また少し日付が戻って、9日(金)日経新聞夕刊にホイットニー・ヒューストンの「追想録」が載りました。
「人種の溝拡大、居場所失う」という見出しです。オヤオヤという感じです。
以下、記事を引用します:
***********************
人気スターが薬物で道を誤る。芸能界にありがちな転落劇は昔もあったし、これからもあるだろう。ホイットニーの死から読み取れるものは、米社会の保守化がもたらした人種の溝の広がりだ。
差別撤廃を掲げた1960年代の公民権運動を受け、70〜80年代の米音楽界はマイケル・ジャクソンやライオネル・リッチーら、白人に愛される黒人歌手を輩出。ホイットニーもその一人だった。
レーガン革命と呼ばれる保守運動の台頭で、80年代半ばから流れは反転する。白人はカントリー、黒人はヒップホップへとすみ分け、ジャンルにとらわれずに音楽を流すラジオ局は急減した。
ケリー・クラークソンら白人歌手にファンを奪われたホイットニー。不良っぽさが売り物だった黒人アイドルのボビー・ブラウンとの結婚を経て、作風を黒人マーケット狙いに変更した。欧州中心のカムバック・ツアーを組むなど新たな居場所づくりを試みたが、結果ははかばかしくなく、結婚生活も破綻した。
薬物の道に引き込んだ元夫の弁を聞こうと、全国ツアーの会場に足を運んだ。「命は命として、ときには振り返らないことも大事だ」。すっかり太った元アイドルは黒人女性の変わらぬ声援に包まれていた。
(ワシントン=大石格)
(日本経済新聞2012年3月9日夕刊)
***********************
ホイットニーの元ファンとはいいながらこのあたりの事情に疎かった私です。
そうですかそうですか・・・
80年代から90年代初め、「ブラック・イズ・ビューティフル」の象徴のように光り輝いていたホイットニー。
しかし、それは黒人歌手隆盛の歴史からみれば最後の輝きだったかもしれなくて。
「差別撤廃」は人類の歴史からみれば決して長いものではありません。
脳科学者のガザニガだったろうか、ダマシオだったろうか、
「人類の脳の機能のうち退化したほうがよいと思うものもある。それは人を人種、性別で敵味方、上下を見分ける機能だ」
と言ったのは。
それはごく近距離で敵対する部族に分かれていたころ、また男女の役割が狩猟―農耕・採取ときっちり分かれていたころの名残で、現代は不必要な機能だ、と。
しかし脳機能として残っている以上、「差別撤廃」のスローガンはまだまだ脆弱なもので、簡単に元に戻る可能性があるのです。
そしてわたくしがこのところしきりにブログに書くのは、わが国で再び「性差別」が強まってきている、ということであります。
もともとは母系社会で、女性中心でものごとを決めていたものが、ある時期に武力をもつ男性中心にかわり、そして「女性支配」を恐れるあまり女性を弾圧するようになった、という説もどこかでみたことがありますが。
フランスの人口学者によれば、(あ〜、名前が出てこない)日本人の歴史的な識字率の高さは、家庭教育における母親の権威の高さによるものだ、というのもみたことがありますが。
しかし「伝統的に弱い男性」そして「強いマザコン社会」加えて近年の「ロリコン文化」―つまり、「対等な男性と女性」という関係がそもそもない―、その土壌に加えてこの不況・人減らしの下では、再度「女性を家へ」の流れになるのも、自然なことです。
相変わらず、某大新聞の一面のコラムには「嬶(かかあ)」という字をいじくった文章が載り、「女性不在のところで男性同士が女性をネタにした冗談で憂さ晴らしをする」文章が白昼堂々と人目に触れるのです。
こういうことについてリテラシーのないセンスの持ち主だから「明治の女性の無私の心」なんていうのも平気で垂れ流す。
わが国においては、そもそも「性差別撤廃」なんていうのは借り物の建前論だったし、その揺り戻しがきたときになんの疑問もなく受容してしまう感性なのでしょう。
やっぱり、女の子は海外で就職させるに限ります。
神戸のコーチング講座 NPO法人企業内コーチ育成協会
http://c-c-a.jp
コメント