前項に引き続き「山岸俊男本」を読んでいます。

『リスクに背を向ける日本人』(山岸俊男、メアリー・C・ブリントン、講談社現代新書、2010年10月)。


 これも非常に「日本人」というものを緻密な実験で検証してみせてくれ、面白いです。


 「世界価値観調査」によれば、「自分はリスクや冒険を求めるほうの人ではない」と思っている人は、日本では70%を超え、調査対象国中で最多。(p.22)


 「コミュニケーションがたいせつだと日本人はよく言いますが、日本人のいうコミュニケーションは、『感情』に重きをおきすぎているんじゃないでしょうか。いわゆる『心を通わせる』ことがコミュニケーションなんだ、と」(メアリー、p.33)


 最近の心理学でいう 「プロモーション志向」と「プリベンション志向」。加点法的な考え方と減点法的な考え方という違い。プロモーション志向の強い人は、何かを得ることに向かって行動する。プリベンション志向の強い人は、何かを失うことを避けるように行動する。(p.46)

 ―プリベンション(予防)志向とは、遺伝子学や性格心理学の世界でいう「損害回避」に該当するでしょうか。漢学でいう「小人」もこういう人をいうのかもしれません。(でも日本人では実際に大多数です)


日本の「自分探し」は世間のしがらみから離れた「ほんとうの私」がいるはずだ、「ほんとうの私」に向かって進んでいきたい、という形。それは日本社会のしがらみの強さからくる。世間のしがらみから自由になった生活こそが、「ほんとうの自分」に正直な自分なのだという思い。(p.75)

 ―自分探しは若者にも多いですが中年でもみられます。よく心理学系のワークショップなどで「自分に目覚めた」結果、家族とか仕事の責任を放棄しちゃう人をみかけますが、古来西行法師の例もありますがそれホンマに自己実現かい、とつっこんでしまいます。(なので当NPOのセミナー、研修は極力そういうことにつながりそうな要素を排除して行っています。リーダー研修なのでどちらかというと「すすんで責任を引き受けろ!」という方向性です)


自己決定したくない日本人。「独裁者ゲーム」でお金を分配する側分けてもらう側どちらになりたいか?の問いに、日本人は35%もの人が「分けてもらう方になりたい」と答える。分けてもらう場合は、不公正な分配で取り分が少なくなる可能性もあるのだが。分けるほうには責任が伴う。自分で責任をとらないといけない行動は、どんな場合でもしたくない人たちがいる。できることなら何も決めたくないという人たち。(pp.87-88)

 ここで、「35%」という数字が多いのか少ないのか、残念ながら国際比較した研究はないそうです。ただここでは、メアリーの「アメリカなら大多数が分配する側を希望すると思う」というコメントが挿入されています。

 上記の研究で「分けてもらう方がいい」と答えた人たちは、自律性が低い人たちだということがわかっている。へりくだる傾向が強く、用心深く、リスクを避ける生き方が賢明だと思っている人たち。また、個性を持つことが世の中での成功の邪魔になると考えていた。さらに、唾液に含まれるホルモンをみると、分けてもらう方がいいと答えた人はストレスホルモンの分泌が高かった。(p.88)


 日本人にとって無難な行動は、まわりの人から非難されたり嫌われない行動。よく事情が分からない時には、とりあえずそういう行動をとっておく。そういう行動をとっていると、ほんとうに欲しいものを手に入れることができないというコストがあるけれど、まわりの人から爪弾きにされてしまうという、もっと大きなコストを避けることができるから。(p.100)


日本の江戸時代の「株仲間」は集団主義的秩序形成。法や制度が追いつかないので、自然発生的に集団の中で相互監視した。江戸時代には何回か談合組織だとして株仲間禁止令を出しているが、そのたびに物流が止まってしまった。株仲間なしではだまし放題の社会になってしまうので商売できない。老中水野忠邦が再度株仲間禁止令を出したので経済が混乱し、幕末の騒乱にもつながった(p.114)


「まわりの目を気にする程度」を質問したうえで「囚人のジレンマ」ゲームに参加してもらったところ、「自分はまわりの人の目を気にするほうだ」と答えた人のほうが利己的にふるまった。独立的な傾向の強い人のほうがほかの人と協力することのたいせつさを理解していた。(pp.130-132)


 これは、わたし個人の経験ともよく合致します。まわりの目を気にする人は決して有徳の人とはいえない。とりわけおもしろいことに(全然おもしろくないけど)わたしのような女性の働き手との間の約束を守るかどうか、遅延なく高いレベルで履行するかどうかに、「まわりの目を気にする」度合い、いわば見栄ともいえますが、は関わってきます。「まわりの目を気にするらしき人」は、わたしからみて「信頼するに値しない人」です。




日本の学生はほんとうに質問をしない。おもしろいことに一度、「日本語でも英語でもいいですよ」と言うと、1人の学生が英語で質問をしてきた。自分の質問が他人の迷惑になることを嫌う。英語だと多少気が楽でアメリカ的にふるまえる。
 アメリカでも引っ込み思案な学生は周囲に気兼ねして発言できないので、研究室に来るように言い、クラスで発言できるにはどうしたらいいか話し合う。ちょっとだけ手を挙げてくれたらすぐ気づくから、と言い、プリベンション志向の学生がちょっとしたリスクをとることを励ます。(メアリー、pp.148-150)


 ひじょうに実務的な示唆。プリベンション志向の人にはこうして、懇切丁寧に、「自分の思ったとおり振る舞っていいんだよ」と、その行動1つ1つについて教えてあげないといけない。日本では大多数の人にこれをやってあげないといけません。



「貧困の文化」をどうするか。社会の底辺に置かれた人がやる気を失ってしまう。そういう文化では、親もひどい親だったりするし、そういうふうに育ってきているから自分の子どもにも同じようにしてしまう。
 そこでぼく(山岸)は二宮尊徳のことを考える。大名や旗本の領地に貧困の文化が蔓延して領地が荒れ果てた状態になっているのを、二宮尊徳は努力と工夫次第で結果がちゃんと出るんだというのを実地で納得させ、農民たちのやる気を引き出した。(pp.224-225)

 ここにも「二宮尊徳」が出てきました。貧困の時代のカリスマ?二宮尊徳。以前にも書きましたが森信三先生は、「日本の凋落は2033年まで続くだろう、そして二宮尊徳が復活のときの思想となるだろう」と述べたそうです。



日本の女性は2つの道を選ぶことによって「静かな抵抗」をしている。1つは結婚しないか、結婚しても子どもを産まない。もう1つは結婚して子どもを産んで仕事を辞める。あまりにも多くの女性がこうした選択をしているので、社会の変化が生まれにくくなっている。
 背後には、制度と社会規範が柔軟さに欠けていることがある。良い働き手のイメージが固定していて、良い母親のイメージも固定していれば、2つを組み合わせるのは最初から無理だということになる。(メアリー、pp.241-242)

 上記について、規範が存在するのは幻想ではないかと思う。多くの日本人は固定した父親像や母親像など持っていない。しかし固定したイメージを自分は受け入れていなくてもほかの人たちがそうしたイメージを持っていると思い込んでしまっていると思う。(山岸、pp.242-243)




 統治の倫理は実は統治者に求められている倫理であって、誰もが守ることのできる倫理ではない。統治者がその気になれば利益を独り占めすることができる。だから自分の利益を考えてはいけない。しかし、すべての人に無私の精神を求めるのは無理な話。それよりは、正直に商売をすると結局は自分のためになるんだよという市場の倫理なら、誰にでも受け入れることができるはず。(pp.248-249)

 ここにやはり、「統治の倫理」がリーダー層にはいまも求められるという話がでてきました。対外的には「市場の倫理」ではたらけばよい。

 ・・・そして最後に山岸氏の呼びかけ。


 「社会だとか文化だとか、自分を外から縛りつけているように見えるものは、すべてみんなで寄ってたかって作り出している幻想なんだ。だけど、幻想はみんなが信じているかぎり現実を生み出し続ける。だから、みんなで『王様は裸だ!』と叫ぼうじゃないか」(p.268)


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 ここから先は、私個人の読後感で、


 「自分では何も決めたくない」人が35%もいる。

 こういう人は管理職になってはいけないだろうなあ〜・・・

 しかし、現実にはそれらしい人をよく見る。自分では何も決めたくない。でも年功序列として管理職になると、それはそれで名誉職としてうれしい。同期や下の代の人が先に管理職になるのはうれしくない。

 でも、部下や関係者は災難だ。こういう人は、

 「だって上から言われたことですから」

 と、何の疑いもない口ぶりで言う。あるいは部下からの聞き取りで上司にもの申さねばならない局面が出てきても、はなから「無理」と一蹴する、提案を聞いたふりして聞き流す。

 
 (なお、関連してあとから思ったことだが、ここでいう「決めたくない」は、独裁者ゲームで分配する側になりたくないということだが、これは細かくいうと「決めたくない」と「他人の喜怒哀楽に関わることをしたくない―他人から文句を言われたくない」ということに分割されるのかもしれない。なぜそんな分割に意味があるかというと、マネジメント上の意思決定を促す思考トレーニングのようなツールとか研修方法もあるのだが、それはあくまで仮想空間の中のことであり、現実に課長などになって部下その他から文句を言われるストレスと同じではない。仮想空間の中の意思決定は、受験勉強のようなノリでもできてしまうのだ。)


 また、こうした層が無視しえない相当数存在する日本では、本来の意味でのリーダーが共感を得にくく足を引っ張られるのもわかる気がする。「決めたくない」人にとって「決める」人は異質分子、異常な人なのだ。こうした人からみる世界は、「自分で決める」人が猛獣のようにうろつきまわっているのだろうと思う。

 こういう国で「リーダー」をやるのは本当に大変だ。


 「空気を読む」
 「決めたくない」
 「変えたくない」


 これらは、本来独立の因子なのだろうと思う。しかし、すべての因子を一身にもちあわせた人も存在するし、「空気を読む」がすべてについて右へならえの要素になるから、これさえ持っていればほかの因子も持っているようにふるまう可能性がある。


 困った人たちだなあ。


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 大阪・市立桜宮高校での体罰事件だが、今日ぐらいになって、自殺した高校生のお母さんが自殺の数日前の12月19日、問題の顧問に体罰をやめるよう働きかけていたことがわかった。顧問教師はやめることを母親に約束した。
 その結果、その日は体罰はなかったがすぐに再開した。そしてわずか数日後の22日には問題の練習試合での体罰があり、だけでなく「B(チーム。二軍)に行くか」などの恫喝もされた。


 これは、報復、身代わり体罰ではないのか。自分に正論で抗議してきて、体罰をやめると約束させた生徒の母親に対するうっぷんをこの少年相手に発散したとは考えられないだろうか。
 もちろん許されることではない。

 こうしたことが明るみに出ると、起こり得るのは今後、全国のわが子が体罰に遭っているお母さんお父さんが報復を恐れて口をつぐんでしまうことだ。(たぶん、もうとっくにそうなっているのだろうが)




 ―わたしも自分の子どもに対する体罰で学校に抗議したことがあるが、その後の該当の教師たちの子どもに対する態度はかんばしいものではなかった。(体罰は事の性質による、という考えもあるかもしれないが、体育祭の練習のときに砂にいたずら書きをしていた、というどう考えても「微罪」である。ただ当時、その子は体育委員で、体育祭に関する「リーダー」を任されていた)―


 話をバスケ部の顧問に戻して、この教師が教委の調査に対して語ったところでは、

「体罰は強くなるために必須だ。これまで殴ったことで強くなった子もいた。亡くなった子にもそうなってもらいたかった」

 という。


 ここにも指導者にありがちなバイアスがある。体罰までいかなくても言葉の暴力で傷つけるというような、暴力的にネガティブなかかわりをすることが指導に役立つと考える。たしかにそうした刺激に対して強い反発がはたらき、その後伸びるという現象はごく一部の人にはみられる。しかしそれはごく一部で、おそらくストレングス・ファインダーでいうと〇〇をもっている人だろう、と予測はつく。だれにでも起こることではない。

 そして、恐らくこういうことを言う指導者は自分もかつてそのような指導を受けたことがある。快楽物質と言われるドーパミンは、実は決して楽しいときだけに出るわけではなく、痛い、怖い、悔しい、腹が立つといった強いネガティブ感情を経験したときにも出るらしい。〇〇をもっている人たちというのは、そうした経験を成長のエネルギーにする稀有の人びとだが、これは言い換えるとSM趣味と言ってもいい。

 練習試合中、他校の目もある中で少なくとも10〜11発殴るというのはあきらかに常軌を逸しているが、こうした行動は「異常性欲」と同等だ、と考えてもいいのである。おそらく自分でコントロールが利かなくなっているはずである。


 こうした事例をみるたび、やはり「厳しい指導」はあまり表だって標榜するものではない、と思う。厳しさは、何かの拍子にたがが外れて暴走しやすい。また、まれに徳の高い指導者が愛ある厳しさを示し、そのために多くの人が成長した、ということはあると思うが、その指導者の厳しさの部分だけを外形的にコピーした勘違い指導者が代を下るにつれ出てくる可能性がある。


 

 そしてもちろん、この高校の校長や教委は異常なまでに「空気を読む」そして「決められない」あまり、この少年を見殺しにしてしまったのだ、と言っていいと思う。
 体罰の情報に接して、顧問に対する聞き取りだけで調査を済ませた。バレー部の顧問がこれ以上処分されては大変だからと情報を握りつぶした。
 校長や教委の人々の会見をみていても、こちらの見方が結果ありきからかもしれないが、共感能力というものがあまり感じられない。責任よりも結果への想像力よりも、自分の業界内の空気を読むことを大事だと考えるイージーな生き方が表情にかいまみえてしまう。


 この問題についてはまともに考えるとつらくなるばかりなので避けていたのだが、今日は「報復体罰」らしき情報にいたたまれずつい書いてしまいました。


 少年を強豪バスケ部のキャプテンになるようなしっかりしたお子さんに育てたすえ、失ったご両親はどんなお気持ちだろう。心から少年のご冥福を祈ります。

 気丈にも謝罪に訪れた橋下市長に「体罰撲滅の旗振り役になってください」と言ったというお母さん、あなたの心の強さに応える社会でありますように。



100年後に誇れる人材育成をしよう。
NPO法人企業内コーチ育成協会
http://c-c-a.jp

 



追記:この記事は2ちゃんねるの「体罰教師」のスレで引用されているみたいです。こういうとき2ちゃんねるは「母親の方が異常」みたいに騒ぐほうが多いのではないかと思うが、今回はさすがに「教師が異常」の大合唱になっている。大津のいじめでもそうですが、「空気を読む」日本社会のほうが異常なので、問題が明るみに出たケースはかなりまともな考え方のご家庭だったのでは、と思います。