ユーリア・エンゲストロームの『変革を生む研修のデザイン〜仕事を教える人の活動理論』(鳳書房)がやっと届いて、やっと読みました。


 うーむ、めちゃくちゃ期待値が高かったせいか、期待したほどではなかった。タイトルから期待するような内容ではなかった。今とくに知りたいことについての答えを提供してくれるわけではなかった。1994年の著作の翻訳でした。ほんとは成人教育学の専門家の人には常識のことばかりかもしれない。



 言葉がむずかしい。時々、抽象的な語彙の意味を共有しきれないことがある。


 辛うじてわかるところをつなぎ合わせてよむ。



 この本の中で気にいっているところは―、


 生徒間の社会的相互作用が、学習の質に決定的な影響を及ぼしているということを示した研究は、近年ますます増えている。この社会的相互作用の影響については、多様な課題を、ペアや小集団という形で生徒に与えた実験の中にはっきりと見ることができる。とりわけ新しい考え方と原理を領有する必要があるような段階では、生徒の知識・技能・概念に多様性があるようなペアや小集団を形成するのが、学習には好都合のようだ。そうしたグループを形成した後に、省察のための課題と問題がグループに与えられるのである。


 多様な生徒が同じ問題に対して対立的な解決策を提起するのは、このような小集団においてだろう。彼らは課題についてもそれをどう実行するかについても、異なる概念をもっている。この社会認知的コンフリクトは学習を促進する非常に強い要因である。(p.51 第2章 「よい学習とは何か」、太字引用者)



 異なるバックグラウンドの生徒同士がともに学習することは学習によい影響をもたらす、ということを言っています。


 だからオープンセミナー大事なんやけどなー。



 次は「よい教師とはどんな教師か」についての考察。少し長い引用です。



2 熟練した指導の内的規準


 熟練した指導の内的要因の中で最初に来る最も重要な要因は、主題事項に関する徹底した知識である。指導の質は、つきつめるところ、主題の重要概念や本質的な原理をどのくらいうまく明るみに出せるかにかかっている。これは、教師自身が内容に全面的に入り込むときにのみ起こる。最も重要なのは、出来あいの情報をまるで商品を運ぶかのようにただ伝達するのではなく、知識をその源泉にまでさかのぼったり、知識の応用を見出したりすることである。




(この部分すごく同意。正田は不器用だからかもしれないけれど、例えば2日間講座の前日には「セミナー準備日」といって何も予定を入れない日を設ける。それは、今から教えるヒューマンスキル系の知識や技能を本当に自分の血肉にできるか、極端にいえば自分の身体の全細胞にまで浸透させた状態にできるか、先人たちの英知に敬意を払い純粋な知の器になりきれるか、というレベルまで没入したいから。もっともそういう日に限って何かアクシデントが起こって調子を狂わされるのだけど。器用になんでも教えられる人はビジネスチャンスも多いと思うけれど、器用さで教えている人のことはやっぱり、わかる)



 よい教師は、「なぜ」を問う。よい教師は、教える内容を段階を追って説明したり、その起源にまでさかのぼったり、その展開をたどったりできることを、自分に対して要求する。よい教師は、主題事項のうちに体系的な関係や相互依存性を探し求める。この第一の要因は、1つの問い―教師はテーマ単位に対して、どのくらいすぐれた方向づけのベースを作り出すことができるのか?に還元される。


 指導技術の第二の内的要因は、教授・学習についての一貫した理論的見方に依拠して教授計画が立てられることである。指導は、芸術や即興にはとどまらない。教授計画を立てることには、単なる技術的準備だけでなく、教授―学習プロセスについての理論の実践的応用も含まれている。


 この第二の要因も、1つの問い――教師は、あるトピックについて、一連の教授的手だてをどのくらいうまくデザインできるか?――に還元される。


 
 指導技術の第三の内的要因は、教師の倫理に関係する。教師は、自分の人格を通して、また、主題事項や生徒との関わり方によって、生徒に影響をもたらす。教師の倫理の基本的なポイントは、生徒に対していろいろと要求はするが敬意をもった関係を築くこと、教授内容や主題事項の使われ方に真剣な興味をもつことである


 教師は、自分の扱う主題や指導の計画の仕方をよく知っているかもしれないが、仮に、生徒に無関心だったり、えこひいきをしたりするのであれば、彼らの指導技術は不完全となり、確かな結果をもたらすことはないだろう。同じことはまた、生徒がトピックを理解したふりをしようが関知しない講師や、生徒の失敗を馬鹿にしたり笑い物にしたりするような講師にも当てはまる。(pp.150-151、第8章「指導技術(ティーチング・スキル)」、太字引用者)




 
 私が上記の事柄をどれだけやってきたか、できてきたか内省しないと―。



 内省とともに、「教師」であることを思う。


 以前このブログのどこかで言ったと思うけれど、コーチングの研修講師の世界は、「教える」のではなく「学習する」のだ、と、参加者の自発的な学びを強調するあまり、「教える」行為の質をつきつめないできた。

 

 実は、ある脳科学者の説で私も同意するのだが、


「『教える』ことは相手の頭の中にフォルダを作ってやること。体験学習のみに頼っていては、学習者の頭にきれいな形のフォルダは作られない」


 
 ―体験から学ぶといってもその体験の内容自体ばらばらなはずなので、そこからの学びはどうしても部分的なものになり、全体像をみるには大変な時間がかかってしまう―


 だから「教える」ことは大事、プロの「教師」であることは大事、と思う。


 不思議なもので、こうして「教師としてどうありたいか」ということを確認する作業をしていると、元気が出てくる。

 
 

神戸のコーチング講座 NPO法人企業内コーチ育成協会
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