正田佐与の 愛するこの世界

神戸の1位マネジャー育成の研修講師・正田佐与が、「承認と職場」、「よのなかカフェ」などの日常を通じて日本人と仕事の幸福な関係を語ります。現役リーダーたちが「このブログを読んでいればマネジメントがわかる」と絶賛。 現在、心ならずも「アドラー心理学批判」と「『「学力」の経済学』批判」でアクセス急増中。コメントは承認制です

2015年10月

 さて、「毒食わば皿」で、藤野寛氏(一橋大学大学院言語社会研究科教授)からいただいた最後の論文、「自由と暴力、あるいは<関係の暴力性>」(『自由への問い 8 生―生存・生き方・生命』岩波書店、2010年)を軸に、

「暴力と承認」
「自由と承認」

あるいは

「(ホネット承認論において)承認がその定義の範囲として引き受けているもの」

を、まとめてみたいと思います。


藤野寛氏論文-2


 
 ここに出てくるのは、フランクフルト学派のアドルノ、イギリスの政治哲学者バーリン、そしておなじみ現代ドイツのホネットです。そろそろこのブログ的にホネットにシンパシーが出来つつありますね。

 アドルノ(テオドール・W・アドルノ、1903−1969)は、ユダヤ系ドイツ人の哲学者で、ナチズムの「暴力の経験」を生涯身に帯び多様な現象に暴力を感じ取りながら生きていました。「暴力の遍在する(偏在ではなく)世界」というのがアドルノの指摘でした。
 

「アウシュヴィッツ以降に生きるとは、アドルノのような人にとって、日常生活に見出される様々な暴力現象が、その都度、アウシュヴィッツとの連想の下に経験されねばならなかった、ということを意味したのだろう。「アウシュヴィッツ以後、詩を書くことは野蛮だ」というよく知られた言葉も、そのように受け止められるべきものである。」(「自由と暴力…」p.60)

「アドルノ/ホルクハイマーが暴き出したのは、文明化という出来事の内に、「野蛮」がそれだけを切除することが不可能な仕方でセットされている、という消息だった。人間を暴力や野蛮から着実に遠ざけ、洗練させると無邪気に信じられていた「文化=啓蒙」が、それ自体「野蛮」であるということ、文化人とは野蛮人の別名であるということ、それが『啓蒙の弁証法』という著作が暴き出した事態に他ならない」(p.62)

 
―ここで「アドルノのような人にとって」という言葉がちょっと意味深に、わたしには映りました。「暴力性」に対する感受性の高さ、というのは、このブログの過去記事では、「傷つけないこと」(harm reduction / care)という種類の道徳感情に当たりそうです。
脳科学から見た5つの道徳感情が人を動かす―『脳に刻まれたモラルの起源』をよむ参照)

 そのような資質をもってアウシュヴィッツの時代を生きたとしたら、そこではひりひりするむきだしの感受性を思想に反映させずにはいられなかったろう、と思うのです。

 
 さて、アドルノは啓蒙という語の内にある理性や主体、自由といった近代の諸理念はいずれも外部の自然、および内部の自然に対して支配する地位に立とうとする、自由の獲得をめざす営みだ、と言い、そこで「自由とは支配の別名である」という指摘があります。自分が主体になるということは、他のものや他人を支配することだと。だから野蛮なのだと。


 これ自体大きな指摘です。しかし、これに異論を挟んだのがフランクフルト学派第三世代のホネットでした。ホネットは、社会理論を「自由を求めての闘争」のみをモデルに考えることが、社会理論としては一面的であり、不十分だと主張しました。


「ホネットは、近代の社会哲学が、社会関係を基本的に「自己保存をめぐる闘争」として理解してきた、と指摘する」(p.62)

 1つ前の記事でもみたルソーが『社会契約論』でいうように、片時も休まず命がけの闘いをしないで済むように、人々は契約を結び、「社会」を形成した。そして関係の中で生きることを余儀なくされますが、そこで人々が目指すのは、支配者の地位を確保すること。少なくとも、支配されないという消極的な意味で、自由であること。

「自然に対する関係に定位して自由を考えようとすることで、「自然支配の能力としての理性の獲得=自由(自律)」と立論され、身体も含め、物との関係においては、自由とは支配の能力である、という等式が成り立つ」(p.63)

―自由とは支配の能力である(物との関係において)。読者の皆様おわかりになりますか。わたしは既にあたまが痛くなっておりますが、例えば原始時代、人間が火のおこし方を発明し、石や枝を変形させて武器の作り方をおぼえ、そうして非力な人間が自分より大きく牙をもった獣を狩るようになる、そういうプロセスを思い起こすといいでしょうか。

 (ルソーらの)社会哲学は、この等式モデルを社会関係の構想にも当てはめ、他者支配を通しての自己決定(自由)の確保ということが、この社会理論の理念でもあるとみている、とホネットはいいます。

 それ、ちゃうやろー。と、いう声がここで、読者の皆様の脳裏にも起こりましたでしょうか。だって、他人は獣でも石器でもないですもの。
(でも確かに、「万人の万人に対する闘争状態」、たしかホッブズがそんなこと言ってたしルソーもそれ的なこと言ってた気がするな。)

 と、ホネットも同様に考えたようです。

「社会関係が「自己保存・支配をめぐる闘争」に一面化され、還元されて論じられてしまっていると(ホネットは)指摘する」
「そして、この批判を可能ならしめているものこそ、ホネットがその社会理論として精力的に展開している承認論である。社会性とは「自己保存をめぐる闘争」に尽きるものではなく、それと同等に「承認をめぐる闘争」が考慮されねばならず、それをこそ「社会的なもの」の本質構成要素として捉えなければならないとする主張である」(p.64)

―ふーやれやれ。結局ここがほっとする着地点ですね。
 自分と同様に主体であり、尊厳をもった他人の中で生きるということ。だから承認論。ここでいう「承認」は「支配する―されるのではない、対等な尊重し合う人間関係」ということを言っているようにみえます。

 人間は人の間と書くんだよ。なんて、実は当たり前のことを言っていそうな気もしますが、先行するほかの理論との対比の中でやっとそれは明らかになります。なので面倒でも先行する理論をおさえながらすすまないといけないゆえんです。

 この手続きのめんどうなこと。次以降の記事で少し詳しく書こうと思っていますが、正田はこのブログの誕生以来、いろんな「よそさま」の理論を批判しまくって今に至っていますが、やっぱりそれは「承認教育」が生き延び人々を幸せにするために必要な手続きでした。

 閑話休題。

 自由とは支配である。
 だから、自由であるだけではその人は幸福とは言えない。
 このことを言うためにもう一つの視点がバーリンの自由論だ、と本論文はいいます。
 
 アイザイア・バーリンはその『自由論』の中で「消極的な自由」と「積極的な自由」の区別を規定しました。
 前者「消極的な自由」とはすなわち、自己の活動が他者による干渉を免れていること。
 しかし、それはうれしいか?
 例えば引きこもりも他人からの干渉を一切受けていないのかもしれないけれども、それを「自由」だ、と呼べるかどうか。自分の中に何らかの欲求がありそれを実現するために行動する人のことを「自由」だ、とわたしたちはイメージするのではないか。

 そこでバーリンの「積極的自由」も「欲求」を問題にします。

「「自由」という言葉の「積極的」な意味は、自分自身の主人でありたいという個人の側の願望からくるものだ。」(バーリン)(藤野論文p.65)

「自分自身の主人、という言い方をする時、より正確には何に対する主人(主体)が考えられているのか、と問えば、「欲求」を措いてあるまい。」(同)

 自分の欲求の主人になる。しかし、「欲求」というのは100%自分の内発的な欲求などはないので、(正田注:これも「内発と自律論」のきわめてあっさりとした否定です)

「現実には、人は、自らの欲求を、周囲(他者、社会)との関係の中においてこそ見出してゆくのではないか。私の欲望とは、他者の欲望であるとは言わずとも、他者の欲望との同一性と差異性の認識を通してこそ自覚されてゆくものなのではないか」(p.67)


―これは、親御さんが望むからいい高校や大学を受験するとか、いい会社に就職するとかいうことかな?あるいはその社会や文化が規定する「まっとうな人」として社会人になろう、と思うことだったり、「偉大な人」「尊敬されるべき人」を目指して努力する、ということも入るかもしれません。会社の理念や学校の校訓にしたがって生きるようなことも入るかも。
 わたし的には例えば論文を書いてもそれを査読で認められなければ世に出ない、というところから「人に認められる」が不可欠だ、というロジックを期待していたのがそこを言っているわけではないようです。「欲求の形成される前段階の他者の影響」を言っているようです。いずれにしても、ひょっとしたらマズローの「自己実現」へのアンチテーゼかな、という風にもとれます、時代的に。


「消極的自由を100%実現しようと思うなら、人は、全くもって他者との関係なしに生きるか(テレビやパソコンの前に座り続けるか)、さもなくば、関係するすべての他者を客体(奴隷)の位置に追い込むかするしかない。そういう孤独な、そして内容を欠く自由に飽き足らず、そこに実質的な内容を与えようとすると、他者との関係に支援を求めるしかなくなり、つまりは、自由が他者によって侵害されることを意味せずにはすまなくなる。
 私は、無造作に「充実」という言葉を用いている。「幸福」という言葉で置き換えても差し支えないものだ。バーリンの自由論が教えてくれることは、「積極的自由」の理念の孕みうる危険に警鐘を鳴らすことである以上に、むしろ、自由の理念一本槍では、「充実した自己」「幸福な自己」について構想するための道具立てとしては不十分だ、という点にある。」(p.68)

―自由だけでは幸福であるために不十分だ。
 そこで、バーリンは「承認(欲求)」を出してきます。必要なのは、人から認められる/褒められる、愛される経験なのだと。

「注目すべきは、承認が、自由に対する1つのオルターナティヴとして呈示されている点だ。人間は自由だけでなく、同時に、承認への欲求をも抱く存在であるという論点が、いささか唐突に、しかし力強く表明されている。」(p.69)

―唐突、そう、いつも唐突なんだよなー承認の登場って。ルソーにおいてもヘーゲルにおいてもそう。前触れなくグイと突き出される。だから仕事ですごく説明しにくい。
 ともあれバーリンは自由への欲求と承認への欲求のふたつを呈示しました。ただしその関係、両者は両立可能なのか否かは呈示しませんでした。

 
 そしてやっと「承認をめぐる闘争」が出てきます。

「人間がその理性を拠り所にして自然支配の能力を高めてゆくプロセスとしての文明化が、自由の拡大と考えられているのだが、そのように「支配をめぐる闘争」「自由をめぐる闘争」に着目するだけでは、人間が生きる上での「社会」性というものの一面しか捉えていない。それどころか、「社会的なもの」の最も本質的な側面を取り逃がしてしまっている、と。
 では、その時、社会的なものとして何を考えればよいのか。「自由をめぐる闘争」と並んで、「承認をめぐる闘争」こそそれである―これがホネットの回答である。」(p.71)


―「承認をめぐる闘争」と「自由を求めての闘争」が異なる点は、どこか。

「相手も主体であることは、こちら側にとっては、自由の制限を意味せずにはすまない。」(p.72)

 「自由の制限」の表現が出てきました。フィヒテ先生だったかな、以前このブログでそれを言ったのは。わたし賛同してたんですよね、それに。

「自由とは、自律であり、自己決定であるが、相手を主体として認めることは、相手の意思を尊重することであり、その限りで、こちら側の意思が制限される事態を伴わずにはすまない。言いかえれば、自由を求めての闘いは、相手を客体たらしめることによってこそ完成する。強く言えば、相手を奴隷たらしめることだ。」(pp.72-73)

 ―「主人と奴隷の弁証法」ですね。なんども出てきたのでそろそろ奇異には感じないでしょう。でも時々おさらいが必要ですね。

 それに対して、「承認をめぐる闘争」とは。

「それに対して、「承認をめぐる闘争」においては、相手が客体(奴隷)になってしまったのでは、闘いに勝利したことにはならない。一体誰が、奴隷から認められて喜ぶだろうか。相手も自由に判断できる人であってこそ、そういう人に認められ、評価され、あるいは愛されることが、私にとって価値ある経験となる。(略)相手も主体でなければそもそも意味をなさない闘いなのだ。「承認をめぐる闘争」においては、主体/客体という概念セットは機能しない。主体と主体の関係、間主観性こそがこの闘争の内実をなす、と表現するしかない。」(p.73)


―おもしろい。
 (わたし的には)ここは2つのポイントがあります。
「一体誰が、奴隷から認められて喜ぶだろうか。相手も自由に判断できる人であってこそ、そういう人に認められ、評価され、あるいは愛されることが、私にとって価値ある経験となる。」
 「イエスマン」から認められても嬉しくない。あるなあ。(時々、それでも嬉しい人はいますけれどね)
 で、少々手ごわい、利害関係のない人から認められると嬉しい。尊敬する人、雲の上の人から認められると最高に嬉しい(後者の代表的なものが「園遊会」であるとわたしは思っています)
 だからこそ、ある時期から子は親の元を離れる。自分を無条件で愛してくれる人では飽き足らなくなり、友人や異性や先生、コーチからの評価、あるいは試合に勝つこと、などを求めるようになる。
 そして最後の文、
「主体と主体の関係、間主観性こそがこの闘争の内実をなす」
 これもおさらい。
 前にも書きましたが正田は「間主観性」という言葉が好きなんです。ウエットな「共感」という言葉よりも。(もちろん、「共感」もTPOに応じてつかいます。)
 「間主観性」には、「共感」以上に、他人の主体性、他人の尊厳を認める、という語感があります。そして、感情のレベルで共感できようができまいが、理性のレベルで維持する、という語感があります。
 「共感」一本槍だと、例えばすごい努力して成功した人には「共感できない」という事態もすぐうまれてしまいます。映画「マイ・インターン」に出てくる「ママ友」たちのレベルの低い感情状態もうまれてしまいます。(この映画については、いずれ稿を改めて書きたいと思います。「承認映画」です。)

 
―では、社会生活というものを「自己保存/支配/自由をめぐる闘争」と「承認をめぐる闘争」という2つの観点からとらえることは何を意味するでしょうか。これが次のパラグラフです。

「第一に、両者が共に「闘争」として捉えられることで、社会生活を調和や平和の相のもとに見る視点が斥けられる。われわれは、個人主義が支配し、その弊害が強く意識される環境の中に生きているため、関係や間柄について語ることは、既にそれだけでもう友好的で肯定的な何ごとかについて語ることでありうるかのように感じかねないのだが、それは一面的だ。間柄とは、闘争(葛藤)の別名である。そして、闘争であれ葛藤であれ、そこに勝者だけでなく敗者もまた生まれることは避け難い。それは、社会生活という競技のルール、あるいは文法とでも呼ぶべきものだ。「共同」や「連帯」の理念一本槍で押し、一人の敗者も生み出さないことを標榜する「社会」主義は、社会性への誤解に基づく社会的ロマン主義として、破綻を約束されたプロジェクトなのではないか。社会的なものの社会的なものたる所以は、そこで必然的に生み出されることになる敗者を、どのようにケアするか、という点にこそあるだろう」(p.76)


―社会生活とは、「闘争(葛藤)」だ。
 1つ前の記事の繰り返しにもなりそうですが、その視点をもたらすときの苦渋と諦念の語感をも写しとりたかったので、あえてパラグラフごと引用しました。
 「社会で生きることは闘いなんや!当たり前だ、どや!」と突きつけているのとも、違うのです。というために。
 ここは、今「一億総活躍社会」が言われ、その中で「ソーシャル・インクルージョン」(@菊池桃子)が提唱され、という時代に、どういう役割を果たすか分からないままに引用しております。
 
 「闘争(葛藤)」ということでいえば、実は正田も「与える承認」の教育をしてきた立場として、それの繰り返しをこのブログでも実生活でも演じてきた、という自覚があり、次の記事あたりでそれをまとめて書かせていただこうかと思います。

 このあと「暴力」についての考察がありますが、それは1つ前の記事と重なります。すなわち、ホネットのいう「承認の不在」がもたらす「暴力」とは、(1)無視(2)軽視(3)物象化―であると。

(ここは、IS(イスラム国)でのような、あるいはシリア難民を生み出したような物理的な「暴力」とは違うものですが、そちらは「自由(支配)を求める闘争」がもたらすものとして理解してよいのかもしれません。いや、「物象化」の中に入るのかな。)

 そこで「承認をめぐる闘争」は、上記のような「暴力」に対抗しようとするものになります。合法的には社会運動、訴訟、問題特化型政党、投票行動、のような形をとりうるでしょう。

 「難民」はまた、受け入れ先の国家で「承認をめぐる闘争」の当事者になることが予想され、それは「闘争」の連鎖であります。そこから目を背けてはならない、タイムリーな話題で言えばそうなるでしょう。
 え?FBのヘイトスピーチイラストレーターのページ削除を求める署名は、しましたよ。


―まとめると、「ホネット‐藤野論文」で「承認」が引き受けている意味あいというのは、

大定義:肯定的な見方、関心をもった見方

小定義:
(1)愛(限られた範囲での無条件の濃密な感情)
(2)人権尊重(無視しない、みくださない、包摂する)
(3)公正な評価(努力したものが報われること)

 そしてそれは、「それを得るために闘争(葛藤)する価値があるもの」ということになります。
 また、「幸福の不可欠の要素の1つ」だ、ということも読みとれるでしょう。
 「自由を求める闘争」というエゴイスティックなものだけでは人は幸福になれないのだ、というメッセージも。

 そこからリベラリズム・リバタリアニズムとの分岐、コミュニタリアニズムとの合流、という文脈も読みとれるのかな、と思います。
 「ポストモダン」からはまた一歩先に進んだ思想、ともいえるかと思います。

 やはりこのへんは藤野教授にお伺いしたいところです。

 「ベルリンの壁」が崩壊したとき(1989年)、「今からは冷戦ではない、民族対立の時代だ」という言い方がなされました。
 より時代が下って格差社会が鮮明になるこんにち、浮かび上がっているのが「承認」だ、ということに早く気づいた人ほど先に幸せになれそうです。とこれはわたしの勝手な物言い。



 以上までが「藤野論文3部作」(最初の一橋大学連続講義本からの引用を含めれば4部作)ということになります。
 インデックスとしては

(1)温かい見方と客観的な見方、愛と人権尊重と業績評価―『ジェンダーにおける「承認」と「再分配」』をよむ
 
(2)「愛の危機」の時代「愛」の差別、闘争、苦しみと幸福、そして家族のジレンマ―藤野寛氏「家族と所有」をよむ

(3)村上春樹文学と「承認」、無視、軽視、物象化との対決、よい社会とは何か―藤野寛氏論文より第二弾

(4)自由と暴力と承認、「承認」が引き受けるものの範囲―藤野寛論文をよむ(3)(本記事)

となります。


 「引用過多」の読書日記になっていることについてお詫びしたところ、(1)の本の出版社からの喜びの声を伝えて温かくお許しくださった藤野教授に感謝です。行動理論的に図に乗って(2)以下の記事もアップしてしまいました。

 時節柄、「承認論」を正しく皆様に知っていただきたい、と思うのです。
 またいつものことながら研修受講生である実践者の皆様も、教師・正田の知的探検(それは六甲山に登ってイノシシに引きずられて、というレベルの他愛のないものではありますが;;)を温かく見守ってくださり、ありがとうございました。
 そしてフェイスブックの心優しいお友達の皆様、長文記事ばかりのブログにいつも「いいね!」を押してくださり、コメント・シェアしてくださり、ほんとうに感謝しております。


正田佐与




 
 

 

 

 ふたたび藤野寛(一橋大学大学院言語社会研究科教授)論文。

 ◆「アクセル・ホネットと社会的なもの」 一橋大学大学院言語社会研究科2009年度紀要『言語社会』第4号所収
◆「自由と暴力、あるいは<関係の暴力性>をめぐって」 『自由への問い 8 生―生存・生き方・生命』(岩波書店、2010年)


 藤野教授を「愛を語る哲学者」と一面的なレッテルをはってもいけません。

 社会哲学である「承認論」を、さまざまな分野で「社会の側から経済を再構築する哲学が必要だ」という主張が出始めている今、藤野教授の論文に沿ってご紹介したいと思います。

 ここでは思想の系譜としてルソー-ヘーゲル-アドルノ-ホルクハイマー-ホネットが登場します。途中で「村上春樹」も登場したのにはびっくり。ホネットはこのブログ読者の方はもうおなじみ、現代ドイツを代表する思想家で、ヘーゲル研究者であり「承認論」の継承者ですね。


「アクセル・ホネットと社会的なもの」

 フランス革命期の啓蒙思想家、ルソーを、ホネットは社会哲学の祖と位置づけます。ルソーは「人間不平等起源論」で、自然状態/社会状態の二項対立を描き、そこで自立した孤立生活/他者志向の社会生活を対比させたのでした。
 しかし、ルソーは自然状態のほうを肯定し、社会生活を、またそこで発生する「認められたい」というダイナミズムをとことん否定したのでした。
 「社会化というこの段階にたどり着くや、たちまち、社会的ダイナミズムが発生し、その行き着く先は、認められたいという欲求と威信を誇示することとのきりのない堂々めぐりなのだ」(p.241)

「他者から認められたいという欲求が、往々にして、とても見苦しい振舞いを引き起こすことは否めない。それは、人にチヤホヤされたいという願望であり、実際の自分以上のポジティヴな像を流布させようとする思惑なのだから。また、他人の評価は人から謙虚さを奪うだろう。承認をめぐる闘争とは、常に、虚栄・虚飾・虚勢の闘争に転落しうる素性のものだ。ルソーを承認論の―ただし、否定的な―始祖と見なすことで、ホネットは、その消息にも十分に自覚的であることを示している」(p.242)

 ―うーん、そうですね。「承認欲求バッシングを批判する」立場のわたしもこの点は同意します。「承認欲求」って、亢進してみっともない有様になることがあります。
 願わくは、受講生様方は「虚栄・虚飾・虚勢」と距離を置く人々であってほしい。
 そのためには、まずは「承認欲求」という自分の内にも他人の内にも存在する、善にも魔にもなり得る巨大なものの存在を「認め」、ときにはそれに呑みこまれる経験も経て受容し、時間をかけてコントロールするすべを身につける、しか結局手はないのだと思うのです。リーダーの方々には苦しい試練です。
 あ、正田はね、時々このブログも書けなくなるときがあるんですが、それはよっぽど忙しいときを除いては、「ブログを書く自分」への懐疑が湧いて自分もまた承認欲求の徒ではないのか?という自問の声が強くなるときです。


 ホネットはそれに対し、「承認」を肯定的な方向に捉えます。
「自分自身に満足し他者を必要としない、というあり方が可能になるためにも、いささかの不安の思いもなく他者による承認を享受したという経験が経られていなければならない」(承認の経験、pp.242-243)

 加えて、「承認の不在」という事態。これは「無視あるいは軽視(Missachtung)」と「物象化」という二つの現象に分けられます。
 「無視あるいは軽視」は、「不可視性」ということ。例えば黒人の奴隷(奉公人)の前で貴族は平気で服を脱ぐ。それは奉公人たちはそこに居合わせないものとされていたから。見えていないのではなく、その「存在を認めない」のです。

 そして、半月前の論文にも出て来た、「承認が認識に先んじる(承認の優先性)」というテーゼ。
 わたしも読み違えていたかもしれませんが、ホネットはこれを、対人に限定して言っていたのではないのです。世界全体に対する姿勢について言っていたのです。

「関心を寄せるという態度が、現実を中立的に認識する態度に先立つ。承認が認識に先立つのである」(p.244)

 先立つ・優先性という言い方は、時間的な先行だけではなく、承認という経験は、認識のそれが成り立つための基盤の役割を果たすものだ、とホネットは言います。


「 「承認」と「認識」の対比をめぐって、もう1点、基本的なことを押さえておこう。
 遠くから歩いてくる人を見て、あれは恋人だ、と認知する。あるいは、敵だ、でもよい。その場合、視界に入ってきたものはただ無関心に確認されているのではない。ある種の焦点化のような操作が働いている。ある対象だけを浮き彫りにする、際立たせるという操作だ。(略)自らの関心によって中心化/周縁化された画面の中で、世界は、対象は認識されていくのに違いない。ホネットが引用する「知識は最終的に承認の上に基礎を置く」というヴィトゲンシュタインの言葉が言わんとするのも、そういうことだろう。
 ということは、そこでは、自分にとって重要な何かとそうでない何かとの差別化が行われているということだ。それは一種の価値評価である」(p.246)

―あ、そこまで言っちゃうんだ。ここで言われていることは、価値評価ではあるけれどもマネジメントの承認の世界でいう業績の評価や、行動の評価とは異なり、「何にフォーカスするかを無意識に決める」という、きわめて消極的なレベルの原始的な価値評価であるようです。うーんたしかにその段階のことも依怙贔屓とも言えるな。昔、マイナーな球団のファンだったわたしは「ジャイアンツが好きな人は結局最初にジャイアンツが目に入ったから「偏愛」してるんじゃないだろうか?」とおもっていましたが。
 また、ホネットは純粋客観的な認識をダメだと言っているわけでもなく、二項対立ではなくそれをも肯定するので、正田は「承認の徒」でありながら一方で「ヒューリスティック論」みたいなものをやるのですが実はそれでいいみたいなんです。

 ここで筆者藤野氏は「子供の音楽発表会での親の態度」というものを例示します。

「…しかし、私は、1〜2時間の発表会の間、ほぼわが子しか見ていない。大勢の他の親も、同様に、ほぼ自分の子供しか見ていないのではないか。この事態に気づいて、私は奇妙な気分にとらわれる。舞台の上では、1つの合同発表会が行われているのに、聴衆・観客である親たちにとっては、実態としては、複数の独演会が同時並行的に行われているに等しい。そして、子供の側でも、会場の中で自分の親しか意識していない。彼(女)にとっての聴衆・観客はただ一人、という事情にあるのかもしれないのだ。
 ここで起こっているのが承認ではないか。(こう言うことで、「承認」という日本語がおよそ事象内容にそぐわないものであることも明らかになろう。)」(pp.248-249)

―最後の一文は、anerkennenというドイツ語は「承認」よりは「認める」という日本語に対応する、という半月前の論文を思い出したらいいのでしょうね。

 藤野氏によれば、幼稚園では親がカメラを構えるのを防ぐためプロのカメラマンに撮影を委託するが、そのカメラマンは無味乾燥なロングショットを撮っていればいいわけではなく、可能な限り一人ひとりのクローズアップをおりこむ。それはあくまで公平な神の視点と、究極のえこ贔屓である親の視点を両方あわせ備えるようなアクロバット的カメラワークである(これを、ケアの視点とフェアネスの視点の両立、と捉えることも可能だろう)と言います。おもしろい。

 そして村上春樹が登場。
 『風の歌を聴け』における、「僕」の「わかった」という表現は、正確な理解を意味しているのではなく、
「君(の心の状態)は、僕にとって、どうでもよい何ごとかなのではない」という関心の念を表明しているのだ。加えて、こちらの解釈を押しつけるつもりもないよ、という思いも。まさしく「承認」であろう。」(p.250)

 筆者藤野氏の言葉として、「村上春樹は「承認」の姿勢を定着することで、1969年の世界に対するアンチテーゼを差し出した。」(p.256 注18)

 否定ばかりしていた全共闘の時代へのアンチテーゼ。考えてみれば先行した村上龍も強烈な「否定」の人だったかも。そういう時代感覚は、なるほどでした。

 
 最後の「よい(病んでいない)社会について」の文章が、みものです。

「承認の優先性についての超越論的な議論と、承認をめぐる闘争についての社会学的な議論との間の関係は、次のように考えることができるだろう。たしかに、承認の経験が先行するのだが、それが中心化の方向をとるとすれば、その後の子供の成長のプロセスにおいては、脱中心化が起こるのであり、そこでは、承認の世界から認識の世界へと―比喩的に語るなら―離陸していく、という方向性が見出される。しかし、完全に離陸してしまうわけではない。人間は、承認の世界にのみ生きることはできないが、承認の世界を離れても、経験の基層において常に承認を必要とし続ける。だからこそ、承認をめぐる闘争は、やむことなく戦われ続けるわけだ。
 乳・幼児期の承認の経験は、それ以降、承認をめぐる闘争がきちんと闘われるための地盤を用意する、と言うべきだろう。
 だから、よい社会とは、承認をめぐる闘争が闘われない社会、その意味で、平和な社会なのではない。平和とは、むしろ、社会の「社会」性の否定だろう。この観点からすれば、平和な社会こそ病んでいることになる。そうではない。承認をめぐる闘争が、その文法に従ってフェアに闘われる条件が整っている社会こそ、そして、実際にも闘いがきちんと闘われ、そして、敗者には過不足ないケアが保障されている社会こそ、病んでいない社会である、ということなのだ。
 闘争は、よい社会においても継続される。Der Kampf geht weiter!」(pp.254-255)


―いかがでしょうか。「承認をめぐる闘争」はヘーゲルがはじめに言い、ホネットが継承しホネットの代名詞のような言葉ですが、それは、闘争が原始状態の野蛮なものだからそこから人類は抜け出さなければならないと言っているわけではないのです。
 この社会を構築する営みがすなわち永遠に「承認をめぐる闘争」そのものなのであり、その残酷な側面を含めて直視し分析しよう、ということを言っているようにみえます。
 「階級闘争」という19〜20世紀の用語が死語になったかにみえても、わたしたちの社会は闘争を内包していることに変わりはなく、それはフェミニズムであれインクルージョンであれ他の何であれ、「承認をめぐる闘争」に還元される、というふうに理解できそうですがいかがでしょう。


 もう一つの論文、「自由と暴力、あるいは<関係の暴力性>をめぐって」にもこれに近い記述があり、並べてみることで見えてくるものがあるかもしれません:

「社会性ということが、協力や連帯といった、一義的に肯定的な関係としてのみ成り立つものではなく、その本質成分として「闘争」ということを含み、敗者を生み出さずにはすまないという側面を持つのだとすれば、求められるのは、社会生活の残酷な側面をもきちんと直視する理論構築こそそれであろう。
 (中略)
 「承認をめぐる闘争」に注目することで、われわれは、暴力のない世界の住人になろうとするわけではない。しかし、それは、「自由をめぐる闘争」において現象する暴力とは異なる特徴を示す暴力として現象せずにはすむまい。暴力概念のインフレーション現象に対極されるべきものとは、暴力を人畜無害化することではなく―暴力のない世界を描き出すことも、すべては暴力だと言ってしまうことも、いずれも暴力を人畜無害化することだ―暴力現象に対する差異化された、分析的な視点を獲得することを措いて他にはないはずである。」(「自由と暴力…」p.81)



 また蛇足:

 ホネットのいう「自己自身の物象化」という概念を記した文章も抜き書きしておきます:

「ホネットが、「自己自身の物象化」という捉え方で具体的に視野に収めているのは、「臓器売買」、「代理母」や「売春」といった現象である。日本では、所有論の文脈で論じられることの多いこれらの問題を、ホネットは、物象化論の枠内で取り上げる。自己自身の身体の物象化が起こる前提に、承認の忘却、つまり、人が自らの欲求や感覚を尊重する姿勢を失っているという事態を突き止めるのである。自らの感情や欲求、感覚を、まるで他人事のように距離を置いて眺めるという事態が生じていて初めて、上記のような「病理」も起こりうる、と考えるのだろう」(「アクセル・ホネットと…」p.256 注15)

―ここでいう「人が自らの欲求や感覚を尊重する姿勢を失う、まるで他人事のように距離を置いて眺める」という現象を、私は「承認欲求バッシング」の行き着く先の事態として予感するのです。あ、なんだか哲学者みたいな文の書き方になっちゃったよ。
 ここでは臓器売買、代理母、売春がそれに該当するのかどうかは、ちょっと保留です。


 ともあれ、21世紀の世界が直面する格差と暴力にたいして、まともに対峙する社会哲学として「承認論」は位置づけられるのではないか、と思うのです。


※藤野寛論文シリーズのインデックスができました!

(1)温かい見方と客観的な見方、愛と人権尊重と業績評価―『ジェンダーにおける「承認」と「再分配」』をよむ
 
(2)「愛の危機」の時代「愛」の差別、闘争、苦しみと幸福、そして家族のジレンマ―藤野寛氏「家族と所有」をよむ

(3)村上春樹文学と「承認」、無視、軽視、物象化との対決、よい社会とは何か―藤野寛氏論文より第二弾

(4)自由と暴力と承認、「承認」が引き受けるものの範囲―藤野寛論文をよむ(3)(本記事)



正田佐与

 半月ほど前の読書日記

  温かい見方と客観的な見方、愛と人権尊重と業績評価―『ジェンダーにおける「承認」と「再分配」』をよむ

 http://c-c-a.blog.jp/archives/51924134.html

に登場される、第一章の執筆者・藤野寛氏(一橋大学大学院言語社会研究科教授、現代ドイツ思想)より、
 「愛」「承認」について同教授が書かれた過去の論文3篇の抜き刷り・コピーをいただきました


藤野寛氏論文-2



 執筆年代順に、

◆「家族と所有」 『所有のエチカ』(ナカニシヤ出版、2000年)所収
◆「アクセル・ホネットと社会的なもの」 一橋大学大学院言語社会研究科2009年度紀要『言語社会』第4号所収
◆「自由と暴力、あるいは<関係の暴力性>をめぐって」 『自由への問い 8 生―生存・生き方・生命』(岩波書店、2010年)

です。

 藤野教授のご了解をいただいて、ふたたび「愛」についての印象的な記述のある「家族と所有」から、ご紹介させていただこうと思います。

****

 「家族」には「所有」の問題がからむ。

 「私の夫」「私の娘」には、「他の女の、ではない」「あなたの、ではない」という排除・独占の意味が色濃くにじみ出てきている。所有、さらには専有の意味まで匂わせるものとなる。

 そして「所有」は自由と平等をおびやかす性質がある、と筆者はいいます。
 「極限的には、親が子を道連れにして心中する、というような酷たらしい現れ方をしかねないものである。「殺人」行為が、「我が子」の場合には、道連れ心中」などと表現してすまされてしまう」(pp.104-105)
 さらに「平等」がゆらぐ。自分の息子さえ幸せになってくれればよい。家族の外部の人たちとの間に差別が設けられる。

 これを避けるため、
1)家族メンバー間で互いに自由を尊重しあおう、という努力がなされる。
2)特別扱いの問題を回避するため、家族を外に向かって開いてゆこうとする努力がなされる。

「そして、家族のメンバーそれぞれに自律を認めるということは、メンバー相互の間に対等の関係を確立しようと試みることと不可分にして一体である。自由は、平等と結びついていないとき、必ず、誰かの不自由を帰結せずにはすまないからだ。」(p.106、太字正田)

―ここ、わかりますね。以前のブログで「風船プール」のたとえを使いましたけど、だれか1人が自由を際限なく追及し、それ以外の人がそれを志向しなかったり志向したくてもそこまでの能力がなかったりしたとき、最初の1人の自由が際限なく拡大し、ほかの人の自由をひしゃげさせる。特にリーダーの方は重々気をつけていただきたいことです。


 しかし、家族を自由と平等の原理一本槍で押し通そうとすることは、家族を家族たらしめる当のものの否定に、つまりは結局、家族そのものの否定につながってしまうのではないか。と筆者は問題提起します。

 ここで「愛」というキーワードが出てきます。

「家族を家族たらしめる当のもの、として私が考えているのは、「愛」という言葉によって表現されるような、強度をもった濃厚な情緒的関係である。」(p.108)

 しかし「愛」を神話化してはならない、とすぐに別の視点がもたらされます。「愛」には、「差別」と「闘い」という、美しくない側面があります。

「愛」の脱神話化(その1)愛は差別する。

 「愛」は普遍性志向ではありえない。

家族形成につながるような「愛」とは、究極の特別扱い、究極の依怙贔屓とよぶべきものである。ただ一人の人が好きになり、ほかの人のことは目に入らなくなる。そして、逆に、その相手からも、自分一人の方だけを向いてくれるように求める」(pp.109-110)

「要するに、愛は差異を前提とし、構成成分とする。差異を認める。強く言えば、差別する。正義感が分け隔てをせず、依怙贔屓をゆるさないのに対して、愛の方は、その強度にあからさまな差異を、あるいは、濃淡の差を示す。」(p.110)

「愛」の脱神話化(その2)愛は苦しめる

 この部分の記述が例によって「イイ」ので少し長く引用させていただきます―

「第二に、この「愛」とは、決して、甘く・優しく・調和のとれた・喜びと幸福感をもたらしてくれるばかりの結構づくめの感情なのではない。「愛する」とは、いってみれば、闘いに身を投じることだ」(p.111)

「そもそも「愛」というものは調和や均衡などとはおよそ両立し難いどろどろした何事かなのだ。(略)逆にしかし、「愛」という言葉を前にして照れたり恥ずかしがったりする必要もないのである」(同)

「「ロマンチックな愛」という言葉にまといつく人畜無害なイメージが、感情の危険な激越さをオブラートにつつむことに成功し続けている光景は、奇異だ、と言うほかない。にもかかわらず、どうして人は「愛」について語り始めるや、自分を理想主義者、あるいはロマンチストと錯覚してしまうのか。どうして「愛」のお手本が「神の愛」ででもあるかのような語り方をし始めるのか。「人間の愛」が、そのように無償であったり分け隔てがなかったりする、うるわしくも気高いものであるわけではないこと、少なくとも、それだけではないことは、われわれは骨身にしみて知っているはずではないか。愛しているときほど苦しむことは、人は滅多にないのであり、それを「甘酸っぱい苦しみ」と言うことさえ、すでに、人畜無害化である。「愛の説教者」には眉に唾してかかるのが相応しい。彼(女)らは、たとえば聖書など開きながら言うかもしれない。「あなたのいう愛は真実の愛ではありません」と。それには「真実の愛でないかもしれないが、人間の愛ではあります」と涼しい顔で応じてすましておけばよい。」(pp.111-112、太字正田)
 
 また、激しさを帯びつつ妙に説得力のある記述が出てきました。
 つい、どういう実体験からこういう言葉が出てくるのか、と邪推したくなりますが恐らくそのへんは哲学者藤野氏の「手」なのでありましょう。

 前回の読書日記のあと、正田は藤野教授にメールを書き引用だらけの読書日記となったことをお詫びしたあと、
「咀嚼され抜いた思考と文章に出会えたことを嬉しく思っております」
とお伝えしたのでしたが、同教授の「愛」についての思索は少なくとも2000年以前からのものだったようです。また、このへんよくわかりませんが藤野教授の研究対象であるフランクフルト学派のアドルノ、ホルクハイマーにもそういう独特の言葉の性質があるらしいです。

 
 そして、愛はアイデンティティを揺るがす。

 テイラーによれば、(ぼやき:テイラーも読まなきゃなあ)私たちは、自分が自分にとって特別に価値があるとみなす物事が、私にとって重要な他者/私が愛する人間との関係の中でしかもたらされない。その人間は、私のアイデンティティの一部分をなす。
 いいかえれば、「重要な他者がわれわれのアイデンティティの内部にまで食い込んできており、われわれ自身の一部をなしている」(藤野)ということなのです。

―「食い込んできている」っていう言い回し、良くないですか?
 このブログでも正田は時折ぼそぼそ「中嶋先生」とか、言ってますけどね。はい、食い込んでるんです。

 それは、「自律」を揺るがすことであるかもしれない。
「自分自身の判断にしたがって行動しているつもりでいても、実は、私は、自分の一部分と化してしまっている内なる他者によって動かされているのかもしれないのである。」(p.113)

―うん、否定しませんね。
 逆に、以前にも書いたような気もしますが、わたしにとっての「自律」は恩師がつくってくれた、という感覚があるんです、わたしの場合。
(ちなみに恩師は、「片付け」については、お手本にならなかったみたいです)


 閑話休題、 
 愛のもたらす幸福感。
 自由でなくても平等でなくても愛し合っていれば幸福、という特殊な状態があります。
 「藤野節」が冴えるところです。

「つまり、われわれは、自由と平等が揺らいでいるにもかかわらず、幸せに感じる、いや、まさに揺らいでいるからこそ、幸せに感じる、ということがあるのではないか。ある特定の人からかけがえのない存在として特別の処遇をうけることの内にこそ、また逆に、ただ一人の特別な存在んために特別の尽くし方で接することの内にこそ、我々は生きることの充実・喜びを見い出すということがあるのではないか。また、自己と他者の境界がぼやけるほどに二人の存在が互いに食い込みあい、そのようにして自分で動いているのか相手に動かされているのかすら定かでなくなってしまうような状態の中でこそ、そのような一体感の中でこそ、最も強烈な幸福感が経験される、という可能性がありうるのではないか。とりこになることの幸福。しかも、それを、宗教的帰依=自己否定というような特殊な事件においてでなく、たとえば、家族への愛というようなごく日常的なありふれた出来事の中で、人はリアルに経験しているのではないか。」(p.115)

「だから、相手を独り占めにしたい、と欲するとしても、それは、他者を自分の思いのままに動かしたい、操作したい、と欲することと同じではない。例えば、政治的支配のような一方的操作への欲求ではない。アイデンティティの相互嵌入を前提とする独り占めなのだ。だから、「私はあなたのものよ(僕は君のものだ)」という―あからさまに所有関係を表わす―言葉は、にもかかわらず、真正のものだ。そこからうまれる幸福感は、自由な人間同士の対等の交渉を通して得られる充実とはまた別種の幸福感だ、と言うことができるだろう」(p.116)

「「恋は盲目」という言葉がある。恋愛における感情の激しさが、理性の冷静さと対比して考えられている。しかし、愛はただ激しいだけのものではない。恋をするとき、人は、一方では、他に例をみないほどの細心の注意深さをもって相手の一挙手一投足を追い、それに繊細に反応するのではないか。そこでは、感情の強度が、感受性のまれにみる細やかさと結びついているのではないか。盲目とは、ここでは、視野の限定を意味するのであって、その限られた視界の中では、限りない覚醒の状態が実現されているのではないか」(pp.116-117)

―というわけで。
 家族の話に戻ると、利害や目的合理性を根拠としてではなしに成り立つ家族というものは結局こういった情動、愛に基づくものであるしかないだろう、と筆者。それは「自由」や「平等」一本槍では仕切れない空間となります。

 しかしそれは当然、感情というものの不安定さに家族をゆだねることになります。

 そこで、現代ドイツの思想家アクセル・ホネットが出てきます。
 ホネットは、
「現代の家族が置かれている状況は、むしろ、家族の中で「正義・自由の原理」を強化することが要請される、そのような状況である、と指摘する」(p.117)

 たとえば、子供は両親の関係が動揺し感情が安定を失ったとき、その不安定さから守ってくれるものがない。夫婦関係の中でのDVも同様で、感情だけをよりどころとする家族は暴力からも無防備である。

「親の気まぐれな暴力から子供を守るための権利条約を制定するよう求める運動や、夫婦関係内部での女性に対する身体的暴行を刑罰の対象としようとする動きは、こういう状況に直面して、家族を、社会的公正の領域に再度つなぎとめなおそうとする試みであるとみなすことができるとホネットは指摘する。」(p.118)


 結論として。

「家族を「愛」一辺倒で仕切るべきだ、などと性急な結論を出してはならない。そうではなくて、「正義・自由の原理」と「愛の原理」とが拮抗し葛藤しつつも辛うじてきわどいバランスが保たれている危うい緊張の場として、家族を位置づけることだ。」(p.120)

「「私だけのあなた」「自分の命よりも大切なわが子」といった表現は、それがどれほど「押しつけがましさや「大きなお世話」として受け止められかねない危険をはらむものであろうとも、だからといって決して無碍に退けてはすまされない、家族の実質を言いあてている。「私だけのあなた」と「みんなの一人としてのあなた」という論理的には衝突するはずの二つのありかたを、にもかかわらずなんとか両立させようとして骨折られるアクロバット的綱渡りの場―それが「家族」なのだ、と言えば、私は再び、愛や家族を冒険としてロマン主義化する誘惑に屈してしまっていることになるのだろうか」(p.121)

 
****


 「家族と所有」は以上です。

 なぜこの一篇を特にとりあげたか、というと、やはり現代を覆う「愛の危機」というもの、そして私の立ち回り先だけなのかもしれませんが一部での「愛」への関心の高まり、が背景にあります。

 この問題については当ブログの読者の大半を占める今家庭持ちの人ならだれでも一家言ありそうなものですが、ここで藤野教授が言うように「愛」は、強烈な幸福感を産み出す一方で差別や闘い、憎しみも産む、アンビバレントなものであります。それでも特に近代以降、人類は「愛」に魅入られてきました。
 しかし現代、ある世代以降はそれに伴う多大なエネルギーを負担することを避けているようにみえます。

 この事態をどう捉えたらいいんでしょうか―、実は今読んでいる別の本に昨今の子育て事情の変化と、新しい子育て法二世が育ってきていること、そして育ってくる子供たちの変容、が扱われていて大変興味深いです。いえ、暗澹となる、と言ったほうがいいかもしれません。

 ひょっとしたら、藤野教授は今年59歳の方ですが、ここにみるような「愛」観は今50代のおじさんおばさんだけが共有できるものかもしれません。いや、下の世代に伝承していけるのでしょうか。それができるとしたらどんな隘路を通じてでしょうか―。
 以前にこのブログにそのへんを自分の感慨としてぼそぼそ書きましたが読者の方はご記憶でしょうか?

 また、「上司部下関係に『愛』の感情はないのか?」
 これは特に受講生様やこのブログ読者の皆様にはご関心の高いところで、先日さるところで早速そのご質問をいただきました。
 「承認は上司から部下へ「愛」と「力」を伝えられるものですね」
 過去にはそんな印象的なコメントをくださった現役マネジャー(男性)もいらっしゃいました。
わたしの周囲の人は現代日本でもかなり特殊かもしれません。
 
 この辺は藤野教授にご質問を投げさせていただきたいところです。


 もうひとつ蛇足的に、、

「恋をするとき、人は、一方では、他に例をみないほどの細心の注意深さをもって相手の一挙手一投足を追い、それに繊細に反応するのではないか。そこでは、感情の強度が、感受性のまれにみる細やかさと結びついているのではないか。盲目とは、ここでは、視野の限定を意味するのであって、その限られた視界の中では、限りない覚醒の状態が実現されているのではないか」

 ここで言われているような認識の世界は、実は、これほどまでに細やかではないかもしれませんが、「承認教育後」の上司部下関係(上司から部下へ)では、実現できるものです。
 ただひとりのパートナーや家族に対するほど濃密でなく、また視野狭窄でなく、しかしそれまでの段階よりははるかに緻密にきめ細かく、そして視野は広く。
 
 なので「愛」の、家族愛よりは一段階薄まった形、のようにも思えるのです。

 


 他の二篇はまた、私個人的に勉強したいものなので、今後の記事でご紹介したいと思います。

 この論文を「ヘーゲル承認論」カテゴリに入れるのが適切なのかどうか。暫定的に入れておきます―

※藤野寛論文シリーズのインデックスができました!

(1)温かい見方と客観的な見方、愛と人権尊重と業績評価―『ジェンダーにおける「承認」と「再分配」』をよむ
 
(2)「愛の危機」の時代「愛」の差別、闘争、苦しみと幸福、そして家族のジレンマ―藤野寛氏「家族と所有」をよむ

(3)村上春樹文学と「承認」、無視、軽視、物象化との対決、よい社会とは何か―藤野寛氏論文より第二弾

(4)自由と暴力と承認、「承認」が引き受けるものの範囲―藤野寛論文をよむ(3)(本記事)


正田佐与
 

 ベーカリーチェーン「リヨンセレブ」の株式会社牧(東京都江戸川区)牧田社長よりメールをいただきました。

 一昨日26日、柴又店がプレオープンをされたそうです。おめでとうございます!

 いただいたメールと写真を、ご許可をいただいてご紹介させていただきます:


****
 

いつも丁寧なご返信、ありがとうございます。
パンが美味しいという評価は、大変嬉しい承認です。
食パンは、私が未だ許可していないので、「アレッ未だ完成てないのに送っちゃったの」といつものあわてものぶりを露呈してしまいました。すみません。
お店の方は、お陰様で、昨日プレオープンを迎える事ができました。デザイナーは参加してもらいましたが、お店の内装は全て手作りで、素人が集まってバタバタとやった割にはよくできて私もびっくりです。飯田GMもプロジェクトマネージャーとして、ご存知の勢いで、そつなく指示をし奮闘努力しておりました。私も飯田の指示に従い、買い物担当として一日中ホームセンターを漁っておりました。
近況報告でした。

柴又店1


元気で粋な飯田GM(右)と山下店長(左)


柴又店2
柴又店3
柴又店4
柴又店5



プレオープンした柴又店。手づくりのこだわり、伝わるでしょうか



 2015/10/23 16:41、(一財)承認マネジメント協会 正田佐与 のメッセージ:
株式会社牧
牧田社長様

大変お世話になっております。
承認マネジメント協会の正田です。
過ごしやすい気候が続きますが
皆様お変わりなくお過ごしですか。

先日は、大変美味しいパンをどっさり頂戴いたしまして
ありがとうございました。
その後、毎日1つずついただいてきて
とうとう後は食パンを残すのみとなりました。
開発途中とのことでしたが
どのパンもそれぞれ個性があり美味しく、
解凍後にもふっくらした食感と豊かな香りがありました。
レーズンとナッツの入ったパンは黒パンの生地で、
とりわけ美味しゅうございました。
改良点など、まったくわからず
ただ美味しい美味しいといただいておりました。
役に立たないモニターで、申し訳ございません。
きっとお客様にも喜ばれることと思います。

柴又店様の改装は、その後順調に進んでいらっしゃいますか。
確か飯田GMと山下店長とお2人で自らの手で改装されるとのことでしたが…。

私はその後、「承認」と「愛」というコンセプトに凝りはじめました。
先の研修2日目の後の懇親会では、皆様お互いのご家族やご結婚のこと、彼女のことを
オープンにお話していらっしゃいましたが
今の時代、「人を愛する力」というのがいかに貴重なものか、ということを思います。
御社の良い社風のゆえと思います。
お仕事以外の部分でも皆様に「承認」がどんなふうに影響を及ぼしたか
知りたいと思いました。

もちろん、お仕事でもさらなる飛躍をなしとげられますよう
祈っております。

朝夕寒くなって参りますが
くれぐれもご自愛ください。
柴又店様新装オープンのご成功を祈っております。
また皆様のお元気なお顔にお会いできますことを
楽しみにしております。

PS
来月後半財団を一旦解散し、個人事務所に移行します。
今後共どうぞよろしくお願いいたします。

‥‥…━━…‥‥…━━…‥‥…━━…‥‥

 いつもありがとうございます
 一般財団法人承認マネジメント協会
   正田 佐与(しょうだ さよ)
  〒658-0032
  神戸市東灘区向洋町中1-4-124-205
  TEL: 078-857-7055 FAX: 078-857-6875
  E-mail s-shoda@abma.or.jp   URL: http://abma.or.jp

‥‥…━━…‥‥…━━…‥‥…━━…‥‥


「『インクルージョンの波』が来年度、職場に押し寄せてきます。」

 こういう書き出しの文章を「月刊人事マネジメント」編集部にお送りしました。
 
 今年連載させていただいている、「上司必携・行動承認マネジメント読本」の6回目の原稿です。

 今回は、「障害者雇用・活用」がテーマです。後半は「発達障害」についての記述が中心になりました。


 わたしなんかがこういう記事を書く資格があるのだろうか。

 実はこの記事に備えて、今年「ガイドヘルパー全身」「同行援護」「行動援護」の研修を受けました。大げさな。(行動援護は今も受講中。きょうはその2日目です)

 でもまあ、2800字で触れられることはたかが知れています。

 

 情報提供をすることは、「寝た子を起こす」ことでもあります。

 先日もまた、「承認研修」2日目はそのお話をする場面があり、午後の睡魔のお時間もそこは皆さんしゃきっとなられました。決して目覚ましに使っているわけではないんですよ。

 そして「承認研修」の中では不愉快な気分が出やすい場面でもあるのですが、しかし情報提供をしないことには問題解決もありません。

 
****

 「一億総活躍」は、ネーミングからして評判のわるい政策です。

 ただ趣旨はわるくはないのではないかと思っています。中身はこれから詰めるそうなのではっきりしたことは今言えませんが。

 この国の人が陥りがちな「均質」「一律」のバイアスがとれて、色々な人が共生し、仕事で能力を発揮できるようになるのなら、いいことです。
 そこには「女性」もそうですし障害者、外国人、元気な高齢者、が入ることでしょう。
 漏れ聞こえるのは「引きこもり」を外に出そう、ということですが―。


****


 「女性活躍」が言葉として消えるのはいいのか悪いのか。

 「女性」に特化した施策が必要だ、という声もあり充分傾聴に値する一方で、

 首相が「女性活躍」と言えば言うほど、実感としては社会のミソジニー指数が上がった気がします。ミソジニーお爺さんが妙に元気に発言し、普通にまともだと思っていたコンサルの人も「男女別の会社を作ったらいい」と発言するに至っては。
(これについてはFBの自分のTLで「女性を同僚として正しく評価できない人が女性の協力会社を正しく評価できるわけないではないか」と反論しました)


 まあ「女性特化施策」が、保育所の整備や短時間勤務などハード面でわんさかやらないといけないことがあるのとは別に、従来の主張ですが、ソフト面の人の心の問題に関しては、「女性」と意識してやらないほうがいいのだろう、とわたしは思うんですよね。「女性女性女性」って思えば思うほどドツボにはまりますね。

 なので、「女性活用研修」より「承認研修」のほうが実質的効果がある。
あっ女性自身も「自分は女性だ」と意識しないほうがいいパフォーマンスが出せる、という知見がありまして、女子学生に「自分は女性だ」と意識づけさせてからテストを受けさせると、テストの成績が悪かったそうです。「自分は優秀な学生だ」「テストでいい成績をとったことがある」ということを思い出させると、テストの成績が良くなったそうです。

 
 ただ、うーんこれは難しいところで、上で言った「女性と意識しないほうがいい」のはまだ問題が出ていない白紙の状態の場合です。多くの職場では、あるいは社会のさまざまな場面では、「女性」が差別・搾取・過剰な依存・DVの対象になっていてそれを解決したり是正することをまずしないといけなかったり、当事者の女性が傷ついているのを治してあげないといけなかったりするわけです。やっぱり、相手が男ならこんなひどいことはしないだろう、ということを女だから平気でする、みたいな現象もゴロゴロあるわけです。だから「男女を意識しない」の前に「起きている問題を解決する」がやはり、必要かもしれないです。「それ、ダメだよ」っていうことをきっちり、言ってやっていかないといけないです。

 以前このブログに書いた「男性原理の会社でハーレム化しちゃったところがあります」というのは決して誇張ではなくて、労働局雇用均等推進室なんかではゾッとするようなセクハラの事例を今も多数みているそうです。自分の教え子がそういう目に遭うということが想像つかないなんて。


 またそういうのがあるから、「女性活躍」を当事者の女性にばかり任せるのはおかしな話なのでした。そういうこと反省してるのかなあ。関係ないからいいですけれど。

 やっぱり、「女性」のお話が長くなっちゃいましたねえ。
 もう研修に行かなくちゃです。
 今日の記事もオチなしです。


(一財)承認マネジメント協会
 正田佐与
 
 
 

お世話になっている皆様


 おはようございます。
 一般財団法人承認マネジメント協会の正田です。
 
※このメールは、正田が過去にお名刺を交換させていただいた方・当協会のイベントやセミナーにご来場いただいた方にお送りしています。ご不要の方は、メール末尾にありますURLより解除ください。
(解除方法が変わりました!詳細はメール末尾をご覧ください)


 本日の話題は:

■ブログ開設10周年(2)よのなかカフェを振り返りました
 ―労働、教育、福祉、政治、震災、神戸、スウェーデン、女性そして幸福

■「北播磨に承認の文化を」「この手法は恐らく揺るぎません」
 ―加東市商工会第2回セミナー

■読書日記:認識の世界を180度転換する「承認」の定義と「愛」について
 ―『ジェンダーにおける「承認」と「再分配」』

■女性の活用と登用は「上司の眼差し」次第
 ―月刊人事マネジメント9月号
 
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■ブログ開設10周年(2)よのなかカフェを振り返りました
 ―労働、教育、福祉、政治、震災、神戸、スウェーデン、女性そして幸福

 前号でもお伝えしましたように、先月21日をもちまして、わたくし正田のブログ「コーチ・正田の愛するこの世界」は開設10周年を迎えました。
 http://c-c-a.blog.jp/

10年を振り返る中で、やはり忘れられないのが5年間、41回にわたり開催してきた「よのなかカフェ」。

  さまざまな社会問題を、時には専門家や当事者の方をゲストにお招きしながら、参加者主体で語り合い、対話/議論した場でした。

  今の時点で振り返って「よのなかカフェ」の果たした役割を考えますと、わたくし正田はもともとジャーナリズムにいたので、社会問題全般についての関心はあったわけですが、マネジャー教育の研修機関として考えたとき、よのなかカフェは受講生様に対して、「この教育」が大きな社会問題とどうつながっているのか、ということを提示する場にもなってきたように思います。
 あるいは、開催の都度、詳細な議事録をご紹介することによって、忌憚なく率直に議論しあうことの価値をもご提示していたように思います。「承認教育」の延長線上にはけっして遠慮しあってものを言わない気風を目指したいのではなく、談論風発の議論をする風土があるのだと。
 そしてそこには経験の中で蓄積した独特のファシリテーションのルールがありました…。

 41回をアルバム風に駆け足で振り返ったまとめ記事をこちらに作りました。

◆10周年(4)よのなかカフェ41回・労働、教育、福祉、政治、震災、神戸、スウェーデン、女性そして幸福…
 http://c-c-a.blog.jp/archives/51923756.html 

 いつかまた、どこかでよのなかカフェを再開することはできるでしょうか。可能性を閉ざさないことにいたしましょう。
 「わがまちで開催したい」というご要望があれば、伺いたいと思います…。

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■「北播磨に承認の文化を」「この手法は恐らく揺るぎません」
 ―加東市商工会第2回セミナー
 

 16日、加東市商工会様主催の「行動承認セミナー」第2回が行われました。
 今どきの地方創生では、「G経済とL経済ではL経済(地方経済)の方が地道な経営改善が功を奏する」と言われます。
 地域の商工会会員企業様から来られた受講生様、1回目との間に「宿題」をこなされたせいか以前より穏やかな優しい眼差しになられています。笑顔が多くこぼれます。
 「宿題」の結果、部下がより早く・より自主的に・より責任感をもって行動してくれた、というこの1か月の事例をご紹介し、次いで共同講師の松本茂樹先生からは、銀行・大学を舞台に人が成長する力の凄さを示す事例を多数紹介していただきました。
「承認を文化に」という言葉が、松本先生から出ました。

◆「北播磨に承認の文化を」「この手法は恐らく揺るぎません」
 ―加東市商工会第2回セミナー
 http://c-c-a.blog.jp/archives/51924344.html

 この情報の多い時代、受講生様が「かけがえのないものと出会えた」ともし感じていただけたなら、それは幸運なことだと言わなければなりません。

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■読書日記:認識の世界を180度転換する「承認」の定義と「愛」について
 ―『ジェンダーにおける「承認」と「再分配」』

 さて、わたくし正田は長年「承認」を教えてきましたが、「承認」発祥の地・ドイツでの「承認」の定義は何なのか?というところは、恥ずかしながら空白でした。
 この本に教えてもらいました。
 そして「承認の定義」だけでなく「愛」について―、
 個人的には、「恋愛できない若者」が増えたということをきくにつけ、出版やメディア、ネットの世界で2008年ごろから始まった「承認欲求バッシング」が今の若者たちの「失われた7年」になっていないだろうか?と危惧せざるを得ません。また逆に、研修先の企業様で社員様方の結婚、出産、また若手に彼女ができて上司に恋バナも相談してくれる、といった話を伺うたびに、人が人を愛することのたいせつさをもう一度取り戻してほしい、と願う次第です。

◆温かい見方と客観的な見方、愛と人権尊重と業績評価―『ジェンダーにおける「承認」と「再分配」』をよむ
 http://c-c-a.blog.jp/archives/51924134.html 

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■女性の活用と登用は「上司の眼差し」次第
 ―月刊人事マネジメント9月号

 「月刊人事マネジメント」(ビジネスパブリッシング社)で今年、全7回の連載をさせていただいている「上司必携・行動承認マネジメント読本」の記事を更新しました。
 今回のテーマは「女性」。タイトルは、極端だと思われるでしょうか―。
 しかし、このあとの回で取り上げる「若者」と同様、上司という環境要因に極めて大きく左右されるのが女性の特性。それは、決して主体性がないとか能力的に劣っているからではなく、むしろ周囲の期待を敏感に読んで行動するという、女性の優れた「社会性」とよぶべき特性からきているのです。

◆第三章 女性の活用と登用は「上司の眼差し」次第―月刊人事マネジメント9月号
 http://c-c-a.blog.jp/archives/51923763.html

 なおこれまでの連載記事はこちらからご覧いただけます:


◆第一章 「行動承認は”儲かる技術”である」―月刊人事マネジメント7月号
 http://c-c-a.blog.jp/archives/51919833.html

◆第二章 「承認」の学習ステップー月刊人事マネジメント8月号
 http://c-c-a.blog.jp/archives/51921667.html 

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 16日、加東市商工会にて 「行動承認セミナー」2日目。

 2日目の冒頭はおなじみ、宿題のご紹介から。

 ものづくり、金融、介護…で、「行動承認」を契機に、

・報連相が増えた
・自主的に仕事をしてくれる
・責任の感覚が出てきた
・明日やる予定だったのがその日のうちにしてくれた
・難しい仕事の説明をしてくれた

・・・・等の喜ばしいお話が続きます。

 付随して「巻き込みの要諦」のようなお話を正田からさせていただきました。


 後半は、元銀行支店長にして現大学准教授、松本茂樹先生から、銀行時代、大学時代の「承認の実践体験談」のお話をしていただきました。

松本先生2



 銀行員、大学生、計9名の目覚ましい成長のエピソード。

 中には当初松本支店長の手法に反発された女性行員さんが、のちに大きく伸びただけでなく退任時にはものすごいサプライズプレゼントをくれた、という事例もあり、

「お話していて、すみません涙が出てきちゃいました」。

松本先生1


 10年以上のお付き合いで初めてみた松本先生の涙。

 大学生さんがたの事例は、わたしも初めておききすることばかりでした。

 ビジネスプラン発表で全国表彰された学生さん。
 松本先生のクラスは昨年就職率100%、今年も90%以上決まっている。
 「GPAオール4」の学長賞(学費全額返還)の学生は松本先生ともうお1人、「承認」の手法を使われる先生のクラスからばかり出ること。
 障害があったが松本先生の勧めで簿記1級をとった学生さん。この学生さんは当初無口でいじめられる側だったが、自信をつけてからはいじめていた学生に教える側になったそう。

「学生は若いから反応が速いです。大人の銀行員は、色々積み重なっているから反応するまで2年かかったケースもありましたが。」

 恐らく日本の大学業界の中でも例のない事例を輩出していることでしょう。

 最後に松本先生は、

「ここ北播磨の地で承認が文化として根付いてほしい。そして世界に向けて発信できるものになってほしい」。


 質疑タイムに出たご質問では、

「ここで伺うお話はここだけの貴重なお話ですか、それとも全国どこにでもある話で私が知らないだけなのですか」

 これには正田より:

「ここだけと言っていいと思います。本日も同じクラスの仲間がここ1か月でこんな風に働きかけて部下がこんな風に変わって…という事例をみていただきましたが、こういうお話をこのセミナーの外で皆さんがよそのかたにされたとき、『あんた詐欺にでもあったんちゃう?』と言われる可能性は大いにあります。それぐらい他に例のない成果をここでは出しています。」

「私の研修講師人生で幸せだったのは、研修会社を通じて1日こっきりのおつきあい、そのあとお客様と連絡もとれない、だから研修をした結果がどうなったかもわからない、という仕事の仕方をしてきませんでした。草の根、非営利教育で出発し、初期に松本先生のような確信をもった実践者の方に出会えました。そうして、細かくフォローアップしながら実践していただくと組織でこんなにすばらしいことが起こる、というのをみることができました」

「以来どれほど文献を読んでも、結論はこの手法になります。この手法は恐らく揺るぎません」

「そして手法を徹底的に絞り込みシンプルにすることで、マネジャーの皆さんがだれでも習得でき日常行動にできるようなものにしました。普通はもっとガラパゴス的に難しくするので、日常行動にすることができません」

「今、国内で何人かの方が、『今からは思想、倫理の時代だ。でなければ人類は生き残れないところに来ている』ということに気づかれています。まだその数はあまり多くありません」


 
・・・さて、今日ご来場された皆様は幸せだったのでしょうか・・・

 抜けるような青空の10月中旬の午後でした。


(一財)承認マネジメント協会
 正田佐与
 

ジェンダーにおける「承認」と「再分配」

 『ジェンダーにおける「承認」と「再分配」―格差、文化、イスラーム』(越智博美+河野真太郎編著、彩流社、2015年3月)という本を読みました。


 アメリカでは承認論と公民権運動、とりわけフェミニズムや性的マイノリティが市民権を得るための運動とが分かちがたく結びついて独特の政治空間を作っているもよう。

 正田はフェミニズムと従来やや距離をとってきたつもりだったのですが、最近の格差社会ぶりとそれに連動した女性の貧困という現状をみるに、そうも言っていられなくなってきた感があります。
 そもそもフェミニズムに対して良い感情を持てなくさせられていたのは、最近このブログに登場したようなわが国の反動的男性知識人(=ミソジニーお爺さん)たちの陰謀だったのかもしれない。


 そして、こういうヘーゲルをはじめドイツ観念論を源流とした「承認論」と、まったく次元の違う無根拠なネットスラング、罵倒語としての「アンチ承認欲求論(=承認欲求叩き)」、それに正田のやっているような実践の世界の「行動承認」、これらが同時並行に存在しているのがわが国の状況。

 正田は当然前者の「承認論」にシンパシーを感じています。従来は「アンチ承認欲求論」のほうはめんどくさいから、無視してきました。ただどうも無視しえない勢力になってきて本業の教育のほうにも影響が出てきたから、今年本格的に「承認欲求叩き批判」を開始した、というかんじです。床をあけてみたら想像以上にゴキブリの巣窟になっていたぜ、みたいな。
 新しく「承認欲求バッシングを批判する」というカテゴリを作りました
 http://c-c-a.blog.jp/archives/cat_50056406.html

 それはちょっと脱線でした。
 本書『ジェンダーにおける…』は、十三章からなる本ですが実は第一章「承認論とジェンダー論が交叉するところ」に目が釘付けになってしまい、その他の章はちょっとお留守です。
 それぐらい、インパクトのある第一章です。「承認」について、「愛」について、わずかなページ数で多くを語っています。

「はじめに」(越智博美、河野真太郎)より。


「本書は、一橋大学のリレー講義「ジェンダーから世界を読む」をもとに構想されたものである」
と編著者らは言います。

「そう、経済格差は自己責任という個人のレベルでのみ語れるものではないのだ。そしてこのことに今、世界じゅうが気づきつつある」(p.5)

「2014年の12月には、ついにOECDが『トリクルダウン』はしないどころか、格差があることが経済成長を妨げると述べ、従来のネオリベラリズム路線に修正の必要があることをみずから認めるに至った。この制度はおかしいのではないか、限界なのではないか。そのような感情が、おそらくトマ・ピケティの「21世紀の資本」(2013年)が爆発的に受容される裏にはある」(pp.5-6)

「フェミニズムにおける承認は実のところ再分配と切り離せないものではないか。現在の苦境はなにより、承認と再分配を並び立たない問題、ジレンマとして捉える発想にはまり込んでいることにも一因があるのではないか」(p.7)


 そしていよいよ
「第一章 承認論とジェンダー論が交叉するところ」(藤野寛)

 ここでは「承認」の語義の検討から入ります。大事なところです。

 「承認」はドイツ語ではanerkennen 。
 辞書的には、
「正当と認める、承認(是認)する、認可(認知)する、(他人の功労・業績などを)認める、賞賛する、高く評価する」。

 というわけで、日本語に移すときほんとうは「承認」よりは「認める」のほうが適切なのだ、と筆者。
 「承認」というのも名詞化する必要上、しょうがないんでしょうけどね。
 そうそう、わたしドイツ語わからないから困ってたんですよ、このへんのこと。

 では、日本語の「認める」にはどんな意味、どんな用法があるか。

,海亮更塢提案をお認めください。
∋愼涯鬼韻貿Г瓩蕕譟△箸討盍鬚靴ぁ
上空に何らかの飛行物体を認めた。
こ慊垢呂茲Δ笋自らの非を認めた。



 このうち、ドイツ語のanerkennenが表すのは´↓い澄△班者。

 ただの認識と「承認」を分かつものは「肯定的な価値評価」だと筆者は言います。「正当と認める」「是認する」「賞賛する」「高く評価する」というように、対象や相手に対して肯定的に向き合う姿勢が意味されている。

 それは、自然科学で使うような冷静・客観的な認識とは異なる性格のものだ、と筆者。


「その際、この観点がはらむ破壊力の深刻さは、ささやかなものではない。その点は、「事実と価値」に関する学問論的理念を思い浮かべるだけでも、容易に明らかになるだろう。いやしくも学問に携わる者は、(客観的)真理認識のために、まずは、価値判断に関わる自らの先入見を括弧にくくり、価値中立的な姿勢で事実そのものに向き合わねばならない、とする理念である。ところが、承認とは、そもそも対象や相手に肯定的価値評価をもって向き合う姿勢なのだ。」(同)

「そして―承認を認識から区別した上で―ホネットは、承認が価値中立の理念を裏切るにもかかわらず、承認を斥け認識に就くことを要請するのではなく、「認識に対する承認の優先性=先行性」テーゼを掲げる。つまり、承認こそ、人間の態度としてより基底的・先行的であり、認識という姿勢は、そこから派生ないし逸脱し、頽落し、むしろ、疎外されたあり方である、と主張するのである。われわれの世界に対する態度は、はなから、価値評価含みである。価値評価抜きに、中立公正に、客観的に世界と向き合っているのではない。関心によって駆動されており、魅かれ(angezogen)、あるいは反発する(abgestoBen)。」(pp.21-22)


―ここでは、現代ドイツを代表するヘーゲル研究者、アクセル・ホネットが繰り返し引用されているので、引用文中に「ホネット」が多出することをお許しください―

 「認識に対する承認の優先性=先行性」。すごいこと言いますねホネット。認識論については、正田のヒューリスティック趣味も認識論みたいなものですが、それとは別に、たしかにそうなんです。「承認」をやってると、いわば「温かい見方×冷たい(純粋客観的な)見方」の対立というか乖離がうまれます。ところが「承認」的な温かい見方がポジティブバイアスで間違った見方かというとそうでもない。対象者が人間の場合には、温かい見方をされることがむしろ自然の摂理にかなっていて、「生物学的に」成長することにつながり、ひいては多少贔屓目にみた見方が現実のものになってしまう、というのはよく経験するところです。あんまりバカ高い期待をしてもいけませんけれど。

 逆にこの後の記述で言う、「客観的とはいわば疎外されているのだ」、詳しく言うと、

「世界を冷静、客観的に認識することは、それはそれでとても大切なことだが、ただしその時、世界はわれわれにとってすでに「疎遠な」ものになっている。単なるモノの世界、死せるモノの世界、物象化された世界、その意味で、疎外状態にある世界である。こう考えるとき、「価値自由」という理念に拠る学問という営みは、すでに疎外の内にある世界との関わりであることになる。」(p.22)


 そういう「認識論のコペルニクス的転回」のようなことを、現代の承認論者ホネットは言っているというわけです。
 受講生様方おわかりになりますかしら。でも実践してみると、感覚的にわかるでしょ。

 よく、「承認」に関する拙著を読まれた方で「こういう体の構えが大事なんですね」ということを言っていただく、それは要はここでいうような、「純粋客観に先んじる肯定的な見方」ということを仰っているのかもしれません。


 そして承認概念には3つの型がある、と藤野はいいます。
 
 すなわち


⊃邑尊重
6叛喇床


 順番にみてまいりましょう。
 このあたり重要な記述ばかりで引用が続きますが大丈夫かなこんなに引用して。



「愛とは、相手を自分にとって大切な存在として認める、ということであり、その意味で、承認の一つの形である、と言うことができる。(略)その上で、そこにさらに、相手に対する情動上の強い結びつき(Bindung)がつけ加わるのである。
 結びつきとは、拘束とも表現されうる事態である。愛する相手に、私は―強く言えば―縛りつけられている。相手の一挙手一投足に一喜一憂するのだから。その意味で、愛とは、不自由の別名である。そして、にもかかわらずその拘束が、それほどにも大切な人が存在すること自体において、愛する当人に最強度の幸福をもたらしてくれるのである(もちろん、相手を憎みつつ縛りつけられているというケースもあるわけだが、それは、愛の形としてはすでに一種の倒錯であると言うべきだろう)」(p.23)

 ―ここは後で出てくるような母子関係を言っているともとれるし異性愛について言っているようにもとれますね。この藤野寛氏は1956年生まれの一橋大学教授、哲学者ですがまあ愛というものをビビッドな言葉で語るひとですね

「こう考えるとき、われわれが自由の語の下に考えているものの両義性もまた露わになってくるのではなかろうか。「他者=異なるもの」との結びつきを否定し、それから解放され、それなしに自足・自存し、さればこそ他者を自在にコントロールしうるポジションにも立ちうる、ということが、「自由」の語の下に考えられているのだとすれば、それはある意味で、疎外の一形態だとこそ言わねばならないのではないか」(pp.23-24)

「ホネットは、愛の説明において、「異なるものの内にあって自己自身であること(Selbstsein in einem Fremden)というヘーゲルの規定を援用する。この逆説的な規定を、ホネットは、さらに「愛という第一次的な関係は、自立性と拘束との間できわどくバランスをとることにかかっている」という風にほぐして解説する。「共生における自己犠牲と個人としての自己主張との間の緊張関係」とも言いかえられる消息である。愛とは、相手に対する感情面での「依存」を不可欠の要素として含む経験であるけれども、それは否定的に表現すれば「依存」ということになるだけであって―ヘーゲルに倣って―積極的に「異なるものの内にあって自己自身であること」と表現することも十分に可能な事態なのである。」(p.24)

「愛の経験の基底には―拘束と捉えることも可能な―相互依存的な結びつきがある。そして、この結びつきこそが相手に対する細やかでありながら熱い関心と働きかけを可能にする土台となるのだ、と言ってよいだろう。それは「助ける」ということの土台をなすものであり、「ケアの倫理」において浮き彫りにされてきた事態である。自由というあり方が、関係からの解放、その上で、関係のコントロールを志向するのに対し、愛の経験は、関係への沈潜、没入を下支えする。」(p.24)

「愛における共生に関する論述を、ホネットはしばしば、母子関係をモデルに展開してゆく。それは「すべての形態のより成熟した愛の基本的雛形として捉えられうるものだ」とも言う。その際、「成熟」とは何をすることか。その内容の一面は、乳児が、母親の内にも自らのそれと同じ「意図をもった行為者」を認めることにあるという。つまり、母親が、自らの欲求に無条件に応えてくれる、ある意味で、奴隷のような存在であるわけではなく、彼女にも彼女の人生があることを認め始める、ということだ(フロイトなら「欲動断念」というところか)。子の母に対する承認という場合、まずは、相手に対する全面的な信頼が前提にあり、自らの欲求に必ず応えてくれる存在、そのような大切な存在、ということが出発点にあるわけだが、その上に、相手を自律した存在として認める、という異なる方向性の承認(=尊重)が積み重なってゆく。親離れとも表現可能な事態であるが、生後九ヵ月あたりにそれが起こり始めるというのが、近年の実証研究の明らかにするところであるという(「九ヵ月革命」という表現すらあるのだという)」(pp.24-25)

「愛というこのタイプの承認にあって特徴的なことは、それが、特定の個人と個人の間で成立する承認であって、言うなれば、人を選ぶという点にある。われわれは、誰彼かまわず―その意味で、平等に―人を愛するのではない。ある特定の人と―その人とだけ―強く、深く結びつく。分け隔てを特徴とする承認であって、それは、普遍主義的基準を立てれば、欠点ともみなされうる特性である。(略)愛や介護(ケア)を女性の十八番として称揚する場合でも、その視野の狭さを確認して否定性をほのめかすということはしばしばなされてきたのであり、それに対して、男は人類社会に正義を実現しようとする志において偉い、というような話にもなる。だからこそ、愛さえも普遍化しようとする試みが「人類愛」や「隣人愛」の名のもとに繰り返されてきたわけだが、これは「究極の依怙贔屓」としての愛の本質を見誤り、それを薄めて解釈する振舞いだ、と言わざるをえない。」(p.25)

「ただし、ホネットは、愛の経験の重要性を倦むことなく強調しつつも、それを女性という一方の性に割り振る、という理論構築上の誘惑には一切屈しない。愛という形の承認は、言わば、人間的経験として重要なのであり、女性の占有物ではない。ホネットは、これまで女性の十八番に祭り上げられ、そのようにして女性に独占的に押しつけられてきたものを、人間全体に、ということはつまり男性にも奪い返そうとしているのだ、と言ってよい。
 考えてもみよう。仮に、ホネットが母子関係の内に愛という相互承認の形のいわば原型のごときものを見出すとしても、そこから、愛が、母(となりうる存在)にのみ帰する、との結論は決して出てはこないのだ。なぜなら、すべての子供が―女の子も、男の子も―母子関係における愛の経験を経由して大人になるのだから、その意味すべての大人はかつての子供として愛の経験のエキスパートなのであり、だからこそ、逆に、この時期に愛の経験を拒まれた幼児は、その後の成長過程において、しばしば深刻な心理的負荷を抱え込むことになるという点を、ホネットは繰り返し強調することにもなるのである。」(pp.25-26)



⊃邑尊重としての承認

 「基本的人権」の概念って、基本的にドイツ観念論の「承認」をよりどころにしているんですよ、ご存知でしたか。「すべての人が人格として承認される、尊厳を剥奪されない」ということを言ってるんです。

 
「承認論は、避け難い仕方で倫理学的問題に関わる。なぜなら、承認には肯定的評価が含まれるから。ただし、肯定の仕方には様々なタイプがありうる。例えば、人間として認める、という語用。これは、人間にカテゴライズする(人間という範疇に入れる)ということであって、プラスの点数をつける、という意味での肯定的評価ではない。「ある範疇に認め入れる」ということである。人権尊重とは、何か肯定的な資質・能力の故をもってプラスの点数をつけることとは関わらない。あえて言えば、その範疇に認め入れること、そのこと自体が、肯定なのだ。」(pp.26-27)

―重要な箇所。「あるカテゴリーに認め入れる」という作業を「承認者」の側からするとき、これは「被承認者」の「所属欲求」という名の「承認欲求」を満たしてやっている、と言いかえることもできる。
 一方でこれらはきれいに1対1の対応関係にはならないであろう、というのは、「あるカテゴリーにに認め入れられる」というのが、「被承認者」にとってはかなり大きな背伸びである場合があるからだ。
 よくTVで流れる「認められたい」という語には、このパターンが多い。
 例えば:
・芸人として認められたい。
 これは、その世界のプロとして認められるということは膨大な数の志願者の中から氷山の一角のようなきわめて低い確率で、人並み外れた努力をし才能を発揮することのできた者のみが「認め入れられる」わけであるから、単なる就職をするような「カテゴリーに認め入れられる」ことを意味しない。極めて高いレベルの集団に「認め入れられる」、いわば、第三のタイプの「公正な業績評価としての承認」によって、「最高ランクの集団に振り分けられる」ことを意味する。
・外国人嫁が日本人の姑に嫁として認められたい。
 これも、姑の「差別意識」というか「外国人への違和感」があるところから出発して、自分の努力によってそれらを取り除きたい、そこで初めて家族の一員として「認め入れられ」たい、ということ。極めて高い障壁を乗り越えたい、という願望を言う。
 そこでは、「認められる」ことに対して自分の側が努力を惜しまない、という姿勢がある。数年がかりの努力をするだけのファイト、ガッツがある。

 こういうことをNHKなどで「承認欲求」の言葉として「認められたい」と繰り返し流していることに、わたしなどは違和感をもってきた。
 もっとハードルの低い日常的なところに「所属し、認められたい」はゴロゴロ転がっているのではないか?ということ。
 お砂場の遊びともだちでも、学校の友達グループでも、あるいはボランティアグループでももちろんアルバイトから始まって正社員まで、ともに労働をする仲間としても。
 もちろんそうした場で「承認を剥奪」することはそれだけで残酷なことである。

6叛喇床舛箸靴討両鞠

「残る問題が、承認の第三のタイプ、即ち業績評価である。このタイプの承認は、公正な再分配が行われるための前提をなすものであり、したがって、「再分配か、承認か」という「あれか/これか」は、公正な業績評価(としての承認)に基づく再分配か、文化的アイデンティティの承認かと、二つの承認のタイプ間の「あれか/これか」という風にもパラフレーズ可能であると思われる。」(p.27)




●三つの承認の型の相違と相互関係

「愛は、限られた相手・対象に向けられる承認である。すでに確認したように、すべての人を愛する、ということはありえない。ある特定の人だけに向けられる承認、それが愛である。普遍・特殊・個別というカテゴリー・セットで言えば、(略)愛は一人の個人のみを対象とし、つまりは、個別に関わる。もちろん、子の親に対する、あるいは逆に親の子に対する愛のように、相手が複数となり、そのように愛の対象が拡張されることは大いにありうるのだが、だからといって、その拡張が融通無碍、無際限ということはない。とにかく、愛は人を選ぶ(差別する)のである。」(pp.27-28)

「それに対して、第二の承認の型である人権尊重は、普遍性志向を特徴とする。人を人として尊重(承認)するのは、人であるという点以外の特質は無視する、ということであり、愛が究極の依怙贔屓であるのとは対照的に、こちらは、一切の差別を峻拒する。」(p.28)

「普遍性へのこの関係は、第三の承認の型である業績評価にも認められるものだ。それは、評価基準の普遍性を前提する。つまり、公平で偏りのない基準に則る評価でなければならない、ということだ。ただし、この承認は、その結果においては差をつける。立派な業績は高く評価し、見劣りする業績はそれ相応に厳しく評価するのでなければ、公正な業績評価は成り立たない。誰にも同じ点数をつけることで差別を回避していては、評価(という承認)をしたことにならない。この点で、愛という承認との違いは歴然としている。親は、我が子が優れた能力・資質を備えるから愛するのではない。その意味で、親の偏愛は許されると思うが、教師が愛をもってクラスの生徒に接することは認められまい。」(同)

「これを、同一性/差異性というカテゴリー・セットに即して言えば、第一の承認が徹底して差異性の承認である(「あなただけを一途に愛す」)のに対して、第二の承認は同一性の承認であり(「あなたも私も同じ人間」)、第三の承認は、同一性を基準としつつ結果として差異を志向するものだ、と整理できようか。」(p.29)


●承認か再分配か

「しかし、ホネットにとっては、問題は「再分配か、承認か」という二者択一の形をとらない。承認か/認識か、承認か/再分配か、ケアか/正義か―これらの定式化は、いずれも二者択一を迫る点で、問題を捉えそこなっている。承認の経験の上にこそ、正義も成り立つ。後者を成り立たせる、いわば可能性の条件として、前者の意義を浮き彫りにすること、それがホネットの戦略である。(略)ホネットからすれば、批判的社会理論の改訂版にとって、承認こそより基底的な概念となるのであり、フェアな再分配のためにこそ、適切な承認がそれに先行しなければならない、と考えるのだ。」(p.31)

「承認を欠落させた再分配の試みは、適正な承認を伴うことは決してない」(p.32)
例:女性が担い手となる労働は低く評価される。労働の実際の内容にかかわらず。
⇒このようなバイアスが厳然としてあるからこそ、労働の価値は承認によって公正に評価されなければならない、と解される


●イデオロギーとしての「承認」?

 承認が差別や役割の固定化をもたらすという懸念はある。

「イデオロギーとは、虚偽意識の算出のメカニズム、という意味であり、承認はそれではないか、と自問される。ホネットは「承認という実践は、主体の強化ではなく、逆に主体の屈従という結果を生み出す」というテーゼを立て、自律ではなく、全く逆に自発的な屈従を生み出す巧妙な社会的装置としての承認、というこの論点を、さらに次のように解説する。」(p.36)

―例えば「良妻賢母」やアンクル・トムの卑屈な美徳に対して繰り返される賞賛。

―そういう承認はしないでくださいね受講生様。おおむね、「行動承認」に特化していれば、そういう間違いに陥らないですむ、と考えるわけですが油断は禁物。反動男性知識人なんかは容貌を褒めることで女性を自分の都合のいいように仕立て上げようとしますからね、要注意です。


「しかしホネットは、単純な価値の多元主義・相対主義を採らない。複数存在する価値評価基準をさらに比較しうる、いうなればメタレベルの価値を想定するのである。自律である。より高度の自律性を人に可能にする承認こそ、より適切な承認だ、とする論法である。そもそもなぜ、承認されるという経験が決定的に重要視されることになったのか、という着眼点は、それが人間の自律性を強化する、という点にこそ見出されたのだった。

 肯定的に評価するという態度は、明白に、積極的な性格を有している。というのも、そういう態度は、賞賛の向けられる人に、自己自身の資質と同一化し、従って、より大きな自律性に至ることを可能にするからである。」(p.37)

―不思議というべきか、「承認」によって「自律性」が育つという現象は確かにあります。いずれだれかが証明してくれるでしょうけれど。行動承認はそのためにやはり大事です。


「〔承認論の〕試みの全体は、そもそも、承認の欠如ないし不十分さという社会現象を起点として批判的に推進されてきたもの以外ではない。視野に収められるべきは、屈辱を味わわされたり尊厳を傷つけられたりするという現実の経験である。その経験によって、主体は、正当な理由ある社会的承認を与えられず、それに伴い、自律性を育てるうえで決定的に重要な条件を差し控えられてしまうのである。」(p.38)

―そうですね、残念ながらわたしにとってもやはり「承認欠如」の状態をみることが「承認教育の必要性」を繰り返し提唱する動機づけになっていると思います。「承認欠如」は自分にとっての、じゃないですよ。世間の、とりわけわが国では評価されることの少ない良心的な女性の働き手たちについて、思います。
 

 第一章からの抜き書きは以上です。
 このあとの章はわが国におけるフェミニズムの現状や性的マイノリティについての言及が続きます。それなりに興味深いんですが―、


「第十三章 表象=代表(representation)、知識人、教育」(中井亜佐子)から、マララ・ユスフザイに関する記述を抜き書きして、終わりたいと思います。

「彼女(マララ・ユスフザイ)はここ(国連スピーチ)で、みずからrepresentationという困難な任務―表象でありつつ、代表でもあるということ―を引き受けている。それはまさに、スピヴァクが定義する意味での「知識人」の任務でもある」(p.303)

「しかし、マララ・ユスフザイの教育への熱意に接するとき、わたしたちはみずからの教育に対するシニシズムを、いったん学び棄てる必要がある。彼女の言葉はわたしたちに、教育とはなんであったか、あるいは未来においてどのようなものでありうるかをあらためて思い出させてくれる。」(p.308)


「ここでユスフザイが使う一人称複数代名詞「わたしたち」は、「教育という大義のために」団結する人びとを指しているが、「わたしたち」はまた、教育を通じていっしょになり、団結する。知識は「武器」であり、団結は「盾」となる。(略)そして、この「わたしたち」の立ち上げそのものが、彼女にとっての教育の目的でもある。この瞬間、わたしたちが目撃しているのは、representationという任務をみずから引き受ける女性知識人の誕生である。」(p.310)


※藤野寛(第一章の著者)論文シリーズのインデックスができました!

(1)温かい見方と客観的な見方、愛と人権尊重と業績評価―『ジェンダーにおける「承認」と「再分配」』をよむ
 
(2)「愛の危機」の時代「愛」の差別、闘争、苦しみと幸福、そして家族のジレンマ―藤野寛氏「家族と所有」をよむ

(3)村上春樹文学と「承認」、無視、軽視、物象化との対決、よい社会とは何か―藤野寛氏論文より第二弾

(4)自由と暴力と承認、「承認」が引き受けるものの範囲―藤野寛論文をよむ(3)


 


(一財)承認マネジメント協会
 正田佐与


 この春からうちの本棚に急に増えたコレクション。

本棚の指輪物語-2


 映画「ロード・オブ・ザ・リング」の原作、『指輪物語』関係の本。

 重い荷をもって旅するお話。

 戦い、仲間割れ、沼地、邪悪との出会い、信頼、不屈―。

 本棚が整理できることなんて永遠にありません。リビングの向こう側の床は本の山です。

 「新潮45」2015年8月号を読みました。
 創刊400号記念特大号―といってもふだんこの雑誌の読者ではないので実感しにくいのですが、

 「地に足のついた話をしよう」
と題して、藻谷浩介×内田樹の対談があります。

 辛いですが、今日の記事ではこの対談を批判的に吟味してみたいと思います。
 「承認欲求」という言葉が、多くの犯罪心理学者や社会学者と同じ、逸脱行為を理解するための言葉として使われています。


 3月に起きたドイツのジャーマンウィングス機の墜落事故を話題にして、

 ―この事故はスペインからドイツに向かった旅客機の副操縦士が、百五十人の乗客乗員を乗せたままフランスの山中に自ら墜落させたというもの。副操縦士はうつだったとの報道があった。このほか新幹線の中で焼身自殺を図り、1人が巻き添えになって無くなるという痛ましい事件が起きた―

 
内田 平凡な言い方になってしまいますが、いずれも背景にあるのは社会的承認欲求でしょうね。

藻谷 承認欲求…。ただ自殺したのでは記事にもならない。大勢を道連れにすれば、みんな自分の名前を知るだろうと。

内田 名前を知って欲しいというより、「彼はなぜこんなことをしたのか」という問いを立てて欲しいんじゃないですか。「彼はなぜこんなことをしたのか」という問いの対象になるのが、現代人が求めている社会的承認欲求の標準になっているような気がします。

藻谷 なるほど、皆に考えて欲しいと。(p.61)



 読者の皆様は、お気づきでしょうか。
 「(社会的)承認欲求」という言葉が、ここでも”負の文脈”で使われ、なんども言うように「自己顕示欲」とほぼ同義で使われていることに。

 かつ、「(社会的)承認欲求」という言葉と「自己顕示欲」という言葉、どちらを使うのがここでは適切か。
 「自己顕示欲」を使うほうがはるかに適切なのです。

 コーチングを含めたコミュニケーションの世界には、「チャンクダウン」「チャンクアップ」という言葉があります。それぞれ、「具体化」と「抽象化」とほぼ同じ意味。チャンクというのは塊という意味で、チャンクダウンは塊を小さく崩すこと、チャンクアップは大きな塊にまとめあげること、をいいます。

 それでいうと、「(社会的)承認欲求」という言葉は、ここで使うには「チャンクが大きすぎる」のです。より細分化・特定した、「自己顕示欲」を使うほうがよほど親切、適切。

 「(社会的)承認欲求」では、著書や芸術作品を世に問う行為も、会社に就職することもそこで頑張って働いて仕事のできる人と認められたい、ということもすべて入ってしまいます。そういうことまで悪いのか、と誤解させかねません。

 というか、「社会的」をここにつけるのは何か学術的な意味があるのか?マズローの言う第三階層の「社会的欲求(所属欲求)」と第四階層の「承認欲求」を合体させた造語なのか?社会学のほうにでも、こういう合体させた用語があるのでしょうか?正田は寡聞にして知りません。


 先月のこのブログにも書いたように、内田氏は実に恣意的な言葉の使い方をする人物であり、さまざまな分野について碌に知識のないまま聞きかじり、ネット読みかじり程度の知識で大上段にものを言ってしまう癖があります。
 詳しくは
 ウチダ本ついに学ぶものなし(悲)
 http://c-c-a.blog.jp/archives/51922494.html
 無知と知ったかぶり、恣意的な用語と思考、ファンタジーのオンパレード(★)―再度『困難な成熟』
 http://c-c-a.blog.jp/archives/51922668.html
(ちなみにあとのほうの記事は、フェイスブックでお友達の法政大学の組織論の先生から「いいね!」をいただきました)

かつ、「言葉の両義性」というものもお好きなようで、「両義性」が好きであると「承認欲求」のようなチャンクの大きい言葉を使って何かあれば「両義性」で言い抜けようとするのもわかる気もします。いずれにしても、まともな学者なら自分の学生には禁じるはずの、非常に不誠実な態度です。

 また藻谷氏は―、以前の同氏の著作『しなやかな日本列島のつくりかた』でも、序文中の「私は本を読まない」というフレーズに「???」とわたしはなったのですが、本を読まなければ必然的に情報源はネットか聞きかじりか、ということになります。
 ―この本も、今読み返すと男性ばかり8人で「日本」を語り、女性が話題に登場するのは点景としてのみ、という、非常に偏った本なのだ―

 残念ながら、「承認欲求」という言葉はこういう種類の、そこそこ有名な、しかし不勉強な、大学教授、コンサルタント、売文業の人びとが遊び半分に(対岸の火事として)もてあそぶための言葉になってしまっていたのでした。

 もう1つ藻谷氏の言葉を挙げておきましょう。

藻谷 最近、私が違和感を覚えるのは、「藻谷さんはいろいろ発信できて、社会に影響を与えることができて、いいですね」と言われることです。要するに、藻谷は私を拡張できて、公にいろいろ口出しできて羨ましいということなんです。
 こう言われると、二つの意味でげんなりします。
(中略)
 傲慢に聞こえてしまうかもしれませんが、私は他人に認めてもらいたいわけではないし、そういう意味での欠落感はないんです。(p.65)
 

 ここでは、「認めてもらいたい=欠落感」という使われ方をしています。
 さて、「認めてもらいたい」はイコール欠落感なんだろうか?
 読者の皆様は、どう思われますか?

 先にも言いましたように、承認欲求というのは著書や芸術作品を世に問う行為も、会社に就職することもそこで頑張って働いてそこそこ仕事のできる人と認められたい、ということもすべて入ってしまいます。たとえば感情労働といわれる仕事の人がお客様に「ありがとう」と言ってもらうとほっとこころがなごむ、身体の疲れが癒されたように感じる、そんなささやかなことも承認欲求です。あるいは無理解な上司から問答無用で叱りとばされ、こころが傷つくことも承認欲求の一形態です。
 また恋愛をしたり家庭を営んだりする私的な行為も―。

 藻谷発言には、それらすべてをひっくるめた、人びとが関係性の中で喜びや悲しみを感じる「承認欲求」に対する見下しがあります。
 そうしたものすべてから自由でいられる立場だ、とはある意味羨ましいことです。

 
 ここで藻谷氏の名前を出さざるを得ないのはわたし的に非常に残念なのですが、同氏は昨年12月21日の毎日新聞書評で拙著『行動承認』を取り上げてくれたのでした。「今年の3冊」のうちの1冊として。当時わたしも非常に感謝しました。
 しかしそのときの文面をここに出すのは控えましょう。同氏も後悔しているでしょうから。

 同氏のように、わたしのしてきた教育事業とそれによる幸福な業績向上事例、そして拙著『行動承認』をはじめとする事例提供、それらに当初感銘を受け、シンパになってくれ、そのすぐあとネットの「承認欲求叩き」に触れたのか内田氏のような「良く知らないで承認欲求叩きの尻馬に乗るえせ知識人」に流されたのか、自らも「承認欲求」を揶揄・嘲笑する側に回ったという例は、このところ後を絶たなかったのです。

 去年から今年、何度そういう人々の手のひらを返したような仕打ちに遭ったことだろう。

 そして今年春、わたしは一時期体調を崩していました。

 だから、ブログ読者の皆様、わたしが「承認欲求叩き」とそれに便乗するえせ知識人に対して厳しいことに、驚かないでください。そしてどうかご理解ください。にどと藻谷氏のような人物に出会いたくないのです。もちろん内田氏のような人物にも。

 神様、どうかお守りください。

 この記事が、おぞましい「承認欲求叩き」の最後の1つになりますように。

 
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 7月、8月と研修をさせていただいたベーカリーチェーン「株式会社牧」様から、クール宅急便が届きました。

牧様のパン20151006-2


 冷凍状態でもぷうんと香ばしい香りのたちのぼる、パンの数々。

 「柴又店が今月末に新装開店します。それに向けて開発しているパンをお送りしました」

 電話に出られた牧田社長のお元気な声。
 そういえばこの人も「ヘーゲル読み」でいらしたんだ。
 9月末にはまたヨーロッパ研修旅行に行かれたとのことで、皆様新しい”ネタ”をたっぷり仕入れてこられたことでしょう。
「私は承認によって救われました」
と言った飯田GMは、まだ1人ヨーロッパにとどまって旅しているそうです。

 わたしは、手を動かしてお仕事をする方々が本当にすきです。


(一財)承認マネジメント協会
 正田佐与
 


 

 「女性活躍」。

 どなたかが国連演説の中で「難民受け入れよりも女性活躍(国内問題優先)」と言って失笑を買っていましたっけ。。

 わが国の女性活躍の遅れからすると理の当然やらなければならないことなのですが、それが浮上するときの文脈などをみるとどこかスッキリしない感があります。


 ともあれ「月刊人事マネジメント」誌に連載させていただいている、「上司必携・承認マネジメント読本」の3回目のゲラをご厚意により「公開OK」でいただきましたので、転載させていただきます。

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以下、本文の転載です:
 
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上司必携・『行動承認マネジメント読本』
〜人手不足チームのやる気と力の引き出し方〜


一般財団法人 承認マネジメント協会 理事長
正田佐与


第3章 女性の活用と登用は「上司の眼差し」次第


 先にカナダで行われたサッカー女子W杯では、「なでしこジャパン」は準優勝でしたが、引き続き「日本女性の能力は世界トップレベル」であることを例証してくれました。しかしビジネスの世界では、わが国の女性の活用と登用は依然、先進諸国の中で大きく後れをとっています。
 こうしたなか、求められているのが環境要因としての「上司の承認」の効用です。


「承認」が女性活用にどう関わるのですか?

 女性の活躍は、出産や育児などのライフイベントに左右されやすく、そのため制度や施設などの整備が不可欠です。しかし、それらはハード面の課題なので分かりやすいのですが、上司の「承認」の有無は、ソフト面の見えにくい課題といえます。
 それはさまざまなハード面の整備を行った後にも厳然と横たわる根強い課題であり、実は根源的なものなのです。とりわけ管理職の意識の部分は変わりにくいことから、最近は「粘土層管理職」という呼び方もなされるようになってきています。
 わが国では女性が出産・育児期に退職する「M字カーブ」が顕著なことはよく知られています。しかし、出産・育児が本当に女性の退職の直接的な原因なのでしょうか。
 意外なことに現実には、日本の高学歴女性では家庭責任などのライフイベントよりも、仕事の不満や行き詰まり感が退職原因の大半を占めています。詳しくいうと、「女性が休職や退職をする確率が高いため、投資する対象とみなされず訓練を受け成長する機会が少ない」ことが、退職原因なのです。これを「不安の自己成就」といいます。
 訓練を受けない⇒認められていないと感じる⇒退職する⇒ますます訓練コストを絞るという負のループが存在しています。
 「訓練」とは重要性のある部署に配属するか否かも関わりますし、管理職からの日常の仕事の振り方にも「訓練」の要素があります。多くの男性管理職は「やはり女性より男性のほうがちょっとした仕事を頼みやすい」と本音を漏らします。
 「訓練を受けない」ことはまt、いざ社内にいる女性社員を管理職に登用する段に至っても、十分な能力や経験を積んでいないという形で壁になってきます。
 「認められたい」。マスメディアなどで女性活躍推進についてインタビューを受ける働く女性たちの切実な声が響くゆえんです。

「承認」がないと、どんな弊害が生まれますか?


 例えば中小企業で女性を活かしきれていないケース。優秀な男性はどうしても大企業が先にさらってしまうため、中小企業のある管理職は「われわれ中小は『優秀な女性社員と普通の男性社員』の組み合わせなんですよ」と自嘲気味に言います。ところがそうした現実をよそに、地方の多くの中小企業では依然、男性と女性との間に序列を付ける人事配置が行われています。能力の追いつかない男性上司の下で女性部下が実質的な管理職の職務を担い、現場に不満が渦巻いているというケースが往々にして見られます。
 また逆に、「機械的な女性登用の弊害」という問題もあります。一部官公庁や公的団体では、建前としての男女平等は浸透していますが、その結果若い頃からの訓練不在のまま本人の能力や意欲に関係なく、年齢順で女性を管理職に登用するケースもみられます。この場合も現場のモチベーションに深刻な影響をもたらします。
 一方、育児休暇から復職した女性社員への「過剰な配慮」により、責任のある仕事を与えないという現象も、本人の能力や成長意欲を認めない「承認不在」の現象といえるでしょう。
 「マミートラック」とは、復職後に負担の少ない仕事を与えられ男性社員とはっきりと差を付けられるキャリア形成の仕方を指す言葉ですが、この「マミートラック」に甘んじた女性のほうが会社には残りやすい、という指摘もあります。それまで男性並みにバリバリ働いてきた、仕事上の成長意欲のある女性は逆にそこで辞めてしまうのです。

「承認」によって、どんな効果がありますか?

 「行動承認」はバイアスをとる効用があり、「公正な評価」と「ダイバーシティ」の推進に大きく関わる要素です。
 これまで「承認」のトレーニングを受けた管理職の下では、研修直後から一転して「女性」への見方・関わり方が変わり、それに応じて女性社員の側も大きく成長したケースが多数見られました。例えば、

●個々の女性社員の動きがよく見えるようになった。その中で営業力の高い女性が一層活躍できるよう条件を整えたため女性の売上が飛躍的に伸びた。

●責任感のある女性を抜擢してリーダーに登用することができた。

●ネガティブな発言をするベテラン女性に「行動承認」で対応すると、俄然前向きな発言に変わり行動も改まった。

―などです。研修以前は、「女性」が十把一絡げにしか見えていなかったのです。
 コープこうべの元役員で、今年男女共同参画社会づくり功労者総理大臣表彰を受けた有光毬子さん(70)は、「結婚退職しか考えていなかった私に仕事の面白さを教えてくれたのは会社の理念を語って励ましてくれた上司の存在」と言います。
 またある営業職の女性は、管理職になる自信がなく悩んでいたときに外出先で自分の会社の社長に出会って名前を呼んでもらって「最近どう?」と聞かれ、「それだけで俄然モチベーションが上がった」と言っています。
 上司の期待に男性以上に敏感なのが女性。「承認」を導入したとき、部下世代では男女とも成長がスピードアップしますが、女性のほうがより大きく成長することが分かっています。「女性活躍推進」を、女性自身の側の努力に期待するのは一面的です。「上司の眼差し」が環境要因として極めて大きいことを管理者はしっかり認識すべきでしょう。
 では、上司は何から始めればいいのか?女性部下に対してこそ、お勧めしたいのが「行動承認―相手の行動を事実の通り記述的に認めること―」です。やってみると、「やったことを正確に認めてもらえた」と、女性たちが見違えるように生き生きと働くようになるのです。すべての「承認」の入り口として、「行動承認」にぜひ、取り組んでみてください。
(了)


「上司必携・行動承認マネジメント読本」シリーズ全体の構成は:

第一章 行動承認は”儲かる技術”である(2015年7月号)
 http://c-c-a.blog.jp/archives/51919833.html
 第二章  「承認」の学習ステップ(8月号掲載)
 http://c-c-a.blog.jp/archives/51921667.html
第三章 女性活用と登用は「上司の眼差し」次第(9月号掲載)
 http://c-c-a.blog.jp/archives/51923763.html
第四章 LINE世代に対するマネジメントとは(10月号掲載)
 http://c-c-a.blog.jp/archives/51925545.html
第五章 「踏み込みすぎない」メンタルヘルス対策(11月号掲載)
 http://c-c-a.blog.jp/archives/51927183.html
第六章 部下の凸凹を戦力化に転じる(12月号掲載・本記事)
 http://c-c-a.blog.jp/archives/51932814.html
第七章 伝えたいことが「伝わる」伝え方(2016年1月号掲載)
 http://c-c-a.blog.jp/archives/51934650.html



(一財)承認マネジメント協会
 正田佐与

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 ブログ開設10周年、やっぱり振り返ってみたい大切にしてきたことがありました。

 2009年4月から始まった「よのなかカフェ」(旧NPO法人企業内コーチ育成協会の事業の1つ)は、2014年12月まで通算41回開催されました。

 ネーミングは、藤原和博氏が世田谷の中学校長時代にやっていた「よのなか科」のパクリです。中身は授業ではなく、特定の時事問題のテーマを参加者の話し合いで掘り下げていく、というものです。

 時事問題といっても個々の殺人事件とかを取り上げるよりはもう少し普遍的にみんなに関係あることを、ということで、いくつか繰り返し扱ったテーマがありました。

 たとえば「労働」。

 2010年8月「日本人と仕事」。

 
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 ひょうご仕事と生活センター長・北条勝利氏、同志社大学教授太田肇氏、と正田の公開対談。
 この公開対談は5回シリーズでご紹介していますが、大変おもしろい内容でした。大筋、「日本人のモチベーションの低さ、労働生産性の低さ」に関する調査数字を取り上げて、じゃあどうするか?を語っています。
 

 2012年2月、正田が「日本人不安説に基づく承認マネジメント論」を初めて出したのが「日本の企業をつながり力で変える!」同月中に三宮と姫路で開催しました

 三宮編「なぜ語られないのか?日本人の特性に合った人材育成」

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 初の姫路開催となった、大人数参加で熱気あふれる姫路編「凄い回になりました 日本の企業をつながり力で変える!」

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 そして「教育」。学校の荒廃に何ができるのか?姫路から「学級崩壊お助けマン先生」を招いて2012年5月、「子供たちが危ない!」

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 12年8月、「たくましい若者の作り方」(姫路)では、地域の大学関係者と中小企業経営者が「若い人の人材育成」を共同で議論。有意義な回でした。

 
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 「福祉」と「地域のつながり」を探った回、「姫路版・高齢化社会を探る!」2013年2月。

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 まあ地域のおじいさん(失礼)方が元気。そしてNPOの人たちも元気。よう語りました。


 「政治」を初めて扱ったのが2013年5月の「もしも私が首長だったら」(三宮)。
 この年、兵庫県知事選と神戸市長選が同日選挙になるのを控え、「首長の仕事って何、行政の仕事って何?もっと主体的に選ぼうよ」という問題意識で開催しました。

 
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 松本茂樹先生(関西国際大学)の解説が秀逸。松本先生は他にも、「ユーロ危機」の回にも登場され大変おもしろい解説をしていただきました。


 忘れられないのが、3・11を受けた2011年4月の「震災」の回。
 
 神戸に本拠を置く被災地NGO協働センターの村井雅清代表にお越しいただきました。参加費を無料としたため、よのなかカフェ史上最高の集客に。

 
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 タイトルにもなった村井氏の「非日常の中から生まれた良いものを日常に」、いい言葉ですよね。


 地元「神戸」を話題にした回「神戸は住みやすいのか住みにくいのか?『外から見た神戸、内から見た神戸』」(2012年10月)は今も高いアクセスを集める人気記事です。どうも、まじめに神戸への移住を考えている人が参照されるよう。ひょっとして地元の悪口言って地方創生の邪魔してないか?

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 「データ重視」のよのなかカフェ、このときは地域の経済指標等に関するその年の日銀支店長の講演データを借用して冒頭に解説し、たたき台としました。しかし議論はそのデータには全く頓着せず自由な方向に(苦笑)
 

 「スウェーデン」も2回、テーマに取り上げました。
 (本当は、スウェーデンというより「北欧」を取り上げたかったんですが、そういうと漠然としているので、あえて人口規模の一番大きいスウェーデンを選んだ、という感じです)

 IKEA神戸の2人の女性管理職を招いた回「責任と決断の根づく人びとが作る社会」(2011年5月)
 
 
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 IKEAのお二人は日本人ながらIKEA精神を体現して自分の「責任」に基づいて語ると、わが「承認」受講生の男性管理職たちも「ほ〜」という感じ。カッコ良かった。

 同じ年の秋、こんどはスウェーデン人福祉研究者のアンベッケン女史を招いてカフェを開催しました。
 「議論、透明性、そして信頼」(2011年10月)。

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 福祉関係者を中心に大変意識の高い方々が参加され、アンベッケン女史へ熱気ある質問が相次ぎました。
 「スウェーデンでは政府への信頼があるから、政策にも納得感がある」という同女史の言葉が印象的でした。

 

 「女性」。主宰者が女性なもので(汗)、いや、やっぱり人口の半分が冷遇されている社会はおかしいです。いろんな角度からあの手この手とやりました。

 これは過去にも一度まとめをしましたけれど、もう1回出すと…。

 女性に「働いてほしい」(行政)されど事情は。。 女性活用カフェ開催しました!(2011年1月)
 ―神戸市男女共同参画課の方にもお越しいただきデータをみながら議論しました

 リツイート感謝。団塊の世代価値観を問う「男のプライド」よのなかカフェ (2011年8月)
 ―正田のアナーキーな性格がわかるちょっとカゲキな回でした

 「女性が輝く社会には何が必要?」(2014年12月)
 ―少人数で公務員さん中心のちょっと偏った回でしたが、そのぶん比較的先進的なところでは今こういうことが起こっている、という理解には役立った。

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 このほかにも「スウェーデンよのなかカフェ」の2回とも「女性」の回であるともいえますし。


 さいごに、「幸せ」について。

 過去に開催したよのなかカフェでも、たとえば「人口減少社会」「ユーロ危機」がテーマのときにも後半は「(色々問題はあるけど)じゃあ私たち自身の幸福とは何か、考えようじゃないか」という時間がありました。

 その「幸せ」を正面からとりあげたのが、第40回「幸せって何?」

 
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 やってみるとわかったのは、おもしろいことに、自分個人の「幸せ」をとことん考えると、自然と「社会全体の幸せとは」「(自分や自分の子でない)若い人にとっての幸せとは」を考えるようになる、ということでした。参加メンバーが良かったのかもしれませんが…。

 後日有光毬子さんが「正田さん、あの『幸せよのなかカフェ』ぱくらせてね」なんて言っていただきましたが、どんどんぱくってやっていただきたいものです。

 絵本風「よのなかカフェ総まくり」は以上であります。


 さて、ここからは多少手法の「ネタばらし」的なお話です。

 よのなかカフェがやろうとしたのは「対話」と「議論」の両方でした。「うちの業界」には、「議論はわるいもので対話はいいもの」という変なコードがありますが、当社ではそれに縛られず、「議論も対話も両方OK」にしました。共感もあり、反論もあっていい。

 そこでは、今みてもうるさすぎるほどのファシリテーションのルールがありました。

 ファシリテーション方法についてまとめた回

 後日談 よのなかカフェと女性とファシリとブログ文体と。。

 色んなことを言っていますが要は「承認」。

 ここでいう「承認」はほめるなんていう薄っぺらいものではなくて、「すべての人が属性に関わりなく尊重される、尊厳を傷つけられない、敬意をもって遇される」ということ。
 また「悪平等」ではなく、「重要な発言については(これも属性に関わりなく)きちんと価値づけすること」(公正)もあります。
 
 とりわけ、やはり、男女に平等に機会を与えること、公正に評価すること、についてはうるさかったですね。できなかったファシリは「クビ」にしちゃいましたからね。「どけ、あたしがやる!」みたいな感じで。本当に。たぶん女性主宰者じゃないとそこまでできなかったでしょうね。

 
 でもそういう、異常なぐらい「機会の平等、評価の公正」に神経をとがらせた世界は、案外男性にとっても居心地がいいものだ、というのは、参加者への個別インタビューで出ました(インタビュー先が偏っていたかもしれませんが)。


 男性も女性も同じ地平にたってワイワイ、っていいものですよ。私は男性だけが大声でしゃべってて女性はお茶をついで回るだけ、みたいな昔の村の寄り合いみたいなダサイ場にはしたくなかったんです。自然に任せるとすぐそうなってしまいます。


 
 まあこうして改めてみると2011〜12年がよのなかカフェ一番元気あったなあ、今はそんな元気ないなあ、というのも思いますけど、思い出にひたる記事でございました。おつきあいくださいまして、ありがとうございました。

 よのなかカフェ41回を支えてくださったお客様、スタッフの皆様にも、改めてお礼申し上げます。


(一財)承認マネジメント協会
 正田佐与

お世話になっている皆様


 おはようございます。
 一般財団法人承認マネジメント協会の正田です。
 
※このメールは、正田が過去にお名刺を交換させていただいた方・当協会のイベントやセミナーにご来場いただいた方にお送りしています。ご不要の方は、メール末尾にありますURLより解除ください。
(解除方法が変わりました!詳細はメール末尾をご覧ください)


 本日の話題は:

■ご愛読ありがとうございます!お蔭様でブログ開設10周年。

■自然信仰、アニミズムと「承認」―広井良典教授との対話より

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■ご愛読ありがとうございます!お蔭様でブログ開設10周年。

 ご報告が遅くなりました。
先月21日をもちまして、わたくし正田のブログ「コーチ・正田の愛するこの世界」は開設10周年を迎えました。
http://c-c-a.blog.jp/
 2005年9月21日。それまでも別のドメイン、別の名称で執筆していたブログを、急に思い立って現在のライブドアブログに引っ越し、名称も現在の名に変えてしまいました。
以来、マネジメント、心理学、リーダーシップ、コミュニケーション、脳科学、遺伝子学、などの話題をつづってきました。最近は「哲学」の話題も増えています。
 なおライブドアはその後ホリエモンの逮捕などで騒然となり、今はLINEの子会社となり、これがベストの選択なのかどうかわかりませんが漫然と使い続けております…。

 10年間、このブログへ読者のみなさまからのアクセス、及び温かいお便りや直接お会いしたときの温かい励ましをいただいてまいりました。皆様の日々のマネジメントに少しでもお役に立つところがありましたら幸いです。
引き続きのご愛読、よろしくお願いいたします。

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■自然信仰、アニミズムと「承認」―広井良典教授との対話より

 『ポスト資本主義』(岩波新書)の著者である広井良典氏(千葉大学法政経学部教授、科学哲学専攻)とフェイスブックメッセージをやりとりさせていただきました。
 そのなかで広井教授は長年テーマの1つにしてこられた「自然のスピリチュアリズム」と「承認」の関連を語っておられ、正田もびっくりいたしました。
 開かれた知性の方とは、こうして「承認」を話題に対話ができるのですね。
 前回と前々回、アカデミズムの一部の歪んだ「承認欲求バッシング」のお話を書かせていただきましたが、正常なあり方に向かう兆しが感じられます。
 どんな対話だったか、ご興味のある方はご覧ください:

 自然信仰、アニミズムと「承認」―広井良典教授との対話より
 http://c-c-a.blog.jp/archives/51923240.html 

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※このメールは、正田が過去にお名刺を交換させていただいた方・当協会のイベントやセミナーにご来場いただいた方にお送りしています。

解除される場合は、下記の解除フォームから受信していただいたメールアドレス入力して下さい。
メールアドレスを入力していただいた後、解除専用の確認メールをお送りさせていただきますので解除専用のURLをクリックして下さい。
いたずら防止のため解除の確認メールをお送りさせていただいておりますのでご理解のほどよろしくお願い申し上げます。
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100年後に誇れる教育事業をしよう。
一般財団法人承認マネジメント協会
(旧NPO法人企業内コーチ育成協会
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ブログ「コーチ・正田の 愛するこの世界」
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近著『行動承認―組織の能力を最大化する「認める力」』
http://www.amazon.co.jp/gp/product/4434198572 


*…*…*…*…*…*…*…*…*…*…*…*…*…*

 ブログ開設10年、いろんな場面がありました。

 個人的に非常に苦しかった体験の1つが、「某ビジネススクールに入学してわずか1か月半で退学」したときのことです。2006年春のことです。

 途中から、「これはどうも一種異様な体験をしているぞ」と思って、その顛末をブログに書き始めました。

 カテゴリ:ビジネススクール観察記
 http://c-c-a.blog.jp/archives/cat_50041112.html

 
 長い間読み返しませんでしたが、今読み返すと、
「三つ子の魂百まで」
といいますか、

 今わたしが教育上のこだわりとして持っていることの原型がこのときできたんだな、と思います。

 例えば、

「恣意的に振り回さない。勝手なルールで運ばない。後出しジャンケンをしない」

とか、

「言葉の語義を良く知らないでものを言わない。印象論でものを言わない」

とか。

(このときも、講師が出したお題の言葉の意味をちゃんと調べてそれに基づいてものを言ったのがわたし1人だったので、腐ったのでした)

 また、

「論理的思考うんぬんより前に正確な事実認識が大事。そこがきちんとできていれば、あとは職場で普通に使う『こうなれば、こうなる』というロジックのつながりでほとんどは十分思考できる。事実認識の方法を教えないまま論理的思考を教えるのは本末転倒」

ということも言っていて、これは初めてきかれる方には「???」なお話かもしれませんけれども、逆に「事実認識抜き」で架空のロジックを振り回している図を想像していただくと、それが変なのはちょっとご理解いただけるでしょうか。

 例えばハーバード大MBAで使われる「ケーススタディ」という手法。
 ある(実在の)企業の成功のプロセスが「物語風」に出され、それを元に議論するというものです。先生は正解を用意していて、このケースはこのマーケティング戦略を使ったから成功したんだ、というところに着地させるようになっている。
 ところが、実在の企業なのでそのケースについてちょっとネットで調べると、「ケーススタディで紹介されているのは『神話』で、実際にはそれとは別に『〇×』が功を奏した」なんていう話がゴロゴロ出てきます。
 なんじゃらほい。
 でも、そういうネットだけでも調べたことは使ってはいけないことになっています。
 普通は、そういうルールだと納得して従うんですが、正田は「おかしいんちゃうの?」と思いました。
 だって、あらゆる手を講じてサイド情報を仕入れようとするじゃないですか、現実のビジネスでは。

 で事実はどうだったか、というと、マーケティング戦略よりは組織論的なことが功を奏したりしてね。ありがちなことです。


 ビジネススクールを辞めて数年後、わたしは認知科学の分野の「ヒューリスティック」にはまりはじめ、その手の本を収集したり読書日記を書いたりするようになりますが、この時の体験は大きかったと思います。

 人は、どれほど願望、妄想、希望的観測で事実認識を誤ってしまう生きものか。
 その事実認識の部分をきちっと押さえないまま論理とか思考法を使用しても意味のないものか。


 また、教育を担う人の「口調」の問題。
 講師の言葉の端々ににじむ「見下し」等の悪意が、いかにその場の空気を悪くするか、学生たちの人格を悪くするか、攻撃的にするか、ということも、このときうんざりするほど体感したことでした。なので「正田研修」で「リスペクト」は絶対死守しなければならないものなのです。

 これは現在でも、「嫌悪」というのは非常に感染力の高いやっかいな感情なので、たとえば研修講師や講演業の人、経営者等人前で話す立場の人は、相当気をつけていただきたいことであります。年配の講演業の人などによく見るのは、お爺さんらしい底意地の悪さや「女性嫌悪(ミソジニ―)」の気分をまき散らしながら話す人。そういう人とは正田は決してご一緒いたしません。



 ・・・そしてその当時は家族とも同居していたので、学校を辞めるかどうか真剣に悩んで当時の家族に相談したりしているのが、ほほえましいというか笑えるというか、でした。



 というわけで、もし余程お時間のある方でご興味があれば読んでみてください:
 
  カテゴリ:ビジネススクール観察記
 http://c-c-a.blog.jp/archives/cat_50041112.html

 

(一財)承認マネジメント協会
 正田佐与


 ブログ開設10周年記念。
 どこまでやるべきなんでしょう。

 読者様に抽選でプレゼント!なんていう気の利いたことはできないのがわたし。

 他ならぬ”このブログ”について過去に書いた記事としては、こちら

 当ブログ流の「僕は君たちに武器を配りたい」(2013年11月)
 http://c-c-a.blog.jp/archives/51875568.html

があります。
 「マネジャー教育で1位輩出開始10周年」で感謝のつどいをした時ですね。今は蹴とばしてしまった、わずか2年前ですが遠い過去です。

 なんで今孤独を選んでいるのかというと、この世は一歩外は敵だらけだ、ということを、「味方」「仲間」はだれも理解しなかったからです。どんな殺伐とした世界を正田が生きていて闘わなければ生き残れないか、そして満身創痍状態か、わからない人たちばかりだったからです。ブログには繰り返し外の世界の「悪」について書いていたのに、かれらはその意味をわかっていませんでした。

 そういうことで繰り返し落胆するよりは、いっそ1人でいるほうが心穏やかにいられます。

 最近は、「敵」の正体がすこしわかってきた気がします。

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 その一方で最近はフェイスブックのお友達の皆様にお願いしにくいことをお願いすることが続いていまして、でも意外なことに心温かく応じてくださる方がいらっしゃるのは本当にありがたかったのです。

 ネットもある意味情報戦の場です。

 決してお友達を利用したいなんて思っていなくて、今後はできるだけこういうことをしないで済むように願います。
 温かいご理解をくださった皆様、リアルの友人以上に味方でいてくださった皆様、本当にありがとうございます。

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 自分自身について、最近「ビジョン型ではなく価値観型」だ、と書きました。未来にどうなりたい、という夢が持てなくて、ただ毎日を自分らしく価値観を大事にして生きたい。

 ではそれはどういう価値観なのか、と訊かれると、

 「幸福な王子に出てくるツバメ」のように生きたい、と答えます。

 オスカー・ワイルドの『幸福な王子』('The Happy Prince')は、ブログ読者の方はご存知でしょうか。最近も新訳本が出ていましたが。

 ご存知ない方のために、Wikiに載っていたあらすじを引用させていただきます。


ある街の柱の上に、「幸福な王子」と呼ばれる像が立っていた。かつてこの国で、幸福な生涯を送りながら、若くして死んだとある王子を、記念して建立されたものだった。 両目には青いサファイア、腰の剣の装飾には真っ赤なルビーが輝き、体は金箔に包まれていて、心臓は鉛で作られていた。とても美しい王子は街の人々の自慢だった。 しかし、人々が知らないことが有った。その像には、死んだ王子自身の魂が宿っており、ゆえに自我を持っていること。王子が、この町の貧しい、不幸な人々のことを、嘆き悲しんでいることである。

渡り鳥であるが故にエジプトに旅に出ようとしていたツバメが寝床を探し、王子の像の足元で寝ようとすると突然上から大粒の涙が降ってくる。 王子はこの場所から見える不幸な人々に自分の宝石をあげてきて欲しいとツバメに頼む。 ツバメは言われた通り王子の剣の装飾に使われていたルビーを病気の子供がいる貧しい母親に、両目のサファイアを飢えた若い劇作家と幼いマッチ売りの少女に持っていく。エジプトに渡る事を中止し、街に残る事を決意したツバメは街中を飛び回り、両目をなくし目の見えなくなった王子に色々な話を聞かせる。王子はツバメの話を聞き、まだたくさんいる不幸な人々に自分の体の金箔を剥がし分け与えて欲しいと頼む。

やがて冬が訪れ、王子はみすぼらしい姿になり、南の国へ渡り損ねたツバメも次第に弱っていく。 死を悟ったツバメは最後の力を振り絞って飛び上がり王子にキスをして彼の足元で力尽きる。その瞬間、王子の鉛の心臓は音を立て二つに割れてしまった。 みすぼらしい姿になった王子の像は心無い人々によって柱から取り外され、溶鉱炉で溶かされたが鉛の心臓だけは溶けず、ツバメと一緒にゴミ溜めに捨てられた。

天国では、下界の様子を見ていた神が天使に「この街で最も尊きものを二つ持ってきなさい」と命じ、天使はゴミ溜めから王子の鉛の心臓と死んだツバメを持ってくる。神は天使を褒め、そして王子とツバメは楽園で永遠に幸福になった。


 ほらね、いいお話でしょ?

 正田は「非業の死」を遂げる人が好きで、ワトソンとクリックに研究を盗用されて37歳で病死する女性研究者ロザリンド・フランクリンにも憧れています(もうすぐ52歳、ああ15年も余計に生きてしまった)。
 (ロザリンド・フランクリンに関する記事はこちら

 この物語のツバメは、サブキャラで王子ほど強い信念をもっているわけではないんですが、王子に心動かされてその意思の実現のために働きます。南に向かうことも忘れて貧しい家々に宝石や金箔を配ります。そして寒さに凍え力尽きて死にます。

 そして人々が全然真相を知らないし感謝もしないところが、イイですよね。

 悲劇の話を好きなのは、正田が悲しみの感情を好きな人だからかもしれません。
 いけないなあ、否定的な情報や物語に注目する習慣を止めましょうって『ワイル博士のうつが消えるこころのレッスン』に書いてありました。


 また、現実の正田は1人親方なんですが、「王子」という架空の上司がいる物語が好きなのは、自分は本来は番頭タイプだ、と思っているからかもしれません。「王子」、どこにいるんでしょうね。



(一財)承認マネジメント協会
 正田佐与


 さて、10周年記念。無精ものの正田の精一杯の読者様サービスです♪

 1つ前の記事で、『環境世界と自己の系譜』という本の読書日記をちらっとご紹介しておりましたが、これは1冊の本を延々9回ものシリーズ記事で取り上げたもの。2009年9月のことです。

 昔は、長い記事1本にまとめたりせず、シリーズにしたりしてたんですねー。ほかには「U理論」の本もこういう扱いをしましたが、こちらの本のほうが今みてもおもしろいです。

 インデックスをお作りしましたので、タイトルだけ見ておもしろそうなところを、お時間のあるときお読みください:


『環境世界と自己の系譜』の読書日記
「日本人の自己観と幸福観」シリーズ、インデックスを作りました!!
2015年10月現在読み返してもなかなか面白いことを言っております。
よろしければご覧ください:

日本人の自己観と幸福観(1) −『環境世界と自己の系譜』より
http://c-c-a.blog.jp/archives/51515101.html

日本人の自己観と幸福感(2)−「つながりの自己」と「アトム型自己」
http://c-c-a.blog.jp/archives/51515159.html

日本人の自己観と幸福感(3) −心理学が強化した「アトム的自己」観?
http://c-c-a.blog.jp/archives/51515163.html

日本人の自己観と幸福感(4)− ふたつの幸福感、離脱肯定とつながり肯定
http://c-c-a.blog.jp/archives/51515305.html

日本人の自己観と幸福感(5)―エイズパニックにみる、自我拡張と自我縮小の出会い
http://c-c-a.blog.jp/archives/51515882.html

日本人の自己観と幸福感(6)―江戸時代に完成された「閉鎖系」の倫理観
http://c-c-a.blog.jp/archives/51516148.html

日本人の自己観と幸福感(7)―アトム的自己観を前提とする不幸
http://c-c-a.blog.jp/archives/51516790.html

日本人の自己観と幸福感(8) ―「つながりの自己」は万能か
http://c-c-a.blog.jp/archives/51517365.html

日本人の自己観と幸福感(9)―不安にみちた現実世界と世界仮構のいとなみ
http://c-c-a.blog.jp/archives/51517379.html


本シリーズは以上であります。

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もうひとつ思い立って、ブログの新カテゴリを立てました。

中嶋嶺雄先生・国際教養大学(AIU)
http://c-c-a.blog.jp/archives/cat_50056392.html

先生っ子のわたし、亡くなった恩師を慕っていると(生前も同じでしたが)強くなれる気がするのでした。

AIU訪問記などは今も高いアクセスがあります。中嶋先生はもういらっしゃいませんが、同大学を目指される方の手掛かりになれば幸いです。

また恩師の死の4か月前のインタビューは―、ゼミOBの方から「先生の遺言のようなインタビューだったな」と言っていただきます。わたしの宝物です。


(一財)承認マネジメント協会
 正田佐与


大変申し訳ありません。
自分のアニバーサリーを忘れておりました。
いえ50歳はもう一昨年迎えたんです。

当ブログ「コーチ・正田の愛するこの世界」は
先月21日をもちまして、10周年を迎えておりました。
2005年9月21日、イベント「コーチング関西」の準備中に
ストレス解消のために(?)開設したのでした。

最近は1日平均200人強の方がご訪問くださいまして、
すごく人気ブログであるとはいえませんが
延々と文章ばっかりの不愛想なブログに辛抱づよくおつきあいいただき
ありがたいことです。

相変わらず、成長のない当ブログですが
読者のみなさまのご愛読に心から感謝申し上げます。
みなさまのより充実した1日にお役立ちできますよう、
ひきつづき精進してまいります。
何卒今後ともどうぞよろしくお願いいたしますm(_ _)m


(一財)承認マネジメント協会
 正田佐与

 1つ前の記事に取り上げた本『21世紀の脳科学―人生を豊かにする3つの「脳力」』はわたしの仕事的に非常に示唆に富んでおりました。

 モチベーションに関しては従来心理学分野で言われ、そこでは割と「言ったもん勝ち」と言いますか、恣意的にいろんなことが言われておりました。「内発と自律論」もそうですが承認教のご本尊の1つともいえるマズロー五段階欲求説なども、広く流布してはおりますがどこまでの妥当性があるのかの議論は「保留」という感じでした。

 アメリカは1990年代を「脳の10年」と呼びその後も脳科学が発展し続けました。fMRIについては一部でその限界も言われておりますが、本書でほとんどすべての実験にfMRIによる検証が行われているのは、心強く感じることであります。そういうものが「ない」状態で恣意的なことが言われてきた時代に比べれば。

 また遺伝子学や認知科学、それに神経経済学もそれぞれ発展し、心理学で言われてきたこともさまざまな自然科学分野の手法でメスが入れられるようになりました。実験デザインもそれぞれに工夫され、「ミラーニューロン」の知見についても「発見―批判―再発見―再批判」が繰り返されて「ここまでのことは言える」と精度が上がっているのはすばらしいことです。

 さて、本書に触発されて、
1.「マズロー五段階欲求説」のわたし流の解体、
2.新たな「自己感」とそれに基づく「内発と自律論」の再検討、
3.「承認」と「規範」の関係
―を書きたいと思います。よろしくお付き合いくださいませ。


1.「マズロー五段階欲求説」の解体

 本書には
「生理的欲求の中に『愛されたい欲求』が含まれる。マズローのピラミッドの最下段にこの欲求が来ないといけない。愛され世話されないと人間の乳児は即死んでしまう。そのため『愛されたい欲求』を人間は生涯持ち続ける」
という指摘があります。
 大いにうなずけるもので、「愛される欲求」は従来マズローのピラミッドの下から3番目、「社会的欲求/所属と愛の欲求」に入れられていましたが、実はもっと根源的なものであろうと思います。
 たぶん人間は老人になっても生涯「愛されたい(ついでにリスぺクトされたい)」と願うものです。たとえ愛される愛されないが自分の生死に関わる問題でなくても。

 欲求には階層がある、と最初に言ったのはヘーゲルだったんじゃないですかね。『法の哲学』の中にそういうのが出てきましたね。もっと前の人も言ってたでしょうか。ヘーゲルはあんまり細かい区分は言ってなかったと思いますけど、「承認」という言葉を再生させたマズローはヘーゲルの影響は受けたんでしょうか。

 ちなみにマズローの欲求5段階説をWikiに載っていた図を拝借すると、こうなります

欲求5段階説


 でわたし流の欲求の再区分は、ざくっと「生理的欲求」と「社会的思考の欲求/承認欲求」「非社会的思考の欲求」の3つに区切ってしまいます。すごいアバウト。血液型O型ですかって?いえA型ですけどね。

 でもオリジナルで(まあ、『21世紀の脳科学』に触発されてるんですが)「非社会的思考の欲求」というのをつくって、これは「社会的思考の欲求」の領域の中に食い込んでいます。よくみると従来「自己実現欲求」に分類されていたイチロー的なものがそこに入っているかも…。
 
 議論が分かれると思いますけどね。とりあえず暫定的に作ってみましたね。盗用剽窃しないでくださいね。

欲求段階説正田バージョン201510


欲求段階説正田バージョン2015年10月。禁無断転載



 図形の形がゆがんでいるとか色遣いがヘタクソだ、といった批判は受け付けません。

 えーと、「社会的思考の欲求/承認欲求」として、従来「承認欲求」「所属と愛の欲求」とされていたものを、ここにひとまとめにしてあります。
 よく言葉の乱れとしてあったのは、従来の区分で「所属欲求」としたほうがよいと思われるものを「承認欲求」の中に入れていたことです。スマホで友だちとつながりたい欲求を「承認欲求」とよぶとか、いじめの共犯者や傍観者の形で加担することを「承認欲求」とよぶとか、ですね。
 で今回の区分では、所属欲求も「承認欲求」の下位概念ととらえ、包摂してしまいます。何でも食ってしまうブラックホールみたいな奴だ。たぶん脳科学的にもきれいに「切れない」んではないかと思いますのでね。そのぶん「承認欲求」がわるさもすることにはなりますけどね。
 あっ、犯罪心理学でおなじみの「自己顕示欲」もやっぱり「承認欲求」に入れちゃいました。わるさをすることにつながりそうな要素を「承認欲求」の最下段にまとめましたね。
 また、「内発と自律論」について以前「含む、含まれるの関係でございます」なんて書きましたが、「自律欲求」を、やはり「承認欲求」の少し高次な1ジャンルとして加えてあります。「私、自律的に仕事ができるんだからアゴで使わないで任せてください」っていうのも「承認欲求」の一形態です。今どきの在宅勤務なんかもこれで解決できるんではないかと思います。

 
2.新たな「自己感」とそれに基づく「内発と自律論」の再検討

 1つ前の記事でもかなりコメントを書きましたけれど、欧米的な「独立した個人としての自己」という自己感がだいぶ怪しくなってきました。
 当ブログでは、2009年の秋に大井玄という人の『環境世界と自己の系譜』という本の読書日記を延々とUPして、欧米の「アトム型自己」と東洋の「つながりの自己」との対比を取り上げました。
 参照されたい方はこちらが筆頭の記事になります
 日本人の自己観と幸福観(1) −『環境世界と自己の系譜』より

 その欧米の「アトム型自己」がどうも幻想に基づくもののようだ、ということが本書では沢山の脳科学の知見を添えて書かれています。
 わるいのは「人間は利己的だ」と言ったホッブズとヒューム、それに「心身二元論」を言ったデカルトみたいです。
 そういう“美しい誤解”をしていても欧米社会がそれなりに繁栄してきたのは、ひとつには元々オキシトシン受容体遺伝子の高オキシトシンのスニッブを持つ人が多く、ほっておいても他人との信頼関係のつながりを強く感じて生きられる人が人口比で多いから、という解釈ができるんではないかと思います。

 日本人をはじめアジア人種は遺伝子的にはそういうつながり感というのは弱くて、どうやってカバーしてきたかというとひょっとしたら、フェミニズムの人に叩かれるかもしれませんが、お母さんがずーっとおんぶとか抱っこして皮膚接触を絶えずするような子育てをしていたから、という解釈ができるかもしれません。べつに「お母さんが」じゃなくてもいいんですけど。
 なので、保育所の数が整備されてもそこで働く保育士さんの数が十分確保できないうちは、私個人は子供を乳児のうちから預けて働くことにあんまり賛成できないのです。皮膚接触の絶対量が少なくなってしまいますから。

 あ、それは脱線でした。

 で「内発と自律論」です。
 これらは、上記のホッブズヒュームデカルトらの言葉を盲信しちゃった延長線上にあるであろう、「自分は依存的ではない、自律的だ」と思ったほうが自分に誇りが持てるであろう。とともに断言はできませんが、「内発と自律論」は元々アメリカ心理学界で行動主義/行動理論が普及し権威を持ったことへの反発反感から生まれたようなところがあり、デシの「金銭的報酬がやる気を下げる(ことがある)」という実験も、「だから、報酬を与えることは良くない」という結論を導き出すことはできないものでした。そういう風に拡大解釈して乱用した方も一部にいらっしゃいますが。
 そしてリバタリアニズムの、「がしがし働いてアメリカンドリームを実現した人だけが大金持ちになればいい」という、なんというか「夢中華思想」「成功者ナルシシズム」っていうか、そういうのにも合流し利用されたようにもみえます(リバタリアニズム本当にそんな思想なのか!?)
 このへんはあまりちゃんと調べて書いてるわけではないんですけどね…。
 「内発と自律論」はモチベーション業界で周期的に流行るもので、最近のアメリカではジャーナリストのダニエル・ピンクの『モチベーション2.0』がこの流れで有名ですが、ジャーナリストは唯我独尊の小生意気な職業ですからねえ。
 いくら「ものは言いよう」的にジャーナリストやモチベーション業界の人が言っていても、本書で言うように課題をこなしたあとの休憩時間には他人のことや社会のことが頭に浮かぶのが人間の習性であります。逆にそれが「ない」人は…問題発言になるから、やめとこ。
 「内発と自律論」をわたしが毛嫌いする理由はほかにもあって、実はそれは悩める青少年〜中堅を自己啓発本・自己啓発セミナーの永遠の迷路に引きずり込む入口の商材にもなり得るからです。
 「承認研修」がいくら正しくても、頭でっかち系の職種のこの手の自己啓発にかぶれた若手〜中堅のこころには入っていかない。それは、本書で言う(「自立した個人」という)「自己充足的予言」にかぶれているため、こころが頑なになっているからです。
 それは、彼ら彼女らのために惜しい、と思います。彼ら彼女らの学習能力をむしばんでいます。
 あとは、わたしにとって難攻不落のように思えていた「ジョブズスピーチ」の誤りも指摘してくれているので、ジョブズ決して嫌いではないんですが、あれも「自己充足的予言」に結構なりえるので、非常にスッキリしました。


3.「承認」と「規範」の関係

 これも1つ前の記事の後半部分にかなりコメントで書いておりますが、
「承認すると規範意識が上がる」
という、風が吹けば桶屋が儲かる的な現象があります。
 あるリーダーが部下を承認していると、リーダーが会社のルールやコンプライアンス的なことで指示やお説教をした場面でも、部下はリーダーの言うことを素直に受け取ってくれやすい。
 現象としてはこれまで繰り返し見られてきたことで、これまではその理由を、
「自分を承認されて(特に行動承認を含む承認をされて)感じる喜びはリアリティのあるものなので、承認してくれる人の言うことはそれがコンプラ的なことであっても、リアリティをもって聴けるのです」という説明をしてきました。この説明自体も別に間違いではなかったと思います。
 ところが、脳科学的に、「承認されて喜びを感じる領域」と「外部の規範を取り入れる領域」は同じだ、というではありませんか。
 それじゃ、この2つがダイレクトにつながっていても無理ないですよね。
 社員の規範意識を高めたかったら、承認をしましょう。
 逆にたとえば、ベネッセの個人情報流出なんかも犯人は契約社員だったということですけれど、本人の性格や経済状況の問題もありますが「承認されてない」という問題を抜きには語れなかったんではないでしょうか。(だから、やっぱり正社員/非正規社員の区分も、見直しが必要なんですよねー。改正派遣法は改悪なんちゃうの?と思いますが)

 以上で「考察編」は終わりであります。

 まだ未熟な考察ですが、ご意見ご批判がありましたらコメントかメッセージでもいただければ幸いです。

 

21世紀の脳科学表紙画像


 『21世紀の脳科学―人生を豊かにする3つの「脳力」』(原題’SOCIAL Why Our Brains Are Wired to Connect’、マシュー・リーバーマン、講談社、2015年5月20日)を読みました。
 「ソーシャルブレイン」「つながり脳」の系統の脳科学の本。この手の本が好きなのは決して広井教授に影響されたからではないと思います。わたし自身のもとからの選好だと思います。

 脳科学本としては“軽い”文体の本なのでささっと読んでスルーできるかと思ったらあにはからんや、正田の分野的には読み過ごすことのできない重要な知見、主張がたくさんありました。
 例えば「マズローの欲求五段階説」の解体、欧米的「自立した個人」の幻想、スティーブ・ジョブズのスピーチへの反論…。

 今回は二部構成として、まずは本書の内容を一通り押さえたうえで、別建てで正田のほうに引きつけた考察の記事を書きたいと思います。

 著者は、「カリフォルニア大学ロサンゼルス校心理学部教授、精神医学・生物行動科学部教授。社会認知神経科学分野において、世界で最も注目される研究者のひとり」と紹介されています。本書の中ではfMRI(機能的磁気共鳴画像法)を用いた実験が多数出てきます。若手研究者に贈られる賞を2007年に受賞したとありますが生年が書いてない…。たぶん若いんでしょう。まあいいや。

それでは恒例の抜き書きでございます。(特に断りのない場合は要約)今回はワード20pになってしまいました。職場活性化や教育現場への応用についても終章近くで触れているので、ご興味のあるかたはこの記事をうしろからお読みください。

●大統領選も「自分でなく、他人がどう思うか」に左右される。1984年、レーガンとモンデールのTV討論を聴いた人は、「レーガン健在」と信じたが、それはTVスタジオの聴衆の笑い声に左右されていた。

―アメリカのTV番組の聴衆って大しておもしろくないところで笑いますよねー。あれがいつも不思議でした

●「社会的思考」と「非社会的思考」の定義。
本書で述べる「社会的思考」とは、自分自身と自分を取り巻く周囲との関係や、社会のなかで自分がどう行動するのかを考えるための思考である。つまり、周囲のできごとや社会生活のなかで受け取った情報を処理して、自分自身を知ったり、相手の心の状態を読み取って他者を理解したり、周囲の人間関係について考えたりして、社会的に行動するための思考と言えるだろう。社会的思考に優れた人は、他者とうまく交流したり協調したりして、豊かな人間関係を築き、充実した社会生活を送る能力の持ち主である。
 
 一方の「非社会的思考」とは、文字通り、社会的思考以外のあらゆる思考を指す。そのなかには先にも述べた、チェスをしたり、微分積分を解いたり、ものごとを論理的に分析したりする抽象的な思考能力ももちろん含まれる。世間では、論理的思考能力や分析能力に優れた人を「頭のいい人間」と見なす傾向にある。

●社会的思考と非社会的思考とを脳はまったく別の領域で扱う。そのため複数の領域が連携し合って働く、それぞれのネットワークが発達した。しかもそのふたつのネットワークは、たいてい“互い違いに”働く。社会的思考のネットワークがオンになると、非社会的思考のネットワークはオフになってしまうのだ。

―ここです。少し前の記事で「論理的思考能力と感情認識力はトレードオフ関係ではない、両方優れた人もいらっしゃる」という意味のことを書きましたが、現実には両方優れている人は珍しく、とりわけ学者さんやコンサルタントさんの業界は論理的思考能力「だけ」が強い人が大半を占めている。その人たちがモチベーションを語ると非常におかしなことになる、ということを正田は前から言っていたわけですが。
「両方優れた人」というのは、相当意識してトレーニングした人たちなのかもしれないです。

●自己とは、私たちが考えるような“難攻不落の砦”に囲まれたものではない。それどころか、周囲の考えや価値観を簡単に取り入れる“スーパーハイウェイ”のようなものだ。自己という概念を生み出す脳の同じ領域を使って、進化は、私たちのなかに社会の信念や価値観をうまく取り入れる仕組みをつくり出した。こうして、私たちは自分でも気づかないうちに外部の信念や価値観を自分自身のものと思い込み、社会規範に従い、集団や社会との調和を図ろうとする―そしてそれこそが、進化が私たちに与えた第3の脳力「調和する力」である。

●私たちが言語を獲得したのは約5万〜数十万年前と考えられている。それに対して、私たちの祖先が社会性を獲得したのは、少なくとも哺乳類が地球上に初めて誕生した約2億5000万年前にまでさかのぼる。つまり私たち哺乳類の祖先は“社会的動物”になることで、厳しい生存競争を勝ち抜いてきたのだ。…となると、人類が持つ優れた特徴とは、言語でも理性でも拇指対向性でもなく、進化が私たちに与えた「社会性」と言えるのかもしれない。

●第一の脳力「つながる」。哺乳類が初めて誕生した時、進化は私達の祖先に「社会的苦痛」と「社会的喜び」という、ふたつの基本的な動機を与えられた。未熟なままで生まれ、ひとりでは生きていけない乳児は、常に養育者とつながり、世話をしてもらう必要がある。そこで乳幼児の脳は、養育者から放って置かれるという社会的な分離を、「社会的苦痛」として感じるように発達した。一方の養育者の脳も、我が子の世話を報酬と捉え、「社会的喜び」を感じるように発達した。…しかも、養育者と常につながっていたいという乳幼児期の欲求は、成長後も失われず、生涯にわたって私たちの考えや行動を決定づけるのだ。

●第2の脳力「心を読む」。人や集団や社会とつながり、また他者と戦略的にやりとりするために、進化は私たちに、もっぱら他者の心の状態を読み取るための脳のネットワークを与えた。相手の考えや目的や意図を読み取る脳力のおかげで、私たちは協力し合って難しいアイデアを実現したり、周囲の人間の望みや欲求を予想したりして、集団をスムーズに運営できるのだ。まず「心の理論」、さらに「メンタライジング系」と「ミラー系」という2つのネットワークはそれぞれ異なる機能を持ち、たいてい相互補完的に働く。

―共感の回路。2つのネットワークのそれぞれの役割も後の章で注目です。ちなみに「行動承認」はそこで何をやっているのかというと…。

●第3の脳力:「調和する」:自己観―「自分とは誰なのか」という概念―を生み出す脳の領域は、私たちが周囲の影響を受け、社会の規範や価値観を取り入れるルートでもあるのだ。脳はその同じ領域を用いて、当の私たちも知らないうちに、外部の信念や価値観を私たちのなかにこっそりと運び込んでいる。こうやって私たちの脳は、社会の規範を内面化し、その上に自分自身の自己観をつくり上げ、私たちが外部の信念や価値観に従って考え、行動し、社会の調和を生み出す仕組みをつくりだしたのである。

―「規範の内面化」に関する興味深い考察。後の章では「トロイの木馬」という比喩も用いられています。実はここも、「承認をするとなぜ(部下の)規範意識が高まるか」という点で要注目です。


●脳の「デフォルト・ネットワーク」。1977年、神経学者のゴードン・種ルマンはPET(陽電子放射断層撮影)を用い、「認知、運動、視覚的弁別課題を行っていない時に活性化する領域」を発見した。これを「デフォルト・ネットワーク」とよぶ。何かの課題が終わったときに“デフォルト(初期)設定として現れるネットワーク”という意味。このネットワークと脳の社会的認知ネットワークとがほぼ一致する。休み時間、脳は活発に動き、社会のできごとや周囲の人びとにまつわる情報を処理する認知プロセスに忙しい。

●人間はこの世に生まれるとすぐに、生後2日の新生児の脳でも、デフォルト・ネットワークが活性化する。

●人間と他の霊長類を分ける特徴のひとつとして、脳のサイズがあげられる。とりわけ私たち人間は、前頭前皮質と呼ばれる、目のすぐ後ろに当たる前頭葉の前側の領域が大きい。前頭前皮質は、ほぼどんなソフトウェアでも搭載できる汎用コンピュータによく喩えられる。

●一般的知性や一般的な認知能力と関係がある領域は脳の外側の表面である。一方、社会的知性を働かせる時には、たいてい脳の内側の領域が活性化する。
 さらに、社会的思考を支えるネットワークと、非社会的思考を支えるネットワークは、“シーソー”の両端のように互い違いに活性化する。

●人間の脳は、脳化指数という指標を用いるとバンドウイルカの1.5倍、チンパンジーやアカゲザルの4倍近くにもなる。また人間の前頭前皮質は他の動物と比べても飛びぬけて大きい。

●大きな脳はどんな脳力を提供してきたのか。専門家の3つの仮説は:1.「個人の問題解決能力」。2.「他者の真似をする、個人の社会的学習脳力」。3.「互いにつながり、協力し合う能力」。

●1990年代初め、進化人類学者のロビン・ダンバーは、新皮質比と群れの規模との間には相関関係があり、新皮質比が大きければ大きいほど、群れも大きいという事実を発見したのである。


●マズローの間違い。1943年、心理学者のアブラハム・マズローは、人間の欲求を5段階のピラミッドで表す「マズローの欲求5段階説」を発表した。最下段から「生理的欲求」、「安全欲求」、「社会的(愛と帰属の)欲求」、「承認の欲求」そして「自己実現の欲求」である。マズローは、これらの5段階をすべて実現した人を「自己実現者」と呼んだ。

●ところが乳児を例にとると、乳児にも水や食べ物や安全が必要だが、乳児は自分ひとりではこれらの欲求を満たせない。そのため、生まれた瞬間から哺乳類の赤ちゃんにとって必要なのは、「生理的欲求」と「安全の欲求」とを満たしてくれる養育者の存在である。とすると、マズローのピラミッドは間違っている。乳児にとって最も重要なのは「社会とつながり、誰かに世話をしてもらう」という欲求だからだ。つまり、ピラミッドの底辺は「生理的欲求」ではなく、「社会的(愛と帰属の)欲求」でなければならない。人はつながりを渇望する。なぜならつながりは、私たちが生き残るうえで最も基本的な欲求と深く結びついているからである。

―マズロー5段階欲求説をひっくり返す説。元々wikiにもマズロー説には科学的厳密さがないとの批判が載っているが。わたしもこのところ、マズローのカテゴリ区分や重要性の順位を見直す必要があるのではと感じていたので、大変タイムリーでございました。食べ物の前に愛が必要なわけございますね。

●ボウルビイの愛着理論。当ブログでも再三ご紹介したでしょうか。フェミニズムからは批判されたが、今日ではほぼ定説。
 愛着理論とは、泣いたり、まとわりついたりして愛着を求める乳幼児の欲求に養育者が積極的に答えることで、ふたりの間に強いきずなが結ばれるという考え方である。ボウルビイによれば、乳幼児は生まれ持った“愛着システム”によって、常に養育者との距離を監視し、愛着関係が脅かされるとすぐに警報を鳴らすという。警報は内面的には“不快な痛み”となり、外面的には“分離苦痛の泣き声”となって現れる。そして、激しい泣き声を聞いた母親を急いでそばに呼び戻すのだ。乳幼児期に私たちを大泣きさせたこのシステムは、のちに成人した私たちを、泣きわめく我が子の元へと走らせる。愛着システムは失われない。養育者とのつながりは、乳児にとって生き残りをかけた欲求である。だがその代償として、私たちは「愛されたい」という欲求を命尽きるその日まで持ち続ける。私たちが生涯を通して味わう社会的苦痛は、すべて乳児の頃の生き残りをかけた欲求から生まれたものなのだ。

●1978年、感情神経科学者のジャーク・バンクセップは、「社会的愛着は身体的苦痛系に便乗し、オピオイドによって機能する」という説を発表した。バンクセップは、動物の母子に見られる愛着行動とドラッグとの類似性を指摘する。動物の母子を分離すると、ドラッグを中止・減量した時の離脱(禁断)症状のような苦痛を引き起こす。その一方で、母子を再び引きあわせると、双方のつながりが痛み止めのように作用して苦痛が和らぐ。しかも両者の間には、依存と呼ぶにふさわしい満ち足りた愛着関係が存在する。イヌを使った実験では、親から引き離されたときモルヒネを与えられた子イヌは、ほとんど鳴き声をあげなかった。さらに分離後に再び母子を会せると、母イヌと子イヌの両方でオピオイドの分泌量が増した。この実験結果は、「身体的苦痛と社会的苦痛とを脳が同じように扱う」という仮説を裏付けた。

●背側前帯状皮質の機能。私とナオミはこの領域を脳の「警報系」と名づけた。「問題を検知し」「警報音を鳴らす」というふたつの機能を持つ領域として捉えた。この領域は情動をも引き起こし、私たちの苛立ちや不安といった情動を強く感じれば感じるほど、強く活性化する。

―預言者カサンドラはいつもイラついている、またイラつくからまた色んな悪い兆しに敏感になるというお話。このブログの読者の方の中にも、心当たりはないでしょうか―。ひょっとしたら福島原発の事故を未然に予測した人もイラついていたかもしれません(ひょっとしたらそれで周囲からイヤがられていたかも)

●死別や失恋、他者からの批判、あるいはただ単に相手の咎めるような表情を見た場合でも、背側前帯状皮質は活性化する。

●いじめがもたらす苦痛。「サイバー・ボール」というコンピュータゲームで仲間外れにされた経験をすると、被験者はそれがプログラミングであるとわかっていても社会的苦痛を感じずにはいられなかった。いじめは広く蔓延する社会的拒絶であり、アメリカ、イングランド、ドイツ、フィンランド、日本、韓国、チリで行われた調査では12〜16再の生徒の約10%が日常的ないじめを受けている。しかもその85%は身体的な暴力を含まず、心無い言葉を投げつけたり、噂話の標的にしたりという陰湿ないじめだ。いじめられたほうは長く苦しむ。抑うつ状態に陥り、自殺まで考える。1989年にフィンランドで5000人以上を対象に行われた調査では、8歳の時にいじめに遭っていた人が25歳までに自殺する割合は、いじめられなかった人の6倍にのぼった。

●公平に扱われると報酬系が活性化する。fMRIと「最後通牒ゲーム」を使って測定したところ、公平な扱いを受けた被験者の脳では報酬系が活性化していた。また別の実験では、金持ちグループの被験者と貧乏グループの被験者との金額差が縮まり不公平さが解消された時には、金持ちグループの被験者の脳で報酬系が活性化していた。利己的な計算よりも公平さが優先されたのである。

―不公平感・公平感は霊長類にも表れる感情で、倫理観の一番基礎だという知見も前にありましたね。あれは『共感の時代へ』だったかな。このパラのあとの方の知見は、金持ちグループと貧乏グループがペアを組んでface to faceの関係であることに注意が必要でしょう。相手が目に入らないとき平気で「1人勝ち」を志向する人はいっぱいいますから。

●一次強化子と二次強化子。一次強化子とは人間の基本欲求を満たし、生命を維持するために必要な水や食べ物、体温調節といったもの。二次強化子とは、それ自体は報酬の働きを持たないが、やがて学習や経験によって報酬を“予測できる”ために強化子となる要素である。人間にとって最も身近な二次強化子といえば、やはりお金だろう。

●自分に関する感動的な手紙を読むと、水や食べ物などの報酬を得た時と同じように、大脳基底核にある腹側線条体と呼ばれる領域が活発に反応する。

●褒め言葉は好意的な評価といった社会的報酬は、一次強化子と二次強化子の両方と言えよう。

●哲学者のホッブズとヒュームは、人間は自己の利益を優先すると述べた。しかし囚人のジレンマとfMRIを使った実験では、これとは異なる結果が出た。Bのプレイヤーが協力を選び、その選択を知って同じように協力を選んだAの脳では、協力しないを選んだ時よりも、(自分の取り分が減ったにもかかわらず)報酬系である腹側線条体が活性化していた。腹側線条体はどうやら、個人が手に入れる金額よりも、双方が手に入れる合計金額に強く反応するらしい。さらに言えば、協力を選んだ時、社会規範に従う時に活性化する外側前頭前皮質に反応はなかった。つまりプレイヤーは社会規範に従って協力を選んだのではなく、本心から協力を選んだのである。

●利他主義。人に役立っていると感じると報酬系が活性化する。カップルを対象に、女性がMRIのなかに入り、恋人の男性はそのすぐ外で電気ショックを受ける。MRIのなかの女性には、「恋人の腕」か「小さなボール」のどちらかを握ってもらう。すると、ボールよりも恋人の腕を握っていた時のほうが、自分が恋人の役に立っているという感情を女性は強く味わった。さらには、電気ショックを受けている恋人の腕を握っていた時に、女性の脳の報酬系が最も強く活性化したのである。大好きな恋人が痛がっているに違いないと思いながら腕を握っている時、自分が恋人を支えているという満足感を女性は強く感じたのだろう。

―意味深な実験だ。恋人が痛がってるのに快感を感じているなんてエゴイスティックにも見える。時々、お叱りを受けるかもしれないけれど慈善行為や災害ボランティアにもその匂いを感じることがある。あんたも行くじゃないか災害ボランティア。よく、「だめんず好きな女性」というのがいるけどあれもこの傾向の強い人なのかな。

●2種類の社会的報酬―「人から好意を持たれる時」と「相手の世話をする時」―には、それぞれ脳の違うプロセスが関係している。人から好意を持たれる時には、オピオイドによって“快”の情動が生まれる。一方、相手の世話をする時には、快感物質であるドーパミンの放出に伴ってオキシトシンが分泌される。

―ここは、ポール・ザックの本の記述と食い違うかも。ザック本では、オキシトシンの分泌に伴ってドーパミンが分泌されると言っているから。どっちが先なんだろう、どっちもありなんだろうか。

●子の世話をしたいという感情は、脳の腹側線条体と腹側被蓋野―どちらも報酬系だ―で作用するオキシトシン濃度と関係がある(腹側被蓋野は脳幹の上部に位置する領域)。一説によると、腹側被蓋野でオキシトシンが分泌されると、その刺激によって腹側線条体でドーパミンが分泌されるという。また、腹側線条体と隣り合った中隔野でオキシトシンが作用すると、恐れの感情が和らぐ。

―最後の一文、ほらね、「承認されると勇気がわく」メカニズムってあるでしょ?本書では言っていないけれど「信頼されたと感じるとオキシトシンが分泌される」っていうメカニズムがありますからね。

●オキシトシンには「世話」と「攻撃性」両方の働きがある。人間では、オキシトシンを投与すると、囚人のジレンマのような行動経済学のゲームに参加する時に気前が良くなる反面、人種の違うプレイヤーに対しては攻撃的になりやすい。このようにオキシトシンは、自分が属する内集団のメンバーをひいきにし、“よそもの”である外集団のメンバーに対しる敵意を促す。

●霊長類かそれ以外の哺乳類かによって、敵味方を分ける境界線が大きく異なる。霊長類以外の哺乳類では、オキシトシンが働くと、内集団以外の相手をすべて潜在的な脅威と見なし、その敵に対して攻撃的な態度をとる。一方、人間の場合は、相手を少なくとも3つのカテゴリーに分ける―「好きな集団のメンバー」「嫌いな集団のメンバー」「どちらに属しているかわからない、見知らぬ相手」。オキシトシンを投与すると、好きな集団のメンバーには親切にする傾向が強まり、嫌いな集団のメンバーに対しては敵意が強まった。それでは、見知らぬ相手に対しては?好きなメンバーの場合と同様に、親切にする傾向が見られたのである。

―オキシトシンの内集団びいきの傾向。だから宗教戦争はコワイのだ。うちらの心理学の教団同士も大変です、なんでそんなひどいことできるの?っていうこと平気でしはります。このへんは要研究課題です。
「味方か敵かわからない相手には親切にする」というのはちょっと救いですね。

●“偽の利己主義”の正体。社会的報酬について、私たちはつい脳の反応とは反対の答えを言ってしまう。
社会心理学者のデイル・ミラーは、この“偽の利己主義”の根本的原因を突き止めた。「利己主義こそがあらゆる動機の源泉だ」というホッブズやヒュームの主張が「自己充足的予言」になってしまったと、彼は言うのだ。自己充足的予言とは、無意識のうちに、周囲や世間の期待に応えるような行動をとってしまい、結果としてそれが現実のものになってしまう現象を指す。偉大な哲学者が「人間は利己的だ」と述べたせいで、社会全体がその期待に沿うように行動してしまった。つまり、「人間は利己的だ」と教えられてきたために、私たちはその文化規範を遵守しようとし、利己的に見える態度や行動を取ってしまうのだと、ミラーは考えたのである。

―なるほどー。でも幼児の世界をみていると「自然状態」っていうか思い切り利己的にふるまいあっているようにも見えるんですけど、そこはミラー先生、どうでしょ。
ただ「利己的」と暗示をかけることによって(要は暗示ですよね)大人が利己的に振るまい合っているという部分は確かにある気もします。わが国では「団塊教」という宗教があり、そこでは「人間社会は競争で成り立っており他人を押しのけて自分ひとりが勝ちを取りにいかなければならない」と教えています。それで大分企業組織が傷んでいます。また「内発と自律論」との関係も悩ましいですねー。あれも自己暗示になるとちょいと困ります。

●私たちは、利己的な動機と利他的な動機の両方を持っている。霊長類は、なんの物質的な見返りもないとわかっている時でさえ、他者を助けようとする。見返りを期待するかどうかにかかわらず、人を助けると、助けたほうも心地よい幸せを感じる。
 利他的に人を助ける行為は、利己的な行為と同じくらい自然である。学校でそう教わり、その事実を良く理解していれば、利他的に行動する時に味わう“後ろめたい気持ち”を感じずに済むのではないだろうか。

―「人間は利他的だ」という暗示を教える。おもしろい提言だ。北欧かどこかでやっているところがあるのではないだろうか。

●演繹法か帰納法を用いて論理的な思考を巡らせている時には、脳の外側前頭前皮質と外側頭頂皮質が活性化する。外側頭頂皮質は、「ワーキングメモリ(作業記憶)」と深い関係がある領域だ。

●心の理論も外側前頭前皮質や外側頭頂皮質と関係があるのではないか?実はそうではない。メンタライジングの必要がないセンテンスを読むと、言語やワーキングメモリと関係のある外側前頭前皮質が活性化する。ところがメンタライジングの必要な文章を読む時には、背内側前頭前皮質(DMPFC)や側頭頭頂接合部(TPJ)、後帯状皮質、側頭極が活性化する。。側頭頭頂接合部は、側頭葉と頭頂葉とが接する領域を指す。後帯状皮質は帯状皮質の最後部に位置し、側頭極は側頭葉のいちばん前の部分である。

●この15年間、たくさんの専門家が同様の実験を行い、次のように結論づけた。第1に、メンタライジング能力を働かせている時には、ほぼ例外なく背内側前頭前皮質と側頭頭頂接合部が活性化する(後帯状皮質と側頭極もかなりの割合で活性化していた)。そのため、私はこの領域を「メンタライジング系」と名づけた。第2に、ワーキングメモリや非社会的思考、流動性知能に関係のある領域は、これらの実験の間、ほとんど活性化していなかった。つまり進化は、社会的思考と非社会的思考とにまったく別のネットワークを与えたのである。

●冒頭で述べたデフォルト・ネットワークを強く活性化させてきた人ほど、社会的な思考に優れていることが証明された。安静時に背内側前頭前皮質が強く反応していた被験者は、メンタライジング課題をこなすスピードが速かった。この領域を最も強く活性化させていた被験者は、活性化の度合いが最も弱かった被験者と比べて、課題を終えるスピードが10%も速かった。この10%という数字は、実社会の色々な場面で大きな影響をもたらすはずである。

●戦略的知能指数と人の心を読む社会的知能との関係。神経経済学者のジョルジオ・コルセリは、戦略を要するゲームをしたあと被験者の“戦略的知能指数”を計算した。他の被験者の戦略的な度合いをどのくらい考慮して―すなわち他者の心をどのくらい読んで―それぞれの被験者が数字を選んだかを計算したのだ。その結果、戦略的知能指数の高い人ほど、メンタライジング系である背内側前頭前皮質が強く反応していた。その一方で、非社会的な知能指数と関係のある外側頭頂皮質は活性化していなかった。

●1996年、イタリアのパルマ大学で「ミラーニューロン」を発見した。以降、これは心理学の難しい問題を何でも解決する“流行りの仮説”としてもてはやされた。心理学のいろいろな現象、言語能力や文化、真似、他者の心を読む能力、そして共感もミラーニューロンによって説明できるとみなされた。

●現在、ミラーニューロンはふたつの役割―「他者を真似る能力」と「他者の心を読む能力」―を担っていると考えられている。

●ミラーニューロンは「モノマネ細胞」とも呼ばれる。1999年、神経科学者のマルコ・イアコボーニが論文を発表し、人間の脳にも“ミラー系”が存在するという初めての証拠を明らかにした。人間の外側前頭皮質と頭頂領域は、マカクザルのミラーニューロンと同様の特徴を持っていると考えられる。だがfMRIでは個々の神経細胞の活動までは直接とらえられないので、人間の脳にミラーニューロンそのものを発見したとは主張できない。そのため人間の場合、前頭葉の運動前野や頭頂間溝前方部、下頭頂小葉は、ミラーニューロン系ではなく、あくまでも“ミラー系”と呼ばれる。

●ミラー系を一時的に損傷すると、被験者は何度も真似に失敗した。また複雑な行為を学ぶときもミラー系は関与する。リゾラッティは、ギターを弾けない被験者が複雑なコードの押さえ方を初めて真似た時にも、やはりミラー系が反応していた。

●ミラーニューロンは「他者の心を読み、相手の意図や目的を理解する能力」の役割を果たすだろうか。リゾラッティと共にミラーニューロンを発見したパルマ大学のヴィットリオ・ガレーセは、「ミラーニューロンはシミュレーション説を脳神経レベルで実行する」と主張する。シミュレーション説とは、私はその状況に“置かれた自分”を想像し、「自分ならどう反応するか」を考える。「他者の心を直接的な体験によって理解する根本的なメカニズムは…観察したできごとを、ミラーメカニズムによって直接シミュレーションすることだ」。

●ガレーセ説によれば、誰かがカップに「手を伸ばす行為」を見た時、あなたと相手の「手を伸ばす時に発火する」神経細胞は活発に反応する。ガレーセはそれを「運動共鳴」と呼んだ。相手が体験している運動状態と同じ運動状態をあなたも神経レベルで体験しているのなら、あなたの脳は本質的に相手の脳の重要な側面を模倣(シミュレーション)していることになる。だからこそ、相手がなんらかの行為をしているのを見ただけで、相手の心の状態も自動的に理解できるのである。

●言い換えればミラーニューロンは―相手の心の状態を理解しようとするか、しないかにかかわらず―他者の心を自動的に読む、魔法のような装置を与えてくれたことになる。

●ミラー陣営とメンタライジング系の両陣営の最大の違いは、それぞれが説明しようとしている目的の種類にある。ミラー系の陣営が重視するのは、低レベルの運動意図である。(「彼がスイッチを入れたのは、明かりをつけるためだ」など)。一方、メンタライジング系の陣営が重視するのは、もっと高レベルの意図である(「彼がスイッチを入れたのは、期末試験の勉強祖するためだ」など)
 運動共鳴という考え方は、私たちが低レベルの意図を理解する方法を説明する。

●他者の心を理解する時にミラー系がすることは高度なマインドリーディングではない。朝っぱらからウィスキーをあおっている人のパーソナリティや動機を探るのは、ミラー系でなくメンタライジング系の仕事なのだ。
 ミラー系は、メンタライジング系が高レベルの意図を理解するための土台となる働きをしている。ミラー系は、人が「何を」しているのかを理解する。つまり、私たちのからだの“動き”を“行為”として認識する。ミラー系は私たちのように心がある動物の世界を、運動ではなく行為の点から捉えるのである。ミラー系の働きは本質的に、メンタライジング系が論理的に働いて「なぜ」の問いに答えるための前提を提供することだ。運動の世界を行為という心理的な要素にまとめ直し、メンタライジング系が作業しやすいようにお膳立てをする―それこそがミラー系の重要な働きなのだ。

●自閉症の原因は、「彼らが周囲の世界に鈍感なせいではなく、外界の刺激に過敏なあまり、社会との接触を子供時代に充分に体験できなかったせいである」―このような考えを「強烈世界仮説」と呼ぶ。外界からの刺激が強烈すぎるために、彼らは周囲に背を向け、ひとり静かに過ごせる世界を好む。そしてそのせいで、メンタライジング系の発達を促す重要な機会を逃してしまうのだ。

―このブログでは過去に綾屋皐月(あややさつき)さんの著書からの引用で、ASDの人の体内感覚の世界をご紹介しました。強烈でしたねえ…

●最近の研究は、自閉症と扁桃体の関係を指摘する。自閉症の子供は他の子供と比べて扁桃体が大きい。扁桃体は側頭葉内側の奥に位置し、神経細胞がアーモンド形に集まっており、恐怖や不安といったネガティブな情動体験に敏感に反応する。これでは“過敏な社会情緒メカニズム”を持って歩き回っているようなものだ。


●1641年、哲学者のルネ・デカルトは「精神と身体とは別物で、このふたつは決して交わらない」という「心身二元論」を発表した。このデカルト的二元論は、過去数百年にわたって広く知られ、私たちに深く染みついた。現代の科学では、心を生物学的で物質的な存在として捉える。

―哲学者の人って過去には随分間違ったこと言って世間を惑わしてたんですねえ(;^ω^)

●自己意識には脳のどの領域が関わるか。鏡に映った自分の姿を見ている人間の脳をfMRIで調べたところ、右半球の外側表面が活性化していた。前頭前皮質と頭頂皮質の頭蓋骨に近い脳の表面である。

●「礼儀正しい」「話好き」といった形容詞を見せ、「形容詞が自分自身に当てはまる」と判断したグループの被験者の脳では、自分の姿を鏡で見た時と同じく、前頭前皮質と頭頂皮質が活性化していたが、その中の活性化した部位はことなった。今回活性化していたのは頭蓋骨に近い外側表面ではなく、脳の内部に位置する内側前頭前皮質(MPFC)とけつ(木偏に契の字)前部だったのである。すなわち、鏡に映った「自己の姿を認知する」時と「自己を概念的に捉える」時とでは、別々の領域が使われるのである。

―自意識にはどこが関わるか。あ、ずっと知りたかったんです、そこ。いえ、知ったって何かいいことが起こるわけじゃないんですけどね。今までの脳科学本には不思議とこれが出ていなかったんじゃないかなあ。承認欲求、ナルシシズムの源もそこなわけじゃないですか?

●私たちが自己を概念的に捉える時、ブロードマン10野に当たる内側前頭前皮質が活性化する。(すぐ下には報酬系の領域であるブロードマン11野に当たる副内側前頭前皮質(VMPFC)がある)あなたが額の“第3の目”と呼ばれるあたりを指で差す時、そこが“自己”という感覚をつくり出す内側前頭前皮質である。

●人間以外の霊長類では、脳全体に占める内側前頭前皮質の割合が0.2〜0.7%だったのに対して、人間の場合には1.2%だった。言い換えれば、人間の内側前頭前皮質はチンパンジーと比べて2倍のスペースを占めるのだ。他の霊長類の脳と比べてこれほど大きな割合を占める人間の脳の領域は、内側前頭前皮質を覗いてあまり見当たらない。この領域はまた、神経細胞の密度が低いため、膨大な数の神経細胞同士がつながりやすい。

●私たちの考える自己感―自分とは誰なのかという感覚―もトロイの木馬と同じではないかと、私は思うのだ。西洋人は、自分を特別な存在だと考える。そして自己を、自分自身の中心にあって、個人の目標を達成したり自己実現を果たしたりするためのものと見なす―しかも、大切な宝物箱のなかに仕舞われ、自分以外の誰にもアクセスできない難攻不落の砦に囲まれたものだ、と。だが実のところ、自己とは、私たちが集団の規範に従い、社会に調和して生きるために、進化が巧みに仕組んだ策略の道具なのかもしれないのだ。

●ニーチェも、自己感とは本質的に内面的なものではなく、自分という存在の中心を成すものではないと捉えていた。ニーチェは自己感を、私たちの人生に関わりのある人間によって組立てられ、私たちのためではなく、彼らのために働く“秘密諜報部員”だと論じたのである。

●人間が本来持っている衝動に社会的な衝動を補い、社会の調和を生み出す手段として、自己は存在するのだ。社会は、私たち自身や道徳について、あるいは生きる価値のある人生についていろいろ教えてくれる。人は、それらの考えを自分自身の信念であり、自分の内面から生まれた価値観だと思い込んでいる―集団の持つ信念や価値観をただ理解するだけでは充分ではなく、自分自身のものとして内面化する必要があるからだ。こうして私たちは、社会の信念や価値観や規範を、知らず知らずのうちに自分のなかに取り込み、“その土台の上に”自己を作り上げた。

●直接的評価(「私は自分を頭がいいと思っています」など)と、反映的評価(「友だちは私を頭がいいと思っています」など)について13歳の思春期の子どもと成人のふたつの被験者グループに訊ねると、どちらのグループでも、直接的評価の場合には内側前頭前皮質が、反映的評価の場合にはメンタライジング系が活性化していた。
 ところが思春期の子どもの場合、「直接的評価を考える時には、内側前頭前皮質だけでなくメンタライジング系も」、また「反映的評価を考える時にも、メンタライジング系だけでなく内側前頭前皮質も」活発に反応していた。すなわち、思春期の子どもは、直接的評価と反映的評価のどちらを考える時でも、内側前頭前皮質とメンタライジング系の両方が活性化していたのだ。思春期の子どもは「自分が自分をどう思うか」を考える時でさえ、自己の内面を探るよりも他者の心に焦点を当てて、「自分とは誰なのか」という問いに答えているのかもしれない。

●内側前頭前皮質は本当の自己を探る近道ではない。それは自分自身について教えてくれる、いろいろな情報を反映する領域である。そのなかには、個人的で内省的な情報もあれば、周囲が自分をどう思っているかという反映的評価から生まれる情報も含まれる。つまり「自分とは誰なのか」という自己感は、社会的に作り上げられたものであり、そのプロセスに関わっているのが内側前頭前皮質なのである。

●暗示にかかりやすい人とそうでない人をfMRIにかけ、催眠術にかかっている時の脳の活動について調べた。催眠術で課題の混乱を防ぐような情報を与えたところ、暗示にかかりやすいグループのほうが課題への取り組みが速くなった。ふたつのグループで脳の活動を調べた結果、暗示にかかりやすい被験者の脳で、内側前頭前皮質が活発に反応していたのである。

●説得に従うプロセスをみる実験で日焼け止めを使うかどうかをみた。被験者が実際に日焼け止めを使用したかどうかと関係があったのは、彼らが米国皮膚科学会の報告を見ていた時の脳の活動だったのだ。その時、内側前頭前皮質が活発に反応していた学生ほど、日焼け止めを使っていた。しかも、実際に日焼け止めを使用したかどうかと、質問にどう答えたかの間には、ほとんど関係がなかった。被験者は自分でもまったく気づかないうちに、日焼け止めを使うか使わないかについて影響を受けていたのだ。私たちが態度や行動を変えるかどうかは、内側前頭前皮質が広告や説得にどう反応するかによって決まるのである。

●これらの実験は、「自己とは他者と自分とを明確に区別し、私たちを特別な存在にしてくれるものだ」という考えにとどめを刺したと言えるだろう。なぜなら、私たちの概念的な自己感をつくり出す内側前頭前皮質は、「私たちの考えや行動に影響を与える情報を、外部から取り入れるルートでもある」からだ。

―おもしろい知見。「説得されやすさ」「影響されやすさ」は、経験的にも個人差があるが。広告や説得に反応する領域と、自己感をつかさどる領域が同一だというのは、「行動承認」で規範意識が向上する現象の説明となりそうだ。自分を承認してくれる上司に対しては内側前頭前皮質が活性化するから、その説得を取り入れ内面化することもしやすい…。

●2005年、スタンフォード大学の卒業式に招かれたスティーブ・ジョブズは次のような名台詞を残した―「他人の意見という雑音(ノイズ)で、心の声を掻き消してはならない……勇気を持って自分の心と直観に従ってほしい」
 だが内側前頭前皮質の働きを考えれば、ジョブズは間違っている。自己感―彼の言う心と直観―とは実のところ、私たちが集団の規範に合わせ、社会の調和を生み出すための“仕掛け”なのである。自己は、私たちが集団にうまく溶け込むために働く。ジョブズにとっては納得し難いかもしれないが、ほとんどの人にとってはそれが真実なのだ。
 人は誰でも利己的な衝動を持つ。その一方で社会的な信念や価値観を自己の一部として取り入れ、内面化している。このふたつの間でせめぎ合いがあるにしろ、それはジョブズが考えたように自分対社会ではなく、自分対自分の闘いなのだ。

―わ〜、伝説のジョブズのスピーチが否定されちゃった。実はこのスピーチは、他にも「自分が納得できる仕事をしなさい」と、困ったキャリアカウンセリング的なことも言っていて、感動的ではあるけどどうかなと思っていたのだ。
 この章が本書でもっとも“革命的”な章ではないだろうか。自立した個人という、欧米の想定した人格モデルの常識を覆してくれる。内発と自律論者どうするかな。

―このあとは「自制心」の話になり、例の「マシュマロ・テスト」などが出てきます。

●認知自制とフレーミング課題の実験で抑制をしていた時、、右腹外側前頭前皮質が活発に働いた。

●抑制と再評価は、どちらも腹外側前頭前皮質と関係がある。抑制の場合、腹外側前頭前皮質は動揺が始まって少し時間が経ってから活性化する。再評価の場合には早い時期に活性化する。抑制の場合、腹外側前頭前皮質が活性化すると顔の表情をうまく隠せるのに対して、再評価の場合には扁桃体の反応と情動が和らぐ。

●情動のラベリングには暗黙の自制効果がある。情動を言葉で言い表すと、右腹外側前頭前皮質が活性化して扁桃体の活動が弱まるのだ。

―感情認識を苦手とする人々よ、感情を言葉で言い表すことをおぼえてください。変に抑制しているとおかしな形で出るよ。

●私たちは「評価され」「自制心を働かせ」「社会規範に従う」動物である。この3つのプロセスは、どれも右腹外側前頭前皮質と関係がある。

●社会に評価される可能性があるだけで、私たちは自制心を働かせる。周囲の人間にどう思われるかと考えただけで、右腹外側前頭前皮質が活性化する。この領域のなかで、「評価され」「自制心を働かせ」「社会規範に従う」という3つの機能がなぜ結びついたのかについては、今後の詳しい研究を俟たなければならない。

●自制心とは、個人と集団との間で目的や価値観が衝突する時、集団の目的や価値観を優先させて、私たちを社会規範に従わせるメカニズムである。アメリカ人は、同調する人を見るとつい、「群れに従う意志の弱い人間」と判断しがちだ。ところが最近の調査によれば、ある状況では、自制心の強い人のほうが同調しやすいという。

―大事ですねー。正田が過去からブログで某心理学セミナー受講者さんに逸脱行為が起こりやすいというのをぶちぶち言う、それはそのセミナーさんに「ルールに従うな。自分の心に従え」「誰一人として、間違っている人はいない」という教えが埋め込まれてるからなんですが、セミナー主宰者の思いに反して人間性に反することをやっていることになります。えっ正田自身が抑制的な人かどうかはちょっと棚に上げます。

―ただ日本人の場合、外部の価値観を過剰にとりいれやすいという別の問題は確かにある気がします。それについては本書は答えてくれてないですね。承認研修のばあいは、正しい価値観を知っているリーダーが承認することによって相手に正しい価値観をしみこませるというモデルをとっています。結局それぐらいしか解はないのかしらん。リーダーが間違っていたらどうするかって?どうしようもないですね。

―このあとは社会や企業を活性化させる仕組みづくりについての提言。ご紹介してもいいけどまあ「『組織や仲間に認められたい』という気持ちは強いインセンティブとして働く。しかも、何度でも使える無限の資源だ」と、要は「承認論」のお話だからとばしますね。

●リーダーシップについての知見。リーダーシップで最も大事な要素は「対人能力」だ。
 リーダーシップの専門家であるジョン・ゼンガーは、優れたリーダーの能力を5つにまとめた。「個人的な能力(知性、問題解決力、専門知識、訓練能力)」「最後までやり抜く力」「人格(高潔さ、信頼性)」「組織を変化させる力」「対人能力」の5つである。そして、どの要素をふたつ組み合わせたときに、リーダーシップが向上するかについて分析した結果、「対人能力」と他の要素とを組み合わせた時に、上司の能力が最大限に発揮されるとわかった。たとえば「最後までやり抜く力」で高く評価されても、上位20%の「素晴らしい」上司にランクされる可能性は14%しかないが、同時に「対人能力」を高く評価された上司が、「素晴らしい」上司入りする確率は72%にまで跳ね上がったのだ。

●SCARFモデルを提唱するロックは述べている。「いつも決まって耳にするのは、専門知識に優れた人間ほど社会的スキルに欠けるという指摘ですね。だから、彼らが管理職かリーダーになると問題が生じやすいのです」

―これはリーダー育成上よくみること。名選手必ずしも名監督ならず。冒頭近くで「社会的思考」と「非社会的思考」はシーソー状態で働き同時に現れることはない、という知見を考えると、仕事の遂行能力(i.e.非社会的思考)に優れた人はそればかり使ってしまうので社会的思考が発達しにくい、ということが考えられるかもしれませんね。

●リーダーシップの中で社会的思考と非社会的思考が補完的に働かない理由の1つは、「非社会的思考を支えるネットワークが活性化する傾向が強く、その偶然の副作用として、社会的思考のネットワークがあまり活性化しない人間がいる」という考え方。遺伝のせいかもしれないし、長年、社会的思考より抽象的思考を重視してきたせいかもしれない。
 第2の理由として、リーダーという仕事を彼らが非社会的な側面で捉えるからである。うまくいかないプロジェクトで、職場の対人関係に目配りが利かないリーダーは、メンバーどうしの人間関係のトラブルを理解せず、「彼女は仕事をやり遂げる能力が足りないのだ」と判断してしまう。
メンバー全員に帰属意識を持たせ、愛着をつくり出す―それが優れたリーダーの姿である。

―リーダーシップについての誤解。アメリカもいまだにそうなんですね。よく見る議論で、「リーダーシップを映画から学ぶ」というと、「ダイ・ハード」の例が上がる。本来高い職位でない、ブルースウィリスのような人物が「自分がやらなければ」と火事場の馬鹿力を発揮する、それをリーダーシップと呼ぶ。研修メニューでも、中堅向けに「自分リーダーシップ」とか「全員リーダーシップ」といったタイトルで入っている。
 ブルースウィリス嫌いではないが、そういうヒーロー的人物を「リーダー」とは言わない、実務では。現実には、不愉快かもしれないけれど、「承認研修」を徹底してやるのがものすごい業績向上効果がある。不愉快さを越えて現実を直視したほうがいいのではないだろうか。
 詳しくは、当ブログ記事
 男性的リーダーシップと女性的リーダーシップ
 http://c-c-a.blog.jp/archives/51834972.html
などを参照。
 
●人と人のつながりを強化するプログラムに政策的に投資すれば、生産性が高まり、犯罪率の低下や医療費の抑制というメリットも生まれる。しかしそのようなプログラムは、道路や鉄道のインフラ整備といった大義よりもわかりにくいために、ほとんど理解を得られない。

―あたしと同じようなこと考えるな、この人。

●アメリカ人の3人に1人がアパートで暮らす。アパートに「大学の学生寮」のような懇親を産む仕掛けを組み込んではどうか。アパートの各フロアで戸数をひとつずつ減らして、その代わりに交流を促すオープンスペースを作ったらどうだろう?そして政府は、そのようなアパートを開発する業者に対して税を優遇するといった策を打ち出すのだ。

―それおもしろい。

●学校での「つながり」感を学力向上に生かそう。
 帰属意識を高めると学力向上に資することを示す実験がある。心理学者のグレッグ・ウォルトンとジェフ・コーエンは、イェール大学の学生のアフリカ系アメリカ人とヨーロッパ系アメリカ人を対象に、帰属意識を高めるような文章(上級生の手紙)を読ませたところ、その後3年間にわたって成績評価平均値が上がり続け、3年後には0.4も向上した。

―おもしろいですね。日本の大学では、松本茂樹先生のいる関西国際大学で教授陣が「朝のあいさつ」を励行したところ退学者が3分の1に激減した、という例があります。

●社会的報酬は脳の報酬系を活性化させ、私たちを幸せな気分にしてくれる。社会心理学者のアリス・アイセンは実験を通して、ポジティブな感情が思考力と意思決定力を高める現象を何度も目にしてきた。プラスの感情を味わうと、人はいろいろな考えの類似点や相違点を素早く見つけられ、ワーキングメモリの働きも向上する。
 
●神経科学者のグレッグ・アシュビーは、ポジティブな感情も思考力もドーパミンと関係があるからだと説明する。いい気分を味わえ、やりがいを感じる行動を取ると、脳幹の腹側被蓋野からドーパミンが放出されて腹側線条体へと投射される。この時、ドーパミンの影響を受けるのは腹側線条体だけではない。ドーパミン受容体が多く存在する外側前頭前皮質もその影響を受ける。前頭前皮質のドーパミン濃度が高まると、ワーキングメモリの働きが向上するのだ。つまり、「社会的報酬を感じている時に放出されるドーパミンの量が、授業中に前頭前皮質のコントロール力を高めて、成績を向上させる」というのがアシュビーの考えである。

―このブログでもよく「承認の世界の人はあたまがいい」などと感覚的なことを書きますが、それは立証可能なようです。彼ら彼女らは承認と関係のない場面でも、問題解決能力が高いです。

●思春期を過ごす子供の頭の中は周囲の世界のことでいっぱいだ。この時、大いに活躍するのがメンタライジング系である。進化的に見れば、それは単なる気晴らしではない。彼らにとっては、それこそが最大の関心事なのである。
 その強い欲求に対して学校が「“つながり脳”のスイッチを切ってください」というのは得策ではない。それでは腹を空かした者に、食欲のスイッチを切れと言っているようなものだ。

―食欲の比喩でてきた。うわ〜

●“つながり脳”を敵視せずに、学習プロセスの一部として取り入れればいいのだ。メンタライジング系は記憶系としても働くため、一般的な記憶系以上に強力な効果を発揮する可能性があるのだ。情報を“社会的なデータに変換”した場合に、記憶力が高まる。この時に活性化した領域は一般的な学習系ではなく、メンタライジング系のCEOとでも呼ぶべき背内側前頭前皮質だったのである。

―おもしろい知見。昔の「3年B組金八先生」の中の論争を思い出す。金八先生が何かの仕組みを人形や箱などを使って物語風に解説する授業をし、生徒には大好評だった。しかし金八先生のライバルの数学の先生「カンカン」が、「すべての教師が同じことをできるわけではない。人気取りはしないでください」とかみついた。
 どちらも非常にまじめな問題提起だと思ってみていたが、学力向上に資することがわかっているなら、取り入れられる範囲で取り入れればいいのではないだろうか。

●子供同士教え合うことの価値。1980年、心理学者のジョン・バーは、“教えるために覚える”効果を測定した。テストのために情報を覚えるグループと、誰かに教えるために情報を覚えるグループに分けて、記憶力の違いを比較したのだ。すると、誰かに教えるために覚えた被験者のほうが、記憶テストの成績が良かったのである。著者の研究室が行った実験では、教えるという社会的な動機だけでもメンタライジング系が活性化するというかなり確かな証拠がある。

―なるほど。「人に教えることでよりよく学べるんですよ」というフレーズの起源はここからきているのか。
 また別のことを連想してしまった。「社内講師」「内製化」がらみの話。「内製化推進」の人びとはよく上記のフレーズを振り回すのだが、ジョン・バーの実験で教えたのはあくまで数学や科学といった非社会的な内容である。かつ、教えた側にメリットがあったことははっきり出ているが、教わった側のメリットは明らかではない。これでは「社内講師予備軍」の人びとだけが得をする仕組みではないか。

●自制を教えること。著者の実験で、「ストップ・シグナル課題」を試した被験者は3週間に8回の実験終了時、感情をコントロールする能力がずっと向上していた。運動の自制能力が向上していた被験者ほど、感情の自制能力も向上していた。

●中学生が自制心を身につける方法はこのほかにも、「マインドフルネス」などがある。


 抜き書きは以上です。

 非常に重要な知見を惜しげもなく盛り込んでいる本書。このところ「意識と脳」の関係の本が大量に出ているのに今ひとつ食指が動かなかったのは、それらが人間の脳の活動をAIで再現するために「情報処理」に焦点を合わせていたからで、本書はそれとは全然切り口が違うようです。
 
 惜しいのはそれぞれの実験に出典が付されていないので、検証がむずかしい。検証が必要な場合にそなえて、実験した学者の名前(カタカナですが)はできるだけ残しておきました。

 共感するところも多く、本書の主張がメインストリームになることを願います。

(一財)承認マネジメント協会
 正田佐与

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