「われわれは新しい責任の時代にいる。自分自身、国家、世界に対する義務を負う」


 オバマ氏の就任演説。


「責任」という言葉を、エポックメーキングだととらえるのは、


 何年来、「責任」は嫌われワードでした。

 「責任」より「権利」そして「自由」が歓迎されました。

 あるいは、「自己実現」かもしれません。


 食品偽装をはじめとする企業不祥事花盛りのころは、

「責任とは虚構だ」

 という議論もありました。

 何かあったときに責めを負う、追及する対象を特定するための架空の概念だというのです。

 正田がこうした「責任=虚構論」にくみすることができないでいたのは、


 組織の効率や生産性をみたとき、そこに「責任感ある個人」がどれだけの比率を占め、どう分布しているかがポイントになるからです。

 そして、その人々が少数派であれば、そこに過剰に負担が集中し、仕事量の偏在が起きたりボトルネックが起きたりします。



 さて、しかし「自由」や「自己実現」にくらべると、「責任」は魅力の薄い、「ウザイ」言葉であります。

 コーチングでも、「責任」を強調すると嫌われました。「自己実現系コーチング」が好まれてきました。

 これは日本だけでなくアメリカの思想潮流としてそういう流れがあるようでした。


 これについて語ったアメリカの心理学者セリグマンのコメントは、以前にもこのブログでご紹介したことがありますが、詳しくはこんなものでした:


「セリグマン(Seligman, 1998)は、アメリカ心理学会の機関紙Monitorで、会長のコメントとして、責任感を教えるアメリカの伝統的な子育てが、自尊感情の運動に取って代わられたことを問題にしている。そこでは、親や教師は、子どもたちが自分自身についてよい感情をもつことが何よりも大切だと教えられており、子どもたちは呪文のように「わたしは特別だ」と唱えて、そう信じ込むのだというのである」
(『攻撃性の行動科学』ナカニシヤ出版)


 アメリカでも伝統的子育てでは「責任」を教えてきた。それが自尊感情の運動に取って代わられた、というのです。


「そしてセリグマンは、さまざまな暴力的な犯罪者や少年では、自尊感情が低いどころか、高いのではないかと主張する。そのような少年が、自分自身に対する高い自己価値を認めない親や学校仲間に対して、キレてしまうのではないかというのである。」



 自尊感情一辺倒の育てられ方をした子どもはキレやすいのではないか、とセリグマンは言うのです。

 見方によっては、心理学先進国のアメリカで、心理学会会長自身が心理学による子育てを批判した、とみることもできるかもしれません。


 さて、「自尊感情」ひいては「自己実現」全盛だったアメリカ。

 しかし、個人の「自尊感情」と「自己実現」の「単純な」寄せ集めでは、よい社会をつくることはできません。


 オバマ氏の「新たな責任の時代」発言は、そのことが明らかになったことを宣言し、時代の思潮を力一杯、個々の快不快を超えた理性の側に引き戻そうとする試みのように、私には思えるのです。


 新しものずきのアメリカ人のこと、
 オバマ氏が高い支持を背景に個人個人に突きつける責任論の「ウザさ」に気づいているかどうか、気づいた時どこまで支持できるのか、まだわかりません。


 ちなみに正田は、好きです「責任」。ウザいといわれるのがこわいので小さい声で言います。