前の記事で「不安で臆病、そして怒りっぽくあきらめやすい つながり指向のわたしたち」というように日本人を定義したのに続いて―。
『企業の錯誤・教育の迷走 人材育成の「失われた10年」』(青島矢一編、東信堂、2008年)という本を読みました。
バブル経済崩壊後の1990年代中盤から2000年代初頭の10年間に、日本の人材育成・教育システムに行われてきた改革を概観し、
「これらの変革は効果をもたらすどころか、むしろ問題を引き起こす例のほうが多かった」
と”断罪”します。
私としては特に(1)と(3)の視点が非常におもしろく当を得たものと思いました。
この本は学校教育の問題も論じていてその部分も大変興味ぶかかったのですがこのブログでは詳しいところははぶきます。
(ご興味のある方は、この本をお買い求めください)
「教育」を「改革」するということ。
1990年代の「ゆとり教育」導入は、バブル崩壊後の経済・社会状況が、「人の質の低下」のためでありそれに対処しなければならないという論法のもとに行われた、と著者らは言います。
しかしゆとり前の「詰め込み教育」がわるいものだったか。実はPISAの問題解決能力調査では日本は非常に高い成績を示した。ならば知識教育=悪という決めつけは間違っていたのではないか。
ここで、「一歩引いたメタレベルでの答えの出し方の意義」ようするに大局観に立った問題解決とは何か、という問いになってきます。
同じことが「企業での人材マネジメント」にも言える、と著者らは言います。
従来の日本企業の特徴であったOJT(on the job training)。日常の業務に就きながら行われる教育訓練のことで、上司・先輩から部下・後輩へと伝えられます。
これが日本では業務遂行能力に大きな影響を及ぼすため、日本では採用活動においても学校教育をあまり重視せず(それでもどの大学を出たかはけっこう重視したのですが中身まではあまり重視せず)、就職してからの教育訓練可能性を重視した採用をしてきた。
一方アメリカでは大学だけではなくどの学部を出たか、どれだけの学業成績で出たかを重視し、大学教育(あるいは大学院教育)に「即戦力力」を期待する。
これが80年代までの状況とすると、バブル崩壊後、よく知られているようにさまざまな人材マネジメントが導入されました。
本書ではその中で、業績給(成果主義)、MBO(目標管理制度)を取り上げその功罪を論じています。
成果主義に関する類似の指摘は2004〜05年ごろ相次いで出版されましたが、2008年時点の本書の指摘はヒステリックで部分的な指摘のトーンを抑え、緻密に問題点の抽出を行っています。本書と比較すると04〜05年時点の議論は「粗雑」な印象を与える気がします。
営業職(A社)と研究開発職(B社)を題材に問題点を抽出しています。
営業職では・・・、
転勤時の得意先の引き継ぎをしなくなった。引き継いでも、特に親しい顧客には「後任に引き継ぎ後半年たったら自社製品の購入をやめてください」と依頼する。
随行営業をしなくなった。
若手営業員の定着が悪化した。それまで離職率が低かったA社でも、2002年に入社した営業部員の3分の1が2005年までに辞めた。
・・・と、競争の「負の側面」が大きく出てしまいました。
研究開発職では…
創造性のある研究員を業績給でつくることはできなかった。創造性のある研究員が求めているのは金銭的報酬ではなく、インフォーマルなフィードバック。(もろに「承認」ですね)しかし業績給導入の結果、インフォーマルなフィードバックは減少した。
組織としての創造性を発揮するには、部門間協力が必要だが、業績給で評価基準が明文化されると、協力にかかわる関係構築の作業が捨象されてしまい、部門間協力がわるくなる。(⇒実はこれも「承認」の応用で解消することがわかっている)
本書では、「問題点の抽出・提示」に重きをおき、「じゃあどうすればいいんだ」という「解決編」は提示されていません。ただこうした業績給の導入にどのような思考回路がはたらいたか、については考察しており、「横並び意識」と明言しています。
(ここで一度、前の記事「不安で臆病、・・・」を参照していただけるとさいわいです。正田注)
次に本書ではMBO(目標管理制度)をとりあげます。これについては、本書の記述がおもしろいのでそのまま引用してしまいましょう。
うんうん。
正田個人はこの記述にすごく納得感をもっています。
MBOについては、知人でその分野を熱心にやっている人もいますが自分としてはどこか納得しきれないものがあり、追随しないできました。
その「言語化しにくいが、どこか納得しきれないもの」を言語化したのがこの記述、ということになるのでしょう。
MBOだけでなく、海外の組織や労働政策について視察に行った学者さんの話にもどこか納得しきれないものがあり、職務範囲が限定されているから「自己所有感」が持てる、という話なども、その限りにおいてはいいことのようだけれども仕事って本当にそういうものなんかな、と突っ込みが湧くのを抑えきれないのでした。それはワーク・ライフ・バランスなどもそうであります。
そういう疑問にこたえて「海外ではその部分をこういうふうに対処しているので問題にはなりません」というところまで説明してくれた説明をこれまで残念ながらみたことがない。簡単なことだと思うんだけれど。
「職務範囲が限定されている」という説明で素直に納得できるのは「大学の先生」だからではないか。
突っ込みが甘い。
(また余談だが、本書の記述「また、そのようなことに気づく従業員こそが、長い目でみると優秀な従業員として評価されるようになっていた。」というのもちょっと疑わしい。評価はそれほど公正なものではない。「そのようなことに気づく従業員」は無償労働をしてくれる便利な人として当てにはされるが重用されない、昇進するわけではない、というのもよくあることです。ここでも「承認」だいじです)
本書ではMBOに対比して、従来の日本企業にあったきめの細かい昇進システムがモチベーションの維持向上に一役買っていたことを挙げ、
(ただし本書では触れていないが「きめの細かい昇進」はフラット化で崩れてしまっている)、
と、述べるのでした。
最後に本書ではOJTを取り上げます。日本企業でOJTが品質管理に大きな寄与をしていた、それは「コミュニティと一体となった、ほぼ生活空間と同等の村=企業」という社会経済システムがあり、高度経済成長期には安定的採用のため、はるか遠くの熟達者ではない、より身近な師範代クラスのロール・モデルがいた。さまざまな私的、公的QC表彰活動なども高いモチベーションを支えた。
しかし不況期に起こった採用抑制や数年間にわたる採用中止は、OJTの根幹をゆるがすことになります。
というように、技術者や工場労働者にとっての成長のための「絆」が断ち切られたことが記されます。
共同体の中で、そして「師」に導かれて安定的に成長してきた人々。少なくとも日本の風土では、人は「絆」によって成長してきたのでした。(「絆」はなにも、自然災害が起こったときの助け合いのためだけにあるのではないのです)
本書では品質管理のこうした現状に対して問題解決の指針を示します。
1.退職した品質管理専門家を三顧の礼で迎え厚遇する
2.品質管理の担い手となる現場作業者は、企業業績いかんを問わず、継続して採用する
3.品質管理教育の総点検を行い、抜本的に企業研修プログラムに変革を加える
4.品質管理に関する研修費は予算において聖域とし、決して減額しない
5.従業員全員の倫理レベルを引き上げ、コンプライアンスの徹底を図る
6.品質のみに注目するのではなく、コスト、機能、スピード、環境配慮を同時に考慮する
7.製造をアウトソーシングしても、品質のつくり込み活動は外部化しない
8.現在直面している諸問題に、大所高所からの体系的な問題解決に取り組む
9.品質向上に有用なツールや考え方をフル活用する
10.日本的品質管理の逆機能の存在を認識した上で、それが顕在化しないマネジメントを行う
正田の感想としてはこのうち5.以降はやや対症療法的で、原則として重要なのは1〜4かなという気がします。
全部引き写す必要はなかったかも。
終章では、「個性の尊重」「個の重視」が含む問題をとりあげます。
ブログ読者の方は、正田が「個性」「強み」という語を両義で使っていることに気づいていただいているでしょうか。
これも書きだすと延々と一章ぐらいになりそうなテーマですが、まずこのブログとしては人は1人1人違う、という認識があること。脳画像の専門家によっても、人は生まれながらにして個性的な脳をもち、さらに生育過程でその個性に磨きをかけるように学習するといいます。
ところが、じゃああなたはあなたのしたいようにしてください、では人間社会はうまく行かないので、どんな個性の持ち主であっても統一の基本原則―倫理―を叩きこまれなければならない。人のものを盗んではいけない、人を傷つけたり殺してはいけない、等々です。
さらに企業に属するにあたってはその企業の理念に共感し、理念実現のために働くという誓いのもとに入社すること。個性は、あくまでその理念の範囲内で発揮していただくことになります。
リーダー教育の中でも強みを重視しますが、強みを活かしたリーダーシップ、というか、すべてを1人で持ち合わせることをあきらめてあるところで開き直るとともに、自分のマイナス面が強く出ることを抑える、という文脈で「強み」を考える、ということをします。
(さらにさらに正田はある時期医学薬学にも凝っているので、相手が誰であっても第一選択の薬というものがある、という考え方もとります。これを教育にも当てはめて考えます。ある疾病については、有効性が確認されかつ副作用が少ないことも確認された薬を使い、一定期間血中濃度を一定以上にして反応をみる。効くようならそれでいいし、効かないなら特異体質かもしれないから別の薬を考える。副作用が強く出る体質の人であればやめる。)
「個性」はどこまでも伸ばすのが正しいか。実は、おとなの場合、標準化したくてもどうしてもできないときに本人の「個性」をみてあきらめる、という文脈で使うのが、「平常時には」正しいのではないか。ある種の天才を育てるというシチュエーションでなければ。
逆にこどもの場合は、「自発性」の生まれるところに偏りがあるのがあまりにも明らかなので、生まれた「自発性」を大事に、その部位が脳全体を引っ張って発達するのを期待する、というやり方をして間違いではないのでしょう。ということを、やはり2008年頃書いた記憶があります。
というように、ややぐらつきがちな当ブログの「個性」への対応ですが、基本は「あまりにもそれが抑えつけられていれば『個性』を言うのが正解。しかし『程度問題』つきの正解」というスタンスだと思います。
で本書の記述に戻ると、
1990年代後半〜2000年代前半の人材育成の試行錯誤を、本書は「個性の尊重」「個の重視」を錦の御旗として掲げたがゆえの錯誤、という意味のことを述べています。
その結果学校教育で起きたのは「ゆとり教育」であり、企業では社内研修費の削減、OJTによる知識の連鎖の断絶だ、と。
この文章、大いに同意。
正田はこれまでマネージャーたちが自主的にポケットマネーで受講するオープンセミナーの有効性を確信してやり続けてきましたが、そのことにも限界を感じ、(マネージャーの収入減や彼らへの告知不足)
企業の人材育成担当者に相談に行ったこともあります。
「こういう教育をしています。大変有効なんです。御社のマネージャーにも勧めてください。受講費を補助してあげてください」
すると担当者の対応は、以下の二通りのものでした:
「こういうのは、”自己啓発”ですなあ」
(注:自己啓発セミナーという意味ではなく、会社のあずかり知らぬところでマネージャー自身が勝手に学んでくるもの、という意味。)
「じゃあ、当社には研修費を補助する『カフェテリア研修』というのがありますから、その中に入れましょう」
前者の反応は、今は論外と思えましょう(でもやっぱりあるのかな)。リーマンショック後、急激に給与を減らされた管理職が、それでも自分の生活費を削って会社の売り上げに貢献するような研修を「勝手に」受けてくるほどの犠牲的愛社精神をもつとは到底おもえない。
売り上げを上げたければ、削った人件費の何割かを研修費に回しなさい。
そして後者の「カフェテリア研修」という発想。これも、1990年代以降のアメリカの「内発と自律」、「自由選択できることが幸せ」という風潮に追随して入ったものと思う。
しかし、それでいいのか?と正田は思ってしまいます。所謂「カフェテリア研修」が結果的にもたらす、ずっしり分厚いカタログの中から自分に合った教育研修を選ぶという行為。それは本当に幸せなことなのだろうか。
「良い教育研修を選ぶ」選定眼を身につける、というのは本来、プロでも難しいことなのです。(正田自身も、コーチングの大手研修機関2社、アサーション・アサーティブトレーニング2社・NLP1社の研修に数百万の金と時間を投じたあと、なおも「良い研修」を求めて単発のもの1泊のもの、とさまよい続けている)
そして決定的なことは、本書の言うようにそれは「理念なき教育」だということなのです。
本来たとえば管理職教育というものは、「君たち管理職に、会社としてはこういう人になってほしい」という思いをのせて提供されるべきものではないかと思います。
カフェテリア研修にはその理念はありません。たとえば、管理職教育と名打って、実は自己啓発セミナー的に自己充実、自己実現ばかり教えて利他を教えない研修も世の中にはいっぱいあるのです。しかもそのほうが、口当たりが良くて自分で選ぶならそっちを選びたい、というのもあり得ることなのです。
正田のもっている諦念
―人は、自分の持つ「偏り」を「強化する」刺激(学びを含めて)を好む
―そしてまた、学びは人を隔てる。異なった言語を話す人を育てる
にしたがえば、「私は私の信じていることを信じ、あなたはあなたの信じていることを信じる」という、ばらばらのバベルの塔のような組織だってできかねないのです。「カフェテリア研修」の発想を推し進めれば。
ややとびますが、
こうした、「マクロの問題をミクロの要因で説明しようとする強引な因果帰属」という問題意識は本書の至るところにみられ、これも正田の膝を打つところです。
で、正田がなんで10年もの間、「コーチング」ばかりやり続けているか。たとえばよのなかカフェなどを派生的にやっているのだから、より耳ざわりのいい「ファシリテーション」の看板を掲げないか。
それは、ほかのものは全部、些末なところの問題解決であり、根源的な「何が失われ、何が本当に今必要か」に応えていない、と思っているからです。
また、「本当に必要なもの」を提供すれば、派生的にほかの些末なものは提供できてしまうからだ、と思っているからです。
ミクロのところの問題がさしあたって目についたとしても、それについての「薬」を出すのは根源的問題解決にならない。より奥深いところまで問題の根をたどって本気でそこの解決に当たれば、ミクロの事柄に細分化した解決法をやっていくよりはるかにすっきり解決する。忙しい管理職に色々な名前をつけた研修を受けさせずに済む。
本書は(OJT以外の問題については)「解決編」まで提示している本ではないので、こうして正田が我田引水的に自分の仕事の話をしだすと著者らは目を白黒するかもしれません。
正田的には既に結論の出ていることについて、そこへ至る思考プロセスのすべてはクリアになっていないところを丁寧に補ってくれた本、という位置づけになるのでした。
1つ前の記事「不安で臆病、…」とひっくるめてまとめると、
不安感が強く人とつながりたい気持ちの強い、そして質の高い仕事をする日本人にとってOJTとそれに支えられた高品質システムは日本の強さの源泉だった。しかし同じ不安感の強さから、バブル崩壊後の経済低迷期に「横並び意識」と「焦り」によってアメリカ型人材マネジメントを導入してしまった。そこで深刻な品質問題やコンプライアンス問題が起こりつつある。
そして我田引水ではありますが、正田流の「承認中心コーチング」が高い成果のエビデンスを出してきた理由づけとして、こうした人材マネジメントの混迷によって失われたものを取り戻すど真ん中ストライクのソリューションだった、という解釈をすると傲慢にすぎるでしょうか。
聡明な管理職たちは枯れた大地が水を吸うようにそこで教わったことを吸収し、そして部下たちに学んだことを施し、成果を挙げた。
恐らくそこでは「コーチング」だけではなく、「教師」もまた必要だったことだろう。商業教育ではなく非営利精神で、心から賞賛を与え、時には本気で怒るときもある教師が。それは既に、管理職たちがその上司から与えられなくなっていたものだから。
だがこの教育ももはや風前のともしびで、歴史のもくずになるかもしれない。
「大局観」をもつ人が意思決定に関わらなければ。
神戸のコーチング講座 NPO法人企業内コーチ育成協会
http://c-c-a.jp
(追記)
なお現在でも、「人材マネジメント」の世界は迷走中です。
本書が出て3年たった昨年も、コンサルティング会社主催で東京で行われた「グローバル人材マネジメントセミナー」では、「マネジメント」はあたかも人事部が全社に対して行うものであるように言われ、「管理職による恣意的な評価を排するため」、アセスメントによる人事評価を推奨したりしていました。そこでは「マネジメントは管理職が職場で日常業務を通じて行うもの」という、当たり前の常識が欠落しているのでした。こうして実務経験の少ない人事担当者がコロリと騙されると、「管理職不在のマネジメント」なる空虚なものが横行することになります。
こうした明らかな詭弁が大手を振っていまだにまかり通っているのがこの「人材」の世界であります。
『企業の錯誤・教育の迷走 人材育成の「失われた10年」』(青島矢一編、東信堂、2008年)という本を読みました。
バブル経済崩壊後の1990年代中盤から2000年代初頭の10年間に、日本の人材育成・教育システムに行われてきた改革を概観し、
「これらの変革は効果をもたらすどころか、むしろ問題を引き起こす例のほうが多かった」
と”断罪”します。
われわれが「理念なき試行錯誤」と呼ぶ、これらの改革の構図はさらに次の三つの視点から特徴づけることができる。
(1)マクロ問題のミクロ要因への帰属
(2)形式化による理念の代替
(3)全体システム観の欠如による不整合(太字正田)
私としては特に(1)と(3)の視点が非常におもしろく当を得たものと思いました。
この本は学校教育の問題も論じていてその部分も大変興味ぶかかったのですがこのブログでは詳しいところははぶきます。
(ご興味のある方は、この本をお買い求めください)
「教育」を「改革」するということ。
1990年代の「ゆとり教育」導入は、バブル崩壊後の経済・社会状況が、「人の質の低下」のためでありそれに対処しなければならないという論法のもとに行われた、と著者らは言います。
しかしゆとり前の「詰め込み教育」がわるいものだったか。実はPISAの問題解決能力調査では日本は非常に高い成績を示した。ならば知識教育=悪という決めつけは間違っていたのではないか。
ここで、「一歩引いたメタレベルでの答えの出し方の意義」ようするに大局観に立った問題解決とは何か、という問いになってきます。
同じことが「企業での人材マネジメント」にも言える、と著者らは言います。
従来の日本企業の特徴であったOJT(on the job training)。日常の業務に就きながら行われる教育訓練のことで、上司・先輩から部下・後輩へと伝えられます。
これが日本では業務遂行能力に大きな影響を及ぼすため、日本では採用活動においても学校教育をあまり重視せず(それでもどの大学を出たかはけっこう重視したのですが中身まではあまり重視せず)、就職してからの教育訓練可能性を重視した採用をしてきた。
一方アメリカでは大学だけではなくどの学部を出たか、どれだけの学業成績で出たかを重視し、大学教育(あるいは大学院教育)に「即戦力力」を期待する。
これが80年代までの状況とすると、バブル崩壊後、よく知られているようにさまざまな人材マネジメントが導入されました。
本書ではその中で、業績給(成果主義)、MBO(目標管理制度)を取り上げその功罪を論じています。
成果主義に関する類似の指摘は2004〜05年ごろ相次いで出版されましたが、2008年時点の本書の指摘はヒステリックで部分的な指摘のトーンを抑え、緻密に問題点の抽出を行っています。本書と比較すると04〜05年時点の議論は「粗雑」な印象を与える気がします。
営業職(A社)と研究開発職(B社)を題材に問題点を抽出しています。
営業職では・・・、
転勤時の得意先の引き継ぎをしなくなった。引き継いでも、特に親しい顧客には「後任に引き継ぎ後半年たったら自社製品の購入をやめてください」と依頼する。
随行営業をしなくなった。
若手営業員の定着が悪化した。それまで離職率が低かったA社でも、2002年に入社した営業部員の3分の1が2005年までに辞めた。
・・・と、競争の「負の側面」が大きく出てしまいました。
研究開発職では…
創造性のある研究員を業績給でつくることはできなかった。創造性のある研究員が求めているのは金銭的報酬ではなく、インフォーマルなフィードバック。(もろに「承認」ですね)しかし業績給導入の結果、インフォーマルなフィードバックは減少した。
組織としての創造性を発揮するには、部門間協力が必要だが、業績給で評価基準が明文化されると、協力にかかわる関係構築の作業が捨象されてしまい、部門間協力がわるくなる。(⇒実はこれも「承認」の応用で解消することがわかっている)
本書では、「問題点の抽出・提示」に重きをおき、「じゃあどうすればいいんだ」という「解決編」は提示されていません。ただこうした業績給の導入にどのような思考回路がはたらいたか、については考察しており、「横並び意識」と明言しています。
(ここで一度、前の記事「不安で臆病、・・・」を参照していただけるとさいわいです。正田注)
次に本書ではMBO(目標管理制度)をとりあげます。これについては、本書の記述がおもしろいのでそのまま引用してしまいましょう。
先述したとおり、日本企業では、職務範囲の境界が曖昧であり、それが日本企業の強みにもなっていた。しかし、MBOを導入すると、自分の目標をきちんと明文化しなければならなくなる。その時点で、職務範囲が明示化されるのである。しかし、もともと職務範囲が曖昧な環境で仕事をしてきた日本企業の従業員は、MBOによって目標が明示化されることにとまどいを感じる。また、労働契約書や職務記述書が曖昧なまま、目標だけ明示化されることにより、職務と職務の間で抜け落ちる仕事が出てきてしまう。そのような仕事の多くは、言葉で明示することができず、また、あらかじめ予測することもできない。それまでの人材マネジメント下であれば、誰かがそれに気づいて対応してきただろうし、また、そのようなことに気づく従業員こそが、長い目でみると優秀な従業員として評価されるようになっていた。これは、明示化されたシステムではないが、実際にそのように機能していたのである。
うんうん。
正田個人はこの記述にすごく納得感をもっています。
MBOについては、知人でその分野を熱心にやっている人もいますが自分としてはどこか納得しきれないものがあり、追随しないできました。
その「言語化しにくいが、どこか納得しきれないもの」を言語化したのがこの記述、ということになるのでしょう。
MBOだけでなく、海外の組織や労働政策について視察に行った学者さんの話にもどこか納得しきれないものがあり、職務範囲が限定されているから「自己所有感」が持てる、という話なども、その限りにおいてはいいことのようだけれども仕事って本当にそういうものなんかな、と突っ込みが湧くのを抑えきれないのでした。それはワーク・ライフ・バランスなどもそうであります。
そういう疑問にこたえて「海外ではその部分をこういうふうに対処しているので問題にはなりません」というところまで説明してくれた説明をこれまで残念ながらみたことがない。簡単なことだと思うんだけれど。
「職務範囲が限定されている」という説明で素直に納得できるのは「大学の先生」だからではないか。
突っ込みが甘い。
(また余談だが、本書の記述「また、そのようなことに気づく従業員こそが、長い目でみると優秀な従業員として評価されるようになっていた。」というのもちょっと疑わしい。評価はそれほど公正なものではない。「そのようなことに気づく従業員」は無償労働をしてくれる便利な人として当てにはされるが重用されない、昇進するわけではない、というのもよくあることです。ここでも「承認」だいじです)
本書ではMBOに対比して、従来の日本企業にあったきめの細かい昇進システムがモチベーションの維持向上に一役買っていたことを挙げ、
(ただし本書では触れていないが「きめの細かい昇進」はフラット化で崩れてしまっている)、
システムとして明示化されていなくても、高いモチベーションが維持される仕組みが暗黙的に出来上がっていたのである。
それにもかかわらず、あえて形式化されたモチベーション向上のシステムを導入し、しかも、それ以前の暗黙的な仕組みと、どこが整合しどこが齟齬をきたすのかを検証しないまま導入されたため、現場で大きな混乱が生じたものと考えられる。
と、述べるのでした。
最後に本書ではOJTを取り上げます。日本企業でOJTが品質管理に大きな寄与をしていた、それは「コミュニティと一体となった、ほぼ生活空間と同等の村=企業」という社会経済システムがあり、高度経済成長期には安定的採用のため、はるか遠くの熟達者ではない、より身近な師範代クラスのロール・モデルがいた。さまざまな私的、公的QC表彰活動なども高いモチベーションを支えた。
しかし不況期に起こった採用抑制や数年間にわたる採用中止は、OJTの根幹をゆるがすことになります。
なぜなら、トレイニーにとっては、熟達者ははるかかなたの存在であり、そこに到達するために目標となる師範代や師範代候補が中期的・長期的には欠落することになるからである。人の連鎖が切れれば、OJTによる知識の連鎖も切断される。
師範代や熟達者等の人員削減も実行された。彼らは、若い作業者にとっての憧れでありロールモデルである。…自分の将来像を重ねあわせていた人々―かつては、賞賛と尊敬の対象となっていた人々―が、次々と職場を去っていく姿を見れば、OJTを通じていかに学習と自己研鑽を重ねても仕方がないという諦観が生まれるのも致し方がない。
というように、技術者や工場労働者にとっての成長のための「絆」が断ち切られたことが記されます。
共同体の中で、そして「師」に導かれて安定的に成長してきた人々。少なくとも日本の風土では、人は「絆」によって成長してきたのでした。(「絆」はなにも、自然災害が起こったときの助け合いのためだけにあるのではないのです)
本書では品質管理のこうした現状に対して問題解決の指針を示します。
1.退職した品質管理専門家を三顧の礼で迎え厚遇する
2.品質管理の担い手となる現場作業者は、企業業績いかんを問わず、継続して採用する
3.品質管理教育の総点検を行い、抜本的に企業研修プログラムに変革を加える
4.品質管理に関する研修費は予算において聖域とし、決して減額しない
5.従業員全員の倫理レベルを引き上げ、コンプライアンスの徹底を図る
6.品質のみに注目するのではなく、コスト、機能、スピード、環境配慮を同時に考慮する
7.製造をアウトソーシングしても、品質のつくり込み活動は外部化しない
8.現在直面している諸問題に、大所高所からの体系的な問題解決に取り組む
9.品質向上に有用なツールや考え方をフル活用する
10.日本的品質管理の逆機能の存在を認識した上で、それが顕在化しないマネジメントを行う
正田の感想としてはこのうち5.以降はやや対症療法的で、原則として重要なのは1〜4かなという気がします。
全部引き写す必要はなかったかも。
終章では、「個性の尊重」「個の重視」が含む問題をとりあげます。
ブログ読者の方は、正田が「個性」「強み」という語を両義で使っていることに気づいていただいているでしょうか。
これも書きだすと延々と一章ぐらいになりそうなテーマですが、まずこのブログとしては人は1人1人違う、という認識があること。脳画像の専門家によっても、人は生まれながらにして個性的な脳をもち、さらに生育過程でその個性に磨きをかけるように学習するといいます。
ところが、じゃああなたはあなたのしたいようにしてください、では人間社会はうまく行かないので、どんな個性の持ち主であっても統一の基本原則―倫理―を叩きこまれなければならない。人のものを盗んではいけない、人を傷つけたり殺してはいけない、等々です。
さらに企業に属するにあたってはその企業の理念に共感し、理念実現のために働くという誓いのもとに入社すること。個性は、あくまでその理念の範囲内で発揮していただくことになります。
リーダー教育の中でも強みを重視しますが、強みを活かしたリーダーシップ、というか、すべてを1人で持ち合わせることをあきらめてあるところで開き直るとともに、自分のマイナス面が強く出ることを抑える、という文脈で「強み」を考える、ということをします。
(さらにさらに正田はある時期医学薬学にも凝っているので、相手が誰であっても第一選択の薬というものがある、という考え方もとります。これを教育にも当てはめて考えます。ある疾病については、有効性が確認されかつ副作用が少ないことも確認された薬を使い、一定期間血中濃度を一定以上にして反応をみる。効くようならそれでいいし、効かないなら特異体質かもしれないから別の薬を考える。副作用が強く出る体質の人であればやめる。)
「個性」はどこまでも伸ばすのが正しいか。実は、おとなの場合、標準化したくてもどうしてもできないときに本人の「個性」をみてあきらめる、という文脈で使うのが、「平常時には」正しいのではないか。ある種の天才を育てるというシチュエーションでなければ。
逆にこどもの場合は、「自発性」の生まれるところに偏りがあるのがあまりにも明らかなので、生まれた「自発性」を大事に、その部位が脳全体を引っ張って発達するのを期待する、というやり方をして間違いではないのでしょう。ということを、やはり2008年頃書いた記憶があります。
というように、ややぐらつきがちな当ブログの「個性」への対応ですが、基本は「あまりにもそれが抑えつけられていれば『個性』を言うのが正解。しかし『程度問題』つきの正解」というスタンスだと思います。
で本書の記述に戻ると、
1990年代後半〜2000年代前半の人材育成の試行錯誤を、本書は「個性の尊重」「個の重視」を錦の御旗として掲げたがゆえの錯誤、という意味のことを述べています。
最悪の場合、「個性の尊重⇒個の重視⇒個の責任」といった構図のもとに、実質的には、教育や人材育成の放棄につながる危険性さえある。
その結果学校教育で起きたのは「ゆとり教育」であり、企業では社内研修費の削減、OJTによる知識の連鎖の断絶だ、と。
「個性の尊重」と「個の責任」が極度に強調される状況を想定してみるなら、個人は、各人の目的に合わせて自らが必要とする教育を受けることになる。どのような過程で教育を受けるのかはすべて個人に任される。学習結果に対しても個人がすべて責任を負い、学習の優劣はあくまでもアウトプットで判断される。企業が行うことは、競争メカニズムを整備して個人の学習意欲を高めるとともに、教育資源の配分額を決定することである。そこに教育や人材育成の「理念」が登場する必要はない。理念の役割は、成果に基づく淘汰メカニズムによって代替される。
この文章、大いに同意。
正田はこれまでマネージャーたちが自主的にポケットマネーで受講するオープンセミナーの有効性を確信してやり続けてきましたが、そのことにも限界を感じ、(マネージャーの収入減や彼らへの告知不足)
企業の人材育成担当者に相談に行ったこともあります。
「こういう教育をしています。大変有効なんです。御社のマネージャーにも勧めてください。受講費を補助してあげてください」
すると担当者の対応は、以下の二通りのものでした:
「こういうのは、”自己啓発”ですなあ」
(注:自己啓発セミナーという意味ではなく、会社のあずかり知らぬところでマネージャー自身が勝手に学んでくるもの、という意味。)
「じゃあ、当社には研修費を補助する『カフェテリア研修』というのがありますから、その中に入れましょう」
前者の反応は、今は論外と思えましょう(でもやっぱりあるのかな)。リーマンショック後、急激に給与を減らされた管理職が、それでも自分の生活費を削って会社の売り上げに貢献するような研修を「勝手に」受けてくるほどの犠牲的愛社精神をもつとは到底おもえない。
売り上げを上げたければ、削った人件費の何割かを研修費に回しなさい。
そして後者の「カフェテリア研修」という発想。これも、1990年代以降のアメリカの「内発と自律」、「自由選択できることが幸せ」という風潮に追随して入ったものと思う。
しかし、それでいいのか?と正田は思ってしまいます。所謂「カフェテリア研修」が結果的にもたらす、ずっしり分厚いカタログの中から自分に合った教育研修を選ぶという行為。それは本当に幸せなことなのだろうか。
「良い教育研修を選ぶ」選定眼を身につける、というのは本来、プロでも難しいことなのです。(正田自身も、コーチングの大手研修機関2社、アサーション・アサーティブトレーニング2社・NLP1社の研修に数百万の金と時間を投じたあと、なおも「良い研修」を求めて単発のもの1泊のもの、とさまよい続けている)
そして決定的なことは、本書の言うようにそれは「理念なき教育」だということなのです。
本来たとえば管理職教育というものは、「君たち管理職に、会社としてはこういう人になってほしい」という思いをのせて提供されるべきものではないかと思います。
カフェテリア研修にはその理念はありません。たとえば、管理職教育と名打って、実は自己啓発セミナー的に自己充実、自己実現ばかり教えて利他を教えない研修も世の中にはいっぱいあるのです。しかもそのほうが、口当たりが良くて自分で選ぶならそっちを選びたい、というのもあり得ることなのです。
正田のもっている諦念
―人は、自分の持つ「偏り」を「強化する」刺激(学びを含めて)を好む
―そしてまた、学びは人を隔てる。異なった言語を話す人を育てる
にしたがえば、「私は私の信じていることを信じ、あなたはあなたの信じていることを信じる」という、ばらばらのバベルの塔のような組織だってできかねないのです。「カフェテリア研修」の発想を推し進めれば。
ややとびますが、
こう振り返ってみると、一般論として「個性の尊重」や「個の重視」には賛同できるものの、「失われた10年」として表現された日本経済の長期的な低迷やその間に起きたさまざまな社会問題の原因を「個性の軽視」や「個の圧殺」に求めるには相当無理があったように思われる。序章で述べたように、ここには、マクロの問題をミクロの要因で説明しようとする強引な因果帰属が見られる。しかしそれも、個性重視のマジックワードの力の大きさゆえであるかもしれない。
こうした、「マクロの問題をミクロの要因で説明しようとする強引な因果帰属」という問題意識は本書の至るところにみられ、これも正田の膝を打つところです。
で、正田がなんで10年もの間、「コーチング」ばかりやり続けているか。たとえばよのなかカフェなどを派生的にやっているのだから、より耳ざわりのいい「ファシリテーション」の看板を掲げないか。
それは、ほかのものは全部、些末なところの問題解決であり、根源的な「何が失われ、何が本当に今必要か」に応えていない、と思っているからです。
また、「本当に必要なもの」を提供すれば、派生的にほかの些末なものは提供できてしまうからだ、と思っているからです。
ミクロのところの問題がさしあたって目についたとしても、それについての「薬」を出すのは根源的問題解決にならない。より奥深いところまで問題の根をたどって本気でそこの解決に当たれば、ミクロの事柄に細分化した解決法をやっていくよりはるかにすっきり解決する。忙しい管理職に色々な名前をつけた研修を受けさせずに済む。
本書は(OJT以外の問題については)「解決編」まで提示している本ではないので、こうして正田が我田引水的に自分の仕事の話をしだすと著者らは目を白黒するかもしれません。
正田的には既に結論の出ていることについて、そこへ至る思考プロセスのすべてはクリアになっていないところを丁寧に補ってくれた本、という位置づけになるのでした。
1つ前の記事「不安で臆病、…」とひっくるめてまとめると、
不安感が強く人とつながりたい気持ちの強い、そして質の高い仕事をする日本人にとってOJTとそれに支えられた高品質システムは日本の強さの源泉だった。しかし同じ不安感の強さから、バブル崩壊後の経済低迷期に「横並び意識」と「焦り」によってアメリカ型人材マネジメントを導入してしまった。そこで深刻な品質問題やコンプライアンス問題が起こりつつある。
そして我田引水ではありますが、正田流の「承認中心コーチング」が高い成果のエビデンスを出してきた理由づけとして、こうした人材マネジメントの混迷によって失われたものを取り戻すど真ん中ストライクのソリューションだった、という解釈をすると傲慢にすぎるでしょうか。
聡明な管理職たちは枯れた大地が水を吸うようにそこで教わったことを吸収し、そして部下たちに学んだことを施し、成果を挙げた。
恐らくそこでは「コーチング」だけではなく、「教師」もまた必要だったことだろう。商業教育ではなく非営利精神で、心から賞賛を与え、時には本気で怒るときもある教師が。それは既に、管理職たちがその上司から与えられなくなっていたものだから。
だがこの教育ももはや風前のともしびで、歴史のもくずになるかもしれない。
「大局観」をもつ人が意思決定に関わらなければ。
神戸のコーチング講座 NPO法人企業内コーチ育成協会
http://c-c-a.jp
(追記)
なお現在でも、「人材マネジメント」の世界は迷走中です。
本書が出て3年たった昨年も、コンサルティング会社主催で東京で行われた「グローバル人材マネジメントセミナー」では、「マネジメント」はあたかも人事部が全社に対して行うものであるように言われ、「管理職による恣意的な評価を排するため」、アセスメントによる人事評価を推奨したりしていました。そこでは「マネジメントは管理職が職場で日常業務を通じて行うもの」という、当たり前の常識が欠落しているのでした。こうして実務経験の少ない人事担当者がコロリと騙されると、「管理職不在のマネジメント」なる空虚なものが横行することになります。
こうした明らかな詭弁が大手を振っていまだにまかり通っているのがこの「人材」の世界であります。
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