きのうこのブログで話題にしたC・イーストウッドの「グラン・トリノ」について、再度。


 イーストウッド作品には「師弟関係」というテーマが繰り返し出てきます。比較的最近のでは、老トレーナーが女ボクサーを育てる「ミリオンダラー・ベビー」という映画には、親子ともども号泣しました。


 「グラン・トリノ」でも、隣に越してきたモン族の、しつけの良い、でも何をしたらいいかわからない、父親と死に別れた少年に、元フォードの自動車工の老人が、家の修繕の仕方を教え、工具の使い方を教え、少年の目が輝きだします。

 仕事がない、セールスでもしようかなという少年に、


「建設現場で働いてみるか?俺の友人のところを紹介してやるぞ」

「え〜、建設?」

 このとき少年は決して乗り気そうではありません。どうやら本当にやりたいことはほかにあったのかなと思わされるのですが、


 老人にあいさつの仕方を教えられ、建設現場の主任に紹介され、そして工具店でヘルメットや工具を見繕ってもらうと、


 背筋が「しゃん」と伸びます。街を歩いていても、腰回りにつけた工具がガンマンの拳銃のようです。


 内容はどんなものでも、仕事をするということが一人前の人として認められることであり、そのことの前には本人の願望として何をやりたい、ということはさして大きな問題ではない、と言っているかのようです。


 あるいは、セールスという「虚業」よりはウソのない「ものづくり」を、という、イーストウッドの価値観の反映だったかもしれませんが。


(営業職の読者のかた、もし気をわるくされたらごめんなさい。誠実なやりかたでの営業職もあることはよく知っています)
 


 さて、正田はこのところ、「育てなおし」というキーワードに凝っています。


先日、ある会合で会った女性が

「私は結婚した先の家(婚家)で『育てなおし』をしてもらいました。みな大家族なのにとても仲が良かった。『ええ加減でも、何とかなる』ということを教えてもらいました」

と発言されたことがヒントに。


「『育てなおし』、いい言葉ですね。日本中で『育てなおし』が起これば、いい方向に行くかもしれませんね」


 正田も、自分の実家(厳格で子どもぎらいの家風)から婚家(「超」のつく子どもずき、密着子育てずき)に移ったときの感覚を思い出しながらいいました。


「育てなおし」は、思うに「コーチング(=狭義には、相手の行きたい方向に行かせること)」よりも少し「おこがましい」語感のことばです。


「教える」とか「躾ける」ということが、より多く入っています。

 
 ただ、純粋形の「コーチング」がうまくいくというのは、相手が人間としての基本的なしつけができていて、自分のとった行動で相手がどう感じるか、他人の利害や感情を侵害していないか、ということについてある程度の想像力がはたらく、ということを前提にしているような気がする。


 もし大人になってもそういうことが身につかないまま来てしまった人だったら、「育てなおし」というアプローチが必要になるかもしれない。



 「グラン・トリノ」に登場する少年「タオ」の場合は、先にも書いたように

「しつけの良い、でも何をしたらいいかわからない、父親と死別した(=男性のロール・モデルのない)」

という設定だったのです。


 実は、比較的「育てなおし」を受け入れる素地のあった人なのではないか、と正田は思います。


 また、「育てなおし作業」の前段に、老人が少年とその姉をならず者から救ったエピソードがあり、老人の人格や価値観に少年が信頼を寄せた、という前提も見逃してはならないでしょう。


 たんなるテクニックで「育てなおし」ができるものではないのです。



 アメリカでも日本でも、今、社会のあちこちで「育てなおし」が起これば。


 そのとき「コーチング」は、「育てなおし」をうまくいかせるための一つの部品となるかもしれません。

 (でも、大切な部品なのですが)


 「企業内コーチ」の中身も、「企業内育てなおしコーディネーター」のようになってくるかも。。それもよい、と正田はおもっています。