東京。
 神田の「室町砂場」でそばをいただきました。
 「更科粉」を使った、白く弾力のあるそばです。
 濃口醤油と甘味のつゆに「3分の1」だけひたしていただくのが「正しい」そうです。


 午後1時の店内はまだ満席で、どこか余裕のある雰囲気のビジネスマンがあふれています。テーブルの上にはビールやお銚子も立って。


 隣の席は、高級そうな(←ただし、正田にみる目はない)
眼鏡の50代サラリーマン二人づれが、お銚子を2本立てて食後も長々と会話。


 

 聞くともなしに聞いていると、

「てやんでえ」みたいな、べらんめえ口調が混じります。



「…それは、負け犬の遠吠えよ。曳かれ者の小唄よ。なーに言ってんだァ」

「いっぺん言ってやらなきゃァ」


 こうして打っていると漱石の小説に出てくる会話体に似てますね…。


 正田は、たまたま地方出身の両親のもと東京の郊外で生まれたというだけの「東京出身」で、その後子ども時代の大半を千葉で過ごし、さらに大学時代も東京とはいえ巣鴨―神田神保町を往復するだけのマジメ貧乏学生だったので、このへんのほんとの「江戸情緒」をしりません。


(ついでに西東京のハイソな生活もしりません。はい)


 やっぱり東京生まれ東京育ちは経済強者とか、文化強者なのかなー。


 そしてまた、

自分は「粋」とか「洒脱」のような世界から無縁だったなー、とも。

 もし、そういった価値観を大事にしていたら、今のような生き方は最初からしてなかっただろう。


 私のような「もっさり」した人間からみると、「粋」「洒脱」の世界に生きる人というのは、細い平均台の上を歩いているようにみえる。それもまっすぐではなく、他人からはわからないように不規則に曲がりくねった。

 
 その不規則さが、その人の譲れない美意識なのだろうし、でも他人がわかることを拒む。

 その人自身は、「わからない他人」をあざけり見下しながら、生きる。

 はい、色眼鏡でみてます。



 
 正田がこのところ凝っている「禅」には、「平等」の思想があって、これはいわゆる「ピア・プレッシャー」とか「悪平等」とは違い、

 コーチングでいう「フラットな目線」とか、

 アサーティブトレーニングでいう「見下さない、見上げない」というのと通じます。

 そうした姿勢を意識的につくることで、ものごとが上手くいく、というのは昔からある知恵なのでしょうか。