「自己観」とそこから出発した「倫理観」が欧米とそれ以外の世界で大きく異なり、前者は「開放系世界」を前提とした「アトム的自己」、後者は「閉鎖系世界」を前提とした「つながりの自己」が多くみられる、というお話。


 今回は、1980年代に日本で起きた「エイズ・パニック」と、それについての日米の認識の差について。


「日本社会のエイズ問題への初期反応には、ひとつの大きな特徴があった。それは危険の規模に比べて、そこに生ずるパニックが並はずれて大きいことである」
(『環境世界と自己の系譜』、p.54)


 どこかできいたようなみたような。つい最近の新型インフルエンザ対応で、当初やはりそれに似た反応がなかったでしょうか。


 
「1987年、神戸で一「売春婦」がエイズ患者と報じられて起こったパニックはすさまじかった(正田注:神戸だったんだなあ〜)。…しかしいったん上記の報道がされるやいなや、京阪神の保険機関は問い合わせと検査希望によってほとんど麻痺状態におちいった。その後わずかの期間に万を超えるエイズ抗体検査を行っている。その間数千人の日本人セックス・ワーカーが検査を受けたにもかかわらず、驚くべきことに、そして幸いにも、感染者はゼロであった。

 だがパニックの二カ月間、読売、朝日、毎日の三紙はそれぞれ78、77、69件のエイズ関連記事を掲載している(同期間ニューヨーク・タイムス92件、ワシントン・ポスト41件)。したがって、エイズ流行の現実の規模や流行のポテンシャルを考慮すれば、マスコミの報道は危険を途方もなく過大視している。」(同p.54~55)


 
「パニック現象と合わせて日本人には不快刺激に対する恐怖と不安が強く、また自分と刺激のあいだに距離を置こうとする傾向−それはしばしば不必要な差別になる−も大きいように見える」(同p.56)




 新しい、とりわけ疾病について、パニックを起こす情動というものが、わたしたち日本人にはたしかにあるようです。


 新型インフルエンザについては、5月の時点ではまず過剰反応、次いで7〜8月には奇妙な楽観視、現在はやっと新型インフルの症状を分析し、冷静で戦略的な対応、というところに落ち着いたといえるのではないでしょうか。そこに落ち着くまで日本では数カ月を要しました。




 またお話はもどって、上にあげたようなエイズに対する反応を経て、日本でのエイズ患者数は諸外国との比較ではごく緩やかにしか増えず、94年に新規に出た患者は136人、感染者は298人でした。同じ年のタイでは患者数は6458人でした。



 なので「恐怖反応」のお蔭もありかなり効果的に抑え込んだといえるのですが、そんななか92年、アメリカではある会合でエイズが話題になりました。そのときアメリカ人は「日本はエイズの流行阻止で10年遅れている」と主張し、同席した日本人の医師、会社員、旧厚生省の官僚、らは、それに賛意を示した、というエピソードがありました。


 数字の事実をみる限りアメリカの主張(日本はエイズ流行阻止で10年遅れている)は事実から離れており、そこに日本人が恐縮して仰せごもっともとする態度はおかしいのでした。


 著者はこれを、ふたつの倫理−

一方は「傲慢」、「尊大」、「自信家」、「強がり」

もう一方は「卑屈」、「自己卑下」、「謙譲」、「宥和的」

による、認識の偏りの表れだとします。



「生存戦略として、自己と周囲がまったく切りはなされ、そして潜在的敵対者である他者に囲まれたとき、独立した生存に必要な自己は強くなければならない。いま自己と自我を同義的に用いるならば、心理状態としては、自己高揚、自我拡張をつねに強いられる。

逆に、自己と他者がつながっている文化では、生存戦略としての協調を保つためには、他者の意向を組み入れるばかりではなく、つながりを傷つける言動を抑制する。自己卑下と自我縮小は、良好な関係を存続するために必要な心理機制であろう。

もう一度見逃してはならないことは、自我拡張も自我縮小も、心理機序としては、本人の表層意識には浮かびあがってこない「深層」において、はたらいている事実だ。とすれば、両者において、エイズ流行現象の「疫学的客観性」から反対方向に乖離した認識が生ずることは、まず避けられない。その認識の差は、両者が同席したとき、ことに顕著に現れる。」(p.68,改行正田)

 

 
 自我拡張傾向にある「アトム的自己」の持ち主と、「自我縮小、自己卑下、自己無化」傾向のある「つながりの自己」の持ち主が同席すると、それぞれ特有の認識の偏りを起こし、自我拡張はいっそうの自我拡張へ、自我縮小はいっそうの縮小へ、偏っていくという現象になるのでした。

 つまり、一方は
「あんたはけしからん、あんたはダメだ」
と言いつのり、他方は
「すみませんごもっともです」
と、どこまでもへりくだる、ということが起きてしまう可能性があるわけです。


 「謙虚」という美徳を繰り返し教え込まれている人であれば、場面と相手によって、不当に不都合な目にあうことを余儀なくされるかもしれない。

 
 このブログの読者のかたには、心当たりはありますでしょうか。





 
神戸のコーチング講座 NPO法人企業内コーチ育成協会
http://c-c-a.jp

『環境世界と自己の系譜』の読書日記
「日本人の自己観と幸福観」シリーズ、インデックスを作りました!!
2015年10月現在読み返してもなかなか面白いことを言っております。
よろしければご覧ください:

日本人の自己観と幸福観(1) −『環境世界と自己の系譜』より
http://c-c-a.blog.jp/archives/51515101.html

日本人の自己観と幸福感(2)−「つながりの自己」と「アトム型自己」
http://c-c-a.blog.jp/archives/51515159.html

日本人の自己観と幸福感(3) −心理学が強化した「アトム的自己」観?
http://c-c-a.blog.jp/archives/51515163.html

日本人の自己観と幸福感(4)− ふたつの幸福感、離脱肯定とつながり肯定
http://c-c-a.blog.jp/archives/51515305.html

日本人の自己観と幸福感(5)―エイズパニックにみる、自我拡張と自我縮小の出会い
http://c-c-a.blog.jp/archives/51515882.html

日本人の自己観と幸福感(6)―江戸時代に完成された「閉鎖系」の倫理観
http://c-c-a.blog.jp/archives/51516148.html

日本人の自己観と幸福感(7)―アトム的自己観を前提とする不幸
http://c-c-a.blog.jp/archives/51516790.html

日本人の自己観と幸福感(8) ―「つながりの自己」は万能か
http://c-c-a.blog.jp/archives/51517365.html

日本人の自己観と幸福感(9)―不安にみちた現実世界と世界仮構のいとなみ
http://c-c-a.blog.jp/archives/51517379.html