1日、千葉県内の公立小学校で、3年生の城ヶ崎滋雄先生のクラスを見学させていただきました。

 フェイスブックのお友達のMさん(後述)の授業レポートがご縁で先生に連絡をとらせていただき、見学が実現したもの。


 朝練習から4時間目まで。自分が全部で何を見たのか、今ひとつ確信を持てないでいます。しかし記録しないわけにはいかないでしょう。中には正確でない記録もあるかもしれません、ご容赦ください。


1)リレー練習

 朝、8時過ぎに校庭に行くと、そこには縄跳び、ボール遊び、鉄棒、と思い思いに元気に遊ぶ児童たちの姿。その中にジャージ姿の先生が1人。私を見つけて気さくに声をかけてくださった、それが城ヶ崎先生でした。


 先生のクラスは縄跳びをしていました。子どもたちの間を歩き回り、声をかけ、時にはだれかの腕に手を添えてフォームを直していた城ヶ崎先生は、やがて子どもたちを呼び集めました。恒例のリレー練習の時間です。


 子どもたちは班に分かれ、バトンを持って走り始めます。中には足の遅い子もいて、「あーあ、びりだ」とささやきあう子も。その子からバトンを受け取った子が猛ダッシュで走り始めます。


 このリレー練習は運動会の前だけでなく通年でやっているそう。「練習というより、遊びですから」と城ヶ崎先生。そして班ごとに記録を教室に掲示しています。

 見ている私に、1人の女の子が「どこから来たんですか」ときいてきます。

「神戸から」
「えーっ、私のうちも前神戸に住んでたんです」
「あらそう。遠くから来たんだねえ」

 嬉しそうに小さくぴょんぴょんその場ではねる女の子。子どもたちの方からコンタクトをとりに来てくれて私も嬉しくなりました。


 リレー練習が終わると、教室に戻る時間。城ヶ崎先生に引率されて子どもたちは校門の前へ。

 校門前にいる「緑のおじさん、おばさん」こと「スクールガード」の方々に、子どもたちははっきりした声で「ありがとうございます」と頭を下げます。

「ちゃんと立ち止まって言おうな」と城ヶ崎先生。


2)朝の会

 この日は月初めだったので、朝の時間、保健の先生から「手洗い、咳エチケット」などについての校内放送がありました。

「・・・しっかり手洗いしてください」

 そういう放送の先生の声に、「はい」とお返事する児童がぽつぽつ。今どきのお子さんもこうして放送の向こうの姿のみえない先生を人としてとらえて反応してるんだ。こういうのって普通なのかな。


 放送のあとはいくつかゲーム的なものがありました。「論語カルタ」なのかな?論語のフレーズを書いたカードを朗読に合わせてとり合うゲーム。子どもたちの近況を伝える短いフレーズの好きなものを読み上げ、それを書いた子どもの名前を入れて「〇〇うけとりー」と返事するゲーム。いずれも早さを競い集中力を要します。

 「うけとり」が一番多かった子どもさん2人が、その近況をみんなの前で話します。どこかに行って模試を受けたこと。友達の家と一緒にファミレスに行って美味しかったこと。それに対して質問は?と、みんなが競って手を挙げます。1人の話に対して2人から質問をもらい答えてもらったあと、話した子どもに「今のうち一番訊いてほしかった質問はどれだった?」と尋ねます。

「どっちでもない」
「では、一番訊いてほしかった質問は?」
「うーんと、『どの問題が一番難しかったですか』です」

 あー、やっぱりね、とうなずきあう子どもたち。これも集中力、聴く力、問いを考える力を育てることでしょう。

 最後に健康確認。出席番号1番の子から、名前を呼ばれ、
「はい元気です!」
と答え、次の番号の子の名前を呼んで座ります。その「はい元気です!」を1人1人について聴いて先生は、
「よし!」
「素晴らしい!」
などと声をかけます。最後の1人までが座ると、先生は
「今、素晴らしいって言われた人!」
一部の子どもたちの手が上がります。
「じゃあ、素晴らしいかよしかどっちか言われた人!」
大多数の手が上がります。

 そんなふうに子どもたちが常に先生の話を聴くよう、そして反応し手を挙げるよう働きかけているわけですが、これらが非常に速いテンポで、ぱっぱっと場面転換して朝の会のあいだに行われます。

 最後にみんなで「今月の歌」を歌ってくれました。普通の公立小学校3年生のクラスでは信じられないほど、力強いしっかりした発声で、高音部の伸びもよく、児童合唱団のような清らかな歌声でした。慌てて録音しましたがその圧倒的な歌声をこの文章で再現するのはちょっと難しいでしょう。とにかく何事もまっすぐに事の本質をつかんだように努力する子どもたちなのでした。


3)1時間目:国語の時間

 
 冒頭、プリントの論語のフレーズを全部暗誦できるお友達がいるということで、その子に暗誦してもらいました。みんなで拍手。

 
 この時間のテーマは「野口雨情」。先生が音楽を流しました。

「からす なぜなくの からすはやまに・・・」

 有名なからすの歌、(題は当初伏せられていましたが「七つの子」です)

 ここに出てくる「七つの子」。この「七つ」とは、年齢の七つかそれとも子どもの数か?子どもたちに討論させます。

 子どもの数派、やや優勢。なかなか意見を決められない子には、
「最初に自分の結論をエイヤッて決めちゃうんだよ。理由はあとから考えるんだよ」
と先生。

 「挿絵で、カラスの赤ちゃんが七羽、巣の中にいるのをみました」
とある女の子。

 「そう、でもその挿絵を描いた人は、野口雨情さんじゃないんです。だから野口さんの気持ちその通りではない可能性があるんだ」と先生。

 しばしの討論のあと先生からネタばらし。カラスの習性からすると、年齢、子どもの数、どちらも正しくない。ここは比喩なのだ。「七つの子」とはかわいい人間の子のことなのだ。


 続いて「しゃぼん玉」でも「これは楽しい歌か悲しい歌か?」と討論させ・・・、

 最後に先生から、「これもたとえ。どちらの曲も、人間の子についての比喩」。

 最後の答えは先生から出るわけですが、子どもたちは失敗を恐れずはいはいと手を挙げ、発言し、クラス全体が動いています。

 このとき私と一緒に見ていた教育同人社のYさん曰く、

「発言して詰まった子をみんなが見つめ、言葉を補ってあげようとしたりしますね。友達をみんなが応援しようとする雰囲気がある」



4)2時間目:英語―褒め褒めタイム


 前半は教室を移動して「ミーツザワールド」の教室に行きました。そこでネイティブのフィリピン人の女の先生が、ほぼオール英語で話しかけ、教え、指示します。

 ここでも元気に物おじせず声を出す子どもたち。


 やや変則で教室に戻り、今日のクライマックス。2時間目の後半はふだん「帰りの会」でする「褒め褒めタイム」になりました。

 きょうの日直、「そらくん」と「ミヨちゃん」に、みんなで褒め言葉のシャワーをかけます。

「そらくんは、足が速くて字もきれいで見習いたいなあと思いました」
「そらくんは、時々騒いで先生におこられるときもあるけど、ぼくに勉強を教えてくれるときもあるすばらしい人です」
「ミヨちゃんは、前期より後期のほうが『はい元気です』の声が大きくなりました」
「ミヨちゃんは、前期より後期のほうが給食を残さず早く食べられるようになりました」

 褒められる日直の子は、褒めてくれる友達の前に自分から行って立ち、友達の言葉をききます。その顔のなんと輝いていること。信頼にみちていること。

 
 私がこの見学をお願いするきっかけになったフェイスブックの友達で教師向けメルマガを発行する「Mさん」のレポートにこれがありました。Mさんの筆力の10分の1程度しかこの場に流れる空気をご紹介できないのがもどかしいですが・・・、


 今話題になっている「体罰」「いじめ」などの問題解決の一番根源的なところは、ここなのでしょう。「人をリスペクトする」ということ。能力の高い子でもそれほどでもない子でもその子の努力の跡、向上の跡をみる。それが人としての高貴さであるということ。能力の優劣があるのはかけっこをしても一目瞭然なのです。しかしひたむきな努力こそが貴いのだ、という価値観を植えつけられた子たちはその後の人生でもたゆまず努力を続けます。

 いや、こんな文章でも結局何故それが大事なことなのかを言い尽くせないのでした。

 
 城ヶ崎先生に今回の見学をお願いするに当たり、私は事前に

「日本人の資質的弱さがグローバル化時代に対応できないことを日頃憂えている。解決策としては褒めることを含めた承認による人格強化だと思っている。大人になってからでは遅い、子どものうちからそういう教育をすべきだ。先生のおやりになっていることは日本の将来がかかっているのではないかと思う」

 と生意気なことをメッセージに書いて送りました。城ヶ崎先生は

「日本の将来なんて、ただの普通のクラスです」

と謙遜されていましたが・・・、どうして間違いなく「人格強化」になっている、と感じるとともに、「褒める」ことを取り入れてはいても、一方で先生はあの手この手と高い負荷を子どもたちにかけておられ、それらが車の両輪として作用していることもかいまみさせていただいたように思います。


 友達に褒めてもらうのが終わり、褒められた日直さん2人が感想を述べました。

「給食を食べるのが早くなったと言ってもらったけど、自分ではそんなに早くないと思っていたけれど、そう見てもらえてうれしかった」

と、ミヨちゃん。

「自分ではわからないいいところが人には良くみえているということがあるよね。ミヨちゃんは連絡帳によく給食のことを書いているけれど、どうやったら早く食べられるかいつも考えているんだよね」(城ヶ崎先生)


「はい」ミヨちゃん、またにっこり。


5)3時間目:体育の時間


 3時間目は体育館で、縄跳びとボールの種目。

 子どもたちが用具室からペットボトルをゴムひもでつないだものを持ってきて、それを床に置くと小さなネットのようです。それを思い思いの場所に置いたことで小さなコートの出来上がりです。

「子どもたちが自分でコートの大きさを決めるんですよ。今体罰が問題になっていますけれど、小学校の体育はぼくは遊びでいいと思っていますから。自分で考えてコートがどれくらいの大きさがいいか決めればいいんです」

「指導に笛を使わないでしょう?ぼくが言葉で言っただけでみんなさっと動くでしょう?ゲーム終了のときだけは笛を使いますけれど、みんな熱中して気がつかないから。笛を使うのは、調教のようでぼくはいやなんです」


 元・体育の先生で陸上が専門だったという城ヶ崎先生は言われます。


 体育が終わり、みんなが教室に引き上げたあと、先ほど「褒め褒めタイム」で褒められていた日直の「そらくん」が、何か不具合があったのか1人残って座り込んで縄跳びを結んでいました。結び終わると、そらくんは重い体育館の引き戸を力を込めて閉め、見ていた私に「ついてきてください」と声をかけると、ぴょんぴょんした足取りで教室に戻っていきました。末恐ろし3年生。


 
6)4時間目:算数


 算数の時間は、クラスの半数がほかの教室へ移動し、残った半数を城ヶ崎先生が教えていました。今日のテーマは「少数」。

 モニターに映したPCソフトが次々問題を映し出します。子どもたちがPCの前に列を作り、1人1人PC操作して新しい問題を映し、数字を出すと正解が表示されます。「やったあ」と子どもたちは次々席に戻ります。

 また教科書の問題を解きおわると、1人1人席を立って先生のところに行ってチェックしてもらいます。

 非常に子どもたちが席を立ったり歩いたりが多い進行。これは発達障害などで長く座っていられないお子さんでも集中力がとぎれないための工夫のようです。ということを、泥縄ですが城ヶ崎先生の著書『クラスがみるみる落ち着く 教師のすごい指導法!』(学陽書房、2012年7月)で読みました。


 ・・・


 新幹線の都合で4時間目までで見学を終わりました。このあと給食の時間、帰りの会とまだまだ見どころは満載だったんだろうな。


 非常に沢山の手法が入り、子どもたちが飽きないようにワンパターンにならない、絶えず新しい手法を模索してきておられるだろう城ヶ崎先生の授業風景。

 しかし「褒める」「聴く」「問いかける」などコミュニケーション重視の姿勢は随所にみられました。

 子どもたちの発言をすくいとり、小さな変化に目を留めて褒め・・・、これを毎日1日中続けるのは大変な体力の要ることだろうなあ。城ヶ崎先生、毎日ジムで泳いでいらっしゃるようです。

 
 こうしてあの手この手で子どもたちの頑張る姿勢をつくる城ヶ崎先生。残念ながら、以前にもご紹介した先生方の「相互に学ばない気風」のため、周囲の先生方が必ずしも追随してくれるとはいえず、こうした指導法のもとで育った子どもたちが次の学年ではまったく違う、そこまでの研鑽を積んでいない先生に持たれることは大いにあり得ます。ただ良い先生に一度持ってもらった経験というのは生涯にわたり何らかの形で生きる、と信じたいですが。

 
 城ヶ崎先生、貴重な機会をいただき、本当にありがとうございました!またご縁のきっかけをつくってくださったMさんにも感謝です。

 
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 このブログの少し長い読者の方は、この記事を憶えていらっしゃるでしょうか。

 「『リーダーの自己鍛錬は教育者を目指すこと』―伊丹敬之氏講演』

 http://blog.livedoor.jp/officesherpa/archives/51792856.html 


 教育者から学ぶというのは、単に部下の育て方、人材育成という観点だけからではない。教室の40人をつねに動かし続ける、すなわち「人を動かす」という経営の根源の営みにおいて教育者はモデルになり得るのだ、ということを昨年3月、伊丹氏は言いました。

 良い先生のあり方は、そのまま良いリーダーを目指す人のモデルになります。

 とりわけ今この時期、「スポ根」「精神主義」「体罰」「しごき」などの手法からすみやかに脱却していかなければならないとき、それに代わって強力に目的に向かって動く人を育てる、何事もベストを尽くして頑張る人格をつくる作業には、新しい良いモデルが欠かせない。


 昨年は上記の伊丹氏講演をきっかけに、当ブログでも「教育者インタビュー」のシリーズや5月のよのなかカフェ「子どもたちが危ない!」で、兵庫県内の優れた先生方に登場していただきました。



http://blog.livedoor.jp/officesherpa/archives/51802360.htmlhttp://blog.livedoor.jp/officesherpa/archives/51802377.html 
http://blog.livedoor.jp/officesherpa/archives/51803263.html
http://blog.livedoor.jp/officesherpa/archives/51804206.html


 その大半、4人のうち3人は小学校の先生であり、残りは塾の先生でありました。前述のMさんによると、小学校の先生方は教職課程でも非常にたくさんの学問分野を履修して先生になられるのに、中学・高校の教諭は例えば理科の先生なら理科の専攻にプラス毛の生えたような教養をつけただけで先生になれるのだそうで、レベルが全然違うのだそうな。そういえば私の個人的感触でも立派な先生は小学校で出会った頻度が高く、一方高校はともかく中学の先生は(例外はあったものの)なんだかレベルが下がり、小学校の優れた先生が子どもの良いところを伸ばしてくださったのに中学に行って潰されたこともある、などはどうやらちゃんと理由があるらしいのです。

 だから、「教育者から学べ」というとき、お手本にする良い教育者は小学校の先生から探すのが正しいのかもしれないのです。


 城ヶ崎先生には、是非また「教育者インタビュー」でも登場していただきましょう。



100年後に誇れる人材育成をしよう。
NPO法人企業内コーチ育成協会
http://c-c-a.jp