「瞑想」「マインドフルネス」に関する本をこのところ読んでいます。
(集めています、と言ったほうがいいかもしれません;;)


 スピリチュアルは嫌い。なぜ嫌いかをたどっていくと、要するにスピリチュアルオカルトOKだと、「なんでもあり」に最終的にはなってしまうから。教育をする側が恣意的なことを言えてしまいロジックなんてどうでもよくなる。ということは、教育をする側の一方的優位、ということになりフェアプレイでなくなる。そういうのはおおむね教育を受けた側からその先へ連鎖していく・・・


 で、あまりスピリチュアル系のことをこのブログでも話題にしないようにしているのですが、例外的に「瞑想」はときどき登場する、というのはご存知のかたもおられると思います。去年の春は、「U理論&瞑想」の2日間研修にも参加してしまいました。


 瞑想で脳波がどうなる、脳の形がどうなる、というのも今世紀に入ってからホットな研究テーマのようです。

 そして「マインドフルネス」は近年、うつ治療法としても関心を集めています。


 そのうちの一冊、『マインドフルネス―気づきの瞑想』(バンテ・H・グナラタナ著、サンガ、2012年9月)は、アメリカで出版された「瞑想」についての古典だそうです。


 どうでもいいけどこの関係の本はどれも高いです。2000円を超えるのがほとんどです。


 読了して、れいによって我田引水気味におもうのは、「承認コーチング」がなぜマネジャーたちのもとでこれほどまでに効果を上げるのだろう?


 この仕事に入って11年、その後半数年は、つねに頭の中にこの問いがありました。


 「瞑想」とのからみで出したひとつの答えは、

 「瞑想」が瞑想中だけではなく日常生活にもたらす良い効果、

 すなわちつねに「気づき」とともにある。感覚が鋭敏になり、良いことにも悪いことにもへだてなく、虚心に現象に気づく姿勢を維持し続ける。そのことが高い問題解決能力をもたらす。

 これと同じ効果を、当協会方式の「承認コーチング」はもたらしているのではないか?ということです。

 (もちろんこれ以外に、「人材育成能力の向上」とか「コミュニケーション能力の向上」という、それら自体価値のある効果もあり、それらはむしろ「瞑想」にはない効果です)


 こうしたことは、あくまで「仮説」であります。表だって宣伝文句としてうたえるわけではありませんが、これまでのわたしの実感とは合致することです。このブログに「あくまで仮説です」とお断りしたうえで、書いておくぐらいは許されるでしょうか。


 それでは、わたしがこうした感想をもつにいたった本書の中の記述をいくつか引用いたしましょう:



 
気づきとは、エゴのない注意力のことです。エゴがなく、気づきます。気づくことによって、「私」とか「私の」「私のもの」などの概念を入れずに、あらゆる現象を見ることができます。たとえば左脚に痛みがあるとしましょう。通常の意識では「私の脚が痛い」と思うでしょう。気づきを使う場合は、感覚[痛み]をただ感覚[痛み]としてのみ観察します。「私の」という余計な概念は付け加えません。そのように気づくなら、認識したものに何かを付け加えることもなく、何かを減らすこともなくなります。何かを強調することもしませんし、誇張することもしません。そこにあるものをあるがままに観察するのです。

 気づきとは、変化を認識することです。流れている感覚を観察することであり、変化している現象を観察することです。すべての現象の生起、成長、成熟を観察することです。(p.266)




心の奥深くには、美しくて楽しいことは受け入れ、醜くて痛みがあることは拒絶する、という構造が埋まっています。この構造は、私たちが取り除こうと努力している心の障害物―貪り、欲、憎しみ、怒り、嫉妬などを引き起こします。心の障害物を取り除こうとするのは、障害物という言葉が一般的に悪い意味だからということではなく、障害物が心をとらえて離さないものだからであり、心を占領して注意力をすっかり奪ってしまうからです。また、固くて狭い思考の中でぐるぐる回転し続け、現実から私たちを切り離してしまうからです。(p,.277)



 正田の我流解説(1)・・・最近のこのブログで、人々が「ポジティブ」であり問題解決が遅れる、ということを何度かとりあげました。詳しくいうと、「ポジティブ」は「嫌なことは考えたくない、ききたくない、見たくない」という性質をもった資質です。こういう人達は外の世界をみるとき、「ポジティブバイアス」をもって見ます。「楽しいことしかみたくない」のです。「嫌なこと苦しいこと不快なこと」は自分に嫌な感情を起こさせるので、「ない」ことにしてしまいたいのです。こういうバイアスをもっていると、その人の情報収集能力や問題解決能力は半分以下に落ちます。

 いっぽうで「ネガティブバイアス」をもっている人もみます。この人たちは問題解決能力は高いかもしれませんが、ネガティブなことにばかり目を向けていて良いことをみることが苦手なので、人を伸ばすことは下手でしょう。ネガティブな指摘ばかり受けて伸びることのできる、ごく一握りのゴールドメダリストたちしか伸ばすことはできないでしょう。

 「へだてなく現象をみる心の状態」は大事です。それを妨げるのはその人のもっているバイアスともいえるし、煩悩であるともいえるでしょう。

 「承認コーチング」が成果を上げるという場合、それは「承認」を、「褒める」という部分的理解にとどまらず「へだてなく現象をみる、変化をみる」という認識の方法(気づき)にまで大きく解釈をしてくれたマネジャーのもとで起きます。

 できるだけ多くの方が「褒める」ではなく「現象に気づく」ことにフォーカスしてくださるように、宿題の出し方もそれに向けてデザインしています。・・・ということに気づいてくださった方もおられるでしょうか。


 当協会方式の「承認」が、なにか宗教的な「気づき」「悟り」のようなものと通じているようだ、と思ったことは何回かあって、

 かつて自治体で高い成果を挙げたあるマネジャーは、「承認」に出会うまではネガティブバイアスの人で、課を良くしようと試みるも課員がついてこない状態でした。しかし、「承認を学んでから、職場に戻ってよくみると、課員たちの顔は輝いていた。『プロの顔』をして仕事をしていた。なんと素晴らしい仲間と仕事をしているんだろうと思った」と、いいます。こうした、一気に「視界良好になる」劇的な体験をする人も中にはいる、ということでした。

 
 またこのブログによく登場する林義記さんが、「ご回向する=徳を回すということが『承認』を通じてできるのだと思います」と書かれたように、「承認」それ自体は単純な行動トレーニングであるものが、人によっては「徳」という(拡大)解釈をしてくれる余地があり、自発的に拡大解釈をしてくれた人のもとでは高い成果が出る、のでした。



 
気づきとは、心が鋭敏であるということです。心は何かに囚われて苦しんだり、悩みに縛られたりしていません。何が起こっても即座に対応することができます。本当に気づいているとき、神経系は新鮮で弾力性があり、それによって智慧が現れます。問題が起こったときは素早く、無駄なく、混乱を最小限に抑えて、サッと対処できるのです。どうしたらよいのかわからずにおろおろすることはありませんし、静かな片隅に逃げて座り込み、それについて思い巡らすこともありません。ただその場で対処するのです。まれに解決法がないような状況でも、問題について悩むことはしません。ただ気づくべき次のことに気づき、先へ進みます。直観が具体的に働くようになるのです。(p.313)



 正田の我流解説(2)・・・これは、まさしく「基礎C」の感情プログラムの狙いとするところ。以前にも「マインドフルネス」と当協会の「基礎コースC」のプログラムとの類似性をとりあげましたが(酒井穣氏の著書の紹介だったと思う)、過去の「基礎C」の開催報告の記事にこういうものがあります。

 「心の柔軟性をいつまでも忘れずに コーチング講座基礎コースC 開催しました」(2010年8月)
 http://blog.livedoor.jp/officesherpa/archives/51623353.html


 「リーダーの決断力に『感情』がどう関係するのか。決断とは思考ではないのか」

 とお叱りを受けるかもしれませんが、どっこい「意志」や「決断」は、「感情」のはたらきのかたまりです。

 自分の経験するすべての感情を「へだてなく」認識し、それにふさわしい場所を与え、という作業をして初めて精度の高い決断、あるいはタイムリーな決断というのはできるのです。「へだてなく」というのは、「怒り」「恐れ」もまた、わるいものとしてことさらに退けない、ということです。

(ここでやはり、「恐れ」という感情をことさらに回避するあまり傍からみておかしな決断、あるいは決断の先送り、をしてしまう人は多いです。上記の記事の中では、「恐れの認識をできない中高年男性はこころが柔軟性を失う」ということを言いました)


 自分の感情をまんべんなく経験する、ということは、当協会プログラムにおいては正式には「基礎C」ではじめて登場するのですけれども、でも決して1回それを受講したからといってできるようになるわけではありません。非常にむずかしいことです。ただ感覚の若い人、このブログを隅々までよく見ていてくれる人だと、「先取り」してそこまで体験しているかもしれません。あるいは「基礎A」の内容も、拡大解釈すればそうした内容を含んでいる、と言えるかもしれません。


 そんなわけで、「マインドフルネス/瞑想」は、当協会プログラムを受講される方にとっては、いわばサブテキスト的な役割を果たすでしょう。正田自身はご指導する資格をもちませんが、瞑想に関しては新書でも何冊か指導書が出ていますので、手にとっていただきたいと思います。悪い感情の溢れているこんにち、「承認するリーダー」たちにとっても良いこころの解毒剤となりそうです。


 
 さて、「慈しみ」という感情についての章があるこの本には、私がいまだできていないことについての高いチャレンジも出てきます。

「嫌いな人、敵意をもっている人にも慈しみを持てるか」

 自分の成長のため、あえて目をそらさず、それも書いておきましょう。


 身体を強くするために歩いたり走ったり泳いだりするように、慈しみを定期的に実践すれば心が強くなります。・・・心が強くなるにつれ、困難な人にたいしても慈悲の心を向けることができるのです。

 私の嫌いな人・私を嫌っている人々が、幸せで安穏でありますように。危害がありませんように。困難がありませんように。苦しみがありませんように。いつも成功できますように。(p.351)



 敵意を持つ人たちの成功を願うとき、それは俗世間の成功や非道徳な行為、不正な行為が成功するようにという意味ではありません。精神面での成功を意味しているのです。敵意を持つ人が精神的にうまくいっていないことは明らかです。もし精神的に成功しているなら、他者に害を与えるような行為はしないでしょうから。

 敵意を持つ人に対して「成功しますように」「願いごとがかなえられますように」と言うときはいつでも、「彼らの怒り、欲、嫉妬がなくなりますように。穏やかで、楽で、幸せでありますように」という意味です。なぜ意地悪で残酷な人がいるのでしょうか?もしかすると、彼らは不幸な状況のもとで育てられたのかもしれません。もしかすると、それまでの人生で敵対的な行動をさせるような状況があったのかもしれません。ブッダはそのような人のことを、重い病気で苦しんでいる人と同じであると考えるように、とおっしゃいました。(p.352)



 私に害をもたらす人々が、欲、怒り、嫉妬、恐怖から離れられますように。慈しみの心で包まれますように。身体の全細胞、すべての血液、すべての原子、すべての分子と心が、慈しみで満たされますように。身体が安らぎますように。心が安らぎますように。身体と心が慈しみで満たされますように。慈しみの安らぎと静けさが全身に溢れますように。(p.353)


 

 ふー。入力しているうちにこころが落ち着き、穏やかな気持ちで満たされるのがわかります。読者のかたにもおすすめですよ、こういう文章を写し書きしてみるって。

 当分この境地にはたどり着けないであろうけれど、いつかあるかもしれない到達点として、書いておきました。


 現実的に「敵意をもつ人」「害をもたらす人」として想定されるのは、たとえばネットの「悪口世界」にはまり込んで毒のある感情をいっぱい抱えて、何かのきっかけでそれらを垂れ流す人とか、わたしのしていることに見下しを投げつける「異教」の人びととかです。


 せっかく学んでくれた人もすぐより知名度の高い「異教」に流れ、次に会ったときには傲慢と見下しの世界の人になっている、というかなしいことも経験してきました。ナルシシズムを教えるほうが今の時代、商業的に成功しやすいのです。ただそうなった人々がマネジャーとして成功するか、というと話はまた別です。


 学生時代の友人が自己啓発セミナーの信者になっていて、見下しの言葉を浴びせてきたことも。

 
 そうした悲しみをもうあまり経験したくない、というのが正直な心境。まだまだ、わたしは小さい。




100年後に誇れる人材育成をしよう。
NPO法人企業内コーチ育成協会
http://c-c-a.jp