日曜に、六甲山麓を歩いてきました。

 
 芦屋〜会下山遺跡〜神戸薬科大〜保久良神社〜岡本、とかなり「変」なコース取りです。

 ようするに「迷った」のです。どこがシェルパじゃ。

 
 出発点の芦屋川は、満開。

芦屋川


 その後会下山遺跡は何の花もなく見晴らしも悪く、そこから風吹岩方面に登り、保久良神社方面に下りるつもりで歩き出しました。

(すみません、地理的な説明をすっとばしています。)


 山の上はまだ、三分咲き。


山の上の桜
 ウグイスがすぐ間近で、

ホオ〜ウ、とやや低く啼きはじめ、ホケキョ、と高くはじけます。
それに遠く近くのウグイスが唱和して・・。

 至福。


 
 
 
「自我=Ego」というものについて、考えました。


 昔から哲学や心理学や宗教の主題になっています。

「自我」は、わかりやすくいうと

 オレがなんとかしてやる!という動機づけのもとになり、

 オレがしっかりしなくちゃ、乗り越えなくちゃ、という気持ちのもとだし、

 オレのアイディアで最後までまとめあげてやる!という感覚のもとにもなります。


 一方で

「認められたい」
「目立ちたい」
「注目を集めたい」

とか、もっというと「オレがオレが」の感覚です。

 
 これを乗り越えろ、抑えよ、ということに、昔からリーダー教育をする人は苦慮してきたようです。


 仏法では「宇宙と一体となれ」のようなことを言うし、

 西郷さんやその伝で稲盛さん<塾長>もつねに「謙虚であれ」ということを言うのは、

自我(=傲慢につながりやすい)を抑えよ、ということを、結局繰り返し伝えていなければリーダーは間違うからなのでしょう。




「自我」は、多くの優秀なビジネスパーソンの優秀さを形づくるもので、

全然なくても困るし、

 とくに若い人ではなさすぎて困るのでコーチングは主にこれを伸ばす方向に働きかけるし、


「自我」を伸ばすことと、次の段階で超越することは、ひとつの直線的な成長の形としてとらえることができ、


 そういうわけで正田はこんどは「トランスパーソナル心理学」の本を注文してしまいました。


 えーそれはどうでもいいのですけど、


「自我」のつよい人で、とくにリーダーになって人から注意されることの少なくなった人によくみられる問題行動をあげておきます:


・話が長い。人に長々と話をしてきいてもらうことを好む。
 会議で長話するのはこのタイプに多い。

・話の結論を最後まで言わない。

・人を平気で待たせる。(=注目されたい気分の表れ?)待っている人のイライラ感を楽しんでいるようなところがある。人から急かされることも好き。


・謝れない。自分の非を認められない。

・「教えてください」が言えないので、イノベーションに乗り遅れる。

・優秀な部下に嫉妬し、潰そうとする。

・人に感謝できない。他人のおかげで自分の今日がある、という考え方ができない。自分ひとりで何もかもやりとげたと本気で思っている。

・他人を認められない。「承認」ができない。他人を認めることは自分の価値を下げること、トレード・オフ関係だと思っている。


・能力の低い人や弱い人は虫けらのようにしかみえない。実は自分が相手を能力の低い状態にしてしまっていることなど想像もせず、ボロクソにののしる、あるいは退職させて抹殺しようと働きかける。



 …

 ひとつの極端な人格が企業の業績を左右しかねない、ということがイメージしていただけますでしょうか。


 正田の私見では、こういう人格は子育ての段階の甘やかしでも生まれるし、また企業の側の、「競争」と「自然淘汰」にたよった人材育成の姿勢によっても強化されると思います。

 完全な「弱肉強食」の世界を生き抜いた結果、人格としても価値観としても根付いてしまった生き方なのです。


 どの世代にもっとも多くこういう人格の人が分布しているかというと…、

 ご想像におまかせします。けっしてその世代の人がみんなそうだというわけではありません。

 


 
 大きく肥大しすぎてしまった「自我」の矯正のしかたは、たぶん西郷さんや稲盛さんクラスの人から厳しく叱られるのが一番いいのでしょう。

(「自我」のつよい人はそもそも超ビッグネームの人じゃないと自分の師として認めようとしない)

 事実、稲盛さんの主宰する「盛和塾」の塾生さんには、

「尊大・傲慢になっていた自分は稲盛塾長の教えのおかげで人の道を知った」

という人が珍しくありません。

 
「自我」がもう少し未熟な段階だと、正田のおぼえているエピソードで印象的だったのは、


 ある洋菓子チェーンの経営者さんが言われたことで、

「ケーキ職人は精進してあるレベルになると天狗になる。わが社の味ではなく、自己流をやろうとする。天狗になったら、思い切って鼻をぽっきり折ってやらないといけない」

 
 コーチングでいう「自由」「自発性」とは別系統の考え方なので興味深くきいていたのですが、

 この経営者さんは一方で社員の独立・開業も支援しているので、自己流を一切認めないというわけではない。


 ただのれん分け以前の修業中の段階、給料をもらいながら一人前になるべく修業している段階で、独自性に走ることを戒めているということで、まだ「守・破・離」の守の段階なのだともいえるし、

 会社という大きな傘に庇護されていることに感謝せよともいえるし、


 「自我」ということに戻っていうと、若いうちに折って矯正してやったほうが本人にとって幸せなのだともいえる、と思ったのでした。

 そしてそれを可能にするのは、親子に似た強力な師弟関係なのかもしれないのでした。

 
 
 さて、

 以前に、女性のほうが「ブログ見てますよ」と気軽に言ってくる、ということを書きました。

 男性は、明らかにブログで取り上げた話題をもとにしゃべっているのにもかかわらず、「ブログ見てます」のひとことが言えないことが多い。


 マナーの問題なのか「自我」の強さ(=つまり、自分の学びや気づきの中に正田のブログから得たものがある、ということを認めたくない)の問題なのか。


 知人の非常に優秀な年配のマネージャーさんで、「ブログ読んでるよ」を割合気軽におっしゃる人もいるので、男性女性よりは個人差の問題なのだろうなと思うのです。


 なんども言うようにこの一言がないと、ライブの会話の中で「何に反応してるん?」と困ることが多々あります。困るのは正田のほうだけなんですが。



 知人が退院しました。
 ちょっと肩の荷が。なんの荷だか。