正田佐与の 愛するこの世界

神戸の1位マネジャー育成の研修講師・正田佐与が、「承認と職場」、「よのなかカフェ」などの日常を通じて日本人と仕事の幸福な関係を語ります。現役リーダーたちが「このブログを読んでいればマネジメントがわかる」と絶賛。 現在、心ならずも「アドラー心理学批判」と「『「学力」の経済学』批判」でアクセス急増中。コメントは承認制です

2015年11月


 今年、このブログに2回登場された「Y子さん」(仮名)から、また丁寧なメールをいただき、それへのわたしのご返信を紹介します。

 Y子さんの登場記事


「研修営業」をしないわけ、ブログ発・幸せな発達障害部下? (9月8日)
 http://c-c-a.blog.jp/archives/51922006.html

働くことの重さと貴さ、幸せ連鎖の頂点、そして自信のない正田(9月18日)
 http://c-c-a.blog.jp/archives/51922570.html


 Y子さんが、メールの中で

「マネジメントに愛のブログ、心に響きました。
承認は愛の技術だなあと、つくづく感じております。」

と書かれていたことを受けてのものです。


****

____さま

メールありがとうございます。正田です。
札幌は40cmの雪ですか。__さん、お元気でお過ごしですか?

私は今は財団の解散登記の雑用などをしていて、
こうした作業は少し気がふさぎます。

(中略)

ブログ読んでいただきありがとうございます。
__さんはじめ、今年は研修業の方の中から
行動承認を良いと言ってくださる聡明な方が登場されました。

そしてドイツ思想がかなり入ったので
研修業としては、道なき道だなあと思っていたところ
思いがけず、多くの方から支持していただきほっとしています。
メジャーなブログに比べるとささやかなものですが―。

「マネジメントに愛」は、
これも研究者の方からは賛同を得られないので
現場の方々からのご支持を頼みにしてすすむしかないことだと思います。
「愛の技術」と言っていただいてありがとうございます。
思うのですが、「愛」とか「やさしさ」と言えば、
広く賛同は得られるのですが現実の力にはなりにくい。
本気で現実を変えようと思ったら「力」に変換する必要があり、
そのとき「承認」はその受け皿になりうる概念なのだと思います。

財団は解散しましたが、
いつか、本当に良いと思って下さる専門職の方が集まって
何らかの形にできる日がくるかもしれませんね。

先般お会いしたヘーゲル研究の札幌大学の高田純教授は、気さくな良い方でした。
__さんもしご興味があれば、コンタクトとられてみてください。


それでは
いつかお会いできることを楽しみに。


****


 ここでは、「マネジメントに愛」と考えていることに加え、過去のY子さんとのやりとりならびにブログ記事に出ていたのでメールでわざわざ触れなかったのですが

「社会に愛を伝播させるには、マネジメントに働きかけることがもっとも効果が高い」

と考えていることも、付け加えないといけないかもしれません。


 そういうのは経営者さん方は本来預かり知らないことで、そんなのは国とか自治体がやってくれよ、と思っているかもしれませんが。
 でも結果的には、そうなるんです。

 (これも研究者さん方に理解していただいたり裏づけていただくのは難しいことなので、ただ「実感」として、現実に起きていることを丁寧にご紹介しながらすすむしかないことなのでしょう。)


 ささやかな身ではありますがそれほどの大きなものに関われる人生であることに感謝していたいと思います。

 こういう感覚をともにできる友人とつながっていられることにも。





※なお、研究者さん方が「マネジメントに愛」という考えへの抵抗が強いのは、自身が大学教員であり講義対象が大学生さんである、という制約が大きく影響していると考えたほうがいいかもしれません。
 わたしでも、仮に今から社会に出ていく大学生さんに向けて、
「マネジャーに承認教育を施すことによって愛のあるマネジメントとなり、成員のパフォーマンスが上がり組織のアウトプットが上がる」
てなことを講義できるか、というと、いささかためらいをおぼえます。
 大学生さん〜若手社会人は、それに関して「受益者」の立場であります。「実践者」ではありません。
 マネジメントにそういうものを期待して、虫の良い考えで社会に出ていったら、不幸になるのは目に見えています。

 しかし「承認教育で強烈な業績向上が起きる」という現実は、10数年前から厳然としてあるわけです。
 大学や研究機関は、それを証明するにふさわしい機関では恐らくないということです。

 そしてまた、目を転じれば、わが国には「会社は家、従業員は家族」という言い方はもともとあり、もちろんそれは「家父長制」「私物化」などとも繋がりやすいものではありますが、「家族愛」に近い感情的距離の近さは現場では普通にあったわけです。ただの家族愛ではなくそこに「公正さ」を持ち込んで、かるく修正を加える、という効用も「承認」にはあります。


※なお繰り返しになりますが正田も、あからさまに「マネジメントに愛を」という教育をしているわけではありません。「行動承認」というごく簡単な行動をマネジャーの皆さんにやっていただき、それが結果的にほぼ「愛」と同じ効用―オキシトシン値の上昇とか信頼感のアップとか規範の取り込みや行動量創意工夫の増加とか―をもつことを実際に体験してもらう、ということをやっているだけです。



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 フェイスブックで新しくお友達申請いただいた方(複数)から丁寧なメッセージをいただき、このブログの「発達障害」関連の記事を読まれ「当事者でないのにここまで深く探求している」ことに感銘を受けたことが述べられていました。
 いや正田も限りなく怪しい、「半当事者」のようなものだと自分で思っていますが(苦笑)

 大手メディアが「触らぬ神に祟りなし」と避けているぶん、いまだに「知っている人だけが知っている」話題です。(研修でご紹介すると「初めてきいた」というリアクションがかなりあります。)でも日本はそんなことをやっているから発達障害への学校・職場の対応が先進国の中でも遅れるのです。

 このブログの発達障害関連の記事の中には、個別には、ちょっとキャッチ―なものもあるのですが、そこだけを見ずに全体を真摯なものとして受け止めていただいたことに感謝でした。


正田佐与



 藤野寛教授(一橋大学大学院言語社会研究科)より、「ホネット承認論」についての新しい講義原稿をいただきました。
 昨23日、祝日にも関わらず授業があったとか。ご苦労様です。


 講義原稿は、出版された本に比べると完成度の低い粗削りなものかもしれません。しかしカント・ヘーゲルの時代の哲学者というのは1日5〜6時間講義をしていて、思想の大半は講義の中にあって、出版されたものはそのほんの一部だったそうです。

 というわけで「承認論」の「いま」を映す貴重な資料として、このたびも掲載させていただきます(引用を太字表示):


「ホネット承認論」講義(8)                                     23.11.2015

Axel Honneth: Kampf um Anerkennung, S. 173 – 210.

今回のテーマは、承認の第二のタイプ「人権尊重」と、第三のタイプ「社会的業績評価」である。

【1】 基本的人権とは、どういうことか。それは、どの程度、「基本的」なのか。たとえば、江戸時代の日本には、「切り捨て御免」などという言葉があった。武士が百姓を切り捨てても(殺しても)、罪を免じられたのだ。これでは、平等もへったくれもない。「殺されてはならない」とする権利は、間違いなく基本的人権だ。しかし、そこからさらに「政治参加の権利」 ― これまた「基本的権利」だろう ― までは、なお道遥かだ。

 ホネットは言う、「個人が、理性的洞察に基づいて自律的に行為することを可能にするもろもろの特性には、(そうこうするうちに)今や、最低限の文化的陶冶と経済的安定ということが付け加わったのである」(190)。人を人として認める、ということには、人にこの最低限を保証するということが含まれる。それなしには、「人を人として認める」と言ったって、それは「絵に画いた餅」にとどまるのである。「人を人として認める」ことの実質化、と言ってもよい。だから、ホネットの承認論には、再分配問題は、もちろん、含まれているのである。
 人を人として認める、という場合、その形式を整えるだけではダメなのであって、そこに実質を伴わせなければならない。法の整備で一件落着、ではないのである。

近代になりさえすれば、人権尊重をめぐる「闘争」は終結した、ということではない。誰を人として認めるか、をめぐる闘争は継続されたのであり、今も継続中である。「近代」について語るとき、まるで「士農工商」が一夜にして「四民平等」に変わったかのように考えるのは、安易だ。確かに、「平等」は、近代の原理ではある。しかし、原理に過ぎないのではあって、一夜にしてすべての人が人として認められるように変わったわけではない。平等への歩みは、ものすごく「徐々に」進んだものであったに違いない。それは、選挙権を考えるだけでも、明らかだ。最初は、多くの税金を払うほんの一部の男にしか、選挙権は認められなかった。近代が16世紀に始まった、と言われることと、女性に参政権が認められるには20世紀を待たねばならなかった、という事実の間には、大きな隔たりが口を開いている。それに加えて、人を人として認める、という場合には、生物学的にヒト科に属していさえすれば、誰もが「人格」として認められるのか、という問いも、絡んでくるわけだ。

人を人として認めることは、厄介な問題をはらむ。殺人ということとも関わってくる。人間がどういうあり方をしているとき、その人間の命を奪うことは殺人になり、殺人にならないのか。この問題を論じる際に投入される概念が「人格」だ。(人格という言葉は、物 ― 物格だ ― との違いを際立たせるために用いられる。)具体的には、胎児の命を奪うこと、妊娠中絶は、いつから殺人になるのか、という問いとして、現れる。逆に言うと、胎児はいつから人になるのか、という問いだ。
これは、どこかに正解のある問いではあるまい。社会的に合意形成がなされる問いだろう。(これは、自然科学の問いではない、と言ってもよい。)人を人として認める、とはどういうことか、ということに関する合意が社会的に形成されるのだ。そして、これに関する見解は時代によって変化する。(ライヒ・ラニツキが紹介するエピソードからわかることは、かつて、ユダヤ人は人間と動物の間に位置づけられていた、ということだ。ユダヤ人は、十全には人間として認められていなかった、平等な人間とは認められていなかった、ということだ。この第二のタイプの承認は、平等の理念と深く関わっている、ということだ。)

人を人として認める、という問題は、差別の問題と密接に関わっている。というのも、とりあえず、人と認めるが、しかし、一級市民、二級市民という差はつける、ということはあるからだ。そもそも、人として認めない、というのは、とても極端な例だ。胎児や重度障害者を人として認めないというのは、それらの存在を殺すことを正当化するための論理だ。しかし、そこまで極端でなくても、人を二級市民としてしか認めない、ということは、ごく日常的になされている。そして、それは、第三の型の承認とも地続きである。例えば、私が職業(身分)とか明かさずに人前に立てば、ただの「冴えないオヤジ」だが、職業を明かすと途端に、微妙にではあるけれども、相手の態度が変わる、ということはある。そして、それと同じ経験を、18〜22歳の日本の若者は、大学名を明かすことで普段に繰り返しているのに違いない。この事情を、日本語では、「勝ち組」「負け組」という言葉で表現する。私は、自分が大学受験における勝ち組に属することで傲慢になることだけはなんとしても避けたいと念じて生きてきたが、しかし、その事実が私に精神的安定をもたらしてくれてきたことは、否めない。その点では、私は、お気楽に生きられたのだ。
日本は、入学した大学が何大学であるかということが、社会的評価基準としてとてつもなく大きな意味を持つ、いびつな社会だ。(日本は、学歴社会というよりは、大学名社会なのだ。)なぜ、いびつか。所詮、18歳時点での一事実にすぎないものが、それ以降の人生にわたってまるで挽回することがもはや不可能に感じられるほどに、決定的な意味合いを持つからだ。
それは、18歳までの勝負が不当に重い意味を持つ、ということであり ― だから、日本の子供は不幸だ、と言ってよい ― 逆に言うと、18歳以降、とりわけ、18−22歳の時間が、ほとんど勝負の時間にならない、ということでもある。モラトリアム、とはそういうことだ。本当は、18−22歳の4年間というのは ― 就活だけでなく ― とても重要な勝負所ではないのか。

「社会的価値評価」というのは、社会的に、時代的に相対的な事柄だ。評価基準は、時と所で異なり、変化する。(だからこそ、「イデオロギーとしての承認」という問題が、ここに露わになってくるのだ。)
「(入学した)大学名重視」社会ということも、一つの例だが(高田珠樹論文、参照)、もう一つ、具体例が考えられる。かつて、私は、時代が進歩すれば、外見(美醜)ということは重要性を減じていくだろう、と予想していたのだが、現実は、逆に進んでいる。むしろ、物質的に豊かな社会になればなるほど、外見、装飾の意味は大きくなる。心をみがくことは容易でないが、体をみがくことならすぐにできる、お金さえあれば、とでも言わんばかりだ。
かつて、われわれは、能力主義社会というものを批判しようとしたのだった。今は、この言葉はほぼ死語と化しているのではないか。それほどにも、能力主義は当たり前のこととして受け入れられてしまっているのであり、問題の焦点は、どのような能力が伸ばされるべきか、という、能力主義内部での差異化に移ってしまっている。われわれは、能力主義に変わる代案を提出することに失敗してきたのだ、と言わねばならない。

【2】 承認、という理念と、現代が個人主義の時代である、という事実は、どう両立するのか、という問いが立つだろう。というのも、承認という行為は、他者の存在を前提とする(必要とする)のであって、少なくとも(承認する人、される人という)二人の人間が価値観を共有していなければ承認は成り立たないからだ。そして、現実には、承認とは、やはり、広く社会的に承認される、ということであるので、そこでは、広く社会的に価値観が共有されているということが前提されているのだ。(ホネットが、社会的評価という第三のタイプの承認を、「連帯」という言葉でも捉えようとするのは、つまりは、「価値観の社会的共有」というこの側面に注目するからだろう。)
さて、しかし、現代は、個人主義の時代である。一人ひとりの人間が自己実現をめざすわけだが、そこで実現されること、達成されること ―実現されるべき自己 ― は、常に、社会によって、人々によって、他者によって評価・承認されねばならないのだろうか。誇張して言えば、反社会的行為によって自己実現する、ということだって、十分ありうるのではないのか。その際、反社会的行為といっても、必ずしも、犯罪行為であるとは限らない。社会によって共有される価値観をはみ出したり、超え出たりするような行為という意味で、反社会的行為ということが、十分に考えられるはずなのだ。
つまり、社会への貢献、ということでないと社会的には評価されないわけだが、しかし、今現に存在する社会に貢献することなどまっぴら御免、ということでありながら、しかし、意味ある行為、というものはあるはずではないか。
誰からも認められない自己実現、それは苦しいものだろう。ニーチェ、ゴッホ、、、そういう例は、私が知らないだけで、歴史には無数に存在するに違いない。
承認論に、(私も含め)多くの人が抱く Unbehagen(違和感、居心地悪さ)というのは、この点に関わってのことであり、つまりは、第三の型の承認に関わってのことであり、そこに体制への迎合の気配、現存する社会の価値観へのすり寄りの気配が嗅ぎつけられるからなのだろう。

問題は、人間が社会的存在である、とはどういうことか、という点にある。一人では、個人ではサバイバルできないから、他者との協力関係に入らざるをえない、ということが、人間の社会性ということの意味なのか。
社会理論を労働に注目して推し進める、とは、つまりは、協働と分業に注目して社会理論を展開する、ということだ。(ホルクハイマーが「哲学は社会哲学であらねばならない」と主張したときに考えていたことは、経験の可能性の条件を問う「超越論的」というカテゴリーを「社会的」と読み替える、という提案であったわけだが、これは、「言語」の問題とも関わるとても大きな構想だった。)けれども、上に「協力関係に入らざるをえない」とも書いたように、この意味での社会性というのは、否定的な色調を帯びずにはすまないものだ。できることなら、そうせずにすましたいものだが、という気味を伴う。個人の自由をこそ第一の価値とみなす個人主義者・自由主義者にとっては、社会性というのは、できれば「なしですましたいもの」、最小限化したい性質だろう。ということは、労働に定位する社会哲学は、ある意味で、社会性を否定する社会哲学になりかねない、ということであり、戦後のホルクハイマーにはその傾向が顕著なのだ。
そこにハ−バーマスが現れて、修正をはかる。社会性を、相互行為、コミュニケーション行為に定位して解釈しようとするのだ。(社会性、ということのメディアは、やはり、コミュニケーションなのではないか。経済のメディアがお金であり、政治のメディアが権力であるのに対して。その点では、ハーバーマスもルーマンも、そしてホネットも見解を一にしているのではないか。)
コミュニケーションというのは、肯定的な響きを持つ言葉だ。労働とは違って、「嫌々そうする」という風には考えにくい。(ただし、労働だって、本当は、価値の生産・創造という意味で、肯定的な実践であったはずなのだが。現実には、嫌々なされていることが多いとしても。)だから、コミュニケーションに定位する社会哲学には、どうしても「肯定」的な気配が漂う。そこには、闘争という含意は弱い。だからこそ、ホネットは、人間が社会的存在である、とは、承認をめぐって闘う存在であることに他ならない、という点を強調し、そこから社会理論を展開しようとするのである。(でも、考えてみればコミュニケーションだって、「承認をめぐる闘争」ではあるわけだ。ホネットは、コミュニケーションが「承認をめぐる闘争」に他ならないことを明らかにしているのだ、とも言えるだろう。)



 いかがでしょうか。

 第2パラグラフは、「承認」に以下のような切り口があることを想像させます。

1)法的承認(基本的人権)
2)経済的承認(再分配)
3)精神的承認―正田が研修でやっているのは主にこれです

―ホネットとナンシー・フレイザーの論争本のタイトルにもなっている「承認か再分配か?」というフレーズは、「3)か2)か?」と言っているわけで、ほんとはナンセンスなのです。―

 ここでは、「自己実現」という語も出てきますが、「自己実現」ってそもそもどういうことを意味するのでしょうか…これまでの講義の中にあったでしょうか…この問題は、マズロー先生も全然当てにならない。よくいうように、「自己実現」を称揚するマズローの代表的著作『人間性の心理学』で例示するのはリンカーンとかエジソンとか、特殊な人たちだから。ここで言っているのはちょっと違うニュアンスのようです。どなたが最初に言った言葉なんでしょ。

 ハーバーマスの位置づけも出てきますが、スケールの大きい思惟ですがやはり技術屋にはあんまり縁のない人かな…。(いやいや、もっとちゃんと読みなさい。)ホネットとハーバーマスは、双子のようにお互いの言ったことはほぼ是認しあっていて、それを踏まえて重ならない分野を論じているようにみえます。

 最後の一文、

コミュニケーションが「承認をめぐる闘争」に他ならない

 このフレーズは秀逸ですね。(ほんとにホネット自身にこういうフレーズがあるんですか?)

 ここで言う「コミュニケーション」は宣伝広告活動とか、政府広報とか、もそうでしょうし、何かを言うこと書くこと描くことSNSで発信すること、すべてが入るでしょう。
 たとえば格差問題や、社会的弱者の人が声を上げる行為もそうです。

 少し極端な例で言えば、確かにわたしがよく出会う「マシンガンスピーカー」の方々は、「オレを認めろ!」という強い承認欲求に動機づけられているようにみえます。そんなに闘わないでくれよー。またネットのどこかのスレで「ああ言えばこう言う」の下らない揚げ足取り議論をしている人も、高齢者でさえも、強い承認欲求の塊のようにみえますよ。(あ、承認欲求の悪口言っちゃった。^^;)



 藤野先生、このたびもありがとうございました!

尚東京方面の読者の方に朗報です!
朝日カルチャーセンター新宿教室で来年1-3月、藤野教授による講座「キルケゴールからホネットへー自己自身との関係と他者による承認」(3回)が開講します。
詳細は
https://www.asahiculture.jp/shinjuku/course/8cb98e00-f391-698b-1d36-562e1257ad9f
にて。


正田佐与


 気がつくと今日は勤労感謝の日。
 読者の皆様、いい骨休めをされていますか。

 正田は先週末、お客様にお電話したところ色々収穫がありました。今年前半に「承認研修」を受けてくださったお客様3社。

 3社様とも、「フォローアップお願いします」というお話になり日程やプログラムのお話をさせていただきました。このブログやメルマガはこのところ「思想」づいていますが、それはマイナス点にならなかったよう。

 このほか、研修後の受講生様方と組織のご様子を伺うことができました。

「人に任せるという点で難のあったリーダーが、今は任せることができ、上手く組織が回っている」
というお客様。
 
「新装オープンのお店が大賑わいのほか、新しく人が3人入った」
というお客様。このお客様のところでは人材の供給源である専門学校と上手く連携ができ、専門学校からは「あそこに行った子は学校時代よりもいい顔で働いている」と評価されているそうです。

 またもう一社様では、
「概ね良好なのだがスタッフの妊娠が続けて3人わかり、人繰りでバタバタしている」。

 それは大変…。
 前にも触れたと思いますが以前から、「承認」のお客様のもとでは社員さんの結婚、出産、といったイベントは多いです。それがもとで優秀な女性スタッフが残念ながら「寿退社」という事態になることも、珍しくありませんでした。

 (そこは辞めずに残ってくれよ、と思いますが、もちろん慰留はしているわけですが、女性の「責任感が高い」という資質は、「両立はムリ」「中途半端はイヤ」という決断にもつながってしまいやすいようです。男性の育児参加が望まれるところです)


 まあ、「承認」の定義の1つの大きな要素として「愛」が入っているので、そういう現象も今はわからなくないのです。職場が愛や信頼という気恥しくなるようなものに満ちたところであると、プライベートで異性(同性?)を愛したりパートナーを愛したり、ということにも自然とつながります。映画「マイ・インターン」にもそれを匂わせるシーンがありました。

 先日の藤野教授との対話の中で、

「これまでは研修の仕事の中で『愛』という言葉を表立って使ったことがないんです」

「それは使わないほうがいいでしょう」

という話になったのですが、
 一方でこのブログのタイトルは10年前から「愛するこの世界」です。何を企んでいるかバレバレ、であります。

 たしか10年前、突然「降りてきた」ように、このタイトルが頭に浮かんだのです。大丈夫かなあたし、と思いながら、それまでのタイトルから変更してしまいました。

 (一方で最近、気がつかれたかもしれませんが、「コーチ」の単語をとり「正田佐与の愛するこの世界」としました。) 


 先日は、加東市商工会様での3回研修の中で、1回目に「承認の定義」を掲げたときにはまだ、「愛」を含む「ホネット承認論」を入れてませんでした。
 そこに触れずにマネジャーたちに「承認」を実践してもらい、3回目になってから「ホネット承認論」の講義を入れました。


 経営者様方、社員様が「人を愛する主体」であったほうがいいですか、ないほうがいいですか。

 ホネットや藤野教授は、家族以外のところに「愛」を適用するのに反対の立場です。
 しかし、わたしが思うにここが学者さんと企業のマネジャーの立場の違いで、部門を束ねるマネジャーは研究の世界よりはるかに部下との「一体感」が必要になります。疑似家族のような磁場をつくります。

 そこに「濃淡」が出ないように、また「不適切な関係」にならないように、クギをささないといけませんね。藤野教授ともそういう話になったのでした。

 録音起こししなくちゃ・・・。




正田佐与

 このところ嬉しいお出会いが続きやりとりをさせていただいています。


1)ヘーゲル研究書の『承認と自由』の著者である札幌大学の高田純(まこと)教授(西洋哲学、環境倫理学、教育哲学)からいただいたメールへの正田からのご返信。

高田先生、思いがけず、ご丁寧な温かいメールを頂戴し、感激しております。社会思想史学会でお出会いさせていただいただけの素人学習者に嬉しいお言葉を有難うございます。

私は今年に入ってヘーゲルを起源とする思想としての「承認」を理解したいと学びはじめ、
幸いにも先生の御本『承認と自由』に出会わせていただきました。
ヘーゲルの年譜とともに思想の変遷、発展がわかり、大変助けになる本でした。
高田先生が徹底した原典の読み込みとヘーゲルの懐に入った理解に基づいて初学者への親切なガイダンスを書かれたことも、素人には伝わってくる御本でした。

(ご献本させていただいた)拙著は昨年時点のものなので、まだヘーゲルの学びは入っておりません。
それでも、無意識のうちに、先達の方々の「承認」に込めた思いを汲み取ってすすんで来させていただいたのではないかとひそかに自負しております。
私の段階での課題は、どうやってこの大きな思想を、特別哲学倫理学の素養があるわけではない企業のマネジャーたちに、無理なく実践レベルで共有してもらえるか?にあります。
「行動承認」は、その試行錯誤の中で生まれてきたものです。

先生が見事に看破されたように、「行動」を承認するということは相手の意志、気持ち、アイデア、意見等を承認するということとイコールです。実践の中では自然にそのようにつながってまいります。また、ホネットが危惧したような、「属性の承認」によって差別を固定化させるというような負の現象も、「行動承認」ですと無理なく回避することができます。
多分これは思想のスケールの大きさに比べれば現場での「小技」のようなものなのですが。


―高田教授は、北海道哲学学会会長を務めるなど斯界の重鎮のお1人です。風貌や空気感は、それこそ「市井の素朴な哲学者」というもの。痩身で、ひょうひょうとした雰囲気の方です。


2)1つ前の記事にある、講義原稿を送ってくださった一橋大学の藤野寛教授に宛てたメール。

大変お世話になっております。
正田です。
藤野先生、あれから、録音起こしがなかなか進まず
先生に申し訳ない気持ちでおりましたところ、
メール有難うございます。救われた気分です。
講義原稿、拝見させていただきました。貴重なものを有難うございます。
こういう風に先生は講義原稿をお作りになるんですね…。
(大学の先生の講義録も、初めて拝見しました。)

終わりまで読ませていただきましたら、
経営学の中の承認法という現世の垢にまみれたものを、

「誤れる全体」の内部での部分的改良(修正)のための実践は、それそれで是とされるべきなのではないか。

このように位置づけてくださったようで、
とても光栄です。

先生の講義原稿の中にもありましたように、
ハーバーマスについては、私もいささか不満に思うところがあります。
「コミュニケイション行為」「討議倫理」をいくら読んでも
(まだまだ浅い読解とは思いますが)
私どもが現場でジタバタしているような、
「こうすれば問題が起きなくなる(最小にできる)」
という、ああでもないこうでもないという思考と重なってこないので、
歯がゆいのです。
そんなに現実問題の解決と遠いところに身を置いていていいのか?
と思います。
それに比べると、ホネットのほうがもう少し現実界に近く、
親近感が持てるように思います。
(子供レベルの感想と聞き流してくださいね。)


「承認依存」にまつわる議論についても、
今まだこの件についてギャーギャー言っているのが
ほとんど私一人(ともうお一人)のようなものなので、
こうして位置づけていただけることを心から有難く思います。



それに対して、1と2は、概して、近代の理論がないがしろにしてきた論点ではある。そういうものが、一挙に畳み込まれ(叩き込まれ)ているのが、承認論だ、ということになる。

 ここもなるほど!と思いました。
 そうです、「愛」が位置づけられていないのです、というのは、経営学全体もそうですし、最近も某有名大学の「フィードバック研究会」において、私は出席していませんでしたがそこで取り上げられた論文を紹介されたところによると、「フィードバックによって人は改善される、あるいは場合によってされない」の議論の中に「愛着関係」の要素が全然入ってこなかったので、こういうことをわざわざ取り上げる必要があると思う研究者さんがいないんだな、と思っていたところです。
 藤野先生の言葉でこのように概観していただくと、腑に落ちますね。なぜ「承認論」を私も10年も取り組んでこれたかわかる気がします。


 実際の講義にはこの原稿にもっと枝葉がついていたのでしょうか。聴講できた方々が羨ましいです。

 手前味噌ですがわたくしのしている「行動承認」は、「承認論」に心理学の「行動理論」をドッキングした改良品のようなものです。単純なものなので世界には同じようなことを考えた方がいるのではないかと思います。この方法だと「属性の承認」が差別につながるというような、予想される弊害をほぼ回避でき、非常に安定して実践してもらうことができます。
 ホネット自身がそこまで考えなかったというのはちょっと意外な気すらしますが、そこまで懇切丁寧に現実にコミットする必要はない、と考えていたのでしょうか。


批判的社会理論は、改良理論でもあってもよいのではないか。

 このフレーズもいいですね。ホネット自身が何と言うか、きいてみたい気もします。



 藤野教授のお会いしてみた人となりというのは、文章から想像する雰囲気よりは「かたい」感じ。批判、懐疑、など人を寄せつけない感情の働きを外側に感じさせるけれども懐に入ると温かい感じ。そしてそもそものお出会いがジェンダー論のリレー講義の論考集であったように、女性に対して特別馬鹿丁寧ではないけれども配慮があり、一切の「不敬」が入りこまない方であります。



 拙著『行動承認』は、あまりやたらと色々な先にご献本していません。内容が愛する教え子さんたちの汗と努力の結晶なので、「実践」「成果」の価値のわからないタイプの人に手渡したくないのです。

 「承認研究」の先生方には、わかっていただけたみたいです。

  たぶんわたしの「承認研修プログラム」も影響し影響されることによって、少しずつ変わっていきます。


 きのうで、一般財団法人承認マネジメント協会は解散しました。
 今日からは個人ということになります。


正田佐与

 一橋大学の藤野寛教授(現代ドイツ思想)より、今年度開講している「ホネット承認論」の講義原稿をいただきました。今週月曜(11月16日)の講義で使用されたものです。

 大学の先生の講義原稿というもの不肖正田はみさせていただくのは初めてです。
 同教授によると、

「私は書くことが好きで、
 また、書きながらでないと考えられない、
 ということもあり、
 講義では、常に、長短いろいろですが
 原稿を用意して、それにコメントしながら話す、
 というスタイルを採っています。」

とのことでした。なので実際の講義はこれにもう少し枝葉をつけた形で行われるようです。

 ISの台頭など今まさに激動する世界を視野に入れた「新・ホネット承認論」であり、また一部は
「正田さんと成田さん(先日の社会思想史学会での発表者)からの刺激に対するリアクション」(藤野教授)
と言われるように、当方が経営学・マネジメントの分野でしている”技術屋仕事”についても触れてくださっているくだりもあります。光栄なことであります。
 本当は全文こちらでご紹介したかったのですが、同教授が固辞されたので、全文ではなく例によって「大幅引用」の形でご紹介させていただきます。
 今回の原稿は全体が3つのパートに分かれていまして、パートごとにご紹介していきたいと思います。

※なおこの記事では、引用部分を太字で表示します


「ホネット承認論」講義(7)                               16.11.2015

《承認論の中間整理》
 なぜ、今、承認か。この問いへの答えは、Ch.テイラーが与えてくれている、と考えるのがわかりやすい。つまり、集合的属性の承認ということが、まさに、この「国境を越える移動(空間的にも、情報的にも)の時代」に、とても重要になってきている、ということと密接に関連している。
(イスラム国に、ヨーロッパで生まれ育った若者が大量に馳せ参じている、という現実は、再分配の問題としては説明できまい。彼(女)ら自身は、結構、学歴もあり、豊かな生活を送ろうと思えば送れる人たちなのではないか。そうではなく、自分たちがふさわしい承認を受けていない、ふさわしい処遇を受けていないという、屈辱の思いこそが、彼(女)らをイスラム国へと追いやっているのではないか。)
 そこには、「個人主義と普遍主義がセットになった尊重(というカント的な承認)」では、人々の承認欲求が満たされない、という事情があるのではないか。
 もし、カントの原理が、近代の原理である、と言えるならそこでは、「ポスト近代(モダン)」とでも呼ぶべき状況が出来していることになる。近代の原理(個人主義と普遍主義の合金)が批判にさらされているのである。
ちなみに、この問題は、アイデンティティをめぐる問題として考えることも可能だ。というのも、近代の個人は、普遍的な一つの価値の体現者として、安定したアイデンティティを享受できていたからだ。もちろん、社会の中に個人は常に複数いるわけだが、一人ひとりの個人は、その個性には目をつぶる仕方で、一個の個として尊重される。個性を重視することは、差別にならずにはすまないのだが、そのことはごまかされえたのである。ところが、それとは違って、特殊という属性に注目し始めると、それは必ず複数存在するので、分裂が生じずにはすまなくなる。中世において共同体に属することは、一つの安定したアイデンティティの確保を意味したわけだが、現代においては、それはアイデンティティの分裂を意味することになる。複数性の出現だ。
個人の尊重、だけではなく、集合的属性の承認を ― これが、新たな状況を一言で言い表わすキャッチフレーズだ。
 そこから振り返って考えるに、これまでだって、「2.普遍的人権の尊重」は謳われていたわけだし(模範的には、カントの尊重の倫理)、「3.フェアな業績評価」も、それこそ資本主義の中核をなす原理だ。(家柄の否定、男女差別の否定 etc.)
だから、テイラーがあぶりだした承認には、2と3の承認だけでは、問題は片づかない、ということを明らかにした点にこそ、貢献があるわけだ。さらにそこから、特殊性の意義を取り出し(共同体主義)、普遍主義を相対化することを通して、1の承認、つまり、愛ということをも承認の問題として捉えることを可能にした。これは、普遍的承認の対極にあるものだ。しかし、家族論を考えればすぐわかるように、共同性という集合的属性の承認と、それは地続きになっている。そう考えると、承認のタイプは、三つではなく、四つに分類することこそ正しいのではないか、という気がしてくる。
1.愛
2.集合的属性の承認
3.人権尊重
4.業績評価
だ。1と2は地続きではあるのだが、しかし、フェミニズムや「聾文化宣言」をいきなり愛の問題と等置するのは、やはり強引すぎると言うべきだろう。
この内、3と4は、近代や資本主義とも相性が良い、と言える。特に、4がそうだ。経営学の内部でも、これまで、承認についてはいろいろ語られてきたようだ(マズローとか)。承認論の(左翼にとっての)胡散臭さというのは、とりわけこの点に関わってのことなのだ。
それに対して、1と2は、概して、近代の理論がないがしろにしてきた論点ではある。そういうものが、一挙に畳み込まれ(叩き込まれ)ているのが、承認論だ、ということになる。


―イスラム国(IS)への先進国の若者の流入。それは恐らく先進諸国での「承認欠如」の問題なのだろう。それはこのブログの読者の方なら、既にご想像いただいていたことと思います。「承認欠如」は再分配すなわち経済格差の問題でもありますし、藤野教授が言われるような精神面における問題でもあります。

―最近お話したある聡明な女性の友人は、「女性同士では、最近よく、『やさしさが足りないのよね』という話になる」ということでした。これを男性語に翻訳すれば、「承認欠如」「承認の不在」ということになるのでしょう。
 いずれにせよ、今この状況を軍事力以外でどうにかできる思想は、「承認」以外にはないのです。

―「承認欠如」は、多くの場合「屈辱の経験」となります。それは、激しい悪感情の源となります。いま世界を覆う悪感情を拭い去るのは、生易しいことではありません。しかし、こうしてメカニズムを特定する地道な作業がそれに通じる道なのです。


―ここでは、承認の定義の再整理が出てきます。
 新しく出てきた「2.集合的属性の承認」これは、カナダ・ケベック州の独立問題を通じて明らかになった「多文化主義(マルチカルチュラリズム) 」という承認の一側面の応用といえます。テイラーはマルチカルチュラリズムの論客でした。それは民族的アイデンティティにとどまらず、性別、障害の有無、などすべてにわたって、「差別される側」から「(集合として)尊重される存在」への引き上げという作業になります。
 わたしなどはすぐ、性差別を「個人尊重」と「業績評価」の理念で解決しようとしますがそうでもない。女性という性そのものへの尊重が必要だ、ということですね。
 
―こうした再定義の作業が繰り返し必要になる、というのは、例えば企業様の問題解決においても、「人」の問題の多くは「承認」の問題なのですが、承認のどの定義を適用するかはその場によって違い、例えば2.+3.の組み合わせであったり3.+4.の組み合わせであったりするからです。


それに対して、1と2は、概して、近代の理論がないがしろにしてきた論点ではある。そういうものが、一挙に畳み込まれ(叩き込まれ)ているのが、承認論だ、ということになる。

―この概観。
 「愛」と「集合的属性の承認」という論点が、カント以降の近代にはなかった。たしかに「承認論」では、「愛」という気恥しくなるものが堂々と組み込まれています。「そういうものが、一挙に畳み込まれ(叩き込まれ)ている」というフレーズに、「承認論」のもつ、軍事力に比肩しえるほどの巨大な能力が表現されています(実際にわたしが現場で体験してきたように)。だからこそ、わたしも10年もこればかりやってこれたのだと思います。



《差別されるとは、どういう経験か》
 「スクール・カースト」などで問題になっているのは、カテゴリー化と序列化だ。カテゴリー化であるかぎりで、それは差別である。引き出しに入れること、分類すること。例えば、男と女に。これは広い意味での差別であって(差異化と言った方がよいのかもしれない)、社会の病理とみなされる狭い意味での「差別」とは区別して考えるべきだろう。人種差別、男女差別(性差別)、障害者差別、部落差別、、、 これら狭い意味での差別について考えたい。
 一つには、それらが、集合的属性に関わるものであるからだ。(序列化は、個人に対しても行われうる。)
個人を差別する、ということはそもそもあるのだろうか。この言い方は適切ではないのではないか。それは、集合的属性が差別されているのであるが、その集合的属性を備える(帰せられる)個人の身の上でそれが起こる、ということなのではないか。個人が備える集合的属性のゆえに差別されるのだ。ユダヤ人を差別する、外国人を差別する、女性を差別する、障害者を差別する、部落民を差別する、、、、 それは具体的には、生の一定の領域からの締め出し、とか、権利の剥奪とかいう形をとるだろう。ただし、それは、懲罰としての排除や権利剥奪とは異なり、人間としての価値の低い評価、を伴うものなのだ。だから、「反差別」というのであれば、人間としての価値の貶め徒言うことを、集合単位でも、個人単位でも、絶対にしない、ということでなければなるまい。「人間としての価値の評価」という点がポイントであって、そこれを拒むことは、集合単位でも、個人単位でも、あってはならない。それに対して、能力や業績については negative な評価ということは、なされるし、なされねばならないのだ。さもないと、フェアな評価、とは言えなくなる。
 承認が価値評価であるということこそ、決定的なのだ。そうであるからこそ、人は傷つく。それに対して、ハーバーマスのいうコミュニケーションの歪み、というのは、否定性の経験ではあるのだが、それほどには深くヒトを傷つけないのではないか。人を深く傷つけるということがないと、人々にとって、それと闘うという動機づけになりにくい。参政権だけではダメだろうし、家事分担だけでもダメだろう。屈辱の経験として、弱くないか。
 女性の価値が容貌、外見においてしか評価されない、というのでは、人間としての価値が認められている、とは言い難いだろう。つまり、その場合は、人間としての価値の承認が、言うなれば第三の承認にすりかえられているのだ。能力や業績の評価である。その際、容貌・外見は能力ではないし、業績でもない。個人の努力によって伸ばせるものではないのだから。(女性に対する、美しさを「磨く」ことへの社会的圧力には、とてつもないものがあるだろう。)
 人間として認められる、とは、個人として認められる、ということと、集合的属性のゆえに認められる、ということの、その両方が含まれていなければならないのだ。
 ハーバーマスのコミュニケーション行為の理論では、あるレベルまでしか、差別と闘う理論となりえない、と言わねばならないのではないか。個人を普遍的価値の担い手として承認することは求めるので、コミュニケーションからの締め出しには断固として闘うが、集合的属性の肯定的評価(という承認)を求めるところにまでは行かないのではないか。差をつけない、という承認だけでは十分ではない。特殊な属性の肯定的評価が求められているのであって、否定的価値評価をやめるだけでは、十分ではない。
 ハーバーマスがやっているのは、結局、民主主義の理論化、ということなのではないか。「人(他者)を軽んじる」という経験は、それではカヴァーできないのではないか。「差別してはいけない」ということが、同等の権利を言うだけでは実現されないように。そのことを、ユダヤ人は肌身にしみて感じていたのではないか。




―承認は反差別の理念でもあります。そのことは以前にもこのブログで言いましたね。
 だからでしょうか、承認研究の世界の先生方はわたしのような人間にもオープンマインドでいらっしゃると思います。
 「みくださない」。ここを強調するのは大事なことです。
 以前、姫路で儒教の学びに凝っていたわたしは、「承認」は「仁(おもいやり)」と「敬」「礼」の合体したものだ、てなことを言いました。仁Compassionだけでは充分ではない、オキシトシンの作用だけでは充分ではないのと一緒で。なぜなら「思いやり」は往々にして、「かわいそう(同情)」というような、「上から下」に流れる感情となるからです。そのままでは対等、尊重、にならないのです。
 「敬」の状態を維持するのは努力が要ります。理性の作業です。「みくださない」というもう一歩踏み込んだ言葉で意識するのも必要なことです。

―ここで藤野教授はハーバーマスに言及されています。もともとあまりハーバーマスお好きではない由。なんでもフランクフルト大学では哲学科でサッカーをする、そのときカントチームとヘーゲルチームに分かれる、ハーバーマスはカント派だとのこと。(ホネットはもちろんヘーゲル派)
 わたしも実は、今はまだ「ハーバーマス本」を収集して拾い読みしている段階ですが、どうも技術屋のわたしに必要なことが書いてある本ではないのではないかという予感があります。まあそれはこれからです。



《ホネットの承認論は批判的社会理論である、ということ》
ホネットは、承認の拒絶という現象に注目することで、社会を批判するのだから、当然のことながら、承認は ― 正当な承認は ― なされるべきこと、と考えられている。
ところが、「承認依存」ということを批判する人々は、まるで「承認欲求」それ自体を「弱さ」ででもあるかのように論じる。もちろん、病理的な承認欲求というものはあるだろう。しかし、承認欲求そのものは、社会的存在としての人間にあって当然の何ものか、と受け止められるべきではないか。「依存」ということからして、ただちに「弱さ」として叱りつけるのではなく、社会的存在としての人間に本性的についてまわる属性と見なされるべきだろう。社会的存在としての人間に、承認欲求は抱かれて当然である。
ただ、その病理的な現れということはあるので、適切な承認、あるべき承認と、そうでない承認とを区別する基準が提示され、根拠づけられねばならない、ということはあるわけだ。そこから、承認論は、正しい承認のノウハウの教えみたいな性格をも帯びることになる。 しかし、そのことは、アドルノのトータルな否定主義(「全体は非真である」「誤れる全体の中で正しい人生はありえない」)を理論上の欠陥と捉えるホネットとしては、甘受するしかない傾向ではあるわけだ。
例えば、経営学において、上司が部下を正しく承認するための指針、みたいなものとして承認論が使われるとしても、それは避け難く、また間違ったこととも言えまい。
 トータルな否定か、改良主義(修正主義)か、という二者択一を採用しないのであれば、「誤れる全体」の内部での部分的改良(修正)のための実践は、それそれで是とされるべきなのではないか。批判的社会理論は、改良理論でもあってもよいのではないか。



―へへへ。
 ここでは、「承認依存」の議論(=「承認欲求バッシング」とそれへの批判)への言及と「経営学における承認」への言及、2つの点で言及していただいてしまいました。
 「承認依存」の議論は、目下のところこの問題でギャーギャー言っているのがわたしともうお一人ぐらいしかいらっしゃらないので、(もうお一人はわたしほど血の気多くギャーギャー言ってないと思う;;)
 非常にタイムリーに、取り上げていただいたと思います。これも、講義対象が大学生さんであり、今どきのネットスラング、罵倒語としての「承認欲求」に触れている可能性も高いことを考えると、押さえていただくのは大事なことなのではないかと思いました。

―アドルノのトータルな否定主義。どうも、「資本主義は全体として間違っているから、その中でちょっといいことがあって喜ぶのは本当の喜びとは言えない」というようなことをアドルノは言っているらしいのです。このひととはお友達になれないかもわたし(苦笑) ホネットはそれを理論上の欠陥と捉えているのだそうで、ああ良かった。

―でも、例えば拙著『行動承認』にみるような、企業の中での「承認」で人々が躍動するさまが現実にあるとき、どう位置づけるか。「それは避け難く、また間違ったこととも言えまい」と、講義原稿では位置づけてくださっています。てへへ。
 
「誤れる全体」の内部での部分的改良(修正)のための実践は、それそれで是とされるべきなのではないか。批判的社会理論は、改良理論でもあってもよいのではないか。


―このくだりは、ホネット自身はどう思うか、きいてみたいものですね。



 講義原稿のご紹介は以上であります。あれ、藤野先生、結局全文紹介しちゃいました。(^o^)

 
 藤野教授の『アドルノ/ホルクハイマーの問題圏(コンテクスト)―同一性批判の哲学』(2000年、勁草書房)には、「哲学することへの反省」という章があります。

 何をしていれば、私たちは哲学していると言えるのか。西洋の難解な哲学書を読み、解釈していれば哲学していると言えるのか。

「(とりわけ日本では)西洋哲学の、とりわけその最新の産物を材料にして、人々が学習能力の高さと知識量を競い合っているというのが、もっとも目につく光景ではないか。輸入業務と解釈業務に没頭する日本の哲学の世界のこの状況は、シュネーデルバッハにしたがえば、一つの病いであると言わねばならないだろう。この病いは、自らが病んでいる事実への自覚の欠如をその症状の一つとする。」


 いやーすばらしい。「輸入業務と解釈業務に没頭する」、正田も以前経営学についてこれと同じようなことを言いました。うちの近所の国立大学法人にもその路線でそこそこ有名な方がいらっしゃいます。

 目線を低く、素朴な疑問に立ち返り、正直に投げ出すのが藤野教授の持ち味であるように思います。

 「いや、私は自分がわかったと言えることしか書きませんから」先日のインタビューの中で、藤野教授はそんな風に言われています。正田が哲学書とその翻訳の文章の難解さを嘆き、「それに比べて藤野先生はわからせよう、という書き方をされていますね」と水を向けたときです。


「(ドイツ語の文献を読めない私ですが)こうして藤野先生というフィルターを通して見させていただくことは
日本に住んでいてならではの体験と思います。」

 このたびの講義原稿を送っていただいたお礼のメールにそんなことを書きました。


 藤野教授は今後の講義原稿も送っていただけるそうですので、またその都度ご紹介させていただこうと思います。どうぞお楽しみに。


****

 最近、フェイスブックでぽろっと口をついで出たこと。

「私には夢というものはない。ただ作り続ける。サグラダ・ファミリアのように」。

 たぶん、「承認論」という巨大なサグラダ・ファミリアを今まさに世界各国で作り続けている人びとがいるのです。




正田佐与


 

 
 
 


 薄気味の悪いこと。
 このブログで今秋以来3回ほど登場した某「自己啓発本」。用語用法のいい加減さ、論理の雑さが目に余り、各分野の専門の人が見たら失笑するレベル。この本のAmazonページのレビュー欄が紛糾している。
 低評価レビューが、コメント欄で執拗な攻撃に遭っている。Dgというハンドルネームの人物から、繰り返し「ああ言えばこう言う」式の揚げ足取りのコメントが入る。

 ―どのぐらい「ああ言えばこう言う」なのか、ご興味のある方は、たとえばこちらのAmazonページをご覧ください

 http://www.amazon.co.jp/product-reviews/4906790208/ref=cm_cr_pr_btm_link_1?ie=UTF8&showViewpoints=1&sortBy=bySubmissionDateDescending&pageNumber=1

 ある低評価レビュー(私が書いたのではないが、非常に妥当な常識的なレビュー)には総数41件ものコメントがついた。あるときひと晩に、Dg氏より3回もの揚げ足取りコメントが入っている。レビュワーも猛烈に応酬している。

 別の★1つのレビュー(これも、私が書いたのではないが「知ったかぶりはやめてほしい」というごく常識的な内容のレビュー)は、Dg氏からの執拗なコメント攻撃に根負けしてレビューを取り下げてしまった。★1つのレビューが1つ消えると、レビュー平均点としてはかなり向上したことであろう。

 私の書いたレビュー(友人が代理投稿)にも同じDg氏からの攻撃が来たので、こう反駁しておいた。

著者様ですか、ご苦労様です。この誤謬、破綻だらけの本をそこまでマジに擁護できるのは本人しかいないでしょうね。
私は他に関心事が沢山あるので正直言ってその後本書を読み返しておりません。いずれにしても、「組織論」と大見得を切った割には、言いたいことは(というか、知っていることは)「最適サイズ=150人」ということだけなわけでしょ?そういうのは組織論と呼べません。「組織論のごくわずかな一部」なのであって、普通の含羞を持った人は、そこまで部分的なものは組織論というチャンクの大きな言葉で代替できないとわかるものです。本書をリコールして、「組織論」の単語をすべて「組織論のごく一部」と変換したものと交換すべきでしょう。一般社会人はそういう厳密さで仕事をするんです。あなたのような言葉の使い方を若手社会人がしたら、上司に即叱りとばされますよ。あなたも社会人の基本からやり直したらどうですか。


 ―ちょっとおもしろかったでしょうか。どれぐらいレベルの低い議論をしていたか、わかります?

 
 おもしろいことにこの本についている全15件のレビューは大半が内容をよく読んだとも思えない礼賛一色のものなのだが、それに対する「参考になった」の評がきわめて低く、ある★5つのレビューには、「5人中1人が「参考になった」と投票しています」とある。つまり5人中4人はこのレビューに「参考にならなかった」に票を投じているのである。


 この著者のAmazonレビューのからくりはそういうことなのだ。低評価をつけると執拗にコメントで攻撃し、取り下げさせる。結果、著者本人か編集者あたりが書いた嘘くさい5つ星か4つ星のレビューであふれかえる。本自体の本来の価値とはかけ離れたバブル評価になる。

(もし、この状況に義憤を感じた方がいらっしゃったら、低評価レビューを書くと延々と絡まれて職業生活にも影響をきたしかねないので、高評価レビューに「参考にならなかった」票を投じて意思表示されるのがいいと思う。それらがハリボテですよ、と示すために。言論の自由からいうとおかしなことだが、そうなのだ)

 
 昨年、「哲人」が延々と説教するスタイルの「自己啓発本」がベストセラーになり、私などはその内容をみて目が点になったものだが、二匹目のドジョウを狙ってか、この手の「自己啓発本」は多い。誰も知らないような哲学者心理学者の名前や用語を出して大風呂敷を広げ、けむに巻き、著者自身も信じていないような屁理屈をこねる。ちょっと社会を知った大人がみると噴飯ものだ。そんなもので社会は回ってない、とすぐ断じることができるのだが、社会に出る前の若者にはそれはわからない。知名度の高い著者のほうが正しいことを言っているとやすやすと信じ込む。

 昔から若者は情報に振り回されやすい、と言われてきたが、今どきのスマホ育ちで実体験の極めて少ない若者はそういうものに過去以上に免疫がないだろう。また、このブログでは2つ前の記事に出て来た話題だが、現実世界で「生きづらさ」を抱え実体験が少ないことでは人後に落ちないASDの若者がそういうものに曝露したら―。
 (私は以前から、「自己啓発本」の中心読者はASDかそれ気味の人ではないか、と疑っているのだ。この人たちはもっと年を取ってからでも人を信じやすく、詐欺に遭いやすい)

 そうした若者が社会人になるとどうなるか。

 上司の言うことを話半分にきく若者になる。上司の話は、しみじみした人生訓になるか鬱陶しいお説教になるか、上司自身の力量にもよるし受け取る側の状況や心の構えにもよる。しかしちゃんとした力量のある、人格的にも正しい上司の言うことでも、自己啓発本にかぶれた若者にとっては耳に入らない、「鬱陶しいおじさんの説教」になる。本人の学習に結びつかない。本当は、本人を目の前でみてフィードバックしてくれる人の言うことをきちんと聴いたほうがとりわけ若い人には大事な学習になるのだが。

 著名人にかぶれるということは、こわい。これもストレングスファインダーで〇〇〇〇を持っている人にはありがちなのだが、「カリスマ好き」。この人たちにとっては、カリスマの言うことには信じられないほどの重みがあり、その裏をとるとか妥当性を検証するなど思いもよらない。一切のフィルターなしに無批判に頭の芯へ入っていく。一方で平凡なサラリーマンの上司の言うことにはまったく価値がない。要はこの人たちは「偉い人バイアス」が強いのだ。

 こういう傾向はこれまでは、思春期に強くみられその後だんだん直って正常化していくものだが、今どきの風潮だと、いつまでも直らない。ネットで、SNSでなまじ偉い人と直接コンタクトでき、フォロワーになったりお友達になれるからだ。偉い人が一言何か言うとワーッと「そうだそうだ」のコメントがつく。無批判に偉い人の取り巻き、金魚のフンをやってそれが楽しいのだ。そういう状態の人の耳には、周囲の普通のまともな人の言葉は入らない。

 嘆かわしいことだが、今どきの不況にあえぐ出版界では、「著名人著者」におんぶにだっこである。上記の「自己啓発本」の著者が典型だが、ハイペースで粗製乱造の本を書く。到底、書きながら自分で中身を丁寧に検証したと言えないような、誇大妄想をそのまま文章にしたような。
(しかし、それらの本のAmazonレビューは上記のような事情で、★5つだらけである。)


 この構造はいつになったら直るのだろう。
 わたしは、管理者の側に関わる立場なので、こうした著名人著者やいかがわしい自己啓発本にかぶれたとみられる若者に振り回される側の相談をよく受ける。

 イタチごっこだが、やはり上司教育の方からきちんとやり、若者が上司の指導を通じておかしな本を読まないでも人生を切り開く力をつけていくよう持っていくのが王道だと思う。
 このブログによく出てくる漢字2文字の単語は、若者の脳の「内側前頭前皮質」に働きかけ、外部の規範を取り込ませるには有効である。若者本人を目の前でみている上司はその点アドバンテージがある、「漢字2文字の単語」のなかでももっとも正しいやつをできるわけだから。
 自己啓発本にもまともな本といかがわしい本とあるのだが、いかがわしい系の自己啓発本が売れなくなるのが、幸せな社会の姿だといえるだろう。


正田佐与
 
 

お世話になっている皆様


 おはようございます。
 一般財団法人承認マネジメント協会の正田です。
 
※このメールは、正田が過去にお名刺を交換させていただいた方・当協会のイベントやセミナーにご来場いただいた方にお送りしています。ご不要の方は、メール末尾にありますURLより解除ください。
(解除方法が変わりました!詳細はメール末尾をご覧ください)


 本日の話題は:

■ハートフルな映画か、思想の映画か
 ―映画「マイ・インターン」を「承認」で読み解く―

■何が「伝説の銀行支店長」を作ったのか
 ―秘伝のワークと現代ドイツ思想と。

■人は本来自立した存在なのか?
 ―社会思想史学会第40回大会聴講記―

■「月刊人事マネジメント」連載記事を更新しました
 ―「LINE世代」のマネジメントと離職防止―
 
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■ハートフルな映画か、思想の映画か
 ―映画「マイ・インターン」を「承認」で読み解く―

 「マイ・インターン」。名優ロバート・デニーロが久々に殺人者や悪人でない好人物を演じ、日米ともに上々の興行成績のよう。フェイスブック上には「コメディーなのに周りの女子が泣いていた」というご報告とともに、「既に3回観ました」という猛者もいらっしゃいました。
 なぜ、この映画がこんなに人々の心をつかむのか。あえてこの映画のシナリオをを「承認」で読み解いてみよう(監督の真意はわからないまま)という記事をアップしました。
 よろしければ、ご覧ください:

◆爽やか問題解決力のルール―映画「マイ・インターン」をみる
http://c-c-a.blog.jp/archives/51926047.html 

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■何が「伝説の銀行支店長」を作ったのか
 ―秘伝のワークと現代ドイツ思想と。

 去る6日、加東市商工会様主催の「行動承認セミナー」全3回の最終日でした。
 今回はご一緒に講師を務めていただいた、松本茂樹・関西国際大学経営学科長とご相談し、ある「ワーク(実習)」を…。
 どうも、松本先生の銀行支店長最後の2年間、「2年連続トップ支店」「目標達成率150%」の”偉業”に寄与したと思われるのです、このワークが。
 いえ、もちろん偉業に寄与したのはたくさんの要因があってこれ1つだけではなかったと思いますけれど。
 このほか、正田が最近凝っている現代ドイツ思想家のアクセル・ホネットによる「承認の定義」などの新しい要素が入りました。
 その模様はこちらからご覧いただけます:

◆秘伝のワーク登場。最終回も熱かった行動承認セミナー3日目
http://c-c-a.blog.jp/archives/51925645.html 

 「3日間セミナー」は今どきの研修短時間化の風潮には逆行する、主催者様にとって思い切ったご決断だったと思います。途中でちょっと集客にご苦労されたというお話も伺っています。
 それでも、「行動承認」は従来手法とはまったく異なる効果のあるもので、そうする価値があるのです、と図々しい講師の正田がつぶやきたくなった、あるブログ読者様からのメールがありまして、ここでご紹介:
◆新たな実践経験談 ”教育困難校”と「行動承認」―佐賀県・宮崎照行さんのメールより
 http://c-c-a.blog.jp/archives/51926030.html 

 どんなに偉い先生から嘲笑されたとしても、実践そして現場の「人」は貴いものなのです。
 県下きっての経営支援通、加東市商工会の篠原靖尚さんの洞察の通り、地域の企業様の躍進に、雇用増に、また幸福感の増大と人口増に、このセミナーが永く効果を発揮しますように…。
 チラシ作りや集客、そして開催中のアテンド等で一貫して優れたお仕事をしてくださった同商工会北島様にも、お礼申し上げます。

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■人は本来自立した存在なのか?
 ―社会思想史学会第40回大会聴講記―

 「承認」をはじめとする現代ドイツ思想に凝り「隠れフランクフルト学派」を名乗りだした私。
 前号のメルマガで論文をご紹介させていただいた、一橋大学・藤野寛教授のお誘いで、8日関西大学で開催された社会思想史学会第40回大会に行ってまいりました。
 そこで飛び出した興味ぶかいフレーズ。
「私たちは依存関係がデフォルトであり、それを前提としてAutonomy(自律)を獲得しようとする」(斎藤純一氏・上野千鶴子氏)
 一見当たり前とみえるかもしれませんが、また社会学・思想史の世界では既に常識だったのかもしれませんが、モチベーション業界、教育業界に繰り返し出現する「内発と自律論」を位置づけるに当たり大変重要な視点です。
 これにより、たとえば企業内人材教育でも、どの階層にどんな教育を施すのが大事なのか、が変わってまいります。これはエビデンスでどれほどお示ししても、底流の「思想」が変わらないと変わらなかったことです。
 このほかにも今日的な重要なフレーズがどんどん出てまいりました。大会の模様はこちらの記事をご覧ください:

◆ケア労働、ジェンダー…市民社会の新しい主要モチーフ―社会思想史学会聴講記
 http://c-c-a.blog.jp/archives/51925792.html 

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■「月刊人事マネジメント」連載記事を更新しました
 ―「LINE世代」のマネジメントと離職防止―

 今年「月刊人事マネジメント」誌(ビジネスパブリッシング社)に連載させていただいている、「上司必携・行動承認マネジメント読本」。同誌編集部のご厚意により、掲載1か月後にブログに全文転載させていただいています。
 第4回の記事を更新しました。「若手の気持ちがわからない!」お悩みの経営者・管理者・人事担当者の方、必見です:

◆第四章 「LINE世代」のマネジメントと離職防止月刊人事マネジメント10月号
 http://c-c-a.blog.jp/archives/51925545.html
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★パリでの同時テロは、フランスがシリアへの空爆に積極的だったことを考えると、色んな意味でやりきれない思いになります。どの暴力にも当事者には正義があります。今は、犠牲者の方への哀悼の意を表したいと思います。

★次号より、本メルマガに「一般財団法人承認マネジメント協会」の名称はなくなります。
 読者の皆様のご愛読に感謝いたしますとともに引き続き正田からのメルマガにお付き合いくださいませ。


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 久しぶりに「発達障害」関連の読書です。

 「自閉症スペクトラム4%」ついに、こういう数字が出てきました。その背景に潜むものとともに、考えたいものです。

 『発達障害の謎を解く』(鷲見聡、日本評論社、2015年4月)。

 以下、本書からの抜き書きです:

****

●自閉症スペクトラム(ASD)4%は、2012年発表された浜松市出生コホート研究の暫定的な集計。354名の幼児のうち14名、約4%の子供がASDと診断された。精度、正確度ともに優れた手法で、わが国で進行中の疫学研究のうち最も質の高い研究の速報値。

●さらに高い数値が横浜で出ている。横浜市港北区の小学1年生におけるASDの発生率は4.2%、有病率は5.4%。
 
(発生率と有病率とは、本書によれば、「発生率とは一定期間にある集団で病気・障害が発生する割合で、有病率とはある集団におけるある時点での罹患者の割合である。有病率は転出入などの社会的要因の影響を受けやすく、支援ニーズの把握には有効であるが、学術的視点から見れば、発生率の方が重要である。」)

●ASD増加の原因の解釈は、I 見かけ上の増加(診断基準の拡大やスクリーニング体制の充実)、II 真の増加(生物学的要因、生育環境の悪化)がある。

●ADHDは子供の場合100人に数人、大人では100人に2,3人という報告が多い。大人の有病率が低いのは、小児期にADHDと診断された子供たちの中に、その後診断基準を満たさなくなるケースがいるためと考えられる。

●(高機能)ASDも一部は成人に達するころには適応(寛解)すると推測される。現在ある調査では、ASD児の約1割程度は症状が軽快している。

●しかし逆に、ASDの子供時代には困難さが顕在化せず、大人になってから初めて支援が必要になる場合もあるかもしれない。
―大いにありそうですね。

●アメリカでのADHDは増加傾向である。1990年代の有病率調査では5%に満たない数値が多かったが、2000年以降は増加。アメリカ疾患管理予防センターの報告によると、2003年は有病率7.8%(男児11.0%、女児4.4%)、2007年は同9.5%(男児13.2%、女児5.6%)。原因は見かけ上の増加、真の増加両方考えられる。
わが国では継続的なADHDの疫学調査は行われていない。

●発達障害の遺伝要因。ASD、ADHDともに「多因子遺伝病」と考えられる。これは典型的なメンデル型遺伝病(一つの遺伝子の変異が発症につながる)と異なり、いくつか原因遺伝子の変異があり、それに環境要因が複合した場合に発症する。

●「増加」は多様性への理解をもたらしただろうか?
 「早期発見を焦るあまりに『定型発達から少しでもずれる乳幼児は問題である』という誤った発達観が関係者に広がりつつあるのではないか」と著者は危惧する。
―確かに、昔なら「ちょっと変わった子」と受容されていた子が今は「障害」になり問題視されている感は否めない。それは社会の狭量さに拍車をかけ、余計「生きづらい」社会になってしまう。

●社会学的にも「人間社会は本来多種多様な特徴をもつ人間からなる」という考えが以前から唱えられていた。さらに、最新の科学研究、ヒトゲノムプロジェクトなどの進展によって、人間には予想以上に遺伝的多様性が存在することが明らかにされた。例えば、病気の罹りやすさや薬物代謝の多様性(個人差)であり、その多様性を前提とした医療が検討され始めている。それらの事実を踏まえ、「人間には多様性があることを前提として、お互いが尊重し合う社会を構築すべきである」という新しい理念を人類遺伝学会が発表している。したがって、子どもたちの発達についても、人間の行動特性についても、さらに、私たちの文化に関しても「多様性が存在する」という大前提に立つべきであると筆者は考えている。(この項はすべて引用文、太字正田)

●遺伝と環境の相互作用。
 脳の発達には、遺伝子からの情報が重要な役割を果たすが、環境要因も「エピジェネティクス」や「刈り込み」というメカニズムを介して大きな影響を与えている。

●未分化な細胞が多数の神経細胞へ変化するのは遺伝子の指示による。このステップでは遺伝子の影響が大きいが、胎児期に晒される化学物質がエピジェネティクスを介して影響を及ぼすこともある。

●シナプスによって神経細胞同士が接続する、すなわちネットワークが作られる過程でも、主に遺伝子からの情報が元になるが、より効率的なネットワークとして完成するためには環境からの刺激も重要である。

●「刈り込み」というプロセス。生後1歳頃にシナプスの数は最も多くなるが、あまりにも多いためそのままでは効率的に機能しなくなる。そこで、環境からの刺激の有無により、使われるシナプスが残され、使われないシナプスは失われる。一例として、生まれてから一定期間、視覚刺激が全くない場合には、視力に関連するシナプスが失われ、視力の障害をきたすことが知られている。

●ASDの様々な特徴の中には、遺伝要因の影響が大きいものもあれば、環境要因の影響が大きいものもあるとみられる。認知機能の偏りと感覚異常に関しては、遺伝要因の影響が非常に大きい。同様に、コミュニケーション能力も遺伝的影響が比較的大きいと思われる。ただし、コミュニケーションや対人関係のスキルの獲得には、経験の積み重ねや相手の反応が重要なので、環境要因も一定の影響を及ぼすと考えられよう。あるいは、エピジェネティクスなどのメカニズムを介する影響もあるかもしれない。また、興味の限局やこだわり行動については、両方の影響がともに大きいのではないだろうか?一方、かんしゃくやパニック、自傷行為などは、その時点の環境要因の影響が大きいと思われる。さらに、自己肯定感の低下や、様々な精神疾患の合併に関しては、長期間におよぶ環境要因の影響の積み重ねが大きいと推測している。

●環境決定論、遺伝決定論、この両極端な考え方が子どもたちを苦しめてきたのではないだろうか。変えることのできない部分に対しては、いくら努力しても報われない。そういう場合は、周りの大人たちが、それを「個性」として認める必要がある。一方、変わる可能性がある部分でも、そのために必要な体験がなければ、変化は起こらない。子どもたち1人ひとりの個性を理解して、それぞれに応じて適切な成育環境を与えることは、大人としての重要な使命であると筆者は考えている。
―重要な、かつハードルの高い問い。変わらないもの、変わり得るものを見極めよ、後者について適切な体験を与え、前者については個性と認めよ、という。しかし確かにこういう切り分けは必要なのだ。でなければどんな体験を積ませてやるのが適切なのかわからない。どんな希望をもつのが正しいのかわからない。1つ前の項で著者が推測と断ったうえで例示したが、今後こうした「遺伝要因のもの、環境要因のもの」が特定され、どんな関わり方が適切か、指導者にも適切なガイダンスが与えられるのが望ましいと思う。

●発達障害の関連遺伝子は多数ある。またASDとADHDの関連遺伝子がオーバーラップする。したがって、遺伝子と病気が1対1で対応する古典的な遺伝病と異なり、多数の遺伝子が多数の発達障害と関連している(多数対多数)。さらに、発達障害の関連遺伝子と様々な精神疾患の関連遺伝子も、それらの一部がオーバーラップしていると報告されている。
―最後の一文はやはり要注目。発達障害であると、精神疾患リスクは高いと思っていいようです。

●自閉症に関する間違った環境要因説。自閉症心因論、MMRワクチン説、自閉症水銀説。科学的根拠がない情報が一気に拡散し、当事者・家族に大混乱をもたらした。


―ここからは、発達障害の原因として「遺伝と環境」に絡め、生活習慣の影響について論じられます。そこでは今どきの家庭教育、子どもたちの育ち方、電子メディアの影響なども…。スマホ依存も顕著になる中、気になるところです。

●幼児の1日当たりテレビ視聴時間は2000年ごろに平均2時間40分でピーク。以後微減傾向で2013年には2時間を切っているが、ビデオの視聴時間が増加した。

●小学生での「インターネット2時間以上使用」が2008年には3.7%、2013年には6.6%に増加。中学生では同14.0%と24.5%、高校生では同15.1%と42.8%。

●2002年、テレビ・ビデオ視聴による言葉遅れについての報告が出された。言語発達や社会性の遅れのある幼児の中には、テレビ・ビデオの長時間視聴によって言葉遅れなどが生じ、視聴をやめると改善がみられた例がある。その後2004年にも、テレビ・ビデオ視聴が4時間以上で言葉遅れの頻度が9.6%と、視聴時間が長いほど言葉遅れの頻度が高いとの調査が出た(岡山県・1歳6カ月児健診対象児約1000名を対象に調査)。

●電子メディアは発達障害児にはどのような影響を与えるのか。一般の子供たちでさえ電子メディア視聴の影響を受けるのだから、元々コミュニケーションが苦手な発達障害児により悪影響があったとしても不思議ではない。しかし推論の域を出ない。

●ここ30年の変化としてはこのほかに”睡眠習慣”の変化がある。夜更かし型の生活をする幼児の比率が激増した。夜10時以降に就寝する2歳児は、1980年には30%弱だったが、2000年には60%弱までになった。起床時間は7時頃で変化ないので、睡眠時間が短くなっている。専門家は、このような睡眠習慣が発達に悪影響を与えることを危惧する。体内時計の調子が悪くなると、心身に様々な悪影響が出てくる。幼児期の睡眠不足は肥満のリスクになる。また、睡眠不足の子供では学業不振に陥りやすい、抑うつ、イライラなどの精神症状を示しやすいという報告もある。諸外国との比較で日本の幼児の睡眠時間は短く、日本の幼児の睡眠時間は17か国の中で最短時間だった。

●発達障害児の生来の特徴として睡眠障害がある。ASDに睡眠障害が合併する比率は報告によって幅があるが、約30%から90%と、少なくとも一般の子供集団より高率である。ASDの場合、例えば神経過敏性などが関係し、入眠困難、中途覚醒、睡眠随伴症などの問題が生じる。

●ADHDにも高頻度で睡眠障害が合併する。入眠困難、中途覚醒、日中の過眠、むずむず脚症候群など。

●生来、睡眠障害を伴いやすい発達障害の子供が生活習慣として不規則な睡眠習慣を続けた場合、さらに悪影響が出たとしても不思議ではない。

●セロトニンの関連。近年のPETを用いた研究では、高機能自閉症では脳の広範囲にわたりセロトニン・トランスポーター濃度の低下が明らかになり、濃度の低下の程度と強迫症状との関連も示唆された。

●セロトニン神経の重要なポイントは「生活環境の影響を受けやすい」点であり、適切な生活習慣で毎日を過ごしていけば、子どもたちのセロトニン神経の働きが向上する可能性がある。

●外遊びの減少。子供たちの運動能力は長期的に低下傾向であり、11歳男児のソフトボール投げの平均値は1986年33.7mだったのが、2006年には29.5mにまで低下した。発達障害児に協調運動障害が合併しやすいことはよく知られており、そのような子供たちが運動不足になれば、協調運動障害が深刻化するかもしれない。またASD児の場合、元々室内遊び(ゲーム等)を好む傾向があるので、運動遊びの減少が一般の子供以上に進んでいる可能性もある。

●ここ数十年の子育て環境の急激な変化に専門家は警鐘を鳴らす。子育ての変化が始まってから2世代目になっていることに着目し、より深刻な影響が出ることを懸念している。親からの語りかけ等が少ない時代に育った子供が親になれば、その子供に対してさらに偏った子育てをしてしまうという懸念である。そして、その無意識の偏った子育てが、発達障害に類似した行動を示す”境界領域”の子供たちを増加させているという仮説を述べている。自閉症心因論は否定されるべきだが、元々の軽い偏りに、偏った子育ての影響が加わって問題行動が顕在化する可能性はある。


―自閉症の概念、発達障害の概念が変わりつつある。

●自閉症の概念が変わりつつある。フランセスカ・ハッペらが2006年、ネイチャー・ニューロサイエンス誌に発表した論文では、「自閉症の原因は病態は1つではないので、一元的な説明は不可能である。それぞれの原因、病態、症状を探求する方が有用である」と主張した。そこから、「対人関係障害」「コミュニケーション障害」「興味の限局等」にはそれぞれの原因があり、3徴候それぞれに対して評価を行い、それぞれ別の診断分類として独立させるということにもなりかねない。それは自閉症の概念の解体にもつながることである。

●ウィリアム・マンディらは統計学的手法を用いて3徴候を徹底的に調べ上げ、対人関係障害とコミュニケーション障害を合併させた1つのグループと、興味の限局等のもう1つのグループにする、つまり、主要3徴候の代わりに主要2徴候にするべきであるという論文を発表した。このため、DSM−5ではASD症状を2つの徴候、「社会的コミュニケーション」「興味の限局等」にすることとなった。

●2014年に発行されたDSM−5の日本語版では、新たな名称「神経発達症群」が採用された。

●神経発達症群は、二者択一ではとらえられない。「障害にも個性の範囲内にもなり得る」「広い意味で治る(寛解する)場合がある」「遺伝と環境の両方が重要」「医療にも教育にも関係する」という中間的な答えが妥当だろう。

●神経発達症群の特徴を簡潔に述べると、「生まれつきの発達の偏りがあり、その後の成育環境の影響も受けながら多様な経過をたどるため、社会的不適応と精神疾患のリスクが高い子ども(人)たち」となる。

●ここ10年の発達障害ブームで神経発達症群に対する支援は確実に進んだ。しかしいくつかの問題はある。1つは、発達の多様性に対する許容範囲が狭くなってきたように感じられる点。発達の個人差と言える凸凹まで問題視してしまう場合がある。また、支援において能力面の向上を過剰に追求する姿勢。レオ・カナーはアメリカ精神医学会賞の受賞講演の中で親や教師の過剰期待を強く戒めた。


****

 抜き書きは以上です。

 「子育ての変化」については、正田の20年以上前の子育て時代にもひしひしと感じていました。「遅寝遅起き」「おやつ食べさせ放題」これらが、ママ友同士の過剰な人間関係(ダラダラ1日中つるんでいる)に合併していたことがフラストレーションで、あえてお付き合いを切り上げて子供を早くに寝かせていたものだから、そんなことだけでママ友のいじめの対象になったりしました。

 その世代の子たちが今就職年齢になっています。

 子供時代を母親たちのお付き合いにお付き合いして生理的にも不自然に過ごしていた子が大人になって、どんな社会人になるのやら。

 会社は「育て直し」の場になるのではないか。幼児時代からの間違った子育てを矯正する(不完全にせよ)場となるのではないか。諦念と希望の織り混ざったわたしの予感です。

 あ、でもそれは発達障害の話題の本筋ではなかったですね。

 とまれ、「ASD4%時代」を受けた本書の主張、

「私たちの多様性への感度を上げるべきだ」

には、大いに賛同します。このブログでおなじみの単語(漢字2文字のやつ)も、そこに資するはずです。

 


正田佐与

マイ・インターン


 お友達が「レディースデーに行ったらコメディーなのに周囲の女子が泣いていた」と推薦していた「マイ・インターン」(原題’The Intern’、ナンシー・マイヤーズ監督、2015年)。

 ご存知、ロバート・デニーロ扮する70歳の老インターン、ベンがネット通販企業に入社し、問題解決していくお話。男性女性問わず、見終わると元気になる映画です。

 これが、何となくハートフルな映画なのか、それとも深遠な思想があるのか。どちらなのだと思いますか?

 本日はこの映画を勝手に思い切り「承認」で読み解いてみたいと思います。
 かなり「ネタバレ」を含みますので未見の方は読まれないほうがいいかも―。


 この映画の舞台は、1年半前に創業しあっという間に従業員220人の規模になったアパレルのネット通販企業。

 ここには、IT企業によくある「祝祭感覚」がもともと存在します。
「インスタグラムでいいね!を2500獲得しました」ワーッとみんなで拍手。社員一人一人のお誕生日を祝う。

 活気があるが、混乱している。温かみはあるものの微妙な「承認欠如」が漂っている状態から始まります。

 主人公はアン・ハサウェイ扮する女社長のジュールズ。美人で頭の回転が速く、配慮に満ちて魅力的な人柄ですが予定はいつもパンパン。スタッフが次々とジュールズに話しかけますが、どの案件に対してもジュールズ自身の時間が足りません。物語は、このジュールズを中心に放射状に作られる人間関係に、それぞれベンがからむことで変化がもたらされます。

●ジュールズ―ベン
 70歳のベンがインターンで入社し、社長付になったことに、ジュールズは当初不満顔。高齢の男性に良いイメージを持っていないようです。ベンが普通以上に目ざとい人物なのをみると、ベンを配置転換させようとしたほど。しかしベンが献身的で有能で出しゃばり過ぎず、良い人柄なのを知り、徐々にベンに信頼を寄せます。自分の家族関係をオープンにし、さらに重大な秘密と心の迷いまで打ち明けるようになります。

「自分の代わりになるCEOを」ジュールズは気の進まないまま、CEO候補と面接を繰り返します。浮かない顔で面接に出かけるジュールズに、ベンが声を掛けます。
「1年半前創業し、220人の会社に育て上げたのは誰の偉業?」
 君は君の偉業を思い出せ、というメッセージ。きれいに「行動承認」になっています。

●ジュールズ―ベッキー(秘書)
 ジュールズと同様ベッキーも働き過ぎ。そして「認めてくれない」が不満の種です。
「1日14時間も働いてるのにジュールズは理解してくれないの!私、ペンシルベニア大経営学部を出てるのに!」と泣きじゃくります。
 ベンはベッキーの仕事の片づけを手伝い、ジュールズに対して顧客動向の分析をプレゼンする際、「ベッキーのお蔭だ」「ベッキーは経営学部卒だから」を連発、ベッキーの貢献をアピールします。「忘れてたわ。褒めてあげなくちゃ」と応じるジュールズ。最も頼りにしている右腕の貢献は、酷使していても忘れがちになるのは洋の東西を問わないものでしょうか。
 劇中後半、余裕が生まれたベッキーはフェミニンな花柄の服を着ています。ベンにも「顔色が悪いわ」と労わる余裕を見せるように。

●ジュールズ―マット
 夫のマットは専業主夫となり、一人娘のペイジを育てています。妻の辣腕ぶりに自ら家庭に入ったマット、しかし内心は鬱屈しています。実はCEO探しも「夫婦の時間を取り戻したい」というマットの希望。ベンはマットに、「ジュールズには幸せになってほしい。物凄く頑張ってきた人だ」。
 マットにとっての「承認欠如」はある残念な行動を生みます。そこからの夫婦の再生は可能なのか?脚本も担当したナンシー・マイヤーズ監督は実生活ではパートナーと別れているそうなのですが…。

●ジュールズ―ママ友
 多忙で夫を専業主夫にしてしまっているジュールズに、ママ友の目は厳しい。ある朝、ママ友からジュールズに「ワカモレを18人分お願い。忙しいだろうから市販のでいいのよ」。「あら、作るわよ。大丈夫」とジュールズ。ベンの待つ社用車に乗り込んでジュールズはドッと疲れた表情。(ちなみにワカモレとはメキシコ料理でアボガドをベースにしたディップのようなものです)
 ペイジの親友、マディのお誕生会にはマットの病気でベンがペイジを送ってきました。ママ友たちに「ジュールズの部下です」と自己紹介した年上男性部下のベンに、ママ友は「あら、ジュールズってキツイ(タフ)ってきいたわ」。ベンはにっこりし、「確かにタフだ。だから彼女は成功した。あなた方も誇りに思うべきだ、友人がネット業界の風雲児だということを!」。
 ここでは、「公正な評価」と「嫉妬の克服、理性による祝福」という、感情に流されるとむずかしい舵取りを「承認ルール」で乗り切ろうよ、というメッセージがあります。

●ジュールズ―CEO候補たち
 劇中では3人のCEO候補と面談します。1人目は、ジュールズの言葉を借りると「女性差別主義者で、イケ好かないヤツ」。2人目は、「アパレルを『ギャル商売』と呼んだ」。3人目は、「礼儀正しくて、考え深い人」。女性社長のジュールズとその業種をリスペクトするかどうかが、大きな評価基準でした。

●ベン―若手男子たち
 ベンも入社後、自分の周りに磁場をつくります。IT企業の若手男子たちにとってベンは格好のメンター。彼女とメッセージでこじれた男子には、「リアルで話せ」。セレブの家に宅配に行くことになった男子には「襟のあるシャツを着ろ。シャツの裾はズボンに入れて」。下宿探しが暗礁に乗り上げた男子は、ベンが自宅にしばらく泊めてやります。

●ベン―フィオナ
 社内マッサージ師のフィオナとは恋愛関係を育みます。
 ジュールズとベンは上司部下として急速に信頼関係を作り接近しますが、それが男女の関係になるとは限らないのです。というメッセージは監督インタビューによると、実際に込められていたらしいです。

●最後の判断
 最後は、「承認」が判断基準になります。だれに対する「承認」?何が最優先すべき「承認」?それがカギでした。
 大団円はご都合主義に見えるかもしれない、しかしプレーヤーの全員が自己理解を徹底し、共通ルールを理解しているとこういう解決もあり得るかも。



 と、メカニズムをわかっている人がみるとこの映画聞かせどころのセリフは全部「承認」あるいは「承認ルール」じゃん、と手の内がわかるのですが、それでも感動できるし爽やかな感覚が残ります。イーストウッド監督の「インビクタス」と並んで「承認映画」として推したいゆえんです。

 ナンシー・マイヤーズ監督は1949年生まれの団塊世代、アクセル・ホネットと同い年ですが何か関係あるのでしょうか。ネット上の監督インタビューでは残念ながら承認’Recognition’との関連はわかりませんでした。成功した女性の男性との悩ましい関係、女性同士の悩ましい関係、リアリティがあります。「上手く解決してほしい」という祈りがこめられているかもしれません。

 ベンチャーに詳しい人がみると映画冒頭の会社の様子はスタートアップ時のベンチャーの典型的なもの、ジュールズの異常な働きぶりもベンチャー起業家ならよくあるもの、です。で支援のプロからみるとどこかの時点でそこにコーチングまたは「承認ルール」を導入すべきだというのは火をみるより明らかなのですが当事者には中々みえないものです。そして、往々にして外部からの介入を拒みます。

 そこでベンのような魅力的な高齢者が入社して出過ぎずにさりげなく介入してくれれば。健康な頭脳をもった高齢者の働き方の理想をみせてくれるのでした。


 

正田佐与

 佐賀県唐津市の研修業・Training Office代表、宮崎照行さんから、「行動承認マネジメントを学びたい」と嬉しいメールをいただきました。

 ご興味をもっていただいたきっかけは、宮崎さんの仕事上の実体験だったということです。以下、ご了解をいただいて宮崎さんのメールからの引用です。:


〈行動承認マネジメントに興味を持つようになった経験〉
現在、業務の一つとして高校生に対象にビジネスマナーの研修を担当しております。
私が依頼をいただく高校様の多くは、一般的に教育困難校といわれている高校様でございます。ほとんどの生徒は、いわゆるヤンキー(死語?)といわれる生徒さんです。
以前の研修スタイルは、「目標を持つことの大事さ」「価値観を大切しよう」という内容でしたが、彼ら(彼女ら)にとっては、「それがどうした?」と意に介せず研修に参加しようとする意識が非常に低い状態でした。
このままではいけないと感じ、彼ら(彼女ら)の行動に対する承認、例えば「皆さんが話しを聞いてくれるので、こちらは話しやすいよ」「面倒くさいと思っていたお辞儀、すごく綺麗で格好良かったと、やればできるやん。もっと格好よくしていこうか」
など私が感じた事実をフィードバックすることで、真剣に練習に取り組むようになりました。(感受性豊かな生徒さんたちに対し、おべっかを使うと見透かされてしまいます)

上記のような強い経験をしましたが、何分、我流のため体系的に学習方法を確立できておりません。
よって、もっと行動承認マネジメントを深く学びたいと思った所存でございます。



私見ですが、「承認」の難しさは「テクニック」レベルで捉えようとすると効果が薄くなると思います。例えば、「こちらの話を聞いてもらうために、承認のスキルを使って振り向いてもらおう」や「こちらが意図する行動をとってもらうために、承認のスキルを使えば意図するように行動してもらえるのではないか」など利己的な観点から「承認」を捉えようとすると、うまくいかない気がします。一方で、昨今の研修素材はどちらかというと「テクニック偏重」「即効性偏重」が受けるようです。だから、そのような枠組みからいくと一般的なものではないのかもしれません。しかし、「人」はそう単純なものなのでしょうか?だからこそ、「承認」を使用する側は「スキル」を超越したものを構成していく必要があると考えています。




 嬉しかったですね。
 わたし自身は学校の生徒さん相手の実体験がありません。マネジャーさん方のご報告から、新卒の方にも著効があるようなので、もっと若い学生さん方にも上手く行くだろうな、とは思っていました。

 やっぱり実体験のある方は、言葉の力が違いますね。

 正田からのお返事です:


宮崎さんの教育困難校でのご経験を大変興味深く読ませていただきました。
貴重な体験をされましたね。
教育分野での「行動承認」の応用経験は、まだ私にはありません。
ただマネジャーたちの実践から、新卒の方にも非常に有効なことから
学生さんにも有効なのではないかな、と類推するばかりです。
大学では、関西国際大学での松本茂樹先生の実践があります。

お問い合わせいただいた、行動承認を体系的に学習していただくということですが
オープンセミナーは、力不足のため現在開講していないのです。
もし、書籍でもよろしければ
拙著の『行動承認』(パブラボ社、2014年)は、ご参考になるのではないかと思います。
スキルとしてはごく簡単なものですので、宮崎さんでしたらすぐ習得していただけると思います。

こうしてご理解者の輪が広がることは幸せなことですね。
世間一般では、「承認」は決して一般的ではありません。
心無い中傷をされることも多いです。
でも宮崎さんが体験された、学生さん方の目覚ましい変容は多分本物です。
どうぞ確信をもって進んでいかれてください。
若い方々に本当に必要なものを、宮崎さんは提供されたのだと思います。
今後の学生さん方の人生に大きな影響を与えていただけることでしょう。

私は力不足のため、財団を今月21日には解散し、個人事務所に戻ります。
それでもこうして、
確信をもって実践される方が育っていかれることは心強いです。
この手法はこの国を建て直す力のあるものだと信じています。
どうか宮崎さんも、担い手になられてください。


 
 こういうときに、「書籍でよければどうぞ『行動承認』で…」と書けるように、『行動承認』の本は作られていますから、つまり真摯な学習者・実践者の方のためのテキストとしては手前味噌ですが良く出来ていますから、まあ悔いのない作り方をして良かったナと思います。

 
 そして、今はわたしはリビングの片隅にホネットハーバーマスヘーゲルの本を60cmほど積み上げて満足もといさあ読まなくちゃナと思っているところですが、
 それはそれとしてやっぱりこういう実践の現場の手触りを忘れたくない。
 理論は理論として、一方で生身の「人」が何を求めているのかを。
 それは、ドイツ観念論フランクフルト学派で物足りなければ科学哲学も援用すると思う、とにかく現場の「人」のことを一番たいせつに考えていたい、と思うのでした。そこから逆算して発想したい、と。
(けっして今の時点で理論に不満があるわけではないですよ。)



 宮崎さんへのわたしのメールにも書きましたが、

「この手法はこの国を建て直す力のあるものだと信じています」

これはわたしが嘘いつわりなく日々思っていることです。
 
 そして宮崎さんが気づいてくださっていたように、「行動承認」は極めてシンプルなもので、表面的に学ぶことはたやすくできます。むしろそのあまりのシンプルさゆえに、軽んじられ「いろんなその他の手法と同等かそれ以下」のように見なされるきらいがありました。
 ところがそれは実は巨大なコンテンツで、講師あるいはマネジャーの人としての「ありかた」もまた問われますし、加えてわたしが無意識に「認識論」や「討議倫理」や「正義の判断基準」にまで手を広げていたように、日常のあらゆる場面をカバーし得るものです。そして学び手もその巨大さを感じながら学んでいただきたいものです。

 
 しかし心身ともに衰弱している52歳。(ほんとは、52歳になるのは来月ですが)

 生きているうちにこれの全容を教育プログラムとして完成し、商品化できるのかどうかは謎です。



正田佐与

 8日、関西大学で開催された社会思想史学会第40回大会に一般参加者で伺いました。

 同学会の幹事のお一人である一橋大学の藤野寛教授のご教示によるもの。


 このブログではおなじみの名前になりつつある、フランクフルト学派のホネットやハーバーマスについてのセッションもあり、藤野先生が司会を務めておられました。

 午後には、第40回を記念したシンポジウム「<市民社会>を問い直す」。

 
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 齋藤純一氏(早稲田大学教授、政治理論・政治思想史)と上野千鶴子氏(東大名誉教授、立命館大学教授、社会学)が登壇されました。

社会思想史学会 上野氏の官、共、私

上野氏スライド 市民社会の4つの領域 「官、共、家庭、市場」

社会思想史学会3 ケアの配分と出生率

同「労働とケアの配分と出生率」


 おおっ、という「今日的」な質問、発言があり…。

「リプロダクション(再生産、生殖)をどの程度市民社会に位置づけるべきですか?」


 これは会場から、また上野千鶴子氏からも齋藤純一氏に発せられました。
 齋藤氏、かなり答えにつまる。
 リプロダクション、育児と介護すなわちケアはハードワークであり、誰がそれを担うか?という問題が出てくる。
 上記の上野氏のスライドでは、日本は先進国でも例外的な(C)、すなわち「移民労働力」を排除しているため女性が全面的にケアを担ってきた。

 このことを上野氏は、

「日本ではジェンダーと言う変数が諸外国のエスニシティという変数の機能的等価物の役割を果たしている」

と海外研究者に説明すると、割合わかってもらえるそうです。

 そして上野氏の厳しいフレーズ。

「ジェンダーは市民社会論の中で故意に忘却された変数だと思っている。多元社会論が要請されている」。




「家族は市民社会の外部なのか?」

 これも齋藤氏へ。
 齋藤氏の答え

「外部とは思っていない。私と公を媒介する位置にある。
市民間の関係を律するような契約関係、法関係は家族内に入らない。
子供も市民としてtreatされるべきである、だが現実にはそうなっていない。
子供も市民として尊重されるような法体系に変えていくべき」。

 これは、児童虐待や高齢者虐待、DVなどが頻発する今、重要な問いであり答えでしょう。
 このブログではホネットの愛と家族に関する藤野寛論文で触れていたところですね。




 厳しい議論の続く中で(このお2人の議論ぶりもわたしにはとても興味ぶかかった)
 齋藤氏、上野氏が一致した興味ぶかいフレーズ。

「私たちは依存関係がデフォルトであり、それを前提としてAutonomy(自律)を獲得しようとする」

―だから、ケアは市民社会を論じるうえで欠かせない要素なのだ、と続くのですが。

 これは、従来このブログでも経営学、心理学、経営教育学などの「内発と自律論」をモグラ叩きしてきたわたしには、快哉を叫びたくなるフレーズでした。

 「自律」は「である」ではないのです。「そうありたい」ものなのです、「依存」を初期設定とするわたしたちにとって。

 ああ、来た甲斐があった。また、叩いてきた甲斐があった。藤野先生ありがとうございます。

 読者の皆様、今後まだ「内発と自律論」をデシとか引用して言う人がいたら、「周回遅れ。ダサイ」と言ってあげてくださいね。あ、「承認欲求バッシング」の人もその系列かな。




 
 藤野先生が「社会思想史学会は左翼思想家のたまり場ですよ」とおっしゃるので、一般参加した正田はここでは自己紹介するとき
「修正資本主義をやらしていただいております。よろしくお願いいたします」
と挨拶しておりました。

 このブログの「ヘーゲル・ホネット承認論」の初期に登場した『承認と自由』の著者、札幌大学の高田純教授にもお会いし、ご挨拶することができました。
 1994年のこの本は、わが国のヘーゲル研究がそれまで弁証法とかマルクス思想へのかけ橋の思想としてばかり研究されてきたのが、「承認研究」に転換した初期の良書と思います。今でもこの分野のスタンダードと言えるのではないかと思います。(文章も大変読みやすいです)

 
 藤野寛教授には、この日の午前、関大前のガストにて「フランクフルト学派と承認」についての素人質問を思い切りぶつけ、語っていただきました。
 そのお話はわたくしのような素人学習者には、有益なガイダンスになると思います。
 いずれご了解をいただいたうえで藤野先生インタビューもブログに掲載させていただきたく思います。


社会思想史学会1


 セッションでの発表者に厳しいコメントをする藤野教授(左)

 フランクフルト学派は「批判理論」であり「承認」とか言いながら一方では厳しい批判をするのだ。正田も「隠れフランクフルト学派」を名乗ろう…


正田佐与

 6日、加東市商工会主催「行動承認セミナー」3回シリーズの最終日でした。

 このたびの受講生様に特別にお伝えしたこと。
 
 共同で講師を務めてくださった松本茂樹先生(関西国際大学経営学科長、元銀行支店長)は、ご存知「承認」の史上最高の使い手でした。しかし実は松本先生が「コーチング」を学ばれた2004年当時、正田はまだそんなに「承認」と言ってませんでした。コーチングの幾つかあるスキルの1つでした。また、「行動承認」という言葉は存在してなかったと思います。
 なのになぜ、松本先生は「達人級」にまで、「行動承認」の使い手になられたのか?

 実は、そのことに寄与したと思われる、ある「ワーク(実習)」がありました。

 松本先生の代の受講生さんにだけ、このワークを行っていました。後にも先にも、この代の生徒さんだけ。

 で、今回の受講生様方にも、特別にそのワークをやっていただきました。
 えーと、その内容は、ないしょ。
 「秘伝のワーク」なんて、1つぐらいそんなのがあっても面白いじゃないですか。(*^^*)

 このワークは結構講師が「はずかしい」ので、松本先生にも半分やっていただきました(^^;;)
 (はずかしいからその後やらなくなっていたんだナ)

 
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 (今回は加東市商工会北島様に写真を撮っていただきました)


 そして、「傾聴」の時間では、恒例・「傾聴8本ノック」。

 ハードな内容の実習に皆様眠気が吹き飛んだよう…。

 企業不祥事が相次ぐ当今ですが、そういう時代には「承認と傾聴」は厄除けのお守りのようなもの。
 そういうそれらの機能を真摯に感じながら実習に参加してくださったようです。


 松本先生のお言葉。
「私は承認と傾聴を学んでから、トラブルに遭っていません。職場でも家庭でも。
 皆さんが末永く上手くいっていただくため、是非末永く使っていってください」


 受講生様のアンケートには、
 
「3日間とても楽しかったです」
「行動承認は使い続けます」

という嬉しいお言葉が並びました…。


 超ご多忙な中時間を割いて3回駆けつけてくださった松本先生、
真摯な学び手となりわたしたちを支えてくださった受講生様方、

そして開催の労をとってくださった加東市商工会の皆様、
ありがとうございました!


正田佐与

 今日はなんか背伸びをやめて普段着のわたしに戻っております。

(「大学の先生」が話題になっておりますが最近このブログに登場された方々のことではありません。念のため)

 昔々の大学時代、恩師は院に進学しろと言ってくださったんですが「家が貧乏ですから」と言って就職しました。
 貧乏も嘘じゃなかったんですが、本当に進学したかったらバイトしてでも何でもしたと思います。本当は自分は学者になれるたちではない、と思っていたんです。

 ゼミの1年先輩にすごく深く掘り下げる、しかもすごいスピードで、という方がいらっしゃいまして。中本義彦さんとおっしゃり、今静岡大学の教授になられています。どんな文献を読まれても、わたしなどが「この本には今いち乗りきれないなあ」というときでもウッと深く突っ込んでいかれその文献の世界の住人になられるんです。かと思うと「自分の中にもナチズムやマルクス主義と同様のファナティシズム(H.アーレントの世界ですね)がある」と内省されたり、いやファナティシズムも才能でいらっしゃるから内省しなくていいんじゃないですか、と思いましたけれど、まあそういう、文献の中に深く潜る、しかも素早く、ということにかけてオリンピック選手のような方がいらっしゃったんです。
 先年恩師の逝去後のゼミOBの集まりでその中本さんにお会いし、いい大人になられてるなあと思いました(失礼か!?)

 ともあれ大学時代にそういう方を間近でみていて、「あれはできないなあ」と。

 このところのこのブログをご覧になって、既に話題が難し過ぎる高踏的すぎるとお感じになった方もいらっしゃるかもしれないし、「正田はアカデミズムの方へ行くのか?」と思われた方もいらっしゃるかと思いますけれど、わたし的にはその当時から、ひとつ動かせない自分の傾向性というのがある気がしていました。

 それは、
「知的好奇心は人一倍ある。しかしふつうの人にわからない領域まで突き進めない、突き進みたくない自分。ブレーキをかけてしまう自分」
ということであります。
 あるところまで突き進むと、振り返って
「ふつうの人と乖離していないだろうか?」
と不安にかられる、だけでなく本気でそれ以上進みたくない自分がいる。

 たとえば抽象的な言葉だけで書かれている文章を読むと、自分的に無理すればわからないことはないのだけれど、自分にとってのわかる/わからないはさておき、「どうしよう、こんなのほかの人に説明できない」という感情のゆらぎが起きます。
 その「説明できない」という感覚はすごく不快なものなのでした。
 探検ずきではあるのだけれど、しょっちゅう後ろを振り返ってほかの人に説明したい、それが不可能になるほどの探検はしたくない。
 普通にいう「世間の目が気になる」というのともちょっと違って、わたしの場合は「自分の後ろにいる親しい人につねに説明したい、それができないのはイヤ」という感覚なのでした。
 亡くなった母によると、幼児の頃のわたしはお砂場で遊んでいても、しょっちゅう母のほうを振り返ってみる子供だったそうです。

 そういう意味ではそのあとマスコミに行ったのはまあまあ正しい選択だったのかな、と思います。マスコミに行ったら行ったで「学究肌のほうの記者」になったのですが。


 そして「ふつうの人と乖離している、していない」というとき、ではその「ふつうの人」って誰なのか、といいますと、知り合いがすくなく世間のせまいわたしにとって、「ふつうの人」の基準に置いていたのは、自分の親戚のおじさんおばさん、ではなかったかと思います。

 このブログに以前出てきました(2014年3月だったカナ)、長野県の伯父さん伯母さんは農家で、とても聡明な優しい人たちでした。
 わたしは結局、「自然の制約を受けながら、『こうやれば、こうなる』の単純なロジックの連なりで世界を捉え、働きかけ、生計を立てている人たち」のことが無条件ですきなのではないか、と思ったりします。

 
****

 成り行きでフランクフルト学派についての本を、まずは例によって入門書から、読んでいます。
 例の、ホルクハイマー、アドルノ、ハーバーマス、ホネットという人たちであります。
 
 おおむね、フランクフルト学派の哲学者はマジメな嫌みのない感じの人たちで好感がもてます(本当カナ)

 そのうちハーバーマスという人は「対話教」「コミュニケーション教」の教祖のような人で、「討議倫理」のようなことも論じていて、よのなかカフェを主宰していた正田も無関心ではいられません。この人はまた相手かまわず批判しまくった人のようで、あっちこっちで論争の当事者になっています。それだけきくと「怖い感じの人」ですが、本来はすごいマジメな秀才であったとのこと。またこの人と直接会った人は「市井の素朴な哲学者」とその印象を述べています。ので、ちょっといいなと思います。ので、ハーバーマス関係の本もまた読んでみることにします。

 しかし、この人の文章は入門書の中にも引用がありますが、まあ難解。抽象に次ぐ抽象で、例によってわたしは「なんか例示してよ?」「どういう実体験があったのよ?」とイライラしてきます。こういう文章を書くのは、知識人コミュニティの品質を保ちたいためなのでしょうかネ…。

(そういいながらアドルノの『三つのヘーゲル研究』という本を読んでいると、ヘーゲルのあの難解な文章は独特の思想のうねりのようなものを表現していること、抽象に徹した文章なのは自分の思考の限界を極めるような作業だったこと、などが書かれていてちょっと腑に落ちました。読み手も限界になるんですけど;;)

(またこの本によると、ヘーゲルは人気教授だったそうですがその語り口は雄弁とはほど遠いものだったそうです。あらかじめ用意したテキストを話すのではなく、訥弁で、その場でお腹の底から言葉を紡ぎ出して話す人だったそうです。そういうので感動させる語り手だったんですね)

 お話は戻って、EUの理念を提唱したのもハーバーマスだといいます。
 EUに関しては、壮大な理想ですがこれも付け焼刃の知識ですが2012年1月でしたか、日経ビジネスオンラインでの岩井克人氏の「知性の失敗」という言葉が印象的で、このブログにも引用したことがあります。
 それによれば、EUを構想した知識人たちは労働力に国境がなくなる、と信じていた。労働力の完全流動化を予想していた。統一通貨というものは労働力の流動化のもとで機能するのだ。現実にはヨーロッパにも、自分の生まれた土地からまったく動かない層の人びとがいる。その人たちについて知識人たちは想像力が働かなかった。

 これはとても示唆的な認識であり分析で、知識人やメディアというのは、往々にして、社会の「動きのある」部分に着眼しますが、動かない「不易」の部分はみえにくいのです。そこをみないがゆえに墓穴を掘ることがあるのです(いや、まだ、EUが失敗だったかどうかわかりませんが)。また、このブログでしょっちゅう書くように、「大学の先生は自分たちのことを研究することが好き」で、自分や自分のコミュニティ内部の皮膚感覚を社会全体に一般化して当てはめようとするところがあります。大学の先生方は、国境を苦もなく越えて仕事するのです。

****


「お叱りを受けそうですが、マネジャー教育という一方の軸足のある中でどこまでこういう思想の世界に首を突っ込んでいいのか…」

 過日一橋大学の藤野教授に書いたメールの中で正田は泣き言を言いました。

 たぶんわたしの性格からして、アカデミズムには入らないでしょう。昔お砂場でしょっちゅう母のほうを振り返っていたのと同様に、「思想」のお勉強をしていてもしょっちゅう親愛なる受講生様方やお友達のほうを振り返り、自分が「わからないこと」をやっていないかどうか、ちゃんと共有できることをやっているかどうか、確認し続けるでしょう。


正田佐与

 

 
 
 

 今、どちらの企業でも

「若手に言葉が通りにくくなった」

との嘆きの言葉がきかれます。

 小さいころからネット・スマホの世界に生きて来た若者世代。リアル人間関係の比重は、われわれの世代よりはるかに小さく、重視されなくなっているのです。
 その結果、会社に就職してからも上司の言葉が右から左へ素通り…。
 これでは、社会人はつとまりません。会社も回りません。

 とはいえ今の時代、ネット・スマホと共存していかなければならない、ではどうするか。
 そんなとき、またもや「承認」が功を奏します。「ウソだろ」と思われますでしょうか。

 「月刊人事マネジメント」誌に連載させていただいている、「上司必携・承認マネジメント読本」の4回目のゲラを編集部様のご厚意により「公開OK」でいただきましたので、転載させていただきます。


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 以下、本文の転載です:

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上司必携・『行動承認マネジメント読本』
〜人手不足チームのやる気と力の引き出し方〜

一般財団法人 承認マネジメント協会
理事長 正田佐与


第4章 「LINE世代」のマネジメントと離職防止


 インターネット、スマホ、とIT技術が私たちの生活に入りこんできたなか、近年とりわけ若手の日常を「激変」させたものがあります。それがLINE(ライン)というアプリです。

LINEは職場にどう影響しているのですか?

 ご存知のようにLINEはグループや個人間でメッセージや無料通話をやりとりするアプリですが、その大きな特徴は、メッセージを読むと「既読」マークがつくこと。それに返信しないことは「既読スルー」といって友人関係を大事にしない行為とみなされます。これがもとで若者たちはスマホ画面から目が離せなくなりました。
 スマホ特有の同時性もあり、LINEの若者世代への影響力は驚くほどです。それは職場でも同様です。ある部門で上司部下間の行き違いが起こると、それを若手目線で伝えるメッセージがLINEを通じて同世代間で飛び交い、他部署の若手が誤解したままになっているというケースがあります。
 「集団離職」にまでつながってしまうこともあります。上司への不満が若手グループ内でやりとりするうちに鬱積し、若手4,5人が一度に辞めてしまったというケース。筆者も昨年以来いくつかの企業で見聞きし、珍しいことではなくなっています。
 そこまで深刻でなくても、LINEで同世代の結束が固くなる反面、上司・先輩とのつながりが薄くなり仕事上の指導や経験の伝承がしにくいという傾向は広く見られます。LINEによってかつてない世代間の分断を招いています。また、「LINEいじめ」が職場で起こるケースもあります。
 LINE世代の登場はまだ新しい話題なので、はっきり確立されたマネジメントの方法論があるわけではありません。しかし、ー禺蠅悗侶屡 ⊂綮福先輩による「承認」 8鎚面銘漫´ぅ繊璽犲言―が今のところ有効です。

LINE世代をどうマネジメントしたらいいですか?


以下、順番に解説していきましょう。

ー禺蠅悗侶屡
 スマホ、とりわけLINEの使用方法について、ICTの専門家から若手に対して研修を行う。できれば同世代の先輩からも経験談を話してもらうとよいでしょう。また、上司・先輩もLINEを使えるようにし、若手と同じグループに入ってコミュニケーションの改善を図る企業がある一方で、LINEでの人間関係が煩雑だという社員からの訴えを受けて、「職場でのLINE禁止令」を出した企業もあります。

⊂綮福先輩による「承認」
 若手が上の世代と交流したがらないと先に述べましたが、実はそんな今どきの若手にも、「承認」は非常に有効です。「承認」をする上司・先輩には急速に心を開き、信頼してくれます。「行動承認」は世代を問わず有効ですし、とりわけ若手向けにお勧めしたいのが、「成長承認」。「…ができるようになったね」「成長しているなあ」といった言葉がけです。若い人であればあるほど、行動をとることによって自分の経験が広がり成長できることは大きな幸福感につながります。そして身近にいてそれをともに喜んでくれる上司・先輩は、信頼できる存在になるのです。
 「行動承認」や「成長承認」をベースにした「承認」は、「見ていてくれるんだなあ」という独特の幸福感をつくります。行動経験の少ない今の若い人であっても、職場のユニットの中で信頼する大人から日々の行動を「見てもらえる」というのは生涯初めての体験です。それによって「行動を通じて現実と格闘する」ことの面白さを学べば、それはLINEなどでのバーチャルな人間関係よりもはるかに大切にしたいものとなりえるのです。

8鎚面銘
 「承認」と並んでお勧めしたいのが個別面談です。会議では人目を気にして発言せず、1対1の場で初めて本当の心の内を打ち明けてくれるのが今の若手の特徴。ある営業会社では、課長が週1回全課員に個別面談をすることを義務づけたところ、離職が減ったそうです。先の「LINEいじめ」のような困り事の話も、こうした場で初めて出てきます。

ぅ繊璽犲言
 これは、少し説明が必要かもしれません。近年話題になるのが、「叱られ下手な子が増えた」ということ。叱責されるとその上司を恨んでしまい、その後ふてくされて、ちょっとした指導を受け付けなくなる、といいます。これは「ほめる教育」や、多くの時間をゲームやネットで費やし実体験が極めて少ないまま社会人になってきた、今の若い人の育ち方が影響しているかもしれません。
 こうした若い人を叱って行動の修正を図るのは過去より難しくなっていますが、お勧めしたいのが、複数の人が見守ることで、「叱り役」以外に「フォロー役」を設けておくことです。フォロー役の人は、叱責された若い人の傷ついた感情の受け皿となり、前向きの行動を促すとともに、叱り役の人に悪感情を持たないよう誘導します。ここで、フォロー役の人は若手に寄り添うものの、叱った内容については否定することなく、叱り役の人と同じ方向性を保つ必要があります。これを、「チーム・ティーチング」ならぬ「チーム叱責」と呼んでいます。

 この連載ではこれまで「叱責」については紙幅の関係で触れられませんでしたが、「承認マネジメント」の世界には「叱責」がちゃんと存在します。それも、メンタルヘルスやハラスメントへの懸念が先に立ち多くの上司が「叱る」ことを手控える昨今でも、「承認」をするマネジャーたちは一方でかなり部下を叱ることもしています。
 なお、若い人に限らず、職場で良い人間関係を維持しパフォーマンスを上げるには「5:1の法則」があります。「良いフィードバック:悪いフィードバック=5:1」。難しいとお感じになるかもしれませんが、すでに「承認」に取り組み始めたあなたなら、自然とこの比に近づけられることでしょう。

LINE世代は上司の承認を求めていますか? 

 実は想像以上に「承認」を求めています。そのことを示すデータがあります。
 昨年の新入社員を対象にしたジェイック社の調査では、新人は‖嵯匹垢訃綮覆梁減漾´⊂綮覆自分の成長を気にかけてくれる その会社で自分が活躍できるイメージが持てる―の3要素があれば、退職を考えるには至らないということが分かりました。このうち´△呂修里泙「承認する上司」を意味しているといえます。
 昔も今も、若者は「承認欲求」の強い存在であり、また「成長」も求めています。若者自身も「認めてほしい」という言葉を頻繁に使い、「承認」には驚くほど素直に反応します。
 昨年兵庫県のある大学では、退学防止に「存在承認」に取り組みました。教授陣が「〇〇君、おはよう」と学生に朝の挨拶をするようになったところ、退学者がそれまでの3分の1に激減した、ということです。また「承認」が浸透した職場では、若者たちが上司に心を開いて仕事の悩みはおろか、「恋バナ」までも打ち明け、「今の若い子は分からない」という一般の嘆きが嘘のようです。信頼できると認めた上司には反応するのも速いのが、今の若い世代であるようです。
(了)

 なんか今回は説明口調が先にたってあんまり出来のいい文章じゃないです
 書いてることは本当です。

「若者が上司の言うことを聴いてない」
 この事態に対して、若者の側に「傾聴研修」をする、という考え方もあるでしょうが、もっと有効なのが「上司からの承認」。

 脳の中で「自分を感じる機能(自己観)」をもつ領域は「内側前頭前皮質」といいますが(こんなの、おぼえなくていいですよ)、いわば「承認」に反応するこの同じ領域が、同時に自分の外部の規範を取り込む仕事もしている。ということを、『21世紀の脳科学』の読書日記でみました。
 つまり、「承認」によって自分の自意識を活性化させてくれる人の言うことは、若者にとって取り込むに値するということ。
 これが、「上司が承認をすると部下が話を聴いてくれやすい」ということのメカニズムです。


「上司必携・行動承認マネジメント読本」シリーズ全体の構成は:

第一章 行動承認は”儲かる技術”である(2015年7月号)
 http://c-c-a.blog.jp/archives/51919833.html
 第二章  「承認」の学習ステップ(8月号掲載)
 http://c-c-a.blog.jp/archives/51921667.html
第三章 女性活用と登用は「上司の眼差し」次第(9月号掲載)
 http://c-c-a.blog.jp/archives/51923763.html
第四章 LINE世代に対するマネジメントとは(10月号掲載)
 http://c-c-a.blog.jp/archives/51925545.html
第五章 「踏み込みすぎない」メンタルヘルス対策(11月号掲載)
 http://c-c-a.blog.jp/archives/51927183.html
第六章 部下の凸凹を戦力化に転じる(12月号掲載・本記事)
 http://c-c-a.blog.jp/archives/51932814.html
第七章 伝えたいことが「伝わる」伝え方(2016年1月号掲載)
 http://c-c-a.blog.jp/archives/51934650.html



(一財)承認マネジメント協会
 正田佐与

お世話になっている皆様


 おはようございます。
 一般財団法人承認マネジメント協会の正田です。
 
※このメールは、正田が過去にお名刺を交換させていただいた方・当協会のイベントやセミナーにご来場いただいた方にお送りしています。ご不要の方は、メール末尾にありますURLより解除ください。
(解除方法が変わりました!詳細はメール末尾をご覧ください)


 本日の話題は:

■「承認」は現代に向き合う思想たり得るか
 ―沢山の「いいね!」に感謝。藤野寛論文シリーズ4部作をブログに掲載しました
 
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■「承認」は現代に向き合う思想たり得るか
 ―沢山の「いいね!」に感謝。藤野寛論文シリーズ4部作をブログに掲載しました

 お蔭様でわたくしのブログ「コーチ・正田の愛するこの世界」は開設10周年。
 関係あるのかどうかわかりませんが、不思議と、今年は良いお出会いに恵まれております。
 藤野寛・一橋大学大学院言語社会研究科教授とのお出会いもその1つといえるでしょう。

 前号でも藤野教授が第一章を執筆された『ジェンダーにおける「承認」と「再分配」』をご紹介しましたが、このほど同教授から、「愛」と「承認」について書かれた過去の論文3篇をいただき、それらについてもブログに読書日記を掲載いたしました。
 また嬉しいことに、このシリーズはフェイスブックのお友達が毎回シェアしてくださったり、「いいね!」を押してくださったり、長文記事にもかかわらず温かく受け止めていただきました。
 
 読者の皆様、週明けのご多忙のさなかでいらっしゃると思いますが、お時間のふと空いたときにご覧になってみてください:

「愛」と「自由」と「暴力」と「承認」についての藤野寛論文シリーズ

(1) 温かい見方と客観的な見方、愛と人権尊重と業績評価―『ジェンダーにおける「承認」と「再分配」』をよむ 
http://c-c-a.blog.jp/archives/51924134.html

(2) 「愛の危機」の時代「愛」の差別、闘争、苦しみと幸福、そして家族のジレンマ―藤野寛氏「家族と所有」をよむ
http://c-c-a.blog.jp/archives/51925108.html

(3) 村上春樹文学と「承認」、無視、軽視、物象化との対決、よい社会とは何か―藤野寛氏論文より第二弾
http://c-c-a.blog.jp/archives/51925168.html 

(4) 自由と暴力と承認、「承認」が引き受けるものの範囲―藤野論文をよむ(3)
   http://c-c-a.blog.jp/archives/51925241.html  

(番外編)
   正田と「承認をめぐる闘争」、実践者たちの強さと脆弱さ
   http://c-c-a.blog.jp/archives/51925284.html 


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※このメールは、正田が過去にお名刺を交換させていただいた方・当協会のイベントやセミナーにご来場いただいた方にお送りしています。

解除される場合は、下記の解除フォームから受信していただいたメールアドレス入力して下さい。
メールアドレスを入力していただいた後、解除専用の確認メールをお送りさせていただきますので解除専用のURLをクリックして下さい。
いたずら防止のため解除の確認メールをお送りさせていただいておりますのでご理解のほどよろしくお願い申し上げます。
http://mag1.hyper-mail.jp/md/publish/quit.asp?mid=848


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http://c-c-a.blog.jp/archives/cat_50052130.html 


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もしこのメールを新たに購読ご希望のかたがいらっしゃいましたら、
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100年後に誇れる教育事業をしよう。
一般財団法人承認マネジメント協会
(旧NPO法人企業内コーチ育成協会
http://abma.or.jp
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理事長 正田 佐与
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TEL: 078-857-7055 FAX: 078-857-6875
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ツイッターアカウント: @sayoshoda

フェイスブックページ: http://www.facebook.com/sayo.shoda

ブログ「コーチ・正田の 愛するこの世界」
http://c-c-a.blog.jp/

近著『行動承認―組織の能力を最大化する「認める力」』
http://www.amazon.co.jp/gp/product/4434198572 


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 さて、「藤野寛論文シリーズ」を終えてマネジャー教育の「行動承認」の教師である正田がおもうこと。

 ここでは、

●わたしが経験した「承認をめぐる闘争」
●実践者たちの強さと脆弱さ

という話題を書こうと思います。


 「承認教育」にも、「闘争(葛藤)」の側面があります。52歳女の正田はそれの当事者となり続け、実はそのことにもうかなりくたびれてもいます。

 その「疲れた」という自分の中の正直な感覚も含め、これまでに経験した「闘争」について、この機会に書いておこうと思います。
 たぶんそれは歴史の一コマで、記録するに値することだと思うのです。


 もともとホネットが「承認をめぐる闘争」というとき、正田のやるようなマネジャー教育が「与える承認」を社会に供給するという事態を想定しているのかどうか―。
 藤野論文にも「承認は「認められる」という受動態であるところに独特の意味がある」ということを言っていて、「与える承認(=能動態の承認)」が、そこで想定されているのかどうかわかりません。
 
 でも、「与える承認」をマネジャー向け教育プログラムとしてご提供し続けてきて、10数年来強烈な成果を出し続けてきたのは厳然たる事実です。

(ちなみに、「学術的に検証」してもらうのはもう、諦めています。だって少々の学者さんが想定するような業績向上のレベルではありませんもの。論文書いてどこかに出しても「捏造?」って言われるだけで、学者さんにとってもメリットないと思います。
 学者さんたちがやるような業績1.05倍とか1.1倍とかの程度の、「学術的に検証された」教育プログラムより、民間療法の当方のほうが「はるかに上」だ、ということです)

 さて、「与える承認」を社会に供給するには、社会の上のほうの階層に働きかけないといけません。経営者、マネジャー…あたりに担い手になってもらわないといけません。
 そこで経営者教育、あるいはマネジャー教育、という選択肢になるわけですが、その市場には独特の流通のルールがあり、購買担当者は独特の人格、独特の利害関係をもった人たちであり、一介の主婦から出発した正田の参入は容易ではありませんでした。

 以前にも書いたと思いますが正田が初めて勇気を奮い起こして「法人営業」にいった先の購買担当者は、営業資料を投げ返したものです。「主婦」の正田が、「でもわたしの生徒さんは業績1位なんです!」てなことを言うからです。その件はいまだにトラウマになっています(苦笑)

 正田が経験してきた「闘争」というのは、そうした「社会の上層部」に働きかけようとする際の参入障壁のようなものであったり(「無視」「軽視」にカテゴライズされるでしょう)、いざ参入したあとも起こる妨害であったり、またその参入の困難をいくら訴えても理解しない周囲の人の鈍感さとの間の葛藤であったり、します。
 参入障壁を詳しく言うと、そこには関西の風土特有の、「お爺さんコンサルタントをありがたがる」気風も影響していたと思います。より特定すると、「団塊コンサルタント」ですけれど。その方々が今の時代到底通用しないような、イケイケドンドンの論調のリーダー研修を行い、それは受講生がまじめに取り組めば取り組むほど死屍累々になるようなものでした。そういう類のものがメンヘル疾患や自殺、パワハラ訴訟をつくりだしていないか、わたしなどは本気で危惧しますが、まあそういう因果関係に思い当たる人はいませんナ。
 また下手にわたしのために動いてくれた人びとが動いた先で「憤死」するのもみてきました。中にはこころを病んだ人もいました、まじめな話。

 ちょうど1年ほど前、通算7回目の事例セミナーを神戸で行った際(7回もやらなければならなかったことが、既に「無視、軽視」を象徴しているのだが)、あろうことかパネリストの1人がイベントの席上で反旗を翻し、この教育プログラムに何も価値がなかったかのように言い、自分の部下が優秀だっただけだと強弁し、かつわたし個人のことも侮辱した、という事件もありました。
 そういうのも「承認をめぐる闘争」の一部でしょう。歴史の一コマですから、担い手の名前とともに記録しておきたいものです。

 また、ブログの長い読者の方はお読みになっているかと思いますが、他社批判の作業の忙しいこと。
 このブログの右側に最近表示させた記事カテゴリに「研修副作用関連」というのがありますが、そこをみていただくと、主に心理学系の教育研修や自己啓発本を軒並み批判してきました。「内発と自律論」や「離職者続出」にするコーチングの某流派やNLP、アドラー心理学の「勇気づけ」、自己啓発本、さては「傾聴教」も批判しました。中には善意の担い手の方もいらっしゃるかと思いますが、多くは専門家の間では常識である「暗黙の前提」を欠いたプログラムであるために、素人である受講生の中に落ちるとおかしなことが起きてしまう。そこまでの想像力をもたずに提供しているなら、それは「わるい研修」です。クルマのリコールをわらえません。

 そうして、「他社批判」という汚れ仕事は、「承認」のもつあたたかく受容的な雰囲気にそぐわないものでした。それで味方のロイヤリティが下がる場合もありました。「承認」は「内集団」のなかでは限りなく温かいのです。しかし、「外集団」が攻撃してくるときには無防備ではいられません。また「外集団」との間になぜきっちり線をひく必要があるのか、なぜぼやけてはいけないのか、ということもきっちり言わないといけません。とはいえ批判の仕事はあまりにも多すぎ、自分の人格がおかしくなったのだろうか、と思えるほどでした。

 残念ながらその汚れ仕事を担うのはずうっとわたし一人で、その孤独感は半端ありませんでした。

 最近懺悔したのですが、「他社批判」「他理論批判」をやる中で、「承認欲求バッシング」に対する批判は、後手に回りました。そこまで手が回らなかった、と言ってもいいです。現象としては2013年ぐらいから、どうも出版界のこの傾向はおかしい、と気づいていましたが、ほかに批判しないといけないものがあまりにも多すぎて、そこに手をつけられないできました。

 もっと早く
「そこに照準を合わせないといけない」
と気づいていれば、また
「なぜそれがおかしいか」
をきっちり言っておけば、そこに連座しないですんだ人もいたかもしれない。

 わたしを「他社批判ばかりする」と批判する立場もあるでしょうけれど、自分の責任を全うするために批判をしなければならない場面もあるわけです。批判が遅れて悲劇を生むかもしれないわけです。
 

 
 ともあれ、正田は失うものもない身ですので、売られた喧嘩は喜んで買います。今社会で下の階層に沈められ苦しんでいる人々のためであれば、「えせ知識人」の1人や2人、にどと表舞台に立てなくするぐらい全然平気です、たとえ相打ちになっても。
 そして喧嘩慣れしているので、たぶん喧嘩になったらわたしのほうが強いです。このあいだも某ダンジョンで自称武術家の人を投げとばしました、言葉で。喧嘩売りたければどうぞ売ってきてください。52歳女性のわたしを怒らせたかったら怒らせてみなさい。


****


 さて、「承認教育」は、極めて優れたマネジャーをつくり、高い業績向上を起こします。

 その担い手となるマネジャーは、決断力に富み、配慮に富み、行動力があり、人々を上手にモチベートし、人々を公正に評価し、人の痛みがわかり、柔軟で過去にとらわれず、また責任感高く、真摯で考え深い人々です。
 それはもともとそうした才能があった人々が担い手として定着しやすいのだと思いますが、トレーニングと実践により、それらがますます高まります。ワーキングメモリが増え思考や感性の密度が上がり、恐怖を感じる扁桃体の細胞密度が減り、ものごとを前向きに考え決断します。

 いいことずくめのようですが。
 ところが、この人々にも弱点があります。
 どうも、「悪意に無関心でいられない、傷つきやすく落ち込みやすい」という脆弱さがあるようなのです。

 これは過去の複数の事例をみて言っているので、「どういう実体験に基づいて?」という探りはおやめください。

 たぶん彼(女)らの鍛え抜かれたミラーニューロンは、他人の悪意ある言動をもフォローしてしまい、その意味・意図を理解してしまうのでしょう。また共感ホルモンのオキシトシンには、沢山のよい作用がある一方で、「おちこみやすい」という副作用があります。

 だから、実践者を傷つけるのはやめてほしい。

  また、傷つけ(harm)を誘いこみやすい、というんでしょうか―
 正田もクソマジメなたちなのでよくわかるのですが、真摯でない人は、真摯な人をばかにしたくなる。真摯な人というのは、からかい甲斐がある。
 なので、真摯な人々に向けた「からかい」というのは、よく出やすい。

 大きなワーキングメモリをもった人というのは、ものごとを通常より一段階深く考えることを厭いません。
 その姿勢は部下からは絶大な信頼を生むものですが、(ドラッカーの「マネジャーは真摯であれ」というフレーズも想起されたい)そこまで真摯ではない同輩や上司からみると、鬱陶しくみえます。それが、こころを傷つける揶揄につながりやすいものです。

 そして、昨今のクルクル変わる研修採用の問題。
 「承認教育」が有効なのは既に自明のことですから、彼(女)らから取り上げないでほしい。1年やそこらで取り上げて次の類似の研修を採用してしまったら、恐らく真摯な人ほど深く傷つきます。

 そこで起こる「傷つき、落ち込み」は、真摯でない人からは恐らく想像がつかないものです。



正田佐与
 

 

 


 

 

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