正田佐与の 愛するこの世界

神戸の1位マネジャー育成の研修講師・正田佐与が、「承認と職場」、「よのなかカフェ」などの日常を通じて日本人と仕事の幸福な関係を語ります。現役リーダーたちが「このブログを読んでいればマネジメントがわかる」と絶賛。 現在、心ならずも「アドラー心理学批判」と「『「学力」の経済学』批判」でアクセス急増中。コメントは承認制です

2016年05月

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・・・……<<<エウダイモニア通信>>>……・・・
発行日 2016.5. 31                 
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 ※「エウダイモニア」は「幸福」、また「栄える」という意味のギリシア語
です。
 「業績1位」の山を築いてきた承認マネジメントの研修講師・正田佐与が、
経済的繁栄を含めたわたしたちの「幸せ」についてご一緒に考えるメルマガ
です。
 
※このメールは、正田が過去にお名刺を交換させていただいた方、イベントや
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 ┃本日の話題 ☆☆☆☆☆
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【1】本当の「アドラー心理学」あなたはどこまで知っていますか?

【2】連載「ユリーの星に願いを」第9回 「牡丹に思う」

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【1】本当の「アドラー心理学」あなたはどこまで知っていますか?

 先週24日(火)、NHK「おはよう日本」(朝7時のニュース)で「アドラー
心理学」が取り上げられました。

 アドラー心理学といえば、2013年末に発売された『嫌われる勇気』が130
万部、今年2月に出た続編『幸せになる勇気』(いずれもダイヤモンド社)が
既に37万部と大ベストセラーに。両書の共著者、岸見一郎氏も特集に登場
していました。

 しかし、アドラー心理学について、岸見氏もNHKも大きな誤解をしている
としか思えません。番組で取り上げた、「承認欲求を否定せよ」という言葉。
アドラー自身はそんなことは一言も言っていないのです。非常に人のこころに
有害な、鬱をつくりかねない言葉です。

 この“誤読と捏造”について、わたくしのブログで取り上げさせていただき
ました。

 アドラー自身は非常に良心的な人だったと思います。しかし、アドラーが
「承認欲求を否定せよ」と言ったなどと信じているのは、世界中で日本人だけ
かもしれないのです。

 国際派も多いメルマガ読者のあなた、ぜひ正しい素養を身に着けてください!
お時間のある方は、こちらのブログ記事をお読みいただければ幸いです。これ
らの記事は、長文にもかかわらずフェイスブックで多数の方に支持していただ
きました。企業のメンタルヘルスご担当者の方にもぜひご関心をもっていただ
きたいと思います。

(ここでは、代表的な2本の記事をご紹介しておきます。もしさらにご興味が
あれば、記事からリンクをたどってほかの記事もご参照ください)

●NHKおはよう日本 アドラー心理学特集を批判する
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51940920.html

●アドラー心理学批判 まとめ:「承認欲求を否定せよ」「トラウマは存在し
ない」有害フレーズの捏造と岸見氏の罪
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51941255.html 

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【2】連載・「ユリーの星に願いを」第9回「牡丹に思う」
By ユリー
 ユリー:マーケティングコンサルタント。人と組織のメカニズムに高い関心
を持つ仏教学習者。40代女性。
***********************************

 こんにちは、ユリーです。

 ご近所の庭先に立派な牡丹が咲いています。咲き誇るという表現がぴった
りの大輪をいくつもつけた立派な牡丹です。生命力にあふれた初々しい葉の
緑、薄紙のようにやわらかな花びらのピンク、凛とした花芯の黄色が見事に
調和して、ため息の出るような美しさです。その姿に見とれてしばらく立ち
尽くしていると、なんともいえない幸福感に満たされてくることに気づきま
した。眼福というのはこういう時に使う言葉なのだなとつくづくと納得し、
花や緑に癒されるという表現もまた、このような時に使うべきものなのだろ
うと感じていました。

 皆さんは、山川草木悉皆成仏(さんせんそうもくかいしつじょうぶつ)あ
るいは山川草木悉有仏性(山川草木悉く仏性有り)という言葉をご存知でし
ょうか。前者は涅槃経という経典に由来します。後者は、鎌倉時代に曹洞宗
の開祖道元が、前者を翻訳解釈して残した言葉に由来します。道元の山川草
木悉く仏性有りという言葉は、古代からの自然信仰とも通じ、日本人の深層
意識に響き影響をあたえてきたのではないかと考えます。

 その意味は「山川草木つまり自然界にあるものにはすべて仏性がある。」
わかりづらいのは仏性という概念で、多様な解釈があるのですが、ここでは
個々の生命に本来備わっている仏陀になりうる素質としておきます。仏陀は
いわゆるお釈迦様のことですが、この文脈ではお釈迦様のように悟りを開い
た人ということで、自然界のものはすべて悟りを開く資質をもっているとい
うのです。

 仏教においては言うまでもなく仏性は尊ぶべきもので、現代の我々の言葉
に置き換えれば「いのち」という言葉がしっくりくるかもしれません。山川
草木つまり自然にはそれぞれ尊ばれるべき大切な「いのち」があるというメ
ッセージは、現代の地球環境問題と重ねて見るとさらに意味深く思えます。

 私が牡丹に深い癒しを感じるのも、無意識のうちに「山川草木悉有仏性」
が影響しているのでしょう。夏目漱石に「仏性は白き桔梗にこそあらめ」と
いう句がありますが、私もあの牡丹に仏性の化身を見たような気がしていま
す。

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 ┃今日の一筆箋  
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 いよいよ、花咲き乱れた5月も終わり。梅雨がまぢかに迫っています。
読者の皆様もお健やかにお過ごしください。
┌─<<現役マネージャー必読!>>──────────────────>
│  近著『行動承認―組織の能力を最大化する「認める力」』
│  http://www.amazon.co.jp/gp/product/4434198572
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 発行者 正田佐与承認マネジメント事務所代表 正田 佐与

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 「アドラー心理学批判」のまとめとして、現在アドラーの言葉として出回っている「有害フレーズ」を一覧にしてみました。


アドラー心理学批判:発言の捏造ver2


※2017年1月31日、「トラウマ」の項を更新しました。
 
 いかがでしょうか。

 今のところわたしはアドラーの著作を全部読んだわけではなく、『個人心理学講義』と『人生の意味の心理学』それに『子どものライフスタイル』『子どもの教育』しか読んでないので、「中間報告」のようなものです。上記のフレーズが他のアドラーの著書のどこかに絶対ないとは言えないです。それは「STAP細胞が絶対にない」ということが難しいのと一緒です。ただし、代表的な著作には出ていないし、それらの文章のトーンから考えてもほかの著書に出てくるとは考えにくい。仮に出たとしても偶発的な、文脈依存のもので、アドラーの主たる主張とはいいがたいものだろう、ということですね。

 (まあもし、「いや、アドラーは言っている」というのであれば、何という著作の何頁にあるかまできちんと言ってください)


 それで、こういう捏造は果たして許されるか?ということを考えてみたいと思います。


 わたしたちは日頃、孔子の言葉、アリストテレスの言葉、マザー・テレサの言葉…に触れることがありますが、ここまで極端に捏造された言葉をきかされているだろうか?

 まさか、中間の人がここまで勝手なアレンジを加えた言葉を「アドラーの言葉」としてきかされるとは、思っていないんじゃないでしょうか。しかも有害なことを。

 原著を読んだ限りではアドラーは、ところどころ見立ての間違いがあるとはいえ良心的な常識的なカウンセラーです。「逆張り」などはしていません。時々「過剰」を憂慮していたにすぎません。しかも彼自身は、誰かの言葉を借りて言うということもほとんどしていません。けっして「逆張り大好きで権威ずきのおっさん」などではありません。そこまで悪ノリして暴走するタイプの人ではありません。


 「逆張り大好きで権威ずきのおっさん」は、主に、岸見一郎氏です。

 岸見一郎氏のWikiはこちらですが――

 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B2%B8%E8%A6%8B%E4%B8%80%E9%83%8E

 まあ大学の非常勤講師を務めながら売れない頃からずっとアドラーの著作を訳してきたわけですね。わが国のアドラーの翻訳書はほとんど岸見氏の手になると思っていいぐらいです。

 しかもアドラー以外の心理学書はほとんど読んでない、というのも変わった方ですねえ、というかんじですが。そこまでアドラーがすきだったんですね。そのコダワリの強さは、あれっぽいですね。

 たしかにアドラーは同時代のフロイトやユングに比べてもまっとうな気がしますが、それでも現代のちょっと知識のある人からみれば間違いがたくさんあります。「トラウマを乗り越えよう」というのも、良心的な言葉ではありますが、重度のトラウマを負った人からみれば有害フレーズです。

 だから過去の遺物としてみるぶんにはいいんですけれどね。
 どういうわけか近年スポットライトが当たってしまい、そしておそらく、ヘーゲルの時代の哲学者よろしく、人生のあらゆる局面について発言していますから、「偉人」あつかいして「語録」あつかいするには都合がよかったんですね。
 しかし、過去のどの偉人と比べても発言を捏造されていますよ。


 よくわかりませんが『嫌われる勇気』のときに、なんでもダイヤモンド社の敏腕編集者がついていろんな提案をしたそうですが、そのときに今どきの「承認欲求バッシング」を入れこもうとか、「ほめない叱らない」を強いトーンで入れようとか、が入ってきた可能性があります。
 そのとき、売れたい一心の岸見氏がそれに乗っかったのかなと。

 ほんとうに良心的な専門家なら、「いや、アドラー自身はそこまでのことは言っていません。アドラーの言葉として言うのはやめてください」と言うと思います。でも「今が売れるチャンス!」と思ったら、乗っかるかもしれません。


 そのあたりはわたしは事実関係を良く知らないんですけどね。

 それにしても一連の「承認欲求バッシング」の書籍の中でも、「承認欲求を否定せよ」は、もっとも過激な、そして有害なフレーズです。他の本はおおむね、承認欲求ゆえに問題行動をとる人の例を挙げて嘆いてみせているだけなのです。承認欲求は人間の基本欲求なので、否定すれば簡単に鬱になってしまいます。もう既に鬱になりかけの人も多いかもしれません。

 「承認欲求バッシング」自体が、気に食わない優等生を袋叩きにする「いじめ」のような現象だったのですが、その中でも「承認欲求を否定せよ」とは、いじめグループの中の一番ヘタレの弱虫君が一番悪質なことをやってしまうというようなおもむきがあります。


 一般人のわれわれが知っておくべきことは、アドラーの言葉として出回っているものにはかなり「捏造」でかつ「有害」なものがあるので、聞き流しておくのが賢明だ、ということです。





 岸見氏の暴走ぶりというのは、例えば過去に講演で

「反抗期などというものはない」

と発言。

 詳細はこちらの記事参照

>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51927076.html


 このあとすぐ某週刊誌で、思春期の子どもの脳についての特集があり、ちゃんと「反抗期はある」と実証されているわけですが。
 またアドラーも、思春期の子ども特有の逸脱行為について書いており、決して「反抗期はない」などと思っていたようにはとれません。


 またその後わたし自身が聴講した講演では、「自分の息子」をしきりに例として挙げながら「ほめない叱らない」論をぶっていたので、私が切れて反対質問をしたのでした。

>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51933511.html

 岸見氏の息子さんは、のちに京大に入って哲学者になられたのだそうで、自慢の息子なのだろうと思います。講演では、この息子さんがプラレールか何かを上手に組みあげたので、ほめたところ嬉しそうな顔をせず、「お父さん僕は当然できることをしただけだよ」と言ったという。その例を挙げて、「ほめることは対等の関係ではないんだ。上から目線だ。ありがとうと言わなければならない」と、いうのでした。

 これは「行動承認」の側から当然、反論があります。息子さんはIQの高い、言語能力の高いお子さんだったのであろう。また「ツンデレ」だったのであろう。あくまで息子さんの個体差の問題で、一般的にはお子さんは大人からほめられれば喜びます。また、「ツンデレ」を回避したければ、「行動承認―Iメッセージ」を使っておけば問題はありません。

 この講演では、3時間の講演と質疑の間に「うちの息子」の例が10回ぐらい出てきたのではないだろうか。息子自慢に終始した講演だったのでした。

 べつの例としては、お母さんのカウンセリングの50分間、一緒に入って静かに過ごした4歳か5歳の子供に、お母さんが「静かにしていてえらかったね」と言った。それが良くないと、岸見氏は言います。
「えらかったね。これを大人相手には言いますか?対等な関係だったら言えないことを子供に言ってはいけません。『静かにしてくれてありがとう』と言うのが正しいのです」
 しかし、岸見氏はそれを直接このお母さんに伝えたわけではないようでした。講演でカゲ口として言うのでした。
 わたしがきいていて、このケースでえらかったね」と言うのは、何も間違っていません。だって、4-5歳の子どもさんですよ?

 
 しかし、岸見氏の講演はこんな話が満載なのでした。300人ぐらいの善男善女ふうの人たちがこういう話をかしこまってきいているのでした。

 今から日本には「ほめられない子供」があふれることになります。やれやれ。この責任、どうとるのでしょう。製造物責任じゃないですか。


<シリーズ・アドラー心理学批判>

●「勇気づけ」についての副作用情報。。(2014年12月)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51903598.html

●褒めない・叱らないは正しくない!「逆張りロジック」に正しく反論する知性を磨こう―『嫌われる勇気』著者講演会 (2015年12月)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51927076.html

●「自己認識には事実のフィードバックが大事」「思考的盲目が心配」―宮崎照行さんのメッセージ(同)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51927143.html

●「子どもさんは大いにほめてください。そして叱ってください」―正田、アドラー心理学セミナーで吠えるの記 (2016年1月)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51933511.html

●「誰もが活躍できる社会」とは「承認社会」―NYさんからのメッセージ (同)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51933591.html

●「勇気を持って指摘されたからこそ、いずれ考えを改める」―永井博之さんからのメール (同)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51933656.html

●『行動承認』Kindle化に向けて(4)メディアの考える怠惰なお客様と「行為者」の乖離、王道とパチモンの「大衆的人気」(2016年5月)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51940842.html

●NHKおはよう日本 アドラー心理学特集を批判する(同)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51940920.html

●NHKおはよう日本 アドラー心理学特集を批判する(2)友人たちの反応 (同)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51940923.html

●『行動承認』Kindle化に向けて(5)行為者の脳発達と細胞レベルの変化の可能性――林田直樹先生との対話より(同)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51940962.html

●アドラー心理学批判 「承認欲求否定」「ほめない叱らない」はどこから来るか―「共同体感覚」との関連において―アドラー『個人心理学講義』をよむ
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51941070.html

●アドラー心理学批判・友人からのお便り「幼稚さ、ナルシシズム亢進、成熟拒否」
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51941137.html

●アドラー心理学批判 「トラウマ否定」「承認欲求否定」起源はみつけたが誤読と捏造だった―『人生の意味の心理学』をよむ
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51941143.html

●アドラー心理学批判 アドラーの罪:発達障害者向けのお説教と批判封じ
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51941204.html

●アドラー心理学批判 まとめ:「承認欲求を否定せよ」「トラウマは存在しない」有害フレーズの捏造と岸見氏の罪
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51941255.html

●アドラー心理学批判 まとめの補足:正確な言葉は「人生のすべては認められたいという努力によって支配されている」、「ほめない叱らない」はアドラー信者組織分派の過激派の言説?
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51941508.html

 さて、わたしはここまでアドラーの原著『個人心理学講義』と『人生の意味の心理学』を読んでみて、アドラーという人にわるい印象はもちませんでした。良心的な、一生懸命なカウンセラーさんだったのだろうなと思いました。

 また、同時代のフロイトが捏造だらけだったことが明らかになったり、ユングはポエムだったと言われることなど考えると、意外とアドラーが一番「まっとう」な人だったかもしれない、とも。


 しかし。
 ここでは、アドラー心理学全体の解説を試みるつもりはありませんが、現代人の目からみると、どうみても明らかにおかしいところがあります。見立てもおかしいから治療アプローチも間違っている。

 そして、それがどうも思想全体に影響を与えているのではなかろうか?と。部分的な間違いではなく、全体に及んでいるのではないか?と。


 非常に「ざっくり」とした整理ですが、アドラーの考える「いい人」「わるい人」とはどんなものか、みてみます。


スライド2



 よろしいでしょうか。

 
 アドラーのいう、「共同体感覚をもとう」「他人に関心をもとう」「協力しよう」「貢献しよう」どれも、間違いではないんです。むしろ、常識的なことです。わたしも小学校の先生にさんざん言われました。

 しかし、カウンセラーであるアドラーが、こうした言葉を口酸っぱくして言わなければならなかった相手とは、どんな人だったか?

 実は、アドラー自身が描写する、「他者に関心のない人」「協力しない人」「貢献しない人」、ひとことで言うと「共同体感覚のない人」とは、よくよくみると、現代でいうところの発達障害者、なかでもアスペルガー症候群の人に当てはまりそうなのです。

 なんども言いますように、アドラーはカウンセラーとして、「人生がうまく行ってない人」に関わってきました。その中で、不幸な事例をたくさん見てきました。

 そして、人生の不幸を作り出すのはこういう人だ、と彼なりのモデルをつくりだした、それが「共同体感覚のない人」だったようです。

 
 ところが、彼がカウンセリング場面で手を焼いたような、「共同体感覚のない人」とは。

 おそらく、知能程度は普通かそれ以上で、なのに他者への共感や思いやりに奇妙に欠けた人物だったろうと思います。そしてアドラーはそうした人びとは先天的にそうなのだろうとは考えませんでした。後天的な育て方のせいでそうなった、と考えました。だから、教育者向けに「こういうことを徹底して教え込みなさい」とクギをさすことになったのです。

 アドラーが自閉症スペクトラムと定型発達の区別がついていなかっただろうと思われる記述――。


 もっぱら自分自身の利害を追求し、個人的な優越性を追求する人がいる。彼〔女〕らは人生に私的な意味づけをする。彼〔女〕らの見方では、人生はただ自分自身の利益のために存在するべきである。しかし、これは共有された理解ではない。それは全世界の他の誰もが共有しそうにない考えである。それゆえ、われわれはこのような人が他の仲間と関わることができないのを見る。しばしば、自己中心的であるように育てられてきた子どもを見ると、そのような子どもが顔にしょんぼりした、あるいは、うつろな表情を浮かべているのを見る。そして、犯罪者や精神病の人の顔に見られるのと同じような何かを見ることができる。彼〔女〕らは他の人と関わるために目を使わないのである。彼〔女〕らは他の人と同じ仕方で世界を見ない。時にはこのような子どもたちや大人は、仲間の人間を見ようとはしない。目を逸らし、別の方を見るのである
(『人生の意味の心理学』下巻第十一章個人と社会、「共同体感覚の欠如と関連付けの失敗」、pp.129-130)


 このパラグラフの前半は自己中な大人のことを言っています。自分の損得勘定ばかりを考える大人のことです。そして後半は自己中に育てられた(とアドラーが考えている)子供のことを言っています。そうした子供の特徴として、アドラーは「視線を合わせない」ということを言っているのです。

 
 このブログの長い読者の方々だと、「損得勘定にばかり関心」そして「視線を合わせない」どちらも、アスペルガーの人の特徴だということがおわかりになるでしょうか。


 アスペルガーに限らず発達障害の人は共感能力が低いので、自分の言動が他人にダメージを与えているということがわかりません。またワーキングメモリが小さいので、「情けは人のためならず」というような話はわからないんです。まわりまわって自分にもいいことが起きるというお話は長すぎるんです。勢い、てっとりばやく自分の手元にお金がいくら残るか、いくら節約できるかという話がすきです。
(これも、例外として高機能の人だとお勉強するとちゃんと慈善事業ができるようになることがあります。ビル・ゲイツ氏などはたぶんそうなのでしょう)

 だから、現代のお医者さんによるとアスペルガーの人に問題行動をやめさせようとするとき、倫理道徳の話では理解してくれないので、「そんなことをするとあなたが損するよ」というと、きいてくれることがあるそうです。

 また、自閉症スペクトラムの人は視線は合わさないですね。これも、他人の視線は情報量が多すぎるからしんどくなるのだ、という説があります。


 でも、アドラー先生にとってはこれらは自己中でけしからんことのサインなんです。

 それは仕方ないんです。アドラー先生の時代に発達障害概念はなかったのですから。

 ここでちょっと年表的なものをお出しすると、


スライド1



 自閉症やアスペルガーについての報告が出てきたのはアドラーが亡くなったより後です(表左)。アドラーは、精神遅滞、今でいう重度の知的障害の人のことはみたことがあったようです。しかしIQは高いが認知能力の一部を欠損しているアスペルガーの概念などは全然知りませんでした。

 われわれにとっても、今でこそ徐々に知識が普及しつつありますが、知識がなければアスペルガーの人というのはやはり理解しがたい存在です。そして、この人たちが知的能力は高いのに人間的なことにはやたらと感度が低いのをみたとき、往々にして「親の躾が悪いんだろうか」と思ってしまいます。

 アドラー先生がカウンセリングでクライエントに良くなってほしくて焦れば焦るほど、この人たち相手には空回りしたはずです。

 その結果が、恐らく「共同体感覚をもて」「協力せよ」「貢献せよ」といったテーゼになったであろう。
 それでカウンセリングが成功したかどうかは、疑問です。

 
 決して、定型発達者にとっても悪いフレーズではないんですけれどね。

 
 
 また、上記の表について補足なんですが、「ほめない叱らない」をアドラーが言ったはずがない。

 というのは、行動理論がヒトに応用されて「ほめ育て」が出てきたのは、これもアドラー先生が亡くなった後だからなんです(表右)。だからそれについて批判するはずもない。


 行動理論に対する批判の声が高まったのは(言いがかり的なものですが)1990年代です。このころに、恐らく後世のアドラー心理学の人たちが反応して、「操作することはいけない」「賞罰主義はいけない」と言い出したと思われます。アドラーが言い出したことではないはずです。ただ「アドラー心理学では賞罰主義を否定する」このフレーズは、岸見氏にかぎらずアドラー心理学を標榜する人は言っていますね。


 追記:ひとつの資料

 一人にされた三歳か四歳の女の子がいる、と仮定してみよう。彼女は人形のために帽子を縫い始める。彼女が仕事をしているのを見ると、われわれは何てすてきな帽子だろう、といい、どうすればもっとすてきにできるか提案する。少女は勇気づけられ、励まされる。彼女はさらに努力し、技能を向上させる。(『人生の意味の心理学』下巻第十章「仕事の問題」、p.115)


 ここでは、「われわれ」という主語ですが、最初に「何てすてきな帽子だろう」と、言っています。これは、「ほめている」のではないでしょうか?そして続けて「どうすればもっとすてきにできるか提案する」とします。この2つの働きかけを、アドラーは「勇気づけ」と言っています。わかりますか?「ほめて、提案する」なんです。
 この相手は3-4歳の女の子ですが、ここで「提案」単独では勇気づけになりません。女の子がつくっていたものに、いきなり「こうすればもっとよくなるよ」と言ったら。それは失礼というものです。頭に「素敵だね」をくっつけて、少女の仕事を肯定していることを示したうえでなら、提案は勇気づけの役割を果たすでしょう。

 このエピソードのすぐあとにこう続きます。


 
しかし、少女に次のようにいうと仮定しよう。「針を置きなさい。怪我をするから。あなたが帽子を縫う必要なんかないのよ。これから出かけて、もっとすてきなのを買ってあげよう」と。少女は努力を断念するだろう。このような二人の少女を後の人生において比較すれば、最初の少女は芸術的な趣味を発達させ、仕事をすることに関心を持つことを見るだろう。しかし、後の少女は自分でどうしていいかわからず、自分で作るよりも、いいものが買えると思うだろう。(同、pp.115-116)


 ごく常識的なことを言っていて、わたしなども何も異論をはさむ余地はありません。「行動承認」のスタンスとも矛盾しないでしょう。ここでのポイントは、アドラーは「勇気づける」ことを「勇気をへし折る(奪う)」ことと対比させたのでした。決して、「勇気づけることは良くてほめることは悪い」などとは言っていないのでした。
 また、著書のすべてを読んで言っているわけではないのですが、アドラーの考える「勇気づけ」の全体像は、「承認」とよく似たものだったと思われます。細かくカテゴリ分けすれば、当社の「承認の種類」と同様に、そこには「ほめる」も含むし「励ます」も含む。人が人を力づける行為全体を包含していたと思われるのです。


 …ただ、細かいことを言いますとアドラーが「勇気づける」対象としたのは、こうした幼い少女であったりカウンセリングで出会う、社会から排除されたクライエントであったりし、やはりいささか「上から目線」が入っていないとはいえません。相手に行動力が「ない」「低い」とわかっているときに言うぶんには、いいものです。わたしのような年をくった人間に「勇気づけ」を使うのは「おこがましい」と言われても仕方がないのです。


 
 

 もうひとつアドラー心理学の大きな問題点は、

「批判はいけない」
「対立はいけない」

と言っている点です。これは原著の中にあります。

 以前から言っていますように、「批判はいけない」は心理学、カウンセリング独特の話法です。哲学の中にはちゃんと批判はあります。わたしがひそかに名乗っているドイツ・フランクフルト学派は別名「批判理論」ですし、その中の重鎮ハーバーマスはあっちこっちを批判しまくっています。


 で、とりわけわが国のように「波風立てない」ことを尊ぶ気風の中では、「批判はいけない」は、非常に有害な思想です。薬が効きすぎてしまうんです。

 端的に、このところわが国で連続して起きている不正問題などは、内部で適切な批判が起きないから起きるんです。

 岸見一郎氏なども、アドラー先生が言ってもいないことを捏造して触れまわっていますが、これはアドラー心理学業界さんの中で批判は起きないのでしょうか?
「アドラー先生はそんなことは言っていない!アドラー先生が誤解されるようなことを言うな!」
と血相を変えて言う人はいないのでしょうか?

 アドラー心理学陣営のご同業のみなさんは、岸見氏が有名になってくれれば自分のところにも食い扶持が回ってくるからと、黙認状態なんでしょうか?


 「批判」を封じると、自浄作用がありません。向上がありません。不良品を出してしまいます。

 
 アドラー自身が良心的な人であっても、後世のアドラー心理学が有害なものになったことに、責任の一端がないとはいえませんね。「批判はいけない」を彼自身が言ってしまっていますから。




<シリーズ・アドラー心理学批判>

●「勇気づけ」についての副作用情報。。(2014年12月)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51903598.html

●褒めない・叱らないは正しくない!「逆張りロジック」に正しく反論する知性を磨こう―『嫌われる勇気』著者講演会 (2015年12月)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51927076.html

●「自己認識には事実のフィードバックが大事」「思考的盲目が心配」―宮崎照行さんのメッセージ(同)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51927143.html

●「子どもさんは大いにほめてください。そして叱ってください」―正田、アドラー心理学セミナーで吠えるの記 (2016年1月)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51933511.html

●「誰もが活躍できる社会」とは「承認社会」―NYさんからのメッセージ (同)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51933591.html

●「勇気を持って指摘されたからこそ、いずれ考えを改める」―永井博之さんからのメール (同)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51933656.html

●『行動承認』Kindle化に向けて(4)メディアの考える怠惰なお客様と「行為者」の乖離、王道とパチモンの「大衆的人気」(2016年5月)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51940842.html

●NHKおはよう日本 アドラー心理学特集を批判する(同)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51940920.html

●NHKおはよう日本 アドラー心理学特集を批判する(2)友人たちの反応 (同)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51940923.html

●『行動承認』Kindle化に向けて(5)行為者の脳発達と細胞レベルの変化の可能性――林田直樹先生との対話より(同)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51940962.html

●アドラー心理学批判 「承認欲求否定」「ほめない叱らない」はどこから来るか―「共同体感覚」との関連において―アドラー『個人心理学講義』をよむ
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51941070.html

●アドラー心理学批判・友人からのお便り「幼稚さ、ナルシシズム亢進、成熟拒否」
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51941137.html

●アドラー心理学批判 「トラウマ否定」「承認欲求否定」起源はみつけたが誤読と捏造だった―『人生の意味の心理学』をよむ
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51941143.html

●アドラー心理学批判 アドラーの罪:発達障害者向けのお説教と批判封じ
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51941204.html

●アドラー心理学批判 まとめ:「承認欲求を否定せよ」「トラウマは存在しない」有害フレーズの捏造と岸見氏の罪
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51941255.html

 引き続きアドラーの原著を読みます。『人生の意味の心理学』(上)(下)(アルフレッド・アドラー、岸見一郎訳、アルテ、2010年。原題'What Life Should Mean to You'1931年。

 この本は、NHK「100分de名著」に今年2月に取り上げられています。

>>http://www.nhk.or.jp/meicho/famousbook/51_adler/index.html
 

 で、この本にどうやら「承認欲求否定」と「トラウマ否定」につながりそうなフレーズが見つかりました。

 しかし、「つながりそうな」というだけです。アドラーは決して「承認欲求を否定せよ」「トラウマなど存在しない」などという言葉は言っていません。では、何と言っているのでしょうか。

 上記番組でも上記のフレーズを使っていますが、番組プロデューサーさん、この本をちゃんと自分の目で読みましたか。


 まずは、「トラウマなど存在しない」(の起源)のほうから。


 
いかなる経験も、それ自体では成功の原因でも失敗の原因でもない。われわれは自分の経験によるショック――いわゆるトラウマ――に苦しむのではなく、経験の中から目的に適うものを見つけ出す。自分の経験によって決定されるのではなく、経験に与える意味によって、自らを決定するのである。そこで、特定の経験を将来の人生のための基礎と考える時、おそらく、何らかの過ちをしているのである。意味は状況によって決定されるのではない。われわれが状況に与える意味によって、自らを決定するのである。(前掲書上巻第一章「人生の意味」、p.21)


 トラウマに苦しむのではなく、経験に意味を与えなおすことで自らを決定せよ。そういう意味のことを言っています。

 この一節の前には、子供時代の不幸な経験について、不幸な経験があってもその経験にとらわれず今後は回避できると考える人もいるし、同じような経験をした人が人生は不公平だと考えたり、自ら犯罪に手を染めて不幸な経験をその言い訳にする人もいる、という意味のことを言っています。

 なんども言うように、アドラーは心理学者・カウンセラーさんです。トラウマに苦しむ人を膨大な数、みてきました。この本にも他の本にも、アドラーがみてきたトラウマのために社会不適応を起こす人、問題行動をとる人、が多数登場します。

 だから、「トラウマなど存在しない」という言い方は誤り。

 ただし、そうとれることを言っている、というのは、アドラーは恐らく過去の経験に囚われている人を何とか治したかったのだろうと思います。実際に治せたかどうかはわかりません。治したい一心で言った言葉が、上記で引用した一節であろうと思います。すなわち簡単に言えば、

「同じような不幸な経験をした人も乗り越えられる人はいるんだから、意味づけ次第だよ」

と。

 読者の皆様、どう思われますか?

 「トラウマ」については、現代では色々な形で反論できるんです。

 例えば、

1.動物でもトラウマと似た反応はある。セリグマンの「学習された無力感」の実験などはそう。

2.地震大国の日本では阪神淡路、東日本大震災などで家を失い、近親者を失ったことなどによるPTSD患者が多数出たことを知っている。その人たちに「トラウマなど存在しない」と言えるだろうか?

3.発達障害の一種、自閉症スペクトラム(ASD)の人ではトラウマが残りやすいことが知られている。彼らは恐れをつかさどる偏桃体が普通の人より大きい。

・・・などなど。

 アドラーは身体の障害には言及していますが、こころの個体差にはかなりむとんちゃくでした。知能にも限界はないと言ったように、個体差を否定したがる傾向がありました。
 それもまた度を過ぎたポジティブさとも言えるし、優生思想を回避したいがための「べき論」とも言えるし。現代のわれわれは、人間は「タブラ・ラサ」ではなく、生まれつき脳の個体差があることを知っています。また遺伝形質の影響が大きいことも知っています。


 ただ上記のような、

「同じような不幸な経験をした人も乗り越えられる人はいるんだから、意味づけ次第だよ」

こういうフレーズを、現代でも認知行動療法のカウンセラーさんなどは言っているような気がします。不遜な言葉ですけどね。わたしならそのカウンセリング、やめますね。

 こころの痛みを負った人には、まず十分な傾聴、共感、慰め、いたわりが必要です。そののちに、もしトラウマとして残っているようであれば、以前にも書きましたがEMDRは、クライエントに治りたいという意志が強いならいい選択だと思います。

 
 ともあれ、まとめますと、アドラーは「トラウマは存在しない」などということは言っていない。ただ「トラウマを乗り越えよう」という意味のことを言っている。ということです。




 もうひとつ、「承認欲求否定」につながりそうな一節をご紹介しましょう。「第八章 思春期」に出てきます。

 
 
以前は貶められ無視されていたと感じた子どもたちは、おそらく今や、仲間の人間とのよりよい関係を築いたときに、ついに承認されるだろう、と期待し始める。彼〔女〕らの多くは、このような賞賛の渇望にとらわれる。少年が賞賛を求めることにあまりに集中することは危険だが、他方、多くの少女はいっそう自信を欠いており、他者に認められ賞賛されることに、自分の価値を証明する唯一の手段を見る。このような少女たちは、容易に彼女たちをおだてる方法を知っている男の餌食になる。私は家では賞賛されていないと感じ、セックスをし始める多くの少女に会ってきた。それは自分が大人であることを証明するだけではなく、ついに、自分が賞賛され、注目の中心になるという状況を達成できるという空しい希望からである。(下巻第八章思春期、pp.47-48))



 思春期は、たしかに承認欲求が亢進する時期なんですね。また承認欲求ゆえに性的逸脱行動も出ます。そういう現象にこの時代に目をとめたのはアドラー、えらかったですね。ここで使っている「承認」「賞賛」は英語で言うとなんなんだろう、と気になりますが。
 そしてこの次に、承認欲求が家庭でも学校でも適切に満たされず問題行動に走る少女の例が出てきます。


 …絶え間なく勇気をくじかれた。すぐにほめられることをあまりに強く願っていた。学校でも家でもほめられないことがわかった時、一体何が残されていただろうか。

 彼女は、彼女をほめるであろう男性を探し求めた。何回かの経験の後、彼女は家から出て、2週間男性と一緒に住んだ。(同p.49)


 このあと、この少女は家出先から家に「毒を飲んで死ぬ」と予告したが、実際には自殺せず家族が迎えにくるのを待っていた。…


 このエピソードは、どう解釈したものでしょうねえ。確かにこの女の子は承認欲求、それに自己顕示欲の強い子だったのだと思います。
 もちろんアドラー、慧眼です。21世紀になると、こうした承認欲求ゆえに問題行動をとる子、とりわけ売春のような性的逸脱行動をとる子の事例はうんざりするほど報告されるようになります。


 ただまあ、上で言いましたように思春期は性ホルモン値が男女ともに生涯最高に上昇する時期で、それとともに承認欲求も性欲も両方亢進します。両者は連動するといっていいです。なので中には承認欲求の亢進にともなって性産業にいく子、逸脱行動をする子がいてもそんなに不思議ではない。もちろん、ご家庭や学校で承認欲求の正しい満たされ方ができればそれは何よりですが。

 あと、上のエピソードを読むかぎりほめることが悪いことだというふうには読めないですね。ほめられることを渇望するヒロインの姿に多少のグロテスクさはありますが、ご家庭や学校の周囲の人はほめてやったほうが良かった、というふうにとれますね。

 まあ、私はほめるという言葉もあまり好きではなくて使いたくないんですけれど、少女は「かけがえのない存在」だと誰かに言ってほしかったんだと思います。それは一義的には、親が与えてやるべきだったのです。


 で、この本『人生の意味の心理学』が承認欲求に触れたのはこのあたりです。「承認欲求を否定せよ」という言葉はどこにも書いてありません。それは、岸見一郎氏の「誤読」ないしは「捏造」です。


 ただ、承認や賞賛を求めるあまりに問題行動をとる思春期の少年少女たちを描写していると、まあ滑稽ともいえるのですけれども読者はそこにグロテスクさを感じ嫌悪の念をもよおすかもしれません。わたしの想像ですが、岸見一郎氏はこのエピソードを嫌悪したのではないかと思います。それが昂じて、「承認欲求を否定せよ」という彼オリジナルのテーゼを作ったのではないかと思います。


 しかし、アドラーはそれを望んだでしょうか?
 わたしの目には、アドラーはクライエントを治したい一心の良心的なカウンセラーだったと思います。ただし現代人なら持っているはずの新しいツールは持っていませんでしたが。そこで教条主義的なテーゼなどは言っていなかったと思います。上記のエピソードをみていても、アドラーはむしろ、ご家庭で適切な承認は与えてしかるべき、と考えていたようにとれます。


 アドラーの名を騙って勝手なテーゼを触れ回るということが許されるのだろうか――。
 先日、週刊誌の記者さんにわたしは

「アドラーの教えとして『ほめない叱らない』『承認欲求を否定せよ』なんてことを信じているのは世界中で日本人だけかもしれませんよ」

と言ったのでした。



<シリーズ・アドラー心理学批判>

●「勇気づけ」についての副作用情報。。(2014年12月)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51903598.html

●褒めない・叱らないは正しくない!「逆張りロジック」に正しく反論する知性を磨こう―『嫌われる勇気』著者講演会 (2015年12月)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51927076.html

●「自己認識には事実のフィードバックが大事」「思考的盲目が心配」―宮崎照行さんのメッセージ(同)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51927143.html

●「子どもさんは大いにほめてください。そして叱ってください」―正田、アドラー心理学セミナーで吠えるの記 (2016年1月)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51933511.html

●「誰もが活躍できる社会」とは「承認社会」―NYさんからのメッセージ (同)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51933591.html

●「勇気を持って指摘されたからこそ、いずれ考えを改める」―永井博之さんからのメール (同)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51933656.html

●『行動承認』Kindle化に向けて(4)メディアの考える怠惰なお客様と「行為者」の乖離、王道とパチモンの「大衆的人気」(2016年5月)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51940842.html

●NHKおはよう日本 アドラー心理学特集を批判する(同)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51940920.html

●NHKおはよう日本 アドラー心理学特集を批判する(2)友人たちの反応 (同)
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●アドラー心理学批判・友人からのお便り「幼稚さ、ナルシシズム亢進、成熟拒否」
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●アドラー心理学批判 「トラウマ否定」「承認欲求否定」起源はみつけたが誤読と捏造だった―『人生の意味の心理学』をよむ
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●アドラー心理学批判 アドラーの罪:発達障害者向けのお説教と批判封じ
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●アドラー心理学批判 まとめ:「承認欲求を否定せよ」「トラウマは存在しない」有害フレーズの捏造と岸見氏の罪
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 「アドラー心理学」について、友人の40代女性からメールをいただきました。実務経験の長い聡明な方です。
 わたしが書くよりコンパクトでわかりやすいアドラー心理学批判になっているかと思います。 「幼稚―成熟」という切り口も新鮮です。

 ご了承をいただいて、ご紹介させていただきます。


*********************************************


ブログで話題のアドラー心理学、私、お恥ずかしいことに
正田先生の最近の批判記事を読んで、やっと手に取ってみようかと思い始めました。

ベストセラーの『嫌われる勇気』は、文体が好みではなくて食指が動かず、
近寄らなかったのですが
最近になって、読んでみたいと言う家人のリクエストで、
続編の『幸せになる勇気』とあわせて手元にあります。

文体や語彙が好みでない(を通り過ぎてなんだか気持ちが悪い)、
読み進めるのは苦痛なのですが、
せめて大きな論旨とキーワードだけでも拾いたいと、ぱらぱらめくっています。

いくつか気がついたことです。

時代背景や社会状況に依存する事象を、
普遍的な価値として提起していて、
つながりや関係のもつ価値や意味が、
Gemeinschaftを前提にしたものに偏っているのではないかという疑問がわきます。
(この本は設定では、それでいいのかもしれませんが)
Gesellschaftを前提とした一般社会人には当てはまらないと思えます。

子育てに関わる部分は私には経験もないのであくまで第三者的な考えですが、

褒めず叱らずで、子供に規律や倫理や秩序をどうやって教えるのか、
人は永遠にGemeinschaftに留まれるわけではなく、
Gesellschaftのなかで生き抜いていくために必要な知識や知恵としての信賞必罰や他者との関係性は、
どこで学ぶのか?といった疑問がわいてきます。

そして、『嫌われる勇気』という受動表現に端的だと感じたのですが、
周囲に干渉される存在であることが暗黙のうちに前提となっている読者のために書かれた本で、
(正田先生の表現をおかりすればナルシシズムが亢進気味の人)
成熟した内面をもつ大人を対象に書かれた本ではないような印象です。


そして、家人とこんな話をしました

家人「今の若手は(若手と言ってもそれは40代の教授だったりするんですけども)、
何がやりたいのかわかってない人が多い、自分のテーマをもっていないんだよ。
結局、医学部に入って医者になって、海外にも留学して、博士もとって、論文を書いて、
で運良く教授になっても、自分のテーマを持っていないから、結局、ポストだけにこだわって、
学内や学会のポスト漁りに躍起になってみたりするんだよなあ。
そういうところを、彼らの部下はしっかり見ていて、自分の教室は迷走してるって言ってるよ」

私「結局、教授になるまで競争に勝つことだけをやってきて、自分が本当にやりたいことに向き合ってこなかったってことかしら。
大企業にいる高学歴な幹部社員にもそういう人はいて、都度都度の競争に勝つことが目的になってしまってて、それしかできない人もいるよ。
競争ではなくて、ゼロからの創造が必要なシーンになるとそういうタイプは全然機能しないんだけど、
最近は、競争に勝つためにゼロからの創造が必要なこともあるから、その辺りに気づき始めている企業もあるにはあるけども、まだ少ないかなあ」

家人「例えば、●●先生(若手教授)には嫌われる勇気が必要だということなんじゃないかなあ。若いやつを見てるとそういう気もしなくもないよ。」

という意見でした。
私はそこまで短絡的には思えないのですが、
話題になった教授がそうであるように、ナルシシズムが亢進気味で迷路にはまった人には、
嫌われる勇気は響くのかもしれないようです。
ただ、多数の一般社会全体には適用できない話だと思います。


そして、ナルシシズム亢進で思い出しましたが、
小保方氏と瀬戸内寂聴氏の雑誌での対談、たまたま見ました。
小保方さん、かなり「幼稚」な人なのですね。
寂聴さんが、小説としての「あの日」の文章を褒めて、もっと文章をかきなさいとすすめると
その返答に「私に小説の書き方を教えてください。」と言い出す。
んー、たぶん、これまでもそうやって年長者と関わってきたんだろうなと思えるやりとりでした。

しかし、幼い。発言が1つ1つが幼い。
うつ病の治療を続けているそうなので、
そのせいかもしれませんし、もともとそうなのかもしれないですが、
いずれにしても人格の幼稚さが透けて見え、
その点がもしかしたら、彼女を擁護する人々があれだけいる理由かと思ったり。

彼女を擁護する人々の側にある教条主義は、
彼女のもつ独特の幼稚さによって刺激され活性化するように見えます。
その幼稚さの正体が何なのか、そして相手の何を刺激しているのかを分析できれば、
現代の大衆病理を読み解けるのでしょうか。
私がそれがわかったところで、正しい治療法がわかるとは思えないですが、
正田先生のあの日の解説を読ませていただいたことも手伝って、そのような興味が深まっています。


先日、違和感の正体という新潮新書を読んだのですが、
そのなかで、著者(先崎彰容氏)は現代日本社会を「ものさし不在」で「処方箋を焦る」社会と形容していました。
言い得て妙だと思いました。
そういう社会になっている要因には、何かしらの「幼稚さ」が関係するのではないかという気もします。
成熟を拒否しているのかあるいは成熟できないのか、
その精神性や風潮が、我が物顔で世の中を跋扈しているような状況にも思えます。

本来であれば、未成熟なことは恥ずかしいことで、自分を成熟させていく努力をすべきなのに、
幼稚さを純粋さとを同一視してそれを美徳として煽り、
成熟に向かわせようとしない風潮があるような気もします。

未成熟な人材を管理職に登用することで経営者に都合のいい独裁的な体制を強化している企業もあり、
私のいたIT業界でも、新卒を大量に採用し、ある種の洗脳をしていくような経営がもてはやされています。

極端な考えと思いますが、そういう経営者を見ていると、
知識人を追いやり虐殺し、
文字の読めない人や子供を煽動して独裁を進めたポルポト派のことがなぜか思い出されて、
ぞっとします。

正田先生の発信を読ませていただいているうちに、
行動承認に対する態度は、成熟した内面を持つ大人であるかどうかの試金石のように思えてきました。
行動承認の効果やあるいはその大きな意味を、自分ごととしてとらえることの出来る方は、
「幼稚さ」とは縁遠く、内面の成熟に向かわれているような印象です。

内面の成熟とは、自分の努力でしかなし得ないものであり、
挫折に向き合い、葛藤をかかえ、矛盾にさいなまれておきる心境の深まりなのかと思います。
暗くて深い地下トンネルの中で孤独の空気に囲まれて眠るワインのようです。

(注:2通のメールをドッキングさせていただきました)

*********************************************

 いかがでしょうか。

 最後のほうに「行動承認」について、またその世界の人びとについて、過分なお褒めをいただいてしまいましたが、わたしも内心、そう思っています。
 「行動承認」は人を成熟に導きます。また、成熟度の高い人びとに響きます。
 トレーニングの易しさ続けやすさのお陰もあって、「行動承認」の人びとは、一般社会とは段違いの成熟度と思考能力の高さを獲得していきます。

 
 逆に、このところの出版業界のベストセラーの作られ方をみていると、
 
 まず年齢層が、20−30代の独身者層をターゲットにするのですが、その中でも、この友人のメールの中にもあったナルシシズム亢進気味の人をターゲットにします。『嫌われる勇気』などを読むと、社会人の中のいわゆる「中二病」で社会不適応気味の人が、これを読むとかぶれそうだなと思います。

 「中二病」の人は、現実世界で出会う人をリスペクトなどしません。叱られてもききません。そうして浮き気味のときに、ベストセラーで「哲人」が上からお説教をしてくれる『嫌われる勇気』は、ウレシイのです。

 うーん、ストレングスファインダーで言うと何?というと、大体答えは出ているのですけどね。

 今のベストセラーの作られ方をみていると、「中二病」が中二のときだけでなく社会人になっても延々と続くように、ベストセラーが仕向けているような気すらします。

 それは、友人の言うように思考能力の低下にもつながるし、カルト形成にもつながりますね。はたからみるとすごく変な教祖様を尊師とあがめていて、つじつまの合わないおかしな考え方にかぶれている集団。
 
 その集団のコアには戦略的に大衆を騙そうという仕掛け人がいます。そして当初は思考能力の偏りのひどい人、判断力のない若い人が取り込まれ、コア集団を形成し、そして一定の勢力を形成すると、周囲のそれほど偏りのない人も取り込まれていきます。普通の善男善女が入信していきます。

 
 アドラー心理学も小保方擁護派も結局そうです。

 さあ、こうやって社会を幼稚化させるたくらみに対抗するすべはないのでしょうか――


<シリーズ・アドラー心理学批判>

●「勇気づけ」についての副作用情報。。(2014年12月)
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●「自己認識には事実のフィードバックが大事」「思考的盲目が心配」―宮崎照行さんのメッセージ(同)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51927143.html

●「子どもさんは大いにほめてください。そして叱ってください」―正田、アドラー心理学セミナーで吠えるの記 (2016年1月)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51933511.html

●「誰もが活躍できる社会」とは「承認社会」―NYさんからのメッセージ (同)
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●「勇気を持って指摘されたからこそ、いずれ考えを改める」―永井博之さんからのメール (同)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51933656.html

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●アドラー心理学批判 アドラーの罪:発達障害者向けのお説教と批判封じ
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●アドラー心理学批判 まとめ:「承認欲求を否定せよ」「トラウマは存在しない」有害フレーズの捏造と岸見氏の罪
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51941255.html

 アドラーの原著の1つ『個人心理学講義―生きることの科学』(アルフレッド・アドラー、岸見一郎訳、アルテ、2012年。原題'The Science of Living'1928年)を手にとりました。

 興味としては、わたしが批判する(岸見)アドラー心理学の非常に問題の多い幾つかのポイント

1.人に認められなくてもいい
2.ほめない、叱らない
3.トラウマはない


などは、どこからくるのか。アドラーの原著ではそれは、どういう文脈で出てくるのか、あるいは根本的に原著にないものか、ということです。


 で、結論から言うと予想どおり、この本にはそれにあたるフレーズは出てきませんでした。


 もちろんこの本1冊で判断するのは早計です。でもこの本の奥付には

「アドラー心理学入門の決定版!
ウィーンからニューヨークへと活動の拠点を移したアドラーが初めて英語で出版した、アドラー心理学全体を俯瞰できる重要著作。

過去と自己への執着から離れ、仲間である他者に貢献することを目指す共同体感覚をいかに育成するべきかを人生の諸像の考察を通じて明らかにする」

とあります。いちおう「アドラー心理学全体を俯瞰できる」とありますので、この本をじっくり読んでみるのもわるくないと思ったわけであります。

 で、ぼんやり思うのはアドラーの考える「共同体感覚」なるものは何か、ということです。どうもここが上記の”変な思想”のすべての起源になっていそうです。


 ただ、最近の読者の方は文字をびっしり書いてあるのを読むのは「たるい」とお感じになると思います。なので、
スライドで図をつくってみました。


スライド1


 おそらく、この本が構想しているのはこういうものであろう、ということです。ひとりひとりが向上し、共同体感覚をもって貢献しあいましょう。
 学校の教室の目標に貼ってありそうです。


 わるいけど、わたしはこの図を作りながら「革命家の青い思想だなあ」と思ってしまいました。ひとりひとりが誰の助けも借りずにここまで立派に向上して、というのは絵空事です。マルクス主義がすごく自立した立派な人が構成する社会を念頭に置いてできていてすぐポシャッたのと同じ。もし組織の成員のだれか1人がこういうことをお勉強してやりはじめたとしても、線香花火で終わるでしょう。

 もちろん、理想は理想として結構です。ただ、これは組織が非常に大きく「リーダー」に依存しているという現実をみていません。泣いても笑ってもそれが現実です。その部分を無理やりスルーして、フォロワー側の努力で良くしようと思っているようですが、それは現実逃避です。

 現に、いまどきの学校ではしょっちゅう学級崩壊が起きるのですが、そこでは生徒をリスペクトしていない、褒めない先生のもとで容易に起きます(学級崩壊の原因をたどると大抵はそういうところにたどりつきます)。そういう先生が「ひとりひとりが向上して貢献しあいましょう」と声をからして言ったところで無意味なのです。


 で、手前味噌で恐縮ですがわたしが数年来研修で使っている「承認モデル」の図というのをお出しします。


スライド2
スライド3
スライド4


 これは法螺を吹いているわけではなく、実際に働きかけをすることでこうなってきました。
 こちらのほうが、学習機会を与えるのはリーダーに対してだけで良いのです。あとはリーダーからフォロワーへ、日々のやりとりの中で自然に良いものが流れていくのです。

 おそらく過去10数年にわたる再現性からみて、こちらのほうが人間社会の真実です。



 この「共同体感覚」というものについて、この本の末尾の訳者・岸見一郎氏の「解説」から引用します。


 
アドラーがこの共同体感覚という考えを友人たちの前で初めて披露したのは、アドラーが軍医として参戦した第一次世界大戦の兵役期間中、休暇で帰ってきた時、なじみのカフェにおいてであった。

 このことで、アドラーは多くの友人を失うことになった。価値観にもとづくような考えは科学ではないというわけである。しかし、アドラーにとって個人心理学は価値の心理学、価値の科学である。(前掲書p.182)


 おいおいー。

 ここは、アドラーにも書いている岸見氏にも両方ツッコミを入れたくなります。「価値の心理学」そして「価値の科学」ってなんだよ!?主観に科学ってつけないでくれよ。

 要は、アドラーさんは自分の価値観を一般論みたいに書いているだけのようです。「貢献することが好き」これは、ソーシャルスタイルのFタイプさん、4つのタイプ分けでいうサポーターさんが当てはまります。みんなが私みたいだったらいいね!ということを言ってるんです。


 「私は貢献することこそ自分をそして全体を幸福にすることだと発見した。」

 別に、間違ってはいないんですが。

 問題はそれに「承認欲求否定」「ほめない叱らない」がどうしてひっつくのか、ということです。この本にはそうした言葉そのものでは出てきません。では、文脈上そう読み取れるところがあるのでしょうか。

 あくまで、この本単体から読み取れることで言いますと――。


 この本をパラパラめくると、「甘やかされた子ども」「憎まれた子ども」という言葉が多数出てきます。父親や母親が過度に罰して虐待したことによってもたらされる、抑圧された感情という言葉が出てきます。それから、「優越コンプレックス」「劣等コンプレックス」という言葉も出てきます。

 それに関連したいくつかの症例も出てきますが――、

 要は、カウンセリングの世界の話なんです。

 以前から言っていることと同じです。アドラーは、心理学者・カウンセラーとして、社会不適応を起こした大人や子供さんをみてきました。その背景に、さまざまな「過剰」の現象をみてきました。すなわち、甘やかしすぎ。叱りすぎ。他者に優りたいという気持ちが強すぎ。劣っているという気持ちが強すぎ。


 そこから、どうも、「過剰」がなければ、「共同体感覚」のある、アドラーの考える「いい人」をつくれると考えたようです。

 引き算の発想ですね。岸見アドラー心理学の「ほめない叱らない」の起源は、どうも、ここにあるようです。

「この主題を扱う時、罰することや、諭すこと、説教することでは何も得ることはできないということは、いくら強調してもしすぎることはない。」(p.20)

 さあ、「叱らない」に通じそうな言葉が出てきました。
 しかし、この言葉はその前段に出てくる問題行動をする子供たちの例との絡みで理解する必要がありそうです。
 いわく、怒りっぽい父親をもった女の子が男性を排除する。厳格な母親によって抑圧された男の子が女性を排除する。あるいは内気ではにかむ、性的に倒錯する。
 こういう子たちを罰しても意味はない、ということを言っているのであって、一般論としていついかなる時も罰することがいけないと言っているわけではありません。


 そして、理想的な状態をどうやってつくるか。


 一番最初から共同体感覚を理解することが必要である。なぜなら、共同体感覚は、われわれの教育や治療の中のもっとも重要な部分だからである。勇気があり、自信があり、リラックスしている人だけが、人生の有利な面からだけでなく、困難からも益を受けることができる。そのような人は、決して恐れたりしない。(p.16)



 その理想は大変結構なんですけど。じゃあどうやってそういう人をつくるの?「過剰」さえなければつくれるの?

 これが結局、カウンセリングの側から教育を語ることの限界を物語っているのだろうと思います。「治療」と「教育」は違うものです。「治療」は、「過剰」を是正することが大きな仕事になります。しかし「教育」は、なにかを加算することです。


 「行動承認」の世界にいるわたしは、そこで「訓練」の存在をみます。訓練は、人為的に指導者が負荷をかけたのかもしれないし、人生のあるいは不幸な巡り合わせで困難な課題を与えられ克服する経験を通じてもたらされたのかもしれない。「過剰」を控える以外何もしないでつくれるわけではありません。また、困難な負荷であれば、それを乗り越えたときには「承認」が必要でしょう。




 アドラーも「訓練」の重要性を、実は言っています。
劣等感と社会的な訓練の問題は、したがって、本質的に連関している。劣等感が社会的な不適応から起こるように、社会的な訓練は、それを用いることで、われわれ誰もが劣等感を克服することができる基本的な方法である。(p.31)


 ほかにも、甘やかされて行動しない子どもには訓練が必要だ、というフレーズが出てきます。


 これは後世のアドラー心理学の人が「操作」を罪悪視するのとはちょっと矛盾するのですが。訓練っていわば操作じゃないんですか。 「・・・をしなさい」って言って、できたらほめたりするのを訓練って言わないですか?


 この「操作」が悪玉になった流れというのは、アドラーの時代からずっと下った1990年代ぐらいに、「内発と自律論」がもてはやされました。どうもそのころ行動理論があまりにもメジャーになったので、反発を買った。また、部分的には弊害も出てきた。『報酬主義をこえて』でアルフィー・コーン氏が批判したような、子供をお金で釣って勉強させるような。(2015年日本では某美人学者さんが「お金で子供を釣ってよい」と本に書いているが、コーン氏はそれにはどう言うのだろう…)

 その当時は、「ほめたり叱ったり」というのを、「アメとムチ」と、汚い言葉でくさすのが主流になりました。それとの絡みで、アドラー心理学陣営も、「操作はいけない」ということを言うようになったのではないかと思われます。いかにも、「過剰」には「過剰」に反応するアドラー心理学らしいです。
 
 アドラーが、普通のご家庭の躾としての「ほめたり叱ったり」までを否定していたのかというと、この本でみるかぎりクエスチョンですね。


 
 そういうわけで、この『個人心理学講義』からは、「認められなくてもいい」「ほめない叱らない」「トラウマ否定」は、読み取れませんでした。

 これらのフレーズは、岸見一郎氏の誤読、牽強付会あるいは創作の可能性が高いです。もともと、『嫌われる勇気』をはじめとする岸見氏の一連の著作、ならびに他の著者によるアドラー心理学本は、アドラーに依拠したというより、「二次創作」のようなものが多いのです。コミケで売っている同人誌のようなものが多いのです。





 「承認欲求否定」に関しては、アドラーからとったというより、わが国の出版業界の流行りである「承認欲求バッシング」の尻馬に乗ったのではないか、というのが、わたしの見立てです。

 このブログでかねてから批判していますように、出版業界の流行りで、わが国では2008年ごろから「承認欲求」をやたらに非難する書籍が続々と出てきました。
 その「はしり」のような本が、『友だち地獄―「空気を読む」世代のサバイバル』(土井隆義、ちくま新書、2008年3月)。
 この本についてのブログ記事
●奇妙で不快な論理構築:承認欲求バッシングはこんなに変!―『友だち地獄』『希望難民ご一行様』
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51927340.html

 その後2011年には『「認められたい」の正体』『人に認められなくてもいい』といったタイトルの新書本が相次いで出、ちょっとした「承認欲求バッシングブーム」の感がありました。

 岸見氏の「承認欲求否定」は、どうも、このバッシングブームの尻馬に乗って言っているだけ、という感があります。前にも書きましたようにアドラー自身は「承認欲求」という言葉を使っていません。

 「甘やかされた子ども」「優越コンプレックス」「劣等コンプレックス」これらは、「承認欲求」が絡んでいないとはいえないですが、どれも異常に暴走して正常範囲から逸脱したものです。


 岸見氏の言う「認められたいと思わないで、貢献しようと思えばいい」このフレーズは、個別のクライエントに対するカウンセラーのアドバイスとしては、「あり」だろう、と思います。
 例えば、「認められたい」がやたら強すぎる人。「自分が人に10やってあげたら、20も30も50も認められたい」と思っている人。
 あるいは昇進し損ねて、同期より昇進が遅れてしまい、それがコンプレックスになって鬱になってしまっている人(実際、男性はそういうきっかけで鬱になることがよくあります)。

 そういう人を目の前にして言う場合には、「認められたいと思わなくていい。貢献しようとだけ考えればいい」これは、「あり」です。わたしでもそういう人に対してはそう言うかもしれない、と思います。
 しかしあくまでそういう個別の人に対してだけ有効なテーゼなのであって、一般化して教育の教義にまで格上げするようなものではありません。




 これはあくまでわたしの想像ですが、岸見氏はこの出版界の流行りである「承認欲求否定」と、アドラーのいう「共同体感覚」「貢献する」を合体させて、これならうまくいく、と思ったのかもしれません。つまり、各自が「共同体感覚」をもち、「貢献さえすればいいんだ」と強く思っていれば、「承認欲求」は必要なくなる(これも幻想なのですが)。

 それプラス、アドラーの「甘やかされた子ども」の概念も使って、つまり親がほめるから子供が甘やかされるんだ、承認欲求をもった人に育つんだ、と。親がほめないで育てれば、承認欲求のない、「人から認められたい」という願望のない人ができるんだ、と。
 
 それはサイボーグづくりのような、ものすごい人間性に反した考え方ですけどねえ。




 
 なんどもいいますように「承認欲求」はたまに逸脱も起こしますが、圧倒的に多くの場合は人びとが規範的に振る舞うことを促します。わたしたちの規範意識はそもそも承認欲求によってつくられていると言ってもいいのです。そして承認欲求は精神における食欲のようなもの、根源的に大事なものです。

 「角を矯めて牛を殺す」という言葉がありますが、一部の問題行動をとる人にばかり注目して原因を過剰に摘み取ろうとするのは、癌細胞は細胞だから細胞が全部わるい、と言っているようなものです。ターゲット以外のものを叩いてしまう副作用の強い薬のようなものです。






 それから、アドラー自身について思うのは、この人はやっぱり発達障害が全然わかっていないですね。時代的に仕方ないですけれどね。『個人心理学講義』の中にも、「その子はADHD」と思うような症状の子が、「甘やかされた子ども」と解釈されている例があります。岸見氏も全然わかっていないです。またLGBTもわかっていないです。性的倒錯を育て方のせいにしている記述がこの本にはあります。

 今からはもう少し、今年2月にNHKが名著として取り上げた『人生の意味の心理学』も、読んでみようと思います。



<シリーズ・アドラー心理学批判>

●「勇気づけ」についての副作用情報。。(2014年12月)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51903598.html

●褒めない・叱らないは正しくない!「逆張りロジック」に正しく反論する知性を磨こう―『嫌われる勇気』著者講演会 (2015年12月)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51927076.html

●「自己認識には事実のフィードバックが大事」「思考的盲目が心配」―宮崎照行さんのメッセージ(同)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51927143.html

●「子どもさんは大いにほめてください。そして叱ってください」―正田、アドラー心理学セミナーで吠えるの記 (2016年1月)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51933511.html

●「誰もが活躍できる社会」とは「承認社会」―NYさんからのメッセージ (同)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51933591.html

●「勇気を持って指摘されたからこそ、いずれ考えを改める」―永井博之さんからのメール (同)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51933656.html

●『行動承認』Kindle化に向けて(4)メディアの考える怠惰なお客様と「行為者」の乖離、王道とパチモンの「大衆的人気」(2016年5月)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51940842.html

●NHKおはよう日本 アドラー心理学特集を批判する(同)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51940920.html

●NHKおはよう日本 アドラー心理学特集を批判する(2)友人たちの反応 (同)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51940923.html

●『行動承認』Kindle化に向けて(5)行為者の脳発達と細胞レベルの変化の可能性――林田直樹先生との対話より(同)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51940962.html

●アドラー心理学批判 「承認欲求否定」「ほめない叱らない」はどこから来るか―「共同体感覚」との関連において―アドラー『個人心理学講義』をよむ
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51941070.html

●アドラー心理学批判・友人からのお便り「幼稚さ、ナルシシズム亢進、成熟拒否」
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51941137.html

●アドラー心理学批判 「トラウマ否定」「承認欲求否定」起源はみつけたが誤読と捏造だった―『人生の意味の心理学』をよむ
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51941143.html

●アドラー心理学批判 アドラーの罪:発達障害者向けのお説教と批判封じ
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51941204.html

●アドラー心理学批判 まとめ:「承認欲求を否定せよ」「トラウマは存在しない」有害フレーズの捏造と岸見氏の罪
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51941255.html

 下り坂でおかしなことばかり起こる時代だが、ちょっといいこともありました。
 このところ別件でお世話になっている山口大学医学部講師の林田直樹先生とフェイスブックメッセージでやりとりさせていただきました。

 林田先生は、先ごろ拙著『行動承認』を読んでくださり、非常に好意的に受け取ってくださった方です。


 どんなやりとりだったかというと…。

私:「手前味噌ですが行動承認をやり始めた人は細胞レベルで変わる感じなんです。脳発達も起きていそうです。いつか、理系の研究者さんがこの現象に興味を持って研究してくださらないかなと思ってるんです。」


林田先生:「『行動承認をやり始めた人は細胞レベルで変わる感じ。脳発達も起きていそう』とのことですが、僕はそれは十分あると思います。すごくざっくり言うと前頭葉で起きる変化がメインだと思いますが、シナプスが新しくできる、組み変わる、ということは間違いなく起きていると思います。

脳の活性化部位を調べる機器は、安くても1億円くらいするので、やはり先生の著書が改めて売れてくれれば、興味を持つ人はいるんじゃないかと思います。

 細胞における遺伝子発現も変化が起きていると思いますが、ヒトが対象だとサンプルが取れないのでそれが残念ですけど (^^;、血中を流れる多くの因子の中で、数個は優位に変動しているのではないかな、と想像します。」


 このあと、林田先生は医療系の研究室におけるマネジメント(主に教授の資質による)についても話してくださいましたが、ここでは省略。正義感高く教育者気質で、かつ科学者でもある林田先生に、『行動承認』は思いのほかヒットしていただけたようです。

 林田先生は分子生物学・アンチエイジングの専門家です。
 もちろんまだちゃんと実験してエビデンスをとって、という段階の話ではありませんけれども、専門家の方からこういうコメントをいただけた、というのは、わたしには大きかったのでした。

 年来、理系の研究機関に共同研究のお願いをして、断られてきました。今年初めも、実はある研究機関にちょっと期待をもって真剣にお願いして、ある程度の段階まで検討していただいたらしいのですが、断られました。そのときは結構落ち込みました。

 理系の研究機関に何を調べてほしかったのかというと、「行動承認」で受け手の側、すなわち上司部下で言えば部下側、親子関係で言えば子供さんの側が伸びるというのは、もうわかっているのです。火をみるより明らかなのです。

 そうではなくて、行為者の側、すなわち上司や親御さんの側が、
・頭が良くなって思考能力が高まり、
・幸福感が高まり、
・また若返りとか、細胞レベルの変化が起きているのではないか?
というのが、わたしが年来感じていることです。そちらを検証してほしかったのです。

 なぜそちらを検証してほしいかというと、そちらは「研修を受けて、行為者になる」側です。従来は行為者のメリットではなく、部下側のメリットが語られてきました。

「こうしてあげると、部下は喜びますよね」
「部下は伸びますよね」

「…すると、業績が伸びてあなたの評価も高くなりますね」

 「あなた」にメリットが返ってくるのが随分先の話です。
 その時までは、通常の仕事だけでシンドイのに「承認」という、新たなタスクが課せられてよけい忙しくなるだけです。

 まあ、そこまで損得勘定一本やりでものを考える人ばかりでもないだろうと思うけれども。当面のメリットが少ないかのようだったのです。

 実は、そうではない。上司にもとても大きなご利益があるのだ。

 それが、自身の幸福感であったり、脳発達であったり、アンチエイジングであったりします。

 これらは、勝手な妄想で言っているわけではなくて、数年前から

「承認の世界の上司たちは非常に『あたまがいい』。現実的に物事を考え、さっと整理し、決断する。それはもともとそういう人だから承認を習得するのか、それとも承認の習得と実践であたまのはたらきが良くなるのか」という意味のことをブログに書いてきております。

 どうもこの人たちにはあまりパーソナルコーチングをやってあげる必要もなくなる。だからわたしは儲からないけれど、彼らがどんどん決断して問題解決をしていくのを折にふれきかせてもらうのは喜ばしいことでした。


 「あたまがいい」のは、脳発達の関連として、脳の白質の体積(特に林田先生のおっしゃるように前頭葉付近)が前後でどうなったかをみることもできるでしょう。他人の自分にはない強みを認めるということは、その強みを追体験するということでもあります。自然と、自分に本来なかった強みを不完全ながらも取り込むようになっている可能性があり、脳の可動域がそれだけ広がります。

(これは世間でいう「度量の広い人」になる、と言い換えられるかもしれません。しかしだからと言って、小保方氏の不正行為を許すわけではありませんヨ)

 また、海馬や扁桃体の変化もあるかもしれないです。海馬は、細胞の増加が起こることがわかっている領域でワーキングメモリに関連しますが、「行動承認」を日常的に行うことは、その人のワーキングメモリを鍛える働きがあるだろうと推測されます。そのことがその人の決断の速さにもつながっている可能性があります。

 扁桃体は恐れに関連する領域ですが、過去に瞑想に関する報告で、瞑想を一定期間行った人は扁桃体の密度が減っている、すなわち恐れが減っているというのをみたことがあります。わたしは、承認の世界の人にもそのような、むだな不安感の軽減が起きているのではないかと思っていて、それもまた決断スピードの速さにつながっているように思えます。


(「瞑想」についてはひところ流行りで盛んに研究ネタにされ、エビデンスが出ましたが、そういう「ノリ」というのが研究の世界にもあるらしいんですよね。私は瞑想のエビデンスをみるたびに「これと同じことが承認でも起きているのではないか?しかも承認のほうがドロップアウトが少ないし部下も伸びるというメリットがいっぱいある」と思っていました)

 
 「幸福感」については、このブログでおなじみの「オキシトシン」の値を「行動承認」前後で測ればわりあい簡単にできるでしょう。


 もし、林田先生が言われるように「細胞における遺伝子発現」というものがみられるとしたら、大変におもしろいのですが、ヒトではとることが不可能なんでしょうか…。残念。


*********************************************


 きのう批判した「アドラー心理学」とのからみで言いますと、

 「アドラー心理学」で、「人に認められなくてもいい」とか「期待に応える必要はない」と言ってもらった人は、「心がらくになる」んだそうです。それがご利益なんだそうです。

 で、どういう現象かなあ?と思っていたのですが、そういう人はもともと強迫観念傾向のようなものがあって、

「認められなければならない」
「期待に応えなければならない」

という観念でがんじがらめになっていた。
 それがうまいこと解消された。
 ということではないかと思います。

 TVに映ったサンプルの人たちをみると、「自我」「最上思考」らしい人たちです。

 しかし、そういう人がそんなに多いんでしょうか?

 
 なんどもいうようにアドラーの生没年は1870〜1937。フロイトと同世代。

 この当時の精神分析とか心理学というのは、病的な人をいかに治すか、というのがテーマでした。

 
 だから、ゴールがすごく低いところにあるんです。
 「悩みがあった→悩みがなくなった(プラマイゼロの地点に戻った)」
というのがゴールなんです。

 「行動承認」のように、

「部下がすごい勢いで成長し、有能・優秀な人になり、
自分も部下も幸福感が高く、
問題解決能力が高くなり、
部門全体の業績もがんと上がる」

というようなことは、想定していません。

(あるいは最悪、「同業者はバタバタ倒産しているが、わが社だけは生き残りご同業の分を取り込んでいる」とかね)


 わるくいうと、「志が低い」といいますか。

 やれることのレベルが全然違うんです。たぶん、脳発達などは全然起こらないと思います。


「人に認められなくてもいい」

 これは、上司いわば強者の側が努力しないことがわかっている場合の、部下いわば弱者の側の「あきらめの思想」のようにもきこえます。
 そういう立場の人にとっては、アドラー心理学の源流であるニーチェ思想の「ニヒリズム」が耳に快く響くんです。



 そこでまた余談ですが、

 わたしは、上司側が変わらない限り、というか努力しない限り状況はよい方にはいかないことが分かっているので、「上司を教育する」ことが何よりも大事と考え、それだけをやってきました。

 そのぶん、お仕事をさせていただける機会は少なかったといえます。

 教育研修市場というのは、部下すなわち弱者の側を教育するほうの商品で溢れ、そちらの売り買いがメインです。

 わたしも、営業して回っているとよくきかれます。「若手のほうの教育はされないんですか?」と。

「いえ、しません。上司のかたの教育をしたほうが、効果がはるかに長持ちし、御社にとってメリットが大きいですから」

 質問者をがっかりさせることは承知で、わたしはそう言います。



 「アドラー心理学」のように、諦めてる部下を対象に本を売ったり教育したりしていれば、どんなにか楽でしょうね。儲けやすいでしょうね。

 でもそれは、事態を悪化させるだけなのです。
 「気が楽になった」は、単なる気休めです。過食になっている人に「食べなくても死なないんだよ」と言っているようなものです。


<シリーズ・アドラー心理学批判>

●「勇気づけ」についての副作用情報。。(2014年12月)
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 本日、NHKおはよう日本(朝7時台のニュース)で「アドラー心理学」を特集し、それに対して私が批判の書き込みを即、フェイスブックにUPしたものだから、お友達がコメントをくださいました。

 
 お名前を伏せて、貴重なコメントを紹介させていただきます。

「ほめること、承認することは必要です。また、勇気づけることも大切です。仮説に過ぎないアドラーの考えを、無批判に振り回すのはやめませんか。」(学校教員)


「情けは人のためならず、とか、無私、とかが好きな日本人には「承認されること」「褒められること」にたいする含羞というか、拒否感があって、しかもその拒否が建て前で、実はとても認められたい欲求が強いくて、それを外に出せないし、他人の欲求も否定する。
お礼は言らないよ、といいつつ、好きでやってるのだからと、無理に努力をして、結局それを評価されないと落ち込む自分がいて、しかも、そういう自分を汚いと思い。内心を人から見透かされないよう気をつけつつ気づいてほしいというねじくれた状況に陥りやすいですね。」(
料理研究家)


 お二方、それぞれおっしゃる通りです。まず、人が育つ現場において「承認欲求」は根源的な欲求だということ、それは目の前の存在のもつ性(さが)を素直に観る力のある方なら見てとれることでしょう。
 また、日本人特有の「承認欲求」に対する含羞の気持ち、これもマネジメント分野で「承認論」を唱えた太田肇氏が当初から言われていたことで、「『認められたい』は人の心に眠る巨大なマグマ」であると、かなり深層のインタビューをしないとそれは見えてこないと。


 お次はご同業の友人、宮崎照行さんより。

「私もNHKのニュースを拝見しました。

大手メディアが取り上げるということは、まさに「権威に訴える論証」。
「権威に訴える論証」は、アドラー心理学の表面的な部分、アドラー心理学が流行っているからということで盲目的に信じている人たちにとっては、まさしく無批判に考え方を正しいと強化するものです。

特にアドラー心理学を信奉し一般化している人は批判的思考能力が高いとは言えないのでその傾向は強いと思います。多分、原著を読まれている人は殆どいないでしょう。多くが岸見本の受け売りです。(アドラーの原著は抽象的すぎるので読破することは難しいでしょう)

最近、私が危惧しているのは、キャリコンをされている方に岸見本で解釈されているアドラー心理学を盲目的に信じている人が多いということです。キャリコンやカウンセラー・、コーチの方々のクライアントに対して影響力を及ぼしている方が無批判に浅い理論や考え方を使用すると大いに「毒」となります。


例えば、荒れている高校生に対してアドラー心理学の考え方を講演等で押し付けてしまうと、却って素直なので彼(女)からそっぽを向かれます。

彼(女)らは様々な環境で傷ついています。不器用で且つ限られた中でしか生きていないので、自分の存在を反抗という形で表しています。

こういう人たちに対して、例えば、岸見本にあるように「学歴が低いことで卑屈になるのは自分の見方がおかしい」といえるでしょうか。多分、猛反発を食らうでしょう。

比較するほどではありませんが、相手の存在を承認し、話をする・聞くという「場」をつくり、建設的に構成していくほうがよっぽど効果的です。


私はアドラー心理学が存在すること自体は否定しませんが、専門的職業と名乗っている方々で岸見本レベルで仕入れた表層的な知識だけで、すべてが解決するということに対して猛烈に批判します。

私自身、「嫌われる勇気」があるので「嫌われる勇気」のような本を全く必要としないというのは皮肉でしょうか(笑)
..


 そうなのだ、(岸見)アドラー心理学は、「承認欲求批判」「期待に応えなくてもいい」以外にも、非常に気になるところがいっぱいある。

 弱者目線を欠いている、というのは、上記の「学歴が低いことで卑屈になるのはおかしい」もそうだし、発達障害などの障碍者目線がまったく入っていないこともそう。

 (これは『個人心理学』のAmazonレビューにもそういう批判があった。今からその本を読んでみるが)

 以前にも、わたしとは別の方による「岸見講演」講演録をUPしたが、それによると講演には産業カウンセラーの方々がわんさか来ていたという。キャリコンや産業カウンセラーの先生方が、弱者であるクライアントに

「承認欲求を持たないほうがいいんだよ」

と、説教している図を想像したら…、

 ゾッとする。弱者を痛めつける、悪用されやすい思想だと思う。

(アドラーが影響を受けたニーチェ思想は実際にナチに悪用されたそうだ)


 アドラー心理学がまき散らす害について語りつくせる日はくるのだろうか。

 これ、アメリカでは今どういう位置づけになっているんだろうか。ご存知の方はご教示ください。


<シリーズ・アドラー心理学批判>

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●褒めない・叱らないは正しくない!「逆張りロジック」に正しく反論する知性を磨こう―『嫌われる勇気』著者講演会 (2015年12月)
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●「自己認識には事実のフィードバックが大事」「思考的盲目が心配」―宮崎照行さんのメッセージ(同)
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●「子どもさんは大いにほめてください。そして叱ってください」―正田、アドラー心理学セミナーで吠えるの記 (2016年1月)
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●「勇気を持って指摘されたからこそ、いずれ考えを改める」―永井博之さんからのメール (同)
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●NHKおはよう日本 アドラー心理学特集を批判する(同)
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●アドラー心理学批判 「承認欲求否定」「ほめない叱らない」はどこから来るか―「共同体感覚」との関連において―アドラー『個人心理学講義』をよむ
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●アドラー心理学批判・友人からのお便り「幼稚さ、ナルシシズム亢進、成熟拒否」
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●アドラー心理学批判 「トラウマ否定」「承認欲求否定」起源はみつけたが誤読と捏造だった―『人生の意味の心理学』をよむ
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●アドラー心理学批判 アドラーの罪:発達障害者向けのお説教と批判封じ
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●アドラー心理学批判 まとめ:「承認欲求を否定せよ」「トラウマは存在しない」有害フレーズの捏造と岸見氏の罪
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 「メディアの劣化」という話題についていよいよこのブログにカテゴリを立てなければならなくなったかもしれません。
 わたしのいや〜な予感が当たってしまいました。表舞台に出てはいけないものが出てしまいました。


 今朝、NHKの「おはよう日本」(朝7時台のニュース)で「アドラー心理学」を特集していました。

 全然予期していなかったので録画などはしておりません。しかし非常に問題のある内容で、わたしは9時になるのを待ちかねたように「NHKふれあいセンター」(Tel.0570-066-066 )に抗議してしまいました。

 
 

追記: こちらに特集内容がUPされています
http://www.nhk.or.jp/ohayou/digest/2016/05/0524.html

途中からみたのかもしれないのでもし違っていたら訂正していただきたいのですが、

 「アドラー心理学で心の安寧を得た(番組ではそういう表現ではなかったが)人」として、2人の人物が登場します。
 1人は、男性のビジネスマン。「承認欲求批判」がモチーフです。
 「認められたいと思っていて苦しかった。アドラー心理学に出会い、『人に認められなくていいんだ』と思えるようになって、楽になった。『人を信頼し、貢献せよ』という教えに従って、貢献しようという気持ちでいると楽になった。今では自分から人に貢献することだけを考えている」

 もう1人は子育て中のお母さん。「期待に応えなくていい」がモチーフ。
 「子供たちをひどく叱ってばかりいた。アドラー心理学で、『他人は自分の期待に応えるためにいるのではない』と習い、気持ちが楽になった。(叱らなくなった?)」

 これを取材してきたディレクターと男女のアナウンサー2人が少し会話して終了。
 
 女性アナウンサーが、「これまでにも普通に言われてきたことではないですか?」と怪訝そうにいうが、それ以上の追及はなし。


 さて、上記のどこに問題があるでしょうか。
 このブログの長い読者の方だと、お分かりいただけるのではないでしょうか。

 簡単に言うと、「人に認められなくていい」「期待に応えなくていい」
 これらが正解なのは、「過剰」な場合だけなんです。 
 多くの場合は、「認められたい」と思うことも「期待に応える」ことも正常なことで、否定するのはおかしいことなんです。否定して鬱を作ったり人間関係の問題を作ることのほうがはるかに怖いんです。


 「人に認められなくていい」
 このフレーズは、ごく限定された場面でだけ正解です。
 すなわち、承認欲求が極端に強いナルシシストの場合。リーダーには、昇進などが原因でナルシシズムが亢進することがあります。TVに映っていた人はこのタイプのようにみえました。
 また往々にして、能力の低い人ほどセルフモニタリング能力が低く、自分の能力には見合わない評価を求めることがあります。
 あるいは、自ら選んだボランティアのような仕事をしていて、時折「誰も認めてくれない…」という無力感にさいなまれるようなケース。その場合は、自分が選んだ道そのものの意義と認められない苦痛と天秤にかけて、どちらをとるか決めないといけません。選んだ道そのものの意義を重視するなら、とりあえず「認められたい」は封印したらいいでしょう。

 人は誰でも認められたいと思っています。だから効果的に認められれば、絶大なる力を発揮します。こちらのほうが、パフォーマンスを上げるには正解です。もちろん精神衛生上も正解です。「行動承認」を導入してくれたマネジャーの下では、何年もにわたって大きな問題が起こらず成長を続けています。
 (ごくたまに、その中で伸びすぎて問題行動を起こす人が出て退社してもらうケースも出るようです。それはむしろ例外的な例です)

 「承認欲求」は食欲と同じで、人間の基本欲求。精神における食欲と同じようなものです。
 もし「承認欲求はわるいものだから、押さえこみなさい」というなら、それは「食欲はわるさをするものだから、抑えなさい」というのと一緒。よほど食欲が亢進しておデブになっている人には必要なことかもしれませんが、必要な食欲まで抑えたら摂食障害になってしまいます。ガリガリにやせて低栄養になってしまいます。

 
 たとえば、「認められたいと思わないで、相手に貢献することだけを考える」という方針で、みんなが仕事をしたらどうなるか?
 これは、独りよがりな仕事の仕方にすぐ、なるでしょうね。相手が喜んでくれようがくれまいがどうでもいい、ということになりますから。会社の中が独りよがりな仕事だらけ不協和音だらけになるでしょうね。

 また、万一マネジャーが「承認欲求は否定してよい」と思っていたらどうなるか?
 自分の承認欲求だけを否定していればよいですが、それだけにはとどまらないでしょう。部下が承認欲求を持って働くことにも否定的な目を向けるでしょう。「認められたい」と思っている人を、自分と違ってレベルの低い人だとみなして見下すでしょう。

 そう、「承認欲求」を見下す人は、最終的には人間性全般を見下すようになりますね。

 いみじくも、TVに映っていたビジネスマン氏は、職場で人と話しているときも相手の目を見ないで会話していました。「相手の目をきちんと見て話す」これも広い意味での承認を与えていることですが、それを重視していないことが仕草に出ているのでした。

 だから、「承認欲求」を否定することで、自分が高級な人になったなどと思ったら大間違いなんです。人間性全般を見下した不遜な人間になってるんです。独りよがりな人間になっているんです。

 

 もう一人の「期待に応えない」を習ったことで子供さんを叱らなくなったお母さん。
 これも、それまで何のためにガーガー怒っていたのかわかりませんが、「ゆきすぎ」のケースであったのかもしれません。例えば、「最上思考」の人が、子供さんにやたら塾習い事の早期教育をさせて、それが思い通りにならないで怒っているケース。あるいは、「活発性」や「指令性」の高い人が、やはりあっち、こっちと自分の思い通りに連れまわして、子供がどこかで引っかかって動かなくなると怒っているケース。

 そのタイプの人が、ガーガー叱っていたのを多少和らげることができたのなら、それは喜ばしいことなのかもしれませんが――、
 一面、怖いことでもあります。
 「人の期待に応えなくていい」
 では、子供に道徳の躾はしなくていいのでしょうか?
 お兄ちゃんが弟の頭をガンと殴りました、それを叱るのも「期待に沿わせる」ことになるのでしょうか?

 この「倫理道徳の躾」というものが、わたしの子育て時代にも既に周囲のお母さんの間ではナアナアになっていて、唖然としました。

 わが家では歳の近い3人きょうだいだったので、きょうだい喧嘩とそれを仲裁する機会には事欠きませんでした。
 そのたびに「どっちが先に悪いことをした」と認定し、バシッと叱り、謝らせました。まず端緒を作ったほうに謝らせ、そして最終的に両方が謝るようにさせました。

 「いじめ」的になる場面も時折あったので、「いじめは許しません」を伝える機会にも事欠きませんでした。
 「ちょっと待って。今の『●×におやつやらない』っていうのは何か?それはいじめやで。いじめは許さへんで」

 しかし、こうして親が子に自分の道徳観を伝える作業も、「他人を自分の期待に応えさせる」ことにはならないでしょうか?
 「他人を自分の期待に応えさせる」ことのすべてを否定すると、倫理道徳の躾というのはすべて不可能になってしまうのではないでしょうか?

 もちろんこれは会社組織にも言えることで、例えば「会社の理念」というのも、ある意味押しつけです。ある行動規範に社員を従わせる作業です。もしも社員が「他人の期待に応える必要はない」と信じていたら、会社の理念にも従う必要はありません。
 それで会社、回りますか?


 実は、この件であるアドラー心理学者(大学の心理学の教授。特に名は秘す)に伺ったところ、
「アドラーの著書に承認欲求(needs for esteem)という言葉はない」
ということがわかりました。

 具体的には、アドラーの主著でバイブル的な'The Individual Psychology of Alfred Adler' (邦題『個人心理学』)には、esteemという語はない。self-esteemという語はある。といいます。

 もともと、承認欲求(needs for esteem)は、五段階欲求説のマズローの造語のようなもので、時代が後になります。だからアドラーが「承認欲求」という語を言うのはおかしいのです。(マズローはアドラーから影響を受けたそうです)

 アドラーは「承認欲求」という語そのものを使っていないとしたら、どういう文脈で言ったのだろうか…。

 アドラー(1870-1937)の時代ですと、ヘーゲル哲学の「承認」は、既にあったものです。またそれのアンチテーゼとしてのニーチェ(1844-1900)は既にあり、アドラーはニーチェからは影響を受けたといいます。

 ニーチェ。。。
 わたしはニーチェ哲学には疎いです。はっきり言ってどうでもいいと思ってるんですが、
 Wikiからニーチェ思想を引用しましょう。

「ニーチェは、神、真理、理性、価値、権力、自我などの既存の概念を逆説とも思える強靭な論理で解釈しなおし、悲劇的認識、デカダンス、ニヒリズム、ルサンチマン、超人、永劫回帰、力への意志などの独自の概念によって新たな思想を生みだした。」

 わかります?まあ、ぱっと浮かぶイメージは「ニヒリズム」なんです。隠遁者の夜郎自大の思想、というイメージをわたしは持っています。勝手にやっててください、という感じ。

 たぶんすごく頭のいい人だったのでしょうが、自己完結的な世界で生きる人。強い人だけに可能な、他人に期待しないで生きる生き方。(内心ではぶっちゃけ、「その人アスペだったんじゃないの?」とも思っています)
 
 それから影響を受けたのがアドラーらしいんです。

 だから、そういうアドラー思想を子育てなんかに応用するのは大変におかしなこと。隠遁したひきこもりの人や、すごい実力のある個人事業者の人が信じていればいい思想なんです。だから承認や承認欲求、期待を否定する。


 これを会社に応用して部下育成などに応用するのも、大変におかしなことです。

 (なお、学者さんによればアドラー心理学を子育てに応用したのはアドラー自身ではなく、その弟子の代からだそうです)


 ああもう言っているのもたるくなった。

 NHKふれあいセンターのオペレーターの人には、

「職場に鬱を作ったらどうするんですか?アドラー心理学はブームとはいえカルトのようなものです。それをNHKさんが全国ニュースの特集で流すというのはものすごく影響力が大きいです。過剰なダイエットブームを取り上げるのと一緒で、専門家からの批判的なコメントを入れるのが正しいのです。視聴者に対して何らかの訂正をしてください」

 オペレーターは「よくわかりました、担当者に伝えます」と言いましたが、のれんに腕押しの気配あり。

 これ、どういう落としどころになるんでしょうか…

 オペレーターさん、モンスタークレーマーに怒鳴られても、上司がねぎらってくれると期待しちゃダメですからね…


<シリーズ・アドラー心理学批判>

●「勇気づけ」についての副作用情報。。(2014年12月)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51903598.html

●褒めない・叱らないは正しくない!「逆張りロジック」に正しく反論する知性を磨こう―『嫌われる勇気』著者講演会 (2015年12月)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51927076.html

●「自己認識には事実のフィードバックが大事」「思考的盲目が心配」―宮崎照行さんのメッセージ(同)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51927143.html

●「子どもさんは大いにほめてください。そして叱ってください」―正田、アドラー心理学セミナーで吠えるの記 (2016年1月)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51933511.html

●「誰もが活躍できる社会」とは「承認社会」―NYさんからのメッセージ (同)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51933591.html

●「勇気を持って指摘されたからこそ、いずれ考えを改める」―永井博之さんからのメール (同)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51933656.html

●『行動承認』Kindle化に向けて(4)メディアの考える怠惰なお客様と「行為者」の乖離、王道とパチモンの「大衆的人気」(2016年5月)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51940842.html

●NHKおはよう日本 アドラー心理学特集を批判する(同)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51940920.html

●NHKおはよう日本 アドラー心理学特集を批判する(2)友人たちの反応 (同)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51940923.html

●『行動承認』Kindle化に向けて(5)行為者の脳発達と細胞レベルの変化の可能性――林田直樹先生との対話より(同)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51940962.html

●アドラー心理学批判 「承認欲求否定」「ほめない叱らない」はどこから来るか―「共同体感覚」との関連において―アドラー『個人心理学講義』をよむ
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51941070.html

●アドラー心理学批判・友人からのお便り「幼稚さ、ナルシシズム亢進、成熟拒否」
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51941137.html

●アドラー心理学批判 「トラウマ否定」「承認欲求否定」起源はみつけたが誤読と捏造だった―『人生の意味の心理学』をよむ
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51941143.html

●アドラー心理学批判 アドラーの罪:発達障害者向けのお説教と批判封じ
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51941204.html

●アドラー心理学批判 まとめ:「承認欲求を否定せよ」「トラウマは存在しない」有害フレーズの捏造と岸見氏の罪
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51941255.html

 今日は、わたしの中で長年モヤモヤとしていることについて書いてみます。ただあまり纏まっていないかもしれません。下書きレベルの記事になるかもしれません。

 『行動承認』は、2015年1月に絶版となったあと、何度か大手出版社での再出版を検討していただいたことがありました。
 中には、『聞く力』や『女性の品格』と同様の人生論の本として位置づけて大きく売り出すことができないか、という形で働きかけてくださった方もいました。有り難いことです。
 しかしいずれも沈没。

 出版社側の返事は、

「既に一度出版され市場からの評価も定まったものについての再出版は難しい」

 それから、

「読者対象が狭い」

でした。

 前者はともかく、(わたしの方は、前者にも相当言いたいことがあるのだが)

 後者は、メディアの考える「読者対象」とは、なんなのだろう?と改めて考えるきっかけになりました。


 『行動承認』は、ある教育の効果を最大化するために、「この教育を受けたらこうなった」という事例(もちろんすべて実話)を集めた本ですが、

 逆にこういうドラスティックに人びとが前後で変化してしまう話というのは、メディアが考える「読者」とは、結びつかないのかもしれないなあ、と。

 彼らの考える読者は、「静的(スタティック)」であります。成長とか変化とかは似合いません。TVの前で日がな一日、ポテチ食べながらワイドショーをみてあーだ、こーだ言っているのが似合います。

 その人たちの発する言葉は、「けしからん!」「いやーねー」それに「それおもしろそう!」「それ美味しそう!」

 その人たちの期待に応えて、その人たちの想像の範囲内のことでちょっと奇をてらったことを提供して、みてもらう、アクセスしてもらう、というのが今のメディアの仕事になっています。

 
 「想像の範囲内のことで」というのが、上手く言えないのですが、納豆ダイエットとかバナナダイエットみたいなことだと、むしろOKなんです。でも行動承認はダメ。どこにOKラインがあるのかはよくみえません。

 ともあれ、メディアが想像する「お客様」は、怠惰なんです。そして被害者的なんです。何かを実際にやるということはあまり想定しなくていい。『行動承認』のように、

「実際にやってやり続けた人はこんなに素晴らしくなりました」

などという物語は、お客様にとってはかえってウザいのです。メリットよりは、「ウザい」という感覚が先に立ってしまうのです。

 なので、市井にあふれる「人生論」の本は、怠惰で何も努力しない人向けの「とかくこの世は生きづらい」「その中でどうやってしのぐか」というたぐいの話であふれます。たぶん最大の読者層は定年後の脳の萎縮がはじまっている人たちだと思います。
 『聞く力』はどうかというと、あれも読むだけで、やらなくていいのです。だって、職業的インタビュアーの話ですから、自分ごととして読みませんから。

 たしかに「怠惰で何も努力しない人」のためにわたしが本を書けるかというと、難しい。延々と人間関係で悩む話を最後まで書き続けられるかというと。『行動承認』でいうと、「はじめに」のところに、現代の上手くいっていない典型的な職場の事例を4話載せていますが、あれも書いていてものすごく苦痛だったんです。すぐにでも問題のあるマネジャーに飛びかかって改造したい、わたしだったら。

 『行動承認』は、本でも研修でもあえて省略している部分が本当はあって、「被害者になるな。行為者であれ」というメッセージが、暗に入っているんです。
 でもそれをわざわざ言わなくても成立する。なぜなら「行動承認」をするということ自体とてもシンプルなので、あの一連のエピソードを読んだ人だと「やってみたい」「やれそう」と思えますし、実際やれてしまうからです。

 ただ、根っから怠惰で行動することがキライな人にとっては、そういうベクトルをもった本というのは迷惑なんだと思います。
 日本人の大半がそこまで怠惰だとは、わたしは思いたくないのですが――。

 
 というわけで、メディアが怠惰で成長のないワイドショー視聴者の人びとをお客様に想定している限り、わたしは「行動承認」のお話をどこか大手で書いてメインストリームにするということはあり得ないです。

 本当は、心のどこかで

「マネジャーという狭い範囲の人びとを対象にしてはいるが、この本がもつ推進力はマネジャーの周辺にいる人びと、中堅から部下世代の人(男性女性含め)、奥さんやお母さんまでも取り込めるはずだ」

という発想が出版社の人にあったなら、そしてそのつもりで気合を入れて広告宣伝を打ってくれたなら…という淡い期待があったのですけれど。

 編集者自身がその世界の人からほど遠く、彼ら自身の世界観が全然別のところに築かれているようなので、しょうがないですね。



 
 この話はしょもないのでこれぐらいにして、

 タイトルに書いた後半部分、「王道」と「パチモン」のお話です。

 実はここでも、「STAP細胞」の話が奇妙に交錯してきます。

 ご存知のようにSTAP細胞は、京大山中伸弥教授らのiPS細胞への対抗馬として論文発表されました。

 iPS細胞は、山中教授のノーベル医学・生理学賞受賞(2011年)の時に大きく経緯を報道されましたが、その後STAP細胞がクローズアップされたときに忘れてしまった人が多いかもしれません。

 iPS細胞は、皮膚などの体細胞にわずかな操作をして培養するといわゆる「万能細胞」になります。つまり、様々な組織や臓器の細胞に分化する能力とほぼ無限に増殖する能力をもつ多能性幹細胞になります。例えばどこかの内臓が病気になりそれを治したいと思ったとき、その内臓になってくれる細胞をその人の体の細胞から作ることができますから、他人の内臓を移植する臓器移植のような拒絶反応の問題が起きません。

 このiPS細胞のマウス由来のものを山中教授らは2006年に、またヒト由来のものを2007年に作製に成功。その作製方法がシンプルなことと再現が容易なことで、今では世界中の研究機関が追随するようになりました。人の病気の治療への臨床応用も始まっています。

 日本生まれ日本育ちの「万能細胞」であることから、国歌や国旗ならぬ「国細胞」というものがあるなら日本の「国細胞」はiPS細胞だ、とまで言われています。

 しかし、このままではiPS細胞に幹細胞研究や、再生医療研究の研究費の大半を持っていかれてしまうかもしれない。そういう危機感が、理研の笹井氏らによるSTAP細胞研究の大々的な発表につながったようです。しかし、なんども言いますようにSTAP細胞は架空の細胞で、論文はほとんどすべてのデータが捏造の塊でした。

 
 そして今、奇妙なことですがわが国では「STAPあるある派」による「iPS憎し」の議論が起こっています。iPS陣営がSTAP研究を潰したというのです。
 これがどの程度世論の支持を得られているのかわかりませんが――、何度も書きますように何も知らない人がうっかりネットを見てしまうと、「STAPあるある派」の言説のほうに触れてしまうようにネット世論が誘導されています。彼らはデマゴーグの訓練をどこかで受けてきたのかと思うぐらい、誘導が上手いです。だから今後も気をつけないと、「あるある派」の言説が「世論」として格上げされてしまわないとも限らないのです。
 ほとんどの日本人は無関心ですが、無関心だから怖い。

 
 この、明らかに「パチモン」であるSTAP細胞が、「本家」「王道」であるはずのiPS細胞を大衆的人気において食ってしまっているという図は、どこかでみたことがあります。

 
 
/翰学の「行動理論―行動科学―行動分析学」への対抗軸としての「内発と自律論」。△△襪い蓮崗鞠論」への対抗軸としての「承認欲求バッシング論」。  
 これらの対抗軸は、とっくに定説となっていいはずの有力な理論への反発心から生まれ、片隅でやっていればいいものが妙に有力になり本家にとって代わる勢いだというところが、「iPSとSTAP」の構図と似ています。

 対抗軸の側はエビデンスなんてないのです。本家のほうがはるかに高い数字を叩きだしています。人類を幸せにする力があります。なのに、本家が偉そうで気に食わない、そして今更本家に取り込まれるのはプライドが許さないという理由であえて対抗軸を立て、本家を汚い言葉で罵る「芸風」で大衆的支持を集め、のし上がってきたわけであります。

 このブログでは,領磴箸靴謄▲襯侫ー・コーンという人の『報酬主義をこえて』という本を2011年12月、ボロクソに批判しました。また△領磴蓮∈鯒来「承認欲求バッシングを批判する」というカテゴリをこのブログに立てて、連続して批判してきたのをご存知の方も多いかと思います。

 本当は、△領れで2014年以来では『嫌われる勇気』などの「岸見アドラー心理学」がとんでもなく勢いをもってしまっているので、このブログでもちょこちょこ批判していますけれども本格的にやらないといけないのですけれども着手が遅れています。

 そんなわけでまたSTAP問題と交錯してしまいました。




 ちなみに今日フェイスブックでご紹介したのですが、台北で発行されている科学雑誌「PanSci(汎科学)」に、わが国の「STAPあるある論」のことが記事になっていました。

 http://pansci.asia/archives/98876
 
 過日Biochemical and Biophysical Research Communications(BBRC)に発表された独ハイデルベルク大学の論文のことを日本のネットニュースが報じ、「STAPあるある」の人びとが騒然となったが、よく読めばこの論文は小保方氏のSTAP研究とはまったく「別物」だった…という意味のことを言っています。

 わが国の「STAPあるある論」は、日本の恥。

 韓国の捏造科学者、黄禹錫氏にもいまだにファンがいるそうですが、「STAPあるある論」がMSNニュースのような変にメジャーなところに間違って上がってくるのは避けたいものです。アングラな一部の人の趣味にしておけばよろしい。


<シリーズ・アドラー心理学批判>

●「勇気づけ」についての副作用情報。。(2014年12月)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51903598.html

●褒めない・叱らないは正しくない!「逆張りロジック」に正しく反論する知性を磨こう―『嫌われる勇気』著者講演会 (2015年12月)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51927076.html

●「自己認識には事実のフィードバックが大事」「思考的盲目が心配」―宮崎照行さんのメッセージ(同)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51927143.html

●「子どもさんは大いにほめてください。そして叱ってください」―正田、アドラー心理学セミナーで吠えるの記 (2016年1月)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51933511.html

●「誰もが活躍できる社会」とは「承認社会」―NYさんからのメッセージ (同)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51933591.html

●「勇気を持って指摘されたからこそ、いずれ考えを改める」―永井博之さんからのメール (同)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51933656.html

●『行動承認』Kindle化に向けて(4)メディアの考える怠惰なお客様と「行為者」の乖離、王道とパチモンの「大衆的人気」(2016年5月)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51940842.html

●NHKおはよう日本 アドラー心理学特集を批判する(同)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51940920.html

●NHKおはよう日本 アドラー心理学特集を批判する(2)友人たちの反応 (同)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51940923.html

●『行動承認』Kindle化に向けて(5)行為者の脳発達と細胞レベルの変化の可能性――林田直樹先生との対話より(同)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51940962.html

●アドラー心理学批判 「承認欲求否定」「ほめない叱らない」はどこから来るか―「共同体感覚」との関連において―アドラー『個人心理学講義』をよむ
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51941070.html

●アドラー心理学批判・友人からのお便り「幼稚さ、ナルシシズム亢進、成熟拒否」
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51941137.html

●アドラー心理学批判 「トラウマ否定」「承認欲求否定」起源はみつけたが誤読と捏造だった―『人生の意味の心理学』をよむ
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51941143.html

●アドラー心理学批判 アドラーの罪:発達障害者向けのお説教と批判封じ
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51941204.html

●アドラー心理学批判 まとめ:「承認欲求を否定せよ」「トラウマは存在しない」有害フレーズの捏造と岸見氏の罪
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51941255.html

 小保方晴子さんの「ウソつき」がまた新たにわかりました。

 きのう友人が和光にある理研本部に問い合わせていたことの回答がきて、
 簡単にいうと、小保方さんが自身の「STAP HOPE PAGE」に掲載していた「理研の再現実験でSTAP現象は再現されていた!」という主張を証拠だてる写真とグラフは理研には存在せず、捏造だったことがわかりました。

 この件はいずれ友人から正式に広報されると思いますが、フェイスブックページで「速報」として出しておられたのでここでは簡単にご紹介するのにとどめます。

 ようするに「STAP細胞」も「STAP現象」も、ひとりの妄想的な元科学者の頭の中にあるものだったにすぎない、ということです。
 科学者の方によれば世界の同分野の科学者で「小保方さん」「STAP細胞」のことを(不正のアイコンとして)知らない人はいないぐらいだそうですが、世界の田舎の日本も、そろそろこの人をアイドル的に持ち上げるのはやめたい。
 過去のものとして前に進みましょう。


 えっ、『行動承認』のタイトルの記事なのに、なぜ小保方さんが出てくるのかって?

 わたしも、いやなんですけどね。

 でも、この2つは不思議な因縁で結ばれているんです。
 早い話が、『行動承認』の置かれている状況は2014年から2年間、ほぼ止まったままですが、それは小保方さんが大きくかかわっているのです。


 今日は、その話をいたしましょう。





 『行動承認』には、たくさんの実在のマネジャーが登場する実話エピソードがふんだんに入っています。
 実話だからこそ、たぶんリアルのマネジャーの読者の心を打つことができます。

 それはとくに、出版の前年の2013年に計8例の素晴らしい事例に出会えたことが大きいのです。ざっと並べると、工場リーダーによる社内優秀賞、猛暑の中での統計調査0.2ポイントアップ、NPOメンバー営業マネジャーのの社内表彰(2回連続)、介護職での離職防止、某商工会のランキング1位、有光毬子さんのラジオ体操での奇跡、上海工場の躍進…。

 それまでの10数年、年に1例ぐらいのペースで「業績1位マネジャー」が出た、それに値するような価値ある事例がその年は年間8例も固めて出てしまいました。それは、それまで以上に「行動承認」にはっきりとかじを切り、記憶に残るような伝え方、研修プロジェクトの組み方を工夫したことが大きいのです。

 有り難く、1人1人の当事者に了承をいただいてエピソードとして盛り込ませていただきました。

 だから、この本には前半と後半、固めてどんどんどん、とエピソードが出てきます。
 中盤にちょっと理論的な話が入って、もうちょっとエピソードを読みたいなと思うと終盤にまた何例も追加で出てきます。たぶんそれらを読んでいると楽しい気持ちになって体があたたまってくると思います。

 こうして優れたエピソードが1冊の本にふんだんに使えたのは有り難いことなのですが…。


 
 本の企画が立ち上がる前の2014年初め、わたしはこれらの素晴らしいエピソードを抱えて、途方に暮れていました。

 なぜなら、自分が企業研修でつくることのできる幸せの大きさと、世間の認知度の低さのギャップがあまりにも大きくなってしまったからです。当時はNPO代表でしたが、一人の研修機関の女性代表が企業を営業して回って「主張」できるレベルを超えていました。

 こういう効果が出るものなんです。だから大切にしてください。いい加減な短時間の1回こっきりの研修ではやらないで。何年も続けてやってください。社内にもそういうものとして告知してください。

 優れたものである以上、そういう売り方をしないといけません。間違って短時間の研修で雑にやられてしまったら、
「結局できなかったよ」
「承認なんてきれいごとだ」
ということになってしまい、自分で自分の首を絞めてしまいます。せっかく本当に効果のあるものなのに短命に終わってしまいます。

 だから、なんとかこの手法が本当にすごい効果があるということを、周知してもらわないといけない。


 そこでまっさきに思いつくのが報道に対するプレスリリースですが、残念ながら地元紙・神戸新聞(この際名前出しちゃいます)との関係は当時既に悪化していました。

 前年の13年、経済団体の会合で神戸新聞の社長をつかまえ、「これは大切なことなんです!どうか報道してください!」とやりました。社長には少し響いたようで、秘書を通じて経済部の部長を呼びました。

 経済部の部長(当時)はわたしのそばに来ましたが、へらへらした人間でした。わたしの説明する、一つの教育プログラムの奇跡のような効果の話にはさほど興味を持たず、すぐ別の話題に変えて水を向けました。それで意気阻喪しましたが、とにかくその1か月後に当協会のイベント「承認大賞」の告知をするから、どうか書いてほしいと頼みました。
 
 ふたを開けると、「承認大賞」のプレスリリースをしても神戸新聞は書きませんでした。報道各社はそれに倣いました。神戸新聞の経済部長は「現場の記者は取材したが、なぜかデスク預かりになって紙面に載らなかった」と言い訳しました。「ふざけないでください。何のためにあなたとああいう話をして念を押したんですか。このことが沢山の人の幸せにつながるのがわからないんですか」。

 
 そういうことが13年の間にあって、14年になっているわけです。

 一層たくさんの素晴らしいエピソードを抱えて、でも知名度は上がらないまま。


 思い余って、旧知のとある財界の長老に相談しました。「なんとか神戸新聞の社長に話してください。この教育プログラムがいかに優れた効果のあるものかを。どれほど大きな働く人の幸せを作れるかを」

 長老氏は10年来のおつきあいで、わたしのやっていること全般よくわかってくださっている方でした。ご自身の実体験はなくとも、「これは現場にものすごい効果のある正しいものだろう」とわかってくださっていました(ただ、その方の会社とはおつきあいはありません。)

 もう財界の要職からも離れ、なまぐさいことには首を突っ込まない主義にしていましたが、このときはさすがに動いてくれました。神戸新聞社に足を運び、社長と話をしてくれました。「今日行って、話してきたよ」とわたしに電話をくれました。その会社の株主総会の2日後、4月2日のことでした。

 神戸新聞の社長は、「わかりました。いい話ですね。取材させましょう」と、その場で言ったそうです。
 ところが。それでも取材も報道もされなかったのです。

 社長と長老との話で同席し、この件を委嘱された新聞社の業務部長なる人物が、迷走しました。まず、「取材部署は動かない」と言いました。そして私にオファーしてきたのが、「弊社がマーケティングの月1回の講演会をやっているので、そこで講演してくれないか」というものでした。

 この話はお断りしました。というのは、よく話をきいてみるとマーケティングの講演会というのは、新聞広告を出してくださるクライアント企業のためにやっているもので、各企業の広告部門の担当者クラスの人が来ます。例えば教育研修について決定権のある人かというとそうではありません。そこで話をすることにわたしの仕事上のメリットが何もないのです。加えてわたしはマーケティングの専門家ではなく、無理にこじつけて話をしてもそうした層の人におもしろい話をすることは難しい。下手に「おもろないスピーカー」とレッテルを貼られてしまうとかえって損することになる。もちろんお客さんにとっても退屈な時間になります。いかにも、「取材部署が動かないから代わりにこちらで」と、頭だけで考えた「AがだめならB」の話でした。

 そういう、当たり前の判断をわたしはしたのですが、先方はおかんむりで、「せっかく便宜を図ってやったのに」と言うのでした。
 そうやって話がこじれてしまったときに、4月9日、小保方さんの釈明会見がありました。1日中、朝からあの顔がTVで流れ、午後からは会見の画像と声が流れました。


 もともとそれ以前も小保方さんの研究発表とそれがどんどん捏造とわかるプロセスは、わたしの仕事にもずっと(悪い意味で)通奏音のように響いていました。

「女性が」
「すごい成果と主張」
「しかし捏造」
「実はすごいナルシシストで誇大妄想狂」

 本当は、小保方さんとわたし、「女性」という以外何も共通点はないのですけれども、とりわけ女性がわるいことで話題になった場合には、その共通点がみる人にとってはものすごく大きな意味をもつのです。

 
 そして迎えた4月9日の釈明会見は、すべてをお釈迦にしました。心臓に爆弾を抱えた財界の長老が神戸新聞社に足を運んだことは無駄足になりました。

 こういう運命に翻弄されるとは思ってもみませんでした。
 震災でほかのニュースがとんでしまうというのはまだわかるのですが、このくだらない1人の女性にマスコミはじめ日本中がいいように振り回され、もっとはるかに丁寧に丁寧に積み上げてきた仕事の価値もとんでしまうとは。

 会見の翌日、神戸新聞の紙面は小保方晴子さんの写真と記事で各面、埋め尽くされました。記事のトーンは小保方さんに同情的で、当時同情論の論客だったやくみつるのコメントなども入っていました。


 そして、まっとうな教育手法がいかに労働の現場を幸せにするか、という記事など入るすきがなくなりました。


 それが2014年4月の段階の話。


 メディアに取り上げてもらう道が閉じた、それでも「恐ろしく高い効果」と「認知度の低さ」のギャップは依然と横たわったままです。日々の営業活動にも困っています。


 そして「出版」という、過去に一度捨てた道筋をもう一度検討することになりました。それが『行動承認』につながります。


 ……ところが、この年は春先に『嫌われる勇気』が出版された年でもあり。

 わたしの担当になった編集者は、どうみても『嫌われる勇気』に頭が毒されていました。「承認」に対して、妙に見下していました。こういう人は、自分が何から影響を受けているかなど意識していないのです。単に過去に読んだ『嫌われる勇気』の中に「承認欲求」を繰り返し否定するフレーズがある、それが頭の片隅に残っていて、「承認」「承認欲求」という言葉をみたときに、無意識に小馬鹿にする感情が出てきてしまうのです。

 
 わたしは、『行動承認』の校了直後から、カウンセリングを受けるようになりました。執筆中にこの編集者から受けたダメージがあまりにも大きかったからです。

 どうしてそうなってしまうかというと、それは経験した人でないとちょっとわかっていただきにくいかもしれません。

 『行動承認』は以前にもお話ししたように、読み手のマネジャーの心と体を動かすことを徹底して意図して書かれた本です。こういう本を書くには、わたしは書きながら、読み手のこころの状態を自分の中でシミュレーションします。もちろん人の心を100%予測できるわけではありませんけれども、過去に自分が研修講師をしてきて、「こういうタイミングで、こういうふうに呼びかけたら、『はいる』」。これは仕事上の勘のようなものです。わたしにしかわからない種類のものです。

 しかし、そうやって蓄積してきた「仕事上の勘」をフルに使って、渾身の思いである一節を書いて送ったとします。それを受け取った編集者は、何も反応がないのです。心が動いたとかそういう反応はないのです。彼にとって完全に「よそごと」なのです。

 そしてまた、彼が「アレンジ原稿」と称して手を入れて送り返してきた原稿をみると、めちゃくちゃに「改悪」されているのでした。わたしが丁寧にロジックをみてセンテンスを短く切り詰めたところを、2つのセンテンスを1つにつなげてしまい、その結果1センテンスで2つの意味のことを言うようになってかえってわかりにくくなっていたり。句点をやたらと入れて、ハアハア息をしながら読むようなリズムになっていたり。送り返されたファイルを開いてみると頭がクラクラし、「もう一度私が送った状態に戻してください」と突っ返しました。

 結局、彼ははなから「行動承認」の世界の人ではなく、この世界に触れても染まろうとはしない人でした。本が想定した読者とは程遠く、したがって本が意図した読者の反応を彼自身は全然実感としてわからなかったのでした。

 あとで経歴をみると、この人物は40代でしたが編集者歴はごく短く、当初大手出版社に編集者志望で就職したが、編集職にはつかず別の部署でずっと働いていた。でも編集者の夢たちがたく、中小の出版社に転職して編集手伝いのようなことをしていた。そして今の零細出版社に編集者として採用されたそうでした。ご一緒に仕事をしていて、この彼がどうも編集者としての訓練が不足しているようだと感じていましたが、このような経歴の人ですから、若いころから手取り足取りのOJTなどは受けていないのでした。だから、仕事の一部はできるのだけれども別の部分が圧倒的に抜けていたり、恐らく編集者のハートの部分、「自分が著者と一緒に作る本に惚れ込む」みたいなことは教わってこなかったのだろうと思います。


 そういうのは、たぶん今の紙の本の『行動承認』の仕上がりをみても、わかる人にはわかるだろうと思います。

 で、そういう人と一緒に仕事をするのがどんなに苦痛か。
 編集者は、ある意味カウンセラーのようなものだ、とこのとき私は思いました。著者が渾身の心の叫びのようなものを文章にしたら、それに反応しなければならない。まったく意図と違った反応をするような相手だと、著者は自分の力量が低いのだろうか、自分の文章はそんなに「伝わらない」のだろうか、とまで思い、ダメージを受けてしまう。
 ということを経験しました。


 えーと、何を言いたかったんでしょうかね…

 編集者氏の愚痴になってしまいましたが、わたしは今生で編集者さんという人種とおつきあいするつもりはないので、いいのです。わたしと直接の縁のない人がこれをみて、人のふり見てわがふり直してくれればいいのです。


 でも今全般に、編集者という職種の人の質が落ちているのかもしれません。
 また、以前にも書きましたが、『行動承認』のような「徹底して行為者のための本」を書いたときに、自分ごととして受け止めることのできる編集者はほとんどいないのかもしれません。


 とまれ、2014年はそうやって、新聞社に対する絶望、そして出版社に対する絶望、を経験しながら、必死の思いでなんとか『行動承認』という本を世に出すことができました。

 読者からは温かいご反応をいただきました。
 しかしこの出版社のサイトにはついに取り上げられることはなく。

 自己啓発本中心のこの出版社にとって、マネジメントを扱ったこの本は「鬼っ子」だったのでした。


 出版から2か月で、「絶版」の決断になりました。

 社長の「うちは月に7冊出しているんです。出して2か月たった本の販促をやっている暇はないんです」と言った言葉が決め手になりました。



 
 今、再入力していて、本のレイアウト(わたしがワードで原稿を打つときに自分の整理のために使った記号がそのまま使われ、ひどく素人くさい雰囲気)、図表(社内のデザイナーが担当したが、わたしが送った元の図のほうが村岡さんによる優れたデザインだった)、残っていた誤字脱字などもろもろが、「手をかけて育ててもらえなかったわが子」として、いとおしさがこみあげてきます。

 でもこれが21世紀の日本の出版の状況なのです。

 だから今、Kindle。
 
 それは未来のための決断として行ったと思いたいです。

 久しぶりにまたSTAP関係の話題です。
 今日、たまたま普通の社会人(注:ここでは、STAP/小保方擁護派でも批判派でもなく、特段強い関心があるとはいえない企業人の意)のお友達のフェイスブックページに遊びにいったところ、

「 ちょっと質問^_^;ドイツとアメリカでスタップ細胞実験成功って本当ですか?」

と、ご質問を受けました。

 すっかりこの分野の人とみられてしまっているなぁ。
 でもこうして真正面からご質問いただけるのは幸せなことなのです。

 ちょっと居ずまいを正したかんじで、こうお答えしました。

「はい、ご質問ありがとうございます。お答えします。
ネットでまことしやかに言われてますが、あれはデマです。
アメリカとドイツ、どちらの論文もまったく実験方法が違い、スタップ細胞ではありません。
ただメカニズムのコンセプトは似ていて、外部刺激で細胞が初期化するとか万能細胞になるとかいうことをめざしています。
ただこの種の実験はもう10数年来あちこちで行われています。スタップ細胞だというためには実験方法が同じでないといけません。
論文を最後までちゃんと読むと違うものだとわかるのですが、小保方さんの熱心なファンの方が部分的な一致だけでスタップだスタップだと騒いでいらっしゃるのです。」



 半可通のくせに、生意気にねえ。
 実は、本当にたまたまだったのですが、この同じ内容の質問をSTAP細胞に詳しいある科学者の方(先生の身辺に危険が及ぶかもしれないので、仮に「ドクターX」としておきますね)にしていて、それへの回答がけさ、返ってきてそれを読ませていただいたところだったので、割合自信をもってすらすら答えられたんです。X先生からのご回答はもっとはるかに専門的な長文のもので、上記のはわたしが勝手にそれを素人言葉で縮めてしまいました。

 有り難いことに質問者のお友達とそのやりとりを読まれていたお友達の方々には、このご説明でご理解いただけたようです。


 このSTAP細胞をめぐる言説というのは今、本当に特異な状況になっています。
 大手メディアは、黙殺。そしてネット上には、「STAPあるある」の言説があふれています。で、そちらはデマです。

 例えばマスコミが電通とかロスチャイルド(?)に支配されていて信用ならん!と思ったとき、これまでのわたしたちだったら「じゃあネットをみてみよう。そちらのほうが真実だろう」と思います。ところがそういう過去のノウハウがまったく当てはまらないのが、今のSTAP細胞・小保方晴子さんをめぐる情報です。

 ドクターXら少数の心ある科学者が匿名のグループで運用しているブログがあり、それによると、小保方さん擁護の総本山のようなブログがあります。宣伝する気もないので名前は出しませんが、そのブログのコメント欄というのは、複数の擁護派の非専門家いわば素人の人がコメントしあい、科学的に間違ったことを言い合います。要は、上記のアメリカとかドイツの紛らわしい論文をネタに、

「これで小保方さんの正しさは証明された!」
「日本では大きな力が働いて小保方さんを潰した!」

とか、わいわい仲良く言い合っているわけです。
 そこへ、ドクターXのような研究者が、「いやそうじゃないよ。科学的にはこうだよ」ということを言うと、その素人の方々が総攻撃してその人を叩き出します。それだけでなく、ブログ主は「アク禁(アクセス禁止)」という手段で、気に入らないコメント者を締め出すことができ、実際にそれをやって締め出しています。結果、コメント欄は素人だけになり、科学を装った似非科学コメントで溢れるそうです。

 それだけではありません。
 なんと、これまで小保方さんを実名で批判した科学者には、擁護派の方々は脅迫状を送ったり、Twitterで「死ね」とツイートしたり、勤務先の大学へメールして圧力をかけたりするんだそうです。そのためにブログ閉鎖に追い込まれた科学者の方もいるそうです。

 そうして、ネット上では小保方さん同情論・擁護論だけが幅を利かせることになります。


 えっ、正田はどうかって?

 まあ、老い先短い身なので、「どうぞ、やるならやってください」という心境で、実名で批判しております。
 「小保方さん」も「STAP」も割としょうもない問題ではありますが、言論統制というのは、いやですね。

 そんなことをやっていると案の定自分の著書のAmazonページに「呪いレビュー」を書かれましたけど(苦笑)

 
 『ダメ情報の見分けかた―メディアと幸福につきあうために』(荻上チキ他、NHK生活人新書、2010年)を久しぶりに手にとりました。
 たしか震災の年の6月、「情報とどうつきあう?」のよのなかカフェの時にこの本を参照した記憶があります。

 ここでは、「ウェブ流言」というものにも触れていますので、その部分を引用してみましょう:

「インターネットが普及してから、これまで数多くの流言やデマがウェブ上に広がってきました。もちろん流言やデマは、ネットが普及する以前のどの社会にも存在する、普遍的な現象です。しかしインターネットは、流言やデマの拡散を様々な形で強化してしまいます。短期間でより多くの人たちの目に留まるようになり、そのログをいつまでも残してしまうためです。

 そうしたインターネットと付き合うには、マスメディアに『批判的』で、『多様な解釈』をすることで『抵抗』していくとする、従来の『反権力』的なメディア・リテラシー論の枠組みだけでは不十分です。これまで以上に、『大きな権力に騙されない』といった気構えや能力だけではなく、『隣の誰かに騙されない』ための気構えや能力が必要となります」
(『ダメ情報の見分けかた』pp.31-32)


 ね?上で言ってることと一緒でしょ?
 要は、この問題に関しては、「大手メディアがダメだからネットで見よう」という、「AがダメだからB」という思考では、ダメなんです。ネット上に「ためにする情報」を確信犯的に流している方がいらっしゃるので、今、ネットはデマだらけなのだと思ってください。

 で、読者の利便のためにその「ためにする情報」を確信犯的に流す代表格の方のお名前を出しておきます。

 まずは、前にも名前をお出ししましたが自称ジャーナリスト(女性)の上田眞実(まみ)氏。別名「木星通信」。この方が、アメリカとドイツの論文を「どうしたらそこまで『誤読』できるの?」というぐらい誤読して拡散した張本人の方です。(これは人格批判ではありませんからね、単に行動をトレースして言っているだけです。)
 それから、これも自称ジャーナリスト、こんどは男性の大宅健一郎氏。この方も小保方さん擁護の記事をやたらと書いてはりますがほとんど根拠はありません。苗字から、大宅壮一とか映子の縁者なのかとうっかり思ってしまいますが違うようです。紛らわしいですネ。

 上記のお二人の「自称ジャーナリスト」が、これも以前に触れましたが(株)サイゾー運営の「ビジネスジャーナル」という情報サイトに頻繁に寄稿します。だからこのお二人プラス「ビジネスジャーナル」が発信源ともいえます。このサイトも、名前からして一見ニュースサイト風ですが信憑性は非常に低いところだといわざるをえません。

 あとは有名人で、前にも出した武田邦彦氏、青山繁晴氏、西岡昌紀氏も盛んに小保方さん擁護の論陣を張ってらっしゃいますが、内容をよくきいていただくとわかりますが根拠はありません。また、日本全国回ったことが自慢の最近落ち目の地域エコノミストのMK氏もネット上で盛んに匿名で擁護してはります。別にいいです、家に火をつけられても。


 
 もうひとつタイトルに「『あの日』症候群」とつけてしまったので、それについても書きたいと思います。

 小保方さんに騙される人たち。うっかり同情してしまう人たち。
 過去のブログ連載や著書にも書きましたが、非常に多様な人たちが「とりこまれやすい」因子をもっています。

 まず、高齢者。
 小保方晴子さんを自分の娘や孫のように感じ、「娘や孫がいじめられている」と受け取ってしまう。
 高齢になると人は細かいことを考えずポジティブになるので、「研究で少々ミスがあっても不正があっても、STAP細胞が存在するならそれでいいじゃないか」と考える(科学者サイドからみると、これは非常に悩ましい思考のようなのだが)その人たちにとっては、擁護派”ジャーナリスト”たちの「STAP細胞はある!」言説は、細かいロジックはどうでもよく喜ばしいことなのだ。「振り込め詐欺」に騙される層の人と重なる。
 なんらかの持病を持っているので、それをSTAP細胞が治してくれると考えている。小保方さんが「若い」ことも、なんとなく「若返り」作用がありそうで期待できる。

 それに、アスペ気味の理系男子。ブログなのでぶっちゃけ「アスペ」って書いてしまいますね。
 実は「アスペは詐欺に遭いやすい」これは常道なのです。過去に漁った発達障害関連の文献に出ていました。わたしも身近な高学歴男子で詐欺に引っかかりそうになったのを必死で止めた経験があります。小保方さんに高名な学者さんもたくさん引っかかりましたが…やめとこ。

 著書にも書きましたが、美貌正社員女子(「キラキラ女子」)。
 美貌に頼って上司の覚えめでたく、正社員・管理職として活躍。しかし自分のその地位は上司のご寵愛に頼る非常に不安定なものだとわかっている。ちょっとしたきっかけでポイと捨てられるとわかっている。その彼女らの不安心理に見事にフィットするのが小保方さんの手記『あの日』です。

 その他、大組織からスピンアウトした転職組、個人事業者の方々。
 給与や福利厚生のいい大組織を離れるには何らかの挫折があるものですが、その挫折経験のトラウマやら現在の境遇への不満が『あの日』に触れたときにワーッと出てきてしまう。自分を重ね合わせてしまう。そして、彼ら彼女らは大抵、「自分は悪くない。当時の上司や同僚が悪い」と思っていますから、それと重ね合わせて「理研けしからん!若山許すまじ!」とやる。

 ・・・・

 ほかにも、難治性の病気や障害をもった人で、「STAP細胞なら、治してくれるかも」と期待を託す人は、下手するとみんな小保方さん贔屓になるのかもしれません。知人のそのまた知人に、iPS細胞の治療の適応の病気なんだけれど状態がわるすぎて治療してもらえない、という人がいたそうですが、その人はもう、「iPSはヒドい。STAP細胞なら治してくれるかもしれない」と思っているんだそうです。

 そのあたりは、お気の毒なことですがiPSの臨床応用は慎重に慎重にすすめられていて、やたら高いところで適応の「足切り」をしてしまうところが確かにあるのかもしれません。でもそれはiPS細胞の罪でもないし、山中伸弥教授ら京大iPS細胞研究所の罪でもありません。そして、STAP細胞はほぼ「ない」細胞なのですが、仮にあったにしても臨床応用されるのは遠い遠い未来の話です。
 

 要は、「詐欺は人の弱いところにつけこむ」。

 身内に病気の人がいると高額の壺を買わされるように、STAP・小保方さんの場合は、身体の病気だけでなく心にもちょっとでもトラウマがあると、そこに入り込んできます。脆弱なところが1つでもあったら、危ないと思わなければなりません。

 わたしも、優秀な「承認リーダー」でこの人は大丈夫だろうと思っていた人が「小保方さんのあの件は、単なるケアレスミスですよね」と言っていて「えっ」とのけぞった経験をしましたので、「この人は大丈夫だろう」というラインが、この問題は「ない」のだな、と思いました。


 以上は、「こういう因子をもった人が巻き込まれやすい」という話ですが、じゃあ巻き込まれたらどうなってしまうかというと、それが「『あの日』症候群」です。
 すなわち、やたら感情的になる。やたら一方的にしゃべったり、情に流されて相手の言い分を受け付けなくなる。合理的に判断し、行動していたその人の面影は微塵もなくなる。ネットのデマを無批判に信じ込み、そしてネットデマの中にある2ちゃんねる的な嘲笑的な傲慢なスタンスも学習してしまい、事実に基づいて丁寧に議論する人を嘲笑するようになる。自分のほうがワイドショーレベルの低次元な思考法をしているのに、です。


 残念ながらこうなると、宗教談義をしているのと一緒ですね。政治と宗教の話はしない、と取り決めをするように、「小保方さん・STAP細胞」の話題を避けるしかありません。しかし、信じているご本人は宗教だと思っていないので、問題を現実とリンクさせます。「理研けしからん!Wけしからん!」で、下手すると焼き討ちしに行きかねない勢いです。

 3月末、理研OBの男性が告発していたES細胞窃盗事件の捜査が終結し、玉虫色のままになりましたが、この告発した男性は郷里で自宅に石を投げられたそうです。そういう本当に怖い世界です。


 わたしは、某岸見先生の唱道するアドラー心理学――アドラー心理学全般ではなく、「岸見アドラー心理学」と呼ぶべきなのだと思う――も、その種のラジカルな新興宗教に近いものだと思っていますが、ネットでそういう新種の「教団」が短時間で形成されてしまう時代です。


 というわけで、このブログを読んでくださる長年の友人たちは、もう既に連載を通じてこの問題に免疫ができていることと思いますが、是非周囲の方にご注意喚起ください。『あの日』は、心身に有害な本です。今からは古本で廉価で出回ると思いますが、免疫がない状態で読むことは厳にお控えください。
 
 


 
 


 『行動承認』再出版にあたり文章をいじっていて改めて気づくこと。

 どのエピソードにもかならず何かしら「数字」が入っています。

 「売上1位」とか「目標達成率150%」とか「監査指摘率半減」とか「売上倍々ゲーム」とかですね。


 これは、もう初期から当社(任意団体〜NPO〜財団〜個人事務所)のノウハウでもあり、また受講生様との間でちょっとした緊張関係になるところでもあります。

 「行動承認」のもとでは、必ず何かしら喜ばしいエピソードが生まれ、雰囲気が良くなり、物事がスムーズになったりストレスが減ったりします。

 そうした「定性的」な効果というのは、「何が良かった?」と訊いたときすぐに出てきやすいものです。

 ところが、それを業績の数字に落としてみると、どうか。

 即答できる受講生様はあまりいません。

 単純に考えると、物事がスムーズに動くようになりスピード感が全体的に上がったりしていますから、その分業績にも多少は反映するだろう、と思えますね。


 そして、これは細かい環境条件にも左右されるところですが、リーダーが「この手法は間違いない!」と確信して思い切ってこの方向に舵をきり、徹底してやった場合には、上記のような「ランキング1位」「目標達成率150%」「売上倍々ゲーム」という、とんでもない数字になるわけです。


 このあたりは、他のコンサルティング手法との比較で、いかめしい専門用語満載のコンサル手法に比べてこのようなとっつきやすく、一見女々しく優しい手法のほうがはるかに数字を叩きだす、ということが、勇ましいことが好きな多くの男性諸氏にとって不可解で我慢のならないところだろうと思います。


 そこで、「コスパ」の話になってきます。

 近年の傾向として、「研修費はなんとしてでも切り詰めたい。できればゼロにしたい」という要請があります。

 これは非常に困ったことで、むしろ国策で「研修費はかけろ。教育研修費にこれだけかけたら法人税控除する」というぐらいの研修促進措置をとってほしいぐらいのものですが、残念ながら研修よりは設備投資のことばかり言うわけですが、


 オリンピックをみれば、選手強化費をかけたほうがメダルを獲っている。自明なわけです。

 そういうことは国民の皆様も「もっと強化費をかけろ」とやいやい言われるわけですが、自社の教育投資となると、すぐ1円でも惜しもうとする。すごい矛盾です。


 なんかね、「研修」について意思決定をする部署の人が、現場のミドルリーダーのことなんてよくわかってないんです。彼らはクルクルパーだと思っていて、教育なんかしても学ばないと思ってるんです。

 そうじゃないでしょ。


 「脳は、今あるニューロン結合の強化や弱化、除去、そして新たな結合の形成によって物理的に変化するが、その変化の度合いは実際に行われる学習のタイプによって決まり、長期にわたる学習はより大きな変化を起こす」
(『脳からみた学習―新しい学習科学の誕生』OECD教育研究革新センター、明石書店、2010年)

 
 経験的には、「承認」のような大きなコンテンツを学ぶには、回数が多いほうがいいですね。『行動承認』では、6回ぐらいのシリーズ研修で学んで大きな成果を上げた事例をいくつも載せてますが、宣伝のためばかりでもなく、それぐらい回数をやることで身体にしみこんで学習できるんです。プロジェクト型研修。

 ほら、野球や柔道を1日だけやりましたというのと、6か月やりましたというのでは全然違うでしょ?「1日だけ」というのは「やらなかった」とほとんど同じだったりするでしょ?

 とはいえ行くさきざきでそうしたプロジェクト型研修で採用してくださるわけでもなく、経済団体さんのセミナーでは1日こっきりというのも多いですから、苦肉の策で何をやってるかというと、このブログなんです。

 このブログは「補講」です。
 不幸にも1回こっきりしか学ぶ機会を与えられなかったマネジャーさんがたのために、マネジャーは大体疑い深くて「収集心」で情報収集がすきな人が多いですから、

 ―そこは世間の編集者さんが想像するのをはるかに超えて、マネジャーさんというのは情報収集ずきな人種だと思いますね―

 このブログでは徹底的にかれらの情報収集欲に応えることにしています。
 原典をきっちり書き、できるだけ原文の構造をそのまま載せてどういうロジックでその結論になっているか、わかるように書いています。

 それぐらい提示しているから、こうるさいマネジャーたちもわたしの言うことを信頼してくれるんです。
 こういう配慮、編集者さんにはわからないんだろうなあ。脳が委縮してきたワイドショー視聴者のほうばかり向いてるんじゃないですか?

 社会人はそれぐらいの知的レベルは持っているんです。


 あ、それは余談なんですけどね。

 
 で、研修担当者との「せめぎあい」が起きるのは「コスパ」の話です。

 はっきり言って、ひとつの店舗、ひとつの支店の売り上げが150%になったら、それだけで何千万何億の話のはずです。

 研修費のもとなんてかるくとれちゃいます。もちろんひとつの店舗、支店だけで起こるのではなく複数のお店で起きます。

 なんだけど、たとえば担当者さんの頭というのは、研修費ン10万出したら何千万のおつりがかえってくるから、社長にほめられる、とは絶対考えない。

 今この費目の「研修費」をどうやってゼロに近くするか、そこだけが大事なんです。


 まあ彼らの頭の構造というのはわたしの想像を超えているところがあるのでちょっと置いておきますが、


 ともかく、「これやったらいくらいくら『儲かる』よ」という話は、絶対に必要です。

 将来について確実なことは言えなくても、過去の例でこうなった、ということは数字を挙げていう必要があります。

 過去に「承認研修やろか」となった、支店長さんや社長さんにしても、必ず、事例セミナーや『行動承認』でご提示した、売上が100何十%になったとかランキングがどうなった、という「数字」の部分は判断材料の大事なところに入っていたはずなんです。

 人情話で、だれそれ君がこんなに積極的になった、という話だけで経営判断として動けるはずはありません。


 なので過去のどの受講生様にも、「数字を出してください」この話はしてきました。受講生様が幸せそうな顔で、「いや〜だれそれ君・さんが、こんな提案を言ってくれるようになってねえ」と言ってるときに、「数字を出してください」と言うのですから、雰囲気ぶち壊しですよね。でもわたしは言ってきました。「社会貢献だと思ってください」と迫りました。

 
 きくと、大体数字は上がってるんです。で出してもらうと、「…はい、2011−13年は倍々ゲームでした」などと渋々、言われます。(注:この「倍々ゲーム」というのは、従業員20人程度の工場が60人規模まで膨れ上げる過程の話なので、飽和状態になった企業様では当てはまらないかもしれません)

 この「渋々」というのは、たぶん、ちょっと駆け引きが入ってると思っています。受講生様を疑うような言い方で申し訳ないですが、「研修費もっと高く謝金払っても良かったんちゃうか」と言われるのを恐れてるんだと思います。

 でも、そこで正確な効果を出さないと、今後の施策としてこの研修をもっと徹底してやったほうがよいのか、あるいは他社さんで検討しておられるところにとっても、導入する値打ちがあるのか、判断材料にならないので、悔しくても「承認研修めっちゃコスパいい」これは、出したほうがいいと思いますね。

 たぶん、男性同士なので男性コンサルタントさんが言う勇ましい手法の方が効果があるように思いたいと思いますけれど、「承認研修」ほどコスパのいい研修はほかにないですね。効果の波及効果がすごいですからね。


 色々思うところがあって、今日は好き放題言ってますが基本的に本当のことです。


 『行動承認』をいよいよKindle本化することにし、それ向けに原稿を打ち直し始めました。
 
 手始めに手持ちの本を1冊、裁断機で切ってページをばらばらにし、クリップで止めました。ワードで入力しやすくするためです。

 入力しているとさまざまなことが去来します。

 この本は、やはり徹頭徹尾、「マネジャーのためのテキスト」として書かれました。
 言い換えると「行為者」のための本。

 たくさんのエピソードがありますが、その中で読者が主人公のマネジャーに没入し、その味わった人間的な痛みも追体験し、そして彼(女)が解決のために何かを行為することも自分の肉体がそれをしたように追体験してもらえるようになっています。いわばバーチャル体験をテキストの中でしてもらいます。

 それは、たとえば1人のマネジャーが研修を受けても、その研修をその場限りのものとせず、その後の一定期間、学びを実地に落とすことで自分が何を体験するかを、あらかじめ体験してもらうことでもあります。

 それだけにエピソードは生き生きしていなければなりません。現場に立ってその場の空気を体感できるようでなければなりません。わたしごときの筆力で実現しているかどうかわかりませんが――。

 その場限りの研修は世にあふれています。ほとんどの研修は、現場を良く知らない人事研修担当者がみて見栄えのいいように、華やかな理論や専門用語、表面的な演出であふれています。

 マネジャーたちは半ばおもしろがりながら半ば冷め、アンケートにはいい感想を書きますが自分が職場でやることとは別だ、と切り離して考えています。

 わたしが非営利の、マネジャーたちが自主的にポケットマネーで集まってくる勉強会を主宰してから、いざ企業内研修の世界にいくと、いわばインディーズからメジャーに行くと、どれほど驚いたことでしょう。その落差に。

 マネジャーたちの冷めた眼差しに。

 彼らは自社の人事・研修担当者が選定してくる研修にうんざりしきっているのでした。

 しかし、その「企業内研修の壁」を乗り越えなくては、ひとつの研修が職場の空気を変え人びとを幸せにすることはできません。

 『行動承認』はその「研修の壁」を乗り越えるために書かれたものでした。


 2014年、前著『認めるミドルが会社を変える』から4年、本を書くことの有効性に倦んでいたわたしがどうしてもあと1冊本を書こうと思ったとき、迷ったすえに結局ベストセラーは志向しませんでした。ただ1つ、「現場のマネジャーの心を動かし、身体を動かす本を書く」それだけを考えました。


 あの頃の自分はそういうことを考えていたな。
 入力で手を動かしながらそんなことを思います。

 最近ちょっと話した神戸在住の元編集者の人は、『行動承認』を評して「凡庸な本。身体を動かすまでの力はない」と言っておられましたが、逆にその人自身が「自分は後進を育てることはできなかった」と言っていましたから、編集者は得てしてそういう人種なのだろうと思います。編集者が求めるような言葉のきらびやかさはない本だろうと思います。でもわたしの勘では、変な言葉の綺麗さというのは、現場の人が身体を動かすためには必要ないのです。
 ……と、編集者さん業界のわるぐちを書いてしまいましたが、商業出版を諦めている状態なので許してください。わたしは読者はそんなにバカだと思っていません。編集者さんが思うよりはるかに、社会人というものは聡明です。その方向に導こうと思えば聡明になるし、バカ扱いすればバカになります。
 それは、わたしの中に抜きがたくある「教育屋気質」が、引き上げたいという衝動がそうさせるのかもしれません。
 でも実際に教育の力で引き上げれば素晴らしい状態が実現するのですし。みんなをワイドショー視聴者のレベルに引き下げていいことなど何もありません。


 結局『行動承認』は初版3000部で終わった本でした。この世に3000部しかありません。(だから、今この本をお持ちの方、希少本なんですヨ。意外とAmazonでもあまり中古本の値が下がってないです。皆さん手放されないみたいですね^^)

 弱小だった出版社は、出版前に約束していた販促策を、前後の会社の体制の変化(縮小)もあり、履行していないことがわかりました。信頼を失い、「絶版契約書」を作り絶版にしてもらい、版権を手元に取り戻しました。


 今は、Kindleで出して必要な人の手には届くようにしようと思います。
 Kindleはまだ裾野が狭く、たとえばローテクの人が多い介護職の人などには届きにくくなりますが、仕方ありません。電子出版の市場全体は膨らんでおり、将来的にはKindleで本を読む習慣も根付いていくことを信じたいです。

 『行動承認』を書店の店頭で手に取られた方がお客様になってくださった、という現象も去年はありました。「承認」関係の本を5,6冊購入された中で『行動承認』がいちばん役立った、と共通で言っていただきました。

 
 今日はあまり心と体に力がないのでぼやき日記です。



 そして…、

 わたしが主婦だからお母さんだから、主婦・お母さん向けの本を書けばこの社会は幸せになるのか?
 違うと思うのです。
 マネジメントの世界を幸せにすることが、一番社会全体を幸せにできる道なのです。
 なんども、それは考えました。
 職場を幸せにすることが社会の隅々までトリクルダウンを生み届けるのだと。そして職場を幸せにするとは、マネジャーの能力を上げてやることなのだと。

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 ・・・……<<<エウダイモニア通信>>>……・・・
発行日 2016.5.9                 
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 ※「エウダイモニア」は「幸福」、また「栄える」という意味のギリシア語
です。
 「業績1位」の山を築いてきた承認マネジメントの研修講師・正田佐与が、
経済的繁栄を含めたわたしたちの「幸せ」についてご一緒に考えるメルマガ
です。
 
※このメールは、正田が過去にお名刺を交換させていただいた方、イベントや
セミナーに  ご来場いただいた方にお送りしています。
ご不要の方は、お手数ですがメール末尾にありますURLより解除ください。

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 ┃本日の話題 ☆☆☆☆☆
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【1】 エウダイモニアの起源・『二コマコス倫理学』
    ―恥ずかしながら、解説書を読んでみました

【2】 『社会人のための「あの日」の読み方』
    ―メルマガ読者のために、最重要トピックを抜き書きしました

【3】 「不正と日本人」お勧め図書

【4】 連載「ユリーの星に願いを」第8回「自分を大切に」

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【1】 エウダイモニアの起源・『二コマコス倫理学』
    ―恥ずかしながら、解説書を読んでみました

 このメルマガのタイトルにもなっている「エウダイモニア」。この語の起源
であるギリシャ古代の哲学者、アリストテレスの『二コマコス倫理学』を
連休中に読んでみました。
 といっても、解説書です。『アリストテレスの「二コマコス倫理学」を読む
――幸福とは何か』(菅豊彦、勁草書房、2016年2月)という本。非常に、
過去の研究を踏まえながら独自の解釈を施し、良心的に解説してくれている
本と思います。
 読書日記は前後編となりました。こちらからご覧ください
(いずれも長文ですので、お時間と余裕のあるときにどうぞ)

●『アリストテレス「ニコマコス倫理学」を読む』前編――エウダイモニア、
幸福、最高善
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51939597.html 

●『アリストテレス「ニコマコス倫理学」を読む』後編――「性格の徳」、
フロネシス、友愛、観想
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51939825.html 

 今更ではありますが、『ニコマコス倫理学』は今の倫理学の基本中の基本の
用語、概念が出てくる古典です。そして、ポジティブ心理学、幸福学、徳倫理
学など、いくつもの学問分野に枝分かれして研究が深められています。経営学
では、野中郁次郎氏が『ニコマコス倫理学』から「フロネシス(賢慮)」とい
う概念を提唱したことをご存知のかたも多いでしょう。
 職場でのちょっとした“ウンチク”の源として、また現代の諸学問への足が
かりとして、いかがでしょうか。

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【2】『社会人のための「あの日」の読み方』
   ―メルマガ読者のために、最重要トピックを抜き書きしました

 先月Kindleから出版させていただいた『社会人のための「あの日」の読み方』
 ※こちらからダウンロードしていただけます
>>http://ur0.work/tk27

(キンドルが初めてという方のために……、キンドル本を読むのに、iPadのよう
な専用のKindle端末を買われる必要はありません。
 お手持ちのスマホ、タブレット、PCで本を読むためのKindleアプリを、
Amazonさんが無償配布しています。アプリを持っていない人が本を購入しようと
すると、Amazonさんがアプリのダウンロードをお勧めしてくると思います。この
際ですので一緒にダウンロードしてしまいましょう)

 この本をブログ連載からKindle化する際、いくつか加筆した箇所があります。
 なかでも、
「この部分を今、普通に生活している社会人の方はご存知ないんだ」
「だから共通認識がもてないんだ」
と気づき、急遽加筆した部分。
 それが、本の中で言うと第四章2.の部分です。

「STAP論文で小保方さんは何をしたのか?もう一度理研報告書を読んでみ
よう」

 メルマガ読者の皆様のために、その部分を抜き書きしたブログ記事をご紹介
しましょう。

 ※なお、ここに書かれていることは公文書の内容であり、敏腕弁護士を4人
もつけている小保方晴子さんも不服申し立てをしなかった文書です。ですので
一方の側の勝手な言い分という種類のものではありません。ただ、一般には
あまりその内容が知られていないというだけです。

●『社会人のための「あの日」の読み方』余話(5)「捏造」と「データ不在」
のオンパレード――やっぱり基本情報”判決”を読んでみよう
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51939558.html 

 いかがでしょうか。
 あなたのイメージしている「小保方さんのしたこと」と、上の記事の内容は
どれくらいギャップがありましたか?

 「STAP事件」については、陰謀論を含めありとあらゆるオピニオンが存在
します。今、ネットをみると小保方さんへの同情論が強いです。しかし、オピ
ニオンはあくまでオピニオン。ワイドショーで芸能人や評論家がコメントして
いるのと同様の、二次情報三次情報なのです。

 一次情報で「事実」――ここでは、他人が手間暇をかけてご本人にも確認し
たうえで認定した「事実」も含みます――を押さえてから、オピニオンがあな
たにとって同意できるものかどうか、考えてみましょう。

 もう一つ関連の記事をご紹介しましょう。先月出た『研究不正』という本を
題材にSTAP事件について考察し、フェイスブックで多くの方から支持して
いただきました:

●『社会人のための「あの日」の読み方』余話(4)―「研究不正」した人が
「アイドル」という現象が社会にもたらすもの
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51939444.html 

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【3】「不正と日本人」お勧め図書

 2000年代のある時期から、「不正」「偽装」についての報道が急に増えだした
ような気がするのは、わたしだけでしょうか。
 昨年秋からは、旭化成の子会社と三井不動産が関わったマンション杭打ち
データ偽装事件。そして新しいところでは三菱自動車の燃費偽装事件。他にも
枚挙にいとまがありません。

 日本人がある時期から「適応戦略」の変更を迫られているのだ、と言ってい
るのが、社会心理学者山岸俊男氏の『日本の「安心」はなぜ、消えたのか』(集
英社インターナショナル、2008年2月)です。
 読書日記はこちらから

●信頼と安心、空気を読む、武士道と商人道―『日本の「安心」はなぜ、消え
たのか』
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51843225.html 

 また「企業倫理」について書かれた本ではこちらも参考になります。阪急阪
神ホテルズでの食品産地偽装事件のころ書かれた読書日記。

●結局「自分を知る」ことが大事?―『倫理の死角』を読む
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51873796.html 

 それに、「倫理」ということで必ず引き合いに出されるアリストテレスの『二
コマコス倫理学』との絡みでいえば、こういうことを言っております。

●『社会人のための「あの日」の読み方』余話(6)アリストテレス曰く、不
正は嫌悪するのが正しい
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51939831.html 

 今見るとこの記事はそれ単独ではすこし舌足らずなのです。「不正を嫌悪する」
ことと、「正しい行為を愛する(行動承認)」は、かならずセットにしなければなり
ません。あとのほうがきちんとできていれば、前半部分をそんなに強調する必要は
ないかもしれません。
 (現実に、「承認教育」の浸透した職場では、監査でも高い評価を受けるなど、
業績だけでなく倫理レベルが格段に上がっています。)


 世の中、こういう「省略」は、よく起こっているかもしれませんね。暗黙の
前提の省略。いわゆる「倫理教育」と称するものの中にも――。

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【4】連載・「ユリーの星に願いを」第8回「自分を大切に」
By ユリー
 ユリー:マーケティングコンサルタント。人と組織のメカニズムに高い関心
を持つ仏教学習者。40代女性。
***********************************

こんにちは、ユリーです。
 このたびの熊本県また大分県の地震により被災された方に心よりお見舞いを
申し上げます。今も避難生活を余儀なくされている方、当事者でなくともご家
族やご親族などが被災された方も、発災以降、心身ともに苦しい毎日をお過ご
しのことと思います。そのようなお一人お一人が、1日も早く安心した毎日を
お過ごしなれますようにとお祈り申し上げます。

 この原稿を書いている今はちょうどゴールデンウィーク直前。このメール
マガジンの読者には現役のマネージャーが多いとお聞きしていますが、多忙な
みなさまは連休をどのようにお過ごしになるご予定でしょうか? 暦に関係な
く勤務が続く方、連休だからこそ片付けておきたい仕事があるという方もいら
っしゃることでしょうし、ご家族の希望のあわせたレジャーを計画なさってい
る方もいらっしゃるでしょうか。

「(悟りを体験して皆さんが実感するであろうことは、)自分の身体は自分のも
のではないけれども、だけども与えられたものだから自分を大切にする、とい
うことではないかと思います。自分を大切にする程度にしか人を大切にするこ
とが出来ないということがしみじみわかるのも、悟りの最初の段階で体験され
る具体的な変化だと思います。」とは、私の尊敬する仏教学者の言葉です。

 仏教を学んでいると、ときどきドキッとするような本質に出会い、それがグ
サリと心に刺さり、自分の未熟さを思い知ります。この言葉もまた然りです。
本当に人を大切にしたいのであれば、まずは自分で自分を大切にすることがで
きる人でなくてはならない。当たり前のことのようですが、組織のため、部下
のため、あるいは家族のためと、年を重ねそれぞれの責任を負う立場になると、
自分のことは後回し、自分をいたわることを忘れがちになります。しかし、
そういう人は、実は人を大切にするのが難しくなる、責任感の強いリーダーが
ときに周囲を傷つけて結果的に組織を弱体化させます。私自身も、自らの責任
感の強さゆえ周囲を傷つけた過去に思い当たる節があります。

 通常は部下や周囲に向けている思いやりや優しさそして承認を、せめてこの連
休のうち、ほんの数時間だけでも、ご自分に向けてみられましたか。多忙なマネ
ジャーのみなさまだからこそ、休息をとりご自分を大切にしていただきたいもの
です。私も、連休中には、自分を大切にする時間を例えわずかでも持ちたいと
思っています。


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 ┃今日の一筆箋  
□□━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
 雨のGW明けの月曜となりました。
 良い1週間のスタートとなりますように。

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 前2つの記事(『アリストテレス『ニコマコス倫理学』を読む』読書日記前後編)の読書は、このところのわたしによい示唆を与えてくれました。
 すみませんリンクを出しておきますね
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51939597.html (前編)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51939825.html (後編)


 「こころの栄養になるような良書を読みたい」と思っていたのもたしかですが、目下のテーマ「小保方さん・STAP事件」についてのヒントを探していたのもたしかです。


 で、結論としてはヒント、大ありでした。
 

「アリストテレスはこの徳の学習における魂の発達の初期段階により大きな注意を払っており、教室での徳の教育のためには、「聴講者の魂は習慣によってあらかじめ、美しい仕方でよろこび、かつ嫌うように準備されていなければならない」ことを強調する。」
「性格の徳とも関係することであるが、喜ぶべきものを喜び、嫌うべきものを嫌うことが最も重要なことであると考えられる。」
「徳に基づく行為は美しく、また美しいことのために為される。」
「子供は「カロン(美しい・立派な)」といった言葉、あるいは「アイスクネー(みにくい、恥ずかしい)」といった言葉を対象や行為に適用する仕方を学び、「美しい、立派な」「みにくい、恥ずべき」といった事態を徐々に了解できるようになっていく。その結果、「美しい、立派な」行為へと動機づけられ、「恥ずべき」行為を避けるようになる。したがって、どのような現象や行為を「カロン(美しい)」と捉えるかに習熟していくことは「思慮」の能力と密接に結びついており、「思慮」の機能の成立は情念や欲求の訓練と切り離すことはできない」


 このあたりの言葉を書きうつしながらわたしが何を考えていたのかというと…

 「不正をしない教育」には何が必要か、ということでした。言い換えれば「高い倫理性を備えさせるための教育」ともいえます。

 それは「美しい」「みにくい」ということへの感受性を育て、美しいことを喜ぶと同時にみにくいことを嫌うように仕向けること。その営みが不可欠になると。

 ここで「嫌う(嫌悪)」という要素が入ってきます。

 実は、わたしが自分で「小保方さん」についてなぜ嫌悪感を禁じ得ないか。それを延々と考えるうち、この「教育において『嫌う』ように仕向ける必要があるからだ」ということに行き着いたのです。わたしの中の「教育屋気質」がそこに反応するわけです。

 そこは、ほんとうは「罪を憎んで人を憎まず」というのが正しいのだろうけれども、この言葉もけっこう「誤読」されていて、本来は、人を憎んではいけないが罪は憎んでいい、いやむしろ憎む必要があるのです。行為は憎んでいいのです。それがなんとなく、罪も人も憎まない方がいい、のように理解されてしまっているところがある、言葉の語義を離れて。要は「まあまあ」と火消しにまわって、ネガティブ感情は全部良くないよ、と言っているような感覚です。

 ここでいえば「不正」という行為は憎む必要がある、嫌悪する必要がある。それらの甘い誘惑に耳を貸さない人になるために。

 それをまだ感受性の柔らかい子供や若者のうちに叩き込まないといけないわけですが、そこへ昨今の「小保方さん同情論」があり、「可愛い」「可哀想」さらには「きっと悪い人ではない」「罪のない間違い」という、「憎む」対象とは程遠いイメージが入ってきます。

 学問の府の中では「絶対にしてはならない、截然と一線を画すべきもの」という教育をしても、世間一般の、下手をしたらマジョリティのイメージとしては、そうではありません。学生が家に帰ったらお父さんお母さんお爺ちゃんお婆ちゃんが、そう思っていない可能性があるのです。晩御飯を食べながら、「小保方さんは可哀想にねえ。純粋ないい人なのに」と話題にしているかもしれないわけです。

 それが、こわい。教育を施す側からしたら。


 さきほど、「小保方さん」への嫌悪、という言い方をしたのは何故か。「行為」だけでなくカギカッコつきの「存在」まで広げて嫌悪するような言い方をしたのは何故か。

 それはわたしからみて、「小保方さん」とは既に「一個人ではない社会現象」だからです。認定された不正の事実」にとどまらず、その後2年たってもまだ再燃し続ける、「無実を訴えるご本人の言い訳自己正当化のデマゴーグと、それを擁護しデマを流し続ける集団のパトス(情念)の集合体」という奇妙なモンスターになっているからでしょう。

 その集団のパトスが、下手をしたら自分のごく身近なところにも入り込んでいるかもしれない。

 例えばそうした人びととそれと知らずに一緒に仕事をする羽目になるとしたら。
 わたしは、過去に心理学セミナーにかぶれた人びとと仕事をした経験を思い出し、底知れぬ恐ろしさをおぼえます。

 
 健全に「不正への嫌悪」を共有できる人とだけお仕事できたらいいですが。同じ倫理観を共有し、過剰に疑心暗鬼に陥ることなく、性悪説を前提とすることなく、サクサクストレスフリーでお仕事できると思いますが。


 榎木英介氏『嘘と絶望の生命科学』(文春新書、2014年7月)には、「ピペド(奴)」という言葉が出てきます。将来への見通しも立たず、ひたすら毎日ピペットを振り続ける若手研究者の日常。その彼ら・彼女らにとって、下手をしたら「不正」の甘い囁きは魅力的です。


 「小保方さん」――「晴子さん」といったほうがいいのだろうか――は、こうしてわたしたちの日常に奇妙に影を投げかけ続けます。


「余話」を結局シリーズ化しました

◆『社会人のための「あの日」の読み方』余話(1)二つの原風景の話

>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51938782.html

◆『社会人のための「あの日」の読み方』余話(2)『あの日』に至るまでのわたしの流れは

>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51939260.html

◆『社会人のための「あの日」の読み方』余話(3)じゃあなんで書きはじめたのか―科学者・科学ライターの「言葉」の限界

>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51939319.html

◆『社会人のための「あの日」の読み方』余話(4)「研究不正」した人が「アイドル」という現象が社会にもたらすもの

>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51939444.html
 
◆『社会人のための「あの日」の読み方』余話(5)「捏造」と「データ不在」のオンパレード――やっぱり基本情報”判決”を読んでみよう

>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51939558.html


◆『社会人のための「あの日」の読み方』余話(6)アリストテレス曰く、不正は嫌悪するのが正しい

>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51939831.html

『アリストテレス「二コマコス倫理学」を読む――幸福とは何か』(菅豊彦、勁草書房、2016年2月)読書日記の後半です。

 前回は第一章「幸福(エウダイモニア)とは何か」第二章「人はどのようにして徳ある人へ成長するか」を丁寧にみてきました。

 今回は残りの章、第三章「性格の徳と思慮の関係」、第四章「徳とアクラシア(無抑制状態)」、第五章「友愛について」、第六章「観想と実践」を取り上げます。

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第三章 性格の徳と思慮との関係

●アリストテレスはプラトンの超越的な「善のイデア」を退け、「エンドクサ」、すなわち「人びとが抱いている定評ある見解」を吟味することを通して「幸福」ならびに「徳」の概念を考察している。このアリストテレスの立場を「内在主義」と呼び、この立場を明らかにするために、「ノイラートの船」という比喩を導入することにしよう。(p.83)

●ウィーン学団の指導者オットー・ノイラート(1882−1945)は、「知識の体系」を大海原で修理を必要とする船に喩え、「われわれは自分たちの船をいったんドックに入れて解体し、最上の部品を用いて新たに建造することはできず、海上でそれを改造しなければならない船乗りのようなものである」と述べている。われわれは「知」のゆるやかな体系を、それに頼りながら少しずつ改良していくことはできる。しかし、それから離れて概念化されていない実在との比較をおこなうことは不可能である。デカルト以来、近世哲学が求めてきた「知の普遍的な基礎づけ」は大きな幻想であったと言うことができる。(pp.83-84)

●「エンドクサ」の吟味を通して「幸福」を追求するアリストテレスは、過去から受け継いできた「徳の価値空間」という「ノイラートの船」に乗っており、倫理的価値(徳)を「内在的に」追求している。(p.84)
 
●20世紀後半以降の『ニコマコス倫理学』研究においては、カントと同様な意味で道徳判断の普遍性を主張する解釈が数多く見られる。この解釈を「普遍主義」と呼ぶとすれば、この普遍主義に対して、私は行為を問題にする場合普遍性は成り立ちがたく、具体的な状況を考慮する「個別主義」、「内在主義」が『ニコマコス倫理学』の思想を正しく捉える道だと考える。(同)

――アリストテレスは「個別主義」「内在主義」の人だったんだ。「個別化」のわたしと似た人だったかもしれないな^^(こらこら)

「性格の徳(エーティーケー・アレテー)」「思慮(プロネーシス)」との関係を正しく理解することが重要である。「勇気」、「節制」、「正義」といった「性格の徳」はよく知られているが、そのような「性格の徳」を示す行為を遂行する場合、そこに必ず「思慮」が働いているとアリストテレスは主張する。そこでまず、「思慮」の機能を把握する必要があるが、「思慮」の概念は『ニコマコス倫理学』の中心概念のひとつであって複雑であり、しかも20世紀後半以降の研究においては普遍主義的な捉え方が支配的であることから、アリストテレスの「思慮」の概念は歪められてきているように思われる。(pp.84-85)

――おっ、野中郁次郎氏のいう「フロネシス(賢慮)」が出てきました。ところが、おやおや、20世紀後半以降の研究でアリストテレスの「思慮」の概念は歪められてきているというではありませんか。要注目です

●本書第三章第1節では、カントの「定言的命法」とアリストテレスの「思慮ある人の実践的推論」を対比し、従来なされてきた「思慮」ならびに「実践的推論」の解釈を批判し、アリストテレスの「思慮」がカントの「理性」とはその機能を大きく異にしていることを明らかにしたい。この作業を通してはじめて『ニコマコス倫理学』の中心概念である「性格の徳」と「思慮」の正しい姿が捉えれらると考えている。(p.85)

――はい先生、異存ございません。
ちなみに「性格の徳」と「思慮」の関係ということでいうと、わたしは従来から「強み」「価値観」などはいわばその人のパラダイムや認知バイアスとして働き、その人の思考能力に大きく影響を与えると考えてきました。哲学者の書いたものを読むとその人の強みが透けてみえるようにも思います。カント先生などは規律性か公平性ですね、わたしからみて。

●人間の場合、振る舞いとそれが目指す目的の関係は、動物の場合のように直接的ではなく、時間的にも、空間的にも遠く広がっていき、その目的もさまざまな視点からそれを捉えることができる。もちろん、それは人間に言語を介した思考能力があるためである。(p.869

●人間の振る舞いとその目的とを関係づけるのが、アリストテレスが「思案(boueusis)」と呼ぶ働きであり、それを通して行為「選択(proairesis)」が成立する。この行為「選択」に向けての「思案」の作用を実践的推論と呼ぶとすれば、アリストテレスはこの推論に、演繹的推論の場合と同じ「シュロギスモス(syogismos)、三段論法」(第六章第一二章、1144a31)という言葉を使っている。また実践的推論を妥当な演繹的結論を導くものであるかのように語っている箇所もあり、他方それ以外のタイプの実践的推論の事例を挙げて論じている箇所もある。(pp.86-87)

●まず、アリストテレス自身が「思慮」をどのように捉えているか、それを確認しておこう。アリストテレスは次のように述べている。
 “「思慮(プロネーシス)」については、われわれがどのような人を「思慮ある人(プロニモス)」と呼んでいるかを考察することによって、把握することができるだろう。
 思慮ある人の特徴は、自分自身にとって善いもの、役に立つものについて正しく思案をめぐらしうることであり、それも、特殊なこと、たとえば、健康のために、あるいは体力をつけるためには、どのようなものが善いものなのかといった仕方で部分的に考えるのではなくて、まさに「よく生きること(エウ・ゼーン)」全体のためには、いかなることが善いかを考えることである。このことの証拠は、われわれが「思慮ある人」と呼ぶのは、その人が技術のかかわらない領域において、何らかの立派な目的のために分別を正しくめぐらす場合である、という事実である。したがって、人生の全般にわたって思案する能力を備えた者が、思慮ある人ということになる。(第六巻第五章、1140a24-30)(pp.87-88)

●この箇所で、第一に、「思慮」は医術や大工術といった技術知のかかわらない領域において、「よく生きること全体のために、何が善いか」を思案する能力として捉えられている。第二に、アリストテレスは「思慮」の概念を「思慮ある人」の概念を通して捉えているが、「思慮ある人」はつねに具体的文脈のなかで状況を正しく捉え、行為する人物である。私は、これが「思慮」、「思慮ある人」の最も基本的な特性であると考える。(pp.88-89)

●それに対して、実践的推論を「規範―事例」型の推論と捉える人びとは、上に示した「思慮」の概念とは異なる把握を示している。彼らは、実践的推論の大前提を、具体的な文脈から独立に「思慮」を通して捉えられる普遍的道徳判断として把握し、小前提はその大前提の具体的な適用事例として捉えている。それゆえ、実践的推論は演繹的推論に類似した推論になってくる。(p.89)

●以下、実践的推論を「規範―事例」型の推論と捉えるのは誤りであることを明らかにし、それに代わる解釈を「思慮ある人の実践的推論」として提示したい。
 演繹的推論の例:
  大前提 すべての動物は死ぬ。
  小前提 すべての人間は動物である。
  結論  すべての人間は死ぬ。
 「すべての動物は死ぬ」という大前提命題は小前提からまったく独立に主張できる普遍的命題、つまり全称的判断である。また前提と結論のあいだの必然的な関係はそこに登場する「動物」や「人間」といった概念内容には依存しない。純粋に形式的な関係である。
 実践的推論の例
「友人を助ける行為は善き行為である」といった道徳判断はどのような場合にも成立する「普遍的判断」にはなりえない。というのは、この判断は、友人が困っている「ある状況において」はじめて成立する判断だからである。友人が困っていても、別の状況においては、友人を助ける行為よりもより優先すべき行為が考えられるからである。そこに、具体的な状況においてのみ真偽が問題になる実践的判断の特徴がある。(pp.90-91)

――フロネシスの例が出てきました。なるほど、野中氏は経営者の備えるべき徳としてフロネシスを言っていますが、わたしはむしろ上記の例は、ミンツバーグ的なマネジャーの状況判断に当てはまるもののように思えます。もちろんそれの延長線上に経営者がいます

●どうして現代の研究者たちは「規範―事例」型の推論をアリストテレスと結びつけるのであろうか。その大きな理由は、「規範―事例」型の説明が行為の正当化に端的に繋がっており、また次の第四章で取り上げるように、アリストテレス自身が、第七巻第三章において、実践的推論を「規範―事例」型の推論のように提示していることによっている。アリストテレスの「実践的推論」についての見解は必ずしも一貫していないのである。しかし私は本章において、第六巻第五章以下で展開される「思慮の働き」の視点から「実践的推論」の特徴を取り出し、それが「実践的推論」の正しい構造であると主張したい。(p.91)

●カントの定言的命法(道徳法則)およびカントとアリストテレスの見解の類似点と相違点。
 アリストテレスの倫理学においては、「思慮ある人」、「徳ある人」がその中心を演じている。「正しい行為」とは、思慮ある人が具体的な状況に直面した場合、その状況を把握し実行する行為である。「行為の正しさ」の基準は思慮ある人にある。他方、近世のカントにとって、「正しい行為」を考える場合、「思慮ある人」、「徳ある人」が介在する余地はない。「正しい行為」は「正しい行為の原則」から、つまり「定言的命法」から導出されることになる。
ところで先に述べたように、「規範―事例」型の推論解釈では、大前提には、具体的文脈から独立に捉えられる「普遍的な道徳判断」が掲げられ、小前提はこの大前提の具体的な適用事例とされて、結論の行為の導出が説明されている。しかし、この説明の中には「思慮ある人」も登場しないし、「思慮ある人」がその能力を発揮する具体的文脈への言及もない。
カント倫理学は近世思想を代表するものであり、この新しい時代の思想には「徳ある人」「思慮ある人」に代わって「正しい行為の原則」が登場する。しかし、アリストテレス倫理学がこのカント的思想を介して解釈されるならば、「徳倫理学」のもつ真の意義は歪められてしまうことになると私は考える(pp.92-93)。

p.94 カントの「定言的命法」−省略。

●アリストテレスも、カントと同様に道徳的行為に関して、「ここで何を為すべきか」は客観的に決まっており、そこに真偽の問題が成立すると考える。すなわち、道徳判断は行為者の先行する意志に依存する条件的命法ではなく、定言的命法であると考えているのである。アリストテレスはそれを次のように述べている。
 “思考の働きにおける肯定と否定にあたるものは、欲求の働きにおける追求と忌避である。また、性格の徳は選択にかかわる性向であり、選択は思案に基づく欲求であるから、選択がすぐれたものであるためには、道理(ロゴス)は真なるものであり、欲求は正しいものでなければならず、道理が肯定するものを欲求は追求しなければならない。
 ……行為にかかわる思考的なものの機能(エルゴン)とは正しい欲求に一致している真理を捉えることにある。(第六巻第二章、1139a21-31)
 この最後の文章において、アリストテレスは、思慮の機能は具体的な状況で「正しい欲求」が何かを把握することであり、それが「真理」を捉えることであると主張している。(pp.95-96)

●では、「正しい欲求に一致している真理」とはどのようにして捉えられるのだろうか。
「優れて善き人(スプウダイオス)」という言葉は『ニコマコス倫理学』で最も頻繁に登場する表現であり、それに次いで「思慮ある人(プロニモス)」という言葉が多く用いられている。またアリストテレスがこの両表現をほぼ同義の表現として使っていることは広く認められる。(p.96)

●“実際、優れて善き人(スプウダイオス)がそれぞれのものごとを正しく判定するのであり、それぞれの場面において彼にとっては、まさに真実が見えているのである。……優れて善き人はそれぞれの場面で真実を見ることにかけて、おそらく最も卓越しており、そうした美しさや快さを判定する尺度であり、基準なのである。(第三巻第四章、1113a29-33)
(p.97)

●「優れて善き人」、つまり「思慮ある人」が、個々の具体的な行為の文脈において捉える判断が、「行為の正しさ」の基準であり、「思慮」を示す「中庸の判断」であり、それが「正しい欲求に一致している真理」であるとされるのである。
 このように、思慮ある人はその推論において具体的な状況を重視し、文脈から独立な「普遍的規範」を機械的に個別的事例に適用するようなことはない。したがって、アリストテレスが実践的推論で「規範―事例」型の推論を考えていたという根拠は乏しいように思われる。(p.97)

――このあたり著者独自の見解を述べていると思われますがおそらくこちらが正しいのでしょう。やはり哲学者、あるいは哲学研究者というのはわたしからみてちょっとASD的な人が多く、ある法則を演繹的に杓子定規に当てはめるやり方に魅入られやすいのだと思います。たぶんその人たちはカントとも親和性が高いです(こらこら)

●『ニコマコス倫理学』において、まず強調したいのは、「大前提における道徳判断はつねに小前提との関係において成立する」ということである。しかもその場合、「規範―事例」型の解釈とはまったく逆に、アリストテレスは、実践的推論の出発点が「普遍的な規範命題」ではなく、具体的な状況についての知覚であると語っている。すなわち、アリストテレスの「思慮」はカントの「理性」とは異なり、「小前提における具体的な状況を把握する知覚能力であるとともに、大前提における目的に関わる思考能力」なのである(第六巻第八章1142a23-30、第六巻第九章、1142b32-33参照)。(p.98)

●行為者は直面する具体的な状況を知覚することを通して、「ここで何をすべきか」を把握する。具体例を挙げると:
 ある人物(思慮ある人)が以前から楽しみにしていたパーティに出かけようとしているところに、突然、友人が悩みを抱えて訪ねてくる。そこで、その人物はただちにパーティをキャンセルして、友人の悩みを聞き友人を慰めようと決心する。(pp.98-99)

●このエピソードにかかわる「実践的推論の構造」を次のようにまとめることができる。
(1)小前提とは、ある状況に遭遇した行為者が、その状況のうち彼が対応すべき最も突出した事実(the salient fact)として立ち現われてくるアスペクトを記録したものである。(「何が突出した事実のアスペクトであるか」は行為者の「性格」、「人柄」と相関的である。)
(2)また、この小前提(として記述される出来事)はそれにかかわる人生における様々な「価値」や「理念」を活性化するが、それが大前提として捉えられる。すなわち、「いかに生きるべきか」について行為者が抱く価値観が、その状況下で、彼に立ち現われているアスペクトを小前提として最も突出したものたらしめるが、その価値観が行為の理由のかたちで大前提として立てられ、具体的な行為を導くのである。
 これが「思慮ある人」が具体的な状況において遂行する「実践的推論の構造」であると私は考える。(p.99)

――おもしろいですね。わたし的にいえば「友達を大事にする」という「価値観」ですが、それが状況に応じて「大前提」になっていると考える。文脈を表面的にみれば「大前提」は「パーティに行く予定」とか「パーティを楽しみにしていた」のようにみえるのですが、「悩みを抱えた友人が訪ねてきた」という事態に応じて、大前提は全然違うものになってしまうというのです。しかし、こういうのは行為者自身も「あとづけ」でしか説明できないでしょうけれどね・・・。
何かに使えないかな、と思いました。

●「なぜキャンセルするのか?」という問いが投げかけられる。それに対して行為者は「友人が悩みを抱えて訪ねてきたのだ」と答える。その場合、相手はさらに「そうだとしても、どうして楽しみにしていたパーティまでもキャンセルするのか?」と尋ねるかもしれない。その問いに対して、行為者はさらに「行為の理由」を挙げて説明するであろう。
 為された行為に対して「なぜ?」という問いが立てられ、それに対して「行為の理由」を挙げて答える。このように、行為にはその「行為の理由」「行為の秩序」があり、それを示すことがアリストテレスの実践的推論の目的であったと思われる。(pp.100-101)

――たしかに、突発的な事態に対してマネジャーが意思決定を行う、選択を行う、というとき、上述のような「大前提のすりかわり」は日常的に起きているかもしれないですね。「クレーム対応」などはそうですね。

●実践的推論は二通りに分類されていた。すなわち、^綵僂簑膵術といった技術知がかかわる推論、つまり目的を前提して、その目的をめざす手段の選択が問題となる推論と、◆峪徇犬△訖諭廚かかわる、「善く生きること」全体のために、「ここで何をすべきか」にかかわる推論とである。
 普遍主義的解釈が取る「規範―事例」型の推論は、後者の実践的推論をあまりにも演繹的推論に同化してしまっていると私は考える。(p.101)

――それは、ASD系の人ならやりそうです。ビジネススクールで教えるロジカルシンキングもそのきらいがありますね。

●勇気、節制、正義といった徳の行為が成立するための条件が下記の文章に3つ述べられている。
”徳に基づいてなされる行為は(芸術作品の場合と異なり)、それが特定のあり方を持っているとしても(それだけで)、正しく行われるとか、節制ある仕方で行われることにはならないのであって、行為者自身がある一定の性向を備えて行為することもまた、まさに正しい行為や節制ある行為の条件なのである。すなわち、第一に、行為者は行っている行為を知っているということ、第二に、その行為を選択し、しかもその行為自身のゆえにそれを選択するということ、第三に、行為者は確固としたゆるぎない状態で行為しているということ、これら三つの条件が満たされなければならないのである。(第二巻第四章、1105a28-33)(pp.103-104)

●ここでは、第二の条件と第三の条件に注目したい。「行為者はその行為を選択し、しかもその行為自身のゆえにそれを選択する」という第二の条件は、「いま、この状況で為されるべき最も善き行為」の「選択(proairesis)」であると言える。この働きがまさに「思慮」の働きなのである。また第三の条件として「行為者は確固としたゆるぎない状態で行為する」とは、行為者が「節制」、「勇気」、「正義」等々の徳の教育、訓練、経験を通して、そのような「性格の徳」がしっかり身についているということを示している。『ニコマコス倫理学』第二巻の狙いは、子供を節制、勇気、正義等の「徳の空間」、つまり「倫理的価値の空間」へと導き入れることにある。その結果、子供は、動物のような「非理性的性向」を脱し、正しい行為のかたちを学んで行くことになる。(p.104)

●子供は「カロン(美しい・立派な)」といった言葉、あるいは「アイスクネー(みにくい、恥ずかしい)」といった言葉を対象や行為に適用する仕方を学び、「美しい、立派な」「みにくい、恥ずべき」といった事態を徐々に了解できるようになっていく。その結果、「美しい、立派な」行為へと動機づけられ、「恥ずべき」行為を避けるようになる。したがって、どのような現象や行為を「カロン(美しい)」と捉えるかに習熟していくことは「思慮」の能力と密接に結びついており、「思慮」の機能の成立は情念や欲求の訓練と切り離すことはできない。(pp.104-105)

――「美しい、みにくい」という価値づけによる正しい行為の教育。こうあるべきだなあ、と思いながら、現代はどれほどそこから離れてしまっただろうか?とも思う。武士道教育などはそれに近かったのだろうか。学校のいじめについて、「絶対あってはならない」という立場と、「必要悪。無菌状態で教育することはできないのだから、慣れて適応すべき」という立場があると思う。前者に立たなければいじめは根絶できないのだが、現実には親もそして先生も、後者の「本音」をやっているのではないだろうか?
 いずれにせよ、この一節が妙にこころに響いてしまうのは、わたしがどうしようもなく「教育的人間」だからかもしれない

●普遍主義的解釈は、「思慮」を情念や欲求から独立なカント的「理性」能力として捉える傾向があるが、われわれは逆に「性格の徳」のみならず、「思慮」の能力も、人間の自然的な欲求や情念を陶冶することによって「第二の自然」として成立すると考える。(p.105)

●“人間の機能(ergon)は「思慮」および「性格の徳」に基づいて成し遂げられる。なぜなら、(性格の)徳は目標(ton skopon)を正しいものにするのであり、「思慮」はその目標へと至るものごと(ta pros touton)を正しいものにするからである(第六巻第一二章、1144a6-9)
(p.106)

●先に述べたように、「徳とは知である」とするソクラテスは「性格の徳」と「思慮」を同一視するが、普遍主義を取る人びともソクラテスと同様に考える傾向がある。しかし、「性格の徳」と「思慮」は区別しなければならない。「性格の徳」は「思慮」と結びつくことによってこの世界にかかわるのであり、逆に「思慮」は「性格の徳」と結びつくことによって、「ひと」に宿った「正しい目標」にかかわることになる。すなわち、「性格の徳」とは「思慮」をそなえた「魂の性向」なのである。(p.107)

――今更ですがビジネススクール的ロジカルシンキングがそれ単独で「正しく考える方法」を教えてくれるわけではないんですよね。いわば「正しい価値観」がその大前提にないといけない。ということをアリストテレス先生が言ってくださっているようで、うれしかったです。

第四章 徳とアクラシア

●『ニコマコス倫理学』第七巻では「アクラシア」を取り上げている。ギリシア語の’akrasia’の’a’は否定を示し、’krasia’とは’kratos’、つまり「力」という意味であって、「アクラシア(akrasia)」とは「力のないこと」、「力をもって自己自身をコントロールできない状態」。「無抑制の状態」を意味する。(p.109)

●ソクラテスは対話篇『プロタゴラス』(352C-)において、知識は他の諸能力を宰領してひとを善き行為に導いていく最高・最強の力であり、「善と知って行わず、悪と知りつつ行うことはあり得ない」と主張する。(略)しかし、このソクラテスの見解はパラドクスであり、常識と明らかに矛盾する。われわれは知識をもちながら、欲望に支配されて為すべきではないことを行い、後になって後悔することが多い。(p.110)

●アリストテレスは、ソクラテスの理性主義を受け継いでおり、この立場に立って現実のアクラシア現象を説明し、パラドクスを解こうとする。しかし、第七巻で目指しているのはむしろパラドクスを解くことを通して、「徳」と「幸福」の関係を別の視点から明らかにしようとしている。(pp.110-111)

●第七巻の「アクラシア」の議論は「徳へ向けての途上の状態」とはどのような状態であるかを解明している。それは「無抑制」と「抑制」の状態であり、われわれ人間のほとんどはこの状態にあるといえる。したがって、「無抑制な人」は「抑制ある人」とどのように異なり、「抑制ある人」は「徳ある人(思慮ある人)」とどのように異なるかを明らかにすることは、われわれはどのようにして幸福に至るか、その道筋を示すことになる。(p.111)

●アリストテレスは、アクラシア(無抑制)」を次のように説明する。われわれは普遍的知識を「所有」していても、具体的な行為に直面した場合、欲望に支配されて、酩酊の人物と同じ状態になってしまい、その知識を「使用」できず、正しい行為ができなくなり、アクラシア状態が生じてくる、と。
 ソクラテスの「アクラシア(無抑制)の否定」に対して、アリストテレスはこのように知識の「所有」と「使用」、あるいは「普遍的な知識」と「個別的な知識」といった概念の意味の区別を通して、知識をもちながらアクラシアが成立することを説明しているのである。これはアクラシアの「ロギコース(logikōs、概念的)」な説明と言える。(p.113)

●他方、アクラシアが生じる原因をピュシコース(phusikōs、自然学的)に見定めることができる。
 ピュシコースな説明とは、簡単に言えば、行為者の「思いなし」と「行為」との間の「因果的な関係」の考察である。(p.114)
例:“もし甘いものはすべて味わうべきであり、いま個別的なこのものが甘いとすれば、その場合、行為する能力をもっており、かつ行為が妨げられることのないような人は、同時にまたこの特定の甘いものを味わう行為をすることは必然である。(第七巻第三章、1147a29-31)(同)

●次にアクラシア(無抑制)という事態がどのようにして成立するかの説明。
ここに「すべての甘いものは健康に悪い」と「すべての甘いものは快い」というふたつの大前提が存在する。前者は道理(ロゴス)が告げるものであり後者は欲望が告げる普遍的な思いなしである。そして目の前に「甘いものがある」という事態が成立している場合、アクラシアに陥る人は、「すべての甘いものは健康に悪い」という普遍的な知識を所有してはいるが、目の前の「甘いもの」に対する欲望が力ずくで「甘いものを食べる」という行為に引っ張っていき、アクラシアの行為が生じることになる。
 一方、「節制ある人(ソープローン)」つまり「徳ある人」の推論と行為では、欲望は関与しない。道理(ロゴス)に基づく推論「すべての甘いものは健康に悪い」に従い、目の前の甘いものにたいして「これは健康に悪い」と判断し、食べない。
 このように、道理(ロゴス)が占める大前提と欲望が示す大前提との対立葛藤が存在し、無抑制な人(アクラテース)は甘い食べ物を食べてしまい、後で後悔することになる。「アクラシア」という事態がどうして生起するのかに関する、ピュシコースな(自然学的な)説明として多くの人びとが取っている解釈は、以上のようなものである。(pp.116-117)

●行為とは、「何かを目指す行為」であると同時に、必ずまた「誰かの行為」である。それゆえ、アリストテレスの徳倫理学はこの行為の主体をめぐって展開する。(p.120)

●アリストテレスは、ここで、徳ある人(思慮ある人)とそれ以外の人びととの根本的な相違を強調している。それ以外の人びととは、無抑制な人と抑制ある人、ならびに放埓な人(akolastos)、つまり悪徳に支配されている人物である。(同)

●実践的推論において、徳ある人(思慮ある人)は直面する「個別的な事柄」を知覚することを通して「何を為すべきか」を導出する。その場合、徳ある人(思慮ある人)が示す「思慮」とは、「ある状況が含む行為誘導的諸特徴(the potentially action-inviting features of a situation)」のどれがここで重要なのかを見抜く能力である。
 すなわち、「思慮」がかかわる実践的推論の場合、アリストテレスの見解は「欲求(意志)」を「信念(知覚)」から独立に捉えるヒュームの二元論的な考え方とは根本的に異なっている。アリストテレスにとって、思慮とは「ある状況が含む行為誘導的諸特徴」のどれがここで重要なのかを見抜く知覚能力であり、この知覚を通して「何を為すべきか」が導かれる。それゆえ、行為が帰結するために、この思慮以外のものは何ら必要とはしないのである。(pp.120-121)

●「無抑制の人」と「徳ある人(思慮ある人)」との区別、さらに「抑制ある人」と「徳ある人(思慮ある人)との区別を明らかにしよう。
 少し前の「悩みを抱えた友人が訪ねてきたので楽しみにしていたパーティをキャンセルした人」の話。
 徳ある人(思慮ある人)は当の状況の特性を十全に把握し行動するが、抑制ある人と無抑制な人は徳が要求している以外の特性(パーティがもたらす喜び)に魅せられ、駆られる人である。したがって、彼らは直面する状況の意味を十全に捉え切っていないと言える。(pp.121-123)

●徳ある人(思慮ある人)は「ある状況が含む行為誘導的諸特徴」のうちのしかるべき特性を注目し、彼の「動機的エネルギー」はその特性に集中し、それ以外の特性に惹かれることはない。たとえば、悩みを抱えて訪ねてきた友人を知覚する場合ただちにパーティをキャンセルして友人の悩みを聞くのであり、彼が行為する以外の可能性(たとえば、パーティに行くという行為)は彼に生じることはない。その状況の知覚はそれ以外の行為の可能性を「沈黙させる(silencing)」と言える。(p.123)

●それに対して、無抑制な人は徳ある人(思慮ある人)とは異なり、「友人の悩みを聞くべきである」と思いながら、「パーティでの喜び」に惹かれて、パーティに出席してしまう人である。なお、第七巻第七章において、アリストテレスは「無抑制」を「性急さ(プロペティア)の無抑制」と「弱さ(アステネイア)の無抑制」に区別している(1150b19)。(pp.123-124)

●他方、抑制ある人は、徳ある人(思慮ある人)と同じ振る舞い(パーティをキャンセルして友人の悩みを聞く)をする。しかし抑制ある人と徳ある人(節制ある人)は異なる。
 “抑制ある人とは身体的な快楽のゆえに道理に反して何かをするということを決してしない人であり、節制ある人も同じである。しかし、抑制ある人の方は低劣な欲望をもっているのに対して、節制ある人はそのような欲望をもたない人である。また節制ある人は道理に反しては快楽を感じない性質の人であるが、抑制ある人の方はそのような快楽を感じても、それに導かれない性質の人である。(第七巻第九章、1151b34-1152a3)(pp.124-125)

――むずかしくなってきた……。甘いものの例でいえばわたしはアカラシア(無抑制)の人に入るかも。悩みを抱えた友人の件は、もちろん善意の友人だという前提があるのだと思う。この件に関しては「抑制ある人」になれるかな、という気がする。後ろ髪くらいは引かれそうな気がする。

●この考察にとって重要なのは、「徳ある人」、つまり「思慮ある人」の把握である。徳倫理学にとって、「思慮ある人」は具体的な状況に直面したときにその状況を正しく捉え、行為する人である。……アリストテレスはアクラシアをめぐる考察を通して「徳に向けての途上にある」とは具体的にはどのような状態なのかを示し、それによって「人は徳を習得することによって幸福に至りうる」という道徳的発達論を補強しているのである。(p.126)

――こういう文章を読むのがわたし的に何に役立つのかというと……、「強み」の学習などによって、「自分のパラダイム」に気づいてもらい、たとえばその人の何かの強みが「欲望」になり得、「煩悩」とよべるレベルにまでなり、その人に不利益をもたらしている可能性を考えてもらう。というところかな。

――「中庸」の概念も一緒に学べるとよいですね
よくあるのが、「承認」を学んだ人が、「自我(強い承認欲求につながる強み)」がガーッと亢進しやすいです。それはなかなか厄介な状態で、なんとか防止しやすいのですが、事前に釘をさしてもたぶん理解できなくて、フォローアップの中で治すしかないのでしょう。
フォローアップ大事です。

第五章 友愛について

●『ニコマコス倫理学』では第八巻と第九巻の二巻、つまり全体の五分の一が「フィリア」論に当てられ、アリストテレスがいかに「フィリア」を重要視していたかが窺える。「フィリア」は普通、「友愛」と訳されるが、日本語の「友愛」や英語の”friendship”よりも広い関係であり、そこには親と子、主人と奴隷、客と店員、支配者と国民といった関係が含まれ、それを通して「社会的な人間関係」が追求されている。(p.127)

――「フィリア」と「承認」の関係もみてみたいですね

●『ニコマコス倫理学』の第七巻まで、アリストテレスは自己のエウダイモニア(幸福)を実現する「勇気」、「節制」、「温和」、「高邁」といった「徳」を考察しており、第八巻、第九巻の「フィリア」の考察は、「性格の徳」から「社会的な人間関係」のような目的―手段の関係においてつねに目的であって決して手段にはならないもの、つまり「究極的な善きもの」が存在する。しかも、この「究極的な善きもの」を何と呼ぶかに関して人びとは一致しており、それを「エウダイモニア」と呼んでいるへと、すなわち『政治学』の主題へ向けて一歩を踏み出していると言える。(p.128)

●愛されるもの(phiēton)が「有用なもの(xrēsimon)」、「快いもの(hēdu)」、「善きもの(agathon)」に分けられる。つまり「利」、「快」、「善」に応じて三種類の友愛が区別されている。
 三種類の友愛のうち相互に相手に「善きもの」を与えようとする友愛関係が「真の友愛」と呼ばれる。これは徳ある人同士の関係であり、この関係がアリストテレスの「友愛」論の核心部分を形成する。また「友愛が幸福の不可欠な条件である」という見解も述べている。(pp.128-129)

●「有用性」と「快楽」に基づく人間関係。
“有用性のゆえに互いに愛し合っている人びとは、相手の人自身に基づいて愛しているのではなく、相手からお互いに何か善いものがもたらされるかぎりにおいて愛しているのである。快楽のゆえに愛する人びとも同様であり、たとえば、そのような人びとは機知に富む人びとを、その人が特定の人柄であるから好むのではなく、もっぱら自分たちにとって愉快だから好むのである。(第八巻第三章、1156a10-14)

●これに対して、「善きもの」に関わる友愛関係はその性質を大きく異にしており、アリストテレスはそれを「完全な友愛」、「真の友愛」と名づけている。
“完全な友愛とは、徳に基づいて互いに似ている善き人びと同士のあいだの友愛である。なぜなら、完全な友愛にある人びとは、互いに相手にとって善いことを同じような仕方で望むが、それはお互い善き人として相手自身の善さに基づいたものだからである。すなわち、友人にとって善いものを、当の友人のために望む者は、真の意味での友人である。というのも、彼らがこのような態度をとるのは、彼ら自身のあり方のゆえであり、付帯的な仕方に(kata sumbebēkos)よるものではないからである。(第八巻第三章、1156b7-11)
 このように善き人びとのあいだの友愛は、善き人びと自身のあり方に基づいて、つまり徳に基づいて、お互いに相手のために善きものを願う関係である。またこの真の友愛は当然「有益なもの」と「快いもの」を含んでいる。(pp.130-131)

●ところで、「快楽」や「有用性」のゆえの友愛関係は、「善きもの」のゆえの友愛関係と同様、相互的である。しかし、前者の関係は低劣な人びと同士のあいだでも、また善き人と低劣な人とのあいだでも成立するが、他方、「善きもの」のゆえの友愛関係は、アリストテレスが「高潔な人(エピエイケースepieilēs)」と呼ぶ人びとのあいだにおいてのみ成立する関係である。(p.131)

●以上の友愛はいずれも「等しさ(イソテース)に基づく者同士」、つまり「上下関係にない者同士」の友愛関係である。しかし、第八巻第七章から第一四章において、アリストテレスは「優越性(ヒュペロケー)に基づく」友愛関係を取り上げている。それは、たとえば、親と子供、夫と妻、主人と奴隷など、「家族における友愛関係」であり、あるいは、支配者と被支配者といった「ポリスにおける友愛関係」である。この友愛関係の分析はアリストテレスが「家族」や「ポリス」をどのように捉えているかを知るうえで有益である。(p.131)

――ここは、研究者は重視していないみたいですが、わたしは「マネジメント」を考えるうえで大事だと思っています。上司部下関係というのは、部下側の「承認欠如」の感覚を容易に招くものです。だから、それを補う意味でも上司の側から「承認」をしないといけない。また実際やってもらうと驚くほど効果がある。ただそれは「徳ある人」同士の友愛または承認と異なり、自然にできるものではなく困難が伴います。だから訓練してでもやらないといけない。
 いつもいうように「研究者は自分のことを研究するのが好き」ですからね。

●「性格の徳」は個人の魂の卓越性であり、すべて個人の幸福を増進するものである。したがって、このアリストテレスの議論に対して「利己主義の傾向が強い」という批判がなされてきているが、この友愛の議論はその批判を考える上で重要な内容を示している。
アリストテレスの徳の教義をイエス・キリストの教え、あるいは近世のカントの定言的命法の主張、さらには功利主義の「最大幸福の原理」と比較するとき、上記の批判は一応成り立つように思われる。しかもアリストテレスによれば、「真の友愛」とは隣人の善を願い、相手のために振る舞うことであるが、この「真の友愛」の考察においても、彼は「友愛は自己愛に由来する」と主張し、「友愛」を「自己愛」の延長において捉えようとしているのである。

●しかし、アリストテレスの見解ははたして「利己主義」と言えるであろうか。アリストテレスの「真の友愛」についての見解は彼の「徳」についての見解に基づいているが、そこにアリストテレスの「友愛」論の特色が示されることになり、逆にこの友愛論において、彼の徳倫理学の真価が示されているとも言える。(p.133)

――これもおもしろいですね。徳を身につけ人格的完成をすることはそもそも何のためなのか。自分づくり、自分探しに埋没していたら何にもなりません。大事なのは他人に何を施すかです。アリストテレス先生そのことに後から気がついたのかな、それとも最初からそういう構成にしようと思っていたのかな。

●アリストテレスは第九巻第四章において、「隣人に対する友愛関係は自己自身に対する友愛に由来する」と語っている(1166a1-2)。「友愛」とは普通、「他者」に対する関係であるが、「自己自身に対する友愛」とは一体どのようなものであろうか。(p.133)

――他人を大切に思う心が自分への慈しみから発生する、というのは今の心理学、脳科学からみても間違いではないんじゃないだろうか。他人がこう扱われたいだろう、ということは自分の感覚から「類推」して考える。それはメタ認知のはたらきだ。

●アリストテレスはまず、「友人」つまり「友である者」の特徴(条件)を5つ挙げている。
〜韻發靴は善と思えるものを相手のために望み、かつそれを実行する者である。
∩蠎蠅存在し、生きることを相手のために望む者である。
ともに時を過ごす者である。
ち蠎蠅汎韻犬海箸らを選ぶ者である。
イ箸發鉾瓩靴漾△箸發亡遒崋圓任△襦
(pp.133-134)

●アリストテレスは人間の魂を「ロゴス(道理、分別)をもつ部分」と「ロゴスをもたない部分」に分けている。「ロゴスをもたない部分」とは「欲求・情念」が関わる部分であり、ちょうど、父親の言葉に従うように「ロゴスに耳を傾ける部分」として規定される。すなわち、しつけ、訓練を通して、われわれの「欲求・情念」には「ロゴス(理性)」の働きが浸透していくのであり、そこで欲求・情念を、「ロゴス(理性)」の働きが浸透しロゴスに支配されているものと、そうではないものに分けることができる。
 このようにわれわれの魂を二つに分けるならば、「高潔な人(エピエイケース)の自己自身に対する関係」と「低劣な人の自己自身に対する関係」ははっきり異なってくることになる。高潔な人の自己自身に対する関係は、ロゴス(理性)が欲求・情念を正しく支配する関係であり、他方それに対して、低劣な人とはそのロゴス(理性)が欲求をコントロールできない人であり、抑制のない人である。(pp.134-135)

●先に挙げた友人の条件のうち、,痢崛韻發靴は善と思えるものを相手のために望み、かつそれを実行する」ということが成立するためには、アリストテレスによれば、「善もしくは善と思えるものを自分のために望み、かつそれを実行する」ということが成立していなければならない。そうなると、真の友愛の条件はきわめてきびしいものになってくる。
 たとえば、母親の子供に対する愛は「真の友愛」には当たらない、それは相互関係ではないし、母親も子供も「徳ある人」には当たらない。このように、徳ある人が稀であるおうに、「真の友愛」関係はきわめて稀な関係になってくる。

――きたきた。これも、「自己実現」が、マズローの本来構想した意味は極めて限られた卓越した人のものだったように、哲学者の考えることは大体において、自分たち自身の話になっていくのだ。それでいうと母の子に対する愛を称揚したヘーゲルやホネットはむしろ「まとも」だったかもしれない。

●アリストテレスは「自己愛」をどのように捉えているのだろうか。
 第九巻第八章では、「ピラウトス(philautos)」という概念が取り上げられている。「ピラウトス」とは「愛(philia)」と「自己(autos)」から合成された言葉であり、「自己を愛する者」、「自己愛者」、「利己主義者」という意味である。アリストテレスは「ピラウトス」の通常の意味を次のように説明している。
 “自己愛(ピラウトス)を非難すべきものと考える人びとは、金銭や名誉、あるいは身体的快楽において自分により多くを配分する者のことを「自己愛者」と呼んでいる。というのも、多くの人びとはこうしたものを欲求し、またこうしたものを最も善きものと見なして、それらに夢中になっているからである。(第九巻第八章、1168b15-19)。
 このように、アリストテレスは、人びとは「自己愛者」という言葉を非難の意味を込めて使っていることを認めたうえで、真の意味での「自己愛者」という概念を新しく次のように規定する。
 “もし人がつねに、正しいことや節制あること、あるいはその他、徳に基づくことなら何であれ、そうしたことを誰にもましてみずからが行うことに熱心であり、また一般に、美しいものをつねに自分自身の身に備えようとするのであれば、だれもそのような人を「自己愛者」と呼んで、非難したりはしないはずである。こうした人こそ、むしろ優れて「自己を愛する者」と考えることもできよう。(第九巻第八章、1168b25-29)(pp.136-137)

●このように、アリストテレスは高潔な人(エピエイケース)、つまり徳ある人は誰よりも自己を愛する人であると主張し、この人物は非難されるたぐいの「自己愛者」とは別種のものであることを強調し、次のように述べている。
“この2つの種類の自己愛の相違は理性(ロゴス)に基づいて生きること、情念(パトス)に基づいて生きることの相違に対応し、また美しいもの(カロンなもの)を欲求することと、利益になる(シュンペロン)と思われるものを欲求することの相違に対応しているのである。(第九巻第八章、1169a4-6)
 ここで、われわれは真の意味での「自己愛者」が「カロンなもの(美しいもの)」を欲求する者として規定されていることに注目したい。このように、アリストテレスは真の「自己愛者」を規定するために「カロン(美しい)」の概念に訴えているのである。(p.138)

●アリストテレスは、常識的な意味で「自己の利益を最大にすることが幸福である」とは考えていない。すなわち、彼の「友愛論」は利己主義とは無縁であると言える。アリストテレスは、自己犠牲の行為を選択する人は「カロンなもの」を自己自身のために選ぶと述べており、「カロン(美しい)」という概念を価値を最終的に決めるキー概念として捉えている。(p.139)

●カロンの概念整理。
(1)「カロン(kalon)」は「美しい、見事な、立派なもの」という意味であり、その反対語は「アイスクロス(aischros)」、つまり「醜い、恥ずべき、卑劣なもの」である。『ニコマコス倫理学』の多くの箇所で、アリストテレスは「行為者は最終的に、自己が為そうとする行為をカロン(美しい、立派な)と認めるから行為するのだ」と述べている。すなわち、「カロン」という表現は「勇気」、「節制」、「親切」といった個々の「徳」の概念に並ぶ概念ではなく、具体的な状況において、そのような「性格の徳」の遂行をうながす働きをもっている。言い換えれば、勇気ある行為であれ、親切な行為であれ、それが徳ある振る舞いであるためには、それらの行為は「カロンな行為」として捉えられていると言えるのである。
(2)この「カロン(美しい、立派な)」の概念は、『ニコマコス倫理学』第五巻で論じられる「正義(デュカイオシュネー)」の概念と同じ機能を果たしていると言うことができる。アリストテレスは「正義」を「配分における公正」という意味での部分的な「正義」の概念と、「性格の徳」である「全体的な徳性(hole arēte)」としての「正義」に分けている。そしてこの後者の全体的な徳は「性格の徳」のひとつであるが、しかし、それはその他の個別的な徳とは異なり、すべての「性格の徳」を統括する徳であり、勇気ある振る舞いにせよ、節制ある振る舞いにせよ、それが徳ある振る舞いであるためには、「正義」の徳が成立していなければならないとされている。ここには、ソクラテスの「徳の一性」の思想が反映していると言える。
 このように、「カロン(美しい)」の概念は、「全体的な徳性」としての「正義」の概念とともに、最終的な価値の客観的基準を示す概念として捉えられている。(pp.139-141)

●幸福な人はまさに友人を必要としていると言える。アリストテレスは友愛の必要性を次のように述べている。
 “幸福な人にあらゆる善きものを分配しながら、外的善のうちでも最大のものと考えられる友を分配しないのは、奇妙なことに思われる。そして、相手からよくされるよりも、相手によくする方がいっそう友にふさわしく、しかも相手によくすることが、善き人と徳に固有の特徴であるとすれば、また見知らぬ人よりも友によくすることの方が美しい(カロン)とすれば、その場合、優れて善き人(スプウダイオス)は、自分のほどこす恩恵を身に受けてくれる人びとを必要とすることになるだろう。(第九巻第九章、1169b8-13)(p.142)

●次に、アリストテレスは、人間は本性的に「社会的存在(ポリティコン)」であり、どんな幸福な人も友人を必要とする」ことを指摘する。
 “あらゆるものを所有して、自分だけで過ごすといった孤独の生活を選ぶような人は、誰もいないはずである。なぜなら、人間は自然本性上ポリスを形成して他者とともに生きる存在だからである。事実、幸福な人にもこの自然本性は備わっている。というのも、幸福な人は自然本性上さまざまな善きものを備えており、彼にとっては見ず知らずの手当り次第の者たちよりも高潔な善き友とともに過ごすことの方がより善いからである。それゆえ、幸福な人には友人が必要なのである。(第九巻第九章、1169b17-22)(pp.142-143)

●「友が存在するということも、それぞれの人にとって、自己の存在と同じように、あるいはそれに近い仕方で、望ましいものであることになる」(第九巻第九章、1170b7-8)
「幸福になろうとする人は、優れた善き友人を必要とする、という結論が導かれることになる」(第九巻第九章、1170b18-19)(p.144)

●“人は自分の存在とともに、友人の存在もまた知覚しなければならないのであって、このことは「ともに生きる(シュゼーン)」こと、つまり言葉や思考を共有することにおいて実現されうるのである。というのも、「ともに生きる」とは、人間の場合、言葉や思考を共有するという意味で言われるのであって、牛たちが同じ放牧地で草をはむのとはわけが違うのである。(第九巻第九章1170b10-14)
 以上のように、アリストテレスは「友愛が幸福な生の本質的な要因である」ことを示している。(p.144)

●この「(真の)友愛が幸福な生の本質的な要因である」という命題は普遍的に成立すると言えるように思われる。すなわち、アリストテレスはこの議論を通して、「幸福な生」を形成する「友愛」が、またそれを支える「性格の徳(倫理的な徳)」が、「市民生活において政治的生」を生きる人びとだけではなく、観想活動、つまり「哲学的活動の生」を生きる人びとにとっても必要であると考えているように思われる。(p.145)

●アリストテレスは『ニコマコス倫理学』全体を通して「幸福とは何か」を追求しており、第一巻から第九巻までは、それを「実践活動」を中心に進めているが、最終巻の第一〇巻では、「実践」に対して「観想活動」の幸福を強調する議論を展開している。
 アリストテレスは第一巻第二章で、「人間にとって善とは何か」を体系的に追及する実践的学問を「政治学(ポリティケー)」と呼んでいる。他方、第一〇巻第七章では、「観想活動」を「知恵を愛する哲学の営み」(1177a25)と名づけているが、これはプラトンの『国家』第六巻に登場する哲人統治者の機能を受け継ぐものと言うことができる。(p.147)

●私も以下、アリストテレスに倣って「実践」にかかわる学を「政治学」、実践活動を遂行する者を「政治家」と呼ぶことにする。倫理学はこの実践の学に属する。他方、「観想」にかかわる学を「哲学」、観想活動を遂行する者を「哲学者」と呼ぼう。現代社会では、圧倒的多数の人びとにとっての実践活動は政治活動ではなく、経済活動である。しかし、古代ギリシアにおいて、人びとは経済活動を自由人に相応しい活動であると考えていなかった。そこに現代との大きな相違がある。(pp.147-148)

●第一巻第五章では、古代ギリシアで伝統的に捉えられてきた「幸福」として、「享楽の生」、「実践的な徳に基づく生」、「観想活動の生」の三種類の「生」を挙げていた。しかし「享楽の生」はいわば「快楽の奴隷」のごとき「家畜の生」として外され、「実践的な徳に基づく生」と「観想活動の生」の二つが「幸福な生」として提示される。
 第一〇巻では、「実践的な徳に基づく活動」と「観想的な徳に基づく活動」の「二つの生」はどのように捉えられているだろうか。アリストテレスは、最もすぐれた活動とは知性に基づく観想活動である(1177a19-20)と主張している。
アリストテレスはこの「観想活動の幸福」を「完全な幸福(teleia eudaimonia)(第一〇巻第七章、1177b24-25)と呼び、他方「実践的活動の幸福」を「第二義的な幸福(eudaimonia deuterōs)(第一〇巻第八章、1178a9)と呼んで、両者の価値の違いをはっきりしたかたちで示している。(p.149)

●アリストテレスは、『形而上学』第六巻や『ニコマコス倫理学』第六巻において、「人間の知識」の三つの働きの区別を強調している。
〕論的学問(テオーレーティケー)――第一哲学(神学)、数学、自然学
⊆汰的学問(プラクティケー)――倫理学、政治学
制作的学問(ポイエーティケー)――各種の制作学、たとえば詩学
 理論的学問は「他の仕方ではありえない必然的な事柄」にかかわる。すなわち、数学や形而上学のように永遠不動の事柄を対象とする。他方、実践的学問と制作的学問は「他の仕方でもありうる非必然的な事柄」にかかわるものとされる。すなわち、倫理学(エーティカ)を含む政治学と各種の制作学はこの世界においてわれわれが働きかける蓋然的な事柄を対象とする。(pp.150-151)

●「ヌース(知性)」
 永遠不動の必然的な事柄にかかわる知識である「ソピア(知恵)」を成り立たせている能力が「ヌース(知性)」であり、第一〇巻第七章、第八章では、アリストテレスはこの「ヌース」の働きを通して「観想活動」の特性を説明している。
 他方、「性格の徳」は「情念」や「欲求」といった「複合的なもの」にかかわる「人間的な徳」であるが、それに対して「ヌース(知性)」は、そのような「複合的なものから切り離された徳である」(第一〇巻第八章、1178a22)。したがって、アリストテレスにとって、この「ヌース(知性)」は人間の能力というより、まず至福である神々の能力であり、観想活動は何よりも神々の「観想活動」である。(pp.151-152)

「生きる(zēn)」「活动する(energein)」といった営みは植物、動物、人間、そして神々に共通するものである。他方、アリストテレスが強調しているのは、われわれ人間と神々の相違である。オリンポスの神々やユダヤ人の神ヤーヴェとは異なり、アリストテレスの神々は情念をもたず、それゆえ、情念を正しくコントロールする「性格の徳(エーティーケー・アレテー)」をもつことはない。すなわち、アリストテレスの神々にとっては、「正しい行為」も「勇気ある行為」もありえず、そもそも、「行為すること」も、「ものを作ること」もせず、したがって、神々は「実践的な徳に基づく活動」を行うことはない。神の活動は至福の上で比類のない観想活動である。
 他方、第一巻から第九巻の主題は「人間」であり、アリストテレスは「人間」をまず「欲求」と「情念」をもち、さらに「ロゴス(理性)」をもつ動物として把握する。それゆえ、人間は「性格の徳(エーティーケー・アレテー)」と「思慮(プロネーシス)」を遂行することを通して「幸福な生」を目指す存在として捉えられている。(p.153)

●神々の行為をモデルとする「観想的活動」は「それ自身以外のいかなる目的も目指さず、それ自身に固有な快楽をもっていると考えられ、……人間に可能なかぎりの自足性(autarkes)、ゆとり(sxolastikon)、疲れのなさ(atruton)、その他至福な人にあてがわれるかぎりの特性」(第一〇巻第七章、1177b18-23)をもっている。

●アリストテレスは観想活動について次のように語っている。
“こうした(観想活動の)生は、しかし、人間の次元を超えたものであるかもしれない。というのも、そのような生き方ができるのは、彼が人間としてではなく、彼のうちに何か神的なものが備わっているからである。……
(略)
 したがって、人間にとってもまた、知性に基づく生き方が、何よりも知性こそ人間自身にほかならない以上、最も善くかつ最も快い生き方なのである。それゆえ、知性に基づく生き方が、最も幸福な生き方なのである。(第一〇巻第七章、1177b26-1178a8)(pp.154-155)

●この印象深い箇所で、アリストテレスは「知性こそ人間自身にほかならない以上」という表現を通して、「人間=知性(ヌース)」という把握を示している。しかし同時に、第一巻から第九巻において、人間を「情念や欲求をもつ複合的存在」として捉え、「実践的な徳に基づく活動」の重要性を主張しているのであり、その点は第一〇巻においても明確に維持されている(第一〇巻第八章、1178a9-22)。このように、アリストテレスはアンビバレントな人間の状態を表現するとともに、しかし、人間は「できるかぎり自分を不死なものにすべきである」という理念を示していると言える。(p.154)


●アリストテレスの「徳の考察」(おさらい)
 “われわれは徳を「思考に関するもの」と「性格に関するもの」に分け、「知恵」、「理解力」、「思慮」を「思考の徳(ディアノエーティケー・アレテー)」と呼び、他方「気前のよさ」、「節制」を「性格の徳(エーティーケー・アレテー)」と呼んでいる。(第一巻第一三章、1103a4-7)

●アリストテレスは第二巻から第五巻までは「性格の徳(エーティーケー・アレテー)」の考察を行っているが、本書第二章で示したように、第二巻第六章で「性格の徳」を「中庸」と捉え、この「中庸」を「思慮ある人が中庸を規定するロゴス(道理)によって定められるもの」として捉えている。それゆえ、「中庸」を規定するためには、第六巻の「思考の徳(ディアノエーティーケー・アレテー)」の考察、とりわけ、「思慮(プロネーシス)」の概念の解明が必要になってくる。(p.157)

●ここで強調したいのは、第六巻において「思考の徳」を考察するにあたって、アリストテレスが「広い意味でのヌース(知性)」という概念を出発点においているということである。この「ヌース」は第一巻で「人間のエルゴン」を規定する場合に使われる「ロゴス(理性)」と同じ意味をもつ概念であると私は解釈する。この広義の「ヌース(知性)」は単に「理論的な知」だけではなく、「実践的な知」としても使われている(1139a18)。その後の第六巻第三章以下では、「ヌース」は観想にかかわる狭義の「ヌース」として規定され、第七章では、「ソピア(知恵)」と結びつき「最も貴重な諸存在」を対象とする「知」として、つまり観想活動を遂行する「知」として捉えられている。(pp.157-158)

●他方、行為にかかわる「知」は第六巻第五章以下で、「思慮(プロネーシス)」として規定され、「性格の徳」との関係がくわしく説明されている。それゆえ、広い意味での「ヌース(知性)」が、観想にかかわる狭義の「ヌース」と行為にかかわる「思慮(プロネーシス)」に分かれていったと見ることができる。(pp.157-158)

●アリストテレスがわれわれ人間を植物や動物から区別し、人間と神々とを区別しないのは、人間と神々が「ロゴス(理性)の能力」、「ヌース(知性)の能力」を共有しているということにある(ただ、その能力のあり方には大きな相違があるが)。
 人間と神々は「ヌース(知性)の能力」を共有している。これが『ニコマコス倫理学』において、「人間」を捉え、人間を神々と結びつける太い線である。しかし、人間は身体をもち、情念と欲求をもつ存在であって、純粋なかたちで「ヌース」の生を生きる神々と異なっている。すなわち人間にとって、善き生(エウダイモニア)のためには実践的な徳が不可欠である。そしてアリストテレスは、人間が観想活動の生を送るためにも、実践的な徳、つまり性格の徳と思慮が不可欠であると考えている。それゆえ、人間にとっては「観想活動の生」と「実践活動の生」は緊密に結びついていると言えるのである。(pp.159-160)

●われわれの解釈の重要なポイントは「人間の生(活)のいずれの善(善きもの)もその頂点に一つの最高目的(観想的な徳の遂行、性格的な徳の遂行)をもつ階層のうちに位置づけられる」ということにある。(p.164)

●われわれは観想者(哲学者)になるか、政治家になるか決断しなければならないが、いずれを選択するにせよ、必要となる重要な善きものがある。それはすなわち、正義、勇気、思慮、等々の徳である。これらの徳は、二つの生、つまり「観想活動の生」にとっては必要条件であり、「実践活動の生」にとってはその目的である。(p.165)

●しかし、アリストテレスはこの『ニコマコス倫理学』の講義を通して、聴講生に対して「観想活動の生を選ばなければならない」と主張してはいないように思われる。というのは、われわれが、第五章「友愛について」において紹介し、そこで強調したように、第九巻第八章で、アリストテレスは次のように語っているからである。
 “優れて善き人(スプウダイオス)に関して言えば、彼が友人や祖国のために多くの貢献を行い、必要な場合には、友人や祖国のために死さえ辞さないというのは真実である。なぜなら、優れて善き人はお金や名誉や、その他一般に争いの的となるもろもろの善きものを投げ出し、自分自身に美しい(カロン)ものを確保しようとするからである。(第九巻第八章、1169a18-22)
 ここで、アリストテレスは「行為者は最終的に、自己の為そうとする行為をカロン(美しい、立派な)と認めるから行為するのだ」と語り、「カロン(美しい、立派な)」を行為の最終的な価値基準として捉えているが、その際、「優れて善き人は友人や祖国のために多くの貢献を行い、必要な場合には、死さえ辞さない」と述べている。したがって、アリストテレスは「各人は自分のために最大限の善きものを増進するよう努めなければならない」といった立場を取ってはいない。(pp.166-167)

●アリストテレスは「ある状況において、人は自分自身にとって最善の幸福を得られなくとも、他人の幸福のために行為すべきである」という余地を認めている。(p.168)

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以上であります。後編はワード22pになってしまいました。
いや〜、捨てるところがないものですね〜。近年歳をくえばくうほど読書日記が長文化します。あとで思わぬところを参照するかもしれないと妙に不安にかられるんですね。

途中、「観想的生活」を神のような生活だと言ってるところは、やっぱり「哲学者は自分のことを研究するのが好き」ププッ、となってしまうわたしは意地悪女です。
それでも、紀元前としては極めて完成度が高く、現代の脳科学、性格心理学などからみても正しいことを言っている『ニコマコス倫理学』、本書『アリストテレス「『ニコマコス倫理学』を読む――幸福とは何か」のお陰でやっと出会うことができました。著者様に感謝いたします。

『アリストテレス「二コマコス倫理学」を読む――幸福とは何か』(菅豊彦、勁草書房、2016年2月)という本を読みました。

 このところわたしが好んで使っている「エウダイモニア(幸福)」という語の起源、それが『二コマコス倫理学』。
 しかし、実はこの原典が難解で、過去に読んでも挫折していました。こういう場合にはなりふり構わず入門書から入るわたしです。
 この『ニコマコス倫理学』は、いまどきのポジティブ心理学や幸福学、徳倫理学などでも論拠としてよく引かれますから、押さえておいて損はないですよ。
 実際、読んでいると「強み」「価値観」など、わたしなどが日常的に使うツールの意義づけにつながるような言葉がちょこちょこ出てきます。またなんと「行動承認」の理論的根拠これでいこうか、というところも出てきました。


※なお、こういう詳細な読書日記のブログアップの仕方が著作権法違反に当たらないのか?厳密にいうと、当たる可能性があります。ただ、有り難いことにこれまでのところは問題になっていません。
 これまで、読書日記をアップしたときに著者自身からお礼のコメントをブログに直接いただいたことが3回ありました。『ポスト資本主義』の広井良典教授(千葉大から京大に移られました)からは、当日夜に丁寧なお礼のメールをいただきました。
 また『ジェンダーにおける「承認」と「再分配」』の藤野寛教授(一橋大学)には、あまりにも「捨てる」ところがなく丸写しのような読書日記になってしまったので、後日「著作権上問題のあるレベルなのではないかと思いますが」と自分から申告したところ、藤野教授が「自分ではわからない」とわざわざ出版社に連絡をとっていただき、すると編集者から「嬉しい反響ですね!」というリアクションがあった、というような話もありました。
 …まあ、なまじそういう著者さん方の心優しいリアクションの経験をしてきたものだから、著作権というものを甘く見てしまっていたきらいがあります。
 今後も、万一読書日記について著者・出版社から削除依頼等がありましたら、真摯にご対応したいと思います。

 今回も、とくに第一章の「エウダイモニア」の定義に関しては、「捨てる」ところが少なく、丸写しに近い読書日記になってしまいます。お叱りを受けないことを祈ります。

 そして第二章、本書の約半分のp.80まで読書日記をつけ終わったところですでにワード18pになったので、読書日記を前後編とします。太字・色字は正田です

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 まえがき

●「人生、いかに生きることが最善の生か」。アリストテレスはこのように尋ね、この「最善の生」を、古代ギリシアの伝統に従い、「エウダイモニア(幸福)」という言葉で捉えている。それゆえ、『ニコマコス倫理学』の主題は「幸福(エウダイモニア)とは何か」を明らかにすることであると言える。(pp.i-ii)


第一章 幸福(エウダイモニア)とは何か
 この章は、やはり「捨てるところが少ない」章です。ほとんど丸写しになるかもしれません。著者様、ごめんなさい。

●「まえがき」で紹介したように、アリストテレスは「いかに生きることが最善の生か」という問いを追求するが、この「最善の生」を第一巻第四章で、古代ギリシアの伝統に従い、「エウダイモニア(幸福)」という語で捉えている。それゆえ、「幸福とは何か」を明らかにし、人びとに「幸福に至る道」を示すことが、『ニコマコス倫理学』の主題である。(p.35)

●アリストテレスはこの主題に取り組む二つの方法を明らかにしている。まず、第一巻第六章で、プラトンの超越的な「善のイデア」をはっきりと退け、「エンドクサ」、つまり、人びとが抱いている定評ある見解の吟味を通して「幸福」の探求を行うことを宣言する。また続く第七章では、人間の「エルゴン(機能)」の解明を通して「幸福」を求めていくことを明らかにしている。(pp.35-36)

●アリストテレスは第一巻の巻頭で、「すべての行為はアガトン(善、善きもの)を目指している」(第一巻第一章、1094a1−2)と主張し、『ニコマコス倫理学』が何よりも「アガトン(善)」の研究であることを宣言している。
 しかし、ここで素朴な疑問が生じてくるかもしれない。はたして人間の行為はすべて「善」を目指していると言えるだろうか。われわれは日ごろ、「悪い」と知りつつタバコを吸っているのではないだろうか。だが、アリストテレスの視点から言えば、喫煙者は健康よりもともかくタバコを吸いたいのであり、喫煙は彼にとって善い行為なのである。このように、アリストテレスは「善」を道徳的な意味ではなく、「欲している」、「利益になる」という意味で用いており、この素朴な地平から道徳の問題を考えていこうとする。
 これは、「誰も悪を欲する者はいない」(『メノン』78A)と主張し、「すべての者は善を欲している」と考えるソクラテスの態度でもあった。しかしもちろん、善と思ったことが悪であり、また善を欲しながらも意志の弱さのゆえに生じてくる、やっかいで重要な問題が存在する。ただ、この問題については第四章「徳とアクラシア」において検討することにして、先に進むことにしよう。(p.37)

―いきなり予想外の定義が出てきました。「善」って「欲求」のことだったの!?
ここでは「タバコ」の例を出していますが、もちろんわたしたちは「欲求」が非常に多くのばあい、わるさをするものだということを知っています。依存症にもなるものだと知っています。でもまあ、この定義に従えばソクラテスが「すべての者は善を欲している」というのも納得は納得でありますが。それも何だかトートロジーのようにもきこえますが。モヤモヤを抱えて第四章(この読書日記では後編)を楽しみにいたしましょう。

●第一巻第一章から第四章で、アリストテレスは、人間は「善きもの」を目指して行為するが、人間が求める「善きもの」には階層(ヒエラルキー)があると語っている。それは次のようにまとめられる。
,泙此現に為している行為が、それを超える別の目的のために為されるといった場合が挙げられる。たとえば、畑を耕すのは種を蒔くためであり、種を蒔くのは小麦を収穫するためである。
他方それに対して、別の行為の手段ではなく、その行為自身が目的であるような行為が存在する。テニスをする、酒を飲む、音楽を聴く、古典を読む、隣人を助ける、といった行為は一応そのようなタイプの行為である。「なぜテニスをするのか」と問われ、「楽しみのために」と答えるとしても、その答えは「テニスをする」ことから独立の行為を述べているわけではない。ただ、通常は、その行為自身が目的であるタイプの行為であっても、ある場合には、他のものの手段として為されることがある。たとえば、肥満を解消するためにテニスをするなどの場合である。
しかし以上とは別に、このような目的―手段の関係においてつねに目的であって決して手段にはならないもの、つまり「究極的な善きもの」が存在する。しかも、この「究極的な善きもの」を何と呼ぶかに関して人びとは一致しており、それを「エウダイモニア」と呼んでいるとアリストテレスは述べている(第一巻第四章、1095a18−19)。(pp.37-38)

●ギリシア語の「エウダイモニア(eudaimonia)」は、日本語では「幸福」と訳され、今日それが定着している。この「幸福」は明治以降、「倫理学」、「道徳」、「功利主義」といった翻訳語とともによく使われるようになった言葉であり、辞書を引くと、「心が満ち足りていること、仕合せ、幸い、幸運」という説明が載っている。ただ、日本語の「幸福」とギリシア語の「エウダイモニア」は、当然、まったく同義というわけではない。「心が満ち足りていることが幸福である」と日本語の辞書が説明するように、「幸福」という言葉は人びとが感じる感情を表すのに使用される。他方、ギリシア語の「エウダイモニア」は人びとが感じる感情というより、人びとが目指す「最高善」を表す表現であり、目指すものが「最高善」でないならば、「エウダイモニア」とは言いがたい。(p.39)

●そこで、日本語の「幸福」に「最高善」といった厳めしい意味を与えることには抵抗を感じる人びともいるかもしれない。しかし、日本語の「幸福」にもたしかに「最も善きもの」という意味が含まれており、われわれは「お金や地位がなくとも、幸福でありたい」と言うが、「幸福でなくとも、お金や地位が欲しい」とは言わないように思われる。(同)

――ちょっとわかってきた気分になりました。「善」と「最高善」と、ランクが違うわけですね。「善」は「欲求」「快楽」レベルのことを言うけれど、「最高善」はもっといいものだ、と。

●「最高善」と「幸福」とを結びつけるとアリストテレスの思想はソクラテスやプラトンの見解を受け継ぎながら、西洋倫理思想の大きな流れを形成しており、たとえば、「最大多数の最大幸福」を主張する功利主義思想をそのうちに位置づけることができる。他方それに対して、カント倫理学も「最高善」を求めるが、この「最高善」を「幸福」ではなく、「義務」、「正義」と結びつけており、この「義務の倫理学」も西洋倫理思想を代表する思想であると言える。(p.40)

●ここで、アリストテレスの「エウダイモニア(幸福)」の概念を考える場合、重要な二つの特性を取り上げておくことにしよう。
 第一は、ギリシア語の名詞「エウダイモニア」は「エウダイモネイン(eudaimonein)」という動詞形をもち、「よく為している(eu prattein)」、「よく生きる(eu zēn)」というかたちで行為や活動に基づいているという点である。これは、日本語の「幸福」や英語の”happy”にはない構造であり、『ニコマコス倫理学』を読む場合、最も重要な特性である。すなわち、「エウダイモニア」は「善き営み」、「善き行為」において実現するのであり、「状態」ではなく、「活動」である(第一巻第八章、1098b33-1099a3)。序章で紹介した術語を使えば、「エウダイモニア」は「デュナミス(可能態)」ではなく、「エネルゲイア(現実態)」である。(pp.40-41)

――「エウダイモニア」は「行為」と不可分の考え方なんですね。行動承認の究極目的としてのエウダイモニア、という図式を考えていたので嬉しくなってしまいました。

●ところで、明治以来わが国で親しまれてきた、「山のあなたの空遠く、<幸い>住むと人のいふ」という句で始まるカール・ブッセの詩があるが、この詩では、「幸福(幸い)」を人間が生涯を通して求めていく、「山のあなたの空遠く」にある事態として把握している。アリストテレスもソロンの言葉を引用し、死を迎えるまでは、人は幸福であったかどうかを言うことはできないと述べている(第一巻第10章、1100a10−)。このように、第二の特性として、「エウダイモニア」というギリシア語表現は「まっとうした人生」(第一巻第八章、1098a18)に対して適用されるのが基本的な用法である。(p.41)

●それでは、「まっとうした人生」に対して適用される「エウダイモニア」と「よく為している」、「よく生きる」というかたちで具体的な行為や活動と結びつく「エウダイモニア」はどのように関係するのだろうか。これは見解が分かれる難解で重要な問題である。
 私の理解では、上で指摘したように、「エウダイモニア」とはまず直面する具体的状況において「よく為すこと(eu prattein)」「のよく生きること(eu zēn)」である。そして徳を備えた人はそのようによく生きているのであり、そのような生涯を生きる人が「エウダイモニアな人」「幸福な人生」である。この点はすぐ後で主題になってくる「徳」の概念についても言えることであり、「勇気ある行為」、「正しい行為」とは具体的状況における行為であるが、それは「徳ある人」の概念を通して解明されることになる。(pp.41-42)

●アリストテレスは、ギリシア社会において伝統的に捉えられてきた「幸福」の三種類のかたちを紹介している。
,泙座臀阿蝋福を快楽だと考え、「享楽の生活(ho apolaustikos bios)」を愛好する(第一巻第五章、1095b17)。
他方、「政治的生活(ho politicos bios)」を目指す者は「幸福とは名誉である」と考える(第一巻第五章、1095b22-29)。
B荵阿法⊃人の探究、すなわち「観想活動の生(ho theōrētikos bios)」(第一巻第五章、1095b19)こそが「幸福」であると考える人びとが存在する。
 この区別はプラトンの『国家』第四巻で論じられている三種類の階層、すなわち、大衆階層、補助者(戦士)階層、支配者階層に対応している。またこのプラトンの見解はさらにピュタゴラス(前570頃)に遡ると見られている。(pp.42-43)

●ピュタゴラスの思想についてはローマ時代のキケロ(前106〜前43)がそれを伝えている。「フィロソフォス(愛知者、哲学者)とは何か」と聞かれて、ピュタゴラスはオリンピアの大祭に集まって来る人びとを三種類に分ける譬えを使って説明している。第一は人びとに飲み物や食べ物を売って「お金」を得ようとする人、第二は競技に参加して「栄誉」を得ようとする人、第三は競技をただ「観よう」とする観客である。人生においても、商業活動を通してお金を得ようとする人びと、政治活動を通して名誉を得ようとする人びと、そしてオリンピアの大祭の観客の場合と違って、数は非常に少ないが、ものごとの本質(rerum natura)を熱心に観ようとする人びとがおり、この最後の「観(テオリア)の立場」に立つ人が哲学者(愛知者)であるとピュタゴラスは語っている。(p.43)

●ピュタゴラス、プラトン、アリストテレスは最も優れた生き方を「観の立場」に立つことであると捉える点において共通している。(同)

●他方、「快楽」と「名誉」に関しては、アリストテレスはここで独自の見解を示している。
(1)まず「享楽の生活」について、アリストテレスは、それは一般大衆の選ぶ生活であり、大衆は「家畜のような生活を選び取り、まったく(欲望の)奴隷のように見える」(第一巻第五章、1095b20)と語り、「享楽の生」を「幸福な生」から除外している。
 しかし他方、「幸福」、「徳」を規定する場合には、「快楽」の重要性を強調しており、第七巻、第10巻では、彼自身の快楽論を展開している。それは行為の「よろこび」と結びつく、志向的、能動的な快楽論であり、「快楽」を受動的な感覚体験として捉える19世紀の功利主義の見解とは異なり、「快楽・よろこび」についての深い洞察を示している。
(2)また、「政治的生活」に携わる人びとは名誉を人生の目的だと考えるが、その場合、彼らは「名誉は徳に基づく」という見解を取っており、したがって、ソクラテスと同様、「節制」や「勇気」といった「徳」が「幸福」であると考えていることになる。
 それに対してアリストテレスは、徳をもっていても「最大の苦難を受けたり、この上もない不運に見舞われたりすることがあること」を指摘し(第一巻第五章、1095b32-1096a1)、「徳」は「幸福」と同一視できないことを主張する。彼の考えでは、「徳」は「幸福」と同一視することはできないが、「幸福」成立の不可欠の条件である(第一巻第七章、第八章)。この前提のもとに、第二巻から第九巻まで、「性格の徳(倫理的な徳)とは何か」を追求している。
(3)他方それに対して、アリストテレスは「観想活動」を「最も神的な魂の活動」と捉えており、「観想活動こそが最高善(幸福)である」と考えている。(pp.42-45)

――「享楽の生」は幸福な生ではないのだそうです。ワイドショーみている日本の大半の人はそれでしょうかネ・・

●このように、古代ギリシア人たちが抱いてきた「幸福」について、アリストテレスは「実践」と「観想」とを区別する立場から、ソクラテスやプラトンとは異なる独自の見解を示している。すなわち、市民生活における「実践活動」の「徳」と、「観想活動」の「徳」、この魂の二つの活動を通して最高善としての「幸福」に至る道を示していると言える。(略)この「観想活動」と「実践活動」の関係をどう捉えるかは『ニコマコス倫理学』全体の思想をどう把握するかという重要な問題であり、第六章「観想と実践」でくわしく検討することにしたい。(p.45)

●第一巻第七章の議論。
 まず、「幸福=最高善」とは、他のさまざまな行為が、それを目指す「究極的な(teleion)目的」であることが示されている。
 「幸福」の究極性(teleiotēs)は次のように規定されている。
 
 なぜなら、われわれは幸福をつねにそれ自体のゆえに選び、他のもののゆえに選ぶことはないからである。他方、名誉、快楽、知性、そしてすべての徳に関しては、それらをわれわれはそれ自体のゆえに選ぶとともに、……それらを通じて幸福を獲得できるだろうと考えて、幸福のためにそれらを選ぶのである。逆に、それらのために幸福を選ぶというような人はだれもいないし、他のもののゆえに幸福が選ばれる、といったことはありえない。(第一巻第七章、1097a34-b5)

 この行為選択の究極性(終極性)ということが「幸福=最高善」の基本的な意味である。(p.46)

●しかし同時に、「幸福」は「究極的」であるゆえに、「自足性(autarkeia)」という特性を具えている
 この「幸福」の「自足性」は次のように規定されている。

 自足的なものを、われわれはそれだけで生活を望ましいもの、まったく欠けるところのないものにするようなものと規定する。……また、幸福はすべてのもののうちで最も望ましいものであることによって、(他のものによって)加算されえないものであるとわれわれは考えている。加算されうるとすれば、(他の)善いものが僅かでもくわえられれば、いっそう望ましいものになるのは明らかだからである。(第一巻第七章、1097b14-18)

 ここでは、「加算されえないもの(mē sunarithmoumenēn)という概念を用いて、「幸福」の「自足性」を説明している。「加算されうるもの」とは部分的な善であって、功利主義が主張するような量的に規定できるものである。しかし、アリストテレスは「幸福+他の何か」といったものが「幸福」よりも優先することは不可能であると主張し、「幸福の自足性」を説明している。(p.47)

●「幸福=最高善」の概念が含む「究極性」と「自足性」に対応して、アリストテレスの「幸福」の概念をどのように捉えるべきかという議論があり、従来、「幸福」を「支配的目的(dominant end)」と解釈するか、それとも「包括的目的(inclusive end)」と解釈するか、について論争がなされてきている。
 
●幸福を「支配的目的」とする解釈は古くから主張されてきた。「支配的目的」とは「さまざまな優れた活動をそのうちに含む生き方を特徴づけるもののうち、特定の支配的な活動を目的とする」という意味である。具体的に言えば、「幸福」とは「最も神的な魂の活動」としての「観想活動」であるという把握である。(略)
 それゆえ、「支配的解釈」は、われわれの行為は「目的―手段」の階層を形成しており、その究極の目的が「観想活動」としての「幸福」であるという見解である。だがその場合、「観想活動」と「実践活動」の間にはたして「目的―手段」の関係があるかどうかが大きな問題である。(pp.48-49)

●他方、「幸福」の「包括的目的」とは、「さまざまな優れた活動や事物をそのうちに含む生き方全体を目的とする」という意味であり、「幸福」とは、「それ自身のために追求されるすべての善」(テニスをする、音楽を鑑賞する、隣人を助ける、その他、徳に基づく諸々の活動)を含むものだ、ということになる。「幸福」を包括的目的と解する「包括的解釈」の重要な根拠となるのは先に紹介した「幸福」の「自足性」の規定である。すなわち、「幸福」の概念には、そこに何ら「加算する必要はない」という意味が含まれている、という把握である。(p.49)

●アリストテレスは第一巻第七章の後半(1097b22-)では、「人間の固有の機能(エルゴン)とは何か」という問いを通して「最高善=幸福」の問題を考察している。(p.50)

●“ここで望まれているのは、幸福が何であるかをより明確にすることである。おそらくこうした明確化は、人間の「エルゴン(機能)」が把握されるならば達成されるだろう。なぜなら、笛吹きや彫刻家などすべての技術者にとって、また何であれ、一般に何か特定の機能と行為が属しているものにとって、「善」すなわち「よく」ということがそうした機能に認められると考えられるように、人間にとってもまた、もし何か人間としての機能というものがあるとすれば、同じようにそれに「善」すなわち「よく」を考えることができるからである。”(第一巻第七章、1097b23-28)(p.51)

――エルゴンという新しい概念が出てきました。これは「強み」の概念と似ていないかな?とアンテナがたつわたしです

●「笛吹き」、「大工」、「靴職人」といった言葉は社会におけるその役割、機能を表す言葉であり、そのような役割・機能を立派に果たす人は「善き笛吹き」であり、「善き大工」である。また身体の部分である「眼」、「手」、「心臓」、「腎臓」といった器官にも、固有の機能があり、その能力と働きが存在している。
 では、社会における職業や役割、あるいは人間の個々の器官がそれぞれ固有の機能をもつように、「人間」や「狼」といった存在者もその固有の機能をもっていると言うことができるだろうか。もしもっているとすれば、「人間として善き人」、「善き人間」とはどのような者であるかが規定され、そこから「幸福な人間」とはどのような人間であるかが明らかになろう。アリストテレスは「人間」や「狼」といった自然種にも固有の機能(エルゴン)が存在すると考えており、「機能からの議論(エルゴン・アーギュメント)」と呼ばれる説明を行っている。(p.52)

●アリストテレスは、「人間に固有な機能としてのロゴス(理性、分別)の働き」を、次のように取り出してくる。

 生きていることは植物にも共通することが明らかである。しかし、われわれが求めているのは人間に固有の機能である。それゆえ、栄養的生や成長にかかわる生は除外されねばならない。次に来るのは感覚的な生ということになるが、これもまた馬や牛、その他すべての動物と共通の生である。すると残るのは、人間において「ロゴス(理性)」をそなえている部分によるある種の行為的生ということになる。(第一巻第七章、1097b33-1098a4)

 このように、「人間固有な機能(エルゴン)」は魂(プシュケー)の「ロゴス(理性)」を有する「部分による行為的生」、すなわち「ロゴスに即した(meta logou)魂の活動」ということになる。(pp.52-53)

●続いて、アリストテレスは「人間の機能がロゴス(理性)に即した(meta logou)魂の活動である」ということから、「幸福とは徳(卓越性)に基づく(kata aretēn)魂の理性的活動である」ということを導いていく。
たとえば、「竪琴奏者」の機能と「すぐれた(卓越した)竪琴奏者」の機能はその種類において同じである。そして、一般に「x」の機能と「すぐれた(卓越した)x」の機能が種類において同じだとすれば、「ロゴスに即した魂の活動」という表現に関しても同様のことが言える。
すなわち、卓越した(徳ある)人の「ロゴスに即した魂の活動」は卓越していない(徳のない)人の「ロゴスに即した魂の活動」よりもみごとな仕方でその活動を果たすことになる。それゆえ、「人間としての幸福とは徳に基づく(kata aretēn)ロゴスに即した(meta logou)魂の活動である」ということになる。
以上が私の解釈であり、私は「徳に基づく」と「ロゴスに即した」を区別して考えている。他方、「普遍主義的解釈」としては、「幸福」という概念は「ロゴス(理性)」を通して「普遍的に」規定されると解釈する。私は本書において一貫してこれに反対し、「幸福」、「徳」の概念についての「内在主義的、個別主義的解釈」を取っている。(pp.53-54)

――このあたりわたし流に総合すると、機能(エルゴン≒強み)を発揮しながら良い仕事をすることを幸福と言っているようであり、著者は「幸福は強みを発揮することにある」と言っているようにもとれます


●以上から、アリストテレスは「機能からの議論(エルゴン・アーギュメント)」を次のように締めくくる。
 “もし徳が複数あるならば、人間としての善(幸福)とはそのなかの最善の、最も完全な徳に基づく魂の活動であるということになる。しかし、その活動には、「まっとうした人生において」という条件がさらにつけ加えられねばならない。というのは、一羽のつばめが春を告げるのでもなければ、一好日が春をもたらすのでもないからである。同様に、一日や短い時間で、人は至福にも幸福にもならないのである。(第一巻第七章、1098a17-20)(p.55)

●この引用の最初の文章については研究者の解釈が分かれているが、しかし、私は「エルゴン・アーギュメント」を通して導かれる「幸福とは徳に基づく魂の理性的活動である」という命題は、「実践活動」の徳のみならず「観想活動」の徳も含んでいると解釈する。それゆえ、「もし徳が複数あるならば、幸福(最高善)とはそのなかの最善の、最も完全な徳に基づく魂の活動である」という文章における「徳」についても、「実践活動」の徳と「観想活動」の徳を含んでいると解釈する。(p.56)

●また、アリストテレスは「まっとうした人生において」という条件を付けている。幸福とは状態ではなく、活動である。しかし、ある時点で「幸福である」というのは充分ではない。「正しい行為」とは「その状況において、徳を備えた人が行うような行為」であり、そのような行為を為して徳ある人として生涯を生きる人が「幸福な人である」と言えるのである。(同)

●ソクラテスにとっては、「徳」と「幸福」は同一であり、徳を備えた人はいかなる状況においても不幸にはなりえない。プラトンが『クリトン』や『パイドン』で見事に描いているように、ソクラテスはこのことを身をもって実証したといえる。
 それに対してアリストテレスは、「徳」と「幸福」は同一だとは考えない。神ならぬ人間は有限者であり、身体をもつ存在である。したがって、徳をもっていても最大の苦難を受けたり、この上もない不運に見舞われたりすることが生じてくる。アリストテレスはソクラテスとは異なり、そのような人びとが幸福であるとは考えていない。その意味で、アリストテレスの「幸福」観は多くの人びとの見解と一致していると言える。(pp.56-57)

●アリストテレスは「徳」と「幸福」を同一視しないが、しかし、「徳に基づく魂の活動」が「幸福」であるための不可欠の条件であると考えている。彼は、第七章で「人間のエルゴン」の考察を通して導出した「幸福とは徳に基づく魂の理性的活動である」という見解が「エンドクサ」、つまり人びとが抱いている定評ある見解と一致することを、続く第八章で示そうとする。(第一巻第八章、1098b20-23)(p.57)

●また、最高善としての「幸福」が「状態(ヘクシス)」ではなく「活動(エネルゲイア)」であることの理由を、次のように語っている。

 “なぜなら、「状態」は人に現にそなわっていても、たとえば眠っている人や、他の別の仕方でまったく不活発な人のように、まったく善をなし遂げないということがあり得るが、しかし、「活動」にはそうしたことがありえないからである。すなわち、徳に基づく活動は、必然的に何かを為し、しかもそれをよく為すはずだからである。(第一巻第八章、1098b33-1099a3)(pp.57-58)

――ここも、「行動承認」という概念を補強するものとして記憶しておきたい一節です。欲張りな言い方をするなら、去年からヘーゲル―ホネット/ハーバーマスのラインのドイツ哲学を根拠として「承認」を論じてきましたが、そこでは大きな「承認」という概念はあるものの残念ながら「行動承認」の根拠は得られなかったのです。しかし、ヘーゲルが言ってくれなくてもホネットが言ってくれなくても、アリストテレスが「行動承認」を担保してくれてるじゃないか、という見方もできるわけです。
まあ陽明学もありますけどね―。

●以上のように、「魂」の卓越性である「徳に基づく活動」が「幸福」の不可欠の条件である。否、私の理解では、「幸福」とは具体的な文脈における特定の徳に基づく魂の理性的活動そのものである。同時に、この幸福が成立するには、「魂」のみならず「健康」その他の身体の状態によって左右され、また社会生活のためにはある程度の富が必要であり、さらに家族や友人も必要である。われわれはそのような条件の下で、徳に基づく魂の活動を発揮しているのであり、それが人間の幸福であると言えよう。(pp.58-59)

●“(幸福な行為の)多くが、友人や富や政治権力を道具のように用いることによって行われる。また、欠けていると幸福を曇らせるようなものもある。たとえば、生まれの善さや子宝に恵まれること、容姿の美しさなどがそうである。容姿があまりにも醜かったり、生まれが賤しかったり、また孤独であったり、子どもがいなかったりすれば、人は幸福になりにくいのである。また子どもや友人がいてもその者たちが劣悪だとしたら、あるいは彼らが善い人物だとしても死んでしまうとしたなら、おそらく人は幸福になれないのである(第一巻第八章、1099a33-b6)。(p.59)


第二章 人はどのようにして徳ある人へ成長するか

●「徳」の考察にあたって、あらかじめ、使用するいくつかの基本的な用語の意味について述べておこう。まず、人間の魂が「ロゴスをもつ部分」と「ロゴスをもたない部分」に分けられる。ここで、「ロゴス(logos)」の訳として、「ことば」、「ことわり」、「理性」、「分別」、「道理」、「規則」等々が考えられるが、日本語の「理性」「分別」は普通、心的能力を意味し、他方、「道理」「規則」は心的能力によって捉えられる側の事態を表す。そこで、文脈によって、「理性(ロゴス)」、「道理(ロゴス)」といった表記を使うことにしよう。
 この「理性(ロゴス)をもつ部分」と「理性(ロゴス)をもたない部分」は明確な二元論的な区別ではない点に大きな特徴がある。アリストテレスは、「理性(ロゴス)をもたない部分」のうち「欲求的な部分」を栄養摂取のような植物的な部分とは区別して、父親の言葉に従うように「道理(ロゴス)に耳を傾ける部分」として捉えている(第一巻第十三章、1103a3)。また「欲求(情念)」と「理性(ロゴス)」はわれわれの成長とともに展開していき、「欲求(情念)」には「理性(ロゴス)」の働きが浸透していくと捉えられている。この点はアリストテレスの「徳倫理学」を考える場合、重要である。
 この魂の区別に応じて、「道理(ロゴス)に耳を傾ける部分」の徳は「エーティーケー・アレテー(ēthikē aretē)」と呼ばれ、他方、「本来の意味で理性(ロゴス)をもつ部分」の徳は「ディアノエーティーケー・アレテー(dianoēthikē aretē)」として区別される。「エーティーケー・アレテ―」は「倫理的な徳」とも訳されるが、「エーティーケー(倫理)」の基になっているのは「エートス(性格、人柄)」、つまり、「勇気がある」、「温厚である」、「臆病である」、「親切である」といった特性であり、本書では「エーティーケー・アレテー」を「性格の徳」と訳すことにする。また「ディアノエーティーケー・アレテー」の具体例は「学問的知識」、「技術」、「思慮」、「知性」等であり、ここでは「思考の徳」と訳すことにしよう。(pp.61-63)

――「性格の徳」。現代のポジティブ心理学に通じそうな言葉が出てきました。また子育て、教育の世界で最近喧しい「非認知的スキル」「性格の強み」にも通じそうですね。

●古代ギリシアにおいて、人びとは「徳は生得的なものか、それともしつけや訓練を通して備わるものか、それとも教室での教育を通して身につくようになるのか」と尋ねてきた。ソクラテスは「徳が何であるかを知らないうちは、徳が教えられるかどうか、知りえない」と答え、まず何よりも、「徳とは何か」を知る必要があることを強調する。(p.64)

●このソクラテスの理性主義に対して、アリストテレスははっきりと異なる道をとっている。アリストテレスはソクラテスのような仕方で「徳とは何か」を尋ね、その定義を求めるのではなく、逆に「徳がどのようにして習得されるか」を問題にすることを通して「徳とは何か」に答えようとする。(略)ただ、アリストテレスはこの徳の学習における魂の発達の初期段階により大きな注意を払っており、教室での徳の教育のためには、「聴講者の魂は習慣によってあらかじめ、美しい仕方でよろこび、かつ嫌うように準備されていなければならない」ことを強調する。(第十巻第九章、1179b24-26)(同)

●また実践的知識を理論的知識から区別するアリストテレスにとって、肝心なのは「徳とは何か」を知ることではなく、「徳ある(善き)人」になることであり(第二巻第二章、1103b27-28)、この徳ある人へ向けての成長にとって、まず「正しい感受性」を習得することが重要になってくる。(pp.64-65)

●第二巻第一章では、「性格の徳がどのようにして形成されていくか」に関する基本的論点が示されている。

 “「性格の徳」は習慣から形成されるのであり、「性格の(エーティーケーēthikē)」という呼び名もこの「習慣(エトスethos)」から少し語形変化してつくられたのである。
 それゆえ、明らかにまた、「性格の徳」はいずれも自然によってわれわれにそなわるものではない。というのは、自然によって存在するものはどれも、他のあり方をするように習慣づけられることはできないからである。……
 それゆえ、「性格の徳」がわれわれにそなわるのは、自然によってではなく、また自然に反してでもなく、われわれがそれらの徳を受け入れうる資質をもっているからであり、われわれは習慣を通じて完全なものになるのである。……
 たとえば、人は家を建てることによって建築家になり、竪琴を弾くことによって竪琴奏者になるのである。これと同じように、われわれは正しいことを行うことによって正しい人になり、節制あることを行うことによって節制ある人になり、また勇気あることを行うことによって勇気ある人になるのである。(第二巻第一章、1103a17-b2)(傍点引用者)

 このように「同じような活動の反復」(第二巻第一章、1103b21)という道筋を通って何が正しいかを学び知る。(pp.65-66)

●アリストテレスは、行為が「認識論的な作用」をもっていることを指摘し、次のように忠告している。

 そのような行為を為さなければ、だれも善き人になることはできないだろう。それなのに、多くの人びとは、こうした行為を行うことなく、議論に逃げ込み、議論することが哲学することであり、議論によってすぐれた人間になれると思いこんでいる。(第二巻第四章、1105b11-14)(p.66)

――これはキツイ。哲学カフェ花盛りですしわたしもよのなかカフェを40回もやりましたから、議論は有意義だ、哲学に至る道だ、とつい思いたくなります。でもアリストテレスは行為こそが大事だと。「行為が認識論的な作用をもっている」この指摘、興味深いですね。

●アリストテレスは、ここで、はっきりとしたかたちで、「徳は知なり」とするソクラテスの理性主義に立ち向かっていると言える。だがもちろん、彼は反理性主義を取っているわけではなく、ただソクラテスとは異なり、「徳」の普遍的な定義を求めるというかたちで、「徳」を規定することはできないと考えているのである。……重要なのは、その「徳ある人」がどのようにして成立するかである。そのためには、幼児期において「正しい感受性」をもつようにしつけておく必要があり、「正しい法」のもとで育てられなければならないと考える。(pp.66-67)

――ここでいう「正しい感受性」とは、なんでしょうか。

 p.71に「喜ぶべきものを喜び、嫌うべきものを嫌う」という言葉が出てきます。ここでまた、「なにが『喜ぶべきもの』なの?なにが『嫌うべきもの』なの?」という問いが出てきそうです。
 わたしの勘では、「嫌うべき」はたとえば不誠実だったり怠惰だったり、不道徳なことをいうのかな?と思ったりしますが、さて。


●“行為に伴って生じる快楽や苦痛は人間の性格の性向を示す指標と見なすべきである。なぜなら、肉体的な快楽を差し控え、それによろこびを感じる人は節制ある人であり、それを嫌がる人は放埓な人だからである。また恐ろしいことを耐え忍び、それによろこびを感じる人、あるいは少なくとも苦痛を感じない人は勇気ある人であり、苦痛を覚える人は臆病な人である。つまり、「性格の徳」は、快楽や苦痛にかかわるのである。……
 したがって、プラトンが主張するように、よろこぶべきものをよろこび、苦しむべきものを苦しむようにわれわれは若い頃から何らかの仕方で指導される必要があり、それこそが正しい教育なのである。(第二巻第三章、1104b3-13)(p.70)

性格の徳とも関係することであるが、喜ぶべきものを喜び、嫌うべきものを嫌うことが最も重要なことであると考えられる。というのは、快楽と苦痛は、われわれの人生全体を貫いており、徳と幸福な生き方にとって決定的な意義と力をもつからである。(第一〇巻第一章、1172a21-25)(p.71)

――ここは、現代の遺伝子学や各種人格分析ツールや発達障害の有無の知識などに親しんだわたしたちからすると、何か言いたくなる箇所ですね。
 「勇気」、蛮勇はNOだけど(でもわたしは結構蛮勇っぽいけれど)生来臆病な人が訓練によって、あるいはその人の価値観に準ずるために勇敢に振る舞うときというのは、崇高にみえる。時々そういう場面、人に出会います

――苦痛がわたしたちを導いている、と主張される方もいます。わたしたちの動機付けは苦痛を回避することなのだと。とても気の毒になりましたが、わたしの仮説では、その方は少しASDのけがあって、ご両親も遺伝でその傾向があり、苦痛を人一倍感じやすく、苦痛によって導く子育てをしておられたんではないかと思います。こんなことばかり言ってますねわたしは。

●哲学の歴史においては、一九世紀の功利主義のように、「快楽は活動の結果得られる感情もしくは感覚である」という見解がよく知られている。快楽は計量可能であり、二つの快楽のどちらが大きいかを計ることができる。そこで、われわれの活動の価値は、この快楽という実体をいかに多く生み出すかにおって決められると主張されてきた。アリストテレスの快楽論はそれとはまったく対立する見解である。
 アリストテレスによれば、快楽はさまざまな活動に伴い、またそれぞれの活動の相違に応じてその快楽は質的に異なってくる。詩を読むことによって得られる快楽を、幾何学を考えることによって得られる快楽と置き換えることはできない。(pp.71-72)

●アリストテレスは「快楽はその活動を完全なものにする」と主張し次のように述べている。
“なぜなら、活動はそれ固有の快楽によって高められるからである。事実、快楽とともに活動する人たちは、各自のそれぞれの分野の仕事をいっそうよく判断し、いっそう正確に扱うのである。たとえば、幾何学の研究によろこびを覚える人たちは幾何学者になり、幾何学の問題のそれぞれをいっそうよく理解するのである。同様にして音楽の愛好者も、建築の愛好者も、その他それぞれの分野の愛好者たちも、自分たちに固有の仕事によろこびを覚えることによって、その仕事に上達するのである。(第一〇巻第五章、1175a30-35)(p.72)

●そして「活動」と「快楽」の関係を次のように述べている。
“それゆえ、完全で至福な人の活動が一つあるにせよ、複数あるにせよ、そうした活動を完全なものにする快楽こそ、第一義的に、「人間の快楽」と呼ばれうるものである。そして他のさまざまな快楽は、それらに対応する活動の種類に応じて、第二義的に、あるいはまた、はるかに劣った仕方で、「人間の快楽」と呼ばれうるのである。(第一〇巻第五章、1176a26-29)
 以上のように、功利主義の快楽論が快楽を受動的な感覚状態と捉えるのに対して、アリストテレスは、快楽は能動的活動に、その活動から切り離せないかたちで結びついていると考える。そして、快楽はその活動を完全なものにすると主張する。(pp.72-73)

――このくだりは、やはり「強み」や「価値観」の概念と照らし合わせながら考えると理解しやすいようです。自分の強みや価値観と結びついた活動をおこなっているときは、たとえ少々の困難がともなったとしても喜びを感じられるでしょう。献身的な医療者が人を救う行為のように、根っからの教育者が教育を行う行為のように。

●快楽は自然的欲求の充足において生じる快楽にはじまり、徳ある行為の遂行の「よろこび」に至るまで、きわめて広い幅と深さをもつ概念である。(p.73)

●それと同様に、「カロン(kalon)」というギリシア語は「美しい、見事な、立派な」といった意味をもつ、大きな広がりをもつ概念であり、また、しつけ、訓練、体験を通してその概念は深められていく。この点は美術や音楽といった芸術の事例を考えてみれば明らかである。
“徳に基づく行為は美しく、また美しいことのために為される。だから、気前のよい人もまた、美しいことのために適正にものを与えるのである。なぜなら、気前のよい人は、しかるべき人びとに、しかるべき額を、しかるべきときに……与えるはずだからである。(第四巻第一章、1120a23-26)(pp.73-74)

●勇気、節制、親切、等々の行為に共通しているのは、それらがすべて美しく、立派であるということであり、それを「美しい、立派な行為」と感知するから、それを為すのであり、またそれゆえに、その行為に「よろこび」を感じるのである。したがって、「美しい、立派なもの」を見抜く能力とそれを「よろこぶ」能力は「性格の徳」を習得したかどうかの一つの指標であると言えよう。(p.74)

●アリストテレスは「徳に基づく行為は美しく、また美しいことのために為されるものである」(1120a23-24)と述べているが、行為者は最終的に、自己が為そうとする行為をカロン(美しい、立派な)と認めるから行為するのであると考えている。このように「カロン(美しい、立派な)」という概念は「勇気」、「節制」等々の「性格の徳」と並ぶ概念ではなく、「性格の徳」のすべてに共通する特性であり、具体的な状況において、「性格の徳」の遂行をうながす働きをもっている。またこの「カロン(美しい、立派な)」という判断の背景には、本章でこれまで説明してきた、幼児期以来の「徳の価値空間」のなかでのしつけや訓練が存在していると言えよう。(p.75)

●「徳」の規定は、アリストテレスの有名な「類と種差」による定義のかたちを取っている。すなわち、「人間」を定義するのに、「動物」というその類に種差である「理性的」を加えて、「人間とは理性的動物である」というかたちを取る定義である。
 まず、徳の「類」の候補として「情念(パトス)」、「能力(デュナミス)」、「性向(ヘクシス)」が挙げられ、そのうちで、「情念」と「能力」は「徳」の類にはなりえないことが示される。第一に、「情念」とは「欲望、怒り、恐れ、自信、ねたみ、よろこび、愛、憎しみ、憧れ、羨望、憐れみ、などの感情」(第二巻第五章、1105b21-23)であるが、これらの情念において、われわれは「動かされている(キネースタイ)」のであり、「怒ったり」、「恐れたり」する情念をもつこと自体は、「徳」や「悪徳」とは異なり、賞賛したり、非難したりする対象にはなりえない。第二に、賞賛や非難の対象になりうるためには「行為選択」という要因を含む必要があるが、「情念」や「能力(デュナミス)」にはそれが欠けている。「能力」、たとえば、医術の知識は病気を治す能力をもつが、同時に病気を作り出す能力をもっている。すなわち、「能力」は正反両方にかかわるのであり、したがって、「能力」は行為選択の機能をはたしえないと言える。(pp.76-77)

●それゆえ、「性格の徳」を規定する場合、その「類」に当たるのは、「情念」や「能力」ではなく、情念や行為にかかわる「性向」である。すなわち、「性格の徳」とは「情念や行為に対して正しい仕方で対応する性向である」ということになる。またその場合の「性向」とは、生得的、自然的な性向ではなく、しつけや訓練を通して獲得された性向、つまり「第二の自然」である。(p.77)

――うーん、ここも、読みすぎとお叱りを受けそうだけれど成人に対して「行動承認」の訓練を施すことが「徳ある人」を育てることにつながる、というふうに読めてしまう……

●“徳とは「選択にかかわる性格の性向(ヘクシス・プロアイレティケー)であり、,修遼楴舛呂錣譴錣譴箸隆愀犬砲ける「メソテース(中庸、中間)」にあるということになる。△修両豺腓涼耆如蔽羇屐砲箸蓮◆崙四(ロゴス)」によって、しかも思慮ある人が中庸(中間)を規定するのに用いる「道理」によって定められるものである。すなわちそれは、二つの悪徳の、つまり過剰に基づく悪徳と不足に基づく悪徳との間における中庸(中間)なのである。(第二巻第六章、1106b36-1107a3)(p.77)

この徳の規定は古くから「中庸説」と名づけられ、アリストテレスの「徳倫理学」の中心を占める扱いを受けてきた。(p.78)

●アリストテレスは「性格の徳」を捉えるものとしては,鉢△本質的な規定であると考えており、,鉢△楼貘硫修靴燭發里任△襪、核心部分は△竜定である。ここで、アリストテレスは「性格の徳」を(思考の徳である)「思慮」との関係を通して規定しており、この「思慮」を「思慮ある人の判断」を通して捉えている。(p.80)

● 崙舛遼楴舛呂錣譴錣譴箸隆愀犬砲ける中庸」とは、「中庸」の概念が「行為の主体に相関的に決まってくる」という意味として解釈される。たとえば、運動選手にとっての適切な食事の量と普通の人びとにとっての適切な食事の量とは当然異なってくる。すなわち、中庸(中間)の普遍的な尺度は存在しないのであって、行為者に相関的な仕方で「中庸(中間)」は規定されると解釈される。
 さらに、「行為者が置かれた状況」に相関的であるとも考えられる。すなわち、,竜定は「行為者が置かれた状況によって、その状況における中庸が決まってくること」を意味していると解釈すべきであるように思われる。(p.81)

●“「性格の徳」は情念と行為にかかわるものである。そして、情念や行為には過剰と不足、中間ということが定められている。たとえば、恐れること、大胆であること、欲求すること、怒ること、憐れむこと、一般に快楽を覚えたり、苦痛を感じたりすることには、多すぎることや少なすぎることが認められるのであって、どちらの場合もよくないのである。けれども「しかるべき時に」「しかるべきものについて」、「しかるべき人びとに対して」、「しかるべき目的のために」、「しかるべき仕方で」こうした情念を感じることは、中間の最善の状態によるのであり、これこそまさに徳に固有なことなのである。(第二巻第六章、1106b16-23)(pp.81-82)


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 ここまでが本書『アリストテレス「二コマコス倫理学」を読む――幸福とは何か』の第一章、第二章です。大体本書の前半部分に当たります。言葉の定義を追っているうちにもうワード18ページになってしまいました。

 予告した通り本当に著作権問題になりそうなレベルです。

 なにごともちょっと新しい分野のものに手をだすと丸写しモードで頭に入れたくなるんですよねーー。本書のようなものはもっと若い頃に読めばよかったな。

 しかし、去年も偶然のお出会いでヘーゲル+ホネットにはまり、いっぱし「隠れフランクフルト学派」を名乗るようになってしまいました。(当たるを幸い批判しまくっている行動パターンはホネットよりはハーバーマスの流儀です)

 今年はギリシア哲学との出会いの年になるんでしょうか・・・




 1つ前の記事で「小保方晴子さんは、『研究不正』をした人です」と書き、それについて「研究の世界での判決のようなものが出ていますから」とも言いました。

 で、その「判決」のところをあまり詳しく言っていませんでしたので、それを少し詳しく書いた、Kindle本の中の一節を今日はご紹介しようと思います。ここは、ブログ連載では触れていなくて、Kindle本化するにあたり加筆したところです。

 第四講2.2)、「理研調査委報告書でみる、小保方さんの「捏造」「研究不正」という項目。

 Kindle本をダウンロードしてくださった方も、この箇所までは読んでくださらなかったんじゃないかなー。

 親しい友人と話していますと、今も「小保方さんのあのSTAP論文は単純ミスが重なったんじゃないの?」という見方に出会います。

 いえ、「公式に認定された事実」からすると、STAP論文は捏造だらけ、真っ当な部分がほとんどないような論文だったんです。そして10数か所も認定された画像の捏造あるいは間違い(不正とは断定できないもの)の責任はすべて小保方さんにあります。いわば「作りまくった」んです。そんなこんなで、「公式に認定された事実」と、「一般に信じられていること」とのギャップにがく然とします。

 その「公式に認定された事実」が、今からみる「理研調査委報告書(桂報告書)」です。理研側の文書やんけ、とは言わないでください。ちゃんとした外部専門家による調査委であり、この作成にあたっては小保方さんにもヒアリングし、小保方さんも少なくとも2つの捏造を自分がやったことを認めています。もちろん弁護士も入っています。

 これは、「研究不正」の世界で一般に判決のようなものとして通用するものであり、さすが敏腕弁護士を4人も抱える小保方さんもこの文書に関して異議申し立てをしていません。ですので、この文書に書いてあることは「事実」として前提としてよいのです。

 ここまで、よいでしょうか?

 最近でもこの「桂報告書」の内容があまりにも一般に知られていないことを知りました。小保方さんは、ここで認定された事実のほとんどを『あの日』には盛り込まず、ただ「ES細胞混入は自分ではない」の部分だけを主張しています。

 それだけをみると、「ES混入をしていない小保方さんは、潔白なんだ。不正なんてなかったんだ、全部冤罪だったんだ」とみえてしまうかもしれません。

 しかし、ES細胞混入以外の実にたくさんの「捏造」および「不正と断定できないがグレーの箇所」があり、その責任者は小保方さんなのです。ぜひ、そのことはブログ読者の皆様には知っていただきたいのです。
 
 それではその内容をご紹介しましょう―。


(以下Kindle本『社会人のための「あの日」の読み方』第四講2.2)
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2) 理研調査委報告書でみる、小保方さんの「捏造」「研究不正」

 今度の報告書は前回よりボリュームが多めです。A4、32ページのPDFです。
2014年12月25日、「研究論文に関する調査委員会」(桂勲委員長)が発表した「研究論文に関する調査報告書」。
http://www3.riken.jp/stap/j/c13document5.pdf

 ちなみに同じ内容のスライド資料はこちらです。24ページのもの。こちらのほうが要点がわかりやすいかもしれません。

http://www3.riken.jp/stap/j/h9document6.pdf

 ここでは、まず連続して「ES混入」の事実を突きつけます。これは各種解析により動かせないところです。
●STAP幹細胞FLSおよびFI幹細胞CTSは、ES細胞FES1由来である(pp.4-7)
●STAP幹細胞GLSは、ES細胞GOF-ESに由来する(pp.7-8)
●STAP幹細胞AC129は、129B6F1マウスから作製された受精卵ES細胞に由来する(pp.8-10)
●STAP細胞やSTAP幹細胞由来のキメラはES細胞由来である可能性が高い(pp.10-11)
●STAP細胞から作製されたテラトーマは、ES細胞FES1に由来する可能性が高い(pp.11-13)
 しかしだれがその混入を行ったかについては、
「若山氏の聞き取り調査から、当時のCDB若山研では、多くの人が夜中にこの部屋(インキュベーター)に入ることが可能だった。つまり…多くの人に混入の機会があったことになる。」(p.14)
「小保方氏をはじめ、いずれの関係者も故意又は過失による混入を全面的に否定しており、…委員会は、誰が混入したかは特定できないと判断した。」(p.15)
と、特定を避けました。
 このあと、マウスの系統が論文記載のものと異なっている疑義、FI幹細胞のRNA-seqのデータが二種類の細胞種を含んだサンプルに由来する指摘などが提示されます。
 これについての評価。
 「小保方氏が様々なバックグラウンドの細胞を寄せ集めてRNA-seq解析、ChIP-seq解析を行ったことは自明であり、…本来比較対象とならないデータを並べて論文に使用したことは不正の疑いを持たれて当然のことである。しかし、聞き取り調査などを通じて小保方氏は「条件を揃える」という研究者としての基本原理を認識していなかった可能性が極めて高く、意図的な捏造であったとまでは認定できないと思われる。」(p.17)

「一方、FI幹細胞データに関しては当初の解析結果が同氏の希望の分布をとらなかったこと、それにより同氏が追加解析を実施していること、当初解析結果と追加解析結果で使用したマウスの種類も含め結果が異なること、複数細胞種を混ぜた可能性が高いこと(故意か過失かは不明)から不正の可能性が示されるが、どのようにサンプルを用意したかを含め同氏本人の記憶しかないため、意図的な捏造との確証を持つには至らなかった。よって、捏造に当たる研究不正とは認められない。」(同)
 とこのように、「不正が疑われるが証拠がなく証明ができない、よって研究不正とは認められない」という箇所がこのあとも非常に多いのです。なんだかイライラする結論ですネ。
 調査報告書のこのあとのくだりでも
「小保方氏にオリジナルデータの提出を求めたが、提出されなかった。」
「オリジナルデータの調査ができなかった。」
という文言が6回出てきます。このことは、調査報告書のまとめの部分で、

 第二は、論文の図表の元になるオリジナルデータ、特に小保方氏担当の分が、顕微鏡に取り付けたハードディスク内の画像を除きほとんど存在せず、「責任ある研究」の基盤が崩壊している問題である。最終的に論文の図表を作製したのは小保方氏なので、この責任は大部分、小保方氏に帰せられるものである。(p.30)

という厳しい指摘につながっています。
 追及逃れのために元データを提出しなかったのか。それともそもそも実験を行っていないのか。それは不明です。
 そして、明らかな不正と認定されたのは以下の2点。

研究論文に関する調査委員会「調査結果報告」スライドp.21
(1)Articleの論文のFig.5c 細胞増殖率測定のグラフにおいて、ESとSTAP幹細胞の細胞数測定のタイミングが不自然な点。(pp.17-18)山中伸弥教授らのiPS細胞の論文のグラフと酷似しています。
ここでは実験をしたとされる時期に3日に1回実験ができた時期が、出勤記録と照合したところ見つからなかったとあります。
小保方氏は聞き取り調査で、若山氏から山中教授らのような図が欲しいと言われて作成したと説明したそうです(若山氏もそうしたやりとりについては認めた)。
このことの評価として、
この実験は行われた記録がなく、同氏の勤務の記録と照合して、Article Fig.5cのように約3日ごとに測定が行われたとは認められない。……同氏が細胞数の計測という最も基本的な操作をしていないこと、また希釈率についても1/5と説明したり、1/8から1/16と説明したりしていること、オリジナルデータによる確認もできないことから、小保方氏の捏造と認定せざるを得ない。
…小保方氏によってなされた行為はデータの信頼性を根底から壊すものであり、その危険性を認識しながらなされたものと言わざるを得ない。よって、捏造に当たる研究不正と判断した。(p.18)
大変に厳しい言葉ですね。
そしてもう1点、不正と認定された箇所があります。

同上 p.23
(2)Article論文のFig.2cメチル化実験の疑義。細胞は分化するとメチル化し、それが初期化すれば脱メチル化を起こします。細胞が初期化しており脱メチル化しているかどうかを調べるのは、その細胞が多能性を有しているかどうかをみるための方法の1つです。
この図ではメチル化を示す黒丸および白丸の整列に乱れがあり、またオリジナルデータとの不一致がありました。手動で作図され、また仮説を支持するデータとするために意図的なDNA配列の選択や大腸菌クローンの操作を行ったことが小保方さんへの聞き取りでわかりました。
「この点について、小保方氏から誇れるデータではなく、責任を感じているとの説明を受けた。」(p.20)

(1)(2)に関してどうして捏造、研究不正と認定できたかというと、(1)は出勤記録との照合ができたから。(2)はオリジナルデータが存在したから。のようです。
ES混入、2つの明らかな捏造。
調査報告書ではそれ以外に10数か所の疑義や間違いが指摘されましたが、「オリジナルデータの提出がない」ことが壁になって、不正と認定されるには至りませんでした。
調査報告書ではまとめとして、2報のSTAP論文は非常に不正や間違い、怪しいデータの多い論文であること、小保方さんの責任とともにそれを見落とした笹井氏、若山氏ほか共著者の責任、またプログレスレポートのあり方など研究室運営の問題にも触れています。



 さて、以上のように、理研の2つの報告書から、小保方晴子さんがSTAP論文作成に当たって行った「不正」についてみてきました。認定されなかった多数の項目も、単にオリジナルデータの提出がなく確認がとれなかったから不正と認定できなかっただけだ、ということもみてきました。
 これらをご紹介するのは残酷でしょうか。
 小保方さんの手記『あの日』には、不思議なほどこれら、認定された不正の事実には触れていません。自ら認めた不正もあるのに、です。ただ、鬱のような状態で聞き取り調査を受け回答した、という記述があるのみです。不正認定された「メチル化」という用語に至っては、実験段階でそうした解析を行ったという記述すら出てきません。
 そして、小保方さん同情論の人が主張するような「この報告書は理研が一方的に小保方さんを非難し潰したものだ」という批判も当たってはいません。例えば「ES混入」については、報告書では誰が行ったかは特定していないのです。後にある理研OBがES窃盗容疑で小保方さんを告発しようとし、結局「被疑者不詳」で告発が受理され捜査した結果「被疑者不詳」のまま検察送致となった、という経緯もありましたが、これは理研調査委の報告書とは明らかに「別件」です。報告書ではそこまでのストーリーを描いてはいません。共著者の責任、管理責任者の責任にも触れています。
 もしこの報告書をもって「理研が罠にはめた!一方的に小保方さんに罪を着せて幕引きを図った!」と主張したいのであれば、社会人として当然名誉に関わる、今後の進路にも関わることですから、小保方さんは理研に対して地位保全の申し立てをしたり、公文書偽造もしくは名誉棄損の訴訟を起こすのが正しいのです。もしあなたが小保方さんの立場だったら、当然そうするでしょう。小保方さんの場合は、有能な弁護士を4人も雇っていたのです。にもかかわらずそれをしない以上は、これらの報告書の内容を小保方さんも認めたことになります。
 言いかえればこれらの報告書の内容は、事実認定されたとして使ってよろしい、ということです。
 そして、STAP事件の事実は何か、という問いになります。
 報告書で認定されたことを事実としてみるなら、やはり小保方さんのしたことは「けしからん」のです。不正など頭をよぎったこともなく、地道に日々実験を行っている大多数の研究者からしたら、唾棄すべき行為でしょう。
現在、多くの実験系の研究者は『あの日』を黙殺していると言われます。もはや、「関わりたくない」の一言なのでしょう。あまりにも「論外」「問題外」すぎるのです。一部理論系の研究者には小保方さんシンパがいるといいます。
「実験はこういうものだよ。この通りやりなさいよ」
と、教え込んで基本動作を身につけさせる、あるいは先輩や指導者の言うことを素直に実行し練習してスキルを身に着けていく、そういうどこのラボにもあるありふれたOJTの風景をも、小保方さんの行為は嘲笑してしまっています。
 理研から追い出され寄る辺ない身の上になった小保方晴子さん。その彼女に対して同情の念が湧くのは、日本人の「判官びいき」の心情として、自然なことかもしれません。
 しかし、彼女のしたことの重大性、悪質性を事実に基づいて考えるなら、やはり同情すべきではないのです。「認定された事実」と「同情論」の間には、天と地ほどの乖離があります。
 小保方さんに同情する人たちは、ぜひ、このことをもう一度考えてみていただきたいものだと思います。彼女に同情することで、自分も普通のまじめな仕事の営為を嘲笑する側に立ってしまっていないだろうか?と。


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 ・・・今見るとこの文章も結構「感情的」になっているかもしれないなあ、と思います。「怒り炸裂モード」などとほかの人のことを言えません。

 やっぱり、「やったことの重さ」と、それでもなお『あの日』を書いて言い訳するメンタリティというのが、みればみるほど「信じられない」と口ポカンとなってしまうのです。

 でもまあ、世の中こういう人ばかりでなく、真っ当な良心的な人が大半だからちゃんと回ってるんだ、ということに感謝したいですね。

 小保方さんに同情する人は、普通の人たちが真っ当に仕事をしてわたしたちの生活を支えてくれることの有り難さを忘れがちになるんじゃないでしょうか。

 おとしより世代の方は、あなたがお世話になっているお医者さんや訪問看護師さん、薬剤師さん、ヘルパーさんの中にこういう人が一人もいないことに感謝してください。それは奇跡のようなことかもしれないのです。


「余話」をシリーズ化しましたので、インデックスを作ります

◆『社会人のための「あの日」の読み方』余話(1)二つの原風景の話

>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51938782.html

◆『社会人のための「あの日」の読み方』余話(2)『あの日』に至るまでのわたしの流れは

>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51939260.html

◆『社会人のための「あの日」の読み方』余話(3)じゃあなんで書きはじめたのか―科学者・科学ライターの「言葉」の限界

>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51939319.html

◆『社会人のための「あの日」の読み方』余話(4)「研究不正」した人が「アイドル」という現象が社会にもたらすもの

>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51939444.html

◆『社会人のための「あの日」の読み方』余話(5)「捏造」と「データ不在」のオンパレード――やっぱり基本情報”判決”を読んでみよう

>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51939558.html

◆『社会人のための「あの日」の読み方』余話(6)アリストテレス曰く、不正は嫌悪するのが正しい

>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51939831.html

 2つ前の記事で取り上げた『研究不正』(黒木登志夫、中公新書、2016年4月)をもうちょっと読んでみます。

 こうして「研究不正」という現象を横断的にみることも、いま起きている社会現象としての「小保方晴子さん・STAP細胞」現象をみるうえで助けになります。

 たぶん、この本の著者もそういう読み方をされることを願っていることでしょう。


 まずは、

「小保方晴子さんは、『研究不正』をした人だ」

 この点は、大前提として押さえていただいてよろしいでしょうか。


 単純なミスをしたわけではない、研究不正という、その世界では許されないことをした人だと。どの会社でも重大な就業規則違反をした人は解雇されるように、小保方さんも懲戒解雇相当になっていますが、それは仕方がないのだと。

 4人も有能な弁護士をつけていてもその処分を防げなかったのです。

 それを「ない」ことにはできません。また、他の多数の研究不正事件と比較しても、処分が特別に重いとはいえません。

 問題は、その研究不正の主役である小保方晴子さんが今も奇妙な「国民的人気」があり、本を出すと26万部というそこそこのベストセラーになってしまい(ありがたいことに、26万部から先の増刷はないそうですが。講談社企画出版部にききました)
「W山こそがすべての首謀者だ!小保方さんはハメられた!」
という陰謀論が蔓延している。

※これについては、争点は「ES細胞混入は小保方さんだったのか、それともほかの人か」というところに絞って理解したほうがいいと思います。先日兵庫県警の捜査が終結し、「ES盗難は小保方さんとは特定できない」という結論になったところです。

 しかし、ES細胞混入以外のところで、小保方さんは少なくとも2件のはっきりした「捏造」を認定しヒアリングで本人も認めています。このことは『あの日』には書かれていないだけです。他にも「オリジナルデータの提出がない」だけで不正と認定しきれなかったグレーの箇所が10数か所もあるわけです。

 『あの日』だけを読んでこうしたほかの重要な資料を読んでいない人だと、小保方さんのしたことの「重さ」は、想像がつかないと思います。普通の社会人の規範の世界からしてもどれほどかけ離れたことをしてしまった人か、ということが。

 たとえば、銀行の美人営業ウーマンがとってきた融資案件の大半が捏造で架空の顧客だったとか、美人編集者が、著者が遅筆なので勝手に自分がどんどん書いちゃったとか美人記者がとってきた特ダネが大半は捏造だったとか、美人看護師が患者のバイタルを見ていたが記録は大半が捏造だったとか美人教師の担任するクラスは学年トップの成績だったが生徒の成績の大半は捏造だったとか。あとどんな例えがあるでしょうねえ。。。


 さらに追加で「STAP細胞はある!」等の情報をどんどん出してくる。数日たってガセとわかるがその都度騒然とし、「やっぱり日本のマスコミや科学者はウソをついている!」的な「空気」ができてしまう。


 そういう「研究不正」をした人が「アイドル」になっているという現象が、わたしたちの社会に何をもたらすでしょうか。

 職場では、規律規範はどうなるのでしょうか。

 たとえばわたしと同世代くらいの部長級の人が、小保方さんのことをうっかり「可愛い。きっと無実だ」と思っていたとき、その部下の中の可愛い容姿の女性が何かのミスや改ざんをして、ちょうど小保方さんと同じような言い訳を部長に言ったとします。
 つい、クラクラッとならないでしょうか。直属の上司の課長や係長に
「君、厳しすぎるんじゃないか。A子さんに何か含みでもあるのか。A子さんはだれかにハメられたんじゃないかあ?」
と茶々を入れたりしないでしょうか。

 わたしと同世代の男性って、やりそうなんだよなあ、そういうこと。

 それはしかし、もう「乱倫職場」って言われても仕方ないんですけどね。周りの従業員のモチベーションは下がりまくりますね。A子さんが仮にお追従上手の男性でも同じです。


 「行動承認」は「論功行賞」「信賞必罰」や「理非曲直」など、昔から日本のマネジメントにあった四字熟語の体現だ。

 というようなことを、これはまだ本には書いていなかったですが、講演などでは時々言います。

 それでいえば、「小保方さんは不正をした人」だ、ときっちりいうのは、「理非曲直」の側面を出すということです。

 それはもう、研究の世界では「判決」が出ていることなので、小保方さんもそれに異議申し立てをしていないので、仕方ないのです。「一方の意見だ」というレベルの話ではありません。

 沢山ある研究不正事件のひとつとして、教訓を学びとり、過去のものとして前に進むのが正しいのです。


 これも少し余談になりますが、
 「罰」は、存在しないといけない。「罰」の存在しない世界はやりたい放題になり、結果的に人が離れていく。

 そういう「罰」の効用を言ったのが、わたしのよく参照する本『経済は競争では繁栄しない―神経化学物質オキシトシンの効用』です。本全体でいう「共感」「信頼」の効用とは真逆のことを言っている箇所ですが、「罰」はやはり、社会の維持のためにスパイスとしてないといけないのです。

 詳しくはこちらの記事を参照

わが国ではハグはちょっと―じゃあ、どうする?神経化学物質オキシトシンの知見『経済は「競争」では繁栄しない』
>> http://c-c-a.blog.jp/archives/51889965.html

 この記事の上から3分の1ぐらいスクロールしたところにこんな一節があります:

 ●「公共財ゲーム」を使った実験では、厳罰主義のクラブBは最終的に大金を稼ぎ、やりたい放題のクラブAの資産はゼロになった。善に報いるだけでなく悪を制裁することによって向社会的行動を奨励する制度が最高の見返りをもたらすことがはっきりした。

 
 ですね。
 わたしも「承認」をいう人なので、どんなことにも「承認」で対応して仏様のように振る舞うべきだと主張している人のようにみられがちなのですが、これはNOです。わるい行動に正しく「罰」を与えることは、承認のコインの裏表のようなもので、必要なことなのです。その部分がなかったら逆に「承認」も言えません。


 
 もうひとつ『研究不正』の本でおもしろかったのが、研究不正をおこなう人の年齢です。
 簡単に言うと、功成り名遂げた教授もやるし、若い研究者、小保方さんぐらいの歳の研究者もやる、ということです。
 42も事例を出してくれて横断してみると、小保方さんが不正と断罪されて処分されたことが、若いからといって決して「トカゲのしっぽ切り」だとはいえない、ということがわかります。若い人は若い人で、ちゃんと不正をしたくなる動機があります。それを正しく処分しないようでは困るのです。


・事例5 論文盗作事件のエリアス・アルサブチは発覚当時、26歳。
・事例6 スペクター事件のマーク・スペクターはコーネル大学の大学院生(博士課程?)
・事例7 ハーバード大学不正事件の主役は33歳の循環器内科医のダーシー。
・事例12 有名な「シェーン事件」のシェーンは31歳。
・・・

 こういう若い人主導の研究不正を、この本では「ボトムアップ型研究不正」と呼んでいます。

 とりわけ、近年ではアメリカ留学中の日本人の大学院生、ポスドクの人がおこなう不正が急増しているようです。「アメリカで認められたい」という気持ちが勝ちすぎるからでしょうか。

 たまたま、日本では研究室を主宰する「おじさん」教授が主体で不正を行ったケースが多かったので、「不正をやる人=おじさん」という固定観念が、わたしたちに刷り込まれているだけなのかもしれないんですね。小保方さんは、『あの日』でその固定観念(=いわばヒューリスティック)をうまく使い、「若山先生が主犯よ!だっておじさんなんだもん!」というイメージを作ることに成功したともいえますね。

 
 この本では、上記の事例6「スペクター事件」事例12「シェーン事件」とSTAP事件の3つを表にまとめ、その共通項を比較したりしています。(ご興味のある方はこの本をお買い求めください)


 さあ、いかがでしょう。

 「小保方さんは若くて可愛いのに、可哀想」
という幻想は、覚めましたか?


 

 最後に、やはり「教育」にどう影響してくるのか、ということも考えたいところです。

 小学校高学年ぐらいから、理科の実験がはじまり、「レポートの書き方」も教えられると思います。
 実験の目的、手順、材料、結果、考察、などを書くよう指導されると思います。

 ところが、それを全然ちゃんとやっていなかったのが小保方さんのあの実験ノートなわけです。

 ハーバードなのに。理研なのに。

 もちろん、もっと上の年代の「科学者教育」に携わる人たちにはさらに頭の痛いところでしょう。緻密に地道に、手順を覚え1つ1つ積み重ねてデータをとっていく…基本の倫理が崩れてしまいます。

 
 だから、「小保方さんOK」にしてしまうと、社会の隅々まで変てこりんなことになってしまうんです。

 前にも書きましたが、うっかり小保方さんに肩入れした人たちは、思考法全般が「変てこりん」になっていきます。事実、情報の評価が歪み、おかしなセンセーショナルな情報に流され、多数の良心的な人々の気持ちを思いやることなく小保方さん中心にものを考えるようになります。
 そんな人が今からも増殖する気配があります。


 わたしは、そこで「社会にたいするむだな責任感」を抑えられるかというと。。。


 

結局シリーズ化したので、インデックスを作ります

◆『社会人のための「あの日」の読み方』余話(1)二つの原風景の話

>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51938782.html

◆『社会人のための「あの日」の読み方』余話(2)『あの日』に至るまでのわたしの流れは

>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51939260.html

◆『社会人のための「あの日」の読み方』余話(3)じゃあなんで書きはじめたのか―科学者・科学ライターの「言葉」の限界

>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51939319.html

◆『社会人のための「あの日」の読み方』余話(4)「研究不正」した人が「アイドル」という現象が社会にもたらすもの(本記事)


◆『社会人のための「あの日」の読み方』余話(5)「捏造」と「データ不在」のオンパレード――やっぱり基本情報”判決”を読んでみよう

>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51939558.html


◆『社会人のための「あの日」の読み方』余話(6)アリストテレス曰く、不正は嫌悪するのが正しい

>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51939831.html

 このブログの「友人」である佐賀県のTraining Office代表、宮崎照行さんから、嬉しいメッセージをいただきました。
 いつか、宮崎さんと対談しよう、とお約束して、延び延びになっていました。今回のメッセージはちょうどわたしが「講師としてのありかた」について書いた記事について宮崎さんが応答してくださったので、ブログとメッセージで宮崎さんと正田が対話させていただいたものとしてみていただけると嬉しいです。

 長いメッセージです。


 以下、わかりにくいかもしれませんが地の文が宮崎さんで、引用形式になっているところは正田の去年8月のブログ記事です

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4月29日付のブログ拝見しました。
私のことを書いていただきありがとうございます。

さて、29日付のブログで「教授法のこだわり―人に教えるということ」カテゴリーを推奨されていましたので、改めて再読いたしました。

その中で2015年8月4日付ブログでは大変考えさせれる点がございました。

(注:「反転学習と『正田のキャラ決め』と『経験から学ぶ』ということ」)


「管理職に教える」という仕事の要請上、過剰に「情熱的」なあり方ではなくニュートラルでなければならない


 まさしく同意です。白状いたしますと、私も講師業初心者の時期は「情熱的」でした。それは私の表層的な知識しか持ち合わせていないことを隠すための方略でした。断言することはできませんが、自信のなさを取り繕っている姿ではないかと感じるようになりました。


正田は淡々とニュートラルなあり方をたもちます。それが「自信のなさ」と受け取られるリスクがあっても。


原理原則を大事にされ、お伝えされる構造がしっかりしていれば(論理の飛躍がなければ)、自信がないように解釈されることは少ないと思います。


私も「変にテンションが高い」人を見ると引いてしまうタイプです。往々にして
「変にテンションが高い人」は論理の飛躍が見受けられる。その要因は、
”汁愿な知識しか持ち合わせていない
⇒諭垢雰亳海魍鞠芦修掘概念同士をうまく構造化できていない
テンションをあげる代償として講師としての自分を客観視することができていない
などが挙げられると考えています。
私の性格が悪いかもしれませんが、「変にテンションが高い人」に対してはツッコミを入れたくなる性分です(笑)

これまでの膨大な管理職たちの実践経験をアーカイブとして引っ張りだしたり、神経化学物質や遺伝子学、脳科学の知識まで援用しながら伝える、ということもします。
そして膨大な情報を取捨選択したすえに「この教育」「この方式」の妥当性がゆるがない、というわたしの確信を伝えていきます。


この箇所はものすごく大事です。(ブログを拝読した際、何度頷きましたことか!)
私が原理原則を大事にされているとご指摘したのは、まさにこの点です。


研修で用いられる手法は数多ありますが、多くの講師は摘み食い状態です。だから、研修に深みがなく行動変容もままならず、研修自体がイベント事で終わってしまう。また、高いテンション一辺倒の講師が生まれる土壌を育む。


コンサル業界には数年前の一時期「OJE(On the Job Experience)」という言葉が流行ったことがありました。これは「OJT(On the Job Training、昔ながらの「技能伝承」に近い、上司部下、先輩後輩間の「教える―教えられる」の関係)などもう古い、上司先輩の持っている知識は陳腐化し現代には通用しなくなった、これからは人から教わるのではなく経験から学ぶことだ」という考えからきていました。


2000年代に入り経験学習が持て囃されました。これ自体は何ら新しい学習手法ではありません(ジョン・デューイが1930年代に提唱した教育哲学)。

「教える」という従来のインストラクションの効果に疑問を持っていた方々にすれば、OJE・経験学習は斬新な手法に映ったこと思います。二元論的な問題解決方法に落とし穴があるように「こっちがだめだったから、あっち」的な考えではうまくいくことはできないでしょう。

もし、OJE・経験学習を導入するならば、「これらの学習手法は自身のパラダイムを確認したり、変更したりする際に多くな力を発揮する手法です」という基本概念をおさえておかなければなりません。だから、ものすごく高度な学習手法なんですよね(安易に近寄ると火傷をします)
そのためにも、何が必要か?それが次の文章です

「承認研修」のなかではしつこいぐらい「自己理解、他者理解」

まさしく自分や相手のパラダイムを確認する作業です。

そして最後の部分ですが、

「傾聴研修」の中では、「話を聴けないのはどんなときか」のくだりで、「先入観の罪」の話をします。「学びの場も『聴かない態度』をつくってしまうことがあります。こういう研修で教わったことがすべてだ、と思って現実に起きていることを軽視するようなことはしないでください。わたしもじゅうじゅう気をつけて慎重にお伝えするようにしていますが、みなさんももしこの研修でお伝えしたことと現実が一致しないことがありましたら、とりあえず現実のほうを信じるようにしてください」というお話をかならずします。


「傾聴」もテクニカルな部分だけに照準を合わせた研修が多かったもので、変な方向にいってしまいました。傾聴は自分や相手のパラダイムを確認するための行うものです。だからこそ、真剣に耳を傾けなければパラダイムは浮かび上がってはきません。「先入観の罪」はまさしく「推論の梯子」の概念だと思います。このことを理解していないとOJEや経験学習が上手く機能しません。もし、OJEや経験学習を効果的なものにするためには、

「‐鞠Б傾聴→3鞠芦就ぅ僖薀瀬ぅ爐旅渋げ就タ靴靴さい鼎や変容」のシステム構築が必要になってくると思います。メッセージでは図式ができないのですが、この流れは、ピラミッド型を想像して頂けるといいかと思います。つまり、いくらテクニカルな手法で「新しい気づきや変容」を喧騒しても、,ないと何も始まらないということです。

だから、OJEや経験学習がちょっと下火になってきたのは、この流れを理解できなかった(理解しようとしなかった)からではないかと思います。このことから安易に手を出すと火傷をすると指摘した要因です。


長々と思いを述べてきましたが、本当に学ばさせていただきました。
このブログより、私の考えが整理できたことは幸甚です。数多ある講師養成本と比較するまでもなく素晴らしいものです。

ただ、残念なことですが、ご指摘されているように出版業界の質が下がっています。骨のある内容よりも「チョチョイのチョイ」的な内容が出版されるという悪しき流れがあります。

それに影響され「チョチョイのチョイ講師」が蔓延っているという残念な状況です。
この悪しき流れを食い止めるためにも、一人でも多くの「本当の講師」が誕生できるように私も研鑽を積んで、いろんなところで発信していきたいと思います。

―感謝―


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・・・という、宮崎さんからの身に余る承認のお言葉でございました。

 この「教授法のこだわり」カテゴリの記事は、だれが読んでくれるという当てもなく、ただ書き残していれば死後にでもだれかが読んでくれるだろう、ぐらいのつもりで書いていた文章なので、生きている間にこんなに真剣に読んでくださる方が出てきて感無量でございます。

 白状すると、わざとハードルを上げるつもりで書いております。去年ぐらいまで、「承認を教える講師になりたい」と言ってくる人に多数お会いしましたが、残念ながら合格点を差し上げられる方がいらっしゃいませんでした。せめて、わたしが読んできた本の5分の1ぐらいは読んでよ。そして、自分が「承認を教えたい」という動機はなんなのか内省してみてよ(ナルシシズムではないのか自問してみてよ)いやこんな言葉は不遜にきこえるでしょうが、そういう方々なんです、ほんとに。
 そういう軽い気持ちで「講師になりたい」という方に断念していただくための記事です。もちろん書いていることは本当です。

 宮崎さんも、たぶん同じようなことで悩まれたことがあるのでしょう。


 宮崎さんは、たぶん概念化ということについてわたしより優れている人だと思うのですが、そういう宮崎さんに「承認」が見込んでいただいたということは、わたしの思いもよらないような理論的意義づけを今からどんどんしてくださるでしょう。

 見る人がみたら、例えば経営学・組織論にはリーダーシップ論・組織行動学・組織学習論など、何十ものカテゴリがあるわけですが、それらのカテゴリ1つ1つから視点を変えて新たな理論的意義づけが出てくるかもしれません。そして宮崎さんの言われるように、すべての基礎に「承認」があります。どんな高度なかっこいいことを言っても、そこがなければ絵に描いたモチになります。逆に「承認」がすべての基礎だ、ということを押さえている研修プロジェクトなら成功します。「承認」の上にどんどん高度なことを載せていけます。


 わたし以外のかたがどんどん理論化してくれる。
 わたしはどこからそれをみることになるかなあ。


 なんか、もう「安心して目を閉じられる」というモードになっているかんじですね。。。


 ともあれ、宮崎さん、ありがとうございました!!
 成人に対してほんとうに指導力のある優れた講師が宮崎さんのもとからどんどん輩出されることを祈ります。


 宮崎さんが最近開設されたブログ

Training-Office’s blog

http://training-office.hatenablog.com/

第1回記事は
「成人研修講師に突きつけられた課題」
http://training-office.hatenablog.com/entry/2016/04/22/160204

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