(これまでのお話:1988年、卒業旅行でチベット・ラサに行った正田は、祭りの日に暴動に遭う)

この連載もやっと今回で終わりです。

暴動から5日、正田はバスでラサを発ち、青海省西寧に向かいました。そして正田のあとにも先にも一度っきりのチベット旅行は終わりました。

ラサ以外どこへも行ってないし、暴動のおかげでお寺の観賞もゆっくりできなかったし、観光旅行としては内容の乏しいチベット行です。

そんななかで24歳記者の卵・正田が心に刻んだものは・・
何があっても真実を伝えよう。

教科書に載っている歴史は、そのときそのとき真実を伝える作業のすえにできたものだ。真実を知った自分が伝えなければ、歴史は生まれない。

そして、後悔を残さないためにも事実確認をきちっとしよう。風評でなく。



日本にもどって通信社の記者になった正田は、日本にいるチベット関係者の集会に出席して発言したりしました。何か言うとき、自分の記者の肩書きがわりと便利なことに気がつきました。

この年の夏ダライ・ラマが非暴力の声明を出したとき、またこの年の暮れダライ・ラマがノーベル平和賞を受賞したのですが、そのときの声明発表にも、在日本のチベット政府代表(以前よくTVに出ていたペマ・ギャルポさんという人です)が会見に私を名指しで呼んでくれたりして、ちょっとした「チベット記者」になっていました。

このまま「チベット記者」でいくんかな〜。

記者の中には、高い専門性で1つのことばかりやる人がいます。奈良支局にずうっといて「こふん(古墳)記者」になってる人もいれば、宮内庁記者を20年もやる人もいます。

中国屋でチベット記者だった正田はその後、広島へ転勤して医学記者とか脳死臓器移植記者になって、そのときも脳死臓器移植の本を厚さ80cmぐらい読んだけど、

(ちなみに立花隆は2mぐらいそれ関係の本を読んだそうです。まけ)

なので、じぶんの強みはこれ、専門はこれ、と決めなくてもいいじゃん、と思っています。夢中でやれるものが1つあればほかのことも自然とできるのではと思います。


チベット記者で、中国の取材はやりにくくなかったかというと、英中外相会談が日本で行われたとき大使館の人と話していろいろ取材の便宜をはかってもらいましたが、特に困ることはありませんでした。


「チベット」にからみがあったとは言えチベット仏教に関して深く勉強したわけでもなく、ただのゆきずりの旅人にすぎない正田ですが、
専門性でいえばその後に出会ったいろんなことのほうが深くのめり込んでやったのですが、

「いつかまたあの場所に行く」
という思いとともに、
チベットの若い僧の訴えるような澄んだ目は、私に
「真剣」
を繰り返し、思い出させてくれるのでした。

そう、いつか「真剣」なんかワークショップじゃなく実生活で学んだぞ!
と思ったのは、実はあのとき初めて学んだのかもしれない。

シリーズ最終回だから、ちょっとウエットだ。



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