このところ「叱り上手の先生が慕われる」という意味のことを続けて書いているので、

「じゃあ、『承認』−認める、ほめる? から学ぶなんてまだるっこしいことをするより、『叱る』スキルから先に教えればいいじゃないか」


というご感想を持たれる方もいらっしゃるかもしれません。


 それはこのブログもいささか舌足らずだったところがあって、やはり「認める・褒める」が人を伸ばす基本だ、ということは変わりがないのです。ただ非常時には「叱る」技も使えることが大事だ、それがないと秩序維持ができない、倫理的な善悪の観念も伝えられない、というお話です。




 べつの言葉でいいますと、人は、「ほめられた嬉しい気持ちから学ぶ」「達成感から学ぶ」といった、「快感学習」からのみ学ぶのではなく、「痛み刺激」からも学習することができます。ただし、その頻度は「快感学習」ほど頻繁には起こりません。



 「自分は叱られて伸びた」ということをおっしゃる方の「伸びた」記憶にも、バイアスというか、「記憶の編集」がかかっているのではないか、というのが、私の考えです。



 以前、コーチング講座の「承認」の回に来られたある経営者の方が、


「勤めていた会社である新規事業の提案をしたところ、上司に『おまえの会社じゃないんだぞ』と言われた。それが悔しくて起業した。私を一番伸ばしてくれた言葉は、上司の叱責の言葉です」


 と言われました。


 「叱られる」という痛み刺激が、自分にとって最大の成長要因だ、と感じる人もいるんですね、と私はお答えしましたが、


 あとできくとこの話に出てくる「上司」の方は、それまではこの経営者さんをよく認め、励まし、社内的に引いてくれた人だったのだそうです。


 それで、起業したあとも、この「上司」とのお付き合いは続いているのだとか。



 恐らく、この人がその会社で経営幹部になるまでの成長には、そうした上司の方の日常的な温かい支援の眼差しがかかわっていたでしょう。その上司が厳しい言葉をかけたからこそ、「なにくそ」と力が湧いたでしょう。また起業するほどのビジネスノウハウの蓄積にも、上司のそれまでの関わりがあってこそでしょう。



 と、いうわけで、私は「痛み刺激『だけ』が自分を成長させた」という人の言葉をあまり信用していません。


 むしろ、そういう記憶を信じてしまうと、他人を成長させようとするとき痛み刺激「だけ」を与える人になってしまうことが気がかりです。


 「痛み刺激」の記憶は、生存に関わるため強く記憶しがちです。


 
 うちの子どもたちが尊敬する先生方について、「こわい」「よく叱る」というのも、当然私は割り引いて聴いていて、

 丁寧にききだすとそうした先生方も、ふだんの生活では子どもたちをよく褒めているものです。あるいは、あからさまに言葉でなくても、なんらかの形で「認めている」ことを伝えていたりするのです。


 (過去のこのブログで「コワモテ系の先生が人気」などと書いたりしたとき、実はそれらの先生が非常時以外は大いに褒めてくれる先生であることは、あまりにも当然の前提で書きもらしていたようです)


 
 そのように、自分の成長に関する記憶にもバイアスが入りやすいことを考えると、

人を指導するときの心得として、たとえ受け手の側に少々違和感があろうとも、「褒める・認めることは大事ですよ」ということは、繰り返しお伝えしなければならないのです。


「叱ることは大事だ」というのは、あくまでその次の段階のお話です。



(ただここでまた補足しますと、世間一般の自己啓発や成功哲学、心理学のセミナーの中に、どうも「人は快感学習からしか学べない」という意味のことを信じさせているものがあるようで…、
商業教育ですと、サービス業ですから「快」ばかりを与えるようになるのは自然の流れなのですが、不幸にしてそうした教えを信じてしまった若い人たちはどうなるのだろう、といささか憂慮してしまうのです)






 
 急用のため、23日に予定している「よのなかカフェ」は、ファシリテーターを交代し、テイクウィングの谷口義行さんが担当されます。


 また、24日に予定していた「プレゼンテーションとフィードバック」勉強会は、残念ながら中止とさせていただきます。お申込みいただいていた皆様、誠に申し訳ありませんでした。

 





神戸のコーチング講座 NPO法人企業内コーチ育成協会
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