しばらくまじめに片付けていたら、

去年の暮れに買った本『他人を見下す若者たち』(速水敏彦著、講談社現代新書)が出てきました。


「・・・しかし、実は彼ら(注:少子化の影響で小さい頃から大切に育てられ、苦労をせず、楽しいこと、面白いことに浸ってきた若者)はそれを乗り越えるすべをいつのまにか修得してきたようにも見える。それは、おそらく本人自身もあまり気づいていない無意識的なもので、個人主義文化を担った人たち、さらには、ITメディアの影響を受けた人たちがいつのまにか身につけた仮想的有能感とでも呼ぶべきものである。これは先ほど述べた他者軽視をする行動や認知に伴って、瞬時に本人が感じる「自分は他人に比べてエライ、有能だ」という習慣的な感覚である。

 現代人は自分の体面を保つために、周囲の見知らぬ他者の能力や実力を、いとも簡単に否定する。世間の連中はつまらない奴らだ、とるに足らぬ奴らだという感覚をいつのまにか自分の身に染み込ませているように思われる。そのような他者軽視をすることで、彼らは自分への肯定感を獲得することが可能になる。一時的にせよ、自分に対する誇りを味わうことができる。

 このように若者を中心として、現代人の多くが他者を見下したり軽視することで、無意識的に自分の価値や能力に対する評価を保持したり、高めようとしているように思われる。しかし、この仮想的有能感はやっかいな代物である。現実には、特に負け組になりそうな人々が生き抜くためには必須の所持品ではあるが、他者軽視をすることで、社会にさまざまな弊害を生じさせることが懸念されるからである」




・・・ほんとは、「ほろう」と思って紙袋に入れようと手に取ったのに。

若者論おそるべし。


考えてみると正田もわるいのだ。研修の講師でありながら自分の欠点とか限界をことさらブログにさらし、茶化し、子育てのうまくいってないことまでさらけ出し、するから、「生徒さん」のなかで一部の「仮想的有能感」のもちぬしは正田のことを見下すようになるのだ。

正田が女性であること、母親(しかも100点でない)であること、行く先々でよく「見下し」に遭うこと、しょちゅう自分の仕事に迷いを生じそれをネタに鬱っぽいトーンのブログを書くこと、

どれをとっても、「人を見下すことが好き」な人にとっては、格好の「見下し」のネタになり得る。


だからといって、よくあるコンサルタントの先生のように自分を「完全無欠」の存在として、「上から」ものを書こうとは思わない。

大野耐一氏が書くように、往々にして間違える自分、を認めることのほうが大事。

管理職研修で今も大半を占める、「いかにして部下からの信頼を得るか」という問題意識をもって参加している人たちと誠心誠意向き合い、そういう人間関係をかれらを通じて伝播させていくという作業には、そのスタンスのほうが適しているのだ。

一部の「仮想的有能感」のもちぬしに対しては・・、
場全体の「コモンセンス」が教育力になってくれるのを期待するほかはない、のでしょう。
うん、この解釈はだいぶ「すっきり」した。