日曜の朝の電車の中で。

 30代のカップル―男性は金縁眼鏡にカジュアルウェアの上下、女性はおしゃれな服装―が目の前の座席にのりました。


 
 女性は化粧のコンパクトを出して口紅をぬりだしました。
 男性は「フリスク」みたいな小粒ののどあめの蓋をあけて、中身を出すと、中身の白い粒のあめが勢いよくこぼれ出て、何粒か向い側の私の足元まで転がりました。


 男性も女性も電車の床の白い粒粒には目もくれず、おしゃべりしています。


 手にはコミュニケーション講座のテキストが。


 
 あ〜、きのうから開講したコースがあったっけなあ。


 ひととおり検索かけたから、頭にありました。


「コミュニケーション」「心理学」と「社会性」は、それぞれ別のものだという気がします。


 正田は前者に精通した人が後者に欠ける事例というのをたくさん見てきたので、


 コミュニケーションとか心理学の専門家はアーチストさんなどに似て、


 あることに注力した人が往々にしてほかのことがおるすになる、という現象だろうと思っています。


 「プロ野球選手である前に社会人であれ」


 とか、いわれるのと一緒ですね。


 コミュニケーションのばあい、プロ野球選手になるよりはずっと簡単に上級の資格をとることが可能ですが、


 不幸なのは、「コミュニケーション」を学ぶ行為は、「叱られて痛い体験から学ぶ」という能力を低下させてしまうおそれがあるのです。


 
「社会性」は、ワークショップの中では学べず現実世界で身につけるものであり、とくに痛い体験、頭打ち体験から学ぶもの、と正田はおもいます。

 べつに自分が叱られなければいけないわけではなくて、教室で会社でほかの人が叱られているのをみて学習するのもありです。友達が去っていったという現象から学ぶのもありです。



 コミュニケーションに自信をもった人の多く集まる任意団体の運営で苦しんできた正田は、こういう人たちが思いもよらない反則行為に出ることもあるし、それを叱られたときの反応の鈍さも経験しています。


 かれら彼女らにとって、「叱る」「怒る」ということはコミュニケーションの失敗を意味し、嘲笑すべきことなのです。


 どんな不愉快な出来事があってもすべては、巧みなコミュニケーションによって受け流すのが正しいのです。


 
 なので、正田はこのところ

「コーチングは心理学的要素はあるけれども、教育により近い」

とか、

「コミュニケーションの倫理・哲学的側面に興味がある」

ということを言っています。



 この社会はどうなるんだろうか。ぼやき。