「ルーブル美術館展―フランス宮廷の美」に娘らと3人で行きました。
神戸市博物館の主催。
絢爛豪華な18世紀フランスの食器や置物、家具、そして貴婦人達の肖像画もならびます。
夫は頭からバカにしてついてきませんでした。息子は、ちょっと来たそうでしたが、たぶん途中から飽きてあばれだすので今回は遠慮してもらいました。
実に今日的、と思うのは、ここ数年ロココの部屋着だか下着みたいなデザインのワンピが流行したり、巨乳ブームとか胸の谷間を強調する下着とか服とか、
女性の「自己愛」を満たす文化になっている感があるから。
「自己愛の時代」は、歴史上なんどか現れましたが、ローマ帝国のそれはまだ、男性がリードする文化だった、のかも(不勉強な私。こんどローマ人の物語よみます)
「女性がリードした自己愛文化」という点で、フランス宮廷文化にまさるものはないかもしれません。
「使おうよ。2倍楽しめるよ」と娘らにもすすめて、音声ガイドを借りて、
音声ガイドは初めての試み?の男女のかけあいで行われ、
・ポンパドゥール侯爵夫人
・王妃マリー・レクジンスカ
・デュ・バリー伯爵夫人
・王妃マリー・アントワネット
の4人をそれぞれ、テレビ朝日の女性アナウンサーが演じて、展示物を解説しました。
ききてのミラボー侯爵役の男性はうやうやしく、
「どうぞ、マダーム」などといってるのだけど、
女性の自己愛を満たしつつも微妙におちょくっているように聞こえなくもない絶妙のトーンで、すごく楽しめました。
さて、「自己愛」というもの。
よほどの貴族・富裕階級の出身でなければ、「自己愛」は青年期のある時期にピークを迎え、そして社会生活に支障のないレベルまで消失していくものなのでしょう。
そして、「主観」。
「主観」は無論だいじです。
「すべては主観のなかで始まり、完結する」
といった命題は、哲学者さんもときには物理学者さんもおっしゃることだけど、
また経営的な決断も感情のかたまりだ、というのはよくいわれることだけど、
「自分の主観」だけを判断の根拠にしてはならないことも、私たちは学びます。
自分の主観にはもとより限界があり、その限界を補うために、人の話を聴いたり、あるいは本やドラマや映画でさまざまな場面での「他人の主観」を学んだりします。
そして、「自分の主観」と「他人の主観」を折り合いをつけて判断したり行動するということを、厭が応でもせまられるのが、
「社会人になる」
という場面でありましょう。
仕事をする能力の中には、絶えずこの、「自分の主観」の中に「他人の主観」を適宜折り込む能力というのが入ってきます。
なので身だしなみをしたり、その職業らしい受け答えをしたり、お客様の体の疲れを想定して展示場に椅子を置いたり、といったことができるのです。
あるいは、文章を書くときに、読者がほしいと思うような実例をまぜこんだり、理論的根拠をまぜこんだり、ある年代層の読者には懐かしいと思うような風俗ネタを入れたりすることも。
自分の主観の世界の中だけに生きるのは、たとえば髪を頭から1mも高く結いあげた貴婦人や、
「食べるパンがないならケーキを食べればいいのに」
と言った王妃や、
一部のアーチスト―それも商業デザイナーではない純粋芸術のアーチスト―だけがすればいいことで、
その王妃の肖像画は、たとえば先行同業者のポンパドゥール夫人の肖像画にくらべても、美という点では少々バランスに欠けていて、
でも高く結いあげた髪、そらした胸などから、自分の高貴さや人々から受ける賛辞についてつゆ疑わなかったようすが読み取れます。
これらの「宮廷文化」のあとにきたのが1789年のプロレタリア革命で、
(すみません、私も「ベルサイユのばら」読んでました)
歴史は繰り返すというけれど、現代でもっとも警戒すべきは、「若者の自己愛による組織の下剋上・モラル低下」ではないだろうか。
たとえば3年前のJR西日本の事故が、「日勤教育」などによりもたらされたとされる一方、
亡くなった若い運転士が運転士というキャリアに異常なこだわりをもっていて、しかも仕事中の集中力を欠いていたことをどう意味づければよいのだろうか。
…と、美しい展示物をみていても繰り返し頭がそっちへいくのでした。正田集中力ない。
いちばんいいのは、自己愛と主観の世界に生きる若者を「髪を高く結いあげた貴婦人」のように戯画化するといいのですが、
よく考えると、ありました。
このブログに何回か出てきた「ギャグまんが日和」(ジャンプコミックス)は、自己愛と主観の中だけで生きる若者を描いた傑作、と正田はおもいます。
変な高校生、でも身につまされる高校生、いっぱい出てきます。
そういった若者に対する効果的な?ツッコミ用語にも事欠かないので、上司の皆様はぜひよみましょう。
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