「承認」をもっとも大切なスキルとして掲げる教育研修の仕事。
このスキルは、あらゆるマネジメントの重要な要素につながり、使い方を間違えなければ非常に高い業績向上に結び付くものだけれど、
この仕事は人の世の大きな喜びを目の当たりにする代わり、悲しい思いとも背中合わせだ。
吉田松陰の昔と違って、普通の社会人にとってもありとあらゆる選択肢がある。アクセスできる。それは逃げ道になる。
そういう中で、教育研修で何かを教えて、それがちゃんと受講生さんの行動に反映することは奇跡に等しいのだが、
それでも当協会の受講生さんの実施率はかなりいい方だと思うが、
最近、私が味わった悲しみを1つ、記録しておきたい。
今、「承認大賞2011プロジェクト」というものを提唱し、さまざまな所とコンタクトをとっている。
日本全体が大きな悲しみに覆われた中であえて「前向き」なことを提起することは、かなり勇気の要ること。それでも、多くの優れた識者の方が応援のメッセージを下さり、勇気づけられたものだが、
ある、以前の当協会の受講生さんから、協力を断る趣旨のメールを頂き、
「私は正田さんの『肯定的な意図』を理解し共感しようと努めてきました」
言葉を失った。
他人を「肯定的な意図」という枠組みを使って理解しようとすること、それはすなわち、相手が悪いことをしている、犯罪まがいのことをしている、という決めつけが入っている場合ではないだろうか。
この元受講生さんはとある別の心理学的手法の教育研修にこのところ熱中され、「肯定的な意図」という言葉は、この心理学的手法の中にある用語だ。
しかし、私はこの「肯定的な意図」という他者理解の仕方に、「上から下」の非常に不遜なものを感じるのだ。
この人に協力を依頼することはやめたことは言うまでもない。最早私たちの「承認コーチング」の世界の人ではなくなり、むしろ非共感的な「あちら側」の人になったのだ。どんなによい志のことに対しても。
このように、「承認」と近いことを言っているようでいて「似て非なるもの」は幾つもあって、私自身それらすべてをカバーしきれているとは言い切れないが、
似たような教育研修の流派が、かえって足の引っ張り合いをする、という現象は枚挙にいとまがなくて、当協会は前身の任意団体の時代から、「コーチング関西」のような大規模イベントを手がけてきたので、そのたびに「足の引っ張り合い」―ようするに引っ張られる側になるのだが―は、経験してきている。「後援名義」をお願いしに行っても、断られたりする。むしろ公的機関などの方が喜んで後援名義を出してくれるときに。
たとえば類似の心理学的な教育研修の団体に後援名義をお願いして音沙汰がなく催促すると、
「後援名義は理事会でしか決定できません」
「今月の理事会には後援名義の議案を出すのを忘れました。来月までお待ちください」
私が所属している、心理学などとは関係ないベンチャー支援の団体などでは、代表の方が
「ああ、後援名義は私の一存で出しましょう。理事会にはあとで承認してもらいましょう」
という調子で意思決定されるのに、である。
今はそんなことをしている時ではないではないか。
と、いう言葉は呑み込むことにしている。敬して遠ざくのが一番。
ひるがえって、かえりみると、私自身は「承認」という、これだけは他の言葉に置き換えようのない言葉はべつとして、ほとんどのことに専門用語を使わず、ごく日常的な常識的な言葉を組み合わせて文章を書いたり人前で話したりしていると思う。
これは、自分の思考や感情の純粋性を点検するために、私にとっては必要なことなのだ。
自分の思考プロセスを極限まで単純化して人に説明できるか。感情に嫉妬、傲慢、優越感、見下し、暴力性などよこしまなものが入っていないか。シンプルな言葉づかいをしていれば、点検できる。
ありがたいことに私の著書は、アカデミズムの世界の方からも「論理の飛躍がなく読みやすい。わかりやすい」と言っていただいている。
先日、ある新聞記者さんとお話ししていて、「承認」というものの中でも、「行動承認(事実承認)」を重視することには、私が「かつて記者だったこと」が生きていると思う、と言った。
「あなたは○月×日、これこれをしましたね」
と、「報道的」に事実を述べる「行動承認」。これに徹することは、ものごとの認識にバイアスをかけずシンプルに正確にするはたらきがあり、もちろん他者理解の仕方にもバイアスをかけないですむ。相手が男性であろうと女性であろうと外国人、障害者、老若を問わず、「行動/事実」というシンプルな物差しでみる。
記者さんの方では、「日本語は外国語に比べて非常に『飾り』の多い言葉で、自分と他人の微妙なポジションの上下などを言葉の端々で表現する必要があり、こういう言葉を使っていると決断をしにくいと思う」ということを言っておられて面白かった。
それは余談として、
専門用語を使って話すという行為の中には、優越感、傲慢、見下しといった口に出すのがはばかられる感情が混じらないのだろうか。私自身は混じらないという自信はない。これらの感情は、もし存在すると確実に論理的な思考を妨げるし、ものごとの解決を遅らせる。
ほんとうは1人1人の力など物凄く小さなもので、自分の中のちっぽけな優越感などを大事にしていたら何もなしとげられないのだ。
ただ、反抗期の男の子のような「優越感」「傲慢」を煽るような心理学的手法は多い。
良いこともたくさん見るいっぽうで、悲しくなることもたくさん見る、というのはそういうことである。
神戸のコーチング講座 NPO法人企業内コーチ育成協会
http://c-c-a.jp
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