しばらく遠ざかっていた、「ワークショップ」についての考察であります。


 最近の読書やネットサーフィンの結果、私がみてきた有害な

(つまり、本来の意図とは反して大きな社会生活上の副作用のみられる)

「ワークショップ」は、


「自己啓発セミナー」

とよぶほうがより近いのではないかと思うようになってきました。たとえ、そのなかで勧誘活動を強要したりはしないにせよ。



 「自己啓発セミナー」の定義は、Wikipediaを参照されるとよいと思います。(ついでに「ニューエイジ」の項も示唆的です)


 そしてそこにみられる手法は、一部ではありますが「洗脳」の手法をつかっています。


 正田がこのところ心の痛みをもってそれらを無理やり注視しているのは、


 実は正田の主宰する企業内コーチ育成団体「コーチング・リーダーズ・スクエア(CLS)」からも、そうした「ワークショップ」を受講しにいく人がいるからです。


 過去には自分自身受講したし、役員メンバーがそれらを受講しに行く時も


「こういう問題点があるから、気をつけなさいね。いいところは学びなさいね」


と、送り出しました。でも結局、ある段階になるとそれらの役員にも問題行動が出はじめ、退会していただいたことがありました。



 そのとき一度は「当団体では○○(ワークショップの名称)を推奨しない」と、声明を出したことがあるのですが、数年たってナアナアになっていました。


 しかし、最近また会員さんにその「汚染」がみられたのでした。

 そもそも会員さんの自由意思で受講しに行かれたこととはいえ、


CLSが「コーチング」という名称を冠して良心的な勉強会を開催しコーチングへの好感を引きつけ、そのことがもとで会員さんが別の「コーチング」という名称を冠した「ワークショップ」を受講しに行かれたという経緯を考えると、


 CLSとしてもいささかの責任の所在を感じざるをえません。


 なんらかの形で再発防止を講じないといけません。


 というわけで今日は「感情」と「自由」を過度に強調するワークショップの弊害について考察します。



 ひとつの手がかりとして、たとえば築山節氏の『脳が冴える15の習慣』の中には、こんなくだりがあります:



「前頭葉が指令を出し続けられなくなったとき、次に人間を動かすのは感情系の欲求です。

つまり、面倒なことはしたくない、楽をしたい、人任せにしたいという、脳のより原始的な欲求に従って動いてしまう。

結果的に、前頭葉の体力が落ちてくると、やればできるのにやらない人、自分を律して主体的に行動するよりも、人から命令されなければ動かない、感情系の要求に従ってダラダラ過ごす時間の長い人になってしまいます。」(改行筆者)




 つまり、感情系が優位になると人間はだらしない怠け者になる、という意味のことを言っています。

 人は、本質的にはサボりたい生き物なのです。X(エックス)理論ですね。

 学生時代の夏休みの状態を思い出したら、なんとなく思い当たりませんか。


 残念ながら、これは、「ワークショップ」受講後の人々の一部にみられる現象と一致していなくもありません。


「ワークショップ」では、「主観」「感情」「自分の本質」を非常に重視し、「感情」のためにまるまる3日間を費やすものもあります。


 
 それを受講すると、優しい人にはなれますが、同時に被害者意識が強くはたらいたり、やる気が持続しなかったり、クドクド言い訳が多くなったり、ということが起こります。


 「優しさ」と「被害者意識」はどうも同じものの裏表のようだ、とある時期から正田はおもって、4つのタイプの中のあるタイプの点数を自分で意識的に下げたりしてるんですけど。いえそれはどうでもいいのですけど。


 というわけで、「感情」「主観」を重視したら、こんどは「理性」を強調して拮抗薬にしないと、お客様にだらしない人生を送らせてしまうことにつながりかねません。


 すべての人がだらしなくなるわけではなく、たぶん生活の中に無理やり働くための(「家族のため」とか)歯止めがない、職場がパワハラ的で自分が主体的に働かないための言い訳をしやすい環境であるなどの条件がそろっていると、如実にそうなるのでしょう。
 


 
 もうひとつ。

「自由」という感覚の相対性について。


 「自由」もまた、古くから哲学の主題になってきた概念ですが、現代ではこれを脳機能としてとらえる考え方があります。


 『洗脳の世界―だまされないためにマインドコントロールを科学する』(キャスリン・テイラー著、佐藤敬訳、西村書店)から引用しましょう。


 「われわれの自由の感覚と、(略)感情として機能し、自由の感覚を補足するリアクタンスにも個人差がみられる。これらの基準は二歳頃に設定され、その頃にヒトという動物は自由の感覚を発見する―そして大体不愉快になる」



 ヒトが自由を求めるたたかいは二歳ではじまるのですね。自我のあらわれと自由を求めるたたかいが、その結果どうなるかというと、


「この自己確認過程の一部には、社会環境の詳細を理解することが求められる。必要な情報の多くは試行錯誤によって得られ、養育者の忍耐限界をテストすることによって、なにが受け入れられ、なにが受け入れられないかを学ぶ。

(子育て教室で一貫した行動が推奨される理由の一つはこれである。社会のルールを理解しようとしている子供は、自分に与えられる例が明確なパターンに沿っている方が容易に学習できる)

限界を試すことは、しばしば激怒レベルのリアクタンスを伴うが、それによって、子供はなんでも許されるというニヒリストから、世の中のあり方により適合するよう自分を磨いていく。」



 なんでも許されるという感覚を、高級に言うとニヒリズムというのです。イスラム教シーア派の急進的分派のリーダーは、

「なにごとも真実ではなく、すべては許される」

と述べたそうです。

 「だれひとりとして間違っている人はいない」教の方、よろしいか。


 それはともかく、
 ここでは、二歳児からはじまって反抗期のこどもというのは、自分の「自由」を拡大するために大人に無理難題をつきつけ、大人の制限に遭うことを繰り返して、

「制限つきの自由」


で満足することを学ぶのだ、とおおむねそういうことを言っています。


 子育て経験のある方は、思い当たるところがありましたでしょうか。


 よって、大人になってから、立派な教養ある人々から「自由」の重要性をふきこまれることは、大変危険なことであります。子どものころから、周囲の大人が日々せっせと、自分自身痛みをともないながら、


「制限つきの自由で満足する」


 ことを教え込んできた成果を、一瞬にして無にしてしまうことになるからです。


 往々にして、これらを教える人々のほうが高学歴で、優しそうで、整然とした混乱のない環境(子育ての現場と違って)で、話すのです。


 ―ある「ワークショップ」の創始者は東大卒で、キャリア論の有名教授や有名オピニオンリーダーが推奨するというおまけまでついていました―
 

 
「われわれは、コントロールされているという感覚の押し付けではなく、おだてられた状態で行動を変えるよう説得されることを好む。

(略)

 あらゆる感情と同様、自由/リアクタンスは脳からも体からも分離して存在するわけではない。自由とその喪失に伴うリアクタンスを特徴づけるコントロールの感覚は、他の否定的感情と同様、身体と精神のよりよい健康を伴う。セルフコントロールを失うことによるリアクタンスは、他の否定的感情同様、人間や動物の疾患や突然死さえ起こすことがある。」(同)



 おとなになってから「自由」の概念を無責任に過度に強調した教育を受けた人々について、正田が心配するのはまさしくこれで、


「心身の健康被害」


であります。

 たとえばこの人たちは、通常の仕事の指示だし(「…してください」という語尾のもの)にも「威圧感」を感じ取ることがあります。


 ワークショップの中でワークの指示を出すときの、リーダーの「人道的」な、優しく、そっとした口調や言葉づかいに触れる(浸かる)ことで、それ以外の形の指示だしを受け入れなくなってしまうことがあります。


 たとえ仕事の真っ最中のバタバタのさなかでも。


 そうして、「自分の『自由』が尊重されていない」という感覚を心身の中に蓄積していくと、たとえば今話題の「若年性うつ」―奇妙に「責任」の感覚が欠如しているもの―がもたらされたりはしないだろうか。


 「若年性うつ」の治療について、最近の関係書では、

「専門医の治療を受けさせるとともに、状態が多少回復したらビジネスマナー講座などに行かせて社会人の基本を一から学ばせること」


 などとあります。正田はそれ以外に、「変な『ワークショップ』をどこかで受講していないか」をチェックすることもお勧めしたいとおもいます。


 この『洗脳の世界―だまされないためにマインドコントロールを科学する』では、洗脳またはマインドコントロールに対抗するために、

「立ち止まって考える」
ことの大事さを述べています。このブログでもおおいにこれを推奨したいと思います。

(ただし、自分の受講生さんがあんまり言うことをきいてくれないとそれもちょっと困るのですが。それはおいといて)


 著者キャスリーン・テイラーは、著者紹介によると、オックスフォード大学で生理学と哲学を学び、その後脳科学に興味を持つようになる、とあります。

 この本の中では、認知神経科学、脳の解剖学やシナプス伝達の神経生理学的現象論と、思想、信念などに関する神経心理学、さらには社会心理学までをも援用して、「洗脳」という現象について浮き彫りにしています。



 女性の著者だけに、「洗脳」のもつ性的側面・性差別的側面にも触れていて、やっぱりね、と正田はおもいます。