日経ビジネスで、『任天堂の突破力』の特集。


 「『3DS』はスマートフォンを超えるか」とサブタイトルがついて、開発&マーケティング物語をつづっています。


 最近このブログでは雑誌記事をとりあげるということをしていませんが、今回はその中に気になるフレーズ。


 もの作りにおける「目利き力」について述べたものです。


 ・・・すなわち「目利き力」こそが、要素技術を持たない任天堂の強さの根幹なのだ。目利き力は黎明期から、技術資産を持たない企業としてゲーム産業を切り開いてきた社内に暗黙知として形成されてきた。この無形の強みがあるからこそ、適切なタイミングで3D技術を採用できたといえる。


 だが、ここで1つ問題が出てくる。暗黙知はマニュアル化できないからこそ、暗黙知なのだ。つまり、経験に裏打ちされた属人的なもので、人から人への継承が極めて難しい。

 岩田社長は「数人が引退すると任天堂が任天堂でなくなってしまうとしたら、それは企業ではない。若い人に感性の筋がいいと感じる人はいる」と言う。だが、若い社員が黎明期からの経験をもう一度積むのは不可能だ。ならば、後は「のたうち回って苦しんで考える姿を見せて、どこで判断しているかを学んでもらうしかない」(岩田社長)。

(日経ビジネス2011年2月21日号「こだわりのモノ作り哲学―最初は3Dでなかった」p.28)




 「のたうち回って苦しんで考える姿を見せて」、


 大変、共感する泥臭いフレーズ。


 わたしども教育研修機関でもそういうプロセスがあります。無数にある心理学、脳科学、コミュニケーション、マネジメント論、などの中からどの筋を選択するか。


 単にどこかで「みつけてきたから」「提案されたから」というだけで採用することはできません。


 そう、考えることは時には苦しい。苦しいほど考えるには、ただ考える力というだけでなく、仕事や社会的意義やお客様に対する高いコミットメントも必要。



 そして、「どこで判断しているかを学んでもらうしかない」、これは以前にもこのブログで書いた気がしますが、


 やはり「徒弟制」のようなプロセスになり、「時間・空間を共有する」ということが必要でしょう。


 ものづくりと違って、だめなものを作ってしまったからといって「人が死ぬわけではない」、

このブログにしょっちゅう登場するフレーズ、

「教育は間違っても人は死なない・・・」(あくまで逆説のつもりで言っています、はい)

ではありますが。


 ああまた生意気な可愛げのないことを書いてしまった。



神戸のコーチング講座 NPO法人企業内コーチ育成協会
http://c-c-a.jp



 少し暗くなるお話。


 「認めるミドル」のうちに入らない人は、結局私は「友人」ではいられないのではないかと思うようになった。


 つねに謙虚に「自分は他者を『認める』姿勢を維持しているだろうか」と、自己点検する人でないと、私との関係の中で、一方的に自分が「認められる」ことばかり要求したり、それが少しでも自分の要求レベルを満たさなかったときフラストレーションを感じ私に対する攻撃に回ったり、するのではないかと思う。


 私と良い人間関係を維持したいと思ってくれる人は、今、社会にどれくらいいるのだろうか。いや、そんなに少なくはない、と思いたい。