関学講師・NPO法人企業内コーチ育成協会理事の川島惠美先生のインタビューをお届けしています。

 今回は

(3)ハワイで学んだ「エスニシティ」「高齢者」

(4)そして臨床心理へ〜「だんまり患者」との出会い

(5)「あなたにカウンセリング受けたくない」〜Tグループにて


一挙3章掲載!


 ずっしり重い、現在の川島先生を作った学びのエッセンスが詰まっています。

 日本の臨床心理・心理学教育研修の歴史もまた…。


 コーチングをする方もそうでない方も、

「自分たちは今どこにいるのか」

 見直してみる機会かもですョ!!
(3)ハワイで学んだ「エスニシティ」「高齢者」


(これまでのお話・YMCAの学生キャンプで育ち、自然とキャンプリーダーになり、対人関係を学ぶことに興味を持った川島先生。関学に進み、武田ゼミの学生に。そして淀川キリスト教病院でソーシャルワークの実習をし、人を尊重し、認めて接するという対人援助の基本姿勢を叩きこまれます…)


 
 3年間そこで実習をやっている間に、私は研究よりも現場がいいな、病院が面白いな、と思うようになっていました。


 当時の武田ゼミの方針は、「ソーシャルワーク(SW)をやるなら、お金と時間が許せば北米に行って勉強してきなさい」というものでした。2年間日本の修士課程でモラトリアム期間を過ごし、TOEFLの点を稼ぎながら留学の準備をする。流れとしてそういう先輩が一杯おられて、それで私も留学するかな…と。


 いくつか志望した中でハワイ大に行くことになりました。マスターコースの同期生の平均年齢は30代半ば。日本なら大学を出てすぐの人も多いのですが、その時クラスの最年長者は70歳の女性で、「修士を終わったらSWとして働くわ」と言っていました。


 アメリカでSWの修士号は、「専門教育を受けました」という資格と同じ意味を持ちます。大学を出てしばらくSWの現場で仕事をして、お金をためて学費を作ったら修士課程に戻って勉強する。そして2年たったらまた現場に戻って、スーパーバイザー(SV)になったり少し高度な仕事をするというキャリアアップのルートがあるんですね。


 武田先生はそういう意味で修士の教育を勧めておられたわけです。現場で仕事をするにしても、専門職になるならアメリカの修士号ぐらいもっときなさい、という。


 ハワイ大が良かったのは、民族性、エスニシティの多様さに触れられたことですね。留学して最初に課題として課されたのは、ソーシャルワークのことではなく、

「自分のエスニシティ以外のエスニシティを1つ選び、その背景を調べなさい」

というものでした。


 その当時のハワイの人口構成は、白人25%、黄色人種50%、あとは黒人、南太平洋出身(サモア、タヒチなど)、ネイティブハワイアン、フィリピン系など。アメリカ本土とは混合率が全然違うんです。国際結婚も多く、混血も沢山いました。日系、中国系、韓国系、フィリピン系などといったコミュニティがあり、その延長に例えば、日系人向けの病院、日系人のための教会等々があります。


 そういう環境ですから、ハワイで仕事をするというのは、その人の持っている文化的背景を知ることが大切なんですね。日本では、抜けがちな発想で、私にはすごく面白くて。日系2世、3世の先生方がおられたんですが、その人たちの文化的背景には明治時代のものが色濃く残っています。日本から留学生が行くと、「武士道について語って」と求められたりする。逆カルチャーショックですね。私は自文化のことを何も知らないんだ、とショックを受けて、日本について日本語、英語両方で書いてある本を日本から何冊も取り寄せました。
 

 アメリカの大学院は授業が2日、実習が2日。「関学方式」はアメリカ的だったわけですね。私も実習に行くために車を買って車で通勤しました。


 最初の1年は、ダウンタウンの近くにあった低所得者層の住む地域のコミュニティーセンターが実習先でした。結構すごいところで、低所得者用のアパートに住むクライエントの家を訪問するんですが、10何階のアパートの上からゴミが降ってきたり、車ですぐに逃げられるようにしておけとか、色々あったんですけど。そこに住むハワイ系の母子家庭を担当させてもらいました。その親子には気に入ってもらって子どもの誕生日によんでもらったりしました。


 そこのコミュニティーセンターでの実習が1年。2年目に入る前の夏休み前、大学の先生に呼ばれ、

「ハワイで実習しているのはいいけれどもやっぱりアメリカ本土とは違う。夏休みの間本土に行きなさい」

と。


 私も異存はなく、そこで先生に紹介してもらったのが、コロラド州のデンバーにあるAsian Pacific Development Center(APDC)というアジア系移民のための精神衛生センターです。


 そこにいる日本人スタッフが日本に里帰りする間その人のクライエントをみることになりました。


 そのクライエントというのは、戦争花嫁でアメリカに渡った5~60歳代の女性たちでした。日本に駐留していたアメリカ兵と結婚して渡米したけれど、夫が亡くなったり離婚したりしてメンタルな問題を持ってしまったような3人の方と、週1回の面接をしました。


 もう1つは、デンバーから車で30分位の老人ホームで、日系人1、2世のお年寄り、おばあちゃん達がいました。そこはいわゆるアメリカ式の老人ホームで、アメリカ人スタッフしかいない。でも歳をとると望郷の念が湧くといいますか、文化的アイデンティティーに回帰するんですね。そこで週に1回、お寿司を作ったり折り紙をしたり、童謡を歌ったりという日本文化に触れる活動をしに行くんです。それも1ヶ月半くらい行きました。


 その時が私にとって初めて高齢者に接する機会でしたね。それまでキャンプに行っていたし、自分は児童や家族の領域に関心があると思っていて。


 25年位前、今ほど「高齢化社会」って言っていなかったころですが、アメリカでは高齢化社会がくるぞ、と言われて、ジェロントロジー=老年学が発展していたときです。「これからは高齢者福祉かも」と思いました。これからの分野だなと感じました。


 そこで、ハワイ大学に帰ってからは老年学関係の科目ををいっぱい取りました。その当時のハワイ大の老年学の先生は、その後に連邦政府に入ったりしています。旬の学問でした。


 そして2年目の実習は、ハワイの日系人老人ホームに行きました。「子ども」と「家族」から一転して高齢者に関心が移ったのです。実習先のホームは、1階にデイケアセンターがあり、2階には養護老人ホーム、上の階には特養で、介護度の高い人が入っていました。 デイケアセンターには、日本からいっぱい慰問が来るんですよ。日本舞踊を見せますとか、手鞠の作り方教えますとか、プログラムには事欠かなくて、私はよく通訳をしていました。


 入所者との関わりとかを実習し、それをレポートにする毎日。日本からもいっぱい資料を送ってもらい、日本とアメリカの高齢者福祉の比較などを論文にすると、安直なんですけどいい成績をもらいました。


(4)そして臨床心理へ〜「だんまり患者」との出会い

 そうこうしながら、日本に帰って高齢者の仕事をできたらいいなあ、と思っていたけど、日本はやっぱりまだまだでしたね。


 当時、いわゆる臨床の仕事というのは、ポジションが空いていたら入れてもらう、という世界で、みんな就職しないでポジションが空くのを待っている。今でも似たような面はありますが。


 私が帰国する直前の行動療法学会で、武田先生があるクリニックの院長から「行動療法のできるセラピストを探している」と言われて、「もうすぐ留学を終えて日本に戻ってきます」と…それで、8月帰国、10月から大阪心理療法センターの非常勤セラピストというポジションが決まって、働き始めました。


 そこは神経科外来に併設されたカウンセリングセンターで、発想が面白いところでした。院長の方針で、流派にこだわらず色々なバックグラウンドを持つセラピストを揃えておこう、ということで、来談者中心療法、行動療法、催眠療法、家族療法等、一通り揃えておいて患者さんが希望する治療スタイルにこたえるということをウリにしていたのです。専任セラピストが1人、ほかに非常勤で色んなバックグラウンドの人が私を含め6人。


 バックグラウンドが違うのですから当然といえば当然なのですが、おもしろかったのは、みんな見立てや方策が違うんです。なのでケースカンファレンスは面白かった。1つのケースに対して出てくる視点が色々で。随分勉強になりました。
 



 ソーシャルワークって、決して心理学そのものではないですよね。でも武田先生の、というか関学の社会福祉は伝統的に、理論や法制というよりも臨床よりという特徴を持っていました。今はだいぶ変わっているのですが、私も含め、当時の教育を受けた者はかなり臨床心理学的な影響は大きく受けていると思います。

 
 一般的にソーシャルワークというと、社会福祉学の理論、制度、仕組みのことをやりますが非常にカバーする範囲が広いために、「ソーシャルワークにはコアの理論がない」ってよく言われるんです。社会保障って、政治学、経済学の世界じゃないですか。面接や援助技術っていうスキルのレベルのことになると、心理、保健、医療…の世界になります。核たる理論がない、ひねくれた言い方をすると、借り物のというか、隣接諸科学を利用するという感じですね。



(正田心の声:それって今の「コーチング」と一緒ですよね。コーチングの場合一番コアに近い理論は行動心理学なのかなー)


川島:私は関学で、ソーシャルワークのミクロ系の実践的なトレーニングを受けたので、心理療法センターという現場で一応使い物にはなったのですが、ただ臨床心理学のトレーニングを受けたわけではないので、働き出してからのOJTで鍛えられた、という面も大きいです。


 患者さんからお金をいただきますからね。50分8000円。「治してください!」と来る患者さんに対する面接の対価がそれです。


 精神科領域の患者さんに、「治す」立場で対するのは初めてでした。必死になってノウハウをとりいれました。研修とかに一杯行って、がむしゃらに方法論を取り入れた感じです。


 鬱病に行動療法で対応するというベックという学者の方法を取り入れて、センターでプロジェクトとして取り組むこともやっていました。


 そうして3年目4年目ぐらいになると、慣れも手伝って、いわゆる「成功する」ケースも出てくるわけですよ。


 最初は「とんでもないところに来てしまった、一体私に『治す』ことなんてできるの?」と思っていたのが、場数を踏むと時にはうまくいくことがある。ばんざーい、という終わり方で終われるケースが出てくる。


 そうすると、だんだん天狗になってくるんですよね。

「私のところにいらっしゃい、みんな治してあげますよ」

というようなノリです。


 ところが5年目くらいから、とてもシビアなケースが続くようになりました。例えば人格障害の19歳の若者で、面接の途中でナイフを取り出したり、面接室から出してもらえなかったり、ストーカーみたいに待ち伏せされたり、とか。


 それは私が最初に見立てを間違えて、普通の不安障害かな、と思っていたのですが、実は境界性人格障害で、そのサインはたくさん出ていたのに見落としていたんですね。


 対応に四苦八苦している時に、先輩セラピストに言われたのは、

「彼がずっとやってくるのは、あなたに、(セラピストとしての)力がついてきたからよ」

と。


 ダメだと思ったら患者はさっさと見限る。楽だというのは、重たいケースが来ないということ。大変だというのは、大変なことを抱えられるようになったことなんだよ、と。当時は、そんなことを言われてもちっとも嬉しくなかったんですが、今考えてみれば、確かにそうだったかもしれません。


 もう1つは、だんまりのクライエントです。50分間一言もしゃべらない面接が2カ月、8回から10回、続きました。あれは勉強になったなぁ。


 その人は最初ほかのセラピストが持っていて、分厚い資料があって色々やってきているんです。なぜ私が担当になったかは、あまり記憶にないのですが…。40歳代の女性で、面接では、まず最初に、

「いかがですか?」

という私の問いに

「こんにちは、おかげさんでやらしてもらってます」

と答えて、その後は一言も発せずです。そのまま50分経って、

「そろそろ時間ですが」

というと

「ありがとうございました」

って次の予約をとって帰られる、というパターンです。


 最初の1〜2回は、黙っているということに対して、私、きついことを言ったりもしたんです。こちらが沈黙に耐えられなくなってくるわけです。で、

「なんで黙ってるんですか、言わないとわからないでしょ」

と。でも駄目。結局しゃべってくれないから、根負けして、前の担当者の資料と患者さんの様子をちらちら見比べながら50分過ごしました。押しても引いてもダメだ、と思った時、「待とう、待つしかないわ」と思ったんです。


 それまで面接って、しゃべってコンテンツがあるのが当たり前でした。言葉ってコンテンツですよね。コンテントのない場というものを、初めて体験しました。


 言葉がないということは、その場の空気、雰囲気を共有し、一緒にここにいることを共有する以外ありません。


「ともにある」ってよく言うじゃないですか。理屈ではわかっているような気になっていましたが、やっぱり会話がかわされているのが前提のような先入観があったことに気づきました。でも黙ってるという形で「ともにある」こともできるんだ、と


 結局その方は2カ月で来なくなりました。満足したのか、見限られたのか。


 当初とても緊張した様子でした。膝にぎゅっと力を入れて、クラッチバッグをしっかり膝の上で握りしめておられるような感じでした。その後だんだん力の入り方が緩んでいくのがわかって、その立ち居振る舞いからヒントをもらいながら、私のほうが変わっていった、という感じです。


 また枠組みの大切さ、ということも学びましたね。50分という制限の中だから、沈黙に耐えられる。「あなたのための時間ですよ」と思える。これが、家の中で日常的に沈黙されたらどうです?耐えられないじゃないですか。


 この他にもたくさん、セラピストしての私を鍛えてくださったクライエントはおられるのですが、特にこのお2人は非常に印象が強く、忘れられない体験です。


(5)「あなたにカウンセリング受けたくない」〜Tグループにて


 まぁ、こういうなかなかにつらいケースを体験して、「私にはこの仕事はむ向いてない、もう勤まらない、辞めてやる!」という気持ちになったこともありました。結局辞めはしなかったんですが、自分を癒そうと思って「Tグループ」に参加しました。


 Tグループというのは、メンバーと場所と時間の枠組みだけが決まっていて、テーマや課題などのない状況で、そのグループが発達していくプロセスを経験していくというような集中的なグループトレーニングです。

 
 部屋の中で輪になって座り、トレーナーは2人いるけれど何をするでもなく、テーマも何もなく、「どうします?」と問いかけたり、自己紹介をしたり…というような何とも気まずいような、表面的なことから始まって、だんだん率直な関係性の中でコミュニケートしていけるようになる、そういうセッションが14回あります。枠組みが決まっているという意味では、エンカウンターグループよりは構成的なのですが、内容的には非構成的です。


 そのグループの中で、私がどれだけカウンセリングの場面でつらい目に遭ったか、しんどい思いをしたかということを切々と訴えたつもりだったのですが、その時のグループのトレーナーは、きつかったですね。


「私はあなたみたいな人にカウンセリングを受けたいと思わない。自分のことだけ考えて、人の感情に気づいてない」

というようなことをいっぱい指摘されてしまいました。


 「えー、何でこんなことを言われなきゃいけないの。自分を癒そうと思ったのに」

と思ったし、本当にきつかったのですが、やはり指摘されたことは正鵠を得ていたわけです。結局私自身、とても防衛的になってしまっていて、自分を守るために自分の感情を素直に出す事ができなくて、まるで物わかりの良い解説者みたいな態度になっていたんですね。

 
 トレーナーにコテンパンにやられた私を、同じグループの人が救ってくれました。もっと正直に、ストレートになってほしいということを、本当にいろんな人から正直にストレートに(!)伝えられたんですが、責められるのではなく、信頼しているから頑張れ…という受容的なメッセージとして伝えられたのです。


 私は自分が人から助けられるタイプだと思っていなかったんです。「困ってることがあったら助けるよ」と言われても、「いいからいいから」とか、強がりを言っちゃう。助けられ下手だったんです。


 それまでの経験が、良くも悪くも恵まれていて、助けられなくてもやってこれていた、ということですよね。人って関わり合うことでお互いを活かすことができるんだ、ということもこのとき本当に実感しました。


 後年、そのトレーナーの先生に「あのとききつかったですよー」と言ったら、「あなたなら何とかなると思って」ですって。

 
 その後、Tグループに関してはトレーナートレーニングに行ったり、ラボラトリートレーニングの実習開発などにも参加し、2000年からは学生向けのTグループも開催するようになりました。また、ワークを多用する研修とか講座とかの依頼が増えてきて、カウンセラーとして面接も持つかたわら、研修のお仕事をするようになりました。就職したのが86年で、1990年ごろのことです。以後90年代の10年間は、私にとっては丁度30歳代で、非常に人脈や領域が広がりましたね。

 
 
 もともとTグループは、1958年に牧師さんのための研修として第1回目が開催され、その後立教大学キリスト教教育研究所(JICE)を中心として展開されました。最初はトレーナーは米国人で、全部英語で進行していたりしたのですが、そのうち日本人のメンバー経験者がトレーナーをするようになりました。


 Tグループはのちに「感受性訓練(sensitivity training)」とも呼ばれるようになり、一世を風靡しました。当初は参加者個人個人を大事にするものだったのですが、企業に注目されて企業内に取り入れられると、だんだんスパルタ訓練みたいになって、5泊6日、6泊7日の合宿研修のようになり、自殺者も出てしまいました。「あなたはなぜ相手の気持ちがわからないのか!」と責めたりしてね。それで暗黒面がクローズアップされて、だんだん下火になっていきました。この当時の様子は「心をあやつる男たち」という題でルポルタージュになっています。


 一方立教大学のJICEではTグループのもとの形のものを細々と続けていて、その研究者の方々が名古屋の南山短大に移ってこられて、またその関係者などが大阪でSMILE(聖マーガレット生涯教育研究所)を設立します。現在では、その3団体に関係しているメンバーによって、年に数回各地でTグループが実施されています。


 実は、何年か前まで私は日本環境教育学会にも所属していました。というのも、SMILEの中にSHEEP(Smile Humanizing Environmental Education Project=スマイル人間性環境教育プロジェクト)というサブグループがあって、環境教育にTグループなどの人間関係トレーニングの手法を活かせないか、ということを考えたり、実践したりするメンバーで構成されています。要するに、環境教育とは、環境についての知識をどれだけたくさん持っているかということから、その知識に基づいて環境に配慮した行動ができるようにならなければ教育としてのねらいは達成できないという考え方にシフトしてきました。一方、人間関係トレーニングが目指すものは最終的に行動変容で、それはずっとやってきたことです。そこで、環境という切り口で人間関係訓練のノウハウを使えないか、ということで1990年代半ばから環境共育ワークショップという2泊3日のイベントを始めました。一番最初は六甲山のYMCAで年に2回。それが発展して関学千刈キャンプでの「千刈ミーティング」になります。10年以上やったから一旦終わり、ということになりましたけど。ここでは、環境教育というテーマではありますけれど、いわゆる参加体験型、ラボラトリー方式の手法を使ったワークショップとして定評がありましたね。


 私は同じ時期に、神戸市社協の市民福祉大学からの依頼でラボラトリー・トレーニングの方式で、正田さんも参加された人間関係トレーニングのプログラム開発を関学の先生たちと一緒にさせていただいて、それが関学で勤めることになってきっかけにもなっています。

(つづく)


 
 学生キャンプ〜武田ゼミ〜淀川キリスト教病院でのSW実習〜ハワイ大大学院〜日本の臨床心理現場〜Tグループ〜環境教育、そして古巣関学、という、駆け足でたどった川島先生の学びの旅。

 いかがでしたか?!


 次回はあす9日(月)、

「正田のここが知りたい!Q&Aで知る川島先生とコーチング、非言語コミュニケーション」

をお届けします。



★川島惠美先生がNPO法人企業内コーチ育成協会の第一回例会に登場されます!

テーマは
「『非言語コミュニケーション』で信頼関係のベースを築く」

 2月14日(土)13:30〜16:30、
 大阪・関学梅田キャンパスにて。


 詳細とお申し込みは

 NPO法人企業内コーチ育成協会ホームページ
 http://c-c-a.jp

から、どうぞ。