内田樹『昭和のエートス』(バジリコ)を読みました。

 
 …とここまで書いたところで、Windowsでひらがなが漢字に変換されず、全部「単漢字」から1字1字、入力しないといけないという障害に出会いました。


 この障害は、

 http://support.microsoft.com/kb/932102/ja


 というところから、修正プログラムをダウンロードすると解決できるようです。

 現在はそのプログラムをインストールした状態で打っていますが、登録した単語辞書も使え、不具合はないようです。


 で気をとりなおして『昭和のエートス』に戻ります。


 久しぶりに付箋をはりながら読んだ本です。

 内田氏は1950年の戦後生まれ。


 バブルさなかの1988年には30代の終わりで、大学助手でした。


 少し長く引用します:


 
その当時の日本の様子をまだ覚えている人も多いだろう。誰もが株と不動産取引に夢中になっていた。高校のクラス会で「内田は株やらないのか?」と訊かれて「お金は額に汗して稼ぐもんだろ」と答えて、「バカだよ、こいつは。金が地面に落ちているのに拾わないっていうんだから」と満座の失笑を買ったこともあった。ラーメン屋の時給750円のバイトの青年がローレックスをはめ、家賃3万円の木造のぼろアパートの駐車場にベンツやBMWが停まっていた。みんなが地面の上ではなく、綿菓子の上を夢見心地でふわふわと歩いているような、奇妙な時代だった。

 
 私の本業の思想の世界でもフェミニズム、ポストモダン、ポストコロニアル、カルチュラル・スタディーズ、ヌーヴォー・フィロゾフ…と毎年のように「ブランニュー」なモデルが華やかに登場し、誰がいちばん非情で致命的な批判を、傷跡が縫えないほどに切れ味のよい断定口調で語れるかを競っていた。

 いやな時代だった。




 ブログ読者の皆様は、この時代の空気を憶えていらっしゃるでしょうか。

 
 正田自身はというと、1988年は就職の年でした。

 中国留学から帰ってきて学年がずれ、なんとなく大学に帰属意識を持てないまま、ゼミだけはまじめに出席して卒業した(でも卒業式も出なかった)

 88年初めには市場調査会社のバイトに通いづめ、「お金を貯めて卒業旅行でチベットに行くんだ」と周囲に言って面白がられる偏屈系女子大生でした。

 

 貧乏学生〜初任給の新入社員、という流れだったので、バブルの恩恵はほとんど受けていません(ただ、採用は比較的多かったのは恵まれていた気がします)


 巷には華やかなクリスマスの過ごし方とか、苗場プリンスでのスキーとかブランド品のバッグとか、豊かな社会のアイテムがあふれ、

 でもそれらを享受していたのは同世代では豊かな家庭の子女の大学生とか、もう少し上の世代の当時「ヤンエグ=ヤングエグゼクティブ」と呼ばれた層だったと思います。



 この時代を、平成の私たちはもはや笑えない、ですね。「失われた15年」のあと、たった2、3年好況が続いただけで浮足立っていなかっただろうか。



 個々の学問分野にしてもそうで、

 それぞれの分野に「バブル」というものが存在する。

 
 どの分野もその旬、最盛期には、「これが決定版だ」と思っています。

 どんなに「決定版だ」と思われた分野も、やがて評価が落ち着いておさまるべきところにおさまります。


 (正田は、生意気にもマルチディシプリンでありたいと願っています)


 そういうことを言っていると今後色々不自由をきたしそうなので、、、



 『昭和のエートス』には他にもいくつか付箋をはった個所がありましたが
 今日の日記ではこのへんで。