7月に当協会の講座を受講された、国際大学連合(IFU)理事長、北中寿教授との対談を全5回でご紹介しています。

 第2回の内容は…。


(2)大切にしたい"criticism"

-もくじ―

1.教えることの中の「傷つけ」の問題

2.自己啓発セミナー、変性意識とコーチング

3.大切にしたい"criticism"
1.教えることの中の「傷つけ」の問題


正田:ありがとうございます。もう1つのポイントで、「傷つけない」ということなんですが、これもきっかけがありまして。

 一時期私ビジネススクールに行って、MBAをとろうとしたことがあるんですね。で1か月半ほどで退学してしまったんですけれど、そのビジネススクールの看板講義というのがありまして、まぁロジカルシンキング系の講座なんですけど、その講座を担当された先生の手法というのが見事に傷つける手法だったんですね。

 たとえば生徒さんの宿題を、それも間違った例をオープンにして笑いながら公開する、ネタにするとか、どこが悪かったかを言うとかですね。それをみて、ものすごいインパクトはありました。その手法で、おそらく心に傷をつけると、その傷のところに教えが入るということを意図してやっているんだろうなということはわかったんです。

 でもね、見てましたら、それを学ばれた受講生さん方は、どんどん人格がわるくなっていったんです。人の揚げ足をとったり、足を引っ張ったりという行為が目立ちました。やっぱり生徒って、先生から講義内容だけを学ぶんではなくて、人格の在り方を全部学んでると思うんです。そういう、先生は人格面とかあらゆる意味でモデルになってしまうと思うんです。


北中:言われるとおりだと思います。故意ではなくて何らかの形で生徒を傷つけている先生は、いまだにいると思います。日本の言葉で「先生と言われるほどの馬鹿でなし」というのがありますが、先生になるとお山の大将になってしまって、そして生徒という自分よりも知識のない人たちに「教える」、また自分の知識を教えるとなってしまうんですけど、そこのスタンスから間違ってるんです。

 英語のほとんどはラテン語ないしギリシャ語からきているんです。その意味のルーツをものすごく大事にして、英語は生まれてきています。Educationはeducatorというラテン語からきているんですが、それは「教える」じゃなく「引き出す」なんです。生徒一人一人のいいところを引き出す。弱点をカバーしいいところを引き出す。それは教えるということじゃなく、自分の知識を披露することでもなく、1人1人の生徒をみて、才能を引き出していく。

 正直言ってその傷つけてる先生は、自分では気づかないと思うんです。日本では、External(外部)のexamination(試験)をやる機構がないんです。だから間違った教えを何十年も教えていても、それは教師として通用するんです。本来は間違っていることも多くあるはずなので、ほかからのまったくの外部の試験官がきてチェックする。カリキュラムの内容から試験から授業から。全部チェックすることによって、スタンダードを保てると思うんですが、今日本ではそれをやってないんです。だから間違いに気づいていないケースもあると思います。


正田:ああ、そうですか。


北中:教えるということは本当にむずかしいことで、かなり先生方が学んでやっていかなきゃならない、と。

 そしてもう1つ先生の言われたポイントは、心の傷というのは、どこまで広がってしまうかわからないんです。便利な、貼って傷を治せるようなのはないです。薬もないかもわかりません。それがトラウマになるかもわからないです。そうしたら、才能を引き出す立場のはずの人たちが、ひょっとしたら才能をダメにしているんじゃないか。そうしたら、それ自体はもう教育でも何でもなくなると思うんです。

 ただ先生とお会いして色々みてますと、授業だけでなく、すべて毎日の生活に、人を傷つけないようにしよう、人のいいところをなるべく見ていこう、とされているので、ああなるほど、みんなが「正田先生みたいになりたい」ということがわかってきました。

 ただ先生、僕らはなかなかなれないです(笑)。先生の10分の1でもなれればいいとは思うんですけど、決して易しいことではないと思います。

 それからすると、コーチングはテクニックではないということですね。


正田:あ、おっしゃる通りです。


北中:まず自分自身がコーチングできる人物になれるかどうかだと思うんです。今後先生の目指されるコーチングが、そっちのほうに力を入れていってもらえればいいなあ、と。マニュアル化された、「これさえ覚えればコーチングはできますよ」というものにしてもらいたくないなあと。ひょっとしたらそういうコーチングは、主流になりつつあるかもしれないです。受けがいいコーチングとか、なるべく簡単に学べるコーチングとか。

 ひょっとしたら、学ぶということは、右へ行ったり左へ行ったり、寄り道をしたりして、学んでいくものなんで、「本当の意味のコーチング」というポリシーというかコンセプトがいると思います。それを先生にすごく期待しています。

 僕もだいぶん頭がぼけてますから(笑)時間がかかるんですが、時間さえ貰えれば、ゆっくりなんですけど学んでいかして貰いたいです。





2.自己啓発セミナー、変性意識とコーチング


正田:わぁ〜、素晴らしいです。

 傷つきということに関してもう1つ補足をしますと、実は自己啓発セミナーというものの手法がありますね。典型的なのが、目張りをした部屋で自分の過去の人生を洗いざらい吐き出させて、一度それを全部否定してしまう。「あなたの人生は全部間違っていました」と。で、一度全部まっしろにしてしまったうえで、成功哲学の「願えばかなう」とかの教えを押し込んでいく。見事に成功哲学の権化みたいな人ができあがる、と。それは要するに、心を傷つけるのではなく破壊してしまうと、教えを押し込みやすくなる。


北中:それはもう今では日本ではないと思ってたんですが。昔すごく流行ったと思うんです。会社から社員を送り込んだりして、それは速やかに結果が出せるということでやったと思うんですけど、あれ自体は僕は学問でもなんでもない、と思うんです。どちらかといえば、変わった宗教団体みたいな感覚で。Brainwashをしてるんじゃないでしょうか。ただ、それをやると一時的には「ハイ」になりますし、人格は破壊してますから、素直になんでもきく。それは拷問の手口だと思うんです。あれ自体は、アメリカから、セールスマンの教育として入ったと思うんです。


正田:あ、そうですね。


北中:もうアメリカでは僕はやっていないと思いますが…?


正田:やってないんでしょうか。日本には今でもあるときいています。


北中: 僕はあれは、毒の部分だけで、そして学問でもなんでもない。危ない手法だと思います。ただ、そういうのは、また違う形で出てくると思うんです。名前を変え、手を変え品を変え。あのパターン自体は同じのを使うと思うんですが、それはたぶん、ある面で日本人受けし、そしてある面で、経営者が好む社員をつくる。ただ、先生の言われるように、正直言って拷問です。あれは異常だと思います。僕はもし日本にまだあるならば早くなくなってもらいたいと思いますが。


正田:一定の勢力を持っていますね。私どもがなぜ、「コーチング」という名称にこだわって、なおかつそれに「企業内」とつけるのか。実はそことの関係性がすごくあるんです。

 といいますのは、コーチングで「オートクライン」というお話をします。人が話しているうちに、「自分はこういうことを考えていたのか」と気づく、そして行動しやすくなる。そういう現象を利用するんですけれども、実はそれは「変性意識」と言う言葉がありますね。意識のある種の変容、あるいはちょっと催眠に近いもの。広い意味ではそれの一部なんです。そして自己啓発セミナーもそれを一番毒々しい形で悪用した。変性意識というものをですね。


北中:わかります。


正田:広い意味では同じところに属してしまっている。でも、この「オートクライン」ということを、人類はいいことに使えるはずなんです。それは、他から強制されたのでない、自発的な学習とか成長ということですね。この「学習」とか「成長」という、ここにこだわるときに、私はやっぱり「コーチング」という言葉に行きつくんですね。人の成長を促すための関わり、という。





3.大切にしたい「criticism」


北中: 私がよく先生に「どう思われますか?」ときく質問の中に、criticism(批判)ってあると思うんです。Criticismは、学問の上ではどうしても必要。ただ日本人は、その言葉をマイナスの要素としてとっていると思うんです。それは何かといいますと、社長の言うことに質問してはいけない。会社の方針に逆らってはいけない。そこに日本の何か変なものが出ていると思うんです。Criticismというのは悪い意味ではなく、「えっちょっと待って、それ違うんじゃないか」という要素がどうしてもなければ、brainwash(洗脳)を受けやすいんです。


正田:そうですね。


北中: Criticismとは、1つの例として若い人たちのファッションで答えれば、「みんながやってるからいい。みんながこの服を着ているからそれがファッションなんだ」ではなく、「いや、ちょっと待って私に似合うかしら?」それがcriticismなんです。

 それは、criticismというのはマイナスの面もありますが、それは英語ではシナクルっていう言葉に変わるんですが…。

 Criticismはそういう意味ではなく、ある意味「承認」には必要だと思います。それがないと自己判断力がないっていうことに。そして言われたこと全てを受け入れる人になり、承認することもできなくなると思います。

 生徒も、「先生こう仰っているけれども、僕はこう考えるんですけれども間違っているでしょうか」という質問もしてもいいし、先生が「あ、なるほどそういう見方もあるんだ」「だけど、その意味はこうなんだよ」と、やることによって、また一層「あ、なるほど」という、奥の深いところまで入っていけると思うんです。

 そしてもう1つはSelf-criticism、自己批判。他人のことばかり批判していてもしょうがないです。やはり自己批判もしなきゃならない。自分が間違っていることもあるんじゃないか。僕が学びたいのは、criticismと承認。ひょっとすればこれはコインの裏面であり、表面の両面をなしているんじゃないかなあと思うところはあるんです。

 正田先生の話しながら間をとる意味は、

「どうですか、質問がある人は質問して下さい。わからない人はわからないと言ってください」
「違うと思う人は、違うと言ってください」

という「間」を置くということ。それが、「間」の意味だと思います。


正田:なるほど。


北中:だから生徒は、質問するときは質問すると思うんです。みんな、そうだったです。


正田:はい、はい。


北中:質問して、納得するからよけい学べるんじゃないでしょうか。


正田:おっしゃる通りですね。


(続く)




次回記事は―

北中×正田対談(3)―教育は間違いに気づくのに10年かかる!

1.教育は間違いに気づくのに10年かかる!

2.学ぶ人の質の問題―企業内研修の限界―

3.「あなたは素手で戦っている!」