また、内発・自律思想のお話について。



「内発」ということを、なんで外的動機づけとそんなに対比して言わないといけないのか、本当にわからない。


 このブログでなんども「報酬系」という言葉を使うけれど、例えばある作業をして成果が上がった、その手ごたえが嬉しい。これも「報酬系」で説明できる。「手ごたえ」という「ご褒美」をもらったのである。


 またそれは行動理論で言ったら「強化子」という。強化子はなにも他人からの褒め言葉でなくてもいい、自分が作業から得られる手ごたえも、それが次の行動を誘発するなら強化子とよべるのである。


 また、お客様から喜ばれた、感謝された、ということも当然「強化子」である。


 「内発」か「外発」か、の分け方にこだわる人は、要するに「外発」というのは上司や親が言葉がけしてコントロールする作業だ、というところにこだわっているのだと思う。


 どうなのだろうか、例えば初学者はなんでも最初は上手にはできないし、作業そのものから貰う手ごたえというのもそんなにはない。そういう場合横にいる指導者が「うまいうまい」「それでいいよ」「私も最初はそうだったよ」などと声掛けして強化子を与えてやる。そうしているうちに徐々に本人が作業から手ごたえを感じられるようになる。

 それが「内発」のものに変わっていったからといって、じゃあ「外的動機づけ」はもう要らないか、というとそんなことはなくて、何か作品をつくり上げたら一緒に喜んでやる。いいところを言ってやる。結果が出たときだけではなく、途中経過でも「ごせいが出ますねえ」「がんばってるねえ」みたいな、ちょっと栄養補給をするようなことを言ってやる。「外的動機づけ」の仕事は決してなくならない。


 そんなのは大抵の指導者はわかっていて、ワンフローでやることなのではないだろうか。


 だから、「外的…」をアメだムチだニンジンだと汚い言葉でくさすのは大変おかしなことなのだ。人をさげすまない、静かな気持ちでやり続ければいいだけのことだ。


 アメだムチだニンジンだといった言葉を使う人は、自分自身が他人に対していつも蔑みの目線をもっているのだと思う。それを行動理論の指導者に勝手に投影する。


 普通は、人は自分を見下している人から褒められても動かない。だから、そういう蔑みの心の状態が出現して、相手をコントロールしようという気持ちで褒め言葉を発したときは、単に「何も効果がない」という結果が返ってくるだけなのだ。


 うちの協会のプログラムでは、武田建氏の言葉を引用しつつ、「無条件の畏敬と尊重」ということを言う。その姿勢を守っている限り、アメだムチだニンジンだ動物だなどという荒涼たる情景にはならない。

―武田氏曰く、「行動理論では行動を扱うから傾聴のロジャース流の畏敬と尊重をしないでいいかというとそんなことはない。われわれ行動理論家は行動を扱うからこそ、「無条件の畏敬と尊重」は「必須」なのだ―


 そう、アルフィー・コーンの著書『報酬主義をこえて』は、行動理論をやたらと言いがかりをつけてくさした本なのだけれど、コーン自身がなにものにも非共感的で、反抗と見下しの目線をもった人だというのは、文体をみればわかる。下から上へ突き上げの視線、そして「上から目線」。彼は多くの良心的な人々の長時間にわたる労力を汚い言葉であざ笑う。


 最近『上から目線の構造』という本を読んでいたら、「『上から目線はやめてください!』と言う人は、自分自身上から、下から、という考え方に縛られている人だ」というフレーズがあり、そうそう、と膝をうった。


「コントロール」「操作」
「外的動機づけ」
「ハトやネズミ:」

といったことを目の敵にして扇動キーワードとして使うコーン氏は、実は彼自身がそれらに非常に「囚われ」ており、非常に敏感な人なのではないだろうか。


実は彼自身が非常に支配欲が強かったり、自分の内なるものにしか従いたくないという気持ちが強かったり、自分の講演に来る経営者たちを実験動物のように見下している人なのではないだろうか。(もちろん、彼の本を参考文献に使ったり引用する人たちもそうだ。)


こういうタイプの人が言う「内発的動機づけ」には、全然共感できない。

(少し脱線だがある種の「邪悪」な人格の人に、「共感能力はないけれども人を『操作』することはものすごく上手」という人がいる。コーン氏が「操作」ということにやたらと反応するところで、もしかしたらそれかな、と思ってしまう。全体にこの人の文章から私は「邪悪」のオーラを感じるのだ)




デシ、フラストの『人を伸ばす力―内発と自律のすすめ―』は、それに比べるとごく穏健な主張で、言葉に毒もなく、割合共感できる部分が多かった。
この本は『報酬主義をこえて』の初版の2年後に出版されているが、おもしろいことに、同一陣営であるにもかかわらず、『報酬主義をこえて』については全然触れていない。参考文献リストに載っていない。

その気持ちはわかる。『報酬主義』の本はいくら似たような主張でも、論理構成はめちゃくちゃだし、当事者を傷つけるような表現がいっぱい入っていて、「こんな本や著者と一緒にされたくない」と思っても不思議ではない本なのだ。


さて、『人を伸ばす力』だけれど、この本にしても、読了後浮かぶのは、「内発と自律に一番近いところにいる社会人って、大学の先生じゃないの?」ということ。

大学の先生の労働観、組織観はちょっと特殊なのだ。学問の自由、表現の自由と、一般社会人に比べるとかなり大きな自由を享受し、一般の人のように組織中心にものを考えずに済む。そういう彼らの皮膚感覚で、
「こういうふうに扱われたい」
「こういうふうに仕事させてほしい」
というのを組織に求め、またあるべき姿として提示されると、ちょっと困るな、という感じがする。

例えばものづくりの人であれば、作ったものに何かの不良があればお客様を死なせてしまうかもしれない。ところが、大学の先生は少々間違ったことを言ってもそれで即、人が死ぬことはない。因果がまわりまわって死ぬことはあるかもしれないがそれは大学の先生の関知しないところで起こる。

こういう「責任」の質量の違いが、大学の先生の考える労働観、組織観についての違和感となる。
「そんなんで複数の人で仕事ってできるの?」と、首を傾げることになる。コンサルタントさんも、独立性の高い職人のような人たちなので、また結果責任を負わない人たちなので似たようなところがある。研修講師もそうである。

チクセントミハイの「フロー状態」の説明をしながら、デシは言う。

「テニス選手、外科医、小説家、画家、ダンサーたちは、そのようなフロー体験をしているに違いない。」

これをみていきなり「みんな職人じゃん!」と突っ込んでしまうのは私だけだろうか。
(現代でいえば、IT技術者などもその中に入るだろう)


子どもの頃に何かに熱中してフローを体験させるのはいい。でもほとんどの社会人は、ごくまれにしか仕事の中でそういう体験をしない。まったくしない人も多いだろう。


で、それは不幸せなのだろうか。

フロー体験も、いわばマズローの「自己実現者」と程度は違えど一緒で、ごく一部の人のぜいたく品なのではないか。仕事がそういうものを提供してくれないからといって、はたらく人に自分は不幸せだと感じさせるのは間違いだ。もっと別のいいものをもらっているはずなのだ。

大体、うちの会員さん方のようなマネージャー職になると、「フロー状態」で仕事をすることはまず無理だ。それで彼ら彼女らが「自分は不幸だ」と感じさせるのはよろしくない。

「フロー状態」が何が何でもいいものだ、人として一番幸せな状態だ、というのは少し考えなおしたほうがいいんじゃないかと思う。


(なお、「ストレングスファインダー」で、フロー状態に好んで入りたがる人、というのはどの資質の持ち主か、大体想像がつく気がする)

(IT技術者はフロー状態をよく経験するだろう、と述べたが、この人たちも今、「時間管理」や「ワークライフバランス」が課題になっている)

(もうひとつ、「フロー状態を経験すると超越者になって人格が良くなる」みたいなことも書いてあるが「ほんとか?」と私は思う。大学の先生やIT技術者、この集団に人格の良い人が多く分布しているという証拠はあるだろうか。ある種のディープな心理学セミナーを受けて、「自分は変わった!!」と豪語する人はいるが、周囲からみて何も変わっていない、それまで以上に身勝手でくるくる気の変わりやすい人になっていたりする。また承認欲求が亢進していたりする。そういう種類の勘違いじゃないだろうか)

これとは別に大学の先生の困ったところは、彼等はEQの低い人が多いので、「自分は…と感じる」ということを、すぐ「一般的に…だ」と、一般論にすりかえる。

「上司の褒め言葉は、統制の手段として受け取られることが多い」

これは、本当は
「私は私の今の上司が嫌いだ。彼が褒め言葉らしきことを言うと、私には統制してきた、と感じられ不愉快だ」
ということを言っているのである。
こういうのを学者さんが言うからといって学問だと混同してはいけない。


実際には、「上司だから統制だと感じる」ということは、うちの会員さんのところではあまり耳にしない。あるんだろうか。
私個人の経験では、承認のプログラムを受け、実際にやり始めたマネージャーさんにしばらくして会うと、
目元の感じが優しくなっている。
それで、ああ、いい手応えをつかんだんだな、と思う。

自分の投げかけた言葉が部下の喜びにつながる。
自分の働きかけによって他人が喜びながら新しい行動をとり、いきいきと報告してくる、そういう現象をまのあたりにすると、自然と目元が優しくなるんではないか、と思っている。
「アメとムチ」などという冷たい風景はそこにはない。




・・・あと、「内発と自律」を言う人には、かけている視点がある。子どもは反抗期になると親の言うことをきかない。褒め言葉もアドバイスもきかない。これまで親に頼りきりだった子どもも、自分を動機づけてくれる人を家の外に求める。

これは、「外的動機づけの限界」とか「内発的動機づけの人になった」といえるだろうか。いや、単に「外的…」を与えてくれる人が交代したに過ぎない。



「内発と自律」論者の想定するよりも、人ははるかに大量の「外的動機づけ」を欲しい生き物なのである。プライドの高い人にとって苦痛であっても、それを認めないといけない。


(もし、「いや、自分は要らない」と言うなら、その人のことは以後一切褒めなければいいのだ)



神戸のコーチング講座 NPO法人企業内コーチ育成協会
http://c-c-a.jp



(追記)
『人を伸ばす力』も、よくみると攻撃対象を「行動主義」に設定している。
「行動主義」は、「人は出発点では内発的動機づけなどない」と主張している、という。おいおいそんなこと言ったのか。
このブログでなんども触れるように、「行動主義」は20世紀前半に動物実験のみに基づき、過激な主張を行った。その後20世紀後半、「行動理論」「行動療法」「行動科学」と発展するにしたがって鬱の治療、技能訓練、スポーツ・コーチングなどれっきとした人相手の有効な手法として評価を確立した。

私が武田建氏のもとでかじった行動療法のカウンセリングでは最初のセッションで「あなたはこのカウンセリングを通じてどうなりたいですか?」と「目標設定」の質問をする。カウンセラーが目標を押し付けることはしない。そんなことをしてもカウンセリングの効果が上がらないことなどとうに知っているだろう。
(だから、現代のコーチングとほとんど同じことをやっているのである)

つまり、
行動主義―過激、実験室のもの、
行動療法(行動理論)―穏健・常識的、実践の世界のもの、
と分けて考えたほうがいいのである。

しかし、やはり、「内発と自律」思想の人々が論敵として選ぶのは「行動主義」のほうである。

もしこの人たちが、後者の「行動療法―行動理論」について言及しながら、そこと連携がとれるように議論をすすめたら、この人たちの主張ももうちょっと気持ちよく読める。


繰り返すが、私は「内発と自律」そのものは何も悪いと言っていない。うちの子らの進路なども基本的に本人らの意思を尊重している。


しかし彼ら「内発と自律」思想の人たちのの論法が、「外的動機づけ」=悪いもの、卑しいもの、と敵視しながら進めるものだから、はっきり言って迷惑なのだ。
彼らの記述の中に嫌がらせ・揶揄・見下し・敵視などが含まれるため、その主張にかぶれた人はそのスタンスまで感染する。良心的な実践をしている他人に平気で「アメとムチ」といった言葉を投げかけるようになる。


「内発と自律思想」は、恐らく「自分は他人の世話になったことがない」と豪語する人たちのものだ。もし自分が病気をしたり、身体の機能が損なわれたり、障害のある子どもをもったり、メンタルを病んだり、というときにはいきなり他人の世話になるはずだ。そして自分をお世話してくれる他人がもし有能な人だったら、それは行動理論家か、あるいは生得的に行動理論に近いことができる人間力の高い人だ。


それと、負のイメージのことにばかり言及したが、普通の師弟関係、上司部下関係もまた行動理論があったほうが上手くいくのであり、「内発と自律思想家」は、たまたまそういう枠組みの中に入らない、自分1人の力で成功した幸せな人たちなのだ。


彼らに洗脳された状態でなく、普通に「内発と自律」はいいものとして選びたい。