「対話」と「議論」を対比させて、議論は勝ち負けをきめるわるいもので対話はいいものだ、という考え方がある。


 システム思考、ワールドカフェなどではそういう。


 ところで、よのなかカフェは哲学カフェの流れを汲んでいるのだが、哲学カフェは「議論」をする。フランス革命のときの啓蒙思想家たちが議論していた風景を想像すれば、自然だ。


 阪大の哲学カフェの創始者、本間直樹氏が出席したときのカフェでは、相当アグレッシブに、


「あなたはこの語を先ほどこういう意味で使っていましたが今は別の意味で使っている。どちらの意味が本当なんですか」


と、やっていた。



 「感情」を重視するか「思考」を重視するか、の違いといってもいい。



 ここでも正田は二者択一じゃなく二者統合(なのか、二者混同なのか)をやっていて、「対話も議論も両方やればいいじゃん」という考え方をする。


 個人的な思いや体験は、否定しようのないことだから「対話」をすればいいし、パブリックな事柄や思考の領域のことについては「議論」をすればいい。



 議論を対話と比較してわるいもの、とする考え方は、どうも、欧米のエリートの競争社会でディベートが相手をやっつけるため、勝ちを収めるために行われることと無縁でない気がする。



 それ的なものが入ってくると対話が成立しなくなるから、「議論NG」にせざるを得なくなるのではないか。


 むしろ、議論ベタの日本人はもう少し「議論」をした方がいいような気がする。


 相手をやっつけるとか勝つためではなく、真実を探求するため、より良い答えを共同作業で見出すために。



 というようなことをTwitterに書いたら、2人の人から賛同のリプライを頂いた。1人は在米12年の人だった。


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 このところ「承認」をさぼっていることに気づく。


 よくこのブログで「友人」とよぶのは その人を思うと心がしんと穏やかになったり 畏敬の念が湧いたり 慈しむ感情が湧いたり そしてその人が笑っていて欲しいと願う。 幸せでいて欲しいと願う。



 まだ公に「友人」と呼んだことのない「友人」たちにも 幸せが一杯訪れますように。



 




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