年の初めから凄い本に出会ってしまいました。

『日本の「安心」はなぜ、消えたのか』(山岸俊男、集英社インターナショナル、2008年2月)。


 定説を覆す、しかし説得力ある社会心理学の本。著者、山岸俊男氏は北大名誉教授。去年の7月、大津の事件で「いじめ」がクローズアップされたとき、このブログでも同氏の『心でっかちな日本人』から、教室の力関係について、すなわち傍観者の数とそれを変えるダイナミクスについて―最終的には「熱血先生」の存在がカギになる―の考察を引用しました。


 本書は5年前の本ですが、このところの正田の「日本人とは」の論法にもゲノム学以上にベースになり得る本。もっと早く知っていれば良かったです。


 ただ迷いもあって、というのは本書の分析とりわけ現状分析にはおおむねうなずけるのだが結論部分はわたしと違ってしまうこと。そのあたりは後述しましょう。


 著者は、「日本人らしさ」とは生き抜くための戦略(適応戦略)だった、といいます。

 例えば、忠誠心とか愛社精神というものも、決してそういう美徳を備えた国民だからというのではありません。


 
日本のサラリーマンが会社に忠誠心を示すのは、そうやって振る舞うことが日本の社会において最も適応した行動であるからに他ならない―分かりやすく言うならば、会社に対して忠誠心を示したほうが何かとトクをするから、そうしているだけにすぎない。

 (中略)

 江戸時代の武士たちが滅私奉公であったというのも、結局は同じ理由です。「転職」がいくらでもできた戦国時代とは違って、江戸時代では主君を替えるわけにはいきません。子どもや孫の代までも同じ殿様に仕えることになるのですから、常日頃から忠義ぶりを示していたほうが得策だった。だからこそ、江戸時代の武士たちはお家大事、殿様大事で働いていたというわけです。(p.49)


 
 さらに、自己卑下、謙譲の美徳というものも疑わしいといいます。

 日本人が自己卑下傾向を示すのは、そういう態度を取ったほうが日本社会ではメリットが大きいから謙虚にしているだけのことであって、「日本人独特の心の性質」が産みだしたものでも何でもない。要するに「タテマエ」と「ホンネ」を使い分けているだけのこと、もっとはっきり言ってしまえば、日本人の心が欧米人に比べて本当に謙虚であるという保証はどこにもない、というわけです。(p.56)


  この「自己卑下傾向」は単なる「適応戦略」だ、ということを実証する著者の実験が非常におもしろい。日本人の大学生に、普通のやりかたでセルフイメージを問うと「平均より下」と自己卑下的に回答するのですが、質問の仕方を工夫し、「あなたの自己評価が正しければインセンティブを出します」という文を付け加えると、多くの者が自分を平均より上に回答し、こういうやり方でホンネを表出してもらうと、日本人学生の自己評価は海外の学生と変わりなくなってしまうというのです。ただ、普通のやり方で問うと、たとえ匿名であっても、自分を平均より下だと回答したほうが「無難」だと考える、「デフォルト戦略」がはたらきます。


 日本人は、集団主義か、個人主義か。

 『世界の経営学者はなにを考えているのか』にも出てきた有名な問い。山岸氏は果敢にこの問題に切り込み世界で大いに引用されているとのことです。

 著者の実験の細かいところは省きますが、これも興味深い結果として


「日本人は自分たち日本人のことを集団主義的な傾向があると考えているが、ただし『自分だけは例外』と考えている集団である」(p.79)

という結論がみちびかれます。


「個人主義でもいいじゃないか」とみんなが内心思っていても、現実にはいつまでも集団主義が維持されてしまう。その理由は2つあり、

1つは「帰属の基本エラー」。他人が集団主義的に振る舞うのをみると、本当はその人は内心嫌がっていてもそうせざるを得ない事情があるためにそうしているのだが、それをみている人はその人がそうしたい心の持ち主だからそうしているのだ、外的な事情のためではないのだ、と思ってしまう。接客業の人が親切なのはそれが仕事だからなのに、その人が本当に親切な人なのだと信じてしまう。

もう1つは「予言の自己実現」。みんなが内心、「個人主義的に行動したら、周りの人たちに嫌われてしまうのではないか」と思い込んでいると、その思いこみが本当になってしまうという現象。銀行倒産のときなどにも同様の現象がみられる。


 「日本人は本当は個人主義者である」

 このことを証明する実験もあり、・・・1つひとつの実験のデザインは大変おもしろいものなのですが、紹介していると長くなってしまうので、ご興味のある方は是非本書をお読みください。・・・


 「日本人はアメリカ人と比べて、他人を信頼する度合いが低い。」(統計数理研究所)(pp.94-95)
 これについてはおやっと思われる方もいると思うので、設問と数字を挙げておきましょう。

・たいていの人は信頼できると思いますか、それとも用心するに越したことはないと思いますか?
  アメリカ人「たいていの人は信頼できる」が47%
  日本人「同上」26%

・他人は、隙があればあなたを利用していると思いますか、それともそんなことはないと思いますか
  アメリカ人「そんなことはない」が62%
  日本人「同上」53%

・たいていの人は他人の役に立とうとしていると思いますか、それとも、自分のことだけに気を配っていると思いますか
  アメリカ人「他人の役に立とうとしている」47%
  日本人「同上」19%

 ―すなわち、日本人は一見「和の社会」に暮らしているが、内心では「人を見たら泥棒と思え」と思っている。


 アメリカと日本の犯罪発生率の差をみるとかえって不思議な気がする調査結果です。山岸氏によるとそれは「信頼」というものの質の違い。「アメリカは信頼社会、日本は『安心社会』」といいます。

 安心社会とは、言い換えると「相互監視社会」。農村を典型とする集団主義社会では、人々がおたがいに協力しあうのも、また、裏切りや犯罪が起きないのも、「心がきれいだから」という理由などではなく、「そう生きることがトクだから」という理由に他ならないというわけです。


 開放型社会、都市型社会と信頼社会。
 閉鎖社会、農村型・集団主義社会と安心社会。

 以下、この2つの対比がのべられますが、

「この契約書の話がいみじくも象徴しているように、戦後の日本経済はケイレツ、株の持ち合い、元請け=下請け関係、さらには護送船団方式といった、さまざまな集団主義的ネットワークを活用することによって「奇跡の経済成長」を実現させたのでした」(pp.113-114)

 
 日本的なるもの、日本人らしさがもっともうまくいったのは高度経済成長期ではないか。当時の成功体験を今に当てはめるのはもう無理なのではないか。これはこのところのわたしの問いとも合致します。


 では今からどうするか?日本人はどうしたら再生できるのか?というときに、やはりこうしたリアリスティックな現状把握は役に立ちます。とはいえ、これまでの山岸氏の論法の中にも、既に一部に反論したい箇所はあるのですが・・・、


 このあとさらに、「信頼」というものについてのわたしたちの常識に山岸氏は揺さぶりをかけてきて、小気味いいほどです。

 「囚人のジレンマ」などの実験の結果、他人を信頼する傾向の高い(一般的信頼の高い)人ほど、「相手は自分から巻き上げるだろう」など、他人に対する予測を正確に行えることがわかりました。

 「人を信頼する人はだまされやすい」という思いこみがわたしたちにはありますが、それとは真逆の結果になったのです。

 
 一方、一般的信頼の低い人は、相手の振る舞いに関係なく悲観的であり、相手が良さそうな人か悪そうな人かを見極めることなくだれに対しても裏切りを予測したのでした。

 つまり、「信頼度の高い人」のほうが柔軟に人を信頼するかしないかを決めており、しかもその予測が正確なのです。
 「高信頼者」は他人と協力することが生きていくうえで必要不可欠だと考えており、他人とのあいだに協力関係を築こうと積極的に行動します。そこでときには騙されることもありますが、その失敗を教訓にしてまた他者との協力関係を築こうとするので、高信頼者たちは他人の信頼性をだんだん的確にチェックできるようになっていくというわけです。
 

 こうした知見は、「オレオレ詐欺」のようなプロの詐欺行為にはつかえるかどうかわかりませんが、もう少し一般的なビジネスの現場では大いに参考になるでしょう。


 (ちなみにWEBでダウンロードできる山岸氏のべつの論文「他者の協力行動の推測の正確さを規定する要因―魅力度と表情豊かさ―」(心理学研究2010年第81巻第2号)では、人が人を信頼する決め手となるのは「魅力度」と「表情の豊かさ」であり、とくに「表情の豊かさ」を手がかりとしたほうが予測の確度は高いという結果が出たそうです。男性については魅力度を手がかりにすると間違えやすい。これは以前「テストステロン」のところで見た、魅力的で雄弁な弁護士の話にも通じます。また表情の豊かさは詳しくいうと、ポジティブ感情だけでなくネガティブ感情も表出したほうが、「信頼できる人」と判定されたそうです。これはゲームの流れで裏切られたり信頼されなかったりと、がっかりする場面も含まれるときに、詐欺師はつねにポジ感情だけを表出するが、信頼できる人はそこでネガ感情も見せるからだそうです。面白いですネ)


 こうした、他人の信頼性を検知できる能力が信頼社会での適応に不可欠であるとすると、いっぽう集団主義社会では「関係性検知能力」が必要になると本書は言います。いわば「空気を読む能力」ということです。


 若者の間に「空気を読む」傾向が過去にまして蔓延している。グローバル化を迫られ、過去のやりかたで社会適応していては世界から取り残されるというときに。このことは、日本人の「心の道具箱」の再配置が正しく行われていないからではないか、と本書はみます。

 
 もちろん、人間関係の機微を読み取る関係性の検知能力は信頼社会での「サバイバル」には役に立ちません。それはまるで山を登るのにボートのオールを持っていくようなものです。
 しかし、とりあえずそのツールを手につかんでしまった以上、それで何とか問題を解決できないかとしてしまうために、ますます問題がこじれているのが今の日本の状況と言えるのかもしれません。(p.172)
 


 たとえば社の命運をかけて新規事業に、あるいは新興国に進出しないといけない。欧米、中韓が早々に進出し現地と太いパイプを作っている中、自社の意思決定メカニズムそれも「社内の誰それさんがいやな顔をするんじゃないか」レベルのことに神経を使っていたら永遠に意思決定できない。というような話でしょうか。
 あるいは、職場改善のために話し合っている。小手先の「カイゼン」の項目は活発にみんなから提案が出るが、表面的な原因ではない「根本原因」「真の原因」が存在することは一部の人にはわかっている、あるいは下手すると全員がわかっている。でもそれを互いの顔色をうかがいあうあまり言い出せない。そんな風景でしょうか。

 そう、ここにはどの企業も直面するであろう価値観の転換があります。そのことにどれだけ気づけるか、またそれを転換するのはどれほどの労力が必要か、丁寧なプログラム変更が必要かということにも気づけるでしょうか。だめですよ、承認研修1日研修で済まそうとか、1年やったからいいだろうとかいうのは。


 さて、本書の最後に「武士道精神が日本のモラルを破壊する」という、刺激的な章があります。

 ここも本来じっくりご紹介したいところですが長くなりすぎてしまいました。

 かいつまんでいうと、ここではカナダ人研究者ジェイン・ジェイコブスの説をとりあげ、「市場の倫理」と「統治の倫理」、言葉をかえると「商人道」と「武士道」の対比をみせてくれます。本書では前者は信頼社会の倫理、後者は安心社会のそれであるとします。また、この2つはまぜてはいけない、ともいいます。


 
えてして人間は、当地の倫理と市場の倫理という二大モラル体系を合体させれば、最高にして最良のモラルができあがると考えてしまうのだが、実はそれこそが大間違いである。それどころか、この二つのモラルを混ぜて使ってしまったとき、「救いがたい腐敗」が始まってしまうのである(p.245)


 
まぜるな危険。このことも、従来米国型のコーチングを日本に持ち込んだとき、決してすべてではないが一部に奇妙な退廃が起こる。またやや硬質な当協会の価値体系の中に他研修機関の考え方の人が入った時に強烈な反発作用が起こる。そうした経験から、わたしにはわかる気がするのです。


 ではどちらか一方だけを選ばなければならないのなら、本書の論法でいうとグローバル化対応のために「市場の倫理」(日本でいえば心学)だけを選ばなければならないのか?

 リーダー教育からみると、現代でもリーダーには武士道的倫理が求められる部分があるので、話がややこしくなります。このあたりは山岸氏も明確には述べていません。またわたしの属する「教育」という分野も、医療などと同様市場原理だけで動かしてはいけない分野なので困ってしまうことになります。(たとえばの話、だれも分数の計算をできるようになりたくないと思っているときに「分数の計算法」を営業して売り込めるかというと難しいはずです。それは営業して売れるか売れないかではなく、「できなかったら死ぬぞ」という問題なのです)


 ひょっとしたら「承認教育」というのは商人道と武士道、ふたつの価値体系の交差点に位置し、うまく接合点になるものなのかもしれない。買い被りすぎかもしれないが。


 ともあれ学ぶところの非常に多い本で、NPO会員の皆様にはぜひご一読をお勧めしたいです。(そこまで言うことそんなに多くないでしょ?)


 さて、ただ本書の結論や提案部分には今ひとつ賛同できない、というのは、

「空気を読む日本人」
「他人を信頼しない日本人」
「リスクを回避したがる日本人」

をそうさせているのは、社会制度である、として、制度の欧米並みの変更を迫っている点です。

 
 これはタブラ・ラサ論(人は白紙の状態で生まれてくる、生まれたあとの教育で「らしさ」が生まれるのである、とする論)ではないのか?制度さえ変えれば人を変えられるというのは。
 
 制度は、やはりそれを支える「人」に応じて発達したのではないのか?

 というのがわたしの疑問です。

 
 ここで論拠となるのがゲノム学になります。つまり、わたし的に言えば、日本人はそもそも生物学的にさまざまな点で「違う」のであり、日本人がリスクを避けたり他人を信頼しなかったりするのは、生物学的にそのようにつくられているからであり、制度だけがその心理や振る舞いをつくっているのではない、むしろ制度は生物としての日本人に適応する形で発達した、という考え方です。

 ただまた、生物学的な「違い」を言っていると、過去の鎖国パターンや高度経済成長パターンをいつまでも卒業できず、現代のグローバル化に永遠に適応できないではないか、ということになるでしょう。

 ・・・でわたしの結論は「徹底した教育」になってきます。

 ある人に生まれついての「偏り」があるとき。だれにも大抵なんらかの「偏り」があるのですが、それについての教育の対処法は二通りになります。

 1つは、「強みを活かす」ということ。「偏り」を「強み」として見、尊重して心ゆくまで伸ばしてあげることにより本人の自信になり、最終的には全人的成長につながる。

 もう1つは「弱み」のうち、放置していては生存にマイナスとなる部分については教育を通じて克服する。苦手なことも手とり足とり教え込む。時間にルーズな人には、時間にルーズではほとんどのビジネスで生きていかれないということを教え込む。―ただし、イチローの振り子打法を矯正しようとした土井監督と放任し伸ばした仰木監督、のように、なにが「生存にマイナスになる弱み」なのかは慎重な見極めが要ります。―


 このばあい日本人について言うと、他者を信頼する、必要以上に空気を読まず必要な自己主張をする、自己決定をする、ということを、苦手だからこそ懇切丁寧に教え込む、ということになります。それはたとえば「信頼した個人を奨励する」「自己主張した個人を奨励する」「自己決定した個人を奨励する」といった道筋をたどります。
 

 
「徹底した教育」というとファシズムのようでもあり、過去の愛国教育を想起するかたもいらっしゃるでしょう。
本書の著者山岸氏もそうしたやり方に懐疑的です。


 あとは、当協会が「信頼」してもらえるかにかかっていそうです。



100年後に誇れる人材育成をしよう。
NPO法人企業内コーチ育成協会
http://c-c-a.jp