まだあまりまとまっていない考えかけのことを書く。2013年3月の時点の考え。


 このところある種の脳機能の障害について調べていて、目につきまた考えたのはコミュニケーショントレーニングの場でのその人たちの振る舞いである。

(『発達障害チェックシートできました』(生活書院)には、学校現場でのソーシャルスキルトレーニング(SST)やエンカウンターの授業の中で起きる問題について書いている。こうしたトレーニングの障害者側からみた偽善性をよく描いていて、考えさせられる。もちろんコーチングも同じだと思う。

 ただこのトレーニングによって「幸せな職場」を作ってきた、これしかないという隘路をやってきた、と自分に言い聞かせ気を取り直すのだが。)


 言語によるコミュニケーションは、「承認」であれ「傾聴」であれ、健常者でもある程度の努力を要する。


 それを、マネジメントに必須のものだからと、いわばなだめすかして教え練習してもらい身につけてもらう。相手は中高年の男性なので、そのプロセスだけでもそこそこ負荷をかけることになる。講師はそのために参加者との間の信頼関係を作るよう、心を砕く。通常は健常な人なら問題にならない、風邪を引いてない人に「さあウォーキングをしましょう」という程度の負荷である。


 ところで参加者の中に脳機能の障害のある人がいてコミュニケーションが上手くとれないとする。あるいは普段は普通に社会人らしくやりとりできるのだが、時々暴言が出る。こうした人が混じってくるのは実際によくあることである。「こいつだけは直らん。何とかしてやってくれ」というノリで研修に送り込まれる。


 こうした人が、研修で課される課題がストレスになり、研修や講師に対して反感むきだしの発言をする。あるいは「承認」プログラムに対して、「そんなことを言ってもわが社のマネジメントはその真逆じゃないですか」と鼻で笑うが、それはその人の主観的な思い込みで、その人自身が暴言失言が多いので上司から頻繁にお小言を食らい、また叱られた記憶だけを強く記憶しているという現象だったりする。


 それが、場全体の学ぶ空気を害するということは実際によくある。

 企業研修は1日こっきりのことが多いから、一度場全体の気分を害すると挽回できないまま研修を終了してしまうことになる。そして習得の歩留まりはわるくなる。


 建前としては人をへだてるべきではないのだが、やはりこの時代、非常に限られた研修予算、時間の枠内で教育をすることを考えると、マネジャー研修も極端にコミュニケーションの問題が多い人は参加してもらうべきではないと思う。健常な人が習得することを重視したほうがいいと思う。

 以前にも書いたがこうした人は元々の障害にプラスして鬱やアルコール依存なども合併していることが多い。たまにくるだけの研修講師が何とかできる相手ではないのだ。


 こうした人々の世界に即して考えると―、

 たとえば運動能力にも色々な種類があり、水泳が得意な人もいればサッカーが得意な人もいる。水泳で十分人に誇れるような成績を挙げているがサッカーは得意でない、そういう人にとってはサッカーは「何が面白いの?」という種類のものだろう。得てして、人は自分の不得意なものを見下す。私自身にもそういう部分がないとは言えない。


 コミュニケーションや共感能力に大きな障害のある人にとっては、それらのスキルは学習しても一向に上達しない自分の不得意科目なのだから、「何が面白いの?」なのである。

 ―以前医療機関で研修したときのコミュニケーション障害のあった、しかし受容していない女性の「何が面白いの?」という冷めた視線は忘れられない。実際にこの職種の人には多いようだ―

 こうした人々は、「コミュニケーションの重要性などは『すきずき』の問題だ。人の好みや考え方は『それぞれ』だ」と主張することがある。それも知的能力の高い人なら言葉巧みにそう言うが、それにも騙されてはならない。マネジャーには一定以上のコミュニケーション能力が必要だ。それはもう共通認識にすべきなのだ。


 またこうした社会的スキルや共感能力に大きな障害のある人は、往々にして「ワーキングメモリ」が小さいことが知られている。

 「ワーキングメモリ」は重要なキーワードだと最近思うようになった。これが小さいと、まず「承認」とりわけ当協会で重視する「行動承認」はできない。他人の良い行動を憶えておく記憶力などないのである。悪意がなくても
「あれっ?この手柄あなたのだった?違うでしょー僕んでしょー」
ということになる。恐らく、自分が知らず知らずのうちにそういう行動をとっていることなどまったく自覚がないと思う。


 また「ワーキングメモリ」が小さいと他人の話の内容を憶えておく容量がないから、「聞いたふりしてもあとで全然憶えていない」ということになる。また上司から指示されたことも憶えておけないから、「あれはやったか?」と突っ込まれて適当な言い訳をしたりする。


 −ある文献によればこうした人たちに対して薬物治療が功を奏したとき、患者が

「自分の評価が低いのが不満だったが、理由がよくわかった。同僚のAさんは自分よりはるかに良くやっているのがわかった」

と言ったそうである。―


 もちろん、こうした行動は邪悪なのでもない。向上心がないのでもない。しかしもしこの人たちが健常な人だという前提で考えると、普通の社会人の大人の努力義務をあざわらうような行為であり、周囲を不快にさせる、あるいはダメージを与えることは言うまでもない。とりわけ上司の立場になったときは害が大きい。


 だから障害を受容するということは大事なのだ。


 障害について書かれた本は、当然当事者が自発的に医療機関を受診し前向きに訓練を受け社会参加することをゴールにしているから、「当事者の生きづらさに寄り添う」ことを強調するが、読んでいて歯がゆさもある。


 その「受容」という入口に当事者がたどり着く前にどれぐらい周囲の人を傷つけるだろう。場合によっては一生残るような心の傷を負わせる場合もある。それについては障害についての文献は「あきらめるしかない」等と述べるにとどまっている。だがあきらめがつくのは障害を前提にする場合だけである。障害でなくモラハラについて書かれた本は、被害者に対して「逃げるしかない」と勧める。


 なるべくその受容までのプロセスを短縮したほうがいいと思うのだが。

 文献によれば、「受容」のプロセスとして望ましいのは、上司が

「なんか困っていることはない?」

という言葉で声をかけ、産業医に相談を勧める、ということである。上司は「障害」という言葉を口にしてはならない。

 つまり本人の自覚として「困っている」ことがないといけないのだが、それはそれまでに様々な場面でミスを犯して叱られ、暴言等で叱られ、周囲や会社からの評価が低くなり、本人はそれらの事実関係を認識している、ということである。


 だから失敗を容認してはいけない。中には恐らく過剰に養育的な上司が本人に負荷をかけず、叱られる機会をつくらないように先回りして配慮していた結果、長い間見過ごされてきたというケースもあると思う。


 
 なんというか、こうした障害について理解が広まったのはほんのここ10年くらいなのだが、まだこの世界には大きな認識の空白があるような気がする。




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