アメリカは「自己愛病」にかかっている。ナルシシズムは肥満と同様に、ここ数十年で急増した。

 『自己愛過剰社会』(ジーン・M・トウェンギ、W・キース・キャンベル著、河出書房新社、2011年)によれは、全米3万5千人あまりを対象に行った調査で、アメリカ人の6.2%、つまり16人に1人は自己愛性人格障害にり患した経験があることがわかった、といいます。

 さらに驚いたことに、65歳以上の人では3.2%だったのに対し、20代は9.4%(若い男性はなんと11.5%)が自己愛性人格障害を経験していた。つまり20代は約10人に1人、65歳以上では30人に1人ということになる。(p.47)



 自己愛性人格障害が16人に1人。こういうデータをちゃんと出すところがある意味アメリカの凄いところです(上の調査は米国立衛生研究所のもの)。別の文献では、「反社会性人格障害が25人に1人」という数字が紹介されています。


ナルシシズムがどんな様相を呈するかというと、傲慢、うぬぼれ、虚栄、誇大癖、利己主義。自己顕示欲が強く、自慢屋で、独りよがりで、驕り高ぶっている。自分のステータスを見せつけられるモノへの執着も強い。身ぶりが派手で、自分の話ばかりしたがり、人を騙して出し抜く。ちやほやしてくれる人を(「側近」や取り巻きとして)引き連れ、ハンサムや美人のパートナーを持ちたがり、注目されたり有名になったりするチャンスに飛びつく。人を操ったり利用したりするのもなんとも思わない。ナルシシストにとって、他人は自分を引き立て、いい気にさせてくれる道具なのだ。

 人あたりがよくて魅力的なので人気者のナルシシストもいる(ただし、こういう人も最後には馬脚を露わして、自己中心的で不誠実な人だとわかってしまう)。


 現代のアメリカでは子育ての段階で「あなたは特別」と教え込まれる。そして心理学者も自己啓発セミナーも普通の教育者も、「自分を愛しなさい、でなければあなたは他人も愛せない」という。

 こうした風潮が子どもの頃からのナルシシズムを育てる、と2人の心理学者の著者らはいいます。

 日本のわたしたちでも当たり前に受け入れている、「自尊心」「自尊感情」はいいものだ、という思い込みを著者らは否定します。

 いわく、自分を愛さなければ他人を愛せないというのはまやかしだ。高すぎる自尊心は他人を傷つける結果になる。自尊感情の低いパートナーがあなたを愛している時「私を愛している?」と頻繁に問うが、あなたに対しては献身的なパートナーとなるだろう。

 (この論法は私にもちょっと新鮮でした)


 ナルシシズムがもたらす病理として、

・注目を浴びたいあまりインターネットで肌を露出したり級友を殴って暴力ビデオを投稿する高校生たち、
・同じ理由から大学で頻発する銃乱射事件、
「物質主義」の行き着く先として本来なら買えないはずの家を高いローンを組んで買う人々(ご存知、サブプライムローンですね)
「個性重視」ゆえに子どもに珍しい名前をつけたり(日本でも「キラキラネーム」全盛ですね)、自分のメールアドレスに"star"や"king"などのナルシシズム的な名前をつける人々、
恋人や伴侶を見栄えのよいアクセサリーや性のはけ口としか考えず深い愛情関係を築けない人々、
特権意識の高さゆえに学ばない、働かない、怠惰。そこで若手社員が定着しない傾向に拍車がかかる。同僚を踏みつけにして出世しようとする。


 などを挙げます。


 こうしたナルシシズム病をどう治療すべきか。

 著者らはナルシシズム拡大の原因を5つ挙げます:自己賛美、子育て、セレブリティの称賛/有名人崇拝、インターネット、放漫融資。

 
 解決策として著者らが挙げるのは:

 隔離。ナルシシストを雇わない、同僚にいたら接触しない。有名人のゴシップをみない。ステータスの高いナルシシストと接触しない。ネットは大切な友人との関係を維持するために使う。

 エゴを抑え、ナルシシズムを追い出す心のもちようとして、
 謙虚
 自分をいつくしむ心(自慈心。self-compassion、自己賛美ではなく、ありのままの自分を共感をもって受け入れる)
 念(マインドフルネス) 
 人のつながり、自分を支えてくれる人のことを考える。 
(3・11後の日本人はひょっとしたら一日の長があるかも?)

 子育てでは、
 子どもを褒めすぎない。失敗から学ばせる。「おまえは賢い」ではなく「よくがんばったね」と言おう。スポーツのコーチの励まし方から学ぼう。
 「おまえは特別だ」と言わない。
 

 なお、日本のわたしたちにとってはナルシシズムの侵入も気になるところです。周囲を見渡すと既に入っているような気もします。

 本書によれば、アメリカ式ナルシシズムは世界各国にも急速な広がりをみせています。一方でその国・地域の特有の文化が解毒剤になる場合もあります。

 儒教文化は人間関係のあり方と徳を具体的に示し、責任と勤勉と協調を重んじる。しかし中国では「ミー・ジェネレーション(我一代)」という、政治よりエステに興味がある世代が生まれている。この世代はモノに価値を見出し、生家を離れて暮らしたがり、夜が明けるまで友人とクラブで騒ぐ。

 
集団としてはアジア人はナルシシズムの診断テストで比較的点数が低い。アメリカ国内でも、アジア系アメリカ人はほかのどの民族グループよりもナルシシズムの点数が低い。だが、東西の「ナルシシズム格差」が縮まっている兆候がある。(p.312)
 

 
 北欧諸国にはナルシシズムに対して独自の免疫力がある、と本書は言います。

 これらの諸国は非常に独立心が強い一方、ひじょうに集団主義的でもある。スウェーデンやデンマークなどはその平等主義の哲学により、高いレベルの個人のやる気と成功を促進しながらも、充実した社会福祉政策を整備している。…この種の社会体制は、個人が自分を大人物だと思い込むことができないので、ナルシシズムの緩衝剤になる。


(正田も「北欧」関係の文献を集め研究者の話をきいたりしていますが、これらの国で何か必要な変革をするとき、「面子」(一種のナルシシズム)にこだわって妨害する人が登場しないのがいつも不思議な気がしています。日本となんという違いでしょう)


 しかしその北欧諸国にもナルシシズムはネットなどに乗って進出を果たし、フィンランドでは2007年、高校生がアメリカ式の銃乱射事件を起こし8人を殺害したあと自殺しました。そしてノルウェーで昨年、政治集会の場で痛ましい銃乱射事件が起こったのはご存知の通りです。いずれの犯人もネット上で犯行声明的なものを出していました。

 
 中国以外のアジア諸国では、仏教文化がナルシシズムの緩衝剤になっている、と本書ではいい、タイとブータンの例を挙げます。




 さて、「日本」は残念ながら本書の題材になりませんでした。

 読者の皆様の周囲について注意喚起したいとともに、私自身のスタンスについても記しておきたいと思います。

 このブログでは去年8月に「人に教えるということ」という記事で、「自己顕示欲から発して言葉を発してはいけません」ということを書きました。

 http://blog.livedoor.jp/officesherpa/archives/51754001.html 

 ここでほぼ、ナルシシズムについて警戒する必要性をいいつくしているような気がします。


 そもそも「コーチング」が、本来の意義とは異なり個人のナルシシズムを刺激し肥大化させる結果になりやすい。他の多くの心理学セミナーもそうです。(「アサーション」のセミナーですらも、創始者の思いをよそに、「自分は人生の被害者だ」と考えるナルシシストで占められる)

 そのことに私自身は神経をとがらせてきたつもりです。そのため「承認」については、「自分が『承認』を受け取ることを考えるな。『与える』側であれ」ということをしつこくうるさく言ってきたつもりです。「つもり」ばかり言っていますが、さあ、どこまでそれは功を奏したでしょうか。

 「受け取る/もらう」のと「与える」のでは、「承認」がもたらす効果は180度異なります。「与える」ことに専念した人びとは、発散するエネルギーの種類が静かな穏やかなものになります。やわらかな聡明な光をはなつようになります。(やや宗教的な表現になり恐縮です)

 一方、「もらう承認」にばかり気持ちがいってしまった人々は、ナルシシズムのぎらぎらした光をはなちます。それは、見た目にもまったく異なる種類の光なのです。

 嫌がられても、「与えよ」と言い続けなければなりません。それは、大衆的人気を得て初めて経営が安定する商業教育ではできにくいことです。


 
 これとは別に、「自己宣伝」の問題があります。

 大人に対する教育研修は、「宣伝」や「営業」をしなければなりません。私たちの教育もその伝にもれませんが、「宣伝」はどうしてもナルシシズムがましくなるものです。

 残念ながら、この世界のマーケティングというのはナルシシズムの塊になってとんでもない誇大広告、あるいは目新しい広告を打つほうが人々を「おっ」と思わせ、成功するようです。また研修講師の人格というものも、ナルシシズムの塊になって
「どう?私ってすてきでしょ。あなたがたも私のようになれるのよ」
という匂いをぷんぷんさせているほうが、参加者を魅了し、講師として成功するようです。


 そんななか、2010年に出版した『認めるミドルが会社を変える』という本は、年末年始、断食をしながら執筆しました。どうしても、受講生さんがこんなよいことをしてこんなよい結果が得られた、という内容を書いて伝えなければなりませんから宣伝は宣伝なのですが、自分の「我欲」「ナルシシズム」的なものが文章に嫌味な形で出ることが極力ないように、とあえてそうしました。

 
 そういいながらこのところイベントにカメラマンを入れて(うちのスタッフさんですが)写真を撮ってもらうようになり、私の写真をブログに載せることも増えています。現・元お客様がそのほうが喜んでくださるからとそうしているのですが、自分がナルシシストになり始めていないかな?と迷いながらやっています。


 さらに最近は「最高のプロの2日間の授業」なる、これも人様から褒めていただいたのを文章化した自画自賛オンパレードの小冊子を作ってしまい、恥の上塗りをやっていますが、以前からよく存じ上げているお客様に方針をわかっていただくため、と言い訳しながらやっています。


 本書のいう、「ナルシシズムは攻撃性を誘う」などの記述は大いに同意できるとともに、自分への戒めとしたいところです。
 教えるという商売が担い手のナルシシズムを喚起しやすい、という意味の耳の痛い記述もあります。


 なお昨年末このブログでしばらく扱ったアルフィー・コーンの『報酬主義をこえて』(1993年)の論旨は、本書とは似ているようで非なるものでした。コーンは、過剰な競争を生む要因として「行動主義」と「褒める」を槍玉に挙げてしまった結果、期せずしてアメリカのナルシシズムに合流し、「人は他人のお世話にならずとも成長できる」という傲慢な考えに帰着したのでした。(この流れをくんだ日本人の手によるモチベーションに関する書籍が近年もありましたが・・・、題名は忘れた)それはコーン氏自身の性向であったかもしれません。



 さて、リーダーのナルシシズムは…。

 ナルシシストのリーダーを育ててしまうぐらいなら、コーチングなどしない方がまし、なのです。過去にはホリエモンが成功哲学のコーチをつけていたという事実があり、恐らく本人のもともと持っていた偏りを助長したのでしょうが、似たような例は他にもきっとあるでしょう。


 とはいえ過剰にペシミズムに陥らず、サポートできる人をサポートしたいものです。


 この『自己愛過剰社会』とともに、『デブの帝国―いかにしてアメリカは肥満大国となったのか』(グレッグ・クライツァー著、バジリコ、2003年)をあわせて読むのもおもしろい。おそらくは進化の過程で残った食糧不足に対応するための遺伝形質、あればあるだけ食べて欲望をとことん満たすようにできているわたしたちの体の誘惑、またそれを当て込んで形成される市場からの誘惑に打ち勝つのがいかに難しいことか。「自己愛過剰社会」は、それの「精神版」ともいえます。




神戸のコーチング講座 NPO法人企業内コーチ育成協会
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