「道徳」が人と人を隔てることがある。


 『NVC―人と人との関係にいのちを吹き込む法』(マーシャル・B・ローゼンバーグ、日本経済新聞出版社)という本によれば、

(ちなみにNVCはNonviolent Communication 非暴力コミュニケーションの略です)

道徳を持ち出す


 心の底からの訴えを遠ざけてしまうコミュニケーションにはいろいろあるが、そのひとつが道徳をふりかざして人を裁くというものだ。自分の価値観にそぐわないふるまいをする相手が悪いとか、まちがっているとほのめかすやり方だ。そうした判断は言葉にあらわれる。「あまりにも自分勝手なところが、あなたの問題だ」「彼女は怠惰だ」「彼らは偏見に満ちている」「それは不適切だ」など。非難、侮蔑、こきおろし、烙印を押す、批判、比較、分析はすべて、形を変えた裁きなのだ。
(p.40)


 「評価・判断しない」


 このこと自体をどう判断するか、むずかしいことです。リーダーシップでは、「判断を保留」することが問題を大きくしてしまうことの弊害も無視できず、むしろ「即判断」が求められる場面も多いのです。

 ここで心理学をとるべきか、倫理・道徳的判断をとるべきか。


 わたしは日頃は「倫理道徳は先発ピッチャー、心理学はリリーフピッチャー。心理学は倫理道徳の限界を埋めるもの」という言い方を良くしています。

 しかし、倫理・道徳的判断に限界はおのずとあること、とくにこんにちのように「ゆとり社員」や従来の働き手と違う人種が入ってきて従来の基準が当てはまらないこと、まずは自分のモノサシを捨て「理解」に努めなければならない場合があることを考慮すると、その限界を知ることは以前よりはるかに重要性を増しているかもしれません。

 
 歯切れがわるいですが。


 ひとつの例でいうと、ある活動体で先日出た話。

「あの人(スタッフ)、日本人じゃないみたいね」

 ヒソヒソ話が出ました。

 スタッフの荷物置き場に、彼女は自分の勤務時間を過ぎても荷物を起き、リーダー格の人から「それは困ります。勤務時間を過ぎたら荷物をもって出てください」と言われてもそのまま置いていた。しかも自分の家族にも声をかけてそこへ連れ込み、荷物を置かせていたという。

 そういう規範意識の違いが、「日本人じゃないみたい」というせりふになったのです。

 つまり、「ルール感覚がない。けしからん」とみなすことが適切でない相手、自分たちの常識とは違う種類の規範意識をもった相手らしい、ということ。


 さて、ではこういう異なる規範意識の人にはそのまま荷物を置かせておいていいよ、というべきか、

 ここで思考停止してしまうのだけれど・・・。

 次の一節、

 
 
そして、くれぐれも「価値観にもとづいた判断」と「道徳にもとづいた判断」を混同しないように。わたしたちはみな、大切にしている価値観を基準にしてものごとを判断する。率直さや自由、平和など、何に価値を置くかは人それぞれ。価値観にもとづく判断は、どうすれば人生をすばらしいものにできるかという信念を反映している。だが相手がそれに応じず、こちらの価値観に反するふるまいに出ると、とたんに「道徳にもとづいた判断」を下す。たとえば、「暴力は悪いこと。人を殺す人は邪悪だ」などと。もしも相手を思いやる言葉を使うように育てられていれば、満足できない場面で暗に相手に指摘するのではなく、自分の価値観や自分が必要としていることを明確に述べることを学んでいただろう。
(pp.42-43)


 道徳ではなく自分の価値観で伝える。
例えば先ほどの「スタッフの荷物」の件だったらリーダーはなんといえばいいだろう。

 
「私は、ボランティアスタッフがみんなにとってわかりやすいルールで行動することが、お互い疑ったりいやな気持にならないですむために大切だと思っていて、この場をそういう場にしたいんだ。
それでいうと、あなたが自分の仕事を終わってからもここに荷物を置いたり、ご家族の分も荷物を置いているのは、困るなあと思う」


 うーん、これで確実に通じるだろうか。

 アサーションでは、事実+自分の感情 という順序で伝えるとかならず通じる、というふうに教え、現実にはその通りいかないことが多くてあたふたすることになる。相手には相手の言い分があり、感情(・・・しているつもり)があって、想定外のそういうのが出てくるのだ。


 この場合は、「荷物を置きっぱなしにする」といういわば「微罪」に関することなので、「価値観」をもってきても今ひとつ反応が薄そうだ、ともいえる。なんでそんな大仰な言い方するの?ときょとんとされるかもしれない。

 やっぱり、「いじめは先生は大嫌いです」とか、「お客様のために真剣・誠実に仕事しよう」とか、ちょっと大きな枠組みのことで使ったほうが説得力あるかもしれない。


 とにかくこういう解決方法もある、と憶えておくのはいいことだろう。


 
言葉と暴力の関係については、コロラド大学のO・J・ハーヴィー教授が心理学的な研究をしている。ハーヴィー教授は、世界の多数の国の文学から無作為にサンプルを抽出し、人を裁いたり分類したりする言葉が出てくる頻度を表にした。その結果、そのような言葉の使用と暴力の発生には高い相関関係があることがわかった。人が何を求めているのかを考える文化と、「いい」か「悪い」かというレッテルを貼り、「悪い」人間は罰を受けて当然と考える文化を比べれば、前者のほうが暴力ははるかに少ないのも無理はない、とわたしは考える。
(p.43)


 だそうです。


評価・判断する倫理学と、評価・判断しないのを良しとする心理学。

 人と人、それぞれ個別性があって、摩擦が起きる。自分のものさしを絶対だと思っていると、相手を理解する、ゆるすことがむずかしくなる。そこで、自分のものさしに「倫理・道徳」という錦の御旗をなるべく最後までつけないで、「自分の価値観」に照らして、あるいはできる限り相手を理解しようと努めて、問題解決を図ろう。

 そういう話なんだと思う。


 倫理は万能ではない。正田はほんとは倫理びいきだけれど。

でも判断すべきときは「すきっ」と判断しようね。ああ歯切れがわるい。

最近のわたしは倫理の学びにわりあいすすんで近づいているので、そこで一応こういう歯止めももっておいたほうがいいと思っている。

 このお話はここまでといたします。


 この本に出てくる、「観察」という事柄に関する言葉は美しい。


 
インドの哲学者、J・クリシュナムルティはかつて、評価をまじえずに観察することは人間の知性として最高のかたちであると述べている。
(p.61)




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