2つ前の記事で移植医療に関わるコーディネーターの話をしたけれど、

 私はその職種の人たちに残念ながら会ったことがない。


 しかし、大変に高度な仕事をされていることだろう、とは想像がつく。日本でも臓器提供について「脳死者本人の意思表示がなく家族の同意のみ」のケースを認めたとたん、臓器提供が増えており、欧州でも臓器提供の大半は家族の同意によっている。


 身内を失った悲しみのさなかの家族を説得し、臓器提供の承諾をとる。こう縮めていうと「説得し」というところが「説き伏せ」「強要し」というイメージになりがちだが、実際は手厚いグリーフケアを行い、そのうえで臓器提供について説明し、という流れであろうと思う。おそらくそうでなかったら訴訟になっている。


 そういうとき日本のメディアは、懐疑論者の学者などを巻き込んで、すぐ「強引に臓器を取り出し」といったストーリーをつくる。多くの場合、それは大半のコーディネーターがいかに良心的で、高度な仕事をしているかをみていない。


 私が20年前、移植医療を取材していたとき心に刻んでいたことは、ここで仕事をしている人々は新聞記者の「人の話を聴き、文章を書く」といった仕事などよりはるかに高度な仕事をしている、そういう人々を批判するのはこちらも相当な覚悟が要る、ということである。

 (・・・とはいえ、中にはナルシシズムで身を鎧ったモンスターもいたわけだが)


 往々にして、実行の主体を批判することの重さをメディアの人々はわかっていない、それは実行側に身を置いたことがないから。実行ということのむずかしさを知らないから言えることがある。



 ただ、それを言うと「批判」を身上とする正田はなんなんだ、ということになるが、私が批判するのは主に、実践経験もないくせにただの仮説をもっともらしくいっぱしのく教育論、マネジメント論としてふりかざし人の世の不幸をつくりだす人々だから。


 芸術だったら、10人いれば10通りの表現方法があっていい。でも教育は、表現の世界のものではない。医療と同じように。教育には正解の範囲がある。医療と同様、なかには新しく発見されるものもあるが、それは丁寧に検証されるべきであり、新しく提唱しては言いっぱなし、ということは許されない。
 


 先日のよのなかカフェに来られたある人が、出席者の顔をみてあとで言った。

 同じ大人でも全然人種が違う。大人と子供くらい違う。

「そうでしょう。あの大人の顔をした人たちが、私が教えてきた人たちです」

 と私。


 そう、ここからは私の述懐だが、

 子どもに大人の苦労がわからないのと同じように、大人同士でもわからない苦労がある。


 それは当然。これだけ人種が違う、精神年齢が違うのだから。



最近刊行の小冊子については、プレスリリースはしないことにした。

 マネージャーを教えるむずかしさや喜びについて、あるいは教育プログラムを作るうえでの絶えざる改善について書いたようなものだけれど、結局は「大人の話題」で、大人にしかわからない話だと思う。
 わからない人に読んでもらってもコストがもったいない。


 
 小冊子無料プレゼントに応募して送った先の人に1人、「自己啓発セミナー」の熱烈な信者がいて、小冊子が同セミナーに批判的であることにかみついてきた。


 延々と論理的にスジの通らない擁護論
―それでも、自己啓発セミナーがこうしてファンの心をがっちりとらえるのだな、という参考にはなったのだが―
をぶち、最後には私をあざわらうメッセージを投げつけた。自己啓発セミナーが受講者に植えつけるナルシシズムは、究極モラルハラスメント的に他人を傷つける方向にも向かう。素晴らしい教育だ。公開の場でなくてよかった。


 彼ら彼女らは、自分で苦労して何かをつくったことがない。人が苦労して作った場に平気で入ってきて、他団体大事の一念のために、すじの通らないことを言って場をひっかき回して去っていく。ここ10年、そういう人達に散々妨害されてきた。作ることは難しく、壊すことは簡単だ。


 ナルシシズムの世界の人には、恐らく永遠にわからない世界がある。そして、教育の種類によっては、人を永遠のナルシシズムの箱の中に閉じ込める。特定の職業が人をナルシストにしやすいのと同様。





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