『環境世界と自己の系譜』(大井玄著、みすず書房、2009年7月)という本の読書日記であります。


 年に何冊か、こういう付箋をはりながら読みたい本に出あいます。

 教えられるところが多く、コーチングの副読本に指定したいぐらい。


 
 これまで、欧米に多い「アトム的自己」とそれ以外の世界に多い「つながりの自己」、さらにそれぞれに端を発した生存戦略としての倫理観をみてきました。


 では、日本に顕著にある「つながりの自己」観、またそれが前提とした「閉鎖系世界」は、どの時代にどのように形成されたのでしょうか。


 
 上下、相互の信頼関係に結ばれた慈悲深い平等・公正な政治の実現を目指した古代の「17条の憲法」を経て、


 中世にはアメリカ並みの「開放系社会」が出現し、そこでは人々は自立自尊の精神で武装し、殺し合いも辞さない生き方をします。


 そして、江戸期は。


 鎖国によって世界史上かつてない「閉鎖系社会」が生まれ、そこで人びとがどう生きていたかというと…、


 人々は「幸せ」を実感し、自由で独立的だったというのです。さらに貧富の格差は小さく、上下関係は丁寧で温和で、一般に満足と信頼が行きわたっていた、と。

 
 これらは幕末に日本を訪れた多数の欧米人の観察にもとづいたものだそうです。


 なぜ、そういう状態が生まれたのか。


「たしかに幕藩権力は国政レベルのキリシタン禁圧、年貢の取り立て、一揆の禁令などに強権をふるったが、民衆の日常生活の領域に立ち入ることは可能な限り避けていた。つまり民衆の共同体には自治の領域が存在しており、その自治は一種の慣習法的権利として幕藩権力といえどもみだりに侵害することは許されなかった。しかもフィッセルは、政治の実権が下級の者に移行していること、法は平等であること、華飾は将軍から下賤の召使にいたるまで制限されていること、上級の者は窮屈な儀礼に縛られ自由がないのに下級の者に対する支配がとくに緩やかであること、などを挙げている。

 そうだとすれば、社会で上にいる者には、その高い身分にともなう徳義上の厳しい義務つまりノブレス・オブリジェがあり、下に行くほど自由であったのだろう。身分制度を超えて本来人は平等であるという理解があったものの、固定的身分に応じてその義務を果たすことが求められた。つまりそこには上に厳しく、下に緩やかであることにより達成される、貧しいが「平等化された社会」の姿が浮かび上がる。それは、貧しい循環型生活を営む閉鎖系の社会で身分的機能の区別を立てる場合、不公平感を抑えるために必要な倫理的行為基準である。倫理意識のうえでは、上層の者ほど明瞭に、他者に対する徳義上のつながりを意識させられる仕組みになっていた。」(pl.185-186)




 「閉鎖系社会」で身分が「上」でいることは、並はずれた道徳観念を体得し実践することを義務づけられることであったらしい。
 
 多くの人々が「しあわせだ」と実感できる社会、には、ひとつの大きな要因としてそれがあるようです。


 そうなんですって、受講生の皆様。



 そして、こうした「閉鎖系社会」は、環境面にもプラスにはたらいていたようです。

 


 
「徳川末期から明治初期にかけて来日した欧米人が驚いたことのひとつは、山川草木つまり自然が優れて保たれていることだった。…そこには勤勉、相互協調と生活物資をリサイクルしながら生きることを前提にした閉鎖系の倫理意識がつよく働いていた。」(p.178)




 「結局、完全な閉鎖系で比較的脆弱な環境条件のもとに、人口収容能力の限度まで人口が増えた社会が何世紀も環境崩壊を起こさず存続するという事例が、日本にあった。そこにはダイアモンドが気づいたように、幕府統治下の安全な社会があり、森林資源の需要と供給のバランスを崩さない長期の環境保護政策が立てられ、家の制度のようにもっともよく責任を果たす者をつうじて次世代へのつながりを保証する工夫がなされていた。しかも化石エネルギーに頼らない徹底したリサイクル型の生活様式・文化が編み出されたが、そこに認められる倫理意識は、分を超えた欲望の自制、勤勉、そして争いの回避と協調であったようにみえる。」(p.182~183)




 歴史上、自然環境が荒廃した地域と時代というのは、要するに人と人との争いが多かった。環境の制約を超えて、際限なく欲望がふくらんだ。

 江戸幕府はそれらの要因を、丁寧につぶしていた、というのです。

すぐれてシステム思考的だった、というべきか。
 


 こうしてこの本を引用して書いていると、私自身いささかナショナリズム的な思いにかりたてられないではないですが、


 先だって読売新聞で元駐日大使のアーミテージ氏が、

「日本人の一部には江戸時代に帰りたいという願望があるようだ。だがそれは不可能だ」

と警鐘を鳴らしていましたが、この本(09年7月刊)のような言論が出てきていることが背景にあるのかもしれません。


 さて、しかし現代日本の私たちも江戸時代に形成された倫理意識を大いに引きずって暮らしているとするなら。それは調査でかなり確かめられているわけですが、


 当然、鎖国ではいられないグローバリズムの時代にどう生きるかの指針が求められるでしょう。


 続きは次回の記事で。



神戸のコーチング講座 NPO法人企業内コーチ育成協会
http://c-c-a.jp

『環境世界と自己の系譜』の読書日記
「日本人の自己観と幸福観」シリーズ、インデックスを作りました!!
2015年10月現在読み返してもなかなか面白いことを言っております。
よろしければご覧ください:

日本人の自己観と幸福観(1) −『環境世界と自己の系譜』より
http://c-c-a.blog.jp/archives/51515101.html

日本人の自己観と幸福感(2)−「つながりの自己」と「アトム型自己」
http://c-c-a.blog.jp/archives/51515159.html

日本人の自己観と幸福感(3) −心理学が強化した「アトム的自己」観?
http://c-c-a.blog.jp/archives/51515163.html

日本人の自己観と幸福感(4)− ふたつの幸福感、離脱肯定とつながり肯定
http://c-c-a.blog.jp/archives/51515305.html

日本人の自己観と幸福感(5)―エイズパニックにみる、自我拡張と自我縮小の出会い
http://c-c-a.blog.jp/archives/51515882.html

日本人の自己観と幸福感(6)―江戸時代に完成された「閉鎖系」の倫理観
http://c-c-a.blog.jp/archives/51516148.html

日本人の自己観と幸福感(7)―アトム的自己観を前提とする不幸
http://c-c-a.blog.jp/archives/51516790.html

日本人の自己観と幸福感(8) ―「つながりの自己」は万能か
http://c-c-a.blog.jp/archives/51517365.html

日本人の自己観と幸福感(9)―不安にみちた現実世界と世界仮構のいとなみ
http://c-c-a.blog.jp/archives/51517379.html