9月16日付読売朝刊1面のコラム「地球を読む」は、劇作家山崎正和氏の「『絆』社会の幸福と焦燥―『日本人論』再考」だった。


 ロンドン五輪での日本選手団のチーム競技での強さをふりかえり、「絆」「集団主義」から過去からの日本人論を踏まえつつ、自説の「柔らかい個人主義」を提唱。


 山崎氏による「柔らかい個人主義」とは、本コラムによれば、


「私自身もそのなかで、・・・日本人が実は、将来の個人主義の普遍的な理想像をめざしていると考えてみた。従来の固い個人主義が自己主張の姿勢なのに対して、柔らかい個人主義は自己表現の態度である。主張は他人と対立するが、表現は認めてくれる他人がなくてはならないから、自己表現者は尊敬に値する隣人を積極的に求めるはずである。

 互いに表現しあい、認め合う場は、それ自体が固い組織ではなく、「社交」と呼ぶべき緩やかな人間関係になる。組織がメンバーシップの殻を持ち、強い指導者とピラミッド型の指揮系統を備え、力を評価基準にしているのに対して、社交はすべてその逆である。中心人物はいるものの、権力も指揮系統もなく、自由な個人が自発的に集まるのだが、そのさいの評価基準は人間的な魅力である」


 さて、

 私は山崎氏と面識があるわけではない。だから逆にこのブログでひっそりと思うところ(ようするに反論)を記しておいてもわるくはないと思う。

 別に「公開反論」とまで気張ったことを考えているわけでもない。私なりの見方はこうだ、ということ。


1)平均的な日本人が遺伝子的に不安感が強く、またその形質ゆえに、「集団主義の度合い」を国民ごとにプロッティングすると、世界で集団主義の最右翼にくる。(韓国、中国はわれわれからみると個人主義的なようだがやはり日本に次ぐ位置にあり、欧米諸国はそれに対してはるかに個人主義の度合いが高い。昨年2回にわたりとりあげたスウェーデンもそう。「不安感」が「集団主義」の原動力であることはほぼ定説といってよさそうだ。


2)かつ、個人としての日本人はけっこう怒りっぽいことも心理学調査であきらかになっている。一定期間中に怒りを感じた回数や度合いが国際比較で高い。しかし一方であきらめやすい性格でもあるので、「怒りを感じたが抑圧した、表現しなかった」の頻度が高い。
「怒りっぽいけれどもあきらめやすい日本人?」http://blog.livedoor.jp/officesherpa/archives/51437510.html



3)上の1)2)を総合すると、不安感ゆえに集団志向的に振る舞うが、個々人の心にはそれでは満たされないものが鬱積している。しかしそれを表出することは避ける。一杯飲み屋で愚痴を言って憂さを晴らし翌日はけろっと出社するサラリーマンの姿が思い浮かぶ。集団を志向するが心には怒りを抱く、アンビバレントな態度、それが遺伝子学、心理学の研究で浮かび上がる日本人である。それを「柔らかい個人主義」「個人主義の理想像」とまで称揚するのはどうだろうか。


4)日本人にみられる集団への反発心や帰属意識の薄さをとりあげて「日本人は集団主義などではない、個人主義だ」という議論も存在するが、1)の研究がいうように国際比較ではやはり集団主義が優位であって、一方で近年の傾向としては過去の文化にはなかったナルシシズムが勃興し、「認められたい」という感情の高まりから集団に対して怒りを感じる度合いが強くなっているとも考えられる。それは、私見では個人主義といえるほど自立した個人に立脚したものではないのではないか。


5)べつの視点。上記の記事の中で山崎氏は
「主張は他人と対立するが、表現は認めてくれる他人がなくてはならないから、自己表現者は尊敬に値する隣人を積極的に求めるはずである。」
と述べるが、ここは論理的に無理があるように私には思える。
単純化すると、Aさんは自己表現するのが好きである。△靴燭ってAさんは自分の自己表現を認めてくれる人を求める。Bさんは尊敬に値する人物である。したがってAさんを認めてくれるはずである。い靴燭ってAさんはBさんを求める。 ―と、いうことを言っている。
Aさん、虫が良くないか。
次のパラグラフではそのあとすぐに「互いに自己表現しあい、認め合う場」というのが出てくる。いきなり理想郷の誕生である。
わたしに言わせれば、「自己表現」は精神年齢が低くても表現力が高ければできるが、「認める」ことは精神的に大人でなければできない。子どもと大人の組み合わせなのである。自己表現をして、それを人に認めて欲しい、というのは、子どもが大人に甘えているのと一緒なのである。一方的にしゃべって人に聴いてもらうのを当然と考えている人も甘えだし、もうひとつ言うと言うべきことをちゃんと言わないで「わかってくれよ」と期待するのもそう。
山崎先生、甘い。きっと家で奥さんに甘えてるでしょ。
「認めて欲しい」から、「認め合う」に移行するためには、すべてのメンバーが「認める」という大人の行為をするよう努力して、初めて可能なのである。
山崎氏はやはり「劇作家」でいらっしゃるな、と思うのは、「表現」ということを「認める」ということと等価のように、すごく大切な高次のもののように言っている。
私は身もふたもない人間なので、「表現する」は、単にアリになりそこなったキリギリス型人間(私をふくめ)が自分の特異な遺伝形質を生かすためにやることで、大して立派なことではないのである。
文化人という人種はおおむねキリギリスのちょっと高等なものなので、「表現する」を過大評価する傾向がある、と思う。かれらにはそういうバイアスがあると思って読まねばならない。
ほんとうはアリの行為、「働く」ということがもっとも称揚されるべきものなのだ。
「主張」と対比して「表現」はいいものだ、という論法は、「議論」より「対話」がいいものだ、という対話の先生方の論法とちょっと似ている。


6)「認め合う場」は、企業などの目的追求型の組織では実現しえないかのように言っている。「認め合う」は、目的追求型でない社交型組織ではじめて可能なのだという。しかしこのコラムの冒頭で取り上げた集団スポーツの勝者たちは、「勝つ」という目的追求のゆえに「認め合う」という行為をもしたのではないか。


7)社交型組織では「人間的魅力」が評価基準なのだという。地位とかが基準よりいいのかもしれないが、なんだかそれも息苦しいなあ、と思う。介護や育児、家族の問題で眉根にしわ寄せてる顔の人は魅力がないから評価が低いのだろうか。わたしはもっと子どもが小さかった頃や鬱、不登校の子どもを抱えていたころ、自分が100%天衣無縫な幸せな表情ができないことが仕事上いささかつらかった。そういうときは独身者で重荷のすくない同業者がうらやましかった。



 ああ、しょもない反論をしてしまった。大して存在感のないブログなので許してください。

 ほんとうは全体としてはおもしろい論考だったのだ。



 ところで、このところ気がかりなことがある。

 以前、『働かないアリに意味がある』をこのブログで紹介したこともあるが、「キリギリス」あるいは「働かないアリ」の比率が、IT化した先進国病の諸国では上がっているのではないか。

 もともと、男女の脳の比較では男性より女性のほうが学習能力、意欲とも高いといわれる。男性はそれより「システム化」の能力が高い。その「システム化力」を、ゲームやSNSが絶え間なく吸い取る。と、見事にリアル生活では意欲のない、言われたことしかやらない、責任感の低い、打っても響かない男の子が出来上がる、のではないか。

 
 誘惑の多い今の世、(わたしたちの世代もそうだったのだが)ちょっと誘惑に弱い形質のある子だとすぐ脇道にそれる。本筋で額に汗して長い時間努力して、というのがむずかしい。

 その、「ちょっと誘惑に弱い形質」が命取りになる。親ももうコントロールできない。


 世間にはITで若くして成功した人のことが喧伝されるが、誘惑に弱くてITにはまりこんだ弱い個体の子がみんながみんな成功するわけではない。

 職場の「責任感の偏在」の問題が出てくるたびにそんなことを思う。
 

 
100年後に誇れる人材育成をしよう。
NPO法人企業内コーチ育成協会
http://c-c-a.jp