正田佐与の 愛するこの世界

神戸の1位マネジャー育成の研修講師・正田佐与が、「承認と職場」、「よのなかカフェ」などの日常を通じて日本人と仕事の幸福な関係を語ります。現役リーダーたちが「このブログを読んでいればマネジメントがわかる」と絶賛。 現在、心ならずも「アドラー心理学批判」と「『「学力」の経済学』批判」でアクセス急増中。コメントは承認制です

2015年12月

『講座スピリチュアル学第5巻 スピリチュアリティと教育』(鎌田東二企画・編、ビイング・ネット・プレス、2015年12月)を読みました。
 西平直、上田紀行、中野民夫ら豪華執筆陣。「『スピリチュアル学』とは、こころとからだとたましいの全体を丸ごと捉え、それを生き方や生きがいなどの生の価値に絡めて考察しようとする学問的探究をいう」と「はじめに」(鎌田東二)にあります。

 正田はこの本の第二部「教育と贈与的他者性とわざ」の伝統芸能の中のわざの伝承の項に興味をもって読み始めたのですが、ほかのパートにもわたしの仕事的に重要そうな記述がたくさんありました。―あまり期待しないで読みはじめた本に多くの発見があるというのは、この歳になって心楽しいことであります―

 また、従来「スピリチュアル大嫌い」の方針で来ていますが、この本で扱う範囲の「スピリチュアリティ」は許容範囲だ、ということにいたしましょう。

 当初のお目当てだったパートを最初に、続いて他のパートからも順に抜き書きをさせていただきます。(引用部分太字)

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◆わざの臨床教育学に向けて―「できる」と「できない」をつなぐ身体(奥井遼)

淡路島を本拠とする人形浄瑠璃の一座、淡路人形座を舞台に、わざの伝承における教え手と学び手の身体の変容を考察しています。3人の人形遣いが一体の人形を動かす、新人は「足遣い」から始め20年以上かけて「頭遣い」になっていく世界。

伝統芸能におけるわざの稽古の現場は、「阿吽の呼吸」や「名人芸」など、とかく神秘的な色合いとともに語られることが多い。しかしながら本稿が光を当てるのは、むしろ華々しく表象化された言説の中でかき消されてしまうような、現場において生じている名もない試行錯誤のやり取りである。彼らの経験は、(略)型の習得に挑んで失敗したり、人形の振りを忘れてしまったり、身ぶり手ぶりを駆使してかろうじて会話し合うような、ままならなさに満ちている。こうした等身大のやり取りに着目することで、習慣的な動作を脱してわざを身につけ、一人の人形遣いになっていくという困難で奇跡的な出来事が見えてくる。(p.205)

 ベテランの人形遣いたちはすでにわざを身につけ、舞台に立っています。身につけたわざを自明のうちに駆使し、わざを同じ程度身につけている人形遣い同士の会話は極めて円滑です。
 だが稽古の時間は違う。とくに、新人がはじめての動きを習得するときや、ベテランが未知の振りに挑戦するようなときがそうである。それまでにやったことのない振りに出くわし、当人の身体がついていかないという事態が起こるからである。このとき稽古の場に居合わせた人たちは、「できる」身体に立つか「できない」身体に立つか、乗り越え不可能な差異に直面することになる。(p.207)

―「できる」人と「できない」人の差異。これは当然、研修講師としての正田と初めて受講する受講生様との間にも横たわっています。また受講後の人とそうでない人との間にも。不思議なもので、「承認研修」は恐ろしく単純なものなのにその前後で大きな段差をつくりだします。そのことは過去に本を書く時にも事例セミナーをやる時にも、つねに課題となってきたところです。とにかく「できる」人たちに見える世界がそうでない人のそれとは違いすぎ、話せば話すほどリアリティがなくなってくるのです。それは余談です。


 すでにその振りが身についている人は、身についていない身体には戻れないし、振りが身についていない人は逆に同様である。ここに教え手と学び手とが誕生し、両者が協力しあって「できる」身体を導く共同作業に挑んでいくわけである。ここで彼らの身体は、身ぶり手ぶりを尽くして、もがく。…この、もがいたり手さぐりしたりするような動きこそ、「概念化される以前の生」の躍動のひとつである。(同)

―もがいたり手さぐりしたり。実は、「承認研修」はこのプロセスをある程度自動化してしまっていますが、つまり「こういう論理展開でこれぐらいの体験をしてもらって、講師の話し方はこんな感じで」というさじ加減をレシピのように決めてしまっていますが、際限なく「これで本当にいいんだろうか」と迷いがわきます。
 今後あるかどうかわかりませんが、「承認」講師志望の方が徒弟制で真摯に学びたい、と言ってこられたとき、こうした「もがいたり手さぐりしたり」の場面があるかどうかはわかりません。上記のレシピを何も考えずにコピーしようとする人も出てくるかもしれないが、ちゃんと考えてほしいものだが…。

―たとえば、‘遣い(教え手)は足遣い(学び手)に自分の動作をゆっくり行って合わせてもらおうとしたときに、不意に自分の動作を忘れてしまう。(「分からへんようになってもうた」。)そして(自分の動作でなく)人形自身の動作をやってみることで、自分の動作を取り戻そうとする。
△△襪い蓮言葉での指示に限界があることがわかると、頭遣いは人形の足をつかみ、動作を分節しながらやってみせる(直接的な介入)。
あるいは、足遣い(学び手)の誤った動作を先輩(教え手)がやってみせたうえで、「こうでなく、こう」と正しい動作を教える。足遣いは、それでも自分のどこが失敗した動作なのかわからない。「こうですか」と自分でもやってみせ、それはやはり違うことを指摘されてはじめて教示されていたことの意味がわかる。(いわば「できる」教え手たちと「できない」学び手とのやり取りは、足遣いCによる積極的な探求によって、足遣いCの「できない」を共同的に析出することによって成立した。pp.223-224)

 手本とは、教え手たちの連携のみによって呈示されるものではなく、それを受け取る学び手からの働きかけを得ることによって、すなわち、送り手と受け手が共同的に探り合う中で、はじめて手本として成立されるといえよう。(p.219)

 総じて教え手たちは、正しい振りについて熟知していたとしても、それだけで学び手を導けるわけではない。反対に、学び手にとっても、いかなる仕方で自分の身体を動かせばよいのかを、動かす前から知る術はない。稽古とは、あらかじめ行く先の見えている道をひた走るような活動ではなく、互いの身体を少しずつ変容させ合うような、教えることも学ぶこともそこから「引き出される」ような、「どちらが創始者だというわけでもない共同作業」であって、道を切り開きながら進むような歩みなのである。(p.224)


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 ここで正田の感慨。
 こうした「徒弟制」が、これまで「承認研修講師」の世界では成立しませんでした。学び手の側にそこまでの学ぶモチベーションの持ち主がいませんでした。
 過去に「承認の講師になりたい」と言ってきた人も、「わたしは講師になる人には厳しいですよ。スパナで殴りますよ」「徒弟制ですよ」と言われると、次に会った時からは「いえ、講師にはなりたくありません」とトーンダウンするのでした。彼(女)らは、講師育成の世界も「承認で優しく」教えてもらえる、と思っていたようでした。
 その人たちにとって、「講師になる」というのはクリエイティブな楽しいだけの作業であり、過去に自分が受講して楽しかった研修の中から切り貼りコラージュしてつくるもので、主眼は
「女子力高いチャーミングな私」
「みんなから注目を浴びる中で大事な人生訓のような『決めゼリフ』を言う私」
をやることでした。「私」が大事なのでした。
 そうじゃないでしょ。マネジャーという人生経験もあり責任もあり、また人一倍、傷つけられ経験も裏切られ経験もある人たちに対して自分の言葉を「しみこませる」というのはどれほど大変なことかわかってるの。薄っぺらな研修講師の言葉なんてすぐ見透かされるよ。ロジカルにつながってない話も見抜かれるよ。(心の声)
 ―まあお客様でも、特に直接の購買担当者の人たちは往々にしてそのへんのことわからないで、底の浅い商品ばかりお買い物するのですけどねー。
 そういうレベルの品質の話をできる人にこれまでお会いしたことがなかった。これからは、できるのかもしれない。少数の人と。
 NPOから財団、そして個人事務所へ。「仲間」の数をどんどん減らしてきたのは、精製したい、ということでもあります。随分読書日記と離れたところへきてしまいました。

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 それ以外の本書『スピリチュアリティと教育』で心に残った箇所を抜き書きします。

 学び始めると、これが、奥が深い。「教育」というのは「底なし」だと思わされた。どこまでいっても窮まりというものがない世界。「納得」もない。常に「反省」と「創意工夫」と「練磨」と「試行錯誤」しかない。一種の「修行」のようなものであるとも思った。それは、「真剣勝負」であるには違いない。(「はじめに」鎌田東二、p.4)

「スピリチュアル学」とは、こころとからだとたましいの全体を丸ごと捉え、それを生き方や生きがいなどの生の価値に絡めて考察しようとする学問的探究をいう。また大変重要なことであるが、この世界における人間存在の位置と意味についても真剣に問いかける姿勢も保持している。そのような意図や方向性を持ちつつ、心については心理学、体に関しては生理学や神経科学(脳科学)、魂については宗教学や神学といったような、従来の細分化された専門分野に限定されてきた学術研究の枠を取っ払って、こころとからだとたましいと呼ばれてきた領域や現象をホリスティック(全体的)に捉えようとしたのが本シリーズである。(同、p.7)


―次のパートは、いきなりわたしの仕事的に大事なことが出てきました。

 「自我」は大切なのか、それとも「自我」は危険なのか。自我を形成してゆくべきなのか、それとも自我から離れてゆくべきなのか。(略)
 後年、この二つのメッセージが、実は異なる「読み手」に向けられていたことを知った一方は「自我を確立する以前」の人たちに向けて語られたもの、他方は「自我を確立した後の悩みを抱えた」人たちに向けて語られたもの。(「教育とスピリチュアリティ―その関係をいかに語るか」西平直、p.19)

 ここで話を簡単にするために、教育を「自我形成ベクトル」と重ねる。むろん教育の定義としてはこれではまったく不十分なのだが、それでも一般的な意味において、子どもの「自我形成」を援助するベクトルを教育と理解することは許されてもよいだろう。「自我形成・主体形成」の支援としての教育。
 他方、それとは逆方向の「自我から離れてゆく」ベクトルをスピリチュアリティと理解する。むろんこの場合もたくさんの議論が必要なのだが、スピリチュアリティの一側面として「自我から離れる」という要素が含まれていると理解する。(略)
 ところで、この対比に、ライフサイクル(人生)の区分を重ねてみれば、人生前半においては「教育=自我形成」が大切であり、人生後半においては「スピリチュアリティ=自我からの解放」が大切であるという、分かりやすい図が出来上がる。(同、p.23)

教育とスピリチュアリティ


 さて、こうした図式的な理解において、スピリチュアリティとは、いわば、自我や主体の確立がもたらす「弊害」を警告し、その問題を解決しようとする方向性である。自我や主体は大切なのだが、しかし同時に自我は自己中心的になる。自我に縛られる時、人は、自分を中心に他人を利用し、自然を利用し、のみならず、それを当然と考えるようになる。
 そこでスピリチュアリティは「離れてゆく」ことを勧める。自分(自我・主体)を中心にすることから離れる(手放す・中心を明け渡す・letting go)。そして「関係性」を中心とする。自分一人の利益ではなく、自分を含んだ関係性の利益を中心にする。(同、p.25)

―このあたり、長い読者のかたはおわかりになりますね。「例の漢字2文字」の教育が担う領域というものが。それは上の図でいえば右側、「自我から離れてゆく」スピリチュアリティの教育に該当することをします。人生後半に行われることが望ましい教育です。
 たとえば「若手に承認研修を」というご要望に対しては(よくあるんですが)基本、お断りをしています。それはやるとすれば、組織開発で言えば最終段階です。その年代はまだ「主体確立」の教育をやる段階なのです。中年以上の人にこそ必要です。
 逆に、せっかくの機会なのであえてこういうことも書いておきますが、中年以上の人に教育をする場合、実はわが国では特に、若い頃までの「主体確立」ができてないまま中年になっている人も多いので、「承認教育」をやっても混乱が起こる場合があります。なかなか困った課題です。
 わたしが取りあえずそこでやってきたことは、まずは「承認教育」をする際に「もらう側ではなく与える側になりましょう」と念を押すこと。「承認欠乏症」でその歳まできた人が多いわけですから、ともすれば「オレだってもらう側になりたい(欲しい)」が強く出てしまいます。そこをあえて我慢して「与える」側になっていただく。ちょっと気の毒な要求ですが、第一段階ではそうします。
 思い切って「与え手」になると、意外にそれである程度充足が得られます。若手中堅がよい反応をしてくれたことで「自己効力感」が高まります。
 その段階になっていただいてから、徐々に「強み」「価値観」といった、「主体再確立」に向けたプログラムにも馴染んでいただきます。同時並行といいたいですが時間的にはそちらが「後」になりますね。
(なぜ「主体再確立」が「後」になるかというと、簡単に言うとリーダーが「ワガママ」になってもらったら困るからです。自我がぶわーっと拡張した状態の上司を部下は止められないからです。こんな簡単なこともわからずに無造作に「主体確立」系の研修を最初からリーダー研修としてすすめてしまう業者さんが多すぎます。そっちのほうが高揚感があって楽しいんです)
 ともあれ、「承認される前に承認せよ」と、リーダーに対して最初にする要求がかなり「過大」なので、「承認研修」では、「最適条件」というのをかなりうるさく事務局様にお願いします。ほんとは、毎回「決死の覚悟」でお伝えしているので、もっと評価していただきたいなあ、と思うところです。あとになると「簡単なことじゃん」みたいに見えると思いますけれど。
 ああまた読書日記から離れたところへきてしまった。

―このあとの文章では「スピリチュアリティが教育を『包み込む』」という表現も出てきます。それは、わたしがやっているような「関係構築研修」の中に「主体確立研修」を包含するような作業も言うのか、よくわかりません。

―大教室での講義がもたらす心理的作用。

 従来の大教室の講義は、その内容が最初から決まっている。そして教員はその講義内容を以前であれば黒板に板書しながら、現在の理工系の講義の多くではあらかじめ用意されたパワーポイントスライドを映写しながら説明する。大学の講義といえばこういった風景が思い返されるだろう。
 この講義で伝達されている講義内容はその科目ごとの学ぶべき内容なのだが、それがどの科目であるにせよ、ひとつの大きなメタメッセージを学生たちに伝えている。それは「自分がここにいてもいなくても、世界はまったく変化せず、同じように進んでいく」というメタメッセージだ。
 私がここにいる以前に講義の内容は決定されていて、それが粛々と進行していく。自分がこの教室にいても、家で寝ていても、同じように講義は進行していくだろう。自分自身は世界のあり方に何の変化ももたらさない。そういった世界との切断感をこうした講義は知らぬうちに潜在意識に埋め込んでいく。「あなたなんかいてもいなくても同じだ」、こういったメッセージほど魂を傷つけるものはない。(略)しかし私はここにいてもいなくても世界が同じように進行していくのならば、なぜ私はここにいなければならないのかという、存在に対する不安と無力感、疎外感は、私の青年時代よりも現代のほうがむしろ昂進しているとも言え、その中でのこの講義形態はかなり暴力的なものであるとも言える。
 もっともそこで自身の無力感と世界との切断感に気づかせ、そこからの再起を促すというのであれば、非常に教育的な講義形態だとも言えるが、しかし多くの学生はそこまで至らず、単に「自分がいてもいなくても世界は変わらない」という世界からの切断と自身の無力感にとどまってしまうのではないか。さらにそれは後述する「物事には決まった正解があり、それを学ぶのが学問であり、その正解を求めるのが評価される道である」という、極めて非創造的な学問観に容易につながっていく。(「大学全体の教養劇場化を目指して」上田紀行、pp.45-46)


―いかがでしょ。「大教室方式」がつくりだす「いてもいなくても同じ」感。筆者はすごい雄弁に叙述しますがその通りと思います。これも「例の漢字2文字のやつ」とつなげて考えると良さそうですね。
 いらっしゃるんですよね、50人とか100人とかの大人数集めて盛大なかんじの研修をやるのがいいことだ、と思っている方が。しかし「承認研修」はそれは馴染みません。「承認されてない」感覚満載のなかで「承認」を学ぶという、ねじれ現象になります。結果、大多数の人の「学び逃し」を作り、貴重な機会を逸してしまうもとになります。こういうのはもう技術の世界のセオリーなどと一緒で、厳密に決まっているものです。

―上田氏によるリベラルアーツ教育の「4つのC」。
1.コミュニケーション:伝える力。
2.クリエーション:哲学書(それ以外の書も?)を読んで「自分はどのように成長していくのか」「自分を深めていくのか」「未来をどういうふうに切り開いていくのか」「どのように世の中をよりよきものにしていくのか」を考える創造性をもつこと。
3.コミットメント:「関わる力」。評論家のようにただ言っているだけではダメ。
4.ケア:学生自身が、自分の周囲にいる人がよりよく生きていくことをサポートする能力。(同、pp.52-54)


―気づきの教育について。
 ここは過去にマインドフルネスについて書いた記事とかなり重なりますが、大事なことなので引用しておきましょう。

 ホリスティック教育のなかでは、スピリチュアリティにかかわる取り組みとして観想的実践に大きな比重が置かれている。しかし、それは観想教育でしばしば強調されるような、身心の健康増進のためのスキル学習というものに留まらず、むしろ人間のホリスティックなあり方を実現するための主要な実践として位置づけられる。
 日常生活において人間の行動は、そのほとんどが習慣的なものであり、とくに注意や気づきを要することなく自動的に生じる。そのさい意識はいわば半覚醒状態にあり、ほとんどたえず思考活動に同一化しており、ときおり感情や目立った身体感覚が生じたときには、それらに同一化しやすい。そのような状態では、思考や感情や感覚への無自覚的同一化と、それらに対するパターン化された反応としての断片的行動が継起している。これに対し、観想的な気づきの実践は、非難や評価をまじえず、自分のなかに生じる感覚、感情、思考に注意を向け、それらを細かく観察していく訓練である。このような自己観察は、自己を構成するものを明晰に識別して詳しく知ることに役立つ。そして気づきのなかでは、感覚、感情、思考の個別現象から脱同一化することができ、それらに無自覚に支配されることが少なくなる。観想的実践で重要なのは、気づきの意識を十分に確立し、気づきへのセンタリングが起こるということである。
 クリシュナムルティやオルダス・ハクスレーは、このような意味での気づきの教育を提唱していた。クリシュナムルティは、人間の精神が社会や伝統や宗教によって条件づけられることによって、恐怖、葛藤、苦しみ、悲しみ、暴力などが生じることを分析し、既知のものによる条件づけから抜けだす道として「無選択の気づき」や「全的な注意」を強調した。気づきを高めることによって、人間は自分の条件づけを知りそこから脱同一化し、自由で創造的で、真に英知のある存在になることができる。気づきのなかで精神の思考活動が静まると、現にそこにあるものの直接経験が生まれる。言語的思考による分節化が静まるため、境界意識は消え去り、周囲の世界に直接ふれてひとつになることができる。クリシュナムルティが「教育とは、鳥の鳴き声を聞き、大空を見、えもいわれぬ樹木の美しさや丘の姿を眺め、それらとともに感じ、本当にじかに、それらにふれることでもある」と述べたとき意味していたのは、そのような高められた気づきのことである。(「ホリスティック教育とスピリチュアリティ」中川吉晴、pp.113-114)


―最近は「グーグルの社内教育」としてマインドフルネス研修が隆盛のようですね。これはけっして批判ではないのですが、わたし自身は過去何回か「瞑想」にチャレンジして挫折しました。研修の中ではできますが日常ではなかなか…。(ADHD気味なのだとおもいます)そういうドロップアウト群がかなり出ると思う、ひょっとしたら過半数ぐらい。「承認研修」だと、丁寧にやればそんなにドロップアウトが出ない。かつ、日常動作であるだけに、上記のような「気づき」の効用が得られる。まだだれもそうした効果を検証してくれないんですけどね。

―ベルクソンによる「閉じた道徳」と「開いた道徳」。
(ベルクソン『道徳と宗教の二つの源泉』1932年による。「愛と自由の道徳教育」矢野智治、pp.155-157)

 うーん、感動的な文章だけど引用するのをやめよう。「閉じた道徳」よりも「開いた道徳」というもののほうが、素晴らしい模範的人物への熱中により、喜びに満ちていて超個体的な自由への欲望、絶対的な正義への欲望、…などありとあらゆる良いものを希求すると述べています。カリスマ志向というのはないんですね。あたしも家元だけど平凡な人間ですし。
 ここだけ引用しよう。「愛」について言っているところです。

 …このとき「開いた道徳」を特徴づける情動とは「愛」である。この愛は私たちが通常使用している男女の性愛の愛とも、また家族の愛や、祖国への愛とも異なる。このような愛は結局のところ、他の人々とのあいだに境界線を生みだしてしまう閉じた愛であるのに対して、「開いた道徳」を特徴づける愛は、反対にその境界線自体を溶かしてしまうものである。だからこそ先の引用に見られたように、「愛の人」の行いに私たちは引き込まれ共鳴し感動することになる。(同、p.158)


 「愛」の概念。「ホネットの承認3定義」(1)愛(2)人権尊重(3)業績評価―に関して、この定義自体はすごく良いものですが、ここでいう「愛」とすこしちがう「愛」もあるよなあ、と思ったりします。それは「承認」がカバーする範囲ではない、と言われそうですが、ホネットが、「愛」を異性愛と家族愛というところにかなり限定して使っているのにたいして、マネジャー教育をしているともうすこし範囲の広い「愛」がたしかにある気がするのです。
 実際に「承認教育」を受けて使い手になった人たちは、PTAの役員になったり地域や業界団体の仕事を引き受けたり、自分の家族や会社部署の枠組みを超えて責任を引き受けるようになるというのもよく見ます。

―ブーバーの実践。「対話」の奥にあるものは。

 まず、生徒と結ぶべき関係を一言で言えば、「対話的関係」に他ならない。ブーバーにおいて対話的関係とは、独特の深い意味で、呼びかけや問いかけに、応答することであった。子どもが呼びかけるとき、たえず十分に心を集中して耳を傾け、そのときの自分に応えうるかぎり精一杯に応答すること。それが大人の応答的な責任であり、そういった応答の交換が、「対話」の本質である。
 呼びかけに応答する対話が大切なのは、その言葉で伝えられる内容もさることながら、それが他者の存在を肯定し、かけがえのない存在として、ありのままの存在として、存在することを承認するからである。人は自分を、自分自身によってのみでは、自分が存在することの意味を確かめ証すことができない。なんらかの自己を越えるものからの「確証(承認)」によってのみ、自己を肯定することができる。(「教育的日常の中のスピリチュアリティ」吉田敦彦、p.192)


―「対話」というものも「傾聴」というものも根底は「例の漢字2文字」ですね。対話ブームというのも数年来ありましたし、昨年から今年初め、妙に「傾聴研修」がトレンドでした。メンタルヘルスチェック義務化にともなって「メンヘル対策の決定打!」とされたのかもしれません。本来こういうことは「あれか、これか」と選ぶことでもないんですが、そこでは「承認なき傾聴」というものが往々にして行われ、それは「仏作って魂入れず」のきわめて不完全で気持ち悪いものだったのです。わたしなどの感性からすれば。

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 ふー、なんとか今回はワード9ページで終わりました。
 やっぱりあたしの仕事の本筋ですからね、ええ。といっても「承認研修」の構成は別に変らないと思いますが、「なんで、こういうことをこういう形でやってるのか」をつねに新しい言葉で説明することは必要ですね。自分でもすぐ忘れちゃいますからね。


正田佐与

 また、お客様のところにリサーチをかけてしまいました。

 今年は統計調査へのご協力例がなかったので、研修効果測定はお客様へのインタビューのみになります。
 LINEの登場により、恐らく組織の上司部下関係は激変しています。そこに「承認研修」はどれほど役立っているのか、気がかりなところではありますが、

 結論からいうと、問題は起きていませんでした。というか治っていたようでした。

 あるお客様のところでは、若手に「LINE禁止令」を出しました。以前からLINEで組織や上層部に対する悪い噂や悪感情が広まる、という現象がありましたが、それに関してはリーダーから「禁止令」を出したそうです。グループを作ることまでは禁じられませんが、会社や部署について中途半端な情報を書き込むことはやめなさい、中には部外秘のこともあるので、ときっちり、全体に対しても本人に対しても言い、それ以来目立った問題は起きていないそう。

「手前味噌ですが、それはやはり『承認』導入後だからでしょうね」

とわたしは言いました。「承認」抜きで一足飛びに「LINE禁止令」を出したら反発を食うだけでしょう。「承認」で上層部に対する大きな不満がなくなり、かつ「やめなさい」という上司の言葉が素直にきける状態になった、ということでしょう。

 こういうのは、例えば小中高生へのスマホ対策で「自分たちで話し合いをさせルールを決めさせる」というノウハウもあるわけですが、それを杓子定規に当てはめるわけにもいかないのが会社というところだと思います。会社は会社で、自力で試行錯誤しながらやり方を模索しないといけません。学生よりははるかに求められる規律の質が高い世界です。

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 というわけで、「承認研修」はLINE時代であっても上層部と若手〜中堅層の分断を防止する、と聴き取りの結果もそういう結論です。

「先生、何をいまさら気にしてらっしゃるんですか。『承認』は間違いないと私たちは思っていますよ。堂々とされたらいいじゃないですか」

「いえ、自分が慢心していないかと怖いんです。『これでいい』と思っていいのかずっと不安です。本当は皆様のところで起きた化学変化をすべて動画か何かに残しておきたいぐらいなんです。それを常に疑っていないと、本番の研修で短い時間の中で『皆さん、これさえやっていただければ大丈夫です』と確信をもって言えない、と思っていまして」



 ほんとうはここで「実は若手に新たにこういう問題が起きていまして」という話にでもなれば、「じゃあ今度は若手向けに追加でこういう研修を」という次のお仕事の話になったのかもしれないですけど。

 商売下手の正田は新たなビジネスチャンスを創出できませんでした。残念残念。うそです。

 結論としては、「承認研修」のほうを「史上最強の研修」として、それでも最適条件というのはありますから、失敗のないように大事にやっていただければいい、そういうお話です。

 それを打ち合わせ段階でしっかりお伝えすることが業者の誠実さだと思いますね。


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 正田は、「承認」以外の原則をあまり立てません。一応、「承認中心コーチング」といって、「傾聴」や「質問」などのトレーニングメニューも持っているんですが。

 お客様の現役マネジャーたちは、実務の中で臨機応変に「承認」以外の補助線をいくらでも引いていると思います。本来は、仕事の本筋の何をどうするべき、という原則があり、もう1つの原則として「承認」を導入し、そしてその場面そのお客様その部下についての無数の補助線があります。

大原則と無数の補助線と。拙著『行動承認』が「承認研修」の再現のパートと大量の事例で出来ているのは、各事例の中にマネジャーたちが承認の実践にプラスアルファどういう補助線を引いたかが入っているからです。

 あまりいくつも原則を立てると、たとえば先日の「カウンセラーはクライエントに依存させない」という原則にもいくらでも「除外規定」を設けないといけないように、話がややこしくなってきます。除外規定のあまり多い原則は立てないほうがよろしい。

 ところが、「承認」はほとんど除外規定がないといってよい原則です。これも実際にやってみていただけるとわかります。

 たぶん、そういう構造のシンプルさも、受講生さん方の高業績につながっていると思うんですよね。

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 今年は、NPOをたたみ財団を設立しその財団もたたんで個人事務所、という展開になりました。展開というより衰退の歴史のような気もしますが―、

 商品力としては、どう転んでも「承認研修最強」。お役立ちを志向するなら、これをやり続けるしかない。しかし世間様は飽きっぽくお客様も(真理にもかかわらず、そしてメリット多大にもかかわらず)飽きっぽく。正田自身もモチベーションを保つことはなかなか難しい。

 
 そんななか今年も聡明なお客様方にめぐまれました。正田に依頼してくださるお客様というのは、「内省力」のすぐれた方々なのだろうと思います。問題が起きている、それはマネジメントの問題である、そしてこういうトレーニングが必要だと思えるというのは。
 それがないところには、正田はそもそも営業に行くことはできません。

 そして、秋以降は複数のご同業の研修講師の方から、「行動承認は本当だと思う」というご連絡をいただきました。
 残念ながら、全国展開でセミナーをやって、という晴れがましい家元ではないので申し訳なく。

 地味ですが、この世界のほかの何よりも、この社会を建て直す力のあるもの。そういうものと出会ったときに、地味を承知で盛り立てる覚悟のある方でしたら、大歓迎です。


 わたしの生きているあいだに大きな潮流になることがあり得るのかまったく見当もつきませんが、たぶん来年もまだやり続けます。


正田佐与

お世話になっている皆様


 おはようございます。
 正田佐与です。
 
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 本日の話題は:

■こんな哲学の言葉が読みたかった。
―寛容と承認、共感、尊重…カントからホネットへ
 
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■こんな哲学の言葉が読みたかった。
―寛容と承認、共感、尊重…カントからホネットへ

  一橋大学大学院言語社会研究科の藤野寛教授(現代ドイツ思想)より、この秋から「ホネット承認論」に関する同大学での講義原稿をいただいています。
 第5・6回は、「寛容」がテーマ。
 これはIS(イスラム国)の台頭とテロ、そして西側諸国の反イスラムをはじめとする排外主義の高まりという2015年のいま、わたしたちが思い返したい概念ではないでしょうか。
 フェイスブックのお友達から、
「みんなでじっくり読みたい記事ですね。」
賞賛をいただいた、「寛容」を問う文章。わたくし正田も心したいテーマです。ポストモダンかドイツ思想か、そんな枠を超えて、今読みたい哲学の言葉をお届けします。

◆「寛容」と「辛抱強い合意形成の努力」―一橋大学・藤野教授講義原稿(5)
 http://c-c-a.blog.jp/archives/51931557.html

◆「寛容」とその限界、差異のナルシシズムー一橋大学・藤野教授講義原稿(6)
 http://c-c-a.blog.jp/archives/51931813.html 
 
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★読者の皆様にとって今年はどんな1年だったでしょうか。
 わたくし正田は個人事務所に戻って再出発、そんな中いつの間にか「ブログ開設10周年」を迎えておりました。そしていくつかの嬉しいご縁をいただきました。
 1年間のご愛読誠にありがとうございました。どうか良いお年をお迎えくださいませ。



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近著『行動承認―組織の能力を最大化する「認める力」』
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 一橋大学大学院言語社会研究科の藤野寛教授より、「ホネット承認論」の昨12月21日分の講義原稿をいただきました。
 
 引き続き「寛容」がテーマ。「みんなでじっくり読みたくなる記事」(フェイスブックのお友達)と賞賛をいただいた1つ前の記事に続き、今、もういちど捉え直したい「寛容」、読者の皆様にとって考えるヒントになっていただければ嬉しく思います。


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承認論講義(11)「差異について」

Axel Honneth: Das Andere der Gerechtigkeit, in: ders., Das Andere der Gerechtigkeit, Frankfurt am Main 2000, S.133-170 (アクセル・ホネット『正義の他者』、法政大学出版局、2005年、145-185頁)

【1】 これまで、あまり深く考えもせずに、ホネットの承認論では、愛と(人権)尊重と業績評価に分類されている、などと解説してきたわけだが、一人の人間に他者として向き合う場合には、この三つを使い分ける、というような話ではすまないはずなのだ。つまり、同一性は等しく尊重し、差異はそれぞれに対して細やかに承認する、ということが求められるのだとして、しかし、両者は両立しないのではないか、という問いが立ってしまう。差別しない人、というのは、差異には鈍感な人なのではないか ― 例えば、そういうことだ。

 出発点には、テイラーの発言がある。尊重しようとすると、承認できなくなる、承認すると、尊重できなくなる、そういう、排中律的関係が成り立ってしまうのではないか。ケアは正義を補うのか、それとも、ケアは正義にとっての「他者」なのではないか。(例えば品川哲彦の本は『正義と境を接するもの』と題されている。)


 尊重・承認・寛容と分類するのはよいとして、テイラーも言うように、尊重が等しく共有されている性質に対する反応であるのに対して ― だから、普遍主義的な行為であると言えるのに対して ― 承認や反応は、異なるものに対する反応であって、方向性が逆である。その上で、承認・寛容という姿勢には、繊細な注意深さというものが前提されるのだ。ただし、異なるものに細やかに、注意深く反応する、というだけでは、その異なるものを肯定的に評価する、ことには直結しない。注意深く観察した上で、否と言い、退ける、ということは十分にありうる。村上春樹の「僕」は、相手の話に辛抱強く耳を傾ける姿勢を備えているが、それに対してどう応じるか、肯定するのか、否定するのかは概して曖昧であり、その曖昧さ、優柔不断さが、結果として肯定と同じことになり、それが「優しさ」と受け止められる、という風であるようにも読めるように感じられる。


 「正義の他者」論文は、何を問うているのか。人を人として等しく尊重するという姿勢と、異なる人をその異なりに応じて異なった仕方で認め遇する姿勢とは、対立するものなのか(従って、両立しないものなのか)、そうではなく、前者に「繊細さ」という能力がつけ加わるならば、後者が前者を補完するという仕方で、後者を包含するような仕方で前者を拡張することが可能になって、両者はめでたく両立するのか、ということが問われているのだ。

 大雑把に言えば、リオタール、ホワイトは、カント、ハーバーマスの普遍主義的倫理によって包含されうる提案をしていると評価されるのに対して、デリダ、レヴィナスは、方向を逆にする倫理を呈示していると解釈される。その場合、ホネットの承認理論は、尊重と愛(ケア)を横並びにするのだから、もはや、カント・ハーバーマスですべてが片づくとは考えていないことにはなるわけだが、しかし、この理論の全体の中で、カント・ハーバーマスとデリダ・レヴィナスはどう両立するのか。後者による前者の微修正という話ではすまないはずなのだが。


【2】 ポストモダニズムは、理性批判として始まった。それは、当初、理論理性に向けられる批判だった。その際、理性とは、統一化・普遍化を志向する能力であると考えられるので、それに対して、美的・感性的(asthetisch)な能力が ― なにしろ、この能力は、カントも言うように、多様性(Mannigfaltigkeit, diversity)に反応することを得意とする能力であるものだから ― ぶつけられる、という議論が繰り広げられもしたのだ。芸術に依拠する科学批判である。そこでは「asthetische Sensibilitat(美的・感性的繊細さ)」ということが、キーワードともなった。

 ところが、ある時点から、批判の矛先が、理性は理性でも、道徳的理性(実践理性)に向けられるように、風向きが変わってきたのだという。その結果、この批判は、政治とも接点を持たずにはすまなくなり、政治的帰結を伴う議論ともなるにいたったのだ。「異質(heterogen)なもの、他なるもの(das Andere)」「異なるもの(Differenz)」「非同一的(nichtidentisch)なもの」 ― 呼び方がどうであれ、そこで考えられているものが、経験の対象というような抽象的・一般的なものであるよりは、具体的に、人として考えられるようになったのだ、と言ってもよい。それに対応して、求められるものも「moralische Sensibilitat(道徳的繊細さ)」に変わる。

 しかし、この「異質(heterogen)なもの、他なるもの(das Andere)」「異なるもの(Differenz)」「非同一的(nichtidentisch)なもの」を、そのように、人に関わるもの/人に関わらないもの、と区別することは、それほど容易ではあるまい。異文化、ということを考えるだけでも、その点は明らかだ。異文化とは、道徳や宗教や言語として立ち現れるだろうが、人を通して現れるものでもあろうからだ。そう考えると、アドルノの理性批判も、まずは、前者(美的次元)に発するように思われるものなのだが、もちろん、後者(倫理的次元)への目配りも含まずにはすまなかったはずなのだ。


 形而上学批判、というわけだが、形而上学の何が、どこが具合悪いのか。形而上学は、避けがたく、排除・抑圧の思考にならずにはすまないからだ。ニーチェによる二世界説批判は、もっとも分かりやすい例だ。「あの世」の価値が持ち上げられることを通して、「この世」「いま、ここ」の価値はおとしめ(貶め・落としめ)られずにはすまない。プラトンのイデア論、また然り。「りんごそのもの」の完璧さが称揚されることで、現実に存在するりんごは不良品視されずにはすまなくなる。人間性の称揚についても、同じことが言えるだろう。すると、一人一人が異なる点、特殊性、差異は軽視されずにはすまなくなる。ところが、その差異こそが、「私が私である所以」である、ということがありうるのだ。

 アドルノの「同一性思考」批判は、そのような「普遍主義」批判だった。同じである点を持ち上げ、同じでない点は軽視するような思考への批判。その意味で、アドルノの思考も、形而上学批判の系列に連らなるものである。
しかし、問題は、ここから始まる。その批判は、より包含性の高い、いかなるものも排除も抑圧もしないような普遍主義を追求し続けるのか、それとも、普遍主義と訣別することを求めるのか。「理性的・論理的思考」は、「美的・感性的繊細さ」によって補完されるべきなのか、それとも、両者は、対立関係にあって両立は不可能なのか。アドルノは、(抑圧なき)コミュニケーションについて語ることもあるので、その限りでは、前者の立場を採っていたようにも読めるのだが。

 この問題は、単に認識の問題、経験の問題、芸術経験の問題にはとどまらない。具体的な人としての他者にどう向き合うか、どう関わるか、という倫理的・道徳的な問題とも、関わってくるのだ。美的・感性的細やかさの要請は、倫理的細やかさの要請ともなりうるのだ。


【3】 カントが、『道徳の形而上学の基礎』の中で、定言命法として「人を目的として尊重する」よう要請した時、彼は、ヒューマニズムの基礎づけを試みていたのであって、つまり、そこでは、人を人として処遇すること、もののようには扱わないことこそが眼目であったのだ。そこに、自分とは異なる価値観の持ち主にどう向かい合うか、という問題意識があったとは思えない。

 「異なる価値観」という場合、しかし、その「異なり」とはどのような「異なり」なのか、という問題が直ちに出てこずにはすまない。「ただ違う」だけなのか。それとも、「相手は間違っている」と言わざるをえない、そのような「異なり」なのか。例えば、男と女は違う。しかし、だからといって、男か女が間違っているわけではない。(日本語が、「違う」「間違う」という言葉を持っているのは、なんだか素晴らしい。)肌の色が、黒い・赤い・黄色い・白いことは違いだ。しかし、どの肌の色も間違っているわけではない。(でも、そう感じない感受性があったからこそ、あえてblack is beautiful と言われねばならなかったのだろう。)

 では、地球は丸い、と考えて生きる人と、地球は平たい、と考えて生きる人の違いはどうか。両者は違う考えに基いて生きているわけだが、のみならず、後者は間違った考えに基いて生きていることになる。では、神が存在すると考えて生きる人と、神など存在しないと考えて生きる人ではどうか。両者は違う考えに基いて生きており、のみならず ― 私に言わせれば ― 前者は間違った考えに基いて生きている。

 人間は、各自が、自由に、自らの人生観・価値観を抱き、それを表現する権利を有する存在として、互いに尊重しあうべきである。これが、尊重ということの意味だ。そこでは、ただし、その人生観・価値観の内容は問題にされていない。価値観の内容に立ち入ることなく、その手前で、各自が尊重されるべきだ、というのである。


 さて、そこで、相手の考えやものの見方を面白い、と思えるとする。そこでは、(互いに)相手を認め合うということ、つまりは(相互)承認が起こっていることになる。例えば、安藤広重が好きな人とモンドリアンが好きな人がいて、互いに相手の趣味を面白いと感じ、認め合う、ということは、大いにありうる。ジャズとクラシック、能とオペラ、納豆とエスカルゴ、いずれの場合も同様だ。

 しかし、地球が丸い/平たい、神が存在する/しない、ではどうか。互いに相手を面白いと認め合うことは難しいのではないか。なにしろ、一方は他方を間違っていると考えているのだから。加えて、そこに「啓蒙の歴史」とか「解放の歴史」といった歴史的観点、進歩という見方が入ってくると、両者が互いを面白いと感じることはますます難しくなる。一方にとっては、他方の考えを受け入れることは、「退歩(退行)」を意味することになるからだ。歴史の逆戻り、である。

 では、「男と女は理性・感性の両能力に関して対等である」という考えと、「男は理性に優れ、女は感性に優れている」という考えでは、どうか。両者は、互いに相手を間違っていると考えるだろうから、両立・共存は不可能なのではないか。


 その時、「寛容」という可能性が浮上する。相手は間違っている、と思うのではあるけれども、それを寛い心で受け入れる、大目に見る、という姿勢だ。例えば、地球は丸い/平たい、の違いであれば、外国旅行に出でもしない限り、それは、知識の問題にとどまり、実践的な違いにはつながらないだろうから、寛い心で受け入れ合うことも可能だろう。神が存在する/しない、だって、信仰が、心の内の問題にとどまっている限り、せいぜい祈りという形でしか表現されないのである限り、依然、寛容に対応することが可能だろう。

 しかし、上記の「男と女」の能力に関する見解の違いの場合はどうか。これは、実践的帰結を伴わずにはすまない「違い」だ。すると、もはや「寛容」という(なぁなぁの)姿勢で対処することは不可能だろう。そこでは、何とかして「合意形成」しようとする努力が発動せずにはすまなくなるだろう。


 「差異」というのは、現代社会について考える上でのキーワードの一つである。かつては、「弁証法」という考え方が有力で(50年ほど前のことだ)、そのころは、「差異」とは言われず、「矛盾」と言われた。(毛沢東の『矛盾論』は必読文献だった。)二つのものが対立関係にあるにもかかわらず場を共有している(かに見える)とき、それが「矛盾」であり、矛盾は解消への運動を発動せずにはすまない、というのだ。しかも、その運動は、より高いあり方への運動でありえ、それは「総合」と呼ばれ、そこでは矛盾・対立はより高いレベルでの総合・統一である、と見なされたのだ。(「止揚」とか「揚棄」とかいう奇妙な言葉がひねり出された。)昨今では、「弁証法」は、さっぱり流行らなくなり、「矛盾」という言葉も、論理学はともかく、社会理論の場からは、ほぼ姿を消したといってよい。替わって、キーワードの地位を占めているのが、「差異」である。「矛盾・対立を総合・統一にもたらす」ことではなく、「多様な差異が共存すること」こそが、目標として設定されている。

 しかし、そうすることで、対立は、人畜無害化されている、と言わざるをえないのではないか。差異の中には、面白いと認め合うことはもちろんのこと、間違っているとは思いつつも寛い心で大目に見ることも不可能、というような「差異」が、なんといっても存在するのだ。例えば、イスラム原理主義者にとっては、西洋文明とは、そういう「異なるもの」だろう。西洋文明の側でも、テロを許容するイスラム原理主義は、もはや寛容の対象ではありえまい。寛容の限界を超えてしまっているだろう。かくして、「多様な差異の共存」の理念は、たちまちかき消され、今や「われわれは戦争状態にある」と宣言されるのだ。

 ここでは、「差異に関するロマン主義的な夢想」が罰せられているのだ、と言えるだろう。思い出されるのは、「小さな差異のナルシシズム」という、フロイトの指摘だ。われわれは「小さな差異」によってこそ、ナルシシズムを刺激され、(小さく)異なるものに対して、ライヴァル心や敵愾心をくすぐられる、というのだ。われわれ日本人から見れば、カトリックとプロテスタントの違いなんて、この上なく「小さな差異」にしか見えないではないか。にもかかわらず、この小さな差異は、長く続く「大きな戦争」の引き金になったのだ。キリスト教とユダヤ教の違い、また然り。それどころか、キリスト教とイスラム教だって、私には、兄弟関係のようなものに感じられる。それほどにも「小さな差異」に対してすら、「寛容」の理念は無力さを露呈することがしばしばなのだ。

 もちろん、日本と中国の差異や日本と韓国の差異だって、「小さな差異」の例外ではないはずだ。


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 いかがでしょうか。

 「寛容」が世界的に要請されていることは、現在のISとわが国を含む西側諸国の対立、そしてイスラム教徒全般への排斥、わが国にもあるヘイト・スピーチ等、多次元にわたって認められるところです。

 一昨日20日のTVの日曜討論では、アメリカで否応なく進行する多様化の現実と、同時に進行する不寛容の風潮に複数の識者が言及されていました。
 このブログで先週とりあげた「ダイバーシティー経営は損」という知見も、その「アメリカの不寛容」の文脈で考えたほうがよいような気が、わたしはします。
 
 しかし今回の藤野教授の結論は「寛容の無力」を言っているようにもみえますね…。
 わたしは不謹慎ながら、「愛」と「戦闘状態」の対比を描いたイーストウッド監督の映画「アメリカン・スナイパー」を連想してしまいました。

 藤野先生、このたびもありがとうございました!


 読者の皆様、大切な方と素敵なクリスマスをお過ごしくださいますように。


正田佐与

 藤野寛教授(一橋大学大学院言語社会研究科)の「ホネット承認論」についての5本目の講義原稿をいただきました。
 今回は「寛容」がテーマ。わたくしにも”耳が痛い”ことになりそうですが…。藤野教授の結論はどんなことになったでしょうか。

※この記事は公開後、フェイスブックのあるお友達から「みんなでじっくり読みたいような内容ですね」という賛辞をいただきました。


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承認と寛容 ― あるいは、倫理学の中の「寛容」概念の位置


【1】  広く「道徳」について考える

【1】 倫理学というのは、「よい」という性質をめぐる議論である。「よい」という形容詞は、ただし、ずいぶん多様なものを形容する。「よい行い」や「よい人」だけでなく、「よい人生」「よい成績」「よい天気」「よい気分」「よい男」「よい女」といった具合だ。(最後の二例では「よい」と言わずに「イイ」と言う。)
この中で、「よい行い」をめぐる議論に限って、道徳論と呼ぶ、という語用がありうる。(というか、倫理と道徳という言葉を、私はそのように使い分けることにしている。)ある行為が「よい行為」である場合、その行為は「することの望ましい行為」である、と言えるだろう。そして、「することの望ましい行為」は、これをもうひと押しすれば、「すべき行為」である。「すべき行為」とは、「義務」の言い換えであり、従って、道徳論とは義務をめぐる議論である、と言うことができる。(「義務」に似た言葉に「当為」というのもある。)
「よい行為」をする人は「よい人」である、と言って異論はあるまい。このタイプの「よさ」(道徳的な「よさ」)には、日本語では、概して、「善」という漢字があてられる。「善行」「善人」「善意」という具合だ。(「善戦」もあるのだけれども。)

 では、同じ調子で、「よい天気」や「よい気分」「よい人生」を「善い天気」「善い気分」「善い人生」と書いても違和感がないだろうか。「善い人生」は微妙だが、前二者については、「否」と言いたい。どうして、そういうことになるのか。善さ=よさ、ではないからだ。
「よい人生」とは、どんな人生か。道徳的に正しい人の人生だろうか。必ずしも、そうは言えまい。むしろ、自分の願いがすべてかなったような人生が、「よい人生」と見なされるのではないか。そう考えると、「よい人生」というのは「幸せな人生」に近い。(フロイト(1856-1939)は、幸福を、「願望充足(あるいは欲望成就)」と説明した。)

 つまり、道徳的に善い行いをする人の人生と、よい人生とは、ぴったり重なるものではない、という可能性があるのではないか。それどころか、両者は対立することさえあるのではないか。

 道徳(すべきこと)と幸福(願いがかなうこと)の関係については、古来、多くの哲学者が大いに頭を悩まし、様々な提案をしてきた。カント(1720-1802)は道徳重視派の代表格で、ニーチェ(1844-1900)は幸福の側に肩入れした、と大雑把には言えるだろう。
 
【2】 どうして、こんな辛気臭い話をするのか。

 「道徳的であること」が、「よい人生」や「幸せな人生」に直結するものではない、という事情があるからだ。大体、道徳的な人、というのは、感じの悪い人であることが多くないか。他人に「〇〇すべし」とか「〇〇すべからず」というようなことを言いまくる人が、感じがよいはずがない。それだけではない。自分自身に対して「〇〇すべし」「〇〇すべからず」と目を光らせている人も、つまり「自分に厳しい人」も、なんだか窮屈で、面白みに欠ける、というケースが少なくないのではないか。ニーチェなら、「道徳は生に対して抑圧的だ」と言うところだろう。
道徳は「すべし/すべからず」をめぐる議論だ、と上に確認したが、そういうわけで、そもそも道徳的であるべきなのか、なぜ道徳的であるべきなのか、と問う余地がある。(道徳的でなどない方が、人生、のびやかになり、楽しくもなるのではないか、ということだ。)

 人生における悩みというのは、概して、「したい (will)」と「すべき (should)」と「できる (can)」という三つの助動詞の関係(欲求と義務と能力の関係、と言ってもよい)をめぐるものだ、と言えるのではないか、と常々私は考えている。「したいことは、できるのであれば、してよろしい」、という風であれば、人生、ややこしくなくて具合がよろしいのだが、そうは問屋が卸ろさない。大体、自分が何をしたいのか、何ができるのか、何をすべきなのかなんて、どれもよくわからない、としたものではないか。そして、仮にわかったとしても、この三つが互いに良好な関係にあるとは限らない。しばしば対立する。その時、「すべし」(道徳)の言い分だけを通す、という風に事が運ばないのは、当然ではないだろうか。

 道徳とは、「すべし」(義務)に関する議論、あるいは主張であるとすると、そんなもの、そもそもない方がよい ― 窮屈だし、面倒くさいし ― という考え方がありうるということだ。大いにありうる、とすら言ってよいだろう。
そういうわけで、倫理学などをやっていると、道徳に対しては、かえって警戒的にならずにすまなくなる。すぐ説教したがる倫理学者というのは贋物だ、と常々私は思っている。すぐ説教したがる政治家も、政治的ではあっても、道徳について悩んだことなどほぼない人たちだ、と思ってまず間違いない。(道徳教育の必要性を説く政治家に対して抱かれる疑念や反発というのは、この点にも関わるもので、真っ当な反応であると言ってよい。)

【3】 そうは言っても、やはり、道徳は必要だ、人は道徳的であるべきだ、と私は考える。(ニーチェや永井均に賛同することはできない。)人間の「欲求(したい)」を無造作に認めることはできない、人間の「欲求(したい)」の底知れなさには私などの想像を絶するものでありうる ― 病みうるし、狂いうる ― と想像されるからだ。エゴイズム(利己主義)というのは、そういう症状の一例 ― しかも、人畜無害な一例 ― であるに過ぎない。人間の「欲求(したい)」には、やはり、縛りをかけることが必要になると ― 感じの悪い提案であることは重々承知の上で ― 思う。義務という縛り、道徳という縛りである。

 そこから、どういう縛り、どういう義務が必要なのか、という問いが出てくる。道徳の内容への問い、である。代表的道徳哲学者であるカントは、義務を、「自己に対する完全義務」「自己に対する不完全義務」「他者に対する完全義務」「他者に対する不完全義務」に四分類し、それぞれ「自殺すべからず」「自己の能力を伸ばすべし(例えば「やる気なんか起きなくても、勉強すべし」、だ)」「守る気のない約束をすべからず」「困っている人を見たら助けるべし」という具体的例に沿って議論している。

 すると、これらの具体的義務については、なぜそれらが義務なのか、なぜそうすべし(あるいは、すべからず)と言えるのか、という正当化、あるいは根拠づけの問いが立たずにはすまない。私は例えば、「自殺すべからず」も「自己の能力を伸ばすべし」も、結構な提案だとは思うが、義務だとは思わないので、その理由づけをめぐっては、カントに同意できないから彼と議論しなければならないことになる。

【4】 「自殺すべからず」だの、「嘘をつくべからず」だの、「能力を伸ばすべし」だの、「困っている人を見たら助けるべし」だのといった個々具体的な道徳内容の正当化とは別に、そもそも「なぜ道徳的であるべきなのか」という問い、道徳性そのものの正当化への問いが立つ。【3】で、私は、人間の「欲求(したい)」の底知れなさ、ということを理由として挙げたわけだが、より頻繁にお目にかかる議論は、道徳なしでは、つまり、みんながエゴイストとして振る舞ったのでは、社会生活、共同生活が成り立つまい、という論法がある。ホッブズに「自然状態(文化状態の反対で、道徳などない状態だ)とは、万人の万人に対する闘争状態だ」というよく知られた指摘があるが、そうなったのでは、人はかた時も気の休まることのない人生に陥らずにはすまなくなるだろう。そこで、契約が結ばれ、闘争が回避されるのだが、道徳も、そういう契約の一種だ、というのである。これは、エゴイズムを前提する道徳であり、すべてのエゴイストが「お互いさまの論理」とでもいうべきものに従って、互いに妥協し合って形成するものである。

 これと似ているものに、道徳的に行為した方が、結局(めぐりめぐって)自分の得になるのだから、という風に道徳を正当化する議論がある。こう考える人は、本心では自分さえよければよいのだが、道徳的に行為する方が結局、自分にとっての得も最大になる、と計算していることになる。

 計算(打算)に基いて道徳を守る、というのは、十分ありうる選択肢だろう。世にこのタイプの人は無数にいる。ただ、こういう人を「善い人」と呼ぶか、となると、然りと答えるのは躊躇されるのではないか。「善い人」からは、計算高さにとどまらない、もう少し多めの道徳性をわれわれは期待するのではないか。では、それは、どんな道徳性か。

【5】 カントは「他者に対する不完全義務」の具体例として、「困っている人を見たら助けるべし」を挙げていた。「不完全」というのは、仮にその義務を守らなくても、ただちに罰せられることはない、ぐらいの意味で理解してよい形容だ。確かに、困っている人を見て素通りしたからといって、罰せられることはない。それでも助ける人であって初めて、「善い人」と呼ばれるに値するように思われる。

 この義務を具体的に説明する上でよく持ち出される議論に、「溺れている子供を見たら誰もが助けずにはいられまい」というのがある。人間が道徳的であることの証拠として挙げられる話だ。ただし、この議論は問題含みだ。「助けずにはいられない」のであれば、わざわざ「助けるべし」と言う必要などないだろうから。それでは、「義務」とは呼べないのではないか。困っている人を見たら助けたくなるというのは、「自然の欲求」になってしまう。
ここには、人間が道徳的であるべきだとして、その道徳性はどういう能力・資質に基くものなのか、という問いがからんでいる。なにしろ、「〜すべし」と言われたって、できないこと ― 例えば、物乞いする人を見たら必ず10万円与えるべし、とか ― はできないのであり、道徳なんて、そもそも「無理な注文」なのではないか、という突っ込みが可能になるだろう。

 溺れる子供の例を挙げる場合、通常、「共感能力」が想定されている。共に苦しみ、共に喜ぶという資質が人間にはある、と考えるのである。だから、苦しんでいる人(溺れている人)を目撃したら、自分も苦しくなり、見ないふりをすることはできなくなり、助けずにはいられなくなる、というのだ。同様に、自分の喜びは、人と分かち合いたくなる。そういう、プラス/マイナスの共感がもとになって、エゴイズムは克服されると考える。この「共感道徳」の代表論者としては、アダム・スミス(1723-1790)やショーペンハウアー(1788-1860)の名が挙がるのを通例とする。

 もっとも、「共感」というこの資質(あるいは能力)は、それはそれで問題含みである。(「共感」というのは、「同情」とも訳されうる言葉だ。)これは相手を選ぶ資質(能力)なのではないか。濃淡に差があり、ここから先にいる人にはもう抱かれなくなる、という地平線みたいなものがあるのではないか。友人が苦しんでいれば一緒に苦しくなるが、地球の裏側で人が苦しんでいても、何も感じないとか。(かつてサルトル(1905-1980)は、「アフリカで餓えに苦しむ人に文学は何ができるか」と問うたが、文学に限った話ではない。)それどころか、お隣りさんが苦しんでいると、嬉しくなったりしないか。(「他人の不幸は蜜の味」と言うではないか。)これは依怙贔屓の避け難い資質(能力)なのだ。

【6】 道徳の「べし/べからず」は、いつでもどこでも誰にも当てはまるものであるべきだ、そうであって初めて、道徳の名に値するのではないか。例えばカントは「道徳法則」という言い方をするのだが、法則はいつでもどこでも誰にも当てはまるものだから ― 「例外のないルールはない」と言いもするのではあるけれども ― 道徳はいつでもどこでも誰にも当てはまるものだ(普遍性とか普遍妥当性と呼ばれる)、と見なしていたことがわかる。そう考えると、「共感」は、道徳の土台となる資質(能力)としては失格だ、ということになる。

 では、カントは、道徳の土台となる資質(能力)として、何を考えたのか。「尊重の感情」である。人を目的それ自体として尊重する、という思い。人を物のようには ― 例えば、手段として ― 処遇しない、ということだ。人が人である限りにおいて(分け隔てなく)尊重する、というのであり、すべての人に差別することなく接する態度、と言うこともできる。これは、人でないもの(例えば人間以外の動物)には当てはまらないので、その意味では差別的だ。ヒューマニズムというのは、人間を特別扱いする ― 強く言えば ― 差別思想であるわけだが、人間内部では特別扱い(依怙贔屓)を許さないのだ。

 トゥーゲントハット(1930‐ )の解説に従って、カントのこの「尊重の道徳」を具体的に説明してみよう。死の床にいる人が願いを口にする。それを聞いた人は、願いをかなえると約束する。そして約束を守る。なぜか。死につつある人の苦しみを共有するから、ではない。自分も嘘をつかれたくないから、でもない(死の床にある人から嘘をつき返される心配はない)。そうではなく、その人を人として尊重する思いからだ、とカントは考える。その「尊重の思い」が、嘘をつくことを許さないのだ、と。

 そして、この「尊重」の思いは、「共感」とは違って、誰もが誰に対してもいつでもどこでも抱くものだ ― その意味で、過大な要求ではない ― とカントは考える。確かに、尊重の念というのは淡白だ。人を人として尊重することなら、相手にそれほど深く関わらなくてもできそうだ。逆に言うと、すべての人と差別なく深く関わることなど不可能だろう。(「神の愛」というのは、結構淡白なのではないか。)

【7】 カントのこの普遍主義的で人間主義的な「尊重の道徳」は、久しく大きな影響力をもってきた。それは、裏から見れば、さまざまな批判にさらされてきた、ということでもある。その批判の一つに、承認論がある。他者との関わりとして、尊重だけでは足りない、承認という姿勢もまた必要なのではないか、というのである。その際、「承認」という言葉は、通常よりも広く理解する必要がある。日本語で「承認」と聞くと、会議で議長が「この堤案をご承認ください」と言うような用例が思い浮かぶところだろうが、承認論で「承認」の語のもとに考えられているのは、むしろ、「先輩に認められる」とか「先生に褒められる」とか「親に愛される」とか、そういった事態である。

 相手に肯定的な資質を認め、そういう肯定的な資質の持ち主として向かい合う、という姿勢、それが承認するという姿勢である。

 「尊重」も、相手を、人であるというその限りで、肯定的な存在として認める姿勢だった。しかし、承認は、人であれば誰もが備える「人という資質」を認めるのではない。ある人が、そしてその人こそが備える資質を ― 「個性」と言ってもいい ― 認めるのだ。だから、承認は、すでに特別扱いである。「わが子を愛する」というケースを考えるとよい。「愛する」行為とは、究極の依怙贔屓であるが、だからといって「差別だ」と咎められるいわれはない。それどころか、私は他の女性も平等に愛します、などと言えば、浮気あるいは不倫として、ひと騒動になる。

 他者に向き合う態度として、「尊重」だけではなお一面的だ、ということだろう。「承認」という向き合い方も共に要請される。私は、教師として、すべての学生に分け隔てなく接するという「尊重」の姿勢を求められ、一人の学生(だけ)を愛するということはあってはならない ― ただし、学生の努力や能力は、それぞれに個別的に評価しなければならないのであって、全員に「優」をつける、とかいうのは職務放棄なのだ ― が、私の家族に対しては、愛するという特別扱いの姿勢が許されるし、それどころか、求められると思う。

 そして、こう考えるとき、「愛」という言葉を道徳の議論に持ち込むことには、慎重であらねばならないことが見えてくる。「愛」とは特別扱いする、排他性を本質とする感情だ。「私だけを愛して」と求めるのだから。その点に無自覚な「愛国心」論議は ― 「人類はみな兄弟」という言葉と同じぐらい ― 抽象的であり、無神経だ。「愛は盲目」という名言をこそ、むしろ、思い起こすべきだろう。(かつて、ドイツ大統領、テオドール・ホイスは、「あなたはドイツを愛していますか」という問いに、「私は妻を愛しています」という答えで応じた。)

【2】  「寛容」について考える
【1】 さて、「寛容」である。これは、尊重や承認とは、根本的に異なる姿勢・態度である。どういうことか。
「尊重」も「承認」も、相手を、あるいは相手が備える何らかの資質・能力を「肯定的に受け止める」態度なのだった。これに対して、「寛容」は、そうではない。ヴォルテールに帰せられる有名な言葉を思い出そう。「私はあなたの意見には反対だ、だがあなたがそれを主張する権利は命をかけて守る」と言われたのだった。相手の立場は間違っていると考えるのだが、でも、相手がそういう立場を採ることを否定はしない、ということ。「大目に見ること」、「寛い心で許すこと」、それが「寛容」だ。

 例えば、私は無宗教の人間で、神や仏の存在を信じない。そう信じている人は間違っている、と考える。信仰心を立派だとも偉いとも思わない。でも、人がそれを持つことは「大目に見る」。(実際、私の妻はクリスチャンである(らしい)。篤い信仰心ではないから、ということもあるが、それをやめさせようとする気は私にはない。)
その際、寛容という姿勢が成り立つためには、相手もまた、その姿勢を採ってくれなければなるまい。私が神を信じないことを、相手側でも、大目に見てくれなければならない。自らは神を信じている人にとっては、神など存在しないと考えている私は間違っていることになる。でも、だからといって私を改宗させようとは、ましてや、火あぶりの刑に処したりはしないでもらいたいものだ。

 こう考えると、「寛容」という徳の危うさが浮かび上がってくるのではないか。結局、そこでは対立を引き起こしている問題そのものへの一定の無関心(関心の希薄さ)というものを前提するように思われる。切実で熱烈な関心事については、なかなか寛容にはなりにくい。相手を洗脳せずにはおれなくなる。(家族の幸せには無関心ではいられないから、家族に対して ― その誤りに対して ― 寛容であることは、なかなか難しい。それに対して、どうでもよい人の誤りには、いくらでも寛容になることができる。)

 そもそも、寛容というのは、どこか上から目線の姿勢であり、偉そうなのだ。あなたは誤りの中に迷い込んでいるのだけれど、私は寛い心で大目に見てあげますよ、と言われて、感謝する人がいるだろうか。むしろ、屈辱感を抱くのではないか。

 私は、「寛」という名前を掲げて生きているのだが、「寛容」という徳の旗振り役にはなれそうにない。それは、過渡期の、暫定的な、必要悪のような徳だ、と考えざるをえない。宗教が力を持たない世界になればよいと ― マルクスやニーチェと共に ― 考えている。違いは間違いであるのだが、寛い心で大目に見なければならない、という風ではなく、違いは違いであり、それが面白いと認める、という風な世界になってほしい。しかし、そうなれば、もう寛容ではない。なにしろ、違いを面白いと感じ、つまりは肯定的に評価しているのだから。

【2】 ただし、今のこの時代、この世界で、「寛容」に注目することは、炯眼だと思う。かつて、宗教と宗教がぶつかり合う時には、繰り返し、この(美)徳(=道徳性)が呼び出されたのだった。ヨーロッパでは、ヴォルテールによって、あるいはエラスムスによって。そして、日本では、渡辺一夫によって。その背景には、常に、宗教対立があった。例えば、カトリックとプロテスタントの対立。あるいは、国家神道。

 その際、「対立」とは言っても、個人と個人の対立ではない。集団と集団の対立である。だからこそ、寛容になることは容易でないのであり、それに対して、誤っている個人に対して寛容であることは、さほど難しくはない。(「違いのせいで孤立している風変わりな個人を寛容に取り扱うことは易しい」とマイケル・ウォルツァー(1935- )も言っている。)

 見落としてはならないのは、そこで対立しあう集団の力は、通例、拮抗関係にはない、ということだ。一方が優勢で他方が劣勢、あるいは、一方が多数で他方が少数、言い換えれば、マジョリティとマイノリティの関係だ。つまり、寛容とは、優勢の側や多数の側に期待される徳性なのだ。結局のところ、寛容は、マジョリティの側の「上から目線」ということに帰してしまう。それでは、マイノリティの側に、卑屈さが前提されることになり、受け入れられない、ということになるのは避けられまい。少なくとも、感謝の思いと共に受け入れられる、という風にはならないだろう。

 寛容は、相互性を属性とする道徳理念ではないということであり、その点で尊重と ― 承認とも ― 決定的に異なる。

【3】 寛容について語らずにはすまされない土壌は、ヨーロッパでは、この200年、着実に崩れてきたと思われてきた。世俗化、と呼ばれる趨勢だ。ところが、昨今、「寛容」について語らずにはすまされない状況が生まれてきている。それは、イスラム文化との共存、ということが社会的課題となる、という新たな状況が出来してきているからだ。宗教的人間に対しては、私もまた、寛容であることしかできない。私は相手の立場(信仰)を誤りだと思うけれども、だから、その考えを放棄することこそ正しい、と思うのではあるが、だからといって、その考えを奉じる人など殺してしまえ、とは考えない。許容するのであり、それが、寛容だ。

 その際、客観的に考えればどちらが正しいか、と問い、判断を下すことは、不可能だ。なぜなら、私は、客観的視点(神の視点)には立てないのだから。神の存在を信じない、とは、自分もまた神の視点、客観的視点、絶対に正しい視点には立てない、と諦念することだ。つまりは、相対主義をさしあたり受け入れる、ということだ。主観的視点からして、私は、宗教はなくなるべきだ、と思うのだが、その立場の主観性は自覚した上でのことであり、そのことも、寛容であるべき理由となる。寛容は、普遍主義を前提せず、多元主義・相対主義を受け入れるところに要請される徳性だ、と言ってよいだろう。

 その問題は、だからと言って、無制限に寛容であるべし、とか、寛容であればあるほどよい、という話にはならない、という論点と関係する。寛容という徳には、限界がある。寛容が、一種の妥協の産物という特質を有する道徳性であることの一つの現れである。それが、例えば「正義」という徳とは異なるところだ。(自由や平等にも、限界はあると思うが、正義や幸福にはそれはないだろう。自由であればあるほど、平等であればあるほどよい、とは言えまいが、正義であればあるほど、幸福であればあるほどよい、とは言えるだろう。)

 寛容でありうるのは、あるべきなのは、ここまで、という限界(境界)がある。例えば、テロに対しては、寛容であるべきではないと思うが、信仰に対しては、そうだろう。こうして、寛容論は、常に、線引き問題を抱え込む。イスラム原理主義のテロリズムには寛容であるべきではないが、イスラム教(そのもの)には寛容であってよい、例えば、そういう線引きだ。「狂信」という言葉があるのは、線引きのためなのだ。それに対して寛容であることはできないし、あるべきでもない。

【3】 自分でも意外な、暫定的結論
【1】 さて、こんな風に考えてきて、自分でも意外な結論にたどり着いた。私は、昨今の日本における道徳教育必修化に関する議論を重要な課題だと考え、同時にその一方で、寛容論を現代世界にあって必要な論点だと思う者だ。しかし、両者は、結びつかないのではないか。というのも、上述したように、寛容が道徳性として要請されるのは、複数の宗教が対峙するような状況、そして、普遍主義を掲げることができないような状況においてであると考えられるからだ。しかし、目下の日本の状況はそうではない。世俗化された社会と捉えるのが適切な目下の日本で、必要な道徳性とは、相手の立場は誤っていると思うけれども寛い心で受け入れるという姿勢、つまりは寛容ではなく、あくまでも、正しい立場めざす辛抱強い合意形成の努力だ、と考える。そこで必要な他者に対する姿勢とは、合意形成をめざすプロセスを共にしうるパートナーとして他者を尊重する、という姿勢だと思う。容易にヴォルテールまで引き下がらないこと、あくまでも、カント、ハーバーマスの路線を堅持すること、と言ってもよい。

【2】 より具体的に考えてみよう。道徳教育の名のもとにもっぱら愛国心教育を考えている人々の念頭にある「他者」とは、中国や韓国の人々であり、そこから日本にやって来た、そしてやって来る人々だろう。その人々と日本人の関係の中に、宗教の問題は存在しない。それでも、むりやり、絶対的価値同士の衝突の問題に仕立て上げたい、というのであれば、話は別だが、そんなのは妄想だ。

 それとは別に、イスラム文化圏から日本を訪れ、日本に住む人々が、これから増えていくだろうという問題はある。「問題」などというと、まるで「困ったこと」ででもあるかのように響きかねないが、私は、日本に魅かれ、日本を訪れ、日本に住みたいと思う外国人が増えることを嬉しく思う者であり ― その気持ちが、私の愛国心だ ― その際、どの国の人であるか、は問題ではない。そこでは、それぞれの人の信仰に対して ― イスラム教であれ、キリスト教であれ、ヒンズー教であれ、仏教であれ ― その教えは誤っていると思うけれども、しかし寛い心で受け入れるという姿勢、つまり「寛容」でありたいとは思う。

 そう考えると、愛国心と歓待と寛容とは、結構、両立・共存可能であるように思えてくるのだけれども、どうだろうか。

《付記》  私が寛容について考えるようになったのは、マイケル・ウォルツァーを読んで以来だ。この1935年生まれのユダヤ系アメリカ人政治(哲)学者は、地球上のマイノリティの歴史について驚くべく該博の人で、とりわけ、ユダヤ民族の歴史に詳しいのだが、そこでは、オーストリア帝国の存在感が大きい。帝国には寛容という徳がゆき渡っていた、というウォルツァーの指摘は、私にとって強烈な「メウロコ」の経験だった。例えば、オーストリア帝国の東の端に、チェルノヴィッツという街があったのだが(今は、ウクライナに属する)、そこには、ユダヤ人、ルーマニア人、ウクライナ人、ドイツ人、、、、、と様々な民族が共生し、寛容な文化が花開いていた。
そういうことも含め、寛容、多文化主義、道徳について、私は、以下のような文章の中であれこれ考えてきた。この文章は、それを再構成してひねり出されたものである。

・書評:マイケル・ウォルツァー『寛容について』(みすず書房、2003年)、高崎経済大学論集第47巻第3号、2004年
・『高校生と大学一年生のための倫理学講義』、ナカニシヤ出版、2011年
・「「チェルノヴィッツ」考 - 歴史と文化」、『思想』2013年3月号、岩波書店

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 藤野教授の上掲書『高校生と大学一年生のための倫理学講義』は、わたしも今年秋、藤野教授の文章に親しんですぐ、読ませていただきました。そして問題のわかりやすい整理の仕方に感銘を受けたものです。

「共感」は、道徳の普遍的土台とはなりにくい。「尊重」はそれに比べると(それでも多少困難ではあるけれども)共通ルールにしやすい。

 おおむねそういう論旨です。ご興味のある方はぜひ、『高校生と大学一年生のための―』をお読みになってみてください。

 今回は、「寛容」という徳をテーマにして、
・「寛容」は無関心ということも含む徳であること、
・マジョリティからマイノリティへの、やや「上から目線」の徳であること、
・複数宗教が対峙し、普遍主義を掲げることができないときは「寛容」が要請される、
・日本国内のような状況では、必要な道徳性とは寛容ではなく、あくまでも、正しい立場めざす辛抱強い合意形成の努力だ、と考える
ということを述べています。

 藤野教授から12月14日、この原稿を添付していただいたメールによれば、

 
 正田さん、
 アクセル・ホネットが
 資本主義に対してどういうスタンスをとっているのか、
 ということが知りたくて
 いくつかの論考を読んでいるのですが、
 最近出た『社会主義の理念』という本
 面白いのですが、まだ読んでいる最中で、
 授業で取り上げられるのは正月明けになりそう、
 ということで、
 今日の講義は、「承認と寛容」をテーマにすることにしました。
 少し前に書いた文章を引っ張り出してきました。
 それを添付させていただきます。
 【1】の7と【2】を主要に解説することになります。


とのことでした。

 ということは、前回ちらっと出た「資本主義は利益至上主義だけではなく承認の原則によっても成り立っている」これは年明け以降にその続きが読めそうだ、ということですね。


 藤野先生、このたびもありがとうございました!


正田佐与

 

お世話になっている皆様


 おはようございます。
 正田佐与です。
 
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 本日の話題は:

■頭の体操「ダイバーシティー経営は損か得か?」

■藤野寛教授のホネット承認論講義録:
 「資本主義は利益最大化だけではなく、承認の原則によっても成り立っている」
 
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■頭の体操「ダイバーシティー経営は損か得か?」

「ダイバーシティー経営は損か得か?」
 こういうお題を出されたら、現役ビジネスパーソンの皆様はどうお答えになるでしょうか。
 まず、「ダイバーシティー経営とは何か」のところから押さえないといけないですね。
 実は一般に「ダイバーシティー経営」と言われてぱっと想像する、「男性だけでなく、女性や外国人など色々な人が混じっている会社」。これは経営学では、「デモグラフィー型の人材多様性」とよぶのだそうです。
 そして他方、「能力・経験」が様々な人が集まっている場合を、「タスク型の人材多様性」とよぶそうです。
 経営学で「儲かる」ことにつながるのは、後者の「タスク型人材多様性」。そして単純に女性や外国人が混じっているだけの「デモグラフィー型の人材多様性」は、「儲かる」ことにつながらないどころか、業績を下げることもある。
 最近出版された『ビジネススクールでは学べない世界最先端の経営学』(入山章栄著、日経BP社、2015年11月)では、こういう内容のことを言っております。
 前半部分、「タスク型の人材多様性は儲かる」これには、納得ですね。TVや映画の世界でも「必殺仕事人」とか「オーシャンズ11」、様々な特殊技術、バックグラウンドを持った仕事人たちがチームを作っていい仕事をする。イメージしやすいです。問題は後半の「デモグラフィー型の人材多様性は損だ」という知見です。
 これを見て、「おやおや、では来年度は女性の採用を手控えたほうがいいのだろうか」「今男性ばかりの部署に女性を配属してみようと思ったが、やめたほうがいいのだろうか」このように思われる経営者さんがいらっしゃるかもしれません。
 でも、ちょっと待って。
 この知見、「デモグラフィー型の人材多様性は儲からない」これは、実はいくつも反論があり得るのです。そのまますんなり受け取れないのです。くれぐれも、御社の大切な経営判断にそのまま取り入れたりはされませんよう。
 「世界最先端の経営学に楯突くなんて!」と思われるかもしれません。でも、「これだけ反論の余地があり得るんだ」ということを示した記事を掲載しました。もしよろしければご覧ください:

◆『ビジネススクールでは学べない―』経営学は”残念な学問”か?考察編(1)「ダイバーシティー経営は損か?」
 http://c-c-a.blog.jp/archives/51931381.html

(ちなみに本記事も、長文にもかかわらずフェイスブックでは非常にご好評をいただきました)

 実は、「世界最先端の経営学の知見を紹介する」と謳っているこの本は、ほかにも個々の項目で実感と合致しない点があります。
 「承認マネジメント」あるいは「承認リーダーシップ」を10数年、教えてその現場での機能の仕方をみてきた立場からは、それらの関わる項目はすごく“不自然”に映ります。それらについて実務家にとってもう少しわかりやすいように書いたのがこちらです:

◆『ビジネススクールでは学べない―』世界の経営学は周回遅れ?考察編(2)リーダーシップ、内発/外発、レトリック
 http://c-c-a.blog.jp/archives/51931424.html


 また今回の一連の記事の「序章」のようになった、ある「対話」がありました。『ポスト資本主義』『介護男子スタディーズ』の著者(介護男子スタディーズは編著)、千葉大学法経学部の広井良典教授(科学哲学)とのメールのやりとりです。広井教授のご了解をいただき、こちらにご紹介しております:

◆科学の限界性、認識の限界性―アカデミズムも盲信してはいけない?千葉大学・広井良典教授との対話
 http://c-c-a.blog.jp/archives/51931204.html

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■藤野寛教授のホネット承認論講義録:
 「資本主義は利益最大化だけではなく、承認の原則によっても成り立っている」

 一橋大学大学院言語社会研究科の藤野寛教授(現代ドイツ思想)より、「ホネット承認論」に関する同大学での講義原稿をいただきました。
 アクセル・ホネット(66)は、同じフランクフルト学派のユルゲン・ハーバーマス(86)とともに、現代を代表する思想家の1人で、ヘーゲル承認論の正統的な後継者でもあります。藤野教授は今年度後半、「ホネット承認論」を講義しておられ、その毎回の講義原稿をいただいております。
 今回はちょうど、冒頭の記事のテーマとも関連しそうな内容。また正田が年来ぶつくさ言っていた「自己実現」の問題にも答えてくださっています:

◆「資本主義は利益最大化だけでなく、承認の原則によっても成り立っている」(ホネット)―一橋大学・藤野教授講義原稿(4)
 http://c-c-a.blog.jp/archives/51931120.html 

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★前号のメルマガが「アドラー心理学批判」だったのに続き、今回は「世界最先端の経営学批判」でした。
 読者の方はびっくりされたかもしれませんが、わたし自身、「こんなに“詭弁”が次から次へと押し寄せてくる時代を生きているんだ」と驚きながら、そういう時代であることを前提に自分のところの責任を果たさなければ、と思います。

★昨日、映画「杉原千畝」を観てきました。リトアニア領事代理として2139人のユダヤ人に日本通過ビザを発給した実在の外交官の話です。辺鄙なところに赴任しながら、優れた諜報能力を駆使して世界情勢の全体像を知り、自分のところでやるべきことを、人道上の要請も絡めながら決断したその姿から学べるものもありそうです。


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*…*…*…*…*…*…*…*…*…*…*…*…*…*

※この読書日記はシリーズ化しました。

1.悩ましくも学び多き俯瞰図の第二弾―『ビジネススクールでは学べない世界最先端の経営学』読書日記編
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51931354.html

2.『ビジネススクールでは学べない―』経営学は”残念な学問”か?考察編(1)「ダイバーシティー経営は損か?」
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51931381.html

3.『ビジネススクールでは学べない―』世界の経営学は周回遅れ?考察編(2)リーダーシップ、内発/外発、レトリック
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51931424.html

4.痛みに満ちた進歩の歴史と「こころの退化」と―世界の経営学にNOを言う 考察編(3)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51931465.html



『ビジネススクールでは学べない世界最先端の経営学』について、考察編の蛇足のような記事です。


※ここまでの流れをお知りになりたい方はこちらをご参照ください

悩ましくも学び多き俯瞰図の第二弾―『ビジネススクールでは学べない世界最先端の経営学』読書日記編

http://c-c-a.blog.jp/archives/51931354.html

『ビジネススクールでは学べないー』経営学は"残念な学問"か?考察編(1)「ダイバーシティー経営は損か?」

http://c-c-a.blog.jp/archives/51931381.html

『ビジネススクールでは学べない―』世界の経営学は周回遅れ?考察編(2)リーダーシップ、内発/外発、レトリック

http://c-c-a.blog.jp/archives/51931424.html



 「ダイバーシティー経営」の知見について、なぜあれほど生理的嫌悪感をもったのだろう。

 今日の記事では、全然論理的・客観的でなく、むしろバイアス満載の、感情的・主観的な自分になって語りたいと思います。

 自分個人の体験として。
 わたしはバリバリの均等法世代、同法施行2年目に入社した女子です。入社したとあるマスコミの会社は業界の中でも女性活用が遅く、女性総合職の記者2期目、そして配属された部署では初めての女性記者となりました。
 そして平凡な話だと思いますが、上司は女性の受け入れについてなんら研修など受けておらず、違和感マンマンの表情でわたしを受け入れました。口を開けば「女の子は叱ると泣くんじゃないか」と言われ、一方では「叱られて初めて本物だぞ」と言われ(じゃあ女の子は永遠に本物にならないのかよ)、腫れ物に触るような扱い。
 過去にこのブログにも書いたように、そんな中でも精一杯優等生の1年生社員をやっていたのですが、中にはわたしが周囲のおぼえめでたいのをやっかんで悪質な嫌がらせをしてくる先輩社員あり。また当初は上司がそうした先輩の嫌がらせに盾になってくれていたのですが、前門の虎後門の狼というやつで、今度はその上司が「対価型セクハラ」というやつをやり、わたしはそれを断ったのでいきなり不興を買い、仕事を干されました。哀れ可愛がられっこだった1年生女性社員は、以後毎日ひたすら出社しては何もやることがなく、新聞を読むようになりました。約4か月その状態が続き体重は7kg落ちました。そして問題の上司が他部署への転属を打診しに来たので、組合に駆け込み、組合もさすがに「それは不当人事だ」と会社に掛け合ってくれ、私は希望通り地方に出してもらえることになりました。
 その地方勤務の準備のため警視庁、環境庁(当時)に各2か月詰めたのでした。かなり異例のことでした。
 地方に行ってからはこれも受け入れ先が渋々受け入れたようで、当初「無任所」、決まった担当先がなく仕事が何もないに等しかったのですが、その地方では手つかずだった医療分野を自分で開拓して特ダネを書くようになりました。そしてある時期は社内報に毎回名指しでおほめの言葉が載り、表彰もされるように。東京から地方巡回してきた社長や編集局長には「次の香港特派員はお前だからな」と言われ。
 東京勤務時代に本社に女性の宿泊施設がなく、それでも宿直勤務を希望したので、宿直に入っても男性と違って寝に行くところがなく、勤務が終わってから資料室でつっぶして寝ていたこと、地方勤務もまたその地方では「初物」になり違和感に囲まれながらの仕事でした。そしてそこにも悪意の先輩というのがいました。最近膳場貴子氏がNEWS23の降板を希望したと偽情報をリークされていましたが、わたしも結婚ネタをリークされ退職に追い込まれたようなものでした。
 わたしの10代くらいあとの女性でしょうか、その会社で初めて海外特派員に出たとききました。先輩女性たちの死屍累々のあと、死体の山を踏み越えて、初めて1人の女性特派員が誕生するのです。

 そういう、男性だけだった会社や職場に初めて1人の女性が入ることがどれほど大変なことか。軋轢の多いことか。志を貫こうと思えば、人としてどれほどの苦痛を味わい続けることか。経営学者たちにはわからないでしょう。
 こんにち、それなりの規模の会社にはどこでも女性がそこそこの人数いるのは、その蔭に多数の痛みに満ちた女性たちの人生があるのです。女性が存在できるようになったのは、闘争のすえに勝ち取られた「進歩」なのです。

 で、後輩や自分の娘のような世代の人たちにはなるべくもっとスムーズに働き、経済的不利益も味わわないで済んでほしいと思っているのだけれど、昨今のミソジニー(女性嫌い)の風潮はそんな思いをあざ笑うかのようです。
 だから、わたしは女性たちに不利益をもたらす言説にはNOを言います。

****

 もう1つ、また「生理的嫌悪感」にまつわる話を。
 たとえば「白人、男性、同年代だけで固めた職場なら、ツーツ―で仕事がはかどって楽だなあ」こういうメンタリティに対して、わたしは不快感なのです。それは堕落したこころの状態だ、という気がするのです。
 読者の方は、いかがでしょうか。
 
 またひとつの実体験です。「女の園は苦手だ」と言いましたが、地元の商工会議所の人に頼まれて、「女性経営者の会」に2年ほど入っていた時期がありました。40歳前後のこと。
 その「女性経営者の会」は、主力は60歳代の女性社長たち。お父さんが亡くなったから、ご主人が亡くなったから、と受身なきっかけで経営者になった人が大半で、自力で起業した人は少数でした。そして、ホテルのレストランで毎月ランチをご一緒するのですが、まあ円卓に一緒に座っていても共通の話題がない。60代女性の共通の趣味で、踊り(日本舞踊)に行ったとかシャンソンに行ったとか歌舞伎に行ったとか、同年代同士ベチャクチャと話しておられる。こちらからは口を挟むとっかかりがない。
 そこで如才なくあれこれ話しかけられればいいのでしょうが、わたしと同様、「入っていけない…」と感じる若手女性経営者は少なくなかったようで、2年間のあいだにわたしと同年代の人が入っては辞めていきました。2年もったのは辛抱強かったほうでした。
 そのうち、その会の「外」で、やはりその会から脱落したという50歳前後の女性経営者と出会い、「もっと若い者同士の女性経営者の会をしましょうよ」と声をかけられましたが、行ってみるとそこもまた、今度は50代の人の集いの場でありまして。
 
 どうも、「女同士だから気安く話しやすい」場として設けられたところでは、メンバーは気安さを求め、女性同士というだけではなく、同年代同士というさらなる気安さを求めてしまうのです。こういうのは煩悩のようなもので、せっかく気安いのだからもっともっと気安く、と追い求めてしまうのです。
 たぶんそれはサークルのようなところだけでなく、カイシャでも同様で、女同士だからサクサク話が通じるかといえば、その中で年代ごとの壁をつくり、あるいは既婚者・未婚者の壁をつくり、いたちごっことなるでしょう。同質性を際限なく求めるでしょう。
 そういう、「べたっ」と同質な世界というのは、わたしは堕落だ、と感じてしまうのです。こころのどこかが麻痺しているように感じてしまうのです。
 たぶん仮にそういう中にいて居心地がよいと感じるとしたら、その場にはいない異質の人に対してはものすごく不寛容になりそうです。ヘイトスピーチなどもしてしまいそうです。男だったら、配偶者にDVなどもしてしまうかもしれません。また、女でも自分の子供が仕事の同僚のようにサクサク動いてくれないことに腹を立てるかもしれません。
 異質の人が周りにいるというのは、いいことなのです。こころの訓練になっているのです。同質の人だけと一緒に過ごしたいなどというのは、「退化」なのです。
 経営学が「こころの退化」を勧めるのなら、やはりNOを言いたい。


正田佐与

※この読書日記はシリーズ化しました

1.悩ましくも学び多き俯瞰図の第二弾―『ビジネススクールでは学べない世界最先端の経営学』読書日記編
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51931354.html

2.『ビジネススクールでは学べない―』経営学は”残念な学問”か?考察編(1)「ダイバーシティー経営は損か?」
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51931381.html

3.『ビジネススクールでは学べない―』世界の経営学は周回遅れ?考察編(2)リーダーシップ、内発/外発、レトリック
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51931424.html

4.痛みに満ちた進歩の歴史と「こころの退化」と―世界の経営学にNOを言う 考察編(3)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51931465.html






『ビジネススクールでは学べない世界最先端の経営学』(入山章栄著、日経BP社、2015年11月、以下、「本書」と略)
 読書日記考察編(1)に続き、考察編の第二弾です。

 考察編(1)の「ダイバーシティー経営」の話題に比べると、”実害”はそれほどないかもしれない、したがって緊急性・重要性とも低いかもしれない部分。
 でも「神戸の承認屋」としては、「世界の経営学ってまだそんな(遅れた)ことやってるの!?」と言いたくなるところです。また、もう少し現実的なところを知っておいたほうが実務家には役立つのではないか、と思われるところです。

 こういうのも、あとで改めてまとめて考察すると時間のムダなので、今やっておきましょう。
 ほんとは、「承認教育はこんなに優れている」と主張することになりますから、わたしの性格的にあんまり気が乗らないんですけれど。

 ポイントは3点、
(1)内発/外発:もっとシンプルな捉え方ができるでしょう
(2)リーダーの「伝え方(レトリック)」:「ビジョン」「イメージ型の言葉」の陰に潜むものの大事な役割
(3)リーダーシップの概念:これも分け方が変
 
です。

****

(1)内発/外発:もっとシンプルな捉え方ができるでしょう


 「モチベーション」に関わるところです。
 おさらいで、2つ前の読書日記の記事でのこの項目に関する要約部分を再掲いたしましょう:

●モチベーションの「外発的な動機(Extrinsic motivation)」と「内発的な動機(Intrinsic motivation)」。内発的な動機を強く持つ人のほうが、創造的な成果を出しやすい。またどのようなリーダーが部下の内発的な動機を高めやすいかというと、「トランスフォーメーショナル型」のリーダーである可能性がある。
 「内発的な動機」を高めた日本組織の成功事例としては、JR東日本の子会社で、新幹線車内の清掃をするテッセイ。(『新幹線 お掃除の天使たち』参照)。(pp.224-226)

 めんどうでも言葉の定義を確認しながらすすめたいんですが、ここでいう「外発的な動機」とは、「給料・昇進・周囲からの評価など、当人の外から与えられるモチベーション」と本書は言います。また「内発的な動機」とは、「当人の心の中からわきあがってくるモチベーションです。仕事へのやりがい、楽しさなどを感じることがその典型」とのことです。
 そして、近年の研究成果では、特に後者の「内発的な動機」の重要性が主張されている、といいます。

 さて。以前からこのブログでは、この「内発、外発」の分け方には意味がない、ということを言っています。「区切り方が変」といいますか。
 本書の記述やその他のこれまでの研究で言っていることを要約すると、「外発」はすなわち、カイシャから与えられるモチベーション。「おカネによる報酬」も「昇進」も「上司からの褒め言葉」もそこに入ります。「内発」はそうではなくカイシャの外から与えられる、あるいは外向けの動機―すなわちお客様からの感謝の言葉とか仕事そのものの意義、例えば社会に与えるインパクト、社会的貢献度など―を指すようです。

 でもそれは、「承認屋」からみると、全部「承認欲求」でくくれてしまうものなんです。単に「承認」を与えてくれるひとが誰か、の違いだけです。 
 本書で例として出している「テッセイ」を例にとりましょう。

 そもそも掃除現場はいわゆる3K職場のようなところがあり、テッセイのスタッフの士気も、以前はとても低いものでした。それを、親会社であるJR東日本からやってきた矢部輝夫氏が、大胆に変革したのです。例えば矢部氏は掃除の仕事を「おもてなし」と再定義し、乗客から彼らの仕事がくっきりと見えるようにしました。そのために、制服もカラフルで素敵なものへと変え、乗客から注目を集めるようにしました。
 さらに矢部氏は現場に大胆に権限を与え、現場の総意工夫(ママ)でお客さんに対応するようにしました。すると次第に新幹線の乗客がスタッフに対し、「ありがとう」というようになり、それがテッセイのスタッフの仕事に対するプライドへとつながり、スタッフの士気が高まっていったのです。(pp.225-226)

 
 ここでは、
「乗客から彼らの仕事がくっきりと見えるようにした」
「制服もカラフルで素敵なものへと変え、乗客から注目を集めるようにした」
 これらは、言葉は悪いですが「自己顕示欲(承認欲求の一形態)から仕事に誇りを持たせる」ということをしています。また、
「現場に大胆に権限を与え、現場の総意工夫(ママ)でお客さんに対応するようにした」
 これも「任せる」という、「承認」の一形態をやっています。「任せる」とは、「あなたの判断力を信頼していますよ」という、信頼やリスペクトの表現です。
「乗客がスタッフに対し、『ありがとう』というようになった」
 これは、乗客が「承認」をしてくれた、ということですね。

 そして、本書には載ってないんですが、『新幹線お掃除の天使たち「世界一の現場力」はどう生まれたか?』(遠藤功著、あさ出版)によれば、矢部氏はテッセイに赴任後、マネジメント内部で「現場へのリスペクト」の精神を徹底した、とあります。
 カラフルで素敵な制服を与えるのも、「彼女らは誇りを持つべき人々だ」「だから、彼女らに誇りを与えよう」という、マネジメントから彼女らへのリスペクトの表現だ、とみることができます。
 ひょっとしたら、それ以前はホワイトカラーのマネジメントの人たち(たぶん男性)は、現場の彼女らを「お掃除のおばちゃん」と一段階低くみていたかもしれません。言動にも処遇にもそれが出ていたかもしれません。そしてそんなマネジメントへの反発心で、あるいは見下されることからくる自己評価の低さで、だらだら仕事をする人がいたかもしれません。そして案外、一連の改革プロセスの中でここが一番難しく、かつほかのすべての施策の土台になったところかもしれないのです。

 そういうふうに、テッセイの事例はわたしなどからみると、「マネジメントからの承認、そしてお客様から承認を得られるための仕組みづくり」を組み合わせた例、と考えることができるのです。
 現場の人にとっては、マネジメントからの承認「も」お客様からの承認「も」両方大事です。テッセイの場合は多分とりわけ、お掃除という一般には世間からの評価の低い仕事だからこそ、また人目に触れる仕事だからこそ、「世間/お客様からリスペクトされる」ことを重視しないといけなかったのでしょう。
 一方、看護や介護など専門性の高い仕事では、一般に思われているような、お客様(患者)からの「ありがとう」よりも専門性を熟知している上司・先輩からの(専門性を評価した)承認のほうが嬉しい、という調査結果もあり、どちらが有効かは一概には言えないのです。職種による、ということです。
 あるいは、テッセイの現場の内部でも、「上司・先輩からの個々の仕事に基づく承認」は行われているかもしれません。それがなかったり、攻撃的他罰的な人が混じってギスギスしていたりすると、いかにお客様からの承認があっても上手くいかないかもしれないのです。
 …カイシャの「外」からの評価が嬉しい、というのは、約30年前のわたしが会社員時代にはそうだった。というのは、上司のことがイヤでイヤでたまらなかったから。それは余談です。訓練不足の上司のもとでは、カイシャの「外」からの評価が嬉しい、それだけを励みに仕事している、という人が多くなるかもしれないですね。

 いずれにせよ、「内発的な動機づけ」「トランスフォーメーショナル型リーダーシップ」という概念を使うより、働く人々の「承認欲求」とそれを満たす行動である「承認」という、はるかにシンプルな概念を使った方が、一般のマネジャーにとっては学習のしやすさが全然異なります。「承認」のほうがはるかに学習しやすいです。

 この「テッセイ」の件は「内発的な動機が現場を強くする」事例として高く評価され、ハーバードMBAのケーススタディーとしても取り上げられているそうですが、わたしはハーバードのケーススタディーがいかに自分の理論に合わないものを捨象して出来ているかを知っている人なので、「またやってるな」という感じです。「内発って思いたい」んですよね、大学の先生は。シンプルに、脳のどの部分が活性化するかみればいいんじゃないですか。だめですか。
 
 
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(2)リーダーの「伝え方(レトリック)」:「ビジョン」「イメージ型の言葉」の陰に潜むものの大事な役割


 本書では、手っ取り早くいうと「優れたリーダーはイメージ型の言葉を使う」と言っています。ただし補足で、「イメージ型の言葉を使うから優れたリーダーになるわけではない、因果関係というより相関関係を示している」ということも言っていたのは、評価できます。

 さて、では、一般のマネジャーがこれを学んで、「伝わる話をするためにイメージ型の言葉を使おう」と思うことは、正しいでしょうか?読者の皆さんはどう思いますか。
 たぶん、いきなりそれをやったら空回りするでしょうね。
 それは何が足りないのか。

 まず、本書で例に挙げたような、アメリカの歴代大統領、こうした「雲の上の人」については、わたしたちはその人との個人的関係がまったくありません。日頃の関係性を「抜き」にして純粋にレトリックだけで左右されると考えられます。ところが、一般の部下と日々接しているマネジャーはそうではないですよね。そこでは、日頃の関係性が、言葉の伝わりやすさに大きく影響します。
 このブログの読者の方はマネジャー以上の立場の方が多いかと思いますが、だからちょっと記憶が遠いものになっているかもしれませんが、皆さんが若くて末端の働き手だったころ、自分の嫌いな上司の言うことを理解できましたか?3分の1とか4分の1ぐらい、「ひゅーひゅー」だったということはないですか?
 とりわけ、その「嫌いな上司」が「組織の理想」のようなことを語った場合、綺麗ごとにきこえてしまって実感がわかなかった、ということはないですか?
 では何が「好き、嫌い」に影響するかというと、とりわけ「上司部下関係」の場合は、「承認」がほとんどすべてを決めてしまうと言っていいと思います。
 このブログでは何度目かの繰り返しになりますが、人は、脳の「内側前頭前皮質」という部位から、他者の自分に対する評価を取り込み、自己評価を作っていきます。そして「内側前頭前皮質」は同時に、外部の規範を取り込み自分の規範意識を形づくる、という役割を担っています。
 だから、「承認してくれる上司の言うことは自分の規範として取り入れやすい」。

 もう1つの説明としては、普通のはたらく人というのはポジティブ心理学でいう「ポジティビティ(ポジティブ感情)」が低いのです。ポジティブ感情の有無は、人が中長期的視野でものを考えられるか、あるいは目先のことしか見えないか、に影響を与えます。ポジティブ感情のある人は少し長い視野でものを考えられ、未来へ目を向けることができるのです。このポジティブ感情の土台がないところに、「ビジョン」を語りかけたり「未来の姿をイメージさせる言葉」をレトリックとして使ったりしても、ぴんと来ないであろうと予測できます。そこまで気持ちがあがってこないのです。

 では、どうしたらいいでしょうか。1つの例を挙げましょう。
 拙著『行動承認』に出てくる事例です。中国工場の総経理である脇谷泰之さんという人が、中国人スタッフに向けて語りかけます。工場が不良を出し、連日深夜までやり直しの仕事に追われていたさなかのこと。

「あなたがたには、十分いいものを作る能力がある。
どこにも負けない技術がある。
ただ、小さな問題が続き、自信がなくなっているだけだ。
僕は、あなたたちの能力を信じている。
だから、自信をもってお客様にいいものを届けよう。
そうすれば、必ず今の苦しみを乗り越え、みんなで笑える日がすぐに来るから」

 いかがでしょうか。
 この「ミニ・スピーチ」の最後の一行が「ビジョン」であり「イメージ型の言葉」になっています。しかし、冒頭の4行は「承認」になっています。いわばビジョンに行き着くための「助走部分」に「承認」を使っているのです。
 ここで、「承認」はマネジャーに対する「求心力」―信頼感とも、愛着心とも言いかえられます―を高める働きと、「ポジティブ感情」を高める働きの両方をしています。いわば、従業員たちとマネジャーの間の心のつながりを太くし、そして従業員の心を浮き上がらせ、少し遠くを見られる状態に持って行ってあげる、そういう役割を果たしているのです。
 こういう「下地づくり」を手順として行うと、「必ず今の苦しみを乗り越え、みんなで笑える日がすぐに来るから」という、ビジョンの言葉がリアルな言葉として響くようになるのです。

 こうして「技術解説」をすると、操作的にきこえてしまいますし単なるレトリックのようにもみえてしまいそうですが、脇谷さんはこの事例の少し前に「承認」の概念に出会い、個人個人へのスタッフへの「承認」を行うようになっていました。
 承認を理論レベルでなく、実践レベルで行うということは、その人自身にとっては、「他者の視点を取得する」体験にもつながります。とにかく相手は「承認」を欲しているのだということ、適切に与えれば嬉しいものなのだということ。その体験を繰り返すことが、他人視点の取得につながり、そしていざという時に、部下が欲するものに応える行動として、「ビジョンの言葉を発する」能力を形成することにもつながるかもしれません。
 「ビジョンを発したリーダーが成功した」「イメージ型の言葉を発したリーダーが成功した」
 それは、実は「ビジョン」や「イメージ」に付帯していたものが大きかったのかもしれないのです。

 脇谷さんは2011年の初めに「承認」の概念に出会って実践者となり、総経理を務める上海工場はその年から2年連続で「業績倍々ゲーム」の快進撃になります。「2年間、お客様のもとに不良を1件も出さなかった」という快挙、そして2014年にはお客様の「優良協力工場」として表彰されます。

 まとめると、「ビジョンの前に承認」これを、日常行動としてもその場のスピーチの構造としても、意識しておいたほうがよいでしょう。わたしからの実務家へのアドバイスは、そうです。

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(3)リーダーシップの概念:これも分け方が変

 本書では、「トランザクティブ・リーダーシップ」と「トランスフォーメーショナル・リーダーシップ」という2つの概念を紹介し、これらが経営学でコンセンサスとなっているものだ、といいます。
 「トランザクティブ・リーダーシップ」とは、
1)報酬を与え(ほめ)、
2)部下の失敗に事前介入、
3)部下の失敗に事後介入 
ということだそうです。なんか現実の人格ではない、要素だけを抜き出した感じの概念ですが。これだけしかやってない人っているのかしら。
 そして「トランスフォーメーショナル・リーダーシップ」とは、これもおさらいですが、
(1)組織のミッションを明確に掲げ、部下の組織に対するロイヤルティーを高める
(2)事業の将来性や魅力を前向きに表現し、部下のモチベーションを高める
(3)常に新しい視点を持ち込み、部下のやる気を刺激する
(4)部下一人ひとりと個別に向き合いその成長を重視する
ということだそうです。

 で、優れたリーダーはトランスフォーメーショナル・リーダーシップの4項目プラス、トランザクティブ・リーダーシップの1)を持っているのだそうです。
 これもうーん、なんでそういう分け方になるかなあ。とわたしは思います。
 「内発、外発」のときもそうでしたが、いちどある分け方を決めると、経営学者はみんなそれに沿って追試して、ほかの分け方の可能性をみなくなるのではないかしらん。また、なんでこんな舌をかみそうな用語をがまんして使わなくちゃいけないのかしら。

そして今回の記事の3項目に共通して言えるのは、カイシャやリーダー/マネジャーに対する愛着心(attachment)という要素には全然フォーカスしてないですね。わたしは承認研修の統計の質問紙に「職場アタッチメント」という言葉を入れましたけどね。この項目は研修後に如実に上がりました。
 
 
 ・・・でもわたしもちょっと疲れてきたので、また特に実害のありそうなところでもないので、ここは「違和感の表明」だけにとどめたいと思います。

 「批判記事」書かなきゃなあ、と思うと歳のせいで肩や腰が痛むんです。今回の記事はそんなに「批判」でもないですけどね。お友達の助言に従い、少し休もう…。


正田佐与

※この読書日記はシリーズ化しました

1.悩ましくも学び多き俯瞰図の第二弾―『ビジネススクールでは学べない世界最先端の経営学』読書日記編
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51931354.html

2.『ビジネススクールでは学べない―』経営学は”残念な学問”か?考察編(1)「ダイバーシティー経営は損か?」
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51931381.html

3.『ビジネススクールでは学べない―』世界の経営学は周回遅れ?考察編(2)リーダーシップ、内発/外発、レトリック
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51931424.html

4.痛みに満ちた進歩の歴史と「こころの退化」と―世界の経営学にNOを言う 考察編(3)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51931465.html




『ビジネススクールでは学べない世界最先端の経営学』(入山章栄、日経BP社、2015年11月。以下、「本書」と略)
 昨日、読書日記「悩ましくも学び多き俯瞰図の第二弾」をUPしましたところフェイスブックのお友達からさっそくコメント頂きまして、「次回のブログ(考察編)楽しみにしています。」と。このお友達は分析に頼る経営学では全体像がみえない、実際の経営はできない、ということを危惧されていました。

 昨今の「本」というものの読まれ方―例えば去年のベストセラーの某「トンデモ心理学本」を、「なんか心理学の本でも読まなきゃなあ」と、ふだん心理学の勉強なんかしていない人が手にとって盲信してしまったように、この本も、ふだん碌に経営学の勉強なんかしてない人が「この1冊で」と思って手にとり、そして盲信してしまう可能性があるのです。それが経営者である可能性もあるのです。
 そういう時代なのだ、ということを考慮すると、やはり反論すべきポイントは即、反論を公開する必要があるでしょう。あとで悔いのないように。

 今回の記事でのポイントは「ダイバーシティー経営」。
 1つ前の記事のおさらいになりますが、本書では、「ダイバーシティーには2種類あり、その峻別が必要」といいます。その2つとは「タスク型の人材多様性」と「デモグラフィー型の人材多様性」です。
 「タスク型の人材多様性」とは、実際の業務に必要な「能力・経験」の多様性。一方「デモグラフィー型の人材多様性」とは、性別、国籍、年齢など、その人の「目に見える属性」についての多様性です。
 そして「デモグラフィー型の人材多様性」は・組織パフォーマンスには影響を及ぼさない・むしろ組織にマイナスの効果をもたらす という結果。
 この知見を、著者・入山氏は、「事実法則」として紹介します。
 
 数十の研究を再集計してメタ・アナリシスをした結果ということなので、「なるほどそうか」と思ってしまいそうです。わたしも一瞬思いましたが、「いや、しかし」と踏みとどまりました。その結果は本当に信頼できるのか。またその結果をもとにさまざまな意思決定をした場合、どうなるか。
 わたし自身が「女性」という、この知見に対してそもそもバイアスをもった人間であることを前提としつつ、(そのバイアスから言えば、この知見は「不愉快なもの、嫌悪の感情を呼び起こすもの」でした)考えられる反論を挙げてみたいと思います。

●実験デザインが不明確
(1)「デモグラフィー型の人材多様性」の内容にも性別・国籍・年齢などがあるがそれらの要素のうちの個々のインパクトがまだわからない。例えば「年齢」もデモグラフィーのうちであれば、40代のベテラン揃いの会社に20代の未熟練の人が入社したら、パフォーマンスが一時的に下がる可能性はある。ただし40代ばかりであると持続可能性はない。
(2)「デモグラフィー型の人材多様性」の効果を検証するための比較対象としたのはどんな企業か。「デモグラフィー型の人材多様性」の一切ない企業というのを考えると、例えば「白人、男性、同年齢層のみ」といった極めて均質性の高い企業である。
 わたしはアメリカ滞在経験がないのでよく分からないのだが、そのような均質性の高い企業とはどんなものか想像すると、
・ベンチャーのスタートアップ。大学の同級生同士で起業した、など。
 ⇒きわめてモチベーションが高く、コミュニケーションも「ツーツー」であろうと考えられる。
・富裕層向けの高度なサービス。SPとかエリート法律事務所とか。
・いずれにせよ規模があまり大きくなく、属性以外にも能力を非常に高いレベルで揃えた、「少数精鋭」の企業である可能性がある。こうした企業がすべてではなくても比較対象グループの中に一定割合で混じっていれば、比較対象グループの業績を押し上げる可能性がある。
(3)いずれにしても、特に「男性だけ」の企業というのは、長時間労働をさせることが比較的たやすいかもしれない。そして1人当たり売上高(生産性ではなく)は多くなるかもしれない。もちろんその人たちの人生がどうなるか、ご家庭がどうなるか、子育てがどうなるか、配偶者の人生はどうなるか、などは関係なく。
(4)あるいは、それまで白人男性ばかり均質だった企業に女性や有色人種が初めて入社した場合に業績がどう変動するかを見たのだろうか。その場合は「不慣れなので」、当初数年は軋轢が強く出る可能性がある。それは当然でしょう。

●よのなかカフェでは以前、「優秀な女子とそうでない男子、どちらを昇進させますか?」というお題を出したことがある(「男のプライド」)。昇進でなくて採用でもいい、現実に大いにあり得る問い。それには、この「ダイバーシティー経営は損か得か」の研究はまったく答えていない。しかしなまじ「ダイバーシティー経営は損だ」という結論部分を盲信した経営者が、優秀な女性を不採用としたり今いる少数者を解雇したり、ということが起こり得るかもしれないのだ。

●一般には、男女に関わらず優秀な人を採用・登用するわかりやすい実力主義のほうが、組織のパフォーマンスは高いとされる。優秀でも女性だから昇進させない、あるいは採用しないという組織はいびつなのだ。男性もそこでは能力を発揮できなくなるものなのだ。それにはこの研究は答えられていない。

●この知見からわが国で既に現実に起きた負の影響。あるお調子者の大学の先生が、本知見を引用して、自分の関与した研修の参加者の男女比が大きくバランスを欠いていることへの言い訳に使っていた。そうやって教育訓練を受ける機会を与えないことが日本の高学歴女性の離職につながっていることに気づかないのだろうか。
またBCGのコンサルの先生、これも多分お調子者なのだろうが、「男だけの会社、女だけの会社を作ればいい」と発言した。これも結局は女性の職域を狭めるだろう。女性だけの会社というのはよほど大企業の子会社で安定した取引関係をもつのでなければ取引面で脆弱な存在である。なぜなら大企業側の購買担当者は多くの場合男性で、内集団びいきをするのだから。あるいは、ホネットがいみじくも言ったように、女性が向いているとされる職種は低く評価され報酬を低く抑えられる傾向にある。女性が経済的不利益を蒙らないためには、なるべく男女を混ぜたほうがいいのである。

●ここでわたし自身のバイアスを言うと、お兄ちゃん子で共学出身なので、「女の園」は苦手である。そんなわたしにとって女ばかりの会社しか受け皿がない、他に選択肢がない、というのは息苦しい社会だなあ。歌舞伎とかタカラヅカとか、日本にはモノセックスで富裕層向けの高度なサービスを提供し評価の高いものもあるが…。タカラヅカなんか倍率も高いが、好きずきだと思う。

●時代背景の違いを考慮し補正する必要があるかもしれない。2つのメタアナリシスが対象とした研究はジョシらが1992年〜2009年、ホーウィッツらが1985年〜2006年。屁理屈を言いたいわけではなく、近年の現実の人手不足を考えると、「猫の手も借りたい」状況がある。男性だけで優秀な人材を採れるか、というと、もう無理でしょう。アメリカではベビーブーマーの子供世代、ジェネレーションYが概ね1975年から89年生まれ。わが国でも、今40歳の団塊ジュニアが四大新卒で入社したのが18年前の1997年。つまり、研究対象にした期間というのは「人手余り」の時代だったのだ。その気になれば「白人男性のみ」で優秀な会社を作れた時代だったということだ。


●結論部分の著者の考察。
「このように、世界の経営学で分かってきているのは、組織に重要なのはあくまで「タスク型の人材多様性」であって、「デモグラフィー型の人材多様性」ではない、ということです。
 この結果を踏まえて敢えて乱暴な言い方をすれば、「男性社員ばかりの日本企業にとって望ましいダイバーシティーは、多様な職歴・教育歴の『男性』を増やすことである」ということになります。逆にこのような組織が、盲目的に「女性だから」という理由だけで女性や外国人を登用することはリスクが大きい、ということになります。」
 うーんうーん。そう言っちゃうか。ちょっとこの考察部分の記述は入山先生、ドヤ顔ですね。
 2012年10月、NHK「クローズアップ日本」に登場したIMFのラガルド専務理事は、「私は男女の能力が同じだったら女性を昇進させます」と言っていたが…。
(この番組の詳細はこちら「女性は日本を救う?」(クローズアップ現代)にみる前途多難
 現実には、能力が高くても日本企業で差別される屈辱を味わい離職する女性はいっぱいいる。そういうたくさんの女性の人生がこれからも繰り返されるということだろうか。そこに対する配慮は一切ないですね。

●業績の差分の問題。組織パフォーマンスに負の影響などというとき、その負の影響はどのぐらいのパーセンテージなのだろう。本知見についてその数字は出ていないが、ほかの知見(婿養子企業)では、例えば「婿養子企業は血のつながった同族企業よりROAが0.56%ポイント高い」「サラリーマン経営者企業よりROAが0.90%ポイント高い」といった数字が出てくる。
 なーんだ「高い」「低い」ってその程度なのか。「微差」ですね。
 秘書さんや、「承認研修」をやったときの3か月のポイント上昇はどれぐらいだったっけ。あのパワハラ工場長の200人の工場で猛暑の中とった統計ね。7点満点で0.2とかだったっけ。(秘書なんかいないくせに。ちょっと見栄はってしまいました)
 つまり、経営学で言う少々「高い」とか「低い」とかいう数字は、案外、いい研修を1本ちゃんとやれば吹き飛んでしまうようなものかもしれないのです。「承認研修」は内集団びいきやコミュニケーションギャップの問題もきれいに解決できる。入山先生が「婿養子はこのトレードオフをきれいに解決する」と自慢しているのよりはるかに大きくパフォーマンスを上げる。婿養子なんか社長の娘が愛のない政略結婚を我慢すりゃいいだけの話だから大した害はないですが。

●「ダイバーシティー経営は損か得か」こういうテーマを設定すること自体の意義を少し考えていただきたいと思う。なぜなら、そこでは「女性」だけではなく「インクルージョン」の問題も入ってくるからだ。「障害者を雇用することは損か得か?」ということでもあるからだ。「そんなのは損か得かじゃない、義務の問題だ」と、今の法整備はそういう流れでしょう。女性の雇用も、(能力差の問題はそれほどないと思うし中にはオリンピック選手並みに能力の高い人もいるが)同じことだと思う。あとは、負のインパクトを少しでも減らすためにどういう努力をするのがよいか、関心をそこに向けるのが正しい。それこそが学問の意義でしょう。なぜ、経営学者はそちらをこそ重要テーマだと思わないのか。差別を助長するような結論を導き出してそこにあぐらをかくことがそんなに楽しいか。

(入山氏は「多次元のデモグラフィーを同時に導入するタイプの多様性を」と提言するが、それは多様性を導入して久しく、成熟した段階の企業がパフォーマンスが高いことをみてそう言っているので、現実味が薄い。そうした企業も恐らくは一歩一歩多様性の幅を広げてきたのであり、要は異質と共存することに訓練して慣れていくしかないのである)


●いろんなことを言ってますが、ちょっとここは太字で言いたい。
「入山先生、あなたの紹介した知見のために女性の貧困ひいては子供の貧困が加速するかもしれませんが、この社会が先細りするかもしれませんが、それはいいんですか?」
 先日広井先生とメールをやりとりした中の前半のお話ですね。女性の貧困が子供の貧困となり、最終的に社会にツケが回ってくる。アメリカでも「貧困の女性化」というのが起こっていて、人口に占める貧困層の割合が女性のほうが高いそうですね。
 こういうのはもう経営学の領分ではない、社会の持続可能性とか種の保存とかの話になります。「経営学って要は人類を滅ぼす学問なんじゃないの?」とちゃぶ台ひっくり返す話になるかもしれません。経営者にとっても、貧困の連鎖が起き購買層が痩せ細ることは長期的にみていいことではないはずです。子供の貧困のために優秀な働き手が確保できなくなる、ということにもなるでしょう。でも経営学者は、そんなのは自分たちの守備範囲でないから知らん、というかもしれない。
 要は、「ダイバーシティー経営は損だ」という経営学の言説は、「ブラック企業は儲かる」と言っているのと、問題の性質は同じなのです。短期的にその企業だけが儲かれば、従業員の人生がどうなろうと社会がどうなろうと関係ない。
 大体、業績のことだけ考えたら、従業員は妊娠なんか一切しないほうがいいんだから。わかります?
「経営学的に正しいかもしれないが社会にとって有害」 
 こうなると、やはり経営学よりも哲学、社会思想のほうを学問として優位に置きたくなってくるのです。経営学はリスペクトすべき学問ではないかもしれない。
 いや、本当はこんなこと言いたくなかったのにね。多くを学べた本なのに。


正田佐与

『ビジネススクールでは学べない世界最先端の経営学』(入山章栄著、日経BP社、2015年11月)を読みました。
 悩ましい…。
 
※この読書日記はシリーズ化しました

1.悩ましくも学び多き俯瞰図の第二弾―『ビジネススクールでは学べない世界最先端の経営学』読書日記編 (本記事)

2.『ビジネススクールでは学べない―』経営学は”残念な学問”か?考察編(1)「ダイバーシティー経営は損か?」
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51931381.html

3.『ビジネススクールでは学べない―』世界の経営学は周回遅れ?考察編(2)リーダーシップ、内発/外発、レトリック
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51931424.html

4.痛みに満ちた進歩の歴史と「こころの退化」と―世界の経営学にNOを言う 考察編(3)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51931465.html


 2つ前の記事(「科学の限界性、認識の限界性―アカデミズムも盲信してはいけない?千葉大学・広井良典教授との対話」)でわたしが言っていた「経営学の本」というのがこれであります。広井先生は一般論として話をされただけで個別の本については言及されておりません。間違えないように。
 この著者の前著『世界の経営学者はいま何を考えているのか―知られざるビジネスの知のフロンティア』(英治出版、2012年11月)は、当ブログでも2012年12月22日
「あると有難い経営学の俯瞰図―『世界の経営学者はいま何を考えているのか』」でご紹介しました。そこでは、“批判色”を入れず、純粋に学びとしてとりあげました。
 本書はその続編のようなものですが、経営戦略中心だった前著とちがい、今回は「ダイバーシティー経営」「リーダーシップ」など、わたしの守備範囲の話題も入ってきたときに、「???」と首を傾げる内容があったわけです。そのあたりを「違和感」として2つ前の記事では言っております。
 ただし本書にはそれ以外にやはり素直に学びとして受け取りたい点も多々ありましたので、2部仕立てとして、第一部読書日記編、第二部考察編、という構成にしたいと思います。違和感とか批判の部分は第二部で。
 それでは、読書日記編。いつもの伝で抜き書きをしたいと思います。

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●現在の経営学では、「経営学者(=ビジネススクールの教員)が授業で教えていることと、彼らがいま最前線の研究で得ている知見の間に、きわめて大きなギャップが存在する(p.14)

●入山氏(著者)流・現代の経営学を把握するポイント。
(1)国際標準化。米国以外の学者の比率が大きくなっている。
(2)科学化。データ分析を重視。
(pp.15-19)

●あとで問題になるかもしれないので第一章で出た本書の問題意識。本の「理念」に当たるかもしれないところです。
「国際標準化が進む経営学で、世界中の学者達が科学的な手法を使いながら日々切磋琢磨して発展させている「ビジネスの最先端の知」「真理法則に近いかもしれないビジネスの法則」が、果たしてみなさんに全く示唆をもたらさないものなのでしょうか。
 私は、そうは思いません。もちろん全てではありませんが、その中には、みなさんがビジネスを考える上でのヒントになったり、ご自身の思考を整理できる助けになったりするものもたくさんあるはずです。本書を通じて、いわゆるMBA本を呼んでも(ママ)、ビジネス誌を読んでも、そしてビジネススクールの授業を通じても知り得ない、世界最先端の経営学の知見に触れていただきたいのです。」(
p.23)

●経営学者の多くは、「経営学は『役に立つ』ことを目的にした学問である」と考えていない。学者にとって経営学を探求する推進力となっているのは、「経営の真理を知りたい」「組織行動の本質を知りたい」という彼らの「知的好奇心」である。(p.26)

●「優れた研究」として評価されるには2つの軸がある。(1)厳密性(Rigorous)(2)知的に新しい(Novel) この2つと「実務に役に立つ(Practically useful)」を同時に追求することはトリレンマである。(pp.27-28)

●どうすればこのトリレンマを解消できるか。著者は、「RigorousとPractically usefulの線を充実させることだと考える。(pp.29-30)

●もう1つ著者の言い訳?
「経営学は、それぞれの企業の戦略・方針に「それは正解です」「それは間違っています」と安直に答えを出せる学問ではありません。企業は一社ごとに、直面する事業環境も社内事情も異なるからです。(略)
 では経営学は何を提供できるかというと、それは(1)理論研究から導かれた「真理に近いかもしれない経営法則」と、(2)実証分析などを通じて、その法則が一般に多くの企業・組織・人に当てはまりやすい法則かどうかの検証結果、の2つだけです。」(pp.34-35)

●バーニーの「3つの競争の型」。1986年、AMRで発表した論文。
(1)IO(Industrial Organization,産業組織)型
 業界構造が比較的安定した状態で、その構造要因が企業の収益性に大きく影響する業界。寡占業界。この業界で有益な戦略は、ポーターのSCP戦略。
(2)チェンバレン型
 IO型よりも参入障壁が低く、複数の企業がある程度差別化しながら、それなりに激しく競争する型。「差別化する力」を磨いていくことが重視すべき戦略になる。したがってこの業界では、技術・人材などの経営資源に注目するRBVに基づく戦略が有用。著者によれば日本で国際競争力のある企業を生み出してきた業界の多くはチェンバレン型だった。
(3)シュンペーター型
 競争環境の不確実性が高い業界。例えば「技術進歩のスピードが極端に速い」「新しい市場で顧客ニーズがとても変化しやすい」。ネットビジネスなどIT(情報技術)業界は典型的なシュンペーター型。(pp.45-48)

●国内でチェンバレン型競争をしてきた日本企業がグローバル進出したとき、中国・インド・東南アジアなど新興国市場は競争がIO型に近いので、ポーター的なSCP戦略を選ばないといけない。しかし日本企業は割り切ったポジショニングが得意ではないので、競争の型と戦略がマッチしていない。(pp.50-51)

●パナソニックは2012年津賀一宏社長の就任以来、シュンペーター型競争への深入りを避け、チェンバレン型に軸足を戻していると解釈できる。対照的にソニーは、シュンペーター型に近いスマホやゲームを主要事業に位置づけ、一方で国内ではチェンバレン型、海外ではIO型のテレビなどの家電事業があり、さらに恐らくチェンバレン型に近い保険などの金融事業も手がけている。異なる競争の型を持つ業種を内包しており、経営のチャレンジといえる。(p.54)

●ビジネスモデルとは、事業機会を活かすことを通じて、価値を創造するためにデザインされた諸処の取引群についての内容・構造・ガバナンスの総体である(アミット=ゾット 2001年論文)(p.57)

●価値を創造するビジネスモデルデザインの4条件(同上)
(1)効率性(Efficiency)
(2)補完性(Complementarity)
(3)囲い込み(Lock-in)
(4)新奇性(Novelty)
(pp.58-60)

●リアル・オプション理論。リアル・オプションを端的に言うと、「不確実性が非常に高い事業環境下では、何らかの手段で投資の『柔軟性』を高めれば、事業環境の下ぶれリスクを抑えつつ、上ぶれのチャンスを逃さない」という発想。
例えば新興国市場に進出するに当たりその市場が成長可能性が高いかどうか不確実であるとき、小出しに投資してリスクを低く抑える。リアル・オプション型の柔軟性ある投資をしなければ、もし高い成長をしたときそのチャンスをみすみす逃してしまう。不確実性が高いほどリアル・オプション型の投資をしたほうが潜在的なリターン(オプション価値)が増える。(pp.68-70)

●「両利きの経営」。知の深化と探索。詳細は前著の読書日記参照。

●「両利きのリーダーシップ」。(タッシュマンら、2011年)
(1)自社の定義する「ビジネスの範囲」を狭めず、多様な可能性を探求できる広い企業アイデンティティーを持つこと
(2)「知の探索」部門と「知の深化」部門の予算対立のバランスは経営者自身がとること
(3)そして「知の探索」部門と「知の深化」部門の間で異なるルール・評価基準をとることをいとわないこと
(p.84)

●イノベーションに対して企業が後手に回る背景。製品やサービスのドミナント・デザインが確立するにつれ、企業の組織構造やルールもそれに順応していく。それだけでなく企業内でのふだんのインフォーマルな情報交換の緊密さなども、ドミナント・デザインに影響される。(p.87)

●そこで「アーキテクチュラルな知」すなわち組み合わせをつくり出す知が促される組織作りが求められる。
 医薬品産業における「アーキテクチュラルな知を高める組織特性」(レベッカ・ヘンダーソン=イアン・コックバーンの論文、1996年)
(1) 研究者が会社の枠を超えた広範な「研究コミュニティー」で知識交換することが評価される組織であること
(2) 社内でも分野の垣根を幅広く越えて情報を交換すること
(pp.90-91)

●「アーキテクチュラルな知」を高めるためにもう1つのポイントは「デザイン力」すなわち、「最適な『組み合わせ』を見出し、まとめあげる力」。製品・サービスデザインにとどまらず、「組織のデザイン」までを意味する。著者によれば、「製品デザイン力を高めるための組織デザイン」についての研究は、世界の先端の経営学でも研究蓄積が十分ではなく、まだ体系だった理論はない。(pp.91-92)

●ビジネススクール教育ではむしろ、デザインスクールと連携するなど、デザイン分野との共同が進んでいる(pp.92-93)

●弱いつながりを多く持つ人は、創造性を高められる。前著に同じ(p.99)

●アイデアは実現(Implement)されて初めてイノベーションになる。クリエイティビティ―の高い人(発案者)が、さらにそのアイデアを「実現化」するために何が必要か。発案者に必要な2つの条件(マーカス・バエアー論文、2010年)
(1)発案者の実現へのモチベーション 
(2)発案者の社内での人脈
(pp.101-102)

―この項目には頷きました。以前から、旧NPOで総会とか理事会をして、色々アイデアを出す人はいるんだけどわたしは「却下」してきた、だって発案者自身が汗をかくつもりがなく、自分のアイデアを全部正田さんにやらせようとしているから。心理学やコミュニケーションの研修でブレストの研修を受けた人なんかは、「アイデアはそれ自身がすばらしい!」って刷り込まれているから困る。自分に行動するつもりのない人のアイデアはどんなによさげでも受け付けません。そういうときは「アイデアは責任を伴わない、行動は責任を伴う」という畑村洋太郎氏の言葉を引いて却下していました。まあ行動承認の応用形ともいえます

●イノベーションについての日本企業に向けての3つの示唆。
1.「創造性」と「イノベーション」は別ものであることを理解した上で、自社の問題が「創造性の欠如」なのか「創造性⇒実現の橋渡しの欠如」なのかを把握すること。どちらが欠如しているかで打ち手は全く逆になる。
2.もし自社の問題が「クリエイティブな人が足りないことにある」と判断したら、社員が「弱いつながり」を社内外にのばせるサポートをしてやること。
3.「チャラ男と根回し上手な目利き上司のコンビ」。弱いつながりを持った創造性の高い人を「アイデアの実現化」まで橋渡しするには、社内で強いつながりを持った人と「ペアリング」をする。強いつながりを持った根回し上手人は、弱いつながりをもった「チャラ男」の創造性を理解できること。
(pp.104-106)

●知の探索を促す組織の学習量とメンバーシップの関係(ジェームズ・マーチ1991年論文、コンピュータ・シミュレーションによる分析)。
発見1.メンバーが組織の考えを学ぶスピードが遅いほうが、最終的な組織全体の学習量は増加する。
発見2.組織の考えを学ぶのが速いメンバーと、遅いメンバーが混在しているほうが、最終的な組織全体の学習量は増加する。
発見3.組織のメンバーは一定の比率で入れ替えがあったほうが、組織の最終的な学習量は増加する。
発見4.発見3で得られた効果は、特に組織を取り巻く環境の不確実性が高い時に強くなる。
(pp.107-110)

●トランザクティブ・メモリー(前著に既出)の知見。トランザクティブ・メモリーとは組織内で誰が何を知っているかを知っていること。トランザクティブ・メモリーを高めているチームは、直接対話によるコミュニケーションの頻度が多い。逆にメール・電話によるコミュニケーションが多いことは、むしろ事後的なトランザクティブ・メモリーの発達を妨げる可能性もある。カイル・ルイス2004年の論文。(pp.115-116)

●同様に「アイコンタクト」や顔の表情を通じてのコミュニケーションがトランザクティブ・メモリーを高める効果。アンドレア・ホリングスヘッド1998年の論文。(pp.117-118)

●トランザクティブ・メモリーを高める仕掛けとしては、平場のオフィス、タバコ部屋、社内カフェテリア、コーヒー飲み場、独身寮(pp.118-121、143-145)。

●ブレストはアイデア出しとしては効率が悪い。しかし(1)組織全体の記憶力を高める(2)参加メンバーが組織の「価値基準・行動規範」を共有しやすい。
(pp.122-129)
―それは「ブレスト」でなく「対話」と言ったほうがいいかもですね…

●成功体験と失敗体験、どちらが組織の学習に役立つか。マドセン=デサイ論文(2010年)
発見1:一般に成功体験そのものは、「その後の成功」確率を上げる
発見2:とはいえ、大事なのは成功体験よりも失敗体験。組織は失敗からも学習してその後のパフォーマンスを高められる。成功体験と失敗体験、どちらのパフォーマンス向上効果が大きいかというと、失敗体験のほうである。成功すると「サーチ行動」をしなくなる。(pp.135-139)

●ここから示唆されるのは、「成功体験と失敗体験には、望ましい順序がある」ということ。長い目で成功確率を上げられるのは、「最初は失敗経験を積み重ねて、それから成功体験を重ねていくパターン」。「若いうちは失敗経験を積め」は真実。(pp.140-142)

●グローバル企業とはそもそも何か。
 海外で成功する企業の強みのことを経営学では「企業固有の優位性(Firm Specific Advantage, FSA)」と呼ぶ。
 世界中からまんべんなく売り上げを得ている企業を真にグローバル企業とすると、どのくらいあるか。アラン・ラグマンの2004年の論文(データは2001年のもの)によると、世界市場を「北米地域」「欧州地域」「アジア太平洋地域」の三極に分け、(各多国籍企業の本社が置かれている)ホーム地域からの売上が5割以下で、他の2地域からの売上がそれぞれ2割以上なら、「真のグローバル企業」と呼べる、と定義づけた。
 この分析の結果、
発見1.ホーム地域への強い依存。分析からは365社のうち320社が、売上の半分以上をホーム地域から上げていることが分かった。ホーム地域外からの売上が半分を超える企業はわずか45社。
発見2.真のグローバル企業は9社だけ。上記の45社のうち、ホーム外の2地域の両方からそれぞれ2割以上の売上シェアを実現できている企業は9社のみ(IBM,インテル、フィリップス、ノキア、コカ・コーラ、フレクストロニクス、モエ・ヘネシー・ルイ・ヴィトン、そしてソニーとキヤノン。トヨタやホンダは欧州では売り上げが伸びていない。(pp.149-152)

●ラグマンはその後2008年に日本企業に特化した論文を発表(データは2003年)。ここではフォーチュン誌ランキング世界主要500社のうち日本企業は64社、うち「真のグローバル企業」はソニー、キヤノンに加えマツダ。また著者入山氏が2014年データで計算したところ、フォーチュン500社の中の日本企業は54社で、「真のグローバル企業」はキヤノンとマツダだけだった。(pp.154-155)

●大部分の多国籍企業は売り上げの半分以上を本社のある地域から上げている。ラグマンたちはこれを企業の「地域特有の強み(Regional Specific Advantage, RSA)」と呼ぶ。日本企業はやはりアジアで強みを発揮しやすいが、「自社のアジアで通用する強み(RSA)がそのまま世界中で通用するFSAとはならない」という認識を持つことが肝要。(p.156)

●世界はグローバル化していない。完全なグローバル化状態(一国化)か鎖国状態か。パンガジュ・ゲマワットの2003年の論文では、現在はこの両極端の間のスペクトラム上の鎖国側に極めて近い状態にあることを示した。貿易、資本流出入、海外直接投資などのデータの傍証により、ゲマワットは「世界はグローバル化しておらず、あくまでセミ・グローバル化(中途半端なグローバル化)の状態にある」ことを明らかにした。(pp.159-162)

●世界は狭くなっていない。経済学者は貿易データの統計分析をし、やはり二国間の距離が遠いほど、国同士の貿易量にはマイナスの影響を及ぼすことを示した(グラビティー・モデルという)。これを時系列的な変化でみても、輸送コストが低下しているにもかかわらず国同士の距離のマイナス効果は年々強くなっている。
 キース・ヘッドらの2008年の論文では、103の実証研究から得られた1467の推計値を集計してメタ・アナリシス分析をしたところ、1970年代のデータを使った研究では「距離の違いによる貿易量の変化の弾性値」は平均0.9だった。この弾性値は、90年代以降は0.95に上昇している。(pp.162-164)

●インターネット取引も距離の影響を受けやすい。ブラム=ゴールドファーブの2006年の論文では、インターネット上で取引されたデジタル製品・サービスの量と各国との距離の関係を統計分析したところ、その弾性値は1.1となり、上記のヘッドの研究の弾性値よりむしろ大きな値となった。(pp.164-165)

●世界はフラットではなくスパイキー(ギザギザ)。「世界中の経済活動、特に知的活動や起業活動などは、特定の都市など狭い地域への集中が進んでいる。すなわち世界はむしろスパイキー化しつつある」(リチャード・フロリダ)。(p.166)

●VC投資にはローカル化する傾向がある。ベンチャー・キャピタリストは、距離が近いスタートアップに投資しがち。近接性を好む傾向により、シリコンバレー、ボストン、シアトルなどの特定の地域にVC投資が集中する「スパイキー化」が起こる。(p.167)

●VC投資のような、情報集約型で人と人の交流を必要とするビジネスの国際化は、国と国の間で起きるのではなく、ある国の特定の地域と別の国(の特定の地域)で集中して起きるのではないか。いわばスパイキーなグローバル化。シリコンバレーと新竹(台湾)、台湾とカリフォルニア州、イスラエルとニュージャージー州など。(pp.168-169)

●ゲマワットの「AAA(トリプルエー)」というフレームワーク。(1)集積(Agglomeration)、(2)適応(Adaptation)、(3)裁定(Arbitrage)
 「中途半端なグローバル化」だからAAAは重要。日本メーカーは少なくともどれか1つのAを放棄してメリハリをつけることを検討すべき。(pp.171-174)

●ダイバーシティー経営は有益か否か。ダイバーシティーには「タスク型の人材多様性(Task Diversity,能力・経験の多様性)」と「デモグラフィー型の人材多様性(Demographic Diversity、属性の多様性)」がある。
 この2つの多様性の効果をメタアナリシスで検証した結果、ジョシらが2009年に発表した論文、ホーウィッツらが2007年に発表した論文では2つの事実法則が導かれた。
法則1:ジョシたちの分析、ホーウィッツたちの分析のどちらとも、「タスク型の人材多様性は、組織パフォーマンスにプラスの効果をもたらす」という結果となった。
法則2:「デモグラフィー型の人材多様性」については、ホーウィッツたちの分析では「組織パフォーマンスには影響を及ぼさない」という結果となった。さらにジョシたちの研究では、「むしろ組織にマイナスの効果をもたらす」という結果になった。(pp.177-180)

―本書でも一番論議を呼びそうな箇所ですね。これは、考察を書いていると長くなるので、本記事とは別建てで「考察編」の記事で取り上げようと思います。要は、ツッコミないしは批判をしようとしてるんですけれども。

●「デモグラフィー型の人材多様性」が組織に何の影響も及ぼさないか、場合によってはマイナスの影響を及ぼすこともあるということを説明する代表的な理論は、社会心理学の社会分類理論(Social Categorization Theory)。異なるデモグラフィーの人がいると「男性対女性」「日本人対外国人」のような「組織内グループ」ができ軋轢が生まれ、組織全体のコミュニケーションが滞りパフォーマンスの停滞を生む。(p.181)

●どうすれば、女性・外国人を登用しながら「デモグラフィー型の人材多様性」のマイナス効果を減らすことができるか。
(1)「デモグラフィー型の人材多様性」のマイナス効果は時間の経過とともに薄れていく可能性がある。一方で「このような軋轢は時が経過しても消えない」という研究結果もある。
(2)「フォルトライン(=組織の断層)理論」。デモグラフィーが男性・女性だけでなく年齢・国籍等多次元にわたって多様であれば、組織内の軋轢はむしろ減り、組織パフォーマンスは高まることが実証されている。
(pp.183-185)

●著者曰く、フォルトライン理論は日本企業のダイバーシティー経営に重要な示唆を与える。女性や外国人の登用など「デモグラフィー型の人材多様性」を進めるならば、中途半端にやるのではなく、徹底的に複数次元でダイバーシティーを進めるべきだ、ということ。
(p.185)

●働く女性の働きにくさを説明する「ホモフィリー」の概念。人は、同じような属性を持った人とつながりやすい。さらにそのつながった相手から影響を受けやすい。不健康な人はますます不健康になりやすい。(pp.188-189)

●企業では、日本企業は男性社員が大半なので、「男性のホモフィリー人脈」が厚くなる。ホモフィリーは女性に2種類のハンディキャップを与える。
(1)女性は「男性のホモフィリー人脈」に入りにくいため、そこで流れる情報・知識にアクセスしにくくなる。
(2)女性同士のホモフィリー人脈が薄い。
(pp.190-191)

●男とも女とも上手に付き合える女性が、男性中心の職場では成功しやすい。しかし「ホモフィリーの二重のハンディキャップ」により、この実現がたいへん難しい。ハンディーキャップの解消のためには、企業が多次元で組織のダイバーシティーを高めることと、研修などで女性だけが孤立しないような意識づけを徹底すること。(p.193)

●リーダーシップでは2種類のリーダーシップがコンセンサスとなりつつある
1.「トランザクティブ・リーダーシップ」(アメとムチ)
(1)「コンティンジェント・リワード(状況に応じた報酬)」
(2)(3)「マネジメント・バイ・イクセプション(部下が犯す失敗にどう対処するか)」
  能動型:部下が問題を起こす前に「そのままだと失敗するぞ」と介入する
  受動型:部下が実際に失敗してから問題に対処する
2.トランスフォーメーショナル型(啓蒙)
 1980〜90年代にバーナード・バスが分析。
(1)組織のミッションを明確に掲げ、部下の組織に対するロイヤルティーを高める
(2)事業の将来性や魅力を前向きに表現し、部下のモチベーションを高める
(3)常に新しい視点を持ち込み、部下のやる気を刺激する
(4)部下一人ひとりと個別に向き合いその成長を重視する
 入山氏曰く、「カリスマ型リーダー」「変革リーダー」はこれに近いかもしれない。
(pp.203-205)
―承認リーダーシップというのは上記の2種類の間を行ったり来たりしている感じだ。この区分って何なんだろう、こういう区分にする意味が分からない…

●複数のメタアナリシス研究によれば、全般的な傾向として「相対的に『トランザクティブ型』よりも『トランスフォーメーショナル型の4資質』を持ったリーダーのほうが、高い組織成果につながりやすい。また、トランザクショナル型の資質の中では、コンティンジェント・リワードが高い組織成果につながる。他方、一般に組織成果につながりにくいのは「マネジメント・バイ・イクセプションの受動型(事後介入する型)」。(pp.205-206)

●パニッシュ・プラナムらの2001年の研究によれば、トランスフォーメーショナル型のリーダーシップは、「不確実性の高い事業環境」下にある企業においてはその業績を高めるが、事業環境が安定している(不確実性が低い)ときには、むしろ企業業績を押し下げる。(p.207)

●女性のほうがトランスフォーメーショナル型のリーダーの資質を身に付けやすいという研究。アリス・イーガリーが2003年に発表したメタアナリシス研究によれば、「トランスフォーメーショナル型の4資質」と「トランザクショナル型のコンティンジェント・リワード資質」で、女性が男性を上回った。
 この説明としては、リーダーになった女性は「力強いリーダー像」と「優しく協調的な女性像」という2つの正反対の期待にさらされる(ロール・インコングリティーRole Incongruity、期待されている役割の不一致)。彼女たちはこの2つのイメージのギャップを克服するための手段として、男性よりもトランスフォーメーショナル型のリーダーシップをとろうとする。(pp.208-211)

●リーダーの優れたビジョンがあると、企業の成長率は高くなる。優れたビジョンの基準として、「ビジョンの中身(Vision Content)」と「ビジョンの特性(Vision Attribute)」がある。
 優れたビジョンの6つの特性。(1)簡潔であること(2)明快であること(3)ある程度抽象的であること(4)チャレンジングなこと(5)未来志向であること(6)ぶれないこと。(pp.215-216)

●バウム論文(1998年)では、優れたビジョンに加えて、CEOと従業員のコミュニケーションが高まるほど企業の成長性が高まるという結果も得られた。(p.217)
―この知見は(入山氏はあまり重視しているようではないが)大事だと思う。ふだん全然コミュニケーションをとらない、雲の上とか象牙の塔の中にいるトップがビジョンだけを語っても「ぴん」と来ないだろう。

●レトリックの問題。イメージ型の言葉とコンセプト型の言葉では、イメージ型の言葉を使う比率が高い大統領ほど「カリスマ性が高く」、そして「後世の歴史家から『偉大な大統領』と評価されている」。したがってイメージ型の言葉は相手にビジョンを浸透させやすい可能性がある。(pp.218-220)

●「カリスマ」「偉大なリーダー」と評価される人は、自身のビジョンを伝えるためにイメージ型の言葉やメタファーを使い「相手の五感に訴える」言葉を使う。しかし因果関係を示しているわけではなく、相関関係を示していると捉えたほうが無難。(pp.221-222)

―リーダーの「伝える力」について、新たな神話ができそうですが、ここも「要考察」なんですよねー。「承認リーダーシップ」ではちょっと違うことを言います。

●モチベーションの「外発的な動機(Extrinsic motivation)」と「内発的な動機(Intrinsic motivation)」。内発的な動機を強く持つ人のほうが、創造的な成果を出しやすい。またどのようなリーダーが部下の内発的な動機を高めやすいかというと、「トランスフォーメーショナル型」のリーダーである可能性がある。
 「内発的な動機」を高めた日本組織の成功事例としては、JR東日本の子会社で、新幹線車内の清掃をするテッセイ。(『新幹線 お掃除の天使たち』参照)。(pp.224-226)

―ここも「要考察」かな〜。もともと「外発」「内発」という分け方の有効性をわたしはあまり認めていない。いつも言うように上司から褒められるのもお客様から褒められるのも同じ「承認欲求」であり、脳の同じ部位が反応する。なんでそれを無理に分けてるんだろう。テッセイの事例も、わたしがみると要は「承認欲求」を満たしているのだ。あたし結局こんなことばかり言い続けて死ぬのかな〜。

●同族企業の業績は、非同族企業よりも優れている。理論的にプラスとマイナスがある。
説明(1)創業家が大口株主であることのメリット。彼らが「もの言う株主」となって経営者の暴走を抑えることができる。
説明(2)創業家出身の経営者は「企業と一族を一体として見なす」ので企業の長期的な繁栄を目指す、結果としてブレのないビジョン・戦略をとりやすい。
説明(3)同族企業のマイナス面は、資質に劣る経営者が創業家から選ばれてしまうリスク。(pp.230-233)

●同族企業のプラスマイナスのトレードオフを解消するのは「婿養子」。婿養子が経営者をしている日本の同族企業は、(1)血のつながった創業家一族出身者が経営をする企業よりもROAが0.56%ポイント高くなり、(2)創業家でも婿養子でもない外部者が経営をする企業よりも、ROAが0.90ポイント、成長率が0.50ポイント高くなった。(pp.233-235)

●CSR(Corporate Social Responsibility:企業の社会的責任)は業績を高めるか。セルバエスたちの2013年の論文では、広告費を多く使うタイプのB to C系の企業でCSRは業績にプラスになることを確認した。逆に広告費をあまり使わないB to B企業では、「CSR指数が高いほど、業績はむしろマイナス」という結果になった。(pp.241-244)

●CSRの情報開示効果。CSR報告書を作ることにより企業の透明性が増し、投資家の信頼を増し、資金調達をしやすくなる。(p.244)

●CSRの保険効果。CSR指数の高い企業のほうが、ネガティブ事件による株価の落ち込みが「軽度で済む」。(pp.245-246)

●成功する起業家精神とは。
 「アントレプレナーシップ・オリエンテーション(EO)」。コーヴィンとスリーヴァンの1989年論文。小規模企業が成功するために経営幹部に必要な「姿勢(Posture)」とは革新性(Innovative)、積極性(Proactive)、リスク志向性(Risk-taking)の3つ。事業環境が不安定なときには、経営幹部がこの3つの条件を満たしている企業ほど業績が良くなる。「EOの高い経営者の率いる企業は、業績が良くなる」という傾向は、研究者の間ではコンセンサスとなりつつある。(pp.275-276)

●経営者のパッションについての研究。バウムとロックの研究(2004年)では、経営者のパッションは、ベンチャーの成長率に直接は影響を与えない。しかし他方、強いパッションのある経営者ほど、従業員とのコミュニケーションを重視する傾向が強く、そしてコミュニケーションが盛んな企業ほど、その成長率は高まる(パッションの間接的な効果)。
 起業家のパッションが資金調達に有利に働く可能性を示した研究もある。
(pp.277-278)

●クリステンセンの「イノベーティブ・アントレプレナー」に関する研究。22人の著名な起業家にインタビューした結果、彼らに共通する思考パターンを以下にまとめられると主張した。
(1)クエスチョニング(Questioning):現状に常に疑問を投げかける態度。
(2)オブザーヴィング(Observing):興味を持ったことを徹底的にしつこく観察する思考パターン。
(3)エクスペリメンティング(Experienting):それらの疑問・観察から、「仮説を立てて実験する」思考パターン。
(4)アイデア・ネットワーキング(Idea Networking):「他者の知恵」を活用する思考パターン。「自分がどう考えるか」ではなく、「まずこの問いを誰と話すべきか」。
 著者入山氏は、この「イノベーティブ・アントレプレナー」の知見は、本書のイノベーションや組織学習の知見と一致すると主張する。(pp.279-283)


22-26章は、略。

 以上が大まかな本書の内容です。何とかワード15pに収まりました。
 で、最初にも言いましたように学ぶ点も多くあったのですが、「要考察」の点もわたし的には3点ほどあります。経営学のスタンダードなテキストとして扱われるであろう本だけに、影響力からみて、その欠点も看過できにくいのです。とりわけ、「ダイバーシティー経営」に関しては大きいかなー。
 考察点はまた次以降の記事で…。


正田佐与



 急に「美」という軸を考えてみたくなりました。

 
私人



 わたしの読書歴の中でも珍しいんですが、最近不思議なご縁で手に取りました。
 『私人』(ヨシフ・ブロツキイ著、沼野充義訳、群像社、1996年11月)。詩人ブロツキイの1987年ノーベル文学賞受賞講演。本文わずか35pの小さな小さな本です。

 
 ・・・なぜなら、美学こそは倫理の母だからです。「良い」とか「悪い」といった概念は、何よりもまず審美的な概念であって、「善」や「悪」の範疇に先行しています。…まだ何もわからない赤ん坊が、泣きながら見知らぬ人を押し退けたり、あるいは逆に見知らぬ人のほうに手を伸ばしたりするとき、この赤ん坊はそうすることによって、審美的な選択を本能的にしているのです。この選択は道徳的なものではありません。

 
 ・・・なにしろ人間は、自分が何者なのか、そして自分に何が本当に必要なのか、完全には分からないうちにもう、たいてい本能的に、自分の気に入らないもの、自分を満足させないものを知っているのですから。繰り返しますが、人類学的な意味において人間は倫理的存在である前に、まず審美的存在です。



「良い」「悪い」の概念は何よりもまず審美的な概念である。
人間は倫理的存在である前に、まず審美的存在である。

 詩人の言葉ですが、読者の皆様にとっては、いかがでしょうか。

 わたしはこれらのフレーズに出会って急に気がついたのです。自分が無意識に「美しい」という単語を使っているなと。本当に自分でも気がつかないうちに、いろいろな場面で。

 明らかにそれはわたしのその場での「選好」を決めているのです。何かやだれかを「よい」と思って称揚すること。逆に、「わるい」と思って批判しよう、と思ったりすること。


 
 
 それが人類に普遍の現象なのかどうかは、わかりません。

 少なくとも自分はそういう「フレーム」を持つ人間のようだ、ということを念頭に置いておくことにしましょう。



※なお、このところ記事タイトルなどに「正しい」という言葉が入っていますがこれは結構自分でも意識していて、忸怩たる思いで使っています。
 心理学では「正しい」「正しくない」は相対的なもの。哲学でも一部の人はそういう言い方をします。
 ところが、「正しい」「正しくない」の軸を否定してはいけない領域は、仕事をしていれば確かにあるのです。そこに心理学のそうした議論を持ち込むとどんなに”めんどくさい”ことか。
 その2本の軸が両方あり得るなかで「正しい」を主張することは「つかれる」こと。でもやらなくてはならないこと。
 「正しい」を書く時は内心疲れをおぼえながら書いていますね。



 この本はそのほかにも印象的な警句に満ちていて、読んでいてそこでしばらく頭がストップしました。いくつか例を挙げると、

「…言葉というものは、ほんの少し不正確な使い方をしただけでも、人生に偽りの選択を持ち込むことになりかねないのですから。」
 
「小説や詩は独り言ではなく、作者と読者の会話であり、それは―繰り返しますが―他のすべての人たちを締め出す極めて私的な会話、言うなれば『相互厭人的』な会話なのです。」

「ロシア語を母語とする人間にとって、政治的な悪について話すのは、食物を消化するのと同じくらい自然なことではありますが、やはりこの辺で話題を変えたいと思います。自明のことに関する会話の落とし穴は、それがあまりに簡単で、それを通じてあまりに簡単に『自分は正しいのだ』という感覚を得られるため、意識が堕落してしまうということです。」




正田佐与

 『ポスト資本主義』の著者、千葉大学法経学部の広井良典教授(科学哲学)と、最近メールのやりとりをしました。同教授はアカデミズムの中では数少ない、わたしの信頼する学者さんの1人です。

 今回の対話の焦点は、おおむね、
「データの裏づけのある知見でも疑え」
ということだと思っていいようです。
 このところこのブログで展開している某トンデモ心理学への批判とはまた別の、ちょっと高度な次元のお話。
 アカデミズムの知性もまた、信頼に値しないのではないか?というようなお話です。
 広井教授のご了解をいただき、内容をご紹介させていただきます。
 
 どう扱ったものか迷いましたが、今回は正田を青字、広井先生を黒字で表示させていただきます。


正田:
「広井 良典先生
大変お世話になっております。
正田です。
その後、お変わりありませんか。
学生さん方を連れてのフィールドワーク、フェイスブックで拝見しました。

さて、私は最近はドイツ思想づいていますが
そこでも面白い学びをさせていただいています。

改めて広井先生に、「ケアと承認」についてのお考えを伺ってみたいと思いました。
また、最近の興味としては
「科学哲学」というもの、あるいは「実証主義」というものの
今日的意義というようなこともお伺いしてみたいと思いました。
(略)
正田」

広井教授:
「正田様
メールありがとうございます。

「科学哲学」というもの、あるいは「実証主義」というものの
今日的意義というようなこともお伺いしてみたいと思いました。

 これは大変重要なテーマで、私も最近いろいろなことを考えていました。
 科学哲学(あるいは広く哲学系の認識論)というのは、クーンのパラダイム論などもそうであるように、一般的に素朴な実証主義には批判的で、「裸の事実というものは存在せず、それは見る側の(主観的な)枠組みによって規定される」ととらえるのが一般的です。
 他方、最近は概してアングロサクソン的な実証主義の影響力が強く、以上のような見方は(残念ながら)やや後退しているように感じます。
 一方、私はあまり詳しくないのですが、最近の精神医療の領域で主流になっているいわゆる認知行動療法は、人間が物を見る際の「フレーム」というのを重視しているそうなので(これは80年代前後からの認知科学の台頭の影響の流れですね)、ある意味では上記のような「パラダイム論」とも親和的でありうる面があると思いますが、しかし実際にはわりと単純に世界を因果論的かつ操作主義的に(アメリカ的に)とらえている印象ももっています。
 話がさらに広がり余談となりますが、今の日本社会を見ていると、高度成長期にできた「フレーム」にとらわれて物事を見ている人が多いことが様々な問題の背景にあるように思われ、日本社会全体に認知行動療法が必要ではないかと思ったりしました笑。       広井」


正田:
「広井先生、ご返信ありがとうございます。


>話がさらに広がり余談となりますが、今の日本社会を見ていると、高度成長期にできた「フレーム」にとらわれて物事を見ている人が多いことが様々な問題の背景にあるように思われ、日本社会全体に認知行動療法が必要ではないかと>思ったりしました笑。

⇒とても頷けるところです。先生はどんなところでそれをお感じでしたか。
高度成長期にできた「フレーム」…たとえば私などは「長時間労働」「男は外、女は内(専業主婦)」などのフレームが女性の社会進出を阻んだり給与体系や正規・非正規の区別の形で残って女性の貧困、ひいては子供の貧困のような形でツケが最終的に社会に回ってくる、というようなことを想起します。



>これは大変重要なテーマで、私も最近いろいろなことを考えていました。
 科学哲学(あるいは広く哲学系の認識論)というのは、クーンのパラダイム論などもそうであるように、一般的に素朴な実証主義には批判的で、「裸の事実というものは存在せず、それは見る側の(主観的な)枠組みによって規定される」ととらえるのが一般的です。
 他方、最近は概してアングロサクソン的な実証主義の影響力が強く、以上のような見方は(残念ながら)やや後退しているように感じます。


⇒これもとても興味深いです。
 最近、私はある経験をしました。話題に沿っているようでもありひょっとしたら外れているかもしれませんが…。
経営学の本を読んでいますと、各種統計、メタ分析で裏づけられていることとして紹介されている知見が、何か実感と合致しないのです。
 もちろん当方の思い込みが誤っている場合もあるのですが、ひょっとしたら、研究の手法というのはどうしても研究者が仮説を立て、それを検証する形で行われるので、研究者がどんな仮説を立てるかによって制約を受けます。そして研究者がどんな仮説を立てるかは、既存のフレームワーク―その研究者が生きている社会の文化を含む―に影響されます。
 そういう、出発点の「研究者の仮説」に限界があれば、いかに正しい統計手法を駆使していても結論が現実と異なってしまう可能性もあるかもしれないと思います。それが実証主義と見る側の枠組みの間の問題ということと重なるのかな?と思いました。
 こういう理解の仕方というのは正しいのでしょうか。」


広井教授:
「正田様
 メールありがとうございます。書かれていることはまさにその通りで、大変共感いたします。


研究の手法というのはどうしても研究者が仮説を立て、それを検証する形で行われるので、研究者がどんな仮説を立てるかによって制約を受けます。そして研究者がどんな仮説を立てるかは、既存のフレームワーク―その研究者が生きている社会の文化を含む―に影響されます。
 そういう、出発点の「研究者の仮説」に限界があれば、いかに正しい統計手法を駆使していても結論が現実と異なってしまう可能性もあるかもしれないと思います。それが実証主義と見る側の枠組みの間の問題ということと重なるのかな?と思いました。


 以上の点もそのとおりで、こうした点に自覚的でない研究者がやや増えていると感じられ、気になるところです。背景の一つとして、ある種の「科学主義」(科学信仰)と呼べるような、定量化されたデータを過度に重視するような傾向があると思います。
 このあたりは現代社会の隅々に浸透している面もあり、そうした問題に意識的であることがとても重要と思っています。  広井」



正田:
「広井先生
ご返信ありがとうございます。

広井先生の投げかけに当方で勝手に事例を持ち出して語ってしまったようになったのですが、話題としてずれていませんでしたら幸いです。

それは、例えば「仮説を立てる段階でのバイアス」という言い方もできますか?あるいは「研究者の主観」という言い方もできますか?


>こうした点に自覚的でない研究者がやや増えていると感じられ、気になるところです。

そうですか。少し興味があるのですが、そうした研究者は例えばどのような言動となりますか?
私は決して血液型信者ではないのですけれども、
「血液型性格分析は科学ではない。血液型を取り上げた研究が存在しないから」
ときくと、もしだれか研究者が本気で興味を持って血液型と性格の相関について大規模統計をとったら有意差が出る可能性も、まだ排除できてないのではないか?と思ったりします。


背景の一つとして、ある種の「科学主義」(科学信仰)と呼べるような、定量化されたデータを過度に重視するような傾向があると思います。


そうですか。
学術的に実証されたデータに出発点から意味がない、ということになったら大いなる無駄のようにも思いますが、その物の見方のフレームといったことについて科学哲学の立場からの教育というのはあまり研究者になされていない、ということでしょうか。
わたしたち一般人は、そうすると所謂「学術的に検証されたもの」についてどういう態度をとったらいいのでしょうか。


実は、これともう1つ、はるかに低次元の問題で、学術的云々以前に
「いっさい根拠のないオピニオンに過ぎないものを信じる」
という態度も蔓延していて、これも近年流行を繰り返しているようにみえ、無視していると思わぬ勢力になっていて、どうしたらいいのでしょう…というのもあります。」


広井教授:
「正田様
 メールありがとうございます。

学術的に実証されたデータに出発点から意味がない、ということになったら大いなる無駄のようにも思いますが、その物の見方のフレームといったことについて科学哲学の立場からの教育というのはあまり研究者になされていない、ということでしょうか。
わたしたち一般人は、そうすると所謂「学術的に検証されたもの」についてどういう態度をとったらいいのでしょうか。

 このあたりは非常に根本的な問題と思います。基本的には、「無知の知」という言葉がギリシャ以来あるように、完全な認識というものはなく、科学の限界性や、自己の認識の不完全性について常に自覚的であることが基本で、優れた研究者ほどそうした態度をもっていると思います(わかっていないことのほうがはるかに多いという認識)。
メタ認知能力ということが言われていると思いますが、科学や学術の領域に限らず、優れたスポーツ選手なども(自己の技術の限界や課題について)常に自覚的ですね。       広井」



 いかがでしょうか。
 今年は、年初のころ「反知性主義」についての議論があって、わたしはあんまりそこに興味がなくフォローできずにいましたが、おおむね「大学アカデミズムをバカにする風潮はけしからん」みたいなことを言っていたんではないかと思います(違っていたらごめんなさいね)。

 しかし、大学の先生が出してきたデータの裏づけのある知見もまた、疑わないといけない。なぜならそれは「仮説の制約」を受けているから。
 今回の広井教授は、おおむねそういうお話でした。

 正田も以前から、研修業界では常識として使われている知見を「その実験デザインではそういう結論は言えない」などと言ってスルーしていることがありますが。学者さんの言うことも取りあえず疑うことは必要なようです。

またここ数年の流れでいうと、「ビッグデータ時代」もあって「統計学絶対視」というのが流行りではあったんですが、統計学もまた仮説のしもべに過ぎない、仮説がダメだと統計が正しくてもダメ、ということですよね。
 
 あっ、ちなみに正田は以前「医薬翻訳者」というのもやっていましたから、ものごとを論証したり統計学的に裏づけしたりする作業を軽視しているわけではないんですよ。


 じゃあ何を信じたらいいのか。科学がダメだと思う時に最終的な答えは哲学だと言っていいのか、哲学だったら信じていいと言えるのか、これもまた悩ましいところですけどね。
 わたしが個々の学者さんを信頼する時は、たぶん広井教授の言われる「メタ認知能力」というのを、これも漠然としていますが信頼するのだという気がしますね。


 で、この対話の中で話題にした「経営学の本」。

 このブログの読者の方で勘のいい方だと、「ああ、あれだな」と気づかれるかもしれないと思います。

 次の記事以降で、ある悩ましい「経営学本」を俎上に上げたいと思います…。



正田佐与

 藤野寛教授(一橋大学大学院言語社会研究科)の「ホネット承認論」についての講義原稿をいただきました。
 有難く、掲載させていただきます。このブログとしては「第四弾」です。

 今回は、「自己実現」ということについて、藤野教授からの「答え」が書いてあります。

****


「ホネット承認論」講義(10)                              7.12.2015

Axel Honneth: Organisierte Selbsverwirklichung. Paradoxien der Individualisierung, in: Das Wir im Ich, Frankfurt am Main 2010, S. 202 – 221.(アクセル ホネット「組織化された自己実現−個人主義化の逆説」、『私の中の私たち』所収)
Axel Honneth: Arbeit und Anerkennung, in: Das Wir im Ich, S. 78 – 102.(アクセル ホネット「労働と承認」、『私の中の私たち』所収)

  嵜誉犬箸蓮個人が自己を実現する、一回限りのチャンスである」 ― この考えを否定することは難しいだろう。それほどには、われわれは個人主義を自明の前提として受け入れて生きている。
問題は、しかし、ここから始まる。「自己を実現する」って、どういうことか。ここには、植物の成長のイメージがはたらいているのではないか。つまり、一人ひとりの人間の中には、種子のようなものがセットされており、それが発芽し、成長し、開花する、というようなイメージだ。ポテンシャル(潜在する能力)が各人に備わっていて、それが顕在化されることを待ち受けている、という風にも描き出せるか。悪くないイメージだと思う。
しかし、問題がないわけではない。みんなが、個人として自己を実現したとしよう。その時、社会は成り立つだろうか。みんながサッカー選手として自己を実現してしまう? みんなが芸術家として自己を実現してしまう? (そういう想像が許されるほどには、サッカー選手や芸術家は、憧れの職業なのではないか。)もちろん、これでは社会は立ち行かない。誰が食事を作るのか? 誰がレフェリーを務めるのか? 誰がマネッジメントするのか? つまり、自己実現モデルは、社会生活と両立しないのだ。自己実現とは言い難い職種につかねばならない人が現れずにはすまない。それどころか、圧倒的多数の人は、そのような職業について、人生を送ってゆくことになるだろう。
それでも、仕事があるだけましだ、というのが現実ではないか。失業という事態は、経済生活を破壊するだけでなく、自尊心を破壊する。失業手当が支給されればよい、という話ではすむまい。

そもそも、「自己実現」を、「ポテンシャル(潜在能力)の実現」と考えることが不適切なのではないか。例えば、私は、自分のやりたいことをやってお金がもらえる、という、恵まれた人生を送っている、と感じるが、それは「自己のポテンシャルの現実化」という風に描き出せることではおよそない。哲学するための何らかの能力が私にあるとは、これっぽっちも感じない。(哲学科に進んだのは、迷走の末、右往左往の中でのことでしかなかった。そもそも、哲学したかったのかどうかすら、怪しい。むしろ、消去法による選択だった。)
「自己実現」と言うのであれば、むしろ、「自己の欲望、欲求の実現」という風に考えるべきなのではないか。そう考えると、能力の実現と考える場合とは、根本的な変更を余儀なくされることになろう。能力であれば、あらかじめセットされていた(種子のような)ものとして考えることも不可能ではない。しかし、願望・欲求は、あらかじめ個人の内にセットされていたものではありえない。それは、社会的に ― 外部との関係の中で、外部から ― 受け入れられ、育て(上げ)られるもの以外ではありえまい。そう考えると、これは「自己実現」とはもはや呼ばれえないものだ。

◆]働を、自らの潜在能力の実現(現実化、具体化)として捉えること ― 自己実現としての労働、という考え方 ― は、個人主義的だ。ところが、労働は、今や、大きなシステムの中での活動でしかありえない。分業システムだ。そして、そのことで ― 歯車の一つになることで ― 全体の幸福に貢献する活動であること以外ではありえない。(ホネットに言われるまでもなく、労働の問題は、幸福について考える上で、一つのキーポイントをなす。喜びややり甲斐を感じてできることが仕事になることこそ、「幸福」の内実をなすのだ。だから、学者や芸術家は、幸せな人生を送っている(ように見える)ので、人々に人気の職種にもなりうるのだ。もちろん、「喜びややり甲斐」というのは曖昧な言葉であって、お金や承認だって、「やり甲斐」を生み出しうる。ただ「好きなことができているか否か」だけが、すべてを決するわけではない。)
(前衛)芸術家の創造だって、全く何の役にも立っていないと主張することは難しかろう。どういう仕方でか、それは「お役に立っている」のであり、お金が支払われるのであって、それは、彼(女)の活動の社会的価値(意味)が認められた、ということなのだ。つまり、労働は、社会という大きな単位への貢献なのであり、だからこそ、社会の側から正当に承認されねばならないのだ。
つまり、自己実現と承認という二つの理念の間には、一定の緊張関係が存在している、ということだ。役に立つ、というのは、どうしても、社会の側から測られることであるわけだが、自己実現は、個人の能力や欲求に基いて考えられざるをえないからだ。けれども、その際、個人の欲求とは、それはそれで社会的に媒介されているものなので、ただ自分の内側を凝視していたら見つかる、というものではない。
「社会への貢献」と言うのはよいが、その「社会」自体が、そもそも一枚岩ではない。3Kと言われたりもする仕事(例えば、トイレの掃除)が社会的貢献であるのと同様に、ほとんど誰も聞きたがらない現代音楽の作曲という社会的貢献がある。両者の間に価値の上下はない、と言うべきだろう。それをしたいと思う人が多くはない、という点も共通している。一方が、そのための職業教育を必要とせず、他方が幼児期からの大々的なそれを必要とする、という違いはあるわけだが。

資本主義という経済システムが成立するためには、規範的な前提がある、とホネットは言う。それは

  労働とは社会全体の幸福のための寄与・貢献である
 労働は、そのようなものとして公正に評価されねばならない

と分節される。労働者は、この前提に同意し、これを受け入れるからこそまじめに働こうとするのであり、仕事を提供する側も、また、この観点を共有していることになる。
(社会的な共属の意識が社会の構成員によって共有されていないような社会は内部崩壊する。税金を納める気持ちになるか否かもこの点に関わってくる。こんな社会、くそったれで、そのために頑張る気持ちになんて全くならない、というのでは、社会は成り立たない。外国に行ば必ず、自国に対して批判の視点を手に入れる、ということでも必ずしもない。上野千鶴子も言うように、外国に行って屈辱の経験を重ねたものだからナショナリストになって帰ってくる、という(自国では甘い汁を吸うことに慣れている)日本人男性は、ゴマンといるのだ。)
現実には、この前提を踏みにじる人はいる。しかし、それは規範からの逸脱なのであり、「金儲けのためなら何でもやる、何をしてもよい」ということだけが、資本主義の原理・原則であるわけではない。もし、「金儲けのためなら何でもやる、何をしてもよい」ということだけが、資本主義の原理・原則であるのだとすれば、この社会は犯罪者たちによって支配されていることになりかねず、まじめに働く労働者は、その哀れな犠牲者だ、という話になろう。
(能力・機能性(Effizienz)ということが唯一の評価基準であるのなら、例えば女性が労働市場においてハンディキャップを背負わされているという現実は、資本主義自体の原理・原則に反することになる。聞いた話だが、就活に際して、筆記試験の点数だけで順位づけをしたら、上位にはずらっと女性が並んでしまうのだという。だから、この結果に、点数以外の観点も加味されて調整がはかられ、男性有利の結果が生み出されることになる。(そもそも、今日、会社の人事部門のスタッフに、どれほどの女性が食い込んでいるのか。)
しかし、われわれの社会は、曲がりなりにも民主主義社会なのであってみれば、そのような少数者が支配する社会は成り立つはずがあるまい。そのような「少数派支配」説 ― 悪辣な資本家という少数派による、まじめで無垢な労働者という多数派の支配、という考え ― を奉じている人は、選挙の度ごとに、失望させられ、途方に暮れることになるだろう。
「利益最大化の原則」だけで資本主義は成り立っているわけではなく、承認の原則 ― 道徳的な原則だ ― によっても成り立っている、だから、後者は、資本主義に固有の、それに内在する原理・原則でもあるのであって、だからこそ、もし現実の資本主義がその原理・原則に反しているのであれば、内在的批判が可能になる、とホネットは考える。
これは、別の言い方をすれば、よい資本主義、正しい資本主義 ― 原理・原則を充たす資本主義 ― というものがありうる、とする考え方であり、資本主義をはなから悪者に仕立て上げる考えではない、ということだ。(ホネットは、システムと生活世界を対比するハーバーマスの考えを斥けるわけだ。ハーバーマスの区別には、経済と道徳の対比が対応するわけだが、ホネットは、経済そのものの中に道徳的要請が埋め込まれており、それなしには立ち行かない、と主張するのだから。実際、経済(学)をはなから蔑視するような倫理学(者)というのは、概して安易であり、傲慢だ。)
この問題は、内在的批判の可能性、という問題と関わる。あるシステムについて、それ自身が掲げる道徳的要請を充たすことができるか、という基準にもとづいて吟味することが可能であり、必要でもあると考えるのだ。そこでは、批判は、その要請が充たされていないこと ― 事実だ ― の指摘、という形をとることになる。こういう批判ではなく、外在的批判、超越的批判では、その社会の中で生きている人々の支持・賛同を得ることができない、という問題が出てくるわけだ。(ただし、アドルノは、必ずしも、内在批判一辺倒ではない。ミュンヒハウゼンのジレンマを言うのだから。)


****

 いかがでしょうか。
 また、いくつかポイントがあるようにおもいます。

〇「自己実現」ということについて。
 前から正田はこのことでぶちぶち言っていましたが、それへの藤野教授の答えが書いてあって嬉しゅうございました。

「みんなが、個人として自己を実現したとしよう。その時、社会は成り立つだろうか。」
「自己実現モデルは、社会生活と両立しないのだ。自己実現とは言い難い職種につかねばならない人が現れずにはすまない。それどころか、圧倒的多数の人は、そのような職業について、人生を送ってゆくことになるだろう。」

 そうなんですよね。個人の自己実現の総和が幸せな社会になるわけじゃないんですよね。
 メジャーリーガーやオリンピック選手や研究者になれる人はごく一部です。もっと普通のめだたない仕事に就く人が圧倒的多数を占めます。で「承認教育」もその人たちのための仕事をしたい。

 藤野教授も書いておられますが、「マネジャー」なんかも思い切り「自己実現」から遠い仕事です。他人のことばかり関心を向け、自分で自分の仕事をデザインできることは少なく、プレイングマネジャーでもしょっちゅう自分の仕事を中断し、「いまいましい問題解決」に忙殺されています。

 わたしの最初の著書『認めるミドルが会社を変える』の中で、このことに触れて
「マネジャーは(承認教育を経て)自己実現より尊い成長をする」
という意味のことを書いたところ、コーチング業界の人から「ショックだ」という感想をいただきました。「最上志向」のある人だったので、自分の能力を最高に開花させることが人としての最高の幸せだ、と心から思ってはったみたいなんですね、その人は。

 ―ただ、「3K仕事」に職業教育が必要ないわけではないと思いますが―


〇ホネットは「よい資本主義」というのは「承認」がある資本主義だ、と言っているわけですね。(そういう理解でいいんでしょうか?)

「「利益最大化の原則」だけで資本主義は成り立っているわけではなく、承認の原則 ― 道徳的な原則だ ― によっても成り立っている」

 
 わたしなどは、このホネットのフレーズにすごく大きく頷いてしまいました。であれば、利益最大化だけを目指し人間性を踏みにじって成り立っているブラック企業などは糾弾されてしかるべきですね(既にそういう流れにはなっている)

 で、「承認の原則」が「道徳的な原則」とイコールのように文中でなっていますが、実はこれもわたしの実践の中での実感に近いので、いいのではないかと思いました。
 「承認教育」を施すと、それはほぼそのまま「道徳的/倫理的に振る舞うとは、どういうことか」について教育をしたのと同じことになってしまう。
 むずかしい倫理学をアリストテレスのころから体系的に学ばなくても、いいんです。
「何がこの場でこの相手にとって『承認』なのか」
「だれにとっての『承認』をこの場合、優先すべきか」
とっさに、こうしたことを考えるだけで、結論としては道徳的/倫理的な決断と行動ができます。過去、「業績一位」を作ってきたマネジャーたちは、普通にやってきたことのはずです。
 たぶん、マネジャーたちの日常行動だけでなく、経営者さんが「再配分」を考えるうえでも、役に立つ考え方でしょう。


 経済学の中に倫理を。ということに取り組まれている方も一部にいはるようですが、さてどうなるやら…。


 藤野先生、このたびもありがとうございました!


正田佐与



お世話になっている皆様


 おはようございます。
 正田です。
「自然は我々の必要としているすべての答えを持っている」
 今年のノーベル医学・生理学賞受賞者、大村智さんの受賞記念講演での言葉です。田んぼの土を採取し、分析し…、他の研究者がやらないようなどろくさい研究を続けてきた大村さんならではの、含蓄のある言葉ですね。
 
※このメールは、正田が過去にお名刺を交換させていただいた方・イベントやセミナーにご来場いただいた方にお送りしています。ご不要の方は、メール末尾にありますURLより解除ください。
(解除方法が変わりました!詳細はメール末尾をご覧ください)


 本日の話題は:

■史上初、205いいね!14のシェアをいただきました
 ―「褒めない・叱らない」「反抗期はない」
 “妄想宗教”から子供たちを守ろう!アドラー心理学批判

■読書日記:再掲「承認欲求バッシングはこんなに変!」

■メンタルヘルス対策―マネジャーはカウンセラーであるべきか?
 ―「月刊人事マネジメント」連載記事を更新しました
 
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■史上最高、205いいね!14のシェアをいただきました
 ―「褒めない・叱らない」「反抗期はない」
“妄想宗教”から子供たちを守ろう!アドラー心理学批判

 先週12月3日はわたくし正田の52歳の誕生日でした。
 「知命」から2歳も歳をとっていまだにこんなことをやっていてお恥ずかしいのですが…、
 その前日に書いたブログ記事が、誕生日の間にフェイスブックで14名の方に「シェア」していただきました。その中には現役の学校の先生も4名いらっしゃいました。そして記事に「いいね!」を押してくださった方は205名となりました。もちろんわたしのブログ記事としては過去最高。長文記事の多いブログの中でもかなり長文のほうの記事ですから、大手メディアではない個人のブログとしてもかなり異例の数字でしょう。
 それは、今流行りの「アドラー心理学」の講演に関する批判記事でした。
 もしご興味のある方は、こちらをご覧ください:

◆褒めない・叱らないは正しくない!「逆張りロジック」に正しく反論する知性を磨こう―『嫌われる勇気』著者講演会
 http://c-c-a.blog.jp/archives/51927076.html

 メルマガ読者の皆様も、もしこの内容をご覧になり、賛同していただける方は、フェイスブックのユーザーの方なら「いいね!」ボタン、そうでない方は「拍手」ボタンを押して、賛同の意を表してくださいね。

 本記事に賛同していただいた、佐賀県の研修業・宮崎照行さんからは、こんなご意見をいただきました:

◆「自己認識には事実のフィードバックが大事」「思考的盲目が心配」―宮崎照行さんのメッセージ
 http://c-c-a.blog.jp/archives/51927143.html

 わたしも、宮崎さんにまったく同意見です。
 そして、本メルマガの読者の方の中には出版界や新聞などマスコミ関係の方もいらっしゃいますが、売れるからといってこうした「有害」な手法をチヤホヤもてはやすことには、猛省を促したいと思います。言論の自由とはいえ、お客様(読者)の心身の健康を害するようなものを売ることが職業人として正しいわけではありません。

 なお最初の記事「褒めない・叱らないは…」が、あまりにも長文なので、内容をギュッとコンパクトに縮めた「短縮バージョン」の記事がこちらです。お忙しい方や、ちょっと「笑い」が欲しい方にどうぞ:

◆増殖中!インフルエンザより怖い「妄想症・ナルシ症」リスク対策は
 http://c-c-a.blog.jp/archives/51927207.html 

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■読書日記:再掲「承認欲求バッシングはこんなに変!」

 上の記事との関連で、「承認欲求バッシング」というものがいかに「変」か、ということを考察しました。
 アドラー心理学の昨年60万部のベストセラー『嫌われる勇気』では、「承認欲求」というものを否定し、罪悪視するようなフレーズが出てきますが、なぜ、わたしたち人間のきわめて基本的な欲求である承認欲求をそこまで敵視するのか。
 わが国特有の現象のようなのですが、この奇妙な系譜をつくったとみられる代表的な文献がいくつかあります。犯罪心理学者・土井隆義氏、社会学者・古市憲寿氏などは、それぞれの「出世作」の中で、「承認欲求叩き」を行っています。いわば、これらの人々が「のしあがる」「認められる」ために便利だったのです。
 それらの文献を取り上げた読書日記が、こちらです:

◆奇妙で不快な論理構築:承認欲求バッシングはこんなに変!―『友だち地獄』『希望難民ご一行様』
 http://c-c-a.blog.jp/archives/51927340.html 

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■メンタルヘルス対策―マネジャーはカウンセラーであるべきか?
 ―「月刊人事マネジメント」連載記事を更新しました

 今年、全7回の連載をさせていただいている「月刊人事マネジメント」の「上司必携・『行動承認マネジメント読本』」。
 第5回は、「メンタルヘルス」に関する記事です。ストレスチェック義務化が始まり、本格的にメンタルヘルス対策をとるにはどうしたらいいか?
 こころの病気に「ならない」ことがまず肝心です。セルフケア、ラインケアとある中で、「未病段階」のラインケアとして有効な方法があります:

◆第五章「踏み込みすぎない」メンタルヘルス対策―月刊人事マネジメント11月号
 http://c-c-a.blog.jp/archives/51927183.html 

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★今号のメルマガは、いつになく(?)厳しい批判記事を掲載しましたので、びっくりされた方も多いかと思います。
 でもフランクフルト学派の例をひくまでもなく、「承認」は「批判」とリンクしていなければなりません。心理学と哲学の大きな違いはそこですね。

★そんなで先週来殺伐としたわたしのブログでしたが、ある友人で読者の方からのメールをご紹介した記事が、これも多くの方のご支持をいただきました。現役の働く人にとっては、実感のこもった記事だったのではないかと思います:

◆「一番過酷な日々」の中にひっそりと、「行動承認」―友人からのメールより
 http://c-c-a.blog.jp/archives/51927128.html 
★師走、読者の皆様も体調を崩されませんように。

※このメールは、正田が過去にお名刺を交換させていただいた方・当協会のイベントやセミナーにご来場いただいた方にお送りしています。

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*…*…*…*…*…*…*…*…*…*…*…*…*…*

 本日は、新しいネタではなくて以前の記事の焼き直しで恐縮です。

 「承認欲求バッシングを批判する」というカテゴリをこのブログに立てているんですが、このカテゴリの「はしり」となった記事が、

幸せな行動承認セミナー第一弾、情けないJ-POPとの決別ー加東市商工会様(2015年9月13日)  http://c-c-a.blog.jp/archives/51922286.html

 です。

 多分、年来の心労が祟って今年初め健康を害したわたしが、その後いいことが色々あってエネルギー回復して、じゃあその心労の原因の1つを作っていたとみられる「承認欲求バッシング」の風潮と正面対決しよう、という節目になったのがこのときであった、と思います。いいことも色々でしたが直接のきっかけは加東市商工会様セミナー1回目の成功だったわけであります。

 ところがこの記事を今みると、タイトルから中身が想像できないようになっていて、「承認欲求バッシング批判」の色がはっきり出ていなくて、題材にした本のタイトルも出ていない、というものなので、この際この記事の後半だけを独立した記事にして改題してUPさせていただこうと思った次第です。長い前置きですみませんでした。

 それでは、「承認欲求バッシング批判」記念すべき第一回であります…:


****



 さて、幸せな気持ちになったので、少しイヤなことにも目を向けようと思います。

 今回の読書は『友だち地獄―「空気を読む」世代のサバイバル』(土井隆義、ちくま新書、2008年3月)と『希望難民ご一行様―ピースボートと「承認の共同体」幻想』(古市憲寿+本田由紀、光文社新書、2010年8月)。

 いわば「負の承認欲求本」の「はしり」のような文献群であります。けっしてこのあたりの論者の方々を敵視したいわけではないんですが、きっと良心的な方々なのだと思いますが、このあたりの書物がつくるイメージが、「承認」という本来すごくいいものをわるいもののように見せてしまっているということは指摘しなければならない。

 わたしは大人の世界に「承認教育」をして、サクサク問題解決をしようというほうの人なんです。そう、本当にサクサク解決できるんですもん。


 このあたりの「若者論」の文献に、「承認」「承認欲求」は、どういう形で現れるでしょうか。なんだか、大学生さんの卒論みたいな論の立て方ですが。


 たとえば前者、『友だち地獄』では―。

「他者のまなざしを自己の内にもたない人間が自らを物語ろうとする場合には、自分の外部にその聞き手をもたざるをえない。しかし、自己の物語が赤裸々なものであればあるほど、自分と利害関係のある人びとにその役割を求めるのは危険が大きすぎる。そこで彼らは、具体的な利害関係のないバーチャル空間の他者にその役割を求め、ネット上に日記を公開する」(p.69)

 ―ここでは「承認欲求」という言葉こそ使っていませんが、ブログを書く人は承認欲求を満たしたいから公開で書くのだ、という意味のことを言っています。そうですかすみませんねえ。


「献血によって彼女(南条)が得たいのは、自分という存在の確認とともに、他者からの絶対的な承認である」(p.82)

 ―まあね、ボランティアをする人も寄付をする人もみんなそうだと思いますよ。善をなすにも必ず承認欲求は根底にありますよ。


「(南条の自殺願望の記述を受けて)ここには、なんと切ない自己承認への欲求があることだろう。死亡後に発見される自分の刺激的な身体が、さらには自殺という衝撃的な事件によって自分の欠けたダンスのステージの光景が、かえって自分という存在の強力なアピールになることを敏感に感じとっている」(p.83)

 ―いやですね〜、自殺によるドタキャン願望。傍迷惑このうえない自己顕示欲。まじめ義理人情タイプの正田はそれは絶対ないな。でも時々、例えば職務怠慢な新聞記者があまりにも「承認」のことを書かないものだから、「あなたたち私が死んだら書いてくれるんですか?」なんて言うことは本当にあります。ギャグですから、あのひとたちは。まあ「思想」なんて高級なことはわからない、ミニコミ紙ですからどこも。
 ともあれ、その人はビョーキなんだと思いますよ。


「一般的な他者の視線が自分のなかに取り込まれないとき、自らの身体感覚のみに依拠した自分は、まさに世界の中心点となる。しかしそれは、社会という確固たる根拠をもたない空虚な中心点である。それゆえに、自己の安定のためには具体的な他者からの絶えざる承認が必要となる。その承認欲求の強さは、南条の日記に書きつらねられた内容ばかりでなく、ネット上でそれを公開するという形態にも表れている」(pp.83-84)

 ―ここは、「人は自律的なのが正しい」という暗黙の前提があるんだと思いますね、この著者の中に。でも実際は違います。人はいくつになっても、「他者からの絶えざる承認」を必要とします。それは出社して「おはよう」と言ってもらうのでも、SNSでだれかとつながるのも。
 本書は、現代の若者の病理を解剖する時に、どうしても表現力豊かなエクストリームな人すなわち南条の例を挙げざるを得ないんでしょうかね。どうやってもブログを書くことをわるものにしたいみたいですね。迷惑だなあ。
 最近も自分がブログを書いていることに関してナルシシストだとか言われて、「私は碌に発表場所もないから受講生様のために自分が思考した軌跡を書き残しているんです、なんか悪いですか?」ってある人に言ったんでしたっけ。なんでこんな説明しなきゃいけないのよ、疲れるなあ。相手はベストセラー作家さんでしたけどね。あいつら一味だな。回し者だな。


「彼女(南条)は、甘美なものとして仕事を捉える。そこに、自己承認への活路を見出しているからである。彼女にとって仕事とは、確固たる承認を得るために非常に有効な手段だった」(p.85)

 ―あの〜、「仕事が承認を得る手段」だ、というのは、いたって「まとも」ですよ。ビョーキの人だからそうなんじゃないですよ。そういう認識は全然ないみたいですね。なんか読むのイヤになってきたこの本。あなた自身は、仕事は承認を得るための手段じゃないんですか?この人本当はいい人じゃないんじゃないのかな。


 ―さて、「昔の若者はそれほど承認を必要としなかった」という言説も登場します。

「…かつての若者たちが人間関係の強い絆にからめとられているように見えながら、その一方で孤独にも強く、むしろ孤高にふるまうことすら可能だったのは、自分の判断に客観的な色彩を与えてくれる社会的な根拠を自己の内面に取り込んでいたからである。その根拠が、つねに一定方向を示しつづける羅針盤の役割を果たして、彼らの自律性を支えてくれていたからである。だから、たとえ周囲の人びとから自分だけが浮いてしまおうとも、『我が道を突き進んでいく』と宣言することができた。いわば一般的・抽象的な他者による承認を感じとることができていたので、具体的な他者からの承認を現在ほどには強く必要としなかったのである」(p.122)

 ―昔の若者は自律的だった説。異議あり。昔がどのへんの時代なのかわかりませんが、たとえば安保闘争とか学生運動、紅衛兵、など若者がモブ化したことは何度もあり、それは自立していない若者が集団行動すると安心したからで、要は承認欲求です。紅衛兵なんかは、毛主席から承認されたかったんです。だから団塊はその過去を恥じて右翼反動になってるんです。中には本当に自分の信念と一致していた人もいたでしょうけど、大多数は自分なんてありませんでした。もちろん普通の働く風景でも、高度経済成長の長時間労働のサラリーマンは当然、会社や周囲から承認されたくてそうしていたわけであります、もっとさかのぼれば軍国主義にしても。正田は会社員時代も一匹オオカミで上司とか周囲の(「弱くあれ」という)期待には従わないほうの女の子でしたが、それは大学で強い恩師の影響を受け承認も受けたからで、良い親御さんや師に承認された経験のあるひとは周囲に流されず強く振る舞えるかもしれません。自分1人でそれができるわけではない(できるのは恐らく病的に空気を読まない人)、それは昔も今も同じと思います。漱石とか鴎外とか、文豪と言われるクラスの文献を残している人は例外でしょうけどね。あと太宰治は自己愛性人格障害だった説もどこかにありましたね。あー、どんどんきらいになってきたこの人。言ってること変。学者のくせに間違ったこと言ったら、アウトでしょ。かなり妄想的な頭脳の人、学者というよりアーチストなんじゃないだろうか。


 ―いじめ自殺も「承認欲求」の産物説。別に否定はしませんが…。

「2006年の後半に引き続いたいじめ自殺の背後にも、この「私を見つめて」という強い承認欲求が潜んでいるように思われる。自殺を企てたいじめの被害者たちは、…「優しい関係」に孕まれた対立点の表面化が巧みに回避されることで、いじめの傍観者たちが自己肯定感の基盤を補強していくのと引き換えに、自らの肯定感をとことん剥奪されてしまった存在である。「私を肯定的に見つめてほしい」という想いは、ふつうの若者たち以上に強かったに違いない。」(pp.135-136)

 ―そうだろうと思いますよ。ホネットも言ってるでしょ、いやヘーゲルだったかな、人間同士の葛藤とは、要はどれも「承認の剥奪」の問題なんです。戦争も犯罪もいじめも。だから、奪われた側は必死でなんらかの形で奪い返そうとする、承認を。それは自然なことです、といっても自殺などしてほしくないが、彼らには奪い返す権利は当然あるんです。それはそこまで追い詰められた被害者が悪いんですか?自殺した被害者をナルシスティックだといえますか?承認を奪った加害者が悪いんじゃないですか?あるいは放置した大人たちが悪いんじゃないですか?
例えばこの文章を、「食欲と栄養」に置き換えてみるとこういう文です。
「餓死した人の表情からは強い食欲が窺われる」。
 それ、言っていい言葉でしょうか、常識的に。人として。


 「ケータイは…、つながりたい、承認されたいという欲求を、とりあえずはいつでも満たしてくれる装置として活用されている」(p.172)

 ―きたきた。本書は2008年の出版なので、まだスマホ登場前で「ケータイ」を話題にしています。ここでいう「承認」は、当協会的には「やすっぽい承認」なのやけどなあ。本書では「優しい関係」という言い換えバージョンも度々出てくる。「さみしい」に対しての「さみしくない」、「ないよりまし」というレベルの不安定なもの。だから、仕事の場での「行動承認」に出会うと、それはいまだかつてない大人同士の骨太な強固な信頼できるものなので、今どきの若い子もコロっと変節(いい方へ)してしまう。


 『友だち地獄』、「おわりに」で著者は、「本書で述べてきた若者のメンタリティの半分は、自分にも当てはまることを率直に認めておかなければならない」(p.231)と述べたところには、ちょっとだけ救いがありました。

 しかし全体としては、若者の現状の暗黒面を取り上げ嘆いてみせ(慨嘆調)、そして「承認」「承認欲求」をスケープゴートにしている本なのでした。まるで、人間ではない架空の概念だから悪玉にしてよいのだとばかりに。
 いや向かうべきはそっちじゃないでしょう。大人社会をどうつくりかえるか、でしょう。

 問われるべきは大人社会なのだ、という視点がこの本には見事に抜け落ちている。「若者の病的な承認欲求」のおぞましさだけが読後感として残る。

 あれですよね、問題発見とか慨嘆調がお上手な著者の方っていらっしゃるんですよね。それだけで本が何冊も書けちゃう。ネガティブ日本人は嘆き節には「そうだそうだー」って反応するんです。イヤだわ男のくせに慨嘆調ヨロメキ調。定年後の読者層の方なんかには受けますね。

 でも社会問題は何も解決しない。有効な問題解決をしているこちらが足引っ張られる。

 このブログでは、最近も「承認と栄養の関係」を取り上げているが、

 長すぎてしまった前振り 承認欲求と食欲と栄養と過剰摂取の関係について
 http://c-c-a.blog.jp/archives/51920236.html
承認欲求は誰にも普通にあるもので、正常な範囲のものは与えられて然るべきもの。


 ごめんね、教育技術の進化によって、また地道な社会変革によって(それはお気楽な大学の先生ではない正田の長年の心身をすり減らす「営業活動」で成り立ってきたのだが。正田はもう歳でかなり疲れてきているので、大学の先生とかの知識人にはとりわけ厳しいです)、大人のほうに「承認教育」を施し、「承認の与え手」の大人の数を増やすことができるようになると、ここにみるような「承認観」はむしろ退場していただかざるを得なくなる。

 美しいものなんです、大人の「与える承認」は。この教育に関与できることも美しいんです。汚いものみたいに言ってご商売してきた無責任なひとは、関与しなくて結構です。


 
 
 もう1冊の『希望難民ご一行様』(光文社新書、2010年)は、気鋭の若手社会学者・古市憲寿氏のデビュー作らしい。綾野剛みたいな今どきのイケメンの人ですね。


 ピースボートに同乗し、その限界を見、返す刀で「承認の共同体」を切っている感じの本。「承認」はもちろん本書の本筋の話ではないが、承認屋なので一応、どう扱われたかフォローしておきたいです。


「そう、「承認の共同体」は再分配の問題(経済的格差)を覆い隠すし、しかもなかなか政治運動へも発展しないのである」(p.264)


―政治運動には、このところ「反原発」や「反安保」に発展しているようにみえますけどね…。
 再分配の問題と承認を切り離して論じているところが曲者で、ヘーゲルの構想した承認は、ちゃんと再分配にまでつながっていた。ヘーゲルは承認を当初公共の愛として構想し、次に法や社会制度として構想したのだ。承認を、非力な若者同士で歌うJ-POPみたいなものに矮小化しちゃったのは著者の勝手な解釈である。

 
「要するに、ピースボートは特に「セカイ型」と「文化祭型」の人に対して、ムラのようなコミュニティを作った。それは一部の人が期待したような世の中に反抗するような集団ではないし、社会運動につながるようなものでもない。なぜなら、「共同性」による相互承認が社会的承認をめぐる闘争を「冷却」させる機能を持ってしまうからだ。
 
 つまり、「承認の共同体」は、労働市場から体制側から見れば「良い駒に過ぎない。このことを、「若者にコミュニティや居場所が必要だ」と素朴に言っている人たちは、どのくらい自覚しているのだろうか」(p.265)
 
―だからねー、さっきも言いましたけどね。ぽりぽり。
 たぶん、現代の非正規労働化、ブラック企業化というのは、「社会全体で、いわば大人世代が若者に与える承認のパイが縮小した」という現象なのだ。生身の若者たちにとって取り分が少なすぎるから、自分らの世代の中でなけなしの承認を回さざるを得ない。それが、ここに現れるような負け犬の遠吠えのようなゴールデンボンバーの歌のような「情けない承認イメージ」になってしまう。
 それは承認の責任ではないっつーの。イケメンさんだけどおばさんは厳しいよ。

 著者にしてみれば、「決して承認そのものの悪口を言っているわけではない」と言い訳をしたいところなのだろうが、どうみてもそうみえる。社会学周辺に、とにかく問題行動の契機としての「承認欲求」に注目する、という流れがあり、本書に解説を書いている本田由紀氏などもその一派の人たちであり、若くて売り出し中の著者はそこにおもねっているように感じられる。

 どうも見てると、土井隆義氏が「承認悪玉説」「昔の人はもっと自律的だった説」の先鞭をつけ、それに便乗して、本来の承認の意味をよく調べもせずに悪者扱いして使う人が学者さんでも増えた、という系譜のようにみえます。土井隆義氏元凶説。土井氏って本当は内発と自律論者なんじゃないの。いや本当はどうなんでしょうね。あまりこの問題に深入りしたい気もしないんですが、もしお詳しい方がいらしたら、ご教示ください。




正田佐与

 えと、謹厳なわたしとしては珍しく、ほとんどこのブログ始まって以来初めて、自筆イラストを披露してしまいます。

 インフルエンザ、ノロウィルス等感染症の季節ですが、人のこころにも怖い感染症というのがあります。ここ2年ほどわが国の職場や学校に増殖して、いま韓国にもいっている怖い病気が、これです。

アドラーかぶれ毛筆



 たまーに、研修でもWボードに絵を描いて説明することがあるんですが、謹厳で笑いの場面の少ないわたしの研修の中でそこだけは妙に笑いが出ます。

 それはどんな絵だったかというと、「ファーストペンギン」というのを説明しようとして足からボチャンと水に落ちるペンギンの絵を描いたりとか、脳幹の働きを説明していてヘビが攻撃するところと逃げるところを描いたりとか、です。

 
 このところお客様との対話の中でも「バカな自己啓発本にかぶれて勘違いする若手中堅」という話題が出ます。それは結局、上司がちゃんとした尊敬できる大人になって、そのうえで部下の勘違いを修正するという道筋しかない、という話になります。なので上司教育大事です。

 (ただ、色々きいてみると上司世代も結構アドラー心理学本にかぶれた人がいるみたいなんですナー。「褒めない、叱らない」という教義は、ふだん部下に興味もなくて碌にみていないタイプの上司にとっては、自分を甘やかせる魅力的なフレーズなんです。なのでこのイラストは中年男っぽく書きました)
 

 
 思うに人々の現実との接触の絶対量が少なくなるIT時代というのは、妄想とナルシシズムに対してどうマーケティングするかが勝負、という感じになって、出版業界なんかももろ「妄想ビジネス」「ナルシシズムビジネス」みたいになっています。学者さんとか評論家コメンテーターの人たちも、「妄想系」「リアル系」の色分けをしようと思えばできるんじゃないかと思います(大多数は前者なのかもしれない)

 でも妄想やナルシシズムで職場は運営できません。マンションの杭はちゃんと打たななりません、橋の部品はちゃんと溶接せななりません。じゃあどうするかというと、残っているまともな人が知恵を絞って感染症に対して賢い対策をとることでしょう。


 というわけで、妄想感染症リスク対策に社内ポスター、いかがでしょうか。


正田


追記:
今だから言うんですけどね、去年『行動承認』を出したときの担当編集者がこの病気だったみたいなんです。苦痛でしたねえ、こんな人に原稿見てもらうのは。宗教関係の本を異教徒がそれを隠して編集するようなものです。「承認」というものにも著者のわたしに対してもリスペクトがまったくなく、勝手に原稿の字句を変えてどんどん下品にするので(それは契約違反)何度も直し返しました。ついでに「あなたの直した原稿とわたしの書いた原稿どっちがいいか公開して皆さんに見ていただこうじゃないの!御社の恥になるんじゃないの?」って言ってやりました。いいんですよ、今からでも公開しても。
 

 今月1日、改正労働安全衛生法によるストレスチェック義務化が始まりました。

 従業員のメンタルヘルス対策、このブログ読者諸兄姉の職場ではどうされているでしょう。

  「月刊人事マネジメント」誌に連載させていただいている、「上司必携・承認マネジメント読本」の5回目の記事を編集部様のご厚意により「公開OK」でいただきましたので、転載させていただきます。

 今回は、「承認マネジメント」による「メンタルヘルス問題を起こさない職場づくり」について、お伝えします。
 

11月号完成稿


11月号完成稿2


 
 以下、本文の転載です(正田肩書は11月1日当時のものです):

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上司必携・『行動承認マネジメント読本』
〜人手不足チームのやる気と力の引き出し方〜

一般財団法人 承認マネジメント協会
理事長 正田佐与


第5章 「踏み込みすぎない」メンタルヘルス対策
 


 改正労働安全衛生法により、従業員のストレスチェックが今年12月から義務づけられます。
 メンタルヘルスケアについては、厚労省が平成12年より制定した4つの柱があります。すなわち、1.従業員1人ひとりによる「セルフケア」、2.管理職による「ラインケア」、3.社内の産業保健スタッフによるケア、4.社外の専門機関によるケアです。
 本章では、2.のラインケアについて、現場の上司の方1人ひとりにできることを解説します。

マネジャーはカウンセラーになるべきですか?

 「ラインケア」のためには、「職場では上司・マネジャーが部下のカウンセラーであるべきだ」という主張があります。部下の話を共感的に聴き、受容することが大事だ、と。
 筆者は、それにはあまり同意しません。マネジャーはあくまで仕事の現場を前に動かすことに責任を負う人であり、心を病んでしまった部下のケアを担当するのは荷が重すぎるのです。部下がもし本当に心を病んでしまったら、マネジャーはできるだけ早く産業医または医療機関にバトンタッチすることをお勧めします。
 むしろ、読者の上司の皆様にお勧めしたいのは、「未病段階」の日常のケアとしての「承認」です。
 ピースマインド・イープ(株)が今年8月に発表した約4万人を対象としたストレスチェック調査結果の分析によると、「上司の部下対応に改善が必要な職場では、それらが良好な職場に比べ高ストレス者比率が約10倍」という結果が出ました。
 「上司の部下対応」とは、より具体的には、上司のリーダーシップ、すなわち部下の育成やキャリア形成に積極的であること、上司の公正な態度ほめてもらえる職場失敗を認める職場―などが指標となります。ですので、上司の必要な行動様式としては、「承認」を日頃心がけて行っていただくことで大丈夫なのです。

傾聴より承認が大事なのでしょうか?

 少し抽象的な話になりますが、「傾聴(話を聴くこと)が大事か、承認(認めること)が大事か」、どちらでしょうか?
 「傾聴」の一環として「承認」をするのが正しいか、「承認」の一環として「傾聴」をするのが正しいか。どうも、経験的には後者のようだ、と筆者は考えます。
 「認める」ことを日常行動のコミュニケーション手法としても心の構えとしても基盤として持ったうえで、場面に応じて「傾聴」もする。「承認」は「見る」ことと「聞く」ことの両方を駆使し、「声がけ」の段階の「浅い」レベルのものから「行動承認」その他の各「承認」カテゴリ(第2章参照)を行うこと、さらに、指示出しやトップダウンで語ることまで通じ、極めて使用頻度も応用範囲も広いものです。
 「話を聴いてもらいたい」という部下の真意は多くの場合、「認めてもらいたい」とイコールです。
 逆に、「傾聴」が大事だ、という構えでいると、マネジメントのなかでじっくりとした「傾聴」ができる場面は限られていますので、せっかくの宝の持ち腐れになってしまいます。また、たまたま「傾聴」したことに囚われて、物事の本筋を見誤ってしまうことになりかねません。
 ですので、メンタルヘルス対策の「ラインケア」としてマネジャーが行うべきことは何か?というとき、やはりここでも「承認」をお勧めしたいのです。
 そして実際にやってみると、「承認」は鬱など心の病気になる前の「未病」の段階で非常に大きな予防的効果を発揮し、日常行動として行う価値があることが分かります。

「承認個別面談」は必要ですか?

 日常の声がけや「行動承認」などの「承認」に加え、やはり前章同様、ここでも「承認個別面談」をお勧めしたいと思います。ラインにおけるメンタルヘルス対策としても、これが現時点でベストの解だと思われます。
 定期的に、月2回〜週1回の頻度で、マネジャーが個々の部下と対話する。あらかじめその部下に即した「承認」の言葉を3つ、考えておきましょう。ここでも具体的な行動を観察した結果を伝える「行動承認」は非常に効き目があります。
 実際にやってみると、こうした「承認」を交えた個別面談では、部下は実に素直に仕事の進捗状況はもとより、今抱えている悩み事を、仕事だけにとどまらずプライベートも含めて話してくれ、マネジャーは的確に状況把握ができます。

鬱から復職の部下にも「承認」は使えますか?

 鬱休職からの復職は、難しい問題です。回復期に入ると本人は1日も早く復職したいと思われるものですが、

実際にはフルタイムの勤務は心身の負担が大きく、ちょっとしたきっかけで再度悪化してしまうことがあります。リハビリ的な勤務を経て慎重に本格的な復職のタイミングを見極めたいものです。
 いざ復職したら、普通よりこまめに様子を見て声がけをしましょう。本人の机を上司の机の近くに配置替えするなどもよいでしょう。
 よく「頑張れ」は禁句だと言われますが、逆に「では何を言ってあげたらいいの?」と困って声をかけづらくなってしまうようです。第2章に示したさまざまな「承認」では、「頑張れ」以外の「承認」の言葉が多数紹介されています。
 ぜひ、これらを使って細やかに声がけしてみてください。一般に、やはり「存在承認」「行動承認」「感謝」「Iメッセージ」などは、復職後の人にも素直に受け入れられ、静かなやる気につながります。
 一方で、「ラインケア」ばかり強調すると、本人の自助努力による「セルフケア」がなおざりでよいのか、と思われるかもしれません。やはりセルフケアは大事です。現代特有の、PCやスマホの使用からくる寝不足やストレスの問題、またバランスの良い食事や適度な運動など、本人の生活態度がメンタルヘルス疾患の予防にも治療にも大きく影響します。
 こうした自己責任のセルフケアの重要性を十分に啓発しながら、一方でラインケアにも取り組んでください。

(了)

「上司必携・行動承認マネジメント読本」シリーズ全体の構成は:

第一章 行動承認は”儲かる技術”である(2015年7月号)
 http://c-c-a.blog.jp/archives/51919833.html
 第二章  「承認」の学習ステップ(8月号掲載)
 http://c-c-a.blog.jp/archives/51921667.html
第三章 女性活用と登用は「上司の眼差し」次第(9月号掲載)
 http://c-c-a.blog.jp/archives/51923763.html
第四章 LINE世代に対するマネジメントとは(10月号掲載)
 http://c-c-a.blog.jp/archives/51925545.html
第五章 「踏み込みすぎない」メンタルヘルス対策(11月号掲載)
 http://c-c-a.blog.jp/archives/51927183.html
第六章 部下の凸凹を戦力化に転じる(12月号掲載・本記事)
 http://c-c-a.blog.jp/archives/51932814.html
第七章 伝えたいことが「伝わる」伝え方(2016年1月号掲載)
 http://c-c-a.blog.jp/archives/51934650.html


 正田佐与

 

 お誕生日にいただいたメッセージのご紹介 第二弾です。
 佐賀県の研修業・Training Officeの宮崎照行さんより。先月、新たな実践経験談 ”教育困難校”と「行動承認」―佐賀県・宮崎照行さんのメールより の記事で登場していただきました。

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正田先生

お誕生日おめでとうございます。
いつも考えるキッカケを与えてくださるブログの投稿、ありがとうございます。

この1年もさまざまな視点でのご投稿を心より楽しみにしております。

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昨日のブロク『褒めない・叱らないは正しくない!「逆張りロジック」に正しく反論する知性を磨こう―「嫌われる勇気」著者講演会』を興味深く拝読いたしました。

私が疑問を感じたのは下記の点です。

>「叱る、とは、対人関係において、相手を"下"だと思っているからできる行為である。対等だ、同じ価値を持った人だと思って接すればいいだけである。褒めるのでも叱るのでもなく、言葉で説明する。話し合えば1歳の子どもでもわかるものだ」
「叱られた子どもは、大人の顔色を見るようになる。自分で判断するのではなく、叱られないならやる、という風になっていく。」
私は、自己認識をする上において、第三者からのフィードバックにより事実を意味づけることが可能になると考えています。特に、タブラ・ラサ状態の子供に対しては、そうなると「叱る」「褒める」などの行為を通してのフィードバックによって事実を客観視させていく必要があります。
何も相手を“下”だと思っているわけではありません。”希望”や”期待”からフィードバックをしています。”希望”や”期待”が相手に伝わるために必要なことは何か?私は、信頼関係だと思っています。だからこそ、普段の何気ない声がけやそれこそ「承認」が必要です。信頼関係が築けると”下”や”対等”などの階層的意味付けは自然消滅してしまうと思っています。


>「では、褒めるのはどうか?褒めるのも対等と思っていたらやらないですよね。褒める行為は、能力のある人が能力のない人に下す評価である。 褒められて喜ぶのは、自分の能力がないと思っている人なのかもしれない」「褒めて欲しいから行動する、というような振る舞いになっていく」
私は、褒められたら素直に「嬉しい」です。それがエネルギーになることも多々有ります。別段、自分の能力が劣っているとも思っていません。この点は、岸見氏の表現は危険極まりません
「褒める」も肯定的なフィードバックの一つだとすると、行動を強化する強化因になるわけですから、別段、「褒めて欲しいから行動する」わけではなく、「その行動が正しいから行動する」だけであると思います。

私自身、「褒める」という表現は肯定的なメッセージの一部分しか表していないので「承認」という表現を好んでいます。今回、岸見氏の講演では、肯定的なメッセージを「褒める」ということだけに限定されていることに無理があるのではないかと思っています。
そして、私が危惧していることは、岸見氏のような大ベストセラー作家の講演に対して、、産業カウンセラーの方々が思考的盲目になられている点にあります。「売れている」=「正しい考え」のような図式が成り立っているようなきがしてなりません。専門職の方々に声を大にしていいたい。「もっと深く勉強をしてください」「自分の力でもがき苦しみ、解決の方略としていろいろと調べて下さい」と。

『嫌われる勇気』は読み物としては面白いかもしれませんが、わたしは参考になる点は、残念ながらあまりありませんでした。

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【私が正田先生を尊敬する理由】
|療好奇心が旺盛なこと
表面上の知識だけでなく、深いレベルで理解されようとすること
H稟修気譴襪箸は客観的なデータを用いたり、一過性の感情論ではなく、しっかりと論理的矛盾をつかれること
ご蕎陬譽戰襪範斥レベルがうまくバランスがとられていること

改めて、お誕生日おめでとうございます。
乾杯!!

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 いかがでしょうか。
 正田は、このメッセージをいただいたとき、ほっとしてしばらくダラーっとしてしまったのですが(情けない・・)本当はこういうのは、承認される側より承認する側が偉い、のかもしれないです。器が大きいのかもしれないです。あたしはどうみてもこんな賛辞には引き合わない。
 
 と思うんだけれども、万一ひょっとしてこの世のどこかにもうお1人ぐらい、正田のことを「いい」と思ってくださってる方がいて、そのことがその方が「承認実践者」であられるためのモチベーションになっているとしたら、その方にとっては自分と同じように思っている人が少なくとももう1人いる、と思えることは勇気づけになるわけじゃないですか。
 などという言い訳をして、ナルシスティックかもしれないんだけれどもおほめの言葉をいただいたのをUPしてしまうのでした。

 宮崎さんの岸見講演について言われた論点、「ふだん承認をしていればフィードバックに上下の感覚は入らない」、これはおっしゃる通りだとわたしも思います。わたしの記事ではそこが抜けていました。
 「褒めてほしいから行動する」のではなく「正しいから行動する」。大事なポイントですね。「自律」というとき、ある人が自律的に行動するに至るメカニズムとは何か。要はこういうことなのではないか。と、思ったりします。(これはまだ考え中の段階ですが)

 また、聴衆の方々がクリティカルシンキングが出来ていないようにみえること。ちょうどこのブログでも、某自己啓発本のWEB書店ページにならぶ賞賛のレビューの数々のことを言っていたところです。それはステマかと思っていたのですが、実際にこの講演レポートが紹介されたFBページでも、アドラー心理学への賞賛のコメントばかりが並び、わたしなどは「えっ?」と思いました。そこへわたしが「アドラー心理学を批判していいですか?」と記事引用のお願いのコメントを入れたので、すごい空気読まないことをやっていたわけです。

 皆さん、やっぱりもうちょっとちゃんと考えましょう。皆さんの現場での実感と食い違ったらそう言っていいんですよ。でないと皆さんの大切なお子さんを不幸にしてしまいますよ。
 

 あと、宮崎さんは、「自分の名前を出してもらって構わない」と言われたのですが、岸見氏のようなベストセラー作家を公開で批判するというのは、ほんとうはご自分が今後出版の世界で上手く泳ぐには不利になるかもしれないんです。このところ出版業界さんというのは、言うては悪いですが「石橋を叩いて渡る」、ベストセラー作家頼みの傾向が強まっています。そして売らんかなで「逆張り」をやり、反常識を通り越して非科学トンデモ、のこともお構いなしです。

 でもそういうドン・キホーテ的なことをあえてする人がもう一人いたというのは、ちょっと嬉しいですね。


 ドン・キホーテついでに、本日21時すぎ、わたしがフェイスブックに投稿した文章もご紹介します:

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お友達の皆様ありがとうございます❗昨日21時56分にUPしたこちらの記事(褒めない・叱らないは正しくない!「逆張りロジック」に正しく反論する知性を磨こう―『嫌われる勇気』著者講演会 )が、今まで約1日のうちに学校の先生を含む10人の方にシェアしていただき、654PV、110いいね!と、ささやかな私のブログとしては過去最高の数字となりました。
昨年来、このベストセラー書の影響を受けた方が残念な言動をとられ、職場の雰囲気が悪くなることを垣間見、憂慮してきました。子育てに深刻な影響をもたらすことも予想されました。どんな子育てを選ぶかは、どんな未来を選ぶかにもつながります。
このTLを読まれる方には出版界の方もいらっしゃり、きっとベストセラー書とその著者というのは大事な収入源でいらっしゃると思いますが、それでも食品添加物の問題などと同様、消費者に良質のものを届けることを大事に考えていただきたいのです。未来を担うお子さん方に関することなのです。
目の前で起こっていることについて真摯に考え、態度表明されることを厭わないお友達の皆様に感謝と畏敬の念を持ちます。私にとってまたとないお誕生日プレゼントでした。ありがとうございます❗️これからもよろしくお願いいたします。

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 では、宮崎さんの「乾杯!!」に少し遅れて、わたしもお猪口のワインで乾杯して寝まする。。


正田佐与


<シリーズ・アドラー心理学批判>

●「勇気づけ」についての副作用情報。。(2014年12月)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51903598.html

●褒めない・叱らないは正しくない!「逆張りロジック」に正しく反論する知性を磨こう―『嫌われる勇気』著者講演会 (2015年12月)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51927076.html

●「自己認識には事実のフィードバックが大事」「思考的盲目が心配」―宮崎照行さんのメッセージ(同)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51927143.html

●「子どもさんは大いにほめてください。そして叱ってください」―正田、アドラー心理学セミナーで吠えるの記 (2016年1月)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51933511.html

●「誰もが活躍できる社会」とは「承認社会」―NYさんからのメッセージ (同)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51933591.html

●「勇気を持って指摘されたからこそ、いずれ考えを改める」―永井博之さんからのメール (同)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51933656.html

●『行動承認』Kindle化に向けて(4)メディアの考える怠惰なお客様と「行為者」の乖離、王道とパチモンの「大衆的人気」(2016年5月)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51940842.html

●NHKおはよう日本 アドラー心理学特集を批判する(同)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51940920.html

●NHKおはよう日本 アドラー心理学特集を批判する(2)友人たちの反応 (同)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51940923.html

●『行動承認』Kindle化に向けて(5)行為者の脳発達と細胞レベルの変化の可能性――林田直樹先生との対話より(同)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51940962.html

●アドラー心理学批判 「承認欲求否定」「ほめない叱らない」はどこから来るか―「共同体感覚」との関連において―アドラー『個人心理学講義』をよむ
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51941070.html

●アドラー心理学批判・友人からのお便り「幼稚さ、ナルシシズム亢進、成熟拒否」
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51941137.html

●アドラー心理学批判 「トラウマ否定」「承認欲求否定」起源はみつけたが誤読と捏造だった―『人生の意味の心理学』をよむ
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51941143.html

●アドラー心理学批判 アドラーの罪:発達障害者向けのお説教と批判封じ
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51941204.html

●アドラー心理学批判 まとめ:「承認欲求を否定せよ」「トラウマは存在しない」有害フレーズの捏造と岸見氏の罪
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51941255.html


 きょうは52歳の誕生日。
 先日来、52歳52歳と自称していましたが、誕生日の少し前から自称してしまう癖があるのです。まあこの歳になると変わらないですよね。
 
 親しい友人(女性)からいただいたメールをご紹介します。聡明な、やさしい言葉遣いの方です。

****

正田さま

お誕生日おめでとうございます!
これからもたくさんのしあわせが
正田さまのもとにやってきますように・・・!
゜ヽ(*´∀`)ノ゜♪


その後、お元気でいらっしゃいますか。
財団解散の手続き、大変でいらしただろうと思います。
(略)
本当にお疲れ様でした。

ブログ、毎日拝見させていただいております。
とても濃密で今の私の心にずんと響く大切な内容を、
いつもありがとうございます。

私の職場では、以前お話ししておりました
担当の長時間残業のトンネルは、やっと抜けることができました。
まだまだ新しい仕組みは頼りないところも多く気を抜くことはできませんが、
一番過酷な時期を彼らは乗り越えてくれました。

ともすればじっと見守るしかできない私が、
せめて、と心掛けていたのが、「行動承認」でした。
彼らの頑張りを、きちんと見て、認めて、
それをできるだけ周りにも伝える、
ひたすらそれだけを心掛けてきました。

その結果、ひとりも倒れたりすることなく、投げ出すことなく、
モチベーションを保って、なんとかここまでくることができました。
これからもしっかりひとりひとりをみつめていきたいと思います。

本当にありがとうございました。
ご多忙のことと思いますが、お体には十分お気をつけて。

今日が素敵なお誕生日でありますように。

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 彼女の職場では、1万人余の組織はじまって以来のシステムを導入し、彼女はそのシステムを司る職場の発足直後から長の立場でした。

 若手担当者の長時間労働、それはWLBにうるさい昨今ではいささか「長」の決断力の要ることでした。その状態がもう2年以上にわたって続いていました。数か月に一度、そんな職場の様子を伺うことができました。

 
 よくこのブログでは「10何年1位マネジャー輩出」というような言い方をしますが、そういうのではない、長期にわたる地道なプロジェクトを1人も欠けず、倒れず完遂する、一番過酷な時期を乗り越える、という達成もあるのです。
 
 責任感の高い細身の彼女の頬に苦悩の色はあるのか?会うたび、毎回わたしにはよくわかりませんでした。ともかく時間のかかることを前提に耐えているようにみえました。

 その中に日々、ひっそりと「行動承認」があったことを、あらためて報告いただくと小さな感動をおぼえるのでした。


正田佐与

 久々に「批判記事」でございます。

 このブログの少し長い読者のかたは、「正田の批判ずき」にもうだいぶ慣れてくださったかと思いますが、中には「たたかう正田は苦手」というかたもいらっしゃるようです。このところのエントリが「愛」づいていて「愛の化身」みたいに振る舞っていたのに(爆)ゴメンナサイ!!そういう方は、この記事はスルーなさってくださいね。

 2015年現時点でいまだに非常に影響力があるとみられる、『嫌われる勇気』の著者、「アドラー心理学」の岸見一郎氏について。
 影響力がどういうところにあるかというと、これからご紹介する講演記事によれば、産業カウンセラーさんらしき人多数が出席されていたということです。

 さあ、産業カウンセラーさんがこういう講演の内容を鵜呑みにしたら、どういうことが起こるんだろうか…。

 講演会に参加された、記事の筆者の田中淳子氏(グローバルナレッジネットワーク株式会社 人材教育コンサルタント&産業カウンセラー)のこころよいご了解に感謝し、引用させていただきます。


(1)『嫌われる勇気』(アドラー心理学)著者・岸見一郎氏の講演会に行ってきた!(2015年11月28日(土))<レポート前編>
http://blogs.itmedia.co.jp/tanakalajunko/2015/12/20151128.html

(2)『嫌われる勇気』(アドラー心理学)著者・岸見一郎氏の講演会に行ってきた!(2015年11月28日(土))<レポート後編>
http://blogs.itmedia.co.jp/tanakalajunko/2015/12/20151128_1.html 

 
 この中にはもちろん一般的で正しいと思える部分も大いにあるのですが、記事を短くしたい都合上、批判点だけを抽出させていただくことになります。全体像をお知りになりたい方は、どうぞ上記の記事のほうをご参照されてください。

 まずは、(1)の記事から。(今回は、正田の批判を青字にさせていただきます)

■「子どもに"反抗期"はないん。反抗させる大人がいるだけ。反抗したくなるような言動をする大人がいるだけ、とアドラー心理学は言っています」

 これ、大真面目に言ってるんでしょうか。産業カウンセラーさんで「おかしい」と思った人はいなかったんでしょうか。
 反抗期はあります。思春期の反抗期では、男女とも性ホルモン値が上昇し、攻撃的になります。大人にやたらとつっかかるのはそのせいです。非行・犯罪リスクも増します。男の子では、テストステロン値はそれまでの14倍にも上昇します。そういう生理学的な知識が少しでもあれば、このフレーズは「間違い」あるいは「冗談」だと思えるはずです。しかし大真面目な言葉として発せられ、聴衆も大真面目に受け取っている感じなんです。



■「叱る、とは、対人関係において、相手を"下"だと思っているからできる行為である。対等だ、同じ価値を持った人だと思って接すればいいだけである。褒めるのでも叱るのでもなく、言葉で説明する。話し合えば1歳の子どもでもわかるものだ」
「叱られた子どもは、大人の顔色を見るようになる。自分で判断するのではなく、叱られないならやる、という風になっていく。」

 これも困ったものですねえ。こういう言辞を鵜呑みにする人が、今度は叱れなくて困るんです。子供さん相手の場合、褒めることも叱ることも必要です。子供は褒められたり叱られたりすることによってその社会の規範を学び、いわば文化を身につけていきます。叱られることなしに自分で頭打ちを経験できるかというと、その状況になっても頭打ちを自覚できないことが多いでしょう。
 例えばの話、自分より弱い子を殴って泣かせた、あるいはひどい言葉で罵って泣かせたとします。相手が反撃する力がない時、どうやって「自分は悪いことをした」と知ることができるでしょう?その場合、身近な大人が本気で叱って、「自分は決定的に悪いことをしたんだ」とわからせなければなりません。
 そうすることが、岸見氏の言うように「顔色を見る」「叱られないならやる」子供を作ってしまうか?
 わたしが3人の子供をみてきた経験では、3人のうち1人は確かにそうなりやすい資質をもった子供だった。それは、彼の担任の先生も同意見でした。「彼は賢いから、こちらの顔色を見ますね」と。その子に関しては残念ながら叱る回数が多くなった。どのみち、叱らなくてはそれぞれの問題行動にストップをかけられませんでしたし、わたしの尊敬するベテラン先生もそこを見切って叱っていました。
 残る2人は、回数としては数少ない「叱られ体験」が自分の規範として残るタイプの子たちでした。いわば、そういう子では、「叱られ体験」がのちのちの自律の材料になっていったのです。要は、子供の資質による、ということです。
  ここは現場の先生方におききしたいところですが、上記のような、「叱っても顔色をうかがって性懲りもなく同じことをやる子」と、「叱られたことで学習して同じことをしなくなる子、自律できるようになる子」とどちらが比率として多いんでしょうか。岸見氏の言い分だと子供は前者の子ばかりだ、というようにきこえますね。

 なお、「褒める」という言葉を使うと、どうしても「君は賢い子だね」という、NG褒め言葉もOK、というニュアンスになってしまうので、それを避けるため、正田は「承認」と言っています。ところが「褒めてはダメ」と言ってしまうと、今度は「君はよく頑張ったね」という望ましい言い方までNG、ということになってしまうので、それはダメでしょう、ということです。




■「では、褒めるのはどうか?褒めるのも対等と思っていたらやらないですよね。褒める行為は、能力のある人が能力のない人に下す評価である。 褒められて喜ぶのは、自分の能力がないと思っている人なのかもしれない」「褒めて欲しいから行動する、というような振る舞いになっていく」

 褒めることの否定。
 確かに、対等な立場での「承認」を重んじる当方の流儀では、「褒める」にたいする評価はやや低くなります。しかし、肯定的評価はだれでも嬉しいものです。それを伝えそこなうよりは、伝えたほうがよっぽどよい。
 いわば、誰かが良いことをしたとき、どう反応してあげるか。
  承認 > 褒める > 何も言わない
という図式が成り立つと思えばいいです。とっさにそんなに選べるわけではないので、言うことに迷ったら、「えらいね」でもいいんです、別に。相手が子供さんなのでしたら。
 「承認」という言葉が何を指すか。これは相手に肯定的なメッセージを送る、意外と幅の大きいパッケージなので、そこには存在承認、行動承認のほか、岸見氏が推奨する「感謝」もその1つに含んでしまっています。褒めるも含んでいまして、別に排除するわけではありません(ちょっと評価は低いですけど)。宣伝になりますが拙著『行動承認』で、受講生様にお配りしている「承認の種類」の表を掲載していますので、よろしければご覧くださいね。


「褒められて喜ぶのは、自分の能力がないと思っている人なのかもしれない」
 語尾を「しれない」で逃げていますけれど、これは褒められて喜ぶ性格のPromotingやFacilitatingの人に対して失礼なんじゃないですか?よくある、「偉い先生は自分のことを研究することが好き」というやつで、岸見先生はご自分が「ツンデレ」なだけじゃないですか?(いや、本当はわたしもそうなんですけど;;)


「褒めて欲しいから行動する、というような振舞いになっていく」
 これも古くから言われてきた「都市伝説」のようなことです。あちこちの立ち回り先でききました。実際にそうなるかどうか、やってみればいいこと。往々にしてやっていない人がこういうことを言うことが多いです。
 正田流では「褒める」でなく「承認」あるいは「行動承認」と言っていますが、それをきちんとやってあげると、ほとんどの子供はより自律的になり、言われなくても良いことをするようになります。それは大人が見ていないときでも、です。例外的に、上の「叱る」の例でみたように、大人の顔色を窺いみていないところでは良いことをしない、というタイプの子が確かにいます。しかし大勢はそうではないのです。というのは、過去に「承認研修」を受講されたマネジャーたちの自宅での子育てについての聞き取りをした結果、そうです。


(2)の記事について。ここでは、講演後の質疑が記録されています。詳細な記録に、田中さん、改めて感謝です。

■(祖父母だが4歳の孫をつい褒めてしまう、という質問に対して)
A1:お孫さんと同居ですか。それはそれは。「孫」「小さい子」と思うと、つい褒めてしまうのですが、「大切な友だち」と思ったらどう言いますかね。そう考えてみてはどうでしょう?何かをしたとき、大切な友だちだったら、「いい子だね」「よくできたね」なんて言わないですよね。たぶん、「ありがとう」と言うんじゃないかと思います。

 4歳のお孫さんは、おじいちゃんおばあちゃんから、「いい子だね」「よくできたね」って言われて嬉しいと思いますよ(なんと、「よくできたね」もダメ扱いなんですか!?)。このブログで11月9日のエントリ(ケア労働、ジェンダー…市民社会の新しい主要モチーフ―社会思想史学会聴講記) にあるように、「私たちは依存関係がデフォルト」なんです。今、ケア社会が現実に目の前にあるとき、それを前提としないと人類はやってられないところに来ているんです。私たちは周囲にどうしようもなく依存していた乳幼児時代を経て、学齢期〜青年期に長い時間をかけて自律を獲得し、そして高齢者になってまた依存的な存在に戻っていくんです。人は生まれながらに自律的だなどと考えるのは、自分が依存的だった時代を忘れてしまった傲慢な人だけですよ。
 少なくとも4歳であれば、おじいちゃんおばあちゃんから言ってもらう「いい子だね」「よくできたね」を栄養にし、材料にして、社会で生きていく規範を獲得していきます。そういう時代はまだまだ続くと思っていいです。大事な栄養を上げてるんですよ。

 
■(職場で相談業務をしているが承認欲求っていけないものなのですか?という問いに)
A2:職場では、上司の顔色をうかがう、誰かの評価を気にしなければ、出世できない、などいろいろあるでしょうけれど、でも、なんでも「その通りです」というものでもないですよね。誰かが言っていることが間違っていると思ったら、「それは違うのではないか」と言う勇気も持たなければならない。
つい「誰がそれを言っているか」を考えてしまいますが、一度でいいから、「誰が言っているか」ではなく、「何がそこで言われているか」に注目してみるといいのです。

 この岸見一郎先生にとっては、「承認欲求」というのは、「顔色をうかがう」とか「なんでもその通りです」というのとイコールなわけですね。変なところと等号で結ばれていますなあ。よく「チャンクが大きい」「小さい」という言い方をこのブログでしますが、概念と概念の位置関係とか「含む、含まれる」の関係を正しく捉えていません。
 「承認」と「承認欲求」の関係は、「栄養」と「食欲」の関係とイコール、と思えばいいのです。身体にとって栄養が必須のものであり、それを取り込んで生存するために食欲があるように、人のこころにとって承認は必須のもので、それを取り込むために承認欲求があるんです。承認欲求があるから、人は少しでも良い仕事をしようと頑張ります。よく「内発」「外発」なんて混乱させるような言い方をしますが、お客様に喜ばれるのも上司に喜ばれるのも、働き手にとっては同じ「承認」なんです。産業カウンセラーさんに「承認欲求はいけない」なんて、間違ったことを教えちゃいけません。
 また、「違うことを『違う』という勇気」も、「承認」によって生まれるんです。わたしは、「承認」がある程度浸透した職場では、今度は「反論しよう」という課題を課します。少々反論したからって相手との人間関係が壊れるわけではない、人格批判をしたことにはならない、という信頼があれば、そこで初めて「反論」ができるようになります。迂遠なようですが、実際に「違うことは違うと言える人」をつくるには、談論風発な職場をつくるには、それが一番現実的な道筋なんです。

 
 「誰が言っているか」ではなく、「何がそこで言われているか」。
 この言葉は、そっくり岸見先生の言葉に当てはまりますね。偉い岸見先生の言うことが正しいわけではない、ということです。むしろ批判的に吟味したほうがいい、ということです。



■アドラーはこうも言っています。
「患者を無責任と依存の地位に置いてはいけない」と。
「無責任」にするというのは、「あなたの症状、病気は、あなたのせいではないよ」と言ってしまうことです。
一方でカウンセラーや友人が「依存」されたら、力になってあげることができません。課題を抱えた自分自身の力でよくなっていかないといけないのです。

 うーん。
 部分的に同意したい部分もないではないが、基本的にそれ、ダメでしょ。
 「責任」の問題。メンタルを病んだ人に、多少そうなりやすい器質的な問題があるかもしれないが、状況的に本人にどうしようもないことがある。職場の上司部下関係では、部下側に出来ることは少ないです。むしろ大うつ病になる人なんかはまじめで責任感が強い人が多いので、「本人の責任問題」なんかを問い詰めたらかえって打ちのめすことになります。そういうのは、アドラーがどう言おうとシカトしていいんじゃないかと思います。
 どうも、色々アドラーの言葉を引用してるのをきいてると、アドラーって今の時代の精神疾患分類とか発達障害のような個体差の問題まで知らないし考えないで言ってる人なんじゃないの?と思います。はい、無視していいです。
 そして「依存」の問題は、1つ前の項目で言っています。私たちはデフォルトで依存しているんです。壮年期の人でも、こころを病めば、すぐ「依存状態」に逆戻りします。友人関係だと背負いきれないからほどほどにお付き合いするのは「あり」だと思いますが、わたしは家族に鬱患者がいましたから、鬱の勢いが強いときは思い切り「依存」させてあげてました。その時期はそうすることが栄養になるからです。その代り、治ってきた段階でわがままが出たら叱り飛ばしてました。
 カウンセラーさんの場合は、約束の日時を守るとかセッション時間の制限を守るという部分での「依存を防ぐ」は必要だと思いますが、セッション内では状況に応じて甘えさせてあげていいと思います。泣きたいクライエントには泣かせてあげる、ぐらいでいいんです。このあとご紹介する別の記事にありますが、親から十分に愛されなかったクライエントが「カウンセラーのカウチの横で子供のように丸くなりたかった」ということを言います。そのぐらいの引き出しを持ってないカウンセラーがするカウンセリングは、拷問です。
 「課題を抱えた人が自分の力で」っていうのは、なんか心が健康な人を前提とした、コーチングのようなセリフだなあ。「病んでる状態」っていうのを本当には想像できてないんと違います?




■(成育歴によって、「存在しているだけで貢献だ」と思えない人には?)
親子関係のあり方によってこれは変わってくるはずです。「生きている」という時間を味わう、そういう体験をしてこなかった人がいたら、つまり、父も母も自分の「仲間」だと思えないような育ち方をしてしまったとしたら、そうだとしても、彼ら・彼女らに「過去がない」と言う風に考えるのではなく、「過去のことを、今、問題にしても仕方がない」と考えたらよいのです。

 これも程度問題ですねえ・・本当に深刻な、例えば虐待を受けて育ったなどのケースを想定できているでしょうか?被虐待児では脳の報酬を感じる部分の働きが弱い、という研究結果が最近出ていましたが…。岸見氏は、さまざまな場合の「ワーストケース」についてあまり想像できていないのではないでしょうか。現代にはその想像力は必要です。
 成育歴が本当に問題になるようなケースの場合、産業カウンセラーの手には余るということでもっとディープな分野のカウンセラーに紹介する、というのが良心的なやり方ではないでしょうか。



■Q6:企業内で看護師をしています。自信過剰で、上司に立ち向かっては叱られている若い人がいます。「自分には能力があるのに、だから、もっと能力にあった仕事をさせてください」という社員がいるのですが。

A6:「優越コンプレックス」と言いまして、現実が伴っていないのに、過剰に自分を誇示する人というのがいます。これは、劣等感の裏返しなんですね。
「支戦場(しせんじょう)」・・・本来の仕事の場で戦わず、上司は部下に理不尽に叱るのも、上司側の「承認欲求」の表われです。上司も劣等感がある。
部下は部下で、そのやり方にのっかって、はむかっていく。こちらも劣等感の表われ。
子どもの例ですけれど、問題行動を起こす子どもというのは、「責めて叱られたい」と思うという屈折した欲求があります。

 また「承認欲求」をわるものにしている。岸見氏はよほど「承認欲求」がお嫌いなんだなあ。
 わたしだったら、このQに対してはもう少し詳しい聴き取りをします。これだけの情報量で即回答することはしません。本人の自己評価は本当に正しいのか。「立ち向かっている」というのはどういう言動か。上司はどんな言葉で叱責しているのか。もし、本人が能力が伴わないのに、身の程知らずに高度な仕事をしたがるのであれば、それを叱ることは上司の承認欲求とはいえません。看護の仕事などでは、安全上の問題でスキル不足の人にはさせられないことがあります。
 この回答が質問者の状況に本当にフィットするものなのかどうか、フィットしてなかった場合、質問者はどんな気持ちを職場に持ち帰るのだろうか、どんな眼でこれからの職場をみるのだろうか。


■Q7:家庭の問題で、問題行動を起こす子ども。どうしたらよい?

A7:「不適切な行動」を無視するのがよくないです。アドラー心理学で言っているのは、「注目しない」であって、「無視する」ではありません。・・・(後略)

 これも上記と同じ。問題行動の種類によるので、そこを聴き取りします。
 行動理論では、軽微な問題行動は無視することを教えます。
 それ以外のところで良い行動を認めてやることで、軽微な問題行動は自然と消失することがあるのです。
 もちろん重篤な問題行動の場合はそれにとどまらないので、とりあえずこの質問が出た段階で聴き取りです。アルゴリズムがあるのです。
 多分アドラー心理学の人は行動理論はお嫌いなんだろうな。



■(大学に10日で通わなくなったお子さんがアスペルガーの症状に当てはまる、という相談について)
A9:まず最初に言えることは、「病名」をすぐつけるのはよしたほうがよいです。それと、アドラーは「原因」を探すのは止めよう」とも言っています。
原因、理由・・・何かあるはずだ!と周囲は考えたくなりますが、理由は後付けになります。

 すいません。わたしなら、そのアスペルガーの線を重視して聴き取りをします。だって、「出現率4%」ですよ。25人に1人は可能性があるわけです。それが、高校までは顕在化しなかったのが大学で顕在化した、大いにあり得ることです。アスペルガーの人は構造化されていない環境が苦手なので、カリキュラムを自分で選んでどの教室に行っても違う人がいて、という環境はストレスになり得るだろうからです。
 もしアスペルガーだと特定できると、恐らくそのほうがそのケースではハッピーになります。若いうちに診断を受けられたほうがいいんです。大学1年なら、就職に備えて社会人になったとき困らないような立居振舞を今からおぼえることもできます。周囲に対して環境調整をお願いすることもできます。障害識をもったほうが幸せなんです。とりわけ、高校までは顕在化しなかったような軽症のアスペルガーのほうが、自覚していないと職場では問題が多いんですよ。
 岸見氏は、要はアスペルガーについて良く知らないだけなんじゃないですか?



 ツッコミもとい批判は以上であります。ああ疲れた。
 しかし改めて、ここまで詳細なメモを残してくださった田中氏に感謝です。講演では岸見氏はささやくような小声で話すということだったので、なおさら。(実はそれをきくと、「岸見氏ってナルシなんじゃないの!?」というツッコミも、わたしの心に湧きます。本記事をシェアしてくださったある学校の先生が言われましたが、褒めるアプローチを否定する人って自分の承認欲求が強い人が多いんですよね)

 1つ1つは些細なことかもしれませんが、聴衆が産業カウンセラーさんだときくと、やっぱりこれは聞き捨てならないなあ、と思います。カウンセラーさんや精神科医さんのところでの「見立て間違い」は、患者さんを一生の不幸につきおとしてしまうことがあります。治るものをダラダラ治さないことがあります。そして鬱は、一度本格的になってしまうと再発も多い、一生ついて回る、自殺もあり得る、怖い病気です。

 正しい(というか普通の)部分も多いとはいえ、1回の講演でこれだけ「明らかな間違い」というところがあったら、クルマならリコール、マンションなら建て替え賠償、のレベルです。最近、知識人のこういう「仕事」に向ける眼が厳しくなったわたしです。

 あえて、厳しいことを言います。
 『嫌われる勇気』を読んだときも思ったことですが、こういう論理構築って、基本的に子供との問題やクライエントとの問題で疲れ果てている人を対象に、あえて「褒めてはいけない、叱ってもいけない」とか「反抗期はない」とか「常識の逆張り」みたいなことを言ってやることで、
「あ、それは私が今やっていることだわ。今までのやり方が間違っていたんだわ」
と、虚をついてこころを思考不能にし、空白をつくり、そこへいい加減な頭の中だけでつくったロジックを畳みかけて注入してるんじゃないでしょうか。悪質な詐欺と同じテクニックなんじゃないでしょうか。


 そして、「承認欲求」というものの日米の扱いの違い。わが国でのような、底意地の悪い使われ方は、アメリカではしません。
 最近見つけた、アメリカの女性臨床心理士によるこんな記事をご紹介します。自己愛の強い母親に育てられた娘の悲劇、という題材です:


「母親が乳児のあらゆる動きや言葉、欲求に応えるとき、そこに信頼と愛情の堅いきずなが結ばれる。子どもは安心して母親に面倒を見てもらい、温かい愛情と承認を受けとる。それが娘に自信をもたらす。

ところが、深い感情をもたない母親は、娘とのあいだにきずなが結べない。母親が子どもに愛情を与えるのは、自分の利益にかなうときだけだ。娘は母親に頼れないことを学ぶ。そして、いつも落ち着かず、見棄てられる不安を感じ、なにかにつけて母親に裏切られるのではないかと思ってしまう。」(太字正田)

「自己愛の強い母親が、ムスメを不幸にする! その「束縛」から逃れる方法放置すると自分の恋愛にまで悪影響が…」(3)

 いかがでしょうか。ここでは、「承認」が「愛」と同等の、「与えられてしかるべきもの」として、いわば「心を潤す栄養」のようなものとして、描写されています。
 これが、「正しい使い方」なんです。

 このところ当ブログでご紹介してきた、フランクフルト学派による「承認論」も、「民族差別」や「フェミニズム」の問題に注目するように、当然与えられて然るべきものが与えられないことについての、弱者の側にたった憤りが出発点にあります。
 「承認」は弱者の側にたつための論理であり、わが国のように弱者を嘲笑することに使われるのは、また「与えない」ことを指南するのは、大きな間違い、恥ずべき間違いなのです。これは、日米欧の「知識人」のレベルの違いなんでしょうか。


 そういうわけでわたしは、岸見氏の講演が全国各地で行われ、患者さんに接する最前線にたつはずの産業カウンセラーの方々がそれを拝聴している、という図を大いに憂えます。

 どうかこれからの講演会では、「それはおかしい」と声を上げる勇気ある人が出てきますように。

 改めて、引用をお許しくださった田中淳子氏、またそもそものきっかけを作ってくださったお友達に感謝し、筆を置きます。



正田佐与
 

<シリーズ・アドラー心理学批判>

●「勇気づけ」についての副作用情報。。(2014年12月)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51903598.html

●褒めない・叱らないは正しくない!「逆張りロジック」に正しく反論する知性を磨こう―『嫌われる勇気』著者講演会 (2015年12月)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51927076.html

●「自己認識には事実のフィードバックが大事」「思考的盲目が心配」―宮崎照行さんのメッセージ(同)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51927143.html

●「子どもさんは大いにほめてください。そして叱ってください」―正田、アドラー心理学セミナーで吠えるの記 (2016年1月)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51933511.html

●「誰もが活躍できる社会」とは「承認社会」―NYさんからのメッセージ (同)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51933591.html

●「勇気を持って指摘されたからこそ、いずれ考えを改める」―永井博之さんからのメール (同)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51933656.html

●『行動承認』Kindle化に向けて(4)メディアの考える怠惰なお客様と「行為者」の乖離、王道とパチモンの「大衆的人気」(2016年5月)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51940842.html

●NHKおはよう日本 アドラー心理学特集を批判する(同)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51940920.html

●NHKおはよう日本 アドラー心理学特集を批判する(2)友人たちの反応 (同)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51940923.html

●『行動承認』Kindle化に向けて(5)行為者の脳発達と細胞レベルの変化の可能性――林田直樹先生との対話より(同)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51940962.html

●アドラー心理学批判 「承認欲求否定」「ほめない叱らない」はどこから来るか―「共同体感覚」との関連において―アドラー『個人心理学講義』をよむ
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51941070.html

●アドラー心理学批判・友人からのお便り「幼稚さ、ナルシシズム亢進、成熟拒否」
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51941137.html

●アドラー心理学批判 「トラウマ否定」「承認欲求否定」起源はみつけたが誤読と捏造だった―『人生の意味の心理学』をよむ
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51941143.html

●アドラー心理学批判 アドラーの罪:発達障害者向けのお説教と批判封じ
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51941204.html

●アドラー心理学批判 まとめ:「承認欲求を否定せよ」「トラウマは存在しない」有害フレーズの捏造と岸見氏の罪
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51941255.html

 藤野寛教授(一橋大学大学院言語社会研究科)の「ホネット承認論」についての講義原稿 第三弾です。


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「ホネット承認論」講義(9)                                       30.11.2015
                                     
Axel Honneth: Kampf um Anerkennung, S. 212‐234、256‐287.

【1‐1】 ホネットは、その承認論を、自己自身との関係の毀損の問題として(も)論じている。他者との(承認)関係が失調することは、自己自身との関係の毀損ということと切り離せない。その意味で、「自己自身との関係」論でもあり、キルケゴール『死に至る病』に直接する。ただし、『死に至る病』における「自己自身との関係」の分析よりも、さらに具体的であり、より細やかだ。自己自身との関係の失調は、つまり、自己自身を信頼できない、尊重できない、(正当に)評価できない、という風な異なる現れ方をするのだ。(「自信の喪失」という問題は、第三の承認の毀損の問題として解釈できる。つまり、(自己自身に対する)不当な過小評価だ。劣等感という問題も、ここに関わる。)

【1‐2】 キルケゴールは、父から「お前は罪深い人間だ」という言葉を間断なく聞かされて育ったに違いない。しかし、「罪深い」というこの抽象的な言葉は、どのような経験的裏づけを見出したのだろうか。「そうだ、確かに自分は罪深い」ということを、キルケゴール少年は、どのようにして確認していったのか。
「自分はダメだ」と感じるということは、われわれの生において頻繁に起こることだ。しかし、それは、なすべきことができなかったりする自分の「弱さ」の確認なのではないか。意志が弱いとか、能力に欠けるとか。あるいは、してはいけないとわかっていることをしてしまう「悪い」自分の確認。しかし、「罪深い」という確認は、そのいずれとも異なるだろう。弱い自分でも、悪い自分でもなく、罪深い自分。『死に至る病』に従えば、神の観念が抱かれている、ということが、絶望の強度を罪へと高める。だからこそ、神に逆らう、という事態が起こりうるのであり、それが罪なのだ。

【1‐3】 自分を(他者を)信頼することだって、自分を(他者を)尊重することだって、自分を(他者を)評価することだって、(人間関係の中で)社会的に、骨を折り折り学習されていくしかないことなのだ。
そして、自己実現ということだって、個人が一人孤独に自己自身との関係の中に引きこもって成し遂げられる何ごとかなのではない。これもまた、社会的(評価)承認の網の目の中で行われる。

【1‐4】 「認める」という行為を、ホネットは三通りに言い換えている、と考えることが可能だろう。信頼する、尊重する、評価する、という風に。(Selbstvertrauen, Selbstachtung, Selbstschatzung をあえて訳そうとするなら、自信、自尊、自負ぐらいか。ただし、「自信」という日本語はむしろ第三の承認に深く関わり、「信頼」という意味は後景に退くように感じられる。あるいは、「自己自身との肯定的な関係」を全体としてカヴァーする言葉だ、と見るべきか。)
そして、それらの承認は、相互に(双方向的に)起こることだ、というのである。(評価については、一方通行にも感じられるが、評価される側でも、評価する側に評価能力を認めていなければ、評価という行為は成り立たない。評価基準は共有されているのであり、その意味では、一方通行ではない。だからこそ、ホネットは、この社会的(業績)評価という行為を、「連帯」の語で理解しようともするのでもあろう。)
その際、相手へのコミットメントの度合としては、愛における信頼が最も高い(深い)と見てよいだろう。尊重という行為には、どこか、「手出ししない」という、否定的(消極的)な語感がつきまとう ― あなたの権利は尊重します、あなたの自由は尊重します、という言い回しにおいて感じ取られうるように。(その点で、尊重は、寛容に近づく。)それに対して、性愛においては、われわれは、自分のもっとも弱い部分、傷つけられやすい部分までも相手にさらす、あるいは開くのだし、相手のもっとも弱い部分にまで踏み込むのだ。それは、相手への深い信頼なしには成り立たない出来事だ。逆に、強姦というような経験によって、女性は、他者(男性)に対して信頼して心と体をゆだねることができなくなるだけでなく、自分自身の身体への信頼をもまた失い、安心してそれが感じるに任せることもできなくなるのだという。(快原理のみで性愛を説明しようとするならば、それは生物学主義的に一面的だ、と言わざるをえない。)
だからこそ、われわれは ― すべての人を人として尊重しなければならないし、また、そうすることができるのに対して ― すべての人を愛することができないのでもある。稀有のことだとは思うが、一人の人しか愛さない、一人の人にしか愛されたくない、ということが起こりうるのだ。

【1‐5】 他者を信頼し、他者から信頼される経験を通してこそ、人は、自らを信頼することができるようになる。他者を尊重し、他者から尊重される経験を通してこそ、人は、自らを尊重することができるようになる。他者を(公正に)評価し、他者から(公正に)評価される経験を通してこそ、人は、自らを(公正に)評価することができるようになる。
自分を公正に評価する、というのは至難の業だ。自己を知る、とは、自己の事実(昨夜どんな夢を見たか、とか、とか、マスターベーションの際に何を想像したか、とか)を知っている、ということだけでなく、自己を評価できる、ということをも含むだろう。前者はともかくとして、後者は、一人でできるようになることではないだろう。他者に評価され、他者を評価するという経験の積み重ねをも必要とするだろう。それなしの自己評価は、概して、過大評価になったり、過小評価になったりせずにはすまないのではないか。

【1‐6】 自己実現なんて、どうでもよい、とカントやハーバーマスが言っているのではない。とても大切な話題(課題)ではあるのだが、倫理学が引き受けるべきテーマではない、と彼らは考えるのだろう。公正な社会の実現、ということに、課題を限定しようとするわけだ。
 もちろん、ホネットも、自己実現に、内容的に口出ししようとするのではない ― 自己実現の可能性の条件(文法、と呼んでもよいか)を確定することを、課題とみなすのだ。そして、その作業を、承認に注目することで、やろうとする。社会的(業績)評価、人権尊重、愛、この三種類の承認が、歪められることなくフェアに実践される可能条件が整っているとき、ようやく、自己実現も可能になる、とそう考えるのだ。

【2】 「承認依存」ということを、鬼の首を取りでもしたかのように叱りつける人々がいる。それに対してホネットは、「人間は、本質構成的に、他者による承認の経験に依存している」(220,224)とさらっと言ってのける。もちろん、そう言うホネットの方が優しい。
もっとも、そこから、人間に本質構成的に伴う「依存」と、病理的「依存」を区別する、という課題が出てこずにはすむまい。
それは、ホネットが、他方で、「自律」の理念を手放さない、という事実とも関わっている。人間は、自律と依存の間できわどくバランスを取りながら生きているときにこそ、もっとも人間的なのだ、と言うべきなのかもしれない。(依存を叱りつける人に対しては、スーパーマンのように自律している(と思い込んでいる)人こそ、病理的なのだ、切り返せばよいだろう。)

【3】 「コミュニケーションとは承認をめぐる闘争だ」と言ってしまった手前、コミュニケーションとは何か、という問いを避けて通ることはできない。それは複数の主体が合意形成をめざしてなす間主体的な実践、という風に描き出せるものか、そうではなくて、「承認をめぐる闘争」なのではないか ― そうホネットは問題提起しているわけだ。コミュニケーションに臨む態度としては、前者こそ、正しい態度なのであって、後者はあるべき姿からの逸脱だと、そう言えるか。そうではなく、人間として生きることとは、闘いの中に身を投じることだ、などと言ってしまうと、それは野蛮なヒロイズムか。なにしろ、闘いは必ず敗者を生むのであり、そうでない闘いなんて八百長なのだから。そうではなく、人生とは(他者と)つながろうとするいじらしい努力こそ、それなのか。
後者の答えは、やはり、人生を一面化していると思う。それも、ロマン主義的に。その際、「人生=つながりの追及」という解釈に強力な支持を与える経験が、「愛」であるわけだが、まさにそうであるからこそ、ホネットは、愛の経験をすら、いやそれをこそ、「闘争(承認をめぐる)」と特徴づけるのだ。愛の伝道者には、お引き取り願おう。愛するとは、認められよう(愛されよう)とするいじらしい悪戦苦闘なのであって、それがかなわない苦しみは「片思い」と呼ばれる。(この文脈で、コミュニケーションの理論家であるルーマンが愛について何を語っているかという問いには、とても興味をそそられる。)

【4】 承認の三つのタイプのうち、資本主義ということに最も深く関わるのが業績評価であることは、一目瞭然だろう。資本主義社会では、フェアな業績評価が、なぜ構造的に歪められ、妨げられてしまうのか ― これは大問題だ。
 それに対して、「愛」という承認は、近代化において一定の解放をみた、と言えるだろう。イエとイエの契約としての結婚から、個人と個人の恋愛へ。しかし、そこでも、現代の資本主義は、核家族・専業主婦という関係を行き渡らせることで、承認を歪める力を行使しているのだ。
その点、人権の尊重は、近代社会と最も親和的だ。近代の理念は、この型の承認とは問題なく両立するだろう。


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 今回も沢山の「論点」が出てきました。
 以下、思いついた順にわたしの感想を…。

【1-5、1-6】 「自己実現」の用語がもう一度出てきました。
 この語についてWikiを参照すると、
 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%87%AA%E5%B7%B1%E5%AE%9F%E7%8F%BE
「もともとは心理学の用語で、ユダヤ系のゲシュタルト心理学者で脳病理学者でもあったクルト・ゴルトシュタイン (Kurt Goldstein) が初めて使った言葉。(略)ゴルトシュタインがナチの迫害を逃れてアメリカへ渡った後、「彼の教え子の一人カール・ロジャーズが、これを、人が自己の内に潜在している可能性を最大限に開発し実現して生きることとして概念化し、これをもとに「健全な人間は、人生に究極の目標を定め、その実現のために努力する存在である」としたことで、この言葉が世に知られるようになった。」(太字正田)
 とあります。ゴルトシュタイン―ロジャーズのリレーで形成されたそうです。その後マズロー先生が使用されたそうです。ふーん。
 この文章に限っていうと、「健全な人間は、人生に究極の目標を定め」ってそんな高級な人はどれほどいるんでしょうね?やっぱり先生方、自分自身のことを言ってないでしょうか。いやこれは藤野教授のことじゃなくゴルトシュタイン、ロジャーズ、マズロー先生のことですけど。あたしが低レベルすぎるんですか。
 そこまでは言わなくて、「成長する喜びを知覚しながら仕事をする幸福感」というのなら、「あり」だと思うんです。「脳は貪欲なまでに成長を求める臓器」といいますから。そこでは、上司やお客様、周囲の人の反応がやはり自己の成長の指標となります。

【1-6】自己実現は、倫理学が引き受けるべきテーマではないとカントやハーバーマスは考えた。彼らは、公正な社会の実現、ということに、課題を限定しようとした。
 いいんじゃないですかね。わたしは心理学(自己啓発セミナー関係を含む)の世界の、セミナー行って自我がブワーッと膨れあがったようになった異様な人をここ10数年、見続けてきました。一度そのような人工的なナルシシズムのような状態になった人にたいする解毒剤はないのです。往々にして富裕層がそういうセミナー行くんですけどね。だから自己実現なんて、煽らんでよろし。「公正な社会」のほうがはるかにすきです。
 

【3】コミュニケーションが合意形成をめざしてなす間主体的な実践なのか、それとも承認をめぐる闘争なのか。あとのほうだと考えると、TVの討論番組などをみている時におもしろいです(あんまり見ませんが)

 しかしこのブログで2010-11年に取り上げたU理論のように、延々と対話をすることによって合意形成をしましょう、という一派の人がいらっしゃり(ハーバーマスはそれの親玉のようだ)、「闘争」と言い切ってしまうと身も蓋もないではないか、という反論もあり得るでしょう。
 そこは、ホネットとハーバーマス不一致点なんでしょうか。


【1-4】認めることの定義の1つとしての「愛」。
 確かに藤野原稿の中にもあるように、性愛は、「認めて欲しい」という感情のもっとも強烈なものだ、と思います。はい。
 たぶんそれがそこまで強烈なのは、種の保存の必要上そういうふうに本能がプログラミングされてるんだと思うんですけどね。性的マイノリティの方々つっこまないでくださいね。近年ではスマホやゲーム、ITのツールのほうがそれを上回るドーパミンを分泌させてくれるので、困っていますね。
 ただやっぱり「愛」ってそれ以外のものもあるでしょう、と妙にそこに拘ってしまうわたしです。
 例えば現役マネジャーから、「部下をあえて『叱る』とき、そこに『愛』がなかったら、やれないですよね」という言葉が出るとき、それを否定できないわけです。
 でやはり、マネジメントの世界では、ひょっとしたらホネットも想定しなかったような、家族よりはやや薄い「親密圏」が「承認」によってつくられるのであり、それは外集団と比べれば依怙贔屓と言えるかもしれない。よその部署の部下はうちの部下ほど可愛くない、なんてことは普通にあるかもしれない。ただ「内集団」の中では公正さを重んじないと運営できないでしょう。それを欠くと深刻なダメージが起きる、これは一度経験してみると身に沁みてわかることだろうと思います。
 
【3】「『愛の伝道者』には、お引き取り願おう」だって。えーんえーん。


 わたしが「愛」にこだわるもう1つの理由として、今日フェイスブックでみたアインシュタインの「愛」に関する言葉があります。
 アインシュタインが娘に宛てた1400通の手紙のうちの1通が「愛」に関するものだそうです。
 http://ameblo.jp/deguchng/entry-12100122049.html
 (出口弘オフィシャルブログ 2015年11月27日)

 ここでアインシュタインは上記のブログからの孫引きで恐縮ですが、

 「愛」のもつチカラを述べるとともに、

 「恐らく私たちにはまだ、この惑星を荒廃させる憎しみと身勝手さと貪欲を完全に破壊できる強力な装置、愛の爆弾を作る準備はできていない。」


 この言葉、21世紀を生きるわたしたちはちょっとロマンを感じませんか?


正田佐与
 

お世話になっている皆様


 おはようございます。
 正田です。
 
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 本日の話題は:

■師走に考える「労働と管理と愛」の話

■読書日記『発達障害の謎を解く』
 ―「自閉症スペクトラム4%時代」には、何をすべきなのか―

■「ホネット承認論」藤野寛教授より講義原稿をいただきました
 
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■師走に考える「労働と管理と愛」の話

いよいよ今年もあと1か月となりました。皆様、いかがお過ごしですか。
 先月の勤労感謝の日、わたくし正田のブログにこんな記事をアップしたところ、思いがけず大きな反響がありました:
 
◆マネジメントに「愛」を入れることは適切か?
 http://c-c-a.blog.jp/archives/51926558.html 

 フェイスブックで多くの方から賛同いただき「シェア」していただいたほか、1人の読者の方から心のこもったメールをいただきました。それに対するご返信でもう一歩踏み込んだ表現をしました:

◆「愛の技術」「愛を力に変換すること」―技術屋からY子さんへのメール
 http://c-c-a.blog.jp/archives/51926881.html 

 これらのタイトルだけ見ると突拍子もないことを言っているように見えるかもしれません。しかし、過去に「承認マネジメント教育」を受け、一定期間以上継続して実践されているお客様、受講生様方は、恐らくごく自然に受け取っていただけると思うのです。「承認」が行き渡った職場は、独特の「親密圏」となります。
 それが依怙贔屓の温床にならないのか?と言えば、もしそれがあれば依怙贔屓の対象にならなかった人への「承認欠如」となる、ということを意識づけすることでカバーできるでしょう。「承認」は「愛」であると同時に「公正さ」を実践者に繰り返しリマインドするものでもあります。
 またその「親密圏」は、従業員個々が職場とは別に家庭を営むことと容易に両立し、むしろそれが前提となるのでワークライフバランス的にも上手くいく例が多いです。
 マネジメント教育の世界であまりこうしたことを提唱する先例がないので、また既存の理論とも矛盾を来すようなのでちょっと「冒険」ではあるのですが、過去のマネジャー教育での経験に照らして真実だと言えることは言っていきたいと思います。
 DVや児童虐待、家庭内の悲劇の激増する時代に―。

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■読書日記『発達障害の謎を解く』
 ―「自閉症スペクトラム4%時代」には、何をすべきなのか―

 久々に「発達障害」についての読書日記です。
 従来、自閉症スペクトラム障害(ASD)の出現率は1〜2%という数字が報告されていました。
 これと、注意欠陥障害(ADHD)の報告されている出現率4〜5%と合計すると5〜7%となりますが、実感値としては職場の働く人のほぼ1割に発達障害かそれに近い、指導やマネジメントする上で特別な配慮の必要な人がいる、ということをお伝えしてきました。
 本書では、個別地域での詳細な調査から「ASDの発生率4%」という最新の数字を紹介しています。この数字に専門家の間でも「実感値に近い」という声があるそうです。
 そうした時代にわたしたちは何をすべきなのでしょうか。

◆自閉症スペクトラム4%時代到来。多様性の理解は進むのか―『発達障害の謎を解く』を読む
 http://c-c-a.blog.jp/archives/51926078.html 

 なお昨年来、発達障害の当事者の方やそのご家族の方から丁寧なメール、メッセージをいただき、「当事者でないのにこんなにこの問題を深く探求している」と、このブログを高く評価してくださいました。

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■「ホネット承認論」藤野寛教授より講義原稿をいただきました

 一橋大学大学院言語社会研究科の藤野寛教授(現代ドイツ思想)より、「ホネット承認論」に関する同大学での講義原稿をいただきました。
 アクセル・ホネット(69)は、同じフランクフルト学派のハーバーマスとともに、現代を代表する思想家といってもよいでしょう。
 ISが猖獗を極める現代、それらの思想はどんな意味をもってくるでしょうか。原稿のご提供に感謝して、ご紹介したいと思います。
(なお所々読者のわたしの変なツッコミが入っているのはご愛敬です^^)

◆ISとテロの時代に求められる「承認」、批判的社会理論と改良理論―一橋大学・藤野寛教授講義原稿(1)
 http://c-c-a.blog.jp/archives/51926445.html◆基本的人権、コミュニケーションと「承認をめぐる闘争」―一橋大学・藤野寛教授講義原稿(2)
 http://c-c-a.blog.jp/archives/51926626.html 

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