映画「レ・ミゼラブル」を観てきました。


 ヒュー・ジャックマン、ラッセル・クロウ、アン・ハサウェイ、アマンダ・セイフライドと豪華キャスト。ヒュー・ジャックマンはむしろミュージカル俳優だったんですね。力強い歌いぶりです。アクション映画でみてきたかれの大きな瞳が、ここでは絶望、真摯さ、恐れ、ためらい、そして愛と揺れ動きます。ラッセル・クロウの歌も、ストレートプレイ出身の人の骨太の歌声というかんじでした。


 アン・ハサウェイは美しいフォンティーヌ像です。美しさ純粋さゆえに目ざわりだと仕事の場から排除され(これも貧困とハラスメントにみちた職場には起こりがちなことだ)、髪をずたずたに切られ、歯を抜かれ・・・というシーンは分かっていても目をそむけずにはいられないむごさ。(さすがに前歯は抜かなかった)それは、幾つか前の記事(『あなたはなぜ「嫌悪感」をもつのか』)にあるように、肉体の破壊は自分の死を想起させるからですね。


 そのあと娼婦になり身体を売った直後のシーンで歌う「夢やぶれて」。数年前スーザン・ボイルという無名の女性がこの歌を歌って話題になりましたね。ああこのシーンだったのか・・・まっとうに生きてきた人が身体を売ることの悲惨さをこれほど物語るシーンもありません。

 しかし現代日本でこれはむしろ今、わたしたちのすぐ近くに忍び寄っている風景です、というのを、『デフレ化するセックス』(中村淳彦著、宝島社新書、2012年12月)などを読みながらおもいました。日本には信仰がないぶん、悲惨よりも荒廃感が漂います。


 映画のラストシーンは涙なしには見られません。貧困、権力の腐敗、若者への非情、これらは今世界普遍の現象で、恐らく世界中の人が同時に涙したことでしょう。


 さて、数日前(12月27日)の読売新聞に鹿島茂氏が映画評を寄稿していました。少し長くなりますが引用させていただきます:


「・・・では、ユゴーがこの作品で人類に訴えようとしたメッセージとはなんなのか?

 それは、愛はたしかに勝つ。だが、愛というものは貰った分だけしか人に与えられないものである。ゆえに、ファンテーヌやコゼット、それにジャベールのような、愛を受け取ったことがない惨めな人々(レ・ミゼラブル)を救うには、ジャン・バルジャンに象徴される<<だれか>>が見返りを要求しない無償の愛を<<最初>>に与えなければならない。かつてその<<だれか>>はイエスであった。だが、イエスへの信仰が衰えた現代にあっては、その<<だれか>>は<<あなた>>でなければならないのだ」ということなのである。

 原作でも映画でも、その「始まりの愛」は、パン1つを盗んだために十九年間も徒刑場で鎖につながれ、憎しみだけで生きるようになったジャン・バルジャンに銀の燭台を与えるミリエル神父から発するように描かれているが、勘所は、この「始まりの愛」を受け取ったジャン・バルジャンがキリスト教の伝道師となるのではなく、福利厚生施設を整えた工場の経営者として更生するところにある。つまり、現代における「愛」は雇用の創出や働く喜びを伴った社会事業として実現され、その前提から「愛」のリレーが始まらなければならないのだ。」(太字正田)




 ・・・そう、「愛」のはじまりを実現することがあるとしたらそれは企業経営のなかにこそ可能性があるのであり、そこからリレーがはじまるのです・・・


 かつ、ここで補うとしたら、この映画の中に、

「経営トップが『愛』の人であっても中間管理職教育をきっちりやらないとリレーは途切れてしまいますよ」

というメッセージもわたしは勝手に読み取ってしまうのでした。NPO会員の皆様、おわかりになりましたか。


 名作映画としては珍しく、客席を若い人、カップルが埋めていました。他人ごとではない貧困の中の愛の貴さを若い人たちも感じているでしょうか。



 今年も、さまざまなお出会いと別れがありました。時節柄人のこころの醜さをみることもありました。私は人生の新たな段階に入りました。数年来支えてくださっている方々のご厚情にあらためて感謝いたします。皆様良いお年をお迎えになりますように。


 
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NPO法人企業内コーチ育成協会
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