正田佐与の 愛するこの世界

神戸の1位マネジャー育成の研修講師・正田佐与が、「承認と職場」、「よのなかカフェ」などの日常を通じて日本人と仕事の幸福な関係を語ります。現役リーダーたちが「このブログを読んでいればマネジメントがわかる」と絶賛。 現在、心ならずも「アドラー心理学批判」と「『「学力」の経済学』批判」でアクセス急増中。コメントは承認制です

2016年01月

 一橋大学大学院言語社会研究科の藤野寛教授よりいただいた、「ホネット承認論」最終講義の講義原稿(1月25日分)です。


 前回に引き続きホネットの新しい著作『社会主義の理念』をひもときながら、ホネットが社会主義をどうみているかを解説していただきます。

 ここでは「社会的自由」とはどういうものか、が問われます。
 また、ハーバーマスも論じた「コミュニケーション」というものの意義も…。(わたし的には非常に自らの生き方を勇気づけられたフレーズでした)


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「承認論」講義(13)                                             25.1.2016

ホネット『社会主義の理念』を読む (2)

Axel Honneth: Die Idee des Sozialismus. Versuch einer Akutualisierung, Frankfurt am Main 2015, S.11-166.

【1】 本書でホネットは、社会主義を、フランス革命 ― ロシア革命ではなく ― このかたの歴史過程の中に位置づける。「自由・平等・博愛」というフランス革命が掲げた理念が議論の出発点に置かれるのだ。これは、理念である。(事実ではない。)これから実現されるべき理念であって、「絵に画いた餅」と言えなくもないが、しかし、1789年に人々によって受け入れられ、人々を動かした、という点で、経験内容をなす。経験的事実の中に食い込んだ、と言ってもよいだろう。(ここで、人々とは誰のことか、という問いは残る。フランス革命を今日まで認めていない人々だっているだろう。しかし、フランスという国(共和国)は、この革命の上に建てられているのであり、これを建国の理念としているのだ。)そして、これは、フランスに限られた話ではなく、この理念の実現をめざすことが、ヨーロッパ近代全体の傾向となっている、と言って誤りでないのではないか。規範は、人々によって受け入れられたとき、事実となる。「規範的事実」とでも呼ぼうか。

 何が言いたいのか。社会主義は、フランス革命の理念の実現のプロジェクトと受け止めるなら、単なる空想ではなく、言うなれば、事実によって下支えされている、ということだ。


【2】 この「自由・平等・博愛」という三つの理念は、横並びにして一気に口にされるのを常とする。つまり、この三つは、どの一つをとっても、ないがしろにされてはならない、ということだが、しかし、そこに問題がないわけではない。この三つは、必ずしも、互いに友好関係にあるわけではない、という問題だ。ほおっておいても、三者が手に手を取り合って仲良く実現されてゆく、というような関係にはない。互いに矛盾し、対立関係にはいる、ということだって少しも珍しくない。

 現実には、どう進展したか。結局、このうちの自由だけが追求の対象になってきたのではないか。その際、自由とは、自由競争の自由であって、個人が競争に参加する自由だった。(社会主義者からは、そういう自由は、従来、「ブルジョア個人主義」とか呼ばれ、否定的扱いを受けてきたのだろう。)そして、平等という点が考慮されずに自由競争が繰り広がられると、必然的に、自由は、一部の人間だけの自由となる。つまり、競争で負けた大部分の人々の不自由が帰結する。もちろん、そこで「不自由」と言われる場合の「自由」とは、「競争に参加する自由」という ― 狭い意味での ― 自由ではもはやないかもしれない。もう少し中身の詰まった「積極的な自由」だ。例えば、自己実現の自由、とか。

 もし、ヘーゲルが、「人間の歴史とは自由の実現のプロセスだ」と発言した際に、単に、自由競争に参加する自由を考えていたのであれば、そこでは、フランス革命の理念のうち、平等・博愛は閑却していたことになり、ヘーゲルは、革命の理念に対する裏切り者である、という話になるだろう。しかし、実際には、ヘーゲルの自由理念はもっとふくらみのあるものだったのだろう。つまりは、あとの二つの理念とも両立するような、それらをも含意するような自由だったのだろう。一言でいえば、「社会的自由」。そういう自由の実現をめざすという仕方で、ヘーゲルに続く、「左派」と呼ばれる人たちも、社会主義というものを思想・信条としていったのに違いない。

「社会的自由」とは、どういうものか。「人々とのつながりの中でこそ実現される自由」というものだろう。人々とのつながりとは「拘束」であり、だから自由の制限である、と考えるのではなく、つまり、自由か拘束(つながり)か、と二者択一で考えるのではなく、つながりの中でこそ個人としての自由も実現する、と考えるのだ。


【3】 「社会的」とはどういうことか、という問いに対する回答案は、本書に示されている。三つの理念のうちでもとりわけ「博愛」と密接に関係する言葉として解釈するという仕方で。つまり、互いに助け合い、補い合う、というような姿勢だ。「社会的」とは、ただ単に、複数の人々によって構成されている、という(事実確認的な)意味では、もちろんない。その複数の人々が互いに競争しあっている、というだけでなく、他者を自らの目標達成のための手段として利用しようと虎視眈々と狙っているという、(カントが目の敵としたような)関係でもない。本書もおしまいに近づくと、自由・平等・連帯と三つ並べる言い方が連発されるのだが、そのように人々が連帯関係にあるような社会の実現こそがめざされている。その意味でこそ、「sozialな社会」とか、「社会をより sozial にする」というような一見奇妙な表現も、十分成り立ちうることになる。

(「社会を社会的にする」というのは、いかにも奇妙な言葉遣いだ。なにしろ、社会は事実として社会なのだから、それをことさら社会的にする必要などあろうはずがないではないか。しかし、世の中はこの種の言葉遣いで溢れかえっている。子供は子供らしく、女は女らしく、日本人は日本人らしく、家族は家族らしく、国家は国家らしく(あるべし)、という具合だ。りんごはりんごらしく、という話になっても、少しもおかしくない。映画は映画的であるべきだ、という話もあった。ことほど左様に、名詞が一つあれば、その名詞らしくあるべし、名詞「的」であるべし、という要請が立てられる。これは、本質主義的な考え方である、と言うことができる。つまり、何かあるものがあると、その本質が想定され、本質からの逸脱との区別がなされ、本質があるべき姿として要請され、本質からの逸脱は叱りつけられるのだ。その際、本質なるものが、常に、「作り出される」ものであることは、ほとんど自明だろう。この区別は、恣意的だ、ということだ。つまり、本質とは、本質と「される」ものなのだ。本質主義とは構成主義だ、と言ってもよい。「社会/社会的」の例からも見てとれるように、この本質主義的思考なるものは、われわれが言葉を使って考えコミュニケーションする限り、避けられないものなのではないか。人間の思考は、本質主義的となることを免れることはできないのだ、と言ってもよい。それを避けたければ、言葉を使うことをやめて、数字だけで考えコミュニケーションするしかあるまい。実際、2について「2らしくあれ(2的であれ)」という規範的要請を立てることは、ナンセンスだろう。)

 ネオリベラリズムが批判される際に光があてられるのは、通例、一面的な自由の追求は不平等を、格差を生み出す、という論点だろう。しかし、ホネットは、自由追求の一面的暴走が ― 平等よりもむしろ ― 博愛(連帯)を不可能にしている、という点をこそ撃つ。ホネットは、人々が平等に生きられる社会、というよりは、連帯の関係の中で自由を実現していくような社会をこそ希求している。彼のリベラリズム批判は、そういう、博愛主義・社会主義からなされるリベラリズム批判であるわけだ。


【4】 本書は、大きくいって、三部構成になっている。まず、もともとの社会主義の理念がいかなるものであったのか、それが、フランス革命の理念にいかに深く結びつくものであったのか、が明らかにされ、次に、その理念実現の試みが、しかし、19世紀の社会状況によっていかに歪められていったのか、が跡づけられ(従って、これは、歴史の再構成の作業となる)、そして第三に、ではどうやって、再度やり直せるのか、の提案がなされる。
ここまで1−4に書いてきたことは、主に、第一の論点だったわけだが、その上で、第二の論点、つまり批判的な議論が展開されずにはすまない。そして、その批判は、当然、主要にはマルクス主義を標的として展開されることになる。


【5】 マルクス主義が犯した過ちは、三点に要約される。第一に、経済還元主義であり、第二に、単一的な革命主体(プロレタリア階級)の想定であり、第三に、歴史の客観的進歩という科学主義(あるいは、形而上学)的信仰である。もちろん、この三者は、互いに関連し合っている。生産力の発展と労働者階級の階級意識の高まりが歴史の進歩の原動力となる、それを担保する、という風に。そして、とりわけ、このうちの第一の生産力主義が、マルクス主義に「科学」の装いを与え、これは科学だ、との僭称を引き起こす。『空想より科学へ』というエンゲルスの宣言は、大惨事だった、と言わねばならない。本当は、「空想でもなく、科学でもなく」とこそ宣せられねばならなかったのではないか。(そして、現在の経済学は、科学としての経済学というこの信仰を、エンゲルスと共有しているのではないか。)


【6】 その上で、マルクス主義が犯した過ちを一点に集約するならば、解放へのポテンシャルを、経済の領域にのみ見出そうとする経済還元主義に陥っていた点にある、と言うべきなのだろう。それに対して、ホネットがぶつける代案は、「個々の社会領域の機能分化」という考えに基くものだ。近代においては社会の諸領域が ― もちろん、互いに関連し合いながらではあるのだが ― 政治/家族/経済というそれぞれの領域へと独立し、独自の発展を遂げる。(宗教が困るのは、この機能分化の傾向に真っ向から対立する点だ。)そして、そのいずれの内にあっても、解放のポテンシャルは ― 民主主義であれ、女性解放であれ、フェアな業績評価であれ ― 現実化の方向を取っている、と見なされるのである。(マルクス主義は、とにかく、経済の、生産の、労働の領域に世の中を根本的に変えるための可能性を限定せずには気がすまなかった ― 「下部構造」というのが、その際のおまじない言葉だった ― ために、それ以外の領域での変化・変革・発展・進歩には怖ろしく鈍感だったのだ。あるいは、あえて、目をつむっていたのか。)


【7】 ここで、政治・家族・経済(民主主義・女性解放・フェアな業績評価)と並べられることと、ホネットの承認論の間に対応関係があることは、一目瞭然だろう。それは当然であって、ホネットは「社会的なもの」をコミュニケーション関係として、ただし、それを ― 単に、合意形成の骨折り、としてではなく ― 「承認をめぐる闘争」として、考えているのだから、「ホネットの社会主義」が、これら三つの領域におけるコミュニケーション関係における障害の撤去をめざし、その点での前進が「進歩」と考えられるのは、論理的必然なのだ。


【8】 今まで社会主義者であった人たちは、この本の中に自らの社会主義などほとんど再発見できないだろう、とホネットは皮肉っぽく語っている(163)。自分を社会主義者だと思ったことなどこれまで一度もない私には、この本はとても面白かった。この本を読んで、私は、社会主義の「シンパ(Sympathisant)」になった。



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 いかがでしょうか。

 わたしはこれまでも「自由」という言葉のつかいかたにナーバスで、めったにこのブログでも使っていません。昨年2月頃から「ヘーゲル・ホネット承認論」のはじまりにおいてヘーゲルによる「自由」という言葉が独特の使われ方をしていることにも大分くるしんだほうです。

 「自由」は主に「博愛」との間の葛藤を生むのだ。
 また、

 「社会的自由」とは、どういうものか。「人々とのつながりの中でこそ実現される自由」というものだろう。人々とのつながりとは「拘束」であり、だから自由の制限である、と考えるのではなく、つまり、自由か拘束(つながり)か、と二者択一で考えるのではなく、つながりの中でこそ個人としての自由も実現する、と考えるのだ。


 こうした言葉は、わたしには素直に心に響きます。


 ところで、ドイツ語では「博愛」と「連帯」は同じ単語なのでしょうか…個人的には、あまり同じもののようなイメージが持てないのは「連帯」が旧ポーランドの自主管理労働組合の名前と結びついているせいか!?(別に悪いイメージではないのですが;;)そういうイメージの紐づけがない世代の方は、割合「連帯」って抵抗なく使われるかもしれないですね。


【7】の、
「ホネットの社会主義」が、これら三つの領域(政治・家族・経済=民主主義・女性解放・業績評価)におけるコミュニケーション関係における障害の撤去をめざし、その点での前進が「進歩」と考えられる


 このフレーズもいいですね。だからわたしは「コミュニケーションの研修講師」をやっているのだな、と確認できました(*^-^*)



 藤野先生、ありがとうございました!


 一橋大学での講義としては終了、しかし「ホネット承認論」自体はまだまだ続きます。。
 藤野教授は今年新たに「ホネット承認論」についての論考集を刊行されると伺っていますので、そちらを楽しみにいたしましょう。


正田佐与続きを読む


 一橋大学大学院言語社会研究科の藤野寛教授より、「ホネット承認論」の最終講義まで2回分の講義原稿(1月18・25日分)をいただきました。

 「承認論」においてヘーゲルの正統的な継承者とみられる現代ドイツの思想家、ホネットが「社会主義」をどう捉えているか。マルクスがヘーゲルから継承したものは何か、を含め、大きな思想史の流れの中で注目したいところです。

 わたしの理解能力を超えているかもしれませんが、こうして最新の論考をこのブログに掲載させていただけるのは、とても光栄なことです。

 いよいよ、あと2回となりました、藤野教授のご厚意に感謝し、掲載させていただきます。



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「承認論」講義(12)                                            18.1.2016
ホネット『社会主義の理念』を読む
Axel Honneth: Die Idee des Sozialismus. Versuch einer Akutualisierung, Frankfurt am Main 2015,S.11-119.

【1】 この年末年始、私は、ホネットの『社会主義の理念』と、ウエルベックの『服従』(と『地図と領土』)を読んで過ごした。結果として、フランスのことを考えながら過ごすことになった。かたや、1789年のフランスが掲げた理念を考察の起点に据えており、他方は、もちろん、2022年のフランスが舞台になっている。一方が、フランス近代の始まりに関わるとすれば、後者はその「崩壊」に関わる。そして、どちらも面白かった。

 自由・平等・博愛という理念についても、再考する余地はいっぱいあるわけだ。まず、博愛という概念の意味をもう少し、限定し、確定する必要があるだろう。ドイツ語では bruderlich と訳されるようだが、これでは、わかったようで少しもわからない。連帯の同義なのか。

 最大の問題は、この三つを並べたのはよいが、三者が容易には両立(三立?)しないだろう、という点だ。特に、自由が自由競争のそれとしてのみ捉えられるなら、それは結果として巨大な格差=不平等を生み出さずにはすまないだろう。(世界でもっとも自由な国USA(?)は、世界でもっとも巨大な格差のある国だろう。)そして、実際、昨今のネオリベラリズム批判は、もっぱら、自由が格差を生み出すという論点を突いて行われているのではないか。

 この批判は、しかし、偏っていることがホネットを読むとわかる。つまり、彼は、むしろ「博愛」にこそ注目し、ネオリベラリズムは博愛を ― 平等ではなく ― 不可能にしている、という点をこそ、批判するのだ。社会性とは博愛である、として、それは、助け合い、協力(協同)の精神とでも呼ぶべきものなのだろうが、ホネットは、平等な社会、というよりは、博愛を実現する社会をこそ、実現しようとするのだ。

 人間の社会生活について考える場合、「競争」をきちんと主題化することは不可欠だ。ホネットの承認論は、業績評価の重要性を正面から認めることで、競争をはなから罪悪視し断罪した「社会主義」のロマン主義的誤りを修正しているしかし、「競争」が、社会生活の構成成分であることは認めつつ、それが「一つの」構成成分でしかないことを、強く主張するのだ。「愛」というのも社会性だし、人権尊重のいうのだって社会性、フェアな業績評価もまた社会性の一つである、そのように、「競争」の意味を相対的に位置づけるのだ。

「われわれは資本主義社会に生きている、だから、そこでは、最大の社会問題とは、労働者の貧困だ」 ― これは、とてもシンプルな主張だ。しかし、その後、環境問題や、資源問題も出てきた。加えて、社会=資本主義社会、という等式は成り立たない。従って、社会的な問題といっても、労働者の貧困という問題に還元しつくされはしないのだ。

 ネオリベラリズム、ということを強く意識した仕事を、ホネットもやっている、ということなのだろう。そのためのコンセプトが、「社会的自由」という概念だ。これをぶつけることで、ネオリベラリズムの自由概念が、いかに狭められた自由概念 ― 自由競争の意味での個人主義的自由概念 ― でしかないかを明らかにしようとしているわけだ。その際、アイザイア・バーリンの提出した論点は素通りされてはなるまい。「消極的自由」だけでは、狭すぎる。かといって、しかし、「積極的自由」は、やばい。「消極的自由」と「積極的自由」は、どちらを選ぶか、という風に論じることのできる二項対立ではないのだ。

「自由」というのは、個人主義的な価値であって、「博愛」というのは、社会(主義)的な価値だ。社会主義は、その意味で、はなから自由の制限、という志向を含んでいる。そう考えると、ホネットの仕事は、一貫している。前著で「自由」という理念を吟味検討し、その上で、今回、社会主義の再検討に取り掛かったのだろう。前著を読んでいないので、推測にとどまるのではあるが。


【2】 この本では、「社会的」ということがテーマになっており、その際、連帯とか友愛という姿勢が問題になっている。しかし、そこでは一面識もない人でも、境遇がもっとも悲惨な人のことを心にかけるというような姿勢が問題になっているのだから、それは「承認」の問題とは言いがたい。相互承認ということと、社会的思いやり(Anteilnahme)とは同じではない。つまり、「社会的」という問題の全体が承認論でカヴァーされるわけではないということだ。自分の面識のある人にしか関わらない連帯というのは、本当のことろで「社会的」とは形容されえないということか。

「社会的」とは、どういうことか。これを、博愛ということとただちに等置することは、すでに、意味の一元化を招来してしまうだろう。エゴイズムということだって、人間の社会性の一面をなす、とは言えるはずだから。つまり、ショーペンハウアーの「ヤマアラシの比喩」が表現する両面性の全体が、「社会性」ということの内実をなす、と理解すべきではないか。(もちろん、つながろうとする面だけを、社会性と考えるなら、それも「あり」ではあろうが。)

 さて、社会主義思想の全体的傾向として、人間のエゴイズムを私的所有の問題と結びつけ、その制限というか、克服というか、そのことで「社会性」の実現が果たされる、というような傾向があったのだろう。しかし、人間の「社会性」というのは、貧困に直面しての助け合い(相互扶助)というようなことに限られる問題ではないはずなのだ。例えば、他者の他性、というような問題。これは、食べるものにもこと欠いて困っている人に直面すれば助けの手を差し伸べずにはいられない、というような問題とは次元を異にするが、しかし、それはそれで「社会性」の問題である、と考えねばならないのではないか。

 ちなみに、そう思って考えてみると、カントの『人倫の形而上学の基礎づけ』における四つの義務の例、そこに、他者の他性の承認、というような問題意識が少しでも含まれているか。

1. 自己に対する完全義務:自殺すべからず
2. 自己に対する不完全義務:自己の能力を伸ばすべし
3. 他者に対する完全義務:守るつもりのない約束をすべからず(嘘をつくべからず)
4. 他者に対する不完全義務:困っている人を見たら助けるべし

 この中で、「自己に対する義務」が他者の他性の尊重というようなこととそもそも何の関係もないことは、言うまでもない。「他者に対する義務」の中には、もちろん、「他者」は出てくるが、しかし、それは、同じ人間同士の倫理である、と言わざるをえない。社会主義が問題になるとすれば、それは、4の例だけか。

 そう思って考えるとき、カントの尊重は、人として尊重することであるわけだから、他者の他性の尊重、ということとは別問題なのではないか、という気すらしてくる。(レヴィナスが他者について語るとき、カントの尊重の倫理に対しては、どういうスタンスを取っていたのか。そこには、そもそも他者は不在だ、とか言って、切り捨てているのか。しかし、絶対の他者、とか言ってしまうと、まるで、宇宙人のような存在になってしまわないか。それでも人間である、と言えなくなってしまわないか。絶対の他者でありつつ同じ人間、という風に考えるのでなければならないはずだ。)

 とにかく、人が人と共に生きてゆく、ということを可能にするためには、私有財産さえ否定されれば一件落着、というような単純な話ではおよそないのだ。政治的=民主的な合意形成、という問題も出てくるし、さらに、社会的な問題(承認の問題)だって、出てくるのだ。


【3】 なるほど、ホネットは、ホルクハイマー/アドルノを、その社会理論が経済主義に陥り、その名前に反して「社会的なもの」を軽視・排除している、と批判したわけだが、その批判は、実は、近代の社会主義の全体にあてはまるのだ。それというのも、近代の社会主義は、その総体において、資本主義批判の理論として練り上げられた、という出生の事情があるからだ。そして、経済理論であろうとしたからこそ、社会主義は「空想より科学へ」などと自称することもできたのである。社会理論を経済理論に還元しようとする傾向は根強い。「承認か、再分配か」という問題提起における「再分配派」も、この例に漏れない。


【4】 デューイの歴史理論において注目されるのは、生産力でもなく、労働者の階級意識(とそれに発する闘争)でもない。コミュニケーションを妨げる障害の撤去だ。その意味でも、ホネットの歴史理論は、コミュニケーション理論である、ということができる。ただし、その際に、コミュニケーションということの意味を、まさに「承認をめぐる闘争」と捉えるのである。単に、合意形成の骨折り、というように、ではなく。


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 いかがでしょうか。

 以下は、正田流我田引水的解説です。


【1】ホネットの承認論は、業績評価の重要性を正面から認めることで、競争をはなから罪悪視し断罪した「社会主義」のロマン主義的誤りを修正している。しかし、「競争」が、社会生活の構成成分であることは認めつつ、それが「一つの」構成成分でしかないことを、強く主張するのだ。「愛」というのも社会性だし、人権尊重のいうのだって社会性、フェアな業績評価もまた社会性の一つである、そのように、「競争」の意味を相対的に位置づけるのだ。


 このフレーズ好きですね。年頭からこのブログで批判している某「学力本」は、結局アメリカのネオリベラリズム(リバタリアン?)思想を計量経済学の手法を「つぎはぎに」使って肯定し教育に持ち込むことを政策化しようとする本だと考えてよいわけですが、それは相対的なものだ、とホネットは言うようです。

 簡単に言うと、社会主義的悪平等だと優秀な生産性の高い人はやる気を失ってしまう。だから優秀な人に「あなたは優秀だね」「生産性が高いね」と言い、賃金でも相応に報いる、というのは「その人の承認欲求を正当に満たす」という点で正しい。
 ただし、そのロジック一本槍でどこまでもそれを推し進めるのは間違いだ。ほかの軸、「愛」「人権尊重」も等分にみなければならない。
 



【2】 「人として尊重」VS「他者の他性の尊重」という言葉が出てきます。

 このブログを読み慣れている方であれば、後者の言葉を「個体差・個別性の尊重」と読み替えていただけるかもしれないですね。

 実は、ここはわたしは藤野教授に同意し、某経済学の大家に異を唱えるところになるかもしれないのですけれども、(お前どっちやねん)カントが最終解だとは、わたしには思えないのです。どうも、わたし的には、カントは人間というものを一律のものとみなしていたように思えるのです。個体差を捨象した人間というものを前提としてルールを設定していた気がするのです。

 ―それは通用する人としない人がいますよ。

 と、某心理学セミナーで「吠えた」ときのような言葉が出てきてしまいます。


 これはホネットの承認の3定義でいうと、(2)人権尊重と(3)業績評価 のあいだの葛藤、というところになるかもしれないですけれども。最近読んだ漫画『ヘルプマン』でやはり、介護の現場での「高齢者を一律に運転から排除してよいか」というエピソードが出て来たので個人的に琴線に触れました、はい。

 「承認社会」とは、(2)人権尊重を前提としつついかに(3)業績評価=個体差の尊重 に寄り添い軸を動かせるか、その微妙なバランスをつねに模索し続けて思考停止を許されない、というものかもしれないです。


 
 藤野先生、このたびもありがとうございました!

 ホネットがみた社会主義、『社会主義の理念』についての論考は次回(次の記事)に続き、そこでホネット承認論講義シリーズは終了となります。



正田佐与
 

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発行日 2016.1.25                  
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 おはようございます。正田佐与です。
 記録的な寒波が襲来し各地で大雪となりました。読者のみなさま、お変わりありませんか。
 神戸は、昨日も今日も快晴です。
 
※このメールは、正田が過去にお名刺を交換させていただいた方、イベントやセミナーにご来場いただいた方にお送りしています。
ご不要の方は、お手数ですがメール末尾にありますURLより解除ください。

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 ┃本日の話題 ☆☆☆☆☆
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【1】 アドラー心理学セミナーでの大爆発。 読者からご反響をいただきました
 
【2】あの“五郎丸ポーズ”はいかにして生まれたか。
   〜考案者のセミナーに行ってきました〜

【3】若者の「育て直し」そして社会の「建て直し」
   〜オキシトシンと行動承認のチカラ、手遅れにならないために〜
 
【4】今週末、正田が神戸ベンチャー研究会にて登壇させていただきます!

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【1】 アドラー心理学セミナーでの大爆発。 読者からご反響をいただきました
 
 前号のメルマガ(1月19日発行)で、わたくし正田が「アドラー心理学セミナー」で大爆発してしまったお話をご紹介させていただきました。
 詳細はコチラ
◆「子どもさんは大いにほめてください。そして叱ってください」―正田、アドラー心理学セミナーで吠えるの記
>> http://c-c-a.blog.jp/archives/51933511.html 

 「知命」を2歳も過ぎていくつになっても大人げない振る舞いであります。
 「アンガーマネジメント」そして「叱らないほめない」全盛の時代。「金持ち喧嘩せず」で何事にもゆったり動じない、受け流すことが勧められます。「傾聴研修」では「批判しない」が求められます。こんな「怒った」お話が読者の方に受け入れられるのでしょうか…と危惧していましたら、意外にも心優しい読者の方から反響をいただきました。
 管理職研修が専門のわたくしが触れあってきたのは、職場にもご家庭にもそして地域社会にも高い当事者意識をもち、コミットする姿勢の人たちです。その方々が、「正田の大爆発」に温かい眼を注いでくださいました。

 ご本人様のご了解をいただいて、コメントをブログに掲載させていただきました。
 メールニュース読者の皆様、もしお心に響くところがございましたら、ご覧ください:

●「誰もが活躍できる社会」とは「承認社会」―NYさんからのメッセージ
>> http://c-c-a.blog.jp/archives/51933591.html
●「勇気を持って指摘されたからこそ、いずれ考えを改める」―永井博之さんからのメール
>> http://c-c-a.blog.jp/archives/51933656.html 

 新しくこのメールニュースをご覧になっている皆様も、もし何かお感じになるところがございましたら、ぜひinfo@c-c-a.jp へご意見ご感想をお寄せくださいませ。

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【2】あの“五郎丸ポーズ”はいかにして生まれたか。
   〜考案者のセミナーに行ってきました〜

 昨年、ラグビーW杯で強豪南アフリカ共和国代表から勝利をもぎとり、日本中を熱狂させた日本代表。
 そのメンタルコーチ・荒木香織氏(兵庫県立大学准教授。女性です^^)の講演会に去る20日、行ってまいりました。
 あの“五郎丸ポーズ”の由来をはじめ、大変エキサイティングな講演内容。
 ブログに掲載させていただいたところ、多くの方に好感していただきました。
 読むと元気になる「あの勝利」のお話。よろしければご覧ください―

●躍進を支えたリーダーシップの変遷 ケアから主体性へーラグビー日本代表メンタルコーチ・荒木香織氏講演
>> http://c-c-a.blog.jp/archives/51933717.html

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【3】若者の「育て直し」そして社会の「建て直し」
   〜オキシトシンと行動承認のチカラ。手遅れにならないために〜

「今の若い人には実行力がない」
 企業人からはよく、嘆きのお声がきかれます。
 また、
「反応が薄い。何を考えているか分からない」
これも、近年非常によくきかれる上司の方のお声です。
 これらが今どきの“悪書”が主張するような「ほめる教育」の弊害なのか?といいますと、それは完全な原因帰属の間違い。
 ほんとうは、「今の若い人」が育った時代の複合的な環境要因があるのです。
 ともあれ、こういう若者たちに対してどんな処方箋が出せるのか?
 最新の科学的知見は、どうもこういうところに落ち着くようなのです・・・
 賢明な読者の皆様、この「答え」をどうか皆様のお知恵で活用なさってください:

●若者の「育て直し」にはやっぱり「行動承認」と「オキシトシン」
>> http://c-c-a.blog.jp/archives/51933732.html 

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【4】今週末、正田が神戸ベンチャー研究会にて登壇させていただきます!

 
 神戸ベンチャー研究会。神戸・兵庫地域でのベンチャー育成を担って今年、設立15周年になられます。
 わたくし正田の畏友にして受講生・松本茂樹先生(関西国際大学経営学科長)が、銀行支店長時代に設立されました。以来月1回の例会を神戸で欠かさず続けてこられました。
 そこでは、今でこそ普通の技術になってきた「ウエラブルコンピュータ」がまだ「はしり」の時代、神戸ルミナリエに連動した「イルミネこうべ」というプロジェクトに結実させ、やがて紅白でアイドル歌手の電飾としてブレイクする―など、現代のおとぎ話のような成功物語があります。
 わたくしも過去には「神戸ベンチャー研究会」の世話人をつとめさせていただいたり、駆け出しの頃からお世話になった、「古巣」のようなところ。
 来る1月30日(土)13:00〜17:00、神戸市産業振興センターにて、その神戸ベンチャー研究会15周年記念例会が行われます。正田はそちらで「行動承認」についてお話させていただくことになりました!
 わずか15分のプレゼン時間なのでかなりの駆け足となりますが、「行動承認」について少しでも触れてみたい、という方はどうかご来場ください。会場で書籍販売もある予定です。
 詳細とお申し込みはこちらから
>> http://kobeventure.jp/  (なお正田登壇は15時ごろとのことです)


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 ┃今日の一筆箋  
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今号より、メールニュースのデザインを一新させていただきました!
これまで、「体裁にこだわらず、お客様に真心から自分の言葉でお伝えしていくことを大事にしよう」と、ほとんど「デザイン不在」の形で手作り風のものを発行させていただいてきましたが、心優しい友人が見かねてデザインをしてくれました。出来栄え、いかがでしょうか。

そして、このメールニュースにタイトルをつけたいと思います。「○○通信」や「××メールニュース」など…。読者の皆様、ぜひお知恵をお貸しください!
あなたが「このメールニュースはこんなイメージ」と思われるようなタイトルがありましたら、info@c-c-a.jp まで(このメールへのご返信で結構です)お寄せください。


┌─<<現役マネージャー必読!>>──────────────────>
│  近著『行動承認―組織の能力を最大化する「認める力」』
│  http://www.amazon.co.jp/gp/product/4434198572 └──────────────────────────────────>


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100年後に誇れる教育事業をしよう。

 発行者 正田佐与承認マネジメント事務所代表 正田 佐与

◇―――――――――――――――――――――――――――――――――◇
このメールは転送歓迎です。

 昨年末、佐賀県の研修業、宮崎照行さんより、
「教育困難校の高校でビジネスマナーを教え、『行動承認』によってヤンキーの生徒さん方の行動を変容させた」

というお便りをいただきご紹介しました。

 新たな実践経験談 ”教育困難校”と「行動承認」―佐賀県・宮崎照行さんのメールより

 それへのお返事の中で、正田は

「この手法はこの社会を建て直す力のあるものだと、私は信じてるんです」

ということをお書きしました。

 また、

「承認企業は若者の最後のセーフティーネット」

ということを、このブログで今年の年頭に書かせていただきました。

厳しさの復権、異論叩き、最後のセーフティーネットー力の限りお伝えし続ける「承認2016」


 それらは例によって(裏づける事例はいくつかあるにせよ)漠然と直感で言ったものですが、それを裏づけてくれるような知見が、やっぱりありました。

 「愛着障害」により「少年犯罪」に走る少年・若者をどう更生させるか。そこに、「行動承認」プラス「オキシトシン」が大きな役割を果たすようだ、というものです。いわば「最悪の状態」になった子を救える最後の手法であるようなのです。

 http://www.nhk.or.jp/gendai/kiroku/detail_3613.html

 1年ほど前のNHK「クローズアップ現代」の放送内容。
 フェイスブックのお友達のシェアに感謝しつつ、お友達でない皆様のために、改めてこのブログに記録しておこうと思います。

 
 この番組では、子供のころに親に愛されず、暴力を振るわれたりネグレクトされていたために脳に大きな障害を負った少年少女を取り上げます。

 脳科学研究によるとそうした子供たちでは、脳の前頭皮質の体積が普通の子供より小さくなっており、また線条体の反応が小さくなっている、とのことです。

「これがうまく働かないと、良い行いをして褒めても響かない。
悪い行いをしたときにフリーズといいますか、行動を変えることを止めてしまう、そういうことがあり得る。
ささいな情報で逆ギレしてパニックをよく起こしてしまう。」

と、福井大学子どもの心の発達センターの友田明美教授。


 ほめても響かない。それは、行動変容を起こさせる有効な道筋が閉ざされてしまっている、ということを意味します。そういう子供さんに何ができるというのか。

 
 ここで、「オキシトシン」という解がひとつ出てきます。
 このブログでも度々登場する、信頼ホルモン、共感ホルモン、愛情ホルモンなどと言われるオキシトシン。
 これを薬剤として投与することが3年ほど前から行われています。

 オキシトシンは線条体に強く働くので、脳機能回復に良い効果が見込まれるのではないか、といいます。

 
 もうひとつのアプローチは、人間関係の中での愛着形成。施設の職員や心理士、そして学校の教師などとチームを組んで、誰かが必ず少女に関心を抱いている環境を作り、幼いときに育まれてこなかった愛着の形成を促そうとするのです。

 問題を抱えた子が周りの子供との間に愛着が形成されたとみられる行動を取った場合。
 たとえば同じ施設の4歳の子がおしっこをしたので、着替えさせて、横に寝かせてやった。するとその行動を「是認」してやる。必ずしもほめる言い方でなくても構いません。でも、あなたは良いことをしたんだよ、それでいいんだよ、という意味のことを言ってあげる。すると、本人も「これでいいんだ」と思い、その行動が強化される。

 要は、「行動承認」なのです。「愛着のある行動」というターゲットの行動をきちんと絞り込めば、そこに「行動承認」を使ってやることで、愛着障害で脳機能の低下した子供さんのこともじわじわと良い方向に導いていける。

 非常に辛抱づよいプロセスと思います。また、そのとき使う「是認」の言葉は、「すごーい」みたいな、あからさまな、けたたましいほめ言葉では全然響かないだろうなとおもいます。放送では、「その子はあなたに頭が上がらないね」と、第三者メッセージと結果承認が混合したようなものを使っていたようです。

 
 おわかりでしょうか。

 今どきの、親御さんがスマホに夢中で子供さんを碌にみていないような時代では、子供さん全員がかるい愛着障害になってしまうのではないかと私は本気で心配しています。無反応/反応が薄い、だったり、行動の抑制がきかなかったり修正されるとキレてしまったり。(「反応が薄い」については実際、今上司の側から非常によく聞かれる話です。)そしてその子たちの育て直しに本腰を入れて取り組めるのは、少人数制を採用している大学か、あるいは企業に入社して良い上司の管理下に入ったとき、だけなのではないかと。幸運にしてそうでなかった子は、「生きる力のない若者」として見殺しにされるのではないかと。

 だがそこで、「行動承認」をきちんと理解している教員や上司であれば、その子を改善させられる可能性はあるのです。
 もちろん、もっと早い段階で、どの指導者もそういう介入ができるようであってほしいとせつに願います。

 だから「少人数学級制」。って言いたいなあ。


 
 また、これまで「13年1位マネジャー輩出」―リヨンセレブ牧様での事例を「13年目」のそれとみなさせていただいております―は、こういうメカニズムの積み重ねだったと思います。
 もちろん、ハイパフォーマーをもっと伸ばした事例も多いのですが、「下」のほうの人たちを底上げした効果も大きかった。それは、それまでの人生で親ごさんを含めて指導者に恵まれなかった人たちにとって、本当に「セーフティーネット」的な役割を果たしたでしょう。

 
 だから、この詭弁と混乱の時代に「行動承認」に出会って来た人たちへ。
 どうか、その出会いを誇りにしてください。そして、やめないでください。



正田佐与

 

 ラグビー日本代表メンタルコーチ・荒木香織氏(兵庫県立大学環境人間学部健康・スポーツ心理学研究室准教授)。
 といっても「ぴん」とくる方はまだ少数かもしれません。恥ずかしながらわたしも講演を聴くまでは存じませんでした。

 あの「五郎丸ポーズ」を考案した人、というと、「へ〜」となられるでしょうか。
(ちなみに「五郎丸ポーズ」は荒木氏によると、マスコミの勝手な造語で、本来は「プレ・パフォーマンス・ルーティーン」というそうです。五郎丸選手だけでなく、他の選手も色々独自のものを作って活用しているそうです。本記事の末尾に「五郎丸ポーズ」の解説のお話も入れさせていただきました)

 で荒木香織氏は下のお名前が女性みたいですが本当は男性だった…というのがよくあるオチですが実際は子育て中の細身のれっきとした女性です。
 昨年日本中を沸かせた南ア戦のあと、惜しくも敗れたスコットランド戦には荒木氏はお子さんを連れてきた都合で帰国してしまっており随行できなかったことが残念、というようなエピソードも語られました。

 昨日行われた兵庫県経営者協会主催の荒木氏の講演会のお話を、ご紹介させていただきましょう。
 れっきとした最新スポーツコーチングの、ある”負け癖チーム”を「勝利」に導くまでのお話です。


 お話は2012年、エディー・ジョーンズ氏が日本代表ヘッドコーチに就任するところから始まります。

 それまでエディー氏はW杯代表チームのヘッドコーチとして13勝1敗。日本代表チームは1勝21敗。
 「勝ち」を知らないチームにどうやって勝利を経験させるか、がポイントになりました。

 「選手のパフォーマンスは、個人の特徴と環境の掛け合わせで決まる」と、荒木氏は言います。

 (=体格、集中力など)×環境(コーチ、チームメイトの言動)=行動(パフォーマンス)

―言わずもがなですがこのあたりビジネスでも一緒ですね。いい素材の社員を採っても環境が悪ければ伸びません。ダメかと思われる社員も環境が良ければ伸びる可能性があります。だから環境づくりは大事。そして環境の多くは管理職で決まります。

 このあともポイントかと思いますが、今はW杯優勝の常連であるあのニュージーランド代表の「オールブラックス」も一時期低迷期があった。そこから躍進した時に改革したのが、「リーダーシップグループ」をつくることだったそうです。
 すなわち、
・コーチングスタッフのリーダーシップ
・選手自身のリーダーシップ

―ポイントかなー、というのは、わたしは基本、管理職教育で企業様に関わるわけですが、管理職教育がある程度すすんだ段階で本当はサブリーダークラスに対しても教育を施すのが理想だからです。ほんとうは職場の「環境」ということを考えると、サブリーダーぐらいまでが「環境」の大きな要素といえるでしょう。昨今の研修費の削減や年単位で新しい業者、新しい考え方を取り入れてしまう研修採用の仕方を考えると、なかなか管理職〜サブリーダークラスまで一貫した教育というのはできません。はい、ぼやきです


 ここで「変革型リーダーシップ」という概念が出てきます。

 「リーダーの役割は、フォロワーが組織のため私利・私欲を超越することにより持ち合わせた能力を最大限に引き出すことができるよう、情緒的な訴求を通じフォロワーを鼓舞させること」

と、荒木氏は言います。

 これをもう少しかみくだいた「4つの要素」というのがあります。

1.理想的な影響力
 ロールモデルとなる行動をもって、信用、信頼ができ誠実であることをチームメイトに表明する。
 有言実行、道徳、規律、倫理的、基準が高い
2.鼓舞するモチベーション
 リーダーの行動がチームの自信や楽観性につながる。
 チームに対し到達点を明確に表明する。
 チームが高い基準に達するよう励ます
 情熱、モチベーション
3.思考力への刺激
 リーダーがチームに対して「あたりまえ」に疑問を持つよう促すことにより、自分自身について省みる。
 また意志決定に貢献するように仕向ける。
4.個々への配慮
 個々のチームメイトへの関心を示し、ニーズと能力を理解する
 共感や同情を表明し、個人の達成や発展のためのメンターとして振る舞う


 また、リーダーに不可欠な感情知性というのがあり、それは
  自分理解力
  自己制御力
  モチベーション 
  共感力
  社会的スキル
 だそうです。

 「リーダーシップはスキルとして習得できる。五郎丸選手などは当初、弟キャラで、到底リーダーという器ではなかった」と荒木氏。

 そこで、JAPANのリーダーシップは2012-2015の間にどう変遷していったか?というお話。
 この「経年変化」の部分がわたしには大変興味深かったです。

 「勝ちの文化をつくる」 2012&2013

 ここでの柱は、
 ・国歌斉唱(君が代を他国代表の国歌のようにきちんと歌う。意味をレクチャーする)
 ・前向きな言葉をかける、ほめる(それまでネガティブな言葉が多かったため)
 このほか、
 ・Buddy System 
  (2人組で練習前のミーティングからキーポイントを確認する、練習後のフィードバックをクラウドで行う)
 そのフィードバックの中でも、「私たちは反省しすぎだね」ということに気がつき、
 「今日うまくいったことは何か」
 「明日取り組むことは何か」
 に焦点を当てることにしました。
 達成できないことは、いつまでも達成しようと思わないで変える。できるものに変える。

 そうしている中、2013年にはウェールズに勝つという快挙となりました。

 次の段階。
 「憧れの存在になる。歴史を変える」 2014

 このころ、徐々にかつてなかったような勝利を積み重ねますがマスコミにはまったく取り上げられなかった。選手は「チヤホヤされたい」ということを言いました。しかし「チヤホヤ」は一過性のモチベーション。考えた末、
「憧れられるような存在になろう。満員のスタンドの中でプレーし、影響力のある存在になろう」という目標になりました。

 そして昨2015年。
 「主体性」 2015
 主体性とは、エディーさんのためじゃない、自分たちのために、ということ。
 具体的には、
 ・強度100%でやる。10本ダッシュなら最初のは少し手を抜いて最後の1本を全力でやる、というのではダメ。最初から全力でやる。
 ・選手間のサポート
 ・決められた範囲内での改善点をあげていく

―わたしの言葉で勝手にいいかえると、「ケアの段階」「自己顕示欲、誇りの段階」「主体性の段階」と、4年間にステップが存在したようにみえます。
 そうなんだよなー。「主体性」かっこいいけれど、そこへ行きつくまでにステップがある。かっこいいからと「主体性」に最初から飛びついてしまいたがる研修プログラム、多いですね。本当は、小さい頃からしみついた非主体性を卒業するには、これぐらいのステップを踏まないとダメですね、と正田はおもいます。
 だから、企業人でも入り口は「承認」そこは、絶対に避けて通れないとおもいます。

―しかしJAPANに関しては、「主体性」の年にエディーさん解任、なんだか皮肉だなあ、という感想もいだきます…。

 
 もうひとつおもしろかったのは、2015W杯において、南ア戦勝利をはじめ歴史的な勝利をいくつも挙げたのですが、そこに対する心の準備は全然していなかった、というお話です。

「『勝ったらどうしよう』というメンタルトレーニングは全くしていなかった。よく、まちのメンタルトレーニングで『勝ったら何をしよう』とイメージトレーニングする、と言われますが、ああいうのは全く効果ありません」
と荒木氏。


 講演の冒頭には、
「自己啓発本あまたありますが、科学的でないものがほとんどです。ちゃんと科学的根拠のあることをやってください」
とクギをさす場面もあり、
これも、当方は大学人ではありませんが、我が意を得たりでした。

 昨今の風潮でいうと、ある論者を信頼できるかどうかは、私見ですがこれは大学人か、そうでないかの区別とはあまり関係ないように思います。
 かつ、「エビデンスを使ってものを言う」というのも、最近はあやしい。恣意的に都合のいいエビデンスを使っている場合もあれば、統計そのものにウソが含まれていたり統計特有の限界があったりもするからです。

 最後は、エビデンスを使いながらもそれで「成功体験」をもっている人を信頼するしかないのでしょうか…。
 正田も大学人ではないけれどそこでギリギリセーフ、ということにしていただけますでしょうか。甘い?


 
おまけ:
 多くの方がご興味があるであろう「五郎丸ポーズ」の成り立ちについて。
 冒頭にも書いたように「五郎丸ポーズ」はマスコミの造語で、本当は「プレ・パフォーマンス・ルーティーン」といいます。
 荒木氏によると、五郎丸選手の課題はキックの成功率を上げることだった。
 五郎丸選手の性格は、メディア上ではまじめそうですが、本当はものすごくおしゃべりで、お茶目。ただまじめなのは本当で、サボり癖もない。
 ストレスがすごく高く、ストレスマネジメントが必要。完全主義的傾向がある。

 あの「プレ・パフォーマンス・ルーティーン」は、3年間かかって作ってきたもので、意図していることは:
1.外的・内的に妨げとなるものを取り除く。
 内的:入らなかったらどうしようという迷い
 外的:視覚・聴覚
2.キックへの身体の準備
3.ストレス軽減
4.修正(重心の移動)


 素晴らしいご講演内容を、荒木先生ありがとうございました!
 またこのブログへの掲載を快くお許しくださったこともありがとうございました。


受講生様方はご存じのように、正田は以前、関学アメフトの常勝監督にして心理学者・行動理論家の武田建氏の門弟でもありましたので、この手の単純明快なスポーツコーチングの世界は大好きであります。有効な手法はちゃんと結果が出ます。

 最後に正田の心の声:
 あたしも4年ぐらいのスパンで1つのチーム(企業様)に関わりたいなあ〜

正田佐与




 


 

 「情熱の営業マネジャー」OA機器販売業主席の永井博之さんから、メールをいただきました。
 こちらも、先日のアドラー心理学セミナーでの出来事を受けてのものです。

 ご了解をいただいてご紹介させていただきます。

正田さん

ご無沙汰しています。永井です。

会場にいた人達はその場では間違った事を覚えたとしても、子育てや仕事をしっかりしていればいずれ必ず褒める事、叱る事の重要性がわかると思います。
(中には手遅れになる場合もあるかもしれませんが)

それは正田先生がその場で勇気を持って指摘されたからこそ記憶に強く残り案外早くに考えを改めることになるのではないでしょうか。

正田先生が意見したその会場にいた人達は本当に幸運でしたね。

先生の勇気ある行動、心から尊敬致します。

先生の最近の記事からは弱い立場にいる人間への愛を強く感じます。
また仕事だけでなく生きる事に必要な智慧も教えてもらっています。

メールでの応援くらいしか出来ませんがこれからも引き続きどうかよろしくお願いします。


(注:2通のメールをドッキングして編集済)


 過去の永井さんの登場記事は…、ご紹介していると際限なく長くなりそうです。
 永井さんは京都営業部長時代の2010年夏に神戸のオープンセミナーで「承認コーチング」を学ばれ、その年の売上を1.2倍に伸ばされました(もちろん、永井さん自身の実力でもあったのですが)
 2011年4月、事例セミナーに登壇。
 その後は遠方に異動になりましたが、折にふれ新しい職場のご様子や正田に対するコメントなどをメールでいただいています。

 「承認マネジャー」は仕事も家庭もしっかりした人たち。仕事では、責任を負っていますから、誰よりも「叱ること」の必要性をわかっています。また子供たちが社会人として就職した後の振る舞いなども上司の立場から想像がつき、それをもとに現在の子育てを考えることができます。
 その人たちから支持されているのが、「行動承認」です。

 この人たちからの支持の言葉が、何よりもわたしには励みになります。


 ・・・ところで、「アドラー心理学」の信者の方々って、職場では出世できないほうの人なんじゃないかと思いますがいかがでしょう。そんな功利的なことを言っちゃいけないのですが。「叱らない、ほめない」では上司は一日も務まらないはずですよね・・・それでもやってる人、いてるのかな。


2016.1.25追記

 実は、ここからは永井さんのメールと直接関係ないのですが、アドラー心理学セミナーの中には、1位マネジャー育成研修講師としては気になる点が他にもありました。

「職場の人間関係にはコミットしなくていい」
と勧めている点です。
 わたしは詳しくないのですが、岸見一郎氏によればアドラー自身がそう勧めているそうです。

 曰く、職場の人間関係というものは仕事の間だけのかりそめの関係である。仕事が終わったら即スイッチオフにしてよい。プライベートまで引きずる必要はない。

 部分的には、それも正しいと思えます。
 しかし、全面的に正しくはありません。わたしなら研修中に講師としてこういうことは言えません。

 理由はマネジャー側、部下側両方にあります。

 たとえばマネジャーの立場であれば、部下の私生活まで気に掛けるのが仕事の1つだからです。当方から積極的にお勧めするわけではありませんが、「承認マネジャー」であれば、ある部下の顔色が悪かった、受け答えに元気がなかった、ということが仕事が終わってからでも気にかかるのが自然だからです。ミンツバーグ的にいえば「マネジャーの仕事には終わりがない」のです。

 かつ、部下の側であれば、良いリーダーシップの下では全人格的に「仕事に巻き込まれる」という場面があっていいからです。とりわけ仕事が大詰めのとき、従来の自分のキャパを超えるようなサイズの仕事が襲ってきたとき、にはそうです。そういう場面を経験して人は仕事人として成長するのです。ワークライフバランス的には、「時間になったらオフにしよう」というのは間違いではありませんが、それを金科玉条としていついかなる時も全面的なコミットをしないでいると、その人の成長はありません。
 良いリーダーに出会っても心動かされないというのは、不幸なことですね。



正田佐与


<シリーズ・アドラー心理学批判>

●「勇気づけ」についての副作用情報。。(2014年12月)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51903598.html

●褒めない・叱らないは正しくない!「逆張りロジック」に正しく反論する知性を磨こう―『嫌われる勇気』著者講演会 (2015年12月)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51927076.html

●「自己認識には事実のフィードバックが大事」「思考的盲目が心配」―宮崎照行さんのメッセージ(同)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51927143.html

●「子どもさんは大いにほめてください。そして叱ってください」―正田、アドラー心理学セミナーで吠えるの記 (2016年1月)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51933511.html

●「誰もが活躍できる社会」とは「承認社会」―NYさんからのメッセージ (同)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51933591.html

●「勇気を持って指摘されたからこそ、いずれ考えを改める」―永井博之さんからのメール (同)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51933656.html

●『行動承認』Kindle化に向けて(4)メディアの考える怠惰なお客様と「行為者」の乖離、王道とパチモンの「大衆的人気」(2016年5月)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51940842.html

●NHKおはよう日本 アドラー心理学特集を批判する(同)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51940920.html

●NHKおはよう日本 アドラー心理学特集を批判する(2)友人たちの反応 (同)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51940923.html

●『行動承認』Kindle化に向けて(5)行為者の脳発達と細胞レベルの変化の可能性――林田直樹先生との対話より(同)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51940962.html

●アドラー心理学批判 「承認欲求否定」「ほめない叱らない」はどこから来るか―「共同体感覚」との関連において―アドラー『個人心理学講義』をよむ
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51941070.html

●アドラー心理学批判・友人からのお便り「幼稚さ、ナルシシズム亢進、成熟拒否」
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51941137.html

●アドラー心理学批判 「トラウマ否定」「承認欲求否定」起源はみつけたが誤読と捏造だった―『人生の意味の心理学』をよむ
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51941143.html

●アドラー心理学批判 アドラーの罪:発達障害者向けのお説教と批判封じ
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51941204.html

●アドラー心理学批判 まとめ:「承認欲求を否定せよ」「トラウマは存在しない」有害フレーズの捏造と岸見氏の罪
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51941255.html

 読者で、昨年も2回ほどこのブログに登場された「NYさん」から、先日のアドラー心理学セミナーでの出来事を受けてメッセージをいただきました。
 NYさんからのご了解をいただいて、掲載させていただきます。


正田先生


 アドラー講演会、お疲れ様でした。あのように意見をお述べになるのは、大変な勇気と覚悟でいらしたと思いますが、会場にいらした方の中にも、正田先生の指摘から気づきを得て、覚醒された方がいらしたと確信しました。

 知人が発達障害時の放課後支援サービスを立ち上げることになり、昨日もその知人と施設運営の話をしました。
 発達障がい者のための施設に使いたいというと、そもそも不動産物件を借りることすらかなりハードルが高く、みつからないとこぼしていました。法律で支援制度ができても、結局はこのような現実を変革しなければ、実態の改善は進まないということだと改めて思い知りました。

 そして、こういう社会を変えていくことにつながる正田先生の発信は、やはりとても重要と思いました。

 また、その発信からまなび、承認を現実社会の中で実践していくことは、私たち一人一人の使命であるとも思います。本当の意味で「誰もが活躍できる社会」と言うのは、結局「承認社会」とでもいえばいいか、多様性と寛容が当然の社会なのでしょう。

 でも現実をみると、誰もが活躍できる社会を作ると口ではいいながら、国家が目指している社会は、真逆に向かっているのではないかという不安がよぎります。その不安を払拭するためにも、日々の自分の行動と実践のなかに、承認をしっかり意識して取り組みたいと思いました。



 
 とても嬉しいメッセージでした。
 読者の方はどう思われているかわかりませんが、わたしは決して本来すごく好戦的な性格ではないと思います。
 それでも、2つ前の記事の末尾のほうに書きましたように、叱られないほめられない子供さんたちのことを思うと、たまらなくて発言してしまったのです。
 そういうことをすると、かつ会場の反応も冷えびえとしていましたから、時間がたつにつれ気持ちが落ち込みました。
 そんなときにいただいたNYさんからのメッセージ。
 ただ、その中にはまた、新たな”課題”が含まれていました。

 以下は、わたしからNYさんへのお返事です:


NYさま
 ご返信ありがとうございます。
 お察しのとおり、今日はいささか落ち込んでいます。
(お天気のせいもあるでしょうが。。今日の神戸は昨日までの快晴から一転、雨です。そちらはいかがですか)
 NYさんのメッセージ、とても力づけられました。

 発達障害の施設を借りることについてお話のような軋轢があることは、お恥ずかしいことに存じませんでした。わたしたちの子供世代の1割が該当するのだ、ということがわかっていたら、差別することでもなんでもないのにね。自分の子でなくても親戚の子や友達の子、どこかに該当するでしょうに。

 おっしゃるように、今国家、それにアカデミズム、マスコミ、すべてが「リバタリアンと貧困社会」をつくるために走っているような、うすら寒いものを感じます。
 決して大きなことはできませんが、「承認」を言い続けることでせめて局所的にでも本物の良い場所を作っていけたらと思います。




 NYさんからはこのあとのメッセージで、

「不動産が借りにくいのところは、これは、発達障害に限らず、総ての障がい児者、また高齢者施設でも同様の問題はあるようです。また、数年前には、世田谷区のほうでは一般保育園の移転をめぐる住民トラブルが報道されていました。
http://www.nhk.or.jp/ohayou/marugoto/2014/10/1009.html
このような報道もあったことから、ぜひ、正田先生には、今回の話を、発達障害に限らず障がい者、高齢者、子供などを含む包括的な視点で問題をとりあげていただければ、多様性と寛容、そして承認について、読者の皆様の思考が深まり変革のきっかけができるのではないか、と思う次第です。」

という”宿題”もいただきました。

 そう、わたしの視野が狭かったと言わなければならない。
 発達障害だけでなく、すべての障がい者、高齢者、子供さん、が排除の対象になっているのです。

 そのことは、「今に始まったことではない。昔からあったことだ」という反論がくるかもしれません。

 でも、優勝劣敗でなくより進化した社会になっていきたいではありませんか。
 差別を生むような、わたしたちの中に抜きがたくある不安感、それを乗り越える知恵が求められていると思います。


 わたしにはそんな力はない。ほんとうは、研修で関わらせていただく先を少し進化形の職場になっていただくぐらいしか、これまでも出来てこなかった。

 自分の非力さを恥じつつも、少しでも発信できることはしていきたいと思います。
 実は「承認」は「インクルージョン(包摂)」をさらに進化させた思想とよぶこともでき、「承認」の普及は弱者や異質との自然な共生のできる社会にもつながってゆきます。

 これまでもそうでしたが、これまで以上にそれを念頭に置きながら、発信をしていきたいと思います。

 NYさん、小さなことしかできませんが、許してくださいね。



正田佐与


<シリーズ・アドラー心理学批判>

●「勇気づけ」についての副作用情報。。(2014年12月)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51903598.html

●褒めない・叱らないは正しくない!「逆張りロジック」に正しく反論する知性を磨こう―『嫌われる勇気』著者講演会 (2015年12月)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51927076.html

●「自己認識には事実のフィードバックが大事」「思考的盲目が心配」―宮崎照行さんのメッセージ(同)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51927143.html

●「子どもさんは大いにほめてください。そして叱ってください」―正田、アドラー心理学セミナーで吠えるの記 (2016年1月)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51933511.html

●「誰もが活躍できる社会」とは「承認社会」―NYさんからのメッセージ (同)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51933591.html

●「勇気を持って指摘されたからこそ、いずれ考えを改める」―永井博之さんからのメール (同)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51933656.html

●『行動承認』Kindle化に向けて(4)メディアの考える怠惰なお客様と「行為者」の乖離、王道とパチモンの「大衆的人気」(2016年5月)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51940842.html

●NHKおはよう日本 アドラー心理学特集を批判する(同)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51940920.html

●NHKおはよう日本 アドラー心理学特集を批判する(2)友人たちの反応 (同)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51940923.html

●『行動承認』Kindle化に向けて(5)行為者の脳発達と細胞レベルの変化の可能性――林田直樹先生との対話より(同)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51940962.html

●アドラー心理学批判 「承認欲求否定」「ほめない叱らない」はどこから来るか―「共同体感覚」との関連において―アドラー『個人心理学講義』をよむ
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51941070.html

●アドラー心理学批判・友人からのお便り「幼稚さ、ナルシシズム亢進、成熟拒否」
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51941137.html

●アドラー心理学批判 「トラウマ否定」「承認欲求否定」起源はみつけたが誤読と捏造だった―『人生の意味の心理学』をよむ
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51941143.html

●アドラー心理学批判 アドラーの罪:発達障害者向けのお説教と批判封じ
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51941204.html

●アドラー心理学批判 まとめ:「承認欲求を否定せよ」「トラウマは存在しない」有害フレーズの捏造と岸見氏の罪
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51941255.html

お世話になっている皆様

 おはようございます。正田佐与です。
 急な寒波の襲来となりました。今日はきっと皆様もしっかり防寒対策をされて出勤されたことと思います。
 
※このメールは、正田が過去にお名刺を交換させていただいた方・イベントやセミナーにご来場いただいた方にお送りしています。ご不要の方は、メール末尾にありますURLより解除ください。
(解除方法が変わりました!詳細はメール末尾をご覧ください)


 本日の話題は:

■「子供さんは大いにほめてください。そして叱ってください」
 ―「ほめる、叱る」をめぐる詭弁と混乱の時代に思う―

■あなたは知っていますか?ベストセラー『「学力」の経済学』が提起する“恐ろしい未来”

■現代の若者にとっての「最後のセーフティーネット」とは。
 ―ベーカリーチェーン・リヨンセレブ牧様を再訪しました―

■読書日記『資本主義から市民主義へ』
 ―学者さんの職業倫理に思う―
 
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■「子供さんは大いにほめてください。そして叱ってください」
 ―「ほめる、叱る」をめぐる詭弁と混乱の時代に思う―


 読者の皆様、ご自身のお子様にご家庭でどんなふうに接していらっしゃいますか。
 前回のメルマガでも、『ほめると子どもはダメになる』という本の“詭弁”について、取り上げさせていただきました。
 前回のメルマガ記事をご参照されるならこちら
◆「数字と論理に強い」あなたに贈ります。頭の体操3題
 http://c-c-a.blog.jp/archives/51932957.html 

 そして一方、「叱ってはいけない、ほめてはいけない」を教義とする「アドラー心理学」という、“思想”がこのところ大流行です。
 わたくし正田は一昨日和歌山まで、アドラー心理学のセミナーを聴きに行ってまいりました。
 そこで、たまりかねてあるイレギュラーな行動をとってしまいました。
 以前からわたくしを知っていてくださる方なら、きっとその延長線上でお許しいただけるでしょう。
 このメルマガを読まれている方々にも、わたしからありったけの愛と誠意をこめて、お伝えします。
「子供さんは大いにほめてください。そして叱ってください」
 当日起こったことの全体像はこちらです

◆「子どもさんは大いにほめてください。そして叱ってください」―正田、アドラー心理学セミナーで吠えるの記
 http://c-c-a.blog.jp/archives/51933511.html 

 このメルマガでは昨年以来、「承認欲求」をバッシングするおかしな言説を批判してきました。「ほめる」批判、「承認欲求」批判、いずれも誤りです。そして、教育やご家庭、ひいてはマネジメントの世界までを一気に不幸にしてしまいます。とりわけ、こうした話題の被害者になるのは、子供さん、若手部下、女性の働き手など、「社会的弱者」の人たちです。
 そういうことを売るための「ネタ」「つかみ」に使う出版界の悪しき風潮を真剣に憂えます。どんな業界でも、社会に害毒をまきちらすことは許されることではありません。出版界は真摯に自粛を考えていただきますように。
 「承認欲求バッシングを批判する」シリーズ記事はこちらです
http://c-c-a.blog.jp/archives/cat_50056406.html 

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■あなたは知っていますか?ベストセラー『「学力」の経済学』が提起する“恐ろしい未来”

 さて、昨年のベストセラー『「学力」の経済学』(中室牧子、ディスカヴァー・トゥエンティワン)。
 読めば読むほど、何故この本がこれほど多くの読者に支持されたのかわからなくなってきます。著者の「慶応大学准教授」「コロンビア大学博士号」という肩書にダマされた人が多かったのではないでしょうか。内容をよく読んでいなかったのではないでしょうか。
 前回のメルマガでもこの本に対するシリーズの批判記事をご紹介しましたが、その後さらに、この本の第4章・5章の教育界・文科省に向けた「提言部分」とみられる部分を読解し、これに基づいた「批判記事」をブログに掲載しました。現在、Googleで「学力の経済学 批判」と入力すると、これらの記事がトップページに来るようになっています。(Googleは一応記事を「審査」しており、内容の信憑性、情報量の豊富さなどに照らして検索順を決めているそうです)
 もしお時間が許す方は、どうかご覧ください。そしてあなたの身近にいる、『「学力」の経済学』に影響されている人に教えてあげてください:

◆本当は恐ろしい、『「学力」の経済学』がもたらす未来(1)ー”中室提言”をよく読むと―シリーズ『「学力」の経済学』批判
 http://c-c-a.blog.jp/archives/51933016.html 

◆本当は恐ろしい、『「学力」の経済学』のもたらす未来(2)―正田回答編:先生方は「経済人」ではない!―シリーズ『「学力」の経済学』批判
 http://c-c-a.blog.jp/archives/51933034.html 
 ↑
 お時間がない方は2番目の記事だけ読んでいただいても大丈夫です

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■現代の若者にとっての「最後のセーフティーネット」とは。
 ―ベーカリーチェーン・リヨンセレブ牧様を再訪しました―

「現場から学ぶ」
 大事なことですね。
 きっと、読者の皆様も現場訪問は欠かさずおやりになっていることと思います。
 わたくし正田も、久しぶりにお客様の「現場」をお訪ねさせていただきました。そして受講生の店長さん方から学ばせていただきました。
 フェイスブックのお友達の皆様(現役社会人が多いです)からも沢山の賞賛と「シェア」をいただいた記事をご紹介します。「今どきの若い人」との関係に頭を悩ませている、多くの管理職の皆様にはきっと共感していただけることと思います。

◆若い人と格闘する仕事の現場―牧・リヨンセレブ再訪記
 http://c-c-a.blog.jp/archives/51933228.html 

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■読書日記『資本主義から市民主義へ』
 ―学者さんの職業倫理に思う―

 これも、フェイスブックのお友達から大変「好感」していただきました。
 経済学者・岩井克人氏(東京大学名誉教授、国際基督教大学客員教授)の対談本『資本主義から市民主義へ』(ちくま学芸文庫、2014年4月)。
 昨年、『経済学の宇宙』がエコノミストが選ぶビジネス書1位に選ばれた同氏。こちらの本は経済学の巨人たちが登場する、岩井氏の自叙伝でもあり生きた経済学史でもあり、というスケールの大きな本でしたが、経済学のわかっていないわたくしには到底レビューなどできません。代わりに、辛うじてわたしにわかる表題の本を取り上げさせていただきました。
 もしお時間があれば、ご覧ください:

◆大きな知性に触れる楽しみ、「経済学」と「倫理」の関係を考える―『資本主義から市民主義へ』をよむ
 http://c-c-a.blog.jp/archives/51933360.html 

 なお、この記事の末尾部分でも触れましたが、このところ相次ぐ「学者の肩書をもった人がエビデンスを使いながら一般人を惑わすような間違ったことを言う」という現象に思いをいたします。
 岩井氏の著作からは、同氏の学者としての職業倫理が素直に心に沁みるように伝わってきます。有難いことにアカデミズムの中には他にも、そうしたものを感じさせる知己の方がいらっしゃいます。
 わたしの友人の1人は最近、
「学者やオピニオンリーダーについて『この人の言っていることはおかしいのではないか』と気づくようになった。正田さんの周りにいる学者さんは、正しいのだと思える」
と、言ってくれました。

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★次号から、本メルマガはデザインを一新させていただく予定です。どうぞお楽しみに!

※このメールは、正田が過去にお名刺を交換させていただいた方・イベントやセミナーにご来場いただいた方にお送りしています。

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正田 佐与(正田佐与承認マネジメント事務所)
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 阪神淡路大震災から21年目の1月17日、正田は和歌山に参りました。

 アドラー心理学の一昨年のベストセラー『嫌われる勇気』の著者、岸見一郎氏の講演会に参加するためです。

 アドラー心理学については、昨12月初めにシリーズで批判記事を掲載しました。

褒めない・叱らないは正しくない!「逆張りロジック」に正しく反論する知性を磨こう―『嫌われる勇気』著者講演会

「自己認識には事実のフィードバックが大事」「思考的盲目が心配」―宮崎照行さんのメッセージ

増殖中!インフルエンザより怖い「妄想症・ナルシ症」リスク対策は

 でフェイスブックで一度書いた話題ですが、結論からいうと、この講演会で質疑の時間に正田は「爆発」してしまい・・・。
 会場からマイクを握って「吠えて」しまいました。

 何を言ったかというと、

「会場の皆さんこんなこと信じちゃダメですよ!子どもさんは大いにほめてください、そして叱ってください。子どもはほめられたり叱られたりして規範を覚えていくんです。子どもと大人は対等ではない。子どもは無力で、そして依存しているんです」

「承認欲求を今否定されましたが、承認欲求は食欲と同様、人間の基本的欲求です。あまりにも承認欲求を満たされなかったらわれわれは鬱になってしまうんです。承認欲求を否定して、この会場にいる人の周りにうつが出たら岸見先生は責任を取れるんですか!」

「岸見先生の息子さんの話がなんども出てきますが、親の養育より遺伝形質が子どもさんに決定的影響を及ぼす、これは遺伝学者の共通見解です。岸見先生の息子さんは、IQの高い、言語能力の高い人だったのだと思います。おっしゃっていることはあくまで息子さんという個体に対して上手くいったということに過ぎない。個体差の問題なのです」

 ここで、会場から「質問は1つでしょう」と遮られて終わり。
 私としては人道的理由であえてルール破りをしたけれど致し方ない。
  本当はもう1つ、

「発達障害についてまったく『ない』ものであるかのように語っているがおかしいのではないか」

というのも言いたかったが果たせませんでした。

 講演の最初から、岸見氏が一言言うたびに

「それは、エピソードに登場する人物が発達障害なのではないか?」
「岸見氏のいうそのやり方でうまくいくのは、定型発達のIQの高い子だけではないか?」

といった疑問がわたしの頭の中をぐるぐる回っていたのでした。
 
 岸見氏と先日このブログで取り上げた『ほめると子どもはダメになる』の榎本博明氏は同じ1956年生まれですが、どうもこのへんの世代の心理学の人は「発達障害」がわかっていない。あるいは、知っていても意図的に隠している。

 「発達障害」という概念を避けながら人間関係の悩みについて説明すると、「理解不能な人」は永遠に「理解不能な不条理な人」だし、「こうすればうまくいくよ」という言い様が、すべて世界は定型発達の人だけでできている、という前提に立ったものだったりする。
 結果、一般人はいつまでも迷宮の中をさまよい、心理学者は永遠に優位に立ち続ける。

 本当は、「発達障害」の視点で問題をとらえてみるというのは、決してレッテル貼りではなく、有効な問題解決の方策であり、実は「悩みがストップ」する道筋かもしれないのです。
 でも、そのほうが親切なやり方だとは、かれら心理学者は考えない。底意地悪く、実際の問題解決に役立たないやり方を勧めるばかりです。

 
 さて、しかし冒頭のようなことを言ったわたしに会場からの目は冷たく。

 わたしの次に発言した年配の男性は、岸見氏に

「他人をけなすという人がいますが、どういうものですかな?」

と質問し、あたかも直前のわたしがした行為は「けなす」ということだった、と言わんばかりでした。実際、この人が「けなす」という言葉を発音したとき、会場の多くの人が私のほうを責める目つきで振り返りました。

―これは宗教の集会だ―

 ある程度は覚悟していましたが、ここまで「空気を読む」人々の集団だとは思いませんでした。

 もともと心理学の世界の辞書に「批判する」という言葉はないのです。「肯定しない」は、イコール「否定する」ということであり、「悪」なのです。
 哲学倫理の世界にはちゃんと「批判する」という行為は建設的な行為としてあり、また哲学のほうが心理学よりはるかに古い学問なのですが。

 
 また、わたしが思うに、そもそも「叱らない、ほめない」が好きな人たちというのは、ストレングスファインダーでいう「〇〇〇」、もしくは「受動型ASD」の人が多いのではないかと思います。波風を立てることがとにかく嫌い。葛藤が嫌い。岸見氏自身もその気があります。ひたすら穏やか。(ついでにいうと「子育ての成功例」として度々言及される岸見氏の息子さんも穏やかで知能も高い子どもさんだったのではないかと思います)

 彼(女)らは、たとえば「悪いものは悪い」とガンという、ということがそもそも苦手なのです。極端に不安感が高く、人に強いことを言うことができない。本人さんがアサーション的な問題を抱えています。また自分以外の他人が大声でだれかを叱っているのをきくのも嫌い。身が縮みます。

 「アドラー心理学が好き」という人は、その波風立たない穏やかな空気が好きなんです。

 だから、彼(女)らにとっては、強い口調でアゲンストな質問をするわたしのような女は、波風を立てるというそれだけで「悪人」なのです。


 この講演会では、れいによって「ほめてはいけない」の話が出て、たとえば岸見氏によれば、お母さんが3歳の女の子に
「よく静かにしていたね、えらかったね」
というのもいけないんだそうです。理由は、相手が大人だったらそんなことは言わないはずだからだそうです。そして「静かにしていてくれてありがとう」と言わなければならないのだそうです。

 質疑の時間では英語塾の先生が、子供たちに「来てくれてありがとう」「片付けてくれてありがとう」と言うが、「できてなかったことをできるようになった時、Good Jobと決まり文句があるが、ほかには言い方はないのか」という質問も出ました。
 Good Jobもダメな世界なんです。異常なの、おわかりになりますか?


 その後フェイスブックのお友達とのやりとりの中でわかってきたのですが、わたしも元々、「道場破り」をやりたくて講演会に行きたかったわけではない。本来は、話だけきいて大人しく帰ろうと思っていたのですが、

 会場で生身の人々をみていると、たまらなかったのです。本気で「泣けた」のです。
 
 ほめられも叱られもせずに貴重な子供時代を送る子供さんがいるということに。それが、ここにいる一見良心的そうな人々の子供さんだということに。

 また、「承認欲求」をまるで悪いもののようにくさされて、自分の承認欲求を他人に気取られるのをびくびく怖れながら生きていく人ができてしまう、ということに。


 でもその気持ちは会場の人々には恐らく伝わらなかったので、少し気落ちして帰って、そしてフェイスブックのお友達の皆様に慰めていただいたのでした。

 ある学校の校長先生は、

「子どもは褒めて、叱らないと育ちません。(^^)」

と書かれました。

またあるお友達は、

「私自身も職場によっては評価をされない職場がありました。その時の自分を振り返ると、人間はこうも脆いものなんだと思うほど、自信を喪失してしまったことを思い出します。ですので、承認は重要だと思っています」

と書かれました。

 そういう「当たり前」の感覚が今、すごく通りにくくなっています。

 そして本来幸せになれるはずの人たちが幸せになれないのです。
 この焦燥感、どうしたらいいのでしょう…。



正田佐与


<シリーズ・アドラー心理学批判>

●「勇気づけ」についての副作用情報。。(2014年12月)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51903598.html

●褒めない・叱らないは正しくない!「逆張りロジック」に正しく反論する知性を磨こう―『嫌われる勇気』著者講演会 (2015年12月)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51927076.html

●「自己認識には事実のフィードバックが大事」「思考的盲目が心配」―宮崎照行さんのメッセージ(同)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51927143.html

●「子どもさんは大いにほめてください。そして叱ってください」―正田、アドラー心理学セミナーで吠えるの記 (2016年1月)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51933511.html

●「誰もが活躍できる社会」とは「承認社会」―NYさんからのメッセージ (同)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51933591.html

●「勇気を持って指摘されたからこそ、いずれ考えを改める」―永井博之さんからのメール (同)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51933656.html

●『行動承認』Kindle化に向けて(4)メディアの考える怠惰なお客様と「行為者」の乖離、王道とパチモンの「大衆的人気」(2016年5月)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51940842.html

●NHKおはよう日本 アドラー心理学特集を批判する(同)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51940920.html

●NHKおはよう日本 アドラー心理学特集を批判する(2)友人たちの反応 (同)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51940923.html

●『行動承認』Kindle化に向けて(5)行為者の脳発達と細胞レベルの変化の可能性――林田直樹先生との対話より(同)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51940962.html

●アドラー心理学批判 「承認欲求否定」「ほめない叱らない」はどこから来るか―「共同体感覚」との関連において―アドラー『個人心理学講義』をよむ
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51941070.html 

●アドラー心理学批判 「トラウマ否定」「承認欲求否定」起源はみつけたが誤読と捏造だった―『人生の意味の心理学』をよむ
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51941143.html

●アドラー心理学批判 アドラーの罪:発達障害者向けのお説教と批判封じ
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51941204.html

●アドラー心理学批判 まとめ:「承認欲求を否定せよ」「トラウマは存在しない」有害フレーズの捏造と岸見氏の罪
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51941255.html

資本主義から市民主義へ


今年初めて「良書」の読書日記でございます。『資本主義から市民主義へ』(岩井克人、聞き手三浦雅士、ちくま学芸文庫、2014年4月。原題『資本主義から市民主義へ 貨幣論・資本主義論・法人論・信任論・市民社会論・人間論』新書館、2006年8月)

 昨年来、アカデミズムの悪口ばかり言っているわたしですが、(とはいえそんな中でもご厚誼をいただける大学の先生というのは2−3いらっしゃるのですが) 「この人の知性は一回りも二回りも大きい」と感じさせる方がいらっしゃいます。

 岩井克人氏(東大名誉教授、国際基督教大学客員教授)の『会社はこれからどうなるのか』『会社はだれのものか』は、2006年のわたしの超・短命だったビジネススクール時代、周囲がいまだ「株主主権論」にかぶれていた中、バイブルというか「お守り」のようなものでした。

 ただしわたし自身は「経済頭」ではないため岩井氏の研究全体を理解するすべもなく。今も「単なるファン」です。昨年の同氏の『経済学の宇宙』も読むには読んだが、到底評価などできる器ではございません。ので、読書日記もレビューも上げることができずじまいでした。

 昨年もう1冊手にとった本書『資本主義から市民主義へ』は、岩井氏の「倫理」についての考え方がわかる好著です。2006年時点で既にここに至っていたかと感銘を受けます。

 もちろん「倫理畑」の方々からは異論もございましょうが、わたしの「趣味」とお許しをいただいて、本書の感銘を受けたところをご紹介したいと思います。

 今回は、ワード16ページの長さになりました。要約ではなく引用です(わたしが意味がわかっていないところが多いため)。太字部分はわたしが勝手に主観的にだいじだと思ったところを太字化してあります。

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岩井:法人の成立については、ぼくは、間主観性、というよりも社会的承認が不可欠であることを強調しています。現在のアメリカの主流派経済学の連中や、それに影響を受けた法学者たちは、法人とはたんなる契約にすぎないと言っています。でも、たとえばいまAさんとぼくが法人をつくりたいと思って、二人のあいだでどんなに詳細な契約書を書いたとしても、ほかの人間が、Aさんとぼくがつくった団体をAさんやぼくとは独立の主体であると認めてくれなければ、法人としての機能を果たすことはできません。ほかの人間と契約を結べないし、独自にモノを所有することもできない。つまり、法人という制度にかんしては、他人による承認、もっと一般的には社会的な承認が絶対に必要なのですね。もちろん、「人の噂も七十五日」ではないけれど、社会的な承認などというのは移ろいやすいので、それを国家が法律化して、制度として安定させたものが、法人です。(p.124)

岩井:じつは、会社論の次のテーマとして、国家論のほかに倫理論を考えていますが、その出発点として、信任に関する理論を展開したいと思っています。(p.128)

じつは「資本主義社会は倫理性を絶対に必要とする」というのが、ぼくの主張です。しかも、まさにそれが契約関係によって成立する社会であることによって倫理性が要請されるということなのです。(p.129)

岩井:じつは、ぼくは最近、いま述べたことを一歩進めて、もっとも根源的な人間の関係は信任関係であって、契約関係とはその派生的な形態であると見なすようになっています。そして、そこから出発して、市民社会というものを考え直してみたいと思っているのです。そのなかで、倫理性という問題について考え始めているのです。(p.131)

 だいぶ脱線しました。…先ほどから宿題であった倫理の問題に戻ります。端的に言ってしまうと、倫理とは、人間が死ぬ存在であることと本質的にかかわっていると思っています。なぜなら、人間が永遠に生きられるとすると、現在何か悪いことをやっても、将来かならず相手に対して償いをすることが可能になるからです。それは、すべてを、法律的な権利義務の関係、いや、もっと正確には、経済的な貸し借り関係に還元してしまうことになるのです。そこでは、ほんとうの意味での倫理性は必要でなくなってしまう。だが、人間は有限な存在です。だから、自分のおこなった行為に対して、どのようにしても償いや返済ができない可能性がある。そこではじめて、本来的な意味での主体的な責任という問題が生まれてくるのです。それが究極の意味での倫理の問題だと思うのです。(pp.131-132)

―(???)この論理構築はよくわからない…わからないなりにおもしろかったので抽出させていただきました。

(三浦)デ・ファクト・スタンダードの問題がある場合、倫理はどういうかたちで成立するのか。倫理はなんらかの定点を必要とするのに、地面がぐにゃぐにゃの状態と言っていいわけです。カントの倫理を皮肉ったのはシラーでしたよね。自己一身の責任においてというのでは、結局、あらゆる善行は趣味の問題になってしまうではないか、と。倫理はどうしても大文字にならざるをえない。
岩井 大文字かどうかはわかりませんが、人間には、たとえだれも見ていなくても、神さえ見ていなくても、主体として一方的に責任を引き受けなければならない場面なり瞬間がある。(pp.135-136)

岩井 ちょっと前ですが、猫も杓子も「他者」「他者」といっていた時期がありました。「他者」との出会いを求めて、ノコノコと外国に行ったりしてね。でも、先ほど、人間とは、言語を語り、法にしたがい、貨幣を使って、はじめて人間となる存在であると言ったわけですが、その人間にとっていちばん本質的なことは、そのような意味で人間をまさに人間とさせる言語・法・貨幣、とくに言語が、人間にとってはまったくの外部の存在であるということなのです。
(三浦)われわれがもっとも内部だと思っているものが、じつはもっとも外部だということ。
岩井 まさにそうです。そのことを認識することがすべての倫理の出発点だと思うのです。まさにこれは自己疎外論の正反対です。外部の他者との出会いなど、些末な問題だとは言いませんが、二次的な問題です。人間にとっての最大の他者とは、まさに人間にとって最大の内部である言語であるのです。人間はまさに言語で思考し、言語を介して他人とコミュニケートするわけで、言語とは人間の思考そのもの、人間のコミュニケーションそのものなのですが、その言語が人間にとって、もっとも外部の存在であるということなのです。事実、個々の人間はかならず死にますが、言語は個人の死にかかわりなく生きつづけていくわけです。
(三浦)まったくそうです。個別性自体のなかに彼岸があるということです。岩井さんの考え方でいくと、自己は最初から共同性のなかでしか成立しない。
岩井 共同性と言ってもそれは、言語という外部を媒介とした共同性という意味です。だから連帯していて仲良しというわけじゃない。
(三浦)もちろんそうじゃない。でも、言語で考えるというときには、自分ひとりで考えていたとしても、それは共同性において考えているわけですよ。
岩井 共同性といわれると、抵抗を感じるんです。
(三浦)なんといえばいいんでしょう。
岩井 ぼくは超越性だと思っているんです。
(このあと三浦の反論。「ほんとうに19世紀的なヒューマニズムでしかない」)
岩井 ぼくもわからない。ただ、最終的にはカントのいう意味での倫理になるのではないかとは考えています。(pp.137-139)


岩井 たしかに労働価値もない。主体もない。そこで、ぼく自身は、ある意味で非常に常識的なところに戻っていく。カント的な啓蒙思想です。ぼく自身はこれまでずっと資本主義について思考してきました。その資本主義とは、まさに差異性から利潤を生み出すというもっとも形式的なシステムであり、それゆえにもっとも普遍的なシステムです。だから、必然的にグローバル化してしまった。そして、それを超えるシステムはありえません。では、そのような普遍性をもった資本主義に対抗しうる何かがあるとしたら、それも同じように形式的な原理でなければならない。具体的には、カント的な定言命題による倫理性であり、それを基礎にしたグローバルな市民社会といったものになるのでしょうか。カントの定言命題とは、それが普遍的な法則となるような格率にしたがって行為せよというものですから、完全に普遍化しうる純粋に形式的な命題です。これ以外にはないんじゃないかと思います。たとえばローカルな共同性を強調するコミュニタリアン的な論理だけでは、まったく勝ち目はありません。
(略)
(三浦)岩井さんは、カント主義はヒューマニズムだと思っていないんですか。
岩井 思っていません。だってカントの定言命題の対象は、人間でなくてもいいんですから、理性をもっている存在すべてに当てはまる方法なんです。理性をもっている存在ならば、お互いをたんに手段としてではなく、必然的に目的として扱うはずだ、と考える。(pp.139-141)

岩井 いま理性と言いましたけれど、その理性の意味に二つあることが重要です。ひとつは、なんらかの公理から出発し、一歩一歩論理を積み重ねて真理に達するための理性。これが通常の意味での理性です。もうひとつは、ゲーデル問題に関連しますが、この世の中には、あらかじめ与えられた公理とは独立に、自己循環論法によってそれ自体で完結している真理がある。それは、まさにとびとびに存在する真理です。こういう真理は、まさに歴史的に発見されなければなりませんが、そういう真理を見たとたんに、それを真理として認知できる理性です。(pp..141-142)

岩井 人間はそれに行き当たると、それが真理だとわかる。ハイエクは、ヒュームの偉いところは、この第二の理性について思考したことであるというのです。いずれにせよ、こういう真理は進化論的にしか行き当たらないわけであって、そこに、歴史の本質的な意味での不可逆性があるのじゃないでしょうか。

―このあたりわたしの「趣味」で太字部分が増えてしまいましたが、わたしは勝手に、「承認」というものは、歴史を不可逆的に変える真理の発見の1つなのではないか、と思っているわけです。
自分のコメントも勝手に太字にしてしまいました^^


岩井 ちょっと話がずれますが、同じようなことが倫理についても言えます。カントの道徳論に、すべての人間をたんに手段としてだけでなく同時に目的として扱えという定言命題がありますね。これもよく見ると自己循環論法になっています。理性的存在がお互いに理性的存在であることを承認しあうわけですから。そして、そのような相互承認を実定化すると基本的人権になるわけです。その意味で、基本的人権とは普遍的な概念ではあるけれども、同時に歴史的に発見されたものでもあるというわけです。これは非常に啓蒙主義的な考え方に近い。
 少なくとも倫理にかんして残るものは、案外、常識的なものでしょう。(pp.143-144)

岩井 言語や法や貨幣はデ・ファクト・スタンダードですが、それをぼくは空虚とは言わない。それは、現実に個々の人間のあいだを流通していく社会的実体です。実体的な根拠がないことと、空虚であるということとは、まったく別です。そして同じことは、カント的な意味での倫理についても言える。それも自己循環論法によって成立するひとつの命題です。そして、空虚ではない。実際に、基本的人権というようなかたちで社会的な実体性をもつことができる。
 いずれにせよ、言語・法・貨幣、さらにそれとは別のカテゴリーですけれど、定言命題としての倫理―これらが、まさに自己循環論法の産物であるということ、つまり実体的な根拠をもっていないということに、究極的には人間の人間としての自由の拠り所があるし、人間にとっての救いがあると思っています。自己循環論法であるからこそ、遺伝子情報の制約からも、人間理性の限界からも自由になれるのです。その意味で、言語・法・貨幣、そして倫理、とりわけそれらすべての基礎にある言語のなかに、もっとも根源的な真理が隠されているわけです。無根拠だから空虚なのではありません。無根拠だから真理を見出していく無限の潜在力にあふれているのです。(pp.144-145)

岩井 ええ、信任関係を生み出す。一方が他方を一方的に信頼することによってしか成立しない関係を生み出す。この関係が成立するためには、信頼を受けた側は、自己利益を押さえて行動しなければならない。つまり、倫理性を絶対に要請してしまう。こうして資本主義のまさに中核に信任関係、倫理が登場するわけです。(p.165)

(三浦)岩井さんは『会社はだれのものか』の最後で、ケインズとフロイトの関係にちょっとふれていますが、たとえば、ご存知のように、ラカンがヘーゲルとフロイトを結びつけるとき、ひとつのポイントにしたのがアウフヘーベンという言葉ですよね。『エクリ』のなかに、哲学者のイポリットにフロイトの「否定」という論文について評釈させるところがありますが、そこでポイントになるのがアウフヘーベンという言葉で、要するにフロイトのいう否定し抑圧するということの実質はアウフヘーベンと同じだということですね。(p.174)

(三浦)ヘーゲルがアウフヘーベンという言葉を用いたのは概念の働きを説明するところにおいてですが、ヘーゲルにおける概念、概念化作用というのは、じつはそのまま否定と抑圧のことなんだと言ってもいいほどだと思います。定義が否定によって成り立つように、概念も否定によって成り立つということは古くから言われてきたことですが、ヘーゲルはそこに抑圧の要素をも見た。つまり持続の要素、否定しても無くならないものがあるということを見た。つまり二重性です。ヘーゲルはそれを表現するためにアウフヘーベンという言葉をもってきたわけです。
 ヘーゲルの概念の概念についての研究が必要だと言ったのはガダマーですが、ヘーゲルの概念の概念には、それまでは知性とか悟性とかいうレベルで論じられていた概念というものを生命現象一般にまで強引に拡げてしまったところがあって、たとえば動物の概念化作用というのは食べるということそのもの、生殖ということそのものだというわけですね。
(pp.175-176)

岩井 ぼくはカントの『実践理性批判』や『道徳の形而上学』は、それが純粋に抽象的、形式的な原理として倫理を提示しているところがおもしろいと思っています。なぜならば、資本主義というのも、基本的に形式にすぎません。価値形態論とは、商品と貨幣のあいだのほんとうに形式的な関係です。純粋形式ですよ。ぼくはこれから資本主義論を超えたものとしての市民社会論をやろうと思っているんですが、資本主義とは純粋に形式的なシステムだから、ここまでグローバル化したわけです。その資本主義を超える人間と人間の関係として市民社会が可能になるためには、それは少なくとも資本主義と同じ程度には形式的でなければならない。そこで、やっぱりカント的な理論がその核心になるはずだということです。その基礎として、現在、法人論から出発して、信任論について考えているわけです。(pp.205-206)

岩井 うん。だけど、カントが言う、仮言命題にもとづく倫理は、真の意味での倫理ではない、定言命題として定式化される倫理のみが倫理であるという考え方とおもしろいほど適切に関連してくるんですよ。なぜならば、定言命題とは自己循環論法なんですよ。カントの倫理論がおもしろく、そして深いのは、それが自己循環論法になっているということなんです。
 仮言命題的な倫理というのは、個人の幸福であれ、社会の利益であれ、なんらかの効用や目的を達成するための手段として定式化されている。約束を破ると人からの信用を失って、結局は損をするから約束を破ってはいけないというたぐいの理論です。これに対して、定言命題というのは、外部からのなんの根拠づけも必要としない。それ自体を目的とする行動規範です。つまり、それが同時にすべての人間にとっての行動規範となることをあなたが望む行動規範にもとづいて行動せよ、というわけです。約束を破ることは、それ自体でいけない。他の人が約束を破らないとき自分だけ約束を破るのは個人にとっては得であるかもしれない。だが、すべての人が約束を破ることを行動規範にすれば、約束という制度そのものが不可能になるから、約束は破ってはいけないというわけです。これはほとんど数学のように形式的な命題です。
 言ってみれば、仮言命題は社会主義的で、定言命題は徹底的に反社会主義的です。個人の行動を社会全体の利益の名において制約する仮言命題的な倫理の極致が、社会主義だからです。カントは、外から与えられたなんらかの目的から導かれる倫理というものを全否定する。それ自体が目的である行動規範こそ倫理であるというのは、倫理がまさに自己循環論法であるということです。カントを語る多くの学者はこのことの重要性を理解していないと思うのです。倫理というのは自己循環だということを……(pp.206-207)

岩井 そうなんですけど、重要なことは、カントの理論は権利論として理解できるということです。たんなるシニシズムではなくてね。
 政治哲学や倫理学で、昔から効用主義と権利主義のあいだで論争がありますよね。たとえば、基本的人権や私有財産権のような人間がもつさまざまな権利に関して、その権利を絶対多数の絶対幸福を実現するための手段としてみるのか、それともそれ自体が守られるべき目的とみるのかという論争です。カントはもちろん、権利論者です。ただ、同時に、カントは通常の意味での自然法論者でもありません。
 たとえば、基本的人権とは、すべての人間は他人の手段としてのみ扱われてはならないという倫理規範を法律化したものです。その出発点は、理性的な存在同士がお互いを理性的な存在として認めあうことです。理性的な存在とは自分で自分の目的を設定できる存在であり、お互いが理性的な存在であることを認めあうことは、お互いがお互いを目的それ自体として認めることになるわけです。そのような相互承認がないかぎり、基本的人権などは存在しない。事実、基本的人権なんて昔は存在しなかった。たとえばギリシア時代には、基本的人権なんて、お互いにお互いを英雄として認めあう英雄しかもっていなかった。でもそれが、権利への闘争の長い道のりを経て近代になって確立し、現代においては、少なくとも先進国の人間はあたかも基本的人権が自分の体の一部でもあるかのように振る舞っています。
 そもそも基本的人権というのは物理的にあるわけではない。相互承認を法的に権利化、いや実体化したにすぎない。けれど、たとえばアメリカ人なんか、自分の基本的人権を鎧のように着て世界中を闊歩している。(pp.208-209)

岩井 どこにも実体はない。言語だって、言葉に意味があると言っても、後期ヴィトゲンシュタインの先ほどの言葉を敷衍すると、それは意味があるものとして使われているから意味があるにすぎないわけですね。完全に自己循環論法です。法も、人々がそれに対して法としてしたがうから、法が法として効果をもつ。これも自己循環論法です。カントの倫理にしても、いま説明したように、構造はだいぶ複雑になるけれど、そうなんです。人間社会には、物理的な実体とは違う社会的な実体があるわけです。しかもその社会的実体を媒介にして、はじめて人間は人間となる。その社会的実体は、自己循環論法の産物ですから、物理的には何モノでもないのに、人間にとってはものすごい実体性をもつ存在となっているわけです。(pp.209-210)

岩井 そうですね。貨幣論では、貨幣は自己循環論法の産物であり、実体的根拠はないと言っているわけですし、資本主義論だって、価値体系の異なる二つのシステムを媒介すると、無から有が生まれてくるように、利潤が生まれてくると言っているわけですしね。こういう貨幣の論理、資本主義の論理が、現在、グローバル通貨、グローバル資本主義というかたちで、世界を覆いつくしてしまったわけです。
 このような動きに対して、みんないろいろ抵抗しようとしています。ただ、その抵抗の方法が、コミュニタリアニズムであったり、地域通貨であったりしているかぎり、絶対に勝てない。なぜならば、貨幣も資本主義も、純粋に形式的な論理によって動いているからです。だから、グローバル化しうるのです。それに対して、なんらかの意味で実体的な根拠を示して対抗しようとしても、それはローカルな効果しかもてない。それに対して唯一勝てるのは―べつに勝たなくてもいいんだけれど―、やはり、純粋に形式的な論理、いや倫理なのですね。その点で、カントの倫理論が意味をもってくる。なぜならば、それはまったくの自己循環論法として定式化されているからです。それが、貨幣と資本主義のグローバル性・普遍性に対抗しうるだけのグローバル性・普遍性をもった、唯一の対抗原理でありうると思っているのです。(p.215)

岩井 ふつう、自己循環論法というと、自己矛盾だとかアンチノミーだとか言って話を終わりにしちゃうんだけど、じつはそれこそが真実であると。それこそが貨幣である、それこそが言語である、それこそが権利である、とういことなのです。
(三浦)ヘーゲルに言わせれば、それこそが精神だってことになるでしょうね。
岩井 結局、人間の社会とは、その人間が作り出した数学という純粋論理の世界ですら、進化論的な意味での発展をしているということですね。ゲーデルの定理は、構築された真理ではないから、たまたま発見されるよりほかないのです。もちろん一度発見されると、だれもがその正しさを認めざるをえないのですが、発見されるまでは真理としても存在していなかったわけです。それがたまたま発見されると、それ以前の状態には戻れなくなるわけですよ。一種の歴史的な不可逆性がここにある。つまり、ゲーデルの定理が発見されると、それによって世の中の複雑性が増してくる。エントロピー増大の法則が打ち破られてしまうのです。たしかに、これがヘーゲルの言う精神かもしれませんね。(pp.219-220)

岩井 さっきの、カントの定言命題は真理か思想か、という問題については、こう言ったらいいでしょうかね。いまはまだ思想なんですが、いつかは真理となる思想である。そして、カントの倫理がたんなる思想ではなく、真理となった社会―これが、市民社会であるということです。
 たとえば、市民社会の最低限の条件は基本的人権の確保ですが、基本的人権とは、カントの定言命題の法律的な表現にほかなりません。現代でも、まだ国によって違いがある。基本的人権が守られていない国や社会は、まだたくさんある。しかし、ある歴史段階になって、その国が市民的に成熟してくると、基本的人権が法律的に守られるようになり、そうすると、その国のなかでは、人間が基本的人権をもつということが疑いのない真理になるんだと思う。先ほど言ったように、どの人間も基本的人権をあたかも体の一部であるかのように所有することになるわけです。
 カント的な意味での定言命題的な倫理は、だからいまは思想にすぎないけれど、形式的には自己循環論法になっていますから、そこにうまく法律、場合によっては人々の常識がはまりこんで動き出すと、これは真理になる。そう思いますね。(pp.223-224)

岩井 ぼくはいま市民社会論に足を突っ込み始めているのですが、そのためにはまず最初に資本主義の枠組みのなか、私的所有権の世界のなかでどれだけ言えるのかを確定する必要があると思って、それで、会社の二重構造論から、株主主権論を批判し、経営者について信任論を展開し、ポスト産業資本主義における利潤の源泉がヒトであるという議論を提示してみたわけです。このような議論は、すべて資本主義の枠組みのなかでここまでは言えるということをやっているわけです。
 たとえば、ポスト産業資本主義におけるヒトの役割の重要性を強調している場合でも、それは、心優しく従業員のためを思うヒューマニスティックな経営者がいいんだというような議論を展開しているわけではありません。あくまでも、ヒトを重視しなければ、会社はポスト産業資本主義のなかの競争で負けてしまうと言っているだけです。
 ただ、一歩、社会的責任論に足を踏み入れると、単純な私的所有権の枠組みをちょっとはずれてきます。ぼくの市民社会論は市民社会の定義がまだはっきりしていないんだけど、現在のところとりあえず、市民社会とは資本主義にも還元できなければ国家にも還元できない人間と人間の関係である、と定義しています。資本主義的な意味での自己利益を追求する以上の、何か別の目的をもって行動し、国家の一員として当然果たさなければならない責任以上の責任を感じて行動する人間の社会だということです。それが社会的責任だと思います。(pp.225-226)


岩井 そうかなあ、やはりぼくは社会主義者ではないですよ。あのとき、ぼくは社会主義者ではないが、市民社会主義者であると返事すればよかったと、いまになって思います(笑)。要するに、そのなかではお互いがお互いに対して、資本主義的な自己利益、自己責任という意味での責任にも、国家における法的な義務としての責任にも還元できない責任を考え始める市民社会ですね。
 市民社会というのは一貫して「国家および資本主義を超える何か」という存在でしたし、これからもそうでありつづけるはずです。たとえば、市民社会で障害者の権利についての主張が始まる。だが、それが人々の政治的なコンセンサスにまで高まると、法律化されて国家の側に吸収されちゃうし、あるいは社会的な責任を果たすべく、NPOとかで活動してうまくいくと、そのうちに採算がとれ始めて資本主義に吸収されたりします。市民社会とは、その意味で、確定した領域をもっているわけではなく、つねに自己の領域をつくりつづけていかなければならないものです。
 いずれにせよ、逆説的だけど、国家にしても資本主義にしても、人間がお互いに責任感をもって行動しているような市民社会的な領域の存在を許すだけの余裕がなければ駄目なんです。そして、この領域が増えてくると、たんなる資本主義の単純な私有財産の枠組みにも、国家が定めた法律の枠組みにも入りきらないプラスアルファが、市民だけでなく、会社にも要求されるようになってくる。ここでちょっと私的所有権じゃないところに入っていくんですね。(pp.226-227)

(三浦)そんなことはないでしょう。岩井さんのお話を伺って、カントの歴史的意義がわかったという人もたくさん出てくると思います。とくに思想が真理へと進化するという考え方は画期的ではないでしょうか。
岩井 いろいろな権利が体の一部のように人間に備わってしまうということですね。また、基本的人権とは違ったさまざまな権利もありうる。でも、それらの確立は難しいかもしれませんね。でも、いままで人間としての扱いを十分に受けてこなかった人間がいろいろな権利をもつということは、やはりカントの自己循環論法の領域ですね。お互いの尊厳性を認めあうということが権利というかたちで定着してくるわけです。
(三浦)だけど、繰り返しになって申し訳ないですが、岩井さんの考えが刺激的なのは、つねにすべてが無意味になる地点を含んでいるからです。基本的人権は幻想なんだということも含んでいる。その幻想を受け容れて考えていくことが君たちの自由なんだと言っているように思えますね。
岩井 ただ、ぼくは幻想という言葉は使いたくないんです。幻想じゃないんです、これは。実体なんです。真理なんです。根拠がないということと、幻想であるというのは違うと思うんですよ。だから吉本さんの共同幻想という言葉も、あれは誤解を招きます。やっぱり国家は実体です。権利も実体です。社会的実体。ただその社会的実体は社会との相関関係のうちにしかないということです。そういう意味では、物理的な実体ほどの確実さはありませんけれども、しかしあくまでも実体です。幻想という言葉は、ぼくは批判としてしか使いません。
(三浦)じゃあ、建設的虚構と言えばいいかもしれない。
岩井 そうそう、まさしく建設的虚構です。ほんとうに、良い言葉です。
(三浦)その場合、建設的にウェイトを置くか、虚構にウェイトを置くかで違ってくる。
岩井 小説はフィクションだというけど、そのたんなるフィクションがある意味で現実よりもはるかにリアリティをもつものとして、みんな寝食を忘れて読んでしまうことがあるわけです。そういう作家も読者もいるわけだから、ぼくは建設的という言葉に重きを置きます。(pp.230-231)

岩井 では、このような遺伝決定論の科学的な勝利の結果、人文科学・社会科学は、エドワード・ウィルソンが言うように、すべて生命科学の応用分野に成り下がってしまうのか、というと、じつは、逆転ホームランがある。まさに、すべてを遺伝子に還元しようという動きがあることによって、逆に何が遺伝子に還元できないかが浮き彫りにされることになる。それこそ、言語・法・貨幣の存在なのです。人間が生きている世界のなかには遺伝子に還元できない社会的実体がある。人間の遺伝子をいくら調べても、そのなかに貨幣は明らかに入っていない。法はどうか。もちろん、人間には社会的規範を守るという遺伝子があるということは、最近いろいろな実験によって明らかにされています。したがって、アダム・スミス的な利己的な人間像というのは遺伝的に正しくない。人間には規範を守る遺伝子があるのだ、というわけです。こういう発見は、ぼくは大いに歓迎します。でも、それによって、ことの本質を見失うことになる危険がある。なぜならば、遺伝的な規範意識と法とははっきりと区別すべきだと思うからです。(pp.241-242)


岩井 だが、フリードリッヒ・ハイエクが指摘するには、人間の本能にとっては私的所有権ほど嫌なものはないというのです。
(中略)
 狩猟社会では財産は共有、だれが獲物をとってきてもみんなで分ける。そうじゃないと共同体的な社会組織はうまくいかない。その強い連帯意識がいちばん嫌うのはもちろん個人間の能力の差であり、さらには私有財産です。ところがあるとき、どこかの部族が私有財産制を採用し始めた。ユダヤ人かもしれないし、フェニキア人かもしれない。
(三浦)ユダヤとフェニキアは同祖だという説があります。陸の商人と海の商人。
岩井 人間の本能にはまったく反してしまうんだけど、私有財産制という慣習、さらには法制度に行き当たってしまった。突然変異なのか、だれかが理性的に考え出したのかはわからない。そして、人間の連帯意識的な本能に逆らうこの私有財産制を採用した部族なり民族は、その結果、資本主義を発見してしまい、経済的に飛躍的に発展してしまう。それを見て、対抗上、他の部族や民族も、嫌々ながら、私的所有権制度を採用せざるをえなくなった。その最終的な結果が、現在のグローバル資本主義であるというわけです。だから人間は、規範意識は遺伝的にはもっていても、私的所有権制度という法を遺伝的にもっているわけではない。法律は、遺伝に逆らって成立したんです。(pp.242-244)


岩井 こうして言語・法・貨幣を媒介として、人間は初めて抽象的な意味での「人間」として社会を形成することができる。もちろんこれらがなくても共同体はつくれるけれど、それはお互いをよく知りうる範囲に限定されてしまう。人間は、まさに言語・法・貨幣を媒介として、お互いを抽象的な「人間」として認めあうことになり、動物と違う次元の社会性をもつ存在となる。言語・法・貨幣を媒介とすることで社会を形成する生物、それこそが人間の本性なのです。(p.255)
(三浦)(ドーキンスのミームに言及)
岩井 たしかに、僕の理論はそれに近いと思うけれど、自己循環論法としての言語・法・貨幣を媒介した関係として、もっと正確に人間の社会性を規定している。かれらは「文化」とかいう言い方で、曖昧ですね。(p.256)


岩井 言語、法、貨幣では言語がまず根源的 近代に私有財産についての法が確立 ほとんど貨幣の成立と対応関係をもっている(p.257)


岩井 そうです。だから言語・法・貨幣の成立は、同時に「人間」の成立でもある。人間は社会的生物だけれども、言語・法・貨幣を媒介として初めて「人間」として社会をかたちづくることができる。生活をともにしたことのない相手ともコミュニケーションでき、腕力のかなわない相手とも契約が結べ、自分の欲しいモノをもっていない相手とも交換できる。人間社会というのは、個々の人間の集まりじゃなくて、抽象的な意味での人間同士の関係なのです。(p.259)

岩井 ええ。典型的なのは命名です。岩井克人だって三浦雅士だって自分で名乗っているわけじゃなくて、そういう名前が与えられていたわけです。名前は与えられるわけで、それがまさに個人なのです。
―その仕組み自体が法人の仕組みですよ。
岩井 自然人と言われているものも基本的には法人なんです。子どもは違うかもしれませんが。
―いや、すべての人間が物理的かつ社会的、つまり法人ですよ。言語・法・貨幣という社会的実体を認めなければ人間は生きていけないということは、つまり法人としての側面をもたなければ生きていけないということでしょう。
岩井 ええ。その話と市民社会の話をつなげたいと考えているのですけれどね。


岩井 『貨幣論』のなかで、貨幣論の構造と、木村敏の精神病理論とを対応させたのですが、人間の精神病理のあり方は経済の病理のあり方とそっくりなのです。社会的承認の欠如からうまれる病理とは、精神病理でいえば、たとえば鬱病の問題です。経済では、モノが貨幣によって買われないことによって惹き起こされる恐慌です。だけど、分裂病、最近では統合失調症と言わなければならなくなったみたいですが、統合失調症の場合は、これはハイパーインフレーションと同型です。たとえば、宇宙から指令を受けている、というような妄想が出てきたりするわけです。社会による承認が問題となるのではなくて、言葉が体現している社会そのものの自明性が解体してしまう。それが、自分自身が他人に支配されてしまうという妄想として表現されるわけです。言語・法・貨幣がまさに人間性の中心に存在しているのだけれど、その中心性にじつは実体的な根拠がないということを、人格的な次元で具体的に現象してしまう。それが統合失調症で、たぶん脳のケミカルな問題がそうさせるのだと思います。(p.278)


岩井 最近の、第三の社会領域として市民社会をとらえる議論にかんしては、それが市民社会を、自己完結性をもった社会、場合によっては、国家をも資本主義をも超越した社会としてとらえているとしたら、少し違うのではないかと思います。市民社会とは、基本的には、国家か資本主義のどちらかを補完する社会としてとらえるべきだと思っているのです。カントやヘーゲル的な考え方の基本は、人間は尊厳をもった存在として扱われなければならないということです。理性を持った人間は、まさに自分で自分の目的を設定できる存在であることによって、手段としてのみ扱われてはならないということ。モノとしてだけでなく、尊厳ある存在として扱われなければならないということです。お互いの尊厳がお互いに承認され、国家がそれをきちんと保証するということになって、その尊厳の承認が法的な権利というかたちをとる。法律ができれば、たとえば、尊厳をもって扱われなかった場合は、権利が侵害されたとして裁判所に訴えることができるようになる。つまり、このような国家による法的権利が確立していない状態において、人間がお互いに尊厳をもった存在として遇し遇されるということをつねに問題にしつづける場が、まさにぼくの言う市民社会なのですね。それがきちんと確定すると法治国家になる。資本主義についてはうまい言葉が思いつかないんですが。
(三浦)企業かもしれないですね。それこそ法人というか。国家において法にあたるのが資本主義において貨幣であるとすれば、その仕組みそのものでしょうね。(pp.287-288)


岩井 ぼくの研究テーマはもともと貨幣を基盤とした資本主義がいかに本質的矛盾を抱えているかということです。たとえば不均衡動学では、もし市場経済において価格が伸縮的であれば、累積的な不均衡が起きてしまう。市場経済の安定性を確保するためには、利潤原理によって動かされないなんらかの非市場的制度による歯止めが必要になるということを示しています。しかも、いま考えている会社論では、資本主義活動の中心にある株式会社というものが、まさに法人であるということによって、そのコントロールには経営者を必要とし、その経営者には信任というかたちで倫理的行動が要請されているということが主張されているわけです。つまり、ほんらい自己利益の追求が公共の利益を実現するはずの資本主義のど真んなかに、じつは倫理性とでもよぶべきものがなければならないということです。(p.291)

岩井 言語・法・貨幣に対応する市民社会・国家・資本主義という三角形モデルのなかで、国家と資本主義は安定しているように見えるけれども、じつはそれらの基盤をなしている法と貨幣は、ともに自己循環論法によって成立しているわけだから、実体的な根拠を欠いており、つねに自己崩壊してしまう可能性をもっている。言い換えれば、本来的な不安定性をかかえているということをおさえておかなければならない。不安定だからこそ、国家にも資本主義にも完全には還元されない第三の人間活動の領域としての市民社会を必要としている。市民社会的な部分が消えてしまうと、国家も資本主義もそれ自身が本質的に抱えている不安定性、矛盾によって自己崩壊してしまうことになる。その意味で、市民社会とは、国家にも資本主義にも還元されえないことによって、まさに国家と資本主義を補完するということになるのだと思います。市民社会的な部分があることによって、これは具体的に何を指すのかは難しいのだけれども、国家も資本主義もその矛盾をカバーしてもらわなければならないという論理ですね。(pp.291-292)

岩井 だから、法というのはまさしく自己循環論法なので、直接民主政となると悲劇です。専制政治も悪いけれど、すべてを国民投票の押しボタンで決めるというのはもっと悪いシステムです。
(三浦)結局は集団ヒステリーになる。
岩井 そう。だから最後に憲法があるということは、押しボタン制にしない、国民投票にかけないということです。(p.292)


岩井 株主主権論が少しでも意味をもつとしたら、まさにこのような株式市場の公共性を前提として、内向きの経営をしがちな経営者に対して、株式市場の声に耳を傾けろと叱咤激励するわけです。ところが、株主主権論をもっとも声高に主張していた人間(堀江さんと村上さん)が、株式市場の公共性を裏切ってしまうインサイダー取引をしていたというのは、弁護の余地はない。
(略)
…ぼくの会社論は、株主主権論を理論的に批判しているわけです。法人化されていない八百屋さんのような古典的な個人企業と、法人化された株式会社を混同した理論的な誤謬であると、批判してきたわけです。だから、堀江さんと村上さんにはちゃんとしてもらわなければ困るわけですよ。相手が、法律違反で負けてしまっては、理論的な戦いが成立しなくなってしまう。(pp.294-295)


岩井 (孫正義さんは金儲けから会社を育てるほうによく転換したという話の流れで)日本人はお金がそんなに好きじゃない。好きだとしても、それよりは社会的認知のほうが気になるムラ的な人たちなんだと思う。そこでみんな引っ掛かっちゃう。(p.296)


(三浦)それと同時に、やはり先ほどの大義名分もあるんじゃないですか。日本人はとくにそうかもしれませんが、世界的にもやはり冒険と金儲けだけではない。どんな会社でも、感謝、勤勉、奉仕とか掲げている。逆に言うと、それがなければ、社員が働かない。俺たちは金儲けのためだけに邁進しているというのでは働かない。岩井さんのおっしゃる市民社会的な理念というのを表向きであれ掲げなければやっていけないというところがある。極論すれば、すべての企業がノン・プロフィット・オーガニゼーションみたいなところがあるわけです。(略)
岩井 そうそう。だが、それがぼくの言う市民社会かどうかは疑問ですが。
(三浦)でも、たいていの会社は、社会のためにこの会社は設立されたとか言っているでしょう。
岩井 ええ。定款にもかならず書いてある。
(三浦)定款に「万難を排して金儲けに邁進する」と書いてある企業はない(笑)。なんらかのかたちで社会に貢献する、となっている。
岩井 シニカルに見ればそれは方便なんでしょうけど、同時に方便だけじゃないと思いますね。
(三浦)方便じゃないと思います。労働者も法人の面をもっていますから。家に帰れば夫であり、お父さんであり、会社の外には学生時代の友人もいる。敬意を払われたいという欲望はつねにあるわけだから、大義名分がなければやっていけない。
(p.297-298)


岩井 ただ、ぼくがいまやっている研究は、もう少しテクニカルな研究です。最近、経済学の影響で、人間と人間とのあいだの法的な関係も、すべて契約関係か疑似契約関係に還元しようという動きが、法学のなかでも強くなってきています。契約関係とは、基本的には、自己利益追求が基本原理です。自分の利益にならなければ、だれも契約を結ぶことを強制されません。契約自由の原則とも言われます。だが、じつは、そのような契約関係に還元することのできない人間関係がたくさんあるということを、ぼくは言おうとしているのです。
 最初の研究は、法人としての会社とその経営者との関係を分析することから出発したのですが、その後、財団法人とその理事との関係、国民と国家官僚との関係、患者と医者との関係、支配株主と少数株主との関係、子どもや認知症老人とその後見人との関係、皿には、未来世代と現在世代との関係、などなど、まさに一大領域を成していることに気がつくことになりました。これらの関係には、たとえば医者は患者の病状にかんしては、患者自身よりもよく知りうる立場にあるというふうに、絶対的な非対称性があります。そこで、この関係を契約関係として結ぼうとすると、いくらインフォームド・コンセントと言っても、医者の一方的な自己契約になってしまう可能性がつねにあります。自己契約は、契約にはなりえないというのが、法律上の大原則です。事実、最悪の場合は、契約の名のもとに、2004年の慈恵医大青戸病院事件のように、医者が患者を人体実験に使ってしまうこともありうるのです。そうすると、この患者と医者との関係を望ましいものに維持していくためには、自己利益追求を前提とする契約関係と異なり、医者の側に、患者のために治療すべしという倫理的な義務を一方的に課すことが必要になってくる。それが、信任関係といわれるもので、それにかんする法律を信任法といいます。このようにして、法の世界のなかにも、市民社会的な原理が絶対的に必要とされるという議論を展開しようとしています。(
pp.299-300)

(三浦)イスラム原理主義はアメリカのキリスト教原理主義の模倣だという説がありますね。
岩井 ええ。何度も同じことを繰り返しますが、国家も資本主義も、つねに危機を内にかかえています。法も、貨幣も、自己循環論法であるがゆえに、それ自身に自己崩壊のモードを内包している。それらは市民社会につながることでまがりなりにも維持されているのです。これまでは貨幣の側から倫理性の必要を示してきたわけですが、いまは法の側から倫理性の必要を示そうとしています。それが終わったら、今度は逆に、市民社会の側から考察をまとめてみたいと思っているわけです。(p.301)


岩井 まさにそうです。人間は根拠がないことを恐がります。自己循環論法から逃げ出そうとして、なんらかの実体をもとめてしまう。貨幣の背後に金をもとめ、労働をもとめ、極端な場合は糞尿愛をもとめる。あるいは、貨幣のような媒介を排除して、透明で直接的な人間関係なるものをもとめる社会主義や共同体主義になってしまい、まさに人間の自由をもっとも抑圧する体制を生み出してしまうわけです。国の場合であれば、宗教や民族性をもとめてしまうわけですね。(p.302)


岩井 カントの倫理論の中心には、いま三浦さんが述べられた「定言命題」があります。サンデルも解説していますが、カント以外の倫理論や正義論は、基本的には、最大多数の最大幸福のために何々をせよとか、共同体の善を促進するために何々をせよとかいった「仮言命題」として提示されています。
 だが、そのような倫理はあくまでも何らかの目的の手段でしかなく、その目的の設定には必然的に人間や社会に関する経験論的な判断を必要とします。これに対して、定言命題は法や倫理を幸福や善といった外的な目的から切り離す。そのひとつの定式は「あなたの行動の原理が同時にすべての人間にとっての普遍的な法として成立するように行動せよ」というものです。まさに経験的な世界から独立した、純粋に形式的な命令となっている。  (略)
 まさにいま、無縁性などよりもはるかに根源的な無根拠性の問題に直面している。それだからこそ、共同体的存在としての人間をとりまくさまざまな条件とは独立した、まさに純粋に形式性としての倫理の可能性について考える意味があると思います。そして、それは同時に、物理的な条件にも生物的な条件にも還元できない人間の本質とは何かを考えることでもあるわけですね。(pp.310-311)

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 引用は以上です。
 いかがでしたか。

 
 2006年の時点で既に、生物学者と議論して「遺伝子決定論」で確定だと言っているくだり、着眼の速さに脱帽です。また、引用部分にはなかったかもしれませんが、「承認が極端に欠乏すれば精神疾患になる」ということをあっさり言っています。これも不肖正田が『承認をめぐる病』という本に触れて言ったことと一緒ですね。
 「日本人はお金がそんなに好きじゃない」
 この言葉も至極あっさりと出てきます。某「学力本」のうさん臭さに気がついたわれわれは、耳を傾けたいですね。

 そして、「信任関係」のくだり。
 医者と患者との間には、情報の「絶対的な非対称性がある」、だからこそ「医者の側に、患者のために治療すべしという倫理的な義務を一方的に課すことが必要になってくる」。
 このところ「学者が目立ちたい一心で正しくないことを言ってしまう」という現象が引きも切らなかったわけですが、ここにも、本来は「信任関係」が存在すべきところなのではないでしょうか。「学者と一般人」の関係性のなかには「情報の絶対的な非対称性」があります。であれば、本来学者は間違ったことを言ってはならないのです、わたしの解釈によれば。自分の肩書を、間違ったことを言って本を売るための手段として使う学者が多すぎます。

 いみじくも、昨12月このブログで批判的にとりあげた 『ビジネススクールでは学べない世界最先端の経営学』(日経BP社)の著者、入山章栄氏は、「役に立つかどうかよりも、『おもしろいか、おもしろくないか』が僕の最大の価値基準ですね。」ということを述べていますが、
http://diamond.jp/articles/-/82877?page=2
これは考えてみると恐るべきことで、入山氏の著作で「ダイバーシティー経営」に関してわたしが引っかかった箇所、
「ほとんど男性でできている日本企業に女性を雇う必要はない」
この、当事者にとっては極めてセンシティブな内容の発言も、入山氏は「おもしろいから」もっというと「面白半分で」言っている可能性があるのですね。

 つまり、このへんの「ザコ学者」と「大学者」の言うことの価値には天と地ほどの開きがあり、われわれ一般人は、ごく少数の「大学者」の言うことには耳を傾ける必要があるが、大多数の「ザコ学者」―たとえ東大出でも、海外で博士号をとってきたのでも―は、「正しくない」あるいは「言葉の軽い」人であり、無視してよい、と理解してよいと思います。

 
 というふうにすぐ我田引水的に解釈を施してしまいますが、新年のお口直しに、大きな知性に触れるために、お勧めの1冊です。



正田佐与

シリーズ・『「学力」の経済学』批判

エビデンスに惑わされず、論理の飛躍をじっくり味わいたい、「ほめてはいけない」論―シリーズ『学力の経済学』批判

優れた先生方との交流の思い出と、正田流・教育現場いかにすれば良くなるのかの試論

中室牧子氏(教育経済学者)は、恐らくASDだと思うこれだけの理由。 シリーズ『学力の経済学』批判  

「少人数学級は学力を上げない」はウソ!―シリーズ『「学力」の経済学』批判

「学力を上げる」先生方はどこを見ているか―シリーズ『「学力」の経済学』批判

本当は恐ろしい、『「学力」の経済学』がもたらす未来(1)―”中室提言”をよく見ると―シリーズ『「学力」の経済学』批判

本当は恐ろしい、『「学力」の経済学』がもたらす未来(2)―正田回答編・先生方は「経済人」ではない!―シリーズ『「学力」の経済学』批判



 ろくたび『「学力」の経済学』(中室牧子、ディスカヴァー・トゥエンティワン)。

 お待たせしました、”中室提言”に対する「正田の回答編」です。

 1つ前の記事では、「中室本」の第4章・第5章を丁寧にみたうえで、”中室提言”のまとめとして、

1.少人数学級に「しない」。40人学級を維持(一部貧困地域では35人学級でもよい)
2.子供に未来のおカネの話をしておカネのご褒美を出すと学力が上がる。ほめない
3.質の高い先生とは学力を上げる先生である
4.先生の質を高めるには、「おカネ返して方式」の「負の成果主義」と「教員免許制度の撤廃」
 

と、いうことでした。

 これに対してわたくし正田の回答は、いくつかの項目がありますので、最初にまとめておきましょう。


【1】再掲・正田試論:
(1) 少人数学級―目的は、「普通の先生」でも「スーパー先生」に近いことができるようになること
(2) 承認+個人面談その他きめ細かい指導
(3) 先生方の経験交流

【補足】少人数学級の財源問題を考える

【2】最も経済効果が高いのはどんな教育か?
一人勝ちは経済効果が低い!
おカネで子供を釣る<精神的報酬を与える+人間関係を良くする+人格教育をする+自己効力感を与える
【補足】”中室提言”3.の質の高い先生とは本当に2.おカネで釣る、ほめないをやっている先生なのか?

【3】先生方は「経済人」ではない!
「おカネ返して」の成果主義で釣る<先生方に精神的報酬を与える

【4】アメリカ方式直輸入でダメになった日本企業の轍を踏んではならない
導入にはブリッジング試験が必要

【5】ランダム化試験そのものに潜む限界:本当に有効な手法はむしろ測れない
「つぎはぎ提言」は正しくない!多剤併用試験が必要



 それでははじめたいと思います―

【1】再掲・正田試論:
(1) 少人数学級―目的は、「普通の先生」でも「スーパー先生」に近いことができるようになること
(2) 承認+個人面談その他きめ細かい指導
(3) 先生方の経験交流

 詳細は、今月3日の記事(優れた先生方との交流の思い出と、正田流・教育現場いかにすれば良くなるのかの試論 )に書かせていただきました。
1つ前の記事を見て「じゃああんたは教育あるべき姿はどういうものだというんだ?」というリアクションをされる方もいらっしゃいましたが、ここの記事で言いつくされています。

 個々に向き合うきめの細かい指導とセットにした「少人数学級」は、大きな効果を上げます。企業では、「承認+個人面談」は、学齢期の子供たちと共通の問題をもち指導しにくい今の若い人たちにも非常に有効だということがわかっています。もちろん極端に人数の大きな部署というのはその場合あり得ません。
 そして、今も10人に1人ぐらいはいる「スーパー先生」から他の先生が学べるよう、経験交流の時間を頻繁にとります。ここでも「承認」をベースにした対話が大きな効果を上げます。マネジメント層の方々は、ぜひそこで経験交流のためのファシリテーターの役割を果たしてください。
 「少人数学級」以外のことは、大きな予算措置を必要としません。

【補足】少人数学級の財源問題を考える
 でも「少人数学級」財源をどうするかって?
 35人学級を40人学級にすると86億円が浮くとのことでしたが、これは単純に、学級定員を5人減らすごとに86億円支出が増えるということだと思っていいんでしょうか。2015年度文教及び科学振興費全体は5兆3,600億円余で全体の5.6%でした(医療福祉費は31兆円)。もし30人学級にしたら86億円、25人学級にしたら172億円増えるんですね。それぐらい何とかなりませんか。国民1人当たり172円の増ですよね。

 わたしが思うのは、産業界によびかけて、法人税に上乗せした目的税にできないのか、ということです。未来の産業人を作るための重要な投資です、15年後には確実にリターンがあります、と言って。逆に今これをしなければひょろひょろのもやしっこしか入ってきませんよ、求人難倒産かメンタルヘルス倒産になりますよと言って。先生方は夜中までプリントつけして家庭生活も削ってるんです、普通の生活ができるように、企業で分担し合って先生を余分に雇うつもりになりませんか、と言って。公的教育が充実すれば、社員さんがたも子弟を私学まで行かさなくても地域の公立学校でいい教育を受けさせられますよ、と言って。だめでしょうか。 

 そういう、「今40人だから5人減らして35人にしてよ」「それには予算が―」みたいな、ちまちました議論ではなくて、「まずあるべき姿から」の議論をしてもいいと思うんです。企業の側は、むしろエビデンスなどなくても、部署編成をフラット化の30人40人ではまずいと思ったらすぐ昔同様の10人7人の規模に戻しているわけです。そういう判断が学校には随時出来なくて、身動きとれないというところが気の毒なんです。

 そのためにやっぱりエビデンスが全然無いのもまずいので、どこかモデル校で始めてほしいなあ、とせつに思います。「少人数学級が単独でどうか」ではなくて、「少人数学級+承認、きめ細かい指導」のセットで、2剤併用の形で。

 ただし、「ランダム化比較試験」にこだわる必要もないのではないか、とも思います。そのことは【5】で。



【2】最も経済効果が高いのはどんな教育か?
一人勝ちは経済効果が低い!
おカネで子供を釣る<精神的報酬を与える+人間関係を良くする+人格教育をする+自己効力感を与える
【補足】”中室提言”3.の学力を上げる質の高い先生とは本当に2.お金で釣ってほめないをやっている先生なのか?

 「おカネで釣る」。「中室本」には、ことのほか頻繁に出てきます。第2章で「お金でご褒美を上げても『よい』」。第4章で「将来のお金の話をすると、学力が上がる」。

 このくだりをみて、ひょっとしたらこのブログ読者の方は、いや〜な気持ちになった方もいらしたのではないでしょうか。わたしなどは、3人の子供をお金で釣ったことはほぼゼロ回に近いです。それでも子供たちは自分のお弁当をつくり、おせち料理をつくり、その年頃の子の中ではダントツで家事をする子たちでした。「子どもをお金で釣ることは、よくわからないけれどしてはいけないことだ」というタブー意識がわたしの中にはありました。読者の中にもそういう方はいらっしゃいますでしょうか。それは意味のないむだなタブー意識で、打破したほうがいいものなのでしょうか。
 いや、その勘は正しいと思います。

 『経済は競争では繁栄しない―信頼ホルモン「オキシトシン」が解き明かす愛と信頼の神経経済学』(ポール・ザック、ダイヤモンド社、2013年8月)では、「お金の話をすると人は道徳性が低下する」という話が出てきます。
(詳しい読書日記はこちら わが国ではハグはちょっと―じゃあ、どうする?神経化学物質オキシトシンの知見『経済は「競争」では繁栄しない』
「プライミング」(暗示)の実験で、お金を一瞬見せられお金について考えるよう仕向けられたグループは、他人を助けたり、他人に助けを求めたりする度合いが低く、一人で物事をこなす可能性が高まった。また、面接のために椅子を並べるように頼まれたとき、お金について考えるようにプライミングされたグループは、他人とのあいだに物理的に大きな距離を置いた。


 つまり、子供たちをお金のために頑張るよう仕向けると、人と助け合うより自分一人が勝って儲かればよいという「1人勝ち大好き」の人になってしまう可能性があるのです。このやり方で学力が上がったしても、そこで作った「学力」は、「人を蹴落とせ」という競争心を土台とした学力である可能性があるのです。
 人の個体差について考えるのがすきなわたしが考えるに、子供たちの中には、確かに生得的に「お金」がすきな子がいます。お金の価値観をもっている、という子。そういう子には、確かに「お金」をイメージさせて訴えるのが、勉強させるにも有効かもしれません。
 しかし、それはその子たちの個別指導で使えばよろしい。お金がとくに好きではない子まで、お金をインセンティブに使う必要はありません。従来通り、学ぶことそのものの楽しさを先生の言葉で伝えていただければいいと思います。
 「中室本」では、「学力を上げる先生が質の高い先生だ」と言います。子供たちの学力を上げた先生が、20年後も子供たちの収入を高めていたと。
 しかし、個人として「収入の高い」人を作ることが経済効果と言えるかどうか。
 わたしたちは、早期教育が作ったのか何が作ったのか、個人として優秀だがきわめて競争心の高い人物をビジネスの中でみることがあります。自分の周りのちょっと優秀な人を目障りだからと平気で潰してしまい、その人の半径10mぐらいにはペンペン草も生えない。そういう人は、自分自身は稼いでいても、周囲の人の年収を下げているはずです。したがってその人を育てたことの経済効果は、その人が潰した周囲の人まで込みでみた場合、非常に低くなるはずです。
 そうした「長期毒性」は、「中室本」の「お金で釣って勉強させる」方式について、まだ全然明らかになっていません。
 
 一方で、「正田試論」の記事の中に出て来た「スーパー先生」は、そのような優秀だが競争心が極端に高い人物を作っていたのではありませんでした。人格教育をし、1人ひとりの良いところを見出させ、優秀な子にはその優秀さをいかんなく発揮させながら、同時に周囲の子に思いやりを持つように仕向けていました。
 こういう子は、将来収入の高い人になった場合でも周囲の人の収入をも高めることができるのです。そういう人を作ってこその経済効果ではないでしょうか。
 競争ということも生まれつきの価値観で好き嫌いがあり、わが国では競争があまり好きではない人が多いようです。それに比べアメリカ人は比較的競争を好むところがあります。
 わが国で従来、優秀な人を作ってきたやり方をだいじにした方がよいのではないでしょうか。


【補足】”中室提言”3.の学力を上げる質の高い先生とは本当に2.お金で釣ってほめないをやっている先生なのか?

 「中室本」では、「学力を上げる先生が質の高い先生」という知見と、「学力を上げるためにはお金の話をしたほうがよい」という知見が無造作に並べられているので、じゃあ学力を上げ、20年後まで本人の収入を高めていた先生がやっていたことはそれだったのか、と錯覚してしまいそうです。しかし、この両者がつながっている保障はありません。
 「学力を上げる先生が質の高い先生」という知見を導き出した「チェティ研究」は、(1)1人の子供の学力の向上(2)その子の20年後の収入を追跡調査したもので、学力を上げた先生が具体的にどんなやり方で学力を上げていたかまではみていません。"中室提言”2.と3.は、まったく別々に出て来た知見です。むしろ、「チェティ研究」に出て来た優秀な先生は、わが国の「スーパー先生」と同様に、良い人間関係、高い道徳性に立脚した学力向上をやっていた可能性が大だと思います。
 「スーパー先生」たちが何をやっていたか。「結果変数」ではなくほとんどの瞬間、「媒介変数」のところを見て、つまり数字で測れない定性的な子供たちの様子を見、またそれらを「小目標」」として念頭に置いて仕事をしていた可能性があります。というお話を、こちら(「学力を上げる先生」はどこを見ていたか)に書かせていただきました。
 わが国でもし「チェティ研究」的なものをやるのであれば、今国内で高い学力向上をもたらしている「スーパー先生」方の生徒さんたちの「その後の収入」プラス「対人的行動様式」を追うといいかもしれませんね。そのうえで、先生方のやっていることを「解剖」するなら、それは意味のある研究になるだろうと思います。


【3】先生方は「経済人」ではない!
「おカネ返して」の成果主義で釣る<先生方に精神的報酬を与える

 1つ前の記事では、先生方の質を向上させるために、成果主義が試みられたがあまり成功しなかった。ところが、成果主義でも「減点法の成果主義」は効果があるという研究がある。というお話でした。
 「ふつうの成果主義」がなぜ上手くいかないか、その理由は経済学者の間でわかっていない、ということでした。
 えーっ、なんでわからないの!?とわたしなどは思います。読者の皆様、そう思いませんか?
 先生になる人というのは、基本的に「人がすき」なんです。そうでない人は、もともとあまり適性がなかった人だと思います。そして「人がすき」な人というのは、お金がすきという価値観をあまり持っていないことが多いです。絶対に両立しないとは言いません。でも多くは、「仕事はお金のためにやっているのではない。生徒やお客様に喜んでもらえるためにやっているのだ」と思っています。そういう人が多く分布している業界だと思ってください。
 経済学者にとっては「想定外」かもしれませんが、「経済人(ホモ・エコノミクス)」ではない人びとがいるのです。お金で釣られても心が動かない人びとがいるのです。
 それなのに「動け!」とばかり、「減点法の成果主義」まで実験してしまうというのは、知らないからとはいえなんと残酷なことでしょうね。「経済学者=バカ」という式がわたしの頭で渦巻きます。
「40人学級を維持した上で、先生方には残酷な負の成果主義を」
"中室提言"が言っているのは、とどのつまり、そういうことなのです。それで学力向上したからといって全然威張れません。わたしには、神をも懼れぬ行為をしているとしか思えません。そのやり方で単年度ぐらい学力向上の効果が上がったとしても、遅かれ早かれ先生の鬱休職や離職が続出するであろうことは火をみるより明らかです。中室先生ちゃんと責任を取っていただけますか。それを決定した役人も責任取れますか。

 逆に、学校の先生のような感情労働の人たちは「承認人」という概念が当てはまります。経営学で「承認論」を提起した太田肇氏の造語ですね。
 先生方に奮起してもらいたかったら、「承認」してあげればよいのです。多くは、「教室の王様」で、逆にだれも自分の仕事を監督してもらえない立場で実は「承認」に飢えています。マネジメントの人たちが細かく授業をみて、先生のちょっとした教材づくり、ちょっとした子供たちとの関わり、ちょっとした判断、を賞賛してあげたらどうでしょう。あるいはその自治体の首長や地元出身の有名人が―たとえばうちの神戸市だったら藤原紀香とか―が、しょっちゅう学校を視察して先生方にねぎらいの言葉をかけたらどうでしょう。
 そういうことをまだランダム化比較試験でやってみたことがないんですよね?たぶん、経済学者さんが興味を持たなそうなところですよね。
 でも経済学者さんが考えるほど、多くの人は「経済人」じゃないんですよ。そろそろ、そういうことを受け入れなくちゃ。

 
【4】アメリカ方式直輸入でダメになった日本企業の轍を踏んではならない
導入にはブリッジング試験が必要

 上記の「成果主義導入」と関連しましたが、実はひところ「アメリカ式」を繰り返し輸入して、どんどんダメになった分野があります。経営学です。
 『企業の錯誤・教育の迷走 人材育成の「失われた10年」』(青島矢一編、東信堂、2008年)という本では、バブル崩壊後に自信を失い、アメリカのビジネススクールで生まれた手法をどんどん輸入した日本企業の迷走ぶりを描いています。
(詳しい読書日記はこちら何を失ったのか、何を回復しなければならないのか―『企業の錯誤・教育の迷走』

 ここでは、「成果主義導入」で日本企業の営業組織・研究組織がそれぞれどうなったか、が出てきます。
 
 
営業職では・・・、
 転勤時の得意先の引き継ぎをしなくなった。引き継いでも、特に親しい顧客には「後任に引き継ぎ後半年たったら自社製品の購入をやめてください」と依頼する。
 随行営業をしなくなった。
 若手営業員の定着が悪化した。それまで離職率が低かったA社でも、2002年に入社した営業部員の3分の1が2005年までに辞めた。
 ・・・と、競争の「負の側面」が大きく出てしまいました。

 研究開発職では…
 創造性のある研究員を業績給でつくることはできなかった。創造性のある研究員が求めているのは金銭的報酬ではなく、インフォーマルなフィードバック。(もろに「承認」ですね)しかし業績給導入の結果、インフォーマルなフィードバックは減少した。
 組織としての創造性を発揮するには、部門間協力が必要だが、業績給で評価基準が明文化されると、協力にかかわる関係構築の作業が捨象されてしまい、部門間協力がわるくなる。(⇒実はこれも「承認」の応用で解消することがわかっている)



 さあ、では学校の先生の世界に「(減点法の)成果主義」を導入したら何が起こるでしょう?
 生徒の成績の改ざんなどは容易に起こりそうですね。また、ノウハウを教えない、承認しあわない、協力し合わない。

 もともと日本人はアメリカ人に比べて不安感が高く、競争心の低い人が多いので、わが国で成果主義を入れたら負の影響がもろに出やすいのです。喜んで競争して頑張る人などほんの少数、大半は他人の足を引っ張るという後ろ向きの頑張り方をします。

 さて、医薬品の世界には「ブリッジング(橋渡し)試験」というものがあります。
 アメリカで一通り開発して臨床試験までクリアした医薬品も、日本人では体質の違いで効果が弱かったり、副作用が強く出たりする可能性があります。日本人での安全を確認するため、数年にわたってもう一度日本で臨床試験をします。

 経営学の分野でも教育学の分野でも、「ブリッジング」は必要です。体質が違うものを試しもせずに入れるべきではありません。ただでさえ日本人とアメリカ人は、「不安遺伝子」の出現率において両極端。その他いくつかの「性格」に相関することが分かっている代表的な遺伝子型の分布もほぼ正反対、それぐらい、民族の「気質」が根本的に違うのです。
 いくらハーバードでいい結果が出たという知見でも、わが国で即政策として取り入れるようなことはないように願います。



【5】ランダム化試験そのものに潜む限界:本当に有効な手法はむしろ測れない
「つぎはぎ提言」は正しくない!多剤併用試験が必要


 ランダム化比較試験にこだわると、現実問題として、4つ前の記事(「少人数学級で学力は上がらない」はウソ!」にみた赤林研究のように、倫理的問題を避けるあまりきちんとした差が得られない結果に終わるという問題がついて回ります。

 医療でも臨床試験で治療群と対照群に分けるときにかならず倫理的問題が多少はあるわけですが、こと子供の教育は、対象が子供さんなので、自己決定に基づき参加する臨床試験より倫理的問題がより大きくなります。

 すると、全然思い切ったことがやれない。結果的に、現場が考える、実際に成功体験もあるような、本当に効果的な手法というのは、ランダム化比較試験では検証できないことになります。これはもう自己撞着のようなものです。

 だから、現場の感覚からいうと「なんで、そこ!?」というような、どうでもいいような仮説ばかり立てて実験してるじゃないですか。


 なので、いくら米教育省が「エビデンスはランダム化比較試験のことを言う」と明言したからと言っても、米国は米国、追随しないでいいと思います。たぶん多くの先進諸国で20人学級を導入したとき、いちいちランダム化比較試験で決めてはいないだろうと思います。「現場感覚」で決めたと思います。



 そして「つぎはぎ提言」の問題―、
 例えば、
(1)上記の「3.質の高い先生は学力を上げる先生」という知見と「2.学力を上げるためにはお金で釣る、ほめない」という知見をくっつけて提言するのは正しいか?
(2)また「3.質の高い先生は学力を上げる先生」という知見と「4.先生の質を高めるためには減点法の成果主義と教員免許制撤廃」をくっつけて提言するのは正しいか?
 (1)に関しては、チェティ研究に登場する質の高い先生たちが、現場でどんなことをやっていたかをみないといけません。2.お金で釣る、ほめない ではなかった可能性が大です。
 「お金で釣る」でみることができた学力向上はあくまで1学年の短期的な結果です。そのために何年にもわたって努力できるかどうか、は未知数です。一般には、お金によるモチベーション向上効果は短時間しか持続しません。
 また(2)提言3.と提言4.をくっつけることは正しいか?
 それはチェティ研究に出て来た質の高い先生が、「減点法の成果主義」でつくられたわけではない、ということです。「減点法の成果主義」というのは先にも述べたように、ものすごく非人道的な方法なのですが、それをやって先生方が1−2年は頑張れたとしても、数年内に息切れして鬱になっていくかもしれません。だれが責任をとるんですか。学級定員にもからむ問題ですが、先生方が鬱で休職する、離職するという問題も「コスト」としてきちっと扱わないといけません。現実にあることなのですから。

 こういう、現実にはつながっていない「つぎはぎ提言」、入山章栄氏の「複数次元のダイバーシティーを同時に導入しよう」という提言もそうなのですが、それが正しいかどうかは、その「つぎはぎ提言」を「多剤併用試験」として、新たに検証する必要があります。上手くいかない可能性が大ではないかと思います。

「質の高い先生」+「お金で釣る」でしたら、そのやり方で20年後まで収入が高かったか、また周囲の人間を潰すような行為をして複数人の総和でみると低収入になっていないか、そこまでみないといけません。
 わたしなどは、「お金で釣る」方式で育った子供さんが、将来犯罪者になる確率は普通より高いのではないか?ということを、本気で心配するほうです。

 そんなリスクのある教育を、実験できますか?

 経済学者という人種は、教育や実験の倫理的側面にあまり興味をもたないようです。わたしは多分それで、この本を読んだときイヤーな気分になりましたし第4章第5章を読んでも内容がなかなか頭に入らなかったのです。

 そんな極端なことをしなくても、今現場の先生方がおやりになっている優れた実践を「症例報告」として、エビデンスとして扱ったらいかがでしょうか。ランダム化比較試験は必ずしも必要ありません。



 以上がわたしからの「回答」です。

 この記事へのご意見、ご感想を歓迎いたします。是非、FBコメント、メッセージ、ブログコメントなどの形でお寄せください。

 
 きのう、美容院に行ってカットしてもらった25歳の美容師見習いさんは、入店5年目でした。シャンプーと掃除担当からいよいよお客さんのカットをできるように、今テスト準備を頑張っています。

「やめたいと思ったことはないですか?」
「ありますよー。シャンプーで肘の上までかぶれちゃったんです。こんな手でお客さんに触って申し訳ない…と落ち込んでいたら、お客さんが優しくて。
『頑張ってるね』
『手大丈夫?良くなった?』
『気にしないでいいのよ』
そんなふうに言ってもらうと、手治っちゃったんですよ」
「え、そういうので治っちゃうんですか」
「はい。あたしアホなんで、お客さんにほめてもらうと嬉しいんです」

ほめてもらえればうれしい、辞めないでいられる、皮膚も治っちゃう。なんと、いいご性格ですね。
そういうのが「頑張れる人」なんです。また、「周囲の人もハッピーにできる人」なんです。




正田佐与

シリーズ・『「学力」の経済学』批判

エビデンスに惑わされず、論理の飛躍をじっくり味わいたい、「ほめてはいけない」論―シリーズ『学力の経済学』批判

優れた先生方との交流の思い出と、正田流・教育現場いかにすれば良くなるのかの試論

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「少人数学級は学力を上げない」はウソ!―シリーズ『「学力」の経済学』批判

「学力を上げる」先生方はどこを見ているか―シリーズ『「学力」の経済学』批判

本当は恐ろしい、『「学力」の経済学』がもたらす未来(1)―”中室提言”をよく見ると―シリーズ『「学力」の経済学』批判

本当は恐ろしい、『「学力」の経済学』がもたらす未来(2)―正田回答編・先生方は「経済人」ではない!―シリーズ『「学力」の経済学』批判

 2016年1月14日現在、Googleで「学力の経済学 批判」で検索すると、本記事がトップページの上から2番目に出るようになっています。有難いことです。

※2017年1月5日追記:本日現在、「批判」をつけずに「学力の経済学」でGoogle検索しても、本記事がトップページに出てくるようになりました!全国の自治体や教委のドメインから多数のアクセスをいただいております。有難うございます!

 一昨年のベストセラー『「学力」の経済学』に疑問をもたれた良心的な読者の方々へ。当ブログでは、企業人向けの女性研修講師53歳が、子ども3人を公立学校で育て、、主宰するイベント「よのなかカフェ」で学級崩壊ほか教育問題をテーマに討論し、現役の優れた先生方にインタビューした経験を基に、『「学力」の経済学』のはらむ諸問題を真摯に考察しています。もしもあなたの心の琴線に触れるところがありましたら幸いです。


シリーズ・『「学力」の経済学』批判

エビデンスに惑わされず、論理の飛躍をじっくり味わいたい、「ほめてはいけない」論―シリーズ『学力の経済学』批判

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「少人数学級は学力を上げない」はウソ!―シリーズ『「学力」の経済学』批判

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本当は恐ろしい、『「学力」の経済学』がもたらす未来(1)―”中室提言”をよく見ると―シリーズ『「学力」の経済学』批判

本当は恐ろしい、『「学力」の経済学』がもたらす未来(2)―正田回答編・先生方は「経済人」ではない!―シリーズ『「学力」の経済学』批判



 ごたび『「学力」の経済学』(中室牧子、ディスカヴァー・トゥエンティワン)。

「またあ?」とこのブログを愛してくださる、心ある読者の皆様の呆れ顔がみえるようですー
 
 ほんとうは、わたしももっと楽しい美しいことを読んだり語ったりしたい。 
 でも目の前に「悲劇」が口を開けて待っているとわかる時には、やはり自分の出来ることでベストを尽くしたいのです。
 その「わかる」のも、ほかでもないわたしのポジションだからわかるのかもしれない。


 今日のお話は、『「学力」の経済学』(以下、「中室本」と略)という本が後半部分で述べているわが国の教育政策への提言、これがどれほど恐ろしいものか、というお話をしたいと思います。

 2-3日前までのわたしと同様、この本を感覚的に「不愉快だ」と感じ、それゆえに「黙殺してよい」「まさかこんなことが実現するわけがない」と思っていた、良心的なわたしの友人の皆様。ぜひ、この恐ろしさを共有してください。そしてまた、これは論理的によく見ると破綻している、しかし役人が騙されていそうだ、ということも。
 
 大まかに言うとそこには、「教師も子供もカネで釣れ」という”思想”が流れています。しかしそれを実現した場合、どんなことが起きるのか?だれが責任をとるのか?

(2017年2月13日追記:
"カネで釣る"は何故ダメなのか?実はお金の存在を意識しただけで、人は利己的になり助け合わない、孤立主義的になるという知見があります。
こちらの記事の後半で詳しくご紹介しています

●『信頼はなぜ裏切られるのか』をよむ◆次爾カネのせいでウソをつく、ネットのせいでウソをつく、信頼を損なう4つの仕草
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51952837.html

「第4章 ”少人数学級”には効果があるのか?―科学的根拠(エビデンス)なき日本の教育政策」「第5章 ”いい先生”とはどんな先生なのか?―日本の教育に欠けている教員の「質」という概念」での本書のロジックをまた、丁寧に追ってみたいと思います。


(なおお急ぎの方は、手っとり早く本記事への「回答編」を読みたい、と思われるかもしれません。
「回答編」はこちらです
本当は恐ろしい、『「学力」の経済学』のもたらす未来(2)―正田回答編・先生方は「経済人」ではない!  )



 「少人数学級は費用対効果が低い」と「中室本」は言います。学級規模を35人から40人にすると削減できる費用は86億円なのだそうです。
 ここで紹介する知見は3つ、

1.米国の「スタープロジェクト」
−少人数学級(1学級当たり13-17人)と通常学級(同22-25人)を比較したところ、少人数学級の子供のほうが学力が高く、とりわけ学齢の低い子供、マイノリティである黒人、貧困家庭の子供に対する効果が高かった
2.ヘックマン教授らの少人数学級と子供の生涯収入の推計(結果は負の相関、学級定員を5人減らすと55〜77万円の減収)、
3.慶応大の赤林教授らの横浜市データを使った推計(学力の変化ほとんどなし)

 上記のうち、3.に関しては、学力変化がなかったのは自然実験であるため、(1)教材や教え方の工夫がなく(2)むしろ学力変化が生じないよう配慮した可能性がある(3)学力低下につながるような要因が作用し、少人数学級のメリットを相殺した可能性がある―でありデータとして依拠するに値しないことを、3つ前の記事「少人数学級は学力を上げない」はウソ!―シリーズ『「学力」の経済学』批判 」で述べさせていただきました。実は1.と2.にも似たような問題があるのではないだろうか?とわたしは思っています。

 「中室本」では、しかし、「少人数学級は学力を上昇させる因果効果はあるものの、他の政策と比較すると費用対効果は低い政策であることもまた明らかになっている」と言います。

 そして、より費用対効果(「コスパ」ですね)の高いやり方として、「教育の収益率」に関する情報を子供たちに知らせることを挙げています。つまり、「学歴が高いほうが年収が高い(=教育を受けることの経済的な価値)」ということを教えてあげると、他の「ロールモデルを見せる」などの介入よりも学力向上効果が高かった、というものです。要は、「教育を受けたほうが『儲かる』よ」と子供たちに教えてあげることです。
―さあ「カネで釣る」が出てきました―

 このあと「学力テストには学校教育の効果を測る意味はない」「都道府県別の結果も公立だけなのでバイアスが入っている。私学に多く通う東京都・神奈川県の場合残った公立校の成績をみると低く出る」などの議論は正論として、

 「少人数学級は貧困世帯の子供には効果が特に大きかったことが明らかになっています。」として、「少人数学級を全国の公立小学校の1年生「全員」を対象にするのでなく、就学援助を受けている子供が多い学校のみで導入すれば、大きな効果がみられたかもしれません」と”提言”します。

 次に、「いい先生」とはどんな先生なのか。教員の質を計測する方法として、「担当した子供の成績の変化」をみるという方法があり、この学力の変化を「付加価値」というそうです。

 ここで出てくるのがハーバード大学のチェティ教授らの研究。「全米の大都市圏の学校に通う100万人もの小・中学生のデータと納税者記録の過去20年分のデータを用いて、付加価値が教員の質の因果効果をとらえるのに、極めてバイアスの少ない方法であることを明らかにしました」。さらに、質の高い教員は、10代で望まない妊娠をする確率を下げ、大学進学率を高め、将来の収入も高めているということです。

 では、教員の質をどうやって高めるか。

 「成果主義」はどうか。あまり効果があがらなかったようです。「成果主義が教員の質の改善につながらない理由は、実のところよくわかっていません」と「中室本」はいいますが、ここは「つっこみどころ」が大いにありそうです。
 ところが、同じ成果主義でも「減点法の成果主義」は効果があるという研究が紹介されています。ボーナスを「失う」という設定。最初に一定のボーナスを受け取るが、学年末に目標の付加価値を達成できなかった場合はそのボーナスを返還する。このグループは成績が上がったそうです。人間がいったん得たものを失うのは嫌だと思う気持ちを逆に利用して、教員の質を高めることに成功したと「中室本」では賞賛します。ハーバード大学のフライヤー教授の研究。

 読者の皆様、どう思われますか?「ええい、ボーナスを出すと言っても働かないのか!じゃあボーナスを取り上げてやる!」と、いかにも機械論が行くところまで行ったような、サディスティックな実験。
 先に「つっこみどころ」と言いましたが、そもそもこういう実験をする人は、学校の先生がなぜボーナスを約束してもパフォーマンスが上がらないのか、その理由を特定できていないのです。だからこんな、まさしく「人体実験」のようなことができる。
 いくら財政負担が少ないやり方だからといって、こんなやり方をされたのでは教師はひとたまりもないでしょう。すいません、このくだりを入力しながらわたし自身はちょっと涙が出てきています。

 たぶん、中室牧子氏の中にはこういう実験をみても「残酷だ。かわいそうだ」などという感情は動かないのです。なぜならこの人は元々経済畑の人で、「経済人」というモデルに慣れてしまっているので、そのモデルが正しいと証明するためにはどんな手段をとることもいとわないからです。
 
 このあと、「教員研修は教員の質に影響しなかった」という研究を紹介。(しかし、どういう内容の研修をどういうデザインでやったか、は言及なし。統計学者らが実験デザインにこだわるのと同様に、研修もデザインがダメであればどんないい内容でもダメ、という場合があるのですが)

 そして「中室本」が教員の質を高めるために「決定打」のように太字で推すのが、
 教員になるための参入障壁をなるべく低くする、つまり教員免許制度をなくしてしまう
 というやり方です。
 経済学者の間では教員免許の有無による教員の質の差はかなり小さいというのがコンセンサスなのだそうです。
 ―なぜここで「経済学者の間では」が出てくるんでしょうね…教育学者は出てこないんでしょうね…既得権益者だからでしょうかね…

 まとめると、「中室本」の「政策提言」とは、

1.少人数学級に「しない」
2.子供に未来のおカネの話をすると学力が上がる
3.質の高い先生とは学力を上げる先生である
4.先生の質を高めるには、「負の成果主義」と「教員免許制度の撤廃」
 

 どうでしょう。
 対子供部分はこれに、第2章で出て来た「ほめ育てはしてはいけない」「お金のご褒美はあげてよい」も組み合わせると、
「子どもはおカネで釣って勉強させる。ほめるなどの精神的報酬は与えなくてよい」
という結論にもなります。また、
「クラスの人間関係を良くするなどの取組は学力向上に寄与しないので、しなくてもよい。おカネおカネで走らせればいい」
という結論にもなりそうです。

 はい、これらの提言や結論が「OK」だと思う方。



 わたしの予想では、このブログを続けて読んでくださっている方々は、こんなのはそもそも頭から信じないでしょうし、「まさか、こんなことを真に受ける人がいるわけないでしょ」と思われると思います。
 ところが、どうもそうではないのです。
 わたしたちが自然と共有している「常識」を全然共有しないまま、この本を読み、そして「数字で証明済みなことだけがやるに値することだ」と信じてしまう層の人がいるのです。主にアカデミズム、そして役人の中に。

(大きな声では言えませんが、かれらの中にASDはすごい高率で分布しています。基本的に対人不安が高くて、現場に足を運んで人と話すなんてしたくない、そこに「数字だけで判断すればいいですよ」という「中室本」の”主張”は、すごく魅力的です)

 そしてたちの悪いことに、「中室本」は「老婆」「お母さん/母親」などの言葉で、実体験を貶めてしまいます。また「米国の教育省は、落ちこぼれ防止法の中で、エビデンスとはランダム化比較試験に基づくものであると明言しています。」なんてことを太字で書き、「エピソードのシリーズ(医療で言う症例報告)」にも全然価値がないように言ってしまいます。
 
 そのルールは米国だけにしておいてください。どうせ教育省に同窓生でも送り込んだんでしょう、と思います。



 さて、「数字を持ってる女」中室牧子女史の言う通りの未来が出現してしまうのでしょうか。子供たちを精神的報酬を与えないままおカネで釣り、40人学級を変えないまま先生方を「カネ返して方式」のムチでしばき「学力がすべて」と学校をギスギスした空気にする。

 読者の皆様、それをお望みになりますか?

 「そんなの、イヤだ」と思われるなら、この”主張”にきちんと反論しなくちゃいけません。
 「数字に反論するなんてムリ」なんて思わないで。

 
 次回の記事は、「数字に弱い女」正田の「回答編」です。さあうまくいきますかどうか…。応援してくださいね!






シリーズ・『「学力」の経済学』批判

エビデンスに惑わされず、論理の飛躍をじっくり味わいたい、「ほめてはいけない」論―シリーズ『学力の経済学』批判

優れた先生方との交流の思い出と、正田流・教育現場いかにすれば良くなるのかの試論

中室牧子氏(教育経済学者)は、恐らくASDだと思うこれだけの理由。 シリーズ『学力の経済学』批判  

「少人数学級は学力を上げない」はウソ!―シリーズ『「学力」の経済学』批判

「学力を上げる」先生方はどこを見ているか―シリーズ『「学力」の経済学』批判

本当は恐ろしい、『「学力」の経済学』がもたらす未来(1)―”中室提言”をよく見ると―シリーズ『「学力」の経済学』批判

本当は恐ろしい、『「学力」の経済学』がもたらす未来(2)―正田回答編・先生方は「経済人」ではない!―シリーズ『「学力」の経済学』批判

お世話になっている皆様

 遅くなりましたが、あけましておめでとうございます。正田佐与です。
 暖かかった3が日、皆様はいかがお過ごしになりましたか。
 本年もどうぞよろしくお願いいたします。
 
※このメールは、正田が過去にお名刺を交換させていただいた方・イベントやセミナーにご来場いただいた方にお送りしています。ご不要の方は、メール末尾にありますURLより解除ください。
(解除方法が変わりました!詳細はメール末尾をご覧ください)


 本日の話題は:

■“百家争鳴時代”に正しくあるために―
 年頭のごあいさつをお送りします

■頭の体操(1)「少人数学級は学力が上がらない」は本当か?

■頭の体操(2)「ほめると子どもはダメになる」は本当か?

■頭の体操(3)「ダイバーシティー経営は儲からない」は本当か?

■障害のある人をどうマネジメントするか。「月刊人事マネジメント」連載記事を更新しました
 
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■“百家争鳴時代”に正しくあるために―
 年頭のごあいさつをお送りします

 今年も、わたくし正田は「承認研修」を通じて、企業・組織の皆様に精一杯お役立ちをさせていただきます。
 年頭の決意を述べたブログ記事をこちらに掲載しました:

◆厳しさの復権、異論叩き、最後のセーフティーネットー力の限りお伝えし続ける「承認2016」
 http://c-c-a.blog.jp/archives/51932641.html
 ここでは、
1.「承認研修」のもつもう1つの意義―「適切な厳しさ」の復権
2.高業績を生み続けるもう1つの要素―異論を叩き続ける正田の「先生仕事」
3.教員定数削減に関する思いと、「承認企業の職場が若者の最後のセーフティーネット」
というお話をしています。読者の皆様、もし、お時間とご興味があれば、ご覧ください。

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■頭の体操(1)「少人数学級は学力が上がらない」は本当か?

 昨年6月に出版され、教育界・経済界で大きな話題になった本があります。
『「学力」の経済学』(中室牧子、ディスカヴァー・トゥエンティワン)。
 この本は、「教育政策にエビデンスを反映させよう」という主張をし、これまでになかった、「数字で語る教育」という視点を提示して話題を集めました。現在Amazon「経済・経済事情」カテゴリで1位、人文・思想・教育学の「教育」と「一般」のカテゴリでもそれぞれ1位と、大変よく売れている本です。
 この中に「少人数学級では学力は上がらない」という“知見”があります。
 40人学級を20人学級にしても、学力の目だった向上はみられなかった、という研究に基づいています。これをもとに、この本の著者の中室牧子氏(慶応大学准教授。“美人研究者”です)は、
「少人数学級は財政的に大きな負担となる施策。学力向上効果がみられないのであれば、導入する必要はない」と“主張”します。
 これは、「今のスマホ、発達障害等でかつてなく指導しにくい子どもたちを指導しようと思えば、学級定員を減らしてもらうしかない」と考える、現場の多くの公立学校の先生方にとっては、“打撃”になるかもしれない知見です。
 現場の感覚的には、「20人ぐらいの少人数学級にすれば今よりはるかに子供たち一人一人をきちっとみられ、生活指導も学力のサポートもしやすいだろう」というのが“自然”なところです。
 産業界の経営者、管理者の方が多い、このメルマガの読者の皆様は、どう思われますか?

 1分だけ考えていただいたうえで、わたくし正田からの“たねあかし”をご覧いただきたいと思います。
◆「少人数学級は学力を上げない」はウソ!―シリーズ『「学力」の経済学』はこんなにトンデモ
 http://c-c-a.blog.jp/archives/51932847.html

 このほか、『「学力」の経済学』という本は、アメリカのコロンビア大学で博士号をとったという著者の本である割には、非常に雑な、間違った記述が満載です。明らかにまったく現場を知らない、がゆえに間違っている著者によるこの本が「政策提言」をするなどはおこがましい、とすらわたくしは思います。
 是非、読者の皆様もご一緒に考えてみてください。
 わたしたちの大切な子供たちや孫たち、どんな教育を受けるのが望ましいのでしょうか。また、未来の御社の大切な戦力となる子供たちは。

『「学力」の経済学』はこんなにトンデモ のシリーズ記事はこちらです
◆エビデンスに惑わされず、論理の飛躍をじっくり味わいたい、「ほめてはいけない」論―シリーズ『学力の経済学』はこんなにトンデモ
 http://c-c-a.blog.jp/archives/51932574.html
◆中室牧子氏(教育経済学者)は、恐らくASDだと思うこれだけの理由。
 http://c-c-a.blog.jp/archives/51932830.html

◆「少人数学級は学力を上げない」はウソ!―シリーズ『「学力」の経済学』はこんなにトンデモ
 http://c-c-a.blog.jp/archives/51932847.html
◆「学力を上げる」先生方はどこを見ているか―シリーズ『「学力」の経済学』はこんなにトンデモ
 http://c-c-a.blog.jp/archives/51932903.html
 なお、わたくし正田の考える、公立学校教育のあるべき姿はこちらです:

◆優れた先生方との交流の思い出と、正田流・教育現場いかにすれば良くなるのかの試論
 http://c-c-a.blog.jp/archives/51932764.html 
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■頭の体操(2)「ほめると子どもはダメになる」は本当か?

 もう1冊、昨年暮れに「ほめてはいけない」という論旨の本が出版されました。
『ほめると子どもはダメになる』(榎本博明、新潮新書)。
 手ごろな本なので、もう、お手にとられた読者の方もいらっしゃるでしょうか。

 これについてわたくし正田はハンドルネーム「ヒトリシズカ」名で早速Amazonレビューを投稿しました。このレビューは1月8日現在、15人中13人の方に「参考になった」と支持され、この本のレビュー欄のトップに載せていただいています。

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「印税稼ぎの本」by ヒトリシズカ
 「大学教授を辞めた著者は印税稼ぎの本を書く」というセオリーは本当のようだ。2015年、著者10冊目の著書。やはり論理の粗さ雑さは否めない。

著者のロジックをよくよくみると、某教育評論家の著書からの影響なのだろうが、「ほめる教育」と「叱らない教育」を混同していることに気づく。

また、著者が今の若者の問題として挙げる「傷つきやすい、頑張れない、意志が弱い」これらは本当に「ほめる教育」の産物なのだろうか?最近の若者の世界を激変させたものとしては他にも「スマホ」そして「発達障害の急増」がある。本書にはそれらについての考察がまったくないが、「傷つきやすい、頑張れない、意志が弱い」いずれもスマホによる人間関係の濃密さや不安定さ、実体験の不足と大いに関連づけられる。また学習能力がなく同じ失敗を繰り返すなどは、発達障害であるADHDの傾向を想像させる(ADHDを含めた発達障害は急増しており、著者が名城大学を2011年に退職した後の最近の各種調査によれば、子供世代の1割弱を占めるとみられている)

こうした、今の若者を見るための不可欠の視点を欠いたまま問題と「ほめる教育」を結びつける本書の議論は極めて短絡的である。

厳しさの復権というところには賛同するが、それを成り立たせるための信頼関係の醸成には何を行うべきか?「悲しげな目」というのはいささか「古き良きニッポンの母」へのノスタルジーが強すぎるのではないだろうか?

著者は、子供さんたちが親御さんからほめ言葉すなわち肯定のメッセージを受け取れなくなるということがどれほど恐ろしいことか見えていない。その想像力不足や無責任さには暗澹とせざるを得ない。

 例えば今急増している家庭や施設での児童虐待問題をどう解決するか。親や養育者にスキルトレーニングし、スキル向上によってストレスを減らし子供さんをよい方向に導かせることが解になるが、その虐待防止プログラムの中にも「ほめる」を含めた行動理論は含まれている。社会問題解決の有効な道筋を個人的な印税稼ぎのために閉ざしてしまうこうした著者や出版社の姿勢は厳しく指弾されるべきである。
****
 いかがでしょうか。
 メルマガ読者の皆様、本を売りたい一心のでたらめな議論に耳をお貸しになりませんように。
 大切な子供さんや部下の方の教育は、正しいやり方をしっかりエビデンスを確認しながら選んでください。

 このレビューよりさらに詳しい「反論記事」はこちらです。ここでは、現在「承認研修」を受けたあと実践者である読者の方を想定して、「この本由来の変な横槍」が入ったときに困られないように、「反論法」をご指南しています:

◆余裕で反論できます。レッツトライ『ほめると子どもはダメになる』
 http://c-c-a.blog.jp/archives/51932702.html 

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■頭の体操(3)「ダイバーシティー経営は儲からない」は本当か?

 2号前のメルマガで、『ビジネススクールでは学べない世界最先端の経営学』という本の、「ダイバーシティー経営は損」という知見についての批判をご紹介しました。
 実は、この知見はそもそも「マッチポンプ」だった、ということが、この本の後ろのほうのめだたない記述まで読むとわかりました。
 このことをまたAmazonレビューに書きました。このレビューも、現在この本のレビュー欄トップに掲載されています。
****
「統計はウソをつく。心して読まれたい」by ヒトリシズカ
世界の経営学の注目トピックをわかりやすくガイダンスしてくれる本書。しかし部分部分に引っ掛かりがあり減点となった。
ダイバーシティーはタスク型ダイバーシティーとデモグラフィー型ダイバーシティーの2つがあり、前者は業績を向上させるが後者は差がないか低下させるという。これに基づき、「女性を雇う必要はない」とまで著者はいう。
いや、ここには「統計のウソ」が潜んでいる。
なぜなら「デモグラフィー型ダイバーシティー」の効果を検証するには、「デモグラフィーの多様性の一切ない企業」を一方の比較対象にする必要があり、それは多くの場合、「大学生同士で起業したてのスタートアップ期のベンチャー」という、非常に特殊な企業になるからだ。
著者は後の方で「同質性が功を奏するのは会社のステージによる(つまりスタートアップか円熟期か)」ということを言っており、つまり冒頭の知見は後者の知見と必ずセットで考えなければならないのだ。冒頭の知見は、こう言いかえたほうが妥当だ。「ベンチャーを起業したいなら、同質の人間と組んだほうが多少数字がいいという知見が出ているよ」。
こうした、意図的かどうかわからないが本書には「統計のウソ」が含まれていると考えてよい。統計学は、担当者や研究者が主張するよりは低く評価されるべきである。
****
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■障害のある人をどうマネジメントするか。「月刊人事マネジメント」連載記事を更新しました

 昨年から今年、7回にわたり「月刊人事マネジメント」(ビジネスパブリッシング社)に連載させていただいた、「上司必携・『行動承認マネジメント読本』」。
 第6回の記事を、編集部様のご厚意で公開させていただきました。
 今回は、「障害のある人のマネジメント」がテーマ。発達障害の人の急増に合わせて、発達障害をもった人のマネジメント法も後半で触れさせていただいています。

◆第六章 部下の凸凹を包んで戦力化する―月刊人事マネジメント12月号
 http://c-c-a.blog.jp/archives/51932814.html  この記事はフェイスブックで沢山の方から支持していただき、「シェア」もしていただきました。
 発達障害のお子さんをもつ当事者ご家族の方からも、わたくしのブログの発達障害関連の記事は高く評価していただいています。

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★「数字を読めない」をSYというのだそうです。しかし、昨今の状況は、「数字の裏を読む」能力が求められるようです。現役経営者、管理者である読者の皆様とともに、頭の体操、がんばりましょう。



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シリーズ・『「学力」の経済学』批判

エビデンスに惑わされず、論理の飛躍をじっくり味わいたい、「ほめてはいけない」論―シリーズ『学力の経済学』批判

優れた先生方との交流の思い出と、正田流・教育現場いかにすれば良くなるのかの試論

中室牧子氏(教育経済学者)は、恐らくASDだと思うこれだけの理由。 シリーズ『学力の経済学』批判  

「少人数学級は学力を上げない」はウソ!―シリーズ『「学力」の経済学』批判

「学力を上げる」先生方はどこを見ているか―シリーズ『「学力」の経済学』批判

本当は恐ろしい、『「学力」の経済学』がもたらす未来(1)―”中室提言”をよく見ると―シリーズ『「学力」の経済学』批判

本当は恐ろしい、『「学力」の経済学』がもたらす未来(2)―正田回答編・先生方は「経済人」ではない!―シリーズ『「学力」の経済学』批判



 よたび『「学力」の経済学』(中室牧子、ディスカヴァー・トゥエンティワン)。


「質の高い先生とは学力を高める先生だ」。

 このことに別に異存はありません。というのは、やはり4つ前の記事「優れた先生方との交流の思い出と、正田流・教育現場いかにすれば良くなるのかの試論 」で、登場していた「スーパー先生」たちは、例外なく学力を高めていたからです。

 問題は、冒頭のフレーズが、「では学校の先生は塾や予備校の先生のように、生活指導を一切せず教科の指導だけをやっていればいいのか?」という誤解を招きやすいことです。「中室本」には、そうした誤解を防ぐような記述は一切ありません。単に「そうした先生は10代の望まぬ妊娠を予防する」と書いてあるだけです。

 ほんとうは、「学力を上げる」は、「結果」にすぎなかった可能性があるのです。結果変数に至る途中経過、媒介変数のところをみないと、「学力を上げる先生」のやっていることの全体像はわからない可能性があるのです。ここでも「群盲象を撫でる」ですね。

 わたしのマネジャー教育も「10数年1位マネジャー輩出」と、やたら「業績向上」の結果が出てきてしまい鼻につくので、同じことかもしれません。ですが、「承認マネジャー」たちは、「業績を上げる」ことをそんなに強く目標として意識していないのです。というと語弊がありますが、彼(女)らは日々、「みんながいい顔で働いているか」ということに耳目をそばだて続けるのです。

 
 「教育」に関して具体的に言いますと、
 やはり上記の記事に出てきますが、「スーパー先生」たちは

1.ほめる叱るを上手く駆使して規範意識を高め、
2.ほめあいの活動などを通じて子供たちの人間関係を良くし、
3.仕事を任せてほめて自己効力感を高め、
4.小テストを課して実力を測り自己効力感を高める
5.音楽、ディベート、などの実習の中でも細かく評価し達成感を与える

ということをしていました。

 そこで学年初めなどに意識して行われていたのは、「規範維持」と「良好な人間関係」です。
 上記の記事にも出てきましたが、ある先生は学級びらきの日に
「先生はいじめは大嫌いです。皆さんがいじめをしたら、先生は体を張ってでも止めますよ」
と言われました。
 いじめをされないという安心感、次いでもう一段階上の良好な人間関係。
 「ある学校で道徳教育に取り組んだところ学力が上がった」という報道がありましたが、道徳教育も要は、人間関係を良くしいじめをなくすという意味で一緒なのです。
 「学力」に至る媒介変数としては、「規範意識の向上」「人間関係の向上」があります。

 そして、もう1つの媒介変数である「自己効力感」の取組み。「小テスト」「仕事を任せてほめる」「実習の中でも細かく評価」。ほかにも「やり抜く力」というのもあり得ますが、自己効力感の副産物と考えてもいいでしょう。

(なお、「学力が上がったことが将来の納税額の指標になる」これも、少し「カッコつき」で読みたいかな、と思います。
「学力が上がった→自己効力感が上がった→仕事でも頑張る人になった→納税額が上がった」という流れである可能性があるからです。つまり、「学力」はさらに次の「自己効力感」の媒介変数となった、という可能性。)
 

 閑話休題、あくまでわたしの感想ですが、優れた先生方は、これらの初期の「媒介変数」つまり途中経過に現れる変化のほうを、「小目標」として日々、意識しておられた気がします。上記の「承認マネジャー」たちと同様に、ですね。

 だから、「納税者をつくるのは学力かその他か」の論争には、あまり意味はないと思います。媒介変数のところを上げられる先生が、学力も上げる力量がある。媒介変数のところから学力までは、ほんのちょっとしたテクニックの問題であるような気がします。
 そして、いかに真面目な熱心な、「媒介変数の人間関係とか規範のところを良くしよう!」という意気込みに燃えた先生でも、その意欲だけでは効果が上がらないことがあります。まあそれはおおむね「承認」の問題でしょうね…。「肯定する構え」のない人だと、いくら意欲があっても空回りするはずです。

 
 「中室本」では、

1.質の高い先生とは学力を上げる先生だ
2.少人数学級制は学力を上げない

(注:2.は1つ前の記事でみたようにそのように結論づけることはできない)

というエビデンスを並べ、そこから

「学級サイズはそのままで、先生の質を高めよう」

という提言をします。

 これが、先月にも似たようなものを見ました。「入山経営学エビデンスドヤ顔本」こと『ビジネススクールでは学べない世界最先端の経営学』でみた、「ダイバーシティー」の議論における「複数のデモグラフィーを同時に多様化するダイバーシティーをしよう」という提言、この提言が「つぎはぎ」であまり意味がないのと同じです。

 この提言は以前にみたように、

「現在ダイバーシティー経営を取り入れ業績が上がっている会社がそのような状態(すなわち、3つ以上のデモグラフィーが同時に存在している状態)だから」

ということを根拠に出ています。しかし、それらの企業も初期には一歩ずつダイバーシティーの幅を広げたであろうことを考えれば、現在その企業が上手くいっていることを、これからダイバーシティーを取り入れることの根拠にはできないのです。結局身の丈に合ったやり方で一歩一歩進め、研修なども併用しながら多様な人材に慣れていくしかないのです。

 
 「中室提言」も同じです。エビデンスからこういうことが言えるからこうしよう、というのは、やはり空中分解必至、の議論です。
 1.質の高い先生とは学力を上げる先生だ のところにはそんなに問題ありませんが、
 2.の「少人数学級制」の結論が間違っているため、提言も成り立たないのです。

 すなわち、2.の学級定員のところを変えようとしない「中室提言」というのは、今40人学級で高いパフォーマンスを上げている「スーパー先生」のレベルにすべての教師がなる、ということを意味します。このことが「無理」なのは、「スーパー先生」の中に女性が極端に少ないことからもうかがわれます。

 一部に少数の「スーパー先生」がいらっしゃるにせよ、「みんながオリンピック選手になれ」と言っているようなもので、物理的に無理。そんなことはちょっと考えて常識でわからないといけません。

 「少人数学級制で学力が上がらない」というのは、1つ前の記事でみたように、「教え方や教材を工夫しないから学力が上がらない」。
 普通の先生方が発達障害の子供、スマホに気をとられている子供、LINEいじめで苦しんでいる子供、モンスターペアレント…に押し潰され疲れはてている時には、「教え方や教材を工夫しよう」と思うためにも、学級定数を減らして仕事のサイズ全体を適正化する必要があります。


 統計から言える提言、というのは、「カッコつき」で考えたほうがいいのです。わるいけど「なんちゃって提言」なのです。もともと「現場を知らない」から、中室氏らは2.の知見についての考察で「ン?おかしいな」と考えることをしなかった。そういう、「現場を知らない」がゆえの、思考の誤りがプロセスのあちこちに入りこんでいるようなものを、「個人的体験より価値がある」なんて喧伝されては、たまったものではありません。現場で格闘している先生方などのほうが、むしろ「思考の誤り」を生まない知恵をもっているものです。

1つ前の記事で見たように、統計の知見というのは、「一度に一個」のことしかわかりません。1つだけ変数を動かし、他の条件は変えないという形で行いますから。そこから生まれた知見を2-3組み合わせてできる提言というのは「つぎはぎ」になり、現場の人が知っている現実に有効そうな解の組み合わせとは違うものになってしまう可能性が多分にあるのです。



 わたし自身は、本当は元々北欧の教育がすきで、「デンマークの教育」に一時期熱中していた流れで「コーチング」に入った人間なので、「アメリカ」に依拠するのもそんなにすきではないのです。
 今はどうなのかわかりませんが、デンマークでは小学校段階は「道徳教育」「人格教育」に大きなウェートを置きます。良い人格を作り、意欲高く、他人への基本的信頼感高く育った子は、中学ぐらいからハードな勉強に耐えうるようになる。そして専門性を高め、進学していく。
わが国の「スーパー先生」たちは、結果的には40人学級の逆境の下で、デンマークに近い教育をしていたかもしれません。
 中室氏ら教育経済学者はアメリカ育ちなようなのですが、なぜ人格の共通点の少ない「アメリカ」をお手本にしないといけないんでしょうね。

 
 もうひとつ厳しいことを言いますが、上記の入山氏、中室氏とも、どうもアメリカのアカデミズムのわるいところを学んで帰ってきた人達なのではないか、と思います。
 「エビデンスであえて常識の逆張りのようなことを言ってドヤ顔」という、悪い行動パターン。
 
 「常識と違う」というのは、「現場の実感と食い違う」ということでもあります。普通の人なら、そこで
「ン?おかしいな。これは実験デザインに不備があったのかな」
あるいは、
「”統計特有の限界”を意味するのではないかな」
と考えるでしょう。
 ところが、入山氏中室氏は違います。
「どや!これが統計の凄いとこや!あんたらの『個人的体験』なんか価値のないものなんや」
ということを言う、「ネタ」に使ってしまうのです。
「統計そのものがダメなんじゃないか」という考え方は、絶対にしない。ASDの人のパターンよろしく、むきになって正当化します。
(「中室説」にはどうも、「同世代の研究者同士のごますり」も入っていそうです。ほかの研究者の導き出した結論を批判できない)

 中室氏によると、アメリカの教育政策も彼ら教育経済学者の言葉で動いているらしいのですが、恐らく、アメリカ教育経済学というのは、そういうヤクザの脅しのようなスタイルを「売り」にしてきたのではないでしょうか。中室氏などはそれの申し子なのではないでしょうか。


 中室氏自身の経歴をもうちょっと詳しく知りたい気がするのですが、あまりいい資料がありません。日本銀行に勤めていたとか世界銀行に勤めていたとかいう断片的な言葉がご本人からぽろぽろ出ます。もともと教育に興味のある人ではなかったのではないか。なぜ、それがあるとき「教育経済学」という分野に転向したのか。

 ひょっとしたら、とイヤな予感です。アメリカ帰りのスピーカー業の人によくあるんですが、何かの成功哲学にかぶれていて、「自分が世界を変える」とか「VIPになりたい」とかいう”宗教”に突き動かされていて、
「教育という分野では数字がわかると希少価値があるので、政策に関われるよ」
とききつけて、新しい分野である教育経済学を専攻したのではないか。たったそれだけのために何年もコロンビア大学で修業というのも立派といえば立派ですが、要は今のこの人のポジションは、強力な「自分マーケティング」の産物で、教育とか子供さんがたに愛情も何もないのではないか。

 で、「ASD説」のところでも書きましたが、わるいですけれどこの人の知性では本来大学の准教授とか政策提言をする立場になることはできないです。全体的な視野を欠いていますから。せいぜいシンクタンクの統計担当者ぐらいが適当です。人に迷惑を掛けないところでひっそり仕事していればよろしい。


正田佐与


シリーズ・『「学力」の経済学』批判

エビデンスに惑わされず、論理の飛躍をじっくり味わいたい、「ほめてはいけない」論―シリーズ『学力の経済学』批判

優れた先生方との交流の思い出と、正田流・教育現場いかにすれば良くなるのかの試論

中室牧子氏(教育経済学者)は、恐らくASDだと思うこれだけの理由。 ―シリーズ『「学力」の経済学』批判 

「少人数学級は学力を上げない」はウソ!―シリーズ『「学力」の経済学』批判

「学力を上げる」先生方はどこを見ているか―シリーズ『「学力」の経済学』批判

本当は恐ろしい、『「学力」の経済学』がもたらす未来(1)―”中室提言”をよく見ると―シリーズ『「学力」の経済学』批判

本当は恐ろしい、『「学力」の経済学』がもたらす未来(2)―正田回答編・先生方は「経済人」ではない!―シリーズ『「学力」の経済学』批判

シリーズ・『「学力」の経済学』批判

エビデンスに惑わされず、論理の飛躍をじっくり味わいたい、「ほめてはいけない」論―シリーズ『学力の経済学』批判

優れた先生方との交流の思い出と、正田流・教育現場いかにすれば良くなるのかの試論

中室牧子氏(教育経済学者)は、恐らくASDだと思うこれだけの理由。 シリーズ『学力の経済学』批判  

「少人数学級は学力を上げない」はウソ!―シリーズ『「学力」の経済学』批判

「学力を上げる」先生方はどこを見ているか―シリーズ『「学力」の経済学』批判

本当は恐ろしい、『「学力」の経済学』がもたらす未来(1)―”中室提言”をよく見ると―シリーズ『「学力」の経済学』批判

本当は恐ろしい、『「学力」の経済学』がもたらす未来(2)―正田回答編・先生方は「経済人」ではない!―シリーズ『「学力」の経済学』批判




 みたび、『「学力」の経済学』(中室牧子、ディスカヴァー・トゥエンティワン)。

 ググってみるとわたしと似た「主張」をしている方がいらっしゃいました。

 http://garnet.cocolog-nifty.com/miya/2015/08/post-6a94.html

 
 こちらの方のほうが多くのポイントを載せていらっしゃいますし、エビデンスも豊富です。
 まあ、「中室本」っていくらでも反証を挙げられるんですね。
 これからもどんどんこういうのが出てきてほしい。

 さて、この記事の中から1つポイントを絞ってこちらでご紹介したいのは、「少人数学級制」についての話題です。

 4. 少人数制でも学力は上がらない ×
 これはAkabayashi&Nakamura(2014)という文献が根拠です.原著は6ドル払わないと読めませんが,著者による解説が
http://synodos.jp/education/12530
 で読めます.本書でも述べられていますが,研究方法の基本は,40人クラスと,転勤等による人数増で偶然20人2クラスに分かれた場合で,差を統計的に比較するというものです.教育現場の対応としては,偶然2クラスに分かれてしまっても,急に教材や授業内容を大幅に変えて少人数制用にしているとは考えられません.40人クラスのときと20人のときで,同じ教材を使って同じような授業をしたら,学力の向上がそんなに変わらない,というのは当然です.たまたま20人になったクラスと,40人になったクラスで学力差がついてしまっては,保護者から批判の的になってしまいますから,むしろ,人数差の影響がでにくくなるように努力するかもしれません.
 少人数制の方が教育効果が高いと評価されているのは,40人では使えないが,20人ならできるよりよい授業方法や教材が使えるからです.これは,PISA調査の結果を使った国際比較でも確認されています.こんなことで,少人数制はお金の無駄というような教育政策を決められたのでは教育現場はたまりません.(太字正田)


 これ、まったくその通りと思います。読者の皆様、いかがですか。

 この「赤林研究」は「自然実験」といわれるものです。実験用に作ったのではなく、自然にランダム化比較試験に近い状況ができたのを利用してデータを調査したものです。「赤林研究」が扱った「少人数学級」のシチュエーションとはどういうものだったかというと、
 例えば、ある学校の3年生が1組2組3組まであり、各40人ずついた。そこへ、夏休みに転校生が1人入ったので、3組が41人になり、3組だけを2学期から21人と20人の2クラスに分けることになった。
 こういう場合の「旧3組」である3組と4組の成績がそれまでより上がったか?というものです。

 読者の皆様、これ、上がると思いますか?
 まず、「担任交代」があります。新たにできた「20人クラス」である3組と4組のうち3組は以前の担任がスライドするかもしれないけれど、4組は「担任交代」となります。学年の途中で担任が替わるというのは、それだけで子供たちにとっては落ち着かない要因になります。1学期の状態に逆戻りです。

 加うるに、わたしが校長の立場だったら、急遽余分にできたクラスである4組の担任には、非正規の産休補助の先生か、学校内で「無任所」だった、鬱休職明けの先生、あるいは指導力がないことがわかっている先生、などを充てるでしょうね。その学校の「エース」のような優秀な先生を充てることはないと思います。

 ですので、教え方の工夫をしない、特別な教材を使わないのに加えて、むしろ成績が「下がる」方向に働く要因があり、それがせっかくの20人学級のメリットを相殺してしまった可能性があるのです。


 要するに、「中室本」の「赤林研究」のエビデンスからいえることは、

「少人数学級にしても教え方や教材の工夫がなければ学力は上がらない」

ということだけです。

「少人数学級にしても学力は上がらない」
と言ってしまうとそれは言い過ぎになり、「×」になります。拡大解釈です。
 是非、高校の時の国語の先生のところに行って小論文として採点してもらってください、中室先生。

 なんで、「政策提言」と大見得をきった人の本をこんなに全部「裏読み」しないといけないんでしょうか。
 この人を生んだアメリカのアカデミズムがそもそも間違ってるんじゃないでしょうか。
 オボカタさんもハーバード行ってましたしね。
 最近、アメリカで本を書く女性学者さんって妙に「美形」が多いですよね。スタンフォードの意志力の先生とかね。あれ、気になってたんです。

 美形だと博士号をとったり教授になりやすい、甘々の世界なんじゃないでしょうか。


 わが国でも、大竹文雄氏、竹中平蔵氏といった錚々たる学者たちがこの女性学者さんに肩入れしてらっしゃるようですが、あなたらこんな単純なミスを読み取れないで、「下半身」でもの考えてる人、決定ですね。惑わされましたね。

 それは余談ですが、

 正田は3つ前の記事(優れた先生方との交流の思い出と、正田流・教育現場をいかにして良くするかの試論)で、「少人数学級にしたうえで承認や個別面談など個に向き合うアプローチをし、先生の相互学習も推進する」という提言をしていますが、
 少人数学級にするのは、「次の一手」をするためなんです。これって、実社会ではふつうのことです。

 統計というのは、1つの変数だけを変え、ほかは一切変えないという原則がありますから、逆に統計で測れることには元々限界があるんです。統計の専門家であればあるほど、そういう限界もある、ということを誠意をもって社会に示さないといけません。


 わたしたちの社会の未来をこんないい加減な本に決められてはいけません。


 科学と目の前の現象との乖離について、1月1日の記事に書いた中国の故事、「群盲象を撫でる」についての文章を再掲します:

 そのさまを例えるなら、言葉は悪いかもしれないけれども「群盲象を撫でる」。巨大な象という生き物の部分、部分を撫でて「こうだ」と言ってしまう、たとえば鼻に触って「長い管だ」とか尻尾に触って「ひものようなものだ」とか足に触って「木の幹のようなものだ」とか言う。もちろんそのどれも、象という生き物について正解ではない。単にその作業を、学者たちが10cmぐらいの短い物差しを当てて「何cmですね」とやっているのと同じなのではないか。学者たちはそれでも、新しい論文を書けて論文数としてカウントされて、ちょっとでも新しい要素があれば、「知的に新しい」「新奇性がある」と評価されて査読を通り、学問の狭い世界ではおぼえめでたい、「認められる」ことになる。そしてわれわれ一般人にもドヤ顔で解説する。色々と学問の世界の知見を見ているとつい、そんな感想を抱きます。






正田佐与
 

シリーズ・『「学力」の経済学』批判

エビデンスに惑わされず、論理の飛躍をじっくり味わいたい、「ほめてはいけない」論―シリーズ『学力の経済学』批判

優れた先生方との交流の思い出と、正田流・教育現場いかにすれば良くなるのかの試論

中室牧子氏(教育経済学者)は、恐らくASDだと思うこれだけの理由。 ―シリーズ『「学力」の経済学』批判  

「少人数学級は学力を上げない」はウソ!―シリーズ『「学力」の経済学』批判

「学力を上げる」先生方はどこを見ているか―シリーズ『「学力」の経済学』批判

本当は恐ろしい、『「学力」の経済学』がもたらす未来(1)―”中室提言”をよく見ると―シリーズ『「学力」の経済学』批判

本当は恐ろしい、『「学力」の経済学』がもたらす未来(2)―正田回答編・先生方は「経済人」ではない!―シリーズ『「学力」の経済学』批判

シリーズ・『「学力」の経済学』批判

エビデンスに惑わされず、論理の飛躍をじっくり味わいたい、「ほめてはいけない」論―シリーズ『学力の経済学』批判

優れた先生方との交流の思い出と、正田流・教育現場いかにすれば良くなるのかの試論

中室牧子氏(教育経済学者)は、恐らくASDだと思うこれだけの理由。 シリーズ『学力の経済学』批判  

「少人数学級は学力を上げない」はウソ!―シリーズ『「学力」の経済学』批判

「学力を上げる」先生方はどこを見ているか―シリーズ『「学力」の経済学』批判

本当は恐ろしい、『「学力」の経済学』がもたらす未来(1)―”中室提言”をよく見ると―シリーズ『「学力」の経済学』批判

本当は恐ろしい、『「学力」の経済学』がもたらす未来(2)―正田回答編・先生方は「経済人」ではない!―シリーズ『「学力」の経済学』批判



 物議をかもしそうなタイトルをあえてつけてしまいましたが、このブログの長い読者の方からみるとむしろ「自然」な結論ではないかと思います。

 わたしもきのうの記事(月刊人事マネジメント連載 部下の凸凹を包んで戦力化する)を入力していて気がつきました。別に悪意でもなんでもありません、「ASD」「発達障害」という言葉も別に差別語ではないですし。

 昨日の記事の中から、「ASD(自閉症スペクトラム障害)」について書いたところを抜き出しますね。

 またASDは、全人口の1〜2%(最新の報告では4%)を占めるとされ、「こだわりが強い、固定観念が強い」「他人の気持ちに想像力が働かない」「変化、変更が苦手」「ごく狭い範囲の仕事にしか関心がない」などがあります。


 中室氏を昨年一気にスターダムに上らせた著書、『「学力」の経済学』(ディスカヴァー・トゥエンティワン)の中の記述の1つ1つ、またロジックの1つ1つに、「これだけIQが高くてかつ定型発達の人だったらまずやらない」と思われるような、間違いや雑な(荒っぽい)記述があります。


1.1月1日の記事に取り上げたように、「ほめ育てはしてはいけない」と本の冒頭で言いきっているが、中身をみると論理が破綻している。結論ありきで、データは単に並べてみただけ。こういうのは「エビデンス詐欺」とでも言うレベルで、学者として信頼するに値しません。

2.「老婆の個人的体験」という言葉を統計学の西内正啓氏の引用ではあるが、何の疑いもなく言ってしまっている。「脳科学おばあちゃん」の久保田カヨ子氏のことだと思いますが。「老婆」って普通言わないでしょう、中室氏は40歳でかなり美形の方であるのは認めますが。

3.本当は、エビデンスの中にも「エピソード(のシリーズ)」は含まれるので、現場の個別の情報をないがしろにしていいわけではないのです。(Wikiの「根拠のある医療」の項参照)中室氏はそうしたことは一切言わないし、「老婆」「お母さん/母親」などという言葉で貶めるので、エピソードを語ることは恥ずかしいことだ、という思い込みを読者に作らせていなかったろうか。
(注:「一切言わない」は言い過ぎでした。この本の「補論」のところに、Wikiにもあるようなエビデンスの階層表を載せ、その中に「症例報告」というのも入っています。ただ、多分この人自身、「症例報告」の意味が分かってなかったのではないでしょうか)

このほかにも、

4.親を読者対象にした第2章は全体に記述が雑。1.にみるような、エビデンスと結論のフレーズのつながりが悪い例がほかにもみられ、「親をばかにしているのだろうか、この人は」と思う。逆に他の専門家、政策担当者を読者として想定した章はみたところ慎重かつ丁寧な筆運び。専門家筋からこの本が評価が高いのも頷ける。そうした、人としては不愉快な二面性も、権威にすがることが大好きな一部のASDの人の特徴を想起させる。


5.Amazonレビューのコメント欄に中室氏自身とみられる「カスタマー」名のコメントが頻繁に出てくるのだが、3.と同様、「目の前の子供さんなど現場の個別情報」を軽視し、「統計が出した結論通りに対処するのが正しい」とむきになって言い張っていた。上記のWikiのページにも、「エビデンスがいくらあっても目の前の個々の患者をみなければならない」ということは明記されているのだが。こういう人は学問をする資格も政策提言をする資格もないのではないだろうか。

・・・

 いかがでしょうか。
 このブログの長い読者の方はご存知と思いますが、わたしはもともと女性のことは応援したい方です。せっかく頭角を表した女性学者さんを貶めたいなどは、本来つゆほども思わない人間です。

 しかし、この中室氏の言動はいただけない。
 「ほめる否定」ひとつをとっても、それが現場と子供さん方をどれだけ不幸にするか、想像力が働いていない。

 で、わずかこれらの証拠だけをとっても、この人がASDである可能性は高いだろうと思います。コダワリが強く、固定観念が強いので、「エビデンス=統計データ、≠エピソード」というような記述をしてしまう。また自分が「ほめる」を嫌いなので、それを正当化するためにめちゃくちゃな論理構成をしてしまう。他人の気持ちが想像できない(ただデマゴーグ的な才能は割とあるようだ)。現場情報を軽視するのは、興味の範囲が狭いから。

 統計というのは、その専門の方に失礼な言い方をしてしまいますが、「数字遊び」のようなところがあります。数字が好きな方だったら、飽きずに何時間でも何日でもその世界に浸っていられる。で、ASDの傾向のある人に数学的才能のある人も多いですから、そこにのめり込むことも自然です。
 ただし、統計は価値のあるものですが、あくまで手段でしかないのです。目的ではないのです。目的は、目の前の状況に最適解を出していくことです。


 ASDだということがわるいわけではありません。ASDを含む発達障害の人が普通に就労機会が与えられるように、ということをわたしも願って、このブログで一貫して記事を書いてきました。
 しかしそれとは別に、思考能力の一部に重大な欠損をもったASDの人が、沢山の人の幸せに関わるようなポストにつくことは正しいか?という問題はあります。
 企業なら、マネジャーに昇格させることは正しいか?また中室氏のように、「政策提言」それも教育という、沢山の子供さんの幸せに関わる政策提言をする立場になることは正しいか?

―他社さんの宣伝をするようで恐縮ですが、「インバスケット研修」をすると、上記のような「思考の一部情報への固着傾向、i.e.くっつきやすくはがれにくい傾向」のある人はある程度スクリーニングできます。ただしインバスケット傾向も、「決断過多」のリーダーをつくってしまう危険性はあります。また人によっては、インバスケット研修について膨大な予習をして、高得点をとることができるようです。

彼女がもし社会に対して誠実でありたいなら、診断を受け結果を公表し、

「私はこういう障害を持っていてそのために大事なことをよく見落とすことがある。現実の子供や子育てには興味は全くない」

と、きちっと公表したほうがいいと思います。子育て経験がないことを、「エビデンスのほうが大事だから子育てする必要はない」って正当化しちゃいけません。ASDの知能の高い方は、よくむきになって自己正当化をやりますね。

また、「承認」の講師として実感を込めていいますが、ASDの人は一般に「承認/ほめる」を苦手とします。気の毒なことですが感覚過敏なので、通常よりはるかに大量の「不快感情」を持って生きているからです。
中室氏は、「私自身人をほめることが苦手です。ですからこの件について語れる資格はありません」と、正直に認めたほうがよいのです。そういう謙虚な姿勢があれば、障害を持った学者として認知されても、信頼されて仕事していくことができるでしょう。


 彼女の出世作である本をぱっと読んだだけでも(多くの人は気づかなかったようだが)上記のような見落とし、間違いがあったわけです。
 専門家・政策担当者向けの章については、わたしは正直、ささっとしか読んでいないのですが、ここにも親向けのパートのように、恣意的なエビデンスの選択、並べ方、無理のある結論の出し方、が隠れている危険性はあります。書き方みこそ比較的丁寧でしたが。だからわたしはあんまりまじめには読めませんでした。鵜呑みにするととんでもないことが起こるな、という感じでした。
 そういうのは是非、ほかの教育経済学者さんが出てきてじっくり検証していただきたいと思います。この人以外の教育経済学者さんのご意見が是非ききたいです。

 ひょっとしたら、中室氏は「教育経済学界のオボカタ嬢」のような存在なのではないですかねえ…。


正田佐与

 
シリーズ・『「学力」の経済学』批判

エビデンスに惑わされず、論理の飛躍をじっくり味わいたい、「ほめてはいけない」論―シリーズ『学力の経済学』批判

優れた先生方との交流の思い出と、正田流・教育現場いかにすれば良くなるのかの試論

中室牧子氏(教育経済学者)は、恐らくASDだと思うこれだけの理由。 ―シリーズ『「学力」の経済学』批判 

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「学力を上げる」先生方はどこを見ているか―シリーズ『「学力」の経済学』批判

本当は恐ろしい、『「学力」の経済学』がもたらす未来(1)―”中室提言”をよく見ると―シリーズ『「学力」の経済学』批判

本当は恐ろしい、『「学力」の経済学』がもたらす未来(2)―先生方は「経済人」ではない!―シリーズ『「学力」の経済学』批判

 「発達障害」。
 2つ前の記事(『ほめると子どもはダメになる』の批判記事)にも出てきましたが、今でも「知る人ぞ知る」の話題です。
 本当は、とてもポピュラーな障害ですのでだれもが知っておいたほうがよいことなのです。残念ながら少し古い世代の心理学者さんなんかは、タブー視していて案外知らない。

 このブログでは2013年ごろから「発達障害」についての記事が増え、14年暮れ〜15年春には、「発達障害をもつ大人の会」代表の広野ゆいさんと2回にわたる対談を掲載させていただきました。


「月刊人事マネジメント」誌に連載させていただいている、「上司必携・承認マネジメント読本」の6回目の記事を編集部様のご厚意により「公開OK」でいただきましたので、転載させていただきます。

 今回は、「発達障害を含む障害をもった働き手の戦力化」について、「承認」を絡めてお伝えします。

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 以下、本文の転載です(正田肩書を修正しました):

****

上司必携・『行動承認マネジメント読本』
〜人手不足チームのやる気と力の引き出し方〜

正田佐与承認マネジメント事務所
代表 正田佐与


第六章 部下の凸凹を包んで戦力化する

「インクルージョンの波」が来年度、職場に押し寄せてきます。4月1日から、障害者に対する〆絞姪取り扱いの禁止、合理的配慮の不提供の禁止―を柱とする障害者差別解消法と改正障害者雇用促進法が施行されます。すでに、すべての職場で障害を持った人々の法定雇用率2.0%は施行されており、ここに平成30年度には、精神障害者も対象に加わります。
 障害を持った人の受け入れについて、とりわけ中小企業などでは「負担が大きい」という声もあるようです。しかし、実際に受け入れた職場では、「人の多様性への理解が進んだ」「社員が従来より優しい気持ちになれた」という効用も大きいようです。わが国では従来遅れていた分野でしたが、法改正を機に前向きに受け止めていtだきたいものです。
 今回は、安倍政権の「1億総活躍社会」の一角を占めることになるであろう、「障害者の活用」について、また障害とまではいかない社員の能力の凸凹を包含(インクルージョン)して職場運営をしていくうえで、上司の方ができる関わりについて、解説したいと思います。

障害を持った人にどう働いてもらうといいですか?

 これについては、厚労省の改正障害者雇用促進法に関するサイトから、「合理的配慮」の事例をダウンロードして参考にすることができます。
 また詳しくは、現在数多くある特例子会社の事例が参考になるでしょう。筆者も過去に(株)リクルートオフィスサポート、東京海上ビジネスサポート(株)などの特例子会社を訪問させていただきました。そこでは、グループ会社全体で発生する事務仕事を細かく分けてタスク化し、障害のある人々に個々の特性を活かして割り振る、というやり方で戦力化していました。興味のある読者の方は、一度そうした特例子会社を見学してみることをお勧めします。障害を持った人に対するマネジメント法、採用法いずれも参考になることでしょう。

各職場レベルでは何ができますか?

 障害を持った人についても、実は健常な人に対すると同様「承認」の関わりが功を奏します。
 本連載第1章で、「行動承認」は業績向上の効果が極めて大きい「儲かる技術」だ、ということを確認させていただきました。一方で、「承認」は大きくいえば「ケアの倫理」にも「共生の倫理」にも相通じ、一律でない、多様な特性を持った人を理解し、共に働くための倫理という性格も持っています。
 またとりわけ、相手の行動を事実その通り認める「行動承認」は、障害を持った人々への支援技法である「行動療法」を起源としたものですから、そのまま障害を持った人にも使っていただけるのです。
 相手の良い行動を伸ばすこと。さらにそれを通じて相手の特性を理解するということ。本人にできていること、できていないことを、上司の方が虚心に見、正確に把握するということができます。
 とはいえ、障害を持った人の特性は本当に様々で、「対応できるのだろうか?」と不安にお感じになる方もいらっしゃるでしょう。慰めになるかどうか分かりませんが、障害者対応の「プロ」であっても、最終的には出会ったその人に合う対応法をその場に即して編み出していくしかないのです。

発達障害の人が増えているようですが?

 近年、発達障害の概念が普及したことに伴い、過去には想像できなかったほど、人口の中で大きな割合を占めることが分かってきました。今回の後半はこの人々にとって紙幅を取ってご説明します。
 発達障害は、最新の精神疾患に関する区分である米DSM-5では、大きく、注意欠陥・多動性障害(ADHD)と、自閉症スペクトラム障害(ASD)の2つに分けられます。
 ADHDは、全人口の5〜6%を占めるといわれ、大人の従業員では、「ミスが多い」「忘れ物が多い」「寝坊・遅刻が多い」「時間管理が下手、時間内に仕事を終わらない、予定忘れを起こす」などの”症状”となります。
 またASDは、全人口の1〜2%(最新の報告では4%)を占めるとされ、「こだわりが強い、固定観念が強い」「他人の気持ちに想像力が働かない」「変化、変更が苦手」「ごく狭い範囲の仕事にしか関心がない」などがあります。
 ADHD、ASDの両方の傾向を併せ持った人も多くいます。診断を受けていない人も含め、筆者の実感値としては就業人口の約1割は、発達障害かそれに近い、職場で特別な配慮を要する人がいます。
 上記の特性を持つ部下がいた場合、もし発達障害についての知識がないと、上司は戸惑い、また深刻に悩むことになるでしょう。こちらが適切に指示を出したつもりでも、こうした特性を有するために指示を取り違えたり、忘れたり、間違ったやり方で仕事をしてしまうことが往々にして起こります。
 実は、発達障害を持った人は職場でメンタルヘルス疾患になるリスクも高いですし、叱責しているうちに上司の方がパワハラに該当する言動をとってしまうということも大いに起こりえます。無用なトラブル回避のためにも、発達障害についての知識はこれから不可欠になっていくでしょう。
 発達障害は、軽度の症状の場合は職場での環境調整によって無理なく仕事をしてもらうことができます。環境調整とは、例えば、
●ミスが出やすい状況を見極め、予防する。周囲からの声かけやミスの影響が少ない職務への転換など。
●視覚優位の人が多いため、文書や図示などの方法で指示を出す。ある企業では「メールによる指示出し」を徹底し、ミスを減らした
●こだわりが強く変化に弱いASDの人に対しては、変更内容や変更の理由背景などの説明を徹底する
などです。
 こうした配慮をしても限界がある場合には、次の段階で本人にこの特性のために問題が起きていることを伝え(告知)、医療機関で診断を受けるよう勧めることが必要になります。ADHDの場合は治療薬があり、それによりある程度ミスを減らすことは可能です。
 ただし、この「告知」は非常に難題で、ここで上司による「起きている問題についての正確なフィードバック」が不可欠だ、と専門家は指摘します。
 上司の方にはここでまた、「行動承認」の効用が活きてきます。日頃から部下の行動を観察し、声かけし、良い行動を記憶し評価に活かすこと。これを励行していることで、部下のミスの内容回数、問題行動の種類頻度、といった情報も過度に感情的にならずに記憶・記録しておけることでしょう。
 告知はハードな壁ですが、実際には障害を受容したほうが、満足度の高い職業生活、そしてプライベートの生活を送れるようです。
 ある上司の方によれば、発達障害とみられた女性の部下に「行動承認」で関わり、プロジェクトを達成に導いた結果、部下は自信をつけて、自ら診断を受けて障害者手帳を取得し、そして結婚もして幸せに暮らしているというのです。
 仕事で達成感を味わうことが、いかに1人の人にとっての自信と幸福感の源になるか、また、とりわけ能力の凸凹を持った部下にとっては理解ある上司の適切な関わりがどれだけ助けになるか、考えさせられた事例でした。 (了)

****

 いかがでしたか。
 実は、この記事を書くために正田は障害者さんについての知識を少しでも増やそうと、「同行援護(ガイドヘルパー視覚)」、「行動援護(障害者の外出をお手伝いするガイドヘルパー)」の資格を取りに行ったりしました。しかし、この記事にそれを盛り込めたかというと…、

 ダイバーシティもメンタルヘルスもインクルージョンも。「承認」は欲張りな技術です。

 次回は「伝え方」のお話。ブログ読者の皆様は「あれだな」って、もうお分かりですね。


「上司必携・行動承認マネジメント読本」シリーズ全体の構成は:

第一章 行動承認は”儲かる技術”である(2015年7月号)
 http://c-c-a.blog.jp/archives/51919833.html
 第二章  「承認」の学習ステップ(8月号掲載)
 http://c-c-a.blog.jp/archives/51921667.html
第三章 女性活用と登用は「上司の眼差し」次第(9月号掲載)
 http://c-c-a.blog.jp/archives/51923763.html
第四章 LINE世代に対するマネジメントとは(10月号掲載)
 http://c-c-a.blog.jp/archives/51925545.html
第五章 「踏み込みすぎない」メンタルヘルス対策(11月号掲載)
 http://c-c-a.blog.jp/archives/51927183.html
第六章 部下の凸凹を戦力化に転じる(12月号掲載・本記事)
 http://c-c-a.blog.jp/archives/51932814.html
第七章 伝えたいことが「伝わる」伝え方(2016年1月号掲載)

 正田佐与

 引き続き体調不良ぎみです。

 このところの読書から思い切って離れて、わたしが3人の子育てを通して「学校の先生」をみてきた体験と、よのなかカフェで「教育」をテーマにしたり関連で何人かの優れた先生方にインタビューした経験にもとづいて、(はい、「老婆の個人的体験」です笑)思うところ考えるところを書いてみたいと思います。


 変に数字をみていると大事な直感のはたらきが悪くなってしまいそうです。免疫は既に害してしまいました(笑)


****

 わたしは子供たちから担任の先生の話を聴くのがすきでした。先生の力量によって、子供たちのモチベーションも学力も見事に左右されました。優れた先生に持っていただいたときの子供は、言うことがしっかりし、自律的になり、学業にも身が入ります。勉強のおもしろさに目を開かされるようです。
 また人間関係の悩みが激減しているようだ、というのも感じました。子供の話からその手の愚痴がなくなりました。
 
 後年、子供たちを持っていただいた優れた先生方にインタビューさせていただきました。2012年5月、「学級崩壊」を扱ったよのなかカフェ「子どもたちが危ない!」開催準備のためです(肩書は当時)


◆「公平」は絶対的に大事なもの。しかしむずかしいもの―神戸市青少年補導センター・井上顕先生

http://c-c-a.blog.jp/archives/51802377.html

◆子どもには仕事を任せる。一線を超えたら叱る。人を傷つけたら叱る―吉森道保先生(渦が森小学校教頭)

http://c-c-a.blog.jp/archives/51803263.html


 それぞれ、大変おもしろいお話をしてくださっています。両先生とも、「ほめる」を上手く使い、「ほめる叱る」のメリハリをはっきりつける方でした。井上先生はそれに加えて小テストをこまめにされ、これも「行動理論的」に、子供たちが自分の実力を計測できるようにしていました。吉森先生はまた、「仕事を任せる」という、これも「承認」の一形態を効果的に使われ、任せた仕事をやりとげるとしっかりほめてあげる、を繰り返すことで問題のあったお子さんもどんどん能動的自律的、責任感のあるお子さんになっていきました。

 こういう、数字には表れなくても結果を出す優れた先生のされることは大体共通項があり、「ほめる」「承認」は欠かせないものです。

 その後は、フェイスブックのひょんなご縁から千葉県船橋市の小学校の先生、城ケ崎滋雄先生の実践を見学させていただきその後インタビューもさせていただきました。大変楽しい経験でした。

◆褒めること聞くこと、記録、スピード、歌声・・・城ヶ崎先生クラス訪問記 (2013年2月)

http://c-c-a.blog.jp/archives/51846161.html

(城ケ崎先生―正田の対談はこちらから。全13回シリーズの、ちょっとオタクな会話です)
◆城ヶ崎×正田対談(1)メンバーの個性をどうつかむか

http://c-c-a.blog.jp/archives/51853434.html 

 
 こうして、あくまで「エピソード」として積み上げたものではありますが、優秀な先生の行動様式にはかならず共通項があります(エピソードのシリーズも「エビデンス」の1つです。"中室エビデンスおばあちゃん本"を読むと、うっかり「統計のデータでないとエビデンスと言わないのか?と錯覚してしまいそうですが…)。
 …そういう、ちょっと現場のことをかじった程度のわたしが知っていることを、「ほめ育てはしてはいけない」「教育経済学」の某女性学者さんはなぜご存知ないのでしょうね…このままではとんでもない悲劇が起こりますね、もし彼女の言う通りに現場が動いてしまったら…

 
 ただし。
 あくまでわたしの「感触」のようなものですが、井上先生や吉森先生や城ケ崎先生のような「スーパー先生」は、出てもせいぜい10人に1人ぐらいです。
 残念ながら一般企業にも、「マネジャーになる人、そうでない人」というのがいらっしゃると思います。それと同じぐらいの確率だといえばいいのか…。
 個体としての「強さ」が違うんです。やっぱり頑健な方、となりますね。城ケ崎先生は陸上の先生で、武術家で、毎日プールで泳いでいらっしゃいました。かつ、強い軸をもち、正義感、責任感、人に向かっていく強さ、それに教えるスキル、コミュニケーションスキル、など総合して優れた方。男性が多いのは、恐らく家事育児を負担していると時間的体力的に難しい仕事だからでしょうか、残念なことに。

 で、そのラインまで届かない人はどうなるか。今の35人とか40人学級のもとでは、下手にまじめだと壊れて脱落していくか、生き残ろうと思えば、やや「半身」で仕事をするか、に分かれることになると思います。スーパー先生とそれ以外の先生の差がどんどん開いていきます。

 その状況をどうしたらいいのか。
 ここからはあくまで試論です。

 わたしは、多めにみてもざくっと「10人に1人」ぐらいしか出現しない一部の「スーパー先生」にみんながなることを期待するのではなく、もう少し普通の体力、資質の先生でも(だって一般企業のサラリーマンだってそうなんですから)勤まるような仕事にしていく必要があると思います。
 そこでまた「学級定員は」という話になりますが、このところの記事で繰り返し出るように、「スマホ(LINE)の登場」「発達障害の急増」という要素が、子供〜若者の世界を激変させています。かつてなく彼らと心を通じ合わせることがむずかしくなっています。
 それに対して、「承認/ほめる」「個人面談」「思い切った少人数ゼミ/部署」といったやり方が、大学〜社会人の世界では功を奏しているわけで、それらの組み合わせで初めてこの難しい時代のフィルターを飛び越えて若い人のこころと接続できるのです。そんなことは、もちろんエビデンスも必要ですが、エビデンスが間に合わなくても早急に考慮すべきでしょう。

 そのうえで、「スーパー先生」から周囲の先生が学べるようにする。こまめに経験交流をする。学習する組織にする。ここでマネジメントの人の役割は大事です。
 過去によのなかカフェで出たように
◆マニュアル思考×同僚に教え同僚から学ぶ気風―よのなかカフェ「子どもたちが危ない!」開催しました (2012年5月)
http://c-c-a.blog.jp/archives/51804206.html  
 先生方の世界の「学び合わない」気風は深刻なのです。このとき出席されたスーパー先生の1人、「学級崩壊お助けマン」の間森誉司先生は、「若い先生がぼくから学ぼうとしない」とぼやいていました。上の城ケ崎先生も、「若い先生はぼくの授業を見ても、ほんの表面しか見てないんですよね」と嘆いていました。

 「先生の質の向上」を語るにあたって、「教職大学院」が話題になりますが、わたしは大学院の2年間が優れた先生をつくるとは思えません。仕事の実務の中でつねに現実から学び、内省し、また外にも目を向けて情報を集め…、その繰り返しが優れた働き手をつくります。それはどの仕事でもそうだろうと思います。
上記の、井上先生吉森先生城ヶ崎先生間森先生とも、大学院で学んだわけではありません。吉森先生は、「先生はいじめは許しません。体を張ってでも止めますよ」と言われるほど、いじめについて毅然とした態度をとった方でしたが、それは「最初からそうだったわけではなく仕事上の経験、人生経験を通じてそういうスタイルになった」ということをおっしゃいました。そうした「経験知」を質量ともによりよく蓄積していくためには、対話を通じて言語化し、内省し、また同僚と経験交流することが大きな役割を果たすのです。

 だから、「経験交流」をファシリテートする役割を、マネジメントは果たしていただきたい。以前「マネジャーズ・カフェ」といってミンツバーグの「リフレクション・ラウンドテーブル」に「承認」を組み合わせたようなものをやったことがあります。週1回45分程度、マネジャー同士が対話を通じて経験交流をするもの。先生同士でも有効だろうと思います。またもちろん授業の相互見学もどんどんしていただきたい。
 そして「現実を直視し、内省する」そういう人材をつくるためにマネジメントがどうアプローチするのが正しいのか?
 「学ばない気風」を改めるため、自我のバリアを外して周囲を信頼し、周囲から素直に学ぶ人材をつくるためにマネジメントはどうアプローチするべきか?
 このブログを続けてみられている方は、もうおわかりですね。

 まとめると、
1.学級定員を妥当なところまで減らす
(目的は、「普通の先生」でも努力すれば「スーパー先生」に近いことができるような環境を作る)
2.承認、個別面談など個々のお子さんに向き合うアプローチをする
3.教員同士の経験交流を促す対話、見学などをする

 ”中室説”では、2.とか3.を全然やらなかったので、せっかく1.をやっても「宝の持ち腐れ」だった可能性があるんですね。
 (この内容を支持するブログ記事を3つ後の記事でご紹介しています)



 このほかに『「学力」の経済学』にもちらっと出ていたような、「有資格者でない先生も任用する」というのも組み合わせてもいいと思いますが。

 
 あんまりまとまっていませんが、気分がふさぐので少しでも「前向き」なことを書きたかったものですから。


追記:

 上記の話とどう組み合わせていいかわからなかったのであとで追加することになってしまいましたが、ドイツのように、中学生ごろから「職業訓練校」の選択肢をつくる、ということも考慮されたらよいのではと思います。
 「労働」は人に誇りを与えます。学業に身が入らないお子さんも、中学高校大学まで我慢してお勉強の学校に通うより、仕事の実習プログラムを多く含む学校に早くから行ったほうが、そこで自分の誇りの源泉を見つけられるかもしれません。
 また「個人的経験」ですが、わたしの3人の子のうち2人は高校で普通科に行きませんでした。それぞれ、「美術科」「国際経済科」に行きました。(あとの方は残念ながら普通科に統合されて、今はありません)
 美術科に行った子は、「あたし、プロの芸術家になるほど才能はないのはわかってるの。でも今は、思い切り美術をしたいの。大学は普通の大学に行くかもしれない」と入学時に言い、実際にそうなりました。ある年齢のとき専門性のあることに打ち込みたい、そういう選択の仕方もあるのか、と思いました。
 国際経済科は、これも地域で特殊な立ち位置の学科でしたが、簿記やタイピング、英検など細かい実技の検定を受検させ、自信をつけさせます。3年までに全商と日商両方で簿記一級をとる子もいました。企業見学にも行きます。社会人の面白い取り組みの人、経営者さんなどを呼んで話をしてもらいます。熱心な先生方のもとで、入学時には成績「中」ぐらいだった子供たちが卒業時には有名大学に受かっていきます。「仕事の現場」をつねにイメージさせながら教育を施すことが、子供たちのモチベーションを刺激します。
 子供たちは、案外「仕事」がすきなのではないかと思います。昔の日本人が丁稚奉公で、小学生年齢から奉公に上がり仕事の中で勉強をさせてもらったというのも、わるくなかったのではないかと思います。
 
 
正田佐与

 読者の皆様、3が日をいかがお過ごしですか。

 暖かかったですねえ。

 わたしはそんな中、色々無理がたたって(苦笑)少し風邪気味です。


 このブログの目的を確認しておきますと、これはマネジャー向けに「承認研修」を行う研修講師・正田の、現在過去未来の受講生様方へ日々、愛をこめて送り続けるメッセージです。

 ここでは、

1.「承認研修」のもつもう1つの意義―「適切な厳しさ」の復権
2.高業績を生み続けるもう1つの要素―異論を叩き続ける正田の「先生仕事」
3.教員定数削減に関する思いと、「承認企業の職場が若者の最後のセーフティーネット」

という、お話をしたいと思います。

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1.「承認研修」のもつもう1つの意義―「適切な厳しさ」の復権


 読者の皆様はご存知のように、「行動承認」を中心とする独自の「承認研修」は2003年以来10数年にわたり、「業績1位マネジャー」を生み続けてきました。

 マネジメントの中で1つの手法が成果を生むというのは、
〇マネジャーたちにとって学びやすい・習得しやすい、
〇人間性の根源に触れるものであること、
それに
〇問題が起きない
〇続けやすい
ということなどが相まっての結果であります。これらのうちのどれを欠いても、わたしの受講生様方がなしとげてきたような数年、長い人では10年以上もにわたる成果につながってこないだろうと思います。

 4つ前の記事に書きましたように、マネジャーたちは「承認」の大原則以外にも、マネジメントの中でいくらでも補助線を引きます。「傾聴」や「質問」もそうですが、「叱る」や「ビジョンを語る」もそうです。「社内政治」などもその1つかもしれません。―なにが「幹」でなにが「枝」なのか見極める眼をもちたいですね―

 実はわたしは「叱る研修」をもう7年ぐらいやってないのですが、「承認研修」を採用されたお客様で「叱る研修」までを必要とされることは少ないです。ほとんどの受講生様は、最初の「承認研修」だけで、「承認」と「叱責」、あるいは「承認」と「説諭」などを上手く組み合わせて問題解決することを会得してしまわれるんです。「承認研修」だけで、「優しさと厳しさのバランスのいいマネジメント」を習得していただけることになります。宣伝抜きで、すごくコスパのいい研修です。

 もともと、正田流「承認研修」の理論的根拠の1つ、「行動理論」の「オペラント条件付け」は、「行動したことをほめる」ということで、実はほめることに条件をつけているんです。何もしないでいたらほめないよ、という含意もあるので、「なんでもかんでもほめる」のとは違って、結構厳しいものなんです。

 ―もちろんそことは別に、「あなたはいてくれるだけでかけがえのない存在だよ」という「存在承認」もあって、そことは今ひとつ整合性を説明しきれないんですが、受講生様の中では上手く共存しているようです。ホネットの3定義もそうですよね―

 行動を尊び、行動を奨励する。それは、スマホ時代でともすれば実体験が少なくなる現代においては、いくら強調してもしすぎないほどです。
 そして、やっていただければわかりますが、「行動すること」は子供たちの「自律」をつくっていきます。理性の前頭葉を発達させ、セルフコントロール力を育んでいきます。
 親御さんが「行動承認」をしてくれるお子さん、してくれないお子さんでは、とりわけ今の時代では全然行動の経験値も、精神的成熟度も違ってくるはずです。
 ありがたいことに、「承認研修」受講後のマネジャーたちは、子供さんのいる人はほぼ例外なく子供さんにも「行動承認」を使ってくれています。


 そしてまた、「承認研修」はマネジャーたちに「叱る力」をも与えます。

 「承認研修」の中では(受講されたかたはご経験済みと思いますが)、「承認プログラム」の最後に「過失の重大性に応じた対応」というタイトルのプリントを1枚「ぺらっ」とお渡しします。そこではごく短い時間で、部下の軽微な過失から重大・悪質な過失までに応じて、無視・指摘・質問・叱責・怒る などの対応法を紹介します。

 よく「叱るのはOKで怒るのはダメ」などと言われますが、
「怒るのも否定はしませんよ、本当に確信犯か、慢心かで、会社の理念にもとるようなことを部下がしたときには怒ってもかまいません。ただ怒るのは伝家の宝刀みたいなもので、1年に1回ぐらいにしておいてくださいね」
と講師のわたしは言います。

 そうですね、わたしがいまだに後継者を作れていない理由はいろいろあるんですけど、ひとつにはこの、

「承認って厳しさも包含したものだよ」
「先生は承認って言ってるけどベースはすっごく厳しい人だよ。ダメなことやったら怖いよ」

というのを、言外に空気で見せられるか、というのもあると思います。
 ともすれば、「承認研修の講師になりたい」って言ってこられる方は、ベースからポジティブで優しくて、自分のポジティブさや優しさを商品として売りたい、優しい楽しいだけの研修をしたい、かつ自己顕示欲も満たしたい、という方が多かったですね、一昨年ぐらいまでの傾向は。昨年からちょっと変わってきたかんじですね。

 で、実際に研修中に受講生さんを叱るのもやぶさかではないです。最後に叱ったのは昨年の初めだったかな、腕組みして半身の姿勢のまま実習に参加していた部長級の人を叱りました。
「あなたも部下の方に色々なことを指示したり要求したりされると思います。今このとき真剣に学ぶべきことを学ばなかったら、あなたは部下に何かを要求できる資格はないですよ」
 一期一会の研修講師、叱ると全体の予後はかなり悪くなりますから、本当は叱りたくないです。でも必要な場合は腹をくくって叱ります。

 まあ受講生様方や長い読者の方々なら先刻ご承知のことをつらつら書いてしまいました。


 で、繰り返しますが「承認研修」は優しいだけの研修ではありません。むしろ「承認」の実践を通じて「適切な厳しさの復権」ひいては「規範維持」までをも狙った研修です。

 こういうのはすぐにわかっていただけることではなくて、お客様がブレずに一定期間やり続けてくだされば、そうした全体の意味あいがわかってこられ、メリットを享受していただけると思いますね。
 最近も、「承認研修」数か月後に「LINE禁止令」を出したお客様の話をご紹介しましたね。

 なんども言いますように、人の脳の「自己意識をつくる部位」が同時に「外部の規範を取り込む部位」でもあるので、「承認」で相手の自己意識に働きかけながら規範を叩きこむ、というのは極めて有効なやり方です


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2.高業績を生み続けるもう1つの要素―異論を叩き続ける正田の「先生仕事」


 このブログでは最近「批判記事」が急増していまして、まあ批判しなければならない、「承認欲求」と「ほめる」をターゲットにした「邪悪かつダメダメな言説」というのも急増しているのも事実です。

 1つ前の記事もそうでしたが本記事の次の記事も批判記事になる予定です。

 で、「承認ファン」(などという人がいらっしゃるのかどうかわかりませんが)の方の中には、当然、

「せっかく人を肯定する、明るく楽しく優しい『承認』というものに魅かれたのに、正田さんは厳しすぎ、トゲトゲしすぎる。楽しくない、イヤだ」

という方もいらっしゃると思います。入り口の空気とあまりに違いすぎますよね。

 しかし。と、わたしは思います。

 「承認」というものが人の世を幸せにするためには、実践者のかたが単なる気まぐれでなく、未来永劫使い続けてくださらなければなりません。
 いや、効果を得るにはそんなに長くかからないですよ。実践を始めて1週間から数週間で、初期の成果は得られます。でも、「やめたら落ちる」。つねに意識的に努力し続けて初めて維持できるんです。そして部下や子供、弱者の側からしたら、上司や親が気まぐれで一時的に「承認」をやり、そのあとやめてしまう、というのは、不幸のどん底に叩き落されることです。やり始めたら、やり続けてほしい。業績がグワーッと上がった後やめたらストンと落ちた人のお話、けっして脅したくないんですがやっぱりそういうものです。


 そして今どきの目立ちたい一心の「おバカ論者」たちが、「ほめ育てはいけない」「承認されたいと思ってはいけない」などのコピーを使いたがることといったら。それらの言説はキャッチーなので、正しくなくても売れてしまうんです。「もう古いよそれ、オオカミ少年少女ちゃん」と言いたいんだけれど。ほんと、この手のことを言う人は例外なく人格がわるいと思っていいです。

 それをこのところ短いサイクルで繰り返していますので、せっかく「承認研修」の機会を持たせていただいても、以前より定着がわるいと感じることが多くなってきました。
 次の世代をたくましく育て、先細りぎみの日本人をよい方向に進化させる、ほとんど唯一の道筋だというのに。

 「おバカ論者」たちはまた往々にしてすっごい高学歴です。次の記事に登場する「先生」も、東大卒です。でも言っていることの辻褄が全然合っていません。
 
 で、正田は、感情的な悪口ではなく、書き手のロジックをきっちり追ったうえで叩き続けます。ダメなものはダメ、鬼デスクと化して。最近はだれもそういうことを精査しなくなったみたいですが、正田は言います。

 申し訳ありませんが、次世代の健全育成をダメにしてしまう言説を弄んで自分の夜遊びとかブランドバッグ用のお小遣いを稼ごうなんていう「おバカ論者」さんがたは、このブログで面目丸つぶれになっていただきます。たくさんの子供さんや若者たちの将来のほうがその人たちよりずっと大事です。


 「叩き記事」は一時的に読者のかたの気分を害するかもしれませんが、何よりも実践者の方々の誇りのことを思います。実践者の方々がだれか知り合いに、「慶応准教授のだれそれさん(この人は慶応の恥ではないのだろうか)がこう言ってたよ」と言われたら、「あ、でもその議論はこういう風に間違ってるってうちの先生が言ってたよ」と、涼しい顔で言い返せるために、ネタをご提供し続けます。涼しい顔で言い返さなくても、流されず引き続き誇りをもってやり続けていただくために。


「ブログ読んでいますよ」
 こう言ってくださる受講生の方が、ほぼ実践を継続し成果を生み続けていらっしゃいます。
 それは、こういう今どきの論壇の荒涼たる風景がその方々にもみえていて、その上で正田ひいては承認を支持してくださるのだと思います。読んでない人は、恐らく例外なく「おバカ論者」とその取り巻きのほうにのまれていきます。

 情報の多い、そして無価値なガセ情報のほうが目立つところで飛び交う時代、この隠れ家的なブログを読み続ける根性のある人々だけが、成果を手にし続けられます。

 あ、あと正田の「汚れ仕事」をさげすむような人は、後継者に指名しないですからねー(笑)手伝えとまでは言いませんけれども。

 
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3.教員定数削減と、「承認企業の職場が若者の最後のセーフティーネット」

 
 2016年度の公立小中学校の教職員定数について、政府・自民党は15年度よりも3470人超減らす方針とのこと。
 この教員定数削減については、1つ前の記事でも述べましたが、「エビデンス」を盾に女性学者さんが何を言おうと、そもそも今どきの諸般の事情で指導しにくい子どもたちをみるのに、40人学級とか35人学級は無茶苦茶なのです。あんたがみろよと言いたい。いいんじゃないですか、40人35人学級でOKだと思ってるひとは、自分が介護受ける側になったとき利用者40人に介護職員1人の施設に入れば。きっと、「エビデンス」は「それでOKだ、問題無い」と言ってくれるでしょ。

 わたしの持論で、日本の45人学級とか40人学級とかは、団塊の世代が50人学級だった時代の名残にすぎなくて、子供がイヤというほど生まれてきた時代に少々の落ちこぼれが出てもいい、また発達障害が顕在化しなかった時代に子供というものはみんな一律の健常者だという前提で生まれたものだと思います。今、その前提がまったく崩れている以上、子供が減ったから先生をそれに応じて減らすというのは大きな間違いで、ゼロベースでクラスの人数を見直したほうがいいです。そして「40人を35人に減らしても成績が向上しないじゃん」というエビデンスがあったとしても、じゃあ30人ならどうなの?20人ならどうなの?20人ぐらいが本当は妥当なんじゃないの?先生の数が増えたら学校のマネジメント体制を見直し、先生7人ぐらいにマネジメント1人、の体制にしてマネジメントの育成機能を強化すればいいんじゃないの?と思っています。

 まあ広井教授流に言うと、日本の子供が人生前半の福祉を受けられないことは目を覆わんばかりです。(先日のメールのやりとりでは、「ギリシャ、イタリアに似た、非常にまずい状態です」と言われていました。)でもおカネの配分の問題はそう簡単には解決しそうにないので、

 ひとつ福音は、
 そういう”不幸”な育ち方をしている若者たちが、「承認企業」に入るとイキイキと働くことです。行動をとり、責任を引き受け、開発をやり、元気な働き手となっていきます。
 
 たぶん昨年を通じてのわたしの感慨として、

「労働は、それ自体に人を『承認』するはたらきがあるのだ」。

 もちろん、労働そのものに付随して周囲や上位者やお客様に、その本人を「承認」する視線や態度、言葉がけがある状況のもとでです。労働の中のそれは、人生前半に十分な福祉を受けられず、親の早期教育熱に押し潰され、かつスマホの不安定な人間関係にすがり続けてきたひ弱な若者たちにとっても、かつてない質の高い力強い「承認」となり得ます。若者たちはそこで「育て直し」をされるのです。「生まれ変わり」といってもいいぐらいかもしれません。
 
 このメカニズムはまだよくわかっていませんが、今までのところそれは再現されてきました。これは某女性学者さんがバカにする「老婆の個人的体験」(この人、「老婆」っていう言葉を使っちゃうんですよね〜。びっくりしますね。あたしも52歳老婆ですけどね(笑))よりは、はるかに広範囲に長期間にわたって認められてきたことです。

 こんな高貴なすばらしいことを、なぜ大学の先生方は研究しようとしないんでしょうね。
 民間のわたしらのほうが、彼らよりはるかに歴史的で高貴なことをやっています。同志たちよ、そして受講生様方、それは信じていいですよ。

 だから、

「承認企業は若者たちの最後のセーフティーネットだ」。

おわかりいただけますでしょうか。


 ちょうど最近フェイスブックのお友達のご縁で、施設出身者や受刑者の就労紹介業のかたとお友達になったりして、この関係も、今後どう発展するか興味をもっています。ビジネスとしては期待できないでしょうけれど、お役に立ちたいですねえ。


2016年1月3日
正田佐与 

 
 
 

 


 

※この記事はその後、シリーズ化しました。『「学力」の経済学』のはらむ問題点、欺瞞、もたらす恐ろしい未来を多角的に丁寧に、だれにでもわかるようにご説明し、「正しい処方箋」を提示しています。
シリーズ・『「学力」の経済学』批判

エビデンスに惑わされず、論理の飛躍をじっくり味わいたい、「ほめてはいけない」論―シリーズ『学力の経済学』批判

優れた先生方との交流の思い出と、正田流・教育現場いかにすれば良くなるのかの試論

中室牧子氏(教育経済学者)は、恐らくASDだと思うこれだけの理由。 シリーズ『学力の経済学』批判  

「少人数学級は学力を上げない」はウソ!―シリーズ『「学力」の経済学』批判

「学力を上げる」先生方はどこを見ているか―シリーズ『「学力」の経済学』批判

本当は恐ろしい、『「学力」の経済学』がもたらす未来(1)―”中室提言”をよく見ると―シリーズ『「学力」の経済学』批判

本当は恐ろしい、『「学力」の経済学』がもたらす未来(2)―先生方は「経済人」ではない!―シリーズ『「学力」の経済学』批判


『学力の経済学』(中室牧子、ディスカヴァー・トゥエンティワン、2015年6月)。

 昨年の出版当時から違和感を禁じえなかった本でしたが当時はわたしがパワー不足で記事化するに至りませんでした。新年早々「批判記事」になってしまいましたがお許しください。


 またもや「ほめてはいけない」論。しかし、よくみるとこの人自身の論理が完全に破たんしています。近年こういう雑で不正確な議論が多いのだが、慶大准教授とかコロンビア大学大学院とかご立派な肩書をつけているにもかかわらず、「高校の小論文からやり直してきてください」というレベル。女性の悪口はあまり言いたくないのだが、「くれぐれもこの人の肩書にダマされないように」と声を大にして言いたい。その論理の部分はこの記事の後半でじっくりご紹介しますので、この人が正しいかわたしが正しいか、お時間のある方は見比べてくださいね。

 ごめん、あたしヒューリスティックとかの認知科学のエビデンス満載の本を読み慣れてるんで、いかにエビデンス満載でも論理がおかしいものはすぐ気がつくんですよ。

 「教育にエビデンスを」。
 この主張自体は、企業研修に統計調査を併用することをお願いしているわたしも賛成です。ただ、暮れの広井良典教授との対話にあったように、また経営学でもみたように、エビデンスをとったらとったで、EQの低い人々は極めて部分的な知見についてエビデンスをとって振りかざす傾向があります。下手にそれをきいて現場の意志決定に反映させるととんでもなく間違ってしまうことがあるので要注意です。
 
 そのさまを例えるなら、言葉は悪いかもしれないけれども「群盲象を撫でる」。巨大な象という生き物の部分、部分を撫でて「こうだ」と言ってしまう、たとえば鼻に触って「長い管だ」とか尻尾に触って「ひものようなものだ」とか足に触って「木の幹のようなものだ」とか言う。もちろんそのどれも、象という生き物について正解ではない。単にその作業を、学者たちが10cmぐらいの短い物差しを当てて「何cmですね」とやっているのと同じなのではないか。学者たちはそれでも、新しい論文を書けて論文数としてカウントされて、ちょっとでも新しい要素があれば、「知的に新しい」「新奇性がある」と評価されて査読を通り、学問の狭い世界ではおぼえめでたい、「認められる」ことになる。そしてわれわれ一般人にもドヤ顔で解説する。色々と学問の世界の知見を見ているとつい、そんな感想を抱きます。

 「舌鋒鋭い人」のことをわたしも言えなくなってきましたが。

 で、中室氏は慶応大学准教授、教育経済学者。このところ「教育にエビデンスを」という話題になると必ず引き合いに出されます。コロンビア大学で博士号を取り、沢山のエビデンスを引用しながら語る方ですが、でもこの方の“主張”にもわたしは「ン?」となってしまうのは、例えば教員定数削減が是か非かという議論のときに、「教員定数を増やす(=少人数学級制にする)ことの目的は学力を上げることですよね」と、なんの疑いもなく言ってしまうところです。

 えっと、そうじゃないでしょ。とわたしなどは思います。学力も上げたいが、それ以外のところのメリットを大いにみないといけないでしょ。まず、「学力」については遅咲きの子がいるので、小学校ぐらいの段階では先生の働きかけによって伸びる子伸びない子がいること。

 そして大きいのはメンタル面です。いじめによって失われるコストがどれほど大きいか。いじめ被害によって受けたダメージはトラウマになり、その人の生涯にわたってメンタルヘルス、対人信頼感に影響を与え続ける、という研究があります。今、LINEの登場で容易にいじめ・いじめられ関係が生まれるんですが、そちらには中室氏は恐らく全然関心がないようです。だから、「研究によってこういうことが証明されています」といくら学者さんが言っても、単にあなたがほかのことに関心がなかっただけでしょ、という見方もできるのです。意欲の喪失、人に対する信頼感の喪失。こういうことを「コスト」と認識できないのだろうか。小さい時の学力がどうより、そちらのほうが、大人になって「よい企業戦士」になれるか、「納税者」になれるか、ということに関わってきます。

 大体、わたしが企業研修をさせていただくときお客様にお願いする1クラスの人数というのはここでは言えないような超・少人数です。40人とか35人なんてあり得ません。そのへんだと、5人ぐらい減らしても一緒。経験的に閾値があって、「この人数設定にしないといい学習効果を生まない」ということが、年の功でわかってきましたので確信をもってお願いしています。そこは厳密にエビデンスをとっているのではないが、「技術屋の勘」ですね。また、1人のマネジャーが部下をちゃんと育成指導も含めてみれるのは7人ぐらいが限界、このあたりは心あるマネジメントの人とは共通認識です。

 それからすると、今の40人とか35人学級でやっている先生方はお気の毒としか言えません。壊れていくのも当たり前です。 


 まあ、『学力の経済学』に戻ります。この本には
「子どもはほめ育てしては『いけない』」という項があります。わたしはここに非常に引っかかりをもちました。引用している知見には特に問題はありません。問題は中室氏の「書き方」のほうなのです。

 ここでは、

「子どもはほめて育てるべきなのか」
 これも、私が友人からよく受ける相談です。

という書き出しで始まります。中室氏はここからほめ育てを推奨している育児書を読んでみると、
「ほめて育てると自尊心が高まる」
という意味のことが書いてあり、ここから、
ほめる⇒自尊心が高まる⇒学習意欲が高まる
は成立するか?という中室氏の問いになります。ところが、過去の研究から導かれた知見は:
 自尊心が高まれば、子どもたちを社会的なリスクから遠ざけることができるという有力な科学的根拠はほとんど示されなかった。
 学力が高いという「原因」が、自尊心が高いという「結果」をもたらしているのだと結論づけたのです。
 このあたりは太字表示され、世の常識を破ったことに、中室氏のドヤ顔が伺われます。
 
 えー。ぽりぽり。
 ここまでの記述、受講生及び『行動承認』読者の皆様はいかがですか。
 よそさんのことは知りませんが、少なくともあたしの「承認研修」では、
ほめる⇒自尊心が高まる⇒学習意欲が高まる
という論理構築はしておりません。しているのは、
良い行動を(行動理論的に直後に)ほめる/承認する⇒その行動を繰り返す、自律的になる⇒仕事ができる人になる
という論理構築です。で、やっていただくと大体この通りになります。

 というわけで「中室説」に浮足立ちませんように。やっている論理構築が違いますから、中室氏の指摘はうちには当てはまりません。もともと正田は「ナルシシズム」に対して警戒感が強いのでー、「自尊心が高まる」は中室氏の言うように、仕事ができる人になったから結果としてそうなったと思います。行動したか、しなかったか、その行動が正しかったか。そういう現実に揉まれる中で身の丈にあった自尊心を持てばよいのです。
 
 次に、中室氏が紹介したのは、「あなたはやればできるのよ」という「ほめ言葉」を伝えて自尊心を高めた学生がテストの成績が良くなったかどうか、という研究。結果としては良くなりませんでした。

 これも、まず「やればできる」というのを「ほめ言葉」と言えるのか、というのがあります。何の根拠もないですやん。単なる期待というか妄想というか、ですやん。近頃は「YDK(やればできる子)」という言葉まであるそうですが、これって上げているようで落としてますよね。「行動承認」的にはもちろん、あり得ません。

 それを言われて、学生の側が自尊心が本当に高まったのかどうか、もクエスチョンです。
まあ、高まったかどうかは「うち」的にはどうでもよろしいのですが。
 
 このあとは本書では、「能力をほめる」のと「努力をほめる」のとどちらがいいか?という研究を紹介します。はい、これは以前別の本の読書日記で出てきましたね。言い古されてますが、あとの方です。ここでも「行動承認」をやってくだされば、問題はありません。

 …で。
 最初の、中室氏が友人から受けるという質問。
「子どもはほめて育てるべきなのか」
 これへの応答として、中室氏は本書で言っているのは
(1) 自尊心を高めても成績は良くならない
(2) 能力をほめるのは×、努力をほめるのは〇
です。この答え方、どう思いますか?

 「努力をほめるのは〇だよ」
 常識的で親切なあなただったら、お友達にそう答えるんじゃないですか?

 わたしなら、
「ほめるというと中にはダメなほめ方があるのでお勧めできないが、わたしどもで『行動承認』と呼んでいるやり方なら問題が起きず、いい結果になります。むしろこちらはやらないと損なぐらいです。是非おやりになってください」
と答えるでしょうね。
 子供でも親でもそこは一緒なんです。「〇×をしてはダメ」という「禁止」のメッセージばかり与えられると、何をしていいかわからなくなり萎縮して何もしなくなってしまうんです。
「〇〇をやってください」
と、「肯定語」ではっきりしたメッセージを伝えてあげることが大事。

 学問的に正しくあろうと、ああでもないこうでもないと言いたくなる気持ちはわかりますが、いやしくも教育にたずさわる立場の人なら、相手が子供であれ親であれ、混乱させないようなメッセージを伝えてあげてください。中室先生、あなたの生徒さん、成績大丈夫ですか。あたしは正直言って、中室先生に指導教官になっていただきたくありません。

 正田が「行動承認」という限定的な言葉を使っているのは、忙しい受講生様方に無用の混乱を招かないように、という配慮で言っています。わたしの生徒さんがどんどん「1位」になる理由、おわかりいただけますかしら。

 どうも、先日の「アドラー心理学」の件以来思っているんですけど、多少本を読むようなお利口さんの方々というのは、「…してはいけない」というメッセージに弱いのではないかという印象があります。上から、「ガッ」と言われると嬉しくなってしまう、「ああ、偉い人に言ってもらえた」と思って。「M」ですね。お利口さん層を嬉しがらせるフレーズなのではないかと思います、「…してはいけない」というのは。(ストレングスファインダーでいうと何の持ち主かなー、というのは大体想像つくんですが)

 そういうおバカな人はほっておいて、わたしの研修を受ける本当にこころが賢い人は、素直に「〇〇してください」というメッセージを受け取っていただけることと思います。仕事上の指示って大体そういうものでしょ?

 そして上記のように「ほめる」に関して「是々非々」の知見が出ているにもかかわらず、中室氏は「ほめ育てはしてはいけない」と逆張りっぽく、本書の冒頭で言い切ってしまっています。ミスリーディングですね。そこの部分だけ読んで早とちりして「そうなんだ、いけないんだ」と思っちゃう人が、先生にも親御さんにも出てくる可能性があるのでイヤーな気分になります。親に褒めてもらえない子供さんが増える。そういう自分の言ったことの結果について想像力が働いていないのではないか、この人は。先日の経営学のエビデンス坊や、入山章栄氏と一緒ですね。

 少し丁寧に中室氏の論法をたどってきましたが、ここは誰の目にも明らかに論理の飛躍があります。わたしの想像では、ここは中室氏自身のバイアスが入っています。おそらくこの女性学者さんは、「ほめて育てる」ことをご自身が苦手とされてるんです。学者さんにそういう人格の人は実は多いですね。それをなんとか正当化したいので、自分の都合のいい知見を並べ飛躍のあるロジックを展開してしまっています。

 本当は、上に「是々非々」と書きましたけれど、行動理論的に正しい褒め方をして成果が上がったエビデンスなんて、心理学の方には山のようにあるはずですよ。わたしの恩師の一人、武田建氏なんかはアメフトの行動理論で全国7連覇しちゃってますからね。こういう常識的なエビデンスのほうをもっと見た方がいいです。彼女の選び出したエビデンスがそもそも偏っていると思います。本当は、(行動理論的な)「ほめる」と「ほめない」は、1970年代ぐらいからとっくに決着のついている問題なんです。中室氏の個人的な負け惜しみに耳を貸しちゃいけません。

 要は、この人は「エビデンスだけは使っているが、考察部分と結論は×」なんです。ぜひ、高校の小論文をみる教諭になったつもりでこの人の文章を読んでみてください。たぶんほかにも色々な部分で「眉唾」だろうと思います。エリートコースを歩んできて世の中をなめてるんじゃないでしょうか。



 中室氏は本書のあとのほうでは、教員の「質」の問題を言っていますが、そこで「研修」は無効、ということも言っています。それでまた、「研修屋」としては、「ちょっと待ってよ」と思います。

 というのは、教委などで企画する「教員研修」って、やっぱり50人とか100人単位の「マス」の研修が多いんです。大教室での「マス」の講義が、どれほど学び手に「自分なんか、いてもいなくても同じだ」という「承認欠如」の気分を味わわせるか、というのは2つ前の記事(「わざの教育、自我の確立と自我からの解放―『スピリチュアリティと教育』をよむ」)に出てきました。大学生でそうなのですから大人でももっとそうだと思います。

 そういう、研修事務局に「研修とはこういうもの、だって過去もこうだったんだから」という思い込みがある限り、「研修は無効」という結果になり続けるでしょう。ごめん、わたしからみるとそんなのは周回遅れですね。わたしは正しい効果発現メカニズムを早くから特定した人なので、それをどうやってより強力に効果発現させるか、というところにも早くから心砕いた人なんです。過去に自治体研修などでも「50人100人のマスで、かつ1日研修でコーチングの承認傾聴質問叱責の4つをやってください」というご依頼をいただいてお断りしちゃいました。

 というわけで中室氏も先日の入山章栄氏と同じく、「エビデンスをふりかざしてドヤ顔」の人です。今からはこういう人が増えるのでそれに向けたニックネーム考えないといけないですね。(可愛く「エビちゃん」かな)わたし的には「部分的には正しく、部分的には間違い」の人です。「ほかのことはともかくこの主張に関しては現場の実感に照らして間違ってる」と思ったらシカトしていいと思います。ただ政策に関わる人たちは、エビデンスを無視するわけにもいかないんでしょうけどね。

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 新年早々、批判記事におつきあいくださり、読者の皆様ありがとうございます。そしてごめんなさい、お目汚しで。
 たぶんこの次も批判記事になるでしょう、というのは年末にまた、「逆張り」を狙ったらしいおバカな本が出たからです。

 今年も延々とこんなことばかりして暮らすのかなあ〜。それぐらいよくいえば百家争鳴ソフィズム全開の時代なんです。「批判屋」っていうのが商売として成り立たないかなー。。

 たぶんやればやるほど、
「行動承認最強」
を確認することになるんですけどね。


正田佐与

シリーズ・『「学力」の経済学』批判

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