普遍志向」のよその思想が出てきたときにちゃんと仲良くできるんだろうか。そもそも正田は狭量な人間なんじゃないだろうか。


 本書の提唱する望ましい「地球倫理」は、第一のポイントとして、「エコロジカル」を挙げます。

「地球上の各地域における思想や宗教、あるいは自然観、世界観等々の多様性に積極的な関心を向け、しかもそうした多様性をただ網羅的に並列するだけでなく、そのような異なる観念や世界観が生成したその背景や環境、風土までを含めて理解しようとする思考の枠組み」(p.239)。

 ―これは、学生時代「国際関係―地域研究」ゼミに籍を置き、「地域研究」がいかに学際的な学問であるか、実際に勉強したかどうかは別にして「こんこん」と恩師から説かれたわたしにとっては、いささかなつかしいフレーズでありました。

 もう一つのポイントは、「自然信仰/自然のスピリチュアリティ」。それは自然信仰が重視する生命や自然の内発性に関心を向けるということにもつながります。フランスの精神医学者ミンコフスキーの「生命との直接的な接触」という言葉が出てきます。
 もっとも「ローカル」な場所にある自然信仰は、その根源において宇宙的(ユニバーサル)な生命の次元とつながり、それはグローバルな地球倫理をも包含する位置にあると言えるかもしれない。(pp.240-243)
 
 ―抜き書きは以上であります。丁寧にロジックを押さえながら読めば、著者自身が丁寧にさまざまな議論を踏まえながら論をすすめているおかげもあり、さほど突飛なとか理想論に走った結論部分ではないように思います。

 ―わたし個人は21世紀の初め(もう15年も過ぎてしまったが)の現時点において、アカデミズムの立場での責任感ある論考の仕事と大変興味深く読ませていただきました。

 ―さて、「承認」は「地球倫理」というところまで格上げされるというシナリオはあるのでしょうか。いちおうそういうのを頭のすみに置いて最後のほうの文章を読ませていただいた不遜なわたしであります。拙著『行動承認』の末尾部分で生命活動と「承認」について身近な出来事に絡めて書いたのと、最近はまた個人的に少し「生命との直接的な接触」ということもこころみています。



(一財)承認マネジメント協会
 正田佐与

 「内発的動機づけ」がまたリバイバルブームなのでしょうか。

 NPOリーダーのためのブログでエドワード・デシの「内発的動機づけ」が紹介されており

 http://npotips.seesaa.net/article/52577385.html

(正田は元NPOリーダーのくせにこの記事を知らなかった)

 きのう話をされたNPO関係の人はこれを金科玉条にしているのかな、と思いました。

 ググってみると有名な自己啓発セミナー会社のサイトにも「内発的動機づけ」は大きく載っております。ちなみに正田は自己啓発セミナーが差し違えたいぐらい嫌いであります。


 エドワード・デシの『人を伸ばす力』については、当ブログでは2011年暮れに読書日記を書いています。れいの『報酬主義をこえて』とのからみです。

 http://c-c-a.blog.jp/archives/51781122.html


 要は、「外発・内発っていう分け方自体にあんまり意味ないよね」というのと、「内発的動機づけが一番好きな社会人は、大学の先生とかの一人作業で仕事する人なんじゃないの?」というものです。例によって、「大学の先生は自分たちのことを研究するのが好き」なのです。


 正田は、例えば子供や若者が新しく何かに習熟する時、初期には指導者からの励ましや褒めなどの「外発的動機づけ」の出番が多く、次第に習熟すると作業そのものの手ごたえが楽しくなり報酬系が活性化されるので、いわゆる「内発的動機づけ」の状態になるだろう、報酬系を回すガソリンが交代するだけの話だ、それでも外発的動機づけの仕事はなくなるわけではない、というようなことを過去に書いていますが、

 ちょうどこれと同じことを、1991年に国内の研究者が言っています。

 https://kaken.nii.ac.jp/d/p/03610044


 デシが『人を伸ばす力』を書いたのが1996年だったが、その5年も前に国内ではこういう研究がちゃんとなされていたのです。

 ほらね、正田ってあんまり間違わないでしょ?

 ・・・あと、デシのファンの方には申し訳ないですが英字のWikiでデシの扱いは小さいですね。行動理論家たちに比べてはるかに小さいです。行動理論は、初期のスキナーの頃には一部確かに同意できない主張もありますが例えば学習された無力感やポジティブ心理学のセリグマン、アサーションや系統的脱感作法のジョゼフ・ウォルピ、模倣学習理論のバンデューラなど、良心的ないい心理学者を輩出していますよ。


 身近な人の例としては、あるアーチスト(音楽家)の知人がいました。彼女は難病を抱えたアーチストとして学校関係にも講演兼演奏会をするのですが、子供たちに「夢はある?」と問いかけ、「今の子は夢がない」と嘆いていた。自分は小学校の時から「アーチストになる」という夢を持っていた、と言いました。

 それについてわたしは多少批判的に、「夢をもつとき、普通は身近な人からの褒めや励ましがあって自信をもったから夢をもったのではないだろうか。何もない状態で夢を持てただろうか」とぶちぶちブログに書きました。

 すると彼女は新しく思い出したようなのでした。

 その次の講演兼演奏会で、「私を褒めてくれた学校の先生がいた」と彼女は言いました。
 他に取り柄のなかった私のピアノの演奏を褒めてくれた。
 通信簿で彼女の音楽が4か5か微妙なとき、ほかの成績のいい子の5をつけかえて私を5にしてくれた。

 その後お母さんの勧めもあって、彼女は中学時代に「演奏家になりたい」と心に決めた、といいます。


 そういう、記憶の改ざんのような現象もあいまって、何しろ「内発」「自己決定」「目標を持つ」などは快楽物質のドーパミンの仕事なので、刺激がきついのです。いっぽう信頼する先生やお母さんにほめられ励まされたのは、たぶんオキシトシンやセロトニンのマイルドな喜びであり、ドーパミンに比べると記憶に残りにくいのです。でもたぶんオキシトシンが出たからドーパミンも出たのです。


 わたしがなんでこんなに「内発と自律」のモチベーション論に神経をとがらせるのかというと、それが主流になってしまうと、まず「権力者の怠慢」が起こるからです。モチベーションを喚起するような上司・先輩からの介入が不要だ、ということになってしまうからです。
 そして、権力者の側はちょっとほっとくといくらでも怠慢になれるのです、古今東西。

 かつ、地位の低い人たちに関しては、目標や夢を持つことができるのはとりわけ日本人では少数派なので、(平本あきお氏の「ビジョン型と価値観型」のフレームワークに割合わたしは同意するほうです。わたし自身は価値観型だと思います)目標を持つことができた人だけが「勝ち組」になり、残りの人は落ちこぼれる、ということになりかねない。

 たとえば貧困問題の解決のために何をすべきか。ごくまれに夢や目標をもって、アメリカンドリームみたいに貧困層から成りあがった人がいるとする。では、すべての貧困層の人が夢を持って立志伝中の人になることが解決になるのでしょうか?社会の構造的な問題を何とかしないといけないのではないですか?自己責任論にまでなっちゃいますよね。私リバタリアンじゃないので。

 また、社会福祉的には、昨日のパネルディスカッションでどなたかいみじくも言われたように、「寝たきりのおとしよりにどう夢を持たせられるのか。それを家族介護している人もどう夢を持てるのか」というのもあります。認知症の人では前頭葉が縮小する、実行機能がなくなるのですから夢とか計画どころではありません。でも自分の「尊厳」を感じる力は残っているのです。もちろん不幸にも災害に遭った人も同様で、夢を持つどころではない精神状態の時期が長いでしょう。
 


 色々ありますが、1つ前のブログ記事を借りてお客様のご協力をいいことに、「あんたら内発と自律方式でこれと同じことやってみろよ」と思います。現実に「効く」ほうを使ったほうがいいじゃないですか。


 で、「承認方式」では「内発と自律」は全然要らないのかというと、あります。ちゃんと組み込んでいます。

 相手の「内発と自律」が存在するならそれを尊重するのが「承認方式」です。

たとえばわたしの最初の子は誰に似たのか「じぶんで〜!」とか「やーだ」が口癖の我の強いおこさまでしたが、彼女の「内発と自律」を尊重して延々と自分でお着替えするのを手を貸さずに待ちました。その子は高校ぐらいからリーダーになりました。二人目の子はそんなに「じぶんで〜!」が強くなく手が止まることも多かったので、もう少し手伝ってやり、でもできるだけ最小限にして自分でやることを多くしていました。本人たちにとってはそれは「内発と自律」でしたがこちらからみると彼女らの「内発と自律」を「承認」していたわけであります。

 以前ヘーゲル承認論の中で「間主観性」という概念に触れましたが、人はその人の主観だけで生きていけるわけではないのです。主観に即していえば「内発と自律」、しかしそれを「承認」してくれる他者がいなければ「内発と自律」を発揮することはできないのです。

 内発的な動機というと、たとえば「価値観」というものがあります。人を思わず知らずある行動をとるようにプログラミングしているもの。(自閉症の人では、それは「常同行動」という形をとります。)


 「相手の価値観を尊重せよ」は、「承認マネジメント」にもちゃんと組み込んであります。

 ただ、企業活動ですから働き手の側もその企業の価値を尊重しないといけません。というか、本来はその企業の理念に共感して入ってくるのが筋です。

 ある程度仕事に習熟した働き手には仕事を任せ、相手の内発的自律的働きにゆだねることも承認。

 ちょうどきのうのお客様のところでは、2年目の若手クンが「〇〇をしましょうか?」という言い方から「〇〇をやります」という言い方に、「承認」後に変わった、というお話も出ました。「承認」によって「内発」「自律」も育つ、というのは以前から明らかだったことです。大学の先生ってこういうことを知らないんでしょうか。

 目標を持つ力がついてきたら目標を設定させることも承認。

 何か文句あります?


 なので、「承認マネジメント」と「内発と自律」は、「含む、含まれる」の関係なんです。ごめんなさいね。あたしの方が大きくて。「内発」は大事なことではあるけれど、指導者が「大事だ」と頭に入れておけばいいことで、「内発さえあれば外発は要らない」「アメとムチ」などという論の立て方は大変おかしなことなのです。



 自己決定感とか自己有能感とか、「モチベーション」に関わる用語は色々あります。でもどれもドーパミンがらみの概念です。いっぽう承認マネジメントの世界では、独特の「みていてくれるんだなあ」という感覚があります。拙著『行動承認』で初めて出てきましたが、その後の研修でも繰り返されています。まだ、学術的な名前はありません。

 この「みていてくれるんだなあ」の感覚に、どなたかかっこいい名前をつけていただけないものでしょうか―。
ひょっとしたら経営学史上に名前が残るかもしれないですよ?



(一財)承認マネジメント協会
 正田佐与
 

 26日、東京・江戸川区の株式会社牧(ベーカリーチェーン「リヨンセレブ」)様での第2回研修でした。


 「承認研修」の2回目は、前回からの実践報告で華やいだ空気ではじまります。
 お盆に「全スタッフへの承認個別面談」をされた店長が、「ブログ読ませていただきました」と輝く表情で言われました。

 ほかの皆様からも、

「商品開発を承認したところ次の商品開発をしてくれた」
「色々と気がついてフォローしてくれる」
「具体的な行動承認によって2年目の壁を乗り越えてくれた」
「製パンの段取りを自分で決めておぼえてくれた」
「若い人が自発的に仕事をするようになって仕事を頼みやすくなり、自分の仕事が進んだ」

…などと、嬉しいご報告がありました。
「自分の仕事が進んだ」と言われた20代後半の製パン責任者さんは、来月のオリジナルキャンペーン商品を開発し、開発者の顔写真つきで大きく売り出すそうです。

 「勇気」と「時間」の両面で「イノベーション」に関わってしまいましたね…。

 
 また、「承認」をきっかけに内省の言葉を自分から言ってくれた、という例も複数きかれました。

 「承認」がつくる安心感・信頼感があると、すすんで内省をする勇気を持てる。
 一般に信じられているような、フィードバック技術を磨けば内省をしてもらえる、というのとはまたちょっと違うのです。それとは別の有効なルートがある感じなのです。


 「承認研修」の2回目はまた、どどーんと奈落に突き落とされるような、イヤなお話をする場面もあります。
わたしなんかがこんなことご指導する資格があるのだろうかと思いながら、でも何か一つお伝えするために膨大なアーカイブを作るのがわたしだ、ときっと受講生様はわかってくださっている、と祈りながら。
 これも、皆様真摯に受け止めてくださり、
 わたしが思うのに、「承認」がつくる幸福感の力を借りれば、イヤな現実を直視する勇気をも持てるのではないかと思うのです。
 逆に、そういう手順でなければこういうお話をどうやってするんだろう、と何度かこの手順でやってきているわたしなどは思います。


 研修終了時、ひとつのサプライズがありました。

 同社のNO.2、飯田万里子GMが前に立ってご挨拶され、

「私はこれまで、社長に承認していただけなかったんです」

と、カミングアウト。

飯田GM


 「新規のお店を立ち上げ、既存のお店に改善のために入り、夢中でやってきましたけれど、社長からはひとことも承認がなかった。そのことでどんなに心が不安定だったか。ところがこの春、社長が承認してくださったんです。私はおかげで救われました。
 あとで伺うと、正田先生から社長に『承認の宿題』が出ていて、その宿題の対象が私だったんだそうです」

 飯田GMは学校時代体操部のキャプテンだったそう。今もとてもスラリと細身の体で、この日はキャンペーン用のポロシャツ姿でしたが美しい方です。

 ―わたしはビジネス界で有能な女性が妨げられずに能力を発揮されているのをみるのがすきであります。それは浅田真央ちゃんやなでしこジャパンが世界で活躍するのをみるのと同じくらい、目の喜びなのであります。
 そして以前にも書いたと思いますが、有能な女性たちは決して権力ある男性におもねるわけでも底意地がわるいわけでも人を蹴落としたいと競争心マンマンなわけでもない、単に神様が与えてくれた能力を十分に発揮しているだけなのであります―

 続いて牧田雄治社長が立たれ、

牧田社長


 飯田GMからの”暴露”は想定外だったと頭をかきながら、

「なんというか、昔の男の意識で、『言わなくてもわかるだろう』『部下をおだててどうするんだ』という意識があったんですよねえ。恥ずかしい。私自身もこの『承認』によって救われました」。

 そして、

「この『承認』は末永く取り組んでいきましょう」

と、店長さん方に呼びかけられたのでした。

時間は戻りますが研修冒頭には、

「マネジメント論多数あるが横滑りであれもこれもやっても何も身につかない。一つを深くやること。そのうえでほかを見てみると、そこでも得るものがある」

と、その通り!!と膝を打ちたくなるご挨拶をしてくださった牧田社長です。
本当に、教えているわたしもどんなにか、皆様が末長く使ってくださることを願っていることでしょう。そしてこういうことをお分かりになっている方が少ないことでしょう。


 このあとは受講生様方も全員参加の懇親会になり、そこでは「承認」というよりはプライベートの暴露やらカミングアウトの話が飛び交い、男性も女性も学校の部活のようにげらげら笑いあってらっしゃいました。プライベートダダもれみたいになったのは「承認効果」なのかどうか、以前はそこまでの雰囲気ではなかったということですが。

 そしてまた生地部の方から「リヨンセレブ」の材料のこだわりについて伺いました。粉は他店にないミックス粉だし、味オンチの正田でもこれはと思ったように、バターも〇〇〇バター100%使用なのだそう(このところの調達は大変だったそうだ)
「材料にこだわっても原価100円上がるぐらいですからね。それなら10個余分に売ればいいこと」
と、牧田社長。
 ご近所に住んでいたら絶対毎日買いにいかしていただくなあ。
 
 まじめな話、先日の試食以来、パン屋さんに入っても
「ここは惰性で流して仕事してるなあ」
「ここは本気でやってるなあ」
と空気を感じるクセがついてしまいました。


「聡明な皆様が、
はるばるスイスやドイツまで理想のパンの味を求めて行かれ、
また粉のミックスを何通りも工夫してパンを焼かれる、
それと同じ学習欲や探求心を、
この研修の採用と学習に向けてくださった、
そのことが嬉しいのです」

とわたしは牧田社長へのメールに書きました。


****


 帰神して午後に福祉関係の講演会+パネルディスカッションへ。

 ここでは、兵庫県稲美町でのおとしよりのコミュニティづくりの話がおもしろかったです。

 地域に役立つちょっとした手仕事をし、感謝されるとやりがいになる。そうして公民館などに集まっていたおとしよりが、ある日「ピンピンコロリ」で亡くなってしまう。介護の手が要らない。

 そういうふうに、最後の最後までだれかに役立っていると実感して生き、そして「ピンピンコロリ」ができたらいい人生ですよね・・・。

 こういうのもひろい意味での「承認」と、わたしは捉えてしまいます(いえ、ピンピンコロリが、じゃないですよ、仕事をして感謝されるのところがですよ)


 一方で、日本の団塊世代の方と、アメリカの「内発と自律」思想の人(主に大学の先生)のモチベーション論は重なるところがあるようで、その部分は困ったなという感じでした。いかにも朗らかで外向的で幸せな人生を送ってきただろうな、話をすることが楽しくてしょうがない感じだな、という人ですが基本的に他者へのリスペクトがない。スピーカー稼業をする人なんて、他人をリスペクトしていたらやってられないところがあるだろうかなナー。奥さん幸せカナ。
 こういうモチベーション論の「思想対立」はほんとうに不毛だ。もう「認める」でまとめてしまえればよいのに。


(あれ、基調講演って誰だったカナ(^O^))



(一財)承認マネジメント協会
 正田佐与

 近著『行動承認』に、嬉しいエールをいただきました。

 千葉大学法政経学部教授・広井良典氏(公共政策、科学哲学)より。

 ご了承のうえ、いただいたメールをご紹介させていただきます(また後日のメールのやり取りをもとにご了承のうえ加筆させていただいております):


正田佐与様
 先日は貴重な御著書をお送りいただきありがとうございました。
 質の高い内容が大変わかりやすい形で述べられており、意義の大きい内容と感じるとともに、土台に哲学的な思考が流れていることが伝わってくる内容で、印象深く受け止めました。
 もちろん実際の研修では実践的でわかりやすい内容にすることが求められると思いますが、それがありがちなマニュアル的なものにならないためにも、哲学的な考察のところが意義深いと思います。
 ヘーゲル承認論に関するブログ記事や、どこかで中国哲学に関することも書かれていたと思いますが、そうした哲学や科学への御関心がベースにあることが、単なるノウハウ本や技術論ではない深みにつながっていると思います。またそうしたものへのニーズは現在の日本で大きいと思います。
 御礼とともに、事業の発展に期待しております。     千葉大学 広井良典



 広井教授は近著『ポスト資本主義―科学・人間・社会の未来』(岩波新書、2015年6月)をはじめ、『定常型社会―新しい「豊かさ」の構想』(同、2001年)『コミュニティを問いなおす つながり・都市・日本社会の未来』(ちくま新書、2009年)など、「人口減少」「拡大・成長から定常への移行」「コミュニティ」「福祉」について一貫した視座をもって発言してこられた方です。

 ちょうどそれらの著書の中にある、例えば

近年の諸科学において人間の利他性や協調行動が強調されるようになっているのは、そのような方向に行動や価値の力点を変容させていかなければ人間の存続が危ういという状況に、現在の経済状況がなりつつあることの反映とも言えるだろう」(『ポスト資本主義』)

というフレーズに不肖正田が膝をうち、著書をご献本させていただいた、という次第です。


 『ポスト資本主義』をもういちど真剣に読解させていただこう、と思いました。

  
 一回りも幾回りも大きな視点で現代を読み解かれる方より評価いただけたのは幸せなことです。
 わたしだけでなく、信念をもって取り組んでくださるいまだ多数派とは言い難い受講生様方にも勇気をいただけたことでしょう。

 
 広井先生、ありがとうございました!


(一財)承認マネジメント協会
 正田佐与

『見て見ぬふりをする社会』(マーガレット・ヘファーナン、河出書房新社、2011年12月。原題’Willful Blindness!)という本を読みました。

 表紙には、「見ざる言わざる聞かざる」のイラスト。巨大組織の中で、忙しさや疲れのために、また拝金主義のために「本来見えるものを見ようとしない」人々の行動に焦点を当てています。
 以前伊丹敬之氏の講演に出て来た「偏界曾て蔵さず(真理は現れているものだ、ただ目が曇って見えないだけだ。道元の言葉)」という言葉にも通じそうですね。

 久々の「判断を歪めるものとの闘い」の更新になります。著者のマーガレット・ヘファーナンは作家。ハフィントン・ポストのブログの寄稿者でもありTEDでの「意図的な無視」や「生産性を上げるのにスター選手はいらない」に関する講演をネットでみることができます(ので、この人の存在を知り、検索してこの邦訳書があるのを知りました)

 「見て見ぬふり」に関する非常に多数の事例と人物の登場する400ページに及ぶ分厚い本なので、読書日記も長文になることをお許しください。登場する主な事例にはBP社の製油所爆発事故、エンロン、サブプライムローン、イラクのアプグレイブ刑務所での米軍による虐待事件などがあります。

 長文に備えて、本書の章立てを先に出しておきます。大枠でどういうことを主張している本なのか把握していただくために―。

日本語版刊行に寄せて
第1章 似た者同士の危険
第2章 愛はすべてを隠す
第3章 頑固な信念
第4章 過労と脳の限界
第5章 現実を直視しない
第6章 無批判な服従のメカニズム
第7章 カルト化と裸の王様
第8章 傍観者効果
第9章 現場との距離
第10章  倫理観の崩壊
第11章  告発者
第12章  見て見ぬふりに陥らないために
謝辞

それでは恒例の抜き書きです。なお、それぞれの抜き書きは厳密な引用ではなく本書の文章の要約です。引用をされたい場合には本書をお買い求めくださいね。


●大規模な事故や災害の前には、後悔してもしきれないパターンがあることが多い。早い時期に何度も警告(シグナル)が発せられていたのに無視されていたとか基本的な想定に誰も疑問を持たずにいたなどの状態がある。福島原発は見て見ぬふりの典型的な事例だ。早い段階で危険を知らせる兆候がいくつもあったが、複数の人や組織がそれを深刻に取り上げようとしなかった。

●彼らがそうしないのは、知りたくないからだという場合が多い。疲れすぎているとか、他に注意をそらされている。同時に複数のことをしなければならず、それぞれのシグナルを関連づけて考えるだけの時間も認知の容量もない場合もある。もっとも重要なのは、彼らが悪いニュースは絶対に歓迎されないと考えていることだ。

●法学者キャス・サンスタインは、同じような考えを持った人々を数人集めると、反論が出ないだけでなく、互いに影響しあってみな持論が極端になることを発見し、「集団極性化」と名づけた。サンスタインのグループを使った調査では、広範囲に及ぶデータと反論を提示されても、人々は現在の自説の根拠となるような情報にだけ集中して読み、自説と対立するものにはあまり注意を払わなかった。全体として、人々は自説に有利な情報を探すのに、反論を検討する際の二倍のエネルギーを注ぐ。

―人は自分の好むオピニオンを好む、ということですね。

●インターネットの大きな強みは類似点の多い人々のグループを作り、さらにそのグループ同士をつなげる力にある。我々は新聞と同じように、ブログを読む際にも自分が同意できるものを読む。

―ネットが無限の情報にアクセスできる装置なのかというと、やはり好みによって偏った情報をとりこんでしまうようです。Amazonもこれまでの購買履歴からお勧めしてきますしね、やはり時々リアル書店に行って全体ではどんな本が売られているのかみたほうがよいですね。

●バートン(神経科医)は偏見によって我々が何かを固く信じてしまうメカニズムを理解し、それを防ぐ方法を模索している。「脳は過去に認識したことがあるものを好む。なじみがあるものが好きなのだ。だから見慣れているものはすぐに見える。なじみがないものを見るには時間がかかる。あるいは意識の上では存在を認知せずに終わるかもしれない。それを見たくなかったからだ」

●偏見のできるプロセスは川床ができるプロセスに例えられる。一か所に長く住んだり、ある経験や友人や考え方に慣れたりすると、水は速く、容易に流れるようになる。抵抗がどんどん減っていく。抵抗がないことによって我々は居心地の良さや、安心感や確信を得る。しかし同時に、川の両岸の壁はどんどん高くなっていく。こうして見て見ぬふりがはじまる。意識して積極的に見て見ぬふりをするのではなく、一連の選択の結果、ゆっくりと、しかし確実に視界が狭まっていくのだ。そしてこの経過でもっとも恐ろしいのは、視野がどんどん狭くなっていくと、さらに居心地よさと自信を感じるようになることだ。

―ある主張で徒党を組んでいる人たちの視野が極端に狭いことがあるのを経験したことのある人は多いと思います。それは政党でも宗教でもどこかの有名大学のゼミでも。素人でも思いつくような反論を彼ら自身では思いつくことができない。わたしは去年から今年にかけて、「仲間」というものの居心地の良さと脆弱さを感じる経験をしました。「承認」という、外形的にはカルトにみえなくもないものを標榜する人々が集団をつくると、よほど気をつけないと視野狭窄になってしまうでしょう。


●人間は自分を好きになれ、安心できるような人間関係を探して守ろうとする強い傾向を持っている。だから似た者同士で結婚し、自分に似た人ばかりが住む地域に住み、自分に似た人たちと仕事をする。こうしたものを鏡にして自分の価値を確認している。

―私はつい「承認」というあまりにも正しいことが自明のものを、受け入れられる人そうでない人について考えてしまうのですが、「群れ」で思考するタイプの人は受け入れたがらないようですね。その人の属している「群れ」が、自明のことを正しいと受け取ることを阻んでいると感じます。


●愛は幻想に基づいているほうが長続きする。心理学の専門家グループが交際中のカップルを調査し、相手をどう見ているかを分析した。すると相手を理想化して見ている方が付き合いは長続きする可能性が高いことがわかった。本人がそう思っていない美点があると恋人が考えている場合、その恋人たちの関係に対する満足度が高い。

●ロンドン大学のチームは脳のどの領域が愛に反応して活性化するか調べた。その結果、あまり意外ではないが、愛によって活性化するのは報酬をつかさどる領域であることがわかった。食物や飲み物やコカインを得たときに反応する細胞が愛にも反応している。さらに愛情は死の恐怖さえ減少させることがあると示唆する証拠もあるようだ。

●愛によって活性が止まる領域。愛する対象のことを考えているとき、脳の二つの領域は使用されない。一つは注意や記憶や否定的な感情をつかさどる領域だ。そしてもう一つは否定的な感情と社会的な判断と他者の感情や意図の判別に使われる領域だ。つまり、愛によって脳に化学反応が引き起こされ、愛する人について批判的に考えられなくなる。

●愛が重大な悪行に目をつむらせた1つの例は、カトリック教会での児童虐待スキャンダル。教会への畏怖、両親への愛情、伝統を重んじる気持ち、このすべてのせいでコミュニティ全体が、間違いなくわかっていたはずの事実に目をつぶっていた。

●ナチスでの例。1942年以降ドイツ第三帝国でナンバー2の権力を持っていた建築家のアルベルト・シュペーアの見て見ぬふりは、ヒトラーへの愛情が大きな動機になっているという。シュペーアは若い頃ヒトラーに夢中になっていたので、ナチの残虐行為についての話を耳にしても何が起こっているかわかっていなかった。1944年1月、シュペーアはヒトラーの側近の間の権力争いで力を失い、そしてヒトラーの悪行の証拠をあらゆるところで見るようになった。シュペーアはひそかに命令を無視し、指示を無効にして、ヒトラーの焦土作戦を妨害した。10週間ぶりにヒトラーに会い握手したとき、シュペーアは考えた。「ああ、こんなに醜いと、いままでどうして気づかなかったんだろう?」


●エモリー大学のウェステンは熱心な民主党員と熱心な共和党員を15人ずつ集め、政治的な資料を読んでいる際の脳の状態をfMRIで調べた。実験の結果、熱心な党員である被験者は反対陣営の候補者の矛盾にはるかに厳しい反応をすることがわかった。「被験者たちはライバル党の候補者の矛盾を発見するのにはまったく問題を感じなかった。しかし自分が支持する候補者に関する問題がありそうな政治的情報を読んだときには、苦痛を作り出すニューロンのネットワークが活性化した。脳は誤った論法で苦痛を押さえ込む。しかも非常にすばやく。感情の統制をつかさどる神経回路は信念を利用して苦痛と葛藤を取り除いたようだ」

●ウェステンの実験で脳が用いている報酬回路というのは、麻薬中毒患者が一服したときに活性化するのと同じ部分である。つまり、自分と同意見の考えを見つけたとき、あるいは不愉快になるような考えを排除できたときに、人はお気に入りの麻薬を一服やったときの中毒患者と同じ陶酔と安心感を味わっている。

―フェイスブックも基本有名人のタイムラインは「そうだそうだー」の大合唱になりますね…


●不愉快な異論を、それがどんなに正しくても認めようとしない一例。医師アリス・スチュワートは1956年、妊娠中の母親に対するレントゲン検査が子供がガンにかかる確率を劇的に増加させることをデータで示した。しかし医師たちはその後25年間、妊娠中の母親たちにレントゲン検査を実施し続けた。1980年になってようやく、アメリカの主要な医療組織が実施をやめるよう強く推奨した。なぜそこまで時間がかかったか。アリスが離婚歴のある二人の子持ちの女性という型にはまらない科学者であることも不利な要因だった。当時の大病院は最新鋭の放射線機器をそろえていた。またアリスの発見は当時の科学界の主流となっていた重大な説を覆すものだった。当時、放射線を大量に被曝すれば危険だが、これ以下の値ならば絶対に安全だという閾値が必ずあるという閾値説が支持されていた。しかしアリス・スチュワートはこの場合、胎児にとって放射線はどんなに少量でも有害であると主張した。アリスの主張は科学者たちに認知の不一致を呼び起こした。アリスの説は間違っていなければならない。でなければ、他のあまりに多くの仮説を検証し直さなければならなくなる。

―人の命に関わる重要な発見が25年も黙殺された、というお話です。アリスの説が広く採用されるまでに数百万人の妊婦がレントゲン検査を受けたといいます。正田は10何年になりますがまだ未熟だなぁ。「女性」という要素が関わっているふしもあり少し長く引用してしまいました


●認知の不調和説。相いれない二つの考えが生む不調和は、耐えがたいほど激しい苦悩をもたらす。その苦悩、つまり不調和を減らすもっとも簡単な方法は、どちらか一つの考えを排除し、不調和をなくすことだ。科学者たちにとっては自説を捨てないことの方が簡単だった。

●認知の不調和説を提唱したフェスティンガーによれば、人はみな首尾一貫し、安定していて、有能で、善人であるという自己像を必死で保とうとしている。その人が一番大切にしている信念は、本人や友人や同僚から見たその人自身の人となりの核となる大切な部分だ。自己意識を脅かし、痛みを感じさせるものは、飢えや渇きと同様に危険や不快さを感じさせる。大事にしている考えを揺るがされることは、命にかかわるように感じる。だから我々はその痛みを減らすために、自分が間違っているという証拠を無視し、あるいは自分の都合のいいように解釈して、必死で抵抗するのだ。アリス・スチュワートの説がもし正しいと認めるとしたら、医師や科学者たちは、自分たちが患者に危害を加えていたという事実を認めることになる。


●経済モデルでも、こうしたイデオロギーと同じようなことが起こる。そのモデルに合う情報は取り入れ、組み込むが、当てはめられない情報は排除する。

●我々は自分の経済モデルや個人的な持論を大事にする。それはどういう人生を送り、誰と親しくなり、なにを支持すべきかという決断を容易にするからだ。我々の内面の奥深くにある自分自身というものは、我々の人生のすべての側面にとても深く関わっている。あまりにすべてに関わっているので、我々はなにを見、記憶し、吸収するかを選択するのにどれだけ深く関わっているかを忘れているかもしれない。

●元FRB議長のグリーンスパンは、ロシアからの移民で作家兼経済自由主義者のアイン・ランドの熱心な助手だった時期に世界観の重要な部分をつくられた。グリーンスパンは、政府による規制や制限から解放されれば、人はもっとずっと自由と想像力と富を得ることができるという彼女の信念を、まるである種の宗教のように熱く信じていた。ランドの世界観では、成功した者はすべての抑制から解き放たれ、自分の才能をフルに表現でき、喜びと達成感を味わえる。それを目標としない者は寄生者であり、脱落し、消えていくだろう。

―見事に「自己実現者礼賛」の人間観、世界観ですね。こうした目標志向最上志向自我の方々の自画自賛につきあった挙句現在の世界の格差社会ができあがったのだろうかと暗澹たる気分になります。

●グリーンスパンは規制緩和で金融商品に祝福を与えた。証券取引所を経ない店頭取引の金融商品には何の規制もかけられなかった。必要な資本がなくても、市場操作や詐欺に対する規制もないまま、取引を続けられることになったのだ。そして2001年、エンロンが破綻し、複雑に入り組んだ不正行為の中には自社の株価を頼りにしたデリバティブがあり、これが致命傷になって、出資者たちにはなにも残らなかった。グリーンスパンの信念のためにアメリカ経済は犠牲になった。


●第4章では疲労と脳の限界について解説する。BP社のテキサスシティの製油所の2005年の爆発事故では、従業員たちが過度のコスト削減策で37連勤という過酷な勤務実態で、疲れ切っていたため、事故の予兆を見逃していた。「疲れ切っている人間は思考が硬直化し、環境の変化や異常に反応するのが難しくなる。そして論理的に思考するのに時間がかかるようになる」。あることに意識を集中すると他のすべてが目に入らなくなるというのが疲れが行動に与える典型的な影響だ。これは認知の固着とか認知のトンネル視と呼ばれている。

●イギリス健康安全局(HSE)は連日の朝早いシフト(午前6時前後からの勤務)のせいで疲労のレベルが上がることを発見した。早朝シフト3日目では、初日に比べて30%疲労が増し、早朝シフト連続5日目では60%、そして7日目では75%疲労が増したという。

●一晩眠れなかっただけで脳の機能には多大な影響が出る。ブルックヘヴン国立研究所のダルド・トマシらは健康な非喫煙者で右利きの男性14人を集め、そのうちの半分に徹夜をさせた。翌朝、眠ったグループと眠らなかったグループの被験者に一連のテストをしてもらい、テストを終えた被験者をfMRIにかけて脳を撮影した。予想通り、眠い方の被験者はテストでの正確さが低かった。さらに、眠らなかった被験者たちは眠った被験者たちより脳の重要な二つの領域、頭頂葉と後頭葉が不活発になっていることがわかった。頭頂葉は脳の中でも感覚からやってきた情報を統合する部分であり、数字や物体の操作に関する知識をつかさどる部分でもある。後頭葉は視覚の処理をつかさどる。要するにこの二つの領域は視覚情報と数字の処理に深くかかわっているのだ。製油所のモニター画面を見ている技術者、コンピューターゲームのエンジニアがいつも仕事で扱っているのは?視覚情報と数字だ。つまり、どちらの仕事にも必要な脳の高レベルの活動が最初にだめになるのだ。

●疲れていなくても、我々が見ることのできるものは限られる。「インビジブル・ゴリラ」。バスケをする選手とゴリラの映像。
「我々は目にしたもののうち、自分たちが思っている以上に少ないものしか知覚していません。我々は指示されたことや探していることやすでに知っていることにしか注意をむけていない。特に脳が指示した事柄は大きな役割を果たす」(ダニエル・シモンズ)

―これは「行動承認」をマネジャーに訓練してもらうためのひとつの証左となりそう。これまでは「錯視」を使ったりしていましたが。


●シモンズらは10年にわたって単独でも共同研究でも実験をしてきた結果、人は予想しているものを見て、予想していないものは見えないという結論に達した。そして一定の時間内に取り込める情報量には絶対に超えることのできない限界がある。「人間の脳にとって注意力はゼロサムゲームだ。ある場所やものや出来事により注意を払うと、必ず他の場所への注意がおろそかになる」

―少し話が飛ぶけれど、わたしがなんで「承認」の話をしたいときに「主婦」と呼ばれるのを嫌がるかというと、記事の読者にとって「承認」というこの壮大な広がりのあるものを理解するだけでもそうとうな認知的負荷を伴うのに、それより先に「この女は主婦だ」という情報が先に出てきてしまうと、そこの違和感にばかり注意が引きつけられて、そのあと「承認」のスケールの大きさを理解しよう、などと思わなくなるのがイヤなのだ。よっぽど大きな記事にしてもらえるなら別だけれど―

●人は疲れきっていたり、なにかに注意を引きつけられているなどの、心理学でいう資源消耗の状態にあると、残りのエネルギーを節約して使おうと省エネルギーモードになりはじめる。高次の思考にはそれだけエネルギーが必要だ。疑念を持つことや、議論することなどもそうだ。「資源消耗の状態では、特に認知的に複雑な思考ができなくなる」ハーバード大学の社会心理学者ダニエル・ギルバートは書いている。疑うより信じる方が脳のエネルギーを使わないですむので、疲れていたり、なにかに気を取られていると、人はだまされやすくなる。

●人間の脳は過負荷の状態で睡眠不足になると、倫理的な問題を看過するようになるのを伝道者や洗脳者は熟知していて利用するが、管理職や企業のトップはあえて忘れてしまう。これはアブグレイブ刑務所での出来事の原因の一つだ。

●日焼けサロンは皮膚がんリスクを増大させることに、日焼けサロン愛好家は決して耳を傾けない。「本当は悪いと心の奥ではわかっているものを続けるために、人々が思いつく反論には驚くべきものがあります」ホーク教授は語る。

●スターンビジネススクールの二人の教授、モリソンとミリケンが「雇用者の沈黙」に関する画期的な研究をした。これは雇用者が自分の身の回りの問題について詳しく述べることや、議論することを望まないという現象だ。様々な部署の管理職たちに面接調査を行ったところ、85%が上司に問題提起をしたり、懸念を伝えることができないと感じたことがあった。

●無批判な服従のメカニズムの代表、ミルグラム実験。被験者は権威からの指示に従い実験対象者役に電気ショックを与え続ける。
「権威の下で行動している人は、良心の基準に違反した行動を実行するが、その人が道徳感覚を喪失すると言っては誤りになる。むしろ、道徳感覚の焦点がまるっきり違ってくるというべきだ。自分の行動について道徳的感情で反応しなくなる。むしろ道徳的な配慮は、権威が自分に対して抱いている期待にどれだけ上手に応えるか、という配慮のほうに移行してしまう。」指示にあまりに集中してしまうため、他のすべてが見えなくなるのだ。

●看護師を対象にミルグラム実験と似た実験をし、看護師は医師の指示があきらかに患者の命を危険にさらす場合でも服従するかを調べた。看護師は尋ねられると、患者の事を一番に考えているとかなりはっきりと答える。しかし実験では、22人中21人が医師の指示に従い未認可の薬の投与のための準備をした。

●服従と同化。服従は正規の権威の指示に従うことを伴うが、同化は「その人物に行動を指示する権限を特に持たない仲間の、習慣や日常や言語に適応する」ことだ。社会心理学者ソロモン・アッシュ(ミルグラムの師)の実験では、3人の学生のうち2人が間違った答えをすると、残る1人も40%以上の確率で同じように答える。同化の顕著な特徴は、潜在的なものでありながら、自らの意思で行動したように感じられることだ。我々は自分に似た人々と過ごすことを好むのと同じように、周囲に合わせることも好む。別の実験では、女性より男性のほうが同化しやすいという結果が出た。

●競争的な雰囲気を持つ企業では容易に、時には故意に、社員の同化を引き起こす。トレーディングを扱う組織にはよくあることで、冗談のタネや嘲笑の対象にされたり、社内の勢力争いの中で屈辱を感じたりする。しかし穏やかな組織でも同じような行動が起こることはある。特に医療関係のような、上下関係がはっきりしている組織で起こりやすい。

●ブリストル王立診療所では手術後の死亡率が突出して高く、英国全体の平均の2倍だった。ウィシャートという外科医の執刀例で死亡が多く、死亡した子供は30〜35人に上ったとみられる。これを内部告発したボルシンという医師は村八分となり、オーストラリアに移住した。

―わが国でも今年初めに発覚しましたね、関東のほうの大学附属病院で…。

●人は疎外されると現実に痛みを感じる。社会的に排除されて不快な気持ちを感じると、脳の同じ領域から身体的な痛みが発生する。そして身体的な痛みを調節するのと同じ神経化学物質が社会的な喪失からくる心理的なつらさをコントロールする。我々は社会的な人間関係を形成したり承認されたりすると、それに刺激され、自分をすばらしいと思うようにする物質であるオピオイドが作られる(同様に人間関係が解消されると、オピオイドは作られず、我々はひどい気分になる)。精神薬理学のパイオニア、ジャアク・バンクセップはこういっている。「社会的な影響と社会的な絆は基礎的な神経化学的な意味でオピオイド依存だといえる」つまり、我々が他社との社会的なつながりを求めるのは、社会的な報酬だけでなく、化学的な報酬も原因だ。

―オピオイド説は知らなかったなあ。検索してみよう。
この「同化」は「承認」の正負両方の側面として位置づけられそうだ。朱に交われば赤くなる。いいものにもわるいものにも染まり得る。わるい方にも操作できるからといって、良い方向に組織と人を同化させたいと意図する営みを否定することはできない。

●仲間外れにされたプレイヤーがクンツェンドルフの無意味度診断テストを受けると、自分の人生に意味などないと思いやすくなり、新たな意味を見いだそうという意欲も失っていた。仲間はずれを経験すると、人は希望もやる気も失ってしまう。

―経験しましたね、そういう気分も。

●アッシュの同化のテストをより難しくしたバーンズらの実験では、人々は同化する際、前頭葉は活性化しなかった。つまり意識的な選択が行われていないということだ。活性化は認知をつかさどる領域で起こっていた。つまり他の人びとが見たものを知ることで、被験者が見たものが変わった。また他の人びとが選んだ答えを知ると、被験者の精神的な負担が減っていた。つまり他者の考えを知ると、自分で考えることが減るのだ。同化による決断は、それと知覚されず、感覚もなく、完全に気づかぬまま行われる。

●さらに、被験者がグループの決断に反抗して、独自の決断をした場合は、別の事態が起こる。感情をつかさどる領域である小脳扁桃が高度に活性化するのだ。苦痛と同等のなにかが起こっている。独立はかなりの犠牲を必要とするもののようだ。

●心理学者アーヴィング・ジャニスによると、集団の中では、意見の一致を維持していこうという圧力のせいで、考えることが減る。一人一人が情報を検討して、それを正しいかどうかを確認することがなくなるのだ。「政策決定をする内集団が素直で団結心が強いと、独立した批判的な思考が集団思考に置き換えられてしまうという危険がそれだけ大きくなる。その結果、外集団に対する理不尽で人間性を奪うような行動につながりやすい」

―今年戦後70年でしたが、あらゆる「戦争」はこうした集団思考の危険を最大化したもの、とみることはできるでしょう。


●集団思考をしている集団は、自分たちはなににも傷つけられないと考えがちだ。彼らはもっともらしい理屈をつけて警告を無視し、自分たちの集団が倫理的に優れていると熱く信じている。敵対する者や部外者を悪者と考えがちで、反対者には同化するよう強い圧力をかける。ほとんどの組織では、チームに従い、面倒な質問をいない者がチームの一員として望ましいという暗黙の了解がある。

―ここだな〜。「承認教育」は単体でもきわめて有効なものですが、フォローアップとして必要なことがあるとすれば、「承認」が過度の同質化圧力にならず、内部で何の角も立たないなめらかな文化をつくることを自己目的化せず、異論を歓迎する程よくゴツゴツした文化というところを着地点にするように支援することではないかと思います。簡単なようで結構むずかしいです。

●心理学者ダーリーとラタネの提唱した「傍観者効果」。アンケートに記入している間に部屋に煙がたまってくる。通報したり何らかの対応をする被験者は、一人きりのときは100%、しかし二人でいたときは10人に1人、3人でいたときは24人に1人の率になった。

―これは「承認研修」の受講生人数の設定にも関わるお話です。従来から、宿題提出率や定着率について、「10人なら10人、20人でも10人、30人でも10人」つまり受講者数が多ければ多いほど歩留まりはわるくなる、ということを言っているのですけれど。ドラスティックな変化を起こす研修だけに、人数が多いと「傍観者効果」が起こりやすくなる、という説明ができるかと思います。

●もうひとつ傍観者効果の実験。被験者を小さく区切った部屋に隔離し、癲癇の発作を起こしている人の声が聞こえたと信じさせる。そして、被験者がそれを知っているのは自分だけだと考えている場合は、85%が報告している。しかし、他の場所にいる被験者も発作のことを知っていると考えている場合は、なにか対応した者は3分の1にとどまった。この実験が示すのは、危機的状況を目撃した人数が多ければ多いほど、なにか行動を起こす人が減るということだ。一人ならばちゃんと認識できる出来事が、集団になると見えなくなるということだ。

●「見て見ぬふり」はイノベーションの黙殺についても当てはまる。新たな技術などがアイデアの欠如ではなく、勇気がないせいで導入されないことはあまりに人間的であまりによくあることだ。経営のトップはいつも革新を望んでいるというが、誰かが別のところでリスクを冒してくれるのを待っているので、凍りついたようになにもできなくなっている。

―うん、でしょ?わたしは日本人は独創性のない民族だとは思っていません、単に勇気がないだけです。かつ勇気をもたらすのは、アイデアを提起する本人さんに期待するより、アイデアを奨励する組織の空気づくりをしたほうが現実的に有効なのです。
「イノベーティブな人材づくり研修」にあんまり乗れないのはそういう理由です

●「傍観者効果」はいつ学習するのだろうか。かなり早く、学校でのいじめを目にすることによっても学ぶ。
 ホロコーストの生き残りであるエルヴィン・ストーブはすべての集団暴力には傍観者がいないと成立せず、傍観者によって激化するという観察からいじめに興味を抱いた。
「集団暴力について私が一番強くいいたいのは、我々は早く行動しなければならないということだ。早いうちの方が、信念や地位が固まり、強固になる前の方が行動を起こしやすい。…事態が進んでしまうと、誰かにいわれてやめると、面子が潰れるような状況になる。」

●集団暴力は徐々に進行していく。誰かを疎外したり、職場の環境を差別に都合よく変えていくようなことは、いつも少しずつ段階を踏んで進んでいく。

●「現場との距離」。テキサスシティの製油所で爆発事故を起こしたBP社の本社はロンドンでもっとも優雅な区域、セント・ジェームズ・スクエアにある。役員のマンゾーニ氏は事故前にテキサスシティ製油所を視察しているが、何も見なかった。誰も彼に何も告げなかった。本社役員と現場の距離は、物理的にも心理的にも遠かった。

●「直接見る」ことの意義。ミルグラムの服従実験の新しいバージョンでは、ショックを与える対象者と被験者の距離が、最大のショックを与える率に影響した。同じ部屋にいてわずか数メートルのところに座っていると、その率は65%から40%に減った。また対象者の手に触れ、電気ショックを与えるプレートにその手を導かせるようにすると、接触したことが影響し、最後までスイッチを押しつづけた被験者は30%だけになった。対象者が同じ部屋に座っていて、目を合わせ、身体的な接触まですると、すべてが変わる。

―どこかのファストフードチェーンのCEOも、「ワンオペ」をする学生アルバイトがトイレに行く暇もなく徹夜勤務をするようすをまぢかでみていたら違ったかもしれませんね…

●権力は持つ者と持たざる者の間の距離を広げる。権力を持つ者はこの問題を認識していないことが非常に多いが、どんなに努力をしても、距離はなくならない。

●ステレオタイプ思考と権力の関係。支配欲を持つ者はそうでない者より性急に判断し、既存の知識に従う傾向が強い。

―はは〜、だからだな。先日わたしが取材を受けたのは割合功成り名遂げた資産家の層が読む雑誌なのだが、取材者が「専業主婦」という語を連発して話がかみあわなかった。この人たちにとってほとんど無意識なのだろう、ステレオタイプ思考は。しかも、それを指摘しようとするとむっとしそうな空気があった。こだわるなぁこの話題に。

●ミリケンの研究では、危機的状況に置かれると、裕福で権力を持つ者は、さらに良い結果を期待する傾向がある。彼らがこれほど楽天的である理由の少なくとも一つは、ほとんどどんな逆境でも乗り切れるだけの力があるから、あるいはあると思っているからだ。これは彼らが他の者たちと違って、現実的に考えられないことを意味している。権力と楽観主義と抽象的思考の組み合わせのせいで、権力者はさらに自信を持つ。

―今もいますね、一線を退いた有名経営者で「イケイケドンドン」の持論を展開する人は。

●分業と見てみぬふりの関係。自動車を製造している人と、修理や点検に当たる人とは違う。これは自社の車の構造に問題があったとしても特に知ろうとしなかったら見えてこないということだ。アメリカ食品医薬品局(FDA)では、医薬品の認可を行う部署は規模も予算も大きく、市販後の医薬品の安全性を調査する部署は反対に規模も予算も小さい。そこで、一旦認可された薬の問題点を、局内の影響力の小さい部署から大きい部署へ考え直してくれと指摘するということになり、否定され抵抗されるのは目に見えている。だから、小規模な治験によって承認された薬品は、何百万人もの患者たちに使用されるようになると、事実上は監視されておらず、FDAは自らが下した判断の結果に実質的には目をつぶっていた。

―おもしろい指摘。ドラッグギャップというものがよく問題になりますが、アメリカで認可された薬をはいそうですかとそのまま使用してしまうと問題が多いかもしれないのです

●スペースシャトル「チャレンジャー」の爆発事故。部品のOリングは非常な低温下では裂けやすいが、天気予報によると発射予定日の気温は低すぎた。部品メーカーはこれを心配しNASAに伝えようとしたが相手は顧客であり、下請け業者なので発言力も強くなかった。「外注業者」であることがコミュニケーションを困難にした。

●「倫理観の崩壊」。金銭が提示されると人は倫理的な判断ができなくなり、金銭だけを判断材料にするという一連の実験結果。

●金について考えるようきっかけを与えられた被験者は、選択の自由を与えられると、一人で作業をするか、一人で趣味の活動をすることを望む傾向があった。以前より意欲的になったものの、社会性が減り、他人との絆が薄れた。より孤立し、他人に対する親切心が減り、同情心も薄れた。
業績変動給は、従業員がもっとよく働き、忍耐強くなるように考えられたものだが、実際には人間関係に複雑な影響を及ぼす。

―成果主義を取り入れた営業組織では、営業マンたちが仕事上の情報を教え合わなくなり足の引っ張り合いも起こり、非効率になった、という話を以前にもご紹介しましたね。

●社会的な動機と経済的な動機のバランス、それにその2つが相反するように働くことは、科学的には証明されてはいないが直感的に理解されている。人は金を稼げば稼ぐほど、国全体の福祉には関心を持たなくなるという暗黙の理解のせいだ。

―重要な指摘。実は現代ドイツではヘーゲル的な承認と再分配ではなく、逆に富めるものを益々富ませ、かれらからの善意の寄付を福祉に充てるべきだ、という主張が新右翼?から出ていて、エスタブリッシュメントの一定の支持を得ているという。だが常識的に考えて、富を「自らの才覚によって」独占する人々がそれを社会に再分配する方向に自主的に考えるとはとても思えないのだ。

●経済的な優遇を受けると人は、他人への配慮を以前よりしなくなるとわかったのだから、この手段は非常に慎重に扱わなければならない。経済的な優遇策に重きを置きすぎると、大事なのは金であり、それ以外は問題ではないというメッセージを送ることになってしまう。しかし慎重に配慮している企業はほとんどない。

●模倣学習で有名な心理学者、「アル」ことアルバート・バンデュラ。彼は生涯を通じて、人が犯罪行為や非人間的に行動をする際に起こる道徳心からの離脱のメカニズムを解明しようと研究している。避妊と衛生教育がいかに良い影響を及ぼしたかについて語った若いアフリカ人女性に、裕福な欧米人がブーイングした。彼らは欧米の出生率では将来高齢者の年金をまかなえなくなると認識していた(だから産児制限は彼らにとって「悪」なのだ)

●バンデュラは主張する。金は我々に道徳心から離れ、自分の決断が社会におよぼす影響を考えずにいられるようにする。すべてを経済的な観点からのみ考えている限り、自分たちの決断の社会的、倫理的な結果を直視せずにすむのだ。

●内部告発者を、本書は「カサンドラ」と呼ぶ。カサンドラは古代ギリシア神話に登場する預言者で、王家の血を引く娘。アポロンが美貌のカサンドラを見初め、預言の力を与えた。しかし彼女に振られると、アポロンは腹いせに自分が与えた力にその預言を誰も信じないという運命をつけたした。だからカサンドラがトロイ人たちにギリシア人が置いていった大きな木馬を町に入れないようにと警告しても、誰も信じなかった。カサンドラはアガメムノンとともにクリュムネーストラーに殺される。カサンドラの運命が残酷で皮肉なのは、彼女の預言の話を読んでいる我々には、それが本当なのがわかっていても、他の登場人物の誰もが真実を知らないことだ。

●内部告発者は冷笑的でなく、みな前向きな人物で、一般社会への反逆者ではなく、真実を信じているだけだ。彼らの特徴はふてくされたり、落胆したりしないことだ。生まれつき反抗的なわけではなく、彼らが愛する組織や人々が間違った方向に向かっているのを見て、声を上げずにはいられなくなったのだ。

●カサンドラの多くはアウトサイダーだ。生まれ合わせや、送ってきた人生や、事実を知った衝撃などのせいで、周囲との隔たりは埋めようもないほど大きくなっている。

●カサンドラはみな真実を知るために権威に挑戦する。その結果、みな困惑し、いらいらし、頑固になる。こうした性質は彼らの信用を落とそうとしたり、孤立させたりするために利用されることも多いが、この性質こそ彼らが忍耐強くやり通せるエネルギーの源なのだ。

―なんだか共感するフレーズが続くなあ^^

●解決編。カサンドラ、悪魔の代弁者、反体制の人間、トラブルメーカー、道化、コーチ…名前はなんであろうと、トップの人間がはっきりとものを見る力を失わないために、外部の人間が必要だ。(しかし外部の人間もいずれ同化していく)

●だから我々は外部の人間に頼るばかりでなく、自分たちでも2つの重要な習慣を確立しなければならない。それは批判的思考と勇気を持つことだ。

●スタンフォード監獄実験を指揮した心理学者フィリップ・ジンバルドは、その後自分が置かれた状況の影響力に抵抗する教育プログラムを考えた。自分たちがどれだけイージーで、他人の期待に合わせているのかを認識するように促すエクササイズをする。

●集団暴力を研究したエルヴィン・ストーブは、いじめへの対応を子供に教えるためのプログラムを考えた。

●英雄的な経営スタイルを持つトップのいる会社や、一人の人間の権力と影響力に注目が集まっている企業では、役員たちが人の顔色をうかがうようになり、自分たちが知っていることが本当かどうかを考え直したり、分析したりすることができなくなる。…トップの性格やエゴほど、議論や反対意見を押しつぶすものはない。最近の企業や組織の不祥事の多くは強い経営者のいる組織で起きていることを考えると、高級誌の表紙に載ったり、なにかの権威としてあがめられることは、はたして誰かの役に立つのだろうかと思わずにはいられない。

―以前こういう社風の有名企業に関わったが、かなり重症度が高かったが1年関わるとかなりましになった、すなわち人々が率直に話し合う空気ができた。しかし単年度で研修が終わるとすぐどどーんと元の暗いシニシズム文化に戻った。思いつきレベルの単年度の介入では土台むりな話なのだ

―最近のアメリカではこういう傾向はちょっとましになったようで、グーグルの新CEOはインド人の謙虚な人格の人だという。まあグーグルは元々集団指導で、スター経営者はつくらなかったみたいだが

●しめくくりは、歴史から学ぶことの価値。ビジネスの思考や教育の大半にはこの歴史的視点が驚くほど欠けている。商業的な世界は新しいもの、革新的なもの、革命的なものと非常に相性がよいせいで、長期的な傾向やパターンが見えなくなりやすい。…歴史的な感覚を得ることの利点の一つに、長期的な傾向をつかみやすくなり、かすかな兆候にも敏感になることがある。

―ですよね〜。


今回の記事は移動中にワードに打ってからUPしましたが、ワードで15pにもなってしまいました。長文をお詫びします。重要な知見をたくさん含んでいるので(他の本との重複も多いようですが)うかつに省略できませんでした。大変示唆に富んだ読書であったと思います。


(一財)承認マネジメント協会
正田佐与



お世話になっている皆様


 おはようございます。
 一般財団法人承認マネジメント協会の正田です。
 猛暑が少し和らぎ、過ごしやすくなりました。
 みなさま、お変わりありませんか。
 

※このメールは、正田が過去にお名刺を交換させていただいた方・当協会のイベントやセミナーにご来場いただいた方にお送りしています。ご不要の方は、メール末尾にありますURLより解除ください。
(解除方法が変わりました!詳細はメール末尾をご覧ください)


 本日の話題は:

■この夏、心に残った戦争映画…。
■「教育」における「承認」と、ある少女の転落をめぐる考察―「ヘーゲル承認論」シリーズ
■ヨロコビの感情で仕事をすることはできるでしょうか
 ―お客様からの嬉しいご報告―
■兵庫県で「承認」を学ぶチャンス!加東市商工会様でのセミナーご案内

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■この夏、心に残った戦争映画…。

 この夏は例年になく、映画が国内外ともに大豊作だったよう。
 映画好きのわたくし正田もホクホクでしたが、その中で時節柄目を引いた映画がありました。
「野火」。
 大岡昇平の原作小説の二度目の映画化。監督の塚本晋也氏が主人公の田村一等兵を演じています。レイテ島の戦線で繰り広げられる異常な光景を、徹頭徹尾田村一等兵の眼を通して描きます。
(シネリーブル神戸ではあす21日まで上映)

 そこに描かれる、飢餓地獄とともに旧日本軍の奇妙な不条理。
 旧日本軍の判断の誤りについては野中郁次郎氏ら『失敗の本質』に詳しいです。それとともに、組織体質、いわば「マネジメント」のレベルの話が興味深いです。

 ご参考になりますかどうか、少し古いですがこちらのブログ(読書日記)にその一端とそれに関する考察を書かせていただきました:

◆「かっこよくない実像、セクショナリズム、医療軽視、生者軽視―『日本軍と日本兵』」
 http://c-c-a.blog.jp/archives/51883101.html

 なお『野火』に続いて公開された『日本のいちばん長い日』も、重厚な大作でした。
 このほか『インサイド・ヘッド』『ジュラシック・ワールド』『進撃の巨人(アニメ版・実写版)』とこの夏は観る映画に事欠きませんでした…。

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■「教育」における「承認」と、ある少女の転落をめぐる考察―「ヘーゲル承認論」シリーズ

 今春から、「ヘーゲル承認論」シリーズを始めています。
 現代ドイツの教育学で「承認論」が盛んなようです。
 『人間形成と承認』という本の読書日記をこちらにUPさせていただきました

◆他者との相互作用と「人間形成(ビルドゥング)」―『人間形成と承認』をよむ(上)
 http://c-c-a.blog.jp/archives/51920246.html

◆ある少女の転落と「承認」、それに学校の役割―『人間形成と承認』をよむ(下)
 http://c-c-a.blog.jp/archives/51920309.html

 この中では、インパクトのあるエピソードが語られますが、できればそうしたインパクトに頼らずに「承認」を語りたいものです。
 なぜ、負の事象をことさらに紹介することが好ましくないか。それについての考察をこちらにUPしています。

◆長すぎてしまった前振り 承認欲求と食欲と栄養と過剰摂取の関係について
 http://c-c-a.blog.jp/archives/51920236.html

◆誤解を招かないように 「非行エピソード」を語ることの功罪
 http://c-c-a.blog.jp/archives/51920414.html

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■ヨロコビの感情で仕事をすることはできるでしょうか
 ―お客様からの嬉しいご報告―

 さて、久々に研修のお客様からのさわやかなご報告が届きました。
 7月末に研修をさせていただいた、ベーカリーのチェーン様。
 ある日ある店舗で、ゼネラルマネジャーから店長にある“提案”をしました。それは―。
 ご興味のある方はこちらの記事をご覧ください

◆ヨロコビをともにできる方だけが読んでください―お客様の「承認をめぐる冒険」
 http://c-c-a.blog.jp/archives/51920606.html

 この中で、GMのメールの中に
「7月29日の先生の講習を店長はとにかく楽しみにしておりました。」
という言葉があります。
 このお客様のところでは、事前に受講生の店長さん、リーダーさん方に拙著『行動承認』を配っていただき、当日前のコーチングセッション(GMから個々の店長に「コーチング」をしています)の中でも話題にし、「学ぶ」空気を盛り上げてくださっていました。
 こうして下地づくりをしてくださったところでは、外部講師のわたしがお邪魔しても、お話したこと一言一言を受講生さんが吸取り紙のように余すところなく吸収してくださるのがわかります。
 どのお客様にもお願いできることではないですが、講師をさせていただくうえでは理想的な状態ですね。
 お客様から、「学ぶ姿勢」を教わったような経験でした。
 

 このお客様の研修風景をこちらにUPしています(再掲)
◆胸を打つアイスブレイク、夏のベーカリーの賑わい
 http://c-c-a.blog.jp/archives/51919437.html 

 当協会のマネジャー教育は、「12年業績1位マネジャー輩出」の実績を誇ります。学術的検証はまだされておりません。しかしファンタジーではありません。何度も何度もお伝えしても伝わらないことですが、お客様の「業績向上」は、細かく見るとこうしたプロセスをいくつも経ているのです。
 わたしどもとしては、「業績向上」の実績とともに、お客様がご厚意で公開してくださるこれらのプロセスをご紹介していくしか手だてがないのだと思います。

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■兵庫県で「承認」を学ぶチャンス!加東市商工会様でのセミナー案内

 「オープンセミナーはないんですか」
『行動承認』の出版後、よくそういうお問い合わせをいただきます。なかなかそれにお応えできなかったのですが、兵庫県内で「学びたい」と思われた方に朗報です!加東市商工会様で9月から11月にかけて、「承認」「傾聴」の3回のセミナーをいたします。
  加東市商工会HP http://www.katosci.or.jp/index.shtml 
詳しくは9月11日(金)、10月16日(金)、11月6日(金)の各13時30分〜16時30分。
 加東市商工会館(加東市社717-1)2階会議室にて。
 実際に「承認」で成果を挙げられた経験者の関西国際大学経営学科長の松本茂樹先生と正田が2人で講師を務めさせていただきます。
 受講料はおひとり1500円(資料代)。会員企業以外でも参加できます。
 お問い合わせは、同商工会(0795-42-0253)まで。

 なお、上記のセミナーではお申込みいただいた方に、拙著『行動承認』を配布していただく予定です。

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※このメールは、正田が過去にお名刺を交換させていただいた方・当協会のイベントやセミナーにご来場いただいた方にお送りしています。

解除される場合は、下記の解除フォームから受信していただいたメールアドレス入力して下さい。
メールアドレスを入力していただいた後、解除専用の確認メールをお送りさせていただきますので解除専用のURLをクリックして下さい。
いたずら防止のため解除の確認メールをお送りさせていただいておりますのでご理解のほどよろしくお願い申し上げます。
http://mag1.hyper-mail.jp/md/publish/quit.asp?mid=848


※このメールの過去アーカイブはこちらです
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※このメールは転送歓迎です。
もしこのメールを新たに購読ご希望のかたがいらっしゃいましたら、
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お申込みください。


*…*…*…*…*…*…*…*…*…*…*…*…*…*
100年後に誇れる教育事業をしよう。
一般財団法人承認マネジメント協会
(旧NPO法人企業内コーチ育成協会
http://abma.or.jp
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
理事長 正田 佐与
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ブログ「コーチ・正田の 愛するこの世界」
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近著『行動承認―組織の能力を最大化する「認める力」』
http://www.amazon.co.jp/gp/product/4434198572 


*…*…*…*…*…*…*…*…*…*…*…*…*…*

 この夏「ピクサー長編アニメーション20周年記念」の話題映画「インサイド・ヘッド」は「感情」がテーマの作品でした。

 ヨロコビ・イカリ・カナシミ・ムカムカ・ビビリの5つの感情がヒロインの女の子ライリーの頭の中にあり、大騒ぎしながら、調整しながら、ライリーの言動を決めているのです。
 物語はそれら5つの感情たちにある日生まれたトラブルとそれの解決のためのそれぞれの活躍が描かれます。こういうことが映画のモチーフになり得るということも目からウロコでしたが、内容は最新の心理学の知見を踏まえたものだそうです。大団円ではわたくしも思わず落涙してしまったのでした・・・。


 ところで、
 5つの感情の中で唯一のポジティブ感情である「ヨロコビ」。なぜ、1つしかないのか。

 結局わたしたち人類は生存のためにネガティブ感情を先に発達させました。最も原始的な「爬虫類の脳=脳幹」は、ビビリ(恐れ)とイカリの塊のようなものです。
 現在でも、わたしたちは自分の生存が危うくなると、これらの感情が支配的になります。

 しかし、わたしたちの生がサバンナで肉食獣に捕食されるかどうかだけを考えることだけでできているのなら別ですが、周囲とつながり集団をつくって狩猟採集農耕をするようになると、ポジティブ感情が必要になります。


 そこで後から発達した「ヨロコビ(ポジティブ感情)」。ポジティブ心理学では、ポジティブ感情を以下の10通りに分類します。
 。ヾ遒(Joy) 感謝(Gratitude) 0造蕕(Serenity) ざ縮(Interest) ゴ望(Hope) Ω悗(Pride) 愉快(Amusement) ┯殄(Inspiration) 畏敬(Awe) そして 愛 (Love)
(『ポジティブな人だけがうまくいく 3:1の法則』バーバラ・フレドリクソン、日本実業出版社、2010年)


 すみません、ここまでは例によって「長すぎる前振り」でした…。


****

 研修のお客様から、また嬉しいお知らせをいただきましたので、ご紹介させていただきます。


 研修後2週間、お盆の土曜日のある店舗。

 忙しいながらスタッフ6名が全員そろっている日だったので、会社のゼネラルマネジャー(GM)から店長に、「三者面談に同席してくれませんか?」と提案。

 店長も同意し、急遽、GMと店長による社員への三者面談となりました。

 
 その結果、どうなったでしょうか・・・。

 ここから先は、GMからいただいたメールをそのまま引用させていただこうと思います。

 (固有名詞だけ伏せております)



毎日毎日、朝から晩まで社員さんと向き合い闘っている店長、
嫌われ役になって、親の気持ちになって、
叱責、注意、励まし、それを諦めず繰り返して頑張っていました。

ただ、昨日の面談は、まず承認から入って、
たくさんたくさん相手を認め、そして改善してほしいことを
店長が話しました。

私は店長と社員さんの話をじっくり黙って聞いて、
一通り終了したところで、店長を後押しするよう、
まず相手をたくさん承認して、
それから、少しコーチングを織り交ぜ質問して考えさせたり、
また若い従業員にはわかりやすく例を挙げて、
「A君とB君がいて・・・
A君はこういう人、B君はこういう人、
もしあなたが社長だったら、A君とB君のどちらを選択しますか?」
など、とにかく相手のレベルに合わせ、優しく向き合いました。

そう、店長と私、本当に向き合いました。
そういう面談になりました。

今まで店長も手に負えなく悩んでいたくらい手ごわかった若い社員さんたちが
みるみるその場で変わっていくのがわかりました。

これが承認の成果だと思いました。

現場で毎日のように彼らと向き合い、
叱り、諭し、励ましていた店長ですが、
なかなか相手には通じていなかったので、
悩み苦しんでいた店長ですが、

昨日は、まず承認から入り、
自分の言葉で相手をたくさん認めていました。

社員さんたちも「面談→叱られる」と思っていたようで、
いきなりたくさん認めてもらって調子が狂ったような?
でも、心の中では嬉しくて、素直にならざるを得なくなってしまったかのようでした。

私は、社員さんの変わり方もさることながら、
店長の成長を目の前で見ることができて、
嬉しくてそれだけで感無量の気持ちでした。
正田先生の「承認マネジメント」が目の前で実践され、
相手がどんどん変わっていく・・・
本当に素晴らしかったです。

6人の社員さんの面談をいたしましたので、
連続して4時間、狭い休憩室で、
店長と私は足がしびれて参りましたが、
承認マネジメントの心地よさで二人とも
足の痛さが吹き飛びました。

休憩室から現場に戻った時、
そこには依然より顔つきも良くきびきび、
生き生き動いていた社員さんたちがいました。

店長と私の承認が彼ら一人一人の心に確実に響いたのだと
確信が出来ました。

今まで味わえなかった心地よさを充分に感じて、
私の帰宅の足取りも軽く、本当にすがすがしい気持ちでした。
ここに「承認マネジメント」の成果を充分に感じ、
先生にご報告申し上げます。

本当に正田先生との出会いに感謝いたします。
と同時に、先生を見つけてくださった弊社牧田社長と
そして、あの講習をしっかりと自分の中に取り入れ、
実践をしてくれた店長の成長に感謝したく思います。

7月29日の先生の講習を店長はとにかく楽しみにしておりました。
「自分に必ず何かを習得したい」とそうも申しておりました。
その言葉通りに彼女は、「承認」を習得し、
それを実践して、素晴らしい成果を手に入れました。


社員さんたちは若い社員さんも多いので、
今回だけの承認では足らず、これからもこういう承認を繰り返す必要はあると
思いますが、態度が明らかに違ってきておりますので、
これからが楽しみです



 こういうご報告(お客様にわたしからそんな言葉もおこがましいんですが)でした。

 ・・・さて、何か補足できることがありますでしょうか・・・


 メールに出てきた「店長」は、タカラヅカの男役のようにビシッと背筋の伸びた、かっこいい女性です。
 きっとご自身は厳しい環境で歯を食いしばって育ってこられただろう、と思うような。

 そういう方にして「承認」を学ばれるというのは、ご自身の過去の整理も意味するであろう、また繰り返し自身の中に湧く「背中を見てついてこい!!」という思いとの葛藤でもあるであろう、決して簡単ではなかったはずです。

 でもこの方は乗り越えたのでした。たぶん信頼するGMからの背中押しによって、またご自身のもともと持っている克己心によって。
 そこへもうひと押し、たぶん『行動承認』の嘘いつわりのない世界によって。ひょっとしたらそこに出て来た男女のマネジャーたちの「成長物語(ビルドゥングス・ロマン)」は店長の目にも魅力的に映ったかもしれない。


 
 きっとこの店長からの「承認」というのは、厳しい中に人一倍正確な観察眼に基づいた、若いスタッフたちの成長意欲を刺激するものであっただろう。そういう言葉に出会えるというのは、若い働き手たちにとってどれほどの幸せでしょう。


 この三者面談の翌日も、「スタッフたちの態度が変わったことで店長も力がみなぎったようだ」とGMからのメールにあり、研修で意図した「両方よし」が実現できたようなのでした。



 当協会の「承認」自体は、いまだ学術的に検証されていませんけれども正しいものです。
 ただ同じものでも、信念を共有してくださる、心正しく真摯なお客様のもとにインストールされたとき、絶大な力を発揮します。

 そしてわたしは決して力を誇示したいわけではなく、ひとえに当事者の方々の人生がどれほど幸せだろう、と想像することで心が満たされるのでした。また、「学術的に検証されてない」ということについても、聡明な方ならこうやってわかってくださる、これ以上わざわざ証明が必要だろうか、という気もするのでした。


 お忙しい中のひとときを割いて嬉しいご報告をくださったお客様に感謝です。



 また、こうしたことをブログで公表することで「承認学校」に自分が否定された、と感じる人びとがわたしを罵り嘲りたいなら、どうぞそうなさってください、幸せになるべく努力する人たちの幸せと引き換えにはできませんから、と思うのでした。



(一財)承認マネジメント協会
 正田佐与
 


 さて、今日の記事は正田のアホみたいに真面目な性格が書かせる、1つ前の記事についての補足です。


 1つ前の記事「ある少女の転落と『承認』、それに学校の役割―『人間形成と承認』をよむ(下)」では、ヤニカというドイツ人の少女の非行に至った過程に「承認欲求」と「承認の不在」がどうかかわったか、というお話を書きました。


 こういうお話は世間にごまんとあるはずで、ひょっとしたら承認欲求の極端に強い性格が犯罪とか非行に関連づけられる、なんていう結論がいずれ出るかもしれません。

 いっぽう。

 当ブログでは従来あまりご紹介しなかったタイプの話なのでそこそこインパクトはあったかもしれませんが、やはりこのタイプの話を紹介することは誤解を招くおそれもあり、今後はちょっと控えようかと思います。


 といいますのは、何度も書きますように、2011-13年ごろに出た世間の「承認欲求本」で「承認欲求」と「若者の非行」を関連づける言説というのは既に出尽くしたぐらい出ているからであります。そうした書籍に出てくる「承認欲求」はグロテスクであります。

 そちら側からばかり「承認欲求」を語っていると、まるで「承認欲求」が非行に走る少年少女にだけ特有の危険な性質のもの、というふうに見えかねません。

 恐らくその文脈の上に、昨年の有名な心理学本の「承認欲求は満たされると思うな」という、悪者扱いしているかのような記述があり、それを読んだらしい人の「僕には承認欲求はありません(注:正田の観察では本当はありあり)」という言葉や態度になったのだと思われます。

 しかし、それは非常に偏った見方です。

 3つほど前の記事に書きましたように、「承認欲求」は「食欲」と似ていて、適切に満たしている限りよいものです。まれに極端に強い「承認欲求」の持ち主がいて、問題行動につながる、そういう時にだけ意識されやすいですが、本来そんな極端なものではありません。だれしも程度の差こそあれ「承認欲求」はもっていて、普通は常識的な範囲に収まっています。そしてだれにとっても、「承認欲求」は「良い仕事をしよう」というモチベーションになります。むしろ、「自分には『ない』」などと自分に言い聞かせやせ我慢をしていることのほうが、問題が多いです。それこそ問題行動につながったり、こころを病んでしまうかもしれません。

 
 ですので、「問題行動に走ったとき初めて『承認欲求』に注目する」という態度自体をやめたほうがいいのです。
 それは、まかない係の怠惰ゆえに飢餓状態に追い込んでいるようなものです。

 普通に「与える」ことを習慣化してしまえば、ほとんどの人は良い方向に行き、学業成績が上がったり有能になります。少数の例外として、ますます欲求がこうじてエスカレートしてしまうタイプの人がいるだけです。

 「承認欲求」は、決して、虞犯少年少女だけが持ち合わせているものではありません。
 この記事を読んでいるあなたにも必ずありますから、安心してください。
 

 なので今日の記事はほとんど、3つ前の記事「長すぎてしまった前振り 承認欲求と食欲と栄養と過剰摂取の関係について」の焼き直しのようなものですが、

 「ヤニカ」の事例のインパクトのために、このブログが慎重に避けてきた「承認欲求」に関する誤解を招いてしまうと非常にもったいないことになるので、あえて再度この記事を書きました。


 「承認」は、「普通に」与えましょう。「与える承認」は非常に大人の行為で、美しいものです。

 欠乏状態は異常なので、つくらないよう努力しましょう。また、常識的な範囲の「承認欲求」をやせがまんすることもやめましょう。
 



(一財)承認マネジメント協会
 正田佐与



 追記:
 でもまた思いました、
 正田は時々立ち回り先で人様からひどいことを言われることがあるんだけどあれはどういう心理なのだろう?と考えたとき、その人は「ヤニカ」の状態なのだなあ、と思いました。自分を承認してくれない学校を全否定しているのだなあと。
 正田が象徴する「承認」の「学校」のような世界では、「承認」の実践者のマネジャーたちが奇跡のような成果を手に入れ、かつ正田から心からの賞賛を受けます。
 「承認」の実践者でない人はそのような賞賛は得られません。実践者がもらう賞賛の甘美さを知っている傍観者の人たちは、そこで「承認されない」気持ちを味わいます。学校で「ダメ生徒」のレッテルを貼られたような。あるいは「その他色々」に分類されたような。
 そこで、その人たちは自己イメージを守るために、「学校」や正田を全否定することで仕返しをするのです。
 正田なんにも悪いことしてないのに。
 そういうことが続いてきたから正田は疲れちゃったんだなあ。
 
 こういう読み解きのツールになるから、「ヤニカ」のエピソードがあったことはわるくないですね。


 『人間形成と承認』(L・ヴィガー+山名淳+藤井佳世編著、北大路書房、2014年7月)の読書日記の後半です。


 ここでは、ある少女「ヤニカ」のインタビューが出てきます。ヤニカは実科学校8年生を落第し、暴力行為のため退学となり、数日間の少年拘禁に処せられたあと生活支援グループホームないしは保護施設へ移される、というタイミングでインタビューに応じました。

 少女が非行に突き進む痛ましい事例の中に「承認欲求」「承認」はどう関わっているでしょうか…。


 「承認欲求」「承認」の問題行為への契機の側面について、当ブログではこれまであまり触れないできました。どちらかというと、世間の「承認欲求本」のほうにそれらの情報はあふれているから、という判断でした。

 しかし、この「ヤニカ」のインタビューは平凡ではあるが痛ましいものであるだけに、あえてご紹介したくなった次第です。

 当協会の教育に触れ、承認を「与える」能力を既にもった大人の方々は、無数の「ヤニカ」をそれと知らずに救っているかもしれない。そしてこれからも救えるかもしれないとの希望のもとに。


 以下、かいつまんで「ヤニカ」の事例をご紹介しますと、
 
 ヤニカは当初「基幹学校」(ドイツの中学生年齢の子が通う職業訓練校のようなもの)に通っていましたが、「通訳になりたい」と希望し、基幹学校には英語のクラスしかなくフランス語やイタリア語も習いたかった、レベルも低いなどの理由で、基幹学校で良い成績をとって実科学校に転学しました。

 ところが、実科学校に行くと、ヤニカの知識不足が明らかになりました。実科学校の教師たちは彼女が遅れを取り戻すことに積極的には手を貸しませんでした。ヤニカは7年生に編入しましたが実科学校5年生6年生の教科書をもらってしばらく独学で頑張りました。しかしその努力は実を結ばず、ヤニカの成績は8年生でさらに下がりました。

「ヤニカは授業への興味を失い、8年生を繰り返すことになった。そのクラスで3人の女子生徒と知り合い、彼女らといっしょに授業をサボり、挑発的な態度をとり、他の女子生徒を殴ったりした。」(p.114)

「実科学校は「それまでの家庭環境を超えた、将来のよりよい人生へのチャンス」を約束してくれる。そのため、抵抗にあってもヤニカは転校を言い出し、実行する。けれども、実科学校での成功とそれにかかわる承認は達成されないままである。基幹学校では優秀な生徒の一人であったが、実科学校では求められる知識や能力の面で遅れを取り戻せないため、その立場に再び立つことができない。彼女は軽蔑的に「天使」や「ガリベン」と呼ぶ他の生徒の成功を知っている。そして、授業の課題や校則にあからさまに背を向け、要求されることに取り組むのではなく、やりたいことだけをするようになる。」(p.115)

「コンフリクトのダイナミクス、すなわち学校での問題やコンフリクトの激化、家庭内の立場をめぐる闘争の激化、そして学校外での暴力の激化は、次のジレンマから生じている。すなわち一方では、職歴や社会的地位に決定的な意味をもつ場所、つまり学校での成功や承認を得るための努力がうまくいかなくなり(または、思い描いていた職業上の目標が結果的に実現できなくなり)、他方でヤニカは(学校や家庭や祖父母のもとで)ますます排除され、根本的な承認の拒否を経験しなければならないにもかかわらず、優越した人物という自己像や成功への要求に固執する、というジレンマである。」(p.116)


 ヤニカは、学校が彼女に与えたダメというレッテルが彼女の自己像と矛盾したため、学校そのものを否定しました。
 ヤニカは、判決後に送られた施設でも若者グループ内でイニシアチブをとり続け、インタビューの中でさえもインタビュアーとの間で優位性をかちとろうとします。彼女のすべての行為は「優位性を効果的に自己主張し自己描写するという課題」のためになされるのでした。すなわち、ヘーゲルの見出した「承認をめぐる闘争」でした。


 こうした「ヤニカ」の事例について、本書では続いて学校の役割について考察し、その中心的な観点は以下の4つであるとします:

ヽ惺擦砲ける公的、法的な関係の基礎。そこから発生する関係者にとっての権利と義務

学校が備える制裁力。もし生徒が義務を怠る場合、教育的な介入または規制措置を行う権限をもつ。

3惺擦人間形成(ビルドゥングス)ないしは教育という課題をもつ。生徒の個別の条件を考慮しつつ、必要な知識、能力、技術、価値観を伝達しなければならない。

こ惺擦備える選別機能。生徒の成績評価をし、異なる教育の進路に割り振る。

 
 著者の見解では、中核的な矛盾はとぁ△垢覆錣舛垢戮討了劼匹發紡个垢訖祐峽狙ないしは教育という課題と、学校のもつ選別機能との間の矛盾だといいます。


 ヤニカをめぐるここまでのお話、いかがでしょうか?

 わたしなりの理解は―、

 ヤニカは、「承認」を人並み以上に求めるタイプの少女だったかもしれません。彼女にとっての「承認」は、「突出して優れていると認められること、優位に立つこと」を意味しました。それは彼女独自の「価値観」あるいは「ニーズ」の世界であったかもしれません。
 
 こういう性向の人が望むような「承認」を得られるのは、それに見合うような突出した「能力」「才能」を幸いにももちあわせている場合だけです。
 残念ながらその均衡がとれていない場合、極端な場合にはヤニカがそうしたように暴力に頼って周囲を支配し、「承認」を得ようとする、ということが起こり得ます。
 また自分の望むように自分を評価してくれない周囲を完全否定することによって自己評価を守ろうとするかもしれません。

 こういうタイプの人がもし身近にいたら何がしてやれるのだろうか?

 賢明な読者のみなさまのご判断をあおぎたいと思います。



 本書ではこのあと「ドイツの教員養成」についてのお話が続きます。2000年のPISAにおいてドイツは読解(総合能力)で21位、「数学」と「科学」でそれぞれ20位という不名誉な結果となり、それに伴って教員養成の在り方が議論されたのでした。
 
 ここには教育の達成をみる指標として学業成績だけではなく人間形成を、という著者の主張も読み取れますが果たしてそれは可能なのですかどうか。

 とはいえわが国でも、過去にこのブログに登場された何人かの優れた先生方は既に取り組んでおられ不可能ではないのでした。



(一財)承認マネジメント協会
正田佐与

 『人間形成と承認』(L・ヴィガー+山名淳+藤井佳世編著、北大路書房、2014年7月)という本を読みました。


 だいぶながいこと「ヘーゲル承認論」をお休みしてしまいましたが、「承認論」が現代ヨーロッパを中心に、「格差是正」「フェミニズム」など社会問題解決の文脈で語られるようになっているようで、ほんとはそれをフォローしたい(でもドイツ語は読めないし、訳文も言葉がむずかしいのでしょっちゅう投げ出している)


 本書は、教育学で「人間形成(ビルドゥングの訳語)」と「承認」の関係を扱います。

 ややこしいのは、現代ドイツにホネット(『承認をめぐる闘争』の著者)というヘーゲル研究の大家がいて、そのホネットの承認論をヴィガーという本書の著者が研究している、という「入れ子構造」になっていることです。

 かつ、やっぱり文がひとつひとつ難しくて、「この一文がきれいに全体の要約になっている」という書き方をしていないので、このブログでよくやるような抜き書きがむずかしい。正確に文意がとれているかどうかも自信がもてない。

 そのなかで比較的わかりやすい文では、たとえば:


「誤解のないように付言すれば、ヴィガー氏が『承認』を教育目的とするような議論を展開していないということは、彼が人間形成にとっての『承認』の意義を軽視しているということを意味しているわけではない。他者からの『承認』によって自らの人生の意味が変容してしまうほどに、私たちの生は『承認』によってあきらかに左右されている。ヴィガー氏による議論の根底にあるのは、そのような『承認』の意義に対する揺るぎない確信である。だからこそ、ヴィガー氏は、他者による「承認」と社会に適応していく側面がどのようにかかわっているのかをつぶさに読み解こうとするのである」(p.12)



 うんうん。まあ「承認は大事なものだ」ということは言っていますね。

 「ヘーゲル承認論」を読んでいて困るところは、そこでは「承認の有効性」が最初から所与のものとして語られてしまうので、いきなり「がん」と地平が上がっていて、普通の「承認」という言葉すら知らない人とかもっと他のものがモチベーションを左右するだろうと思っている人と対話するのに苦労するということです。本書もやっぱりその例にもれません。ぶちぶちぶち。まあ現代ドイツの教育学者が大真面目に議論しているから有効なんだ、と思うしかないのでしょうか。

 従来、「例示がない」のが難でしたが、本書のあとの方では、「少年へのナラティブ・インタビュー」などがでてきます。
 ヴィガー氏はナラティブ・インタビューを人間形成研究における手法と位置づけますが、そこでは「承認」がよりよい方向に作用したと思われるようなエピソードばかりではありません。

「「承認」を得ようとして非行と呼ばれる行為に接近したり、人生が暗転したと感じられたりするような事例も取り上げられている。「承認」というテーマが織り込まれた過程としての人間形成は、けっして肯定に捉えられることばかりではない。挫折や悩みなども人間形成の一側面であり、「承認」と深くかかわるできごととみなされる。」(p.12)
 

 よい方向への変化ばかりではなく、わるい方向への変化も「承認」の影響とみなせる、というのでした。あまりこの視点はなかった。しかし考えてみるとわが国では、「承認欲求」の暗黒面を描く文献が一時期溢れ、承認欲しさに「いじめ」「非行」に走る若者を取り上げてきたと思います。そしてそちらが先行してしまったので、「承認」そのものにダークイメージがついてしまっていました。本当は、いつもいいますけれど大人の人格の人が「与える」承認は、とてもいいものです。


ヘーゲルは一番はじめ、『精神現象学』において「承認」を提起しました。
 本書によれば、


「…『精神現象学』では、個人と共同体の関係が初めて前景に現れてくるのは、「理性」章においてである。そこでは、生命という全体の一部であるという自覚を得ながらも、欲望の対立のなかで強者と弱者へ階層分化しつつ相互に存在を承認しあう「自己意識」の段階を越えて、各構成員の単純な「我あり」の確信に立脚した不平等な相互承認から、客観的真理である「われわれである私と、私であるわれわれ」としての相互承認(共同体の設立)へと意識は高まっていく。」(pp.37-38)



 これもわかりにくいですねえ…(わかります?)

 思い切り我田引水的な解釈をしますと、
 不平等な相互承認、ということでいうと、先の記事でもとりあげた、「地位の高い人は既に地位からくる『承認』を受けている」。一方、部下たちにはそれは「ない」ものなので、そのままだと「不平等な承認」ということになってしまう。地位の高い人が意識的に「承認」の「与え手」となれば、地位の有無をこえて組織の一体感が出てくる、ということになります。いいのかなこの解釈。


 このあと本書にはナラティブな語りによる「事例解釈」が出てきます。17歳の少年、家庭的に恵まれず学業成績も振るわず暴力的傾向もあった、そういう少年に対するインタビュー。そこで恋人の死や尊敬する武術の師匠の死などの出来事を経て、彼が「人間形成」していくプロセスが語られます。彼のばあいの「人間形成」は、「自己規律化」という変化になります。(pp.57-67)


 本書には「行動承認」に関連するような記述もあります。後学のためにそこもちょっと抜き書きしておきましょう。


「総じて、差異の承認あるいは承認の教育学的要求(vgl.Rosenbusch 2009; Prengel/Heinzel 2004)は、理解しやすいが、あまりにも十把一絡の状態にある。それらの規範は明確ではなく、その根底にある対立はあきらかにされていない。一方で、他の人格の自立に対する尊敬の要求は、追体験でき、近代の法的関係において基礎づけられている。他方で、それは、あらゆる教育的行為とすべての人間形成過程が、まさに、知識や熟練した技能、態度や確信や行動にみいだされた状態の受容と承認を目標とするのではなく(vgl.Ricken 2009: 88f.)、それらの変容を目標とする限り、先の要求は、一面的であり誤解を招きやすい。むしろ、承認されるべきことの事実に関する説明と根拠づけ(そして場合によっては、十分に吟味すること)が求められる。その際、考えなければならないことは、行動動機と相互行為状況に関する、歴史的な可変性、社会的な制度設立、個々人の決定可能性である。」(pp.81-82、黄色は正田)



 …わかりますか?わたしは正直、黄色にした最後の2センテンス以外はよくわかりません。しかし自分にわかる都合のよいところだけ抜き書きするのはアンフェアかなと思って前のほうの文も抜き書きしたわけですが…、

 最後の2センテンスは、「承認するには根拠が大事だよ(行動承認)」ということと、「ビジネスプランなんかを承認する(GOサインを出す)ときは周辺状況もよく勘案しようね」といっているように読めます。


 その後にくる文章。

「承認が成果のともなう行動やうまくいったコミュニケーションを含意する限り、承認の願望や承認を目指す明確な努力は、失敗の経験や壊れたコミュニケーション関係を問題にする。そして、コミュニケーションの目的あるいは対象へ向けた承認が生じたかどうか、実際的な失敗や失敗したコミュニケーションの問題とともに失われた承認の問いもまた取り扱われるかどうかが、あきらかになる。」(p.82)



 これもわかったような、わからないような。原文のせいかなあ訳文のせいかなあ。ヘーゲルの時代の哲学者の文章がなぜ難解だったかというと、哲学書を読むことは当時の知識人や貴族の子弟の高級な楽しみであり、「高級感」をかもし出すためにあえて難解に書いてあった、とどこかで読んだことがあります。現代もそういう伝統に縛られなければいけないのかどうか。


 さて、ホネットの承認論です。

「ホネットは、承認の三形態―愛、法、社会的価値評価―において、一方では「さまたげられていない自己関係の可能性」(Honneth 1994: 8)に対する構成的な条件をみている。だが、他方で、『承認をめぐる闘争』の焦点として、軽んじられた経験を発生させる「社会的コンフリクトという道徳的倫理」(Honneth 1994: 8)もおいている。」(p.83)


 これをもう少し詳しくみていくと、

「私は、ホネットの理論的努力を、次に述べる根本思想の基礎づけの試みであると理解している。承認は、人間のコミュニケーションの基本的な道徳的内容であり、その意味において、社会構造や相互行為のさらなる発展の動因でもある。(中略)承認の動機は、「うまく切り結ばれた自己関係に到達するために」(Honneth 1994: 220)、自己実現に対する人間の関心、主体の「アイデンティティ要求」(Honneth 1994: 106)、相互主観的な承認への依存に、人間学的な根をおろしている。(中略)ホネットにとって、承認は、「社会的実存の基礎メカニズム」(Basaure u.a. 2009: 154)であり、総じて、社会に対して構成的である。「社会的統合の相互承認の型への依存は、変化しない。このことは、私にとって、まさに形式人間学的テーゼである。先鋭化していえば、私たちは、相互承認のメカニズムやある特定の型を越えて規範的統合が作用しないような、生存や生き残りに長けた社会の形をまったく想定することはできない」(Basure u.a.2009: 154)」(p.84、黄色正田)



 承認の三つの異なる形態である、愛、法、社会的価値評価。
 「軽んじられること(ミスアハトゥンク)の三つの形態は、この三つの承認形態に対応している」と本書はいいます。

「軽んじられることの三つの形態とは、暴力的抑圧、権利の剥奪、尊厳の剥奪である。暴力的抑圧とは、身体的な虐待において、「自己の固有の身体を自律的に自由に用いること」(Honneth 1994: 214)に対する尊重が奪われることである。権利の剥奪とは、規定的な法の所有からの排除において、「道徳的な責任能力における認知的な尊重」(Honneth 1994: 216)が奪われることである。そして、尊厳の剥奪とは、文化的な格下げにおいて、社会のなかに織り込まれた自己実現の形態に対する「社会的同意」(Honneth 1994: 217)が奪われることである。ホネットは、「肯定的な自己理解のなかでの人格が傷つけられること」(Honneth 1994: 212)を通して、軽んじられる経験のなかに、「社会的抵抗やコンフリクト、すなわち承認をめぐる闘争へ向かう動機」(honneth 1994: 213f.)をみている。その意味において、ホネットの承認論は、「道徳的経験のダイナミズムに基づいて、社会闘争を説明すること」(Honneth 1994: 225)を要求する。」(pp.84-85)


 
 このあたりの文章は、むしろわかりやすいのではないかと思います。「軽んじられる」は、「承認欲求」という言葉や概念を知らなくても、だれにとっても不愉快な経験です。
 1つ目の「暴力的抑圧」は、戦争や、よくある虐待やいじめや、介護の現場での「拘束」の問題なども連想しました。
 3つ目の「尊厳の剥奪」は、1つ前の記事に出てくる「開会あいさつを頼まれなかったからとふくれてねじ込んだ」大学教授氏などもそうですが、もっと共感しやすい例としては、職場のLINEいじめなどもそうでしょう。

 このような社会的コンフリクトはすべて「承認の不在」として説明することができ、またそこで失われた「承認」を回復しようとしてさまざまな対立や闘争が起こります。被害者が回復しようとするのは自己への「承認」なのです。

 こちら側からの「承認」についての説明は、すごくわかりやすい。
 ただ、そうした悲劇的な文脈でばかり「承認」を語ると、やはりイヤなものとして意識されやすいですね。わたしは「承認」が「ある」風景の、活気ある躍動的な風景のほうをなるべく多く語りたいとおもいます。それがいわば人の性(さが)というものに逆らわない状態です。


 さて、このような「わかりやすい」承認不在の状態から「承認」や「人間形成」を説明ことにそれほど大きな意味はない、という見方もあるわけです。
 
 
 ジープという別のヘーゲル研究者は、この点でホネットとは違う立場をとります。

「ホネットは、軽んじられることの形態―暴力的抑圧、権利の剥奪、尊厳の剥奪―を、承認の回復へむかう闘争の動機として説明している。それに対して、ジープは、次のように問う。軽んじられることの形態は、自己生成にとって、必要不可欠なのかどうか。「愛の確認、自律という法の承認、ある共通文化の維持への寄与や成果に対する価値評価への依存は、個人を抵抗力のない傷つきやすいものにする―だが、この傷つきやすさとその克服は、固定した自己尊重の人間形成にとって、必要不可欠なのだろうか?」(Siep 2009a: 195)


 前半の問いはある意味もっともかと思います。
 現代の「承認」されてたちどころにイキイキ働き出す若い子たちは、もともと「ほめる教育」の下で育ってきて、軽んじられた体験などないのかもしれない。それは幸せなことだ、と思います。
 一方、差別でも戦争でも、過去のイヤな記憶が残っている間のほうが良い状態を維持しようという努力も続けやすいわけで、最近のアメリカの黒人差別の事件などをみていると、差別を憎む力が弱ってきているのかな?と思ったりします。

 そして後半の問い、例えば若者は「承認依存」になってしまっていいのか?

 こういう問いを発してしまいたくなるのはすごくわかるんですが、わたしは、過去の「承認マネジメント」の世界で起きたことの経験からこのように答えたいです。

「子供や若者はもともと生物として『承認欲求』の強い存在である。仕事に入った若者に関しては、上司が初期には『承認』によって導き、次第に本人が仕事そのものと格闘するようになる。若者の目的は自然と仕事の完成度や、『お客様の喜び』といった、『上司の承認』とは別のものに移っていく。それも『承認』の供給元が交代しただけに過ぎないともいえる。」

「いずれにしても他者からの評価をまったく度外視した仕事というものは存在しない」




 次の文は、依然わたしは理解できているかどうかわかりませんが、前半の「まとめ」的なものです。


「ヘーゲルは、自我と他我の相互行為の関係の問題を、個人と共同体の関係とつなぎあわせ、自我と他我のパースペクティヴを自己―他者―我々の関係の理論パースペクティヴへずらしている。したがって、承認は、三つの極の関係である。承認の相互関係と地平的関係は、常に、直線的で垂直的な承認関係に埋め込まれている(vgl.Mesch 2005: 355)。制度の秩序と課題、および、規範体系の調節と要求は、承認関係の境界と形態、内容を規定する。すなわち、それらは、承認のコンフリクトと承認の闘争に対する基盤である。したがって、承認は、実践的関係とコミュニケーションの構成的要素として理解される。それゆえ、承認は、ある内容と目的ではなく、むしろ、多様な内容と目的をもちうるのである。第一に、失敗や軽んじられること、期待やコミュニケーションの失敗は、まず、承認それ自体が、実践的な目的に関することであり、場合によっては、抵抗に対して闘争しなければならない条件である。したがって、「承認をめぐる闘争」は、正常な事態ではなく、社会的な相互作用の境界事例なのである(vgl.Siep 2009a: 197f; vgl. Wigger/Equit 2010; Equit 2011)。」(p.94、黄色正田)


「すなわち、人間形成論に対していえることは、承認論の体系を取り出すことでもなく、承認論の目的規定を読み取ることでもない。経験的に内容豊かな人間形成論は、制度的要求、社会的規範、個人の野心や戦略の克服との連関の具体的な分析とかかわりあうべきである。人間形成論は、また、承認論が内容的にではなく構造的に内包している相互関係の規範を志向しているだけではない。その意味で、教育学的に提案された人間形成過程は、権力と依存によって特徴づけられ、そのなかで承認は常に、アンビヴァレントでありうるような非対称的な相互行為と関係において遂行される。最終的に、人間形成は、自己自身、他者、世界と人間の関係として、把握される。それゆえ、自己意識の構成は、他者の承認を通して、人間形成のある(重要な)側面だけを把握する。したがって、人間どうしの関連は、道徳的、社会的、自然的世界において発生し、自分自身との関係は、道徳、社会的なもの、自然の世界と互いにかかわりあって形成された成果でもある。」(同)


 ふーふー、やっぱり文章がむずかしいから少し長めに引用してしまいました。私がもう少し賢くなったときに正しく理解できるように。

 まあおおむね、「人間は他者との相互作用で成長する」という意味のことを言っているのでほっとしますね。アメリカですかね、一時期「外発と内発」とかめんどくさいことを言ったのは。あのフレームワークを使う人と話すのは疲れるんだ。


 ここまでが本書のほぼ前半部分です。後半は、承認論をもうちょっと進めるのに加え、ドイツにおける教員養成の問題なども取り上げています。

 少しつかれたので本記事を(上)として読書日記を二部構成にしたいと思います。(下)はまた今度。



(一財)承認マネジメント協会
正田佐与


 
 
 


 本業(のお勉強)に戻ります。


 このところ思うのは、

「承認欲求―承認―ナルシシズム」の関係は、「食欲―食事/栄養―肥満」に限りなく似ています。

 適切に与えている限り、いいもの。不足すれば栄養失調になってしまいます。
 まれに食欲のコントロールができない人がいて、むやみに摂取して肥満や成人病になってしまうこともあります。

 でもそういう個体の人がいるからといって、食事/栄養が大事なものだということを否定できるわけではない。それは極論です。不足することのデメリットのほうがはるかに大きい。


 そんなことを考えるのは、このところ「承認研修」でも新しい試みとして、宿題を出すときに「部下の行動変化までみてください」ということを言っていて、
 するとわずか1週間の期限の中でも

「よりすすんで他の人のフォローをしてくれるようになった」
「仕事の問題点について意見を言ってくれるようになった」

などの部下のプラスの「行動変化」を観察して、報告してくださるのです、受講生さんが。

 なので、「ご飯を食べたりサプリを飲んだらより健康的になって活動的になった」というぐらいか、それ以上のはっきりした変化が短時間でうまれている。ご報告がウソじゃないとすると。


 そうすると、なんでこんなにはっきり有効なものが今まで発見されなかったか?という話になりますが、

 やっぱり「モチベーション」を学問とか理論として語る、学者さんやコンサルタントさんと、組織の末端の人たちの人格や立場の違い、ということを思います。


 「人格の違い」ということでいうと、学者さんやコンサルタントさんでそこそこ有名になった人たちは、「自らを恃む」気質が強い。いわば「外発、内発」の分け方でいうと、「内発的動機づけ」の力が強く、「自分の功名心」とか「克己心」のためにがんばる。相対的に、他者との人間関係で一喜一憂する傾向は弱い。「ない」のではなく「相対的に弱い」だけなのですが。

 ほんとうはこの人たちも、親ごさんに喜んでもらったり尊敬する師匠に「OK」をもらったり、と嬉しい「承認」の場面はあるにはあるのですが、この人たちのプライドが、「自分の原動力はそれなのだ」と思うことをゆるさない。

 また立場の違いでいうと、そこそこ有名になった学者さんやコンサルさん、という立場ですと、「〇×先生」と人から呼ばれ、すでに「社会的地位からくる承認」を受けているのです。 

 「承認」は決して「ほめる」といった、「狭義の承認」だけを意味していない。会社勤めの人なら、朝来て「おはよう」と言ってもらったりちょっと話しかけてもらうだけでも広義の「薄い」承認は受けています。また地位役職からくる「名誉欲」を刺激するタイプの「承認」もあります。

 学者さんは、「自分はほめられなくてもいい」と思っているかもしれないけれど、実は「先生」と呼ばれたり相応の扱いを受けることにはものすごくご執心だったりする。うちの近所の大学にも、学内で他の人がイベントをするのに招待されないと、あるいは開会あいさつの役割を振られないと、すごくふくれる「めんどくさい」ので有名な先生がいます。それも要は「承認欲求」なんです。そうした大人げない振る舞いをみる限り、むしろその人たちにとって「根源的」なことだ、と思います。


 ともあれ、感情認識能力の弱い学者さんコンサルタントさんがどう思うかに関わりなく、「承認欲求」は根源的なものです。
 適切なやり方で満たしてあげる限りいいもので、元気になれます。また、有能になります。(当協会で「行動承認」という言い方をこのところよくするのは、その「適切に満たす」ということを意図しているからです) 逆に不足するとこころを病んでしまったりもします。
 また性格的に「過剰摂取」になりやすい一部の人については―、確かに「めんどくさい」です。ただそれは全体のメリットからいうと副次的な問題です。

 そして、一般に組織の末端のほうにいる人たち、何の地位もない若い人や、またわが国においては「承認されない」傾向の強い女性たちにとって、「承認」が供給されることはどれほどの恵みの雨か、こころの栄養になるか、は社会的地位の高い人たちにとっては想像を超えているでしょう。


 「承認中心コーチング」(近年では「承認マネジメント」ということが多い)が過去10数年にわたってコンスタントに成果を挙げ続け、今も宿題ではっきりした「行動変化」を作り続けるのは、要はそういうことだと思います。


 そして、これほどに本来「根源的」であるものが、一般にはまだそうと位置づけられないし適切に供給されないということが、わたしの心には繰り返し悲しみのもととなります。


 今も「ほめない子育て」「ほめない教えない部下育て」のような文言が大手新聞社のメルマガで入って来て、ほめるはあくまで狭義の承認だけど「承認欲求」自体をを否定すると弱い立場の人が可哀想だ、とそれをみてわたしなどはおもっています。ほめるはダメで勇気づけだけはいい、ということの根拠が全然わからない。(勇気づけもご存知のように「承認」の一形態です。わるいものではないがそればかり単独で使うとちょっと危ない)こういう「食事/栄養」のような大事な問題であれもこれも言って振り回すのは正直やめればいいのに、と思う。

 栄養学みたいに、はっきりとスタンダードなところがあるのが、こういう問題は正しいのではないか、それと「バナナダイエット」「納豆ダイエット」みたいなことは切り分けたほうがよいのではないか、と思います。


 さて、この記事は久しぶりに「ヘーゲル承認論」を書こうと思ってそれの前振りのつもりで書いていたのですが、ここまでで既に長くなってしまいました。


 現代ドイツの教育学で「承認論」を使ったアプローチが隆盛のようです。次回はそれの読書日記を書こうと思います。



(一財)承認マネジメント協会
正田佐与

「子曰く、吾十有五にして学に志す、三十にして立つ、四十にして惑わず、五十にして天命を知る、六十にして耳順う、七十にして心の欲する所に従えども、矩を踰えず」(論語 為政編)

意味:

「私は十五才で学問を志し、三十才で学問の基礎ができて自立でき、四十才になり迷うことがなくなった。五十才には天から与えられた使命を知り、六十才で人のことばに素直に耳を傾けることができるようになり、七十才で思うままに生きても人の道から外れるようなことはなくなった」
(故事ことわざ辞典より)


 孔子晩年の言葉だそうです。
 

 偉大な人の人生の言葉から自分を振り返るというのも傲慢なかんじがしますが、ふと考えました。

「五十にして天命を知る」。


 そういえば『行動承認』はちょうどわたしの五十の年の出版でした。

 でも今51になり、

「こんな虚業はもうイヤだ」

と迷っていたりします。偉大ではない凡人のゆえんです。


 読者のかたは、いかがでしょうか。


 「七十にして…矩を踰えず」というのは、「いちいち考えずに自然体で発言しても、人を傷つけるようなことがなくなった」というような意味かなあ、と考えます。

 そういう時がくるといいですねえ。



****


 『行動承認』で良かったナと思うことは、あの本の中には一切「他社批判」がなく、「毒」がないことです。

 昨年は有名な「心理学」の本で「承認欲求」や「承認」を否定するくだりがあり、それを読んだらしい受講生さんの奇妙な反抗に遭い苦労しました。

 その他、「早くこのトレンド終わってよ」といいたくなる流行はようさんあります。また露骨な「他社批判」もさまざまな書籍の中にあります。仁義なきたたき合いの時代です。

 自分の身に火の粉が降りかかったらはらう。このブログでは時折そんなことをやって長い友人のかたにご心配をお掛けすることがありますが、何かの折に自分のスタンスを明確にするのは、そういうよくいえば百家争鳴、わるくいえば「なんでもありの無法状態」には必要な作業と思います。


 ただ、自分の「本」では一切そういうのを出さなかった。
 「承認の世界」のエビデンスとエピソードをつづり、それらを信頼してくださるお客様と対話しようと努めました。

 たぶんお客様がこちらからお願いもしないのに本を「反転学習」の教材に使ってくださったりするのも、そういう「毒気」のないスタイルを信頼してくださったゆえと思います。

 ほんとはブログでは結構どんぱちやって殺伐としているので、びっくりされるかもしれませんが。


また偉大な人を引き合いに出して恐縮ですが、孔子先生は競合のよその塾の先生を暗殺したことがあるそうです。すごいですよねー。



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 あの「大学の先生」も、よくわからないけど生き残り大変なのだろうな、と思います。

 「大学の先生」も「ベンダー」も、要は企業の人事の人を奪い合う「競合同士」なのです。お客さんを永遠に囲い込んでおきたいと思えば、「研修内製化」とか「ベンダーを使うのは思考停止」みたいな言葉が出てしまうのでしょう。

 「大学」のような大組織に属していると、むしろ別の種類の重いプレッシャーがあるのかもしれない。「現場」がどうなるか、ということまで気にかけてられない。

 そんなふうに同情することにしました。


当方は大事なことをしているので、邪魔しないでください。

「女性活躍」について書いた記事のゲラを返していただいたところ、すごく言葉に「トゲ」があって赤面した。結局この分野について冷静になれない自分がいる。「認められていない」と感じながら働く女性たちのことを考えると、「たまらない」のだ。でも読者は管理職を想定しているので、管理職がイヤな気持ちになったら元も子もない。ので何か所か慌てて修正する。

…ということをフェイスブックに書いていたらお友達(男性)のかたから心優しいコメントいただき、「そのリアクションは正しいと思いますよ。身近な女性管理職も、気持ちが分かるだけに辛いと言っています」とのことでした。
 そうなんだ、「認められてない女性のことを考えるとつらい」というわたしの感覚は間違ってないのだ、とほっとしました。

 そしてこのことも、新たに思い出したわたしのひとつの「暗黙知」につながるなあ、と思いました。

 暗黙知とは、すなわち「両方よし」ということです。
 これは、このブログにも滅多に書かないです。やっぱり管理職がイヤな気持ちになってしまうといけないので。

 管理職とは気の毒なもので、管理職が何かを「できてない」ことがその管理職を「悪」たらしめてしまうことがある。
 「承認」などはその最たるものです。

 「承認」が「ない」「できない」ことで職場の末端にどれほど多くの種類の「不幸」をつくりだしてしまうかイヤというほど知っています。1つ2つ前の記事に出てくる「職場のストレスレベル」などもそうですが、あくまで沢山ある中の1つです。

 しかし、「できない」管理職を「けしからん」と「勧善懲悪」の目でみてはならない。そのトーンで「承認」を語ってはならない。彼ら彼女ら自身も生身の人間で、それまで一生懸命生きてきていて、あと一歩枠を拡げなくてはならない局面にきているだけなのです。

 そして、「できてないあなたがたはけしからん」というトーンをにじませる研修講師のことは、管理職は決して好きにはなりません。自分たちの味方だとはみなしません、「この人敵だ」と認識します。それは恐らく社内講師だろうがベンダーだろうが一緒だと思います。

 できてない管理職に「アソシエイト」しながら、「このスキルを習得すればあなたがた自身幸せになれますよ」という意味のことを、「けしからん」を一切まじえず真心から伝えなければなりません。

 それができれば、管理職は幸福感をもって習得できるし、また習得したスキルを幸福感をもって使いこなすことができます。それが最終的に部下の側のほんものの幸福感になります。
 それが、ここでいう「両方よし」。


 この、「けしからん」を自分のこころから完全に追い払った状態で管理職の前に立ち、彼ら彼女らの味方に徹して語るということが、やっぱりノウハウとして必要だとわかっている人はすくないですね。これまで何度かほかの講師のかたとご一緒に仕事させていただいて思います。とりわけ「承認」というコンテンツは、問題解決の「急所」になるところだけに、「けしからん」という居丈高な感情を誘発しやすいようです、講師の側に。

 正田なんかはご存知のようにけっこう怒りっぽかったり悲しみやすかったりネガティブ感情をいっぱい持っている人間で、「認められない」人の悲しみはイヤになるぐらい自分のこころの中にも入ってきます。ときには怒りもわきます。それは確実にわたしの動機づけになっているのですが、それとは真逆に、文章や語り口にはそれを消し去り、管理職たちのほうをしっかり向いてあげることをします。枠を広げる彼ら彼女らがいかに大きな勇気と克己心でそれをなしとげるかを称揚し、彼ら彼女らのこころの疲れにも寄り添います。



 …ところで、このところこのブログで取り上げている「研修内製化」。
 最近またあるところで、「社内講師」のかたが「承認研修」をどういうやり方でやったか、きくことができました。
 管理職たちに、部下の名前をフルネームで書かせたのでした。そして、「下の名前まで書けない」「漢字で正確にどう書くか忘れた」という管理職たちに、「ほら、それが『承認がない』ということですよ」と言ったそうでした。なんでも「承認」だけを扱った研修ではなく、色んなことにちょっとずつ触れる研修だったらしいですが―。

 それをきいて脱力しました。
 管理職たちはすっかり「承認」なんて「嫌い」になり、何かのときに人に語る際には嫌悪をにじませた口調で「承認」を語るでしょうね―。

 こうやって、「社内講師」のかたがどういうやり方で研修をやっているか、事例を集めていくと、「内製化」をやみくもに謳うことがどんなに「危険」か、わかってくると思うのです。
 過去の「内製化」関連の記事はこちら。ここにも1つ事例が載っています

 内製化ブームに「1位マネージャー育成」の講師が思うこと
 http://c-c-a.blog.jp/archives/51885682.html


 「内製化」が正しい文脈というのもあるにはあり、ベンダーが粗悪品の研修をバカ高いねだんで売っているケースもあるのです。ただ、正しい場合と正しくない場合とある。「理念研修」のような、その会社のまったく独自のことは内製化で当然いいと思います。

 わたしなどは「ワールドカフェ」みたいな、碌なコンテンツも存在しないようなものは「社内講師」のかたがしてもいいとは思いますが、それでもやはり講師に一定の訓練が必要と思います。最低限、「リスペクトの口調」とか、「ある程度の歯切れのよさ」とか「手際よく的確な指示出し」とか。

 (補足:世間のワールドカフェのプロの方などには、「人を『乗せる』面白おかしい流れるような口調」というのもあるみたいですが、わたし個人的にはそういうのがもたらす人のこころの状態というのはイヤなもので―。チャライのは嫌い。はい、純粋に好みの問題です)

 「見よう見まね」レベルで、プロのノウハウのごく一部しかわからないで講師をしたがる「社内講師予備軍」の人が多すぎます。先の例の社内講師のかたは、「コーチングの本格的なトレーニングをどこかで受けましたか」ときくと、受けてなくて、「社内でやったコーチング研修にアテンドしたことがある」ということでした。なんか「本格的な訓練」というものを小バカにして、広く薄く、カタログだけぺらぺらめくっているようなところがある。そんなでも人に(それもラインマネジャーに)教えていいと思ってる。こういうのも、「内製化のすすめ」+「大人の学び」のもたらした荒涼たる風景でしょう。

 こういう人に、今回の記事の内容のような、一子相伝的なあまり外に公開しないノウハウを教えてあげたいかというと、教えたくない。意地悪するわけじゃないけれど。あ、ノウハウほかにもようさんありますからね。



 …さて、「認められないと感じながら働く女性たち」の風景というのは、わたしもつらくてみていられないところがあるのですが、もし機会があればまた情報収集してこのブログにでも書くでしょう。
 
 管理職たちにとっても「女性」は非常にセンシティブな話題のようで、「女性活用研修」などと銘打った研修をすると、露骨にイヤそうな顔で参加されます。「この講師は敵だ」と思っていることでしょう。ありがたいことに正田のところにはそういうタイトルのご依頼はめったにきません。
 ところが「承認研修」の流れの中でちらっと「女性にも『行動承認』してあげましょうね」ぐらいに触れておくと、それはイヤではないみたいで、ちゃんとやってくれます。そしてしばらくすると「えっ」と思うような素敵な活用事例を報告してくれることがあります。

 なので、「女性の一味」である正田は、「承認研修」という千載一遇のチャンスを、いい加減な講師のかたにやっていただきたくないのです。

 なお、「内製化のすすめ」を謳っている大学の先生には、社会的地位の高い人だけにわたしは厳しいです。どんな事態を全部でもたらすか想像力がはたらかないままに言っているとしか思えない。仕事柄企業の人事の人を敵に回してはやっていられない立場だろうとは思いますが(正田だって本当は敵に回したくないけど)、逆に事ここまでに至ってしまうと、「ベンダーを使ったほうがいい場合もありますよ」ということは口が裂けても言えないだろうと思う。旧日本軍みたいに、薄々間違っていると知りながらその方向に突っ走るしかないと思う。

 そして、ただでさえ企業の1人あたり教育訓練費が先進国の中でも極端に低いわが国で、粗製乱造の「内製化」がダブルパンチで来ると、わが国の強みである「現場力」すらも急速に衰えてしまうことが予見されるのです。最後は学者さんみたいな口調になっちゃった。

 真摯に企業のゆくすえを案じる立場の人がこの記事を読んでくださることを祈ります。


(一財)承認マネジメント協会
正田佐与

お世話になっている皆様


 おはようございます。
 一般財団法人承認マネジメント協会の正田です。
 連日の猛暑です。
 みなさま、お変わりありませんか。
 

※このメールは、正田が過去にお名刺を交換させていただいた方・当協会のイベントやセミナーにご来場いただいた方にお送りしています。ご不要の方は、メール末尾にありますURLより解除ください。
(解除方法が変わりました!詳細はメール末尾をご覧ください)


 本日の話題は:

■職場のストレスと「上司力」
■「月刊人事マネジメント」誌で連載がはじまりました
■おめでとうございます!有光毬子さん表彰
■兵庫県で「承認」を学ぶチャンス!加東市商工会様でのセミナーご案内

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■職場のストレスと「上司力」

「上司の部下対応に改善が必要な職場は、高ストレス者比率が約10倍高い」という調査内容がこのほどまとまり、公開されました。
 こちらのサイトに詳細が載っています↓↓↓
  http://www.peacemind-jeap.co.jp/news/release/9004.html

 この調査によると、約4万人の調査対象者の中で「高ストレス者」と判定されたのは8.7%。男性よりも女性、若手従業員ほど高ストレス者比率が高いということです。また表題にあるように「上司の部下対応に改善が必要な職場は、高ストレス者比率が約10倍高い」と、上司の部下対応が職場のストレスに大きく関わるらしいことが伺われます。具体的には、「上司のリーダーシップ」「上司の公正な態度」「ほめてもらえる職場」「失敗を認める職場」の4項目が「上司の部下対応」の指標になっています。

 今年12月から職場のストレスチェックが義務化されるに当たって、興味ぶかい資料といえるでしょう。

 この資料について、あるいはそれをめぐる様々な状況について、こちらで考察しています。もしご興味があられましたら、ご覧ください:
 儲かる資質、「上司力」と職場のストレスレベル、また種明かし「習得」「克己心」を生む装置
 http://c-c-a.blog.jp/archives/51919901.html 

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■「月刊人事マネジメント」誌で連載がはじまりました

 企業の様々な人事制度、人材開発の話題をとりあげる「月刊人事マネジメント」誌(ビジネスパブリッシング社発行)で、「行動承認マネジメント」に関する全7回の連載が先月から始まりました。
 第1回掲載記事をこちらにUPしています

 「行動承認は”儲かる技術”である」―月刊人事マネジメント7月号
 http://c-c-a.blog.jp/archives/51919833.html
 今後の連載では、「学習ステップ」「女性活用」「若手の離職防止」「メンタルヘルス」などについて、「行動承認」の応用による解決策をご紹介していく予定です。
 生産年齢人口の減少という、今明らかに迫っている課題について、少しでも現実的な解をご提示していければと思います。

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■おめでとうございます!有光毬子さん表彰

 もう少し古い話題になってしまいました。
 去る6月24日、コープこうべ元役員・有光毬子さん(70)が、男女共同参画社会づくり功労者として内閣総理大臣表彰を受けられました。
 内閣府男女共同参画ホームページ
 http://www.gender.go.jp/public/commendation/souri/meibo-h27.html

 有光さんは、本メルマガでも過去何度かご紹介させていただきました。コープこうべにて、一社員として入社されのちに女性初のバイヤー、店長として活躍されました。
 その壮絶な頑張りぶりと、近年「承認」を活用した地域活動で成果を挙げられていることなどを昨年、インタビューしご紹介させていただきました。いずれも「人」の可能性の豊かさを感じさせてもらえる素敵なお話でした。
 有光さんインタビューはこちらからご覧ください:
 http://c-c-a.blog.jp/archives/51881408.html


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■兵庫県で「承認」を学ぶチャンス!加東市商工会様でのセミナーご案内

 「オープンセミナーはないんですか」
『行動承認』の出版後、よくそういうお問い合わせをいただきます。なかなかそれにお応えできなかったのですが、兵庫県内で「学びたい」と思われた方に朗報です!加東市商工会様で9月から11月にかけて、「承認」「傾聴」の3回のセミナーをいたします。
  加東市商工会HP http://www.katosci.or.jp/index.shtml

 詳しくは9月11日(金)、10月16日(金)、11月6日(金)の各13時30分〜16時30分。
 加東市商工会館(加東市社717-1)2階会議室にて。
 実際に「承認」で成果を挙げられた経験者の関西国際大学経営学科長の松本茂樹先生と正田が2人で講師を務めさせていただきます。
 受講料はおひとり1500円(資料代)。会員企業以外でも参加できます。
 お問い合わせは、同商工会(0795-42-0253)まで。
 本日、神戸新聞東播版にもセミナーの広告が載っているそうですので、お申し込みはお早めに…。

 なお、上記のセミナーではお申込みいただいた方に、拙著『行動承認』を配布していただく予定です。
 最近では、研修先企業様でも「セミナー前に『行動承認』を読んでから受講」というやりかたを取り入れていただけるようになりました。
 東京の「株式会社牧」様での研修風景をこちらでご紹介しています:
 胸を打つアイスブレイク、夏のベーカリーの賑わい
 http://c-c-a.blog.jp/archives/51919437.html 
 
 予習をしてから授業本番に臨むというこういうやり方を「反転学習」といい、今学校教育の中にも取り入れられているそうです。
 かつてなく情報量が多くお一人お一人が忙しいこの時代に、ひとつの研修の効果を最大化するには、お勧めの方法かもしれません…。


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 メルマガ発行が少し長く空いてしまいました。
 猛暑の中、熱中症にはくれぐれもお気をつけください。

 
※このメールは、正田が過去にお名刺を交換させていただいた方・当協会のイベントやセミナーにご来場いただいた方にお送りしています。

解除される場合は、下記の解除フォームから受信していただいたメールアドレス入力して下さい。
メールアドレスを入力していただいた後、解除専用の確認メールをお送りさせていただきますので解除専用のURLをクリックして下さい。
いたずら防止のため解除の確認メールをお送りさせていただいておりますのでご理解のほどよろしくお願い申し上げます。
http://mag1.hyper-mail.jp/md/publish/quit.asp?mid=848


※このメールの過去アーカイブはこちらです
http://c-c-a.blog.jp/archives/cat_50052130.html 


※このメールは転送歓迎です。
もしこのメールを新たに購読ご希望のかたがいらっしゃいましたら、
info@abma.or.jp まで、「メールニュース希望と書いて
お申込みください。


*…*…*…*…*…*…*…*…*…*…*…*…*…*
100年後に誇れる教育事業をしよう。
一般財団法人承認マネジメント協会
(旧NPO法人企業内コーチ育成協会
http://abma.or.jp
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
理事長 正田 佐与
----------------------------------------
Email:s-shoda@abma.or.jp
TEL: 078-857-7055 FAX: 078-857-6875
Post:〒658-0032 神戸市東灘区向洋町中1-4-124-205

ツイッターアカウント: @sayoshoda

フェイスブックページ: http://www.facebook.com/sayo.shoda

ブログ「コーチ・正田の 愛するこの世界」
http://c-c-a.blog.jp/

近著『行動承認―組織の能力を最大化する「認める力」』
http://www.amazon.co.jp/gp/product/4434198572 


*…*…*…*…*…*…*…*…*…*…*…*…*…*

 成功を約束する資質とは何か。あるいは「儲かる」に直結する資質は何か。

 この問いに『成功する子 失敗する子』(ポール・タフ、英治出版、2013年12月)という本ではこう答えます:


●パーソナリティ心理学の領域で勤勉性の研究の第一人者であるブレント・ロバーツによると、研究の世界では「勤勉性」は厄介者扱いされ、あまり研究されないできた。「研究者というのは自分が価値を置くものについて研究をしたがるものです」とロバーツはわたしにいった。「勤勉性を高く評価するのは知識人でも学者でもない。リベラルでもない。宗教色の濃い保守派で、社会はもっと管理されるべきだと思っている人びとです」(ロバーツによれば心理学者が好んで研究するのは「未知のものごとに対する開放性」だそうである。「開放性はクールですからね」と彼は少しばかり悲しそうにいっていた。「独創力についての研究だから。それに、リベラルのイデオロギーともいちばん強い結びつきがある。パーソナリティ心理学の世界にいる人間はほとんどがリベラルなんですよ。いってしまえばぼくもね。学者は自分たちのことを研究するのが好きなんです」)


●産業・組織心理学の分野では、勤勉性は評価されてきた。企業には学究的で難解な議論とはかけ離れたニーズがあり、生産力が高く、信頼のおける、仕事熱心な働き手を雇いたいわけである。職場の成功のいちばんの指標となるのはビッグファイブのうちの勤勉性であるとわかった。
 勤勉性の高い人びとは、高校や大学での成績もよい。犯罪にかかわる率が低い。結婚生活も長く続く。そして長生きである。喫煙率や飲酒率が低いせいだけではない。血圧が低めで脳卒中にならず、アルツハイマー病を発症する確率も低い。


 詳しくはこちらの読書日記参照
 http://c-c-a.blog.jp/archives/51879835.html


 えーと要約しますと、企業の業績向上のためには何を伸ばすべきかというと、「独創性」と「勤勉性」では、「勤勉性」を伸ばすことが業績向上にはもっとも近道、という結論になります。「独創性」がダメだ、と言っているわけではないんです。順序としてどちらが先にくるのが冷静な判断か、というお話です。

 学問的には、あまりおもしろくない結論ですよね―。


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 もうひとつきのうフェイスブックでお友達がシェアされた記事を、こちらにも引用しておきたいと思います。

 【調査結果】上司の部下対応に改善が必要な職場は、高ストレス者比率が約10倍高い 〜 約4万人のストレスチェック結果のデータ分析より 〜

 http://www.peacemind-jeap.co.jp/news/release/9004.html

 
 これもまあ、「やっぱり」という感の記事ではあります。ストレスチェック義務化の中で当然注目しなければならない視点です。
 上司がリーダーシップがない、不公正、ほめない、失敗を認めない、という人であると部下のストレスが高い。またその影響を受けやすいのは、若い人ほど受けやすい。

 若い人時代が遠い昔になっちゃうと、実感しにくくなりますね。

 でもまた、「そんなの上司にちゃんと教育すればいいじゃないか」と思われるかもしれませんけど、著書にもかきましたが管理職教育の質が恐ろしく下がっています。

 高ストレスぐらいで済めばいいですけど、鬱になってしまうと、1年とか1年半は軽く棒に振ります。再発も多い、一生しょいこむ病気ですから、職場復帰しても再発を繰り返し生活保護のお世話になる可能性も高い。

 社会設計上も、ほんとは管理職教育、ちゃんとすべきなんです。

あと、この資料は今流行りの「カウンセリングマインド」よりも、むしろ「承認」とほぼ重なる指標を重視していることも興味深いです。


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 「大人の学び」とか「内製化」は当然そのラインマネジャーの質低下に寄与しているでしょうね…、

 これは初めて書くと思いますが、拙著『行動承認』出版以来、実は企業の人事担当者の方からちょこちょこご連絡をいただきます。内容は、「コンテンツを自分がやる研修に利用してよいか」という打診が多いです。

 たぶん打診してくるのは「まし」なほうなんでしょうけれど…、

 で、わたしは「いいですよ」とは言わないことにしています。

 何故って、「承認研修」を現実の管理職を前にしてやることの重みがわかってないだろう、人事の人あたりだと、と思ってしまうからです。
 
 「ラインマネジャー」は自社の「人事の人」が付け焼刃の知識でおこなう研修をはいそうですか、とすなおに受講するほどお人よしではないです。



 「承認」は本来ラインマネジャーが背負っている「責任」からすると、非常に難しいことを彼ら彼女らに課します。
 端的に言うと、責任のない人のほうが、ほめられる。お母さんよりジジババのほうが孫をほめられる、甘やかせられる。責任を担う人が「よいところとか行動に目を向ける」となるのは結構大変なんです。

 
 だから、ミドル以外の人に学ばせたらという意見もあります。「承認」はたとえばメンタリングにも使えるからミドルではなく、メンターになるような中堅に学ばせたらどうか、という意見もあります。
 どうしてもの要請があれば仕方なくそうすることもありますが、わたし個人の意見は「いや、ミドルマネジャー(課長級ぐらい)が学ぶべきだ」というものです。

 なんでかというと、中堅が優しくてミドルが「承認」が出来ない怖いばかりのおじさん、という状態ですと、ミドルが職場で孤立しかねないからです。ミドルによる職場運営が難しくなるからです。そしてスキル習得が「下から上」に波及することは、まずありません。
 そのぐらいの想像力は働かさないといけない。

 逆にミドルが担い手になった場合は、同じスキルが下まで波及し、驚くほど職場運営がスムーズになり、人々の心がミドルの下にまとまります。
 だから、できるだけその線を狙いたい。


 でも現実にミドルにこういう研修をするのは難しい。生半可な人が講師で前に立ったら、野武士のようなミドルは猛反発します。社内の関係上露骨に反発を顔に出さなくても、できるだけ聞き流そう、スルーしようとします。
 彼らの職場運営の中で味わう人としての苦しみ、痛みがわからないで「承認」なんていうきれいごと的なことを教えにくる人間のいうことなんかきくものか、と思っています。


 だからでしょう、

 先日「株式会社牧」様で研修をさせていただいたとき、牧田社長が講師紹介で打合わせなしに言われたのが、

「正田先生は皆さん(店長さん)の苦しみ、痛みをすべてわかってくれる方ですよ」

ということでした。
 わたしには「ない」発想でしたが、そうかなるほど、と(自分のことながら)膝をうつ思いでした。


 それはちょっと脱線でしたけれど、

 わたしは「承認」というコンテンツをミドルマネジャーに教えるための免罪符がいくつかあると思っています。

 それは例えば「この分野に特化して啓発活動をしながらやり続けている専門ベンダーであること」であったり、「任意団体―NPO―財団法人と、非営利教育でいわばインディーズ出身で、生身のマネジャーたちに寄り添い研修の『予後』を丁寧にみながらプログラムを作ってきた講師」であること。

 それがあるから、わたしは彼ら彼女らに「これをやってください」と、慎重な中に「きっぱり」した口調で言うことができる。行動をリクエストすることまでできる。

 その結果、「承認っていうものがあるんですよ〜。大事なことですよね〜」と、腰の引けたトーンでコンセプトだけ提示するのとは研修の「予後」がまったく異なってきます。


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 本『行動承認』もまた、このところお客様が「反転学習」で使われているように、「学ぶ」「習得する」ための装置です。

 「あの本」は、「アソシエイトとディソシエイト」という概念の中の「アソシエイト(共感する、没入する)」を意図的につかっています。

 つまり、実在の何人かのミドルマネジャーたちが、「承認前」と「承認後」、地獄から天国へ移行するプロセスを、「習得」を経ることをまじえながら「彼ら目線」で語っています。
 その彼ら彼女らに「アソシエイト」できた読者は、「自分もこういうことができるようになりたい」と思う。その意欲が、小さな「習得」という壁を乗り越えさせる。彼ら彼女らの中に元々あった克己心が目覚める。

 もともとラインマネジャーになる人たちは、(正田とはちがい)スポーツ経験者が多く、若い頃からスポーツその他での色んな「乗り越え体験」をもっているのです。そして学習能力もあるのです。それらを正しく向ければ、「承認の習得」はそんなにむずかしいことではないのです。

 だから、「あの本」はマネジャーたちの学習に必要な「克己心」を引き出す装置、といいますか。

オープンセミナーより企業研修の比重が大きくなった時、学習意欲の低くなりやすい企業研修の中でマネジャーたちに「克己心」のレベルの学習意欲を持ってもらうにはどうしたらいいか?というのは一時期、かなり真剣に悩んだ課題でした。
「克己心」は殴ったり虐めたりして、怒らせたり泣かせたりすれば出てくる、と思ってる人も一部にいらっしゃいますがー、わたしSM趣味ないし。そんな負の感情を持って承認を学べるわけじゃないですし。


(また余談ですが、「アソシエイト」の能力が生得的に低いのだろうとみられる方がAmazonのあの本に低評価レビューを書いておられますが・・・、「ディソシエイト(引き目線)」の話法しか受け付けたくないという人は、どのみち「担い手」にはなれない層の人ですから、ほっときたいと思います)


 こうして書いているとまた、実名で「あの本」への登場を快諾してくれた現役マネジャーたちへの感謝の念が湧いてきますが。


 こうして、種明かしをすれば一切「ずる」のないプロセスで、正田流の「承認研修」はマネジャーたちに奇跡を起こさせます。



 わたしは「学問のための学問」には興味はありません。

 ただ、本音のところは「業績向上」も実はどうでもよくて、もうちょっと人道主義的なところに本当は興味があるのだけれど、それもたぶん聡明なマネジャーたちは薄々気づいていながら、でも「業績向上」のこともきちんと報告してわたしを安心させてくれます。


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 「株式会社牧」の店長さんがたの宿題が返ってきました。

 「反転学習」の甲斐あって、皆さんすごい実践でした。1つ1つの事例から、パンの職人さんやパートさんの「成長物語」が伝わってきました。平均点で過去最高だったのではないだろうか。

 総務のかたから宿題の取りまとめとメールでのご送付と同時に、なんと同社から小包も。

 中は、素朴な焼き菓子でした。

 写真は「チュイル」「ごまチュイル」「グラノーラ」

牧 焼き菓子20150806


 これも各店舗で皆さんが焼いていらっしゃるそうでした。

 ひと袋の量がたっぷりあって、驚くほどサクサクの生地でした。

 「月刊人事マネジメント」誌(ビジネスパブリッシング社発行)7月号に掲載された、「上司必携・『行動承認マネジメント読本』〜人手不足チームのやる気と力の引き出し方〜」第1章のゲラをいただきました。

 掲載から1か月たちましたので、同誌編集部のご厚意でこちらにも転載させていただきます。第一章は題して「『行動承認』は”儲かる技術”である」です。


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以下、本文の転載です:

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上司必携・『行動承認マネジメント読本』
〜人手不足チームのやる気と力の引き出し方〜


一般財団法人 承認マネジメント協会 理事長
正田佐与


第1章 「行動承認」は”儲かる技術”である


 生産年齢人口、若年労働者人口の減少に伴い、採用した人材をいかに余すところなく活用し戦力化するかは、人事部の方、そして管理者の方にとっても喫緊の課題でしょう。

 本連載では、人手が足りないなかでもチームのやる気と力を安定的に引き出して業績向上に寄与する「行動承認マネジメント」という手法をご紹介し、上司の立場におられる読者の皆様に職場の課題解決のヒントをご提供します。


「行動承認」って何ですか?


 「行動承認」とは、文字通り「行動を認める」ことです。

 一口に「認める」というと漠然としていますが、そこには「行動承認(良い行動を事実通り認める)」をはじめ、「共感する」「任せる」「力づける」、ときには「叱る」など、場面によって様々な言葉がけや行為が該当します。総じては「相手の存在価値や良い行動を認めること」といえます。

 この中の「行動承認」について、なぜ、部下を持つ上司のあなたにそのマネジメント手法をお伝えしたいのかというと、行動こそが承認を通して最も「人」の成長を促す基準だからです。

 そして、実はこの「行動承認」は、単に人の行いを褒めるだけの”甘い”マネジメントではなく、極めて業績向上の効果が高い手法であることが実証されています。

 過去13年にわたって、「承認」を導入した職場では、製造・銀行・生保・コールセンター・OA機器販売・福祉・自治体など業種を問わずに、売上・品質・生産性・人材定着率といった各種指標が上がることが報告されてきました。そこでは「人」の成長が促され、それも女性・若手・外国人・障がい者…といった従来マイノリティだった人々が成長し、その力が業績を押し上げたのです。

 業界・業種の個別性、企業戦略の適否を別にすると、「人の成長」そして「良好な人間関係」「マネジャーの求心力」が業績向上に大きく寄与するということは、おそらく時代を超えて変わらないことなのでしょう。そして、上司による「(行動)承認」というシンプルな行動規範こそがそこで”儲かる技術”としての大きな役割を果たすというわけです。

 こうした過去の事例も踏まえて、「行動承認」の具体的な手法とその応用により組織に起こる各種の効用について、これから述べていきたいと思います。

 
 なぜ「承認」が業績につながるのですか?


 上司による「承認」は部下たちの前向きの行動を増やすとともに、部門内の協力行動を増やし、情報共有を増やし、極めて効率のよい組織運営につながります。なぜでしょうか?

 そのメカニズムが科学的に解明されているわけではありませんが、ここでは有力とされる3つの点を指摘しておきます。

 嵒坩造米本人」を能動的に変える

 例えば、アメリカ人と日本人では生得的にも成人してからも大きく気質が異なるといわれています。文化心理学、遺伝子学などの研究でも、平均的な日本人はアメリカ人に比べて不安感が高く、他人からの評価を気にかける人が多いことが分かっています(図表)。

 「承認」はこうした日本人特有の不安感を払拭し、プラスの行動量を増やす働きがあると考えられます。実際に、「承認」をトップ以下全社的に取り入れた職場の例では、社員の失敗を恐れずチャレンジする気風が生まれ、逆にそれまではよくみられた、仕事を振られて尻込みsるうような社員の後ろ向きの発言がなくなった、ということです。

脳が成長することの幸福感

 「脳は貪欲なまでに成長を求める臓器だ」という脳科学者の言葉があります。そうした脳の性質から成長が人の幸福感をつくること、さらに受験勉強的な知識の蓄積ではなく、行動を通じての学びによって脳は最も成長することが分かっています。

 「行動承認」では行動することを尊び、行動を奨励しますが、身近な他者から行動と成長を励まされることは、特に若手にとっては大きな幸福感につながるといえそうです。このことは離職防止の回で詳しく述べたいと思います。

信頼⇒幸福感⇒協力行動の促進

 近年、信頼ホルモン、共感ホルモンと呼ばれる女性ホルモンの1つ「オキシトシン」という物質の作用が大きくクローズアップされています。人は、他人との間で信頼する・される経験をすると、男性・女性を問わず血中にオキシトシンが分泌され、幸福感を覚えます。幸福感が高いと身体の行動量が増えることも分かっており、このことも「承認」のある職場の業績全般が上がることの根拠の1つとなりそうです。

 幸福感が高まることのもう1つの効用として、他人に親切な振る舞いをするようになることが挙げられます。「承認」が定着した組織では、人々が成長するだけでなく、例えば困っている同僚がいればさっと近寄って手伝うというような「協力行動」が増えます。

 「行動承認マネジメント」では、お世辞を言うのではなく事実に基づいて相手のプラスの行動を言うことを奨励します。間違いのない事実の言葉ですから、それは言われた相手が上司のあなたの存在を信頼することにつながります。すると、幸福感が高くなり、互いに協力し合う、有機的な職場が生まれるのです。


どうすれば実践できるのですか?

 こうした「行動承認」による一連の職場改革を起こすためには、まずはマネジャーが一定の行動規範に沿って適切な言葉がけや行動をとり続けること。そのために適切な教育プログラムを施すことが大切になります。

 しかし、日常の多くの実務に忙殺されているマネジャーがコンスタントに実践できるということを考えると、あまり専門的・複雑になりすぎず、シンプルな法則から成り立ったプログラムであることも大切です。

 では、どうすれば職場のマネジャーが行動承認マネジメントを実践できるようになるのでしょうか。まず簡単にそのポイントに触れておきます。

●行動理論による「強化」の考え方を理解する
●「承認」が人の働く動機づけの最大のものであること(承認論)を理解する
●「行動承認」をはじめとする「承認」のバリエーションを理解する
●「行動承認」+「Iメッセージ」を使った実習で部下の心にどう働きかけるかを体感する


 次回は、上記のような「行動承認」をはじめとした「承認」の具体的な学習ステップを、実際の研修の順序に沿ってお伝えします。

(了)



「上司必携・行動承認マネジメント読本」シリーズ全体の構成は:

第一章 行動承認は”儲かる技術”である(2015年7月号)
 http://c-c-a.blog.jp/archives/51919833.html
 第二章  「承認」の学習ステップ(8月号掲載)
 http://c-c-a.blog.jp/archives/51921667.html
第三章 女性活用と登用は「上司の眼差し」次第(9月号掲載)
 http://c-c-a.blog.jp/archives/51923763.html
第四章 LINE世代に対するマネジメントとは(10月号掲載)
 http://c-c-a.blog.jp/archives/51925545.html
第五章 「踏み込みすぎない」メンタルヘルス対策(11月号掲載)
 http://c-c-a.blog.jp/archives/51927183.html
第六章 部下の凸凹を戦力化に転じる(12月号掲載・本記事)
 http://c-c-a.blog.jp/archives/51932814.html
第七章 伝えたいことが「伝わる」伝え方(2016年1月号掲載)
 http://c-c-a.blog.jp/archives/51934650.html

 このブログでは過去、『報酬主義をこえて』という本を徹底批判しました。今読んでも、行動理論という当時すでに確立された理論について面白くないとかみついた、それに大層な理屈をまぶしつけた、不愉快な本でした。

 「確立されたものだから、面白くない」
というゆがんだ情熱に動機づけられた本は、独特の邪悪な匂いをはなつのです。
 去年STAP細胞の記者発表をした(のちに亡くなった)学者さんも、iPS細胞への対抗意識をむきだしにしていましたねぇ。またそれに近いものは、ここ2−3年流行っているべつの「心理学」―これもわたしからみると、心理学というより極論のオピニオンに近いのだが―にも感じます。

 余談になりますが大学教育でまた「教養」を否定する流れがあるとき、「実学」もいいのですがこういう、
「変なものに騙されない能力」としての「教養」は継承され得るのか、と心配になります。


 そしてそれに続き、巷にある「大人の学び」なるものを批判しなければならないところに来ているのかどうか―。
 批判ということは、するのは「大人げない」のですが、言語化することでほかの方の頭の中にもあるモヤモヤしたものを具現化することができるようだ、というのも思います。だれかがどこかで言語化しないといけない。


 この件に関してまだあまり固まっていないのですが、今の私の中に出来上がりつつある見方は、


 「『大人の』も『学び』も本来、使うに値しない。いうなれば『意識高い人(痛)のための参加型情報番組』という呼び方がふさわしいのではないか」

ということです。

 主宰者の大学の先生の、「大人の学びはあくまで個人の学びの入り口」という言葉がほんとうであるなら、所謂「大人の学び」という楽しいイベントのその先には自発的に求める克己的求道的な厳しい学びの世界があるはずであり、それこそがほんとうは「大人の学び」とよぶに値するはずでしょう。英語でもなんでも何かを「習得した」といえるレベルになるには相応の時間数が必要で、自分の従来のキャパを打ち破ろうとするような克己心や集中力も必要です。

 何の負荷もかからない、TVの情報番組のように早いテンポでぱっぱと移り変わり仕事の息抜きにはいい、所謂「大人の学び」のところにいつまでもとどまっていたら、

「まだそんなことやってるの!?ガキじゃないの」

とバカにされるのが正しい、のではないでしょうか。


「いや、つかれてるから本当は何も学びたくないんだ、ただ新しい情報がぱっぱと入れ替わるのをみると息抜きになるんだ」
という需要に心優しく応えるのを「大人の」というならべつですが―。


 ただ所謂「大人の学び」は、異業種交流というお土産もあるから、「夕活」ブームの中で一定の地位を占めるでしょう。

 しかし「学び」というものの中には、一方の対極にわたしがやっているような「修練」「習得」に重きを置いたような学びもある。こちらはむしろ本当に種もしかけもない。しかし、それを「学ぼう」と決意した人、というのはある意味、その時点で大いに「大人」なのです。

 「真摯さ」を嘲笑のタネにしたい、という歪んだ心理も世の中にあるのは承知していますが―、
 往々にしてそうした心理は、「邪悪」のレベルまでいってしまいます。そちらを肯定してしまうと極端な話、「いじめ」にまでいってしまいます。
 これも「功罪の比はどれくらいか」という話になるのですが、「真摯さ」がわるさをする確率は「あるにせよごくまれで小さい、多くの場合は良い方向に作用する、わるい兆候がみえた場合には待ったをかけることも必要だが兆候がみえない場合には肯定しておいてよい」です。医薬品の副作用のようなものです。
 「真摯さがわるさをすることがある」ということを論じる場合には、「そういう功罪比である」ということが読み取れるように語らないといけません。

 そして仕事の現場は「真摯さ」のかたまりです。


 「大人の学び」という、大人げない名称を変えてくれるならいいのではないでしょうか。

(「大人」を自称する時点で「大人」ではない、という見方もできるかもしれませんね…)


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 こうした問題を考えるとき、わたしはどうしても「ラインマネジャーとスタッフ部門の人の人格の違い」ということにも思いを馳せます。

 たとえば、「情熱」はどちらかというとラインマネジャーのほうに多い。スタッフ部門の人には、生得的に少ないのではないかと思える人が多い。それは加藤清正と石田三成の違い、をイメージしていただければわかるでしょうか。

 自分が生得的に持ち合わせていないもの、というのは、不気味にみえたりするものです。

 だから、スタッフ部門の人に「受ける」話をしようと思えば、ラインマネジャーの「情熱」を笑いのめすというネタもあり得る。

 しかし現場的にはそれは間違いだったりする。


 この業界に入ってから10何年、こんなことばかりです。


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 ・・・あと、こういうことを言うと関係者のかたを傷つけてしまうかもしれないんだけれど、

 際限なく新しいことを言ってあるいは自己矛盾するようなことをわざと言って混乱させ、ひっぱりまわし、受講生にいっさい「達成感」を与えない、というやりかたは、「自己啓発セミナーの教祖」もおなじことをするんですよねえ。永遠に自分が優位に立てるんです。あくまで似ている、というだけです。ついていく人は、際限なくついていきます。

 先日の「株式会社牧」様に続き、9月から3回の公開セミナーを行う加東市商工会様でも、拙著『行動承認』を事前にお配りいただいたうえでセミナーをすることになりました。

 このセミナーでコンビを組ませていただく松本茂樹先生(関西国際大学准教授、経営学科長)によると、こういう「あらかじめ予習をしてから授業に臨む」やりかたを「反転学習」といい、今大学でも取り入れるところが増えているそうです。

 うれしいことに、今回のセミナーに社員さんを参加させることを決めたある企業の社長さんが、商工会の会長さん(別の企業の社長さん)に拙著『行動承認』を渡して「読め!」と言われたのですって。でもともとの発信元である商工会の会長さんが、本を貰って帰ってきたのですって。


 ところで、『行動承認』を読まれたあとで著者のわたしに会われたかたは、こういう印象をもたれるのだそうです:

「あれ、本を読んだ印象ではすごくエネルギッシュな強い人のように思えたのに、実物はむしろ弱弱しく大人しくて無口な、『おどおど』しているとすら言える感じの人なんだな」

 これも、今後お出会いする方々にも起こる可能性のあることなので…。


 自分なりにどうしてこういうあり方になっているのだろう、と改めて考えてみた結果、出てきた結論は大きく次の2点でした。
 これまでも形を変えてこのブログに繰り返し出て来たことと重なるかもしれませんが…、

1.「管理職に教える」という仕事の要請上、過剰に「情熱的」なあり方ではなくニュートラルでなければならない

2.元々の正田の生物としての能力の凸凹。とりわけ「動作スピードは平均よりやや遅い」ということがわかっているので、それが印象の大半を決めている可能性がある


 1.は、繰り返し出ていることです。
 管理職の抱える現場は多種多様です。そして管理職自身の人格も多様です。これまでの成功体験がどんなにあろうとも、虚心に新しい受講生さんに向き合わないといけないとつねに自分に言い聞かせるわたしです。むしろこれまでの成功体験がなまじあればあるほど、その態度は必要なのだと思います。

 かつ、「管理職の人格」は独特で、若手や中堅よりも「疑心暗鬼」が強いことが多い。それはその人の人生のそれまでの「裏切られ体験」にもよるのだろうと思いますが、
 研修講師という人種に厚顔無恥、臆面のない人格の持ち主が結構いて、本来断言することのできないことを自信たっぷりに断言する人がいて、うっかり研修講師の言うことなど信じるととんでもない下手をうつ。
 
 変にテンションの高い人格など見せようものなら逆に「ひく」のが普通の管理職です。

 だから、正田は淡々とニュートラルなあり方をたもちます。それが「自信のなさ」と受け取られるリスクがあっても。
 ―実際に「自信」など今でも「ない」ですが―

 これまでの蓄積がいくらあっても、それが目の前の受講生さんのもとで再現される保証はない。
 わたしがそのスタンスを保っているから、受講生さんは逆に成果を出される。


 また、これまでの膨大な管理職たちの実践経験をアーカイブとして引っ張りだしたり、神経化学物質や遺伝子学、脳科学の知識まで援用しながら伝える、ということもします。
 そして膨大な情報を取捨選択したすえに「この教育」「この方式」の妥当性がゆるがない、というわたしの確信を伝えていきます。
 「個人のオピニオンのレベルの話ではない」
という確信が持てれば、普通に聡明な管理職の方だと納得して取り組んでいただけます。

 それもこれも、目の前の受講生さんの先に人びとの大きな幸せの可能性が開けているのだと思えばこそ、わたしは自分個人の魅力や自己実現より大切な、慎重かつニュートラルなありかたを選びます。



 2.の「生物としての凸凹」の問題は、さまざまな人材育成分野のツールに加えて、最近WAIS-IIIという知能検査の詳しいのも受けました。
 こういうお話も、「ひく」人は少なからずいるのでしょうけれど。
 その結果わかったのは、おおむね高いレベルの中でところどころ「抜け」があるのがわたしの知能で、
 今回は

「動作スピードが平均よりやや遅い」
「視覚的情報をとっさに判断する力が平均なみ」(こちらは平均をやや上回る程度だがほかの指標に比べると大きく落ち込んでいる)

ということがわかりました。


 たぶん、「動作スピードの遅さ」は、仕事内容によっては有能・無能の決定的な分かれ目になるところかもしれないし、「視覚的情報―」うんぬんは、多分初めていく場所や初対面の人をやや苦手とする、これもこどものころから傾向としてありましたが、そういう特性につながっているでしょう。
 初めてあう人に対しては、自分のあまりよく働かない神経細胞をフル稼働させるために「まじまじとみる」傾向もあるかもしれません。それが「おどおどしている」という印象につながるかもしれません。

 そしてその2つを印象として強くインプットする人は、わたしのことを「能力が低い人」と評価するでしょう。

 いいんですけれどね、別に。

 
 優れた成果を出した受講生さんは、もともと優れた能力の持ち主だったのです、わたしなどより、はるかに。


 遺伝と「相対優位」の関係を扱った議論は、『遺伝子の不都合な真実』という本の中に出てきます。
 こちらの読書日記などをご参照ください

 http://c-c-a.blog.jp/archives/51822753.html

 この記事の、かなり後半のほうですけれど、「相対優位」を使った「利他的互恵関係」という言葉。
 なんかいい言葉でしょ?
 だからイチローは野球をし、球場のお掃除の人は掃除をして、それぞれ社会に貢献するのです。

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 「信念」や「情熱」をもつことの功罪。

 それらがわるさをする場合もあります。
 ただし、「信念」も「情熱」も本来リーダーには不可欠のものです。
 これまで成果を出されたリーダーには、必ず「このままではいけない」「こうでなければならない」という、やむにやまれぬもの
 ―ひとことで言えば「信念」「情熱」―
がありました。

 それらが科学的で正しいものであるとき、「承認」はその人にとってきわめて大きな武器となります、というお話を過日しました。
 
 世の中まれには「邪悪な信念」や「はきちがえた情熱」というものもあるでしょう。刑事事件に発展しそうなそれもあるでしょう。わるい目的のために「承認」を使うことまでは想定していません。それはお医者さんが医療用医薬品や医療用具をわるい目的に使うことまでは想定できないのと同じです。


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 そして「教えられること」に反発することの功罪。

 コンサル業界には数年前の一時期「OJE(On the Job Experience)」という言葉が流行ったことがありました。これは「OJT(On the Job Training、昔ながらの「技能伝承」に近い、上司部下、先輩後輩間の「教える―教えられる」の関係)などもう古い、上司先輩の持っている知識は陳腐化し現代には通用しなくなった、これからは人から教わるのではなく経験から学ぶことだ」という考えからきていました。最近は幸いあまりきかなくなりました。

 極端から極端に振れる議論というのはあるもので、時代がどんなに移り変わっても上司先輩から部下後輩に「教える」部分はなくなりません。そしてその「教える」作業を信念をもって行えなくなった上司先輩が増えたことを見聞きすると、こうした「OJTよりOJE」といった議論は、罪深いことをしたなあ、と思います。ああそういうのにくみしないで良かった、とも。

 往々にして今どきの若手は上司先輩に質問せずにネットのQAサイトなどで質問し全然よその人から回答をもらう、しかしそれがその企業・組織の方法論とは合致せず困った事態を引き起こすというのをききます。
 また最近のNHK「クローズアップ現代」では、登山ブームの中で経験豊富なリーダーの言うことをきかなかったりそもそも経験のある人をパーティに入れないで出発して遭難する人が後を絶たない、という話を取り上げていました。「自分の経験にこだわる」態度は、「他人の経験をリスペクトしない」態度をも生みます。
 これも「承認の不在」というカテゴリに分類できるのかもしれないですが。

 一般的には「教えられる」ことへの反発(リアクタンスといいます)が強く働きやすいのはナルシシストがそうなりやすいです。また認知特性としては…、このブログでよく出てくる「ある認知特性」の人たちも反発が強く働きやすいです。「自分の経験」に固執しやすいです。―


 誤解されかねないのでわたしのスタンスはどうなのかというと、上司や先輩からの伝承と自分の独自の経験とどちらも大切で学ぶ価値のあるもの、どちらかに偏重するといいことはない、というものです。そして「教える」というのは今の時代、結構な信念と勇気を要することなのでその営みを否定すべきではない、とも。


 もしわたしが「上司や先輩の言うことを盲目的に信じるのではなく、経験からも学べ」という趣旨のことをどこかで論じるとしても、もっと「功罪」にきちんと触れながら語るでしょう。
 また、上司先輩の側が自分の信念に妥当性がないのに押しつけてくる、という場合には、その人はセルフモニタリング能力に難がある可能性がありますね。往々にして「自己理解の欠如―すなわち、自分独自の特性がその経験につながっているという要素をみないで他人が同じことをできるように思う―」がそれにつながりやすいので「承認研修」のなかではしつこいぐらい「自己理解、他者理解」をとりあげます。


 ちなみに「傾聴研修」の中では、「話を聴けないのはどんなときか」のくだりで、「先入観の罪」の話をします。「学びの場も『聴かない態度』をつくってしまうことがあります。こういう研修で教わったことがすべてだ、と思って現実に起きていることを軽視するようなことはしないでください。わたしもじゅうじゅう気をつけて慎重にお伝えするようにしていますが、みなさんももしこの研修でお伝えしたことと現実が一致しないことがありましたら、とりあえず現実のほうを信じるようにしてください」というお話をかならずします。
 
 まあ、どれだけ良心的につくりこんでも、「わかる人にはわかる」でしかないのですが…、


 ああ、こまかく論争するとつかれる。


(一財)承認マネジメント協会
正田佐与

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