最近耳ざわりだなと感じる言葉に「想い」というのがある。


 例えばの話、

「正田さんの想い」。


 記者さんが取材しに来られて、


「正田さんの想いを語ってください」


 あるいは、どこかに文章を書かせていただくとき

(実際にはこんな言い方をされる依頼者はいないが)

「正田さんの想いを文章にしてください」


 私はこの「想い」という言葉がなんだか気持ち悪い、と感じてしまうほうで
最近もある記者の方に

「正田さんの想いではなく、正田さんの理論、正田さんのメソッド、正田さんの教育、正田さんの事業と言ってください。私は論理性で高い評価をいただいている人間ですので、『想い』という主観的な言葉で表現されたくないんです」

と不遜なことを申し上げた。




 ただ日経ビジネスなどを読んでいても「『想い』の経営」といった言葉はよく目にする。
 いつから、こうなったのだろうか。


 多分、経済部記者が経営者を取材するとき、成功したビジネスモデル、人気を博した商品やサービス、について

「何が成功の要因だったのですか」

ときく。

 するとそれぞれのビジネスモデルや商品の「誕生秘話」があり、また「こだわり」が語られるわけだが、

 そうした「誕生秘話」や「こだわり」の根底には、経営者の「想い」がある。

 
 最終的にはほぼ間違いなくそこにたどり着くので、途中をすっとばして一足飛びに「想い」と言うのだろうと思う。



 しかし。

 私などはそれは嫌だ、と感じるほうだ。自分が提供する教育内容の中でも

「行動承認」

をとことん強調してお伝えするが、

どんな企業努力、

どんなポジショニング、マーケットの選定、着眼点、

どんな精緻な技術力、

どんな品質向上努力、

どんな創意工夫、

(うちの団体だったら)
どんな教育内容、教育方法、
マネジメント思想・社会思想としての質の高さ、

と、いったもろもろの
「どんな努力」
をしてきたかが、まず、見えなければならない。

それらのプロセス1つ1つの大変さ、
思考の厳しさ、
ある程度大きな会社であればそこへ人々を動員するだけの
経営者の説得力、人材育成、

それらへの畏敬の念がまずなくてはいけない。

それがあって、
その次の段階に

「ではどんな『想い』があって、そこまでの仕事を?」

という話になる。

「承認」とはそういうものである。
相手のした努力の凄さがわかる大人ほど、よい「承認」ができる。

「想い」をもつこと自体はだれにでもできるが、
その「想い」を形にするプロセスが大変なのだ。強烈な企業努力が要るのだ。


そこを理解する努力
(それも記者さん方の仕事上の努力として、
しなければならないはずである)
をすっとばして、

「どうせ最後は『想い』の話になるんだから」

と、「想い」という語を安易に乱発するのは、いただけない。

―事実をリスペクトしない姿勢は、記者の名に値しないのではないかとすら私は思う―

 
それは、そこまでに至る道筋を丁寧にたどった人にのみ
開かれる扉のはずだ。


道筋を丁寧にたどる過程では、自分の物知らずぶりや、
社会人としての努力の至らなさに赤面する思いをするはずである。



「想い」という言葉をこのんで使う人は、
他人の仕事について現実感がない、
バーチャルな感覚になってしまっているのではないかと思う。



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兵庫県中小企業団体中央会さんの月刊誌「O!」というところで
今年、3回の「誌上コーチングセミナー」の連載をさせていただき、
それで終わりかと思っていたところ、
来年度も5回の連載のお話をいただいた。


担当の課長さんが「会員さんに重要な情報としてもっと知ってほしい」
とお考えになられたようで、ありがたいこと。


切実に、地域の企業様に良くなってほしいと思う人達に
ご協力できるのであれば、こんな嬉しいことはない。


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ちなみにわがままな私は
「あなたは文章がうまい」と言われるのもちょっと嬉しくない。

(ありがたいことに、ご依頼に当たってそうは言われなかった)

「あなたの観察眼は的確だ」
「あなたの状況分析、人物分析は的確だ」

と、文章以前の専門家としての仕事ぶりを
評価していただけるのが嬉しい。

「文章がうまい」なんて、
舌先三寸で生きているみたいではないか。



神戸のコーチング講座 NPO法人企業内コーチ育成協会
http://c-c-a.jp