別居している娘の成績が伸び悩んでいるときいた。


 この子は高校時代「オール10」だった。身体の病気もちでそれがもとで中学、高校と2度いじめられ2度不登校〜別室登校になった。そんなで友達はほとんどできなかったが、制限された自分の能力をそこに注ぎ込んだかのように、学校で課せられる頻繁な資格試験や定期試験をきちんきちんとこなした。


 その当時私がしていたことは、毎日娘の好きなご飯をつくってやることのほかに、「感謝」を口すっぱく言っていた。

「こんなに先生方が一生懸命教えてくれる高校はない。勉強で頑張らせてくれる高校はない。感謝しなさいよ」


 娘はよくそれに応え、毎日6時に家を出てだれもいない高校の教室で試験勉強をした。・・・


 今は、鬱のリハビリと称してサテライト講義だけの予備校に通う。先生にも友達とも接触がない。そして私はもう傍にいて「感謝」を勧めてやれない。代わりに学んでいるのは「冷笑」だろうか。



 「感謝」は、今遠方の大学に通う娘にも言っていた。彼女は美術科のある県立高だったので、ふつうの高校より県の予算を多少余分に配分されていた。美大並みの制作アトリエをもっていた。そのことに感謝しなさいと、折に触れ言った。

 この子はまあ大きな問題のなかった子で、前向きの頑張り方をしていた。

 
 
 今は「感謝」「躾」などまったく受け付けない子どもと暮らす。この子をみていて学んだのは、

 躾がよかったのでこんなによい子に育ちました、というのは、躾を受け付ける形質をもった子に関して言えることなのだ。

 そういうことを学べたのもわるくないのではないか。子どもは家庭の躾さえよければよい子に育つ、というのも傲慢な考え方なのだ。「性同じうして・・・」という孔子の言葉には、異議あり、である。




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