少し前のお話。


 今年の3月、文芸部の部長と邦楽部の部長を歴任し「リアル『もしドラ』女子高生」である(だった)長女が、ぷんぷん怒って帰ってきた。



「生徒会の決定で、各部の部長たちが新入生歓迎の劇をやれっていうのよ。演劇部がシナリオ書いて、30分くらいで。

しかもすっごい上から口調で『やってもらうことに決まりました』って。

部長たちみんな忙しいし、劇なんて素人だしすきでもないし、練習時間もないし、何言ってるのよ!って感じ」


 組織図では、生徒会のほうが各部長より上にあり、生徒会で決定したことには逆らえない。



 彼女は腹の虫がおさまらず、翌日も何人かの部長をつれて生徒会へ抗議に行ってきた。


 先方は平謝りだったが、劇の実施については「もう決まったことだから」という。


 その後の部長会では、生徒会の役員がこんどはまじめに頭を下げ謝罪しながらも、やはり「劇はやってください。よろしくお願いします」という。




 そして春休み中に1回の練習の後、新歓の劇はしたが、部長たちはろくに発声練習、発音練習もしていないので、聴衆に声が届かず、やはり散々な出来だったようで。



「ふ〜ん、なぜ部長に劇をやれ、ってそもそも言ったんだろうねえ?部長達なら責任感が強いだろうから、逃げないだろうから?」


「あたしもわっからへんけど…、顧問の先生も立ち会いの会議だったみたいよ」



 
 これは、「ファシリテーションのよくある間違い」なのだと思う。


 自治体さんなどでは、「ファシリテーション」が素晴らしくいいものだみたいに言われて、住民参画の話し合いの場などによく使われている。


 
 ところが、私に言わせると、和やかな「ファシリテーション」の場では、意外に思いつきレベルのアイデアが勢いをもち、最終的に「みんなで決めたことだから」と、あり得ないような権力をもってしまうことがある。


 ネガティブチェックの働きにくい、和やかな空気を優先したファシリテーションの下で、むしろそれはよく起こる。その場では成功したかのようにみえる会議が、実は大変な間違いを犯していたりする。


「部長たちにやってもらおうよ」
「いいねえいいねえ」
「それでいこう」


 場の和やかな(そして少々軽はずみな)空気を壊すまいとするあまり、

「それは、この場にいない当事者が納得しないの違いますか」

みたいな、水を掛けることは言えなくなってしまう。


 何しろ、「その場にいる人」同士仲良くすることが至上命題だから。「その場にいない人」の気持ちなんか考える必要はないのである。



 だから、会議ではけんかしたほうがいいのである。ほんとは。



 
 数日前の県立西宮高校校長の説明の中で、単位制高校のための検討の歴史に触れ、

「平成20年9月から12月にかけて県教委の方とともに何度か勉強会、『単位制高校とは何ぞや』について周知とともに、アイデア出しをした」



という言葉があったので、

ああ、「ファシリテーションかぶれ」をやっとるな、コイツは、と思ったのである。そういう人に限って、「アイデア出し」という言葉がすきだ。


 コンサルの先生がやるような和やかな、一見破綻のないファシリテーションの下で、「アイデア出し(ブレスト)」をする。


 自治体の中にもそういうこと(ファシリテート)が上手い人がいるらしいけど、でもファシリテーション研修の場と現実とは違うのだ。「みんなで話し合ったこと」の結論が全然間違っていることなんてしょっちゅうある。



 でも、ファシリテーション研修を受けて、なまじ上手い先生のやつを受けて、ファシリテーション幻想をもった人達は、永遠にそういう間違いを繰り返す。
そして、間違いを認められない。現実のほうを見ない。


 1人で決めたことと比べて、「みんなで決めたこと」は、間違いを認めたり引っ込めることが難しい、という欠点もある。



 私は何しろ、先日うちのNPO総会で議論したことだって、正直信じてないもん。あんまり民主的な頭じゃないのだ。「衆知を集める」は、正しいときもあるしそうでないこともいっぱいある。


 
 最近うちの団体にも、

「コーチングは本屋の棚が縮小されてますね。ファシリテーションの方が今、説得力をもちますね。応用コースにファシリテーションを入れませんか」

という話があったけど、それは「ナイ」と思います。


会議ファシリテーションなんて、わざわざ習う必要はない。「承認」をふくめたコーチングの技1つ1つを磨き、発言の少ない人から意識的に丁寧に話を聴き、なおかつ「本質は何か」をみる目を養えば十分です。




神戸のコーチング講座 NPO法人企業内コーチ育成協会
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